イスラム美術館

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1.MRT鉄道

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 クアラルンプールのイスラム美術館に行ってきた。国立モスクに隣接している。最近、同市内ではモータリゼーションが飛躍的に進んでいる一方、道路の整備が追い付かず、市内は慢性的に渋滞している。そこで、同時に整備が進められている鉄道網を利用してみることにした。公共交通機関で、今年の5月に全線開通したばかりのMRT(The Klang Valley My Rapid Transit)という鉄道に乗った。路線図を見ると、これはクアラルンプールを南東から北西に向けて斜めに貫く路線である。両端の一部が先に完成して既に電車が走っていて、中心部の7駅だけが未完成だったが、それがようやく出来たというわけだ。

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 最新のサンウェイベロシティ・ショッピングモールと、古くからあるイオン・ショッピングセンターからほど近いマルリ駅からMRTに乗った。平日の午前10時頃だったから、駅で待っている人は、ほんのちらほらといるだけだ。「タッチ&ゴー」というプリペイドカードを買って改札を抜ける。日本のスイカと同じ要領だ。読み取り機の反応は、なかなか良い。プラットホームには、ホームドアがある。高さは、大人の顔くらいだが、転落防止にはこれで十分だろう。ホーム上の案内スクリーンを見上げると、青地に白抜きの文字で、縦に「1st. 3min.、2nd. 10min.、3rd. 17min.」と並んで表示されているので、あと3分後に電車が来そうだ。待っていると、MRT電車が静かに到着した。お台場のゆりかもめのような無人運転の4輌編成で、車体はさほど高くない。乗ってみると、座席は固いプラスチック製である。これがもし日本で季節が冬だと、冷たくてとても座っておられないところだが、ここは常夏の国だから、この方が良いし、掃除も簡単なのだろう。ただ、車輌は小さいから、1輌当たりの輸送力は、日本の首都圏の鉄道車輌と比べれば、かなり少ないのではないかと見受けられる。

 事前に調べて、イスラム美術館は国立モスク(現地語で、MASJID NEGARA)の裏手にあることがわかっていたので、そうするとMRTの路線上のパサール・セニ駅(中央マーケット駅)が最寄りの駅だ。そこで、グーグルの地図でパサール・セニ駅からイスラム美術館への道順を表示させたら、川の向こう側に行くのに、わざわざ隣のクアラルンプール駅に行ってまた戻るという馬鹿馬鹿しいルートが表示されて、しかも徒歩22分と出た。そんなはずはない。せいぜい10分くらいの距離のはずだ。地図をよくよく見ると、川の上に細い道があって、向こう岸の国立モスクに繋がっている。たぶん、この道の方が正解だ。東京でグーグルの地図が初めて利用され始めたばかりの時のように、当地では、グーグルの地図はまだ発展途上のようだ。

 乗った車輌は、マルリ駅のいくつか先で地下に潜る。そして、再び地上に出たと思ったら、パサール・セニ駅に着き、そこで降りた。駅のプラットホームは地下2階ほどのところにあってとても涼しいくらいだが、そこから長いエスカレーターで上って地上に出ると、むっーとする暑さが体にまとわりつく。駅のすぐ脇には泥川が流れている。「あれあれ、これはひょっとして、クアラルンプール(泥川が合流するところ)の語源となったクラン川(そのすぐ北の地点で、ゴンバック川と合流する)ではないか。では、この川を渡ればよい。」と思いつつ見回すと、国立モスクはこっちという矢印表示がある。どうやら川の向こう岸に、やはり交通機関のKTMコミューターの駅があって、それとパサール・セニ駅が歩道橋で繋がっているらしい。なるほど、これがグーグルの地図上では、川の上に細い道として描かれていたもののようだ。

 ところで、例えば東京の新宿だと、JR、東京メトロ、都営地下鉄、小田急線、京王線、西武新宿線などが集まっていて、慣れない旅行者には、非常にわかりにくい。ここクアラルンプールも、数え上げれば、MRTの1路線、KTMコミューター3路線(うち、1路線は未開通)、LRT3路線に加えて、KLモノレールなるものがある。そのほか、KLIAエクスプレスとトランジット2路線があって、これは国際空港や行政首都のプトラジャヤに行く。合計10路線だ。その多くは、KLセントラル駅を通るから、その点はよく出来ている。だから、路線図は、この駅を中心に見ていけば、わかりやすい。問題は、駅どうしが繋がっているけれども、かなり歩かなければならないようなところである。このパサール・セニ駅もそんなところがあって、MRT駅からKTMコミューター駅まで、細々とした回廊のようなところを歩く。もっとも、東京でも大手町駅で乗り換えようとすると、初めての人はまごつくから、それと同じかもしれない。


