いまどきの傷の手当て

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カラーの写真を見たい方は、こちら。ただしあまりお勧めはしない。



 最近の毎晩の仕事は、父の残してくれた古いアルバムの写真のデジタル化に取り組むことである。これを通じて、若い頃の父母や妹たち、それに私自身に出会うのは、時空を超えた感があって、実に楽しみだ。父は、こんなにマメに写真を整理して、この十数冊を残してくれた。感謝するほかない。

 最初、写真をアルバムに貼ったままで、そのデジタル化を行おうとしたが、それだと写真の退色補正や傷とカビの修復ができない。同じページにある写真でも、ひとつひとつの退色や傷付き具合が違うし、ページ全体が大き過ぎて、スキャナのサイズには合わないからだ。仕方がないので、各ページ全体のイメージは別途、写真に撮って保存し、個々の写真は、アルバムから剥がした後でスキャナにかけて画像を取り込むことにした。こうすると、画像を補正できるし、それをレタッチしていくことが容易だし、綺麗にした写真を再出力して新しいアルバムができるし、年代順や人物別に整理ができるなど、色々と都合が良いというわけだ。ただし、元のアルバムは失われる。それも、メリットを考えれば仕方がないと考えた。

 そういうことで、写真を剥がしていったアルバムは、もう5冊目に入った。剥がすときには、まず各ページの透明フィルムを取り、台紙と写真をむき出しにしてから剥がすのだが、アルバムの性能が良すぎて、写真をなかなか剥がせない。手ではどうやってもダメなので、フルーツナイフをへらのように使ってすることにした。最初は切れ味の鈍いものをということで、セラミック製のナイフを使っていた。ところが、4冊目の終わりまで来たところで、何とまあ、折れてしまった。余程の力が繰り返しかかったとみえる。そこで、今度は金属製のフルーツナイフを買ってきて、それで作業を続けて行った。これは切れ味がいいものだから、作業の効率は高まった。ただ、切れ過ぎるのは、問題だと思っていた。

 昨晩もそうやって、写真剥がしの作業を続けていて、午後9時になり、5冊目の半ばに差し掛かった。そのページの四隅の写真全部を剥がし終わって、残るは真ん中の写真だけだ。それが、強く付いていて、なかなか剥がれない。仕方がないので、左手を台紙の下へ置いて写真を少し浮かし、それで写真を削ぎ取ろうとした。ところが、うまく取れないので力を入れたら、写真だけでなく下の台紙を突き破って更にその下の私の左手人差し指にまで到達し、指の先が少し切れてしまった。

 最初は、血がなかなか止まらないので困ったが、指の根元の方を圧迫してしばらくするとやっと止まった。傷口をしげしげと見たら、先端に丸い皮ふの残骸があって、そこから下へ2センチほど半円形に切れているように見える。これは縫ってもらう必要があると思った。そこで、近くの外科医院に行こうと、東京都と救急相談センターに電話した。そうしたところ、切れ切れの聞きにくい機械の音声で、新宿百人町と羽田空港の診療所を告げられた。私の住んでいる文京区には夜間診療はないようだ。家内が、「そんな遠くに行くよりは、いつもの虎の門病院の方がいいのではないの?」と、傍らから言ってくれたので、それもそうだと思い直し、虎の門病院に電話した。ここなら、40分もかからなくて行ける。診察券は元々あるので電話すると話は早く、すぐに来て良いですよということになり、1人で行った。当直医師は、若い外科医のお兄さんで、説明の歯切れがよく、信頼に値する。これなら任せて大丈夫だ。手当てにとりかかる前に、水道水で患部を洗い流すと、2センチほど切れたと見えた半円形の部分は単なる血が流れた跡で、実は先端の丸く皮膚がえぐれたところが患部だとわかった。痛いのは、指の先端部分に、神経が集まっているからだそうだ。まさにそこをスパッと切ったというわけだ。

