バツー洞窟

ムルガン神像


 ヒンズー教とはどういう宗教かと、その雰囲気を味わうには、本場のインド以外では、クアラルンプールのバツー洞窟(バツー・ケーブ)に行くとよい。市内中心にある交通の要衝のKLセントラル駅から、北に向かうKTMコミューターという電車で乗り換えなしで30分で行くことができる。私は、約30年前にこの地に住んでいたとき、ここに何回も来たことがあるけれども、その時は車で行くしかなかった。ところが今は、それに比べたらはるかに便利になったものだ。バツー・ケイブ駅で降りて構内を出るとすぐ左手に、薄緑色のハヌマン神像(力と勇気の神)が迎えてくれる。その脇にはラーマーヤナ洞窟があるが、時間が惜しいし、昔とさほど変わりがない思うので、通りすぎてバツー洞窟の入り口に向かった。

ハヌマン神像(力と勇気の神)


ムルガン神像の上部


 入り口でまず目立つのは、右手前に聳えている威風堂々の黄金色の神像である。タミル系ヒンズー教のムルガン神像で、高さは43mというが、余りにも背が高いので、びっくりするほどだ。これは何かと現地のインド人に聞いたところ、シヴァ神の息子ムルガンだという。昔々のそのまた昔、悪魔と正義の戦いがあり、正義軍が敗北の寸前まで追い詰められた。その時、天界のシヴァ神が送ったのが戦士スカンダで、何を隠そう、自らの息子ムルガンだった。その活躍で、正義軍がついに勝利を収めた。その時に負けた悪魔は、シヴァ神によって孔雀にその姿を変えられた。だから、孔雀も神聖な存在だ・・・ということを熱弁していた。

孔雀も神聖な存在


 ところで、年に一度のタイプーサムというヒンズー教のお祭りがある。何回か見たことがあるが、夜にその行列に出会うと、ピカピカに光り輝いているお神輿を中心に大勢のインド人がカネや太鼓で賑やかに練り歩いていて、驚いてしまう。もっとびっくりするのは、それを担ぐ信者たちが、鋭い串(カバディ)やフックを顔や身体に刺したり引っ掛けたりしていることである。これは、そういう障害を克服して、正義の存在であるムルガンに捧げるのだそうだ。その祈りの対象を具現化したものが、このバツー洞窟にあるムルガン神像なのである。鉄の串を舌や皮膚に刺して痛くないのかと思うが、現地のインド人は真顔で、「神様のご利益があらたかなので、そんなもの翌日にはもう傷痕は消える。」と言っていたのを思い出す。科学的に言えば、鍼のようなものかとは思うが、いやしかしカバディの刺し跡からは確か血が出ていたはずだ。まあ、宗教上の「荒行」の一種なのだろう。日本でも山伏が裸足で火渡りの行を行うし、イスラムのシーア派の男達はアーシューラーの行事で自らの体を鎖で打って血を流すから、同じようなものかもしれない。 。

バツー洞窟名物のカラフルな272段の階段


 そういうことを考えつつもう一度ムルガン神像を見上げると、黄金色に輝いていることもあり、あまりにも神々しくて、その脇にあるバツー洞窟名物の272段の階段が霞んで見えるくらいだ。ところでその階段だが、やけにカラフルになっている。昔ここに来たときは、この神像も色付き階段もなく、両脇に石灰岩が剥き出しのさっぱりした古びた階段だったが、変われば変わるものだ。それにしても、こんなイスラム国家で、これほどまでに目立つ偶像を作って問題にされないのだろうかと思う。ただ、現地の人に宗教上の微妙なニュアンスに関わることを下手に質問すると、どんなリアクションを受けるかわからないので、危うきに近寄らずという主義で聞かないことにしている。だからその答えはよくわからないが、要は、宗教的に寛容になりつつあるのかなと思う。

野猿


野猿


 さて、いよいよバツー・ケーブ名物の272段の階段を上がっていく。手すりが両端と真ん中に2つあるので、階段が3つに分かれている。三分の一ほど上がって市内の方を振り向くと、少し白っぽくぼやけて見える。もしかしてHazeによる大気汚染の影響かもしれない。それにしても、左手にあるムルガン神像の後ろ姿が目立つ。更に登って行くと、野猿が手すりの上を自由自在に走り回り、時には観光客が手にぶら下げているプラスチック袋やペットボトルを引ったくろうとする傍若無人ぶりだ。その一方では小さな子猿がいたかと思うと、そのお母さん猿もいて、見ていて飽きない。おっと、まだ半分くらいだ。この暑い中をもっと登らなければならない。更に階段を上って三分の二のところに来た。ムルガン神像の顔くらいの高さだ。もうちょっと頑張ってやっと272段を登りきった。そこで目の前に見たのは、大きな洞窟でできた広場である。

バツー洞窟の272段の階段を登り切ったところにある大きな洞窟でできた広場


踊るシヴァ神の像


 広場の高さは数十mはあるだろう。周囲に太い鍾乳石の氷柱状のようなものがあったので、こんな太いものができるまでに何億年もかかったのは、間違いないだろう。そこを更に進むと、右手には、踊るシヴァ神の像がある。左手には神聖なものとされる孔雀が羽を広げた像で区切られた一角があり、ここは神聖な場所とのこと。入ろうと思えば入れるが、靴を脱がなければならない。この国のことだから、いったん靴を脱いでしまうと、戻ってきたときにその場からなくなったりしていると一大事だ。笑い話のようだが、あり得る。そういう訳で、入る気がしなかった。日本と違って、外国ではあらゆる事態に備える必要がある。

バツー洞窟の広場の奥にある最後の神聖な場所


 突き当たりに、更に数十段の階段があって、また階段かと思いながら上って行くと、そこがやっと最後の神聖な場所である。鍾乳洞の天井が空に向けて開いていて、日の光が差し込んでいる。昔は、この光が斜めに差し込んでいたりして、非常に神々しく思えたものだが、今はあちこちに照明があるので明るく、残念ながら以前のような神秘さが消えてしまった。その代わり、洞窟のあちこちに極彩色の神像が置かれている。インド人の男性、サリーを着た女性というのは、まあ馴染みがあるので、普通に見られる。ところが、ヒンズー教の象の姿をしたガネーシャ神だけは、何回見ても、見慣れない。そのお話も、これまた独特だ。

ガネーシャ神


 このガネーシャ神は、商業と学問の神様である。象の頭をしている所以だが、私が以前、インド人から聞いたところによると、次のようなものである。偉大なシヴァ神の妻パールヴァティーは、子供ガネーシャを生み出した。ガネーシャが父親シヴァ神が帰って来たときに、父親とは知らずに入室を拒んだことから、怒ったシヴァ神はその頭を切り落として遠くへ投げ捨てた。ところが、我が子と知ったシヴァ神は、ガネーシャの頭を探したが見つからなかったので、代わりに象の頭を切り落としてガネーシャの胴体に付けたことから、今のようなお姿になったという。何ともインドらしいお話だが、例によってコメントはしないでおこう。そうした大変な出来事をくぐり抜けて来た神様だから、あらゆる障害を克服する霊験あらたかな神として信仰されるようになったそうだ。