国立モスク


国立モスク


国立モスク


 そういうわけで、MRTのパサール・セニ駅から歩いて、KTMコミューターのパサール・セニ駅に着いたが、国立モスクは、さらにその先だ。クラン川上の橋を渡り、迷路のような駐車場の建物を抜け、地下の歩道橋を渡って、やっと国立モスクに着いた。それをぐるっと半周くらい回って、ようやくイスラム美術館となる。


2.イスラム美術館


イスラム美術館


イスラム美術館


イスラム美術館


 イスラム美術館に着いたはずなのだが、道路の左右にそれらしき建物がある。特に左の建物は、立派なイスラム模様を施してある。これかなと一瞬思ったが、事前に調べた外見とは違う。守衛に聞いたら、これはオフィスで、美術館本体は向かい側だという。そこには、入り口こそモスク風の玉ねぎ形だが、他はがらんどうの何の変哲もないコンクリートの空間が広がっている。イスラム的な雰囲気はある。でも誰もいない。本当にここかと思いつつそちらに行き、やっと見つけた脇の階段を降りていくと、そこにようやく美術館の入り口があった。愛想のいい係員に14リンギットほどの入場料を支払って、入った。私のすぐ後に、白人の若いカップルがやって来て、こんなやりとりをしていた。

 係員「いらっしゃい。お嬢さんは、学生さんですか。」
 女性「いいえ。違います。でも、聞いてくれてありがとう。」

 学生なら、入場料が半額になる割引きがあるそうで、係員は確かめたかったのだろうけど、女性は、学生さんと若く見られて、どうやらひどく嬉しかったようだ。乙女ごころは、洋の東西を問わず、変わらない。


イスラム写真展


イスラム写真展


イスラム写真展


 イスラム教では、偶像崇拝が禁じられているから、日本の寺院のように、仏様を拝んで感情移入をするということは出来ない。だから、イスラム美術といえば、偶像に繋がるような造形ではなく、せいぜいタイル模様の延長のような幾何学模様しかないだろうという程度の認識であった。ところがまず最初の展示は、「心の旅」と称する50人の写真家の写真の展示である。中でも、イスラム教の寺院であるモスクが、主に取り上げられていた。ここで見るモスクの数々は、朝焼け、夕焼けに映し出されたり、目の前の湖に青い空と白い雲が写ったり、空の色との対比が鮮やかな濃いピンク色をしていたりして、息をのむほどに、実に美しい。時間が経つのを忘れて、思わず魅入ってしまった。しかも驚いたことに、雨上がりの森の道を、数人のマレーの子供が楽しそうに語らいながら歩く後ろ姿もある。また、父の手を引いてさも嬉しそうにモスクの階段を登る子供の姿もある。いかにも、人間らしい平和な風景だ。宗教や人種、時代を超越した感がある。私も、暇ができたら機会を作って、是非こういう写真を撮ってみたいものだと、つくづく思う。

イスラム写真展


イスラム写真展


 それから、 ミュージアムショップや図書館の脇を通って、展示室に向かう。その前に、暑い外から冷房が効く建物の中に急に入ったためか、汗がとめどもなく出てきて、シャツがびっしょりと濡れてしまった。このまま館内の冷気に当たり続けると風邪を引きかねないので、身障者トイレで着替えさせてもらった。ひと息ついたので、レストランに行くと、昼食はちょうど12時からだというから、まだ1時間ほど早い。展示を見てからまた戻ることにした。

クチ族の衣装


 いつもの通りの無手勝流で、興味の向くままに展示品を見て行く。個々の展示品に英語とマレー語の説明があるが、暗い上に字が小さいので、見辛いことこの上ない。途中で説明を読むのを諦めて、大まかな題名を眺めることにした。インド・ギャラリーでは、インドの王侯貴族の肖像画、衣装、家具などがある。テキスタイル・ギャラリーでは、アフガニスタンの遊牧民「KUCHI」(クチ)族の女性の衣装というのが誠にカラフルで、非常に印象に残った。これを着て、男性を魅惑するのだろうか。その他、中央アジア系のイスラム女性の衣服は、色使いといい、デザインといい、非常に魅力的である。そういう衣装を、上から下まで真っ黒で目しか出していない、おそらくサウジアラビアからの観光客のような黒づくめの女性が見ているのは、珍妙な風景である。ただ、宗教問題なので、事は微妙である。

