名古屋城の本丸御殿

名古屋城の本丸御殿


 私は、かつて名古屋城の本丸御殿の第1期復元工事を見学した。2015年12月23日のことである。残る復元工事は2018年6月に完成して、全面的に公開される運びとなった。このたび私も、遅ればせながらそれを見物させていただいた。以下は、前回のエッセイと合わせて読んでいただければと思う。

 今から振り替えると、私が見た第1期復元工事は「玄関」と「表書院」に過ぎなかった。入場時にいただいたパンフレットを引用させていただくと、

玄関 〜 美しい唐破風の奥に虎と豹がじっと睨む 〜

 本丸御殿を訪れた人がまず通され、対面を待つ殿舎。玄関と言っても、一之間(18畳)、二之間(28畳)の二部屋からなり、一之間は床や違棚もついており、四周の壁や襖には、竹林と虎や豹などが描かれた金地の障壁画「竹林豹虎図」が飾られています。


玄 関


玄 関


 確かに、金色の壁や襖地に獰猛な虎や豹が描かれ、その周囲に緑色の竹や白い滝が配されているのは、まさに豪華絢爛という表現がぴったりである。それと同時に、来訪者を精神的に威圧する役割もあるという。

表書院 〜 花鳥、麝香猫が彩る正式な謁見の間 〜

 正式な謁見(対面儀礼)に用いられた。本丸御殿内で一番広大な建物。上段之間(15畳)、一之間(24畳半)、二之間(24畳半)、三之間(39畳)、納戸之間(24畳)の五部屋からなり、江戸時代には広間と呼ばれていました。上段之間は徳川義直が着座した部屋で、床と違棚、付書院、帳台構といった正式の座敷飾りを備えています。


表書院


 床の間の金地に描かれた松の木が、とても素晴らしい。よくこんな造形を考えつくものだと感心する。さて、ここからが今回初めて目にするものである。

対面所 〜 身内だけが立ち入れる豪奢かつ私的な殿舎 〜

 藩主が身内や家臣との私的な対面や宴席に用いた建物。上段之間(18畳)、次之間(18畳半)、納戸一之間(24畳)、納戸二之間(24畳)、納戸之間(24畳)の四部屋からなり、上段之間と次之間の障壁画は「風俗図」と呼ばれ、京都や和歌山の四季の風物や名所がおだやかな筆致で描かれています。


対面所


対面所


 この部屋に来ると、それまでの豪華で公式な空間が、やさしく穏やかな和風の空間にいきなり変わってしまった。家族や側近との会合には、ちょうどよろしいサイズと雰囲気である。

上洛殿 〜 細部まで豪華絢爛、技術と贅の粋 〜

 1634年(寛永11年)の三代将軍家光の上洛に合わせて増築された建物で、上段之間(15畳)、一之間(18畳)、二之間(22畳)、三之間(21畳)、松之間(20畳)、納戸一之間(10畳)の六部屋からなります。襖絵・天井板絵や豪華絢爛な彫刻欄間、飾り金具等で彩られ、贅の限りを尽くしていました。王の正しい行いを描いた障壁画「帝鑑図」や「雪中梅竹鳥図」は、当時33歳の狩野探幽によるものです。


上洛殿


上洛殿


上洛殿


上洛殿


上洛殿


 これは、さすがに時の徳川将軍向けに特に造った建物であるだけに、豪華絢爛という言葉ではとても言い尽くせないほどの格式の高さと豪華な装飾である。絵の題材も、王の正しい有り様を描いたものにするなど、選び抜いているし、全体の色も、金色ではなく白っぽいものにして気持ちが落ち着くように配慮している。また、天井も、格子の一つ一つに絵が描かれている。何よりも驚くのは、欄間が色付き彫刻となっているところだ。これは、初めてお目にかかった。

 なお、襖に赤い房が掛かっているのは、この裏側に武士を控えさせておいて、万が一、殿様に危害を加える不届き者が出てきた場合に備えていることを示すものだそうだ。

湯殿書院 〜 将軍が湯を愉しみ英気を養う寛ぎの空間 〜

 将軍専用の風呂場。現在のように湯船はなく、外にある釜で湯を沸かし、湯気を引き込むサウナ式風呂でした。浴室(湯殿)だけでなく、上段之間、一之間、二之間からなる格式高い書院造りの殿舎です。

黒木書院 〜 質の高い松材を用いた落ち着きの空間 〜

 本丸御殿のほかの部屋は総檜造りであったのに対し、この部屋には良質な松材が用いられ、その用材の色から黒木書院と呼ばれるようになりました。落ち着いた風情のある黒木書院の襖絵には、風格のある水墨画が配されています。清須城内にあった家康の宿舎を移築した殿舎とも伝えられています。


黒木書院


 確かに、特に装飾に凝ったところはなく、実用本位の造りである。また、あちこちはある飾り金具がなかなか素晴らしい。

飾り金具


 ということで、本丸御殿の見物は終わった。次は、河村たかし名古屋市長が言い出した木造天守閣の復元である。聞いたところによると、3つの難題がある。

 第1は、建設資金の問題である。500億円とも600億円とも言われる。その三分の一は名古屋市、三分の一は文化庁の補助金、残りは市民などからの寄付を見込んでいるそうだが、戦後間もない昭和34年に市民の大きな支持で今のコンクリート製の天守閣を再現するのに成功したことからすれば、何とかなるだろうと思われる。私も、多少は寄与したいと考えている。

 第2は、文化庁が、名古屋城の石垣が崩れかかっているから、そちらの方の手当が先ではないかという疑問を呈していることで、なかなか復元に向けての話が進んでいないそうだ。ただ、今の天守閣を鉄筋コンクリートで再建した時に、この石垣には荷重を掛けられないので、コンクリート製のパイルを打ち込み、その上に天守閣を載せている。そうしたことから、目に見えない部分で対応するしかないし、表の石垣そのものも、早晩積み直しをする必要があると思われる。

 第3は、障害者団体から、復元する天守閣にはエレベーターを付けて障害者が見学するのに安全かつ支障のないようにしてほしいとの要望が出ていることだそうだ。もちろん、天守閣ができた400年前にはそんなものあるはずがないし、付けてしまえば「復元」とはいえないと、関係者は頭を抱えているという。どちらも、もっともではある。話し合いは膠着状態にあるようだ。私は、江戸時代の図面通りに木造で正確に復元する以上、天守閣内部にエレベーターを設置することは全く無理だとは思うが、それに代わる新技術が出てくるのではないかと、密かに期待している。

 一例として、昔の攻城戦に使われたような櫓はどうだろう。普段は折り畳み式で天守閣の脇に格納しておく。そして、見学したいという障害者の方がおいでになったら、その櫓を天守閣に横付けし、するするとパイプを上に伸ばしていく。そのてっぺんが例えば第三層目に達したら止まり、エレベーターでお客さんを運ぶ。そこから真横にまたパイプが伸びていって、お客さんはその中を安全に通り抜けて天守閣に入るというものだ。しかし、開発にかなりお金がかかるかもしれない。

 あるいは、エレベーターなどにこだわらず、手っ取り早い方法は、天守閣の横に大きなショベルカーを置いておくことだ。お客さんが来たら、そのショベル部分に乗ってもらい、そのままショベルを天守閣に直接運ぶというのは、どうだろう。案外、受けるかもしれない。普段から置いておくとお金がかかるので、月に1回、優待デーを設けて、その日だけショベルカーをレンタルすれば、意外と安く収まると思う。まだ時間はあるので、名古屋人らしく、知恵を働かしていただきたい。






 名古屋城の本丸御殿(写 真)






(2020年 2月14日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:55 | - | - | - |
台湾への旅

九份の阿妹茶酒樓


1.ツアーに乗る

 昨2019年の秋、旅行会社から送られてきたパンフレットの中に、旧正月の終わりに台湾で催される「ランタン祭り」を見物に行くツアーがあった。そういえば、私は台湾で飛行機を乗り換えたことはあるが、まだ泊まったことはない。では、外国訪問34ヶ国目として行ってみるかという気になった。

 たった4日間という短い日程であるが、1月末から中国の武漢で始まった新型コロナ・ウィルスがどんどんと拡がりをみせ、中国本土では武漢のある湖北省を中心にかつてのSARSを上回る患者数と死者数を出し、世界各地にもそれが伝播しつつある。こんな時に行くのもどうかと思わないわけではなかったが、台湾は日本と同じ程度の10人にも満たないわずかな患者数だったので、感染の拡大はまだかなり限定的だと思って、行くことにした。

 羽田空港を朝8時頃に出発し、11時に台北に到着した。時差は1時間なので、4時間のフライトだ。初めて中華航空に乗ったが、座席がやや狭く、ビデオの画面も小さいこと以外は、まあ普通のフライトである。出発前に、搭乗口の脇で機長がクルー全員を集めて訓示をしている。なかなか微笑ましくてよろしい。信頼できる気がする。

 台北に到着したのは、桃園空港ではなく、松山空港だった。そこから台中まで、いきなり2時間半のバスの旅である。バスは2階建の仕様で、とっても眺めが良い。しかもゆったりしている。一行の人数は19人だから、ますます余裕がある。どこに座っても良いというので、先頭の席に座った。ガイドは、邱勝鶴という現地の人で、キュウさんと呼んでくれという。なかなか、親切な人で、好感を持った。


2.台湾の地理

 ガイドさんの受け売りであるが、まずは台湾の地理を紐解きたい。アジアプレートとフィリピン海プレートがぶつかって海底が隆起したのが台湾である。そのせいで、3000m級の山が100もある。一番高い山が、3,952mの新高山(ニイタカヤマ)である。真珠湾攻撃の暗号に使われた。今は、名前が変わって「玉山」という。台湾の人口は、2,300万人(中国は、14億人)で、出生率1.2%と、一人っ子が多い。少数民族は、16族いて、中には、アローハと挨拶する民族もある。ハワイと同じだ。だから、この人たちがポリネシア系であるのは間違いないが、昔むかしの人類がアフリカから発して台湾に渡り、それがハワイやポリネシアに渡って行ったのか、それとも戻ってきたのか、未だ解明されていない。

 先日、NHKのイースター島の番組を観ていたら、イースター島の開祖は海を渡ってきた人々で、それもアウトリガーという小舟の片側や両側に取り付けてこれを安定させる装置を備えていた。それと同じアウトリガーを持つ太平洋の種族を追跡すると、まずフィリピンに見つかった。次に、台湾の原住民にもいた。だから、これらの種族とご先祖が繋がっているのではないかということを説明していた。


3.台湾の歴史

 12世紀までに既に台湾に住んでいた原住民はポリネシア系の民族であることがわかっていて、現在の少数民族の一つである。そのうち、17世紀にオランダ人がやってきてこの地に城を築き、長崎や平戸を通じて日本と交易を行った。このオランダ統治時代は、38年間で終わった。というのは、広東省から鄭成功がやってきてオランダ人を追い払ったからである。

 鄭成功の母親は、平戸出身の田川姓の人で、父親は福建省出身の海賊である。鄭成功は幼名を福松といい、7歳まで日本で育ったが、母親と福建省の父親の下に移り住んだ。当時、清朝が明朝を滅ぼそうとしていた頃で、鄭成功は実力があったので若くして将軍となり、明朝を自ら復興するという夢を抱いて台湾に渡り、そこで当時の支配者だったオランダと一戦を交えて勝ち、その勢力を駆逐したというわけである。ところが、鄭成功は台湾に来て間もなく、疫病に罹って39歳で亡くなった。その息子は清朝と戦ってあえなく負けたので、台湾における鄭一家の支配は、わずか21年間で終了した。

 それからは、台湾は清朝の支配の下に長く置かれたが、清朝にとって台湾の住民は、あくまでも「化外の民」に過ぎなかった。1895年の日清戦争終結時の下関条約で、台湾は日本に割譲された。それから50年間の日本統治時代が始まる。1945年の太平洋戦争の終結後、国共内戦に敗れた蒋介石が台湾に逃れて来た。孫文が1912年(大正元年)に中華民国を建て、蒋介石はそれを引き継いだ形で、中華民国は、今年で109年目となる。


4.台中を観光(第1日目)

(1)宝覚禅寺

 そういうわけで、空港から台中まで2時間半も長いの道のりである。朝が早かったから途中でぐっすりと寝入ってしまった。気がついてみると、バスには誰もいない。宝覚禅寺(バオジュエスィ)に全員が行ってしまって置いてきぼりという情けない状態だ。慌てて追いかけると、建物の前でガイドさんが説明をしている。


宝覚禅寺


 こちらは、日本統治時代に建立された臨済宗の妙心寺派のお寺で、本堂の隣には、高さ33mの黄金色の・・・これは、どなたかな・・・仏様というよりは、大黒天・布袋様のように見受けられる。それが、いかにも柔和な表情をして座っておられる。青空と金色と楽しげな表情の組み合わせがとても良い。しかも、台座には「皆大歓喜」と書いてある。何だかわからないが、ともかくめでたい仏像だ。

 その他、境内には、この地で亡くなった日本人の墓碑があり、更には太平洋戦争で亡くなった台湾の若者の記念碑がある。聞き違いでなければ、この戦争で亡くなった台湾の若者の数は、3,000人だという。この戦争がなければ、散るはずのない命だった。深く哀悼の意を表したい。


(2)彩虹眷村

 次の彩虹眷村(ツァイホン ヂュェンツン)は、広大な荒れ地の脇にひっそりとある平凡な軍人宿舎が、「虹の村」として生まれ変わったものである。昔々、国共内戦で敗退してきた蒋介石将軍に、20歳で従ってきた軍人の若者、黄永阜さんが、退役後にこの村の宿舎で日々を過ごした。あまりに暇なので、ペンキを使って色鮮やかな素人絵を描き出した。それが評判に評判を呼んで、今では観光客が押し寄せる一大観光地となった由。ご本人は、御年98歳となったが、健在だそうだ。


彩虹眷村


彩虹眷村



(3)台中ランタン祭り

 それから、台中ランタン祭りに向かう。この開催地は毎年変わり、審査の結果で決定されるという。今年は台中市で、過去5年間で2回目、今回は「光り輝く台中」をテーマにしている。2月初旬から約2週間にわたって開催される。

