徒然291.歳をとってからの怪我

神代曙


駿河桜


小松乙女


 つい2日前に東京の桜の開花宣言が行われて、いよいよ来週には東京の各地で染井吉野の桜が咲き誇る姿が見られそうだ。あちこちで色々な桜の美しい写真を撮りたいと腕がなる。早速であるが冒頭の3つの桜は、本日現在は三分咲きの国立劇場(千代田区隼町)の桜である。上から順に、江戸彼岸の仲間でありピンク色の濃い美しい花を咲かせる「神代曙」、白っぽくて花びらが大き目の「駿河桜」、白とピンク色の絶妙なバランスやその儚げな姿から、いつまでも見ていたくなるような「小松乙女」である。

国立劇場(千代田区隼町)の桜


 話は変わるが、もう60歳代の後半に入ると、同級生の会合では、再就職や孫の話題は終わり、病気や怪我、親の介護などの健康の話が多くなる。先日は怪我の話だった。昔から眼鏡をかけている人が、「最近は眼鏡が合わなくなったせいか、階段を降りるときに足元が見えづらくなってきた。特に最後のステップがあるのを見落として、もう平地に着いたと思って足を出すと地面がなくて、バランスを崩して大きく転んでしまった。」などという。幸い、膝を擦りむいた程度で済んだそうだから良かったものの、危ないところだった。

 すると、別の人が、ニューヨークの街角で、歩道の段差につまずいて、顔から突っ込んでしまったという失敗談をし始めた。普通なら片手を無意識に出して「かばい手」をするところだが、両手はそれぞれ荷物を下げていて、ふさがっていたという。歩道に顔から激突した結果、顔はあちこち傷だらけで、眼鏡は粉々に割れたそうだ。しかもその直後に講演の約束をしていたので、顔中、絆創膏だらけの姿で会場に行って講演をしたというから、大したものだ。


小松乙女


 実は私も、6年ほど前に真冬にテニスをしているときに、怪我をしたことがある。試合中に短く打たれたボールを拾おうと前へダッシュした際、肉離れを起こしたのである。病院で診てもらったら、脚の太腿の裏の下腿三頭筋の上部付け根付近を損傷したそうだ。アキレス腱ではなくて良かったが、それでも6週間ほど、脚全体を包帯でぐるぐる巻きにされて、日常生活に不自由したことがある。

小松乙女


 また別の同級生だが、東京駅でエレベーターに乗っているときに、落ちてきた重たいスーツケースに当たってしまい。大怪我をして、数ヶ月入院した人がいた。帰省途中の女子学生が落としたそうだが、全く運が悪かったとしか言いようがない。とりあえず、彼は治ったものの、以前と比べて全般的に元気がなくなったのが気になる。

小松乙女


 いずれにせよ、歳をとってからの怪我というものは、回復に時間がかかるだけでなく、元のように戻る保証もない。だから、怪我をしないに越したことはない。それにしても、近頃、街を歩くと、歩きながら前を見ずに携帯やスマホの画面に見入っている人が多い。どうかすると、猛スピードで走る自転車に乗っていても、画面から目を離さない輩がいる。これなどは非常に危なくて、事故を起こすのは早晩必定だと思うのだが、本人は実際に起こすまで、全く気が付かないかもしれない。そういう事故に巻き込まれないよう、とりあえず気をつけたい。





(2017年3月26日記)




老人ホームと義理の母

根津神社に飛来した鷺


1.義理の母の具合がとても悪いものだから、この週末は、静岡に来ている。義理の父母は、もともと、3階建の自宅の2階部分に居住していた。ところが、80歳代半ばを過ぎて足腰が弱った。エレベーターの設置ができればよいのだけど、建築規制やスペースの問題でそれも難しくて、ついに老人ホームに入居することを決断した。数年前のことである。一般には、入居するかどうかで千々に悩むところだ。しかし母は、もうこうして住むのは限界だと進んで決断し、父も引き連れて入居したのは、さすが、元経営者だっただけのことはあると、感心した。

 家内が探した県内の老人ホームのうち、いくつかを比べて候補を選び、体験入居して決めたのが、今の老人ホームである。茶畑だったところを開発したので、まず日当たりがよい。2階に上がれば、食堂兼集会室の全面が1枚の大きなガラスになっていて、その正面には真正面に富士山がドーンと鎮座している。もう、絶景としか言いようがない。富士山は、冬になれば白い綿帽子を被る。夕方になれば、夕陽でピンク色に染まって、実に贅沢な景色を味わえる。


ホテルから見た富士山


 しかも、この老人ホームは、本当に親切で、至れりつくせりだから、ほとほと感心する。食事もメニューを見せてもらうと、実に充実している。このメニューの写真にあるように、家内が介護に行って留守の時の私の食事内容より、はるかに良い。加えて、季節の行事、お誕生会、その時々のテーマでイベントを催してくれる。機関紙といってもカラーコピー数枚のものだけど、そうしたイベントに写真入りで入居者が登場するから、様子がよくわかる。また、算数ドリルや漢字ドリルをよくやってボケ防止に努めてくれるし、最近の研究で誤嚥性肺炎の防止に効果的だとわかれば、入居者に「パピプペポ」などと言わせて口の訓練を早速取り入れる。そうかと思うと、退院したばかりでリハビリが必要な入居者には、その人に合わせて理学療法士が一生懸命に訓練してくれて、寝たきりにならないように配慮してもらえる。

老人ホームの食事のメニュー


 ちなみに、入居に当たって老人ホーム側に確認したのは、有り体に言えば「看取り」をしてくれるかどうかである。もう家も売却してしまうので、看取り段階に入ったら家族の元に返すというのでは、こちらが困る。そもそも静岡と東京だから、離れている。家内もそれなりにいい歳になっているし、必ずしも体調が万全ではないから、お母さんより、家内が先に倒れてしまっては順序が逆だ。そう思って、家内が尋ねた。すると「看取りはするし、実例もあります。ただし、それなりの料金はかかります。」とのこと。もちろんそうなると、料金などは二の次であるから、この答があったから、入居を決めたようなものだ。

老人ホーム近くの姫椿


 この老人ホーム運営会社は、比較的最近に静岡の地元で始め、評判が良いものだから、県内であちこちに増やしている。しかも、あまり儲け主義ではないようで、先日は合理化で資金に余裕ができたということで、入居料を若干値下げしてくれたほどである。現在入居している老人ホームは、管理者が大病院の元看護部長の方で、非常にしっかりされている。ただ、入居者も職員も、かなりの出入りがある。入居者の方は、料金の面で限界を感じて退去したり、お亡くなりになることで説明もつく。しかし、職員の方々は、ざっと見るところ年間3割くらいは入れ替わっているものと思われる。給料が安いせいか、仕事がきついためか、あるいは夜間の勤務があって辛いせいか、まあ、そういう理由なのだろう。

 ここ1年ほどの変化として、これまではそんな入居者はいなかったのに、方針が変わったためか、手のかかる入居者が入ってくるようになったように思う。たとえば、男性で80歳くらいの人は、認知症のせいでまともなコミニュケーションをとるのが難しいのだけれども、その代わり身体は誠に頑丈で、外へ出て、散歩というよりランニングをしたがる。老人ホーム側としては、そんな外でのランニングに付き合う人手もないし、事故でもあったら困る。だから、建物内に留めようとする。この人は、口に出すことはできないが、それが不満なようで、玄関を見渡せるソファに身体を沈め、誰かが玄関を開けたその隙に、あっという間に、その脇を脱兎のようにすり抜けて飛び出す。それがまあ速いものだから、若い職員でもなかなか追い付けないらしい。こうなると、もう笑い話の類いだ。

 あるいは、昼間だけだが、どういうわけか大声で居室の戸締りを確認して回る90歳代のおばあさんがいる。「この部屋、戸締りよーし!」という調子である。うるさくてかなわない。でも、非常に熱心に職務に取り組んでいるのには、感心する。だから、もともと、一体どういう職業の人だったのかと考えたりする。この人が自室に戻ると、シーンとした元の雰囲気に戻る。 部屋の中でも、やっているのだろうか?