馴染みがないヒンズー教の神


 いずれにせよ、我々日本人にとって、ヒンズー教はあまり馴染みがない。仏教を生み出した国なのに、仏教は廃れて、ヒンズー教一色になってしまった。そのヒンズー教も、今の形になるまでは、各地の土着の宗教を取り込んできたという。特にタミル系インド人の人達は、こういう神を信じているのかということを思うだけでも、国際理解に少しは役立つかもしれないと思うのである。話は変わるが、インド人といえばターバン姿を思う日本人が多いけれども、あれはシーク教徒の人達で、その割合はインド人全体の僅か2%にも満たない。その話は、別のエッセイで書いたので、ここでは割愛しよう。

 さて、見学が終わり、無事に272段を降りてきた。もと来た道を辿って、バツー・ケーブ駅に着いた。午前11時18分のことである。「さて、クアラルンプール方面に戻るか。次の電車は何時だろう。」と思って、表示を見て、我が目を疑った。それには、「12時15分」とあったからである。こんな猛暑のプラットホームで、1時間も待たなければならない。これは大変だと思っていたら、しばらくして電車が入って来たので、とにかく乗り込んだ。あんな暑いプラットホームにいるのは、もうたくさんだ。乗り込んでみると、エアコンが効いている。これは助かった。階段を登ったり降りたリしたので、大汗をかいている。それがちょうど良いくらいに引いた頃に、電車が発車してくれた。







 バツー洞窟(写 真)




(2019年5月 5日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:17 | - | - | - |
退位と即位後朝見の儀

首相官邸広報写真より



1.退位礼正殿の儀

首相官邸広報ビデオより


 天皇陛下(現上皇陛下)御在位30年記念式典が、平成31年2月24日に挙行された。それに続き、いよいよ同年4月30日、天皇陛下が退位されて上皇陛下となられ、翌令和元年5月1日新天皇陛下が即位されて、時代は平成から令和へと大きく移り変わった。この退位は、皇室典範特例法に基づいて行われたもので、その理由として、「象徴としての公的な御活動に精励してこられた中、御高齢になられ、今後これらの御活動を天皇として自ら続けられることが困難となることを深く案じておられること、これに対し、国民は、御高齢に至るまでこれらの御活動に精励されている天皇陛下を深く敬愛し、この天皇陛下のお気持ちを理解し、これに共感していること」などが規定されている(同法第1条)。

首相官邸広報ビデオより


首相官邸広報ビデオより


 確かに、天皇皇后両陛下(現上皇上皇后陛下)は、外国賓客などの接遇その他の多忙な日常の公務に忙殺されつつも、大規模な自然災害が続いた平成年間でそうした災害が起こる度に現地入りして被災者に寄り添って励まされたりするなど、80歳を超えるご高齢の御身を削るようにして公務に精励されるお姿をテレビなどで拝見する機会が多かった。そうした場面を見るたびに、国民の一人として有り難いことだと思いつつも、前立腺がんや心臓病をお持ちなのでお身体は大丈夫なのだろうかと心配になっていたのであるから、そういう意味では、胸をなで下ろしたというのが正直な気持ちである。

首相官邸広報ビデオより


 この退位は、同年4月30日午後5時からの「退位礼正殿の儀」によって行われた。両陛下が宮殿内で最も格式の高い「松の間」に入られ、我々参列者の前にすっくと立たれた。すると侍従が皇位の御印である剣や爾などの三種の神器を捧げ持って両陛下の前の白木の台(案)に載せた。それを待って、国民の代表として安倍晋三首相が次の挨拶を行った。

首相官邸広報ビデオより


「 謹んで申し上げます。
 天皇陛下におかれましては、皇室典範特例法の定めるところにより、本日をもちまして御退位されます。
 平成の30年、『内平らかに外成る』との思いの下、私たちは天皇陛下と共に歩みを進めてまいりました。この間、天皇陛下は、国の安寧と国民の幸せを願われ、一つ一つの御公務を、心を込めてお務めになり、日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たしてこられました。
 我が国は、平和と繁栄を享受する一方で、相次ぐ大きな自然災害など、幾多の困難にも直面しました。そのような時、天皇陛下は、皇后陛下と御一緒に、国民に寄り添い、被災者の身近で励まされ、国民に明日への勇気と希望を与えてくださいました。
 本日ここに御退位の日を迎え、これまでの年月を顧み、いかなる時も国民と苦楽を共にされた天皇陛下の御心に思いを致し、深い敬愛と感謝の念をいま一度新たにする次第であります。
 私たちは、これまでの天皇陛下の歩みを胸に刻みながら、平和で、希望に満ちあふれ、誇りある日本の輝かしい未来を創り上げていくため、更に最善の努力を尽くしてまいります。
 天皇皇后両陛下には、末永くお健やかであらせられますことを願ってやみません。
 ここに、天皇皇后両陛下に心からの感謝を申し上げ、皇室の一層の御繁栄をお祈り申し上げます。」


首相官邸広報ビデオより


 その後、天皇陛下が、次のお言葉を述べられた。

「 今日をもち、天皇としての務めを終えることになりました。
 ただ今、国民を代表して、安倍内閣総理大臣の述べられた言葉に、深く謝意を表します。
 即位から30年、これまでの天皇としての務めを、国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たことは、幸せなことでした。象徴としての私を受け入れ、支えてくれた国民に、心から感謝します。
 明日から始まる新しい令和の時代が、平和で実り多くあることを、皇后と共に心から願い、ここに我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります。」


首相官邸広報ビデオより


 簡潔なお言葉ではあったが、これを聞いた参列者の中には、男女を問わず眼に涙を浮かべている人もいて、実に感動的な瞬間であった。いかに平成天皇陛下が国民に慕われていたかを示すエピソードである。

首相官邸広報ビデオより


 そのお言葉が終わり、天皇陛下は皇后陛下とともに静かに退出され、三種の神器を捧げ持つ侍従が続いた。それから皇太子殿下及び同妃殿下(当時)などが続いて退出され、儀式は滞りなく10分ほどで終わった。


2.剣璽等承継の儀


剣璽等承継の儀。首相官邸広報ビデオより


 「剣璽等承継の儀」は、令和元年5月1日午前10時半から宮殿「松の間」で行われ、国民代表として安倍晋三首相ら三権の長や閣僚など26人が燕尾服姿で参列した。この儀式は伝統的に成年男性皇族だけで行われるということで、天皇陛下のほか、秋篠宮殿下及び常陸宮殿下も両脇に参列された。

