桜の季節 2017年

犬山城と桜




 桜の季節 2017年(写 真)




1.国立劇場前の桜



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 国立劇場(千代田区隼町)前の3本の桜が、満開を迎えた。普通の染井吉野よりも数日早く満開となる。その中でも一番早く咲き始めるのは、南にある「小松乙女」で、花はやや小ぶりながら密集して咲くから、薄いピンクの手毬がいっぱいあるように見える。三分咲きの頃は、「白とピンク色の絶妙なバランスやその儚げな姿から、いつまでも見ていたくなるような」と描いたが、もうこうなると、「白とピンク色の洪水のような」とでも評したい。この木の原木が、上野公園の小松宮彰仁親王の銅像近くにあるから、「小松」というらしい。

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 国立劇場の正面に近いところにあって、白っぽくて花びらが大き目の桜の木が「駿河桜」である。これは、三島市に生えていた染井吉野から生まれたものだという。染井吉野にしては、花びらが大きくて白っぽい。でも、白い花と緑の花の組み合わせが美しいと感じる。

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 国立劇場の南にあるピンク色の濃い美しい花を咲かせる「神代曙」は、私が一番好きな桜である。物知りの人によれば、この桜の源流は、元々、日本からワシントンのポトマック川に送られた染井吉野にあるという。それが、アメリカの在来種と交雑して、新種が生まれた。昭和30年ごろ、日本に逆輸入されて神代植物公園で接ぎ木して育てたところ、どの木とも違う特色ある新種ができ、神代曙として品種登録されたそうだ。そして興味深いことに、今や染井吉野の後継として、この花が推奨されているという。理由は、江戸末期から明治初めに生まれた染井吉野がもう品種としての限界を迎えているし、「てんぐ巣病」に弱いので、いったんこれが発生すると、桜並木が全滅するおそれがあるからだ。それに比べれば、神代曙は生まれたばかりだし、てんぐ巣病にも強いという。そういうわけで、あと10年か20年もすれば、染井吉野にとって代わっているかもしれない。


2.皇居大手門の桜



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 私は毎日、通勤途中に大手町を通りかかる。そのときに皇居大手門に数本ある江戸彼岸の枝垂れ桜が咲くのを、今か今かと楽しみにしている。この枝垂れ桜は、染井吉野よりも少し早く咲くので、ああ、春が来たなという気がするし、何よりもその濃いピンク色がぶら下って風にゆらゆら揺れているのが、何ともいえずに優雅な気持ちになる。休日の朝、9時頃に行ったのだが、人だかりがしているし、それだけでなく、皇居ランナーがビュンビュン飛ばして走って来るから、ゆっくり写真を撮る暇もない。目当ての枝垂れ桜の前に見物人がいなくなったと思うと、死角のところからランナーたちが急に現れて、また初めから仕切り直しだ。お濠に白鳥が飼われていて、それと枝垂れ桜が重なる写真が撮りたかったが、そういう事情で余り良い写真は撮れなかった。ちなみに、見物人の8割は外国人観光客で、中国語、英語、ロシア語、スペイン語が飛び交い、非常にインターナショナル空間であった。

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 ついでに、北の丸公園の桜を見にいこうとして、皇居東御苑の中に歩いていった。大手門から入ると、同心番所、百人番所がある。百人の方は、江戸城を守るために、伊賀者や甲賀者が常に詰めていたそうだ。中に入ると、広々とした芝生の空間が広がり、その周りに白い大きな桜の木が花をたくさん付けている。染井吉野は、まだ全く咲いていないから、これは別品種である。表示を見ると、「天城吉野」とある。その横を通り、天守閣跡の石垣に登る。確かに、眺めはよい。これが、もし残っていたならと、誠に残念な気がする。帰りは奇抜なスタイルの「桃華楽堂」横目に見ながら、再び大手門から退出した。

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3.不忍池の鳥と桜



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 日曜日に、上野松坂屋まで行き、その帰りに不忍池の周りを巡って帰ってきた。このときはまだ、染井吉野がまだ、ちらほらとしか開花していなくて、大島桜が満開に咲いている程度である。池の真ん中の弁天堂も、染井吉野が満開のときはピンク色っぽい白で覆われるが、まだそうなっていない。代わりに、すっかり枯れた蓮池にゆりかもめが乱舞している。それをカメラで追いかける。三脚がないので、ちゃんと写せるかどうかは、運次第のようなところがあるが、何枚かは、見られるものがあった。来週には染井吉野が、その次の週にはピンク色が強い関山が咲くはずだ。朝早くの散歩が楽しみである。

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4.千鳥ヶ淵の昼桜



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 今年も、千鳥ヶ淵の桜を楽しんできた。家からも職場からも近いので、私は、ほとんど毎年、この桜を鑑賞している。染井吉野に限ってではあるが、その規模と多彩な桜の見せ方では、まさにここ千鳥ヶ淵が日本一ではないかと考えている。なぜ、こちらの染井吉野が良いかというと、まず自分の歩く上を桜の木が覆っていて、まるで桜のトンネルになっていることだ。これは、上野公園でも同じだから特徴でも何でもないが、千鳥ヶ淵はそれに加えて、お濠にたくさんの染井吉野の枝が突き出すように伸びていて、まるで桜の花が紺碧の水面を埋め尽くしているかのように見えることだ。その桜の花の合間に、ボートが顔を出してくるし、お濠の対岸に何本もある大きな桜の木も、桜の花をいっぱいつけているから、いやその見事なことといったらない。それがボート乗り場まで何十メートルも続く。そしてボート乗り場上の展望台から今来た方向を振り返ると、青い空、緑の水面、両脇の満開の桜、ぽっかり浮かぶボートが、まるで一幅の絵画のようなのである。

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 この見事な桜は、そもそも昭和30年ごろに、皇居の周りに彩りを添えようと、当時の千代田区長が職員に植えさせたのが始まりという。その後、近くの高級料亭の福田家が桜の苗木を100本寄贈したり、あるいは近所にある跡見学園の女子学生が若くして亡くなった時にそのご両親が娘の生きた証しにと苗木250本を寄贈したりというように、多くの人の善意や思いにに支えられながら増えてきたのだそうだ(岡村仁都美著「千鳥ヶ淵のさくらたち」より)。

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 今日は、千代田線を大手町駅で半蔵門線に乗り換えて、九段下駅で降りた。そこから皇居のお濠に沿って桜の花を見ながら、田安門に至った。今日は平日なので、武道館で私立大学の入学式をするらしく、人混みでごった返していた。その中をお濠の方を向いて桜とお濠の水面の写真を撮り、大山巌大将の銅像の脇を通って、千鳥ヶ淵に向かった。逆L字型の横棒の方から角を曲がり、直ぐに九段方面を眺めると、これが一番の写真スポットである。それから、人の流れに沿って南下する。左手にはお濠とそこに突き出している桜の枝があり、構図が良ければ、枝にたくさん咲いている桜の花とお濠の水面、それから向こう岸の桜の木を撮るという具合である。やがて、先ほど述べたボート乗り場上の展望台に着く。

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 もちろん、桜に飽きれば、道端に咲いているシャガの花が可憐な姿を見せているから、それを眺めても良し。あるいは、木蓮の花が咲いていて、紫色で高貴な感じもする。そうこうしているうちに、千鳥ヶ淵エリアを抜ける。そのまま進んで半蔵門の方へ行くのも一案だし、道路を渡って英国大使館前の染井吉野を見に行くのもいい。更に歩いて行くと、国立劇場前の桜を楽しむことができる。なお、千鳥ヶ淵ではライトアップをしていて、私も通りかかったことがあり、夜桜も美しい。しかし、人混みの中だから三脚が使えないので、写真を撮るのは難しいと思って、未だにチャレンジはしていない。


5.愛知犬山城の桜



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 名古屋の北方で木曽川のほとりの小山の上にある犬山城、別名:白帝城に行ってきた。運良く桜の真っ盛りのときで、染井吉野が咲き乱れる中に、犬山城がスックと立っている姿は、「これぞまさに日本の城」という気がする。天守の中に入ると、急勾配の階段が続く。4階分ほど登った末に、ようやく天守に着いた。西洋風に言えば「ベランダ」に出て回りを見渡すと、これがまた絶景である。この日は風が強くて、南方面には出られなかったものの、北から出ると、正面には木曽川が滔々と流れている。右手すなわち東方向には木曽川にかかる犬山橋(ツインブリッジ)があり、その左手先には、晴れていれば御嶽山が見えるそうだ。今度は西つまり木曽川の下流方面に行くと、ライン大橋に、美しい形の伊木山が見える。この絶景を堪能して、再び急な階段を下っていった。登るときより、下るときの方が危ない気がするので、滑らないように慎重に下りていった。