寒緋桜


 そうかと思うと、夕方になるとそわそわするおじいさんがいる。職員が一計を案じて一杯飲み屋のカウンターらしきものを作り、夕方になって「さあどうぞ。お酒ですよ。」と言ってコップに入れた水を出すと、嬉しそうに飲み干したそうだ。なるほど、老人ホームも、色々と苦労する。そういう苦労を通じて、老人ホーム運営のノウハウを蓄積しているそうだ。

 でも、そういうところに入って、至れりつくせりという介護を受けていても、義理の父は、3年前に脳梗塞が原因で亡くなってしまった。享年88歳だった。2年にわたる闘病生活の末だったが、これが仮に自宅での介護であったならば、90歳近いおばあさんである母一人で対処しなければならなかったので、色々と大変だったろうと思う。そういう意味で、老人ホームにいて、つくづく良かったと思う。しかし、今度はその母の番になってしまった。


日本平ホテルから見る富士山


日本平ホテルから見る富士山


 家内は、両親が老人ホームに入居して以来、毎週、東京から静岡に通って様子を見に行っている。特に、父親が亡くなってからは、母一人では寂しかろうと、母の体調が良いときは、介護タクシーを頼んで老人ホームから連れ出すことにしていた。話を聞くと、駅前のセンチュリーホテルの角部屋に泊まって、季節ごとの富士山を見て、ホテル内の中華や焼肉レストランで食べてもらう。そういうときは「美味しいね。美味しいね。」と言ってくれるので、心から嬉しくなるそうだ。あるいは、風景ホテルと言われる日本平ホテルに上がって、富士山と清水港を眼下にケーキを食べる。そういう時のおばあちゃんは、食欲がことさら進んで、ショートケーキを平らげるという。また、葵タワーという高い建物の最上階で夜景を眺めながら、よもやま話をする由。

センチュリーホテルから見る静岡市内


日本平ホテルから見る富士山


  老人ホームに帰ると、他の入居者から「良いわね。」と言われるそうだ。「親孝行、したい時には親はなし」などと言うが、これも最後・・・いや最後から二番目くらいの親孝行と思えば、今のうちに十分しておけば良いと思う。手間や費用の問題ではない。親との心のつながりを大切に思うかどうかの問題だ。それを大事にする家内は、我が家の誇りである。

 ところで、老人ホームに入居すれば、家族の手が離れるかといえば、必ずしもそうではない。眼がおかしいといえば眼科に、腰が痛いというから整形外科に、定期的な歯石除去で歯科医院に連れて行かなければならない。ちなみにこういう医者通いは、老人ホームの人は連れては行ってくれるものの、医者と交渉したりやりとりするのは家族でなければならないので、老人ホームでは対応できず、どうしても家族の責任となる。そういうことで、老人ホームに入居したらそれで全面的に任せきりというわけにはいかなくて、家族の出番もかなりあるのである。そのため、両親が老人ホームに入ってから、ほとんど毎週、欠かさずに東京から静岡へと通っている。これには、頭が下がる。


ひな祭りの季節


2.さて、私が最初の見舞いに行ってから、2週間が経った。2週間前のひな祭りの頃は、老人ホームの医者が「24時間モニターができる心電図を付けたら、すごく悪い。これでは、いつ心臓が止まってもおかしくない状態だから、覚悟しておいてください。」という。それは大変だと、老人ホーム側は「看取り体制」というのに入った。要は、ご臨終というわけだ。現に、食べられない、水も飲めないという日々が続いていた。外は、ひな祭りで華やかな雰囲気だったが、我々家族、特に家内には、重苦しい日々が続いた。

 家内も最初は、母親のすぐ横にベッドを置いてそこに寝て、トイレの世話をしたり、胸が痛いという訴えに対応したりしていたが、もう2晩で自分が疲れてヘトヘトになり、自らが倒れそうになった。そこで、引き続き、毎日、老人ホームに通い詰めることにするが、四六時中一緒に過ごして看護するのはさすがに止める。代わりに、近くのホテルに滞在して、そこから適宜通うスタイルにした。つまり、昼間は老人ホームでなるべく一緒に過ごすようにする。しかし夜間は、スタッフが1時間おきに様子を見てくれるので、それに任せるのである。それでも、結構、気力と体力を使う。だから、これが仮に自宅介護だったならば、それこそ共倒れだっただろう。

 当初、義理の母が、飲まず食わずで、心臓の拍動が不安定で、体温も急に上がって37度から38度の状態が続いたときは、私も何回かお見舞いに行って、そのたびに、もうダメかと思った。しかし、眼を開けているときの意識はしっかりしていて、私が顔を出すと「ああ、よく来てくれたねえ。」と言ってくださる。でも、続いて「胸が苦しいのよね。私、死んじゃったら、どうなるんだろう。」と聞かれる。聖職者ではないから、これは、なかなか答えにくい。言いよどんでいると、家内が脇から「人は必ず死ぬの。でも、その後は誰も死んだことがないから、ここに居る人には分かりません。たぶん、おじいちゃんのところに行くんでしょ。」などと答える。それを聞いていた看護師さんが「よくそんなこと、はっきり言いますね。」と、呆れたりする。確かに、他に言いようがない。

 そうしているうちに、母が「ああ、心臓が痛い。」と言って、胸を押さえる。こちらは、ああ、心臓が止まってしまうと、気が気でない。ところが次の瞬間、それが治って「なかなか、楽には死なせてもらえないねえ。」とポロリと言うから、不謹慎だが、つい笑ってしまう。看護師さんが「こんなに今際の際まで、意識がはっきりしている人はいませんよ。早く、自然のモルヒネが出て、お楽になるといいのですが。」と、いささか同情の眼差しで言う。

 施設長さんと相談して、痛がる時には、掛かりつけのドクターに、麻酔を打ってもらおうとした。ところが、そのドクターは「この状態で痛み止めを打つと、それがショックになって、命を落とすかもしれません。」と言って、なかなか肯んじない。これは、責任逃れかもしれないとも思うが、本当かもしれない。ベッドでは、母が痛がり続けているので、せめてこれくらいは、ということで、睡眠薬を処方してもらうのが、せいぜいだった。

3.そういう状態で、毎日毎日、いよいよ明日はもうダメかと思いつつ、沈鬱な気分で過ごしていたのだが、7日目から、家内が持って行ったお土産の果物やお菓子を口にするようになってくれたし、高カロリーの液体も飲むようになった。最初は、ほんの数口から始まって、みるみるうちに以前の8割ほどの食事をするまでになった。まさに、驚異的な回復である。それだけでなく、この数日間は、車椅子の上ながら、いつもの通り、皆と体操をしたり、脳トレの算数や漢字の書き取りもするようになった。家内が、老人ホームの担当者の了解を得て車椅子で外に連れ出すこともした。施設長さんに言わせれば「私は40年近く看護師をやっていますけど、こんな方は、初めてです。」というくらいに元通りになった。驚くばかりだ。

 もちろん、今でも胸が痛いということがしばしばある。そういうとき、海老のような形に体を曲げる。それを見ているこちらは心が痛むが、何もできない。測定データを取ると、血圧が上がっていることが多い。でも、そのうち30分もすれば呼吸が整ってくる。そうすると自然に姿勢が仰向けに戻って、気持ち良さそうに寝入り始める。ここ数日間は、そういうことの繰り返しである。今日など、家内が見守っていると、急に「いったん大きく目を開けるなり『治った!』と元気に言って、またスッと気持ち良さそうに寝てしまった。」という。まるで冗談のような話だが、とりあえず安心した。ちなみに、老人ホームの人によれば、看取り状態でこれまで最大1年間も頑張った人がいたというが、この調子で記録を更新してくれるのではないかと、秘かに思っている。

 ただ、ときどき、胸が痛いと訴えるのを目にすると、なすすべもないだけに、こちらも、それこそ「切なく」なるのである。人生の最後の瞬間を平和に過ごし、すやすやと眠るように幸せに去るというのが、一番、望ましいと思う。功なり名を遂げた方だし、ひ孫も3人いて、それぞれの顔も見たし、人生に満足していると、ご自分では語っておられる。しかし、どのようにこの世を去るかというのは、いずれにせよその人の運命次第で、最後まで運が良いとは限らない。これもその人の人生の一つのエピソードであり、人それぞれなのだろう。そういうことを今回、考えさせられた。

 私の場合、何年先になるのか知らないが、今際の時がいよいよ来たら、誰にも迷惑や心配をかけずに、できれば、満足と平穏な気持ちのままで、痛みとは無縁で大往生といきたいものだ。日本平の頂上から、紅梅白梅の間より顔を出す富士山の美しい姿を見て、つくづくそう思った。