 現地に着いてみると、暗い中を、后里花博会場まで延々と20分も歩かされた。そしてようやく、「光の樹」と会場のメイン・ステージに到着した。ステージでは、次々とバンドが出てきて、歌を披露する。結構盛り上がっていて、それは誠に結構なことだ。中には日本の歌謡曲もあり、そういう歌は懐かしいには懐かしいが、こんな暑いところで「津軽海峡 冬景色」とやられると、いささか場違いな感がしないわけでもない。


台中ランタン祭り


台中ランタン祭り


 今回の台中ランタンフェスティバルのシンボルとなっている「光の樹」というのは、太い幹のある大きな木で、上には葉のような花のようなものがたくさん付いており、それらが色とりどりに光っては、消え、また光る。時には、ショーと称して音楽に合わせて色が変わったり、グラデーションになったり、あるいは一斉に消えたりと、何やらそれらしくやっている。今はやりのコンピューター制御のエレクトリック・ショーなのだろうが、面白いかといえば、なかなか面白い。でも、制作者の意図がどこまで観客に伝わっているかは、よくわからない。愛知万博のときの、モリゾーくんのごとくである。

台中ランタン祭り「光の樹」


台中ランタン祭り「光の樹」


台中ランタン祭りの舞台


 もらったパンフレットによると、「『森生守護(森林の生態系保護)〜光の樹は、一粒の種子から大きく成長した大木です。種子の精霊が満月・朝日と化し、台湾のエネルギーの年輪の上を廻ります。22本の光の幹は県や市、368個のつぼみは郷や鎭、2359枚の木の葉は人々を表し、チョウが飛び交い、台湾固有種のミミジロチメドリも枝の上で囀り合います。『森生守護(森林の生態系保護)〜光の樹には台湾が団結し、円満に、豊かになっていくよう願いが込められています。」という。うーん、いかにも官の文章で、しかも意味づけに苦労している様子が伝わってくる。

台中ランタン祭り


台中ランタン祭り


台中ランタン祭り


台中ランタン祭り


 そのほか、舞台と光の樹の周りには、数多くの光るランタンが展示されている。例えば、白くて丸い大きな球体は、先ほどの官製パンフレットでは、「長い昼の心」つまり「開花の音に耳を澄ます永晝之心」ときた・・・意味がさっぱりで、よく分からない。まあ、それはともかく、虚心坦懐に眺めると、丸い球体の表面には白い光がキラキラ流れて星空のようで、美しい。次の伝統的なサブランタン「爵士好鼠喜迎親(ジャズ音楽とネズミの嫁入り)は、子供心あふれる奇想天外な発想で・・・」とあるが、これまた不可思議だ。まあ、これらは、要するに近代的な中国漫画である。昼間に文武廟を見た目には、ああいう三国志的な青森ねぶた風の展示を期待していたのに、すっかりディズニー風のものばかりなので、いささか拍子抜けした。

台中ランタン祭り


台中ランタン祭り


 なお、会場を丹念に見て行くと、何と、日本の都市の観光宣伝のコーナーがあった。例えば、名古屋城がドーンとあってその勇姿を見せているし、熊本のくまモンもいたし。北海道はもちろん。ああ佐賀もある。その脇には、なんとまぁ、弘前ねぷたの現物まである。確かにこれは、格好の宣伝の場なのかもしれない。日本の地方自治体も、観光客の誘致になかなか積極的になったもので、大いに結構なことである。


5.台中から台南へ(第2日目)

(1)日 月 譚

 日月譚(リーユエタン)は、海抜700mにある最深部30mの湖で、地図を見ると、上半分が丸くて、下半分が三日月のように見えることから、このように名付けられたという。日と月を合わせて、別名「明譚」とも言われる。行ってみると、なるほどこれは風光明媚な地である。とりわけこの日は、曇天だったために、突き出した半島が南画を思わせる風景画のようだった。晴天だったら、また別の風景が現れることだろう。


日月譚(リーユエタン)


日月譚(リーユエタン)


 この湖の近くに日本統治時代の1932年に烏山頭ダムという水利ダムが完成し、台湾の水利に大いに貢献した。このダムを設計したのは、石川県出身の八田與一(よいち)という若い技師で、青春の30年間を台湾で過ごした。嘉南平原を潤して米作ができるようにと、この水利計画を発案してダムを設計し、その工事を監督した。今でも、台湾では恩人と称えられている。ところが、1942年の戦争中、日本からフィリピンの灌漑調査のために現地へ派遣されることになり、宇品港から船に乗った。ところがその船は五島列島沖でアメリカの潜水艦に撃沈され、乗客800人中300人が亡くなった。その一人が八田與一である。その3年後、台湾からの邦人引き揚げが命じられた八田夫人は、精神の支えを失い、このダムで自殺したという悲劇があったそうだ。

 1999年9月21日の深夜2時、マグニチュード7.2という台湾大地震が起こった。日月譚の近くの「集集」が震源地である。湖畔北部にある観光スポットの「文武廟」も大きな揺れで倒壊し、通路には大きなヒビが入った。行ってみると、現在は美しく再建されていた。

(2)文 武 廟


日月譚の湖に面する廟門


 その文武廟(ウンウーミャオ)は、1932年の建立、1975年の再建、台湾大地震の後の再度の再建に係る巨大な建造物で、まるで日月潭を睥睨するように建っている。まず、湖に面して廟門があり、階段を登ってそれをくぐると、正面には前殿、その両脇には赤色に塗られた巨大な獅子が置かれている。いわば、日本の神社の狛犬、沖縄のシーサーのようなものだが、その大きさといい、迫力といい、とってもその比ではない。前殿には文武廟の「文」つまり文人の神様である孔子が祀ってあり、中殿には「武」の武人の神様である岳飛や関羽が祀ってある。前殿と中殿との間には、見事な九頭の龍の彫刻が置かれている。更にその先には、後殿がある。

文武廟(ウンウーミャオ)


文武廟(ウンウーミャオ)


文武廟(ウンウーミャオ)


 うわぁ、これは何だ。真っ青な仏様が座っている。しかも、胸には、「卍」のマークが光っている。神々しいを通り越して、いささか不気味な色感覚である。これには、驚いたとしか言いようがない。その次に見た、アイボリー色の仙人の像の方が、はるかにしっくりくる。

文武廟(ウンウーミャオ)


文武廟(ウンウーミャオ)


 文武廟から出て階段を降りてきて、改めて日月潭全体の眺望を楽しもうと展望台に立ったが、あいにくこの日は曇天で、遠くまで見渡すことが出来なかった。その近くで、少数民族が民族衣装を着て、歌を歌い、音楽を奏でていた。時間があれば、それを聴いて何がしかのドネーションをしようかと思っていたが、何しろ時間に追われるツアーなので、それもかなわなかった。

文武廟で少数民族が民族衣装を着て、歌を歌い、音楽を奏でていた


(3)蒸し料理の店「捕里四季蒸宴」と土産物屋

 文武廟を出発し、台中市内へと向かう。お昼は、「捕里四季蒸宴」(「捕」は手偏)という店の蒸し料理である。丸テーブルの真ん中に大きな三角錐のような容器が鎮座していて、その真ん中から盛んに蒸気が吹き出している。その中に、目指す食べ物があるらしいが、全く想像もつかない。そもそも、この大きな容器をどうやって持ち上げるのかと疑問に思うところだ。


捕里四季蒸宴


捕里四季蒸宴


捕里四季蒸宴


捕里四季蒸宴


 やがて、係員がステンレスの棒を持ってやってきて、疑問が解消した。その棒の真ん中の穴を蒸気の吹き出し口の溝に当て、それをグルグルと回して固定して、容器を持ち上げるということだ。開けてみると、そこには色々な食べ物が蒸された状態で現れた。食べてみると、こんな美味しいものはない。パクパクと平らげた。ちなみに、デザートはパッションフルーツのチアシードだった。

 ガイドさんが、盛んに「日本統治時代に岡本洋八郎という偉い先生がいて、台湾全土をくまなく調査して、地質図を作成した。そのとき、北斗温泉ラジウムを発見し、北斗石なるものを見つけた。これは、日本では秋田県の玉川温泉でしか見つかっていない貴重なもので、身につけると血行促進、冷え性や貧血の解消その他もろもろの健康増進効果がある。」などという。

 それから、土産物屋に連れて行かれて、同じ売り口上を聞かされるものだから、ツアー客のおばさま方が群がって、5万円とか10万円という高額のネックレスやらプレスレットを買わされている。こんな売り方は、日本では薬事法違反だと思うのだが、こういう販売方法に慣れていない日本人は、コロリと騙される。(なお、薬事法は名前が変わって「医薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律」となっている。)

(4)赤 嵌 楼


赤嵌楼(チーカンロウ)


赤嵌楼(チーカンロウ)


赤嵌楼(チーカンロウ)


赤嵌楼(チーカンロウ)


 午後は、台南市へ行った。まずは、赤嵌楼(チーカンロウ)で、台湾最古の歴史的建造物である。オランダが統治していた1652年に、「プロデンティア城」として築かれた。これは、オランダ語で永遠を意味するそうだ。当時のものは、煉瓦造りの基礎の一部としてしか残っていないが、入ってみると、前庭の美しい芝生は大きく掘り起こされて、文化財発掘の最中だった。

赤嵌楼(チーカンロウ)


赤嵌楼(チーカンロウ)


 確かに、お城のような土台の上に、中国風のきらびやかな建物と屋根が載っているという落ち着いたレトロな空間である。土台の前には、幾つかのほそ長い石板が並んでいると思ったら、清朝の時代に功績を称えた記念碑のようだ。でも、表に刻まれた文字は、既に風化して読めなくなっている。

(5)延平郡王祠

 次は、延平郡王祠に行った。これは、上記3.で述べた鄭成功を祀る祠で、台湾の実質的な開祖として今でも人々から尊敬されている。庭の一画に、馬に乗った鄭成功の大きな白い像がある。まさに、勇士の勇姿である。庭の木は綺麗に刈り込まれていて、龍が金の玉に向けて噴水を出している。


延平郡王祠


延平郡王祠


延平郡王祠


馬に乗った鄭成功の大きな白い像


 正殿は、緑色の屋根に朱色の柱が続く回廊に囲まれ、その正面上部の扁額には「明延平王」という文字の書かれている。奥には、鄭成功の像があるらしい。延平郡王祠の隣には、媽祖を祀った中国式お寺があった。

(6)六合夜市


六合夜市(リオフーイエシー)


六合夜市(リオフーイエシー)


六合夜市(リオフーイエシー)


 高雄市に、六合夜市(リオフーイエシー)というものがある。昼間は普通の道路であるが、夜になると通行止めになって、道路の両脇に屋台が出る夜市(よいち)つまりナイト・マーケットである。道路の上に中国風のボンボリが飾られ、雰囲気は良い。8割方が食べ物屋さんで、例えば、臭豆腐、海鮮粥、水餃子、酸辣湯(サンラータン)、焼きトウモロコシなどと、美味しそうなものが並ぶ。実は私は、屋台では絶対に食べないことにしている。食中毒になっても文句の言いようがないし、とりわけB型肝炎になるのを警戒しているからだ。とは言え、よい香りを嗅ぎながら傍らを過ぎるのも、なかなか辛いものがある。

六合夜市(リオフーイエシー)


六合夜市(リオフーイエシー)


六合夜市(リオフーイエシー)


 ガイドさんは、「夜市で買わない方がいいよ。食べ物なんてどこでいつ誰が作ったか、何にも書いてない。また、衣料は直ぐに色落ちする。赤いTシャツを買ったつもりが、一回洗うとピンクになる。もう一回洗うと、白くなる。ラコステの鰐なんて、一回洗うと、顔がどちらを向いているのか分からなくなる。」などと笑いをとっていた。

(7)一口知識

 一口知識であるが、中国語で「酒店」も「飯店」もホテルのことだが、「酒店」は華僑系、「飯店」は、台湾資本のものをいう。また、最近の預金利子は年1.2%と聞いて、「良いなぁ」という声が上がる。

 また、市内によく植えられている普通の椰子は、高いところに椰子の実が生って、それが落下して人の頭に当たったら危険である。だから、椰子の木を街路樹にするときは、その実を予め除去するか、あるいはあのような硬くて大きい実を付けない「徳利椰子」を植えるかしているそうだ。徳利椰子は、幹が太いので、一見して直ぐにわかる。


6.新幹線で台北へ(第3日目)

(1)「乳」か「精」か

 台南市のホテルに泊まった。バスルームに入って、さあ身体を洗おうとしてシャンプーを探すと「洗髪乳」というのがある。これは「shampoo」かなと思ったら、やはりそうだった。その隣に「調髪乳」というのがある。これって「treatment」かと思って見ると、その通りだ。それでは「身体を洗う石鹸」はというと、「沐浴乳」とある。なるほど、「body shampoo」の中国語訳だ。日本と同じ漢字圏だから、わからないわけではないが、感覚が微妙に違って、とても面白い。それにしても、トロリと出てくる白っぽい液体を「乳」とは、言い得て妙ではある。


洗髪乳、調髪乳、沐浴乳


 ところで、翌日泊まったホテルでは、「乳」の代わりに「精」の字が使われていて、「洗髪精」、「沐浴精」とあった。そういえば、前日のホテルではいずれも液体は白っぽいものだったが、こちらは緑色だったり、青色だったりしたから、それで「乳」とは言えなかったのだろうと推察する。

(2)寿山公園

 寿山国家自然公園は高台にある景勝地である。そこから見下ろすと、高雄港や高雄市内を一望の下に収めることができて、素晴らしい。ここにも忠烈祠(ジョンリエツー)がある。これは、日本の靖国神社に相当するもので、辛亥革命や抗日戦争などで殉難した33万人の英霊を祀る施設である。


寿山国家自然公園


寿山国家自然公園


寿山国家自然公園


寿山国家自然公園


(3)蓮 池 譚

 蓮池譚(レンチンタン)は、要は蓮池であるが、「龍虎塔」という二つの中国式の塔とその入口である龍と虎のカラフルな像には驚かされる。いや、いかにも中国だと思って自然に笑えてくるから、楽しい。


