潜水艦の見学

海上自衛隊潜水艦ずいりゅう(左手)


1.4回の見学の対比

 実は私は、これまで3回、潜水艦の中を見させていただいたことがある。それと4回目の今回を合わせると、次のようになる。

 第1回 見学年1986年 型式U−1 第1次世界大戦前の潜水艦第1号 大きさ42.2mX3.8m 最大速度水上10ノット(水中5ノット)、航続距離278km 乗員12名。ミュンヘンのドイツ博物館にて。

 第2回 見学年1981年 型式U−505 第2次世界大戦時の大型潜水艦 大きさ76.8mX6.9m 最大速度水上19ノット(水中7ノット)、航続距離47,450km 乗員48名から56名。シカゴの科学産業博物館にて。

 第3回 見学年2008年 型式ゆうしお 海上自衛隊潜水艦あきしお(2004年3月除籍) 大きさ76.2mX9.9m 最大速度水中20ノット 乗員75名。海上自衛隊呉資料館にて。

 第4回 見学年2017年 型式そうりゅう 海上自衛隊潜水艦ずいりゅう 大きさ84.0mX9.1m 最大速度水上水中20ノット 乗員70名。横須賀の第2潜水艦群司令部にて。


2.潜水艦U−1

 私は、1986年に、ドイツのミュンヘンにあるドイツ博物館の見学に行った。そこで見たのが、型式U−1、ドイツ海軍潜水艦第1号である。第1次世界大戦前の1906年に就航し、同大戦中には訓練用に用いられたという。ともかく小さくて、丸木舟に毛が生えた程度ではないかと思ったが、石油エンジンと電動モーター、魚雷発射管など、今日の潜水艦の要素をすべて備えている。


潜水艦U−1


潜水艦U−1


潜水艦U−1





3.潜水艦U−505

 1981年にシカゴを訪れたとき、シカゴ科学産業博物館を見学した。そのときの展示の目玉が、第2次世界大戦時のドイツの大型潜水艦U−505である。これは、連合国が拿捕してドイツの暗号機エニグマを入手したことで有名になった。まるでおもちゃのようなU−1に比べれば、その圧倒的な大きさに驚いた記憶がある。


潜水艦U−505


潜水艦U−505





4.潜水艦あきしお

 2008年に広島県呉市の大和ミュージアムを見学に行ったことがある。すると、道路を隔ててその反対側に、大きな潜水艦が鎮座しているから驚いた。これは、海上自衛隊呉資料館(愛称:てつのくじら館)に置かれている本物の潜水艦あきしおで、現役として18年間活躍し、2004年3月に除籍になったものである。同資料館3階から艦内に入ることができて、発令所、艦長室、士官室を見学することができる。発令所では、潜望鏡を上げ下げする体験ができた。なお、外に展示して誰でも見られるので、機密性の高いスクリューだけは、本物を取り外してイミテーションのものに付け替えたという。


潜水艦あきしお





5.潜水艦ずいりゅう



潜水艦ずいりゅう(左手)


潜水艦ずいりゅう(右手)


 今回は、横須賀市の在日米軍基地内にある第2潜水隊群に属する「潜水艦ずいりゅう(瑞龍)SS505」を見学した。諸元は、全長84m、最大幅9.1m、基準排水量2,950トン、水中速力20ノット、主機関ディーゼル・スターリング電気推進、乗員数70名である。ちなみに、これは「そうりゅう型」といわれるタイプで、2009年1月からの就役で、現在8隻ある。海上自衛隊の潜水艦26隻中では最新の型式で、これに至るまで、次の2つの型式がある。

 「はるしお型」7隻。1990年11月から就役。「水中行動能力、索敵及び攻撃能力が向上し、静粛性も相当進歩した。7番艦はスノーケルが自動化され試験的にスターリング・エンジンを搭載した。」。ちなみに、スターリング・エンジンとは、シリンダー内のガスを加熱・冷却しで回転力を得る形の熱機関である。静粛で熱効率が高いので、潜水艦に搭載してそのバッテリーに充電する用途には最適とされている。しかし、最新型でも11mと大きいので、その分、潜水艦の居住部分が小さくなる。加えて、液体酸素タンクを備えているので、万が一それが漏れ出しすと大爆発を起こしかねないという問題がある。

 「おやしお型」11隻。1998年3月から就役。「船型がこれまでの涙滴型から葉巻型になった。新たにソーナー・アレイが装備され索敵能力が向上した。船体やセイルはステルス性を考慮した形状となり、吸音タイルが装着され極めて高い隠密性が達成された。」


スターリング・エンジン搭載の潜水艦


 「そうりゅう型」8隻。2009年1月から就役。「おやしお型を発展させ、スターリング・エンジンを搭載したAIP潜水艦である。艦尾舵をX舵としたことにより、運動性能が大幅に向上した。新たに非貫通潜望鏡を搭載し索敵能力が向上した。」。ちなみに、AIPとは、「非大気依存推進(Air-Independent Propulsion)」の略で、原子力推進の潜水艦を持たない国において、潜水艦に搭載して電池を充電するエンジンとして、閉サイクル・ディーゼルエンジン、スターリング・エンジン、燃料電池などのシステムを総称するものである。

潜水艦ずいりゅう内部


 桟橋に停泊している潜水艦ずいりゅうを見ると、確かにその艦尾の舵がX型らしく、水面に出ている部分がV字形をしている。これまで、潜水艦の艦尾といえば十字形だと信じていたのに、これには驚いた。しかし、この方が水中での回転などの運動性能が上がるらしい。さて、ずいりゅうのハッチから艦内に入るのだけど、最初から大変だ。6mほど垂直に垂れ下がっている梯子を下って行くのである。床に着いて、我々のグループはまず発射管室を見学した。その区画に行くには、丸い狭い穴でつながっている。両足を先に入れ、身体を斜めにしてようやく通り抜ける。すると、左右に2本、真鍮色の魚雷があった。触ると、ひやりとして冷たい。その前方には発射管があって、いざという時にはその蓋を開けて油圧で魚雷を入れ、管内を海水で満たして発射するという。この89式魚雷は重さが1.76トンで全長6m、エンジンで走行し、有線誘導方式だという。魚雷といえば旧海軍の酸素魚雷が有名であるが、89式も日本製だ。潜水艦によっては、米国製のMk魚雷もあるという。私は、魚雷というものは、てっきり船の横腹に穴を開けて沈めるものだと思っていた。ところが、それは先の大戦の頃の話で、最近は目標の船の真下で爆発させて持ち上げ、そこに真空を作り出して落とすことによって、船のキール(竜骨)を折って構造を破壊するものだそうだ。このほかの装備として、米国製のハープーン・ミサイルも備えている。

 次に発令所に入ると、狭いところにたくさんのスクリーンが並んでいる。船の操縦、ソナー、通信、戦術などに分かれている。中央に艦長席がドーンとあるのかと思っていたが、そんなものはない。何のことはない、発令所の片隅で、パイプ椅子に座っているらしい。しかも、普段はその椅子が片付けられているというから、いかにも日本の船らしい。どうにも可笑しくて、思わず笑いたくなる。船の操縦が、2つのジョイ・スティックで行われている。それがまるでゲーム機のようで、場にそぐわないと思って、これも何となく妙な気がする。でも、現代の戦闘は、まるでコンピューターゲームのような仕組みで戦われるものなのかもしれない。

 潜望鏡は、昔の潜水艦は上げ下げして光学的に外を眺めていたものだが、現代の潜水艦は、そういう光学的なものではなく、船体殻を貫通させない潜望鏡だという。つまり、外の風景をカメラに撮って、それをデジタル映像として発令所のスクリーンに映し出すのである。これもジョイ・スティックであるから、視野をぐるぐる回せて、とても早い。良く見ると、画面の真ん中に縦に不思議な線が入っている。「これは何ですか。」と聞いたら、「海鳥の糞が付いたのではないですか。」という。「潜航すれば自然に落ちるが、今は停泊中なので、皆が帰ってから、潜望鏡を下げて洗い流します。」とのこと。やれやれ、飛行機へのバード・ストライクのようなもので、それほど深刻ではないが、それでも大変だ。