日本平ホテルから見た富士山






(2017年2月26日・3月14日記)




東三河いいじゃんツアー

吉田神社の手筒花火


   目  次

 1.愛知県の東三河
 2.二川宿本陣資料館とひな祭り
 3.豊橋カレーうどん
 4.安久美神戸神明神社の奇祭「鬼祭り」
 5.豊橋聖ハリトリス教会
 6.豊橋市役所展望室と豊橋公会堂
 7.吉田神社の手筒花火
 8.御油の松並木
 9.豊川稲荷
 10.ヤマサのちくわ
 11.終わりに当たって

1.愛知県の東三河

 2月11日、東京駅八重洲北口に朝早く集まって、いよいよ「東三河いいじゃんツアー」が始まった。午前8時33分のひかりに乗ると、新横浜駅を出たらもう次の停車駅は豊橋駅だ。途中で見た富士山には雪が被り、非常に美しかった。1時間23分で、もう豊橋駅に到着し、バスに乗り込む。すると、愛知県庁東三河総局(東三河県庁)の課長さんたちが待っておられて、趣旨を説明された。何とこれは、ふるさと創生事業の一環として行っているそうだ。内容が実に盛りだくさんだったことから、旅行を終えてこうして振り返ってみると、我々が拠出した旅行費用は私の見るところおそらく3分の1程度で、残りは国と愛知県が折半したという。思わぬところで、税金を使わせてしまった。


新幹線車中から見た富士山


 東三河の人口は、2008年の77万人をピークに緩やかに減少しつつある。今ではたぶん75万人を切っており、2040年にはおそらく66万人程度になると推計されている。そういう中、東京圏在住の人に東三河を旅してその良さを知ってもらい、ひいては自分で来て定住してもらうという心づもりだそうだ。

 実は私も名古屋つまり尾張の出身である。ところが、同じ愛知県とはいえ、この三河には学生時代に登った鳳来寺山を除いて、来たことがなかった。こちらに来て分かったのだが、だいたい言葉が尾張とは全く違っている。尾張弁は、河村たかし市長のような「ニャー」とか「キャー」とかいう発音が耳に残る話し方だが、この三河は、むしろ静岡弁に近い喋り方をする。


2.二川宿本陣資料館とひな祭り

 最初に訪れたのが、豊橋市・二川宿本陣資料館である。その主任学芸員である和田実さんからご案内いただいた。先の東京でのセミナーで講演をされたので、我々も大体の知識はあるから、今日はその確認のようなものだ。東海道53次の中、江戸から数えて33番目の二川宿は、本陣が一つしかない小さな宿場である。「本陣(大名の宿)、旅籠屋(庶民の宿)、商家の3ヶ所を同時に見学できる日本で唯一の宿場町」とのことで、今はちょうど、ひな祭りが行われていた。


本陣の殿さまの部屋


 和田さんの細かい話が記憶に残る。たとえば、大名行列は1日40キロメートルという強行軍も珍しくないそうで、真夜中に着いて早朝に出立するということもあり、そういう場合は宿の人は寝ずにお世話をしたという。中には宿代や特に食事代を支払わずに行ってしまう大名行列があって、不足の分につき追加の請求書を作って、次の宿場まで追いかけて支払ってもらったそうだ。あるいは、支払いの悪い大名がいて、宿屋側がその宿帳に文句を書き連ねているとのこと。いつの時代も人間くさいものだと、笑ってしまった。

御殿飾りの雛人形


つるし飾り


 二川宿のひな祭りは、江戸時代からのものも含めて、二川宿の旧家に伝来した内裏雛や御殿飾り、つるし飾りなどを展示するもので、実に豪華で素晴らしい。特に驚いたのが、「御殿飾り」で、お雛様とお内裏様が御殿の中に入っている。この御殿というのは、まるでタイのパゴダの装飾を思い起こさせるような派手で豪華なものであるが、そのほかは普通の段飾りとなっている。庶民の子供が遊んだ土人形のお雛様があったし、それに男の子も、学問の神様である天神様を祭って、3月に女の子と一緒にひな祭りを祝い、加えて5月にも端午の節句を祝ったそうだ。

つるし飾り


旅籠屋(庶民の宿)


 また、様々な端切れで作った「つるし飾り」も、いつまでも見ていたい気がするほど魅力的である。ただし、写真を撮るには苦労する。全体を撮ってもただ様々な色彩だけが目立つだけで、個々のつるし飾りの造形の美しさがわからない。その反面、一つ一つを撮ろうとすると、全体の美のバランスが撮れないというジレンマがある。

土蔵を覆う板塀にピンが刺さっている


 「商家 駒屋」では、妙なことに感心してしまった。それは、土蔵を覆う板塀に、ピンが刺さっていることである。その理由を聞くと、これは、土蔵を覆う漆喰を守るためのもので、漆喰壁は火事があっても、中のものが焼けないように守る。しかし、雨風に弱いことから、普段は板塀で守らなければならない。ところが火事のときは、板塀だと燃えてしまう。それだと防火壁の役割を果たさないので、このピンを取り付け、いざ火事が迫ってきたときは、ピンを外すと板塀はバラバラと落ちるという仕掛けになっているそうだ。


3.豊橋カレーうどん

 ご当地グルメで、豊橋カレーうどんを味わってほしいというので、ありがたくいただいた。ざっと見たところ、カシワ入りの普通のカレーうどんで、ウズラ玉子が3個も入っている以外は何の変哲もないカレーうどんである。同時に配られた食べ方の第1条では、「器の底へ箸をさして混ぜないように」とされている。ネギを掛けて普通に食べ始めた。うどんがしっかりして少し歯応えがあるから、私の好みだ。


豊橋カレーうどん


 パクパク食べていく。すり鉢状の器にたっぷりとあったカレーのいわば「水面」がどんどん下がっていった。何も出て来ないと思っていたところに、やっと鉱脈を探し当てた。ご飯だ。カレーの層との間に何か入っていると思ったら、とろろである。なるほど、これがカレーとご飯が混ざるのを防ぐ役割を果たしているらしい。さて、これも食べてと・・・ああ、お腹がいっぱいになった。美味しかったが、ダイエット中の身には、いささかよろしくなかったかもしれない。

豊橋カレーうどんの食べ方


 豊橋カレーうどんは、10年ほど前に豊橋観光協会の方が発案されて、これまでに約140万食が出たという。ご本人に「どうやって考えついたのですか。」とお聞きしたら、「カレーうどんを食べていて、カレーが残るともったいないと思っていたので、ある日、突然、思い付いたのよ。」ということだった。なるほど、良いアイデアというものは、何でもないときに考え付くものらしい。


4.安久美神戸神明神社の奇祭「鬼祭り」

 この宗教行事は、およそ1,000年前から続く神事だそうだ。赤鬼と天狗の「からかい」と称して、ゆったりとした動きで1時間以上ものんびりとやっていると思ったら、突然、赤鬼が走り出し、同時にあちこちで叫び声がしたかと思うと見物人目掛けて物体が空中を飛び、白い粉が一面に投げつけられて、場面が急転回した。参道全体に白煙が立ち、ひどい人は髪の毛から爪先まで真っ白になってしまった。地元の人たちは先を争うようにして袋を拾い、進んで粉を浴びて白くなろうとするが、何も知らない我々観光客は、ただひたすら逃げ惑うだけだった。ああ、びっくりした。「これこそ、天下の奇祭なり」といわれるだけのことはある。


社殿の前に集まる見物人


参道全体に白煙が立つ


 豊橋観光コンベンション協会のHPをそのまま引用させていただくと、「毎年2月10日・11日には、安久美神戸神明社の祭礼、天下の奇祭『鬼祭』が行われます。このお祭りは、国重要無形民俗文化財のお祭りで、日本建国神話の田楽の舞で豊年と厄除けの祭として約1000年前から毎年行われた尊い神事です。荒ぶる神の赤鬼が悪戯(いたずら)をするので、武神天狗が懲らしめようと神の前で秘術を尽くし戦い、最後に和解して赤鬼が罪の償いに厄除けのタンキリ飴を撒きながら嵐のごとく境外へ飛び去ります。多くの神事が行われるが、祭りのクライマックスとなるのは『赤鬼と天狗のからかい』です。暴れる赤鬼を天狗が退治する無言劇は天狗の勝利となるが、敗北した赤鬼は若衆等と共に、白い粉とタンキリ飴をまき散らし境外に走り出して行きます。この粉を浴び、タンキリ飴を食べると厄除となり夏病みしないと言われ名物となっています。」とのこと。

