孔雀の舞う楽園

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 家内が「こんなのあるわよ。」と言って、「孔雀の舞う楽園」と題するパンフレットを持ってきた。上半分はタイ式の寺院、下半分はきらびやかな踊りである。「雲南省シーサンパンナの少数民族歌舞公演」とある。その裏には、このようなことが書かれている。

 「日中友好会館主催の『中国文化之日』は、中国各地の文化を日本に紹介することを目的とし、1990年より毎年秋に開催しています。29回目となる今年は雲南省シーサンパンナ(西双版納)タイ族自治州に暮らす少数民族の歌舞をご紹介します。

 雲南省最南端に位置するシーサンパンナには、中国唯一の熱帯雨林が広がり南国情緒が溢れています。楽園のようなこの地では、古くから多くの少数民族がそれぞれの文化を育み尊重し合いながら暮らしてきました。 本公演では、水のように柔らかいタイ族、炎のように情熱的なハニ族、お茶の栽培に長じるプーラン族等の歌舞を紹介します。煌々と輝くタイ族宮廷舞踊や無形文化遺産承継人による象脚鼓(象の脚の形をした太鼓)の演奏、華やかなファッション・ショー等、シーサンパンナの魅力がぎっしりと詰まった1時間をお楽しみください。」


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 私はたまたま、先月のチャイナ・フェスティバルで、中国北方の少数民族である黒竜江省同江市赫哲族の民族舞踊を見たばかりなものだから、今度は南方の少数民族かと思って興味がわき、俄然行く気になった。ただ、今回は「日中友好協会」と「雲南省シーサンパンナ・タイ族自治州文化と旅遊局」主催のちゃんとした舞台公演なので、気楽にカメラで写真を撮るというわけにはいかない。

 前売り券の価格はわずか千円で、インターネットを通じて購入し、セブンイレブンで券をもらった。比較的早く予約したから、席はB列と、2列目だった。雨のそぼ降る夕方だったが、金曜日の初回公演に日中友好会館に行ってみた。地下のホールである。椅子の上に置かれていたパンフレットを引用しながら、公演の様子を再現したい。

 まず、このパンフレットの表紙の写真を見ると、広がる青空に高く白い雲が散らばり、その下には長く伸びた椰子の木、タイ風の金ぴかの寺院があり、その前を日傘をさしたロングドレスの婦人たちがゆったりと歩いている。これはまさに、タイの風景である。

 プロローグは、ジノー族伝統楽器「奇科(キーカー)」。中国56番目の少数民族ジノー族の伝統楽器で、竹の半分以上を半割にして、そうした長さの違う竹を並べて木のバチで叩いて音を出す。もちろん素朴な音だが、昔は狩りに成功すると竹を叩いて村の仲間を呼び寄せて分け合った。そのときに獲物の大きさによって竹の音程を変えていたから、この楽器が生まれたという。

 最初は、「孔雀の舞」という女性群舞。いきなり、クライマックスを持ってきたようなもので、これは素晴らしい踊りだった。黄色い衣装を身に付けた女性の踊り手が、クルクルと舞いながら時々止まり、長いスカートの裾を持ち上げて片手を天に向けて指し伸ばしてポーズをとる。すると、実に優雅に見える。これを称して「孔雀はタイ族の幸福の象徴です。その美しい姿に誰もがシーサンパンナにあこがれを抱きます、高く舞い上がる孔雀はタイ族の向上心と情熱、よりよい生活を求める願いを表しています。」とある。ちなみに、これがインドであると衣装の色は間違いなく緑と青の孔雀色だが、そうしないで黄色にしたのは、いかにもタイ族らしいと思った。

 2番目の演目は、「鼓舞神(音偏に「均」の字の旁)」(グーウーシェンユン)という男性群舞。タイ族を象徴し、これなくしてタイ族の舞踊は成立しないとまで言われる「象脚鼓」(その形が象の脚に似ている)を駆使して、舞台狭しと叩いて踊り回る。その合間に蹴り飛ばす足、神経を使った指の動き、二本の剣のさばき方など、見どころが多い。こういうのを見ていると、タイ族は、南国の楽園でのんびりした民族というよりは、結構、剽悍な民だったのではないかと思う。また、そうでなければ東南アジアのタイからはるか離れて、こんな中国の一角にまで進出してくることはなかっただろうと思う。

 3番目は、「水の中のあなた」と題するタイ族の女性群舞。「タイ族は、古くから水と共に暮らし、綺麗好きな民族として有名です。また、水浴びを好み、『水のように柔らかい民族』や『水の民』などと言われています。穏やかで美しいタイ族女性の特徴が表れた舞踊です。」とあるが、女性たちが銀色の水の容器を持って、(表現はあまりよろしくないが、要は)くねくねと踊るものである。今、「くねくね」と表現したが、それが非常に優雅で、洗練されている。時々、観客に水を掛ける動作をする。そういえば、タイ歴で新年を迎える直前の毎年6月24日から、水掛け祭りが始まる。昔、悪魔を退治した時に水を使って穢れを取り除いたという言い伝えから、水を掛けたり浴びたりすると幸せになるそうだ。

 4番目は、タイ族の楽器「フルス」の独奏である。フルスは、雲南省に暮らす少数民族に伝わる楽器で、上は瓢箪そのもので、その下に2本の竹がぶら下がっていて、おそらくその効果で、音響が良くて、楽器の語源になっている通り、絹を震わすような繊細な音色が出ている。

 5番目は、「糸を紡ぐ娘たち」と題するハニ族の女性群舞。「ハニ族女性は、糸車などの機械を使わず手紡ぎで糸を作ります。糸車を使うと、糸紡ぎをする場所や時間が限定されるからです。彼女たちは、市場に行く途中などの時間を使い、歩きながらせっせと糸を紡ぎます。そんなハニ族の勤勉さや、明るく情熱的な民族性を表しています。」とのこと。だから、踊り手たちは、糸車を持って縦横無尽、かつ天衣無縫に踊っていた。また、ミニスカート姿だったが、これは、狭い棚田でも動ける機能的なスタイルらしい。

 6番目は、「水を汲む娘」と題するタイ族の女性独舞。「タイ族の人々は水に対して特別な思いを持っています。水はタイ族文化の源だからです。娘が一人、水辺で踊っています。そのたおやかで美しい姿は、母なる河の優しさを思い起こさせます。演者の王叫国は、2016年水掛け祭りの『美少女コンテスト』でグランプリを獲得しました。」とのこと。手脚の長い痩せ型の美しい女の子が、銀色の水の容器を持ち、まるでそれをボールのように使った新体操のごとく演じる。それに、タイ舞踊独特の手の繊細な動きが加わって、なかなか良かった。

 7番目は、「長甲舞(チャンジャーウー)」と題するタイ族の宮廷舞踊。「タイ族の信仰する上座部仏教(小乗仏教)では、古来より黄金の長い付け爪を装着した女性が、宮廷の祭典で舞踊を披露してきました。黄金に輝く艶やかな姿に美しい音の調べ。古来より今に伝わる悠久の文化です。」とある。1番目の「孔雀の舞」が優雅そのものであるのに対し、この「長甲舞」は、宮廷の舞らしく、まさに豪華絢爛という名にふさわしい。黄金色の衣装に冠を身に付け、黄金の長い付け爪が微妙に動いて、実に繊細な踊りである。これを見ただけでも、今日は来た甲斐があったというものだ。

 8番目は、タイ族伝統武術で、拳法、剣術、象脚鼓舞である。なかなか勇壮な踊りだった。しかも驚いたのは無形文化遺産承継人で、一見若々しいが、56歳とのことで、既に17歳の時から弟子をとって名人の道を歩んできたとのこと。

 9番目は、プーラン族の歌舞「祝福」で、「プーラン族は長い歴史を持つ少数民族です。独自の言葉、服装、歌や踊り、習慣を現在まで口承により伝えてきました。『歌で気持ちを伝える民族』と言われるプーラン族の明るく軽快な音楽をお楽しみください。」とのこと。惜しむらくは、少しでも、個々の歌詞の意味がわかればなと思った。

 10番目は、タイ族の演唱「章(口偏に合旁)」(ジャンハー)で、「ジャンハーという言葉には『歌手』又は『曲芸表現の一つ』という意味があり、タイ族の人々にとって欠かすことのできない娯楽の一つ」という。旋律があるというよりは、詩の読み上げのようである。


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 エピローグは、少数民族衣装ファッションショーで、シーサンパンナで暮らす13の少数民族のそれぞれの民族衣装の違いがよくわかった。要は、お互いに、全然違うのである。相互に影響を受けたという形跡もない。むしろ、独自性を更に強めた感がある。

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 さて、公演が終わり、会場出口で、出演者と観客が触れ合う場が設けられた。出演者の皆さんは、やはりその道のプロらしく、笑顔を絶やさず、サービスに努めてくれていた。





(2019年10月18日記)


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マチュピチュ・ナスカへの旅

マチュピチュ遺跡



    目 次

   第1 マチュピチュ遺跡
   第2 ナスカの地上絵
   第3 リマ市内を観光
   第4 ペルーの一口知識
   第5 その他ペルー補遺


第1 マチュピチュ遺跡

1−1 そうだマチュピチュに行こう

 退官記念に、なかなか行けそうもないところに行こうと考えた。それにつけても思い出したのが、私が1997年に2代目のパソコンを買ったときのことである。壁紙としてパソコンの画面に映し出されたのが、マチュピチュ遺跡とエジプトのピラミッドである。どちらも神秘的な存在であるが、特にマチュピチュは、何百年ぶりに発見されたインカの遺跡として、脚光を浴びていた頃だ。一度、見てみたいものだと思っていた、今回、退官に際して真っ先に思ったのは、「京都」ならぬ「そうだ、マチュピチュに行こう」だった。

 私は、英語を話すのに不自由しないから、国内と同様、海外でも英語圏なら往復の航空券とホテルを予約して一人で行ってしまう方だ。ところが、南米のペルーというスペイン語圏で、しかも行くのに非常に面倒だと思えるマチュピチュ遺跡やナスカの地上絵に一人で行く自信は全くない。そこで、ツアーを探したところ、ちょうど手頃なのが見つかった。しかもナスカの地上絵も見ることができるというので、申し込んだのがこの旅の始まりである。

1−2 現地クスコまで28時間

 南米はそもそも地球の反対側にあるから、まず日本航空便でニューヨークに飛び(12時間55分)、そこでラタム航空便に乗り換えて、ペルーの首都リマへ行く(7時間40分)。リマからラタムの国内線でクスコに飛ぶ(1時間23分)。ここまで、乗換時間を入れるとおよそ28時間もの長旅である。

途中、ニューヨークでは保安検査がますます厳しくなっていて、予め取得したESTAを持って有人の窓口に並ぶと、全ての指の指紋を取られた。それだけでなく、靴も脱がされて検査をされた。また、皆で検査待ちのときに、麻薬探知犬がやってきて、荷物の間を嗅ぎまわっていた。それを同行のツアー客で、かなりの年配の人がペットみたいに触って、係員に注意されていた。まあ、注意を受ける程度で収まって良かった。

 リマ空港でクスコ行きのラタム航空便に乗り継ぎをしようとしたら、これも一筋縄ではいかないことがよくわかった。例えば、出発まであと1時間というのに、搭乗口がクルクルと3回も変わる。4番から12番、その次は8番という具合である。中には搭乗直前に20分ほど列を作って待っているというのに、何もアナウンスなしで変更されることすらあった。後ろの方の人は、先頭の人たちが落胆した表情で列を離れていくから、そうとわかる。いやはや、こんな調子では、一人で来なくてよかったと思う。添乗員さんによれば、ラテンアメリカでは、こんなことは日常茶飯事とのこと。

1−3 クスコ市内観光

 そうこうしながら、何とか無事にクスコ(Cusco)にたどり着き、空港に降り立った。クスコの現在の人口は45万人、13世紀から16世紀にかけて栄えたインカ帝国の首都で、1533年にスペイン人によって滅ぼされて以降は、スペインの植民地支配の拠点となった。そのため、石垣はインカ時代のもので、上に建つ教会などの建造物はスペイン支配時代のものと、両者が混ざり合って独特の雰囲気がある街となっている。もちろん、インカ時代の石垣はぴったり組み合わされているのに対して、その上のスペイン時代は石ころが雑に積み上げられているから、一見して違いがわかる。