蓮池譚(レンチンタン)


蓮池譚(レンチンタン)


蓮池譚(レンチンタン)


蓮池譚(レンチンタン)


 まず、龍の口から入って、塔から塔へと移り、そして虎の口から出てくるようにと言われる。郷に入っては郷に従えだ。まず龍の口からその体内に入って左の塔の階段を登っていく。徐々に高さがあがり、それにつれて眺めがよくなる。最上階の6階にたどり着くと、不忍池の弁天堂を想起させる池の真ん中の堂「五里亭」がなかなかよろしい。

蓮池譚(レンチンタン)


蓮池譚(レンチンタン)


蓮池譚(レンチンタン)


蓮池譚(レンチンタン)


蓮池譚(レンチンタン)


(4)台湾新幹線

 台湾新幹線は、李登輝総統のとき、日本の新幹線を導入した。「台湾高鉄」で、北にある首都の台北(人口360万人)と、南にある台湾の古都の高雄(同300万人)の左営駅を短いと1時間45分、長いと2時間25分で結ぶ。車両は日本の新幹線そのものだが、外見は白地にオレンジ色の線が引かれている。駅には日本式の駅弁まである。だから、日本人には馴染みがある。


台湾高鉄


台湾高鉄


台湾高鉄


(5)十分で天燈上げ

 十分(シーフェン)に着いた。バスを降りて川を渡り、坂を登っていく。ここまでは、日本の白川郷に入るのと同じだ。すると、両脇に商店街が立ち並ぶ狭い通りに出る。驚いたことに、その狭い通りの真ん中に線路が走っているではないか。奇妙なことに、その線路に大勢の人が群れて、赤色や白地のビニール袋を囲んで記念撮影をしている。一体全体、何だこれはと思っているうちに、警笛が鳴って人々が一斉に線路から待避をする。そうすると、電車が結構なスピードで走り抜けて行った。


十分(シーフェン)


十分(シーフェン)


十分(シーフェン)


 我々のガイドは、それには一切構わずに、ある一軒の店に入って行った。それには、「天燈上げ」と書かれていた。どんどん奥に進むと、向かいは川、その向こうは山というロケーションで、1.5mX1mの赤色のビニール袋に、何か願い事を書けと言われる。例えば、「家内安全、全員健康、氏名祈願」などと書くと、それを持って記念写真を撮る。そうすると、ビニール袋の口に火が付けられ、手を離すとそれが熱気球となって大空に飛ぶという仕掛けである。我々のは、まあ、店の裏口から河原に向けて天燈を放つというものだったが、これを線路に面している店だと、その線路の中に入って、嬉々として上げるという風景は、これはかなりシュールである。その線路から上げている中に、日本人の女の子2人組がいた。その書いている内容たるや、「元気が一番」、「好きな人と一緒に」、「今よりもっと金が欲しい」などと、かなり現実的で、笑ってしまった。

十分(天燈上げ)


十分(天燈上げ)


十分(天燈上げ)


十分(天燈上げ)


十分(天燈上げ)


十分(天燈上げ)


十分(天燈上げ)


 ガイドさんによれば、元々は春節(旧正月)だけの行事だったものが、観光として定着して、年がら年中やっているらしい。天燈は、おそよ千メートルまで上がった後、燃料が尽きるから落ちてくるとのこと。丸い金属製の枠と、周りの竹ひごを回収してまわる専門の業者がいるとのこと。ただし、最近は天燈が民家に落下して、火災を起こすという事故が起きているとのこと。

(6)九份の阿妹茶酒樓



九份


九份


九份


九份


九份


 九份は、元々9軒の家しかなくて、はるか麓の村へ買い出しに行ったものを持って帰って分けるというので、「九分割」という意味の名前が付いた。それが日本統治時代に金鉱山として栄えたものの、戦後しばらくして閉山になった。その後、忘れられた町となっていたが、1989年に映画『悲情城市』のロケ地となってから、日本統治時代のまま時間が止まったようなレトロな街並みが評判になり、大勢観光客が押し寄せることになった。また、日本のアニメである「千と千尋の神隠し」の湯婆ばの湯屋のヒントにもなったとの噂が立ち、以来、日本人観光客の間にも有名になったという(ただし、スタジオジブリは否定している由)。

九份の阿妹茶酒樓


九份の阿妹茶酒樓


九份の阿妹茶酒樓


九份の阿妹茶酒樓


九份の阿妹茶酒樓


九份の阿妹茶酒樓


九份の阿妹茶酒樓


 九份へは、まだ明るい午後5時半ごろに着いた。細い登り階段を延々と登っていく。そのときは、まるで大山詣での参道だと思った。登り道の途中には、よく絵葉書に描かれている阿妹茶酒樓があるが、明るい時には、眺めてもさほどの感慨はなかったものの、午後6時を過ぎた頃に改めて眺めると、暗い中に中国風の赤いぼんぼりが灯って素晴らしく美しい。これまで見た夜景の中で、一番綺麗だと感激してしまった。また、海の方(おそらく、基隆港)を観ると、夕闇に霞がたなびき、その間に灯りが瞬いて、これまた天下の景勝である。

九份の阿妹茶酒樓


九份の阿妹茶酒樓


九份の阿妹茶酒樓


九份の阿妹茶酒樓


九份の阿妹茶酒樓




7.台北を観光(第4日目)

(1)忠 烈 祠

 忠烈祠(ジョンリエツー)は、日本の靖国神社に相当するもので、辛亥革命や抗日戦争などで殉難した33万人の英霊を祀る国の施設である。


圓山大飯店


忠烈祠(ジョンリエツー)


忠烈祠(ジョンリエツー)


 朝一番の衛兵交代に合わせて行ってみた。まずは正面玄関の両脇に立つ衛兵が交代した後、そこから正面のお堂に向けて、指揮官が先頭に雁行型で7人が行進をしていく。そして、お堂の入口の両脇に立つ衛兵を置いて、また戻ってくる。衛兵は皆、背が高く、まるで機械仕掛けのロボットのような独特の動きで歩き、儀礼銃を操り、向かい合って所定の動作を繰り返す。一糸乱れず、見事な動きである。感心した。なお、半年ごとに陸海空軍が交代して行うようで、今回は制服が青色なので、空軍だそうだ。ちなみに、陸軍は濃緑、海軍は夏は白色、冬は黒色だという。

忠烈祠(衛兵交代)


忠烈祠(衛兵交代)


忠烈祠(衛兵交代)


忠烈祠(ジョンリエツー)


忠烈祠(ジョンリエツー)


(2)故宮博物院

故宮博物院


 いよいよ、期待していた故宮博物院である。蒋介石が国共内戦下で何とか台湾に持ち出した、中国歴代王朝の69万点にも及ぶ至宝が展示されている。先ずは「翠玉白菜」をめざしたものの、これは他に貸し出し中ということで、残念ながら見られなかった。これは、上は緑色、下は白色の翡翠を白菜に模して加工したもので、葉の部分にはキリギリスとイナゴが彫られ、多産と子孫繁栄を願うという。清の光緒帝の后の嫁入道具として持ち込まれたとのこと。

故宮博物院・翠玉白菜


故宮博物院・肉形石


 次に目指したのが「肉形石」である。これは、まるで客家料理の豚肉の角煮「東坡肉」と驚く程にそっくりで、いやもう、これは凄いと呆れるばかりだ。清の雍正帝の寝宮に置かれていたものだという。皮や脂身など、本物そっくりで、よくもまあこんな造形を考えつくものだと感心する。

<故宮博物院・象牙透彫雲龍文套球


 清の「象牙透彫雲龍文套球」には、これまたびっくりした。親子三代にわたる職人が百年の長きに渡って営々と1本の象牙から彫り上げた多層から成る球体である。握り拳第の球の表層には精巧な9匹の龍の彫刻が彫られている。しかもその中には透かし彫りの文様が施された24層の球体があり、各層それぞれ自由に回転させることができるという。現代の3Dの技術をもってしても、再現はできないだろう。

故宮博物院


故宮博物院


故宮博物院


故宮博物院


故宮博物院


(3)中正紀念堂

 中正紀念堂は、中華民国の初代総統である「蒋介石」を偲ぶために建てられた。建物の入口を入ると、直ぐに蒋介石の巨大な座像がある。その脇から中に入ると、蒋介石と夫人の宋美齢(宋家三姉妹の三女)に関する写真や車のキャデラックなどが並べられている。また、蒋介石の執務室をそのまま再現した部屋まであり、その中に蒋介石の実物大の人形まであるのには、驚かされる。しかもこの人形は、じつによくできていて、横から見ると、微かな微笑みまで見受けられる。


中正紀念堂


中正紀念堂


中正紀念堂


 総統府の前をバスで通り過ぎたが、さすがにここは外観だけで、中までは見学できないそうだ。

(4)龍 山 寺


龍 山 寺


 龍山寺は、庶民のお寺という感じで、関羽などの武将をはじめ、媽祖神、縁結びの神様など、なんでもござれである。少し前までは、こういう中国式のお寺には、線香の煙がもうもうと立ち込めていて閉口したが、最近は環境汚染を気にして、あまり線香を置かなくなってきたという。また、お供え物も、持って帰るということにしたらしい。


8.台湾旅行の感想

 鄭成功が中国人と日本人の間の子であること、八田與一技師の業績、李登輝元総統、日本の新幹線の導入など、台湾の人たちの日本に対する親しみは、予想以上のものがあり、それを感じたことが、今回の旅の最大の収穫だったのかなという気がする。

  ところで、私の出発した頃は、まだ新型コロナウイルス問題は始まったばかりで、台湾はそのとき日本と同じく10人程度の患者数だったのに、既に厳戒態勢が引かれていた。マスクの着用は当然のことで、それだけでなくホテルやレストランに入るときには必ず消毒用アルコールをたっぷりと吹き付けられ、いちいち体温測定までされたのには驚いた。かつてのSARSのときに抑え込みに失敗して批判されただけに、鉄壁の構えだったといえる。それだけでなく、私が日本に帰り着いた数日後、台湾は日本とシンガポールを感染拡大国に指定して、日本人やシンガポールからの渡航者に対する検疫を強化するなど、徹底的にやっていた。

 それに比べて日本は、社会全体に心配する人は増えてはいるものの、手洗いを呼びかける程度で緊張感がほとんどなく、まともな対策が全く講じられていない。こんなに緩い雰囲気で大丈夫かと心配になるほどだ。これでは、感染の急拡大でパンデミックの事態になるのは時間の問題だという気がする。







 台湾への旅(写 真)



(2020年 2月 8日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:26 | - | - | - |
iPhone11 ProMaxへ機種変更

iPhone 11 ProMaxの表と裏


 ちょうど2年前に購入したiPhoneXの切り替え時期が来た。つまり、4年間の割賦で購入して2年経つと、残債は通信会社が負担して(ただし、iPhoneXは返却する。)、新しいiPhoneに切り替える契約だ。そこで、どのiPhoneにするか、三択となる。(1) iPhone 11 、(2) iPhone 11 Pro、(3) iPhone 11 ProMaxだ。大きな違いは、カメラで、(1) は超広角と広角で2つ目、(2)と(3) は超広角と広角と望遠で3つ目だ。それなら、より様々な写真が撮れる(2)と(3) に決まりだ。(3)は(2)よりひと回り大きいので、見やすい。だから、(3)にしよう。容量は、最大のものは512GBがある、ところが、今のiPhoneXの256GBでもかなり余っているので、その256GBを選択することにした。 Apple社のサイトには、次のような説明があった。

「iPhone 11 Proのトリプルカメラシステムには、プロレベルのポートレートが撮れる望遠レンズも搭載。野生動物やスポーツイベントでの選手のような、遠くにある被写体にもズームインできます。

 iPhoneで最高のディスプレイ。Appleが作ったものの中で最もシャープなディスプレイです。日光の中でもより明るく、真の黒を再現し、火のような明るい部分でもさらに細かなディテールをとらえるのでHDRムービーに最適です。

 iPhone 11 Proの液体に対する強さはiPhone 11同様。そのうえ耐水性能は2倍。最大水深4メートルで30分間です。

 iPhone 11と同じ頑丈なガラスを採用。背面には洗練された質感があるマット仕上げを施しました。医療に使われているものと同じグレードの、研磨されたステンレススチールと組み合わせています。」


 そういうことで、iPhone 11 ProMax 256GBに決めたので、歩いて上野のauショップに行った。最初、上野広小路のauに行ったら、在庫がないといわれた。いつ入るのかと聞くと、2週間後だという。それでは話にならないので、では、他のauに行こうとすると、「向かいのビルにあります。」と案内された。野村證券やJTBの並びで、以前、TSUTAYAが入っていたビルの2階に新しくau直営店ができたらしい。できたばかりなので看板もなく、店への入り方が非常に分かりにくいが、要は正面の喫茶店から入って階段を上ればよい。

 そこで、手続をしてもらった。私は、自分と家内の2台のiPhone、自分のiPad、それにiWatchを使っていて、まず全部の契約を確かめる。今回は、自分の「iPhoneX 256GB」を「iPhone 11 ProMax 256GB ゴールド」に切り替えるだけだ。同時に、使い方を洗い出して、プランを見直してみた。その結果、いささか細かいことになるが、主な契約内容を次に書き出していく。

1.プラン利用料
 (1)新auピタットプランN+通話定額(2年契約)2,680円(従前2.480円)
 (2)新auピタットプランNデータ(4GB以下)3,200円(従前4,720円)
2.Apple製品サービス
 (1)AppleCareなど 1,309円(変わらず。ただ、iCloudサービスが付いた。)
3.購入機器代金
 (1)3年契約 4,420円(従前は、4年契約 2,825円)
4.機種変更手数料 2,000円
__________________
【合計金額】
3ヶ月目から37ヶ月目まで 11,979円(従前は、11,286円)
38ヶ月目から48ヶ月目まで 7,559円

【端末代金】159,120円(3年分割)

 要は、693円分だけ支払いが増えてしまったが、購入機器代金の割賦支払期間を4年から3年にしたためで、通信プラン変更で合計を下げようとしたものの、補え切れなかったというわけだ。他方、家内に使ってもらっているiPhoneXRは、見直し前の4,755円から、5,685円まで・・・930円も上がってしまっている。通信プランを見直したのにこれはなぜかと聞いたら「スマホ応援割 1000円」というのが、昨年1月の購入から1年間付いていたのに、その期限が切れたそうだ。

