屋久島への旅

屋久杉

 

1.屋久島とは

 鹿児島県の屋久島に一泊二日の短い日程で行ってきた。先日、NHKの番組で、いかに屋久島が特殊な成り立ちの島かという解説を行っていて、興味を覚えた方も多いと思う。屋久島は、黒潮に浮かぶ周囲100kmの丸い形の島で、2つの地層から出来ている。まず、4000万年前から海洋部のフィリピン海プレートの上に堆積した地層が、プレートの沈み込みによって大陸側のユーラシア・プレートに乗り上げたものが島の基盤となった。次いで1550万年前に地下深部からマグマが上昇して冷えて固まり巨大な花崗岩となり、それが最大1000mも隆起して花崗岩の上部が地表に露出し、島を代表する中央部の山岳地帯の地層が形成されたというものである。ところが、7300年前に屋久島の北30kmのところで鬼界カルデラ火山が大爆発を起こした。その時に発生した火砕流が海を渡って屋久島を襲って生態系が大きく破壊されたと考えられている。大変な歴史があったものだ。

 現在、屋久島の人口は、12,300人、24集落があり、海岸部の平地に住む。屋久島に最初に定住したのが平家の落人だったという伝説があり、そのときに海上から舟を寄せる目印にしたという丸くて白い石が残っている。島の9割が森林山岳地帯であることから、「洋上のアルプス」とも称される。隣の細長い種子島で一番高い山の高さは282mなのに対して、屋久島には1000m以上の山が45座、1500m以上の山が20座、うち宮之浦岳が一番高くて、1936mというから、地中深くで前述のような大規模な地質の運動でもない限り、そんな不思議な地形の島は、できないはずだと納得した。ちなみに、その宮之浦岳だけれども、地元の皆さんが住んでいる地区のどこからも全く見えない。その手前に立つ他の高い山に邪魔されてしまうからである。

 屋久島の海岸部は亜熱帯気候であるのに対して、島の中心部は高山地帯特有の亜寒帯気候であることから、非常に変化に富んだ植物が見られる。まず、周辺部全体が照葉樹林であり、落葉樹はないので、秋の紅葉というものはない。シダ植物が豊富で300種類もある。とりわけウラジロは、新芽が出る季節がとても綺麗である。それから苔類の数は600種類以上もあり、白谷雲水峡は、「もののけ姫」のモデルとなったほど苔の多いところである。標高1,000m以上のところには、杉の大木である屋久杉が生えている。中には昭和41年に発見された縄文杉のように、その年齢が2,000年とも、いやいや7,000年以上とも言われるほど古いものもある(放射性年代測定では、2000年だった。)。ちなみに縄文杉を見るためには完全な登山行となり、往復に平均10時間かかるといわれる。先日やってきた海上自衛隊員は頑張って6時間というから、これが限界である。

 屋久島は古代から神の島であり、その大木の屋久杉は神の木として伐採されてこなかった。それが江戸時代になり、鹿児島の島津藩への年貢代わりに、屋久杉を切って横60cm、縦10cmの平木(ひらき) にして納めるようになった。屋久杉は油分が多くて、屋根を敷く用途に使われたそうである。木目が曲がっていたら平木にはならないので、形の良い杉ばかりが切られた。また、外側はまっすぐでも切ってみたら木目が曲がっていて使えないという杉は、そのまま現地に放置された。更には「土埋木」(どまいぼく)と言って、根とそれに近い部分は油分が多くて加工しにくいので、これもその場でそのまま放っておかれた。普通の杉なら直ぐに朽ち果てるたころだが、屋久杉は何しろ油分が多いことから300年近くも変わらずに残っている。

 ということで、それなりに事前勉強をして行くことにしたのであるが、調べれば調べるほど、縄文杉のところまで行くのなんてとんでもないという結論になった。でも、やはり屋久杉を見なければ始まらないと思い、何とかならないかと思って調べたら、島の中央部の標高1,200m付近に屋久杉ランドというところがあり、そこには一周30分コースから150分コースまであるという。ただ、安房(あんぼう)という集落から内陸部に向かって15kmもあるということで、行くだけで疲れ果ててはどうにもならない。そこで、到着したその日は屋久杉ランドに行く観光コースに、次の日の午前中も屋久島の海岸部を一周する観光コースに乗ることにした。最もお手軽で、とりあえず全部を見られるというわけだ。


2.屋久杉ランド

 そういうことで、屋久島に着いた当日は、空港から「やくざる号」という小型観光バスに乗った。安房(あんぼう)を経由して島の中心部に向かい、屋久杉ランドまで直行した。標高1,000mから1,300mに広がる面積270haの自然休養林とのことで、歩く人の体力と関心に応じて、30分、50分、80分、150分の4コースに分かれているそうだ。私が乗った観光バスには「50分の散策」とあったから、てっきり50分コースだと思い込んでいたが、30分コースだと分かって、少しガッカリした。

 

屋久島レクリエーションの森保護管理協議会のサイトより転載

 

ヤクスギランドの入口

 

 屋久杉ランド(正確には、ヤクスギランド)の入口には小屋があり、そこで森林環境整備推進協力金という実質的な入山料500円の支払いを済ませて、いよいよ出発である。森林内の湿気が凄い。「屋久島は、ひと月に35日も雨が降る」などと冗談まじりに言われるほど雨の多い土地柄で、行ってみると森の中に霧が出ている。だからカメラの自動焦点が定まらない。また、歩く足元にはとりあえず道らしきものが整備されているものの、湿気のために非常に滑りやすい。私はトレッキング・シューズを履いてきたから大丈夫だったが、そうでない街中を歩くような靴を履いていた人は、相当、慎重に歩かないというスリップしてしまう。しかも、高低差のある道を歩く。でも、沢渡りをしなければならないところには、簡単な踏み橋や吊り橋がかけられていて、なかなか考えられている。

 

ヤクスギランドの杉

 

ヤクスギランドの杉

 

ヤクスギランドの杉

 

ヤクスギランドの杉

 

 そうした橋から下を見下ろすと、流れる水が本当に透き通っていて、美しい。島の高地全体が花崗岩でできているので、泥などないのだ。また、岩を抱くように木が生えていたが、長い間にその岩が失われて、結果として木の根だけが空を張っているものすらある。岩は全面が苔に覆われているし、木の根にもびっしりと苔が生えている。羊歯植物も多い。森に特有の清浄な空気に、肺の中が隅々まで洗われるようだ。土埋木が出てきた。つくづく眺めてたくさん写真を撮りたいが、グループだからそれについていかなければならないのが辛いところだ。さりとて、プロの写真家ではないのだから、こんな森林内に一人で来る気もしない。少しその場に留まって写真を撮って、走って仲間を追いかけるということの繰り返しだ。「ときめきの径」と称するこのコース上には、木の股を潜り抜ける「くぐり栂」、「林泉橋」、切株の中から別の木が生えている「切株更新」、「千年杉」(ちなみに屋久島では樹齢千年以上になって初めて一人前の「屋久杉」と呼ばれ、それ以下は「子杉」と言われるそうだ。)、「双子杉」、「くぐり杉」、吊り橋の「清涼橋」などがある。コース上では、この季節には「油桐(あぶらぎり)」の白い細かい花や、薄いピンクの「桜つつじ」、コブラが鎌首を持ち上げたような「マムシ草」が咲いている。
 

羊歯の芽生え

 

羊歯

 

マムシ草

 

桜つつじ

 

 そのコースを歩き終えて、そこから車で20分ほどの「紀元杉」を見に行った。この屋久杉は、周囲8.1m、樹高19.5m、推定樹齢が3000年である。残念ながら何年か前の台風で先端が折れてしまったようだが、それでも下から見上げると堂々とした風格を感じさせる樹姿である。私は写真で自らの姿を撮ることはあまりしない方だが、この時ばかりは紀元杉と一緒の写真を撮りたくなって、ガイドさんにお願いして撮ってもらった。

 

紀元杉

 

紀元杉

 

紀元杉

 

 

 

 


3.屋久島海岸部

 

 

観光コースのパンフレット

 

観光コースのパンフレット

 

千尋の滝(せんぴろのたき)

 

千尋の滝近くの紫陽花

 

 さて、翌日は、別の観光コースに参加した。屋久島は丸い形をしている。それを上から見下ろして時計に例えると、4時の位置の安房から時計回りに1時の位置の宮之浦まで、ほぼ四分の三周するものだ。まずは5時の位置にある「千尋の滝(せんぴろのたき)」である。「滝の左側にある岩盤は、まるで千人が手を結んだくらいの大きさ」ということで、この名が付けられたという。ちょうど「V」字型の谷の中央部から勢いよく水が落ちている。モッチョム岳という不思議な名前の近くの山から流れてきた水だそうだ。でも、落ちる水を見て見て感激するかと聞かれればそうでもなくて、「ああ、滝だ」というのが正直なところである。それよりも、滝の左側にある赤味を帯びた巨大な一枚岩に注目したい。高さ300mで、地下深いところでマグマがゆっくり冷えてできた花崗岩である。滝よりも、むしろこちらの岩に重点を置いて観光客にアピールした方が良いかもしれない。ちなみに一枚岩で、世界一大きなものは、オーストラリアのマウント・オーガスタス(858m)であるが、その次がウルル(エアーズロック。335m)だから、これと比べて決して引けを取らない。

 それからバスでしばらく行くと、「イタリア人宣教師シドッチの上陸地点」がある。鎖国下の1708年に屋久島に上陸したが捕らえられ、長崎経由で江戸に送られて、茗荷谷の切支丹屋敷で亡くなったという。新井白石がシドッチから外国事情を聞いて、本にしたものが「西洋紀聞」である。

 

中間(なかま)ガジュマル

 

中間(なかま)ガジュマル

 

ブーゲンビリア

 

 ガジュマルが植えられている「中間(なかま)集落」を通った。7時の位置である。ガジュマルは桑科の植物で、根を張って長持ちすることから、海からの風の影響を防ぐために家の周りに植えられたという。古いと300年もの樹齢の木もあるそうだ。ちなみに屋久島は、ガジュマルの最北限の生息地だとのこと。どこかでお目にかかったのではないかという気がして、よくよく見ていたら、「ああ、これは『締め殺し』という物騒な名前で聞いたことがある」と思い出した。ベトナムで見たことがある。他の木の上で芽を出して、垂れ下がった気根を絡みつかせ、ついにはその寄生されてしまった木を枯らしてしまうという、ちょっと恐ろしい木である。

 

大川の滝

 

大川の滝からの清流

 

 「大川の滝(おおこのたき)」は、8時の位置にある。この島では、「川」のことを「こ」というそうだ。先端から滝筋が2本に分かれていて、左側の水量が多くて、右側の水量はさほどでもない。ガイドさんが言うには、雨がたくさん降って水量が多いときには、中央から1本になってドドっとばかりに降ってくるらしい。

 

西部林道(せいぶりんどう。世界遺産)

 