 では、その丸く皮膚がえぐれたところにひらひらと残っている蓋のようなもの(フラップ)を縫おうという話になり、その前に麻酔の注射をすることになった。患部の周りかと思ったら、そうではなくて、指の付け根だという。指の先端に麻酔を打つと、血流が悪くなって良くないそうだ。そこで、指の付け根に4ヶ所、麻酔を打たれた。ところが、その部分は確かに感覚がなくなるが、肝心の先端部分は、まだ痛いという知覚が残る。これはダメだと、更に4ヶ所ほど打って、ようやく先端まで痺れた。そこで、フラップを3針縫いつけてもらった。釣り針のような針に糸を通し、それを患部に縫い付けて、器用にクルクルと縛る。流れてくる血を拭いながらだから、それだけでも大変だ。やっと終わり、ワセリンかゲンタシン(化膿止め軟膏)のようなものを塗った。もう、血は止まっていたので、そのまま市販のバンドエイドで止めてもらった。こんな簡単な方法でよいのかと思うくらいだ。


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 医師の話によると「最近は消毒せず、怪我をしたところを水道水で洗い、汚れを落とす。それから清潔な、できれば市販の滅菌済のガーゼで水気を拭き、血が止まるまで手で押さえる。止血できたところでワセリンのような保湿剤を塗って乾かさないようにする。寝ている時などに傷口が何かにあたるといけないので、そういう場合は絆創膏で止めるといい。」という。確か以前、市販のラップにワセリンを塗って傷口に当て、絆創膏や包帯でそのラップを固定する。それは1日1回、取り換えるとよいと聞いたことがある。民間療法の類かと思っていたが、最近は医療現場もそうなってしまったようだ。更に昔は、白い泡の出るオキシドールや赤茶色のイソジン、更にその昔は赤チンなるものを塗って消毒したものだが、それはかえって治りを遅くし、しかも元のように綺麗には治らないことが多いそうだ。

 常識というのは時代によって異なることが多いが、これほど180度正反対にひっくり返ってしまうとは思わなかった。しかし、考えてみると、似たような例は枚挙にいとまがない。私の学生時代は、いくら暑い日であっても、運動中は絶対に水は飲むなと言われていたのに、今は逆で、なくなった水分を補給するためには水は飲まなければいけないものとされている。また、昔は日焼けをすると健康的な体になるといわれていて、日焼けが推奨されていたものだが、今は全く逆に日焼けをすると紫外線を浴びて身体に有害だと言われて外に出るときは長袖、襟元までカバーのある帽子をかぶり、日焼け止めを付けることが推奨されている。受験時は3当5落といって、3時間しか寝ないで勉強する人は合格し、5時間も寝ているようでは落ちるなどと、今から振り返ると馬鹿馬鹿しい言葉が流行った。しかし、そういう迷信のような考えの下でも、私のようにこの年まで生き残ってきたのだから、人間というものは、元々強くて、ちょっとやそっとの悪い環境でも十分に耐えられる身体を授かっているのかもしれない。




(2017年6月23日記)


カテゴリ:エッセイ | 15:03 | - | - | - |
パンダの赤ちゃん誕生

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 上野動物園(東京都台東区)のジャイアントパンダの「シンシン」(11歳)が、2017年6月12日、待望の赤ちゃんを産んだ。父親は、雄の「リーリー」(11歳)である。ビデオによると、赤ちゃんは人間とそっくりの「ギャアー、ギャアー」という鳴き声を上げ、母親の身体の蔭から時折、ピンク色の身体をのぞかせている。それをシンシンは、体をなめたり、口でそっと咥えたり、お乳をあげたりして、甲斐甲斐しく世話している。

上野動物園のジャイアントパンダ情報サイト「UENO-PANDA.JP」より


 上野動物園では5年前にも、この2匹の間で雄の赤ちゃんが産まれたのだが、残念ながら6日目に肺炎で死んでしまった。そのときは、シンシンがまだ母親として不慣れだったようで、最初は一生懸命に育児していたものの、出産翌日に疲れて子供を抱くのをやめてしまったことから、動物園側が一時的に保育器で預かった。そしてシンシンが元気を取り戻したようなので、再び赤ちゃんをシンシンの元へ戻した直後の死亡だったようだ。