赤鬼(荒ぶる神)


天狗(武神 猿田彦)


 そういうことだったのか。するとあの1時間近くやっていたパントマイムは「赤鬼(荒ぶる神)と天狗(武神 猿田彦)のからかい」で、宙を飛んだ物体はタンキリ飴で、白い粉の正体はうどん粉(飴粉)だったようだ。それにしても、白い粉は鳥居よりも高く空を飛び、見物人の最前列にでも居ようものなら、もろに直撃を受ける。同じツアーの参加者のご夫婦が、二人ともその直撃弾を浴びて、髪の毛、顔、コートまで、体中、真っ白の粉まみれとなってしまった。これは、堪らない。思い出に残るどころか、一生忘れないだろう。しかし、翌日には白い粉をすっかり洗い落とされて、ご機嫌で旅行を続けられていたから、心配は杞憂だったかもしれない。

白い粉は鳥居よりも高く空を飛ぶ


体中、真っ白の粉まみれとなってしまった


 ちなみに、私も背中に多少、白い粉を浴びた。前を向いてカメラを抱えていた姿勢から、事が起こったのでとっさにカメラを守りつつ後ろを向いたので、それほどの被害はなかったようだ。ついでにタンキリ飴も口に出来たので、今年の夏は大丈夫だと信じよう。なお、白い粉は、1トン以上も用意されるらしい。

 それにしても、赤鬼と天狗のからかいが、この行事の肝のようだ。赤鬼のスタイルが面白い。胸に2つ突き出ているのは、あれはもしかして乳首か?どうもそうらしい。なぜ、白い紐で縛られているのか?それも難しい結び方でと思ったら、毛鬘といって、隆々たる筋骨を表すそうだ。髪の毛はベージュ色で重そうだと思ったら、麻製で、5キロ近くあるという。雨に濡れでもしたら大変だ。背中に榊と蜜柑が刺してあるが、これは御幣に刺した橙で、子孫繁栄のシンボルだという。腰巻きは、鬼らしく虎模様だ。紅白の棒を持っているが、これは撞木で、赤鬼の武器だという。歩き方は独特で、高足取といって、足を交互に後ろに跳ね上げて飛び跳ねるようにする。これで真夜中まで演技するのだから、さぞかし疲れるだろうと同情する。

 天狗の方は、普通の武士の格好で、重さ20キロもの鎧を着て、太刀を背中に付け、薙刀を武器とする。赤鬼と間合いを詰めたり離れたり、鳥居の近くまで行ったと思ったら社殿前に戻ってくるというのを繰り返す。途中で雪が降ってきて、それが止んでもまた同じようにのんびりとやっている。私の位置からは、残念ながらよく見えなかったが、赤鬼が手を変え品を変え天狗を挑発しているらしい。時代劇のような立ち回りを想像していたが、全く違ってこれはパントマイムだ。よくよく見ていれば、赤鬼が日の丸の扇子に合わせてそちらの方へとジグザグに動いたり、撞木を使ったりし、これに対して天狗が馬鹿にしたように上を向いたりと、何やら面白い所作がある。

 天狗に追い詰められた赤鬼は、堪えきれずに、警固衆の「アーカーイ」という声とともに二の鳥居まで逃げて行き、これと同時に天狗は社殿前の八角台に上がる。赤鬼は社務所に好物のタンキリ飴を納めて境内から逃げ出す。これと同時に改心した赤鬼が置き土産として、飴と粉が撒かれるという次第である。


子供の頭を撫でる黒鬼


御的の神事


 出演者として、赤鬼、天狗のほか、黒鬼、青鬼、司天師、小鬼がいるようだが、私が見たのは黒鬼である。黒鬼は、からかいの神事が行われているそばで、大榊の傍に立ち、子供の頭を撫でていた。そうすると、病気にならないという。なお、私は、からかいの神事の前に行われた弓を射る「御的の神事」も見物させていただいたが、あれだけの見物人が参道の両脇に迫っている中で、事故が起こらないように、よく練習されていると感じた。


5.豊橋聖ハリトリス教会

 約100年前に建築されたロシア正教の聖堂で、木造であるが、奇跡的に戦禍を免れて現存していて、国重要文化財に指定されている。神父さんのご厚意で、建物の中を見学させていただいたが、著名な聖像画家山下りんの聖像画や、日露戦争で捕虜になったロシア兵が描いた画がある。正面の祭壇にはイコンが多く飾られ、非常に立派なものだった。


豊橋聖ハリトリス教会


 神父さんが冗談めかしておっしゃるには、「昔、ロシアの皇帝が、宗教を取り入れようとして部下を世界各地に派遣した。部下は、カソリックについてはあまり良い印象を受けなかったので、ギリシャ正教とイスラムを勧めた。皇帝はイスラムに傾きかけたが、部下が耳元で『ムスリムになると、酒は飲めませんよ』と囁いたので思い直し、ギリシャ正教になった」という。

 私が「なぜ、この豊橋の地にロシア正教の聖堂があるのですか」と聞いたところ、神父さんは、「実は明治の頃、ロシア政府が布教をしようと、日本に使節団を派遣し、200の主要都市にこうした建物を作ったんですよ。そのうち現存するのは70で、ここもその一つです。御茶ノ水にもニコライ堂がありますが、残念ながら関東大震災で大きな被害を受け、再建されたものです。」とおっしゃる。知らなかった。また、「日露戦争のとき、松山と並んでここ豊橋にもロシア兵の捕虜収容所があり、ロシア兵たちは、ここで祈ることを許されて、精神的に非常に救われたといわれています。」とのこと。


6.豊橋市役所展望室と豊橋公会堂

 豊橋市役所13階に展望ロビーがある。そこへ上がって、市内を見渡した。目の前を流れる大きな河川は豊川「(とよがわ;濁音)」、豊橋市と豊川市は、「(とよかわ;清音)」だそうだ。豊橋の主要産業は、戦前は養蚕業、戦中は軍都だったが、軍部解体の後は、大規模農業と自動車輸出港、輸入港だという。


豊橋市役所


 大規模農業というのは、たとえば電照菊のように、他の産地と比較して、安価で大量に供給するのを得意としているらしい。それが功を奏して、年収3,000万円程度の農家が結構あるという。

豊橋市内の眺め


 自動車の輸出は、近くにトヨタの田原工場やスズキの浜松の工場があるから理解できる。しかし、輸入港とは意外だと思っていたら、日本のフォルクスワーゲン車は、全てこの豊橋で陸揚げされているそうだ。そういえば、この豊橋は東に行くにも西に行くにも、大消費地の中間に当たる。

豊橋公会堂の鷲の彫刻


豊橋公会堂


 豊橋公会堂は、1931年に竣工したロマネスク様式の建物で、イスラム建築を思わせるドームに実に凝った鷲の彫刻が飾られている洒落た公会堂である。1945年の空襲では、占領行政を考えて意図的に爆撃目標から外されたらしく、破壊を免れた。ステンドグラスが印象的だった。訪れたその日は建国記念の日だからと、奉賛会によってカラオケ大会が行われていた。そのつながりの意味がよくわからなかったが、ステージで歌っていた人は、本当にお上手だった。


7.吉田神社の手筒花火

 東三河の手筒花火は、文献に出てくる最初の記録が永禄8年(1558年)で、今川義元の家臣の吉田城代だった大岡肥前守が吉田神社に奉納したとある。それ以来、この地方で脈々と続けられている伝統芸能だそうだ。つまり、鬼祭りが1,000年の歴史があるように、こちら手筒花火は、500年の伝統があるようだ。


東三河の手筒花火


手筒花火の現物


 吉田神社の手筒花火は、本来なら9月の行事だが、特にこの2月に特別サービスとして、2本だけ実演していただけることになった。その前に、豊橋祇園祭奉賛会の副会長さんから懇切丁寧に説明をしていただいた。12センチの太さの孟宗竹を切り出し、荒縄でぐるぐる巻きにした中に火薬を詰める。空の筒を持たせてもらったが、腰を十分に落として、筒を身体の右側に抱えるようにする。その際、左手を胸の前を横切らせて筒の上の支え紐を持ち、右手で筒の下の支え紐を持って、その姿勢で筒を顔の右横で保持する。この筒の口から1,600度もの高温の火花が噴き上げてくるらしい。ちょっと間違えば、大やけどの危険なものだ。