西部林道(せいぶりんどう。世界遺産)

 

西部林道(せいぶりんどう。世界遺産)

 

 バスは、「西部林道(せいぶりんどう。世界遺産)」に入る。8時の位置から10時の位置である。海から1000mの高さまで垂直に山がそそり立っていて、それを見ると日本列島の全ての植物層を一度に見られるという。実は、この世界遺産の地区は、杉の木も含めて木は切られていない、手付かずの原生林だという。林野庁が一旦は切る方針を示していたが、色々あった結果、幸いにしてこのように残ったそうな。良かった。おかげで、世界遺産に登録されたという。

 

西部林道にいたヤクザルの母子

 

西部林道にいたヤクシカ

 

 そういう原生林であれば、屋久島だけに生息しているヤクザルとヤクシカが見られないかと、期待が高まる。ちなみに、いずれも本土の猿や鹿と比べて、身体がひと回り小さい。特にヤクシカは体重が平均36kgで、エゾジカの120kgに比べれば、子供と大人くらいの違いがある。林道の終わりに近づいて、もう猿も鹿も撮れないのかと諦めかけたときに、道路の左端に、何尾かの猿が現れた。しかもその内の一匹は、胸に抱いた子猿に授乳中である。バスの中からだったが、何とか撮ることができた。気を良くしていると、今度は道路の右手斜面に鹿が現れた。これがすばしこくて、カメラを向けてもお尻の白い尻尾しか撮れない。やっと撮れたと思ったが、顔が草の葉で隠れてしまったり、お尻を向けられている。こちらは、上手く撮れなかった。

 

永田いなか浜

 

永田いなか浜

 

永田いなか浜の海亀が産卵した卵がある場所を示す標識

 

 その西部林道を抜けて、「永田いなか浜」に着く。永田(ながた)集落だ。こちらは、海亀の産卵地として有名で、もう産卵シーズンが始まっている。私が行った時には海岸の一角が仕切られていた。海亀が産卵した卵がある場所に、人が近づかないようにする保護措置だそうだ。また、産卵する海亀は神経質になっていて、道路を走る車のヘッドライトが目に入るとまた海の中に戻ってしまうので、遮光板が設置されていた。1回の産卵で120個ほどの卵を産むという。見たい観光客は、午後8時頃から海岸に行き、待っているそうだ。

 

永田いなか浜の向かいに見える口永良部島

 

世界遺産へ登録された記念碑

 

 さて、いよいよツアーの終点の「宮之浦ふるさと市場」に着いた。1時の位置である。宮之浦港の入り口である。世界遺産へ登録された記念碑がある。食事後、空港に行くバスが来るまで、すぐそばの「屋久島環境文化村センター」で展示や映画を見て、屋久島の自然について、改めて学んだ。


4.屋久島のいろいろ

 

トビウオ丼

 

 屋久島の名物の一つは「飛魚」である。お昼前に飛行機で着いたことから、レストランに行くと、「トビウオ丼」というメニューがあった。物珍しいので注文したところ、長い羽根(胸ビレ)を含めて一匹丸ごと唐揚げにしたものが出された。これは何だとばかりに眺めていると、「ヒレも食べられるよ」と言われた。そんなものかと思って、ヒレの先端からポリポリとかじり始めた。単調な味だから、掛かっていた甘ったるいソースがなければ食べられたものではない。やっとヒレを食べ終わったので、二つに切られて胴体に取り掛かる。外観はまるで秋刀魚だ。ところが、食べてみると実は白身で、あまり味がしない。ちくわや蒲鉾の材料としてなら良いが、揚げ物はさほど美味しいものではないとわかった。むしろ、泊まったホテルで出てきたように、生の切り身を酢の物にしたものの方が美味しかった。ちなみに、屋久島と鹿児島を結ぶ2隻の高速船のうちの1隻を「ロケット」といい、もう1隻を飛魚の愛称である「トッピー」というそうだ。

 

屋久島グリーンホテル玄関

 

屋久島グリーンホテルのガジュマル

 

屋久島グリーンホテル周辺の散歩コースが描かれた紙

 

屋久島グリーンホテルのハイビスカス

 

屋久島グリーンホテルのコエビソウ

 

 泊まったところは「屋久島グリーンホテル」で、インターネットを通じて予約した。大きな集落の「安房(あんぼう)」にあるから便利だろうと思ったが、その通りだった。島を一周する県道に面していて屋久島ランドへ行く道の起点である。駐車場には大きなガジュマルの木がある。チェックインするときに、ホテル周辺の散歩コースが描かれた紙を渡された。それを片手に少し散歩し、若干の花をカメラに収めることができた。夕食は「鄙にも稀」というと失礼かもしれないが、なかなか豪華で美味しくて、ダイエット中の身には逆にこたえた。鹿の生肉が出されて、「はて、どうしたものか。野生のエゾジカの生肉を食べてE型肝炎になった人がいるからな」と思ったからだ。ふと思い付いて、グツグツ煮立ったしゃぶしゃぶの中に一緒に入れたところ、やや硬めになったが、食べられた。

 

屋久島グリーンホテルの夕食

 

屋久島グリーンホテルの亀の手

 

屋久島グリーンホテルの亀の手を開いたところ

 

 それから、ホテルで、「亀の手」という珍味が出た。いかにも亀さんの手らしきもので、こんなもの食べられるのかと怪訝な顔をして眺めていたら、給仕してくれたお嬢さんが、食べ方を伝授してくれた。要は、蓋を開けるように二つに割って、その中身を食べるようにとのこと。そうしたところ、わずかな量だが、中身が出てきてそれを口にしたところ、カニのような味がした。「これは、ひょっとして海岸のテトラポットによくくっついているあれかな」と思って調べたところ、やはりそうであった。動かないから、当然、貝の仲間だろうと思っていたが、意外なことに、甲殻類つまり海老や蟹の近縁種だそうだ。だから、カニのような味がしたのは当然だった。

 

日本エア・コミューターのターボプロップ機

 

 屋久島への行き帰りに乗ったのは、鹿児島空港との間を結ぶ「日本エア・コミューター」というJALグループの会社のプロペラ機である。ターボプロップ機で、この種の機体に乗るのはYS11以来のことで、若い頃の国内出張時によく乗ったものだ。ブーンという騒音がうるさいことも含めて、とても懐かしかった。この鹿児島からのフライトは、晴れた日なら美しい海や海岸線が見えるはずなのに、残念ながら雲が垂れ込めて、空の旅を楽しむどころではなかった。それでも定刻通りに屋久島空港へと着陸した。着いてから時間があったので、周辺を散歩してみると、空港の端に、丸いお椀を上向きにしたような、遠目では直径20mくらいの灰色の設備があった。成田空港や羽田空港では見かけたことがない設備だなと思っていたら、翌日、その前を通るとき、バスのガイドさん曰く「屋久島空港には管制塔がありません。やって来る飛行機は全て有視界飛行で、これがその設備です。つまり、鹿児島を飛び立って島の近くに来ても、滑走路が見えなければ、島の周囲をぐるぐると回ったり、あるいはまた鹿児島に戻ったりします。」などという。いや、そんなことは全く知らなかった。でも、それは困った。明日は仕事なので、天候が良くなることを祈るしかない。しかし、案ずるより産むがやすしで、実際には、帰りは、時折、小雨がパラつく天候だったので、少々気をもんだものの、幸い鹿児島空港まで遅れることもなく帰ることができた。ただ、鹿児島空港から羽田空港まで行く乗り継ぎの飛行機が機材到着の遅れで1時間ほど遅延してしまった。

 かくして、屋久島への旅行は終わった。盛りだくさんの内容で、とても面白かったが、もう少し森林地帯の写真を撮りたかった。そういう意味で、次回また行く機会があれば、白谷雲水峡と、それから屋久島ランドの150分コースに行って、じっくりと写真を撮ってきたいと思っている。なお、屋久島には、熊も猪もハブもいない。蝮などのハブ以外の毒蛇はいるそうだが、危ないのはそれくらいで、季節が早かったせいか、それとも場所がよかったせいか、蚊や虻のような有害な昆虫もいなかった。ただ、南西部にはヤマヒルがいると聞いているので、気を付けたい。




(2018年5月20日記)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カテゴリ:エッセイ | 22:40 | - | - | - |
熊本への旅

宇土櫓

 

1.熊本地震から2年

 平成28年4月14日午後9時26分、熊本県を震源地とする震度7の大地震が起こり、しかもそれにとどまらずに翌々日の4月16日午前1時25分にも、やはり震度7の同程度の大地震が続いて発生した。これだけ大きな地震が立て続けに発生するというのは、明治期に科学的な地震観測が始まって以来、初めてのことであり、当初は最初の地震を前震、次のものを本震と発表された。ところが、その後、検討が進むにつれて、両者は別々の地震が連動して起きたものという見解が有力である。それはともかく、これだけ大規模な地震が引き続くと、最初の地震では何とか倒れずにすんだ建物も、2番目の地震には耐え切れずに倒壊したという例も枚挙にいとまがなく、改めて連続地震の怖さを思い知ることとなった。

 この一連の地震で、倒壊した建物の下敷きになったり、土砂崩れに遭ったりして、熊本県だけで50名の方々が犠牲となった。心からご冥福をお祈りする次第であるが、建物の被害も甚大なものとなった。中でも、熊本の象徴ともいえる熊本城が大きな被害に遭った。今回、地震発生から約2年後になるが、たまたま熊本へ行く用事があり、その機会を捉えて熊本城修復の様子と、それから地震直後に湧水が枯れてしまったと伝えられた水前寺公園の状況を見てきたので、記事にして書き残しておきたい。


2.熊本城の被害と修復

 

 熊本城修復(写 真)

 

修復中の天守閣

 

 熊本城の真正面にあるKKRホテル熊本に宿泊した。そこからは、熊本城の天守閣が真正面に見えるのであるが、現在は天守閣の両脇に高いクレーンが設置されて、天守閣自体もそのほとんどが工事用の幕に覆われている。ただ、僅かに天守閣上の鯱が2匹、頭を覗かせているだけである。これも、数日前までは全く見えなかったというから、観光客や市民向けのサービスかもしれない。何しろ、地震直後の写真を見ると、大天守閣の屋根瓦のかなりの部分が落ちてしまっていた。そこからこの状態に持って行くのに、2年という歳月を費やしたというわけである。ちなみに、天守閣自体は戦後1960年に再建された復元建築で、鉄筋コンクリート製であるが、それでも屋根瓦の多くが落下してしまった。

 

宙に浮いている修復中の小天守閣

 

 また、小天守に至っては、土台の石垣そのものが崩壊した。そこで、復元にあたっては石垣に重さをかけない構造にするということで、確かに小天守がふわっと宙に浮いているのがよくわかる。なんだか、シュールで不思議な光景である。それだけでなく、天守閣に地震の揺れを吸収するダンパーを組み込むなど、制振技術が取り入れられるそうだ。他方、三の天守と呼ばれて昔から残っている重要文化財の宇土櫓(うとやぐら)は、基礎部分を鉄筋コンクリートで固め、建物内部は鉄骨製の筋交いで補強していたことから、大きな被害はなかった。しかし、外からではあるが、城内を一周すると、崩れた石垣、その上にあった櫓の崩壊など、本当に痛々しい限りである。

