大学入学50周年記念

お茶屋の間仕切り


1.記念パーティ

 我々の大学入学50周年を記念して、京都で同窓会を開こうということになり、教養部時代の私のクラスを中心として学園祭の運営を行ったメンバー30人ほどが集まった。このうち多くが私のように東京在住で、他は関西特に大阪に住んでいて、京都に家がある人は、ほんの僅かである。折しも紅葉の季節で、赤や黄色の紅葉が美しかった。

大原三千院


 我々が入学した頃は、大学紛争で何もかもが滅茶苦茶な時代であり、明日の授業があるかどうかも分からない状態にあった。だから50年後の自分の姿を想像することなど全く考えつきもしなかった。それがまあ、どうだろう。皆、髪の毛は薄くなり、体重も平均で20kg以上増えたとはいえ、笑えば昔の記憶通りの笑顔が帰ってくるし、人柄や発想は全く昔のままで、ほとんど変わらない。自分も含めて、これで本当に歳をとり、それなりに経験を積んだ姿なのだろうかと、ついつい思いたくなるほどだ。


2.記念文集

 加えて今回の新企画は、各人に400字程度の感想文を書いてもらって、記念文集とすることだ。それに昔の写真を重ね合わせて電子データの文集を作り、これを配ることにした。皆さんの感想文は、いずれもなかなかの力作だったし、それを新聞記者だったプロが編集するのだから、読ませるものができた。その一端を紹介すると、こういうものだ。

「(この)メンバーといる時は、いつも時計台下の20歳前後の『紅顔の美少年』。いつまでも変わらず皆さんと共にいられますように。」(KA)

「徹マン、酒、ダンパ、ソフトボール大会、あの『祭り』、その後の連日連夜の饗宴、それらの一コマ一コマが目に浮かびます。」(MI)

「物心ついた頃からの目標である、東大→官僚→政治家という人生目標が大きく変わりました。京大の在野精神の方がはるかに私の性に合っている」(YO)

「(高校の修学旅行で)バスを降り下り松を見て、詩仙堂に入った。曼殊院のことは覚えていない。このときに大学は京都にしようと決めた。」(YK)

「人生で一番感動したのは、入社4年目でフランス語研修生として生まれて初めて国際線に乗って、いよいよパリに降り立つというあの一瞬」(YS)

「東京を中心としたオールジャパンでの厳しい競争ということは経験せずに、大阪でのんびりした人生を過ごせたことは、結果オーライ」(TT)

「卒業して半世紀弱、職業人生と家庭人生が人生の大半、過ぎ去ると南柯の夢ではあるが、全体的に右肩上がりで楽しい思い出が残る。」(KT)

「法律事務所の後輩が独立する時に『先生の正義感が頼もしく、大好きでした』とメッセージをもらった。正直嬉しかった。」(KN)

「第8聖都はあの世かも知れない。妻とは森林葬について話し合っている・・・(このグループの)歌声も千の風=記憶となって、墓の周りを回り続けることを夢想する。70歳代=人生の秋+冬を楽しみたい。」(SN)

「出会いから50年。完全燃焼感のないもう一つの人生とも言えるが、振り返ると意外と悪くもない。絶えず笑顔でいられたし、いつも誰かに支えられている実感は確かに残っている。」(TH)

「勉強はしなかったものの、京都大学の精神とか考え方は自然と影響を受けていると思うし、それがその後の『媚びない。上からの権威に怯まない。自分の意見を持つ。』という、自分なりの生き方を作った。」(MM)

「高校の時から少し異端者でした。強制されたら絶対に従わず、二択ならひとの反対を取る。自分の意見は中々譲らず、理不尽な仕打ちは決して忘れない。そのくせ自分が所属した集団には概して忠実」(TM)

「時計台大ホールの使用交渉から始まり、舞台設営・運営、会場運営、チケット販売、タレント交渉、広告・広報、果ては ヘルメット部隊来襲の備えまで、ちょっとした社会体験の場になった。なにより多士済済の仲間と協働できたことは一生の宝物だ。」(TK)


 いかがだろうか。皆さんの書かれたエッセイのほんの僅かな部分の引用だが、それでも見事に各人の人生観や感動した話、歩んできた道などが生き生きと描かれてる。誠に素晴らしい。これだからこそ、この同級生の皆さんは、私の宝物である。ちなみに、私の書いた「これからは黄金の70歳代」と題する文章は、次のようなものだ。

「今から50年前、大学受験の準備万端を整えて、さあ本番という時に東大入試中止が報じられた。まさかと思い名古屋から急遽上京して御茶ノ水駅に降りた途端、派出所は焼け落ち、道路一杯に転がる石ころには血糊らしきもの、火炎瓶の跡まである。これはもう駄目だと諦めて京大入試を受けた。

 京都は良い街で、充実した学生時代を送った。しかし東京で活躍したいという憧憬は止み難く、それには有力官庁に入るしかないと思い定めて、自分の感性に最も合う通産省へ入省した。以来、『誠心誠意』と『為せば成る』をモットーに仕事を続けて20年が経ち、途中、特許法と国際交渉に携わったせいか内閣法制局に呼ばれて、更に20年が経過した。

 内閣法制局では『原案を削ぎ落とす審査をする』のではなく「最も良い案にするために独創的な知恵を出す』という姿勢で、第四部長から始まって全ての部長を経験した。そして次長、長官を勤め上げてもう身を引くという時に、思いがけず最高裁判所判事の職に就くこととなった。以来6年間、『後世に残しても恥ずかしくない立派な判決を書こう』と努めてきた。そして今年の9月ようやく退官の日を迎えた。

 我が公務員人生を振り返ってみると、誰にもへつらわず忖度など全くせずに正論と筋を貫き通してきたが、よくそれで46年余を過ごすことができたものだと今となって思う。この間、家内や子供達をはじ め、ディオニソスの皆様、先輩、同僚、後輩その他ご交誼のあった皆様方には本当にお世話になった。改めて深く感謝申し上げる次第である。

 退官後、第一東京弁護士会に弁護士登録をした。社会貢献を兼ねてしばらく弁護士の仕事をするつもりである。それとともに、徐々に趣味の分野へと活動の重点を移していきたい。とりわけ、機会を見つけてカメラを肩に内外の景勝地へと旅行し、できれば芸術の薫りがする写真を撮り、人の心に沁み入るエッセイを書くことができれば、これに勝る幸せはない。そして、それらを自分のホームページ『悠々人生』に載せるなどして、文字通りの『黄金の70歳代』を過ごしたいと思っている。」



3.亡くなった仲間とご遺族

 我々の仲間の一人が、今年の2月に病気で亡くなった。この同窓会に皆勤といっても良いくらいに出ていた有力メンバーだったが、あの巨体がもはや見られないかと思うと、いささか寂しい。ところが、嬉しいことに、ご遺族の奥様とご長女とご長男がこの会合に参加された。私など、とりわけご長男のご挨拶を聞きながら、「もし私が亡くなったたとして、果たして私の息子は、こんな風に立派な挨拶ができるのだろうか」などど思ったくらいである。

 また、5年後くらいを目処に、我々の青春の地である京都で、こうして皆さんとともに、お互い元気で集まりたいものである。


4.先斗町のお茶屋さん

 その会合の夜は、私は有志と先斗町のお茶屋さんに上がり、芸妓さん、舞妓さんに囲まれて楽しい一夕を過ごした。私は特に「祇園小唄」の舞が大好きなので、じっくりと鑑賞させてもらい、「ああ、京都に来た。」という気がしたものである。

先斗町のお茶屋さんにて、芸妓さん


先斗町のお茶屋さんにて、芸妓さん


先斗町のお茶屋さんにて、芸妓さん


 御座敷の余興では、「金毘羅フネフネ」の音頭に合わせて舞妓さんと丸い朱肉台を挟んで対決する遊びが面白かった。それをスマホのカメラで撮って家内に送ったら、「そのルールはどうなっているのだろうと目を凝らして見たのだけれども、分からなかった。」と言っていたから、笑ってしまった。それもそのはずで、朱肉台を取るタイミングが好き勝手な時なので、それに目を奪われるからだろう。

 ルールは簡単で、舞妓さんと交互に朱肉台の上に開いた手を置く。餅つきのペタンペタンという要領だ。そしてどちらか一方は、朱肉台を持ち去ることができる。すると相手は、その無くなった位置にげんこつの「グー」を置く。朱肉台を持ち去った方は、次の番でそれを元の位置に戻す。それを延々とやって、失敗したらハイお仕舞いとなる。単純だが、面白かった。これは、酔えば酔うほど、早くお仕舞いになる。

先斗町のお茶屋さんにて、舞妓さん


先斗町のお茶屋さんにて、舞妓さん


先斗町のお茶屋さんにて、舞妓さん


 そのうち女将さんが出て来て、脱脂粉乳や鯨の給食とやらで、同年代とわかった。大学紛争の時の話では、学生との団交にほとほと疲れた京大の執行部たちが、この祇園で束の間の休息をとっていたなどという秘話が明かされたりして、大いに盛り上がった。数々の戦乱をかいくぐったいかにも京都らしいエピソードである。


5.京都は紅葉の季節

 ちょうど京都は紅葉の季節の真っ盛りを迎えていて、私は、その日の日中に、黒谷の金戒光明寺、京大近くの真如堂を回った。翌日は、それこそ半世紀ぶりに、洛北の山里に行ったみた。大原三千院、貴船神社、鞍馬寺である。岩倉実相院にも行こうとしたが、貴船神社から鞍馬寺の山中を歩いて消耗したので、それは諦めていったん四条河原町のホテルに戻った。そして夕刻になって、東寺のライトアップの見物に行ってきた。

 更に次の日は、京都から近江八幡に行き、そこで荷物を預けて、市内を観光した。八幡堀遊覧船に乗るつもりだったが、気温が10度まで下がって冷え冷えとしてきたので、それは止めた。お昼に近江牛のすき焼きを食べて元気が出たので、隣の安土に行き、そこから紅葉の名所として近年有名になった「教林坊」に行ってみた。これはこれは、誠に見事な紅葉のお寺だった。