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 いただいたパンフレットによると「犬山城は織田信長の叔父である織田信康が、天文6年(1537年)に木之下城を移して築城したと伝えられています。天文12年(1584年)の小牧長久手の戦いの際には、羽柴秀吉は大軍を率いてこの城に入り、小牧山に陣を敷いた徳川家康と戦いました。江戸時代になり、元和3年(1617年)に尾張藩付家老の成瀬正成が城主となってからは、成瀬氏が代々受け継いで幕末を迎えました。明治維新に犬山城は廃城となり、天守を除いて櫓や門の大部分は取り壊されて公園となりました。」とのこと。その後のことを端折って書くと、明治24年の濃尾地震では大きな被害に遭ったり、28年には県から元城主の成瀬さんに譲渡されたり、昭和34年の伊勢湾台風では大きく破損したりと、色々な経緯を経て、現在は犬山城は公益財団法人犬山城白帝文庫の所有で、犬山市が管理しているようだ。

 犬山城を出て、お昼は、近くのフレンチ創作料理で食べた。こちらは、国の登録文化財に指定されている旧家を利用して開設されたレストランということで、町の食堂ではないから、久しぶりに会った友達とゆっくり話せると、それなりに期待して行ったものである。確かに、裕福だった旧商家を利用していて、お庭もそこそこ立派だった。ランチのコースを注文した。料理は、作り置きのものではないかと思うのも多かったが、見た目は綺麗に作ってあるから、それなりに凝っていた。給仕してくれる人がそれを説明してくれる。一生懸命に説明してくれるその態度には好感がもてる。ところが、こちらが仲間内で楽しく話しているところに、わざわざ割り込んできて会話を止めて料理の説明をする。

 運ばれてくる料理には色々と薀蓄があるようなのはわかるし、創作料理ということで工夫の内容をお客に知ってもらいたいのだろうと思う。しかし、友達どうしのせっかくの楽しい雰囲気を壊してしまうほどのことではないはずで、東京あたりだと、お客の会話が弾んでいるときにはそんな無粋な説明はせずに、阿吽の呼吸で対応してくれるのにと、いささか残念な気がした。時と場合とお客の様子に応じて、臨機応変に対応するのが、客商売の要諦であると思うのだが、いかがであろうか。


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 それはともかく、料理の後で、江戸時代の豪商だったと思われるこの家の庭などを見せてもらい、こういう雰囲気だったのかと往時を偲ぶことができたから、とてもためになった。願わくば、この文化財を大切にして、後世まで伝えていってほしいものである。その意味で、このレストランを応援する価値は十分にあると思う。

 昼食後、有楽苑(うらくえん)に行った。こちらも、パンフレットによれば「織田有楽斎(1547ー1621)は信長の実弟で、茶の湯の創成期に尾張国が生んだ大茶匠であり、その生涯は波瀾に富んでいた。晩年、武家を棄て京都建仁寺の正伝院を隠棲の地とした。如庵はその境内に元和4年(1618年)ころ建てた茶室であり、現存する国宝三名跡の一つ」という。たまたま食事中だったお昼の時間に雨が降り、それが良かったようで、緑の苔が美しかった。心が洗われるようである。また、桜と三葉躑躅の対比が一幅の絵画のようで、しばらく無心で眺めていた。



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6.日立風流物と桜


 日立市に、国指定重要有形・無形文化財で、ユネスコの無形文化遺産に登録されている「日立風流物」という山車があり、それが桜の季節に演じられるということを聞いた。そこで、4月8日、東京駅からスーパーひたちに乗って、日立市に行ってみた。上野東京ラインが2年前の3月に出来てから、私は今日初めて、東京駅より常磐方面に乗る。行ってみると、同じ8番線から東海道方面の列車が出ていたりして、少し戸惑った。これがもう少し歳をとったりしたら、うっかりすると、逆方向へ乗るかもしれないので、気を付けよう。

 さて、約1時間半の電車による快適な旅が終わり、日立駅に到着した。ここも、最近の地方都市のご多聞にもれず、駅前はすっきりと整備されているが、建物は鉄パイプとガラスでできているから、地方の駅の個性がなくなってしまっているのは残念だ。ただ唯一、駅前ロータリーに大きな歯車のモニュメントがあったのが特徴といえば特徴で、これは、日立製作所の企業城下町らしくて、とても良い。駅の出口で、さくら祭りや、日立市の由来に関するパンフレットを配布中だ。「日立風流物の仕組みがわかるものは、ありませんか。」と聞くと、わざわざ探してくれて、それをいただいた。よしよしと、これで少しは足しになると思ったら、それどころか、後述するように、とても参考になった。

 それによると「日本各地に残る山車カラクリの系統は、大きく2つの方向に発展してきました。1つは飛騨高山の高山祭に象徴される方向です。専門の人形師の手による人形カラクリを配し、山車の装飾に贅を尽くして山車を豪華絢爛な美術品まで昇華させました。一方で氏子たち自らが道具を握り仕掛けの技を工夫してカラクリを操る楽しさを見出した日立の風流物があります。優れた匠や豪商がいなくても、観てくれる人たちの喜びを糧として素人技ながら創意工夫をしてきたのです。その意気込みが人形カラクリの技を磨かせるとともに山車を大型化させる原動力となったのです。」ということだそうだ。それにしても、この説明は、簡にして要を得ている名文である。感心した。


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 駅前ロータリーからクランク状に折れて進むと、そこが平和通りで、広い道の両側に樹齢30年から60年の染井吉野の並木があり、空も覆うほどの桜のトンネルになっている。数百メートルを進むと、大きな交差点に、山車が見えてきた。家のような形が五層にもなっている。非常に高くて、驚くほどだ。15メートル、重さ5トンだという。それにしても、幅が狭くて細長い。写真で見たのとは、かなり違う。この疑問は、演技が始まって、やっと分かった。それは後で説明することにして、どこで写真を撮ろうか、真正面だと道の真ん中に山車があり、両脇に桜の木が配置されるから、構図としては理想的だ。しかし、真正面にはもう多くのカメラマンがいて、立錐の余地もない。仕方がないので、脇に回ろうと思って適当な場所を探し、斜め横から撮ることにした。この方が近いし、細長い山車を撮るには良い。気が付いてみると、三脚を担いだビデオカメラマンが隣にいた。なぜこの位置を選んだのかと聞いたら、「人形の表情が良く撮れるから」という答えだった。

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 さて、山車の前でお囃子が演奏され、それが終わると、山車の中から聞こえてくる。それが最高潮に達した頃、いよいよ山車の舞台が始まった。まず、山車の前の部分が前方へ倒れ、棚のようになる。人形の顔が見える。すると、家のような形が左右に割れて、それが舞台になる。つまり、元の舞台の幅が3倍になる。それが、一番下の層から始まって順次上の層に伝わり、最後の5層目が開き終わると、鳥が羽を広げたようになる。なるほど、この写真は、見たことがある。その舞台は、忠臣蔵を演じていて、下の層には大石内蔵助が討ち入りの太鼓を叩いている。あちこちで赤穂浪士と吉良邸の武士たちの死闘が繰り広げられている。層の最上部では、吉良上野介らしき寝間着姿のお殿様が、自ら刃を振るって赤穂浪士と渡り合っている。

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 なぜ、こんな5層もの「開き」ができたかというと、こういうことらしい。複数の人形を使った物語性のある演目をするには、ある程度の舞台の幅が必要なのだが、当時の狭い道路では、山車としてはこの幅が限界だった。そこで舞台で演ずるときには、開いて大きな舞台にしようとした。それと同時に、もっと大きな舞台がほしいということになり、高層化に進み、ついに大正時代になって今の5層の「開き」のスタイルになった。それと同時に、山車の内部では人形の操作者もエレベーターのように上部にせり上がるようになっていて、その機構を「カグラサン」という。もちろんこれは人力である。

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 さて、人形の舞台を見ていたところ、吉良上野介の人形がひっくり返ったと思ったら、あっという間に御殿女中になってしまった。顔まで若い女性になったのには、驚いた。これは「早変わり」というもので、先に演じている役のところにあるフックを引っ張ると、くるりを別の顔と衣装になる。見ると、15体の人形が一斉にひっくり返って、数分で全員が女性になってしまった。しかも、それまで持っていた刀が、いつの間にか蛇の目傘になっていて、それがぐるぐると回されている。どうなっているのだろう。