 今回の赤ちゃん誕生から7日目となった。母親シンシンは、出産後丸4日間ほど絶食状態で頑張ってきたが、ようやく16日夜になって好物の真竹を食べ始めたという。この調子なら前回の轍を踏むことなく、まず大丈夫だろうと言われている。よかった。


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 ところで、この慶事を祝って、上野動物園の周辺では大騒ぎである。動物園に父親の「リーリー」を見に来る人はもちろん、周辺の商店街で、記念メニューの販売やセールなどで盛り上がりをみせている。私と家内は、いつも家から20分ほど歩いて御徒町の之酘殴僉璽蕁爾膿事をすることが多いが、そこも例外ではない。昨日も行ってみたところ、「パンダ誕生記念メニュー」と名うってパフェやらパンケーキやらがあった。面白そうなので、パンダパフェを注文したところ、持ってきてくれたのが、冒頭の写真である。なかなか可愛いし、それだけでなく誠に美味しい。しかし、これで586キロカロリーもあるとは・・・せっかくダイエットに成功してリバウンドしないように気をつけているのだから、今晩の夕食は、軽くしよう。



(2017年6月19日記)


カテゴリ:エッセイ | 17:39 | - | - | - |
古いアルバム写真のデジタル化

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 先日、実家に帰ったとき、2階にある十数冊のアルバムに気が付いた。6年前に亡くなった父が、昔の写真を整理して残しておいてくれたものだ。何しろ昔のアルバムなものだから、とても重い。そのずっしりとする重さを手に感じながら開いてみた。すると、父と母が産まれたばかりの赤ん坊だった私を抱いている写真から始まって、戦前と戦中の2人の学生時代の写真、まるで肖像画のような祖父母の写真、父の仲の良かったその兄弟つまり私の叔父や叔母の写真などが続く。写真館で撮ってもらったものは大判だが、それ以外は、ほんの5センチ四方くらいで、とても小さな写真ばかりだ。印画紙が高かったのだろう。

 それにしても、長兄に当たる叔父さんのハンサムなこと。たとえば20歳のときのトレンチコートを着てハットを被った叔父さんは、まるで、ハンフリー・ボガードその人のようだ。しかも、達筆な英語のサインまでしてある。戦時色が強まる中で、大丈夫だったのだろうか。父から、その学生時代に柔道をやっていたのは聞いていたが、実際に組み合っている写真もあった。実に格好が良いなぁと思う。またこの写真、父の一番下の妹に当たる叔母さんの、祝言の日の幸せそうな顔といったらない。それから60年以上が経ち、この叔母さんと私の母以外は、皆さんが亡くなってしまった。

 私が小さかった神戸時代の写真もある。幼稚園に通じる道のようだ。幼稚園まで急な階段が続き、私が嫌がったと母は言うが、確かにこの階段ときたら、幼児には無理だと思えるほど切り立っている。 気のせいか、私は不満そうな顔すら見せているが、さもありなんというところだ。おお、私よりほぼ10歳も歳下の年子の2人の妹が、手をつないでいる写真も出てきた。可愛かったなぁ、この2人はと、胸が熱くなる。父は、こうしてまめに写真を整理してくれているが、その過程では今の私と同じ心境だったのかもしれないと思うと、親子の絆を感じる。

 私が中学1年生のときのクラスの集合写真があった。私は2年生の初めに名古屋に転校したから、この中学校には1年間しか通わなかった。だから、この中学については全く忘れていたのだが、何とまあ、就職してから東京の霞ヶ関で、このときの同級生の1人とばったり出会ったので驚いた。縁とは誠に異なものだ。その同級生と私が、ちゃんとこの集合写真に写っている。

 これらを眺めていると、人生というのは、ほんの一瞬のことのように思える。その中で、笑ったり泣いたり、喜んだり悲しんだりと、まあ忙しいことだ。でも、時は淡々と流れて、私も妹も、今や相当、歳をとってしまった。お互い、人生をつくづく振り返ってみる年代だ。ところが、このアルバムがこのままこんなところに大量に退蔵されていると、簡単には見られないし、整理もできない。しかも、アルバムに各ページの周辺の部分が、日焼けか虫喰いか酸化かはわからないが、黄ばんできているし、写真そのものにもカビらしきものが広がりつつある。あと20年もすれば、傷んで全く見られなくなるかもしれない。では、長男の役割として、これをデジタル化し、CDかブルーレイに入れて整理し、妹たちや子供たちに差し上げようと考えた。