マヤ文明を想起させるモチーフのイスラム模様


マヤ文明を想起させるモチーフのイスラム模様


 次に、マレー風のテキスタイルが、いくつか展示されている。今でも 街中で目にするデザインが多い。当地では、歴史的にインドや中国との貿易が盛んで、そういうところから、こうしたデザインが定着していったらしい。まあ、何というか、マヤ文明を想起させるモチーフの文様もある。これは、14世紀から16世紀にかけて全盛期を迎えたチィムール王朝が工芸を尊重して周辺国に広めさせたものだそうだ。そうかと思うと、絹でできた立派な衣装がある。これは、3世紀から7世紀にかけてシルクロードを実質的に支配していたソグド人のものだそうだ。ソグド人といえば、唐の玄宗皇帝時代に反乱を起こした安禄山は、確かソグド人の血を引いている。高校で習った知識が、半世紀ぶりに蘇ってきた。

宝石のギャラリー


宝石のギャラリー


宝石のギャラリー


 宝石のギャラリーは、非常にわかりやすい。ややゴテゴテとしているが、そのまま現代でも使えそうな飾りが多い。例えば、金地に緑や赤の宝石を飾ったパイプは、素晴らしい。青いトルコ石を使った19世紀のネックレスは、誠にモダンなデザインだ。トパーズやサファイアのネックレスも、実に美しい。

武具のギャラリー


武具のギャラリー


武具のギャラリー


 武具のギャラリーには、オスマン・トルコの男性の武具、装飾品、肖像画などがある。特に、ペンダントに入れられた男性の肖像画は、なかなか味がある。誰がどこで、こんなペンダントを身に付けていたのだろうと、不思議に思う。やはり、戦争に行った夫を思う妻なのだろうか。単発式の昔の銃がたくさん並んでいる。しかも、銃把に虎などの動物の像が彫られているから、面白い。クリスという不思議な形の短剣がある。何が不思議かというと、普通の短剣は左右が対照的なのに、これは非対照で、まるで平仮名の崩し文字のような形をしているからだ。まあこれは、説明に文字を費やすより、実際に写真を見た方が早い。

陶磁器のギャラリー


陶磁器のギャラリー


 陶磁器のギャラリーでは、昔の中国から輸入された、イスラム模様やコーラン文字が描かれた陶磁器がたくさんあった。金属ギャラリーでは、精巧加工された銀やブロンズ性の作品が置かれている。硬貨のギャラリーでは、硬貨のツリーや、金貨に目を奪われた。この他、マレー世界ギャラリーというのがあったようだが、残念ながら、気が付かなかった。考えてみると、文化を残すというのは、少なくとも数百年に渡る平和が続き、国民の中で裕福で文化的な生活をする層が一定数いないとあり得ないことだから、その点、まだ時期尚早ということなのかもしれない。

 そういうことで、展示品をあらかた見終わったのであるが、その印象を取りまとめていえば、この美術館は、最初思っていたような「イスラム教そのもの」の美術館ではない。そうではなくて、「イスラム諸国の美術品や民族品」を集めた美術館だということが、よくわかった。だから、最初はモスクに入るような緊張感があったのだけれど、そこまで用心することもなかったというわけである。

 さて、もうお昼がすぎてお腹がすいた。この美術館のレストランに行く。60リンギットのブッフェ・ランチしかない。日本円で1500円ほどだから、食料品が安いこの国では、相当に高い。でも、喫茶メニュー以外はそれしかないので、やむなく注文した。肉の種類を選べというので、鶏肉にした。周りを見ると、あまり客がいないくて、 もう70歳くらいの白人女性が2人、中国人の旅行者らしきカップルが1組、それに日本語を話す男性を含む3人組、それだけだ。

 ウェイターのお兄さんが、「あそこにある」とばかりに、顎をしゃくってブッフェの方向を示す。そちらに行くと、サラダ、豆、卵、干し魚の細片などが、10種類ほどお皿に盛られている。これは、ダイエットに良いとばかりに、全種類を大きなお皿に盛る。ついでに、メキシコ料理のトルティーヤらしきものを席に持ち帰り、また引き返して、お魚のスープをいただいてきた。いずれも 、(「マレー料理にしては」と言うと叱られそうだが)、味が良くて美味しい。トルティーヤもスープとともに3枚ほど続けて食べたので、お腹がいっぱいになった。そうこうしているうちに、 メインデイッシュの大きなお皿が運ばれてきた。うっかり、そんなものがあるのを忘れていた。そのお皿には、カレー味の角切り鶏肉、レタスなどの野菜、こんもりと盛られたお米が、綺麗に盛り付けされていた。それを見ていると、また別腹で食欲が湧いてきて、お米は半分ほど残したが、後は皆、食べてしまったから、我ながら驚いた。ついでに、デザートのムースと西瓜も平らげてしまった。その日は、ドリアンも食べてしまったことから、はてさて帰国した後、果たして体重が何キロになっているかが、目下の気掛かりなことである。