インカ時代の石垣とその後の石垣


 クスコの標高は、3,400mという。私は、これまで標高3,000mの立山連峰の雄山には、何回も登ったことがある。ところが、クスコはそれより400mも高いので、果たして身体が順応するか、心許なかった。それなのに、飛行機で着くと、直ぐに旧市街の観光に連れ出された。それも、歩いてである。平地の東京から、飛行機で着いた途端に富士山の八合目の高さを歩かされるのだから、かなりの体育会系のツアーである。しかし、振り返ってみると、かえってこれが良かった。一種の高地順応の過程になったのかもしれないと思っている。

クスコ旧市街地


クスコ旧市街地


 バスを降りたところから、旧市街地を徒歩で20分ほどかけて中心部へと向かう。道は細くて、両側に石垣が壁のようになっている石畳の登りだ。そこを高山病にならないように深呼吸しながら、ゆっくりと歩く。ところどころで石垣の壁がぱっくりと割れて、店の入り口がある。レストランや両替屋だったり、土産物屋だったり、アルパカの毛で作った衣類を売っている店などと、様々だ。

ピューマと蛇の石垣


12角の石


 ガイドが石垣の前で止まった。石垣の石を繋げてみると、ピューマとヘビに見えるという。よく分からないので、その前の土産物屋の看板と照らし合わせて見たら、なるほどそのようだ。次いで、12角の石を見た。インカ文明の素晴らしいところは、道具といえば硬い削り石と縄しかない時代に、削った石と石の間にカミソリすら通さないほどぴったりと合わせて石垣を作る技術があったことである。12角の石というのは、それが12の面で周りの石と組み合わせてあるのでそのように称され、これぞインカ文明の技術水準の象徴のような存在となっている。私はこれには感激して、その横で手を軽く挙げたスタイルで、写真を撮ってもらった。



インカ第9代皇帝パチャクテク


大聖堂(カテドラル)


ラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会


 やっとクスコの旧市街地の中心部に位置するアルマス広場に着いた。中央の噴水にはインカ第9代皇帝パチャクテク(1438年から1471年まで)の黄金色の像が置かれている。インカ帝国は、元々はクスコ周辺の小さな王国だったが、それを三世代にわたる皇帝の力で南米の文明圏全てを支配下に置くようになった。パチャクテクは、その最初の皇帝である。つまりはインカ帝国の礎を築いた人物ということになる。また、マチュピチュを作りはじめた皇帝とも言われる。アルマス広場の一角には大聖堂(カテドラル)、もう一角にはラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会(イエズス会の教会)と自然史博物館、その横の建物に目立たないがスターバックスが入っている。昼食のためにそのスタバに入り、二階へ繋がる階段を勢いよく駆け上がったら、ハアハア、ゼイゼイと息切れがしてびっくりした。「ああ、これか、高地の影響は。」と思い、薄い空気を補うべく、大きな深呼吸を10回ほどしたら、元に戻った。席に座り、インカコーラという名の黄色い飲料を飲みつつ、サンドイッチを食べたが、普通に食べられた。

スタバに入り、二階へ繋がる階段を勢いよく駆け上がった


インカコーラなる黄色い飲料


 ちなみに、インカコーラとは、黄色い清涼飲料水である。別にパンチのある味では全くないので、やや拍子抜けする。現地では、このインカコーラが一番よく売れていて、本場アメリカのコーラは二番手であった。ところがその後、色々あってインカコーラは本場コーラに買収されてしまったそうだ。メニューのお値段は、もちろん現地通貨「ソル」で表示されている。しかし、USドルやクレジットカードも使える。水1本2ソル、1USドルは3ソルである。

 そのうち、身体に少し異変を感じた。尿意は覚えるが、いざトイレに行くと尿がほとんど出ないのである。しかし、クスコを離れて標高が20mと低いリマに行くと、普通に戻った。これは私の推測だが、標高の高いところでは体内の膀胱も拡張する。これを頭が膀胱が満タンだと勘違いしてトイレに行きなさいという信号を送るから、そういうことになるのだろう。気圧が身体の中の臓器にまで直接影響を及ぼしているようだ。

1−4 富士山より高いチンチェーロ展望台

 クスコは、マチュピチュ(Machu Picchu)に至る中継地点に過ぎない。これから更に延々と1時間ほど、山中の曲がりくねった山道の悪路を、小型バスで、オリャンタイタンボ(Ollantaytambo)に向かわなければならない。その途中で標高3,800mの峠を越える。事前にそれを聞いて、富士山(3,776m)をも越えるそんな高い所で高山病にならないだろうかと、いささか心配だった。


チンチェーロ(Chinchero)展望台から見たチコン山


チンチェーロ(Chinchero)展望台からの風景


 ところが、それは杞憂に終わった。我々の小型バスが、休憩のためにその峠にあるチンチェーロ(Chinchero)展望台でいったん停まったので、試しにバスから降りてみた。すると、ステップを降りるときに身体がややフワフワした感じがしたものの、ちゃんと地面に降り立ち、普通に歩くことができて安心した。何でも、まず試してみるものだ。しかもこの時は、チンチェーロ展望台の正面に見えるチコン山(Chicon。標高5,000m)の勇姿には、実に感動した。天空にたった一峰、頂上に薄い綿帽子を被って、どっしりと聳え立っている。しかも、その頂上に駆け上がるように、手前からまるで参道のように登る坂道のように見える山が続いている。あまりに神々しく、かつ雄大で、富士山とは全然異なる味わいの山である。

1−5 オリャンタイタンボの町

 小型バスは、そのチンチェーロ展望台を過ぎ、木々の緑がほとんどない荒れ果てた平原を進んでいく。周りは高山ばかりだ。すると、峠を越えたところでようやく、オリャンタイタンボの町(2,800m)に到着した。手作りの日干しレンガで建てた粗末な家々が建ち並ぶ。道路には、昔の日本で言えばバタバタ、現代のタイのトゥクトゥク、つまり小型三輪タクシーが走り回っている。ちなみにこの町には、侵略者ピサロが率いるスペイン軍に対して、インカ帝国が最後の抵抗を試みた遺跡があるそうだ。


オリャンタイタンボに至る道


オリャンタイタンボの町が見えた


オリャンタイタンボの町を走るトゥクトゥク


 そのオリャンタイタンボからは、ペルー鉄道のマチュピチュ線の列車に乗って約1時間45分で、ようやくマチュピチュ村に行くことができる。事前に想像していたのは、トロッコ電車に毛の生えたようなものだったが、実際に行ってみると、いやいやそれどころか、結構、本格的な客車だった。客車には色々なグレードがあるようで、我々が乗った客車はまあまあのレベルだったが、途中でそれを遥かに上回る豪華客車とすれ違った。まるで食堂車のように座席のテーブルをキノコのような可愛いランプが照らしている。ムード満点だ。あれ、これは良いなぁと思っているうちにマチュピチュ駅に到着し、駅のすぐ脇の道沿いにある我々のホテルに歩いて向かった。

ペルー鉄道のマチュピチュ線の列車


ペルー鉄道のマチュピチュ線の列車


インティプンク(INTI PUNKU)ホテル


1−6 マチュピチュ村

 マチュピチュ村は、これまた山中の寒村かと思いきや、とんでもない。あちこちにホテル、土産物屋、レストランが立ち並ぶ一大観光地の様相を呈している。例えていうなら、マッターホルン観光の始点の町ツェルマットのようである。そこへ、マチュピチュ鉄道で20分おきに観光客が送り込まれてれてくるから、村全体が繁盛しているわけだ。


インカ帝国の歴代王の像


 まず、村を横切るように激流のマチュピチュ川が流れている。その両側に土産物屋やホテルがぎっしりとある。川には3本の白い橋が架けられているから、渡るのは容易である。そのうち、鉄道側の川沿いに遊歩道まで設けられており、そのあちらこちらにインカ帝国の歴代王の像がある。なかなかの迫力である。また、見ていると、資材を運ぶのは、全て人力でやっている。自動車といえば、観光客をマチュピチュまで運ぶ小型バスぐらいで、そのほか例えば乗用車やトラックは、滅多に見かけない。これはちょうど、スイスのツェルマット町が、自動車といえば全て電気自動車しか許可していないのと同じようなものだろう。

インティプンク(INTI PUNKU)ホテル


 インティプンク(INTI PUNKU)ホテルにチェックインをした。部屋に入ってみると、日本のビジネスホテルくらいの設備で、やや安心した。ところが、夜中に気温13度と寒くなったので、備え付けのデロンギヒーターのスイッチを入れた。その途端、ガラン、ゴタン、ダダダッと、まるで工事現場のような音がする。この種のオイル・ヒーターでこんな騒音がするなんて、聞いたことがない。これは困ったと思ったが、もう真夜中だし、私自身も眠くてたまらないので、厚着をして、そのまま、寝てしまった。翌朝、ホテルにクレームを伝え、替えてもらった。新しいデロンギは、全く静かなものだった。

白い漏斗型の朝鮮朝顔


 この辺りは、まるで中国の桂林、マレーシアのイポーを思い起こさせるような、石灰石でできた大地が雨水で侵食されてできたカルスト地形である。あちらこちらにタワーカルスト(大きな鐘楼のような鍾乳石の岩の塊)の山々がそそり立つ。マチュピチュ山も、その一つだろう。また、村のそこここに、白い漏斗型の朝鮮朝顔(Engel’s Trumpet)の花が咲いている。日本だと、5月から6月にかけて咲く花だ。ここは南米だから季節がちょうど反対なので、今が盛りの時期なのかもしれない。

1−7 いよいよマチュピチュ遺跡へ

 その日は深い眠りにつき、翌朝は7時半頃にホテルを出発した。歩いてすぐのマチュピチュ川岸まで行って、その様子に驚いた。対岸の川沿いに、長い長い列を作って並んでいる大勢の人達がいる。マチュピチュ遺跡行きの小型バスを待っている登山客だ。我々もその中に入らないといけない。これは時間がかかるので大変だと思ったが、そうでもなく、意外と早く乗ることが出来た。


マチュピチュ川の両側に土産物屋やホテル


マチュピチュ遺跡行きの小型バス


 そこから遺跡まで走って30分だという。ところが、それがつづら折りの凄い山道で、しかも道幅がとても狭い。しかも、上から降りてくる小型バスと時折すれ違う。右側通行だから、われわれのバスは右の路肩ギリギリに寄せる。下は千仭の谷だ。思わず、手に汗を握る。ヒヤヒヤしながらしばらくそれを見ていたが、途中で嫌になって遠くの山々を見ることにした。すると、多分マチュピチュ山の手前の山だと思うが、円錐形の実にいい形をしている。こんな高地(標高2,400m)にもかかわらず、山の表面は緑に覆われている。なるほど、これはマチュピチュ山の兄弟山かもしれない。驚いたことに、小型バスに乗らずに、マチュピチュ村から歩いて登ってくる若い女性達がいる。元気が余っているのか、それともバスのチケットが買えなかったのか。

円錐形の実にいい形の山


マチュピチュ村から歩いて登ってくる若い女性達


 先頭に乗っている誰かが「ああっ、マチュピチュだ。」と叫ぶ。でも、私の席からは見えない。直ぐに視界が開け、なるほど、マチュピチュ山が見えてきた。先ほどの兄弟山と同じ形だが、緑の色がもっと濃い。しばらくして、ようやく入場口に繋がる小さな広場に着いた。事前に、20リットル以上の大きなリュックは預けなくてはいけないと聞いていたので、私は小さなリュックにしていた。右手にその大きな荷物の預り所がある。中央がトイレで、1USドルを支払ったら、お釣りとして現地通貨ソルのコインをもらった。

荷物の預り所とトイレ


マチュピチュ入場口


 さて、いよいよ入場口だ。事前にもらった入場許可証とパスポートを係員が照らし合せて、やっと入る許可が出る。そこを通った瞬間、いきなり登り階段がある。しかも、階段の幅が広かったり狭かったりで登りにくい。加えて道幅がとっても狭いところもある。空気も薄い。そこを一生懸命に登るものだから、ハアハア、ゼイゼイで息切れという体たらくになり、立ち止まって深呼吸を何回もする仕儀となる。加えて、リュックには、ソニーα7IIIのカメラに、広角、標準望遠そして超望遠の3本のレンズが入っている。それだけで4kg近いし、それにステンレスの水筒1.5kgも加わる。ちなみに、マチュピチュ遺跡には、ペットボトルの持ち込みは許されていない。だから、水筒になるのだが、これらだけでも6kg近くになる。

登り階段


 その重さのリュックを担ぎながら、2,400mの高地を一気に登るものだから、我ながらよくやったものだと思う。同行のツアー客の中には、いかにもか弱そうな体型の女性がいて、この人は高山病に罹ったのか動けなくなって、添乗員さんに支えられてフラフラと夢遊病患者のように歩く始末である。幸い、この人は間もなく回復した。人間の高地順応の能力は、大したものである。たまたま、今年のノーベル医学生理学賞は、細胞の低酸素応答のメカニズムに与えられたが、我々の身体にも、そのようなメカニズムが働いたのだろうか。