 すると、二つのiPhoneで、見直し前の16,041円から、見直し後は17,664円か。ということは、1,623円の値上がりだ。うーん、よくできている。まるでauとApple社に寄ってたかってたかられたようなものだ・・・まあ、感心するやら、呆れるやら。こうなると、家内のiPhoneXRの割賦期間が終了するあと2年後の購入機器代金(2,185円)ゼロを待つしかないか・・・でもその時には、家内のiPhoneXR自体が相当くたびれてきているだろうから、それくらいなら、あと1年後に新機種に乗り換えた方がマシか・・・かくして、ますます上手くできていると脱帽だ。

 しかし、2年後の状況は、楽天の携帯電話参入があるので通信価格が値下がりすることが期待できる。しかも、中国の携帯電話メーカーとの競走で、機器の価格も下がるのではないだろうか。そう思って、状況が好転するのを待とう。

 なお、一番の心配事だった旧iPhoneXから新iPhone 11 ProMaxへのデータのバックアップからの回復は、結果的にうまくいった。というのは、最初、パソコン内のバックアップから回復するつもりでいた。ところが、新iPhone 11 ProMaxを起動したところ、「情報が転送されている間は、このiPhoneを新しいiPhoneの近くに置いてください。」という表示が出たので、これは便利な仕組みだ、Bluetooth経由だろうと思ってそのままにしておいた。しかし、いつまで経ってもバックアップが終わらない。原因はバックアップと新iPhone 11 ProMaxの間のiOSのバージョンの違いにあるのではないかと思い、新iPhone 11 ProMaxのiOSをバージョンアップしてから回復作業に入ったら、そっくりそのまま回復された。ひと手間かかったが、うまくいって良かった。

 ところでこの新iPhone 11 ProMaxは、画面が非常に美しい。しかも、電池がちっとも減らない。また、カメラが三つ目なので、望遠で遠くの景色を撮ることができるという。今はまだ寒いので、あまり出歩かないようにしているが、春になれば、どこか撮影旅行に行ってみたい。





(2020年 2月 3日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:15 | - | - | - |
iPhoneXのバックアップ

バックアップのリンク先がFディレクトリとなっている。


 iPhoneXを購入して2年が経ち、そろそろ契約の期限がやってくる。契約というのは、確か4年間の割賦販売期間を2年間過ぎたところで、新しいiPhoneに切り替えれば、残債を免除するというものだ。これを利用しないという選択肢はない。ところが、その後、法律が改正されてそんなことは禁止されたはずだ。しかし、私のような既契約の場合はどうなるのだろうという気がするが、その話はこれからauショップに行ってくるので、また後日に記録することとして、iPhoneXを新しいiPhone11に切り替えるにしても、いずれにせよその前にバックアップをとっておかないといけない。

 やや回りくどい言い方になってしまったが、そういうわけでパソコンを開いてiTunesを立ち上げ、バックアップを始めたのである。最初は順調に動いていた。ところが、2時間近く経ってもう終わりかけの頃に、いきなり止まってしまった。表示を見ると「Cディレクトリに空きがありません」とある。エクスプローラでCディレクトリの容量を見ると、バックアップ前は確か169GBは空いていたのに、もう一杯だ。これは、どうしたものか。

 そういえば、このパソコンを買ったのは昨年6月で、それ以来、バックアップはとっていなかった。このパソコンは、CディレクトリがSSDだから、226GBしかない。そのため、「ドキュメント」も「ダウンロード」も、Cディレクトリには作らず、「シンボリック・リンク」を利用して、1TBもの容量があるハードディスク上のDディレクトリに作った。それと同じように、iTunesのバックアップも、Dディレクトリなど他のディレクトリに作る必要がある。そこで、はたと思い出した。昨年6月にこのパソコンを買ったときに、その作業をしたはずだ。なぜ、シンボリックリンクが消えてしまったのだろう? よくわからない。でも、面倒だが、もう一度やらざるを得ない。

 以下は多分に技術的な話だが、将来の自分に対するメモというつもりで記録しておきたい。まず、グーグルで「iTunesバックアップ」と検索する。すると、幾つかの提案が出てくる。CopyTransさん、iPhone入門さん、南詩織さんだ。これらを眺めると、一つは、専用のソフトを使う方法だ。iPhoneのバックアップは、差分だけという方法はないようだし、またどんな中身かも見ることができない。そうするとバックアップの度ごとに全体のバックアップがゴロゴロと作られてしまい、容量を消費して仕方がない。その点、これら専用ソフトの中には、「差分だけもOK、中身も見られる」というのもあって、いささか心が動かされたが、値段が8,200円というのは、ちょっと高すぎる。それにサポートもいつまで続くかという問題もある。比較検討の結果、コマンド・プロンプトを使う南詩織さんの方法によることにした。改めて感謝したい。それは、次のようなものである。自分でしなければならないが、いやなに、Windows以前の、かつて扱ったMS−DOSの時代に戻るだけだ。


 1.「ユーザー名」>「AppData」>「Roaming」>「Apple Computer」>「MobileSync」>「Backup」という順でデフォルトのバックアップ・フォルダーを表示する。

 2.DかFディレクトリに例えば「iPhone_Backup」を作り、そこへ1.「Backup」を移動する。

 3.スタートボタンをクリック > 「プログラムとファイルの検索」の検索欄で「cmd」と入力 > 表示された「cmd.exe」アイコンを右クリック > 「管理者として実行」をクリックしてコマンド・プロンプトを起動します。

 4.次のコマンドを入力して、「Enter」ボタンを押し、「?シンボリックリンクが作成されました」と表示されたら成功

 mklink /d “C:¥Users¥tnyam¥Apple¥MobileSync¥Backup” “F:¥iPhone_Backup¥Backup”

 5.シンボリックリンクが正常に作成されたかを確認するために、元のCドライブの「Backup」フォルダーを右クリックして「プロパティ」を選択したら、次の2点をチェック。

(5−1)「リンク先」で、ご自分が指定した保存先が表示されているか。

(5−2)「ファイルの場所を開く」をクリックすると、ご自分で指定した保存先フォルダーが開くか。

 上記の2点が確認できたら、シンボリックリンクは正常に作成されている。


 では、その手順で行こうとしたが、私のパソコンと最初からディレクトリ名が違っている。私のパソコンは、このお手本よりもっと簡単で、「ユーザー名」>「Apple」>「MobileSync」>「Backup」だ。だけど、ベースの構造は同じだから、これで良いかもしれない。

 次に、ここにデフォルトのバックアップ・フォルダーがあるかどうかだが、先のバックアップ失敗で、消去してしまった。では、私のiPadのバックアップを作ろう・・・わずか32GBだから、直ぐにできた。「MobileSync」を覗いて見ると、ちゃんとあった。それをバックアップ先の外付けハードディスクであるFディレクトリの中に作った「iPhone_Backup」に移動する。元の「MobileSync」の中は、再びカラになる。

 さて、これからが正念場だ。cmd.exeを動かし、コマンド・プロンプトを出す。真っ暗な長四角の画面が出る。今の人に、Windowsが出る前は全部これだったと言っても、信じてもらえないだろうが、MS−DOS時代の生き残りのような私にはお馴染みのものだ。

 そこの点滅するプロンプトに、「mklink /d “C:¥Users¥tnyam¥Apple¥MobileSync¥Backup” “F:¥iPhone_Backup¥Backup”」というコマンドを入れたが、「管理者ではない。」と出る。ああ、そうか・・・昔と違って、「管理者として実行」という手順を踏む必要があったのを忘れていた。その処理を行って、再び上記のコマンドを打ち込む。そうすると、一瞬で「シンボリック・リンクが作成されました」と表示された。これで良いようだ。

 成功したかどうかを確かめるために、エクスプローラでF:のハードディスクを覗くと、「iPhone_Backup」中に、確かに「Backup」が作成され、180GBほど、ハードディスクの容量が減っている。他方、C:の中の「MobileSync」にも、やはり「Backup」が出来ていたが、その分の容量は別に減っていないから、まあこれで成功したと思う。本来なら、Fディレクトリからのバックアップが出来てはじめて成功を認定するところだが、新しいiPhone11が手元にない以上、仕方がない。後日の成功を期待しよう。


【後日談】 Fバックアップから新iPhone11 ProMaxへ復元できた

 新iPhone11 ProMaxを購入したので、Fディレクトリのバックアップからの復元を試みようとしたら、Bluetooth経由で旧iPhoneXから新iPhone11 ProMaxに直接転送できるようだ。そこで、その方が早いと思って試した。ところが、何と24時間経っても終わらない。なぜだろうと思って考えてみたところ、そういえば、最近、旧iPhoneXのiOSを13.3.1バージョンにアップしてからバックアップしたことを思い出した。これが原因かもしれないと新iPhone11 ProMaxのiOSをチェックしたところ、13.3.0と、案の定、前のバージョンだった。これは、いけない。バージョンを合わせる必要がある。そこで、新iPhone11 ProMaxのiOSを同じ13.3.1にバージョンアップした。それから、もうBluetooth経由はやめて、iTunesを動かしてFディレクトリのバックアップから復元することにした。順調に動き、約2時間半経って、完全に回復することができた。バックアップするときに暗号化していたので、旧iPhoneXのパスワードなどは、そのまま引き継がれた。ただ、銀行関係のアプリの中には端末登録をしているのがあり、それは再び端末登録をせざるを得なかったが、その他は以前の通り使えて、順調である。




(2020年 1月31日記、2月2日追記)


カテゴリ:エッセイ | 23:10 | - | - | - |
イポーの中国正月

中国正月の獅子舞


 中国正月(春節)の風習を撮りに、マレーシア中部の都市、イポー在住の友達を訪ねた。マレー半島西海岸に近い内陸の中部に首都クアラルンプールがあり、そこから高速道路で200km北上すると、ペラ州の首都イポーに着く。ちなみに更に100kmほど北に行くと、昔の海峡植民地ペナンがある。イポーは、中国人の町である。かつてのイギリス統治時代には、錫鉱山によって栄え、その労働者として連れてこられたのが、中国南部の主として広東省や福建省出身の中国人達である。クアラルンプールには広東省出身の人が多いが、更に南のシンガポールには、福建省の人が多い。ちなみに、英国統治時代に、錫鉱山のほか、マレー半島特産の天然ゴム採取の労働者としても中国人が活躍した。そのほか兵士や鉄道関係労働者として連れてこられたのが、インド人で、今でもガードマンや鉄道関係の仕事をしている人が目立つ。

ゴム農園労働者


 中国人は、単なる鉱山労働者やゴム農園労働者では終わらなかった。いわゆる「華僑」としてその才覚を活かして経済界に進出し、中には大金持ちや小金持ちになる人が多かった。イポーは、マレーシア中に散らばるそうした華僑の、かなりの人々が故郷とする都市で、かつて錫鉱山で繁栄し、今は商業都市として栄えている。美人が多いといわれ、とりわけ香港と同じく広東語を話すことから、香港に行ってスターとして活躍する女性もいる。

イポーの町


 前置きはそれぐらいにして、イポーに入ると、中国の桂林や山水画に出てくるような石灰岩のタワー・カルスト地形が迎えてくれる。これは宗教的霊感を呼び起こすのか、その麓に中国寺院が開かれている。現在のイポーは、ゆったりとした住宅地に大きな家々が立ち並ぶ典型的な地方都市である。中心部にも、クアラルンプールのような高層ビルはなく、その代わり大規模なイオン・モールが三つもできている。物価は特に食べ物が安いことから、クアラルンプールで長年働いた人が、リタイア後に移り住むという話をよく聞くそうだ。

普通の家庭の正月飾り、玄関先に縁起物の赤い提灯(真っ赤な楕円球体に赤や黄色の房の付いたちょうちん)


 普通の家庭の正月飾りは、玄関先に縁起物の赤い提灯(真っ赤な楕円球体に赤や黄色の房の付いた「ちょうちん」)をぶら下げているところが多い。また、玄関脇に低木がある家々は、そこに真っ赤なパイナップルを模した紙飾りをたくさん吊るしている。聞いてみると、パイナップルは、原語の発音をなぞった福建語で、「福が来る」という意味だから、あちこちに新年のシンボルとして飾ってあるそうだ。日本の松飾りのようなものだろう。もちろん、家の玄関の両脇には、赤い地に金色で、新年を寿ぐ漢字「恭賀新年」や、「家内安全」、「出入平安」などと書かれている。

 中国正月で欠かせないのが、「親類のリユニオン(reunion)」、「アンパオ(紅包)」、「花火」そして「獅子舞(Lion Dance)」である。まず、親類のリユニオン(reunion)というのは、その名の通り、親類一同が寄り集まって、一族の結束を確認することである。この日は、クアラルンプールにいても、ペナンにいても、たとえロンドンやオーストラリアにいても故郷イポーに集まって、親類一同が会食し、麻雀し、おしゃべりをする。例えば、私が招かれた家は、おじいさんの時代に広東省を飛び出してマレーシアにやって来て、裸一貫で錫鉱山で頑張り、そこで現地の女性と結婚し、父が生まれた。父は、同じ中国人女性と結婚して8人の兄弟を育てた。その兄弟の子供が成人し、孫が現在のところ7人もできたという状態である。もう父母はいないが、こうでやって親類一同が寄り集まるそうな。だから、レストランで行われた一同の会食の場に招かれた時、果たしてこれに応じてよいものかと最初は思ったものの、行ってみると、いやもう凄い人数だし、小さな子供が走り回ってまるで保育園が移動してきたようなものだし、そもそも誰が誰だから分からない状態だった。

 中国正月の作法は、皆で箸を持って立ち上がりながら「ルーサン(良いことが来ますように)」と言いながら、大皿に盛られたカラフルな食べ物を上に持ち上げ、かき回して食べる。味は、甘酸っぱい。立ち上がったとき、何かブツブツ呟いている人が多いから、何か願っているのかと聞いたら、「もちろん! もっと健康に、もっとお金を儲ける!」というので、やはり中国人らしいと思った。もっとも、ここマレーシアのように、中国人は数の上では少数派だから、自分達の国というよりは、常に民族的緊張の下にある中で、我が身と家族の安全を守るのはお金の力だということを身をもって知っているからだろう。だから、拝金主義というのは、必然的にそうなってしまうので、私はやむを得ないと思っている。