 そういうわけで、最新型のキヤノンのスキャナを買い込み、毎晩、コツコツとデジタル化している。とりあえず、実家から持ってきた古いアルバムを2冊、合計100ページから写真を剥がし、それをスキャナの面に並べてボタンを押すと、スキャンが始まる。それで、これが優れたところなのだが、ソフトが自動的に書類か写真かを判別し、書類ならPDF形式で、写真ならJPG形式で個々にファイルを作ってくれるのである。これは便利で、一度に大量にデジタル化ができる。その反面、アルバムから写真を剥がすのがとても面倒だ。それに、いったん剥がしてしまったら、元に戻すのが難しい。そこで、父の書き込みがある部分はその書き込みを別途デジタル化し、写真を剥がしたアルバムは嵩張るので捨て、写真だけを保管しておくことにした。そうすると、アルバムは1枚か2枚のブルーレイに収まり、写真を含めても保管スペースは随分と少なくなる。

 その代わり、デジタル化した写真はできるだけ解像度を上げ、それを印画紙に印刷すれば原版と遜色のないコピーができるようにした。ついでに、黄ばんだり、青色が抜けて退色したり、カビが生えたりした原板のデジタル版を何とかしたいと思っていた。こういうときの定番のソフトであるPhotoShopを持っているのだが、これはいちいち手作業でしなければならないのが問題だ。高級な芸術写真ならこれを使う価値もあろうが、今回のものはそれほどのものではない。もっと簡単にできるソフトはないかと探したところ、GIMPというものがあった。これはフリーソフトながら、非常に簡単に使えて、出来上がりもなかなかのものだ。使い方は、GIMPのフィールドに写真をドラッグしてドロップし、「メニューの『色』→『自動補正』→『ホワイトバランス(W)』」の順に選択していくだけである。すると、次の写真が、その下の写真のように自動的に退色補正がされて、元の色を取り戻している。


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 このGIMPは、非常に実用的な良いソフトであるが、フリーソフトであるだけに、やや使いづらい面がある。その第1は、こうして作った退色補正後の写真を保存しようとすると、GIMP独特の「XCF」という拡張子のファイルになってしまい、汎用性に欠ける。そこで「エクスポート」を選択して、拡張子「JPG」ファイルにしなければならない。そのとき、JPGの特性として画像の質を選べるが、後から印画紙に出力することも考えて最高品質の100%で保存することにした。第2は、GIMPによるこの退色補正は、年月の経過でいわゆる「青色が抜けた」カラー写真については効果がある。ところが、カラー以前の白黒の時代に撮られた写真は、赤茶けたり黄ばんだりしている。そういうものにGIMPの自動補正を使うと、特に赤茶色はますます色が濃くなって、逆効果となる。これはどうしたものかと色々と試行錯誤した結果、「彩度」をゼロにして本物の白黒写真にしてしまうことにした。ところがそうすると、赤茶けた写真のときには目立たなかった黒点が浮かんでくることがある。そういう場合は、いつも使っている「Webart」で修正することにした。

 そういうことで、毎晩、せっせと作業を続けたところ、1日当たり平均10ページの速度で、10日かかって全2冊のアルバムを終了した。ほっとひと息ついていると、妹からメールが来て、残り12冊を送ったから、明日中には着くそうな・・・何と、手回しのよいことだ・・・まるで終わるのを見透かされていたようだ。それにしても、これを全部終えるには、毎日取り組んで60日もかかる計算になる。そう思うと、いささか気が遠くなった。でも、別に急ぐ作業でもなく、千里の道も一歩からと思って、まあ、のんびりやってみようかという気になっている。とりわけ、半世紀以上も前の父母、親戚や、私自身に会うのが楽しみになってきたからである。




(2017年6月13日記)