1−8 展望台から見た遺跡は絶景


第1展望台から見た遺跡


 ともかく、そういう難場をやっとのことで超え、急階段を登りきって少し行くと、遺跡全体を見渡せる第1展望台(ミラドール)があった。正面にはかつてパソコンの壁紙で見た通称マチュピチュ山(正式には、ワイナ・ピチュ)と、その麓にある居住地区の遺跡が広がっている。素晴らしい景観だ。インカ帝国がここを選んだ理由がわかる気がする。それにしても、40時間近くをかけて、やっと対面することができた。はるばる地球の反対側まで来た甲斐があったというわけである。しかもこの日は天候に恵まれて、快晴だから、真っ青の空の下に緑の山が鎮座している。山がくっきりと細部まで余すところなく見え、まさに写真日和である。広角と標準望遠レンズで撮りまくった。

手前の段々畑が綺麗に見え、美しいカーブを描いている。


右手に石垣、左手に断崖絶壁という場所を歩いて見張り台の下まで行く途中


 その第1展望台から、右手に石垣、左手に断崖絶壁という場所を歩いて見張り台の下まで行く。そこから段々畑が綺麗に見える。美しいカーブを描いている。ここに住む人達の食料となるトウモロコシやジャガイモを栽培したのだろう。更に行くと、芝生が植わった広場があり、そこが第2展望台となる。ガイドのウィリアムさんがインカ帝国やマチュピチュの歴史について説明してくれる。私は撮影に忙しくて上の空だったが、イヤホンを通じて話は聞ける。概要こんなことを語っていた。まず、この遺跡の発見の秘話である。この遺跡は、ペルー人の農園主リサラガが、1902年に発見してそれを遺跡の窓に書き付けた。その後、1911年にアメリカ人のイェール大学のハイラム・ビンガムが再発見した(一般にはビンガムが発見者とされているが、彼はリサラガの署名を消している。功名心が強かったのか、いささかずるい。)。元々ビンガムは、別の遺跡を探索する途中に、たまたま土地のインカ族に聞いて発見したという。その成果は、1913年にナショナル・ジオグラフィック誌に発表し、一般の知るところとなった。この遺跡は、1440年に作り始め、80年ほど生活が営まれたが、完成する前に放り出されたようで、現に動かす途中の大きな石が広場に放置されている。それにしても気になるのは、この空中の楼閣のような都市は、何のために作られたのかということである。征服者スペイン人に抵抗する最後の砦だったという説もあるが、そうではなくて、どうやら王や貴族の別荘を兼ねて、太陽を崇める宗教目的で作られたという説が有力のようである。

超望遠(300mm)に取り替えてマチュピチュ山頂上を見ると登山者が見えた。


超望遠(300mm)に取り替えてマチュピチュ山頂上を見る


 ところで、その第2展望台で、カメラのレンズを広角から超望遠(70mm - 300mm)に取り替えて目の前のマチュピチュ山を撮ると、びっくりした。頂上付近は段々畑のようになっていて、そこを登山者が登っているではないか。遺跡と山登りを兼ねた一石二鳥の楽しみ方だ。そういえば前夜、同じホテルに泊まっていたドイツ人夫妻と話をしたら、これからマチュピチュへ登りに行くと言っていたが、なるほど、これのことかと納得した。ちなみに、マチュピチュ山に登るには、許可証が必要だそうだ。

超望遠(300mm)に取り替えてマチュピチュ山麓の広場・神殿・居住地区を見る


超望遠(300mm)に取り替えてマチュピチュ山麓の広場・神殿・居住地区を見る


 少し降りて、第3展望台の方へと行く。ああ、これだ。ここから見たマチュピチュ遺跡の風景が、まさに昔のパソコンの壁紙そのものである。22年越しに、やっと本物を見ることができたというわけだ。写真だけでなく、記憶にしっかりと焼き付けた。そこで気がついたのは、マチュピチュ山には緑が多いのに、谷を隔ててその左手に広がる山々には緑がほとんどなく、まさに禿山なのである。ガイドが言うには、このマチュピチュだけは、周囲の山々からの湧き水があって、それと発生する霧で水分が補われているそうだ。なるほど、緑深い理由と、なぜここが選ばれたかという理由がわかった。

マチュピチュ遺跡の風景


石積みのアーチ形の門


石でできた受け具


マチュピチュ遺跡の風景


硬い黒っぽい石


 さて、それからいよいよ、眼下の広場・神殿・居住地区へと降りていった。石積みのアーチ形の門をくぐるとき、たぶん門扉を固定したのであろうと思われる石でできた受け具があった。なかなか、芸が細かい。まず、左手の石切場に行く。ここでガイドが見せてくれたのが、硬い黒っぽい石で、これで加工したそうだ。ところで、ここからマチュピチュ遺跡を左手から見ることができる。これまでとは別の角度から見るというだけだが、新鮮な感覚がする。

超望遠(300mm)で見た太陽の神殿


コンドルの神殿


 マチュピチュ遺跡に入るにはチケット(許可証)が必要だが、それに加えて太陽の神殿に登るには、今年の3月から午前中だけ、それも500人に限定されたようだ。遺跡保護のため、入場制限が次第に厳しくなるようだ。そういうわけで、残念ながら太陽の神殿は見られなかったが、3つの窓の主神殿 (神様ウラコチャのために作られた)と、コンドルの神殿はじっくりと観察できた。このうち前者の主神殿は、最近の研究で夏至や冬至の日に太陽の光がその先の石に当たるように設計されていることがわかった。後者のコンドルの神殿は、地面にコンドルの首の白い部分を模したと思われる二つの曲がった石が置かれ、それから胴体や羽根と思われる部分が見てとれる神殿である。ちなみにこの地方で古くから伝わる言い伝えでは、コンドルは、空の支配者とされている。

 居住地区には、600人から700人が住んでいたといわれる。今では屋根の木々やそれを葺いていた葉は失われて、単に壁だけが残っている。それでも、家の形はよくわかる。インカ式の強固な石積みだからこそ、これまで風雪に耐えてきたものと思われる。壁を見ると、外側に3個ほど石が突き出しており、ここに屋根材を固定していたようだ。壁の中には10センチほど引っ込んでいる空間があり、そこに蝋燭や土器などを置いたといわれている。


王の部屋


王の部屋で煮炊きする石


王の部屋


王の部屋


 王の部屋という区間があって、意外と狭くて日本の8畳間くらいのものだ。インカ皇帝や貴族が来たときに、ここに泊まったと言われている。その直ぐ前には、台所として使われ、煮炊きしたと思われるような二つの石がある。なお、最近のことだが、朝になってこの王の部屋にテントが発見された。侵入者が王様気分を味わおうと、ここに泊まったのではないかと大騒ぎになったそうだ。その近くに、湧き水を流している遺構があった。

湧き水を流している遺構


当時の家の復元


 階段状の棚田から、景色が良いなぁと思って遠くを眺めていると、突然、近くの花にハチドリが飛んできた。8cmくらいの小さな鳥で、羽を高速に動かしながら、花から花へと飛び回って蜜を吸っている。これは、めったにないチャンスだ。本来ならシャッター速度を2000分の1秒くらいにして撮りたいところだが、そんなことをしていると、撮り逃がしてしまう。仕方がないので、プログラム・モードのままで連写するしかない。ただ、焦点が少し広範囲なので、手前の花に合ってしまう。これも、無視するしかない。そうした中で、やっと何枚かハチドリの写真が撮れた。これは、今回の旅行での幸運の一つである。素直に嬉しい。更にその先を行くと、なんとまあ、リャマだと思うが、首の長い羊のような動物がいた。我々が狭い階段を登っていくと、その脇をすり抜けるように降りていく。おとなしそうで、助かった。

ハチドリ


ハチドリ


ハチドリ


リャマがいた


 さて、ひと渡り見て、入場した門の方に向かう。マチュピチュ遺跡では、見学は一方通行で、後戻りはできないことになっている。太陽の門へと続く道への分岐点に来た。そこからはインカ道で、小1時間ほど歩くと太陽の門と言われる見張り台に出るそうだ。私は当初行くつもりだったが、最初の登り階段でバテる寸前になったので、それは諦めることにした。後から、行った仲間から写真をもらったが、マチュピチュ遺跡全体を眺め下ろす見晴らしの良いものだった。

ヘリコニア


 今は10月の初めで、南半球は、これから春に向かおうとする時期である。ここマチュピチュは、私が登った午前中の時間の気温は、17度くらいであるが、直射日光が強くて、とても暑く感じ、汗をかいて下着がびっしょりと濡れてしまった。そこで、遺跡を退場してからその前にあるレストラン「サンクチュアリ・ロッジ」に入り、濡れた下着を着替えさせてもらった。そのついでにバイキング形式の昼食をとり、これはなかなか美味しくて、まさに格好のリフレッシュとなった。総じて、ペルーの食事は、どれもこれも私の口に合った。また、ミュージシャンがやってきて、ギターとともに、サンポーニャという笛を束ねたような楽器で「コンドルは飛んでいく」を奏でてくれた。サイモン&ガーファンクルを思い出して、懐かしい。

1−9 モルモットの丸焼きが名物料理

 マチュピチュ遺跡を小型バスで出たのは午後2時頃で、帰り着いたのは2時半過ぎとなり、それからお土産物屋を冷やかしたり、家内へのお土産としてペルーならではのTシャツを買ったりした。ホテルの部屋からはWiFiが通じたので、日本へメールを送ったりし、のんびりと過ごした。こういう時間も大事である。その夜は、添乗員さんが案内してくれたレストランで夕食をとった。まあ、なんというか、店に入った瞬間、壁という壁に名刺が貼ってある。炭火焼きの鶏肉、レモンソースの鱒などが美味しかった。看板メニューは、モルモットの丸焼きだった。パリパリして美味しいよと言われたが、さすがにそれは断った。

 ホテルに帰り、さあ寝付こうとしたら、まるで滝の中にいるのかと思うくらいの大雨が降った。なるほど、これは山の中ならではの天候である。急変すると、こんな風になるようだ。その中を、早朝に出発していくパーティがいた。大変だなぁと思う反面、昨日の我々は本当に天候に恵まれたと、感謝しなければならない。その幸運の続きかもしれないが、我々がホテルを出る時間になると、もう雨は上がっていた。ホテルの玄関を出てみれば、あれだけの大雨だったのに、朝鮮朝顔の花がしっかりと咲いていて、芳香まで漂わせているから、驚いた。でも、この花には毒があるそうだ。

 さて、ホテルを早朝出た我々は、来た道を逆にたどり、マチュピチュ鉄道でオリャンタイタンボに戻り、そこから小型バスでクスコへ、クスコから国内線の飛行機でリマに向かった。それから我々は、次の目的地、ナスカに、大型バスで向かった。このバスには、USBで充電できる端末があったので、助かった。

1−10 インカ道を歩く人々

 マチュピチュ鉄道でオリャンタイタンボに戻る途中、列車は川の急流の傍を通っていく。とあるところで、紺色の同じ制服を着た大勢のポーターらしい人々が荷物を担いで、一列となって細い道を歩いていくのを見た。やがて列車は駅に停車した。ピスカクチョというところらしい。そこに、登山者らしい外国人が何人か集まっている。


マチュピチュ鉄道


マチュピチュ鉄道


マチュピチュ鉄道


昔のインカ道を歩くツアー(インカ・トレイル)


昔のインカ道を歩くツアー(インカ・トレイル)


昔のインカ道を歩くツアー(インカ・トレイル)


 ガイドによれば、これは80kmを3泊4日の行程で、昔のインカ道を歩くツアー(インカ・トレイル)だという。最終目的地は、先ほどの太陽の門という見張り台で、それからマチュピチュ遺跡を見学することができるらしい。あの大勢のポーターは、コックまで伴ってお客さんに先回りしてテントや食料を運び、そこで、宿泊してもらいながら、マチュピチュ遺跡まで歩いて到達するのだそうだ。お値段は、一人1,200USドル(13万円)だという。

1−11 リマのマヨール広場

 その日は夕方にリマ(Lima)市内に入り、時間があったので、大統領と議会が対立して閉鎖中というマヨール広場に行ってみた。警官隊が規制して、広場の中には入ることはできなかったものの、周囲から大統領官邸、大聖堂などを眺めることができた。厳戒体制にあるといっても、緩い規制線である。大聖堂の中のキリストやマリア像は、非常に美しかった。また、周囲の商店街は、なかなか賑わっていた。