鞍馬駅の天狗


東寺のライトアップ


教林坊の紅葉


 以上の旅の次第は、別のエッセイで詳しく述べることにしたい。紅葉の写真については、整理したところ特に大原三千院と教林坊のものが素晴らしかった。それにしても、1回の旅行で、懐かしい同級生との交歓、祇園の舞妓さん、紅葉狩りを兼ねた神社仏閣巡りなど、これほど内容が豊富な旅はなかなかないのではなかろうか。70歳の節目に、いつまでも心に残る記念碑となった。それにしても、前回までのように家内と一緒なら、もっと楽しかったと思うが、急に脚の付け根が痛くなったのでは仕方がない。年をとれば、そういう体の不調はやむを得ないものだ。無理せずに、その日の体調と相談しながら、うまく付き合っていかければならない。これも含めて、人生そのものである。





(2019年11月26日記)


カテゴリ:エッセイ | 15:42 | - | - | - |
京都滋賀へ紅葉の旅

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1.旅の概要

 京都で、大学入学50周年記念のクラス会のパーティが時計塔内のレストラン「ラトゥール」であり、それが楽しみで出掛けて行った。実は5年前にも同様に45周年のクラス会、また10年前にも40周年のクラス会があり、更に30周年もやはり京都祇園の「いもぼう」で開かれた。

 入学後50周年といえば、もう半世紀も経っているという驚くべきことなのだけれど、その様子は、別途、「大学入学50周年記念」というエッセイにまとめたので、ご覧いただければ幸いである。まあ、同級生はこの間、色々な道を歩んで来たが、まるで自分の分身のようにいとおしく感じる。

先斗町のお茶屋さんの食事


 時計台の後は、私は金戒光明寺と真如堂に行き、紅葉の景色を写真に収めてから、先斗町に行った。先斗町のお茶屋さんでは、もちろん舞妓さんや芸妓さんの踊りを堪能したことはもちろんだが、それより、同年代の女将さんと昔の京都の大学紛争のときの話が弾んで面白かった。

先斗町の舞妓さん


 それから翌日の2日目は、洛北を中心に、蓮華寺→大原三千院→貴船神社→鞍馬寺という順に周り、夕方は東寺のライトアップに行ってきた。このうち、大原三千院の燃えるような紅葉としっとりとした緑色の苔の組合せが最も素晴らしく、次に美しいと思ったのが東寺のライトアップであった。ところが洛北の地でたどった貴船神社から鞍馬寺への道は、何の面白味のないひどい山道で、これはお勧めしない。ただ、運動にはなった。

 次の3日目は、京都から在来線のJR琵琶湖線で滋賀県の近江八幡市に行った。とりわけ、大坂商人、伊勢商人と並ぶ日本三大商人の一つである近江商人について知りたかったからだ。その資料館など市内を見物した後に、「教林坊」という紅葉の名所に行ってきた。安土駅からタクシーで行くしかない辺鄙な寺だが、京都にも負けない素晴らしい紅葉であった。これは、わざわざ見物に行く価値がある。それから、米原駅から新幹線で帰京した。


2.金戒光明寺

 通称「くろ谷さん」の金戒光明寺は、浄土宗で法然上人を開祖とし、本尊は阿弥陀如来、唱える言葉は南無阿弥陀仏である。いただいたパンフレットによれば、「法然上人43歳の承安5年(1175)、比叡山での修行を終えてこの地で念仏された時、紫雲全山にたなびき光明が当たりを照らしたことから、浄土宗最初の念仏道場が開かれた場所」とある。

金戒光明寺


金戒光明寺


金戒光明寺


 正面の二層の堂々たる山門には、その正面に後小松天皇の御宸筆で「浄土真宗最初門」の勅額が、遥か仰ぎ見る位置に掲げられている。宝珠を頂いた納骨堂には、阿弥陀如来が祀られている。重厚な三重の塔(重要文化財)は、徳川秀忠の菩提を弔うために建立されたもので、真っ赤な紅葉との対比が実に美しい。

 阿弥陀堂は、慶長10(1605)年、豊臣秀頼により再建され、本尊阿弥陀如来は、「恵心僧都最終の作で『ノミおさめの如来』」と言われているそうだ。御影堂の内陣には、法然上人の75歳の坐像があり、その右には吉備観音(1200年前に遣唐使の吉備真備の難を救った観音様)、左には中山文殊(運慶作と伝えられ、いまなは無き中山宝?寺にあった)が置かれている。」という。

金戒光明寺


金戒光明寺


金戒光明寺


 さて、お庭を拝見ということで、まず「方丈北庭」に向かう。池に大きな紅葉の木が差し掛かっていて非常に見事だ。「ご縁の庭」は、真ん中の丸い石に向かって石畳が双方から伸びているという意匠で、その向こうの開いた空間には紅葉が見えるという独特のもの。「紫雲の庭」は、先程の「紫雲全山にたなびき」から取った名前と思うが、「法然上人の生涯と浄土宗の広がりを枯山水で表現したもので、白川砂と杉苔を敷き詰めた中に、法然上人や上人をとりまく人々を大小の石で表し、法然上人の『幼少時代 美作国』、『修業時代 比叡山延暦寺』、『浄土宗開祖 金戒光明寺の興隆』の三つの部分に分けて構成されている。」とのこと。枯山水は禅寺特有のものだと思い込んでいたが、このように浄土宗の、しかも本山にもあるとは知らなかった。

金戒光明寺


金戒光明寺の会津藩士の墓地


 ところで、このくろ谷には、幕末の激動期に会津藩の本陣が置かれ、京都守護職の松平容保が居を構えたところとしても有名である。一時は、新撰組の屯所もあった。その関係で境内には、幕末の戦乱で亡くなった会津藩士の墓地もある。


3.真 如 堂

真 如 堂


真 如 堂


 真如堂は、京都大学の近くであることから、学生時代の思い出がいっぱい詰まったところである。「正式には鈴聲山真正極楽寺といい、比叡山延暦寺を本山とする天台宗のお寺」だというが、実は今から50年前は、ほとんど人影を見ず、ひっそりとしたお寺だった。だから、のんびりするには絶好のお寺だったのだが、それがまあ、特に紅葉の季節にはこれほど多くの人々が押しかけるようになるとは、想像もしなかった。

真 如 堂


真 如 堂


 そのHPには、「庭園には「池庭」「枯山水」「露地」があり、真如堂の2つの庭は水の流れを白砂で表現した枯山水です。」とある。ああ、またこれは枯山水である。でも、私にとって、この季節の真如堂は、黒い五重の塔や本堂と赤い紅葉が対照的で、それを見ていれば、心休まる気がするのは、半世紀前と変わらない。


4.円山公園

 朝早く起きたので、泊まっている四条河原町に近い円山公園に歩いていった。四条大橋を過ぎると、右手には歌舞伎の南座だ。最近、改修された。四条通りが東大路通りに突きあたるところが八坂神社の楼門で、緋色の柱や門構えがいかにも京都らしい。その階段を昇っていき、境内に入る。その中に、常磐神社、大国主社、北向蛭子社など社(やしろ)がいっぱいあって、歴史の古さを感じる。

歌舞伎の南座


歌舞伎の南座


八坂神社


八坂神社


 八坂神社本殿と舞殿の間を通り抜け、しばらく行くと「祇園枝垂れ桜」がある。我々が学生の頃は、これがいかにも美しくて可憐な桜花を咲かせていたものだ。それが今はかなり樹勢が衰えてしまったようで、痛々しい姿になっている。残念至極である。

円山公園ひょうたん池


円山公園ひょうたん池


 更に行くと、円山公園ひょうたん池に出た。周囲に木々があまりない、さっぱりした池である。だから、これという被写体もない。そこをひと回りして、いもぼう平野屋の前を通って本殿のところに戻ってきた。すると、黒人の夫婦から、話しかけられた。「鳥居があるか?」という。私が「どんな鳥居か?」と聞くと、スマホの写真を見せてくれた。それは、伏見稲荷の千本鳥居だった。

 そこで、「これは、伏見稲荷と言って、京阪電車で行ける。そこの祇園四条駅から乗るといい。私もちょうど京阪電車の反対方向に乗るところだから、駅まで案内しよう。」と言うと、喜んで付いてきた。奥さんの英語は聞きやすかったが、旦那さんの方は英語は話さないようだ。二人の間で話される言葉は、全く見当もつかない。

 道すがら、「日本は初めてなの?」と聞くと、「いや2回目だ。」という。「最近、どんなところを旅行したの?」と尋ねると、「南欧とエジプト」という。「あ、私もたまたまその辺りに行きたいと思っている。」と言って、その詳しい話になりかけたときに、もう祇園四条駅に着いてしまった。てっきり、切符を買うのかと思って切符売り場に誘導しようとしたら、Suicaを持っていた。そこで別れたのだが、どこの国の人かを聞きそびれた。でも、まだ30代後半だと思うが、世界各地に旅行する余裕があるとは、誠に結構なことである。


5.蓮 華 寺

 その黒人夫婦と別れた後、私は京阪電車で祇園四条駅から出町柳駅に向かい、宝ヶ池駅で乗り換えて三宅八幡駅下車し、6分ほど歩いて「蓮華寺」に着いた。

蓮 華 寺


蓮 華 寺


蓮 華 寺


 そこでいただいたお札によれば、「蓮華寺は、元西八条塩小路附近(今の京都駅附近)にあった浄土宗系の古寺で、応仁の乱後荒廃していたのを、寛文2年(1662年)加賀前田藩の老臣今枝民部近義が祖父今枝重直の菩提の為にこの地に移し再興したものである。再興の際に石川丈山、狩野探幽、木下順庵、黄檗の隠元禅師木庵禅師等当時の著名文化人が強力している。尚本堂、鐘楼堂、井戸屋形、庭園は創建当時のままであり、小規模であるがいずらも文人の残した貴重な文化遺産である。」とある。

蓮 華 寺


蓮 華 寺


蓮 華 寺


 入らせていただいたが、なるほど本堂から、紅葉が真っ盛りの庭園を眺めることができる。座敷の奥の方から見れば、天井と畳に囲まれて、それらがまるで額縁のように見える。小ぶりの庭園の眺めも素晴らしい。古いお堂、池、苔に覆われた石と庭園、その周辺の赤と黄色の紅葉、まさにここが京都という観がある。新緑の季節はどうだろうか。また、訪れてみたい。