 

崩れた石垣

 

崩れた石垣と建物

 

 ということで、熊本城全体の修復は容易なものではなく、今年3月に発表された計画では、震災直前の状態に戻す費用が約634億円で、これに耐震化などの費用が加わり、作業終了まで20年もかかるという計画だそうだ。


3.水前寺公園

 水前寺公園(写 真)

 

見事な大名庭園

 

富士築山

 

 水前寺成趣園(すいぜんじじょうじゅえん。いわゆる「水前寺公園」)は、熊本城近くの市役所前の電停から市電で20分もかからないところにある。熊本藩主の細川家の御茶屋があったところで、東海道五十三次を模した大名庭園があり、三代目の細川綱利の時には完成していたという。私は、全国の大名公園にはかなり足を運んでいるが、この公園に行くのは初めてだった。朝早く、開門して直ぐの時に入ったのだが、目の前に広がる見事な庭園を見て、感激した。左右に伸びやかに広がる湧水池の向こうには、優雅なコニーデ型の芝生の築山がある。その周囲の松の木と合わせて見れば、もう一見して富士山を模したものだとわかった。それも、単純な円錐形ではなく、ちゃんと山体の襞をも模しているなど、シンプルながらも非常に手が込んだ造りである。手間には躑躅の刈込みが置かれ、まだ少し赤い花を残す。そのバランスが絶妙で、一目で気に入ってしまった。

 

見事な大名庭園

 

富士築山

 

 水前寺公園のHPによると、貞享3年(1686年)に細川綱利公が定めたこの公園の十景は、阿蘇白烟、龍田紅葉、瀬田山雪、国分晩鐘、前林梅花、飯田夕陽、厳泉清流、健宮杉嵐、水隈乱螢、松間新月であるそうな。ただし、現代の公園のどの部分に対応しているかは、よくわからない。それはともかく、自分の目で見てみようと、左手の橋から周り始めた。とても古びた橋で、石の欄干が相当傷み、苔が染み付いている。だからゆっくりと渡ったが、歩むにつれて池の中の島の大きいのと小さいのとが位置を変え、景色も変わる。阿蘇から流れてくる清冽な湧水による池の水は澄みきっており、その中を緋鯉が優雅に泳いでいる。橋を渡り切ると神水の長寿の水があり、左手には出水神社(いみず)がある。この神社は、西南戦争後に細川家を祀るために造営されたという。その先には、緋色の木の鳥居を重ねた稲荷神社がある。まるで、伏見稲荷の小型版だ。

 

富士築山

 

伏見稲荷の小型版

 

 更に回り込んでいくと、やはり富士の築山が気になる。どの方向から見ても美しいし、手間に出てくる松の木が、見る角度を変えるたびに変化して、まるで旅をしているような気分になる。全く上手くできているものだ。そこを過ぎると、衣冠束帯姿の2人の銅像が並んでいる。左手が肥後熊本藩初代藩主の「細川忠利」公、右手がその祖父に当たる「細川藤孝(幽斎)」公である。それから能楽殿があり、池を更に回ると、古今伝授の間のある茅葺屋根の建物がある。

 

細川忠利・細川藤孝(幽斎)

 

七変化

 

 先に述べた平成28年4月の熊本地震によって、水前寺成趣園の池の水はほぼ干上がった状態になったそうだが、それから2年が経過した今では、そうした事件の痕跡すら見当たらない。ちなみに、日本三名園といえば、金沢の兼六園、岡山の後楽園、水戸の偕楽園だそうだが、こちらの水前寺成趣園は、今日のそれらを差し置いて評価できるくらいに、素晴らしいと考えている。東京の六義園や高松の栗林公園とほぼ同等に評価してもよいものと思う。



(2018年5月18日記)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カテゴリ:エッセイ | 23:11 | - | - | - |
マレーシアの政権交代

クアラルンプール市内


(1)今から20年前、当時の第4代首相が、副首相を投獄した。罪名は同性愛罪と職権乱用罪である。
(2)出獄したその元副首相は、十数年経って今度は第6代首相によって、同じ罪名で再び投獄された。
(3)20年後、92歳になった第4代首相は、第6代首相の腐敗を痛烈に批判し、野党連合を率いて選挙を戦った。大激戦の末に選挙に勝利して、第7代首相として返り咲いた。
(4)その第7代首相は、今度は自分が20年前に投獄した当時の副首相を、第8代首相にするために恩赦で出獄させ、同時に第6代首相の腐敗を追求しようとしている。


 とまあ、この数日間にマレーシアで起こった政治情勢と、その前の行き掛かりを簡潔に説明すると、このようなことになる。いずれも20年以上にわたる経緯がある話だけに、一筋縄では行かない。「事実は小説よりも奇なり」というが、この言葉は、まさにこういう場合に当てはまるのではないだろうか。ちなみに登場人物の名前は、

 第4代首相:マハティール・ビン・モハメッド(首相だったのは、56歳から78歳まで)
 第6代首相:ナジブ・ビン・ラザク(現在65歳)
 第7代首相:第4代首相と同じ(現在92歳)
 第8代首相:(予定)アンワール・ビン・イブラヒム(現在71歳)
である。(いずれも称号略)


クアラルンプール市内


 マハティール首相は、第4代首相だった頃、マレー人(人口の6割)、中国人(3割)、インド人(1割)という舵取りが難しい多民族国家をまとめ上げ、先進国型経済の構築と貿易の振興に力を注いだ。かくして現在の経済的繁栄の基礎を築き、国民1人当たりの所得で、もうすぐ先進国入りを果たすまでに育て上げた。その過程で「ルック・イースト・ポリシー」(日本に学べ)という政策(東方政策)を展開し、日本の方もこれに答えて、自動車産業の育成、下請け中小企業への技術指導、1万人以上に及ぶ留学生の受入れなどを行ってきた。また、マハティール首相は現地の日本人社会にも協力的で、日系企業への配慮も手厚く、更には新聞社主催の日本でのセミナーにも、毎年のように来ている(今年も6月11日からを予定)。

クアラルンプール市内の夜景


 マレーシアという国は、人種問題が政治の底流に横たわっている。歴史的な経緯によって、そもそもの社会構造が、三大人種から成っているからだ。イスラム教で多数派のマレー人、実利主体で経済力のある中国人、極めて有能な医師、弁護士、記者などを輩出するインド人である。だから、総じて単一民族の日本では全く考えられないほどの人種間の緊張が、陰に陽にある。大雑把に言えば、貧しい大多数のマレー人と、経済を独占している中国人との対立である。その対立が極限に達したのが1969年5月13日事件である。その3日前に行われた総選挙を契機に人種暴動が発生して、200人近い死者と500人ほどの負傷者が出た。主に中国人が犠牲となった。これを契機に、経済力の劣ったマレー人を優遇する政策(ブミプトラ政策)が始まり、大学への入学や海外留学、民間マンションへの入居、外国からの投資の優遇など、あらゆる方面に広がった。環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)の議論でも、この政策が大きな問題となり、段階的な見直しの方向となったと聞いている。

クアラルンプール市内のショッピングモール


中国系の人が大好きな飲茶


 マハティール首相は、最初に首相に就任する前に、「マレー・ジレンマ」という本を出版し、こうしたマレー人の現状を憂い、鼓舞するような内容だったので、マレー人優遇政策を更に強化するのではないかと懸念する向きもあった。しかし、マハティール首相が行ったのは、確かに民族主義的な要素はあったものの、特に中国人を排斥するようなこともなく、むしろ成長を通じて経済全体を底上げする政策をとった。このため、外国からの高水準の投資を呼び込む結果となって、経済は高度成長を続けたことから、マハティール首相はマレー人だけでなく中国人にも支持されて、20年以上もの長期政権を維持することができたのである。

マハティール首相。ストレーツ・タイムスのインタビューより


 もう一つ、マハティール首相が名を上げたのは、97年のアジア経済危機への対応である。きっかけは、アメリカの投資家ジョージ・ソロスなどが参加するヘッジファンドが仕掛けた東南アジア通貨の空売りである。これにより、タイ、韓国などは経済がIMF管理に移行して塗炭の苦しみを味わった。ところがマハティール首相は、IMF管理を断固拒否して、通貨も固定相場制を維持した。これは経済の常識に反すると専門家の間では散々の評判だった。実は、私もそう思っていた。というのは、周辺諸国が変動相場制なのにマレーシア一国だけが固定相場制だと、そこに歪みが集まって、固定相場など、直ぐに維持できなくなると考えたからだ。ところが、案に相違して、この政策は奏功した。固定相場によって資源や工業製品の輸出入が安定的に可能になるなど、マレーシア経済は早期の回復を遂げた。この一件で、世界はマハティール首相に一目を置くようになった。

 マハティール首相は、2003年、首相職を第5代となるアブドゥラ・ビン・アフマッド・バダウィに譲り、与党バリサン・ナショナル(与党連合・国民戦線)の指導的立場も降りた。そうしたところ、バダウィ首相は、6年後に辞任し、第7代首相ナジブ・ビン・ラザクにその座を譲った。ちなみに、ナジブ首相は、第2代首相アブドゥル・ ラザクの長男である。ところが、ナジブ首相は腐敗と縁故主義で、次第にその評判を落としていった。その典型例が1MDB事件である。1MDB( 1 Malaysia Development Berhad )は、政府系の投資会社であるが、2015年7月、ウォールストリート・ジャーナルがナジブ首相の銀行個人口座へ7億ドルが振り込まれたことを報じた。ナジブ自身は「これはサウジアラビアの王族からの資金」と説明したが、その釈明を信じる人など、誰もいない。これれを契機にパナマ文書などをも利用した国際捜査が行われ、40億ドルもの資金が流出して中東やマレーシアの高官の口座に振り込まれたといわれる。

 2015年8月には全国でナジブ首相の退陣を求める大規模デモが行われた。ユーチューブで私もその様子を見ていたが、参加した人々は何万人にものぼり、あらゆる年代の老若男女をはじめお母さんに連れられた幼児に至るまで、いずれも黄色いシャツを着て整然と抗議デモを行っていた。中には、サウジアラビアの白い民族衣装を着て、ナジブ首相にドルを手渡すパフォーマンスをする人もいたりして、思わず笑ってしまうような平和的なデモであった。これに対しナジブ首相は、強権的手法で危機を乗り越えようとし、赤シャツを着た集団を黄シャツのデモ隊に対決させたり、閣内の反対を押さえるために内閣改造を行い、政府批判を強めるジャーナリストらを逮捕し、疑惑や不正を報道する新聞の発行を禁止したりした。その一方で、悪化する財政を立て直すため、庶民の生活を支える各種補助金を削減するとともに、2015年から消費税(GST。税率は6%)を導入した。これはただでさえ苦しい庶民の懐を直撃して、住んでいる人によれば、実感として食料品の値段がこれ以降の3年間で倍になったと言われる。加えて、マレーシアの一般民衆の気持ちを逆撫でしたのは、ナジブ首相の再婚相手のロスマ夫人である。かなり派手な人柄で、高価な装飾品、ブランド物を身につけ、またそれを見せつけるような言動をするので、すっかり庶民の敵のようなイメージが作り上げられてしまった。いわば、マレーシア版のイメルダ・マルコス夫人というわけである。

