飛騨高山への旅

高山陣屋前の広場で、からくり3屋台



1.高山春祭りは雨


 前日の高遠城址公園では、絶好の快晴日和で、高遠小彼岸桜と南アルプス連峰を眺めることができ、満足する写真を撮ることができた。そこで、本日は飛騨高山の春祭りもさぞかし・・・と期待していたのだが、そうは幸運は続かないもので、祭りの途中で小雨が降りだしてきて、期待外れに終わった。

 そもそも、午前11時から高山陣屋前の広場で春祭りとして繰り出す11台の屋台(山車)のうち、「からくり人形」のある3台が演技をするというので、とても楽しみにして行った。ところが、雨模様のために急遽繰り上げて午前10時からになってしまったようで、10時半頃に広場に着いたときには、もう3台目の「三番叟」の演技が終わろうとしていた時だった。慌ててカメラを構えたが、果たしてどれだけ撮れたか心もとない。それでも、「神楽台」を先頭に、「三番叟」「石橋台」「龍神台」の4台が勢揃いする雄姿が見られただけでも良しとしよう。その他の屋台は、各町内にあるそれぞれの屋台の車庫(?)に全て帰っていったらしく、並んでいたはずの道路上はもぬけの殻だった。

 せっかく、ツアーで現地滞在5時間の余裕を持たせてくれたのに、このままでは終われないと思って、地図を見ながら11台全ての屋台の車庫を見て回ることにした。幸い、この日は屋台の車庫の扉を全開にしてあり、その前を通りかかると、その姿を写真に収めることができる。中には、その町内の方が親切にも、屋台を背景に写真を撮ってくれるところもあった。


高山祭りの倉庫の屋台


高山祭りの倉庫の屋台


 そういうことで、神楽台(かぐらたい)、三番叟(さんばそう)、麒麟台(きりんたい)、石橋台(しゃっきょうたい)、五台山(ごたいさん)、鳳凰台(ほうおうたい)、恵比寿台(えびすたい)、龍神台(りゅうじんたい)、崑崗台(こんこうたい)、琴高台(きんこうたい)、青龍台(せいりゅうたい)と回ってみた。町内の散らばって置いてあるので、それを行きつ戻りつしながら見て歩いたから、かなり疲れた。その中でも、大國台(だいこくたい)は、お祭りの中心の中橋からはかなり離れたところにある。やっとのことで、その前に来たら、なんと倉庫の扉は閉まっていた。そういえば、春の屋台は12台と聞いていたのに、今年は11台が出るということだったので、ではその出ない1台は、これだったのか。くたびれ損だったかと、徒労感が残る。

 ともあれ、歩き回ったから、疲れも限界にきた。お昼をかなり過ぎたので空腹感を覚えた。そこで、たまたま見つけた飛騨牛ステーキ屋さんに飛び込んで、それを注文した。味噌の味で、いささか塩気が強かったが、十分に美味しかった。街中では、五平餅、串カツ、コロッケ、みたらし団子はもちろん、飛騨牛握りなるものまで売られていたが、そういうものを口にすると無駄に太るから食べないようにしていたので、このステーキで、ようやく元気を取り戻した。


2.神楽台・からくり3屋台

(1)思いがけず写真が


三番叟


 ところが、思いがけないことが起こるものである。帰ってから、撮った写真を整理していると、最初の高山陣屋前からくり人形の演技が結構撮れていたので、我ながら驚いた。というのは、からくり人形の演技が急遽1時間も早まったことから、それを知らない私たちが到着したのはもう終了の15分ほど前で、ほとんど観る時間がなかった。しかも陣屋前広場の端で演技中の3台の屋台からは、相当離れている場所(中橋のたもとに近いところ)で観るほかなく、大勢の人々の頭越しにカメラを構えなければならない。仕方がないので私はカメラの液晶画面のチルト機構を利用し、両手を伸ばしてカメラを構えながらその液晶画面を頼りにシャッターを押すのだけれども、そんな苦しい姿勢では焦点を合わせるどころではない。しかも困ったことに、液晶画面に光が反射してよく見えない。こんな悪条件にもかかわらず、それなりの写真が撮れていたから、びっくりしたのである。これというのも、タムロンの望遠レンズとキヤノンのデジタル一眼レフのおかげである。

石橋台(右)と龍神台(左)