6.大原三千院

 蓮華寺を見終わり、また三宅八幡駅に戻って宝ヶ池駅から岩倉駅に行き、岩倉実相院に行くつもりだった。ところが、たまたまタクシーを掴まえることができたので、大原三千院に向かった。学生時代に数回訪ねたことがあるが、もうそれから半世紀も経っている。円山公園の枝垂れ桜のように、がっかりしなければ良いなと思っていた。

大原三千院


大原三千院


大原三千院


 ところが、結論から先に言うと、1960年代後半にデューク・エイセスが「京都、大原三千院、恋に疲れた女がひとり」と歌っていた頃の三千院と変わらず、真っ赤で燃え上がるような紅葉、目に染み入るような緑の苔、すっくと伸びた杉木立が本当に美しかった。

 いただいたバンフレットによれば、「大原の地は、千有百年前より魚山と呼ばれ、仏教音楽(声明)の発祥の地であり、念仏聖による浄土信仰の聖地として今日に至ります。創建は伝教大師最澄上人が比叡山延暦寺建立の際、草庵を結ばれたのに始まります。別名、梶井門跡、梨本門跡とも呼ばれる天台宗五箇門跡の一つで、当院は皇子皇族が住職を勤めた宮門跡です。現在の名称は、明治4年法親王還俗にともない、梶井御殿内の持仏堂に掲げられていた霊元天皇宸筆の勅額により三千院と公称されるようになりました。」とある。宮門跡だから、これだけ立派なのだと納得した。

大原三千院


大原三千院


大原三千院


 階段を上がって御殿門を入ると客殿で、そこから聚碧園を眺められる。客殿は、「平安時代、龍禅院と呼ばれ、大原寺の政所で、豊臣秀吉が禁裏修復の余材をもって修復されました。」とあり、聚碧園は、「池泉観賞式庭園で江戸時代の茶人・金森宗和の修築と伝えられます。」とある。

大原三千院


大原三千院


大原三千院


 この庭園は、非常に面白い。手前に池、正面の坂には丸く整えた木が幾つもあり、その背景には真っ赤な紅葉がある。両脇に「ハの字型」の壁のように木が切り揃えられていて、ちょっとしたアクセントになっている。縁側からじーっと眺めていて、飽きない。

大原三千院


大原三千院


大原三千院


 客殿から本堂の宸殿に至り、そこから有清園を観て、往生極楽院に行く。宸殿は、「後白河法皇により始められた宮中御せん法講(声明による法要)を今に伝える道場」であり、有清園は、「中国後晋(西晋)の詩人、左思の『山水有清音』により命名された池泉観賞式庭園で、杉木立の中、苔の大海原と紅葉が有名」とある。往生極楽院には、阿弥陀三尊(国宝)が安置されていて、「寛和2年(986)に『往生要集』の著者で天台浄土教の大成者である恵心僧都源信が父母の菩提のため姉の安養尼と共に建立した」という。

大原三千院


大原三千院


 往生極楽院から、わらべ地蔵、弁財天の順でそれらの脇を通り抜けて紫陽花苑内の金色不動堂に行く。これは、「智証大師作と伝えられる秘仏金色不動明王を本尊とし、平成元年に建立されたご祈願の根本道場」である由。途中、青々とした苔がある庭の上に、紅葉の落ち葉が並んで、実に美しかった。

大原三千院


大原三千院


 大原三千院を出てきた頃にはお昼になっていて、川沿いに下る途中のお蕎麦屋さんに入り、にしん蕎麦を食べた。その店内にあった大原女の人形が、なかなか可愛いものだった。


7.貴船神社

 いったん宝ヶ池駅に戻り、改めてそこから叡山電車で貴船口駅に行った。途中で「紅葉のトンネル」を通った。確かにその名の通りだったが、運転手の後ろにいたので、あまり良く撮れなかった。その電車を降り、バスに乗って貴船神社に向かった。神社の赤い鳥居と赤い木灯篭の列を見て、半世紀前にここに来たことを昨日のように思い出した。自分の頭の中に、こんな記憶が眠っていたとは、我ながら驚く。

貴船神社


貴船神社


 そこからこの階段を上がっていくと正面に馬の像があったはずだと思ったら、やはりあった。すると、左手が社務所だなと思い出したら、その通りだった。「変わっていないなぁ、何もかも。」と思うと、これが京都の良さなのだと気づく。

貴船神社


 かつて私は、右も左もわからない紅顔の少年だったのに、この地から出発して大志を抱いて上京し、中央省庁に勤めて40年間、そのうち特に最初の15年間ほどは、本当にひどい勤務だった。自宅に帰るのが午前2時、3時の日々が続いた。病気にならなかったのは、奇跡に近い。ただ、この時の豊富な経験がその後に実を結び、構想力、交渉力、突破力、適応力の基礎となったのは事実である。だから、その後の人生に十分に役に立ち、裁判官となっても真実の究明と公平な判断に寄与することができたと信じている。


8.鞍 馬 寺

 貴船神社は本宮だけにお参りして、「紅葉はあまりないなぁ」と思いつつ、坂道を下って行こうとしたその時、左手に「鞍馬寺西門」という表示があり、誰かいる。そこへ行ってみると、「鞍馬山案内図」を渡されて、鞍馬寺に行けるという。このままバスを待ってまた叡山電車に乗るのも芸がないと思って、山中だが、歩いてみようという気になった。

 行程は、貴船神社 →(573m)→ 魔王殿 →(461m)→ 背くらべ石 →(403m)→ 本殿金堂 →(456m)→ 多宝塔 →(ケーブル200m)→ 仁王門・鞍馬駅。

鞍馬寺西門


鞍馬寺西門から鞍馬寺へ


鞍馬寺西門から鞍馬寺へ


 これは、山の中のほぼ登りの道で、本殿金堂まではあまり整備もされていないから、とても大変だった、しかも、最近、台風が襲来したようで、あちらこちらに大きな杉の木が倒れていて、まだ手をつけていないところも多い。さすがに山道を塞ぐような木は道の脇に動かしているものの、中には丸太のように切ってあって道から外してあるが、地震でも起こってそれらが転がり落ちたら大怪我をしそうだ。ともかく、この道はお勧めしない。

鞍馬寺西門


鞍馬寺魔王堂


背くらべ石


 なお、西門から入って全行程の4分の3を踏破し、小一時間ほど経ったとき、反対方向から来る年配の女性たちに会った。そのうちの一人は、杖をついている。「後、どれくらいですか?」と聞かれた。私は「まあ、1時間もあれば貴船神社に着くでしょうが、下りでひどい道です。あまりお勧めしません。」と言ったのに、前の方だけ聞いて「あと、1時間だって。」と言ってそのまま行ってしまった。人の話は最後まで聞くものだ。

 いただいたパンフレットによれば、なかなか魅力的なことが書いてある。曰く「鞍馬山は、太古より尊天のお力が満ちあふれています。この地に宝亀元年(796)鑑真和上の高弟・鑑禎上人(思託律師)が毘沙門天をお祀りし、延暦15年(796)には藤原伊勢人が堂塔伽藍を整え千手観世音も祀って鞍馬山が生まれました。以来、幅広い信仰を集めてきましたが、昭和22年に古神道、密教、浄土教、修験道など多様な信仰の流れを統一し、鞍馬弘教と名付け、鞍馬寺はその総本山となっています。」これを読んで、驚いた。これだけ多種多様な宗教を能く一緒にできたものだと。実に日本らしいではないか。

鞍馬寺


鞍馬寺


鞍馬寺


 それはともかく、庶民としては、源義経(幼名:牛若丸)がこの鞍馬の地で幼少期を過ごしたことに関心があるので、数々の名所旧跡が用意されている。例えば、鬼一法眼社(牛若丸に兵法を授けたという陰陽師鬼一法眼を祀る)、義経公供養塔(牛若丸が7歳から10歳まで過ごした東光坊跡地に建立)、霊宝殿(牛若丸はこの中の国宝の毘沙門天三尊を眺めて寂しさを紛らわせていた)、息つぎの水(牛若丸が東光坊から奥の院に兵法修行に向かう際、この清水を飲んだ)、背くらべ石(牛若丸16歳、奥州に下る時に名残りを惜しんで背比べをした石)、義経堂などである。

鞍馬駅の天狗




9.東寺のライトアップ

 いったん京都の都心部に戻り、四条通りや河原町通り、祇園や先斗町辺りを散歩して、四条河原町のホテルに戻ったら、もう夕方になっていた。ひと休みして、午後7時近くから、東寺のライトアップに出掛けた。

東寺のライトアップ


東寺のライトアップ


 東寺に着くと、ライトアップされた国宝の五重塔が夜空に浮かび上がっていた。大宮通りに面した東門から入ると、すぐ左手奥に五重塔が光って輝いており、目の前の池面にその姿が鏡のように写っている。その両脇には紅葉の木々があり、こちらも水面に反射して綺麗だ。それから瓢箪池に向かって歩き、五重塔まで到達する。

 いただいたバンフレットによれば、「この五重塔は、天長3年(826)、弘法大師の創建着手に始まり、雷火によって焼失すること3回に及んだ。現在の塔は正保元年(1644)徳川家光の寄進によって竣工した総高55mの、現存する日本の古塔中最高の塔です。」とある。

東寺のライトアップ


東寺のライトアップ


 ライトアップされた紅葉は独特で、光の色の加減にもよるのだろうが、オレンジ色が強くなって赤みが増す。それが瓢箪池に写って、上も下も紅葉となる。拝観者は、「わー、綺麗ね。」などと、ため息をつくほどだ。私も感嘆し、次いで写真を撮ろうとしたが、三脚は持って来てない。当然、禁止されているのだろうと思って荷物の中に入れて来なかったのだ。ところが、周りのカメラマンたちは、ちゃんと三脚で撮っていた。

東寺のライトアップ


 まあ、仕方がない。私の前のカメラであるキヤノンEOS70Dは、三脚がない場合には数枚連続して撮ってカメラ内で自動的に合成して夜間撮影の手ブレをなくすという優れた機能があった。ところが、いまのソニーα7IIIには見当たらない。ISO感度を最大まで上げてやってみようとしたが、ザラザラ感がでてしまう。色々とやってみようにも、混雑しているから試してみる暇がない。仕方がないのでお手軽だが「シーンモード(夜間)」にして、2秒後のタイマーで撮ってみた。すると、細部までしっかりと写っていて、かなり良い写真となった。