 科員食堂に入る。狭い狭い区画で、座るのが精一杯だし、テーブルがとても狭い。バナナがぶら下がっていたり、グレープフルーツが箱に一杯だったりして、どこか生活臭を感じる。6時間勤務で、1日4回、食事をするようだ。それでいて、乗組員の皆さんは、あまり太っていない。ところが、長い航海だと、本来は24時間であるべき身体のリズムが、18時間になってしまうという。潜水艦の乗組員は、何ヶ月も太陽を見られず、シャワーも浴びられないし、単調な生活が続くし、時には空調システムを止めるから艦内が暑くなり、どうにもならないらしい。とりわけ、音を出してはいけないので、器械を使う筋トレは厳禁となっているから、腕立て伏せ、読書、DVDの視聴、仲間内でのゲームというのが、唯一の楽しみだという。こうした勤務の過酷さからして、潜水艦乗組員の食事や報酬は、パイロット並みとまではいえないものの、それなりに優遇されているそうだ。

 艦体の梯子をよじ登り、やっと艦外に出てきた。船体を改めて眺めると、側面にソナーが並んでいる。なるほど、これまでは前面と曳行式のソナーだけだったところへ、両側面に、しかも並んで付けたことにより、能力が大きく向上したとのこと。一緒に行った友人と、1枚、パチリと記念写真を撮った。潜水艦の乗組員の皆さんは、こういう太陽の光も届かないところで何ヶ月も、家族と離れて音を出さない緊張した生活を過ごしている。本当にご苦労様という気がする。なお、AIPは、スターリング・エンジンから燃料電池に移行する研究が進められているというし、肝心の電池が大容量のリチウム・イオン電池へと切り替えられる方向にあるという。潜水艦の更なるグレードアップが図られるようだ。


6.参考資料

 最後に、案内をいただいたときのパンフレットの一部を掲載しておく。


第2潜水艦隊群資料より


第2潜水艦隊群資料より


第2潜水艦隊群資料より


第2潜水艦隊群資料より


第2潜水艦隊群資料より






(2017年10月15日記)


カテゴリ:エッセイ | 20:17 | - | - | - |
奈良のお寺を巡る旅

平城京跡に立つ大極殿


1.弾丸ツアーを企画

 奈良の薬師寺で食堂(じきどう)が完成し、田渕俊夫画伯が「阿弥陀三尊浄土図」など全長約50メートルに及ぶ大壁画を奉納したそうだ。それを記念して、今年11月まで一般公開をしているという。また同時に、興福寺でも「興福寺国宝特別公開2017 阿修羅〜天平乾漆群像展」が開催されているとのことで、どちらも行ってみたくなった。特に阿修羅像は、学生時代に2度ほどお目にかかったものの、その後、何回か興福寺を訪れたが、他に出展中だったりして、ほとんど観る機会がなかった。だからこの際、奈良に行って観てこようと考えた。

 この2つなら、東京から行っても観るのに半日もあれば十分だ。しかし、問題は奈良での交通手段である。バスで行けないことはないが、それを待っていては、なかなか回れない。ツアーでは、今回のような見学は無理だ。そこで、タクシーを半日、借り上げることにした。すると機動性が増して、もっとお寺を回ることができる。費用は3万円だが、奈良ホテルに一泊したと思えば安い。ということで、まずタクシーをインターネットで予約した。東京から午前8時の新幹線に乗ると、京都に10時過ぎに着き、そこから近鉄特急に乗ると大和西大寺駅に午前11時に到着する。そこからタクシーに6時間乗っても、暗くなる前に回ることができる。

 そういうことで、奈良の地図を見ながら、大和西大寺駅 → 平城京跡 → 唐招提寺 → 薬師寺 → 興福寺 → 東大寺 → 春日大社 → 近鉄奈良駅、というコースを作って、タクシー会社にお願いした。近鉄奈良駅からは、特急で京都駅に行き、そこで食事をして帰京するというコースである。このスケジュールに従って、新幹線の切符(大人の休日倶楽部)、近鉄特急の切符を近鉄のHPでチケットレスのものを買い、京都駅近くのレストランを押さえて(ぐるなび)、手配が終わった。今から思うと、「奈良のお寺を巡る弾丸ツアー」と言ってもいいくらいだ。それにしても、個人でこれくらい簡単に、ほんの僅かな時間で手配できるのだから、そのうち旅行会社などは無くなってしまうかもしれないと思うほどである。

 ちなみに、私が最後に奈良に行ったのは、2009年7月だから、もう8年以上も前のことだ。そのときは、デジタル一眼レフを買って嬉しくて、初めて夜景を撮りに行ったものであるが、意外と美しく撮れたので、感激したことを覚えている。夜景は、春日神社の一ノ鳥居、浮見堂、仏教美術資料研究センター、東大寺南大門の金剛力士像、興福寺五重塔、猿沢池の柳を撮り、昼景は、春日神社、東大寺大仏殿、若草山を撮影したものである。それに比べて今回は、昼間のお寺を巡る旅なので、はてさて、どうなるのだろうか。いずれにせよ、大仏以外の仏様は、どれも撮影が禁じられているから、寺院の外観だけを写してくるほかない。


2.平城京跡

 さて、旅行当日、新幹線は順調に走り、京都駅に到着した。私の好きな八つ橋の「おたべ人形」が迎えてくれた。それから、中央改札口より近鉄に乗る。特急電車が走り出したと思ったら、もう大和西大寺駅に着いてしまった。例の、お坊さんのような少年の頭に鹿の角を生やしている「せんとくん」の像が迎えてくれる。これをどう贔屓目に見ても、私はあまり好きではないのだが、もはや奈良では定着しているようだ。駅の階段を上がると、約束していたタクシー会社の運転手さんが迎えてくれた。「目的は、写真を撮ることと、薬師寺食堂と興福寺展の見学で、後は付け足し程度と思ってください。」と伝える。


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 平城京跡は、延暦3年 (784) 年に都が長岡京に移転した後、長い間、忘れられていた。戦後になって特別史跡に指定されて、1998年には朱雀門が復元された。ここまでは、私も見たことがある。その後、平城遷都1300年の2010年に、更にそこから800m離れた所に太極殿正殿(冒頭の写真で、これを裏側から撮ったもの)が復元され、またそれらを囲む長い塀が整備されるなどして、形を整えつつある。私が学生時代の頃には、ここは近鉄電車がすぐ近くを通るだけの全く何もない原っぱだった。今回、それを見に来たのだが、問題は、周りに駐車場がないことである。そればかりか、道路は狭くて曲がりくねっているので、車を停めてゆっくり写真を撮る場所すらない。つまり、タクシー観光には最も不向きなところというわけだ。 もちろん、整備が完了すれば、そういうこともなくなるのだろうが、ともあれ、現状は何ともならない。だから、道の脇の僅かなスペースに停めて太極殿を撮影したり、朱雀門などは走る車の中から撮ったりという有り様になった。だから、この2つは、ただ撮っただけである。


3.唐招提寺

 唐招提寺に着いた。平城宮跡からほど近い。戒律の専修道場として、759年に創立されたお寺である。唐の高僧であった鑑真は、聖武天皇の願いによって日本に渡ることを決意し、5回に及ぶ難破のすえに失明しながらも、ようやく来日して我が国に戒律を伝えた。その経緯は、私が中学生のときに読んだ井上靖の小説「天平の甍」に詳しい。だから昔から、身近に感じているお寺だ。


唐招提寺の国宝である金堂


 国宝の金堂(8世紀後半)に近づいていくと、8本のエンタシスの柱が美しい。運転手さんが、「正面の2本の柱の間隔が、端の方の柱の間隔より狭いでしょう。遠近法で建物を大きく見せる工夫ですわ。うまく作らはりまんな。」と解説する。そういえば、そうだ。これまで何回もこの金堂を見ているが、こういう解説は初めてである。内部の写真は撮れないが、拝観すると、内陣には高さ3メートルの本尊である盧舎那仏坐像があり、こちらが宇宙の中心である。その左右に、薬師如来立像(現世の苦悩を救済する)、十一面千手観世音菩薩立像(理想の未来へ導く)がある。更に本尊の脇士として、等身大の梵天・帝釈天立像が、須弥壇の四隅に四天王立像があり、曼荼羅世界を現している。

拝観パンフレットより


 同じく国宝の講堂(8世紀後半)は、元々、平城宮の東朝集殿を移築したもので、宮殿建築そのものだそうだ。なるほど、こういう形でなければ、1200年も前の宮殿の建物が残ることはなかったろうと思う。本尊は弥勒如来座像(将来、必ず如来として出現し、法を説くとされる)で、持国天と増長天が併せて置かれている。この2天は、半世紀以上も前の中学校の美術の教科書にあった。