アンパオ(紅包)


アンパオ(紅包)


 見ていると、親類の子供達のうち、未婚の人に対して、「アンパオ(紅包)」を贈りあっている。これは、そもそも福建語のようで、それだからシンガポールにもある習慣である。日本で言えばお正月のお年玉である。日本みたいに、万円単位というものではなくて、せいぜい千円にも満たないくらいのものである。そのポチ袋は、結構手の込んだものが多くて、例えば次のように、「鼠銭代代、如意萬事、迎春鼠銭、大和大吉、鼠年大吉、吉祥銭鼠」などと書かれているし、イラストがとても可愛い。今年は鼠年だから、もう鼠一色だ。イラストの中に、お金を抱いた鼠がいるのも、ご愛嬌だ。私は、平成20年2月12日にも、アンパオのエッセイを書いたことがあるが、その時の写真と比べて、更に進化している。

ホテルでの花火。これと同じ花火を民家でやっていた。


 そうやってお正月の最初の日又は大晦日に親類一同のリユニオンの会食が終わると、今度は長兄の家に集まって、家の前で花火で遊ぶ、花火は、日本流に言えば、「鬼を追い払う」ということで、家の前の道路で、バチバチと大きく鳴らす。大人が上げる大きな打ち上げ花火から、よちよち歩きの幼児が投げる小さな花火まで、その熱中ぶりといったら凄い。30度を超える暑さの中で何時間もひたすら打ち上げ、投げている。花火の煙で辺りが暗くなるほどで、やかましいったら、ありゃしない。しかし、これがないと新年が来ないということで、大人も子供も熱中してやまない。中には2mほどの長さの赤い花火があり、それを道に伸ばして広げ、片方の端に点火する。やがてバチッ、バチバチッという轟音とともにどんどん燃えていき、やがて反対側の端まできて、ああやっと終わったと思ったら、最後に爆音を立てて皆をびっくりさせる。いやいや凄い。

獅子舞


獅子舞


 次に記念すべき行事は、獅子舞である。かつてはそれぞれの家を回って来たが、最近はそれより商業施設を回った方が効率がよいというので、個人の家には来なくなった。どこで見られるのか探しに行こう考えていたら、泊まったホテルに獅子舞がやってきた。写真を撮るには、こんな都合のいいことはない。どんなお獅子かと思ったら、日本のような怖い姿と違って、身体が黄色や赤色というカラフルで目がぱっちり、しかも時々ウィンクするなど、とっても可愛い。それが、ドラや太鼓の「ドンドン、ガンガンー」という、うるさくてかなわないほどの音を出して、立って踊ったかと思うと、急にうずくまったり、飛び跳ねたり、肩車して立ち上がったり、口からオレンジを出して観客に配ったりと、サービス満点でしかもダイナミックに動き回る。ちなみにオレンジを配るのは、「何か幸せなことが来ますように」という象徴らしい。親類や友人に、「恭賀新年」という化粧箱に入ったオレンジを贈り合うというのが昔ながらの習慣だという。私も、お獅子からいただいたオレンジを剥いて口に入れたら、中には種があって、昔の日本の静岡蜜柑のようだった。

「恭賀新年」という化粧箱に入ったオレンジ


「恭賀新年」という化粧箱に入ったオレンジ


 また獅子舞の話に戻ると、こういった新年の祝賀だけでなく、一般の会社や商店の開業記念などに招かれて、このパフォーマンスを行うという。一件20分から30分くらいで現地通貨RM(リンギット)で、300から400ぐらい(日本円で8千円から1万1千円)らしい。私の泊まったホテルは、1時間もやっていたから、RM2000から3000(5万3千円から8万円)くらいではないかと言っていた。地元の人と話すと、結局はお金の話になる。まあそれも、冒頭に述べたような華僑が置かれた厳しい現実からくるのだと理解していただきたい。ところで、イポーでこのような獅子舞のパフォーマンスを行うことができる「会社」が3つもあるそうだ。新年の3ヶ月前から練習して備えるという。新年の舞のほか、商業施設の開業祝いの仕事もある。ただ、それだけでは食えないから、オフシーズンにはメンバーは別の仕事と掛け持ちするようだ。

 その他、聞きかじった面白い話として、中国正月の最終日(今年は2月15日)に、交際の相手探しの慣習があるそうだ。イポー特有だという。何かというと、オレンジに名前と携帯電話の番号を書いて、川に投げるだけのことだ。それを拾った人がその相手に連絡をして、カップルが成立するという例が少なからずあるとのこと。平和な田舎ならではの面白い慣習だ。

吾観音堂


吾観音堂


吾観音堂の四面菩薩


 なお、今回は日中に街中や中国寺院の写真も撮りたかったが、この地は何しろ気温が摂氏30度を優に超えるという猛暑が続く。しかも今年は例年にも増して暑いそうだ。これでは摂氏8度前後の冬の日本から来た身には堪えるので、直射日光の当たらない冷房が効いたホテルでの獅子舞と、気温の下がった夜の洞窟寺院の写真しか撮らなかった。それにしても、吾観音堂という洞窟寺院にあった、四面全てにお顔と手足と体のある「四面菩薩」という仏様には恐れ入った。でも、考えてみれば、興福寺の阿修羅像も、三面六臂である。するとこの菩薩様は、四面八臂八体というわけだ。日本では、あまり見かけたことがないと思うが、いかがであろうか。







 イポーの中国正月(写 真)






(2020年 1月26日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:52 | - | - | - |
すみだ水族館

ペンギンに餌をやる飼育員さんたち


 我が第三の人生は(残念ながら)まだ本格化していないので、この時とばかりに退職者の特権を味わっている。今日は、午後から事務所に行くことになっている。だから、午前中はフリーだ。そこで、数日前に、「アソビュー!」から来たメールを思い出した。これは、いわゆるチケットサイトで、私はこれまでモーターショーなどのチケットを数枚、購入したことがある。そのおかげで、ポイントが貯まっているが、それを使わないと、数日内に失効するというのである。

 そこで、そのポイントが何に使えるかと思ってサイトを眺めてみた。もちろん色々な施設の入場券なのだけど、その中に「すみだ水族館」というのがあった。これは、我が家から30分程度だし、スカイツリーの建物の中にあるから、できたばかりの8年前に2回行ったことがある。そのときは入場料が確か2000円くらいで、展示の数の割には高いなと感じたことがある。それ以来、行っていない。たぶんこの価格は、東京スカイツリーにやってくる一見さんに対する値付けだと思われる。

 その後、展示内容が変わったかもしれないから、また行ってみるかと思って、このサイトから申し込んでみた。すると、やはり同じような値段だったが、ポイント数の範囲内であったから、それを使って購入できてしまった。こんなに簡単なものなのか・・・閑散期のサービスかもしれないと思って、そのまま放置しておいたのだが、今回、iPhone上にその電子チケットを表示してみた。どうやら、使えそうだ・・・というわけで、カメラを担いで行ってみることにした。

すみだ水族館入り口


 「すみだ水族館」の公式サイトを見て、営業時間を確かめ、「乗換案内」のアプリで行き方を調べる。千代田線の北千住で東武線に乗り換えて、「とうきょうスカイツリー駅」で降りると良いらしい。朝のラッシュとは反対側なので、千代田線の車内はガラガラ、東武線は混むかと思ったら、区間急行浅草行き、つまりこの区間は鈍行だから、これまたガラガラだ。乗っている人達もあくせくする風もなくて、実にゆったりとしている。そういう様子を見て、今まで私が過ごしてきた世界は何なんだという気がする。東京に、二つの世界が重複して存在するかのようだ。

すみだ水族館のチケット、右は入場前、左に入場済みのスタンプ


ミズクラゲ


クラゲのシーネットル。猛毒


 すみだ水族館に着いた。入口で、係員にiPhoneのチケットを見せたら、ひょいひょいと操作してくれて、iPhone上のチケットに入場済みのスタンプが押された。平日朝一番だから、ほとんど人がいない。おかげで、カメラを構えて、ゆっくりと同じ水槽の前に居られる。まずは、ミズクラゲ。白い体を水の流れに合わせて、ふわふわと漂う。隣にいた女性たちから、「わあ、癒される」という声が上がる。癒されるかどうかはともかく、確かに、見ていて飽きない。身体を伸び縮みさせているから、てっきりプランクトンを食べているのかと思ったら、そうではなかった。持っている毒で獲物を刺し、弱らせて捕食する肉食のようだ。見かけによらない。隣に、身体に黄色い筋のあるパシフィック・シー・ネットルが浮かんでいた。これは、猛毒を持っている。

ハナカサゴ


ベラの一種か?


アナゴ


ナポレオン・フィッシュ


目の大きな赤色の魚


ヒブダイ


 ピンクのハナカサゴだ。まるで花魁道中のようであるが、昔々に父と海釣りに行ったとき、これに刺されると大変だと聞いたことがある。サンゴの水槽が3つあった。手前が小型の熱帯魚、真ん中がアナゴ、奥の水槽が大型の熱帯魚だ。小型の魚は、身体が小さい上に、動きが速いから焦点を合わせにくくて、なかなかカメラで捕捉できない。それに、反射光が写り込んで、上手くいかない。次のアナゴは・・・砂から身体を出して、なかなか可愛い。しかし、何しろ小さいから、マクロレンズでもあれば別だが、写真は上手には撮れない。奥の水槽のナポレオン・フィッシュ(メガネモチノウオ)は、大型で堂々としているから、私好みの大型熱帯魚だ。ところがこの魚、意外と臆病で、いきなりカメラを向けるとそのレンズが大型の魚と目と勘違いするのか逃げて行くので、まずはしばらく顔を合わせる。しかる後に、徐々にカメラのレンズを見せ、慣れさせてから撮ると、うまくいく。沖縄で市場に行くと、この魚を売っていた。全身青い色の魚だから、私なぞ、全く食欲がわかないが、現地の人は美味しいと言っていた。その他、目の大きな赤色の魚がいるし、まるで笑っているような魚(ヒブダイ)もいる。見ていて飽きない。

人懐こいペンギン


突き出した陸地にいるペンギン


餌やり


 それから下の階に行くと、いよいよ「ペンギンの水槽」だ。向かって左手の所に突き出した陸地が作ってあり、そこから海を模したプールがある。私が行った時は、ほとんどのペンギンが陸地にいて、プールにいたのは、ほんの数羽だったが、女性飼育員が3人出てきて、「さあーっ。みんな朝ご飯だよ。」と叫ぶと、次々にプールに飛び込んだ。こちらの観客席側にいた飼育員さんによると、「いつも、ご飯前には、こうやって飛び込む。」のだそうだ。逆ではないかと思うのだけど、自然の中に生活するときは、もちろんこうやって飛び込んで、海の中に潜って魚を採るのだから、反射的な行動なのかもしれない。

餌やり


どういう餌を何匹あげたのかを判別し、記録している


 プールから陸地に上がってきたペンギンたちに、女性飼育員さんたちが餌(魚)をあげ始めた。「マカロン、ビタミン1匹」「いちご、同じく2匹」などとやっている。驚くことに、個々のペンギンの顔を記憶していて、どのペンギンにどういう餌を何匹あげたのかを判別し、記録しているようなのである。マカロンといちごは名前、ビタミンはビタミン入りの餌の魚という意味らしい。ペンギンの肩には色付きの識別票はあるが、飼育員さんに聞くと、「ペンギンの顔は、全て覚えています。」とのこと。そして、手元の記録と対比して、餌をあげ足りないペンギンを皆で探し、「今、プールで泳いでいます。」とか何とかやっている。つまり、やり残しのないように、詳しく管理しているのだ。これこそ、プロフェッショナルの技だ。子育てに手を抜いている人間の親がいたとしたら、見習ってほしいほどだ。

琉金


丹頂


 その隣には、「江戸リウム」という金魚コーナーがあって、和金、丹頂、琉金、蘭鋳、出目金、コメットなどが展示されている。金魚の系統図があり、中国鮒が突然変異を起こして赤い和金となり、そこから次々に突然変異を起こして、遂には琉金に至る過程が図になって示されていた。金魚というのは、遺伝子が四倍体のため、変異を起こしやすいそうだ。その中から選別して育てたものが、今のような多様な種類となった。その代わり、すぐに先祖返りをしてしまうため、いつも管理していないとだめだという。

東京大水槽


 2階分を貫く「東京大水槽」があって、底からブクブクと泡が出ており、その周りを魚が巻くように泳いでいる。見事なのだが、全体に暗くて、しかも遠目なので写真を撮るのはなかなか難しい。あとは、ペンギン水槽の裏にオットセイがいたが、これまた暗い中を高速で泳ぐし、だいたい身体が真っ黒なので、これも写真を撮る気が失せてくる。ただ、狭い所に押し込められている感がなきにしもあらずで、いささか可哀想になる。

 というわけで、短い散歩は終わった。ペンギン水槽の脇で昼食代わりに何か食べようとしたら、食べられるものといえば、「カメロンパン」つまりメロンパンに亀さんの頭、手足を付けたものしかない。それを紅茶で流し込んだ。甘くて閉口した。同じ長テーブルに、1歳を過ぎたくらいの男の子を連れたお父さんがいる。甲斐甲斐しくお世話をしている。見たところ、お母さんと育児休暇を交代したばかりのようで、ぎこちない。「ほら、お母さんが作ったお握りだよ。美味しいね。」と子供に語りかけるのだけれど、子供は無視して、「やだーっ、やだーっ。」と叫ぶ。親の心、子知らず。可哀想にお父さん、どうして良いか分からずに呆然としている。わかるなぁ、その気持ち。娘からいきなり4歳のやんちゃな男の子を預けられて、はて、どうしたものかと戸惑った自分の経験からして、よくわかる。まあ、これも人生、つまりは運命、ただただ「頑張ってほしい。」としか、言いようがない。






 すみだ水族館(写 真)