カテゴリ:エッセイ | 21:02 | - | - | - |
堀切菖蒲園と紫陽花

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 前回は2012年に堀切菖蒲園の花菖蒲を行ったが、それから5年経って、家内とともにまた見に行くことにした。我が家から上野御徒町へ出て食事をし、歩いて京成上野駅に行って京成線で5つ目の駅が堀切菖蒲園駅である。駅を降りたとたん、威勢良い鉦の音が響いて、いきなり阿波踊りの一行が目の前を行く。その名も「あやめ連」とあり、黄緑で菖蒲を染め抜いているお揃いの衣装が目にまぶしいほどだ。つい先日、徳島を訪れて、本場の徳島での阿波踊りのよもやま話を聞いてきたので、それが思い出される。どうもこれは、「ほりきり葛飾菖蒲祭り」の一環として踊っているようだ。このまま見ていたいのは山々だが、出掛けたのが遅かったので、先に花菖蒲を見に行くことにして、商店街を歩き出した。

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 途中、「菖蒲七福神」なるものがあって、いずれもふくよかな体形に笑い顔の七福神の像が立っている。さらに進むと、川を暗渠にしたような曲がりくねっている道があり、その両側の道や民家の庭先に、紫陽花をはじめとして、七変化やバラなどの色々な花が咲いているのは、前回と同じである。今回、驚いて感心したのは、「宝船」というお店の前にあるサボテンの花である。私の背よりはるかに高くて、3メートルほどもある木で、幹を見たらトゲがあったので、間違いなくサボテンであろうが、それが黄色い花をたくさん咲かせていた。そもそも、大きなサボテンが花を付けること自体が稀だと思うので、珍しいものを見せてもらったと思う。

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 さて、それを過ぎたら、紫陽花が満開である。青い色、紫色、白色、こんもりした手毬咲きの紫陽花に、咢が周辺に配置されているガクアジサイ(額紫陽花)も多い。豊島園に行くと、このガクアジサイの小さなものがあって、これが元々の日本原産の紫陽花だったという。それが幕末にシーボルトによってヨーロッパに持ち出されて改良されて、逆輸入されたものが手毬咲きの紫陽花だと聞いたことがある。

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 しばらくしてようやく堀切菖蒲園に着いた。四角いアーチが迎えてくれる。江戸系、伊勢系、肥後系などの花菖蒲を中心に6000株が植えられているという。大きな灯籠や松もあってそこから菖蒲田が目に入るようになっていて、なかなか風情がある。今日はまさしく花菖蒲が満開で、紫色、白と紫が混ざったもの、藍色といってよいもの、白色など様々な花が集団で咲いているから、これは見ごたえがある。それぞれの花の品種には、「神路の誉れ」、「春の雪」、「夢の里」、「誰待花」、「夜明け前」、「露間の朝」、「紫衣の誉」などと詩情豊かなネーミングがされている。いずれも魅力的な名前だが、その数があまりにも多いことから、いちいち対比するのも大変なので、ここは家内とともに素人的に単に花だけを見て回ることにした。

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 見物人には様々な人がいたが、中には、私と同じような歳の人が、車椅子に乗った父親を連れてきて、花菖蒲を背景に一緒に写真を撮っている方もいて、これは記念になるだろうなと家内と話しあったりした。我々のように、親が歳をとり、介護を必要とする年齢に達しないと、なかなかわからない感覚かもしれない。花菖蒲を十分に満喫したところで、静観亭というところに入り、家内とお茶を飲み、よもやま話をして、帰途についた。穏やかな日曜日の午後の、ちょっとした楽しみだった。

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 葛飾祭りと紫陽花(写 真)


 堀切菖蒲園花菖蒲(写 真)






(2017年6月11日記)


カテゴリ:エッセイ | 22:49 | - | - | - |
尾道と福山への旅

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 尾道と福山への旅( 写 真 )


 たまたま、尾道を訪れる1週間ほど前、「ブラタモリ」というNHKテレビ番組で、この町が取り上げられていた。この地は山に奇岩があったため、中世の頃から修験道の地として有名で、そのため寺社の町として発展してきたそうだ。それが近世になって瀬戸内海の交易の要衝として栄え、そのとき土地が足りないものだから、南北に平行して並ぶ三つの半島の間を埋め立てて土地を造成し、今の町の形ができたという。それが鉄道の時代になって、人口が稠密な海岸地区から少し山寄りの土地に線路を引いたものだから、山の上にある寺社へと続く一本道の参道が線路で途切れる形になった由。また、この町は大戦中の空襲で壊滅するということもなかったので、戦前の街並みがそのまま残り、その点でも珍しいという。