松尾芭蕉の一句


 運転手さんが、「鑑真大和上のお姿は御影堂にあるんやけど、毎年6月の三日間しか見せてもらえまへんよって、最近、こういうものができたんですわ。」と言って、御身代わり像という模造が置かれている。「平成御影像」として、2013年に落慶したそうだ。階段を登って近づいてみると、日焼け防止の青いガラスに遮られて、今ひとつよく拝むことができなかった。


4.薬師寺

 薬師寺は、私の学生時代には、立派な東塔とやや貧弱な金堂があっただけだった。度重なる戦乱や火事で、伽藍中の数多くの建物が失われていったかたである。ところが、この残った東塔だけは白鳳時代の白眉と言われた素晴らしい建物である。一見すると六重の塔のように見えるが、真ん中の小さな屋根は裳階(もこし)という覆いのようなもので、実際は三重の塔だということを習った記憶がある。なぜ覚えているかというと、高校入試の範囲に含まれていたからだ。美術は、高校入試の9科目(英数国社理、体育、音楽、技術家庭、美術)の一つだったのである。

 その後、伝説的な説教師である高田好胤師が出て、薬師寺は一変した。同師(その後、管主)は、特に修学旅行生に対する話術で名を上げ、次第に一般の方からも評判となった。ただ、いわゆる「受け」を狙った話し方をしたこともあったそうである。運転手さんによれば、御釈迦様の絵をわざわざ逆にして示し、それを見た生徒たちがざわめくと、「おっと失礼。これこそ『お逆さま』でした。」と言って笑いをとっていたから、眉を顰める向きもあったそうだ。ところが、その人間的な魅力で、金堂の復興のために浄財集めのお写経勧進に邁進し、遂に百万写経を達成して、金堂が出来上がった。それから、西塔、大講堂、食堂(じきどう)と、次々に整備されていった。


薬師寺金堂


薬師寺大講堂


薬師寺西塔 width=


 金堂には、国宝の薬師三尊が鎮座している。中央が薬師如来(東方浄瑠璃浄土の救主で、またの名を医王如来と言い、人々の身と心の病を救う。)、向かって右に日光菩薩、左に月光菩薩の脇侍が控えている。いずれも光背が光り輝く金色であるのに対して、仏様の本体はブロンズ色で、どうもマッチしないなと思っていた。しかし運転手さんが言うには、薬師三尊は、本来は金箔が置かれた輝くばかりの仏様だったのだが、度重なる戦乱で焼かれて金箔が剥げ落ちて、このようなお姿になったのだそうだ。凛とした表情を見せながらも目ざしが優しい薬師如来に対して、脇侍の日光・月光菩薩は身体を自然に曲げて、見方によれば実に魅力的なお姿をしている。



拝観パンフレットより


 大講堂は、本当に大きな建物である。本尊は彌勒三尊で、国宝の仏足石があった。玄奘三蔵院伽藍には、故平山郁夫画伯の「大唐西域壁画」が納められている大唐西域壁画殿があり、まるで砂漠やヒマラヤ山中を旅している気分になる。いずれも、非常に見事なものである。西塔の向かいの大きな覆いは解体修理中の東塔であり、10年間の予定で作業中で、2020年中頃に完成するだろうということだった。

玄奘三蔵院伽藍


 さて、私が今回の旅の一つの目的は、薬師寺食堂の「阿弥陀三尊浄土図」の見学である。食堂は非常に大きな建物で、その3面、計50mにわたって「仏教伝来の道と薬師寺」が並べられている。入って左手に、唐へ向かう遣唐使船とその帰ってくる姿が描かれ、写実的である。正面には阿弥陀三尊浄土図があり、いずれも誠に凛々しくて品のある仏様である。更に右手には、飛鳥川と大和三山の畝傍山らしき「うねび」、耳成山のような「みみなし」、そして香具山らしい「あまのかぐやま」と題する一連の絵で、奈良の街をやや斜め上空から見た鳥観図が、春夏秋冬に分かれて4枚、展示されている。私はこれらから醸し出されるほのぼのとした雰囲気に非常に感じ入って、しばらく立ち止まって眺めていた。最後の右手の壁には、碁盤の目が強調された平城京の街が、薄い緑色で描かれている。もちろんその中には、薬師寺もあるという趣向である。青葉が萌えるようで、非常に清々しい。これは、良い絵を見せてもらった。

絵の配置図。拝観パンフレットより







5.興福寺



興福寺五重塔。猿沢の池越しに見る。


 いよいよ興福寺に到着した。「阿修羅 天平乾漆群像展 興福寺国宝特別公開2017 興福寺中金堂再建記念特別展」と題するパンフレットをいただいて入場する。これは実に良く書けているので、以下、それを逐次、引用しながら感想を記しておきたい。正面におわしますのは、本尊の阿弥陀如来(西方極楽浄土の教主)である。「宣字形裳懸座に結跏趺坐し、左手は膝の上で掌を上に親指と人差し指で輪を作り、右手は曲げて掌を前方に向け、親指と人差し指で来迎印を結ぶ。平安時代後期に流行した定朝様式が踏襲されている。」と、難しく解説されているが、正面に立ち、ふと仏様を見上げると、仏様と目が合った気がした。



展覧の像の配置図


拝観券に描かれた阿修羅像


 何といっても、是非とも観たかったのが、阿修羅像で、阿弥陀如来像の向かって左手に安置されていた。高さは153.4cmだが、置かれているところが高いから、その顔が私のすぐ前にある。学生時代に2回、勤め始めてから1回、お目にかかっているから、4度目である。しかし、これほど間近に観るのは、初めてだ。なるほど、何回観ても、少年の顔そのものである。少年とは言っても、よくよく観ると、なかなかに憂いを含んだお顔をされている。それが、3つもあるとは・・・その内面には、非常に複雑なものがあるといえよう。解説には、「八部衆はインド神話に登場する神々で、仏教に帰依してその守り神となった。」とあり、阿修羅はその筆頭である。「阿修羅はインド神話に登場する戦闘の神で、・・・一般的には激しい怒り顔で3つの顔と6本の腕を持つ姿に表されるが、興福寺の像には怒りや激しさが見えず、表情は繊細で内向的であり、腕と体が細い少年の姿で表される。その表情には懺悔という仏教で重要な宗教行為が反映されているとも推定される。」とのこと。専門家にも、この像の解説は難しいらしい。

 また、阿形(あぎょう)と吽形(うんぎょう)の金剛力士像が、誠に素晴らしい。中学生の頃、美術の教科書に乗っていたこの像を見て、まるで鍛えられた力士像のような写実性に驚嘆してしまった。今回の説明でも、「金剛力士は、口を開いた阿形と口を閉じた吽形が1組となり通常は仁王門などに安置されるが、奈良時代には堂内の須弥壇上に置かれる場合が少なくなかった。この1対は・・・鎌倉初期彫刻の特色である写実性、激しい動き、力強さが顕著で、それに加えて強い風が意識され、筋肉が凹凸をもって隆起し、血管が浮き上がるなど、迫真的な鎌倉彫刻の真髄をみることができる。」というのが解説である。このうち、「強い風」というのは、あるいは「強い作風」の間違いではないかと思うが、筋肉や血管に着目しているのは、正にその通りである。


興福寺東金堂


興福寺東金堂と五重塔





6.東大寺



東大寺の鹿


南大門に向かう


 これで、今回の旅の目的はほぼ達成した。まだ午後4時前なので、残りの寺社を回れる限り回ってみることにした。東大寺に着いたが、タクシーを停めたのは大仏殿の脇である。運転手さんが、「せっかく来られたのやから、仁王さんたちを見て来まひょ。」と言って、南大門の方へ案内してくれる。鹿が食べ物をくれるかと思って擦り寄ってくるし、観光客の流れも反対なのでそれに逆らって歩いていった。運転手さんが「奈良公園では、芝刈りの必要がないんですわ。鹿がねえ、食べてくれるから。」。それで私が、「奈良公園の鹿で感心したのは、例えば鹿煎餅を売る屋台があったとすると、お客さんがそこで煎餅を買ったとたん、鹿がそのお客さん目掛けて殺到するんだけど、決して屋台そのものには、鹿はやって来ない。ダメなことをちゃんと分かっているんですね。」。「そうそう。鹿はよく、分かっていまんねん。」