 マレーシアは、その建国以来、与党のバリサン・ナショナル(BN:与党連合・国民戦線)が政権を担ってきた。ところが、今回の総選挙(2018年5月9日)に際して、齢92歳にもなっていたマハティールは、与党を飛び出し希望連盟(PH)という名の下に野党4党(注)を結集し、反ナジブ、反腐敗と縁故主義を標榜して、与党に挑んだ。これに対するナジブ政権の選挙妨害は、それはそれは大変なものだった。マハティールは自らの政党(マレーシア統一プリブミ党)を作っており、選挙の登録団体とするために選挙直前にその旨を当局に届け出たが、当局から登録を拒否されただけでなく活動停止命令まで受けたため、野党連合・希望連盟のロゴを使って、無所属で立候補することを余儀なくされた。また、投票日直前には政権側はフェイクニュース規制法を成立させた。私が現地のユーチューブを見ていると、マハティールが選挙集会で「ナジブ政権は、腐敗している。例えば1MDBだ。あの巨額の金はどこに行った?」などと一席ぶっていたところ、いつの間にか制服を着た3人の警官が背後に現れた。そして、「フェイクニュース規制法に基づいて、発言を禁止する」などとやっている。まるで明治時代の日本のようだとびっくりしてしまった。都市の住民は政治意識が高くて反腐敗・反政権寄りになりやすく、政府の支援が手厚い地方は政権寄りになりやすい。そこで選挙区を改編して、地方と都市の一票の格差を9倍にした。その他、これは日本の新聞にも載っていた話だが、マレー人を特定の地域に住まわせて、かなりの手当を出している。まるで、地域ごと票を買収しているようなものだ。いやもう、すごいとしか言いようがない。

(注)希望連盟(PH)は、4つの政党から成る。マハティールのマレーシア統一プリブミ党(PPBM)、アンワールとワン・アジザの人民正義党(PKR)、ペナン州首相で華人の民主行動党(DAP)、マット・サブの国民信託党(AMANAH)である。

 選挙終盤にマハティールに対する記者会見が行われた。ある女性記者がこう質問した。「あなたは、92歳という高齢だ。そんな人が国政を担えるのか。」これに対してマハティールは、こう答えた。「この選挙が終わってすぐ、7月には私の誕生日がくる。その誕生パーティに、あなたをお招きしよう。」と。ユーモアを交えた素晴らしい答えだと感心してしまった。ビデオでマハティールの様子を見ていたが、さっさと歩く姿はまるで60歳台だし、受け答えはかつてのバリバリの首相時代と変わらない。ともかく、この年齢で活躍できるなんて、「中年の星」どころか、「後期高齢者の太陽」といっても良いくらいだ。

 選挙に劇的な勝利をおさめたその翌日の5月10日夜、国王からの首相任命を経て開かれた記者会見でのマハティール第7代首相の発言は次の(1)から(7)まで、選挙の翌々日の5月11日の発言は、(8)以下の通りである。いずれも、正鵠を射て立派なものだ。

 (1) 希望連盟(PH)への国民の強い支持の広がりに感謝を申し上げる。マレーシアの歴史上、ここまでの熱狂的な支持を得たのは希望連盟が初めてである。予想を上回り120議席以上を獲得して単独多数を確保し、政府を構成することになった。
 (2) 私は、長年の間、ビジネス・フレンドリーな政府を目指して「Malaysia Inc.」という標語を採用していることからわかるように、これからはそうした政策を実施する。国民が懸念している財政及び経済運営の問題に集中して取り組む。経済界は株価を上げて結構であるし、通貨リンギットは切り下がらないようにできるだけ安定させるように努める。希望連盟には専門家がいる。私自身は経済の専門家ではない。しかしながら、人の話を良く聞いて判断してきた人間である。
 (3) ラフィダ・アジズ元通産相、ダイム・ザイヌディン元財務相などが投票前に与党から転じて希望連盟への支持を表明し、統一マレー国民組織(UMNO)を除名された元閣僚たちのその心意気は称賛に値する。
 (4) 与党連合・国民戦線は政府の負債は総額8000億リンギットと言っていたが、隠された負債があり、総額は1兆リンギットにのぼると言っても過言ではない。1MDB問題で不正に流出した資金は、米国、スイス、シンガポールなどから回収できると考える。これら資金は政府の負債の返済の一部に使える。これからは法に基づく統治を行い、投資家の信頼を得る。お金がこれ全てといったような金権政治はもう終わらせる。財政再建のために、巨大すぎる事業は再検討し、借り入れの利息が高すぎる点など条件を再交渉し、財政負担を和らげるよう努める。
 (5) 抑圧的で不公正な政策、とりわけフェイク・ニュース規制法と国家治安維持委員会法(NSC法)については、見直すことにする。
 (6) 可能な限り速やかにアンワール・ビン・イブラヒム元副首相が、国王から完全な恩赦を得て政治活動に復帰できるよう努める。
 (7) 明11日は休日としたが、私は休まない。希望連盟を構成する党の総裁会議を開催し、新政権の閣僚ポストの配分について協議する。
 (8) 前政権下で膨れ上がった省庁の数を10に再編する。マレーシアは通商立国であり、国内市場は小さいので、アジア、欧米、その体制に関わらず全ての国と市場に対してオープンであるが、いかなる大国の影響を受けるものではない。消費税(GST)の廃止など、選挙中のマニュフェストを実行する。
 (9) 現在収監中のアンワール元副首相については、国王の恩赦を得たので、法的プロセスを経て速やかに釈放されることになろう。

 このうち、(9) アンワール元副首相の扱いについては、注釈が必要である。元々、アンワールはマハティールが第4代首相時代にその才能を見込んで副首相に取り立てた人物である。ところが、アジア通貨危機に際してIMFに肩入れしようとしてマハティール首相と対立したほか、青年同盟出身で若手のマレー人に人気のあったアンワールがこの機に乗じて首相の座を狙い、それがマハティール首相の逆鱗に触れたのではないかと私は考えている。そうしたある日、アンワールは、イスラム国家では罪に問われる同性愛罪のほか職権乱用罪で、投獄されてしまった。しかしながら、アンワールは未だに一部のマレー人に支持されており、このため投獄中のアンワールに代わってそのワン・アジザ夫人が野党(国民正義党。その後、人民正義党)を結成して釈放運動を行っていた。同党は今回の希望連盟(PH)という野党連合を結成する3党のうちの重要な1党であることから、マハティールは「敵の与党に対する敵はまた味方なり」ということで、かつての政敵と組んだということなのだろう。このあたり、マハティール首相はなかなかの現実主義者であるし、ワン・アジザ夫人の方も、日本的に言えば節操がないということになるけれども、確かに夫を早期に出獄させる手筈を整えることができたのだから、大したものだと言ってもよいかもしれない。ちなみに、アンワールはもちろんマレー人だが、ワン・アジザ夫人は実は中国人で、マレー人の夫婦に育てられたという。医学校では文字通りのトップ・スチューデントだったそうだ。ここにも、マレーシアの人種問題の複雑さが見てとれる。ついでに言えば、マハティール自身も、父はインドのケララ州から移住してきたイスラム教徒である。

 ナジブ前首相は、選挙の翌日の深夜、ツイッターに「短い休暇をとるため、家族で外国旅行に行く」と書き込んだ。そしてプライベート・ジェット機を用意したが、外国へ逃亡すると感じた市民がこれを阻止するため続々と空港へ詰めかけたので、とうとうナジブ一家は空港には姿を現さなかったという事件もあった。老練なマハティール首相はこうした動きを察知して、12日、ナジブ前首相とロスマ夫人を出国禁止処分にした。かくして、世紀の政権交代の波は、しばらく収まりそうもない。


マハティール首相。ストレーツ・タイムスのインタビューより


 いずれにせよ、私は、「後期高齢者の太陽」を心から応援したい。ちなみに、現地の報道を見ていると、レポーターが私の聞きたかったことをマハティール首相に質問していた。女性レポーター曰く「あなたは、年齢の割には体型も素晴らしく、お肌も色つやがよくて、そして髪の毛もふさふさとしている。それは、なぜなのか、教えて下さい。」これに対して、マハティール首相が答える。「大事なことは、食べ過ぎないことだ。(Not overeat)。母からこれを教えてもらって、感謝している。美味しい食べ物を前にすると、誰しも食べたくなる。そこを我慢して食べない。こうやって自分を律することが大事だ。(Discipline yourself)」。なるほど。ナジブ前首相だけでなく、全世界の汚職まみれの政治家に、じっくりと聞かせてあげたい言葉である。



【後日談】ナジブ前首相宅の家宅捜索

 現地の大衆紙によれば、5月18日頃、警察がナジブ前首相宅に家宅捜査に入ったところ、金の延べ棒、ドル札の現金、1個1800万円もするハンドバッグなどが続々と出てきたそうである。





(2018年5月12日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:34 | - | - | - |
松江への旅

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 松江への旅(写 真)





1.目的は3ヶ所

 ゴールデン・ウイークの前半、かねてから行きたかった島根県安来市の足立美術館、国宝松江城、松江市大根島の尚志園を、二泊三日の行程で回ってきた。足立美術館は第一級の日本庭園で著名であり、松江城は国宝五城のうち最も新しく平成27年に指定されたその経緯が劇的なものであり、大根島の尚志園はこの時期にだけ繰り広げられる「池泉牡丹」つまり池の全面に3万輪もの摘み取られた牡丹の花を浮かべるイベントで有名である。いずれも一度は行って写真を撮ってきたいと考えていた。

 また、数年前に我々一家が欧州旅行をしたときに貯まったマイレージが、今年の夏で期限を迎えるので、それまでに航空券に引き換えたいという事情もあった。旅客数の多い旅行シーズン期間なので、飛行機の予約は難しいかも知れないという気もしたが、案ずるより生むがごとしで、すんなりとANAの羽田空港と米子空港の往復航空券を確保できた。また、松江と米子の駅前のビジネスホテルも、ネットで簡単に予約することができた。その理由は現地に行ってみてわかった。要は、人口も観光客の数も、東京で思っていたよりもずーっと少ないのである。地方で少子高齢化がこれほど進んでいるとは思わなかった。