 五重塔と紅葉を堪能して帰ろうとして歩き出したら、金堂(国宝)に入れてもらえるらしい。入ってみると、暗い中に本尊の薬師如来坐像と日光菩薩、月光菩薩があって、坐像の周りに十二神将が立ち並ぶ。ライトアップされているから、顔の彫りが深く見え、昼間に拝見するのとはまた違った趣きがある。すべての衆生に安らぎと癒しをもたらす薬師如来ならではの表情である。


10.近江八幡

 翌日は、京都の紅葉に別れを告げて、一挙に滋賀県近江八幡市に行った。といっても、JR琵琶湖線の新快速でわずか35分ほどである、ここは、近江商人発祥の地ということで、一度は訪れてみたかった所だ。さて、駅に降り立った。観光案内所に飛び込む。そこで相談して作ったルートが次のようなものだ。

 近江八幡駅前 → 八幡小学校 → 池田町洋風住宅街 → 郷土博物館 → 歴史民俗資料館 → 旧西川家住宅 → 旧伴家住宅 → 八幡堀 → 明治橋 → 日牟禮八幡宮 → 八幡山ロープウェイ → 村雲御所瑞龍寺 → 白雲館 → (近江牛のすき焼き)→ 近江八幡駅

 ずいぶんと回ったようにみえるが、町並みがコンパクトだから一挙に回れるので、実はそうでもないのである。八幡堀の遊覧船に乗るつもりだったが、この日は気温が極端に低くなって日中でも10度を切っていたので、風邪をひくといけないと思って、止めた。私のような年代になると、「風邪をひくな」、「転けるな」、「ボケるな」は、もう合言葉と言ってよい。

近江八幡


近江八幡


 さて、近江八幡観光案内所でいただいたパンフレットによると、「まちの中には洋風建築が数多くあります。それらの建築の設計を手掛けたのがウィリアム・メレル・ヴォーリズです。彼は明治38年、滋賀県立商業学校に英語教師として来日しました。来日後、熱心なキリスト教伝道活動を行うとともに、『建物の風格は、人間と同じくその外見よりもむしろその内容にある。』との信念で、全国で約1,600にも及ぶ建築設計に携わりました。

 メンソレータムを日本に輸入した人物であり、当時不知の病として恐れられていた結核治療を目的とした近江療養院の建設、さらには市内の子供たちの教育の場として図書館や近江兄弟社学園の設立など、多岐にわたる社会貢献事業を展開しました。」
とあり、

 「ヴォーリズ夫人の満喜子は、播州小野藩の藩主であった一柳末徳(その後、子爵)の三女として東京で生まれました。神戸女学院音楽部ピアノ専攻を卒業後、9年間の留学の間に教育者であるアリス・ベーコンに師事し、近代女性にふさわしい主体的な生き方を身につけて帰国しました。ヴォーリズとの出会いは、現在の大同生命の創業にかかわった広岡家に養子入りした実兄の恵三とヴォーリズとの通訳を務めたことがきっかけでした。」とある。

 ということで、じっくりとヴォーリズ建築を見たかったのだが、池田町の洋風住宅街をさっと見た程度であるから、あまり語る資格がない。いずれも、暖炉の煙突がすっくと立っているのが特徴である。それにしても、このヴォーリズさんが近江八幡に残した財産は多岐にわたり、しかもとっても大きい。また、ご本人の人柄に触れるために、アンドリュース記念館、ウォーターハウス記念館、ヴォーリズ学園のハイド記念館・教育記念館にも行ってみたかったが、また今度にしよう。

近江八幡


近江八幡


 「八幡商人のまちなみ」ということで、近江八幡市立資料館(郷土資料館、歴史民俗資料館、旧西川家住宅)があった。そうそう、こういう展示を見たかったので、早速入ってみた。郷土資料館は、なかなかすっきりした洋風建築だと思ったら、これももちろんヴォーリズ設計事務所がかかわっている。長年、近江八幡警察署として使われていたそうだ。

 近江八幡には、縄文時代から人が住み着いていたが、町の形になったのは、戦国時代末期で、まず織田信長が安土に城と城下町を築いた。信長が明智光秀に討ち取られた後、豊臣秀次によって八幡山に城と城下町が造られて安土の城下町から町人か移り住んだ。ところが秀次が切腹させられ、京極高次が後を継いだが、長続きせずに開城後わずか10年で廃城になってしまった。それからは、在郷町として、八幡商人の町となった。それ以来、独立覇気の精神に昔の八幡城の跡には、村雲御所瑞龍寺が建っている。

 「歴史民俗資料館」は、もともと江戸時代末期が八幡商人の豪商であった森五郎兵衛の控え宅で、元近江八幡警察署長官舎だったものを市が譲り受けたという。中に入ると、豪商の屋敷そのもので、台所はそのまま、生活用具も見られる。なかでも、陶器でできた湯たんぽには、感心した。

森五郎兵衛の控え宅


森五郎兵衛の控え宅


森五郎兵衛の控え宅


 パンフレットによれば、「『近江商人』とは、江戸時代近江国に本店を置き、全国で商活動をした商人達のことで、近江八幡『八幡商人』は近江商人発祥の一つとされる。天秤棒一つで日本全国を商売して回り、江戸日本橋をはじめ当時の主要都市に出店を構えて活躍した八幡商人は、質素倹約、質実剛健のもとに信用を第一とした。」

森五郎兵衛の控え宅


森五郎兵衛の控え宅


 近江商人といえば、「売り手よし、買い手よし、世間よし」の「三方よし」の精神で知られている。これは、流通業に携わる皆さんの人口に膾炙している言葉で、今で言えば、前半の2つはWin−Win関係、後半はCSR(企業の社会的責任:cooperate sociel responsibility )の考えにも通じている。商売をしていれば、ともすれば自らの目先の利益ばかりを考えて強欲に走りがちだが、それでは長続きしないことを戒めている。近江商人の流れをくむ伊藤忠商事の創設者、初代伊藤忠兵衛も、「商売は菩薩の業(行)、商売道の尊さは、売り買い何れをも益し、世の不足をうずめ、御仏の心にかなうもの」という言葉を残している。どこか、プロテスタンティズムと資本主義の精神を思い出す。

 旧西川家住宅は、「西川利右衛門家住宅は、江戸時代初めの天保3年(1706)に建てられた京風の建物で、質素な中にも洗練された意匠を残している、蚊帳や畳表などを扱って財をなした西川家は、11代約300年続いた近江八幡市を代表する近江商人で、屋号を『大文字屋』と称していた」という。

 それから、「旧伴家住宅 」を訪れた。こちらは、「江戸時代初期の豪商『伴庄右衛門』が本家として建てた商家です。屋号は扇屋といい、商号として『地紙一』を使用、畳表、蚊帳、扇子、麻織物を主力に商売に励み、大阪、京都に出店を持ち、やがて江戸日本橋にも大店を構えるようになり、為替業務や大名貸しもしていました。・・・隆盛を誇った伴家でしたが、江戸時代の末期から急速に家運が衰え、明治期には商家をたたみ、現在は子孫も途絶えています。」という。

旧伴家住宅


旧伴家住宅


 300年にわたって続いた商家でも、やはり、時代の趨勢には勝てなかったということか。明治になって大名貸しなどあるはずもないし、全て貸倒れだろう。また、畳表、蚊帳、扇子、麻織物という扱い品目も、時代遅れとしか言いようがない。特に明治に入って近代的な織機が輸入されて大量生産され、庶民の衣類は朝から綿に変わっていったから、時代の流れに乗れなかったのだと思う。建物の1階の大きな吹抜けの土間には、左義長の屋台がある。3月らしいので、今度見に来て写真を撮りたい。

豪商の家が立ち並ぶ新町通り


西川利右衛門家住宅


 そういった豪商の家が立ち並ぶ新町通り(近江商人の町並み)を北に歩くと、八幡堀に出る。桜並木がトンネルのように堀を覆い、桜の季節には、さぞかし美しい風景だろうと思う。そこを遊覧船がゆらゆらと行くが、残念ながらこの日はとても寒くて、乗る気が失せた。

	八幡堀の遊覧船


日牟禮八幡宮


 白雲橋で八幡堀を渡り、日牟禮八幡宮という大きなお社の前を通って、八幡山ロープウェイに乗った。八幡山の標高はわずか271mだ、「丘」といってもよいくらいの山だが、ここに豊臣秀次が城を築いたほどだから、とても眺めが良い。ロープウェイを降りたところで、村雲御所瑞龍寺に向かう。ちょっとした石の階段が続くが、前日に貴船神社から鞍馬寺への山道を踏破したのだから、何ということもなく、瑞龍寺に着いた。途中、もう少しで瑞龍寺というところで、階段の石の隙間に落ちていたスマートフォンを拾った。カバーからして女性のものだ。瑞龍寺には人影が見当たらなかったが、落とし主は困っていると思い、帰りに立ち寄るロープウェイの駅で係員に渡した。すると、「今乗っていた団体さんかもしれないので、麓の駅に連絡しておきます。」ということだった。

八幡山ロープウェイ


八幡山ロープウェイ山上駅からの眺め


村雲御所瑞龍寺の紅葉


村雲御所瑞龍寺


白雲館


 近江八幡市内に降りてきて、鳥居をくぐって白雲館に立ち寄った。観光案内所になっている。もう昼をとっくに過ぎているので、近江牛を食べたいと思って聞くと、その近くに適当なレストランがあった。そこで、近江牛のすき焼きを食べた。なかなか美味しかった。


11.教 林 坊

 それから、いよいよ本日のハイライトである安土の教林坊に行こうとしてJRに乗ったら、隣の駅だった。安土駅にも観光案内所があって教林坊への行き方を聞いたら、「バスは数時間に1本しかなくて、とても不便だからタクシーで行くしかない。それも、安土駅にあるタクシーはたった2台だ。」と聞いて、力が抜けた。そこで、タクシーのアプリで呼ぼうとしたら、ご親切にもその案内所の人が「私が呼んであげる」と言って呼んでくれた。待つこと20分でようやくやって来て、それに乗り込んだ。教林坊に着いた。わずか10分、料金にして2,000円だったから、歩いてもそんなに遠くなかったのかもしれない。