口を閉じた阿形


口を開けた吽形


 さて、しばし歩いて、東大寺南大門に着いた。同寺のHPによれば、「天平創建時の門は平安時代に大風で倒壊した。現在の門は鎌倉時代、東大寺を復興した重源上人が再建したもの」とある。相対して置かれているのが金剛力士立像(国宝)で、 建仁3年(1203年)の創建。運慶と快慶が中心となって作られた。右手に口を閉じた阿形、左手に口を開けた吽形の仁王さんである。運転手さんが、「この一対の阿形と吽形は、普通の置き方とは反対に置かれていて、そのせいで視線が集まるのは、ホレ、ここ(と言って門の真ん中の木げたを指す。)ですわ。それに、あの顔は、普通より大きいですねん。下から見上げて、自然に見えるでしょ。ああ、それから、この柱にいくつか穴が開いているでしょ。これは、昔の鉄砲の弾痕ですねん。」と、こともなげに言う。調べてみると、永禄10年(1567年間)の三好三人衆と松永弾正との戦さで放たれた弾の痕らしい。

三好三人衆と松永弾正との戦さで放たれた弾の痕


 さて、南大門から大仏殿の方へと引き返し、大仏殿の寺域へ入った。相変わらず雄大な姿の建物で、屋根の端が空に向かってやや反っているのが、何とも優雅である。中国の寺院などにもこういう「反り」が見られるが、反りの程度が強すぎてあまりに人工的な感がする。その点、日本の建物の反りは、自然で無理なく受け入れられるので、私は好きである。

東大寺大仏殿


盧遮那仏


盧遮那仏と傍の仏様


 大仏殿の建物内に入る。視野いっぱいに青銅色の大仏様が迫る。ああ、この感激は、昔々に感じたのと同じものである。盧遮那仏は、752年の開眼以来1265年間、ほぼこのお姿でここに鎮座されている。途中1180年と1567年の2回にわたって火災により大仏殿とともに焼失したが、いずれも再建されて今日まで伝わっている。奈良の昔、これだけ大きな大仏様が、今の光背のように目が眩しくなるほどの金色に輝いていたというから、実に美しくきらびやかなものだったかが偲ばれる。しばしお参りした後、時計回りに見学して行った。寄進の瓦があったが、そういえば私も前回来たときに、寄進した覚えがある。柱の穴くぐりは、まだ行われていたが、今は半数が外国人となっている。


7.春日大社

 タクシーは東大寺から春日大社の二ノ鳥居に向かう。そこで降りて、表参道を登っていった。参道の両脇に昔から奉納されてきた燈籠が数多く建てられている。運転手さんが、「ほれ、あの燈籠には全て紙が貼ってありますやろ。毎年、張り替えるんでっせ。3000円ですわ。」。私は、「ええっ。あの燈籠の窓に貼られた四角い紙は、元々の燈籠の寄進主とは違うんですか。」と聞いた。「全く関係ありまへん。年に1回、募集して、きちきちっと張り替えますんや。」と言う。燈籠に近づいてよく見ると、なるほど、全く関係なさそうな大阪在住のおばちゃんの住所と名前が書かれている。私が「その通りですね。あれあれ、穴が開いて破れているのや、完全になくなっているのもある。」と言った。すると、運転手さんは、「穴が開いているのは子供や観光客のいたずらで、鹿も食べちゃうから、そういうときには紙が完全になくなってしまうこともあるんです。」


春日大社の参道


燈籠の窓に貼られた四角い紙


 商魂の逞しさと鹿の食欲に驚きつつ、参道を引き続き登っていると、春日大社の南門に着いた。朱色の神社と、周囲の藤の木の葉の緑色との対比が鮮やかである。春日大社については、最近のNHKの番組「ブラタモリ」で取り上げられていた。要は、藤原氏を祀った神社であること、寄進の釣り燈籠の中で最も大きいのは藤原一族である近衛家のものであること、だから御神木が藤の木であること、後ろの山そのものが御神体であることなどが紹介されていた。

春日大社の南門


大宮特別参観図。拝観パンフレットより


 藤の花のかんざしを付けた巫女さんからパンフレットをもらい、国宝御本殿の大宮の特別参拝に入れていただいた。中にたくさんの神社がある。数えてみたら、16もあった。それらを順路に従い、階段を上がったり下がったりしながら、一つ一つお参りをしていく。途中にずらりと並ぶ釣り燈籠が荘厳な雰囲気を与える。運転手さんが「ここは、面白いでっせ。前はなかったんですけどなあ。」と言って、暗いカーテンで仕切られた「藤浪ノ屋」という部屋を指さす。何でも、春日大社全体で3000基の灯籠があるそうで、2月の節分と8月の半ばには、それらを全部灯す「万燈籠」という行事がある。それを体験してもらおうと作られたそうだ。部屋に入ると、暗い中に燈籠が灯されて、ずらりと並んでいて、なるほど幽玄な雰囲気である。これが暗闇の中で3000も揺らめくのは、さぞかし宗教感が研ぎ澄まされることだろうと思う。外に出ると、運転手さんが「砂ずりの藤」(樹齢800年)と「大杉」(同1000年)を指し示してくれる。それぞれ、古い記録に残る神木である。

春日大社の燈籠


徳川綱吉寄進の燈籠




8.二月堂

 春日大社を出て、運転手さんが「まだ、時間があるようだから、二月堂に行きますか。」と聞く。もちろん、それは願ってもないことだと思って、行くことにした。東大寺に着き、同じところに車を停めて、二月堂まで早足で歩いていった。お堂に登ると、なるほど、ここでお水取りの行事が行われるのかと感じ入る。だいたい、こんな貴重な国宝の建物内で、松明とはいえ、あれほど盛大に火を使って良いものかと思うのであるが、8世紀以来、続けられている伝統行事である。ただ、「寛文7年(1667年)、お水取りの最中に失火で焼失し、2年後に再建されたのが現在の建物」だという。建物に登って、テラスに出るまでに、ふと天井を見ると、焦げ跡のようなものが見える。


二月堂


二月堂から眺めた不思議な風景


 テラスに出た。ここは小高いところにあるので、テラスからは奈良盆地がずーっと見渡せる。空を見上げると曇り空だが、空の真ん中が大きく四角に割れている。その中の雲が薄くなっていて、青い部分が見えたりする。不思議な風景である。しばしそれを眺めていたら、どういうわけか気持ちがすっきりして、今度は早く帰りたくなった。運転手さんに若干の御礼をして別れ、近鉄奈良駅から京都に出て、そこで鴨鍋を食し、早々に帰京の途に着いたのである。



(2017年10月8日記)


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体成分の分析

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 一昨年の11月末からダイエットに取り組み、大病院の栄養士さんからいただいた貴重なアドバイスを元に努力して、半年の間に約8kg減らすことができた(正確に言えば。9kg減って、1kgリバウンドした)。そのアドバイスの指標となったのが、「インボディ(InBody)"Lookin'Body"の略」という体成分の分析表である。これは一見すると体重計のように見える器械ではあるが、その分析能力はまさに万能と言ってもいいくらいに実によくできている。裸足になって台に乗り、両手の親指でそれぞれ別々の金属の棒を押さえると、1分ほどで結果が出る。詳しい内容は次に述べる通りだが、体重だけでなく、体の中の水分、筋肉、脂肪の量が、体幹、左右の両腕両脚に分けてわかるのである。これを見つつ、アドバイスをしてもらう。それを数ヶ月毎に繰り返して、減らしていったというわけである。

 ところが、一旦、減量という目標を達成してしまうと、もうこの器械を使わせてもらえなくなった。その続きを見たいのだから、測らせてくれても良いとは思うのだが、もはやメタボリック・シンドロームつまり病気ではないということらしい。こういう器械は、普通なら、スポーツクラブにあるはずなのだけれども、どういうわけか私の通っているところにはない。どこかでこのInBodyで計測させていただけるところはないかとネットで調べたところ、池袋西武の8階に「カラダステーション」なるところがあり、InBodyがあるそうだ。無料らしい。いやもちろん、有料でも一向に構わないのだけれど、どんなものか、先ずは行ってみることにした。

 池袋西武百貨店8階の一番端に、それがあった。3人ほど係員の女性がおられて、そのうちのお一人にお願いする。西武百貨店とカラダステーションの2枚のカードを作成し、そのコーナーの片隅にあるInBody430の器械の上に、靴下を脱いであがる。両手の親指を別々にして、それぞれ金属の棒を触る。1分程度で計測が終了し、結果がその場でプリントアウトされる。