ドリアン




【後日談】 帰国して体重を計ったところ、行く前の71kgが、72kgと、ちょうど1キロの増加にとどまった。あれだけ食べていたことを考えると、上々の出来かもしれない。暑くて外出時には汗をたくさん流したし、それに加えて、毎日ホテルのジムに行って運動したおかげかもしれない。ちなみに、帰国してからさらに気を付けて、1週間後には、70kg台へと落とすことができた。






 イスラム美術館(写 真)




(2017年8月3日記・10日追記)


カテゴリ:エッセイ | 20:13 | - | - | - |
義理の母の最期の日

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 家内の母、つまり私の義理の母が、とうとう亡くなってしまった。享年92歳だし、「人生、もう思い残すことはない。」とおっしゃっていたから、いわゆる大往生というところである。今は初夏だが、数ヶ月前の初春の頃、約1ヶ月にわたって、一度危ない時期があった。しかしそれをどうにかこうにか乗り越えて、ようやく回復したばかりであるから、今から振り返えれば、本人にも周りにもあれが心の覚悟をする一種の予行演習となったのかもしれない。

 それが、今年の2月から3月にかけてのことであるが、そうやって1週間ほど食べられない、水も飲めないという状態が続いた。ところがその後に、いつの間にか、家内がお見舞いに持って行った好きなお菓子やフルーツを食べ始め、日を追っていつもの量の食事が食べられるようになって危機を脱した。体重は少し落ちたが、バイタルの数値、つまり呼吸、心拍、血圧も正常に戻り、ほっとしたものである。同じ老人ホームに、心臓が3回止まったけれども、そのたびに何とか生きかえって、車椅子生活だがゲームに興じている女性もいるから、「それに比べれば、こちらは第1回目の生還だね。まだまだ行ける。」と、楽天的に話していたくらいである。ところが、今月に入って老人ホームから、「お母さんが、また食べられなくなりました。」という連絡が入った。そこで家内は、東京から静岡まで、新幹線で駆けつけた。すると、固形物だけでなく、水も飲めなくなって、口に高カロリーの液体を少し含ませるのがせいぜいという程度になっていた。こういう場合に、病院に運び込んで、補水液を点滴したり、極端な場合は胃瘻をこしらえて身体に栄養分を人工的に送り込んだりするというのも一案である。しかし、生前に本人とよく話し合って、「それはしない。自分の力で最期まで行きたい。」ということになっていた。今回も、本人に確認すると、延命治療は、強く断られた。ということで、本人の自然の体力だけで、この2週間近くを生き抜いてきた。本人は、「どうなっても、老人用おむつは付けない、トイレは必ず自分で行く。」という強い意志、つまり「こだわり」を持っていて、亡くなる数日前、全く動けなくなるまで、それを実行していたから、老人ホームの施設長さんをはじめ皆さんは、驚くやら、あきれるやら、感心するやらで、「最期まで、頭脳明晰だし、誇り高く生きるというこだわりがある。我々もたくさんの人を看取って来たけれども、こんな人は、初めてです。」と語っていた。

 今回、家内が駅前のホテルに泊まりつつ、老人ホームの母の居室で、母の脇に添い寝したりして、よく頑張った。前回はそれが2ヶ月余りに及んだが、今回は1週間ほどいたところ、老人ホームでの見舞いを終えていったんホテルに戻った。それでホテルのベッドで休み始めたばかりの午前零時頃に老人ホームから電話があり、「呼吸が乱れてきました。いよいよかもしれないので、すぐに来て下さい。」とのこと。それから直ぐに駆け付けて、また添い寝したそうだ。そのまま、何事もなく朝を迎えた。そのとき、母が「どうか、この人を早く楽にしてやって下さい。」とつぶやいたという。一瞬、家内は母が自らのことを言っているのかと思ったそうだが、「この人」というのは、娘の自分のことを言っているのだと気が付き、此の期に及んでまだ娘の私の身を案じてくれていると、心から感動したそうだ。


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 一方、私は、自分の父の七周忌を終えて帰京したばかりだったが、昼過ぎの新幹線で、静岡の老人ホームに駆け付けた。義理のお母さんに対面したら、もう話すことはできなくなっていたものの、私が話し掛けると微笑んでくれたように思えたし、話しつつベッドの反対側へと移動すると、私を目で追ってくれていたから、十分に理解していたのだと思う。そういえば前回、母から「この子(つまり家内)をよろしくお願いします。」と言われたので、「もちろん。大丈夫ですよ。」と話したことを覚えているが、今回、また同じことを言うと、安心したような顔をされた。そのようなやり取りをしていたときに、老人ホームの方が、「では、簡単にお風呂に入りましょうね。」とやってこられたので、私と家内は、部屋の外へ出て、リビングルームの水槽の前のソファーに腰掛けて「お母さん、あなたのことが気になっているのだよ。最後まで、親なんだね。有り難いね。」などと、家内と話していた。すると、老人ホームの看護師さんが小走りにやって来て、こう言った。「心臓が止まっています。」。こちらこそ、心臓が止まりそうになりながら、家内と2人で駆けつけると、母はもう、息をしていなかった。時に、午後2時35分である。家内も私も、ベッドの傍らで、ただ頭を下げるだけだった。