教 林 坊


教 林 坊


教 林 坊


教 林 坊


 教林坊は、そのHPによると、「推古13(605)年に聖徳太子によって創建されました。寺名の『教林』とは太子が林の中で教えを説かれたことに由来し、境内には「太子の説法岩」と呼ばれる大きな岩とご本尊を祀る霊窟が残され、『石の寺』と呼ばれています。」とあり、特にその書院と庭園については、「江戸時代前期の茅葺き書院は里坊建築の古様式を伝える貴重な指定文化財です。また書院西面の名勝庭園は小堀遠州作と伝えられ枯れ滝・鶴島・亀島など巨石を用いて豪快に表現された桃山時代を象徴する池泉回遊式庭園です。書院南面にも室町時代と考えられる庭園があり小さいながら良くまとまった枯庭となっています。」とある。

教 林 坊


教 林 坊


教 林 坊


教 林 坊


 入ってみると、いやこれは素晴らしい。いかにも歳月を感じさせる、味のある大岩が並び、しかもしっとりとした苔に覆われている。その周りはもちろん、紅葉の木々がびっしりと並び、天まで覆っている。まるで赤い紅葉のドームであり、こんな所は初めてだ。書院から庭を眺めてその絶景にため息をつき、庭に出てみて丘の上から庭園と書院を眺めて絶句するといったたぐいだ。また、紅葉の木々の背景に緑が滴るような竹林があるのも良い。なんとまあ、美しいのだろうと思って、あっという間に時間が過ぎた。本日中に米原駅から東海道新幹線で東京に帰らないといけない。タクシーを呼び、やはり20分後にやって来た。

教 林 坊


教 林 坊


教 林 坊


教 林 坊


 教林坊から安土駅への道すがら、タクシーの運転手さんの話は面白かった。私が、安土城の再建の話はないのかと聞いた。すると、「いや、それがあるんですよ。長い話だけどね、まあ聞いてください。バブルの頃、そういう話があって、その時の安土町長が、安土城を再興しようとした。でも、どういう姿をしていたか、資料が全然ない。そこで目をつけたのが、かつて信長が狩野派の絵師に描かせた安土城の絵図で、当時はそれを宣教師に託してローマ法王に贈ったものだ。時はバブルの頃で、これがあると国から補助金が出るという。町長はバチカンに乗り込んで探したが、残念ながら発見できずに今日に至っている。それで、この話は終わりかと思ったら、最近は滋賀県が、力を入れ始めて、今年はその絵図の発見をするための400万円の予算を組んだそうですよ。」

教 林 坊


教 林 坊


教 林 坊


教 林 坊


 また、教林坊については、「住職が代わり、坊内のごちゃごちゃしたものを片付けて綺麗にして、春と秋に公開を始めたんですよ。最初は、かなりお客さんを集めたけれども、そのうちお客さんの数が減ったために、春は土日だけの公開になった。秋はまだ、平日もやっています。最近はまたブームで、ライトアップまで始めた。なんでですかねぇ。」と言う。私が「いや、首都圏では大々的な宣伝をやっていて、例えばクラブツーリズムの秋刊号の表紙は、この教林坊ですよ。」と言うと、「へぇー」と絶句していた。それからJR安土駅に戻り、近江八幡駅に預けていた荷物をとって米原駅に行き、19:10の東京行きひかり号に乗ることができた。なかなか、実り多き旅だった。







 京都滋賀へ紅葉の旅(写 真)






(2019年11月26日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:59 | - | - | - |
逗子の流鏑馬

女性騎馬武者が二の的を狙う


 鎌倉や明治神宮だけでなく、逗子にも流鏑馬(やぶさめ)があると聞いて、見物に行くことにした。実は、私は逗子駅には降り立ったことがない。横須賀線の路線図を見たところ、鎌倉の次の駅で、葉山の隣りだった。すると、以前に海岸線を車で通りかかったことはあるが、かなり昔のことなので、記憶はあやふやだ。観光スポットはというと、まさにその逗子海岸で、そこで流鏑馬があるらしい。

逗子開成学園の子たち


 当日は快晴で、逗子海岸に着いてみると10人以上がウィンドサーフィンを楽しみ、海に色とりどりの帆が林立している。それを見る海岸の砂浜に、太鼓が並んでいて、若い男の子たちが準備している。逗子開成学園の子たちで、元気よく和太鼓を披露してくれた。これは、いわば前座である。

流鏑馬一行の登場


流鏑馬一行の登場


 始まる前に、いただいたパンフレットを拝見すると、このように書かれていた。「鎌倉幕府の行事記録である吾妻鏡によれば、正治2年(1199)9月2日、源氏2代将軍頼家が小壺の海辺で弓馬の達人集めて笠懸を射させたという記録があります・・・笠懸は流鏑馬と共に疾走する馬上から弓を射るという騎射の一種で、これは関東武士のお家芸であり、当時最高の武技であったのです・・・流鏑馬は起源が古く、6世紀の半ば神事として始まり、平安朝では宮廷の公事として年々催されておりました。その後、源頼朝が鎌倉に幕府を開き、全国の統一を果たしたので、天下泰平を祈願するため文治3年(1187)8月15日に鎌倉八幡宮の宝前で流鏑馬を催し、以来源家3代を経て文永3年(1267)に至るまで毎年のごとく行われた・・・逗子商店会では約800年前に行われた逗子流鏑馬を再現させ、市民の皆様に、往時の伝統武芸をご高覧いただきたく存じます。。

流鏑馬解説

【天長地久の式】(てんちょうちきゅうのしき)
 奉行は、記録所前に勢揃いした諸役の前中央に進み、「五行之乗法」を行う。乗馬して左へ3回、右へ2回、馬を回して中央の位置で馬を止め、鏑矢を弓につがえて、天と地に対して満月の弓を引き「天下泰平、五穀豊穣、国民安堵」を祈念する。式が終わると奉行、射手、所役は行列を組み「序之太鼓」に合わせて射手は馬場本に進む。。

【素 駆】(すばせ)
 馬場入後、奉行は記録所に上がり、諸役一同は各部署に着く。射手は馬場本の馬溜りに集合する。奉行は、各自の配置と馬場内の安全を確認する。馬場本、馬場末の扇方は馬場内の安全を確認を確認し、準備完了の扇の合図を行う。その後、奉行は、「破之太鼓」を打ち、射手は、順に馬場に全力で馬を打ち込む。。

【奉 射】(ほうしゃ)
 馬場に3つの「式之的」が立てられ、射手は馬を全力走らせながら腰の鏑矢を引き抜いて重藤(しげとう)の弓につがえ、一の的から次々に射て馬場を駆け抜ける。これを決められた回数繰り返す。的は一尺八寸四方で、檜板を網代に組み、その上に白紙を貼って青、黄、赤、白、紫の5色であらわし、的の後ろに四季の花を添える。。

【競 射】(きょうしゃ)
 的は、径三寸の土器2枚を合わせて、中に五色の紙切れを入れてあり、命中すると土器は裂け、中の五色の紙は花吹雪のように飛び散る、こうして競射が終わると、奉行は記録所で「止之太鼓」を打ち、射手、諸役は行列を組んで記録所前に向かう。

【凱陣の式】(がいじんのしき)
 記録所前に勢揃いした後、競射の最多的中者は式之的を持って奉行の前に座する。奉行は、扇を開いて骨の間から的を見聞する。扇をたたみ太刀の鯉口を切った時、太鼓をドン・ドン・ドン」と三打する。奉行の「エイ・エイ・エイ」の声に続いて、射手諸役一同「オーッ」と唱和、これを3回繰り返して勝どきを揚げる。この儀式は、流鏑馬そのもの、世の邪悪退治も意味しているため、退治した邪悪の「首実験」の意味も込められている。


 午後1時から流鏑馬が始まったのだが、このパンフレット中の「流鏑馬解説」にそのまま沿って行われた。行事が全て終了してから気が付いたのだから、笑い話だ。当たり前といえば当たり前なのだが、それならそれで、題名を「本日の流鏑馬の流れ」とでもしてくれていれば、わかりやすかったのかもしれない。

 私は、この種の伝統行事や祭りに最初に行く時には、有料観覧席に座ることにしている。現地の事情がわからないからだが、この日もそうしたところ、中央の「櫓」つまり記録所のすぐ近くだった。ここから見ると、正面は海、これに沿って一直線に218mの馬場が走る。左手奥に馬場本があり、そこが出発点で、その近くに一の的が、私がいる記録所前に二の的がある。そして我々の前を通り過ぎると、右手奥に三の的がある。その先が馬場末だ。

 この流鏑馬をしているのは、武田流で、「立ち透かし」という「上半身が上下動しない美しくかつ正確な騎射を可能にする究極の技術」を披露できるという。同団体では、この逗子のほか、鎌倉八幡宮、明治神宮などで披露しているとのこと。なお、念のために検索してみたところ、公益社団法人 大日本弓馬会一般社団法人 日本古式弓馬術協会(武田流鎌倉派)特定非営利活動法人 武田流流鏑馬保存会の3つの団体がヒットした。このうちどれかだろうと思ったが、当日のアナウンスを聞いていたところ、その内容は大日本弓馬会のホームページのものと共通していたので、本日の団体は間違いなく大日本弓馬会である。(その後、同会の行事予定に掲載された。)

 午後1時になり、最初に、逗子市長などの来賓挨拶があった。市長は、「財政事情が厳しい折、この流鏑馬予算を2年前からカットしてゼロにせざるを得なかった。」などと平然と語る。ある意味、大したものだ。

天長地久の式


我々の横の櫓(記録所)


 櫓の前で「天長地久の式」が始まった。騎馬武者が馬を左右に回し、止まって矢をつがえて天と地に向ける。天に向けたとき、あのまま矢を放つのかと思ったほど弓を引き絞っていた。それから、一行は旗を先頭にして、太鼓の音とともに左手の馬場本の方に向かい、奉行は我々の横の櫓(記録所)に登った。子供武者行列の一行がやってきた。周りの見物人から、「まあ、可愛い」という声があがる。亀岡八幡宮からやってきたらしい。

子供武者行列の一行


騎馬武者が全速力で馬を走らせてきた


 太鼓の音が鳴り、馬場本で旗が上がったと思ったら、騎馬武者が全速力で馬を走らせてきた。騎射はしない。そして、右手の馬場末へと走り去った。それが何騎か続く。これが、いわば馬の準備運動だろう。やがて、前を通った4騎が全て揃って馬場末から同じ道をゆっくりと馬場本へ帰っていった。