手筒花火に点火


手筒花火を起こして身体の右側に保持する


手筒花火の現物


 さて、暗くなってきた。いよいよ始まる。火薬の入った筒を、先ずは地面に横たえて介添え人が点火する。地面を這うように火花が迸る。ゴーっと音がして、すごい迫力だ。その筒を持ち上げなければならない。右足を前にして筒の先を上になるように起こし、火を噴く筒を顔の右横で保持する。その間、火花が10メートルほど上方に勢いよく吹き上げられて、火の粉が頭、顔、身体にどんどんとかかる。ものすごい迫力だ。見ていて火傷しないかとハラハラするほどだ。時間にして30秒ほど経ったところで、ボンッと大きな音がして、急に火が消えて辺りがまた暗闇に戻る。いやまあ、その蛮勇ぶりというか、威勢の良さに驚いてしまった。最後にボンと弾けるのでびっくりした。

手筒花火が盛んに燃える


手筒花火がそろそろ終わりかけ


 吉田神社で聞かせていただいた説明によれば、手筒花火は、一家の大黒柱がお祓いのために上げるもので、打ち上げ花火は、天空の魔物を退散させるためのものだという。火薬を作るのは、炭と硫黄と硝石で、手が汚れるので、武士はやらなかった。そこで、職人の技になる。どういう風に調合して火薬を作るかは、門外不出の技術だったが、それでは腕がなまるので、年に1回は実際に打ち上げをやって、技術を維持し、磨くようになったそうな。手筒花火は、元々は合戦の合図だった。長野県の方にある龍勢(流星)もその一つで、それを打ち上げないで手元に置くのがこの手筒花火だという。

 手筒花火は、別名、羊羹花火ともいうらしい。昔の羊羹は、竹筒に入っていたからだそうだ。なるほどと納得したが、現在の羊羹の包装しか知らない人には、わからないかもしれない。山に入り、自生して3年以上の厚めの孟宗竹を選ぶ。長さは、90cmほどで、中に黒色火薬を詰める。赤い色を発するために、鉄粉が入るそうだ。1回につき、所要時間は30秒。その間、火の粉を浴び続けるが、そうすると無病息災だという。なお、平成31年に靖国の150周年記念があり、上京して、御魂を慰めるために、100本ほど上げて奉納するとのこと。


8.御油の松並木

 小笠原さんというボランティア・ガイドで江戸時代の旅人の格好をした方に案内していただいた。御油(ごゆ)の松並木は慶長9年(1604年)に、徳川家康の命を受けた奉行大久保長安によって植樹されたという。その目的は、(1) 旅人のために夏は日陰を作り、冬は北風や雪から守ること、(2) 戦いに臨んで切り倒して敵の進行を妨げることにあった。御油の600メートルの道の両側に90センチの盛り土をし、650本の松の木を植えた。松並木台帳を作って、厳しく管理したそうだ。


ボランティア・ガイド小笠原さん


御油の松並木


 戦時中に伐採されて百数十本まで減少したこともあったが、昭和19年11月に天然記念物に指定されて保護された。その後、愛護会の活動によって、除草や害虫駆除、植樹が行われた結果、今では300本を上回るようになったという。ただし、昔からの樹齢300年から400年の木は、僅か5本だとのこと。


9.豊川稲荷

 一般に、お寺の縁起は、難解なものが多い。それも当然で、それなりの信心がないと、読み切れるものではないからだ。しかし、中でも豊川稲荷は格別で、実は曹洞宗のお寺なのに、稲荷つまり狐を祀った神社という姿をとって、しかもそちらの方が全国的に名が通っていることに加えて、お寺の境内に一の鳥居と二の鳥居まであるから、ますますややこしいことになる。神仏混淆が極まっている。いずれにせよ、日本には伝統的な神々がたくさんおられる中に、異国の仏教が入って来たものだから、色々とあったと思う。しかし、それにしても1,000年以上もかけて、ここまで「共存」するに至るのは、いかにも日本らしいという気がする。


豊川稲荷


豊川稲荷の狐


 豊川稲荷のHPの縁起によれば、「豐川稲荷は正式名を『宗教法人 豐川閣妙嚴寺』と称し、山号を圓福山とする曹洞宗の寺院です。当寺でお祀りしておりますのは鎮守・『豊川ダ枳尼眞天(とよかわだきにしんてん)』で、稲穂を荷い、白い狐に跨っておられることからいつしか「豐川稲荷」が通称として広まり、現在に至っております。」という。

 まあ、細かいところはどうでもよいのではないかと思われそうで、確かにその通りなのだけれども、私は、いま少しこだわりたい。というのは、私はこの歳に至るまで、全国にたくさんある稲荷神社というものが、どんな存在なのかを考えてみたことがなかったからである。それが、この豊川稲荷が調べるきっかけを与えてくれた。そもそも稲荷は、稲生り(いねなり)が転じたもので、古来から農業神だった。狐の黄金色と尻尾の形からして古来からたわわに実った稲穂が連想され、しかも狐は害獣のネズミを取ってくれるので、稲荷神の使いと目されるようになった。それが、江戸時代には商業の神となり、やがて各人の屋敷を守ってくれる屋敷神となったりして、全国津々浦々に広がったそうだ。そのうち、仏教の「荼枳尼天」が日本では白狐に乗ると考えられ、ここに仏教と稲荷神とが習合するようになった。ちなみに,稲荷神社の前に狛犬代わりにある狐の像は、宝玉、鍵、巻物、稲をくわえている。それぞれ、霊力、それを引き出すカギ、神様のお言葉、富貴を表すという。

 稲荷神社には神社系と寺院系があり、前者の総本社が京都の伏見稲荷で、数が圧倒的に多い。赤い鳥居と白い狐が特徴だそうだ。後者は、ここ豊川稲荷と最上稲荷妙教寺(岡山市)で、お寺の稲荷だから、鳥居は赤くないし、旗やのぼりも白が多いという。豊川稲荷の門の扉は樹齢1,000年ものの欅の木で作ったものである。山門は今川義元の寄進で、向かって左手には260年の金木犀、右手には160年の銀木犀がある。金木犀の花は反り繰り返るようで、匂いがきつい。それに対して銀木犀の花は丸まって、匂いもかすかである。


豊川稲荷の精進料理


 豊川稲荷の祈祷の時間となった。東京別院でも経験したが、この祈祷がまた独特で、神社とはかなり違うし、真言密教のような護摩焚きもしない。祈祷太鼓がリズミカルに叩かれる中、大般若経の力強い読経(転読)があり、途中でそれが一通り終わると、蛇腹型の御経をこれで読み終わったとばかりに、南京玉すだれのような形で左右に振る。最後は参加者の名前一人一人と祈願の趣旨を読んでいただいて、祈祷が終わった。各人の願い事と読経が直結している。なるほど、これは庶民を引き付けるわけだと、よくわかった。それが終わり、廊下を渡って部屋に戻り、精進料理をいただいた。下世話な話だが、HPによればこの食事つきの宗教行事は4,000円で、十分に我々が支払った金額の範囲内である。

豊川稲荷


豊川稲荷の霊狐塚


 ただ、まだそれは可愛いもので、霊狐塚に案内してもらって、ああ、そういうことなのかと分かった。こちらは、お稲荷様にお祈りして、願い事が成就したときにお礼に狐の像を置いていくところだそうだ。小さな狐像は、6万円、大きな狐像は15万円だという。ついでに、ここに来るまでに布の旗が立っている、これらは、2日に一回、取り換えられるが、2,000円だそうだ。


10.ヤマサのちくわ



ヤマサのちくわ


 豊川稲荷の門前にある商店街をぶらぶらとして時間を過ごし、夕食に稲荷弁当を買った。その隣の「竹の和」では、ヤマサ印のちくわを売っている。そこでちくわ焼き体験をさせていただいた。本来なら包丁で魚のすり身をまず平らにし、それから竹の棒に巻き付けていく。しかしながら本日は、簡略化のため、魚のすり身のボールをもらってそれを手で巻き付け、最後に水を付けて表面を平らにし、それを炭火で焼くのである。竹の棒をぐるぐるとしばらく回しているとやっと茶色くなって、これで焼き上がり。棒をはずして、熱々のちくわを食べ、その美味しさに感激した。