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 それを眺めていると、舞台はどうやら終わったみたいで、皆さんが一息ついている。そこで、20人ほどが、山車の土台を動かそうとし始めた。でも、なかなか動かない。何回かやって、ようやく動き、山車の前後が逆になった。すると、正面の観客に向けられた崖のようになっている部分の真ん中が前方へ倒れ、また棚のようになった。崖の中から2人の武士たちが現れ、矢をつがえて空に撃ち始めた。棚の上には、農民夫婦が出てきて鍬を振るったり、仙人のような老人が出てくる。大蛇まで出てきて、棚の上に移動した。そこに大きなガマガエルが出現して、争っている。どうも、筋が分からないので隔靴掻痒の感があるが、表の舞台がいわばお能のようなものだとすると、こちらは狂言のようなものらしい。

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 パンフレットによれば「山車の大型化に伴い、山車の裏側の利用価値が高まる。『まだ人形を載せる余地がある。しかし、大観客を裏側に移動させるわけにはいかない。』この矛盾は、土台を上下2層化し、上部のみを観客に向けて回転させることで解決した。」という。それまで演じていたのが表山(おもてやま)で、「物語は忠臣蔵や源平争乱など歴史物、武者物が多い。」。これに対してひっくり返った裏山(うしろやま)は、「八岐の大蛇や加藤清正虎退治など、動物版勧善懲悪ものが多い」という。

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 この日立風流物の沿革は、パンフレットでは「昔は宮田風流物といわれ、その起源は定かではありませんが、元禄8年(1695年)徳川光圀公の命により、神峰神社が宮田、助川、会瀬3村の鎮守になったときに、氏子たちが作った山車を祭礼に繰り出したのがはじまりだといわれています。この山車に人形芝居を組み合わせるようになったのは、享保年間(1716ー1735)からと伝えられています。壮大な山車とともに日立風流物の特徴を成すからくり人形の由来も確かな記録は残っていませんが、風流物が起こった江戸中期は人形浄瑠璃が一世を風靡した時代であり、その影響を受けた村人達が農作業の傍ら工夫を重ね、人形作りの技術を自分達のものとしていったと考えられます。4町(東町、北町、本町、西町)4台の風流物は村人達の大きな娯楽となり、町内の競い合いもあいまって、明治中期から大正初期にかけて改造を重ね大型化されました。その風流物も昭和20年7月、米軍の焼夷弾攻撃により2台が全焼1台が半焼、また人形の首も約7割を焼失してしまいました。しかし、郷土有志の努力により、昭和33年5月には1台だけながら念願の復元を果たしました・・・昭和41年5月までには残りの3台も復元された」とのことで、かなりの苦難の道を歩んだようで、その結果の国指定重要有形・無形文化財、ユネスコの無形文化遺産への登録だったというから、地元関係者のご努力に、頭が下がる思いである。

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 なお、この日立さくら祭りに花を添えるものとして、相馬の馬追いから、10騎の騎馬武者が駆けつけて、桜並木を闊歩した。それぞれの旗指物が全く違うと思ったら、一つとして同じものはないそうだ。7月に本物があるようなので、今度、是非とも現地に行って見てきたいものである。



(2017年4月 9日記)




徒然291.歳をとってからの怪我

神代曙


駿河桜


小松乙女


 つい2日前に東京の桜の開花宣言が行われて、いよいよ来週には東京の各地で染井吉野の桜が咲き誇る姿が見られそうだ。あちこちで色々な桜の美しい写真を撮りたいと腕がなる。早速であるが冒頭の3つの桜は、本日現在は三分咲きの国立劇場(千代田区隼町)の桜である。上から順に、江戸彼岸の仲間でありピンク色の濃い美しい花を咲かせる「神代曙」、白っぽくて花びらが大き目の「駿河桜」、白とピンク色の絶妙なバランスやその儚げな姿から、いつまでも見ていたくなるような「小松乙女」である。

国立劇場(千代田区隼町)の桜


 話は変わるが、もう60歳代の後半に入ると、同級生の会合では、再就職や孫の話題は終わり、病気や怪我、親の介護などの健康の話が多くなる。先日は怪我の話だった。昔から眼鏡をかけている人が、「最近は眼鏡が合わなくなったせいか、階段を降りるときに足元が見えづらくなってきた。特に最後のステップがあるのを見落として、もう平地に着いたと思って足を出すと地面がなくて、バランスを崩して大きく転んでしまった。」などという。幸い、膝を擦りむいた程度で済んだそうだから良かったものの、危ないところだった。

 すると、別の人が、ニューヨークの街角で、歩道の段差につまずいて、顔から突っ込んでしまったという失敗談をし始めた。普通なら片手を無意識に出して「かばい手」をするところだが、両手はそれぞれ荷物を下げていて、ふさがっていたという。歩道に顔から激突した結果、顔はあちこち傷だらけで、眼鏡は粉々に割れたそうだ。しかもその直後に講演の約束をしていたので、顔中、絆創膏だらけの姿で会場に行って講演をしたというから、大したものだ。


小松乙女


 実は私も、6年ほど前に真冬にテニスをしているときに、怪我をしたことがある。試合中に短く打たれたボールを拾おうと前へダッシュした際、肉離れを起こしたのである。病院で診てもらったら、脚の太腿の裏の下腿三頭筋の上部付け根付近を損傷したそうだ。アキレス腱ではなくて良かったが、それでも6週間ほど、脚全体を包帯でぐるぐる巻きにされて、日常生活に不自由したことがある。

小松乙女


 また別の同級生だが、東京駅でエレベーターに乗っているときに、落ちてきた重たいスーツケースに当たってしまい。大怪我をして、数ヶ月入院した人がいた。帰省途中の女子学生が落としたそうだが、全く運が悪かったとしか言いようがない。とりあえず、彼は治ったものの、以前と比べて全般的に元気がなくなったのが気になる。

小松乙女


 いずれにせよ、歳をとってからの怪我というものは、回復に時間がかかるだけでなく、元のように戻る保証もない。だから、怪我をしないに越したことはない。それにしても、近頃、街を歩くと、歩きながら前を見ずに携帯やスマホの画面に見入っている人が多い。どうかすると、猛スピードで走る自転車に乗っていても、画面から目を離さない輩がいる。これなどは非常に危なくて、事故を起こすのは早晩必定だと思うのだが、本人は実際に起こすまで、全く気が付かないかもしれない。そういう事故に巻き込まれないよう、とりあえず気をつけたい。





(2017年3月26日記)




老人ホームと義理の母

根津神社に飛来した鷺


1.義理の母の具合がとても悪いものだから、この週末は、静岡に来ている。義理の父母は、もともと、3階建の自宅の2階部分に居住していた。ところが、80歳代半ばを過ぎて足腰が弱った。エレベーターの設置ができればよいのだけど、建築規制やスペースの問題でそれも難しくて、ついに老人ホームに入居することを決断した。数年前のことである。一般には、入居するかどうかで千々に悩むところだ。しかし母は、もうこうして住むのは限界だと進んで決断し、父も引き連れて入居したのは、さすが、元経営者だっただけのことはあると、感心した。

 家内が探した県内の老人ホームのうち、いくつかを比べて候補を選び、体験入居して決めたのが、今の老人ホームである。茶畑だったところを開発したので、まず日当たりがよい。2階に上がれば、食堂兼集会室の全面が1枚の大きなガラスになっていて、その正面には真正面に富士山がドーンと鎮座している。もう、絶景としか言いようがない。富士山は、冬になれば白い綿帽子を被る。夕方になれば、夕陽でピンク色に染まって、実に贅沢な景色を味わえる。


ホテルから見た富士山


 しかも、この老人ホームは、本当に親切で、至れりつくせりだから、ほとほと感心する。食事もメニューを見せてもらうと、実に充実している。このメニューの写真にあるように、家内が介護に行って留守の時の私の食事内容より、はるかに良い。加えて、季節の行事、お誕生会、その時々のテーマでイベントを催してくれる。機関紙といってもカラーコピー数枚のものだけど、そうしたイベントに写真入りで入居者が登場するから、様子がよくわかる。また、算数ドリルや漢字ドリルをよくやってボケ防止に努めてくれるし、最近の研究で誤嚥性肺炎の防止に効果的だとわかれば、入居者に「パピプペポ」などと言わせて口の訓練を早速取り入れる。そうかと思うと、退院したばかりでリハビリが必要な入居者には、その人に合わせて理学療法士が一生懸命に訓練してくれて、寝たきりにならないように配慮してもらえる。

老人ホームの食事のメニュー


 ちなみに、入居に当たって老人ホーム側に確認したのは、有り体に言えば「看取り」をしてくれるかどうかである。もう家も売却してしまうので、看取り段階に入ったら家族の元に返すというのでは、こちらが困る。そもそも静岡と東京だから、離れている。家内もそれなりにいい歳になっているし、必ずしも体調が万全ではないから、お母さんより、家内が先に倒れてしまっては順序が逆だ。そう思って、家内が尋ねた。すると「看取りはするし、実例もあります。ただし、それなりの料金はかかります。」とのこと。もちろんそうなると、料金などは二の次であるから、この答があったから、入居を決めたようなものだ。