一辺50センチの四角いカラフルな的。その的の上に花が飾られている


 いよいよこれからが本番の流鏑馬だ。我々の前の二の的に、一辺50センチの四角いカラフルな的が上下左右に角がくるように掲げられた。的の上に花が飾られていると思ったら、かつて的を射るのに失敗したことを恥じて自害した武士がいたことから、こうするようになったという。

 準備万端が整い、馬場本で旗が上がった。騎馬武者(射手)が、あちらの一の的に向けて矢をつがえて放った。バキッと音がして、記録所の係が「命中」と叫ぶ。ドドッ、ドドドッと音を立てて我々の二の的に向かってくる。この間に矢をつがえなければならない。そして、二の的でまた放つ、バキッ・・・見事、命中だ。さらに右手に走り去り、あちらの三の的を狙ったかと思うと、ワァーと歓声があがる。おお、素晴らしい。三つとも命中だ。

流鏑馬の本番


流鏑馬の本番


流鏑馬の本番


流鏑馬の本番


流鏑馬の本番


流鏑馬の本番


流鏑馬の本番


流鏑馬の本番


流鏑馬の本番


流鏑馬の本番


流鏑馬の本番


流鏑馬の本番


流鏑馬の本番


流鏑馬の本番


流鏑馬の本番


流鏑馬の本番


流鏑馬の本番


流鏑馬の本番


流鏑馬の本番


流鏑馬の本番


 次の騎馬武者が来る。一の的は失敗だ。我々の二の的は、バキッと、これは当たった。三の的は、残念ながら失敗だ。なかなか難しいものらしい。更に三番目の騎馬武者はというと、これは女性だ。気のせいか馬で駆ける音もかろやかで、一の的は成功、二の的は、失敗、三の的は成功・・・とまあ、そういう具合で4人の武者が駆け抜けた。騎馬武者は一の組と二の組、それぞれ4人ずついるという。中でも、先頭と殿(しんがり)は最も上手な射手を配するらしい。

旗が上がっていないのに、もう騎馬武者が駆けてきた


 あれあれ、旗が上がっていないのに、もう騎馬武者が駆けてきた・・・ところが、私の前の二の的では、二人がかりでまだ的を変更する作業中である。走ってくる騎馬武者が矢をつがえた。あっ、危ない!と思ったその時、すんでのところで騎馬武者が気がついて、矢を放つのを止めた。そして、来た道を引き返して戻って行って、やり直した。

 ところで、私は写真を撮ろうといつものソニーα7IIIを持っていったのだが、この日の撮影は難しかった。まず、二の的付近では完全な逆光となる。次に、馬は速い、速すぎる。加えて、私から見て一の的と二の的の間に仕切りの棒があって視界を遮るから、コンティニュアス・フォーカスがそこで途切れる。それやこれやで、最悪の条件だった。

凱陣の式


凱陣の式


 流鏑馬は続き、的がカラフルなものから、四角い板になり、最後は、丸いかわらけ(素焼き土器)になった。真ん中に黒い目玉が描かれていて、かなり小さい。これを速く走る馬の上から射るわけだから、非常に難しいと思う。これほど的が小さいと、たとえボールを投げても当たる確率は低いのではないか。それを弓で射抜くのだから、大したものだ。本番だが、我々の前の二の的については、騎馬武者のうち二人当てた。当たった瞬間、中に仕込んであったカラフルな紙が舞った。

流鏑馬の本番


流鏑馬の本番


 最後は、凱陣の式である。最もたくさん当てた騎馬武者が、その的を持って奉行に見せると、奉行は、「扇を開いて骨の間から的を見聞」している。何をやっているのだろうと思ったら、獲物は邪悪つまり穢れたもの故、直接見てはいけないそうだ。そうやって見聞が終わると、「扇をたたみ太刀の鯉口を切る」。そして太鼓の合図とともに奉行の「エイ・エイ・エイ」の声に続いて、一同が「オーッ」と唱和するという次第だった。日本古来の武芸も、なかなか良いものだ。







 逗子の流鏑馬(写 真)






(2019年11月17日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:42 | - | - | - |
即位礼正殿の儀

おことばを読まれる天皇陛下。宮内庁のHPより


1.即位礼正殿の儀に参列

 令和元年10月22日、宮中で「即位礼正殿(そくいれいせいでんのぎ)の儀」が粛々と挙行された。既に5月1日には剣璽等承継の儀と即位礼正殿の儀が挙行されているので、それに引き続く今回の儀は「御即位を公に宣明され、その御即位を内外の代表がお祝いする儀式」である。当日は、200人近い外国の元首や祝賀使節を含めて、総数約2,500人が宮殿に参列した。

 光栄なことに、私もその一人として招かれ、参列することができた。朝9時半に迎えに来た車に乗って10時過ぎに皇居に着くと、宮殿内を豊明殿に案内され、そこに並べられた数多くの椅子の一つに腰を掛けた。周りの方はほとんど男性で、モーニング・コートに身を包んでいる。目の前は、宮殿の中庭である。残念ながらこの日は雨で、しかも風がますます強くなってきた。


2.当日の中庭と参列者の配置

 中庭には色とりどり、形も様々な「旛(ばん)」と呼ばれる旗が縦二列に立てられ、それらが風に吹かれてはためいている。事前の話では、中庭には王朝絵巻のように、武官の装束姿の「威儀(いぎ)の者」や、太刀、弓、盾などの「威儀物(いぎもの)」を持った者たちが並ぶはずだったが、この日は残念ながら雨や風の天候がそれを許さない。


当日の中庭。官邸広報ビデオより


 我々のいる豊明殿の左手が長和殿で、外国の元首や祝賀使節が座っておられる。それに相対する右手が正殿で、そちらに向かって白木の階段が造られ、その上り先の中央が松の間である。そこに、平安時代そのものの宮中の伝統装束を身にまとった天皇皇后両陛下が、それぞれ、京都御所から運ばれてきた「高御座(たかみくら)」と「御帳台(みちょうだい)」に登壇されて、即位を内外に宣明される手筈らしい。

高御座。官邸広報ビデオより


御帳台。官邸広報ビデオより


私がいた豊明殿。官邸広報ビデオより


 豊明殿にいて見上げると、大きなスクリーンがあり、天皇皇后両陛下のご業績として、各地の訪問や日本学士院賞授章式の模様を映し出している。画面が切り替わったときに、ほんの1秒にも満たないくらいの極くわずかな時間だけど、何とまあ、私自身が画面の右端に出てきてびっくりした。ああ、あの時のことかと思い当たったが、ビデオに撮られていたとは思わなかった。


3.儀式直前の様子

 さて、外の雨が、しとしととした弱い降りから少し強くなってきた中を、豊明殿の中で大勢の一人として椅子に座ってひたすら待つ。小1時間経ち午前11時になり、更に1時間経ってお昼になった。何も起こらない。更に待つこと30分ほどで、ようやく動きがあった。正殿に向かって左手の北渡から平安時代そのままの衣冠束帯姿で一列になって貴人が歩いてくる。黒い姿の人物に先導されて渋いオレンジ色の衣冠束帯姿の秋篠宮が歩いて来られ、それから十二単姿の同妃殿下、眞子女王、佳子女王が続く。シューシューという聞き慣れない音が聞こえると思ったら、これは絹による衣擦れの音そのものだ。


皇嗣一家のお四方は、松の間の中で高御座に向かって左手に立たれた。官邸広報ビデオより


常陸宮殿下ら他の皇族方が一列になって入って来られて、右手に立たれる。官邸広報ビデオより


 そしてこれら皇嗣一家のお四方は、松の間の中で高御座に向かって左手に立たれた。表現の順序は前後してしまったが、その前に首相、衆参議長、最高裁判所長官が一列になって入ってきて、皇嗣一家の後ろの位置に既に立っている。次いで、常陸宮殿下ら他の皇族方が一列になって入って来られて、右手に立たれる。女性皇族方はもちろん十二単姿で、誠に艶やかである。

皇嗣一家のお四方の側から高御座を見る。官邸広報ビデオより


黄櫨染御袍を着用された高御座の天皇陛下。官邸広報ビデオより


十二単姿で御帳台におられる皇后陛下。官邸広報ビデオより


高御座の天皇陛下と御帳台の皇后陛下。官邸広報ビデオより


 さて、その状態で待つ。カメラは、高御座を詳しく映す。頂上には鳳凰が、スカート部分には唐獅子のような図柄が配してあり、その間は紫色の幕で覆われている。午後1時を過ぎた頃、「チン」という合図で高御座と御帳台の正面がそれぞれ二人ずつの侍従と侍女によって左右に開かれた。すると、天皇皇后両陛下がそこにおいでになった。天皇陛下は専用の装束「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」を着ておられ、皇后陛下は十二単姿である。天皇陛下に、侍従が「おことば」の紙を差し出す。それを広げて陛下がお読みになったのが、次のお言葉である。


4.おことばと寿詞

(1)天皇陛下のおことば


おことばを読まれる天皇陛下。官邸広報ビデオより


おことばを読まれる天皇陛下。官邸広報ビデオより


 「さきに,日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより皇位を継承いたしました。ここに「即位礼正殿の儀」を行い,即位を内外に宣明いたします。

 上皇陛下が30年以上にわたる御在位の間,常に国民の幸せと世界の平和を願われ,いかなる時も国民と苦楽を共にされながら,その御心を御自身のお姿でお示しになってきたことに,改めて深く思いを致し,ここに,国民の幸せと世界の平和を常に願い,国民に寄り添いながら,憲法にのっとり,日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓います。

 国民の叡智とたゆみない努力によって,我が国が一層の発展を遂げ,国際社会の友好と平和,人類の福祉と繁栄に寄与することを切に希望いたします。」


 ちなみに、このおことばの時には、不思議なことに降り続いていた雨が止んで空には青い部分が広がり、あまつさえ虹が出たのには驚いた。

(2)安倍内閣総理大臣の寿詞


寿詞(よごと)を述べる安倍首相。官邸広報ビデオより


 これに引き続いて、安倍総理は、次のように寿詞(よごと)を述べた。

「謹んで申し上げます。

 天皇陛下におかれましては、本日ここにめでたく『即位礼正殿の儀』を挙行され、即位を内外に宣明されました。一同こぞって心からお慶び申し上げます。

 ただいま、天皇陛下から、上皇陛下の歩みに深く思いを致され、国民の幸せと世界の平和を常に願い、国民に寄り添いながら、日本国憲法にのっとり、象徴としての責務を果たされるとのお考えと、我が国が一層発展し、国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄与することを願われるお気持ちを伺い、深く感銘を受けるとともに、敬愛の念を今一度新たにいたしました。