 老人ホームの職員の皆さんが次々にやってこられて、両手を合わせて故人に弔意を表してくれた。そのたびに家内が頭を下げて、感謝の意を伝える。両目をはじめ顔が真っ赤になり、涙声になるのは、やむを得ない。母は最期まで、頭脳明晰だったし、入居してもう5年半という古株になっていたから、個々の職員さんたちと、色々な交流があったようだ。だから、その死をそれぞれの言葉で悼んでくれる。たとえば、まだ30歳代の半ばの人なのだけれど、理学療法士さんが来た、その方は、亡くなったと聞いて真っ先に飛んできてくれた。身体が硬直する前にと、亡骸の姿勢を整えながら、顔をクシャクシャにしつつ、涙声で「お母さん(つまり義理の母)と、『3年後の東京オリンピックを一緒に見ようね』と約束していたのですけれどねえ。もう亡くなられてしまって。」と言う。また、「お母さんは計算が速かった。3桁の繰り上がり計算を含むプリントも、1枚をやるのに他の入居者の皆さんの中には1日がかりの人もいるのにね、それをたった10分もしないでやるんですよね。いや、すごかった。それに、漢字もよくご存じで、私などは辞書を引きながら、やっと採点できた有り様です。」とも語る。

 また。母は、今年の4月に入ったばかりのお兄さんに、「ハンサム・ボーイ」という渾名を付けて、「そこのハンサム・ボーイさん、湿布を取って来て。」などとやっていたそうだ。そのハンサム・ボーイさんも、枕元にやってきて、理学療法士さんとともに、母の亡骸に向かって、両手を合わせて「どうか、安らかに」と言いつつ、自然に合掌してくれている。そこへ、老人ホームが呼んでくれたようで、地元にいる義理の妹夫婦が駆けつけて来て、妹が泣き崩れる。いやもう、涙なしにはいられない。次に、かかりつけ医がやって来てくれた。これまで、月2回の定期健康診断をしてくれていた人だ。まず聴診器を母の胸に当て、次にライトペンで母の両眼を診てから時計に目をやり、「死亡を確認しました。午後3時12分です。」と事務的に言った。そして事務室に行って、死亡診断書を書いてくれた。それが1枚の大きな紙の右側である。左側は死亡届で、葬儀社を通じて市役所に提出するものだ。

 葬儀社に連絡をして、母の遺体を運んでくれるように手配をした。それからが驚いたことなのであるが、どこからともなく職員の方から、「そうだ。最後のお風呂に入ってもらおう。」という声が上がり、もう亡くなっているというのに、生前と同じようにして、お風呂に入れてくれた。こういうところは、心がこもっているというか、本当に親切だ。母に敬意を払ってくれていないと、できないことだ。お風呂から上がって身体を拭き終わった頃に葬儀社の車が到着して、母の亡骸を斎場まで運んでくれた。それにしても、この老人ホームは良い。他のホームから移ってきた職員によると、そこでは 「例えば事務室ではスタッフが書類の上に目を落とすばかりで何もしないので、入居者との会話もなく、入居者もリビングルームではただ突っ伏しているしかない。ただ、設備はこの老人ホームよりもずーっと豪華です。その点、ここは設備そのものは大したことはないかもしれませんけれど、入居者とスタッフとの交流があるし、入居者相互もお互い知りあっています。また、スタッフの間もミーテングをよく開いて、改善の提案をしているから、風通しが非常に良いんです。」という。なるほど、設備がいくらよくても、運営するノウハウがなければ、無茶苦茶になるわけだ。乳幼児の保育園もこれと同じで、設備はそれなりにあっても、個々の子供に話し掛けもせずに、テレビを付けっ放しにして、ただ転がしているという、ひどいところもある。それと同じだなと思った。