剣璽等承継の儀。首相官邸広報ビデオより


剣璽等承継の儀。首相官邸広報ビデオより


剣璽等承継の儀。首相官邸広報ビデオより


 天皇陛下が松の間に入ってこられて壇上にお上がりになり、正面の玉座を背にして参列者と向き合ってお立ちになる。陛下は、天皇が装着する最高の勲章「大勲位菊花章頸飾」を身につけておられ、実にご立派であられる。見とれていると、松の間の扉がまた開いて、三種の神器のうちの剣及び璽、国事行為で使われる御璽及び国璽をそれぞれ捧げ持った4人の侍従が一列になってしずしずと入ってきて、それらを陛下の前の案に置いた。それから、一瞬時間が止まったような感覚がしたかと思うと、暫くして陛下が壇上からゆっくりとお下りになり、剣や璽などを捧げ持った侍従らをあたかも引き連れるようにして松の間を退出され、他の皇族方もこれに続いた。この間、誰も一言も発しなかった。これで、天皇という地位の象徴である三種の神器が無事に受け継がれたようだ。かくしてこの儀式はおよそ7分ほどで終わった。

剣璽等承継の儀。首相官邸広報ビデオより


剣璽等承継の儀。首相官邸広報ビデオより


剣璽等承継の儀。首相官邸広報ビデオより



3.即位後朝見の儀

即位後朝見の儀。首相官邸広報ビデオより


即位後朝見の儀。首相官邸広報ビデオより


 「即位後朝見の儀」は、剣璽等承継の儀に引き続き、やはり宮殿「松の間」において、午前11時10分過ぎ頃から行われた。今回の参列者は原則夫婦同伴で、三権の長、閣僚、地方自治体の代表など292人が参列した。最前列は、さきほどの剣璽等承継の儀に引き続いての出席者だから燕尾服姿で、その他の参列者は原則として男性はモーニングコート、女性の多くは和服の白襟紋付姿である。また、皇后陛下をはじめとする女性皇族は、ティアラを頭に載せられた白いローブ・デコルテ(ロングドレス)姿だったから、非常に華やかな儀式となった

即位後朝見の儀。首相官邸広報ビデオより


 天皇皇后両陛下が秋篠宮殿下ご夫妻ら成年の皇族方とともに松の間に入ってこられた。そして、天皇陛下から次のお言葉があった。

「 日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより,ここに皇位を継承しました。
 この身に負った重責を思うと粛然たる思いがします。
 顧みれば,上皇陛下には御即位より,30年以上の長きにわたり,世界の平和と国民の幸せを願われ,いかなる時も国民と苦楽を共にされながら,その強い御心を御自身のお姿でお示しになりつつ,一つ一つのお務めに真摯に取り組んでこられました。上皇陛下がお示しになった象徴としてのお姿に心からの敬意と感謝を申し上げます。
 ここに,皇位を継承するに当たり,上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いを致し,また,歴代の天皇のなさりようを心にとどめ,自己の研鑽に励むとともに,常に国民を思い,国民に寄り添いながら,憲法にのっとり,日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い,国民の幸せと国の一層の発展,そして世界の平和を切に希望します。」


即位後朝見の儀。首相官邸広報ビデオより


 重責を負われる責任感と緊張感が、ひしひしと伝わってくるようなお言葉である。日本国民統合の象徴として、誠にご立派な天皇陛下を戴いたものだと感激する一方で、どうかお身体を大切にされたいと、心から願うものである。そういうことを考えているうちに、国民代表としての安倍首相が祝いの辞を述べた。

「 謹んで申し上げます。
 天皇陛下におかれましては、本日、皇位を継承されました。国民を挙げて心からお慶び申し上げます。  ここに、英邁なる天皇陛下から、上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いを致し、日本国憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たされるとともに、国民の幸せと国の一層の発展、世界の平和を切に希望するとのおことばを賜りました。
 私たちは、天皇陛下を国及び国民統合の象徴と仰ぎ、激動する国際情勢の中で、平和で、希望に満ちあふれ、誇りある日本の輝かしい未来、人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ時代を、創り上げていく決意であります。
 ここに、令和の御代の平安と、皇室の弥栄をお祈り申し上げます。」


即位後朝見の儀。首相官邸広報ビデオより


 中身が凝縮されていたので長い時間が過ぎたようにも感じたが、計ってみると、この儀式もおよそ7分ほどで終わったそうだ。いずれにせよ、国民の一人として、これらの歴史的瞬間を目の当たりにして、これに勝る名誉はないと感激しているところである。


4.今後の儀式の予定

 今後の即位の関連儀式として様々なものが予定されているが、中でも本年10月22日の「即位礼正殿の儀」が最大の儀式である。これは、平安時代そのものの宮中の伝統装束を身にまとった天皇皇后両陛下が、それぞれ、京都御所から運ばれてきた「高御座(たかみくら)」と「御帳台(みちょうだい)」に登壇され、天皇陛下が即位を宣言する儀式である。国内外から約2500人が招待されるが、特に国外からは各国の元首級や王族らの来訪が予定されている。即位を祝う「饗宴の儀」は、この日から4回に分けて開かれ、合計2600人が招かれることになっているという。





(参 考)天皇の退位等に関する皇室典範特例法

(趣旨)
第一条
 この法律は、天皇陛下が、昭和64年1月7日の御即位以来28年を超える長期にわたり、国事行為のほか、全国各地への御訪問、被災地のお見舞いをはじめとする象徴としての公的な御活動に精励してこられた中、83歳と御高齢になられ、今後これらの御活動を天皇として自ら続けられることが困難となることを深く案じておられること、これに対し、国民は、御高齢に至るまでこれらの御活動に精励されている天皇陛下を深く敬愛し、この天皇陛下のお気持ちを理解し、これに共感していること、さらに、皇嗣である皇太子殿下は、57歳となられ、これまで国事行為の臨時代行等の御公務に長期にわたり精勤されておられることという現下の状況に鑑み、皇室典範(昭和22年法律第三号)第四条の規定の特例として、天皇陛下の退位及び皇嗣の即位を実現するとともに、天皇陛下の退位後の地位その他の退位に伴い必要となる事項を定めるものとする。

(天皇の退位及び皇嗣の即位)
第二条
 天皇は、この法律の施行の日限り、退位し、皇嗣が、直ちに即位する。

(上皇)
第三条
 前条の規定により退位した天皇は、上皇とする。 2 上皇の敬称は、陛下とする。 3 上皇の身分に関する事項の登録、喪儀及ひ゛陵墓については、天皇の例による。 4 上皇に関しては、前二項に規定する事項を除き、皇室典範(第二条、第二十八条第二項及ひ゛第三項並ひに第三十条第二項を除く。)に定める事項については、皇族の例による。

 (上皇后)
第四条
 上皇の后は、上皇后とする。 2 上皇后に関しては、皇室典範に定める事項については、皇太后の例による。

 (皇位継承後の皇嗣)
第五条
 第二条の規定による皇位の継承に伴い皇嗣となった皇族に関しては、皇室典範に定める事項については、皇太子の例による。

 (附則以下略)