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 さあ、町歩きをしようと駅に着いた。尾道は、その歴史からわかるように、それこそ中世以来の迷路のような入り組んだ道が続く町である。最初のプランは「尾道駅より15分ほど歩けばロープウェイの駅に着くから、そこから乗って千光寺に行けばよい、帰りは下りなので楽だ」・・・と思って歩き始めた。ところが、何しろ路地の先がどうなっているのか、歩いてそこに行ってみないとさっぱりわからない。そういう中、「古寺巡りコース」という案内の石柱が目に入り、そちらの方がわかりやすい。それを辿っていくと、千光寺に行き着けると思ったのが苦難の始まりだった。まるで普通の民家の台所の裏のような路地を抜けて、すれ違うのも難しいような裏道を通り、それこそ中世に築かれたのでは思うくらいの苔むした石垣を見上げながら、ともかく前進していった。猫もいて悠然と歩いているのに対し、こちらは急坂の連続で、へとへとになる。途中、民家の玄関先にこんな詩が書かれていた。

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     旅する人へ

   おのみちを歩いてごらん
   千光寺山を古家が這い上がる道を
   海から風も登ってくる
   汐の香を撒きながらあなたへご馳走
   坂道をさ迷うとき
   やさしく迎える山寺のみ仏
   どこへゆくのかこの道
   どこまで続くかこの道
   ほそい道はだまって登ったり下ったり
   そのたびに青い海がきらりと顔をのぞかせて
   行き手をふさぐ巨石が遠い祖先の顔をしてあなたに話す
   ここでは時と同じ速さで過ぎはしない
   山ふところが□□□て誰か呼ぶ声
   人生の過ぎゆく□旅ゆく人よ
   さびしい時は孤独を連れて
   花咲く春は愛するひとと帰っておいでよ旅人よ
   千年の昔からみほとけ達の膝に住むふるさと    おのみちへ

 とっても、心温まる詩だ。惜しむらくは、最後の署名が薄れて読めない。でも、いかにも尾道らしく、その町の特徴、伝統、み仏への信仰の深さ、そしておもてなしの気風がよくわかる。この詩に出会えただけでも、ここまで歩いてきた甲斐があったというものだ。肩に力が入っていたので、これを読んで少し気が楽になり、落ち着いた。さらに先を目指して登りに登り、やっとのことで、千光寺に着いた。上から今にも落ちてきそうな大きな岩の脇を抜けて、本堂にお参りしたついでに、そこの売店のおばさんと立ち話をする。「先週土曜日にブラタモリでやっていた内容だけど、あの大岩の上にあるのがその輝く石ですか。昔々それが外国人によってえぐりとられてなくなったというのは、本当ですか」と聞くと、「自分が中学生のときに、私がその外国人役をやったから、そういう言い伝えがあるのは、本当です。」という。このやり取りの最中、可愛いお地蔵さんのような像が目に入ったので、記念にそれを買い求めた。


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 さて、そこからさらに上に位置する千光寺公園まですぐだろうと思って登って行ったが、坂がきつくなるし、歩くのは容易でなかったが、何とかロープウェイの山上駅に着いた。そこからほど近い展望台に上がって見る尾道海峡の美しさといったらない。まるでパノラマ写真のように広がっていて、視界の左手には尾道大橋、真ん中には向島、右手には因島や生口島がある。しばらく眺め、写真を撮って風景を堪能した。ついでに、山登りが過ぎて膝にきてしまったので、ソフトクリームを買い求め、そこで一服した。八朔と蜜柑の味だ。なかなか良い味だ。この風景の中だから、ますます美味しい。