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 それから数日後、母の通夜と葬儀を執り行った。通夜には、老人ホームの施設長さんほか4人の職員も来てくださり、家内と抱き合って悲しみをともにしてくれた。有り難いことである。葬儀が終わり、火葬場での骨あげの後、お寺さんに納骨をした。家内の家とこのお寺さんとは三代にわたる付き合いがあるそうだから、ご住職さんも、心臓の大手術直後で体調が悪い中なのに、相当無理をされて、読経を行うためにやってこられた。頭が下がる思いである。ところで、家内のところは2人姉妹なので、ありていにいえば、お墓を継承する人がいなくなる。そこで、このお寺さんとは、永代供養をお願いするということで、合意しているそうだ。永代といっても、50年ということだそうだが、こういう場合は、他によい方法があるのだろうか。

 お墓といえば、私の息子のところに男の子の孫が生まれて、後継者はできた。しかしながら、いずれも東京育ちということになるので、私の田舎とはほとんど縁がない。こういう場合には、やがて田舎の墓じまいをして、東京に移転させることになると思うが、現地に妹たちは残っているし、なかなか難しい課題である。だから、関係者がいなくなるか、あるいは納得した上でないといけない。いずれにせよ、私が生きているうちには、結論を出すようにしたいものだ。





(2017年7月23日記)


カテゴリ:エッセイ | 22:06 | - | - | - |
エアコンの水漏れ

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 7月の初めで梅雨明けも近いというのに、福岡県と大分県では記録的な豪雨に見舞われている。中でも、大分県日田市の辺りでは、林業のために植林された立派な木々が、地滑りで山とともに崩れて大量に川へと流れ込んだ。それがダム湖を作ったり、川の中の橋脚に当って鉄橋などを破壊している。テレビで映像を見ると、川か道路かわからなくなってしまったところを、濁流がものすごい速さで流れ、丸太も家も自動車も押し流している。これでは、たとえ鉄筋の建物でも、3階にいないと安心できないだろう。災害は場所と時期を選ばないというが、それにしても大変な被害が出るのではないかと心配だ。

 金曜日の朝、そんな災害の映像を見ながら朝食を食べていた。家内は、母親の様子を見に故郷に帰っているから、いない。すると、エアコンから、パタ、パタ、パタという異音がする。「あれあれ、何かの不具合かな。この暑い季節に、エアコンが故障したら、命に関わる。」と思いつつエアコンの近くに行ってみると、機械音ではなく、エアコンから水が漏れて、それが、たまたま真下にあったクッションに当たっている音だった。水滴は、エアコン下部から次々に出てくる。「ああ、これはエアコンの排水ホースが詰まっているせいだ。それなら、少し早く帰って外にある排水ホースを清掃すればいい。」と思って、その旨を家内にSMSで報告して、エアコンの電源を切って出勤した。

 さて、暗くならない内にと早めに帰宅して外のベランダに出て、その排水ホースを見てみた。すると、一見して詰まっている風でもない。ただ、ホースの途中にプラスチック製の器具があり、その中が真っ黒だ。しかし、仕組みが不得要領のままで外すわけにもいかない。一体、何の器具なんだこれは。機能がわからないで、勝手に触るのもよろしくない。家の中に戻ってエアコンの説明書を取り出してつくづくと見たが、その器具については何の記述もない。これは困ったと思っているところへ、家内からメールが入って、「近くの電器屋さんに頼みましょうか。」という思わぬ助け船が差し伸べられてきた。手に負えないから、「是非、そうして。」と頼んだら、その電器屋さんが、バイクですぐに駆け付けてくれた。

 電器屋さんが言うには、「このエアコンを据付けるときに、何か説明を受けませんでしたか?」「いいや、別に何も」というと、「これは、説明がないと、わかりませんよね。一般にマンションは気密性が高いので、中で換気扇を回したりすると、外より気圧が低くなります。そうすると、換気口が塞がっていると特に、このエアコンの排水口のホースを水が逆流して、『ポコ、ポコ、ポコ』という音を立てます。この器具はそれを防ぐものですが、ゴミがつまりやすいので、定期的に清掃するか、取り替える必要があるものです。」と言う。なるほどと、納得した。ついでに、もうかなり古くなっていたホースを取り替えてもらうことにした。全部が終わって、請求金額を見たら、9,800円とある。高いのか安いのか、わからない。ともかく、その場で支払って、お礼を言って送り出した。

 後から、アマゾンでその器具を調べてみた。すると、「因幡電工 消音防虫弁 おとめちゃん DHB−1416」、頒価543円とある、「おとめちゃん」とは、「音止め」のことだろうか、これはまた、可愛い名前を付けたものだ。エアコン排水ホースの方は、「カクダイ エアコン用ドレインホース 4380−3」、頒価532円で、合計の原価は、1,075円ではないか。それを9,800円とは、また高い工賃だったものだ。しかし、この連日30度を越す猛暑の中で、エアコンなしでは、熱中症で死にかねない。それを1時間あまりで片付けてくれたから、ありがたいと思うべきだろう。でも、次回からは、自分で簡単にやれそうだ。