(2020年 1月21日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:00 | - | - | - |
大道芸・さいたま新都心

中国雑技芸術団


 2020年(令和2年)の年が開けた。「2」が続くので、覚えやすい。だから、令和から西暦を計算するには「2018」を足す、逆に西暦から令和は同じく「2018」を差し引く、これも簡単だ。18と覚えればよい。昭和と西暦は、25だった。終戦の年である昭和20年が1945年なので、これもわかりやすい。ところが、平成は途中で西暦2000年をまたいでしまったから、ややこしくなった。「平成12年が2000年なので、それまでは88、それを越すと12を差し引くと西暦、ではその逆は・・・ああ、面倒だ。スマホの換算アプリを使おう。」となってしまう。

 ところで、正月休みを除いて新年最初の三連休だ。何か催し物はないかと思って調べると、東京ドームで「ふるさと祭り」が開催中だ。私は、平成23年に見に行った。えーっと、2011年か。今から9年も前のことだ。そのとき見たのは、秋田の竿燈、高知よさこい「ほにや」、盛岡のさんさ踊り、飯田燈籠山だった。日本各地にこんな面白いお祭りがあるなんてと、実に感激した。感激が高じて、秋田の竿燈、青森のねぶた祭り、仙台七夕祭りなどの東北三大祭りを実際に見に行ったほどだ。これが契機となり、それ以降、岸和田のだんじり祭り富山県八尾おわら風の盆などと、私のお祭り行脚が始まった。では今回の「ふるさと祭り」はといえば、高知よさこい「ほにや」がまた来てくれているが、二度目になる。仙台すずめ踊りか・・・日本橋で見たことがある。高円寺阿波踊りねぇ・・・これは、ご当地だから、何回か見たことがある。新居浜太鼓祭りと牛深ハイヤ祭り(天草)は見たことがないが、残念ながら全国的には、あまり知られていない。

 それとは別に、本日はもう一つ、「大道芸フェスティバル」が、さいたま新都心で開かれるという。私は埼玉方面には不案内なので、「埼玉県」に「新都心」なるものがあるとは、ついぞ知らなかった。これは何だとウィキペディアで調べてみると、「東京都区部以外で首都を補完し地域の中心となるべき都市として、閣議決定により再開発・土地区画整理事業が行われたもので、旧国鉄大宮操車場などが有効活用された」という。「JRさいたま新都心駅」という駅までできている。そこで、やっと思い出した。中央省庁の関東地方出先機関が、全部ここに集められているのだった。立川とともに、大震災などで都心が壊滅したような場合に、そのバックアップ機能を果たすところだ。では、一度は見て来ないといけない。そのついでに大道芸が面白ければ、見物して来ようと思った。

 上野駅から宇都宮線で、23分でさいたま新都心駅に着いた。京浜東北線だと、更に10分ほど余計にかかるようだが、23分というのは、首都圏の感覚では近い方だ。降りてみると、例の通り、パイプとガラスの建築ばかりだ。こんなにガラスが多くては、大地震が起こったら、ひとたまりもないと思うのだが、今度、どなたか建築家に会ったときに真っ先に聞いてみたいと思っている。

 南北に走るJRの線路を挟んで、西側には、さいたまスーパーアリーナ、けやき広場、サンクンプラザ、中央省庁合同庁舎があり、東側には、コクーン1・2・3と、大きなショッピングモールがあって、両者を自由通路が繋いでいる。NTTドコモや保険会社の高層ビルが建ち並ぶ人工的な空間だ。これは、相当なお金が投入されたと思われる。しかも、周りにはなんにもない。敢えて言えば、田圃の中に蜃気楼のようにフッと浮かぶ高層ビル群だ。

 そこのあちこちで、大道芸が開催されている。私は「中国雑技団」の演技を見たかったので、コクーン1に急いだ。実は私は、中国雑技の演技は、1985年に中国で、2009年に本厚木で、2018年に横浜中華街で、それぞれ見たことがあるし、そのほか高円寺でも何年か前の暑い盛りにやっていたような記憶がある。今回も、楽しみだ。


SUKE3&SYU


SUKE3&SYU


 現場に着くと、雑技団の前に「SUKE3&SYU」という二人が演技中だった。その説明によれば、「なんかイケメン!でもなんかおバカ。派手な技の数々と迫力満点のアクロバットをユーモラスにお届けします」とのこと。二人は大柄と小柄の人で、もちろん小柄の人が上に乗って、二人で、色々な力技に挑む。脚を絡み合わせて水平になる演技が素晴らしかった。今日は気温が10度くらいと寒いので、こうした身体を張った動きには不向きな日かもしれないが、よく頑張っていた。

中国雑技芸術団


中国雑技芸術団


中国雑技芸術団


 次は、いよいよ「中国雑技芸術団」だ。「驚愕の技の数々で圧倒的な光景を生み出す。中国四千年の歴史が誇る一大エンターテインメント」という。中国服を来たおじさんが司会を務め、いよいよ始まる。まず出てきたのは、一瞬で顔の仮面が変わる「変面」だ。何しろ、手が一瞬、顔の前を通っただけで、次から次へと顔のマスクが変わる。それも全部違うマスクなので、これは驚く。マスクのパターンが何十もあるのではないか。役者が観客席を回って、私からつい1メートルほどの所に来て、そして一瞬でマスクが変わったけれど、よく見ていたつもりだったが、どういう仕組みなのか、見当もつかなかった。最後にお面を脱いで、精悍な中年男性が素顔を見せてくれた。

中国雑技芸術団


中国雑技芸術団


中国雑技芸術団


中国雑技芸術団


 次の演技は、若い体操選手のような人。まず、観客の目の前で、前方1回宙返りを見せる。そして、中国雑技の定番である、椅子を積み上げていく技だ。これは、1985年に北京の劇場で見たことがある。椅子を一つ一つ積み上げ、もう8個に達した。これで終わるかと思いきや、最後の椅子をもらうと、それを斜めにし、その上で力技の演技を見せたので、観客のやんやの喝采を浴びていた。ああ、これで終わりか。30分があっという間に経ってしまった。

あっぱれ吉沢屋


あっぱれ吉沢屋


あっぱれ吉沢屋


 その次の大道芸は、「あっぱれ吉沢屋」。これが面白かった。「豪華絢爛な衣装で演じる和の雰囲気いっぱいのマジックショー。歌舞伎とマジックの不思議な融合で歌舞いて歌舞いて虜にいたします」という。確かに、歌舞伎の衣装を身に付けた男女のペアのパフォーマーが、マジックを演じる。歌舞伎だから、「見得をきる」ポーズをしたら、「あっぱれ」と叫べと観客にお願いする。観客も、最初はぎこちないが、次第に熱が入ってくると、それなりに大きな掛け声になって、盛り上がるという仕組みだ。なかなか上手い。マジックも、ハンカチを一枚を二枚にしたり、大きくしたりという小技から、小箱に入れた数個の提灯を一瞬で消すという中技、そして派手な色付きテープや何やらをどんどん繰り出す大技まで、カラフルかつ立体的で、なかなかよかった。

あっぱれ吉沢屋


あっぱれ吉沢屋


あっぱれ吉沢屋


あっぱれ吉沢屋


 それから、自由通路を渡ってさいたまスーパーアリーナの方へ向かった。途中、大道芸人「コバヤシ ユウジ」さんが演技中で「街角に立つクローズアップマジシャン、トランプからホラー系マジックまで、何が飛び出すかはお楽しみに」とのことだったが、人だかりがしていたし、トランプを操っているときで、しかもそれが小さくて見にくかったことから、次に向かった。

コバヤシ ユウジ


AYACHYGAL


 すると、「AYACHYGAL」が始まったばかりで、女性の歌、男性の演奏という組み合わせである。「ピアノとヴォーカルの本格的なシャンソンショー、愛と笑いと痛み、その他色々な感情を届ける音楽絵巻」とのこと。女性ヴォーカルは、艶のあるなかなか良い声で、これまた多くの見物人を集めていた。

Juggler Laby


 けやき広場で演じていたのは、「Juggler Laby」で、「ジャグリング個人部門の元日本チャンピオン」とのこと。玉を一つ、二つ、三つと使い分け、また棒を使って縦に落ちるようで、浮かんでくるように見せる技などで魅了した。

HARO


HARO


HARO屋


 その頃、にわか雨が降ってきた。ポツポツという程度で、大したものではないと思ったが、これは中止になるかもしれないと思い、やや疲れたこともあって帰ろうとしていた。その時、遠くから薄緑の不思議な大きなものが近づいてきた。「HARO」で、「風をはらみ、風を感じ、風を受ける。うつろう風の動きを印象的に心に残す。羽ばたき舞う美しき精」という。両脚別々に、高下駄どころか、人の身長ほどもある長い人工の足を付け、おそらく両手にも長い棒を付けてその先端にパステルカラーの若草色の緑を基調としたフワフワの衣を結び付け、それを身にまとって、ヒラヒラさせながら闊歩している。簡単に倒れてしまいそうだが、倒れずに歩く。それだけでも、これは凄い技だ。衣を翻して軽々と歩く姿は、確かに風が舞うようだ。素晴らしい。でも、どうやって投げ銭を貰うのだろうと思ったら、ちゃんと普通の人が、箱を持って彼の後を付いて回っていた。

nanisole


nanisole


 そうして驚くやら呆れるやらで、唖然としていると、今度はもっと奇っ怪なパフォーマーが現れた。やはり、長い人工の足を付けているのは同じだが、こちらは、両手が鳥の羽、顔の真ん中からは鳥のようなとんがった嘴(くちばし)が出て、しかも時々、「フガー、フガー」と鳴くという凝り様だ。「nanisole」で、名前からして「何、それ?」と、人を喰ったネーミングだ。「発明した道具の数々を身にまとい、頭から煙を噴き出しながら歩き回る不思議な存在。果たして見事羽ばたくことができるのか?」・・・うーむ、これには参った。コメントをしようがない。大道芸は、なかなか奥が深い。ということで、非日常的な一日が終わった。






 大道芸・さいたま新都心(写 真)






(2020年 1月12日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:07 | - | - | - |
第三の人生の始まり

根津神社


 私は、大学卒業して国家公務員となって40年間余りを過ごした。これを第一の人生とすると、それに引き続き裁判官となって6年間を務め上げ、今年の9月26日に定年退官した。これが第二の人生ということになる。

 退官後どうしたかというと、まず10月初めに、かねてから行ってみたかった南米ペルーのマチュピチュ遺跡とナスカの地上絵を見に行った。帰国してからの感想だが、まだ体力があるうちに行っておいて良かった。というのは、地球の裏側でそこにたどり着くだけで28時間もかかったし、着いてからも最高3,800mの標高のところを通ったり、マチュピチュ遺跡自体が2,400mの所にあって登り降りに体力をかなり使ったりしたからである。

 そして帰ってきてから、友人、同僚、先輩、後輩の皆様に連日連夜のご苦労さん会を開いていただいて、本当に感激した。その一方、挨拶状をしたためて、それをお世話になった方々に送った。これが届くと、私宛にかなりの数の皆さまから、メール、手紙、葉書が送られてくるようになり、いずれの方からも、心に残る暖かい言葉をかけていただいた。それに一つ一つ返信を書きながら、「いわばこれが人生の総決算で、要するに『華の時期』なのだな。」と感じるという至福の時間を過ごしたのである。

 その一方、体力を付けるため、一日12,000歩を歩こうと考え、息子にプレゼントしてもらったアイウォッチに従ってエクササイズの目標を設定し、朝、昼、晩と1回30分以上の散歩に出掛けた。私は谷根千地区なので、いくつかコースがある。(1)根津神社から千駄木方面、(2)旧藍染川跡の通称「へび道」から谷中の夕焼けだんだん方面、(3)東京大学赤門方面、(4)不忍池から上野公園方面である。どのコースも、歩いていて飽きることはない。おかげで、11月は連日、目標を達成した。

 その一方、雨風の強い日や寒い日には、地下鉄に乗り、(5)大手町駅又は二重橋前駅から東京駅にかけての地下を歩き、あるいは(6)日比谷駅から東銀座駅にかけての地下を歩くという裏技を発見した。そうして平日に地下鉄に乗っていると、ゆったりと座れて、それだけで幸福な気がする。電車に座って揺られてうつらうつらしていると、頭の中で落語か何かで聞いた「世の中に寝るより楽はなかりけり。浮世の馬鹿は起きて働け。」という声が聞こえる。そうか、私は「浮世の馬鹿」を46年もやって来たのかということを、つくづく実感する。

 そうやってのんびりしていたある日のこと、散歩の途中で突然、名古屋市長から電話が掛かってきた。「あいちトリエンナーレについての名古屋市の検証委員会の座長になってほしい。」という要請である。表現の自由で議論をよんでいる件だが、この委員会は主に名古屋市からの交付金を議論するそうだ。火中の栗を拾う感があるが、お困りのようだし、市長は私の高校の1期先輩なので、先輩の頼みは無下に断われない。直ぐに依頼を受けた。それからインターネットで色々と調べ始めた。すると、県と市の間でまあ様々なやり取りがあったようだ。表現の自由の関係で本まで出版されている。これは容易でないが、引き受けた以上、一生懸命にやるしかない。家内が横で見ていて、「あなたはやっぱり、ウチにいるような人ではないわね。」などという。

 自分でも「やはり、そうか。」と納得し、のんびりして社会貢献でもするかというこれまでの方針を急遽転換して、積極的に仕事をすることにした。つまりは、浮世の馬鹿に逆戻りだ。幸い、弁護士として登録が終わっているので、どこか法律事務所に所属すればよい。私は今まで様々な分野を取り扱ってきたので、なるべく大きな法律事務所にすれば、多方面の分野の事件を扱える。いわゆる四大事務所は、千代田線の駅だと、大手町駅か二重橋前駅だ。

 そのうちのとある事務所には先輩がいて、中の雰囲気も非常に良いと聞いているし、自宅からだとドア・ツー・ドアで15分で行ける。そこで、先輩を通じて所属させてほしいとお願いに行ったら、面接の結果、ありがたいことに、「結構です。歓迎します。」ということになり、年が明けた1月1日から、アンダーソン・毛利・友常法律事務所に所属することになった。私で、同事務所の日本人弁護士の数は、480人となるようだ。