老人ホーム近くの姫椿


 この老人ホーム運営会社は、比較的最近に静岡の地元で始め、評判が良いものだから、県内であちこちに増やしている。しかも、あまり儲け主義ではないようで、先日は合理化で資金に余裕ができたということで、入居料を若干値下げしてくれたほどである。現在入居している老人ホームは、管理者が大病院の元看護部長の方で、非常にしっかりされている。ただ、入居者も職員も、かなりの出入りがある。入居者の方は、料金の面で限界を感じて退去したり、お亡くなりになることで説明もつく。しかし、職員の方々は、ざっと見るところ年間3割くらいは入れ替わっているものと思われる。給料が安いせいか、仕事がきついためか、あるいは夜間の勤務があって辛いせいか、まあ、そういう理由なのだろう。

 ここ1年ほどの変化として、これまではそんな入居者はいなかったのに、方針が変わったためか、手のかかる入居者が入ってくるようになったように思う。たとえば、男性で80歳くらいの人は、認知症のせいでまともなコミニュケーションをとるのが難しいのだけれども、その代わり身体は誠に頑丈で、外へ出て、散歩というよりランニングをしたがる。老人ホーム側としては、そんな外でのランニングに付き合う人手もないし、事故でもあったら困る。だから、建物内に留めようとする。この人は、口に出すことはできないが、それが不満なようで、玄関を見渡せるソファに身体を沈め、誰かが玄関を開けたその隙に、あっという間に、その脇を脱兎のようにすり抜けて飛び出す。それがまあ速いものだから、若い職員でもなかなか追い付けないらしい。こうなると、もう笑い話の類いだ。

 あるいは、昼間だけだが、どういうわけか大声で居室の戸締りを確認して回る90歳代のおばあさんがいる。「この部屋、戸締りよーし!」という調子である。うるさくてかなわない。でも、非常に熱心に職務に取り組んでいるのには、感心する。だから、もともと、一体どういう職業の人だったのかと考えたりする。この人が自室に戻ると、シーンとした元の雰囲気に戻る。 部屋の中でも、やっているのだろうか?


寒緋桜


 そうかと思うと、夕方になるとそわそわするおじいさんがいる。職員が一計を案じて一杯飲み屋のカウンターらしきものを作り、夕方になって「さあどうぞ。お酒ですよ。」と言ってコップに入れた水を出すと、嬉しそうに飲み干したそうだ。なるほど、老人ホームも、色々と苦労する。そういう苦労を通じて、老人ホーム運営のノウハウを蓄積しているそうだ。

 でも、そういうところに入って、至れりつくせりという介護を受けていても、義理の父は、3年前に脳梗塞が原因で亡くなってしまった。享年88歳だった。2年にわたる闘病生活の末だったが、これが仮に自宅での介護であったならば、90歳近いおばあさんである母一人で対処しなければならなかったので、色々と大変だったろうと思う。そういう意味で、老人ホームにいて、つくづく良かったと思う。しかし、今度はその母の番になってしまった。


日本平ホテルから見る富士山


日本平ホテルから見る富士山


 家内は、両親が老人ホームに入居して以来、毎週、東京から静岡に通って様子を見に行っている。特に、父親が亡くなってからは、母一人では寂しかろうと、母の体調が良いときは、介護タクシーを頼んで老人ホームから連れ出すことにしていた。話を聞くと、駅前のセンチュリーホテルの角部屋に泊まって、季節ごとの富士山を見て、ホテル内の中華や焼肉レストランで食べてもらう。そういうときは「美味しいね。美味しいね。」と言ってくれるので、心から嬉しくなるそうだ。あるいは、風景ホテルと言われる日本平ホテルに上がって、富士山と清水港を眼下にケーキを食べる。そういう時のおばあちゃんは、食欲がことさら進んで、ショートケーキを平らげるという。また、葵タワーという高い建物の最上階で夜景を眺めながら、よもやま話をする由。

センチュリーホテルから見る静岡市内


日本平ホテルから見る富士山


  老人ホームに帰ると、他の入居者から「良いわね。」と言われるそうだ。「親孝行、したい時には親はなし」などと言うが、これも最後・・・いや最後から二番目くらいの親孝行と思えば、今のうちに十分しておけば良いと思う。手間や費用の問題ではない。親との心のつながりを大切に思うかどうかの問題だ。それを大事にする家内は、我が家の誇りである。

 ところで、老人ホームに入居すれば、家族の手が離れるかといえば、必ずしもそうではない。眼がおかしいといえば眼科に、腰が痛いというから整形外科に、定期的な歯石除去で歯科医院に連れて行かなければならない。ちなみにこういう医者通いは、老人ホームの人は連れては行ってくれるものの、医者と交渉したりやりとりするのは家族でなければならないので、老人ホームでは対応できず、どうしても家族の責任となる。そういうことで、老人ホームに入居したらそれで全面的に任せきりというわけにはいかなくて、家族の出番もかなりあるのである。そのため、両親が老人ホームに入ってから、ほとんど毎週、欠かさずに東京から静岡へと通っている。これには、頭が下がる。


ひな祭りの季節


2.さて、私が最初の見舞いに行ってから、2週間が経った。2週間前のひな祭りの頃は、老人ホームの医者が「24時間モニターができる心電図を付けたら、すごく悪い。これでは、いつ心臓が止まってもおかしくない状態だから、覚悟しておいてください。」という。それは大変だと、老人ホーム側は「看取り体制」というのに入った。要は、ご臨終というわけだ。現に、食べられない、水も飲めないという日々が続いていた。外は、ひな祭りで華やかな雰囲気だったが、我々家族、特に家内には、重苦しい日々が続いた。

 家内も最初は、母親のすぐ横にベッドを置いてそこに寝て、トイレの世話をしたり、胸が痛いという訴えに対応したりしていたが、もう2晩で自分が疲れてヘトヘトになり、自らが倒れそうになった。そこで、引き続き、毎日、老人ホームに通い詰めることにするが、四六時中一緒に過ごして看護するのはさすがに止める。代わりに、近くのホテルに滞在して、そこから適宜通うスタイルにした。つまり、昼間は老人ホームでなるべく一緒に過ごすようにする。しかし夜間は、スタッフが1時間おきに様子を見てくれるので、それに任せるのである。それでも、結構、気力と体力を使う。だから、これが仮に自宅介護だったならば、それこそ共倒れだっただろう。

 当初、義理の母が、飲まず食わずで、心臓の拍動が不安定で、体温も急に上がって37度から38度の状態が続いたときは、私も何回かお見舞いに行って、そのたびに、もうダメかと思った。しかし、眼を開けているときの意識はしっかりしていて、私が顔を出すと「ああ、よく来てくれたねえ。」と言ってくださる。でも、続いて「胸が苦しいのよね。私、死んじゃったら、どうなるんだろう。」と聞かれる。聖職者ではないから、これは、なかなか答えにくい。言いよどんでいると、家内が脇から「人は必ず死ぬの。でも、その後は誰も死んだことがないから、ここに居る人には分かりません。たぶん、おじいちゃんのところに行くんでしょ。」などと答える。それを聞いていた看護師さんが「よくそんなこと、はっきり言いますね。」と、呆れたりする。確かに、他に言いようがない。

 そうしているうちに、母が「ああ、心臓が痛い。」と言って、胸を押さえる。こちらは、ああ、心臓が止まってしまうと、気が気でない。ところが次の瞬間、それが治って「なかなか、楽には死なせてもらえないねえ。」とポロリと言うから、不謹慎だが、つい笑ってしまう。看護師さんが「こんなに今際の際まで、意識がはっきりしている人はいませんよ。早く、自然のモルヒネが出て、お楽になるといいのですが。」と、いささか同情の眼差しで言う。

 施設長さんと相談して、痛がる時には、掛かりつけのドクターに、麻酔を打ってもらおうとした。ところが、そのドクターは「この状態で痛み止めを打つと、それがショックになって、命を落とすかもしれません。」と言って、なかなか肯んじない。これは、責任逃れかもしれないとも思うが、本当かもしれない。ベッドでは、母が痛がり続けているので、せめてこれくらいは、ということで、睡眠薬を処方してもらうのが、せいぜいだった。