(2017年7月8日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:41 | - | - | - |
いまどきの傷の手当て

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カラーの写真を見たい方は、こちら。ただしあまりお勧めはしない。



 最近の毎晩の仕事は、父の残してくれた古いアルバムの写真のデジタル化に取り組むことである。これを通じて、若い頃の父母や妹たち、それに私自身に出会うのは、時空を超えた感があって、実に楽しみだ。父は、こんなにマメに写真を整理して、この十数冊を残してくれた。感謝するほかない。

 最初、写真をアルバムに貼ったままで、そのデジタル化を行おうとしたが、それだと写真の退色補正や傷とカビの修復ができない。同じページにある写真でも、ひとつひとつの退色や傷付き具合が違うし、ページ全体が大き過ぎて、スキャナのサイズには合わないからだ。仕方がないので、各ページ全体のイメージは別途、写真に撮って保存し、個々の写真は、アルバムから剥がした後でスキャナにかけて画像を取り込むことにした。こうすると、画像を補正できるし、それをレタッチしていくことが容易だし、綺麗にした写真を再出力して新しいアルバムができるし、年代順や人物別に整理ができるなど、色々と都合が良いというわけだ。ただし、元のアルバムは失われる。それも、メリットを考えれば仕方がないと考えた。

 そういうことで、写真を剥がしていったアルバムは、もう5冊目に入った。剥がすときには、まず各ページの透明フィルムを取り、台紙と写真をむき出しにしてから剥がすのだが、アルバムの性能が良すぎて、写真をなかなか剥がせない。手ではどうやってもダメなので、フルーツナイフをへらのように使ってすることにした。最初は切れ味の鈍いものをということで、セラミック製のナイフを使っていた。ところが、4冊目の終わりまで来たところで、何とまあ、折れてしまった。余程の力が繰り返しかかったとみえる。そこで、今度は金属製のフルーツナイフを買ってきて、それで作業を続けて行った。これは切れ味がいいものだから、作業の効率は高まった。ただ、切れ過ぎるのは、問題だと思っていた。

 昨晩もそうやって、写真剥がしの作業を続けていて、午後9時になり、5冊目の半ばに差し掛かった。そのページの四隅の写真全部を剥がし終わって、残るは真ん中の写真だけだ。それが、強く付いていて、なかなか剥がれない。仕方がないので、左手を台紙の下へ置いて写真を少し浮かし、それで写真を削ぎ取ろうとした。ところが、うまく取れないので力を入れたら、写真だけでなく下の台紙を突き破って更にその下の私の左手人差し指にまで到達し、指の先が少し切れてしまった。

 最初は、血がなかなか止まらないので困ったが、指の根元の方を圧迫してしばらくするとやっと止まった。傷口をしげしげと見たら、先端に丸い皮ふの残骸があって、そこから下へ2センチほど半円形に切れているように見える。これは縫ってもらう必要があると思った。そこで、近くの外科医院に行こうと、東京都と救急相談センターに電話した。そうしたところ、切れ切れの聞きにくい機械の音声で、新宿百人町と羽田空港の診療所を告げられた。私の住んでいる文京区には夜間診療はないようだ。家内が、「そんな遠くに行くよりは、いつもの虎の門病院の方がいいのではないの?」と、傍らから言ってくれたので、それもそうだと思い直し、虎の門病院に電話した。ここなら、40分もかからなくて行ける。診察券は元々あるので電話すると話は早く、すぐに来て良いですよということになり、1人で行った。当直医師は、若い外科医のお兄さんで、説明の歯切れがよく、信頼に値する。これなら任せて大丈夫だ。手当てにとりかかる前に、水道水で患部を洗い流すと、2センチほど切れたと見えた半円形の部分は単なる血が流れた跡で、実は先端の丸く皮膚がえぐれたところが患部だとわかった。痛いのは、指の先端部分に、神経が集まっているからだそうだ。まさにそこをスパッと切ったというわけだ。

 では、その丸く皮膚がえぐれたところにひらひらと残っている蓋のようなもの(フラップ)を縫おうという話になり、その前に麻酔の注射をすることになった。患部の周りかと思ったら、そうではなくて、指の付け根だという。指の先端に麻酔を打つと、血流が悪くなって良くないそうだ。そこで、指の付け根に4ヶ所、麻酔を打たれた。ところが、その部分は確かに感覚がなくなるが、肝心の先端部分は、まだ痛いという知覚が残る。これはダメだと、更に4ヶ所ほど打って、ようやく先端まで痺れた。そこで、フラップを3針縫いつけてもらった。釣り針のような針に糸を通し、それを患部に縫い付けて、器用にクルクルと縛る。流れてくる血を拭いながらだから、それだけでも大変だ。やっと終わり、ワセリンかゲンタシン(化膿止め軟膏)のようなものを塗った。もう、血は止まっていたので、そのまま市販のバンドエイドで止めてもらった。こんな簡単な方法でよいのかと思うくらいだ。