 ところで、大病院にあったInBody720は、器械そのものがとても大きくて、出てくる印刷物も、やたらと詳しい。しかしあまりに重たい器械なので、置いておく部屋を移したくてもそう簡単には移動させられないと、係の人が苦笑していたほどである。それに対して、こちらのカラダステーションの器械は、ほっそりとして、まるで別物だ。例えて言えば、大病院のがお相撲さん並みの体躯なのに、こちらはまるで小学生並みの体だ。こんなので、詳しく分かるのかと思っていたが、出てきた印刷物は、少し要約してあるものの、基本的には、大病院のものと変わりがない。全体は冒頭の写真であるが、それを分割したのが、次の通りである。


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【体成分分析】
  体 水 分 42.4kg (標準38.3〜46.8)
  タンパク質 11.2kg (標準10.3〜12.6)
  ミネラル   3.90kg(標準3.55〜4.33)
  体 脂 肪 13.6kg (標準 8.2〜16.4)


 これを見ると、体水分、タンパク質、ミネラルは標準値の真ん中であるが、体脂肪だけは、標準値に収まっているけれども、真ん中よりやや多い。どうやら、体脂肪に削減の余地があることがわかる。

【筋肉と脂肪の割合】
  体 重  71.1kg (標準57.9〜78.4)
  骨格筋  31.9kg (標準29.2〜35.7)
  体脂肪  13.6kg (標準 8.2〜16.4)


 ダイエットを始めたときの平成27年11月27日のInBodyのデータは、体重79.6kg(現在より+8.5kg)、骨格筋34.8kg(現在より△2.9kg)、体脂肪18.2kg(現在より△4.6kg)だったから、骨格筋は少し減ったが、それより主として体脂肪の方を減らしてきたことになる。ちなみに、このまま元の体重までリバウンドさせてしまうと、その少し減った筋肉の分まで脂肪となって戻るので、元の体より更に脂肪が増えてしまうから、やってはいけないこととされている。私も、最初のダイエットのとき(13年前)に、これをやってしまった。体重を79.5kgからいったん74.5kgに落としたものの、気を抜いていたら1年もしないうちにリバウンドしてしまったという苦い経験がある。だから今回は、絶対にリバウンドさせないぞという気持ちでいる。

【体の各部の評価】
 【部位別筋肉バランス】

  左 腕 3.0kg[ 90.2%]
  右 腕 3.1kg[ 94.3%]
  体 幹 24.4kg[ 93.1%]
  左 脚 9.3kg[102.0%]
  右 脚 9.6kg[104.8%]
   [全体筋肉量 54.3kg ](標準49.2〜60.1)


 私は、両手より両脚の方に筋肉が付いているようだ。両手の筋肉を付けるために、家に置いてある小さなバーベルを毎日、挙げるようにしているが、果たしてどこまで続けられるかというところである。その点、両脚の方は、普段は毎日7千歩ほど歩いているので、それなりの効果が出ているようだ。できれば1万歩にしたいが、今の生活リズムでは無理なので、これが限界だと思っている。なお、西武カラダステーションの係員さんは、左脚を鍛えるために、左脚一本で立つなどの工夫をしてみてはとアドバイスしてくれたが、やってみるつもりである。

【部位別脂肪バランス】
  左 腕 0.8kg[ 20.4%]
  右 腕 0.7kg[ 18.2%]
  体 幹 6.7kg[ 20.7%]
  左 脚 2.1kg[ 17.6%]
  右 脚 2.2kg[ 17.6%]


 上半身では、右腕はテニスでラケットを振り回しているせいか、筋肉が多い反面、その分、脂肪の量が少なめになっている。下半身では、左脚は右脚と比べて筋肉も脂肪も少ない。こんなものだろうか、よくわからない。ともあれ、左脚を鍛えなければいけないことは、よくわかった。真ん中の体幹には、脂肪の比率が高いことがよく見て取れる。やはり、これが削減のターゲットだ。


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【栄養評価】
  むくみ 標準
  タンパク質、ミネラル、脂肪量いずれも標準


【理想的な体のためには】
  適正体重      68.1kg
  調節すべき体 重 △ 3.0kg
  調節すべき筋肉重 + 0.4kg
  調節すべき脂肪重 △ 3.4kg


 そういうことで、結論としては「適正体重まで、あと3kg、主として脂肪を減らすように。」との御宣託だ。ただ、できるものは、ほぼ思いつく限り全て取り組んでいるから、これ以上のことになると、茨の道が待ち受けている。でも、どうしたらよいのか、俄かには思いつかない。たぶん、食事内容のコントロールはもはや限界で、後は運動しかないのではという気がする。

  ウエスト周り 79.6cm
  内臓脂肪レベル 6 (標準。中央値は、10)


 ウエスト周りは、こんなに少なくなったのかと我ながら驚くばかりだが、つい先日、健康診断に行ったときに担当医が測ったのは、やはり80cmだったから、これは正しい数値だろう。それにしても、どこで測っているのか。ズボンを注文するときのサイズは83cmにしているから、それと比べて3cmも小さい理由が知りたいところである。

【体型チェック】
  BMI   23.0
  体脂肪率 19.1%    いずれも、適正の範囲内

  フィットネススコア 76
  基礎代謝量 1,613kcal


 この「フィットネススコア」というのは何かとネットで調べると、「一般の方が体成分検査結果を簡単に理解できるように点数化したものです(医学的学問の背景はなし)。体重、除脂肪量、脂肪量のそれぞれと標準値と実測値を総合的に見て点数を算出しています。フィットネススコアは 80 ポイントを基準とし、体重調節の欄の表示で筋肉量が+1 圈∋號知未−1 圓瓦箸縫侫ットネススコアは 1 ポイント下がります。また筋肉量が標準より 1 埖腓くなればフィットネススコアは 1 ポイントずつ上がります。点数が高い場合は筋肉が多くて脂肪が少ない良い状態で、逆に点数が低くなればなるほど筋肉と脂肪のバランスが良くない状況です。この点数に上限はなく、70〜90 ポイントが標準です。90 以上で筋肉量が多いアスリート型、70 以下は虚弱型、肥満型になります。」だそうだ(出典:和歌山ろうさい病院HP)。

 次に「基礎代謝量」とは、「基礎代謝量(BMR)は生命活動を維持するための(一日中安静にしていても消費する)エネルギー量です。 InBody から算出される基礎代謝量は除脂肪量を利用する『カニンガム』の式を基に算出しています。基礎代謝量は 1 日に消費するエネルギー量の約6〜7割を占めると言われています。この数値が高いと食べた物を活発に消費できます。よって基礎代謝量の高い人は太りにくいとされています。 肥満治療など体重減量をおこなう必要がある場合、基礎代謝量以下で食事摂取をしながら、活動量を増加させれば、体脂肪がエネルギー源に使われ、体脂肪が減少して体重も減少します。 食事療法のため献立を作成するには1日の必要エネルギー量を算定しなければならないため、この基礎代謝量から 1 日に消費されるエネルギー量を算出し、1 日の摂取するエネルギー量の目安を立てることが可能になります。 ただし、摂取のエネルギー量の調整だけではなく運動することも心がけましょう。運動熱量の計算に使う活動係数は、『横になる 1.2 』、『歩行、やや活動 1.3 』、『一般の活動 1.5〜1.75 』、『高度の活動 2.0 』なので、1日の必要エネルギー量 = BMR(基礎代謝量)× 活動係数 ★ 測定データを上の式に代入し、1日のエネルギー必要量を算出し、ご使用下さい。 」とある(出典:同上)。

 ちなみに、私の場合は、基礎代謝量1,613kcal X 1.3= 2,097kcal が、摂るべきカロリー量となる。だから、1日の1食当たり700kcal の摂取に収めておけば、現状の体重が維持され、それ以下だと、体重が減っていくということがわかった。そうすると、1日の1食当たり600kcal の摂取にしておけば、あと3kgの減量ができるという計算になる。それでダメな場合は、(テニスの週2回を強化して3回にすることは無理だから)、毎日の朝晩に筋肉を鍛える体操することにしよう。このプランなら、今年末までに何とか目標を達成できそうだと、ちょっと希望が湧いてきた。




(2017年10月3日記)