 私たち国民一同は、天皇陛下を日本国及び日本国民統合の象徴と仰ぎ、心を新たに、平和で、希望に満ちあふれ、誇りある日本の輝かしい未来、人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ時代を創り上げていくため、最善の努力を尽くしてまいります。

 ここに、令和の代の平安と天皇陛下の弥栄をお祈り申し上げ、お祝いの言葉といたします。」


 続いて安倍内閣総理大臣の主導で万歳三唱が行われ、我々参列者がこれに唱和する。これに合わせ、「ドーン」、「ドーン」という腹に響く音がしたが、これは皇居に隣接する北の丸公園で陸上自衛隊が礼砲を21発打ち鳴らしたからだと知った。

 そういうことで、式次第が全て終了して帰途に着いたが、何しろ参加人数が多いものだから、私の番になって豊明殿から出たのは午後3時を過ぎていて、内閣府を経由して自宅に帰り着いたのは、4時頃になっていた。帰ってモーニング・コートを脱ぎ捨ててから、どうも喉が乾いたなと思ったら、この間、飲まず食わずだったことに気が付いた。世紀の行事に出席させていただいて、固唾を飲んで見ていたので、喉が渇くのも空腹すらも忘れてしまった。まあ、格好のダイエットになったかもしれない。


5.饗宴の儀

(第1回) その10月22日夜は、海外賓客248人を迎えた祝宴「饗宴の儀(きょうえんのぎ)」が宮殿で行われた。これは、両陛下が「祝宴に臨んで即位を披露し祝福を受けられる儀式」といわれる。

 宮内庁によれば、「天皇陛下は燕尾服を着用され、『大勲位菊花章頸飾』という最高位の勲章などを身につけられていた。また皇后陛下はローブデコルテというロングドレスを着用し、上皇后さまから受け継いだティアラや勲章を身につけられていた。まず『竹の間』でおよそ1時間にわたって出席者から順番に挨拶を受けられた。その際、挨拶を終えた出席者は『春秋の間』に移動し、食前の飲み物を手に秋篠宮ご夫妻など皇族方と和やかな雰囲気で歓談を行った。ここでは、宮内庁の楽部職員が『太平楽(たいへいらく)』と『舞楽(ぶがく)』を演じたという。また、『松の間』では儀式で使われた『高御座』と『御帳台』を間近で見る機会も設けられた。

 それから出席者は皇族方とともに食事会場の『豊明殿』に移り、午後9時すぎ、両陛下が部屋の奥にあるメインテーブルの中央に着席されて食事が始まった。食事は上皇さまの即位を祝った前回をほぼ踏襲した和食で、まつたけやくりなど秋の味覚も取り入れた合わせて9品が出された。食事のあとは『春秋の間』に場所を移し、食後酒やコーヒーなどが出されて、和やかに歓談が行われたということである。宮内庁によれば、この第1回目の『饗宴の儀』の食事は上皇さまの即位を祝った前回をほぼ踏襲する形で、次の和食が供された。この食事の後は『春秋の間』に場所を移して食後酒やコーヒーなどが出される中、和やかに歓談が行われた。」
という。

 ▽「前菜」は、かすごたいの姿焼きや蒸したあわび、ゆり根、くりなど(扇の形をした木の器に盛りつけ)
 ▽「酢の物」は、スモークサーモン
 ▽「焼物」は、アスパラガスの牛肉巻き
 ▽「温物」は、ふかひれやまいたけが入った茶わん蒸し
 ▽「揚物」は、かに、きす、若鶏の三色揚げ
 ▽「加薬飯」は、たけのこやしいたけが入ったたいのそぼろごはん
 ▽「吸物」の具には、伊勢えびのくず打ちやまつたけ
 ▽「果物」として、イチゴやマスクメロン、パパイヤ
 ▽「菓子」として、和菓子

(第3回) 饗宴の儀は、10月22日(火)の第1回に引き続いて25日(金)には第2回、29日(火)に第3回、そして31日(木)に最後の第4回が開催された。実は私は、もう退官しているので、そのうち第3回に招かれた。元議員や地方公共団体の長などと同じグループである。もうこの回になると、もちろんシッティング・ディナーではなく、内容も簡略化されている。

 まず松の間に案内されて、高御座と御帳台を間近で見た後、春秋の間に案内された。そこで、立ちながらワイン、日本酒、ビール、烏龍茶、ジュースなどをいただきながら知人友人と雑談していると、雅楽の演奏が聞こえてきた。演目は、「平調音取(ひらじょうのねとり)」、「五常楽急(ごじょうらくのきゅう)」、「越殿楽(えてんらく)」などである。


松の間で控えていると天皇皇后両陛下と皇族方が入ってこられた。官邸広報ビデオより


天皇皇后両陛下と皇族方が入ってこられた。官邸広報ビデオより


 そしてしばらくあって、天皇皇后両陛下と皇族方が入ってこられた。天皇陛下がご挨拶をされた後、参加者を代表してどなたかがお祝いを述べ、それから懇談に入った。天皇皇后両陛下は主に最前列に陣取った人たちとお話をされていたが、私は暫くぶりに会った友人と後方で話をしていたところ、思いがけず、承子女王殿下がおいでになって、しばし歓談申し上げることになり、とても光栄に感じた次第である。

鯛が入ったお膳


祝い物のお菓子


菊の御紋の入った杯


 それが終わり、帰り際に次の写真のような鯛が入ったお膳、祝い物のお菓子、そして記念品のボンボニエールをいただいた。宮内庁によれば、今回のボンボニエールは丸みを帯びた形で、直径6センチで高さは3センチ余り。表面には前回と同じように菊の御紋と「鳳凰」の模様があしらわれており、中には色とりどりの金平糖が入っている。前回の上皇様のときにいただいた2つのボンボニエールと今回のものを並べると対になるようにデザインされているという。

御紋付真鍮製銀鍍金仕上ボンボニエール


 なお、外国からの賓客には銀製のものを贈られたと聞いたが、我々がいただいたものは、どうも真鍮製らしい。もしかしてと思って入札情報を調べてみたところ、「御紋付真鍮製銀鍍金仕上ボンボニエール」は、2,150個の製造を入札にかけられ、1個当たり5,694円の単価で、銀座の「(株)宮本商行」という会社が落札したらしい。かくして最近は、何でもわかるから良いような悪いような・・・。

 ともあれ、世紀の慶事に参加することができて、誠に光栄に思った次第である。ところで、即位に伴うパレード「祝賀御列の儀(しゅくがおんれつのぎ)」は、台風19号の被害が大きかったことから、これを踏まえて11月10日に延期された。


6.祝賀御列の儀

祝賀御列の儀


 天皇陛下の即位を祝うパレード「祝賀御列の儀」が、平成元年11月10日午後3時から30分をかけて、皇居・宮殿 → 皇居前広場 → 桜田門 → 国会議事堂前 → 永田町 → 赤坂 → 青山一丁目 → 赤坂御所のコースで行われた。私も両陛下の晴れ姿を拝見するために行ったのだが、始まる2時間半前ではやや遅かったようで、残念ながら冒頭の写真を取ったあとは、あっという間に目の前を通り過ぎられてしまった。


7.大 嘗 祭

 11月14日の夕方から15日未明にかけて、大嘗祭が執り行われる。天皇が即位後はじめて行う新嘗祭である。これで、剣璽等承継の儀・即位後朝見の儀から始まる一連の行事が終わる。





(備 考) このエッセイ中の写真は、直前の5枚を除き、首相官邸の広報ビデオから複写したものである。







(2019年10月22日記、同29日、11月10日追記)


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ひたち秋祭り 郷土芸能大会

西馬音内盆踊り


1.日本各地の郷土芸能を呼ぶ

 日立のお祭りといえは、日本五大曳山祭りの一つである「日立風流物」が演じられる「ひたち春祭り」だけかと思っていた。ところが、「ひたち秋祭り」もあって、その最大の目玉は、日本各地の郷土芸能を呼んできて、それを演じてもらうことだという。今年の演目を見ていると、かねてから関心のあった秋田の「西馬音内(にしもない)盆踊り」があるではないか。この機会にとりあえず、どんなものかを観て、これは良いと思ったら、そのうち本物を西馬音内まで見物に行けばよいと思い、日立市へ出かけることにした。

 祭り当日の10月26日は、前日の台風による大雨の影響で千葉県から福島県にかけて河川の氾濫や山崩れなどが起きて、午前中は常磐線を走るスーパーひたちが運休になった。被害に遭われた方々には、心から哀悼の意を表する次第である。ところが、その時にはそれほどの被害が出たとはついぞ知らず、大雨の影響があったかどうか線路の点検を行うということだった。この催しは午後5時半からなので、それまでには運行されるだろうと思っていた。すると、お昼を回った頃に平常通り時刻表に沿って運転が始まった。

 日立駅に降り立って、会場の日立シビックセンターに行ってみたら、何と野天の会場である。ところが、今日は台風一過の晴天なので、助かった。比較的早く行ったので、たまたま隣り合わせた同年輩の地元の女性と話していたら、昨年は雨が降ってきて、カッパを着て観覧したそうだ。


2.西馬音内盆踊り

 いよいよ始まった。それでは、私が気に入った順にご紹介したい。まずは、何といっても本日のハイライトの「西馬音内盆踊り」である。秋田県羽後町の盆踊りで、黒い布で顔を隠して踊る、あの「亡者踊り」の写真を見て驚かない人はいないだろう。

西馬音内盆踊り


西馬音内盆踊り


西馬音内盆踊り


 いただいたパンフレットには、このように紹介してある。「西馬音内盆踊りは、国指定重要無形民俗文化財に登録されて、700年以上の伝統を守る日本三大盆踊りの一つです。豊年祈願や盆供養のために始められた伝統行事であり、勇ましくにぎやかに鳴り響く囃子に対し、優雅で流れるような上方風の美しい踊りの対照が特徴です。