(備 考) このエッセイ中の写真は、首相官邸の広報ビデオから複写したものである。




(2019年5月1日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:55 | - | - | - |
三世代で箱根旅行

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1.孫娘はピカピカの一年生

 息子一家と箱根に二泊三日の小旅行に行った。久しぶりに孫娘ちゃんと直系くんに会い、丸二日にわたって一緒に過ごした。二人の成長ぶりには、目を見張るものがあった。

 孫娘ちゃんは、この春に小学校に入学して、ピカピカの一年生となった。バレーと英会話を習い、よく笑う活発な子に育っている。小学校へは5分の道のりである。お母さんが一緒に登校しようとすると、「自分で行きます。」 と、既に自立の気概を見せているとのこと。お母さんは心配でたまらないが、しばらく見守っているしかないようだ。

 また、習っているバレーの発表会が今年も都内で開かれるので、それに向けて一生懸命に練習しているそうだ。2年前に同じバレー・スクールの発表会があったときには、我々夫婦も見に行って、孫娘ちゃんの成長ぶりに目を細めたものだが、また今年も楽しみにしたい。

 先日、パパが送ってくれた写真の中に、孫娘ちゃんが居間の椅子に掴まってバレーの開脚をしているものがあった。それが斜め45度の角度で見事に一直線になっていたので、びっくりした。


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2.直系くん語録


 直系くんは、もうすぐ3歳になる。ずーっと話すことができなかったが、つい最近になってようやく喋り始めたばかりだという。しかし、それにしては、これがまた、実に面白いお喋りをするのには感心した。

 これくらいの幼児は、話す前にまず手が出たり、体を動かしてその要求を満たそうとするものだと思っていた。だから、その意図を掴みかねて、親が困るという構図が普通だと考えていたのだけれど、どうもこの子は違うようだ。

 まず、何をするにも、また何か思うところがあるときは、必ずそれを喋ってくれるから、とても理解しやすい。私はこれを「直系語録」と名付けて、以下に採取しておいたので、まずはお読みいただきたい。

 (箱根ロープウェイが最高点に達した後、芦ノ湖に向かって降りていくとき)「ああ、おちちゃう」と心配そうな声を出す。

 (小さなおもちゃを買ってもらって)「ペンギンのペンちゃんだをー 。おふろに、うかべるー。」(舌足らずなため、まだ「よー」と言えずに「をー」となる。)

(芦ノ湖に棒切れを投げたものの、それが波で岸に打ち寄せられてくると)「ああ、もどってくるー。」

 (親が声をかけて「行くよー 」というと)「やだー。やだをー。」

 (芦ノ湖畔の芝生広場を通りかかった。そこは、今から9ヶ月前の去年8月に虫の展示があったところである。するといきなり)「カブトムシやりたいー。」(そんな前のことをよく覚えているものだ)

 (姉を倒して押さえつけて)「ねーちゃん、だーじょーぶ?」(だったら、最初から乱暴するな)

(食卓で騒ぎ立てるおそれが出てきたので、親が抱き上げたら)「だめー。はなちぇー。」(と、反りくり返る)つい、こう言いたくなる。「ウチの孫 「はなちぇー」と イナバウアー」

 (お土産に買ったプラスティックのおもちゃの一つ一つをつまんで)「たぶん、ヒトデだをー。こっちは、ダイアモンドだー。お、カメがでてきたをー。」(「たぶん」などという言葉を子供が使うか?)

 (お姉さんのプラスチックのおもちゃと比べて)「お、カメがおなじだー。」

 (自分の身体より大きい熊の置き物の頭を伸び上がって撫でて)「かーわいいね。」

(走って長ソファの背後に回り込んで)「うしよに、まわりこむをーっ」(まだ「後ろ」といえずに「うしよ」と言っているのに「回り込む」などという難しい単語をよく知っている!)

 (テレビの幼児番組を見て飛行機が離陸するのを見ていて)「あっ、コーキがとんだー。」

 どんな局面でも、パパはどこ?、ママはどこ?、姉ちゃんはどこ?と気にかけている。 今は連休中なので、パパが朝から皆と一緒に寛いでいると、「パパ、きょうは会社、行かないの?」などと聞いて、パパを苦笑させたりしている。つまり、周囲や社会的環境にも興味と関心を示しているので、なかなか結構なことである。聞かれたらできるだけわかりやすく説明してあげるなどして、こういう特性を大切にしつつ育てていってほしいと願っている。

 ただ、我々は、もう育てるどころではない。たった1時間預かっただけで、「あれしよう。これしよう。」と言われ、その一方で怪我をしないか常時みていなければならない。それが二人分だから、ほとほと疲れ果てた。まさに、「来て嬉し、帰って嬉しい、孫の顔」の心境である。


3.海賊船と水族館など


大涌谷


海賊船


 泊まっていた強羅から、箱根ケーブルカーで早雲山に登り、そこから箱根ロープウェイで大涌谷を経由して桃源台に着く。海賊船に乗って元箱根まで約40分間航行し、そこで昼食をとった。海賊船は、クイーン、ビクトリー、ロワイヤルの3隻だが、繁盛しているのか、近くもう1隻が就航するそうだ。湖上を動くから、この季節は頬を切る風が冷たい。最初は甲板から景色の良い屋上に上がっていたが、寒くなって船室に入った。

白い雪を被った富士山


芦ノ湖遊覧船


 元箱根港に近づくと、箱根外輪山越しの右手後方に、青い空の下で白い雪を被った富士山が大きく見えて、とても感激した。来る途中の箱根ロープウェイからも見えたが、一瞬のことだったからか、さほどの感慨は感じなかったので、不思議なものである。

芦ノ湖遊覧船


芦ノ湖遊覧船船長さんの操舵


箱根神社の赤い鳥居


龍宮殿


 昼食後、今度は芦ノ湖遊覧船で元箱根港から箱根園港に向かう。わずか15分間、船上の客となる。こちらの遊覧船は、双胴のため平らで客室が広く、船長さんの操舵がよく見えた。途中、箱根神社の赤い鳥居が目に焼き付くようだ。箱根園港に近づくと、右手に奈良のお寺のような目立つ建物が見えるが、これはプリンスホテル系の龍宮殿である。

大きな大島桜


大きな大島桜越しに見える駒ケ岳ロープウェイ


 箱根園港の桟橋に着くと、岸辺の砂浜に続いて芝生広場があり、その真ん中に大きな大島桜が満開である。5本を寄せて植えてから100年は経っているという。あまりの見事さに、しばし孫たちのことも忘れて眺めていた。すると、息子一家はママの周りを、パパ、孫娘ちゃん、直系くんが一列になってグルグルと追いかけっこを始めた。それがまた早いこと、早いこと。もし、私がやったら、すぐに目を回して脱落するに違いない。きょうは乗り物に長く乗ったので、子供たちには良い運動になっただろう。