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 少し休んだので、下って降りる気になった。まずは三重塔のある天寧寺だ。細い道を辿って行き、やっと着いた。この三重塔は、室町時代のものだという。あちこちが傷んでいるが、修理が追いつかないのかもしれない。その脇に、鯉のぼりが見える。はて、もう季節は終わったのにと思ってその方向に向かうと、ああ、これが猫の小道かと納得した。それらしきお店があるし、確かに猫もいて、堂々と振舞っている。それにしても、この狭い道と苔むした石垣は、相当な古さだ。戦前の日本の家屋は、これくらいの近さで建っていたのだろう。その狭い道の上に鯉のぼりを掲げているから、ますます狭く見えるが、不思議なことに、どことなく調和している。艮(うしとら)神社というところに出た。境内に御神木の大きな楠がある。見たことがないほど大きくて美しく、立派な木である。驚いたことに、その神社の真上に千光寺ロープウェイが通っている。

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 さて、鉄道の線路をくぐって、やっと海岸の平坦な地区に行き、商店街の中を歩くことになった。通行人が多く行き交っているので、もちろんシャッター通りではない。その中を歩いて見て回った。気の利いたレストランがあればなと思ったが、なかなか見つからない。そこで、町の食堂のようなところに入った。焼肉コロッケ定食を頼む。私はダイエット中なので、ご飯は半分でと特にお願いしたのだが、ソースの香りをプンプンさせて運ばれてきたものを見ると、半分どころか全く普通の量だ。思わず隣の人の食べているのを見たら、ご飯はまるでどんぶりメシのようだった。これが標準のボリュームらしい。店の中は、活気がある。九州から来たグループは、九州弁で大声で話している。聞くとなしに聞いていると、同じ九州でも、博多弁、大分弁、鹿児島弁、宮崎弁と、方言の違いが面白いと盛り上がりを見せている。そこへ地元の尾道弁が絡んできて、収まりがつかなくなっている。もう、笑い話だ。

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 お腹がいっぱいになり、その店を出て、「おのみち映画資料館」に入った。期待通り、小津安二郎監督と原節子の作品についての解説が多い。私の両親の若い頃が、こういう日本映画の全盛期の時代に当たる。私自身は30歳の半ば以降になって、当時中学生だった子供たちとともに東京物語、羅生門、影武者、近松物語、大阪物語、めし、驟雨、破れ太鼓、喜びも悲しみも幾歳月などを鑑賞したから、それぞれの物語のストーリー自体は知っている。しかし、こういう名画は、その人の感受性が最も豊かな青春時代に見ると、一番感動するものだと思うので、その点はいささか残念である。ちょうど、現在は50歳代半ば頃の人が、懐かしそうに「ガンダム」について語るのに、私には全く何のことかわからない。それと同じである。ところで、その後の日本映画は、苦難の道を歩む。怪獣もの、ヤクザもの、ポルノものが出るに連れて、堕落してしまった。それから長い期間を経て、宮崎駿監督のジブリシリーズが現れるまで、観に行く気もしなかった。

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 その映画資料館で、懐かしいスターたちのポスター見て回った。それから、その姉妹館のような、おのみち歴史博物館に行ってみた。この建物は、かつては尾道銀行本店だったそうで、中に入ると造り付けの金庫(熊平製作所製)があるので、面白い。ただ、展示自体は期待外れで、何もないに等しい。

 その頃、尾道の急坂での上り下りの無理がたたったか、どこかで休みたくなった。海岸通りに出たら、ちょうど停留所があって、レトロバスが来た。それに乗り込んで、ホテルへと戻った。身体中が痛いので、バスタブにぬる目のお湯を張って、そこでしばらく筋肉をほぐした。普段使わないところが痛い。かなり無理をしたようだ。風呂から上がって、眠たくなって、1時間半ほど寝てしまった。