マヨール広場を警戒する警官隊


リマ大聖堂


政府機関


リマ大聖堂内部


リマ大聖堂


リマ大聖堂内部


賑わう商店街




第2 ナスカの地上絵

2−1 早起きしてイカ飛行場へ向かう

 前日、マチュピチュから夕刻にリマ市内に入り、シェラトン・ホテルに泊まった。翌朝、ナスカの地上絵を見るために飛行場に向けて出発するのだが、それが早朝4時半だという。これは早いなと思ったら、ナスカの地上絵を見るには、3つの飛行場のどれかに行かなければならないという。リマ飛行場、イカ飛行場、ピスコ飛行場である。


リマからイカ飛行場に向かう途中は砂漠地帯


イカ飛行場


 この中で、リマならすぐそばなので問題ないのだけれど、この旅行会社が契約しているのはイカ飛行場だから、そこに行くには、砂漠の中を伸びるパンアメリカン・ハイウェイを300kmも走らなければならないという。よって、朝9時のフライトに間に合わせるには、どうしてもこの時間になるとのこと。ならば仕方がない。早起きしてバスに乗り込んだ。

2−2 ナスカの地上絵とは

 ナスカは、亜熱帯の砂漠地帯にある。ナスカの地上絵の数は、確かなもので700を越え、おそらく800以上、いやいや最近でも新たに発見されているから1000ぐらいはあるのではないかと言われている。いずれも、一筆書きである。つい90年前ほどまでは、そんなものがあるとは誰も知らなかった。ところが、1930年代から商業航空便が飛ぶようになると、飛行機のパイロットの間で話題になり、そこで初めて知られるようになった。

 地上では、30cmから80cmほどの幅を15cmほど掘って表面の黒くなった小石を取り除き、それで溝を作って絵が描かれる。1世紀から7世紀にかけて描かれたと推定されているが、日本だと弥生時代の晩期から邪馬台国時代を経て古墳時代に描かれたということになる。つまり、およそ2000年前から1300年前に描かれたものなのに、年間降水量が僅か1mmという土地なので、現代まで残った。

 数年前に、NHKの番組で、地上絵を実物の半分の大きさで描く実験をした。それによると、道具として、木の棒に紐、小さな鋤を使う。表面の黒い土をどけると、下に風化していない白い土が現れる。これが、絵を描く作業となる。その前にまず、小さな下絵を描く。それを同じ倍率、例えば30倍で伸ばしていく。小さな紐でそれを何回か繰り返し、同じ点を横に結ぶ。その点同士を結ぶように鋤で地面を掘り返して線を引く。ナスカは気温40度にもなる極暑の地であるが、僅か4時間で本物の半分の地上絵を描くことが出来た。

 実際に描かれた地上絵のうち、今回の飛行で見られる可能性のあるものは、クジラ、コンパス、宇宙飛行士、三角形、猿、犬、ハチドリ、コンドル、蜘蛛、トカゲ、フラミンゴ、鸚鵡、木、手、花、渦である。これらを描いたのは、古代ナスカ人で、砂漠にトウモロコシを栽培した農耕民族である。砂しかない全くの不毛の地のように見えるが、どうやら地下水を使っていたようだ。

 次に、何のためにこの数多くの地上絵を描いたのかが、最大の謎となっている。気球をあげてその上から見るためだという気球説もあれば、この地に根を下ろして60年以上にもわたってこれを研究し、かつ保存運動を主導したドイツ人のマリア・ライヒェ(Maria Reiche)さんが唱える天文カレンダー説、山形大学が言うところの天の川説、つまり天の川の動物を地上に写し取り豊作を祈願する説など、様々な説がある。地元に言い伝えでもあれば別だが、現代の住民は古代ナスカ人とは全く関係がないので、当てにすることはできない。現に、火星人が描いたとか、宇宙と交信するためだとかいう人もいるくらいだ。

 では、何が正解なのだろうか。一つは、農業用水の確保が関係しているのではないかと言われている。元々、「ナスカ」の語源である「ナナスカ」は、辛く過酷な土地という意味だ。2000年前に描かれた大三角形の地上絵は、先端が、白い火山 (セロブランコ)の方向を指している。反対方向の長辺には奇妙な穴ぼこがいくつもあるが、これらは一連の井戸である。しかもこれらは相互に結ぶ地下トンネルで横に繋がっている。ということは、水源と地下水脈がどう繋がっているのかを示しているのが、この大三角形地上絵の意味だと推定される。

 この地方では、コンドルが水源の山から飛んできて、反対方向の海の方に行くと雨が降って井戸に水がたまるという言い伝えがある。同様に、ハチドリは、山に雨が降ると姿を現わす。普段は海にいるペリカンが出ると雨が降るなどと信じられている。だから、こうした水のないところでは、ともかく水を得ることが大事であるから、そのために天空にいる神々に捧げられたのが地上絵ではないかと考えられる。もっとも、渦巻き模様や人間の生首のように何のために描かれたか想像もつかないものもある。

2−3 小型機に乗り込んで飛び立つ

 さて、我々は予定通り、午前9時前にイカ飛行場に到着した。粗末な掘っ建て小屋を想像していたが、それどころか結構立派な建物である。メガネをかけた年配の知的な女性の肖像画が壁一面に描かれていると思ったら、それが、マリア・ライヒェさんである。地上絵を研究する傍ら、これを見るために30mの鉄製のタワーを建てたそうだ。


マリア・ライヒェの肖像画


乗り込む小型機


 12人乗りのセスナ機が2機稼働しており、我々ツアーメンバーの数は28人だから、12人ずつ2組と、4人が1組で、各フライトは1時間15分である。私は最後の組となった。だから、最初の組が搭乗してから2時間半後の搭乗となる。ところが、天候が悪くて最初のフライトがちっとも始まらない。靄がかかったり、砂嵐が発生しているようだ。待ちくたびれた頃に、ようやく第1便が飛んだ。それから待ちに待って、私のグループが飛んだのは、午後1時を回っていた。

 セスナ機のバランス調整のため、予め、手荷物を含めた搭乗者の体重測定があった。私は、80kgと出た。カメラなどの機材や衣服、靴や水も含むから、こんなものかと思ったが、他のツアーメンバーを見回すと、おそらく一番重かったのではあるまいか。だから、私の座席位置は前の方だと思われた。

 いよいよ出発だ。その30分前に、酔い止めの薬を飲んだ。私は、予想通り最前列の左側の1番、つまり主パイロットの真後ろの席だ。飛んでいる途中のコックピットの画面がよく見える。地面との傾きなどが、ビジュアルで良くわかる。


パイロットの画面


砂漠の中の町


川が流れた跡


川の両岸の緑


 飛行場を飛び立ち、ナスカ平原に向かう。ほとんどが何もない土漠である。途中、リーヘニョー川のあたりは、その両脇に、地下水脈のおかげで緑の谷ができている。さて、何もない不毛の地を更に進む。「あっ、線が見える」と思ったら、川が流れた跡だ。おや、機体が上下するピッチングが出てきた。気流の影響だろうか。あまり良い気分ではないが、でもこれくらいなら大丈夫だ。

 更に行くと、機体が左手にローリングする。困った。少し気持ち悪くなる。パイロットが突然、「ココ、ココー」と鶏のように叫ぶ。一体何のことだと思ったら、日本語の「ここ」だった。思わず笑えてくる。その地上絵を撮ろうとし、下を向いてカメラのファインダーを覗き込む。クジラの絵だ。おや、参った。気持ちが悪い。ミラーレスだからファインダーをのぞき込む必要はなくで、画面を見るだけでよい。しかし画面だけを見ることにしても、同じように気分が悪くてかなわない。飛行機酔いだ。仕方がない。カメラを覗き込むのはやめて、顔を上げて前を向き、レンズを地上に向けて盲滅法に連写する。静音モードにし忘れたので、ダダダッ、ダダダッ、ダダダダッと、まるでマシンガンの連射だ。撮れているかどうかも、確かめる余裕もない。私の真後ろの人も、同じような連写をしている。

 おっとまたローリング、今度は右手だ。またパイロットの鶏の叫び声がする。それに応じてまたカメラを連写する。ああ、あちらの向こうに見えるのは、猿だ。おお、ハチドリだ。コンドルだ。目に見える限り、カメラをそちらの方向に向けてまた連写をする。一体全体、こんな調子で撮れているのかどうか、さっぱりわからない。これは、帰ってからのお楽しみだ。それより、飛行機に酔ってしまわないように、しなければならない。ひたすら前方の遠いところを見る。ああ、ローリングがやっと終わり、地上絵エリアを離脱するようだ。よかった。何とか耐えられた。やがて飛行機は、無事に着陸した。


鯨


宇宙飛行士


猿


犬


トカゲ?


渦巻


鸚鵡


小動物


6花弁の花


マリア・ライヒェのタワー


 帰ってから、カメラの画像をチェックしたところ、しっかり写っていたのは、鯨、宇宙飛行士、猿、犬、鸚鵡、木、トカゲ、フラミンゴ、渦巻き、6つの花弁の花である。残念ながら、ハチドリはカメラの角度が悪くて尻尾のみ、コンドルは肉眼では見えたのに全く撮れていなかった。でも、これほど撮れたので、満足しよう。

土産物の刺繍


土産物の刺繍


 帰りのバスが立ち寄ったのは、日系人がやっている土産物屋である。私は普通、土産物は買わない主義だが、こちらにあった刺繍には、目を奪われた。インディオやアルパカなどアンデス文明の風景が描かれていて、実に可愛い。孫娘にあげるお土産として、買い求めた。


第3 リマ市内を観光

3−1 リマ旧市街

 ペルーの旧市街にあるシェラトン・ホテルに泊まった。大きな道を隔ててその向かいにある立派な建物は、ペルー最高裁判所である。ところが、治安が良くないので、写真を撮るのならホテル側からにして、絶対に道は渡るなとガイドさんに言われたので、ホテルからの遠景を撮るにとどまった。


ペルー最高裁判所


 前日、旧市街中心部のマヨール広場(別名は、プラザ・デ・アルマス[武器の広場])に行った。実はその数日前に大統領が議会を閉鎖したので、この広場には近づくことができないと、添乗員さんに連絡が入ったようなのである。どういうことかというと、元々犬猿の仲だった大統領と議会との対立が限界に達して、ついに大統領が議会閉鎖という強権を発動したそうだ。そうすると、このマヨール広場にはデモ隊が押し寄せるので、事前に封鎖してしまうのだという。ところが我々が行ったときには、やや規制が緩められて、広場そのものには入れさせないが、広場を眺める周囲ならばよろしいということになり、だから遠目に見ることができた。我々観光客の目の前には完全装備の警察がいる中、広場を眺めるという不思議な光景となった。我々の向かい側には大聖堂(カテドラル)、その左側には大統領官邸という位置から見て、広場の周りをぐるりと回って今度は大聖堂のところから、我々がつい先ほどいた場所を眺めた。

3−2 マリア・ライヒェ公園

 マリア・ライヒェとは、ナスカ空港待合室に描かれていたドイツ人の女性で、60年以上にもわたってナスカの地上絵を研究し、その保護に務めたた人物である。この公園は、その功績を称えて海岸沿いに作られたものである。もちろん、公園のあちらこちらには、ナスカの地上絵、猿、コンドル、ハチドリ、花などが大きく描かれている。これらを道路から見下ろすと、全体の形がよくわかる。ところが階段を下りていって、その地上絵近くに行くと、全体像があまりよくわからないというのも、本物によく似ていて、何だか可笑しい。


マリア・ライヒェ公園


マリア・ライヒェ公園


マリア・ライヒェ公園


 この日は、日曜日だったので、大勢の家族連れがいて、思い思いに和やかに過ごしていた。公園の中心部では、ワンちゃんと飼い主のファッション・ショーが行われていた。

3−3 愛の公園

 次いで、愛の公園なるものに行った。公園の一角に、男女が抱き合っている像があり、なるほど、こういう像の展示は、日本では難しいだろうなと思うのが率直な感想である。


愛の公園


愛の南京錠前


 そのすぐ近くの柵には、カップルの名前が書かれている数多くの南京錠前が結びつけられている。カップルが永遠の愛を誓い合い、錠前にお互いの名前を書いてここに結びつけて鍵をかけ、その鍵を捨てるのだそうだ。

3−4 旧日本大使公邸跡

 さて、今日はオプショナル・ツアーの開始である。旧日本大使公邸跡に立ち寄った。1996年12月17日にMRTA(トゥパク・アマル革命運動)のテロリストによる人質事件の舞台である。高級住宅街の一角にある。事件解決に4ヶ月ほどかかったので連日報道され、この玄関や白い塀は私の記憶に鮮明に残っている。あの悲劇の舞台である。