カテゴリ:エッセイ | 19:28 | - | - | - |
月見おわら 2017年

富山駅前にあった、おわら風の盆の看板


1.富山の三大民謡

 (1) ツアーに参加

 越中八尾おわら風の盆は、以前、電車とバスを乗り継いで、前夜祭を見に行ったことがある。胡弓の奏でる哀調ある調べと、黙々と一心に踊る踊り手の野趣あふれるその優雅さに深く感じ入ったことを、まるで昨日のことのように覚えている。それから6年が経ち、機会があればまた見たいものだと思っていたときに、ある旅行会社が「月見のおわら」なる催しを企画して今年が20回目だとして、参加者を募集していた。そういえば前回、私が個人的に行ったときは、八尾のあの狭い町域に、たくさんの観光客が訪れてごった返していて、どこでどうやって鑑賞させていただいたかもわからないくらいだった。最近は、町の人口が2万人程度のところに、30万人ほどの観光客が押し寄せて、ますますひどくなったようだ。

 加えて前回の場合には見終わって帰るとき、八尾(やつお)バス停の前に黒山の人だかりだったものだから、バスに乗るのは諦めて、JRの駅まで歩いて行った。ところが、街灯もない暗い田圃の中やお墓の脇などを通って、30分もかかったことから、とても大変だった。その轍は繰り返したくない。その点、9月23日と24日に行われる今回の月見のおわらは、見物客の数は一晩3千人程度だし、八尾の町内で町民の皆さんによって行われる。そういう意味では本番(9月1日から3日まで)と、さして変わらないだろうと思って、参加することにした。

 北陸新幹線で東京から富山まで、2時間10分である。お昼過ぎの新幹線で富山に向けて出発し、午後3時台にはもう富山駅前のホテルにチェックインした。八尾の町に向けて4時半にバスで出発し、5時過ぎに曳山会館下の駐車場に到着した。その会館前に設けられて舞台で、富山の三大民謡を披露していただけるという。

 (2) 高校生による越中おわら節

 先ずは、八尾高校の皆さんによる、越中おわら節である。哀調あふれる節まわしと言いたいところだが、そこはまだ高校生の女の子たちだから、ややか細い声を張り上げる中、最初に男の子たちが出てきて、力強いキビキビした男踊りを踊る。ついでピンク色の衣装を着た女の子たちが出てきて、息の合った女踊りを披露する。両手を斜めに伸ばしたときの、その角度が揃っているのがよい。もう終わりかけの時、男の子たちが踊る途中で、一人一人思い思いの格好で固まっていく。かなりの力が必要だろうと、見物人から大きな拍手が巻き起こって、終わった。なかなか良い演出である。


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 ツアーガイドからもらった紙には、こう書いてあった。

「『歴史』ここ越中八尾の地で、踊りとともに唄われている民謡『越中おわら』は、300年以上の歴史を持つ全国に誇る民謡です。しかし『おわら風の盆』という行事がいつ始まったかは、明瞭な文献が残っていないためはっきりしません。言い伝えられている説の一つとして、八尾の町が開かれた際に加賀藩から下された『町建御墨付』の所有権をめぐって、町の開祖である米屋少兵衛の子孫と町衆の間で争議が起こり、結果、町衆が取り戻すことができたお祝いとして、昼夜を問わず3日間唄って仮装して踊って楽器を演奏しながら町内を練り回ったことが起源と言われています。やがて、二百十日の台風到来の季節に、収穫前の稲が風の被害に遭わないよう、豊作祈願の行事として行われるお祭りに変化したことを機に『風の盆』とよばれ、9月1日から3日にかけて行われるようになりました。

 『おわら』とは、(1)『お笑い節説』遊芸の達人たちがこっけいな変装をして町中を練り歩く際に唄っていた歌の中に『おはらい』という言葉を入れて唄ったのが、『おわら』に変わったという説、(2)『大藁節説』豊年を祈り、わらの束が大きくなるようにとの思いから、『大わら』が『おわら』になったという説。

 『風の盆』とは、富山の地元では休みのことを『ボン(盆日)』という習わしがありました。そして風神鎮魂を願うお祭りのため『風の盆』となったそうです。

 『踊りの種類』としては、(1)『豊年踊り』最も古くからある素朴な踊りで、町流しや輪踊りで踊られる、(2)『男踊り』かかし踊りともいわれる勇壮な踊り、(3)『女踊り』四季踊りともいわれ、春夏秋冬それぞれに異なった所作がある。舞踊的な踊りで、主にステージなどで披露される。

 『おわらを盛り上げる唄や楽器』 越中おわらでは、唄と楽器を奏でる人のことを地方(じかた)といいます。(1)『唄い手』甲高い声で歌い出し、息継ぎをせず、長く柔らかい美声を響かせる、(2)『囃子』唄い手の調子を揃える、地方の指揮者のような役割、(3)『三味線』弦を押し付け、撫でるように弾く『探り弾き』、おわら独特のリズム、(4)『太鼓』唄の息継ぎを助けたり、調子を盛り上げる、(5)『胡弓』唄や三味線に合う哀調を帯びた独特の旋律を奏でる。(唄が終わると、楽器だけの間奏曲が奏でられます(合いの手)。唄の旋律とは全く違う哀調を帯びた独特の旋律を奏でる。民謡では珍しいと言われています。)」


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『おわら節歌詞』

 揺らぐ吊り橋 手に手を取りて
 渡る井田川 オワラ 春の風
 富山あたりか あのともしびは
 飛んでいきたや オワラ 灯とり虫
 八尾坂道 別れてくれば
 露か時雨(しぐれ)か オワラ ハラハラと
 もしや来るかと 窓押し開けて
 見れば立山 オワラ 雪ばかり

          八尾四季(作詞:小杉放庵)

         (出典)「世界の民謡・童謡」より。



 (3) こきりこ節

 次に、舞台では、五箇山民謡保存会の皆さんが、「こきりこ節」を歌い、綾藺笠(あやいがさ)を被って武士の衣装のような直垂(ひたたれ)姿で踊ってくれた。綾藺笠の頂きには山鳥の羽が付いているから、動くとそれが目立つ。両手には、「びんざさら」という楽器のようなものを持っていて、それを伸ばしたり、馬蹄形に曲げたりして、ガシャッ、ガシャッと音を立てる。それで、舞台狭しと飛び回るから、なかなか男っぽい踊りである。ツアーガイドからもらった紙によると、


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 「『こきりこ節』は、日本で一番古い民謡です。田楽から派生し、田踊りとして発展しました。これらは、五穀豊穣を祈り、百姓の労を労うために、田楽法師とよばれる職業芸能人たちが田植えや稲刈りの間に行ったものでした。こきりこは『筑子』『小切子』とも書き、二本の竹で作った簡素な楽器の名前に由来していると言われます。これを手首を回しながら打ち鳴らすと、軽やかな音が出ます。『ささら』は、檜板を人間の煩悩と同じ108枚を紐で束ねて、半円に構えて波打たせるように鳴らすもので、その不思議な響きも耳に残ります。鍬金や太鼓も田楽の頃から変わらず、こきりこ節の伴奏を奏でています。こきりこ節の特徴的なお囃子『デデレコデン』は、太鼓の音を表したものとされています。」

『こきりこ節歌詞』


 こきりこの竹は 七寸五分じゃ
 窓のサンサは デデレコデン
 ハレのサンサも デデレコデン

 向いの山を かづことすれば
 荷縄が切れて かづかれん
 窓のサンサは デデレコデン
 ハレのサンサも デデレコデン

 向いの山に 鳴く鵯は
 鳴いては下がり 鳴いては上がり
 朝草刈りの 眼をさます
 朝草刈りの 眼をさます

 踊りたか踊れ 泣く子をいくせ
 ササラは窓の もとにある
 烏帽子 狩衣 ぬぎすてて
 今は越路の 杣刀

 向いの山に 光るもん何じゃ
 星か蛍か 黄金の虫か
 今来る嫁の 松明ならば
 差し上げてともしゃれ 優男


         (出典)「世界の民謡・童謡」より。

 (4) 麦 屋 節

 舞台の最後は、「麦屋節」である。刀を差し、黒の紋付袴で白たすき、白足袋姿の凛々しい男性が笠を持って登場し、地方の唄と演奏に合わせて踊る。刀を振り回すようなことはないが、笠をクルクル回すのが印象的で、武士の所作らしく全体としてテンポが早く、キビキビした動きが印象に残った。同じくツアーガイドからもらった紙には、