3.そういう状態で、毎日毎日、いよいよ明日はもうダメかと思いつつ、沈鬱な気分で過ごしていたのだが、7日目から、家内が持って行ったお土産の果物やお菓子を口にするようになってくれたし、高カロリーの液体も飲むようになった。最初は、ほんの数口から始まって、みるみるうちに以前の8割ほどの食事をするまでになった。まさに、驚異的な回復である。それだけでなく、この数日間は、車椅子の上ながら、いつもの通り、皆と体操をしたり、脳トレの算数や漢字の書き取りもするようになった。家内が、老人ホームの担当者の了解を得て車椅子で外に連れ出すこともした。施設長さんに言わせれば「私は40年近く看護師をやっていますけど、こんな方は、初めてです。」というくらいに元通りになった。驚くばかりだ。

 もちろん、今でも胸が痛いということがしばしばある。そういうとき、海老のような形に体を曲げる。それを見ているこちらは心が痛むが、何もできない。測定データを取ると、血圧が上がっていることが多い。でも、そのうち30分もすれば呼吸が整ってくる。そうすると自然に姿勢が仰向けに戻って、気持ち良さそうに寝入り始める。ここ数日間は、そういうことの繰り返しである。今日など、家内が見守っていると、急に「いったん大きく目を開けるなり『治った!』と元気に言って、またスッと気持ち良さそうに寝てしまった。」という。まるで冗談のような話だが、とりあえず安心した。ちなみに、老人ホームの人によれば、看取り状態でこれまで最大1年間も頑張った人がいたというが、この調子で記録を更新してくれるのではないかと、秘かに思っている。

 ただ、ときどき、胸が痛いと訴えるのを目にすると、なすすべもないだけに、こちらも、それこそ「切なく」なるのである。人生の最後の瞬間を平和に過ごし、すやすやと眠るように幸せに去るというのが、一番、望ましいと思う。功なり名を遂げた方だし、ひ孫も3人いて、それぞれの顔も見たし、人生に満足していると、ご自分では語っておられる。しかし、どのようにこの世を去るかというのは、いずれにせよその人の運命次第で、最後まで運が良いとは限らない。これもその人の人生の一つのエピソードであり、人それぞれなのだろう。そういうことを今回、考えさせられた。

 私の場合、何年先になるのか知らないが、今際の時がいよいよ来たら、誰にも迷惑や心配をかけずに、できれば、満足と平穏な気持ちのままで、痛みとは無縁で大往生といきたいものだ。日本平の頂上から、紅梅白梅の間より顔を出す富士山の美しい姿を見て、つくづくそう思った。


日本平ホテルから見た富士山






(2017年2月26日・3月14日記)




東三河いいじゃんツアー

吉田神社の手筒花火


   目  次

 1.愛知県の東三河
 2.二川宿本陣資料館とひな祭り
 3.豊橋カレーうどん
 4.安久美神戸神明神社の奇祭「鬼祭り」
 5.豊橋聖ハリトリス教会
 6.豊橋市役所展望室と豊橋公会堂
 7.吉田神社の手筒花火
 8.御油の松並木
 9.豊川稲荷
 10.ヤマサのちくわ
 11.終わりに当たって





 東三河いいじゃんツアー(写 真)





1.愛知県の東三河

 2月11日、東京駅八重洲北口に朝早く集まって、いよいよ「東三河いいじゃんツアー」が始まった。午前8時33分のひかりに乗ると、新横浜駅を出たらもう次の停車駅は豊橋駅だ。途中で見た富士山には雪が被り、非常に美しかった。1時間23分で、もう豊橋駅に到着し、バスに乗り込む。すると、愛知県庁東三河総局(東三河県庁)の課長さんたちが待っておられて、趣旨を説明された。何とこれは、ふるさと創生事業の一環として行っているそうだ。内容が実に盛りだくさんだったことから、旅行を終えてこうして振り返ってみると、我々が拠出した旅行費用は私の見るところおそらく3分の1程度で、残りは国と愛知県が折半したという。思わぬところで、税金を使わせてしまった。


新幹線車中から見た富士山


 東三河の人口は、2008年の77万人をピークに緩やかに減少しつつある。今ではたぶん75万人を切っており、2040年にはおそらく66万人程度になると推計されている。そういう中、東京圏在住の人に東三河を旅してその良さを知ってもらい、ひいては自分で来て定住してもらうという心づもりだそうだ。

 実は私も名古屋つまり尾張の出身である。ところが、同じ愛知県とはいえ、この三河には学生時代に登った鳳来寺山を除いて、来たことがなかった。こちらに来て分かったのだが、だいたい言葉が尾張とは全く違っている。尾張弁は、河村たかし市長のような「ニャー」とか「キャー」とかいう発音が耳に残る話し方だが、この三河は、むしろ静岡弁に近い喋り方をする。


2.二川宿本陣資料館とひな祭り

 最初に訪れたのが、豊橋市・二川宿本陣資料館である。その主任学芸員である和田実さんからご案内いただいた。先の東京でのセミナーで講演をされたので、我々も大体の知識はあるから、今日はその確認のようなものだ。東海道53次の中、江戸から数えて33番目の二川宿は、本陣が一つしかない小さな宿場である。「本陣(大名の宿)、旅籠屋(庶民の宿)、商家の3ヶ所を同時に見学できる日本で唯一の宿場町」とのことで、今はちょうど、ひな祭りが行われていた。


本陣の殿さまの部屋


 和田さんの細かい話が記憶に残る。たとえば、大名行列は1日40キロメートルという強行軍も珍しくないそうで、真夜中に着いて早朝に出立するということもあり、そういう場合は宿の人は寝ずにお世話をしたという。中には宿代や特に食事代を支払わずに行ってしまう大名行列があって、不足の分につき追加の請求書を作って、次の宿場まで追いかけて支払ってもらったそうだ。あるいは、支払いの悪い大名がいて、宿屋側がその宿帳に文句を書き連ねているとのこと。いつの時代も人間くさいものだと、笑ってしまった。

御殿飾りの雛人形


つるし飾り


 二川宿のひな祭りは、江戸時代からのものも含めて、二川宿の旧家に伝来した内裏雛や御殿飾り、つるし飾りなどを展示するもので、実に豪華で素晴らしい。特に驚いたのが、「御殿飾り」で、お雛様とお内裏様が御殿の中に入っている。この御殿というのは、まるでタイのパゴダの装飾を思い起こさせるような派手で豪華なものであるが、そのほかは普通の段飾りとなっている。庶民の子供が遊んだ土人形のお雛様があったし、それに男の子も、学問の神様である天神様を祭って、3月に女の子と一緒にひな祭りを祝い、加えて5月にも端午の節句を祝ったそうだ。

つるし飾り


旅籠屋(庶民の宿)


 また、様々な端切れで作った「つるし飾り」も、いつまでも見ていたい気がするほど魅力的である。ただし、写真を撮るには苦労する。全体を撮ってもただ様々な色彩だけが目立つだけで、個々のつるし飾りの造形の美しさがわからない。その反面、一つ一つを撮ろうとすると、全体の美のバランスが撮れないというジレンマがある。

土蔵を覆う板塀にピンが刺さっている


 「商家 駒屋」では、妙なことに感心してしまった。それは、土蔵を覆う板塀に、ピンが刺さっていることである。その理由を聞くと、これは、土蔵を覆う漆喰を守るためのもので、漆喰壁は火事があっても、中のものが焼けないように守る。しかし、雨風に弱いことから、普段は板塀で守らなければならない。ところが火事のときは、板塀だと燃えてしまう。それだと防火壁の役割を果たさないので、このピンを取り付け、いざ火事が迫ってきたときは、ピンを外すと板塀はバラバラと落ちるという仕掛けになっているそうだ。


3.豊橋カレーうどん

 ご当地グルメで、豊橋カレーうどんを味わってほしいというので、ありがたくいただいた。ざっと見たところ、カシワ入りの普通のカレーうどんで、ウズラ玉子が3個も入っている以外は何の変哲もないカレーうどんである。同時に配られた食べ方の第1条では、「器の底へ箸をさして混ぜないように」とされている。ネギを掛けて普通に食べ始めた。うどんがしっかりして少し歯応えがあるから、私の好みだ。


豊橋カレーうどん


 パクパク食べていく。すり鉢状の器にたっぷりとあったカレーのいわば「水面」がどんどん下がっていった。何も出て来ないと思っていたところに、やっと鉱脈を探し当てた。ご飯だ。カレーの層との間に何か入っていると思ったら、とろろである。なるほど、これがカレーとご飯が混ざるのを防ぐ役割を果たしているらしい。さて、これも食べてと・・・ああ、お腹がいっぱいになった。美味しかったが、ダイエット中の身には、いささかよろしくなかったかもしれない。