旧日本大使公邸跡


旧日本大使公邸跡の向かいの家


旧日本大使公邸跡


旧日本大使公邸跡の門の扉


旧日本大使公邸跡の門の扉に空いたままとなっている銃弾による穴


旧日本大使公邸跡の門の扉に空いたままとなっている銃弾による穴から中を眺める


 玄関のドアには、未だに銃弾による穴がいくつか開いているではないか。その穴から、中を覗き込むと、中には木と(隣の家かもしれないが)建物が見える。心の中で、この事件の犠牲者に黙祷をした。

3−5 ラルコ博物館


ラルコ博物館


ラファエル ラルコ


 ラファエル ラルコというトウモロコシ畑の大地主が、親子二代で4万5千点に及ぶ古代の墓からの発掘品等を収集した。ラルコ自身も発掘にあたり、数々の貴重な古美術品を掘り当てた。主にインカ文明以前の紀元前から13世紀頃までの品々が展示されている。この地方では、地上はピューマ、空はコンドル、冥界はヘビが支配すると考えられており、その図柄が多い。

ラルコ博物館の庭


ラルコ博物館の庭


 また、その庭は、世界の博物館の中で、第一位に輝いたこともあるほど、芸術性のあるものである。ペルー特有の色々な種類のサボテンをベースに、上からは蔦の緑の紐がいくつも垂れ下がり、それに赤と紫のブーゲンビリアの花が色を添えている。また、庭のあちらこちらには、大きな甕が、口を斜めにして置かれている。非常にユニークで、誠に趣きがある庭である。

ラルコ博物館収蔵品


ラルコ博物館収蔵品


ラルコ博物館収蔵品


ラルコ博物館収蔵品


 展示品の中でも、印象に残ったものをいくつか掲げておきたい。パラカス文化の2つの頭蓋骨は、いずれも頭に2ないし3センチの穴が開いている。戦争の犠牲者かと思ったが、頭の手術をした痕跡だそうだ。つまり、麻酔もない時代に頭に穴を開けて、悪性腫瘍などを取り出したのではないかと言われている。しかも、傷口の状態からして、向かって左側の人物は、その手術が元で死んでしまった。ところが、右側の人物は、手術後少なくとも数ヶ月は生きていたようなのである。

パラカス文化の2つの頭蓋骨


【展示品の日本語解説】 穿孔頭蓋骨と変形頭蓋骨

 頭蓋骨の穿孔手術は、古代アンデスの様々な社会において行われていた。頭蓋骨穿孔は、儀礼の戦いや戦闘の際に起こった内出血、骨折した頭蓋骨の破損部分を取り除くための外科手術だったほか、頭痛を和らげるために行われることもあった。穿孔手術には、黒曜石のナイフや金属製(銅や銅合金)のナイフが使われた。このほかにも、頭蓋骨の変形が行われていた。独特の形に変形された頭蓋骨は、社会的身分を示していた。

 この写真の左側は成人女性の頭蓋骨で、頭頂部の穿孔には再生形跡がない。すなわち、この手術によって死んでしまったことを示している。ところがこの写真の右側は成人男性の頭蓋骨で、顔面や頭部には骨折が治癒した跡が多数存在している。これらの骨折は鈍器による戦いで生じたものである。なかでも頭頂部右側の頭蓋穿孔は再生していることから、この男性は穿孔手術後も生き長らえたことを示している。


ナスカ文明の織物


ナスカ文明の鸚鵡の羽根の織物


 ナスカ文明では、織物技術が発達していたようで、色とりどりの柄の織物が展示されていた。青と黄色の色鮮やかな織物がある。一体、どういう糸を使っているのだろうと思ったら、何と鸚鵡の羽根だった。鮮やかなわけだ。あのような砂漠でどうやって入手したのだろうと不思議に思うところだが、どうやら北部アマゾン地区と交易があったようなのである。

 出口近くには、ミイラが身に付けていた黄金の飾りが展示されている。これは、世界的に人気があって、しばしば貸し出されているが、本日は戻ってきて、本物だそうだ。


金の装身具一式(チムー文化)


【展示品の日本語解説】 金の装身具一式(チムー文化。紀元後14〜16世紀初頭)

 古代アンデスの冶金技術はチムー文化において最盛期を迎えた。この装身具は泥の都市チャンチャンに埋葬された位の高い人物のもので、王冠と胸当ての縁には羽毛があり、これは鳥、つまり太陽に最も近づくことができる存在を意味する。耳飾りには、チムーの為政者の顔が正面向きで繰り返し表現されている。肩当てには、為政者が斬首した首を持ち、正面を向いて立ちあがった姿が表現される。王冠と胸当ての羽毛部分は、ネコ科動物の顔と半月状の額飾りを持つ人物の顔が側面を向いて行進する様子が表現されている。


飾り


 インカ文明の前に、ペルーにはこんな豊かな文明が発達していたとは、ついぞ知らなかった。それにしても、いずれも文字のない文化なのである。インダス文明の楔形文字、中国の甲骨文字、エジプトの象形文字に相当するものが全くない。そのせいか、紀元前から3000年近くにわたって継続した文明圏なのに、どの時代も同じようなもので、あまり発達した痕跡がないのである。やはり、文字というのは人類の知識や経験の積み重ねを行う上で、非常に大切なものであることが、良く分かった。

キープ


 そのインカ帝国も、文字はないのは同様であるが、例外的に「キープ」という紐の色と結び目で数字などの情報を伝えていたのではないかと言われているが、正確には分からない。インカを征服したスペイン人たちが、隠れて何か悪い企みをしているのではないかと邪推して、キープを知る人物を皆殺しにしてしまったからだという。

歯の痛みに耐えている人物


 ところで、この博物館の面白いのは、所蔵品の倉庫の中も公開しているところである。壺や土器などが、棚に整然と並べられていて、その多さに圧倒される。中には、異形の土器がある。例えば、脳出血や脳梗塞の後遺症で半身が麻痺している人物、歯の痛みに耐えている人物がある。現代と変わらない。

3−6 遺跡内のレストラン

 その日の夕食は、リマ市内にある「ワカプクジャーナ」というプレ・インカ(1,500年前)の遺跡の中にあるレストランに行った。台形のピラミッドで、その周りに日干しレンガの壁のようなものが縦横に走っている。それを見ながら食事をするのである。まあ、何というか、大胆な発想である。ちなみに、この遺跡では、まだ発掘が続いているという。日本では、およそ考えられない。


ワカプクジャーナ遺跡の中にあるレストラン


ワカプクジャーナ遺跡の中にあるレストラン



第4 ペルーの一口知識

 ガイドの皆さんから聞きかじった一口知識を記録しておきたい。

1.リマは雨が降らない。降っても夜中の霧雨。傘を持っていると奇異の目で見られる。傘は売っていない。

2.インティライムという太陽の祭りがあり、6月24日である。

3.アルパカには種類があり、お勧めはベイビーアルパカ、チクチクしない。

4.ペルーの国旗にある動物ビクーニャは、4000m以上の高地に住む。マフラーは10万円もする。凄く乱暴でツバを吐かれたり、蹴られたりする。

5.じゃがいもは、ペルーのアンデス山地が原産で、当地には3000種類以上ある 。日本では、最近は「インカの目覚め」という種類が売られている。

6.コカ茶は、高山病対策に効く。ただし、その名の通りコカインの元なので、国外に持ち出さないこと。アメリカでは麻薬として扱われる。

7.コーヒー は、トゥンキというブランドがお勧め。

8.ワインも有名で、中でもイカ県産が良い。

9.ピスコというのは、トウモロコシから作る蒸留酒で、アルコール度数は47%の地酒 である。これでは飲みにくいので、度数が14%に抑えたのが「ピスコサワー」である。

10.地元ビールには、ピスケーニャなどがあり、中でもクスケーニャはマチュピチュ産である。

11.アンデス山地の塩は、有名である。

12.「グイチャッカード」とは、モルモットが丸焼きで出てくる料理である。

13.フルーツの「チリモヤ」は、アンデス産である。白くて柔らかくて美味しい。ペルーでしか採れない。「ルクマ」も、ペルーでしか採れない。オレンジ色のアイスクリームなどとなって出てくることもある。「インカバナナ」もある。「カムカム」というのは、ピタミンC がオレンジの50倍もある。「マカ 」元気がでるので、「アンデスのパイアグラ」と言われる。「アスパラ」もペルー原産である。

14.「エケコ人形 」とは、願いを叶えてくれると信じられており、口が空いているのは、タバコが好きだから。色んなものをぶら下げている。

15.「トリトデブカラ 」とは、ブカラ村の子牛で、あたかも沖縄のシーサーのようなもので、家々の玄関口に置かれている。

16.「マチュピチュ」とは「古い山」を、「ワイナピチュ」は「若い山」を意味する。今では一日400人しか登れない。

17.「チチカカ湖 」は、クスコより標高が高くて4,000mもある。

18.アマゾン川の源流はペルーにあり、クルーズがある。

19.「ワカチナ湖 」は、オアシスの意味で、ボリビアとの国境にある。スポーツとして、サンドバギー、サンドボードができる。

20.インカ帝国時代に話されていた言葉は、「ケチャ語」で、地方によっては、今でも話している。

21.ペルーの国土は、60%がアマゾン、30%が山地、残る10%が砂漠である。



第5 その他ペルー補遺


 ペルーの人口3,200万人のうち、日系人は10万人だという。その多くは沖縄の出身で、そのせいで沖縄の姓を名乗る人が多い。

 マチュピチュを案内してくれたウィリアムズくんは、曽祖父が沖縄からの移民で、4世だという。小さい頃、両親が日本へ出稼ぎに行って働いたときに一緒に来日し、日本語を覚えた由。それからペルーに帰国して、高卒資格をとったと話していた。

 ナスカを案内してくれた熱川さんは、やはり日系4世で、祖父母も父母も日系人同士で結婚したから、外見は日本人そのものである。

 マチュピチュ村の初代村長は、野内与吉さん(福島県出身)という日系一世である。21歳でペルーへ移民し、マチュピチュ鉄道の敷設工事で働いたことを契機に村に定住した。水道を引き、水力発電所を作ったりして、村の発展に大いに貢献したそうだ。10人の子供をもうけたが、そのうちの孫世代の中には日本で働いている人もいる。

 今回の旅で、マチュピチュ村を歩いていると、チロルハットを被った格好良いおじさんから、いきなり日本語で話しかけられた。やはり日系人で、日本語のガイドでお金を稼いだ後、今はマチュピチュでレストランを経営しているそうだ。フジモリ元大統領はよく知られているが、その他こうして名もない日系人が活躍している姿を見るのは、日本人として嬉しいものだ。

 話は変わるが、クスコやマチュピチュ村の街中には、犬が多い。一見するとおとなしいが、万が一噛まれたりすると、大事になるかもしれない。だから、予め狂犬病の注射をしてくるべきだったと思った。







 マチュピチュ・ナスカへの旅(写 真)






(2019年10月 8日記)


 
カテゴリ:エッセイ | 23:50 | - | - | - |
退官に当たってのご挨拶

最高裁判所大法廷



1.挨 拶 状

 令和元年9月26日、次の挨拶状を親戚、先輩、同僚、後輩、そして親しい友人たちに送付させていただいた。

拝啓 皆様におかれては、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
                          さて 私こと  このたび、定年により、最高裁判所判事を退官いたしました。
 昭和48年に旧通商産業省に入省以来、経済企画庁、資源エネルギー庁、外務省、特許庁、経済産業省、日本貿易振興会、内閣法制局、最高裁判所に勤務して合計46年余の充実した公務員生活を送ることができました。この間、皆様から公私にわたり温かいご支援とご厚情を賜り、改めて、心より御礼を申し上げます。
 今後は、これまで培った法律や経済の知識と経験を生かし、弁護士として引き続き社会に貢献するよう努めていきたいと考えています。末筆ながら、皆様のご健勝とご多幸をお祈りして、私の挨拶とさせていただきます。
                          敬具



2.自分がたどってきた道のり

 退官日の前日、最高裁判所大ホールに整列した長官をはじめとする同僚裁判官の一人一人に挨拶を交わした。それから記念の花束を受け取り、立ち並ぶ職員の皆さんの万雷の拍手を受けて車に乗り込み、最高裁判所の建物を後にした。その時、私の胸には文字通り万感の思いがこみ上げてきた。