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 医師の話によると「最近は消毒せず、怪我をしたところを水道水で洗い、汚れを落とす。それから清潔な、できれば市販の滅菌済のガーゼで水気を拭き、血が止まるまで手で押さえる。止血できたところでワセリンのような保湿剤を塗って乾かさないようにする。寝ている時などに傷口が何かにあたるといけないので、そういう場合は絆創膏で止めるといい。」という。確か以前、市販のラップにワセリンを塗って傷口に当て、絆創膏や包帯でそのラップを固定する。それは1日1回、取り換えるとよいと聞いたことがある。民間療法の類かと思っていたが、最近は医療現場もそうなってしまったようだ。更に昔は、白い泡の出るオキシドールや赤茶色のイソジン、更にその昔は赤チンなるものを塗って消毒したものだが、それはかえって治りを遅くし、しかも元のように綺麗には治らないことが多いそうだ。

 常識というのは時代によって異なることが多いが、これほど180度正反対にひっくり返ってしまうとは思わなかった。しかし、考えてみると、似たような例は枚挙にいとまがない。私の学生時代は、いくら暑い日であっても、運動中は絶対に水は飲むなと言われていたのに、今は逆で、なくなった水分を補給するためには水は飲まなければいけないものとされている。また、昔は日焼けをすると健康的な体になるといわれていて、日焼けが推奨されていたものだが、今は全く逆に日焼けをすると紫外線を浴びて身体に有害だと言われて外に出るときは長袖、襟元までカバーのある帽子をかぶり、日焼け止めを付けることが推奨されている。受験時は3当5落といって、3時間しか寝ないで勉強する人は合格し、5時間も寝ているようでは落ちるなどと、今から振り返ると馬鹿馬鹿しい言葉が流行った。しかし、そういう迷信のような考えの下でも、私のようにこの年まで生き残ってきたのだから、人間というものは、元々強くて、ちょっとやそっとの悪い環境でも十分に耐えられる身体を授かっているのかもしれない。




(2017年6月23日記)


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パンダの赤ちゃん誕生

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 上野動物園(東京都台東区)のジャイアントパンダの「シンシン」(11歳)が、2017年6月12日、待望の赤ちゃんを産んだ。父親は、雄の「リーリー」(11歳)である。ビデオによると、赤ちゃんは人間とそっくりの「ギャアー、ギャアー」という鳴き声を上げ、母親の身体の蔭から時折、ピンク色の身体をのぞかせている。それをシンシンは、体をなめたり、口でそっと咥えたり、お乳をあげたりして、甲斐甲斐しく世話している。

上野動物園のジャイアントパンダ情報サイト「UENO-PANDA.JP」より


 上野動物園では5年前にも、この2匹の間で雄の赤ちゃんが産まれたのだが、残念ながら6日目に肺炎で死んでしまった。そのときは、シンシンがまだ母親として不慣れだったようで、最初は一生懸命に育児していたものの、出産翌日に疲れて子供を抱くのをやめてしまったことから、動物園側が一時的に保育器で預かった。そしてシンシンが元気を取り戻したようなので、再び赤ちゃんをシンシンの元へ戻した直後の死亡だったようだ。

 今回の赤ちゃん誕生から7日目となった。母親シンシンは、出産後丸4日間ほど絶食状態で頑張ってきたが、ようやく16日夜になって好物の真竹を食べ始めたという。この調子なら前回の轍を踏むことなく、まず大丈夫だろうと言われている。よかった。


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 ところで、この慶事を祝って、上野動物園の周辺では大騒ぎである。動物園に父親の「リーリー」を見に来る人はもちろん、周辺の商店街で、記念メニューの販売やセールなどで盛り上がりをみせている。私と家内は、いつも家から20分ほど歩いて御徒町の之酘殴僉璽蕁爾膿事をすることが多いが、そこも例外ではない。昨日も行ってみたところ、「パンダ誕生記念メニュー」と名うってパフェやらパンケーキやらがあった。面白そうなので、パンダパフェを注文したところ、持ってきてくれたのが、冒頭の写真である。なかなか可愛いし、それだけでなく誠に美味しい。しかし、これで586キロカロリーもあるとは・・・せっかくダイエットに成功してリバウンドしないように気をつけているのだから、今晩の夕食は、軽くしよう。



(2017年6月19日記)


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