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 今年の4月から、ANAの国内線の機内では、WiFi接続が無料になった。羽田空港を出発して試しにiPadで接続してみたところ、無事にインターネットに繋がった。ただし、速度は非常に遅い。自宅での接続速度が自動車くらいだとすると、ちょうど自転車程度だ。特に写真をメールに添付すると、なかなか送ってもらえない。どうしたのかなと思っているうちに、タイムアウトになってしまった。もっとも衛星経由だし、そもそも無料なのだから、それくらいのことで文句を言ってはいけない。文字メールを送ることができるだけでも、良しとしよう。でも、近い将来、利用者がもっと増えたら、これでは実用に耐えられないかもしれない。


2.俄か管制官

 ところで、機内でインターネットに繋がっていることを良いことに、iPad上で、フライト・ライブというアプリを動かしてみた。すると、これがめっぽう面白いのである。地図上に、その時点で飛んでいる飛行機の便名、航空会社名、使用機材、出発地と目的地がわかる。しかも、地図上で飛行機マークが時々刻々移動するので、どこを飛んでいるのかが一目瞭然だ。もっとも、時々、GPSでの本機の現在位置と、その飛行機マークがズレることもあるが、それもご愛嬌だ。これまでは飛行機の中から地上を眺めて、「この地形なら静岡だ。」などと山勘で現在地を判断していたが、フライト・ライブならその時点での正確な飛行位置がわかるので、便利である。


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 しかしながら、良いことばかりではない。例えば、私が乗っている飛行機が福井県の三方五湖付近を東から西に飛行中、別の飛行機がそれと交錯する北から南に向かうコースで飛んでくるではないか。関西空港に向かう大韓航空機だ。この距離、このコースで同じ高度なら、ぶつかりはしないかと、肝を冷やす。しばらく見守ると、2機のコースは一瞬、重なったかに見えたが、幸い何事もなく再び離れていった。良かったが、その一瞬、俄か管制官になった気分になる。なるほど、この仕事は、なかなか大変だ。

 しかし、よく見ると、同じ方向に向かう飛行機は、いつの間にか等間隔に並んで飛行している。反対方向もまた然りで、どうやら空中に見えない回廊を設定して、そのトンネルの中を飛んでいるようだ。してみると、これと交錯するルートがあったとしても、そもそも空中回廊の高さが違うのかもしれない。それをこのフライト・ライブは、平面的に上から見ているだけなので、回廊の高さの違いが認識できず、したがって先程のような要らぬ心配をすることになったのだろう。今度、航空関係の専門家に会う機会があったら、管制の手法を聞いてみようと思う。

 面白いのは羽田空港周辺で、一見バラバラで無秩序に散らばっていた飛行機の群れが、気がついてみると、これまた等間隔の距離を置きつつ渦のようなカーブを描いて、次から次へと空港に着陸している。見事なものだ。羽田空港に降りる螺旋形の空中回廊でもあるのだろうか。


3.米子にて

 お昼前に米子空港に降り立って驚いた。辺りがすっきりしているというか、ターミナルビルのみで、周辺には何もないのである。近くのJR米子空港駅に行くとレストランくらいあるかもしれないと思って、延々と歩いて行ってみたら、びっくり仰天した。切符の自販機とトイレがあるだけで、他は何にもない。ターミナルビルでレストランを探すべきだった。仕方ないと、そのまま駅で待っていた。しばらくしてやってきた車両はディーゼル気動車で、それもたった1両。しかもボタンを押さないと扉が開かないではないか。加えてこの車両の車体にも、そして終点の米子駅にも、私の趣味に合わない妖怪の漫画が描かれている。ゲゲゲの鬼太郎だ。「幾ら地元の有名人の作品だからと言って、ただでさえ物寂しい雰囲気の中で、わざわざ妖怪の漫画を描かなくてもよいのに。」などと、お化けが嫌いな私などは、思ったりする。


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 ところが、地元の皆さんの感覚は、おそらく、「漫画やNHKの朝ドラで、地元を有名にしてくれた作家は郷土の誇りだから、その作品を堂々と載せている。」ということなのだろう。まあ、そういう考え方もある。そもそも原作者の水木しげるさんは、太平洋戦争で苦労した挙句に片腕を失い、その不自由な身体で頑張って有名な漫画家になったのだから、大いに尊敬に値する人だと思う。ただ、私には、どうもあの妖怪漫画が体質に合わないというか、はっきり言ってしまえば、感覚的に気持ちが悪いのである。振り返ってみると、そもそも少年時代からお化けは嫌いだった。三つ子の魂百までというが、この感覚は永久に治りそうもない。

 そういうことで、米子空港と米子駅の滞在はそこそこにして、足立美術館のある安来市にJR山陰本線のディーゼル気動車で向かった。途中、「そういえば、富山県高岡市から出るJR氷見線の電車の車体にも、忍者ハットリくんの絵が描かれていたし、高岡駅前にも、ドラえもんのキャラクターのオブジェが並んでいた。あそこも、藤子不二雄さんの片方の出身地だったなぁ。」と思い出し、「あれには全く違和感がなかったけれど、やはり、お化けとどらえもんというキャラクターの差かなぁ。」と考えたりもした。安来駅から、足立美術館のバスに乗車した。


4.足立美術館


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 足立美術館の創設者、足立全康氏は、明治32年に、現在の安来市古川町に生まれた。小学校卒業後すぐに生家の農業を手伝ったが、いくら働いても貧しい農業を見限り、商売の道に進むことにしたという。最初の仕事は大八車で木炭を運搬するというもので、そのついでに近在の家々に炭を売り歩いた。それから、繊維問屋、不動産業など色々な事業に携わって成功を収めた。その一方で、美術に強い関心を抱いて日本画の熱心なコレクターになった。それとともに、庭造りへの強い関心も相まって、71歳の時に財団法人足立美術館を創設したという。特に横山大観の作品、「紅葉」、「雨霽る」、「海潮四題・夏」などを蒐集したときの印象的なエピソードが、同美術館のHPに掲載されている。私が訪れたときは、横山大観、菱田春草など、日本画で和服美人の絵のシリーズが展示されてあって、ここまで繊細に描けるものかと感じ入った。

 さて、絵画の鑑賞はほどほどにして、写真を撮ってもよい日本庭園に向かう。苔庭 → 枯山水庭 (その先に亀鶴の滝) → 白砂青松庭 → 池庭 → 寿立庵庭 という順路で見て回った。一言でいえば、実に端正で一分の隙もない庭だ。あらゆる造形物が計算され、計画的に美しく配置されている。だから、どの方向から写真を撮っても、それなりの構図になる。確かに、15年連続で日本一の庭に選ばれた理由が分かる。今は新緑の季節で緑が生き生きしているが、秋になると真っ赤な紅葉がさぞかし美しいだろうと思う。


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 この庭を見て、類い稀な造園のセンスを感じさせるのは、白砂青松庭を見るときに手前にある「Y」字型の樹木である。素晴らしい庭を存分に鑑賞しようと思ったら、手前のこんな樹木は真っ黒に見えて視界を遮るので単なる邪魔な存在に過ぎない。ところが、逆にこの樹木があるからこそ、庭に奥行きを与えて、その存在感を増しているように思う。

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 それにつけても、ふと思い出すのは、大学の教養学部時代の美術史の授業である。もう半世紀も前のことなのに、この「Y」字型の樹木を目にして、急に記憶が蘇った。その時、教授はこう語った。

 「日本の美術というものは、自然をそのままに受け止め、自然の要素を頭の中で繋いで、全体としてその美を見いだすところに特徴がある。これに対して、西洋の美術は、自然を征服し、人間の前に跪かせる。例えば、日本庭園を見るとよい。自然の風景をそのままに、要素を厳選しながら自然を再現しようとする。これに対して西洋庭園は、基本的には緑の芝生を一面に敷き詰めないと気が済まないスタイルだ。

 終戦直後、進駐軍の将校がやって来て日本家屋を接収し、そこに住もうとしたとき、彼らが最も居心地が悪いと感じたのは、数枚に渡って描かれた襖絵である。襖の黒い枠で仕切られているのに、あたかもそれがなかったように松の木が枝を広げている。日本人は頭の中でその枠を消して見るのだが、その将校らはそれができなかったようで、遂には黒い枠もろとも白いペンキで塗り潰してしまった。ここに、日本人と西洋人の世界感の違いが現れている。日本人にとって自然は自分もその一員として共生すべき存在だが、西洋人にとって自然は征服すべき存在なのである。」


 かくして足立美術館の庭は、ずっと私の頭の中で眠っていたこういう記憶を引き出してくれた。やはり、この庭は一流の存在である。はるばる来て良かったと思った瞬間である。


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5.夜の松江城

 安来駅でJRの列車を待っている間、安来駅舎の中をブラブラと見て回った。お土産売り場や、市の観光関係の職員さん達が詰めているブースがある。宣伝しているのは、もちろん安来節のどじょう掬いの踊りだ。その姿を描いたユーモラスな人形が、其処此処に置いてあり、ぱっと見ただけで笑えてくるものばかりだ。実演は、あの足立美術館の近くにある「安来節演芸館」で行っているらしい。でも、足立美術館であの「日本美術の粋を集大成した聖なる庭や日本画」を見ていたく感心した直後に、「田圃や川でドジョウを掬う様を描く滑稽で俗な踊り」を見たくなる人がどれだけいるのか、私にはよくわからない。要するに、客層が違うから両立は難しいのではないかと思うのである。ただ、地元の名物を何とか普及宣伝したいというその熱意と心意気には、大いに感心した。旅行会社のコースに入っているか、パンフレットを注意してみてみたい。


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 松江に着いたのは、午後5時半である。ホテルにチェックインし、カメラを肩に掛けて伊勢宮町に向かった。というのは、事前にインターネットで調べて、松江城下の市街地にある老舗の旅館建築(登録有形文化財)を使った「巴庵」という料理屋に行くつもりだったからである。島根和牛のすき焼き鍋を注文していた。この旅行唯一の豪華な食事である。私は普段からダイエットの成果の維持のために、食事のカロリー量をコントロールしている関係で、食事はついつい控えめになってしまっている。だから、旅行中の一度くらいは地元の名物を味わって、記念にしつつ日頃の節制を一時忘れてしまいたいというわけだ。

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 午後6時前に着いたので、早いかも知れないと思ったが、入れてくれた。二階の個室に案内された。細い桟の入った引き戸、裸電球、衣紋掛け、ずっしりとしたテーブルが、この建物の年季を感じさせる。「お飲み物は?」と言われたが、ダイエットのためにアルコールも控えているので、柚子酒をソーダで半々に割ったものを頼む。これくらいで、ちょうど良い。やがて、すき焼き鍋がやってきた。島根和牛は、私の手のひらくらいの大きさのものが3枚、ただしすき焼き用のため、厚さは薄い。野菜は、ネギ、キャベツ、コンニャク、豆腐などと、関東のすき焼きの材料と全く同じだ。