 自分がたどってきた道のりを振り返ると、我ながら色々とあったものだと思う。ともあれ、戦後に団塊の世代の一人として生まれ、それなりの波瀾万丈の人生を歩んできた。

 中でも、青年期に経験した東大入試中止は、東京へ出て、日本のために大きな舞台で活躍したいと思う私の心に、強力な火を点けてくれた。大学卒業後、運良く通商産業省への入省の夢がかない、その後は、良き先輩・同僚・後輩に恵まれて、どんな仕事も選り好みせずに全力で取り組んだ。内閣法制局に移ってからも、法律の解釈や法令案の審査を一生懸命に勤め、また最高裁判所ではこれまでの知識と経験を生かして信念に基づく判決を行い、それぞれ満足のいく仕事ができた。

 こうした多忙な仕事をする一方で、家に帰れば、家内が愛情深くて色々と気を配ってくれるから、一緒にいて幸福感があった。ともに子育てを楽しみ、二人の子供も医師と弁護士として活躍している。家内なくして、今の私は存在しなかった。おかげで、実に幸せな人生を歩ませてもらったと思う。


3.70歳代は人生の黄金時代

 私は、昭和に生まれ、平成を生き抜き、令和で人生の最終章を迎えそうだ。これからの私に残された時間は、そう長くはないと思うが、私の公務員人生はここでピリオドを打ち、私の前には全く新しい世界が待っている。そう思うと、生来の好奇心が湧き起こってきて、楽しくて仕方がない。

 通商産業省のある先輩は、80歳代になってその人生を振り返り、「70歳代が一番幸せだった。」と語っておられた。確かにこの先輩は、現役時代は文字通り「仕事の鬼」と言われたほどだったが、引退後は健康そのもので、しばしば海外旅行に行ったり、趣味の陶芸やゴルフに打ち込んだりして、楽しそうに過ごしておられた。見習うべき先達である。

 その生き方を踏襲すると、私もこれから人生の黄金時代を迎えそうだ。公務員として46年余、やるべきことはやったから、もう思い残すことはない。退官を契機に心を新たにし、健康に気をつけながら、弁護士として今少し社会に幾ばくかの貢献をしつつ、家内、子供たち、孫たちとともに、残された貴重な人生を有意義に楽しく過ごしていきたい。

 このホームページ「悠々人生」の読者の皆様にも、人生の黄金時代に入った私が見た美しい風景の写真、物事への考察や感想を記したエッセイなどを、引き続きお届けできればと思っている。



最高裁判所大法廷


最高裁判所








(2019年9月26日記)


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チャイナ・フェスティバル 2019

天津シルクロード芸術団



 代々木公園で、チャイナ・フェスティバルを開催するというので、行ってきた。目的は、民族舞踊芸術団の公演と、その演技を新しいカメラ・ソニーα7IIIで撮ることである。この日に見たのは、黒竜江省ジャムス市芸術団の「同江市赫哲族非遺展示展演団」、カンフーの里から来た芸術団の「中国武当功夫団」、天津市の「天津シルクロード芸術団」である。いずれも期待にたがわず、非常に面白かった。


1.黒竜江省ジャムス市芸術団


同江市赫哲族非遺展示展演団


同江市赫哲族非遺展示展演団


 まずは、同江市赫哲族非遺展示展演団である。一体、何を演じるのか、興味津々である。最初に、狩猟民族のような衣装を身に付けた男性2人と女性2人が登場し、タンバリンに様々な色の毛皮の紐を付けたような楽器を打ち鳴らし、同時に「ビューン、ビューン」と鳴る不思議な小型の楽器を奏でる。それも、手のひらに収まるほど小さいのに、結構大きな音が出る。狩りのときに仲間との合図に使ったものなのだろうか。改めてその衣装に目をやると、アメリカ・インディアンみたいな衣装に、日本のアイヌ民族の紋様を合わせたような出で立ちである。なるほど、これは辺境にあって、長年の間、狩猟で生きてきた少数民族なのだろう。

同江市赫哲族非遺展示展演団


同江市赫哲族非遺展示展演団


同江市赫哲族非遺展示展演団


同江市赫哲族非遺展示展演団


 それが終わると第2幕で、若い女性の2人の踊り手が登場する。赤い派手な衣装だが、頭には毛皮の帽子を被っているから、いかにも寒い地方から来たのだろうと思われる。まるで子供のように天真爛漫に遊んでいると思ったら、氷の上でツルリと滑るような仕草をみせるので、客席がどっと湧く。背中に背負った魚籠(びく)からは、小さな魚が顔を覗かせている。あれあれ、魚釣りでもするのだろうか。小さな魚を採ったようで喜んでいる。それどころか、舞台の隅に行くと、思いがけず大きな魚が釣れて、その喜ぶこと、喜ぶこと。重たそうに引きずりながら意気揚々と帰っていった。これは、言ってみれば幼稚園児の劇みたいなものだが、それだけに言葉が通じない我々には、非常に分かりやすかった。

同江市赫哲族非遺展示展演団


同江市赫哲族非遺展示展演団


同江市赫哲族非遺展示展演団


 さて、第3幕には、頭には鹿の角を載せ、甲冑のようなものを着た、まるでシャーマンのような女性が登場する。その周りをタンバリンを持った踊り手が乱舞する。そして、時々陶酔の表情を浮かべる。よくよく見ると、シャーマン女性のタンバリンには、まるでマヤ文明の太陽神のようなものが描かれている。これは、偶然だろうか。この人たちは、ますますアメリカ・インディアンの先祖という気がしてきた。背景のスクリーンには、この皆さん(赫哲族)の生活の風景が映し出されているが、まるでイヌイットの世界で、冬が長くて厳しそうだ。

 ちなみにウィキペディアによれば、「ナナイ(Nanai)は、ツングース系の民族。分布は主にアムール川(黒竜江)流域で、ロシア国内に約1万人で、中国国内にも居住している。2004年人口調査時の中国国内人口は約4,640人。中国国内のナナイはホジェン族(Hezhen;赫哲)と呼び、55の少数民族の一つとして認定されている。」とのこと。


2.中国武当功夫団(カンフー団)


中国武当功夫団(カンフー団)


中国武当功夫団(カンフー団)


中国武当功夫団(カンフー団)


 さて、白い衣装に白い扇、黒い衣装に赤い扇を持った2つのグループが出てきて、その扇をバチバチッと打ち鳴らしたかと思うと、白い衣装に長い剣を持ったグループが現れて、その剣を振り回す。それらが動きを止めた・・・と思ったら赤い衣装に身を包み鋭い剣を持って、バック転のようにして現れる者が出る。そして、一人、剣で派手な立ち回りをする。おっと、飛んで宙に浮いた。これは、凄い。日本の忍者みたいなものだ。辛うじて私のカメラ(毎秒10枚撮影)でその一部始終を捉えたが、中には動きが速すぎてこのカメラでも十分捉えきれない者もいた。

中国武当功夫団(カンフー団)


中国武当功夫団(カンフー団)


 また、大きな筆のようなものを持って、まるで、何かの文字を書いているかの如き所作で空中を飛ぶ人もいた。次に、背を平らにしてその上を馬跳びのようにして飛ぶ。これは、カンフーの修行の一つなのだろうか。不思議な所作である。

中国武当功夫団(カンフー団)


中国武当功夫団(カンフー団)


中国武当功夫団(カンフー団)


中国武当功夫団(カンフー団)


中国武当功夫団(カンフー団)


 今度は、ソロの演技が始まった。見ていると、手は比較的緩く遅く動き、むしろ身体がキビキビと動く。なるほど、これは典型的なカンフーの動きだ。それが終わると、数人が出てきて、演技が始まった。女性はもちろん、男性でも身体がものすごく柔らかい。足がグニャリと曲がって、頭の上まで持って行っているではないか。これには驚いた。そうかと思うと、両足を片方の手に預けるようにしたり、前後に持って行くようにして、両手で身体を浮かせている。おお、次の人は、両手で身体を垂直に支えている。これも、凄い。インドのヨガの水鳥のポーズどころではない。

中国武当功夫団(カンフー団)


中国武当功夫団(カンフー団)


 最後に、赤い衣装に身を包んだカンフーマスターのような人とともに、大勢が出てきて、そのマスターを中心に演技が始まる。ゆっくり手を動かして、それに気を取られていると、身体がキュッとばかりに動いている。これが、カンフーが武術たる所以なのだろう。おやおや、マスターが円盤に乗って担ぎ上げられた。マスターはその上で演技をしている。あっと思ったのは、マスター両足をやや開きながら、前に傾いていた。どこにも掴まらなくてやるというのは、これは凄い。次に身体を横に傾ける。これ、一体どうなっているのだろうか。ともかく驚いているうちに、終わってしまった。


3.天津シルクロード芸術団


天津シルクロード芸術団


天津シルクロード芸術団


天津シルクロード芸術団


天津シルクロード芸術団


 天津シルクロード芸術団というのが始まった。おや、これは可愛い女性たちだ。フレンチ・カンカンのような派手な衣装で、スカートの裾を円形に回している。もっとも、フレンチのように脚を上げたりはしない。その衣装で、裾を持ってグルグルと回る、回る、回る。目が回ってきた。

天津シルクロード芸術団


 次に、2人のピエロが出てきた。客席から4人の男性を選び、その人に、何か芸をさせる。例えば、丸い輪の内側に水を入れたコップを載せ、それをぐるりと一周させる。ピエロはもちろん成功するが、お客は失敗して笑われるという次第だ。やがてその4人をパイプ椅子に座らせて、横の人の膝に頭を載せ、それを全員にさせる。そうしておいて、なんとまあ、その椅子を1個ずつ引き抜いて、ついに4個全部がなくなった。もちろん、数秒後には、自重に耐えきれずに、ガシャンとばかりに崩れてしまった。これには、客席一同、びっくりしつつも大笑いした。

天津シルクロード芸術団


天津シルクロード芸術団


 今度は、品の良い紫色の衣装を纏い、手に団扇を持った女性達が出てきた。そして、優雅に舞って踊る。美しさを愛でるだけなので、これは安心して見ていられる。

天津シルクロード芸術団


天津シルクロード芸術団


天津シルクロード芸術団


 それを「静」とすると次は「動」だ。男性が出てきて、カンフーのような力強い演技をする。子供、女性、また男性と続いて、飛んだり跳ねたり、型を決めたりと、凄まじい。でも、いささか演技過剰感がある。あれあれ、男の子が空中を一回転した、これには、思わず拍手をする。いやまあ、中国感が満載の演技だった。


4.家内の一言

 そういうわけで、久々の代々木公園での各国別フェスティバルは、主催国が中国だけのことはあって、なかなか面白いものだった。家に帰って家内にビデオや写真を見せると、次の一言を宣った。



 「良いわね。幸せよ。飛行機に乗って何千キロを飛ぶ必要がなくて、あちらから近くの公園に来てくれるのだから。」

 なるほど、ごもっとも。なお、私はこれに刺激されて、中国少数民族の舞踊を観に行こうという気になった。ちょうど「雲南省シーサンパンナ少数民族歌舞公演(孔雀の舞う楽園)」というものが来月にあるので、行って観て来ようと思っている。ただ、こちらは正式な公演なので、写真を撮ることはできないだろうから、それが少し残念である。






 チャイナ・フェスティバル(写 真)






(2019年9月22日記)


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本場おわら風の盆

鏡町おわら


1.一度は本物を観てみたかった

 「越中八尾おわら風の盆」については、これまで「月見おわら」「前夜祭」などを見て、それなりにわかったつもりでいた。ところが、やはり本物を見てみたいと思って、八尾に出掛けて観ることにした。今年の9月1日は日曜日で祭りは3日まであるから、2日丸一日と3日午前中(帰京)を休めば、丸々2日間は見られるという算段である。だから、たとえ一日くらい雨で中止になっても、さほど悔しくない。

 また、かつて行った前夜祭のときのカメラはオリンパスE−P3だったので、こういう暗い中での撮影は、ほぼ不可能だった。月見おわらのときはキヤノンEOS70Dだからそれよりはマシだったが、やはり、動き回る早い所作には不向きだった。その点、幸い今回は新しく買ったソニーのα7IIIを持っていくので、楽に撮れるはずだと期待する。実際、その通りだった。

 大人の休日倶楽部で北陸フリー切符というものがあって、往復には北陸新幹線を使えて、北陸エリア内では乗り降り自由であり、新幹線終点の金沢からもっと西に行こうとすると、特急の自由席に乗ることができる。価格も22,000円と合理的だし、いちいち行先を確かめて切符を買うという煩わしさがない。だから、北陸地方へ行くときは、私は専らこれを利用している。宿泊は、富山は混んでいるだろうから、少し外して高岡のホテルを予約した。地元の「あいの風富山鉄道」で富山から17分ないし18分と、それほど遠くない。県内の二大都市間だから、夜中もちゃんと電車がある。