ふれあい動物ランド だっこして ZOO


ふれあい動物ランド だっこして ZOO


ふれあい動物ランド だっこして ZOO


ふれあい動物ランド だっこして ZOO


ふれあい動物ランド だっこして ZOO


 芝生広場の右手には「ふれあい動物ランド だっこして ZOO」があり、これが最初の目的地だそうだ。中に入るときにプラスチックのバケツを買い、その中に細長くカットした人参、胡瓜、大根、カステラ様のもの、笹の葉などが入っている。それを子供たちが、飼われている動物、カピバラ、山羊、猿、犬猫、兎などに食べさせるという趣向である。犬猫や兎は身体を撫でてあげることが出来る。なかでも兎、猫、小型犬は確かに可愛い。でも、身体が大きなカピバラは、これが鼠の仲間かと思うと、どうもそういう気にはなれなかった。これがアルマジロか・・・まるで円谷映画に出てくる怪獣のようだ、こんなものが可愛いのか・・・。ともかく、色々な動物がいて、孫たちは2人とも、一生懸命に餌をやって、バケツはたちまち空になった。

箱根園水族館


箱根園水族館


箱根園水族館


箱根園水族館


箱根園水族館


箱根園水族館で、直系くんが孫娘の背中に手をやっている


 次の目的地は、同じ敷地内の箱根園水族館である。こちらは「日本で一番標高の高いところにある海水の水族館で、毎日伊豆の海からタンクローリーで新鮮な海水を運んでいます。」とのこと。なるほど、一通りの海水魚がいて、水温26度の大水槽には、熱帯魚が乱舞している。直系くんが「あぁー、カメさん」と言って、盛んに亀の姿を追いかけている。パパに聞くと、大好きなのだそうだ。私も熱帯魚の姿を写真に撮っていると、孫娘ちゃんが「私も撮りたい!」とやって来た。「あぁ、いいよ」とシャッターボタンを押してもらうと、連射の設定にしておいたものだから、変わった姿の魚の写真がたくさん撮れて、それを見て大笑いしていた。二人で、水槽を覗き込んでいる。良く見ると、直系くんが孫娘の背中に手をやっている。こういうところは、男の子の証かもしれないと、頼もしく思う。

箱根園水族館でのアザラシ


箱根園水族館で血を流しているアザラシ


 水族館のアザラシの水槽は戸外にある。ほとんどはマリンブルーの水の中にいるが、一匹だけ石の上に上がって日向ぼっこをしている。遠目では普通だが、やや体が傾いている。向こう側に回ってみると、胴体が10センチほど赤くなって石の上に血が流れている。あれあれ、これは怪我をしたのかと思って、通りかかった飼育員さんにその写真を見せた。そうしたところ、飼育員さん曰く「毛が抜け代わる時期なので、かゆいらしくて引っ掻くのです。だから、ご心配なく。」とのこと、でも、鰭のようなごく短い手しかないのにどうやって引っ掻くのか不思議に思ったが、いずれにせよ、そういうことらしい。

 もう、夕方になったので、予約しておいたザ・プリンス箱根芦ノ湖のレストランに入った。子供連れなので、バイキングのレストランにして良かった。周りはそういうファミリー層でいっぱいである。私はなるべく食べ過ぎないようにしなければいけない。家内と私で孫娘ちゃんの両隣に座り、時には孫娘ちゃんと手をつないで、食べ物を取りに行った。直系くんは、パパとママに挟まれて食べていたが、遠くにあるチョコレートタワーを目ざとく見つけて、まだ食べ始めたばかりだというのに、「チョコレートが食べたい」とグズって、両親がなだめるのに苦労していた。そこで、パパが数分ほどレストランの外に連れ出して戻って来たら、すっかり忘れていた。こういうところは、まだまだ幼児である。

 それから、タクシーで強羅の宿まで帰って来たが、その辺りは坂に次ぐ坂で、それも急坂が多くて驚いた。今まで強羅というところは通過地点だったので全然知らなかったが、平らなところは、駅の周辺くらいしかないことが、よくわかった。

 それはともかく、三世代で一緒に旅行するというのも、なかなか良い経験である。我々は孫たちの成長の様子もわかるし、両親も、日頃の24時間保育の体制から、一時的にせよ緊張感を解くことができる。パパが休みをとれるときに、また行きたいなと願っている。








 三世代で箱根旅行(写 真)




(2019年4月29日記)


カテゴリ:エッセイ | 13:40 | - | - | - |
徒然301.いまどきのチューリップは凄い

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 立川の国営昭和記念公園でチューリップ(242品種、22万球)が満開と聞いて、カメラを片手に出掛けて行った。西立川口から入ったところ、チューリップはそこからさほど遠くない「渓流広場」の周辺に植えてあった。

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 まずもって、その高度な展示の技術に感心した。ともかく、池の周辺の芝生の傾斜地のあちこちに設えてある花壇は、チューリップの美しさを余すことなく伝えている。同じ色と同じ種類が、帯状に、あるいは半月状にと幾何学模様を描いて植えてあるので、その整然とした美しさがまず頭に入る。しかも花の色自体が、赤色、黄色、オレンジ色、濃い紫色、白色、ピンク色、それらが混ざった色などと実に様々であるのに加えて、基調は原色そのものなのでくっきりと印象に残る。池に近い花壇だと、それらが池面に反射して本当に綺麗だ。見ていると、うっとりする。

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 それだけでなく、近づいて一つ一つの花を見ていくと、これがまた「すごい」の一言だ。チューリップといえば昔は丸い卵型と決まっていて、それが花弁を開いてしまうと、もう盛りを過ぎたと思われたものだ。ところが、今は花の造りからして全く異なる。昔のような一重の花はもちろんあるが、それだけでなく八重桜のような八重咲きの花もある。これなどは、まるで牡丹かベゴニアのようで「あなた、本当にチューリップか?」と聞きたくなるほどだ。また、花弁自体が長い三角形の花もあるし、それどころか花弁の周囲がフリルのようになっている花すらある。これはフリンジ咲きというらしいが、私は初めて見た。加えて、一部の花に近づくと、良い香りがする。ややくどいほどだ。チューリップはもともと百合の仲間の花なので、さもありなんという気がする。

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 ということで、チューリップを撮りに撮っていると、さすがに飽きてきた。そこで、チューリップ以外の花に目をやると、ムスカリという青い葡萄の房のような花があった。なかなか可憐な佇まいを見せている。チューリップには青い色はないので、ムスカリの花がチューリップの中に混じると、ちょうどいいアクセントになる。

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 それから、別の場所だが、青いネモフィラの花があった。ただ、未だ満開ではないようで、花はまだ疎らではあるが、もう少し経ったら、国営ひたち海浜公園のようになっているかもしれない。国営ひたち海浜公園ネモフィラの写真を見ると、なだらかに続く丘という丘がネモフィラの青い色に染まり、青い空の色と見分けがつかないほどだ。撮り終わったので、ネモフィラの丘から離れようとしたら、ウェディング・ドレス姿の新婦が、新郎と並んでネモフィラの花に囲まれて記念写真を撮っていた。こんな所でという気がしたが、話す言葉は中国語だったので、中国から観光で来たカップルらしい。これを機会に、日本贔屓になってくれると良いのだがと思った次第である。