豊橋カレーうどんの食べ方


 豊橋カレーうどんは、10年ほど前に豊橋観光協会の方が発案されて、これまでに約140万食が出たという。ご本人に「どうやって考えついたのですか。」とお聞きしたら、「カレーうどんを食べていて、カレーが残るともったいないと思っていたので、ある日、突然、思い付いたのよ。」ということだった。なるほど、良いアイデアというものは、何でもないときに考え付くものらしい。


4.安久美神戸神明神社の奇祭「鬼祭り」

 この宗教行事は、およそ1,000年前から続く神事だそうだ。赤鬼と天狗の「からかい」と称して、ゆったりとした動きで1時間以上ものんびりとやっていると思ったら、突然、赤鬼が走り出し、同時にあちこちで叫び声がしたかと思うと見物人目掛けて物体が空中を飛び、白い粉が一面に投げつけられて、場面が急転回した。参道全体に白煙が立ち、ひどい人は髪の毛から爪先まで真っ白になってしまった。地元の人たちは先を争うようにして袋を拾い、進んで粉を浴びて白くなろうとするが、何も知らない我々観光客は、ただひたすら逃げ惑うだけだった。ああ、びっくりした。「これこそ、天下の奇祭なり」といわれるだけのことはある。


社殿の前に集まる見物人


参道全体に白煙が立つ


 豊橋観光コンベンション協会のHPをそのまま引用させていただくと、「毎年2月10日・11日には、安久美神戸神明社の祭礼、天下の奇祭『鬼祭』が行われます。このお祭りは、国重要無形民俗文化財のお祭りで、日本建国神話の田楽の舞で豊年と厄除けの祭として約1000年前から毎年行われた尊い神事です。荒ぶる神の赤鬼が悪戯(いたずら)をするので、武神天狗が懲らしめようと神の前で秘術を尽くし戦い、最後に和解して赤鬼が罪の償いに厄除けのタンキリ飴を撒きながら嵐のごとく境外へ飛び去ります。多くの神事が行われるが、祭りのクライマックスとなるのは『赤鬼と天狗のからかい』です。暴れる赤鬼を天狗が退治する無言劇は天狗の勝利となるが、敗北した赤鬼は若衆等と共に、白い粉とタンキリ飴をまき散らし境外に走り出して行きます。この粉を浴び、タンキリ飴を食べると厄除となり夏病みしないと言われ名物となっています。」とのこと。

赤鬼(荒ぶる神)


天狗(武神 猿田彦)


 そういうことだったのか。するとあの1時間近くやっていたパントマイムは「赤鬼(荒ぶる神)と天狗(武神 猿田彦)のからかい」で、宙を飛んだ物体はタンキリ飴で、白い粉の正体はうどん粉(飴粉)だったようだ。それにしても、白い粉は鳥居よりも高く空を飛び、見物人の最前列にでも居ようものなら、もろに直撃を受ける。同じツアーの参加者のご夫婦が、二人ともその直撃弾を浴びて、髪の毛、顔、コートまで、体中、真っ白の粉まみれとなってしまった。これは、堪らない。思い出に残るどころか、一生忘れないだろう。しかし、翌日には白い粉をすっかり洗い落とされて、ご機嫌で旅行を続けられていたから、心配は杞憂だったかもしれない。

白い粉は鳥居よりも高く空を飛ぶ


体中、真っ白の粉まみれとなってしまった


 ちなみに、私も背中に多少、白い粉を浴びた。前を向いてカメラを抱えていた姿勢から、事が起こったのでとっさにカメラを守りつつ後ろを向いたので、それほどの被害はなかったようだ。ついでにタンキリ飴も口に出来たので、今年の夏は大丈夫だと信じよう。なお、白い粉は、1トン以上も用意されるらしい。

 それにしても、赤鬼と天狗のからかいが、この行事の肝のようだ。赤鬼のスタイルが面白い。胸に2つ突き出ているのは、あれはもしかして乳首か?どうもそうらしい。なぜ、白い紐で縛られているのか?それも難しい結び方でと思ったら、毛鬘といって、隆々たる筋骨を表すそうだ。髪の毛はベージュ色で重そうだと思ったら、麻製で、5キロ近くあるという。雨に濡れでもしたら大変だ。背中に榊と蜜柑が刺してあるが、これは御幣に刺した橙で、子孫繁栄のシンボルだという。腰巻きは、鬼らしく虎模様だ。紅白の棒を持っているが、これは撞木で、赤鬼の武器だという。歩き方は独特で、高足取といって、足を交互に後ろに跳ね上げて飛び跳ねるようにする。これで真夜中まで演技するのだから、さぞかし疲れるだろうと同情する。

 天狗の方は、普通の武士の格好で、重さ20キロもの鎧を着て、太刀を背中に付け、薙刀を武器とする。赤鬼と間合いを詰めたり離れたり、鳥居の近くまで行ったと思ったら社殿前に戻ってくるというのを繰り返す。途中で雪が降ってきて、それが止んでもまた同じようにのんびりとやっている。私の位置からは、残念ながらよく見えなかったが、赤鬼が手を変え品を変え天狗を挑発しているらしい。時代劇のような立ち回りを想像していたが、全く違ってこれはパントマイムだ。よくよく見ていれば、赤鬼が日の丸の扇子に合わせてそちらの方へとジグザグに動いたり、撞木を使ったりし、これに対して天狗が馬鹿にしたように上を向いたりと、何やら面白い所作がある。

 天狗に追い詰められた赤鬼は、堪えきれずに、警固衆の「アーカーイ」という声とともに二の鳥居まで逃げて行き、これと同時に天狗は社殿前の八角台に上がる。赤鬼は社務所に好物のタンキリ飴を納めて境内から逃げ出す。これと同時に改心した赤鬼が置き土産として、飴と粉が撒かれるという次第である。


子供の頭を撫でる黒鬼


御的の神事


 出演者として、赤鬼、天狗のほか、黒鬼、青鬼、司天師、小鬼がいるようだが、私が見たのは黒鬼である。黒鬼は、からかいの神事が行われているそばで、大榊の傍に立ち、子供の頭を撫でていた。そうすると、病気にならないという。なお、私は、からかいの神事の前に行われた弓を射る「御的の神事」も見物させていただいたが、あれだけの見物人が参道の両脇に迫っている中で、事故が起こらないように、よく練習されていると感じた。


5.豊橋聖ハリトリス教会

 約100年前に建築されたロシア正教の聖堂で、木造であるが、奇跡的に戦禍を免れて現存していて、国重要文化財に指定されている。神父さんのご厚意で、建物の中を見学させていただいたが、著名な聖像画家山下りんの聖像画や、日露戦争で捕虜になったロシア兵が描いた画がある。正面の祭壇にはイコンが多く飾られ、非常に立派なものだった。


豊橋聖ハリトリス教会


 神父さんが冗談めかしておっしゃるには、「昔、ロシアの皇帝が、宗教を取り入れようとして部下を世界各地に派遣した。部下は、カソリックについてはあまり良い印象を受けなかったので、ギリシャ正教とイスラムを勧めた。皇帝はイスラムに傾きかけたが、部下が耳元で『ムスリムになると、酒は飲めませんよ』と囁いたので思い直し、ギリシャ正教になった」という。

 私が「なぜ、この豊橋の地にロシア正教の聖堂があるのですか」と聞いたところ、神父さんは、「実は明治の頃、ロシア政府が布教をしようと、日本に使節団を派遣し、200の主要都市にこうした建物を作ったんですよ。そのうち現存するのは70で、ここもその一つです。御茶ノ水にもニコライ堂がありますが、残念ながら関東大震災で大きな被害を受け、再建されたものです。」とおっしゃる。知らなかった。また、「日露戦争のとき、松山と並んでここ豊橋にもロシア兵の捕虜収容所があり、ロシア兵たちは、ここで祈ることを許されて、精神的に非常に救われたといわれています。」とのこと。


6.豊橋市役所展望室と豊橋公会堂

 豊橋市役所13階に展望ロビーがある。そこへ上がって、市内を見渡した。目の前を流れる大きな河川は豊川「(とよがわ;濁音)」、豊橋市と豊川市は、「(とよかわ;清音)」だそうだ。豊橋の主要産業は、戦前は養蚕業、戦中は軍都だったが、軍部解体の後は、大規模農業と自動車輸出港、輸入港だという。


豊橋市役所


 大規模農業というのは、たとえば電照菊のように、他の産地と比較して、安価で大量に供給するのを得意としているらしい。それが功を奏して、年収3,000万円程度の農家が結構あるという。

豊橋市内の眺め


 自動車の輸出は、近くにトヨタの田原工場やスズキの浜松の工場があるから理解できる。しかし、輸入港とは意外だと思っていたら、日本のフォルクスワーゲン車は、全てこの豊橋で陸揚げされているそうだ。そういえば、この豊橋は東に行くにも西に行くにも、大消費地の中間に当たる。