ちくわ焼き体験


ちくわ焼き体験


ちくわ焼き体験


ちくわ焼き体験


 その途中で聞いたちくわの話が面白かった。神功皇后が三韓渡航の途中、九州生田の杜で、鉾の先に魚肉をつぶしたものを塗りつけ、焼いて食べたという伝説があり、この食べ物が蒲の穂によく似ているところから「蒲穂子」と呼ばれ、「蒲鉾(かまぼこ)」に転じたといわれているそうだ。ところが江戸時代の終わり、武士が窮乏して魚など滅多に食べられなくなった。そこで、蒲鉾を食べている町民に対して武士が、「武士の魂である鉾を食べるとは何事だ」と言われたため、武士にわからないように、その断面から「竹輪(ちくわ)」という隠語にし、それが広まったということだ。まあ、与太話の類かもしれないが、もっともらしくて面白い。


11.終わりに当たって

 何はともあれ、充実した1泊2日の旅であった。企画して当日ご一緒していただいた東三河県庁、名鉄旅行、朝日新聞関係、その他ご案内いただいた皆さまに、厚く御礼を申し上げたい。


   【写真は、作成中】




(2017年2月12日記)




東三河いいじゃんセミナー

豊川稲荷東京別院


 愛知県の東端にある豊根村、東栄町、設楽町、新城市、豊川市、豊橋市、蒲郡市そして田原市から成る地域を、まとめて「東三河」と称する。このたび、その東三河を紹介するセミナーが、豊川稲荷東京別院において行われた。私も参加者50人の1人として参加させていただいた。私自身は愛知県名古屋市という「尾張」の出身なのだけれど、学校行事で行った鳳来寺山を除いて、この東三河には行ったことがなかった。

奥三河の花祭


 パンフレットを見ると、私が興味を惹かれるものがいくつかある。それは、写真を撮りたくなる題材であり、豊根村には茶臼山高原、同村と東栄町と設楽町には奥三河の花祭、新城市には鳳来寺山、豊川市には豊川稲荷、豊橋市には鬼祭、蒲郡市には竹島、そして田原市には恋路ヶ浜である。このほか豊橋カレーうどん、豊川いなり寿司という食べ物もあるようだ。おもしろかったのは、手筒花火のパンフレットで、花火の火の粉の中に男の人がいて、それに添えられたキャプションが「罰ゲームではありません。好きでやっています。」というもので、思わず笑ってしまった。

手筒花火


 セミナーでは、愛知県東三河県庁の方が、「いいじゃん」というのは、東三河の方言等の説明をされた。その後、豊橋市・二川宿本陣資料館の和田実さんが日頃の研究成果を発表されて、なかなか興味深かった。東海道53次の中で、二川宿は33番目だった。本陣が一つしかない小さな宿場だったことから、かえってそれがよくて「本陣(大名の宿)、旅籠屋(庶民の宿)、商家の3ヶ所を同時に見学できる日本で唯一の宿場町」とのこと。二川を描いた浮世絵には、お茶屋に草履がぶら下げてあり、この当時の旅人は草履を履きつぶして毎日取り換えていたそうで、現代のコンビニのような役割を果たしていたらしい。本陣には上段の間があり、これがお殿様の部屋であり、湯屋があってその中には大きな風呂桶がある。大名によっては風呂桶をかつがせて持参してくる人もいたという。まさに「マイ風呂桶」というわけだ。

豊橋市・二川宿本陣


 本陣の利用は年に40回から80回くらいだったが、幕末に参勤交代制度が廃止されてからしばらくは、最高の年で160回を超えた。これは、江戸に人質になっていた大名の奥方たちが、国元へと帰ったからだとのこと。利用形態は、小休58%、宿泊25%、昼休13%、その他4%となっていて、前後に浜松宿、吉田宿があったために、宿泊はそれほど多くなかった。こちらを利用した主な大名としては、毛利家(宿泊25回、小休72回、その他2回)、島津家(宿泊25、小休30、その他12)、蜂須賀家(宿泊16、小休48、その他1)、黒田家(宿泊57、小休11)などである。文久10年の加賀藩前田家の参勤交代の参加者数は、1969人である。うち、藩士185人、藩士の家来や従者830人、雇った足軽など686人、各宿場が用意する宿継人足268人である。これらの食事は、身分に応じて献立がはっきりと分かれていた。なるほど、こうして事細かに数字で説明されると、思わず唸ってしまう。宿帳が残っていたというが、よく調べたものだ。

手筒花火


 その後、豊川稲荷東京別院の広報係のお坊さんが出てこられて、その由来などを説明された。まず、なぜこの東京赤坂の地に豊川稲荷があるかというと、先祖が三河の大岡村である大岡越前が信仰していたからだそうだ。なるほど、それは知らなかった。もともと、愛知県の曹洞宗の妙厳寺の境内にあった守り神の稲荷だったのが豊川稲荷で、そちらの方が全国的に有名になったとのこと。これも、全然知らなかった。そのHPによると、「豐川稲荷は正式名を『宗教法人 豐川閣妙嚴寺』と称し山号を圓福山とする曹洞宗の寺院です。・・・当寺でお祀りしておりますのは鎮守・豊川ダ枳尼眞天です。・・・当別院は江戸時代、大岡越前守忠相公が日常信仰されていた豊川稲荷のご分霊をお祀りしています。明治20年に赤坂一ツ木の大岡邸から現在地に移転遷座し、愛知県豊川閣の直轄の別院となり今日に至ったものです。豊川稲荷を信仰した方としては、古くは今川義元、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、九鬼嘉隆、渡辺崋山など武将達から信仰を集め、さらに江戸時代には、庶民の間で商売繁盛、家内安全、福徳開運の神として全国に信仰が広まりました。」とのこと。

豊川稲荷東京別院の狐さま


 広報係のお坊さんのお話によると、「稲荷は、日本独自の信仰である。仏教と日本の伝統信仰とどう折り合いをつけていくかと考えた末、同じものにしてしまった神仏混淆の姿」だという。神道系と寺院系があり、前者が伏見稲荷大社、後者が豊川稲荷だとのこと。確かに、私は昔から、食物神、農業神、殖産神、商業神、そして屋敷神と、実に多彩な姿をしているお稲荷さんとは何だろうと思いながら過ごしてきたが、これで少しはその由来が分かった気がする。ではなぜ狐かというと、お稲荷さんは元々は農業の神で、狐はその使いだと考えられてきたそうだ。狐は、穀物を荒らすネズミを捕まえるだけでなく、身体の色や尾の形が豊かに実った稲穂を連想させるからだという。

豊川稲荷東京別院


茶まんじゅう、ちくわ


 その後、セミナーでは、茶まんじゅう、ちくわ、お茶を御馳走になり、最後に豊川稲荷東京別院の祈祷となった。この祈祷がまた独特で、神社とはかなり違う。太鼓がリズミカルに叩かれる中、力強い読経があり、途中でそれが一通り終わると、読んでいる蛇腹型の法典を、南京玉すだれのような形で左右に振る。最後は参加者の名前一人一人を読んでいただいて、祈祷が終わった。こんな形は初めてなので、いささかびっくりした。このセミナーに続いてツアーが企画されているようなので、楽しみにしたいと思っている。



(2017年1月21日記)




白川郷と飛騨への旅

岐阜県の白川郷


 お正月の三が日を過ぎた今、岐阜県の白川郷に来ている。名古屋駅や富山県新高岡駅からだと2時間半程度で着く。そのついでに高山と馬籠宿にも立ち寄りたいが、そのための公共交通機関の乗り継ぎや宿の予約を考えたりすると面倒なので、冬景色を売り物にするツアーで行くことにした。しかしいざ現地に着いてみたら、白い雪の帽子を被った合掌造りの白川郷をイメージして行ったのに、雪はほとんどなく、それどころか春日和のようにポカポカして暖かい。わざわざ二重になったダウンコートを着て行ったのに、まあその暑いことといったらない。結局、コートを手に持ち、カメラを首に掛け、シャツ1枚で歩き回った。

白川郷荻町地区の観光協会地図


 ここ白川郷の萩町地区は、五箇山とともにユネスコの世界遺産に登録されている合掌造りの集落で、今も現に住民の方々が住んで生活しておられるところに、その言うに言われぬ価値がある。実は、私は平成14年7月29日に、富山県側から両親とともに訪れている。それからもう、15年近くも経った。父は既に亡くなったが、当時一緒に、この集落を汗をかきながら見て回ったし、近くの「ゆー楽」という眺めの良い温泉に入って寛いだのは、今でも懐かしい思い出である。