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 起き上がってみると、午後6時半をすぎている。お腹が空いたので、しっかり食べようと思って、ホテルのフロントにレストランマップをもらって出たが、尾道ラーメンから始まって何から何まであらゆる飲食店が書いてあるから、何の役にも立たない。仕方がないので、海岸沿いに汐の香りを感じながら歩いていると、大きなビルの2階に、ちゃんとしたレストランがある。ステーキ屋さんだ。美味しそうなので、そこに入って200gのステーキを注文した。運ばれてきて、一口、味わったところ、とても美味しい。1日の疲れが一気に取れるようだ。1人で黙々とナイフとスプーンを動かしていると、隣の4人席にバラバラと60歳代前後のご婦人方が集まってきた。そして、今度、外国旅行に行くだの、レジャーボートを持っていてあちこちに釣りに行くだのと、まあ景気の良い話ばかりをしている。地元で自営業をされていて、その裕福なお仲間のようだ。この地でも、裕福な人は、それなりの暮らしをされている。若い人たちは、どうなのだろうかと思いつつ、それから、夜の港の写真を少し撮ってホテルに帰ったが、昼間は何の変哲もない向島のクレーンが、色彩豊かにライトアップされているのを見て、なかなか洒落ていると思った。

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 なお、JR尾道駅の真後に当たる丘の上に、お城らしきものが見える。確か、尾道は商都であって、お城などなかったはずなのにと思ってホテルの人に聞くと、「観光施設として作られたのですが、今は閉鎖されて外構だけがあのように残っています。」とのこと。要は、ハリボテだそうだ。確かに、ロープウェイでもない限り、あのような丘の上に歩いていくのは、大変だから、行く人はすくなかったのだろうと思う。

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 翌日、尾道から新幹線の駅がある福山に行く。新尾道という新幹線の駅があるのだが、尾道駅からは離れているので、それくらいなら岡山に近い福山に行った方が早いと思ったわけである。それに、福山駅のすぐ北に、福山城公園があり、そこに立ち寄ってみたかった。福山城のHPによると、「福山城は徳川幕府から西国鎮護の拠点として,譜代大名水野勝成が元和5年(1619年)備後10万石の領主として入府し元和8年(1622年)に完成した城で、江戸時代建築最後の最も完成された名城としてたたえられていました。また伏見櫓は築城の際に、京都伏見城の『松の丸東やぐら』であった遺構を徳川秀忠が移建させたもので白壁三層の豪華な姿に桃山時代の気風が伺えます。歴代の藩主は、水野家5代、松平家1代、阿部家10代と続き廃藩置県に至るまで福山城が藩治の中心でした。明治6年(1873年)に廃城となり、多くの城の建物が取り壊され,更に昭和20年(1945年)8月の空襲により国宝に指定されていた天守閣と御湯殿も焼失することとなります。その後昭和41年(1966年)の秋に市制50周年事業として天守閣と御湯殿、月見櫓が復原され、天守閣は福山市の歴史を伝える博物館として藩主の書画・甲冑など展示しています。」

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 こちらも、戦争のために国宝のお城が失われ、その後になってコンクリート製でお城が復元されたようだ。名古屋城と同じ運命をたどったというわけである。そのコンクリート製のお城に入ると、数々の甲冑が飾られている。その一つ一つを見ていると、最後には、あまりにも生々しく感じられた。そこを抜けて、さらに上階に上がろうとすると、前日の尾道で痛めた身体の筋肉が悲鳴を上げた。そこで、ゆっくりと登っていくことにした。福山城の天守閣に着いた。

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 天守閣からは、さすがに眺めが良い。目の前を左右に新幹線が通る。お城の周りには緑が多い。あれあれ、西の方角に、西洋のゴシック建築の大きなカセードラル(礼拝堂)がある。こんなの、あったのかと不思議に思う。ところが、これは礼拝堂でも何でもなく、単なる結婚式場であることが判明した。尾道駅のお城といい、まがい物でも良しとする文化があるのだろうか?その後、お城の周りを一周して再び駅前に戻って、ホテルの四川料理レストランに入り、麻婆豆腐を注文した。やや疲れた身体には刺激の強いものが良いと思ったからだが、期待に違わず、激辛だったけど、美味しいものだった。それから、元気であればもう少し回ってみるつもりだったが、いささか疲れたので、切符を変更して、早めに山陽新幹線に乗った。ここからわずか3時間半で東京に着くとは、驚きの速さである。なお、福山で買ったお土産は、もちろん、きびだんごと、ままかりの干物である。



(2017年5月28日記)


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