 昭和記念公園のチューリップ(写 真)






(2019年4月21日記)


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飛騨高山への旅

高山陣屋前の広場で、からくり3屋台



1.高山春祭りは雨


 前日の高遠城址公園では、絶好の快晴日和で、高遠小彼岸桜と南アルプス連峰を眺めることができ、満足する写真を撮ることができた。そこで、本日は飛騨高山の春祭りもさぞかし・・・と期待していたのだが、そうは幸運は続かないもので、祭りの途中で小雨が降りだしてきて、期待外れに終わった。

 そもそも、午前11時から高山陣屋前の広場で春祭りとして繰り出す11台の屋台(山車)のうち、「からくり人形」のある3台が演技をするというので、とても楽しみにして行った。ところが、雨模様のために急遽繰り上げて午前10時からになってしまったようで、10時半頃に広場に着いたときには、もう3台目の「三番叟」の演技が終わろうとしていた時だった。慌ててカメラを構えたが、果たしてどれだけ撮れたか心もとない。それでも、「神楽台」を先頭に、「三番叟」「石橋台」「龍神台」の4台が勢揃いする雄姿が見られただけでも良しとしよう。その他の屋台は、各町内にあるそれぞれの屋台の車庫(?)に全て帰っていったらしく、並んでいたはずの道路上はもぬけの殻だった。

 せっかく、ツアーで現地滞在5時間の余裕を持たせてくれたのに、このままでは終われないと思って、地図を見ながら11台全ての屋台の車庫を見て回ることにした。幸い、この日は屋台の車庫の扉を全開にしてあり、その前を通りかかると、その姿を写真に収めることができる。中には、その町内の方が親切にも、屋台を背景に写真を撮ってくれるところもあった。


高山祭りの倉庫の屋台


高山祭りの倉庫の屋台


 そういうことで、神楽台(かぐらたい)、三番叟(さんばそう)、麒麟台(きりんたい)、石橋台(しゃっきょうたい)、五台山(ごたいさん)、鳳凰台(ほうおうたい)、恵比寿台(えびすたい)、龍神台(りゅうじんたい)、崑崗台(こんこうたい)、琴高台(きんこうたい)、青龍台(せいりゅうたい)と回ってみた。町内の散らばって置いてあるので、それを行きつ戻りつしながら見て歩いたから、かなり疲れた。その中でも、大國台(だいこくたい)は、お祭りの中心の中橋からはかなり離れたところにある。やっとのことで、その前に来たら、なんと倉庫の扉は閉まっていた。そういえば、春の屋台は12台と聞いていたのに、今年は11台が出るということだったので、ではその出ない1台は、これだったのか。くたびれ損だったかと、徒労感が残る。

 ともあれ、歩き回ったから、疲れも限界にきた。お昼をかなり過ぎたので空腹感を覚えた。そこで、たまたま見つけた飛騨牛ステーキ屋さんに飛び込んで、それを注文した。味噌の味で、いささか塩気が強かったが、十分に美味しかった。街中では、五平餅、串カツ、コロッケ、みたらし団子はもちろん、飛騨牛握りなるものまで売られていたが、そういうものを口にすると無駄に太るから食べないようにしていたので、このステーキで、ようやく元気を取り戻した。


2.神楽台・からくり3屋台

(1)思いがけず写真が


三番叟


 ところが、思いがけないことが起こるものである。帰ってから、撮った写真を整理していると、最初の高山陣屋前からくり人形の演技が結構撮れていたので、我ながら驚いた。というのは、からくり人形の演技が急遽1時間も早まったことから、それを知らない私たちが到着したのはもう終了の15分ほど前で、ほとんど観る時間がなかった。しかも陣屋前広場の端で演技中の3台の屋台からは、相当離れている場所(中橋のたもとに近いところ)で観るほかなく、大勢の人々の頭越しにカメラを構えなければならない。仕方がないので私はカメラの液晶画面のチルト機構を利用し、両手を伸ばしてカメラを構えながらその液晶画面を頼りにシャッターを押すのだけれども、そんな苦しい姿勢では焦点を合わせるどころではない。しかも困ったことに、液晶画面に光が反射してよく見えない。こんな悪条件にもかかわらず、それなりの写真が撮れていたから、びっくりしたのである。これというのも、タムロンの望遠レンズとキヤノンのデジタル一眼レフのおかげである。

石橋台(右)と龍神台(左)


 気を良くしたので、それでは、からくり人形のある3台の屋台について撮った写真と照らし合わせて、少し書き残していきたい。その前に、高山市の観光情報によると、「16世紀後半から17世紀が起源とされる高山祭。高山祭とは春の『山王祭』と秋の『八幡祭』の2つの祭をさす総称で、高山の人々に大切に守り継がれてきました。このうち、高山に春の訪れを告げる『山王祭』は、旧高山城下町南半分の氏神様である日枝神社(山王様)の例祭です。毎年4月14日・15日、祭の舞台となる安川通りの南側・上町には、『山王祭』の屋台組の宝である屋台12台が登場。うち3台がからくり奉納を行うほか、祭行事では賑やかな伝統芸能も繰り広げられます。」とのこと。

(2)神楽台


神楽台


 一連の春の屋台の最初に並ぶ「神楽台」が、高山陣屋前に並ぶ3台の「からくり屋台」に相対する形で中橋を背にして置かれていたので、まずその神楽台についての高山市の解説を見てみよう。それによると、「<沿革>古くから山王祭の神楽、獅子舞を主管し、初めの頃は白木のわくに太鼓をつって二人でかついだものでした。文化年間(1804年〜1818年)、四輪の屋台形にし、嘉永七年(1854年)の大改修により現台形となりました。明治26年(1893年)改修。その後数度の改修が行われています。(嘉永改修) 工匠 谷口延儔(のぶとし)、 彫刻 谷口与鹿(よろく)(明治改修) 工匠 村山民次郎、塗師 田近宇之助、金具 井上芳之助(構造) 屋根無 太鼓昇降 四輪外御所車

 <特色>祭礼に際しては、侍烏帽子(さむらいえぼし)、素襖(すおう)姿の五人の楽人を乗せて獅子舞を付随させ、全屋台に先行します。曲は『場ならし』『高い山』など多数あり、場所により使い分けられます。嘉永の改修のとき、金具に一坪(3.3平方センチメートル)あたり一匁(4グラム)の純金が使用されました。」
ということである。