豊橋公会堂の鷲の彫刻


豊橋公会堂


 豊橋公会堂は、1931年に竣工したロマネスク様式の建物で、イスラム建築を思わせるドームに実に凝った鷲の彫刻が飾られている洒落た公会堂である。1945年の空襲では、占領行政を考えて意図的に爆撃目標から外されたらしく、破壊を免れた。ステンドグラスが印象的だった。訪れたその日は建国記念の日だからと、奉賛会によってカラオケ大会が行われていた。そのつながりの意味がよくわからなかったが、ステージで歌っていた人は、本当にお上手だった。


7.吉田神社の手筒花火

 東三河の手筒花火は、文献に出てくる最初の記録が永禄8年(1558年)で、今川義元の家臣の吉田城代だった大岡肥前守が吉田神社に奉納したとある。それ以来、この地方で脈々と続けられている伝統芸能だそうだ。つまり、鬼祭りが1,000年の歴史があるように、こちら手筒花火は、500年の伝統があるようだ。


東三河の手筒花火


手筒花火の現物


 吉田神社の手筒花火は、本来なら9月の行事だが、特にこの2月に特別サービスとして、2本だけ実演していただけることになった。その前に、豊橋祇園祭奉賛会の副会長さんから懇切丁寧に説明をしていただいた。12センチの太さの孟宗竹を切り出し、荒縄でぐるぐる巻きにした中に火薬を詰める。空の筒を持たせてもらったが、腰を十分に落として、筒を身体の右側に抱えるようにする。その際、左手を胸の前を横切らせて筒の上の支え紐を持ち、右手で筒の下の支え紐を持って、その姿勢で筒を顔の右横で保持する。この筒の口から1,600度もの高温の火花が噴き上げてくるらしい。ちょっと間違えば、大やけどの危険なものだ。

手筒花火に点火


手筒花火を起こして身体の右側に保持する


手筒花火の現物


 さて、暗くなってきた。いよいよ始まる。火薬の入った筒を、先ずは地面に横たえて介添え人が点火する。地面を這うように火花が迸る。ゴーっと音がして、すごい迫力だ。その筒を持ち上げなければならない。右足を前にして筒の先を上になるように起こし、火を噴く筒を顔の右横で保持する。その間、火花が10メートルほど上方に勢いよく吹き上げられて、火の粉が頭、顔、身体にどんどんとかかる。ものすごい迫力だ。見ていて火傷しないかとハラハラするほどだ。時間にして30秒ほど経ったところで、ボンッと大きな音がして、急に火が消えて辺りがまた暗闇に戻る。いやまあ、その蛮勇ぶりというか、威勢の良さに驚いてしまった。最後にボンと弾けるのでびっくりした。

手筒花火が盛んに燃える


手筒花火がそろそろ終わりかけ


 吉田神社で聞かせていただいた説明によれば、手筒花火は、一家の大黒柱がお祓いのために上げるもので、打ち上げ花火は、天空の魔物を退散させるためのものだという。火薬を作るのは、炭と硫黄と硝石で、手が汚れるので、武士はやらなかった。そこで、職人の技になる。どういう風に調合して火薬を作るかは、門外不出の技術だったが、それでは腕がなまるので、年に1回は実際に打ち上げをやって、技術を維持し、磨くようになったそうな。手筒花火は、元々は合戦の合図だった。長野県の方にある龍勢(流星)もその一つで、それを打ち上げないで手元に置くのがこの手筒花火だという。

 手筒花火は、別名、羊羹花火ともいうらしい。昔の羊羹は、竹筒に入っていたからだそうだ。なるほどと納得したが、現在の羊羹の包装しか知らない人には、わからないかもしれない。山に入り、自生して3年以上の厚めの孟宗竹を選ぶ。長さは、90cmほどで、中に黒色火薬を詰める。赤い色を発するために、鉄粉が入るそうだ。1回につき、所要時間は30秒。その間、火の粉を浴び続けるが、そうすると無病息災だという。なお、平成31年に靖国の150周年記念があり、上京して、御魂を慰めるために、100本ほど上げて奉納するとのこと。


8.御油の松並木

 小笠原さんというボランティア・ガイドで江戸時代の旅人の格好をした方に案内していただいた。御油(ごゆ)の松並木は慶長9年(1604年)に、徳川家康の命を受けた奉行大久保長安によって植樹されたという。その目的は、(1) 旅人のために夏は日陰を作り、冬は北風や雪から守ること、(2) 戦いに臨んで切り倒して敵の進行を妨げることにあった。御油の600メートルの道の両側に90センチの盛り土をし、650本の松の木を植えた。松並木台帳を作って、厳しく管理したそうだ。


ボランティア・ガイド小笠原さん


御油の松並木


 戦時中に伐採されて百数十本まで減少したこともあったが、昭和19年11月に天然記念物に指定されて保護された。その後、愛護会の活動によって、除草や害虫駆除、植樹が行われた結果、今では300本を上回るようになったという。ただし、昔からの樹齢300年から400年の木は、僅か5本だとのこと。


9.豊川稲荷

 一般に、お寺の縁起は、難解なものが多い。それも当然で、それなりの信心がないと、読み切れるものではないからだ。しかし、中でも豊川稲荷は格別で、実は曹洞宗のお寺なのに、稲荷つまり狐を祀った神社という姿をとって、しかもそちらの方が全国的に名が通っていることに加えて、お寺の境内に一の鳥居と二の鳥居まであるから、ますますややこしいことになる。神仏混淆が極まっている。いずれにせよ、日本には伝統的な神々がたくさんおられる中に、異国の仏教が入って来たものだから、色々とあったと思う。しかし、それにしても1,000年以上もかけて、ここまで「共存」するに至るのは、いかにも日本らしいという気がする。


豊川稲荷


豊川稲荷の狐


 豊川稲荷のHPの縁起によれば、「豐川稲荷は正式名を『宗教法人 豐川閣妙嚴寺』と称し、山号を圓福山とする曹洞宗の寺院です。当寺でお祀りしておりますのは鎮守・『豊川ダ枳尼眞天(とよかわだきにしんてん)』で、稲穂を荷い、白い狐に跨っておられることからいつしか「豐川稲荷」が通称として広まり、現在に至っております。」という。

 まあ、細かいところはどうでもよいのではないかと思われそうで、確かにその通りなのだけれども、私は、いま少しこだわりたい。というのは、私はこの歳に至るまで、全国にたくさんある稲荷神社というものが、どんな存在なのかを考えてみたことがなかったからである。それが、この豊川稲荷が調べるきっかけを与えてくれた。そもそも稲荷は、稲生り(いねなり)が転じたもので、古来から農業神だった。狐の黄金色と尻尾の形からして古来からたわわに実った稲穂が連想され、しかも狐は害獣のネズミを取ってくれるので、稲荷神の使いと目されるようになった。それが、江戸時代には商業の神となり、やがて各人の屋敷を守ってくれる屋敷神となったりして、全国津々浦々に広がったそうだ。そのうち、仏教の「荼枳尼天」が日本では白狐に乗ると考えられ、ここに仏教と稲荷神とが習合するようになった。ちなみに,稲荷神社の前に狛犬代わりにある狐の像は、宝玉、鍵、巻物、稲をくわえている。それぞれ、霊力、それを引き出すカギ、神様のお言葉、富貴を表すという。

 稲荷神社には神社系と寺院系があり、前者の総本社が京都の伏見稲荷で、数が圧倒的に多い。赤い鳥居と白い狐が特徴だそうだ。後者は、ここ豊川稲荷と最上稲荷妙教寺(岡山市)で、お寺の稲荷だから、鳥居は赤くないし、旗やのぼりも白が多いという。豊川稲荷の門の扉は樹齢1,000年ものの欅の木で作ったものである。山門は今川義元の寄進で、向かって左手には260年の金木犀、右手には160年の銀木犀がある。金木犀の花は反り繰り返るようで、匂いがきつい。それに対して銀木犀の花は丸まって、匂いもかすかである。


豊川稲荷の精進料理


 豊川稲荷の祈祷の時間となった。東京別院でも経験したが、この祈祷がまた独特で、神社とはかなり違うし、真言密教のような護摩焚きもしない。祈祷太鼓がリズミカルに叩かれる中、大般若経の力強い読経(転読)があり、途中でそれが一通り終わると、蛇腹型の御経をこれで読み終わったとばかりに、南京玉すだれのような形で左右に振る。最後は参加者の名前一人一人と祈願の趣旨を読んでいただいて、祈祷が終わった。各人の願い事と読経が直結している。なるほど、これは庶民を引き付けるわけだと、よくわかった。それが終わり、廊下を渡って部屋に戻り、精進料理をいただいた。下世話な話だが、HPによればこの食事つきの宗教行事は4,000円で、十分に我々が支払った金額の範囲内である。