 「『麦屋節』は、全国的にも知られた五箇山民謡で、歌い出しが『麦や菜種は・・・』だったことから、『麦や節』とよばれるようになりました。麦や節の由来については、平家の落人によって作られたものという説があります。五箇山が平家の隠れ里であったことや、歌詞の内容から、麦や節と平家落人伝説を結びつけて伝承されてきたことがわかります。かつて『平家にあらざるものは人にあらず』と豪語した自分たちの悲しい運命を唄に託して歌い踊ったそうです。黒の紋付袴で白たすき、白足袋といういでたちで、一尺五寸の杣刀を差し、笠を持って踊ります。黒と白のシンプルな色づかい中に緋色の杣刀が浮き上がり、それらが作り出す色の対比が体や手足の動きをはっきりと映し出します。また、笠を回転させたり、上下に動かしたりする中に一瞬の静止を入れることで、静と動の対比を強調し、洗練された踊りとして目を奪います。早いテンポの中に哀調のある歌詞、勇壮で力と活気に満ちた踊り。麦や節の中にはさまざまな対比があり、それらが調和することによって、心地よい緊張感あふれる空間を作り出しています。」


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『麦屋節歌詞』

 麦や菜種は 二年で刈るが
 麻が刈らりょか 半土用に
 浪の屋島を 遠くのがれ来て
 薪こるてふ 深山辺に
 烏帽子狩衣 脱ぎうちすてて
 今は越路の 杣刀
 心淋しや 落ち行くみちは
 川の鳴瀬と 鹿の声
 川の鳴瀬に 布機たてて
 波に織らせて 岩に着しょう
 鮎は瀬につく 鳥は木に止まる
 人は情の 下に住む


         (出典)「世界の民謡・童謡」より。



2.月見おわらを見物

 ツアーガイドによると、舞台の見物が終わった後、八尾の町内で午後7時から9時まで、流し踊りがあるようだ。ガイドからもらった紙にその場所とスケジュールが書いてある。本番(9月1日から3日まで)のときには、ある町内の流し踊りを見るには、その町内まで行かなければならない。ところが、この月見おわらの催しでは、AゾーンからGゾーンまでに区切ってあって、同じ場所に居れば、30分ごとに4つの町内が踊りながら流してくれるそうだ。なるほど、これは便利だ。しかも、一般にカメラのフラッシュが禁止されている中で、Dゾーンだけは、それが許されるという。フラッシュを使わないとうまく撮れないから、認めてほしいという観客の要望を受けたものだそうだ。

 そこで、どこで撮ろうかと考えた末、Bゾーンに行ってみることにした。4つの町内が全部見られるし、坂の町の坂上から下りの方向なので、踊り手や唄い手がそれほど疲れないだろうと思ったからだ。写真を撮るためにはフラッシュがあった方が綺麗に撮れるが、ただこの越中おわら風の盆は、日が落ちてぼんぼりに灯がともったところで演じられるところに良さがある。フラッシュを使うと、そのせっかくの雰囲気が台無しになるからだ。もっとも、越中おわら節は、写真では全くといって良いほどその情緒が出ない。やはり、記録するにはビデオが一番なので、そうすると、あちこちからフラッシュが光ると、まともなビデオが撮れない。というわけで、Dゾーンに行くのは止めた。

 Bゾーンは、町の北東の諏訪町通りにある。そこで待っていると、鏡町、東新町、福島、今町の順で、町流しをしていただけるようだ。見物する場所を探す。石畳みの美しい道の両脇に、景観に配慮した柳格子の町家が並んでいる。その玄関先に入れてもらった。もう一列目は、既に見物客がズラリと並んで座っている。その後ろから立って撮ろうという算段だ。少しでも踊り手に光が当たるように、私の背中からぼんぼりの灯火が照射される位置で、しかも逆光にならないように、向かいにぼんぼりがないところに陣取るようにした。


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 胡弓の哀しげな音が響き渡り、いよいよ始まった。まず、笠を目深に被った男性達のキビキビした踊りがやって来る。時々、両手を拡げて斜めのスタイルになったり、あたかも田圃を耕すような所作が入るから、面白い。唄い手は、甲高い声で三味線と胡弓によく合っている。声が途切れると、太鼓の間奏が入ったり、年配の男性が「ア、ヨット」、「キタサノサ ドッコイサッサ」などの合いの手を入れて調子をとる。そういえば、ツアーの参加者の中には私に「もう、7回も来ているのですよ。特に、A町内のあの人の合いの手が好きです。」と言っていたが、ああ、これかと思い出す。その時は、「唄い手ではなく、合いの手が好きだとは、実に変わっている人だ。」と思った。ところが、こうして実際に聞いてみると、なるほど、歌舞伎で役者に声を掛けるときのように、絶妙なセンスが必要な役割だと感じたから、不思議なものである。

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 まず、カメラ(キヤノンEOS70D)のビデオで撮影した。胡弓と三味線の哀しげな音色、唄い手の切々と迫るような歌声、それに合いの手などの耳から得る情報、さらに踊り手の優雅の動きなどの目から得る情報は、ビデオでなければ、記録することは不可能だ。ビデオを撮りながら、目と耳で余韻を楽しむ。踊り手の女性の、優しげな手の動きがよい。傘を目深に被っているから、女性らしさが一層際立っている。そうこうしているうちに、第1陣の鏡町の一行が通り過ぎてしまった。あれあれ、これでは私のHPの「悠々人生」向けの写真が撮れない。というわけで、次の東新町の一行の踊りでは、主にカメラで写真を撮っていった。画像がぶれないようにしっかりと両脇を締めて撮るのだが、光量が全く足りないため、手を動かしているときには、その部分だけぶれる。でも、おわら踊りは、時々、動作を止める瞬間があるので、そういう時にある程度手先がぶれるのは仕方がないし、かえって踊っている最中だとわかる味わいのある写真となるから面白い。そういうことで、最後まで、おわらの町流しを観て、富山駅前のホテルに帰ってきた。部屋に戻ってからも、私の頭の中で、まだ胡弓の哀切あふれる音色が鳴り響いていた。








 月見おわら(写 真)





(2017年9月23日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:06 | - | - | - |
叔父さん達の思い出と軍歴

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 昨年の夏前、「父の思い出と軍歴」というエッセイで、私の父の軍歴証明書を本籍のある県に問い合わせて送ってもらい、父を偲ぶ「よすが」としたという趣旨のことを書いた。それから1年ほど経って、実家にあった、「古いアルバム写真のデジタル化」を進めていったが、その過程で、私の祖母や父、そして叔父さんと叔母さんの若き日の姿が収められた写真を拝見して、何とも懐かしい気持ちになった。私の祖父は、終戦後まで存命だったが、私が生まれる直前に亡くなったので、私自身はその顔を知らない。ところが、この写真の中では、元気な顔をして写っているので、まるで会ったような気がした。

 ところで、そのエッセイの中で、私はこう書いた。「父の2人の兄さん達は辛酸をなめた。5歳上の長兄は、私にとって誠に頼りになる叔父さんだったが、フィリピンに6年間も派遣され、最後は生と死の境を彷徨い、どうやら生還した。帰国してからも、時折マラリアの発作に苦しんだ。3歳上の次兄は、確かガダルカナルの戦いに参加したと聞く。ガダルカナルといえば、補給作戦が徹底的に妨げられた結果、武器弾薬どころか食糧が圧倒的に不足し、加えてマラリヤにも苦しめられて、将兵は骨と皮ばかりに痩せ細り、派遣された約3万人中、およそ5千人が戦闘で死亡、1万5千人が餓死又は病死し、帰還できたのは1万人だったと聞く。あまりにも餓死が多いので「餓島」とさえ言われたそうだ。そういうところから、叔父さんは何とか帰還することができた。とても温和な叔父さんだったが、そのときの無理がたたったのか、戦後十数年して急逝してしまった。」

 しかしながらこれは、亡くなった父から聞いたことで、叔父さんたちに確かめたわけではない。もっとも、確かめようにも、叔父さんたちも既に鬼籍に入っているから、直接聞くことはできない。さりとて、わざわざ私の従兄弟たちに聞くほどのことではないし、例え聞いたとしても、特に次兄叔父の方の従姉妹は、まだ小学生のときに父親が亡くなっているから、知らない可能性が高い。そういうことで、家系を把握するという意味では画竜点睛を欠くので長年気にはなっていたことではあるが、確かめようがないので、そのままにしておいた。ところがこのほど、解消する糸口を意外と簡単に見つけることができた。3親等以内の親族であれば、軍歴証明書を取り寄せられるというのである。叔父さんたちは、もちろん私の3親等に当たる。このお2人が召集されたのはいずれも陸軍であるから、父の軍歴証明書を交付してもらったのと同じ手続でよい。まず、県に対して電話で、叔父さんたちの名前と生年月日、召集時の本籍地を伝え、軍歴証明書があるかどうかを聞いた。すると、あるという。そこで、書類一式を揃えて、交付申請をした次第である。