 女性の踊り手で多く用いられるのが『端縫い衣装』です。端縫い衣装は四種も五種もの絹布を端縫ったもので、母から子へと代々受け継がれ、故郷に生きた女性たちの思いも同時に身にまとって踊るという意味を持ちます。

 衣装から踊り手の指先までもが美しい西馬音内盆踊りにぜひご注目ください。」


 実は、本番が始まる前に会場そのものを使ったリハーサルがあって、その時に金髪でアメカジ(アメリカン・カジュアル)という格好のいいお兄さんたちが出てきて、まるでジャズ風に手や足をくねくねさせて踊っていた。私の隣のおばあさんたちは、「わあーっ、カッコいい!」と呟いたほどだ。私は、かつて一世を風靡した原宿の竹の子族みたいなこのお兄さん達が、本当に700年も続く伝統の踊りを踊るのかと、いささか半信半疑になってきた。

 太鼓がドドンと響き、ヤートーセ・ヨーイワナー・セッチャーという掛け声で始まった。笛に合わせて歌われるその歌詞には、思わず笑ってしまった。秋田弁なので、詳しくはわからないが、断片的にわかっただけでも、抱腹絶倒の代物だ。例えば、

 「ホラいっぱい機嫌で踊りコ踊たば 皆に褒められた いい気になりゃがてホカブリ取ったれば 息子に怒られた」

 キタカサッサ・ドッコイナ

 「ホラ隣の嫁コさ盆踊り教えたば ふんどし礼に貰た 早速持ってきてかがどさ見せたば 横面殴られた」

 キタカサッサ・ドッコイナ

 「おらえのお多福ぁ めったにない事 びん取って髪結った お寺さ行ぐどって そば屋さ引っかがって みんなに笑われた」

 などと、延々と面白い話が続く。時々、意味が分かって、思わず笑ってしまう。これは、農民の憂さばらしそのものではないか。

西馬音内盆踊り


西馬音内盆踊り


西馬音内盆踊り


 舞台の上では、編み笠に「端縫(はぬい)衣装」というきらびやかな姿の女性や、あの黒い「彦三(ひこさ)頭巾」に藍染め衣装姿の男性や未婚女性が、一重の細長い輪を作って優雅に踊っている。手の動きが綺麗だ。ここまでを「音頭」というらしい。

 次に、彦三頭巾の男性たち数人が舞台から降りてきて、曲のテンポが早くなり、歌詞の中身も変わる。例えば、

 「お盆恋しや かがり火恋し まして踊り子 なお恋し」

 「月は更けゆく 踊りは冴える 雲井はるかに 雁の声」

 「踊る姿にゃ 一目で惚れた ひこさ頭巾で 頭しらぬ」

 「踊ってみたさに 盆踊習った やっと覚えたば 盆がすぎた」などという調子である。

 音頭のときは陽気でひょうきんな感じだったが、それから一転してこのような情緒と哀愁感あふれる歌詞に移行する。それと同時に、とりわけ男性たちのダイナミックで早いテンポの踊りに観客は魅了される。これが「がんけ」というものらしい。その漢字は、定まっていないようだ。

西馬音内盆踊り


西馬音内盆踊り


 彦三頭巾姿のその男性たちが、私のすぐ横で踊り出した。まずはその彦三頭巾が独特である。長細い黒い布の目の部分に二つ穴を開け、それを頭に被って豆絞りの鉢巻きをして留める。おどろおどろしい感もあるが、それもそのはずで、これは亡者を表しているそうだ。そもそもお盆というのは、死者を迎えて供養するための行事なので、本来の趣旨に沿ったものといえるが、やはり、いささか怖い気がするのもやむを得ないところだろう。

 ところで、この彦三頭巾姿の若者たち、音頭のときと違って、グルグル回る。しかも、人差し指を立てる動作も加わる。まるで、西洋式のダンスだ。思わず見とれていると、目の前にやってきて、何とか「どっこいショ」と言って脅かされる。面白い。それやそれやで、西馬音内盆踊りの魅力を十分に味わった。これは、本番を見に行く価値は十分にあると思う。


3.石見神楽

 石見神楽(いわみかぐら)については、私は全く知らなかったが、八岐大蛇伝説を演じる非常に魅力的な舞台だった。演者の皆さんは、この日は島根県益田市から16時間もかけて来ていただいたそうだ。

石見神楽(須佐之男命)


石見神楽(媼)


石見神楽(翁)


石見神楽(奇稲田姫)


 いただいたパンフレットによれば、「石見神楽は、神事を主とする小神楽と呪的な色彩を帯びた大元神楽とが融合したもので、遅くとも室町時代には島根県西部の石見地方一円に流行しました。江戸時代までは神職による神事であったものが、明治維新以降、土地の人々に受け継がれ、更に民衆の新しい感覚が加わり民俗芸能として舞われています。

石見神楽(大蛇)


石見神楽(大蛇)


石見神楽(大蛇)


石見神楽(大蛇)


 演目の多くは古事記・日本書紀が題材とされ、大太鼓、小太鼓、手拍子、笛の囃子が奏でる調子やリズムは、勇壮にして活発な八調子と呼ばれるテンポの速いもので、見る人を魅了します。

 大蛇(おろち)

 悪業により高天原を追われた須佐之男命は、放浪の旅の途中、出雲国で八岐大蛇の災難に嘆き悲しむ老夫婦と奇稲田姫に出会う。須佐之男命がその訳を尋ねると『八岐大蛇が毎年出没し、7年に7人の娘がさらわれてしまった。残ったこの娘も喰われてしまう』と告げる。一計を案じた須佐之男命は、毒酒で大蛇を酔わせて討ち取る。この時大蛇の尾から出た宝剣『天叢雲剣』は天照大神に捧げられ、三種の神器の一つとして熱田神宮に祀られている。」
とのこと。

石見神楽(須佐之男命が大蛇を退治)


石見神楽(須佐之男命が大蛇を退治)


 舞台では、奇稲田姫を中央に置いて、左手から媼、右手から翁が出てきて、嘆き悲しんでいる。そこに須佐之男命が通り掛かり、事情を聞いて八岐大蛇と戦う決心をする。そこへ大蛇が現れ、須佐之男命と大乱戦が始まる。太鼓がドドドーッ、ドドドーッと鳴り響き、その合間に合図があって、大蛇の形態が変化する。横長に絞った紐のようにもなれば、縦に渦巻きのようにもなる。それがまた、非常に見事なものである。最後は、須佐之男命が剣で大蛇の頭を一つ一つ斬り裂いて、大円団となるという趣向である。クライマックスでは、パチパチッと、花火まで使われる。いや、これも見事というほかない。もちろん、劇の主役は須佐之男命だが、8人の蛇役が一糸乱れずに演じるからこそ、この神話劇が成り立つ。さすが、出雲大社の近くの地元というほかない。それにしても、大蛇役は大変だ。劇が終わって被り物を取り去った姿は、いかにも疲れたという表情だった。


4.大川平荒馬

大川平荒馬


大川平荒馬


 大川平荒馬(おおかわだいあらま)は、青森県今別町からで、パンフレットによると、「津軽統一の故事にも由来し、馬と田畑を切り開いてきた苦労と喜びを、荒馬と手綱取りの絶妙な連携と華麗で迫力のある踊りで表現されます。扇ねぶたの山車とねぶたの衣装をまとったハネトが荒馬を囲み、『ラッセーラー』の掛け声と太鼓や笛の囃子に合わせて舞います。」という。

大川平荒馬


大川平荒馬


大川平荒馬


 花道をいきなり、弘前風の扇形をした「ねぷた」が出てきた。もう夜だから、灯りが眩しいほどで、綺麗なねぷたである。そして、青森ねぶた祭のハネト(跳人。派手な花笠を被って白い浴衣着にピンクや赤色が出るようにし、鈴をつけた独特な衣装の人)が、片足で2回ずつ飛ばながら、紅白の手網で荒馬を引っ張ってくる。荒馬を演ずる人は、身体の前に小さな木馬、身体の後ろに馬の胴体を付けて、結構早いテンポで左下、右下へと動く。掛け声は、青森ねぶた祭と同じく「ラッセーラー」である。とても威勢が良く、素晴らしい踊りだった。


5.神川豊穣ばやし

神川豊穣ばやし


神川豊穣ばやし


 神川豊穣(かみかわほうじょう)ばやしは、「埼玉県北部に位置する神川町において、1994年に町おこし太鼓教室をきっかけに新しい芸能として誕生しました。町に流れる神流川の豊かな流れと大地の恵みに深く感謝し、『全ての豊穣』作物も人間も豊かに稔ることを願う意味が込められています。現在、郷土芸能として定着することを目指して活動しています。老若男女が息を合わせてさまざまな演目を用意しています。10人で操る大獅子舞、子供や女性の太鼓や舞、力強く叩かれる四尺の大太鼓をご覧ください。」とのこと。



神川豊穣ばやし


神川豊穣ばやし


神川豊穣ばやし


 その説明の通りだと、わずか25年前に始まった芸能である。しかし、その割には、小太鼓、中太鼓、大太鼓があり、また巨大な獅子が出てくるなど、非常に充実している。思わず感心して見ていた。特に巨大な獅子は、他では見たことがない。大勢の人が一心同体となってよく動かしているのは素晴らしい。また、大太鼓の周りを打ち手がいかにも楽しそうに打ちながら踊りまわっている。結構なことだ。


6.津軽三味線

 水戸市から、佐々木光儀一門の津軽三味線奏者がやって来て、ペペペン、ペペン、ペンと、お馴染みの演奏を披露してくれた。まあその迫力といったらない。あの広い青空会場全体に響き渡る。これは、写真よりはビデオに撮っておくべきだろうが、著作権がどうなっているのか不明だし、私のホームページ内では取り扱いづらいので、いつも通り写真だけにしておこう。

津軽三味線。高橋拓美さんと高森彩花さん、そして師匠の佐々木光儀家元


 この日は、佐々木光儀家元とその一門、特にまだ大学生の高橋拓美さんと高森彩花さんが演奏してくれたのだが、この若いお二人は、津軽三味線全国大会で日本一に輝いたそうだ。それもそのはずで、6歳、7歳の頃から修業を積んできているという。佐々木光儀家元は、こういう方々をはじめとして、プロの奏者も何人かを育て上げられたようで、これまた素晴らしいことである。






 ひたち郷土芸能大会(写 真)






(2019年10月26日記)


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