岐阜県の白川郷


 それはともかく、ツアーバスがこちらに着いて、「ここでの時間は75分」と言われたのには、参った。そんな短い時間では、ゆっくり写真を撮るどころではない。地図をもらったので、それを元に行程を考えた。すると、合掌造り民家園という野外博物館がある。15棟の建物があり、うち9棟が岐阜県重要文化財指定建造物である。これらを全て回ると、30分はかかるというので、それだと時間がない。民家園内の見学は、一つ、二つにとどめよう。それが終わったら直ぐに出て、国の重要文化財である和田家を見、明禅寺を見学し、その間にある長瀬家と神田家には、時間があったら立ち寄ろうと思った。

岐阜県の白川郷


 合掌造り民家園は、都合の良いことに、バスが停まった駐車場のすぐ右手にあるから、そこへ入った。ところが庄屋さんだった中野義盛家を見て、「これは生活感がないなぁ」と感じ、「それならやはりまだ生活しておられる家を見学させてもらった方がいい。」と思い、早々に退出して和田家に向かった。庄川にかかる吊り橋もどきの「であい橋」を渡り、対岸に着いて本通りを左に曲がる。両脇には土産物屋その他のお店があるが、目をくれずにともかく先を急ぎ、やがて和田家に着いた。白川郷観光協会によれば、「荻町合掌集落で最大規模を誇る合掌造りです。江戸期に名主や番所役人を務めるとともに、白川郷の重要な現金収入源であった焔硝の取引によって栄えました。現在も住居として活用しつつ、1階と2階部分を公開しています。」という。

岐阜県の白川郷


岐阜県の白川郷


岐阜県の白川郷


岐阜県の白川郷


岐阜県の白川郷


岐阜県の白川郷


 どんな家なのだろうと楽しみにしながら入場する。まず太くて黒光りする板壁の見事さに感心した。部屋の中心にある囲炉裡は、これを使って合掌造り全体を「燻」さないと、虫がつくらしい。その大事な囲炉裡の一辺が案外短かったので、意外だった。階段は急坂だったが、登って行って2階に着くと、部屋は、非常に広い。そこには蚕棚、繭かき、繰り糸器などが並んでいて、養蚕が盛んだった昔の時代が偲ばれる。壁は、合掌造りだからもちろん斜めで、太く黒光りする見事な柱に、縄が巻き付けてある。更に階段を登って3階を覗かせてもらったら、そこは当然、三角形の天井の部屋になっていた。

岐阜県の白川郷


岐阜県の白川郷


岐阜県の白川郷。道端の溝に大きな鯉


岐阜県の白川郷。こちこちに凍った立ち木


 時間がないので、のんびりとしておられない。和田家を出て、その前のスイレン池を見て、神田家と長瀬家を外から見学した。その辺りの道端の溝に大きな鯉がいて、また、水を吹き掛けてコチコチに凍らせた木があった。ツララが垂れ下がっている。雪の塊も置いてあって、中国語を話す一行がそれに触って喜んでいる。通り過ぎて、明禅寺に至った。庫裏が合掌造りで、本堂と鐘楼門も同じような茅葺きだ。それらを撮っていたら、タイムアップとなり、駐車場に戻らざるを得なかった。なお、時間があれば、集落全体を眺められる小高い展望台に行きたかったが、冬季は閉鎖されているとのこと。桜の季節には、良さそうだ。

岐阜県の白川郷


岐阜県の白川郷


岐阜県の白川郷。道端の溝に大きな鯉


岐阜県の白川郷。こちこちに凍った立ち木


 さて、次に連れて行かれたのは、「飛騨の里&民族村」である。そのHPによれば、「飛騨高山の集落博物館『飛騨の里』には合掌造りをはじめとした飛騨の古い貴重な民家が移築復元され、なつかしい農山村の暮らしや昔から飛騨に伝わる季節の行事を再現し、未来へ伝えています。」とのことである。もう、こんなに暗くなってきているのにと思ったが、ライトアップがされると、風景が一変した。池の手前に観光客がいて、甘酒などをいただいている。その手前には、篝火が焚かれ、対岸の合掌造りの家屋にグリーンのライトが当たって、実に綺麗だ。その光景が手前の池にまた映り、しかもそれに林の木々が視界の中へと入って、誠に素晴らしい。なるほど、これだけを目当てに観光客が来るわけだと、よくわかった。

飛騨の里


飛騨の里


飛騨の里


飛騨の里


飛騨の里


飛騨の里


飛騨の里


飛騨の里


飛騨の里


飛騨の里


高山まつりの森


 それから、「高山まつりの森」に移動して、飛騨の和牛のすき焼きを食べた。なかなか美味しかったが、それにしても和牛のお肉がお代わり自由で、野菜と卵のお代わりは有料というのは、理解しがたいものだった。東京だと逆なのにと思ったりもしたが、こちらでは、野菜より肉の方が余っているのかもしれない。その晩は、近くの「ホテルアソシア高山リゾート」というところに泊まった。建物や浴室は古いが、清潔だし、何よりも、日本のホテルにしては客室が少し広いのがいい。大浴場は、それなりに普通で、可もなし不可もなし。ただし、部屋に使い捨てスリッパがないのは、気に入らない。温泉に浸かって温まり、気持ち良く寝たと思ったら、明け方、寒くて目が覚めた。なんと、暖房が止まっている。寝るときには、点いているかどうかちゃんと確認して寝たのに、これはどうしたことかと思いつつ、再び点けて、朝寝をした。後刻、バスのお客さん仲間に聞いてみたら、自分の部屋の暖房は大丈夫だったというので、ホテル側が意図的に消したのではなく、どうやら機械の不具合らしい。

ホテルアソシア高山リゾートからの眺め


高山陣屋


高山陣屋


高山陣屋


高山陣屋


 翌朝はバスで高山市内に入り、まず向かったのは、国の史跡「高山陣屋」である。高山は江戸期には天領だったので、要はその代官屋敷というわけだ。いただいたパンフレット等によれば、「元禄5年(1692)、江戸幕府は飛騨を幕府直轄領としました。その理由は、豊富な山林資源(木材)と地下資源(金(きん)・銀・銅・鉛)であったと言われています。それ以来、明治維新に至るまでの177年間に25代の代官・郡代が江戸から派遣され、行政・財政・警察などの政務を行いました。御役所・郡代(代官)役宅・御蔵等を総称して陣屋と呼びます。明治維新後は、主要建物がそのまま地方官庁として使用されてきました。現在の姿は、岐阜県教育委員会が、江戸時代の高山陣屋の姿がほぼ再現されるよう、修復・復元したもの」で、「幕末には全国に60数ヵ所あったと言われている郡代・代官所の中で、当時の建物が残っているのはこの高山陣屋だけです。」とのこと。

ホテルアソシア高山リゾートからの眺め


高山陣屋


高山陣屋


高山陣屋


高山陣屋


高山陣屋


高山陣屋


 早速、高山陣屋内を見学する。天保3年に建てられた表門をくぐって玄関之間に入ると、その壁いある青海波の模様が目にとまる。文化13年(1816)の改築以来、変わっていないそうだ。廊下を歩いて大広間に行くと、書院造りで、「義」と「孝」の掛け軸が下がっている。なかなか良い。これはもう、論語の世界だ。「忠」は見当たらなかったが、別に取っておいてあるのかもしれない。そこから眺める庭には、松の木、サツキ、飛び石がバランスよく並んでいる。簡素をもって、旨としているようだ。吟味所・お白州には、罪人を入れた籠が置かれていて、生々しい。台所では、竃に大きな釜が3つ、デンと置かれていて、なかなか迫力があったし、蔵には、年貢米の俵が、山と積まれていた。総じて、私には全く違和感なく、すぐにでもここに住み、執務ができそうである。200〜300年の時の違いはあれ、やっていることは、案外同じなのかもしれない。