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 県庁から届いた叔父さんたちの軍歴証明書を開いてみた。父のものと違って、びっしりと書いてある。まず、長兄叔父は、昭和14年12月に歩兵連隊の中隊に歩兵として入営し、大阪港から出発して青島に上陸した。そして、その辺りの警備についたとある。ところが翌年、安徽省での戦闘で左肩に盲管銃創という重傷を負ってしまった。「現認証明書」という書類が添付されていて、「昭和15年○月○日、安徽省○○附近に於て戦闘中敵弾に依り左肩○○に受傷したる事を現認す」とあり、中隊長と軍医が証明している。そういえば、父の残したアルバムに、白い傷病兵姿の叔父さんの写真があった。その年のうちに傷は完治したということになって、原隊復帰した。警備任務が多かったということは、身体がまだまだ本調子ではなくて辛かったと思うが、それから1年間、中原会戦を含む「支那事変勤務」としてそのまま中国に留め置かれた。そして、昭和16年末の太平洋戦争の開戦に伴って、翌昭和17年2月「南方派遣のため」として青島から出発した。

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 9日後に着いたのが、フィリピンのリンガエン湾にあるマビラオである。開戦直後に日本軍のフィリピン侵攻のM作戦で、この湾も上陸地点となって戦闘が行われたところである。初戦でクラーク飛行場の米軍航空戦力をあらかた破壊したことから、作戦は順調に進み、約1ヶ月後の昭和17年1月2日にはマニラが陥落した。ところが、米比軍はマニラ湾のバターン半島に立てこもり、強力に抵抗した。日本側は当初これほどの兵力を蓄えまた要塞化がされているとは予想もせず、1旅団を差し向けたが、全滅に近い大きな被害を被った。これが、第一次バターン攻略戦である。そこで、大本営は十分な兵力を集中させて一気に攻略する計画を立て、中支、香港からの応援部隊を加えて第二次バターン攻略を目指すことになった。だから長兄叔父は、その中支からの応援部隊の一員だったのである。それが4月に一段落した後、同17年中は、北部のルソン島、中部のビサヤ諸島の平定作戦に参加した。

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 それから、「転進のため」ということで再び船に乗せられ、昭和17年12月にマニラ港を出発して、仏領印度支那のサイゴン(現在のホーチミン)港に上陸し、更にハノイの近辺にあるハイフォンに到着した。次いで中越国境の地ラオガイに着いて、同地付近を警備した。昭和18年のお正月は、この地で迎えた。そのままラオガイ省にいて、昭和19年11月から翌20年1月まで中越国境を通過して、中国で展開された一号作戦に参加した。この作戦は、日本本土の爆撃に使われる中国国内の米軍航空基地を攻撃するとともに、物資輸送のために華北、華南、仏領インドシナを通貫するルートを確保しようというものである。しかし、長兄叔父が参加したのは、もはやそれが終わりかけの1ヶ月ほどのものである。その後、20年3月から5月にかけての明号作戦、つまりそれまで共同統治の相手方だったヴィシー・フランス軍を日本軍が攻撃して単独統治にした事件に参加した。それが終わってから、ハノイで警備任務に着き、8月15日の終戦はそこで迎えた。翌21年4月に帰還のためハノイ港から乗船して、3週間かけて浦賀港に上陸したとある。6年余にわたる辛かった兵隊生活が、これでやっと終わった。

 私の知っている長兄叔父は、実に温和で優しい人だった。私や妹の結婚式では、親族を代表して、心温まる挨拶をしていただいて、非常に有り難かった。父と仲が良く、いずれも銀行を退職してからは、お互い近くに住んで、共通の趣味の釣りによく行っていたものである。その人が、こんな大変な戦争体験をしていたとは想像もしなかった。この叔父さんは、銀行を退職後、自分の会社を立ち上げてそれを立派な会社に育て上げ、それを息子に譲って、引退した。それから悠々自適の生活を楽しんだ後、70歳代で亡くなった。


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 さて、次兄叔父の従軍期間は約4年余と、長兄叔父に比べれば約半分である。ところが、行き先は、聞いていた通りガタルカナルと、そしてラバウルである。戦車兵として、昭和17年1月に入営した。するとすぐに、胸膜炎になって、入院してしまった。それが秋に治癒して10月に復帰した。翌18年1月、宇品港から出発して南洋群島コロル島パラオに到着し、次いでビスマルク群島ニューブリテン島ラバウル港上陸して戦車隊に入り、そこでココボ付近警備と軍主力ガタルカナル島作戦業務に従事した。ちょうどこの昭和18年2月は、ガダルカナル島で米軍と鍔迫り合いを演じていた日本軍の敗退が確定的になり、命令によって同島から日本軍兵士が撤退した時期である。所属した軍団が壊滅したりしたせいか、次兄叔父の所属と任務についての記録もめまぐるしく変わっている。「3月○日中隊主力ココボ附近上陸終結復帰。第17軍の隷下を脱し第8方面軍の隷下に入らしめる。5月○日軍令陸甲第○號により現地復帰下令。同31日復帰完結。同日戦車第○連隊に編入。同日第港中隊に編入。同日ラバウル附近の警備」とある。ともあれ、何とか生き残って再びラバウルに戻ることができた。

 それ以降の記録は、「昭和18年5月より10月まで第一次ビスマルク戦に参加。11月より昭和19年3月まで第二次ビスマルク戦に参加。編成替えを経て昭和19年3月より10月まで第三次ビスマルク戦に参加。11月より昭和20年4月まで第四次ビスマルク戦に参加。同年4月より8月まで第五次ビスマルク戦に参加」とある。その間に、兵精勤章を2度もらっている。ところで、この「ビスマルク戦」とは、一体、何だろう。その頃、近くで行われたビスマルク海戦のこのことかと思ったが、そうではないようだ。ガダルカナル島が米豪軍の手に落ち、次に来るのはニューブリテン島の日本軍のラバウルかと思われた。ところが戦況の悪化で、補給がままならない。そこで第8方面軍は、戦闘力の保持と食糧の確保のため、陣地の構築や食糧の生産を進めたそうで、それを称してビスマルク戦と言ったそうである。

 一方、米軍はガダルカナルを落とした後、手強い抵抗が予想されたラバウルを避けて、いわば飛び石のように島を伝って北上し、フィリピンや日本本土を目指したため、これ以降、ラバウルが巻き込まれた大きな戦闘はなかった。そのようなわけで、昭和20年8月15日の終戦時には、ラバウルには6万9000人の将兵がいたという。次兄叔父もその一人で、昭和21年4月にラバウルを出発し、わずか10日間で名古屋港に到着している。帰国の時期は長兄叔父とほぼ同じだったので、海外に派兵された2人の子供が無事に帰ってきた両親の喜びはいかばかりだったか思うと、胸が熱くなる。ちなみに私の父は国内に留まっていたので、こちらも無事だった。あの戦争の時代に、3人の男の子を持って、いずれも命を永らえて帰ってくるというのは、あるいは珍しいことだったかもしれない。終戦時の長兄叔父は軍曹、次兄叔父は伍長だったから、それなりに務めを果たしたのだと思う。

 次兄叔父が一時送られたガダルカナル島では、昼夜を分かたず米豪軍の砲撃がある一方で、日本軍の兵站が全く届かず兵士は常に飢餓状態に置かれたそうだ。昭和18年2月の撤退時には、送られた兵員31,358名に対して、撤退できたのは10,665名と言われている。撤退できなかった兵員のうち、戦闘による死亡は約5,000名、餓死や病死が約15,000名とされている(NHK「ガタルカナル島 学ばざる軍隊」平成12年)。そのような惨状にあって、よく生き残ったものだと思う。ただ、残念なことに、そのときの無理がたたったのか、次兄叔父は、戦後十数年して奥さんと1人の女の子を残して急逝してしまった。心臓麻痺だったと聞いているが、誠に残念なことである。亡くなられたとき、私は確か小学校6年生で、私のいとこであるその女の子は4年生だったように記憶している。亡くなる前は、家族ぐるみでよく行き来したものだった。優しい叔父さんという印象が残っている。その人が、結局のところ、この戦争の犠牲になった。つくづく、戦争とは罪作りなものだと思う。




(2017年9月18日記)


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