(3)三番叟


三番叟


 次に、高山陣屋前に並ぶ「からくり屋台」3台のうち、向かって一番右にある「三番叟」についての高山市の解説によると、次の通りである。「<沿革>宝歴年間(1751〜1764)の創建で、台銘は「恩雀(おんじゃく)」、天明年間(1781〜1789)に翁操りを取り入れ「翁(おきな)台」と改銘、文化三年(1806)に雛鶴(ひなずる)三番叟の謡曲による操り人形に替え、台銘も三番叟となりました。天保八年(1837)、現在の台形に改造され、大正七年と昭和四十一年に大修理が行われました。(天保改造) 工匠 牧野屋忠三郎・彦三郎、(構造)切破風屋根 四輪内板車

 <特色>二十五条の細綱で操るからくりがあります。童形の三番叟人形が所作を演じつつ、機関(からくり)樋の先端へ移行した聯台(れんだい)上の扇子と鈴を持ち、面筥(めんばこ)に顔を伏せ、翁の面を被り、謡曲『浦島(うらしま)』に和して仕舞を演ずるという構成です。屋台曳行順のくじは、必ず『一番』を引くことになっていて、神楽台についで他の屋台に先行する慣例となっています。」


動き出す三番叟屋台


 確かに、三番叟人形は童顔で、これが顔を伏せたかと思うと、いきなりお爺さんの顔になる。だいたい、「三番叟」とは何だろうと大辞林をひもとくと「能の『翁』を、三番叟の部分のみ舞踊化した歌舞伎所作事」とある。意味や背景を書いてくれないと、さっぱりわからない。こういう時は、ウィキペディアの助けを借りるしかない。それをまとめてみると、「三番叟の舞は2段に分かれ、前半の揉ノ段は面を付けず、足拍子を力強く踏み、軽快・活発に舞う。後半の鈴ノ段は黒式尉を付け、鈴を振りながら、荘重かつ飄逸に舞う。その前の翁の舞が天下泰平を祈るのに対して、三番叟の舞は五穀豊穣を寿ぐといわれ、足拍子に農事にかかわる地固めの、鈴ノ段では種まきを思わせる所作があり、豊作祈願の意図がうかがえる。」ということなので、人形の顔の変化は、この2つ段を表しているのだろう。

(4)石橋台


石橋台


 高山陣屋前に並ぶ「からくり屋台」3台のうち、真ん中の屋台は「石橋台」である。高山市の解説には、「<沿革>宝暦創建説と天明創建説があります。当初から長唄の石橋の操り人形があったため、台名もこれに由来します。弘化―嘉永年間(1844年から1854年)に改修。文久3年(1863年)大改修し、旧台を古川町に譲りました。(文久改修) 設計 村山勘四郎、工匠 畠中久造、彫刻 下段獅子 村山勘四郎、中段彫り龍 浅井一之(かずゆき)、牡丹 中川吉兵衛、見送り 朝鮮の段通(だんつう)、(構造) 切破風屋根 四輪内板車

  <特色>からくり人形は長唄石橋物(しゃっきょうもの)のうち、「英執着獅子(はやぶさしゅうちゃくじし)」を取り入れたものです。濃艶(のうえん)な美女が踊っているうち、狂い獅子に変身し、また元の姿に戻り両手に牡丹の花を持って千秋万歳(せんしゅうばんぜい)と舞い納める構成です。明治25年(1892年)に風紀上よくないと中止されましたが、昭和59年に復活されました。重厚で調和のとれた屋台です。」
とある。


石橋台


  私が見物していたごく僅かな時間でも、すっくと立つ絶世の美女の人形が、蒼顔の狂い獅子に変身して、体を這わせてぐるぐると回っていた。それにしても、明治期にこれが「風紀上よくないと中止され」たとは、どういうことだろう。そもそも私は「英執着獅子」とは何か知らなかったので、大辞林で調べてみると、「歌舞伎舞踊の一。石橋物の一。長唄。本名題、英執着獅子。初世杵屋弥三郎作曲。前半は手獅子を持って遊女が踊り、後半は、牡丹をあしらった笠を付けて獅子が華麗に舞い納める。」とあったが、ますますわからない。

 それで、更にインターネットの情報をかき集めると、「中国の清涼山という霊山に細い石の橋があり、その向こうは浄土で、人間には渡れない。伝説によると橋の向こうには獅子がいて、牡丹が咲き乱れる中を蝶とたわむれている。それだけでは劇にすると獅子しか出てこないと思ったのか、歌舞伎では女形が前半部分で遊女やお姫様に扮して舞い、後半部分でその女形の衣裳のままで獅子の被り物を被って舞うという。恋する相手に執着する女性として色っぽく舞うから、『執着獅子』という。」とのこと。なるほど、明治の人はそういう知識もあったのかと納得した。

(5)龍神台


龍神台


 最後に、高山陣屋前に並ぶ「からくり屋台」3台のうち向かって一番左手の「龍神台」についての高山市の解説は、「<沿革>創建年代未詳。安永4年(1775年)に弁財天像に猿楽を舞わせたとの記録があり、文化4年(1807年)の屋台曳順の「龍神」の台名がみえます。またこの頃、竹生島(ちくぶしま)弁財天にちなみ、「竹生島」とも呼ばれました。文化12年(1815年)に改造し、弘化3年(1846年)に修理。明治13年(1880年)から3年がかりで再改造され、唐破風屋根を現在の切破風に替えています。昭和41年、半丸窓上に龍彫刻が取り付けられました。(文化改造) 工匠 谷口紹芳、(明治改修) 工匠 彫刻 谷口宗之、塗師 小谷屋正三郎、(構造) 切破風屋根 四輪内板車

 <特色>32条の糸を操って龍神のはなれからくりが演じれます。これは、竹生島の龍神にちなんだもので、8尺余りの橋樋の先端に、唐子によって運ばれた壷の中から突然赫(あか)ら顔の龍神が紙吹雪をあげて現れ、荒々しく怒り舞うという構成です。見送りは試楽祭には望月玉泉(もちづきぎょくせん)筆の雲龍昇天図、本楽祭は久邇宮(くにのみや)朝彦親王の書で、明治天皇の鳳輦の裂れで表裂されたものを用いています。」
というが、残念ながら、今回はその演技を見る機会がなかった。



 高山春祭り(写 真)




3.高山陣屋をじっくり見学

高山陣屋


 そこで、せっかくだから、高山陣屋(かつての高山奉行所)に立ち寄ることにした。前回来たとき(平成29年1月7日)も見学したが、あまり時間がなかったので、じっくりと見て回る暇がなかった。その点、今日は大丈夫だ。江戸時代には全国におよそ60強の奉行所があったが、そのままの建物が現存しているのは、ここ高山のみだというから、これは貴重な文化遺産である。