豊川稲荷


豊川稲荷の霊狐塚


 ただ、まだそれは可愛いもので、霊狐塚に案内してもらって、ああ、そういうことなのかと分かった。こちらは、お稲荷様にお祈りして、願い事が成就したときにお礼に狐の像を置いていくところだそうだ。小さな狐像は、6万円、大きな狐像は15万円だという。ついでに、ここに来るまでに布の旗が立っている、これらは、2日に一回、取り換えられるが、2,000円だそうだ。


10.ヤマサのちくわ



ヤマサのちくわ


 豊川稲荷の門前にある商店街をぶらぶらとして時間を過ごし、夕食に稲荷弁当を買った。その隣の「竹の和」では、ヤマサ印のちくわを売っている。そこでちくわ焼き体験をさせていただいた。本来なら包丁で魚のすり身をまず平らにし、それから竹の棒に巻き付けていく。しかしながら本日は、簡略化のため、魚のすり身のボールをもらってそれを手で巻き付け、最後に水を付けて表面を平らにし、それを炭火で焼くのである。竹の棒をぐるぐるとしばらく回しているとやっと茶色くなって、これで焼き上がり。棒をはずして、熱々のちくわを食べ、その美味しさに感激した。

ちくわ焼き体験


ちくわ焼き体験


ちくわ焼き体験


ちくわ焼き体験


 その途中で聞いたちくわの話が面白かった。神功皇后が三韓渡航の途中、九州生田の杜で、鉾の先に魚肉をつぶしたものを塗りつけ、焼いて食べたという伝説があり、この食べ物が蒲の穂によく似ているところから「蒲穂子」と呼ばれ、「蒲鉾(かまぼこ)」に転じたといわれているそうだ。ところが江戸時代の終わり、武士が窮乏して魚など滅多に食べられなくなった。そこで、蒲鉾を食べている町民に対して武士が、「武士の魂である鉾を食べるとは何事だ」と言われたため、武士にわからないように、その断面から「竹輪(ちくわ)」という隠語にし、それが広まったということだ。まあ、与太話の類かもしれないが、もっともらしくて面白い。


11.終わりに当たって

 何はともあれ、充実した1泊2日の旅であった。企画して当日ご一緒していただいた東三河県庁、名鉄旅行、朝日新聞関係、その他ご案内いただいた皆さまに、厚く御礼を申し上げたい。






(2017年2月12日記)




東三河いいじゃんセミナー

豊川稲荷東京別院


 愛知県の東端にある豊根村、東栄町、設楽町、新城市、豊川市、豊橋市、蒲郡市そして田原市から成る地域を、まとめて「東三河」と称する。このたび、その東三河を紹介するセミナーが、豊川稲荷東京別院において行われた。私も参加者50人の1人として参加させていただいた。私自身は愛知県名古屋市という「尾張」の出身なのだけれど、学校行事で行った鳳来寺山を除いて、この東三河には行ったことがなかった。

奥三河の花祭


 パンフレットを見ると、私が興味を惹かれるものがいくつかある。それは、写真を撮りたくなる題材であり、豊根村には茶臼山高原、同村と東栄町と設楽町には奥三河の花祭、新城市には鳳来寺山、豊川市には豊川稲荷、豊橋市には鬼祭、蒲郡市には竹島、そして田原市には恋路ヶ浜である。このほか豊橋カレーうどん、豊川いなり寿司という食べ物もあるようだ。おもしろかったのは、手筒花火のパンフレットで、花火の火の粉の中に男の人がいて、それに添えられたキャプションが「罰ゲームではありません。好きでやっています。」というもので、思わず笑ってしまった。

手筒花火


 セミナーでは、愛知県東三河県庁の方が、「いいじゃん」というのは、東三河の方言等の説明をされた。その後、豊橋市・二川宿本陣資料館の和田実さんが日頃の研究成果を発表されて、なかなか興味深かった。東海道53次の中で、二川宿は33番目だった。本陣が一つしかない小さな宿場だったことから、かえってそれがよくて「本陣(大名の宿)、旅籠屋(庶民の宿)、商家の3ヶ所を同時に見学できる日本で唯一の宿場町」とのこと。二川を描いた浮世絵には、お茶屋に草履がぶら下げてあり、この当時の旅人は草履を履きつぶして毎日取り換えていたそうで、現代のコンビニのような役割を果たしていたらしい。本陣には上段の間があり、これがお殿様の部屋であり、湯屋があってその中には大きな風呂桶がある。大名によっては風呂桶をかつがせて持参してくる人もいたという。まさに「マイ風呂桶」というわけだ。

豊橋市・二川宿本陣


 本陣の利用は年に40回から80回くらいだったが、幕末に参勤交代制度が廃止されてからしばらくは、最高の年で160回を超えた。これは、江戸に人質になっていた大名の奥方たちが、国元へと帰ったからだとのこと。利用形態は、小休58%、宿泊25%、昼休13%、その他4%となっていて、前後に浜松宿、吉田宿があったために、宿泊はそれほど多くなかった。こちらを利用した主な大名としては、毛利家(宿泊25回、小休72回、その他2回)、島津家(宿泊25、小休30、その他12)、蜂須賀家(宿泊16、小休48、その他1)、黒田家(宿泊57、小休11)などである。文久10年の加賀藩前田家の参勤交代の参加者数は、1969人である。うち、藩士185人、藩士の家来や従者830人、雇った足軽など686人、各宿場が用意する宿継人足268人である。これらの食事は、身分に応じて献立がはっきりと分かれていた。なるほど、こうして事細かに数字で説明されると、思わず唸ってしまう。宿帳が残っていたというが、よく調べたものだ。

手筒花火


 その後、豊川稲荷東京別院の広報係のお坊さんが出てこられて、その由来などを説明された。まず、なぜこの東京赤坂の地に豊川稲荷があるかというと、先祖が三河の大岡村である大岡越前が信仰していたからだそうだ。なるほど、それは知らなかった。もともと、愛知県の曹洞宗の妙厳寺の境内にあった守り神の稲荷だったのが豊川稲荷で、そちらの方が全国的に有名になったとのこと。これも、全然知らなかった。そのHPによると、「豐川稲荷は正式名を『宗教法人 豐川閣妙嚴寺』と称し山号を圓福山とする曹洞宗の寺院です。・・・当寺でお祀りしておりますのは鎮守・豊川ダ枳尼眞天です。・・・当別院は江戸時代、大岡越前守忠相公が日常信仰されていた豊川稲荷のご分霊をお祀りしています。明治20年に赤坂一ツ木の大岡邸から現在地に移転遷座し、愛知県豊川閣の直轄の別院となり今日に至ったものです。豊川稲荷を信仰した方としては、古くは今川義元、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、九鬼嘉隆、渡辺崋山など武将達から信仰を集め、さらに江戸時代には、庶民の間で商売繁盛、家内安全、福徳開運の神として全国に信仰が広まりました。」とのこと。

豊川稲荷東京別院の狐さま


 広報係のお坊さんのお話によると、「稲荷は、日本独自の信仰である。仏教と日本の伝統信仰とどう折り合いをつけていくかと考えた末、同じものにしてしまった神仏混淆の姿」だという。神道系と寺院系があり、前者が伏見稲荷大社、後者が豊川稲荷だとのこと。確かに、私は昔から、食物神、農業神、殖産神、商業神、そして屋敷神と、実に多彩な姿をしているお稲荷さんとは何だろうと思いながら過ごしてきたが、これで少しはその由来が分かった気がする。ではなぜ狐かというと、お稲荷さんは元々は農業の神で、狐はその使いだと考えられてきたそうだ。狐は、穀物を荒らすネズミを捕まえるだけでなく、身体の色や尾の形が豊かに実った稲穂を連想させるからだという。

豊川稲荷東京別院


茶まんじゅう、ちくわ


 その後、セミナーでは、茶まんじゅう、ちくわ、お茶を御馳走になり、最後に豊川稲荷東京別院の祈祷となった。この祈祷がまた独特で、神社とはかなり違う。太鼓がリズミカルに叩かれる中、力強い読経があり、途中でそれが一通り終わると、読んでいる蛇腹型の法典を、南京玉すだれのような形で左右に振る。最後は参加者の名前一人一人を読んでいただいて、祈祷が終わった。こんな形は初めてなので、いささかびっくりした。このセミナーに続いてツアーが企画されているようなので、楽しみにしたいと思っている。



(2017年1月21日記)




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