 12月中ばに同事務所でクリスマス会があり、まだ所属してはいない私にも声をかけていただいた。すると、立食パーティーなので入れ代わり立ち代わりやって来られて、「あなたのあの判決は、良かった。」とか、「先生のご著書で勉強したことがある。」とか、「日米欧の特許裁判のシンポジウムの冒頭で英語でスピーチしたでしょう。」とか、あれやこれやと言っていただく同僚(となる)先生方がおられて、「人は良く見ているものだな」と思った。

 当面は、事務所の中で研修や勉強会の講師を引き受けて、なるべく早く皆さんに馴染むようにし、それから徐々に個別案件の相談に乗るつもりである。また、5月から6月にかけては、お話があれば社外取締役や社外監査役となって、できれば会社経営にも参画していきたいと思っている。かねてからやってみたいことである。もっとも、普段の余計なときには口を出さないようにし、会社のために本当に必要なときだけ、しっかり自分の見解を述べるというつもりである。そうでないと、お互いにやりにくいだろうと思う。

 これが、私の第三の人生の始まりである。身体と意欲が続く限り、積極的にやってみようと思っている。では、その次の第四の人生はどうなるかって? そんなこと、私に聞いてくれるな・・・正月早々、縁起でもないかもしれないが、敢えて言えば、文字通り、死んで夜空の星を構成する物質になっていることだろう。

根津神社








(2020年 1月 1日記)


カテゴリ:エッセイ | 00:00 | - | - | - |
タイ・ハートヤイへの旅

ワット・リム・ポーの涅槃仏


 東南アジアに滞在中、現地在住の友人一家がタイのハートヤイ(別名ハジャイ:Hat Yai)に行くという。「あそこは、タイの最深南部の中心だから、イスラム過激派のテロが危なくないのか。」と聞くと、一笑に付された。それどころか、食事が美味しいという。飛行機で行くから一緒に来ないかと誘われた。そういえば、ハートヤイには世界でも一、二を競う露天の涅槃仏があると聞く。一人ならあまり行きたくもない土地なので、今回の機会を逃すと、今後まず行かないだろうと思って、それではと、同行することにした。

空港には、現国王の肖像画があった


空港の売店


 エア・アジアを使った1時間の空の旅で、日程は2泊3日だ。もっとも、着くのが午後4時、帰るのが午後1時の飛行機なので、実質丸1日しか使えない。空港には、現国王の肖像画があった。ホテルは、今年の春にオープンしたばかりのW3というところにした。部屋が広くて内装や設備が新しいから、気持ちが良い。値段を聞くと、場所柄もあるだろうが、びっくりするほど安い。東京の5分の1だ。

レストラン「The Cottage」外観


レストラン「The Cottage」内部


 着いたその日は、皆で近くのレストラン「The Cottage」まで歩いて行った。西欧風の外観だが、出てくるものは中華料理そのものだ。ディープ・フライドの大きな魚にマンゴーや野菜などの千切りを載せてピーナッツとイカの薄切りを添えたプレートは、ピリッと辛い中にスルメイカのほのかな香りがして天下一品の味だ。それに豚の骨付き肉を濃口醤油で甘辛く煮たプレートも、これまた実に美味しい。その他、カイランという野菜の炒め物も、なかなかのものだった。

街中の電線


街中のこんがらがっている電線


 地図を見たら、そこからテスコという大規模スーパーまで、さほど遠くはないので、腹ごなしに歩いて行った。途中、トゥクトゥクというタイ特有の簡易タクシーに出会ったら、乗ろうというつもりだったが、出会わなかったので、結局、15分ほど歩いてテスコに着いた。到着してみると、ものすごく大きなスーパーだ。向こう側が、遥か彼方にある・・・もう、驚いたのなんのって・・・日本がバブル経済がはじけて以来30年間、ほとんど成長しなかったのに比べて、東南アジアでは、地方でもこれほどの経済的実力をつけてきたのかと、改めて思い知らされた瞬間である。値段も、日本と大差なくて、現地の人にとっては高いと思うのだけど、見ていると地元の人が次々に買っていく。それなりに豊かなのだろう。ただ、駐車場に目をやると、半分以上がモーターバイク用のスペースだ。まだまだ、車を販売する余地があると思われる。ところで、市内を歩くと、山のような電線の束が目に付く。これでは、停電や盗電のことを考えるとどの線がどこに繋がっているのか何が何だかわからないではないかと思うのだが、それで良いのだろうか。

街中の様子


街中の様子


 そこから、トゥクトゥクに乗って帰った。これは、小型トラックの荷台に向かい合って座る簡単なベンチシートを置いたものである。振り落とされるのではないかと心配になるし、万が一、事故にでも遭ったらひとたまりもないので、私はあまり乗りたくないのだが、この際は同一行動だから仕方がない。しかし、乗ってみると、私のイメージとはかなり違っていた。昔のトゥクトゥクは、小型三輪車に簡単なベンチシートを取り付けてポンポンポンというバイクのような音を立てて走る情けない乗り物だったが、現代のトゥクトゥクは、普通のしっかりした小型トラックをベースにしているので、かなり乗り心地が違う。ここでも、近頃のタイの実力を見直した。

トゥクトゥクのベンチシート


トゥクトゥクの前部


 翌日、私は寺院に興味があるので、一行とは別行動とし、ホテル経由でガイドを頼んだ。自家用車でやってきて、そのまま案内してくれるとのこと。すると、60歳ぐらいのマレー系の男性がトヨタ車に乗って現れた。ところが、英語ができるという触れ込みだったのにもかかわらず、片言レベルである。とても寺院の由来などを聞くことができない。そもそも、マレー人だから中国文化など関心の対象外だ。これは困ったと思ったが、由来などは後から調べるとして、せめて行先やら待ってもらう時間を決めなければならない。私は多少はマレー語ができるので、私は拙いマレー語を、ガイドは聞きにくい英単語を並べて会話する羽目になった。そうやってこのガイドのおじさんから聞き出した気の利いた情報は、ここハートヤイの民族構成で、シャム族45%、中国人30%、マレー人20%だそうだ。それぐらいである。しかもよりによってこの人が車を運転中に、携帯電話がよくかかってくる。お喋り好きらしく、それに一つ一つ出て長電話するという困った癖がある。運転に集中してほしいから、これはとても困るのだが、止めろと言って気を悪くしてもらってもいけないので、何ともならない。

ハートヤイ市営公園


ハートヤイ市営公園


ハートヤイ市営公園


ハートヤイ市営公園


 最初に連れていってもらったのは、ハートヤイ市営公園(Hat Yai Municipal Park)である。これは、市内を見下ろす小高い丘の上にある。まず車を下りて上り道を少しあがると、目の前にタイ式仏像の大きな立像がある。日本だと、白い大きな観音様の像が高崎や茅野など全国各地に建っているが、あのような像に近い。像の下の建物は観音堂で、まるで三国志に出てくるような武人の立像があったり、あるいは昔の中国に出てくる仙人のような像があったりで、日本の感覚では理解不能であるが、なんとなく中国人のエネルギーがほとばしっているような感がある。そのほか、大きな龍の口のような門を抜けると、そこには布袋さんのような巨像があったり、はたまた関羽のごとき巨像もあったりする。ますます理解不能の度が増すではないか。睡蓮の品の良い紫が美しい。

ハートヤイ市営公園


ハートヤイ市営公園


ハートヤイ市営公園


ハートヤイ市営公園


ハートヤイ市営公園


ハートヤイ市営公園


ハートヤイ市営公園


 そこから更に上ると、なんと、金ピカの仏様が青空の下にすっくりと立つ。おお、これが巨大仏像(Phra Phutthamongkol Maharat)である。この青と金の対比が何とも綺麗で、思わず見とれてしまった。そこからちょっと下ると、ハートヤイ市内を一望できる展望台がある。左手が市内の繁華街で、高層ビルが何棟も建っているのが見える。なるほど、この都市ハートヤイが、「小バンコク」と言われるだけのことはあると思った。妙なのは、展望台にディズニーの白雪姫と七人の小人の像があって、仏像と市内の眺めとのミスマッチを起こしていることだ。まあ、面白ければ、何でもよいのかもしれない。だいたい、許諾を受けているのだろうか?それにしても、ここは寺院のように思えるが、「市営公園」とは、これ如何に?全くの謎だ。そういえば、全体的にどういう哲学なのかさっぱり分からないが、ここはタイ、いつでもどこでもにこっと笑い、両手を合掌して済ませる。だから、そんなどうでも良いことを考えること自体が、野暮なのかも。帰り際に、菩提樹とその花と実を見つけた。以前、花を見かけたことがあるが、実は初めてだ。ソフトボール大で、こんなに大きなものとは知らなかった。

ハートヤイ市営公園


ハートヤイ市営公園


ハートヤイ市営公園


ハートヤイ市営公園の菩提樹とその花と実


ハートヤイ市営公園の菩提樹の花


 次に、ガイドのおじさんが盛んに「フェー、フェア、フェー、フェア」と繰り返すので何かと思ったら、「フェリー(ferry)」に今から乗るから、「乗船代(fare)」を払えということだった。頼むから、よりによって紛らわしい単語をしかも聞き取りにくい発音で一緒に言ってほしくないものだ。ちなみに、そのフェリー乗り場の横に海軍の艦艇がたくさん碇泊していた。海軍基地らしい。

サミラビーチの猫と鼠の像


サミラビーチ


サミラビーチの人魚姫の像


 そうやってソンクラー県の中でもハートヤイの北方に向けて連れていかれたのが、タイ湾に臨むサミラビーチ(Samila Beach)(注)である。白砂青松の砂浜が広がり、そこに凧揚げの子供達が走り回っている平和な海岸だ。沖合いに緑の濃い島が大小二つある。聞き違いでなければ、大きい方をネコ島、小さな方をネズミ島と言うらしい。猫と鼠の像まであったから、間違いないだろう。海岸の一角に人だかりがしている。何だろうと思ってそちらの方に向かって歩いていくと、少女の像があった。長い髪に手をやっているが、よく見ると下半身が魚だ!まるでコペンハーゲンの人魚姫の像みたいであるが、そのつもりなのかもしれない。もっとも、こちらの方が本物より大きいから笑ってしまう。

 その辺りのソンクラー湖畔のレストランで、シーフードの食事をした。なかなか趣のある建物だが、肝心の湖水は泥色で、清潔感に欠ける。しかし、レストラン自体にはそれなりの調理設備があるようだから、衛生は大丈夫だろうと信ずるほかない。ところが、持ってきてもらった料理の味付けは辛さだけが先に立ち、残念ながらタイ料理らしい「ふくよかな」フレーバーが感じられない。お昼ご飯だから、清潔でさえあれば、こんなもので許すしかない。

雑貨屋の店頭にあったおもちゃの恐竜


 そこを出て、地元のマーケットに立ち寄った。まあ、色んなものが売られている。グッチ(GUCCI)のTシャツが大量にあり、なかなかデザインが良い。手に取ると中国製とある。これは偽物か、それとも本物か?食べ物も何でもあり、私の好きな「マンゴーと餅米」の組合せがあった。これがちゃんとしたレストランなら、食べたいところだ。次に、とある雑貨屋の店頭に立った。すると、そこにあったおもちゃの恐竜が、実に良く出来ていた。

涅槃仏のワット・リム・ポー


涅槃仏のワット・リム・ポー


涅槃仏のワット・リム・ポー


涅槃仏のワット・リム・ポー


 そこから近いところに、いよいよ涅槃仏のワット・リム・ポー(Wat Laem Pho)がある。寺域に入ると、直ぐ左手にあった・・・あった。目指す涅槃仏が。真っ青な空の下に、金ピカの仏様が横たわっている。お身体が極めて長い。お顔は、タイの仏像一般がどちらかと言うと無表情に近いのに対して、こちらは、やさしく微笑みを浮かべているように見える。そのお顔を眺めるために場所を移動すると、顔の感じが変わっていく。なるほど、よく出来ている。横たわった両足の裏まで行くと、そこにはたくさんの仏像らしき文様が数多く彫られていた。そのほか、このワット・リム・ポーには、その他数多くの仏像があったが、青空の下にある金色の涅槃仏から受けた強烈な印象ほど、記憶に残るものはなかった。この他、山奥の寺院(Phra Maha Chedi Tripob Trimongkol)にも行きたかったが、集合時間が迫っているので、また次回の楽しみとなった。

涅槃仏のワット・リム・ポー


涅槃仏のワット・リム・ポー


涅槃仏のワット・リム・ポー


 ところで、W3ホテルのロビーでガイドの車を待っているとき、ある華人女性が、受付に、壊れたシャンプーの瓶をプラスチック袋に入れて持ってきて、何事か訴えている。大声なので、聞こうとしなくとも耳に入る、それによると、「このシャンプーの瓶は、口がしっかり閉まっていなかったので、私が持った時に落ちて割れた。これは、ルームサービスがいい加減だったからで、私の責任ではない。」という。ちなみにこのシャンプーの瓶は、上を押すとシャンプーが出てくる金具の口があり、それが丸い陶器の瓶に載っていて、その金具を持った時に陶器の瓶が落ちて割れたらしい。すると受付女性は、「あなたには、400バーツ(1450円)を払ってもらいます。」とピシャリと言う。その華人女性は、「それは心外だ。少なくとも責任の半分は、ルームサービスにある。私は、半分しか払わない。」と反論する。しばしのやり取りの後、閉口した受付女性が、「それでは、マネージャーに聞いて来ます。」と言って、壁の向こうに消えた。

 ややあって、50歳ぐらいのおばさんを連れてきた。その人は、華人女性の話を聞いた後、「わかりました。では、ゼロにしましょう。支払う必要はありません。できれば、これに懲りずに、また来て下さい。」と、泣かせることを言う。華人女性は、その人と握手し、喜んで帰って行った。そのおばさんは、ホテルの制服を着ていなかったので、私と目が合ったときに、私が「あなたは、このホテルのオーナーか?」と聞いたら、やはりそうだった。「今のやり取りを聞いていたけど、なかなかのものだった。」と誉めると、「わざわざ壊れたシャンプーの瓶を持ってきてくれたのだから、正直なお客さんです。これで嫌な思いをせずにまた来て貰えたら有難いし、元が取れる。」というので、さすが商売上手の中国人だと感心してしまった。私が「この商売は、どうですか?」と聞くと、「まだ7ヶ月目だから何とも言えないが、今月に入ってからようやく手応えを感ずるようになった。」という。また私が「ホテル名の『W3』とはどういう意味か?」と尋ねると、「Wは私のミドルネーム、3は、ここが3番通りだから。」というので、笑ってしまった。