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 給仕のお兄さんが、料理を作ってくれた。岡山から来ているそうだ。「自分は他の都道府県に行ったことがないので、行ってみたい。」と話す。「まだ学生さんなのだから、これから幾らでも機会があるよ。要は、好奇心つまり『知らないところへ行きたい。そして新しいものを見てみたい。』という気持ちの問題だね。」などと会話を交わす。料理の方は、まず牛脂を引き、肉を入れ、赤い色がある程度変わったところで醤油と昆布汁、野菜を入れて、味を整える。塩っぱいと困るなと思いつつ、まず仕上がった牛肉を生卵に浸け、口に運んだ。すると、香ばしい香りが口いっぱいに広がり、非常に美味しい。なるほど、料亭だけのことはある。同時に注文した豆腐サラダなるものは、いささか量が多すぎたし、掛かっているソースも多すぎた。まあ、旅行中なので野菜不足を補うという意味で、全て平らげてしまった。

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 巴庵に小一時間ほどいて、暮れなずむ松江の街に出た。このままホテルに帰るのも、芸がない。「よし、風が冷たいが、できれば松江城のライトアップを撮って来よう。」と思ってインターネット検索で調べると、ライトに照らされた松江城の写真があった。これは撮れるかもしれないと、グーグル・マップで現在地から松江城までの道順を調べたところ、徒歩20分である。行くことにした。大橋川に掛かる松江大橋を渡り、しばらく川に沿って行くと、ライトアップされた威厳のある建物に出会った。「カラコロ工房」というらしい。重要文化財のような建物にしては妙な名前だと思って検索すると、ここは元日本銀行松江支店の建物で、同支店が廃止された後は、体験工房に使っているらしい。カラコロというのは、小泉八雲が松江大橋を渡る人々のカランコロンという下駄の音に惹かれたと記述したところから名付けられたという。

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 さて、かなり暗くなって来た。先を急ごう。島根県庁の建物の前を通り過ぎた。「竹島を取り戻そう」という電光掲示板と竹島のモニュメントが見える。更に行くと、いよいよ城のお堀の角まで来た。対岸の石垣の上の櫓がライトアップされている。城内に入ると、また銅像がある。これは、松江城を築城した堀尾吉晴公のようだ。「國宝 松江城」という石碑がある。高知城の場合は歴史的表示だっだが、今度は本物だ。階段を上がって行く。暗闇の中だと、かなり急に感じる。やっと天守閣に通じる門まで来た。たまたまいた守衛さんから「この門は7時半に閉まるので、もう少し良いですよ。」と言われた。時計を見たら、7時15分だ。

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 急いで門の中に入ると、松江城天守閣がライトの光の中に浮かんでいた。天守閣を斜め脇から見上げる形の、いつも写真で見る姿だ。ところがカメラの水平線を天守閣の一番上の線に合わせると、土台の線が不自然に傾く。逆に土台の線を水平にとると、今度は天守閣の線が傾き過ぎる。正解はその中間にあり、天守閣の横線も土台の石垣の横線も、不自然さを感じさせないような写真にしなければならない。こういうところは、写真の奥深いところだと思う。手早く撮って、帰途に着いた。途中で、明治の開花期のような趣きの建物があると思ったら、「興雲閣」と書いてあった。明治天皇行幸時の御宿所として建設された擬洋風建築の迎賓館だという。


6.松江城

 松江城は、私にとって国宝五城(姫路城彦根城松本城犬山城、松江城)を巡る旅の最後を飾る記念すべきお城である。実は50年ほど前の学生時代に、島根県浜田市の友達の実家を訪ね、その帰りに出雲大社のほか、ここまで足を運んで松江城を見て、小泉八雲の旧居を見物したことがある。つまりは半世紀ぶりの再訪というわけだ。そのときは、松江城は、戦前は国宝に指定されていたものの、昭和25年の文化財保護法では築城年を示す文献が見当たらないとして国宝から外され、重要文化財として指定されるにとどまっていた。ところが、平成27年になって築城年を記した祈祷札が見つかり、それが天守閣の柱の本来の位置にぴったりとはまったことから、国宝に再指定されたという劇的なエピソードがある。


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 さて、本日は朝からの松江城の撮影だ。幸い好天に恵まれ、真っ青な空の撮影日和である。昨夜と同じく階段を上がって行って門の中に入ると、天守閣が現れた。大きさは、もちろん姫路城には比べるべくもないが、コンパクトにまとまった端整なお城であり、凛とした雰囲気がただよう。国宝五城の中では、松本城に近い。ただしあちらはお濠に囲まれているが、こちらはそうではなくて、天守閣そのものが、地面にデンと鎮座している。建物について見ると、まずは正面の入母屋破風とその下の華頭窓が優雅な印象を与えていて、次に正面入り口に出ている附櫓が親亀に対する子亀のような感じで微笑ましくなる。天守閣の頂きには左右に鯱鉾があるが、これは木彫の銅張りだという。写真を撮っていった。観光絵葉書になるような写真が撮れた。

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 天守閣の中に入った。五層になっている。急な階段を上がって行くと、木組みが美しい。最上階にたどり着いた。するとこの城は、建物の中から直接、外の風景を見ることができることに気がついた。例えば同じ国宝の犬山城は、最上階の周りにある、当世風に言えば「ベランダ」部分に出て外を見るようになっている。それがこの城にはベランダ部分がない。代わりに窓の開口部が大きい。その分、建物の維持管理が大変ではないかと心配になる。もちろん、外の風景は素晴らしい。見飽きないで、しばらく眺めていた。下の芝生広場の緋毛氈の上で、2人の子供を並べて写真を撮っているカップルがいる。実に微笑ましい風景だ。

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7.小泉八雲旧居

 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、数奇な運命をたどった作家である。記念館における展示に書かれていたことを思い出すままに書いていこう。ラフカディオは、1850年に、アイルランド出身の軍医補としてギリシャに赴任中の父チャールズと、ギリシャ・キシラ島の出身の母ローザとの間に生まれた。2歳の時に両親に連れられてアイルランドのダブリンに移ったものの、母ローザは現地の気候風土に馴染めなかったのか、精神を病んで単身ギリシャに戻り、二度と息子に会うことはなかった。母に見捨てられた形のラフカディオは、厳格な大叔母の下で育ち、孤独な少年時代を送ったという。

 16歳の時に、遊んでいたときの事故で、ラフカディオは左目を失明してしまった。不幸は続く。19歳の時には、頼みの大叔母が破産してしまった。このため一人でアメリカへの移民となり、赤貧の生活を送るが、たまたま入ったシンシナティの新聞社で文才が認められて、ジャーナリストとして独り立ちした。その後、ルイジアナ州ニューオーリンズで働き、さらにカリブ海のマルティニーク島へ移り住んだ。同島では現地のブードウー教に魅せられたという。ニューオーリンズ時代に万博で目にした日本文化に興味を持つようになり、さらにはニューヨークで読んだ古事記の影響で来日を決意し、1890年4月、横浜に降り立った。これは、新聞社と契約して(今ならカメラマンだろうが、当時のことだから)挿し絵作家とペアで来日したのだが、船中でその新聞社からもらう報酬を比較してみると、自分の方が低いことがわかったラフカディオは、憤慨して辞表を出してしまった。


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 ところが幸いなことに、その年の8月に、松江の島根県尋常中学校に職を得て英語教師となった。そこで、ある時高熱を出して病の床に伏せっていたところを、士族の娘の小泉セツが甲斐甲斐しく世話をしてくれて、二人は結ばれたという。セツは、非常に教養があり、各地の物語にも良く通じていて、それがラフカディオに大きなインスピレーションを与えたという。ただ、松江のような寒い土地は苦手だったようで、住んでいたのは僅か1年半余り、それから熊本第五高等中学校に赴任し、次に神戸クロニクル社に勤め、1896年9月から東京帝国大学文科大学講師として英文学を講じたという。同年には小泉セツと正式に結婚して、日本に帰化した。二人の間には、三男一女が生まれた。

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 ということで、ラフカディオ・ハーンは、日本でその54歳の生涯を終えることになったが、こうした経歴をみると、彼が好んだ怪談話の背景が、ようやくわかったような気がする。また、彼の肖像画は常に右顔を向けているのは不自然だと思っていたら、これは失明した左目を隠していたのだという。なるほどと納得した。記念館の隣が旧居で、私にとっては半世紀ぶりの再訪だった。昔の記憶とほぼ同じだったが、彼の机のレプリカが置いてあった。机はものすごく高いが、椅子はむしろ低い。彼の身長は高々160cmほどだったので、これはなぜかというと、彼が極度の近視だったことから、こういう背の高い机でないと、読み書きができなかったためだという。


8.堀川遊覧船


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 小泉八雲旧居から、武家屋敷が連なる塩見縄手通りと茶道の明々庵を見物し、観光用のレイクラインバスで、ふれあい広場まで行った。そこには、堀川遊覧船の発着場があって、それに乗り込んだ。出発する前に、「このコースには16箇所の橋がありますが、うち4つは高さが低いので、ぶつからないように、このオレンジ色の屋根が下がります。両脇の舷側の支柱も下がるので、気をつけて下さい。それでは練習しましょう。」と言って、皆でやってみた。屋根が下がり、それが思ったより低いので、女性は前向きに上体を倒せばよいが、男性陣はそんなに身体が柔らかくないので、恥ずかしながら仰向けと相成った。一緒にいた若い女性は「こんなアトラクションがあるなんて、面白い」とはしゃいでいた。

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 その小舟が出発した。一周3.7kmである。公式HPでは、「松江城を取り囲む堀川は、松江城築城の時につくられました。船は堀川を約50分かけてゆっくりと遊覧します。船上から眺める松江の街並みはどこか懐かしく、水辺を彩る草花や水鳥が四季を感じさせてくれます。16もの橋をくぐり抜けるときは橋の高さにあわせて屋根が下げられ、乗り合わせた人たちとの語らいを一層楽しいものにさせてくれます。」とある。

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 堀川の色は緑だが、臭いはない。船頭さんによると、毎朝、水を補給しているそうだ。川の周囲には、藤の木が紫色の花を付けていたり、少しだけだが花菖蒲が咲いていたりする。水の中には野鳥や亀がいて、のんびりとした雰囲気だ。ただし、灯台下暗しとでも言うのか、お城の直ぐそばを走っているというのに、肝心のお城の姿が見えない。コース終盤に差し掛かって、一瞬のことだがやっと見ることができた。さて、背の低い橋に差し掛かった。天井というか、屋根が下げられる。乗客はそれに合わせて倒れ込んだり、前屈みになる。やがて橋が過ぎると、また天井があげられて元に戻る。確かに、アトラクションとして見れば、なかなか面白い。橋によっては、船頭さんが「この橋の下は、声が響くんです。」といって、民謡まで歌ってくれる。サービス満点だ。