ホテルアソシア高山リゾートからの眺め


高山陣屋


高山陣屋


高山陣屋


 高山では、たった60分しか時間が与えられていないので、あまりゆっくりはしておられない。陣屋を出て、三町伝統的建造物群保存地区を散策し、手当たり次第に写真を撮りまくる。道は狭く、家々は京都のような黒い細い格子を基調にして、両脇に並んでいる。なるほど、江戸時代は、こういう雰囲気だったのかと思う。そうやって上三之町と上二之町を行ったり来たりしているうちに、タイムアップとなってしまった。高山祭りの山車会館に行きたかったが、とんでもない。テレビによると、高山祭りの山車では、人形をたくさんの糸で操る妙技が見られるので、次回の楽しみとしよう。それにしても、昨日の白川郷と違って高山は寒い。毛糸の帽子を被っていても、頭の芯まで寒くてたまらない。手には手袋をしないと、かじかんでくるから困る。気温は、0度だから、当然か。暖かいバスに戻って、ホッとした。

雪のない「雪見ローカル列車」


 次に高山駅から「雪見ローカル列車」に乗るという。高山本線(と言っても、単線だが)、北は富山、南は岐阜駅経由で名古屋に繋がっている。路線図を眺めていると、下呂温泉があるから「下呂駅」というのはわかるが、「上呂駅」というのがあるとは知らなかった。今回は、そちらに向かう岐阜方面に2駅走った久々野駅(くぐの)まで乗るだけだ。電車は出発した。ところが悲しいかな、「雪見」とはほど遠く、雪が全くない。何とも間の抜けた企画だった。

 久々野駅から、舞台峠というところでお昼の休憩となった。「炊きたての日本一の米 銀の朏(みかずき)」を食べる」ということだったが、このお米は本当に美味しかった。ついお土産に、新米・特別栽培米(つまり、農薬使用量が半分)の「銀の朏」を1キロ、1,050円を買ってしまった。私は普段から、お米を買うようなことはまずないので、これが高いのかどうなのかは、よくわからない。そこを出て、これから「明治座」に行くという。東京の日本橋にある明治座が、こんな鄙びたところにあるなんて、あり得ない。よくよく聞いてみると、「かしも明治座」というらしい。


加子母(かしも)明治座


加子母(かしも)明治座


 不得要領のまま、バスはますます田園風景そのものの中に分け入っていく。こんな山の中に、お芝居の建物があるとは思えないと考えていたところに、バスが止まった。そこで見たものは、幟が1本立つ、要するに芝居小屋である。とは、岐阜県中津川市にあって江戸時代から明治時代にかけ、ここ美濃や飛騨では、地元の人々による地芝居が盛んに行われていたそうな。そのために、数多くの芝居小屋が建てられ、この加子母(かしも)明治座もその一つだそうだ。岐阜県の観光HPによると、「今から100年以上も前に加子母の人々によって作られ、今も脈々と守られている劇場です。間口約20m、奥行き約25m。建設当時のままの姿を保つこの劇場は、今もなお現役。毎年9月、加子母歌舞伎保存会による公演会をはじめ、クラシックコンサート、落語会など、様々な催しを行っています。明治27年に建てられた芝居小屋は、常時開館、回り舞台や奈落の見学も自由。案内人が常駐して、館内の説明もしてもらえます。」とのこと。

加子母(かしも)明治座


加子母(かしも)明治座


 中に入ると、地元のおじさんが、それこそ一生懸命に説明してくれた。「村の人が総出でこれを作り、維持してきた。加子母村は檜の産地で、伊勢の神宮備林がある。姫路城改築の際は、ここから樹齢800年の檜を切り出したが、途中で落として折れてしまったのをそのまま運んで、接木して使っている。この明治座の屋根は板葺きであるが、あと20年もすればまた葺き替えの時期が来る。しかし、そのときまで我々が生きているとは限らないので、少しでも費用の足しに1枚500円を出してもらって、屋根を葺くためにとっておきたい。」というので、私も寄付して、自分の住所と名前を書いてきた。また、おじさんの説明が終わってから、舞台裏を見学させていただいた。役者の楽屋、そこに描かれた役者の「落し書き」、小道具部屋(素朴な手作りの小道具)、舞台真下の廻り舞台の仕掛けなど、こんなところまで見せてくれるのというところまで見て、花道に開いた穴(スッポン)から出て来た。いやあ、実に面白かった。村の皆さんが、大切にしている理由がわかったような気がした。なお、中村勘三郎さんが、こちらを贔屓にしてくれるようだ。四国の金比羅さんの金丸座を思い出した。

 思うに、この芝居小屋ができた明治時代には、もちろん今のようにテレビがあるわけではない。その一方で自然環境は実に厳しい。唯一の娯楽といえば、年に一度のお祭りと、地元の人たちによる地芝居や巡業によって回ってくる買芝居だった。村の人々は、それをさぞかし楽しみにしていたのだろう。だからこそ、皆で力を合わせて、この芝居小屋を作ったに違いない。天井にはこの地、加子母の特産である大きな檜木が使われている。そのおかげで、柱がないから客席には死角がなく、末席からでも舞台を隅から隅まで見られる。舞台の娘引き幕(緞帳)に目をやると、なんと近在の主婦の手縫いだという。よくよく見れば、模様は、各家の屋号の模様と主婦の名前ではないか。小道具部屋にあった素人作成の生首といい、手作り感が満載の芝居小屋である。感激した。この先も末永く、地域の皆さんの手で、この芝居小屋を守って行っていただきたいものである。


馬籠宿


馬籠宿


 次は、馬籠宿だという。私は、大学4年生のときに日本縦断旅行をしたが、そのとき以来だから、ほぼ半世紀ぶりの再訪となる。登り坂の登り口には水車があり、その近くの旅館に泊まった。そのときの写真も残っている。果たして同じ旅館は、まだそこにあるのだろうかと期待が高まる。バスは、その坂の上に止まった。そこから下りていくらしい。間の悪いことに、雨が降ってきた。加えて風も、かなり強く吹いてくる。折り畳み傘を開いて、風に抗おうとしたが、なんと、風に負けて、キノコ状になってしまった。「骨組みが結構しっかりしたものなのに、これはどうしたことか、こんな筈はない。」と思って無理に開いたところ、開くには開いたものの、元々壊れかけていた部分が、完全に駄目になった。しかし、閉まらないだけで、とりあえずはそれで雨を凌げるから、そのままバスの一行とともに馬籠宿の坂を下りて行った。次は馬籠観光協会の散策マップの一部であるが、(1)がバスを降りたところで、石畳の下り坂は、ここから始まる。

馬籠宿散策マップ


 降りしきる雨風の中、ツアーガイドさんを先頭に皆でこの坂を降りていったが、私は写真を撮るのに夢中で、バス一行を見失ってしまった。それが(2)地点だ。これは困った。バスとの待ち合わせ場所を聞いていなかったではないかと思ったが、そのまま急ぎ足で下って行って坂下の土産物屋でバスを発見して事なきを得た。それが、(5)地点である。後からガイドさんに、「何処にいたの。」と聞くと、皆で(3)のうさぎやに入ったらしい。私は坂をどんどん下って行ったので、のんびり見ている暇はなかったが、学生時代に宿泊した宿屋は、まだ覚えている。それが、(4)地点の「坂の家」である(ただ、今は食事の提供だけで、民宿は営んでいないようだ)。隣の水車小屋とともに、実に懐かしい。それにしても、強い雨風の中、下り坂ですべって転ばなくてよかった。

大雪の中央自動車道


 さて、馬籠宿を出るとき、雨が雪に変わった。それが結構な降りになり、あれよあれよという間に一面が雪景色となった。飯田で最後の土産物屋さんに立ち寄ったときには、5センチほどの積雪だ。バスの運転手さんが、中央自動車道が通行止めにならなければいいがと気を揉む。もう午後5時近くで、まだこんなところにいるようでは、いつ東京にたどり着くかもわからない。ともあれ、中央道をひたすら走った。途中、諏訪湖インターで、夕食のお弁当を積み込んだ。来るときは雪が全くなかった諏訪湖の周囲が真っ白だ。雪が全くなかったのが、つい昨日のこととは思えない。その辺りから、笹子トンネルを抜けるまで、最高速度が50キロに制限され、しかもかなりの渋滞だ。途中で2件の事故を見た。いずれも軽乗用車で、雪の塊に突っ込んで、身動きが取れない。なるほど、車体が軽くて小さいとこうなるのか。その一方、渋滞の中で時間は刻々と経っていく。大月を過ぎた辺りから、やっと走り出した。ようやく、新宿に到着したのは、午後10時を回っていた。最後は、いささか疲れたが、あちこちを見て回ることができたので、今回のツアーはとても面白かった。






 白川郷と飛騨への旅(写 真)






(2017年1月8日記)




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