3Dミュージアム


3Dミュージアム


3Dミュージアムのマジック・ショー


 さて、皆が集合してから、「3Dミュージアム」(Magic EYE 3D Museum)なるものを見に行った。モナリザ、アインシュタインの顔、恐竜、パンダなど色々とあったが、3D自体を本当に楽しむなら専用のアプリを入れる必要があるし、入れたところでまるで子供だましのごとくである。それより、併設の「ブラック・マジック・ショー」が面白かった。マジシャンが女性を横たわせて細長い箱に入れ、身体の中心部に二枚の板で区切りを挿入して二つに分離する。それを回して見せると、確かに両足の部分が分離している。ところがまたそれらを連結してみせると、何事もなかったように、女性を立ち上がったではないか。観客が大きな拍手を送る。次の場面では、同じく女性を横たわせて、宙に高く浮かせる。上からも下からも紐や支えがないことを見せるために、金属の輪を女性の身体に通す。そして、高く上げた後、徐々に高さを下げていき、腰の高さで女性を自然に立ち上がらせた。これも、見事な技である。どういう仕掛けなのか、さっぱりわからない。そうかと思うと、女性とマジシャン本人がカーテンの中に入って、それをユラユラと揺らす。カーテンが落ちたと思ったらそこには誰もいなくて、本人が遥か遠くの観客席の後ろから出てきたので、これには唖然とした。

 幕間にピエロが出てきて、軽妙な輪投げをする。観客を指名して、それに向かって輪を投げ、投げ返される輪を頭で受ける。上手いものだ。観客の一人に舞台に上がってもらう。一人といっても、わずか3歳くらいの女の子だ。なかなか勇気がある。ピエロがその女の子の両手に細い棒を一本ずつ持たせる。あれ、女の子の様子がおかしい。目が据わってきた。舞台に上がったのはいいが、どうしてよいかわからなくなって「固まって」しまったらしい。ピエロからはその様子が見えないので、皿回しをやって、その皿を女の子の持つ棒に乗せる。ところが棒がだんだん傾いてきて、皿が転がり落ちる。ピエロが大袈裟な身振りでそれを拾って乗せるものだから、観客は爆笑の渦に見舞われた。その子のお母さんも、一喜一憂しながら、可笑しくて涙まで出てくる始末。最後は、女の子がようやく両手の棒を垂直に構えることが出来て、目出度く両手の皿回しが完成したので、やんやの喝采を浴びていた。

 夜は皆で、中国語のネオンサインが輝く中華街に行った、渋滞する狭い道の両脇に屋台が並び、老若男女、子連れ家族、カップル、色々な人種がのんびりとそぞろ歩いている平和な風景である。これこそ、ハートヤイの誇る繁華街だ。大手デパートがあった。その入り口にセキュリティ・チェックがあり、ガードマンがお客さんの荷物の中を覗いている。たった一人なので、真面目にやっているとは、とても思えない。形だけなのかもしれない。その中の大きな中華レストランに入り、丸テーブルを囲んでワイワイガヤガヤと食事をした。満腹になって出てくると、おやおや、「京ロール」の店があるではないか。甘いものは別腹とばかり、店がお勧めの抹茶アイスクリームに小豆その他何やかやと乗ったデザートを頼んだ。それが出来上がって、お金を支払おうとして財布を取り出した瞬間、注意が逸れてアイスクリームの容器が傾き、何とまあ、その「何やかや」が床に落ちてしまった。店員さんは慣れたもので、再度それらをアイスクリームに載せてくれて、しかも床を丁寧に拭いてくれた。これは感心で、お礼を言って出てきた。

 通りに出て歩くと、そこには夜店が歩道一杯に立ち並び、その中をイカを焼く香りや食べ物の匂いが渾然一体となり、そこへ呼び込みの声、群衆の雑踏のざわつきなど、まるで日本の神社の縁日のようである。こんなことを一年中やっているとは、華僑の皆さんのエネルギーには感心するばかりだ。私はスリに遭わないように、左ポケットにパスポート、財布、アイフォンをまとめて入れて、それを左手で押えながら歩いて行った。すると、通行人の中には、通りかかった小さなトゥクトゥクを停めて、値段交渉をやっている中国人家族がいた、話がまとまり、順番にトゥクトゥクに乗り込んでいく。それがまあ、あの小さな車体に、お爺さんお婆さん、お父さんお母さん、太った若者3人から若い娘2人まで、計9人も乗り込んで出発したのには驚嘆した。

 いやまあ、非常にユニークで面白い旅だった。それにしても、世界は広い。これだから、外国の旅は止められない。体力と気力が続くまで、世界各地を駆け巡りたい。




(注) サミラビーチに関する海外安全情報

 帰国してから、タイの日本大使館の海外安全情報の対象に、サミラビーチがあった。昨2018年12月27日付けのものである。あんなに平和に見えても、危なかったのか・・・。

   ソンクラー県サミラビーチにおける爆発事案

 報道によると、26日夜(現時時間)、タイ南部ソンクラー県の観光地サミラビーチにおいて、2度にわたり爆発事案が発生しました。現場では更に3個の爆弾が発見されたとの情報もあります。現時点では、負傷者は報告されておりませんが、犯行目的等、詳細は明らかになっておらず、警戒が必要です。

 つきましては、不測の事態に巻き込まれないよう最新の関連情報の入手に努め、また、不特定多数が集まる場所を訪れる際には、周囲の状況に注意を払い、不審な状況を察知したら、速やかにその場を離れるなど安全確保に十分注意して下さい。








 ハートヤイへの旅( 写 真 )





(2020年 1月 1日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:50 | - | - | - |
骨折手術後金属片取出し

取り出された金属プレート


 ちょうど1年前に左手首に怪我をして(左橈骨遠端位骨折)、治療のために金属プレートが埋め込んである。この間、順調に治ってきたので、それを取り出す手術をすることになった。正式には、「左橈骨遠端位骨折術後抜釘」というらしい。

 そもそも、なぜ怪我をしたかというと、風呂場の僅かな水たまりにスリップして床に落ちたからだが、その時に左手首を柔道の受け身のように「順手」で床につけば何の問題もなかったものを、咄嗟に「逆手」でついてしまったことによる。よく、雪国の人が雪で転んでこの形の骨折をするそうだが、まさか風呂場で起こるとは思わなかった。

 その「逆手」で床についたことで、左手首の外側の骨に楔形の切れ込みが入ってしまった。これでは長い間、左手を動かすことができないので、その折れた部分の反対側の左手首の内側に、小さな手の形をした金属プレート(チタン製)を埋め込んで支えようというのが、前回受けた手術である。そのおかげで、12月に怪我をしたのに、もう翌年の4月初めからテニスを再開した。もう少し正確に言うと、医者は「テニスをするには少なくとも6ヶ月は間を置かなきゃ。」と言っていたのに、「私のテニスはバックも含めて全て右手一本でやっているから大丈夫」と思って、4ヶ月後から勝手に再開した。

 以上のようなことで、今回は埋め込んだ金属プレートを取り出す手術をしたというわけである。木曜日に入院して金曜日の午前中に手術を受け、翌土曜日の朝に退院した。ただ、健康体だから、身体測定しても、体温は36.8度、血圧は上が113、下が74と、別に異常値ではない。もっとも、手術直後の夕刻には、体温は37.0度、血圧は上が134、下が98と、かなり上がっていたが、寝る前には平常に戻っていた。

病室からの眺め


 手術前日には、家内と話したり、担当の看護師さん(2年目、埼玉出身)と四方山話をしたり、iPadで先週の京都・滋賀へ紅葉の旅の顛末を書いていたりと、のんびりと過ごした。ちなみにその手術を受けた病院が、今年5月に、新設したビルへと移転した。だから今回はその新設ビルに入院したことから、入院環境が大きく変わった。まずは、個室がビジネスホテル並みに大きくて綺麗になった。眺めもよい。シャワーも部屋にある。お値段は、一日約3万円だが、同室者のいびきなどに悩まされるというようなことはないから、それなりのことはある。

病室の様子


 さて、手術の当日、手術着が届けられた。それを着て、家内に見送られて歩きで手術室に向かった。手術室のフロアも、廊下が広くて清々としている。ただ、手術用のエレベーターの速度が遅くて、長く待たないといけない。この点は、旧病院の悪い所を受け継いでいる。

 今回は全身麻酔はせず、左手の部分麻酔だから、何が行われているかがよくわかる。それどころか、手術医とのやり取りで進められる。超音波で神経の構造を見つつ、左腕の内側根元に麻酔液を注射していく。即効性と遅効性の薬を半々に混ぜ合わたものだ。指先のどの部分が痺れるかを確認しながら、「はい、2cc、逆流ありませんか。」「はい、なーし。」などと、徐々に注入していく。それが全て終わると、先生たちはいったん引き上げ、しばらくして私の左手の感覚がなくなった。

金属プレートを取り出す前の患部


 前回に切開した縦の5ないし6cmほどの傷跡(上の写真)をなぞって切り開き、埋まっている金属プレートと10本のネジを取り出すというものだ。手術が始まり、まず切開しているようだ。それからネジを回して一つ一つ取り出し、最後に金属プレートが出たようだ。少しも痛くはない。時々、右腕に装着された血圧計が作動して、腕を締め付ける。そのうち、切開された部分が閉じられたようで、「はい、終わりました。」との声でホッとする。

 今度は歩けないので車椅子に乗せられて部屋に帰ると、家内が安心した顔で迎えてくれた。お昼の12時を過ぎていたので、食事が届けられている。それを見た瞬間、朝食抜きだったのを思い出し、急にお腹が空いてきた。そこで、食べ始めたところ、全く普通に食べられたので、我ながら安心した。

 それにしても、病院食というのは、1食分の量が、これほど少ないとは思わなかった。大根サラダはほんの少し、カボチャの煮付けはたった一切れ、鶏の唐揚げはたった3個、それにご飯一杯だ。これらの中で、おかずは私が普段食べている量の半分だ。ただ、ご飯の量は家では130gと、この病院食の半杯だから、そこでカロリーを調整していたようだ。

 翌日朝、担当医がやってこられて、グルグル巻かれた患部の包帯を外してチェックしてくれた。前回と違って今回は縫ってあり、真ん中の縫い目の間の3箇所から血が滲み出ている。思ったほど痛くはない。昨晩、痛み止めのロキソニンを飲んで寝たが、それ以降は飲むほどではないので、飲まないままで過ごしている。

 そういうことで、無事に手術が終わって、自宅に帰っている。特に痛みはなく、体温、血圧とも正常に戻った。それにしても、切開された場所は、血管、神経、腱などをちゃんと避けている。まさに、プロフェッショナルの技だ。なお、今回の手術では、リハビリの必要はないので、助かる。

 退院までに、私の左手の埋め込まれていた金属プレートとネジ(冒頭の写真)が綺麗に洗って私の下に戻ってきた。いわば、「お土産」である。それを見ると、金属プレートの方はレントゲン写真で見慣れているので、「ああ、これか」という気がするだけだが、10本のネジは、こんなに長いものだったのかと驚く。いずれにせよ、これで1年間に及ぶ私のサイボーグ時代は終わった。下の写真は1週間後の姿で。抜糸は更にその1週間後を予定している。

金属プレートを取り出した患部


 この先、再生医療技術が進歩すると、こんな単純なものではなく、医者が「ああ、これは心臓が悪いからだ。それでは、全体を取り替えましょう。」などと言って、体外でiPS細胞を使って臓器培養してできた心臓で丸ごと取り替えたりする時代が来るかもしれない。腎臓、心臓、肝臓でそれが進むと、今は高々100歳の寿命が、120歳くらいになるかもしれない。面白い時代になったものだ。それまで、ボケないようにせいぜい頑張ることにしよう。

 ところで、入院した後にこの病院の差額ベッド代(消費税抜き)の表示を見たところ、次のようになっていた。

  特別個室 A 200,000円 (特別)
  特別個室 B 150,000円 (特別)
  特別個室 C 85,000円 (特別)
  特別個室 D 70,000円 (特別)
  個室(有料) 27,000円 (一般)
  4人床(有料)7,000円 (多床)
  4人床(無料) (多床)

 なるほど、私は個室(有料)だったのか。道理でビジネスホテル並みだったわけだ。すると、特別個室というのは、四つ星から五つ星ホテルに相当するものだろう。それにしても、特別個室 A というのは、どんなものだろうと思っていると、それが載っている病院の資料があった。それによると、部屋はスィートルームのように広々として常に笑顔を絶やさないコンシェルジュが控え、看護師さんも愛想よく、夕食は、(1)うなぎ、(2)ビーフステーキ、(3)海老チリソースの3つから選べるという。五つ星ホテル並みのつもりかもしれない。

 今回の私のように、健康体で、ちょっと切開して取り出すというのではなくて、怪我したばかりで痛くてかなわないという状況だと、鰻だろうがビフテキだろうが、ともかく何も食べたくない、コンシェルジュにも相談することもないというときには、まるっきり無駄で役に立たないのではなかろうか。だから、いささか妄想の類いだが、ここは永田町に近いということもあり、特にAは、「エレベーターが別になっていることだし、健康体なのだけれど、報道陣から逃れるために身を隠す」という使い方があるのかもしれない。

 それにしても、残るBとCとDの差は何か?たぶん、部屋の広さだろうが、コンシェルジュは付くのか、バスタブはあるのかなど、疑問は尽きない。いや、「疑問」ではなく単なる「興味」にすぎないが・・・。まあ、入院してみるとわかる話だが、なるべく入院せずに過ごしたいものである。ともかく、人生初の入院・手術を体験し、良い経験になった。





(2019年12月7日記)


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