 当日、乗り込んだ北陸新幹線は順調に走り、富山駅で降りて「あいの風富山鉄道」に乗り換えようとしたところ、ちょうど「おわら風の盆」のポスターが目に入った。越中八尾駅は富山駅から高山本線で20分ほどのところにあるが、その電車には整理券がないと乗ることができないという。その整理券は、乗車時刻の1時間前から発売だとのこと。そんな話、聞いていなかった。これは面倒だと思って地元の妹たちに行き方を相談すると、八尾のスポーツアリーナまで送ってくれるというので、好意に甘えることにした。これは助かった。そのスポーツアリーナは、見物客向けの大掛かりな駐車場となっていて、町の中心部までシャトルバスが出ている。

 スポーツアリーナは高岡から車で40分の道のりだ。午後4時頃に着き、シャトルバスに乗り込む。到着したのが、八尾町域の東の城ヶ山公園の近くだ。そこから坂を登って町域に入る。町の北側には井田川がある。山中を流れてきて、ふと平野が開けるところに町がある。現在の川面はかなり下がっているものの、その地形からして、過去に何回も洪水に襲われたのだろう。その度に標高の高い所へと移っていったものと見える。だから八尾は、総じて坂の街である。

 ちなみに、以下は、私が最も感動した「おたや階段」下の広場で行われた鏡町の皆さんによる「おわら風の盆」踊りである。


鏡町おわら


鏡町おわら


鏡町おわら


鏡町おわら


鏡町おわら


鏡町おわら


鏡町おわら





2.おわら風の盆の由来

 おわら風の盆の由来は、八尾の公式ホームページから引用させていただこう。

おわら風の盆の幕開け
 二百十日の初秋の風が吹くころ、おわら風の盆の幕開けを迎えます。毎年9月1日から3日にかけて行われるこのおわら風の盆は、今も昔も多くの人々を魅了します。涼しげな揃いの浴衣に、編笠の間から少し顔を覗かせたその姿は、実に幻想的であり優美で、山々が赤くもえる夕暮れを過ぎると、家並みに沿って並ぶぼんぼりに淡い灯がともります。
 それぞれの町の伝統と個性を、いかんなく披露しながら唄い踊り、その町流しの後ろには、哀愁漂う音色に魅せられた人々が1人、また1人と自然につらなり、闇に橙色の灯が浮かび上がり、誰もがおわらに染まっていきます。

おわらの歴史は、元禄ごろから
 おわらがいつ始まったのか、明瞭な文献が残っていないためはっきりしません。
 「越中婦負郡志」によるおわら節の起源として、元禄15年(1702)3月、加賀藩から下された「町建御墨付」を八尾の町衆が、町の開祖米屋少兵衛家所有から取り戻した祝いに、三日三晩歌舞音曲無礼講の賑わいで町を練り歩いたのが始まりとされています。
 どんな賑わいもおとがめなしと言うことで、春祭りの三日三晩は三味線、太鼓、尺八など鳴り物も賑々しく、俗謡、浄瑠璃などを唄いながら仮装して練り廻りました。これをきっかけに孟蘭盆会(旧暦7月15日)も歌舞音曲で練り廻るようになり、やがて二百十日の風の厄日に風神鎮魂を願う「風の盆」と称する祭りに変化し、9月1日から3日に行うようになったと言われます。

「おわら」とは
 一説では、江戸時代文化年間頃、芸達者な人々は、七五調の唄を新作し、唄の中に「おわらひ(大笑い)」という言葉を差しはさんで町内を練り廻ったのがいつしか「おわら」と唄うようになったというものや、豊年万作を祈念した「おおわら(大藁)」説、小原村の娘が唄い始めたからと言う「小原村説」などがあります。

風の盆の由来
 二百十日の前後は、台風到来の時節。昔から収穫前の稲が風の被害に遭わないよう、豊作祈願が行われてきました。その祭りを「風の盆」というようです。また、富山の地元では休みのことを「ボン(盆日)」という習わしがあったと言われます。種まき盆、植え付け盆、雨降り盆などがあり、その「盆」に名前の由来があるのではないかとも言われています。

多くの人々に育てられて
 大正期から昭和初期におわらが大きく変化を迎えます。大正ロマンと呼ばれるほど文化に自由な気風が溢れた時代、大正9年に誕生した「おわら研究会」も影響を受け、おわらの改良(唄や踊り)を行いました。また、昭和4年に結成された「越中八尾民謡おわら保存会」初代会長の川崎順二の文化サロンを中心とした働きで、各界の文人が次々と八尾に来訪しました。おわらに一流の文化意識を吹き込んだ文化人には、宗匠・高浜虚子、作家・長谷川伸もいたと言われています。
 同年、東京三越での富山県物産展に於ける公演をを契機に、おわらの改良がなされ、画家の小杉放庵、舞踊の若柳吉三郎が創った「四季の踊り」は大人気となりました。このときのおわらが「女踊り」「男踊り」として継承され今日のおわら風の盆になりました。
 その時代に生きた文芸人らの想いは今、歌碑となって町内のあちらこちらで息づいています。散歩がてら町の「おわら名歌碑」めぐりをして廻るのもおわらの楽しみの一つです。
 新しい時代の息吹を吸収しながら生きるおわら風の盆は、これからも新しい変化を繰り返し、次の世代へと継承されていくことでしょう。また、そう願わずにはいられません。


鏡町おわら


鏡町おわら


鏡町おわら


鏡町おわら


鏡町おわら


鏡町おわら


鏡町おわら


鏡町おわら





3.曳山展示館とおわら演舞場

 私の旅行は、かつては事前に色々と調べて完璧ともいえるプランで臨んだものだが、そうすると旅が窮屈になる上、様々なハプニングに柔軟に対応できないうらみがある。だから最近では、特に国内旅行は一応調べてはいくものの、基本的には行き当たりばったりで、その度ごとのハプニングを楽しむというスタイルである。今回もその調子で特に詳しく調べていくようなことはせず、シャトルバスに乗り込む時にいただいたパンフレットを眺めることから始めた。

 そうすると、「曳山展示館ステージでの実演」「おわら演舞場(八尾小学校校庭)」というのがあった。前者が午後5時からで1,500円、後者が午後7時からで指定席券3.600円である。では、開始時間を考えると、まず前者に向かおうかと思って地図を眺めていたところ、後者の小学校は今いる場所のすぐ近くなのに気が付いた。だから、まずそこに立ち寄って指定席券を買うことにした。窓口で聞くと、運よく良さそうな席が空いていたので、それを買うことができた。

 地図を見ながら曳山展示館に到着した。そこでは山車が並べられていて興味をそそられたが、おわら風の盆の舞台を見に来たので、まずはそちらの列に並んだ。次から次へと観客が来るので、列は延々と長くなる。やっと時間になり、ホールへと入った。どこでも良いというので、最前列のかぶりつきに着席した。残念ながら写真は禁止だ。


おわら雪洞



 いよいよ始まり、まずはおわら風の盆の所作の解説である。豊年踊り四季踊り案山子踊りなどがある。最初に左上で3回、手を叩き、右下で1回叩くのはこれから始めるという合図だとか、目の前で3回水平に手を動かすのは蚕棚を整理している所だとか、それから右や左へと手を斜めに動かすのは確認している所作だとか、色々と解説がある。それから踊り手さんたちが舞台でやってみせる。舞台踊りだそうだ。30分のステージで、本日は西新町支部が担当である。でも、「あれっ、これで終わりか。」と言いたくなるほどの内容の薄さだ。おわらは全く初めてという人には良いかもしれないが、私のように少しは知っているお客にとっては子供騙しのようで、物足りなくて損をした気分である。せめて、歌詞と所作の解説をしたメモでも配ってくれれば、この値段に合った価値があったのかもしれないと残念である。

 さて、午後7時近くになってきた。気を取り直して、演舞場に向かう。小学校の大きな校庭に沢山の椅子を並べて、正面に舞台が設えてある。舞台の背景の絵は、真ん中に大きな橋がかかっている川の風景である。なかなか良い。30分ごとに4つの支部が出演する本格的なものらしい。3日間で合計11の支部と、八尾高校郷土芸能部が出演する。私が見たこの日は、上新町、東新町、西町、天満町の順で、終演が午後9時近くになる。


上新町


上新町


上新町


上新町


 いよいよ始まった。まず、上新町の出演である。胡弓、三味線、太鼓の素朴で情緒あふれる旋律が聞こえてきた。次いで長く続く絞り出すような声でおわら節が朗々と唄われる。男性の踊り手が出てきて、左上で3回手を叩き、次いで斜めに手を動かして右下で1回手を叩くことから始まり、両手を水平にして手首を曲げる。これが案山子踊りか。それからピンクの衣装の女性の踊り手が男性と入れ替わるように現れて、優雅に踊る。菅笠を目深に被るので、「夜目遠目笠の内」ではないが、どの人も美人にみえる。面白いものだ。

 正確に言うとこの日の歌詞とは違うかもしれないが、例えば、こういう歌詞である。八尾四季(作詞:小杉放庵)

 揺らぐ吊り橋 手に手を取りて
 渡る井田川 オワラ 春の風
 富山あたりか あのともしびは
 飛んでいきたや オワラ 灯とり虫
 八尾坂道 別れてくれば
 露か時雨(しぐれ)か オワラ ハラハラと
 もしや来るかと 窓押し開けて
 見れば立山 オワラ 雪ばかり


東新町


東新町


東新町


東新町


東新町


東新町


東新町


東新町



 東新町の出演時には、小学生の女の子を早乙女姿で出し、男の子を黒い男性衣装で出してきて、そのあまりの可愛さに、観客から拍手喝采だった。大人の男性は黒っぽくてさほどの差がないと思っていたら、町によって、男性がウグイス色の衣装で出てきた。ピンク色の女性とマッチして、非常によかった。

東新町


東新町


東新町


東新町




 また、黒い男性の踊り手が、案山子踊りの最中に、両手を斜めに伸ばし、片足を上げて固まったように動かなくなり、それに更に2人が同じように固まった姿勢をとる。これにも、観客が大きな拍手喝采を送った。そういう調子で、最後まで観て、おわら風の盆を堪能した。素人は、このステージだけでも良いかもしれない。もっとも、おわらの真の楽しみは、思わず町流しにぶつかって、その町独特の衣装、踊り、歌い方を堪能するところにある。


西町


西町


西町


西町


西町


西町


西町


西町


西町


西町



 さて、これが終わったのは、午後9時を回っていた。それから日付けが変わるまで町流しを見るのがおわら風の盆見物の醍醐味だ。ところが、泊まりは高岡なので終電などを気にするのも面倒だし、明日があると思って、本日はもう帰ることにした。越中八尾駅まで歩いて30分はかかりそうだ。それで帰りかけたら、東町での町流しにぶつかった。狭い通りを、胡弓と三味線を流しながら朗々と歌い、その前を編み笠を目深に被った黒い男性とピンクの女性の浴衣姿が踊りながら流していく。この歌がまたよい。ドッコイサーのサッサなどと、頭にリズムが残る。哀愁を帯びた懐かしさがこみあげてくる。これを記録するには、写真では全く不十分だ。このおわら節と一緒でなければ、意味がない。そういうことで、今回のおわら風の盆見物には、写真よりビデオの方を多く撮った。


天満町


天満町


天満町


天満町


天満町


天満町


天満町


天満町


天満町


天満町


天満町


天満町


天満町


天満町


天満町



 それを見終わって、駅を目指して歩き始めたのは午後9時半頃だ。パンフレットの地図を頼りに十三石橋を渡ったのはよいが、そこでグーグル・マップを取り出したのは失敗だった。これに駅までの道順が出てくるので、ついついそれを頼りに進むと、一応は歩道があるけれど、だんだん道が暗くなってきた。構わずに歩くと、なんと墓地がある。そういえば、どこか見覚えがあると思ったら、その一角に親類の山口家のお墓がある墓地だ。間違いない。全くの偶然で驚いたが、この夜中にわざわざ立ち寄ってお参りする気も起こらず、心の中で亡き従兄弟のSさんに挨拶をして、そのまま通り過ぎた。

 更に行くと、真っ暗な中で突然、道が途絶えている。こんなことがあるものかと思ってよく見ると、階段だ。はるか下に、鳥居があるので、神社の参道の階段を下れというのが、グーグル・マップの指示だ。こんなに傾斜があるなら、そう表示してもらいたい。もう二度とグーグル・マップは使うものかと思いつつ、暗い中を何とか階段を降り切った。そこは、駅にほど近いところで、街頭もあり、ようやく文明社会に帰ってきた気がした。高山本線の電車に乗ったのは午後10時37分、高岡のホテルに帰り着いたのは、11時30分だった。いやはや、ひどい目に遭った。とんだ、夏の夜の肝試しの日だった。