 今回いただいたパンフレットによれば、「元禄5年(1692)、徳川幕府は飛騨を幕府直轄領としました。それ以来、明治維新に至るまでの177年に25代の代官・郡代が江戸から派遣され、幕府直轄領の行政・財政・警察などの政務を行いました。御役所・郡代役宅・御蔵等を併せて『高山陣屋』と称します。明治維新後は、主要建物がそのまま地方官庁として使用されてきました。昭和44年に飛騨県事務所が移転したのを機に、岐阜県教育委員会は、全国にただ一つ現存する徳川幕府郡代役所を保存するため、平成8年3月まで三次にわたり、復元修理を行いました。こうして江戸時代の高山陣屋の姿がほぼよみがえりました。」とある。

 高山陣屋のHPに書かれていたことをつなぎ合わせてみたところ、こういうことのようだ。「そもそもこの飛騨は、天正14年(1586年)から金森氏が6代(106年間)にわたり支配してきた地である。ところが幕府は、この飛騨の国が豊富な山林資源(木材)と地下資源(金・銀・銅・鉛)に恵まれていたことから、元禄5年(1692年)に金森氏を出羽国(現在の山形県と秋田県の一部)の上山に国替えさせ、飛騨を幕府が直接支配する「幕府直轄領」(幕府領・幕領)とした。それ以来、幕府支配の出張所(出先機関)として高山に役所が置かれ、それがのちに陣屋と呼ばれるようになった。当初は幕府から飛騨代官が派遣されていたが、安永6年(1777年)には飛騨郡代に昇格し、他の郡代役所(関東・西国・美濃)と並んで幕府の重要な直轄領となった。幕末には全国に60数ヵ所あったと言われている郡代・代官所の中で当時の主要建物が残っているのはこの高山陣屋だけで、全国で唯一、当時の建物が現存する遺跡として、昭和4年(1929)には国史跡に指定された。」


高山陣屋


 天保3年(1832)に建てられたという表門をくぐると、右手には山茱萸(さんしゅゆ)の木があって、一面に黄色い花を付けている。思わず稗搗き節「庭の山茱萸のぉきぃいい、鳴あるうぅ鈴うぅ掛けぇてぇ、ヨーオオーホイ」という歌が頭に浮かぶ。これがそうかと、しげしげと眺めた。秋には茱萸(ぐみ)のような赤い実が生るようだ。(もっとも、「山茱萸の木」ではなく、「山椒の木」という説もある。)

高山陣屋玄関之間


 それから玄関に入るが、藍染の葵の紋の天幕が凛々しくて清々しい。白い砂に波模様が描かれたところを通る。まるで龍安寺の石庭のようだ。通ると、身が引き締まる思いがする。さすが、代官所だけのことはある。文化13年(1816年)の改築以来そのままの「玄関之間」では、「10万石格を示す2間半の大床や、床の壁一面の青海波(波の模様)が目を引く。式台は身分の高い武士が駕籠で乗りつけるため低くしつらえてある」そうだ。

高山陣屋御用場


 廊下を歩いて行くと、「御用場」、つまり地役人の勤務する事務室(35畳)がある。ここで、前捌きをしていたのだろう。黒光りする漆塗りの小さな机と、火鉢が印象的である。次に、郡代、手附が執務を行う部屋の「御役所」(28畳)がある。ここが役所の中枢部という。これらの部屋の縁側のすぐ外には、御白州が広がっている。

 廊下を突き当たって右に曲がる。すると、「寺院詰所」があり、宗門改めのために僧侶が詰めたところらしい。その横に「町年寄、町組頭詰所」があって、これらは御役所の仕事を手助けするために町役人が詰めていたところで、身分が違うために出入口も異なっていた。「湯呑所」があり、部屋の中央部にある囲炉裏が、もはや忘れてしまった日本の伝統を思い起こさせる。「台所」の二つの大きなお釜には、存在感がある。

 「手附・手代の役宅跡」があった。飛騨代官(後に昇格して「郡代」)は、その職務遂行のために直属家臣を伴って着任したが、この家臣を手附・手代といい、その首席を元締と称した。用人部屋、女中部屋、下台所などがある。


高山陣屋下台所


高山陣屋下台所


 郡代が日常生活を送る「御居間」(嵐山之間)は書院造りで、床の間には漢詩の掛け軸が下がっていて、その右側には違い棚がある。私の小さい頃は、こういう床の間や違い棚を備えている住宅が普通だった。床の間には、季節の変わり目になると、父がその季節に合った掛け軸を掛けていたものだし、違い棚には、母が一輪の花を生けていたものである。また、小さな区画があるなと思ったら、「御囲い」という茶室だった。

高山陣屋庭


 濡れ縁越しに、広い庭を一望することができる。庭には、形よい庭木、リズミカルに続いている飛び石、やや遠いもののちゃんとした池がある。江戸時代から、こういう現代に通じるスッキリした庭があったのかと思うと、日本文化も捨てたものではない。腰を下ろして、しばらく庭を眺めていた。心が落ち着く。記録によれば、天明年間に造りかえられて、その後もしばしば手が加えられたそうだ。あまりに居心地が良いからか、どこからか白人の赤ちゃんが這って来たのには驚いた。これがまた、可愛いことといったらない。

高山陣屋で赤ちゃん


高山陣屋大広間


 「大広間」に行くと、三つの広間が繋がっている。やはり書院造りで、向かって左側の床の間には「義」と「孝」の掛け軸が下がっており、右側には違い棚がある。ここは、「書院」といって、儀式、会議、講釈などが行われる場所だった。南のお白州は、刑事事件の取り調べを行う吟味所でぐり石が敷いてあり、拷問の道具である責台、自白を迫る抱き石、罪人を入れる籠などがある。なお、民事関係は、北のお白州で扱ったそうだ。

高山陣屋南のお白州


 年貢米を収納する「御蔵」が大きくて実に立派なので感心した。幕府の支配の根源なのだから、それも当然である。中に入ると、年貢米の俵が壁一杯に積まれていて、1俵には玄米4斗と込米(付加税)1升が入っている。この御蔵は、元禄8年(1695年)に高山城三之丸から移築されたとのこと。創建以来、約400年もの歴史があり、全国でも最古かつ最大の米蔵だそうだ。

 それにしても、これだけ集めた年貢米をどうやって移出するのだろう。地図を見ると、高山を南北に通る宮川というのが流れていて、下流で高原川と合流して神通川となって富山湾に注いでいるから、このルートかもしれない。でも、そんな山奥を年貢米が通って大丈夫か。アメリカ西部で連邦政府の金塊を載せた幌馬車が襲われたように、山賊の類いに襲われないか。幕府は相当な数の警備の者を付けたに違いないなどと、想像が膨らむ。

 陣屋を出ようとして靴を履いていると、中年の白人のご夫婦で、どちらも半ズボンという出で立ちの二人がいた。気温は摂氏7度と低くて、私には凍える寒さだ。そんな格好で寒くないのかと思い、つい、「どこから来たのか、寒くはないのか。」と聞いてしまった。すると、「アイルランドから来た。これぐらいは普通だ。」というので、側にいたイスラエル人ともども、びっくりした。






 高山陣屋(写 真)








(2019年4月14日記)


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