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 また、船頭さんは「ここ島根県の人口が最も多かったのは、昭和35年(1960)で、93万人。ところが、その後 、人口は減っていって、今は70万人を切った。国の高度経済成長は、島根県には関係なかったのでしょうか。」と語る。いやいや、高度経済成長は昭和30年代半ばから40年代半ばにかけてのことであり、島根県もその恩恵を受けたからこそ、その当時に人口最盛期を迎えたわけである。ところが平成年間に入り、それまで日本の経済成長を支えてきた製造業が、次々に台頭する韓国、台湾、中国などとの競争に破れ、折からの円高もあって日本各地にあった工場を国外へと移すようになった。その結果、地方では働き口がなくなり、若者は職を求めて都会に出て、地方の空洞化と高齢化が進んだ。これは、経済のグローバル化と、日本経済の衰退の縮図なのだ・・・と、こういうことではないかと思っている。

 しかし、地方といっても、例えば愛知県は、人口は継続的に増加している。それというのも、トヨタという輸出で稼ぐ基幹産業があるからこそだ。たまに名古屋に行くと、新しいビルが雨後の竹の子のように立っているのから驚く。こういう稼ぎ頭のない地方は、そもそも若者にサービス業くらいしか新しい職を与えられないのだから、人口が漸減していくのは、残念ながら避けられないことだ。かつて、これを政治的に是正しようと、東京などへの一極集中を是正するといって、法律で、都市部の工場立地制限と、大学立地の制限策がとられたことがある。ところが製造業の工場は賃金の高い都市近辺での立地は避け、地方に向かうどころかそのまま海外へ工場を移転してしまった。大学についても、結果的には一部の大学を東京の中心部から八王子近辺に追い出すにとどまっただけで、そのうちかなりの大学が再び23区内に戻ってきてしまった。東京の中心部にいないと、学生も何の知的刺激も受けないし、また教える教授の方も不便を感じるからである。そういうことで、この法律は廃止されてしまった。


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 その点、この松江は、また別の道を歩むことにしたようだ。昔から街並みが変わらないというのを逆手に取って、それを観光客に見せる観光業だ。そもそもこの松江は、戦国大名の尼子氏が築いた月山富田城という山城から、堀尾吉晴の子である堀尾忠氏が統治に便利なようにと平城を造営する場所を探し、その結果、今の土地に決めたもので、その当時の縄張り(都市計画)が、現在もそのまま残っているという。だから、この堀川遊覧船に乗っていると、昔のままの街並み、創建当時の石垣など、どこか郷愁を思い起こされる風景に出合うのである。言葉は悪いかもしれないが、最近の経済成長から取り残されていたからこそ、古き良き日本の情景が残り、それがまたとない観光資源になっているというわけである。この遊覧船は平成9年に始まり、船頭さんは60から70歳代が主力で頑張っているとのこと。その年代が活躍できる場を設けるというのはとても良い考えだし、この地で人生経験を積んだ船頭さんの話を聞くと、実に為になる。それに、地域最大の観光資源(?)である出雲大社とセットで観光客にアピールできれば、十分に生き残ることができるだろう・・・とまあ、船に乗りながらそういうことをぼんやりと考えていたら、50分間は、瞬く間に過ぎてしまった。


9.松江フォーゲルパーク


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 松江中心部の名所旧跡をあらかた見て、堀川の遊覧船にも乗ったので、さてこれからどこへ行こうかと思っていたところ、乗り込んだレイクラインバスが宍道湖温泉駅に着いたので、その名前に惹かれて降りてみた。さぞかし古い温泉旅館が並んでいる街かと思いきや、だだっ広いバス乗り場とポツンと建っている一畑電車の駅があるだけで、何だか物寂しい。その電車も、1時間に1本しかない。出たばかりだから、あと1時間弱も待たなければならない。交通網がこれほど薄いとは・・・時間が有効に使えない、困ったものだと思いながら周りを見回した。街路樹に「ベニハナミズキ」というのがあって、普通のハナミズキが白い花をつけるのに対して、これはその名前の通り赤味のあるハナミズキの花をつけている。それを撮っても、なかなか時間がつぶせない。

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 ふと見ると、白くて大きな建物があって、ホテルらしい。そこの喫茶店に入って行き、出雲プリンと有機珈琲を頼んだ。店員さんによると、温泉街がこの場所に移転してきたそうだ。珈琲を飲みながら、次の作戦を立てる。この駅が始発の一畑電車に乗ると、松江イングリッシュ・ガーデンと、松江フォーゲルパークという行楽地へ行ける。「フォーゲル」というのは、ドイツ語の鳥のことだろう。何となれば、私の学生のときには「ワンダーフォーゲル部」、略して「ワンゲル部」つまり渡り鳥という部があって、軽い登山やスキー、ハイキングに興じていたものだ。すると、ここに行けば鳥が撮れる。明日は牡丹ばかりを撮ることになるから、ここで動きのある鳥を撮るのは一興だと思って、松江フォーゲルパークに行くことにした。

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 着いてみると、「午後3時からショーが始まります。真っ直ぐ行って突き当たりです。」と言われた。あと15分しかない。正式な順路とは逆になったので気が引けたが、ともかく直進して、温室センターハウス奥の広い会場に腰を下ろした。学齢期前の小さなお子さんを連れた家族連れが多い。しばらく待っていると、ミミズクを抱えた係員のお姉さんが登場した。マレーワシミミズクというらしい。顔の左右に、斜め上に向けて耳のような羽が突き出している。それを広い会場の端から端まで飛ばすのである。思いのほか、早い速度で飛ぶ。野生では狩をしているから当然か。体長は僅か40cmくらいだが、両翼を広げてサーっと頭の上を通り過ぎるので、迫力がある。観客がそのコース上でうっかりと立ち上がろうものなら、ぶつかりそうだ。

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 ミミズク、フクロウの目は、2km先の物まで見えるくらいの性能があるそうだが、目玉は顔に固定されていて、動かすことができない。その代わり、首全体を動かして見るそうだ。それも、180度どころか、270度だというから、恐れ入る。こちらの観客の方を向いた係員の腕に止まるのだけど、首から上の顔だけはこちらを向いているから、妙な感じだ。次に登場したのはサイチョウ(犀鳥)で、その名前のように頭から嘴にかけて、犀の角のようなものが付いている。雑食性で、りんごが好きだという。ただし、もらったりんごが甘くないと、吐き出してしまうそうだから、笑ってしまう。その次に飛んだのは、フクロウで、飛ぶ前に発する鳴き声に迫力があった。飛び立った瞬間の良い写真が何枚か撮れたが、目の前を飛んでいるときは、余りにも早すぎて、ピントを合わすことができなかった。

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 その飛行ショーが終わり、正式な順路に戻ろうと、センターハウスを正面に向けて抜けて行った。途中、数限りないほど色々な種類のフクシアとベゴニアの花があった。フクシアの花は、鉢に植えられて、天井から吊り下げられている。実は私の家の近くにフクシアの花を植えているお宅があって、日頃から面白い花だと思っていた。フクシアの花はいずれも下向きで、典型的なのは真ん中の筒が紫色でその中心に数本の雄しべがあり、その筒を囲うようにピンク色の数枚の花びらがある。その形からして、「釣浮草」と呼ばれるほどだ。それが、ここでは筒がピンク色で花びらが白色とか、筒ではなくて八重のようになっているものとか、様々な種類があって見飽きない。係の人に「こんなに多くの鉢が吊り下げられていて、水やりはどうしているんですか。」と聞くと、「全自動で水をやっているから、大丈夫です。」とのこと。納得した。

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 そこをやっと抜けて、本来の順路に戻る。入り口右手から、動く歩道で丘の上まで登って行く。これなら、バリアフリーだ。まず、展望台があり、次に水鳥が棲む鳥舎がある。その中に入って、鳥達を見ることができる。ペリカンがいて、時々、長い嘴を水に突っ込んで斜め上に上げている。水を飲んでいるのかもしれない。路を歩いていると、その名も「ショウジョウトキ(猩々朱鷺)」という緋色の小型の朱鷺が気安く近づいてくる。

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 熱帯鳥温室には、巨大なオレンジ色の嘴を持つオオハシ(大嘴)、先ほど紹介したサイチョウ(犀鳥)、緑色の鶏冠を持つエボシドリ(烏帽子鳥)がいる。特に犀鳥は、2年前にマレーシアのKLバードパークで実際に飛んでいるところを見たことを思い出した。それにしてもこの「犀の角」は、一体どういう役割を果たしているのだろうか、不思議な気がするばかりである。温室には、ケープペンギンもいて、園内をヨチヨチ歩くイベントもある。ふれあい温室に、緑の鳥、エボシドリ(烏帽子鳥)がいて、これが実に可愛い。あちこちのキョロキョロ見るときに、頭と身体を「く」の字のように傾けて、「あれ、何だろう。」とばかりの仕草をする。小さな子供そっくりだ。アフリカ最南端の密林にいて、昆虫や果実を食べている鳥らしい。

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 「そば亭不昧庵」という蕎麦屋があった。遠くから見て早合点して「まずい」とは、これいかにと思ったが、近付いてみると、それは誤解だった。これは「松平不昧(まつだいらふまい)」公の名前から取ったもので、紛らわしいが「不味」ではなく「不昧」、つまり偏が「日」であって「口」ではない。松平治郷はあまり全国区の名前ではないので知らなかったが、松江藩中興の祖とされる松平家第7代藩主であり、著名な茶人で、「不昧公」と言われたそうだ。今回の松江市内の旅行で、その「不昧」の名と剃髪姿の肖像画をよく見かけたものだ。ちなみに「不昧(ふまい)」とは、学問に明るいこと、道理にくらくないこと、利欲に眩まされないことをいうらしい(大辞林)。一つ、賢くなった。


10.由志園

 由志園(ゆうしえん)は、中海に浮かぶ大根島にある。「大根島」「おおねしま」とでも呼ぶのかと思っていたら、何とそのまま「だいこんしま」と言うそうだ。あまり夢のない呼び方だが、地元の特産品は、牡丹と朝鮮人参とのこと。なるほど、いずれも味わい深い産物だ。実は、私はかねてから、大根島が牡丹の産地だということを知っていた。というのは、自宅近くの上野東照宮で冬牡丹展というのを毎年1月に開かれていて、その牡丹の産地ということで、こちらの名前が掲げられていたからだ。さて、その大根島へは、米子から日のノ丸バスで境港へ行き、そこから松江行きのバスに乗っても良いが、私はゴールデンウィークの始まりということもあって、タクシーで行くことにした。話し好きの運転手さんに当たれば、地元にまつわる諸々の話が聞けて面白い。

 タクシーに乗り込んだら、運転手さんは、なかなかの博識だったので、この選択は、正解であった(注1)。途中、立派な橋を渡っていると思ったが、運転手さんに言わせれば、これは中海干拓計画の中止に伴って作られたという。そういえば、有明海の干拓事業のような、そういう話があったことを思い出した。それまでこの地にあった橋は、東京の勝鬨橋のように船が近づくと跳ね上がる形のものだったが、この新しい橋は水面上44mあるから、大丈夫だそうだ。そこを通り過ぎ、由志園に近づくと、大渋滞となった。すると運転手さんは気を利かせて、反対方向から回り込むようにした。松江方面から境港行きのバスが通る道だそうだ。そちらは渋滞することなく、直ぐに由志園に着いた。