天満町




4.おわら保存会11支部の特徴

 いただいたパンフレットの中にあった八尾町の地図で、上(南西部)から下(北東部)へとこれらの11支部(町内)が並んでいる順に見ていくと、最南西端は「東新町」(地図の左手)と「西新町」(右手)から、川を渡った所にある「福島」までは、次の通りである。

「東新町」、「西新町」
「諏訪町」、「上新町」
「鏡 町」
「東 町」、「西 町」
「今 町」
「下新町」
「天満町」
「福 島」


 それぞれの支部の特徴について、いただいたパンフレットには、このようにある。

「西新町」・・最も南に位置する支部です。新しく区画割されたことをあらわす「新屋敷」という通称でも呼ばれます。腰を深く落としてから大きく伸び上がる所作の男踊り、また繊細かつ優美な女踊りとも相まっての町流しは見応えがあります。

「東新町」・・諏訪町の先にあって最も高台に位置する支部です。この支部の少女だけが愛らしい早乙女衣装をまとって踊ります。また、この支部にはカイコを奉った若宮八幡社があり、その境内で奉納されるおわらには独特の風情があります。

「諏訪町」・・往時を偲ばせる佇まいの家々立ち並び坂のまち風情を色濃く残している支部です。東新町へと続く緩やかな坂道にボンボリが並び、狭い家並みにおわらの音曲が反響し、道の両脇を流れるエンナカと呼ばれる用水の水音と相まって、おわらなとっての最高の舞台を演出します。

「上新町」・・旧町の中で一番道幅が広く、商店が多く立ち並んでいる支部です。通りが広いので、比較的容易に町流しを楽しむことができます。また、午後10時から始まる大輪踊りには、観光客の皆様も参加して地元気分で楽しんでいただけることから、大変好評です。

「鏡 町」・・・かつては花街として賑わった町の支部で、女踊りには芸妓踊りの名残もあって、艶と華やかさには定評があります。鏡町支部への入口でもある、おたや階段下が支部のメイン会場になっていて、その会場で行われる舞台踊りや輪踊りをおたや階段に座って鑑賞するスタイルが有名です。

「東 町」・・・旧町でも古い町にある支部で、かつては旦那町とも呼ばれたほど大店が連なっていたと伝えられており、他支部と異なる色合いの女性の衣装に当時の旦那衆の遊び心が伺いしれます。また、おわらの名手だった江尻豊治や越中おわら中興の祖といわれる川崎順治などを輩出し、おわらの芸術性を育んだ町でもあります。

「西 町」・・・東町とともに旧町の中心にあって旦那町として栄えた支部です。今でも土蔵造りの家や風情ある酒蔵、格子戸の旅館など情緒あふれる建物が残っています。昼間に行われる、禅寺坂をくだった先にある禅寺橋で石垣をバックにした輪踊りには独特の風情が感じられます。

「今 町」・・・旧町の古刹聞名寺の正面に位置する支部です。東西両町の中心に位置したことから、かつては中町と呼ばれました。青年男女が絡む男女混合踊りは、この支部が他の支部に先駆けて取り入れたものとつたえられており、創作当時のスタイルを大切に守っています。

「下新町」・・福島から旧町への入口にある支部で、かつては勾配のある坂道に沿って多くの商店が立ち並んでいました。坂の中腹には八幡社があり、春季祭礼の曳山祭りでは曳山が奉納されるメイン会場となっています。朱色を基調とした女性の浴衣が特徴的です。

「天満町」・・東西北の三方を川に囲まれた町にある支部です。町はかつて川窪新町といわれていました。明治23年に天満町と改称し、その名の通り天満宮があります。この町では、おわらの唄(上句)の途中にコラショットと囃子を入れて、音程を下げて力強く歌う独特の歌い方があります。その歌い方は、川窪(こくぼ)おわらと呼ばれています。

「福 島」・・・旧町から移り住んだ人達を中心として結成された最も新しい支部です。風の盆期間中は駅横の特設舞台でステージ踊りが実際されます。また、大人数で広い通りを流す福島独特の町流しは見応えがあり、大変好評です。


 各支部の特徴が非常によく分かり、なかなか優れた解説である。とても参考になった。ついでに、同じパンフレットに書いてあったQ&Aのうち、興味を惹かれたものを引用すると、

 顔が見えないくらいに深く編み笠を被るのはどうしてですか。
 風の盆がはじまった当初は、照れやはずかしさから人目を忍び、手ぬぐいで顔を隠して踊ったのが始まりだったと伝えられています。編み笠に変わった今もその名残りで、顔が見えないくらいに深く被ります。

 女子の踊り子さんの帯はなぜ黒いのですか。
 その昔、おわらの衣装を揃えた際、高価な帯まで手が届かゆかったので、どこの家庭にもあった黒帯を用いて踊った名残りといわれます。

 初めて風の盆に行くのですが、どのように見たらよいですか。
 大きく分けて2つの見方があります。ステージでの鑑賞と各町内踊りでの町流しになります。初めての方は、椅子に座って見ていただける八尾小学校演舞場(有料)がおすすめです。

 町流しとは、とのようなものですか。
 おわらの町流しは、11あるおわら保存会支部がそれぞれ町の通りを歌い踊りながら流すもので、昔からのおわらの姿がここにあります。町流しには踊りと地方(じかた)が一体になった町流しと、地方だけの町流しがあります。


 なるほど、編み笠を深く被ることや黒帯の理由が、よく分かった。私は、9月1日の第1日目夜は八尾小学校演舞場で座って4つの支部を見物し、第2日目は、午後の町流しと、その夜は町流しはもちろん鏡町に陣取って舞台踊りなどを見たから、11支部のうち、少なくとも半分程度は見たと思う。町流しの見物も、この辺りで始まるななどと勘が働くようになり、だんだん慣れてきた。


5.鏡町のおたや階段下の広場

 さて、2日目は、やはり妹に送ってもらってスポーツアリーナに着いたのが午後2時半頃だ。午後3時から5時まで、各町内で昼間の町流しがある。それで、東町 → 西町 → 上新町 → 諏訪町 → 東新町 → 西新町 → 鏡町 の順で、町流しを観ていった。上新町公民館の前では、舞台踊りが披露され、それを堪能した。


西町


上新町公民館


西町


西町


西町



 午後7時から夜の町流しが始まるので、それまで2時間ほどある。先ずは早目の夕食を食べようと、食堂に入って親子丼をいただいた。関東の親子丼のように醤油を使っていない。だから、卵と玉ねぎと鶏肉がそのまま白いご飯にのっていて、まるで味がしない。富山では、他で親子丼を食べたことがないので、この店だけの味か、それともこの地方特有の味なのかはよく分からなかった。まあ、減塩にはよいから良いものの、シンプルすぎる味である。


西新町


西新町


西新町


西新町


西新町


西新町


西新町


西新町



 まだ、夜の町流しまで1時間半もある。地図で見た鏡町の「おたや階段」に行ってみた。この階段に座って、その下の石畳の広場で行われる演技を楽しむのが鏡町流の楽しみ方だそうだ。西町から「おたや階段」についた。そこから階段の下を見下ろすと、石畳の広場がまるでマッチ箱くらいにしか見えない。でも、もう階段の下から3分の2は、見物客で埋まっている。試しに空いている階段に座ったところ、それでも眼下の広場はまるで手帳サイズである。冗談ではない、こんなところにいても仕方がないと思って、階段を降りていき、下の広場に着いた。すると、人々がもう周辺に座っている。スケジュールを見たら、午後8時開始である。まだ、2時間半もあるのに、もう待っているのかと思い、馬鹿馬鹿しくなって、その辺りに座った。歩き疲れていたので、少し休むつもりだった。


6.退職者の鏡のような元気なおじさん

 すると、隣に座っていた60歳代の男性が、私の持っているカメラを指さして話し掛けてきた。「そのカメラ、いいなあ。よく撮れるでしょう?」

 私は、「いやいや、前回、キヤノンのカメラを持ってきたのですが、もう全然撮れなかったので、今回はこのソニーα7にしました。多分、多少暗くても大丈夫でしょう。」

おじさん「私は、ソニーα6400だから、そのα7だと、もっと良く撮れるでしょう。例えば、これでも(と言ってカメラの画像を拡大して)、ほら、踊り子さんのうなじの髪の毛まで写ってますよね。」

私「ああ、これは良く撮れている。目深に被る編み笠を正面から捉えるのではなくて、後ろからうなじに焦点をあてるなんて、これはなかなか非凡な構図ですね。芸術的だ。」

おじさん(気を良くして)「いやいや、ありがとうございます。そうやって気に入った写真を印画して、部屋に飾っています。」

私「それは、なかなか良いご趣味ですね。おわらは初めてですか?」

おじさん「いやいや、去年も来たのですが、鏡町のおわらは、この位置が絶好の場所です。なんとなれば、背景に見物人が写り込まない。ほら、黒い板塀でしょう。だから、あと2時間以上あるけど、ここで待っている価値があります。あと、今町の聞名寺(もんみょうじ)、これも良い。見物人が写らないアングルがあります。」

 私はそれを聞いて、ここで、このおじさんとおしゃべりをして時間を潰すことにした。気がついてみると最前列だから、写真を撮るには絶好のポジションである。

おじさん「流鏑馬に行ってみたことがありますか?」

私「いや、一度もありません。関東近辺では、鎌倉ですか?」

おじさん「鎌倉、逗子、平塚、そして明治神宮ですが、このうちでは、逗子が一番、絵になります。というのは、背景が海になるんです。たまに富士山が見えたりしてね。だから、あそこの流鏑馬は最高です。明治神宮も、背景に見物人が写りこまない良いアングルがありますよ。」

私「そうなんですか。逗子と明治神宮ねぇ。では今度、行ってみます。」

おじさん「ところで、ここまでどうやって来られたんですか?」

私「いつも、大人の休日倶楽部で、北陸フリー切符を買って来るんです。」

おじさん「私は、国内旅行は、なるべく格安航空券を買っていくことにしてます。例えば、先日は熊本まで3千円で行ってきました。北海道も、2千数百円で行けますよ。航空会社の販売サイトを丹念に見ていたら、そういう券があるんです。先日は、ジェットスターで291円というのがあって、申し込みました。我々は、土日は関係ないですから、暇な期間にそういう券のオファーがあります。」

 などというとりとめない話をしていたら、いつの間にか午後8時になって、鏡町のおわら風の盆公演が始まった。先ずは地方が「歌われよ わしゃ囃す」から始まって「越中で立山 加賀では白山 駿河の富士山三国一だよ」と続き、歌と囃子が続いていく。その途中で、三方から踊り子さんたちが出てきて踊る。上手いものだ。撮りに撮ったことは、言うまでもない(上記1.の写真参照)。

 おわら風の盆の踊りは素晴らしかったが、それとともに、退職者の鏡のような、このおじさんの存在には驚いた。現役の時は、さぞかし有能な人だったのだろうと思う。その時の勢いのまま、退職しても相変わらず精力的に全国を歩き回っている。「セールス」ではなくて、単に「良い写真を撮る」だけのために・・・いやもう、大した人だ。日本も、人口が減る、労働力が減るなどと言っていないで、こういう元気な高齢者を活用すべきだと思った次第である。



西新町


西新町


西新町



 なお、今晩の帰りの時刻は午後9時半頃に出発となったが、昨晩の反省からグーグル・マップを見るのは止めて、パンフレットの地図に従って十三石橋を渡るとすぐ右に曲がり、そのまま前進すると地鉄バスの発着場に出た。そこから左手に行けば高山本線の越中八尾駅であるが、試しにバスの出発時刻を聞くと、もうすぐだ。そこで、バスに乗ることにした。富山駅経由で高岡駅に着いたのは、午後11時頃だった。そのうちまたやって来て、今回の2日間で見られなかった支部のおわら風の盆を見てみたいと思っている。


7.八尾町の皆さんに感謝

 こういう風の盆をもう300年近く踊り、歌い続けてきたそうであるが、まずはその伝統を守ってきた八尾町の皆さんに対して敬意を表したい。また、そうした地域のお祭りに、我々のような何十万人にも及ぶ観光客を心よく受け入れて、かつ見物をさせていただくという皆さんの度量の広さにも感謝する次第である。願わくば、この伝統の芸術、日本の宝ともいえるお祭りを、今後も末永く続けていってもらいたいものである。







 本場おわら風の盆(写 真)




(2019年9月 3日記)


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