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 由志園の創設者は、門脇由蔵と、その子の栄である。由蔵は、観光開発をしようと大根島に純和風の日本庭園を造ろうと計画したが、果たせないままに亡くなった。その跡を継いだのが栄で、昭和50年に開園し、父由蔵が志した庭園ということで、「由志園」と名付けたという。入り口の建物を抜けると直ぐそこに、赤と白の牡丹の花が松の木を囲む地面に敷き詰められている。松の緑の葉と牡丹の花の色との補色対比が、目に鮮やかである。緑も赤もお互いに引き立て合って、これほど美しい色彩があるとは思わなかった。更にその向こうには日本庭園があり、その池の中にびっしりと赤と白の牡丹の花が浮かぶ「池泉牡丹」が現れる。本日はその初日であるが、それにしても隙間なく池面を牡丹の花びらで埋めたものだ。池面が赤と白になり、その向こうに丸く刈り込まれた緑の木々、そして岩があり、その背景にまた木々があって、その上は真っ青の快晴の空である。いやこれは写真の撮り甲斐がある。しばらく、色々な角度からカメラを構えて、シャッターを押した(注2)。そこを撮り終え、順路に沿って進んでいくと、建物の中に様々な色の牡丹が置かれている。花を長持ちさせるように、気温が低く調整されている。たぶん、季節外れの時期に牡丹の花を見てもらおうとする建物なのだろう。

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 外に出ると、一面に牡丹の花が咲いている。牡丹という花は、各個体の形にはそれほど目立つ差はないが、それにしても色は様々である。ピンク色、赤色、白色、それらの混じった色、黄色、紫色などだ。薔薇ほどではないにせよ、こちらも育種家がいて、たくさん生み出しているものとみえる。中には面白い名前が付けられている花もあるが、この日は時間がなかったので、名前をメモすることはしなかった。

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 次に、滝のあるエリアに出た。滝の水量は多く、しかも苔むした岩に囲まれていて、そこだけを見れば深山幽谷の趣きがある。振り返ると、滝から渓谷を通って流れる水の先は、牡丹の花に覆われた日本庭園の池である。更にその先には、池を跨ぐ形の赤い橋がある。さほど大きくはないこんな敷地に滝、渓谷、川、池まで作ってしまうなんて、ちょっとした大名庭園のようである。滝から降りて行くと、石楠花の花があちらこちらに植えられている。赤色、ピンク色、白色の花がまとまって咲くから、いずれも見応えがあって美しい。園内を一周してもう最後という頃に、まるで龍安寺の石庭を思わせる庭に出た。白砂に砂紋が付けられていて、水の動きを、表している。ただ、惜しむらくは、岩がもう少し存在感があったら良いのにという点である。要は、もうふた回りほど大きくてどっしりした岩だと、それなりに様になったのではないかと考える。

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 お昼近くになり、由志園が混み合ってきた。そこで、ちょうど12時の路線バスで、境港に戻った。わずか16分間の乗車で、直ぐに着いた。境港は、ゲゲゲの鬼太郎がシンボルで、鉄道車両にも、駅やフェリーの待合室にも、更にはお土産品まで、鬼太郎シリーズのオンパレードだ。一昨日、初めて米子空港に着き、JR境港線に乗ったときには、お化けの漫画にかなり抵抗を感じたが、ああまたかと思うと、見慣れてきた。それにしてと、例えば、目玉オヤジなど、どこが可愛いと思うのか、未だにわからない。それがお土産になっているから、もう何をかいわんやである。

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 境港に来て、まず地元の名物である出雲の割子蕎麦を食べた。次に「汗をかいたし、疲れたし、日焼け止めクリームを早く落としたい。」などと思っていたら、たまたま、このフェリー待合室の建物の最上階に、「展望サウナ風呂」というのがあるのを見つけた。米子空港まで行く電車は、2時間後に乗ると、午後5時の飛行機に十分に間に合う。このお風呂に入ることにした。

 その名の通り、なかなか見晴らしの良いお風呂で、正面には隠岐の島に行くフェリーが停泊している。その向こうにはフェリーが通ってきた水道が、更に向こうには陸地が見える。それを見下ろしながら、ジャグジー風呂に入っている。他の入浴客は、2人いるだけだ。また、1人が入ってきたが、いずれもかなりのお年寄りである。この居心地の良さが、好きなのだろう。お風呂から上がり、冷たいお茶を飲む。とてもリフレッシュすることが出来た。やってきたJR境港線の気動車に乗って、米子空港に行った。そこで、ターミナルビルを歩いていると、出雲名物の割子蕎麦を提供する蕎麦屋があった。食べたくなって、夕食には早過ぎる時間だが、ついいただいてしまった。帰りの飛行機は定刻通り出発して、羽田空港には着陸時の混雑のため、10分ほど遅れて到着した。

 そういうことで、良い写真が撮れ、珍しいものも見たし、知的好奇心も満たされた。とても、満足出来る旅だった。惜しむらくは、家内と一緒に来られなかったことだが、また体調が回復したら、無理のないスケジュールの旅を考えたい。



(注1)中海に浮かぶ大根島

 タクシーの運転手さんから聞いた話に基づいて、大根島の由来を記しておきたい。もともと中海は、半島であった湾口部が砂州でふさがれて汽水湖になったもので、そこに浮かぶ2つの島のうち大きい方が大根島であり、実は火山だという。日本一低い火山だそうだ。二大産物のうち朝鮮人参は、200年前から松江藩が奨励して藩内全域に広がったものの、収穫に6年、休畑期間が15年と大変に手間がかかるので、今や大根島にしか残っていないという。牡丹は、300年前に全隆寺の住職さんが薬用に供するために静岡から持ち帰ったものが始まりで、今や苗木出荷量は120万本と、全国出荷量の8割を占めるようになったそうな。石楠花の苗木に牡丹の芽を継ぐ手法が開発されてから生産量が急拡大し、島内の女性は、苗木を背負って全国各地に売り歩いたものだという。タクシーの通る道すがらに綺麗な牡丹の畑を見かけたが、運転手さんに言わせると、昔はこんなものではなく、もっともっとあらゆる所が牡丹畑だったとのこと。


(注2)由志園の池泉牡丹の花

 日本庭園の池一面に3万輪もの牡丹の花を浮かべるなんて、壮大な浪費ではないかと思う向きがあるかもしれないが、実はそうでもないという。大根島は、先程から言っているように、牡丹の産地である。牡丹は苗木の形で売られるが、花が咲いて種を付けるようになると苗木の負担となるため、花は受粉する前に摘んでしまうのだという。そうして摘まれた花を譲り受けて、この展示を始めたそうだ。




(2018年5月1日記)


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徒然296.保活の苦労

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 就職しようとするときは「就活」、それが終わって良い縁に恵まれて結婚しようとするときは「婚活」、結婚したのになかなか赤ちゃんに恵まれないときは「妊活」、無事に生まれて子供を育てるときに直面するのが預かってくれる保育園探しで、これを「保活」というそうだ。それぞれが人生の一大イベントであり、どのハードルも上手くいくように願いたいところだが、そう思う通りにはいかないのが人生の常である。私の周囲でも、「妊活」に励んだがとうとう成功しなかったとか、あるいは「保活」には本当に苦労したという話を聞く。

 「妊活」は、所詮はコウノトリの気まぐれなので、努力しても功を奏しなかったら、私などは養子で良いと考える方だ。外国とりわけアメリカなどではそれがごく普通の考え方なのだけれど、日本では養子という選択肢を選ぶ人は極めて限られていて、むしろ夫婦2人だけの生活を選ぶカップルが圧倒的に多いと思う。なぜなのだろう。確かに子育ては大変だが、同時に夫婦揃ってやり甲斐があるし、自ら人間的にも成長するのにと、私などは残念に思うところである。まあしかし、そのカップルの人生の選択だから、外野からどうこう言うべきものではない。

 「保活」は、女性の社会進出に伴って、この十数年、特に深刻になってきた問題である。昔のようにおじいちゃん、おばあちゃん、他の兄弟、果ては未婚のおじさん、おばさんなどが同居していると、子供の世話は、誰か手の空いた人が見てくれた。ところが私が社会に出た頃から、そうした大家族主義が崩れて核家族化が進み、夫婦2人だけが子供の面倒をみる体制が一般化した。奥さんが専業主婦ならそれで良かったが、立派な仕事をしていると、頼りにするのは遠くにいるおじいちゃん、おばあちゃんか、あるいは近くの保育園か、ということになる。

 我々夫婦の場合は、娘一家がある日突然、同じマンションに越してきて、当時4歳になったばかりの初孫ちゃんの面倒をみる羽目になった。我々夫婦は体力的には疲れたものの、代わりに初孫ちゃんから元気をもらい、その成長を日々見守る幸せを感じることができた。しかし、こういう言わば恵まれたケースは例外的で、一般の方は近くの保育園だけが頼みの綱なのだろうと思う。それも、たった一本の綱なのである。ところが、それが希望者殺到で、なかなか入れないので、今や大きな社会問題となっている。

 最近、その「保活」で、とても興味深い話を聞いた。ある専門職の女性で、3年前に研究職の夫を東京に残して、5歳と0歳の子供2人を連れて関西に赴任したそうだ。そのときは産休明けなので、保育園に入る優先順位が高かったことから、何も苦労することなく、近くの公立保育園にすんなりと入れた。ところが昨年秋になって、再び東京に転勤で戻ってくることになった。人口が伸びている東京は、ただでさえ保育園の激戦区であるし、それだけでなく前回あった産休明けという錦の御旗もなくなってしまった。

 しかし、後顧の憂いなく自分の仕事に専念したい。そこで、関西にいながら、東京23区と周辺都市の情報を全部取り寄せて、待機児童の数、既存の保育園とこれからできる保育園、それらの評判、借りたい賃貸住宅、勤務先への通勤などを徹底的に調べたそうだ。その結果、白羽の矢を立てたのが、国分寺市だったという。それで、国分寺市役所を訪れて、係の人からどんな細かいことまでも徹頭徹尾聞き出し、その一方でストップウオッチを片手に借りるつもりの賃貸住宅と保育園の間を歩いてみて何分かかるか、途中危ないところはないかなど、あらゆることをチェックしたそうだ。

 それで、東京都への転勤が決まるや否や、その賃貸住宅を抑え、市役所への手続を終えて、無事に保育園が決まったという。いや、それはすごい調査能力と行動力だ。日頃から仕事が出来る人であることは聞いていたが、子育てにも、その類い稀な能力を遺憾なく発揮しているらしい。つくづく感心してしまった。





(2018年4月25日記)


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