 気を良くしたので、それでは、からくり人形のある3台の屋台について撮った写真と照らし合わせて、少し書き残していきたい。その前に、高山市の観光情報によると、「16世紀後半から17世紀が起源とされる高山祭。高山祭とは春の『山王祭』と秋の『八幡祭』の2つの祭をさす総称で、高山の人々に大切に守り継がれてきました。このうち、高山に春の訪れを告げる『山王祭』は、旧高山城下町南半分の氏神様である日枝神社(山王様)の例祭です。毎年4月14日・15日、祭の舞台となる安川通りの南側・上町には、『山王祭』の屋台組の宝である屋台12台が登場。うち3台がからくり奉納を行うほか、祭行事では賑やかな伝統芸能も繰り広げられます。」とのこと。

(2)神楽台


神楽台


 一連の春の屋台の最初に並ぶ「神楽台」が、高山陣屋前に並ぶ3台の「からくり屋台」に相対する形で中橋を背にして置かれていたので、まずその神楽台についての高山市の解説を見てみよう。それによると、「<沿革>古くから山王祭の神楽、獅子舞を主管し、初めの頃は白木のわくに太鼓をつって二人でかついだものでした。文化年間(1804年〜1818年)、四輪の屋台形にし、嘉永七年(1854年)の大改修により現台形となりました。明治26年(1893年)改修。その後数度の改修が行われています。(嘉永改修) 工匠 谷口延儔(のぶとし)、 彫刻 谷口与鹿(よろく)(明治改修) 工匠 村山民次郎、塗師 田近宇之助、金具 井上芳之助(構造) 屋根無 太鼓昇降 四輪外御所車

 <特色>祭礼に際しては、侍烏帽子(さむらいえぼし)、素襖(すおう)姿の五人の楽人を乗せて獅子舞を付随させ、全屋台に先行します。曲は『場ならし』『高い山』など多数あり、場所により使い分けられます。嘉永の改修のとき、金具に一坪(3.3平方センチメートル)あたり一匁(4グラム)の純金が使用されました。」
ということである。

(3)三番叟


三番叟


 次に、高山陣屋前に並ぶ「からくり屋台」3台のうち、向かって一番右にある「三番叟」についての高山市の解説によると、次の通りである。「<沿革>宝歴年間(1751〜1764)の創建で、台銘は「恩雀(おんじゃく)」、天明年間(1781〜1789)に翁操りを取り入れ「翁(おきな)台」と改銘、文化三年(1806)に雛鶴(ひなずる)三番叟の謡曲による操り人形に替え、台銘も三番叟となりました。天保八年(1837)、現在の台形に改造され、大正七年と昭和四十一年に大修理が行われました。(天保改造) 工匠 牧野屋忠三郎・彦三郎、(構造)切破風屋根 四輪内板車

 <特色>二十五条の細綱で操るからくりがあります。童形の三番叟人形が所作を演じつつ、機関(からくり)樋の先端へ移行した聯台(れんだい)上の扇子と鈴を持ち、面筥(めんばこ)に顔を伏せ、翁の面を被り、謡曲『浦島(うらしま)』に和して仕舞を演ずるという構成です。屋台曳行順のくじは、必ず『一番』を引くことになっていて、神楽台についで他の屋台に先行する慣例となっています。」


動き出す三番叟屋台


 確かに、三番叟人形は童顔で、これが顔を伏せたかと思うと、いきなりお爺さんの顔になる。だいたい、「三番叟」とは何だろうと大辞林をひもとくと「能の『翁』を、三番叟の部分のみ舞踊化した歌舞伎所作事」とある。意味や背景を書いてくれないと、さっぱりわからない。こういう時は、ウィキペディアの助けを借りるしかない。それをまとめてみると、「三番叟の舞は2段に分かれ、前半の揉ノ段は面を付けず、足拍子を力強く踏み、軽快・活発に舞う。後半の鈴ノ段は黒式尉を付け、鈴を振りながら、荘重かつ飄逸に舞う。その前の翁の舞が天下泰平を祈るのに対して、三番叟の舞は五穀豊穣を寿ぐといわれ、足拍子に農事にかかわる地固めの、鈴ノ段では種まきを思わせる所作があり、豊作祈願の意図がうかがえる。」ということなので、人形の顔の変化は、この2つ段を表しているのだろう。

(4)石橋台


石橋台


 高山陣屋前に並ぶ「からくり屋台」3台のうち、真ん中の屋台は「石橋台」である。高山市の解説には、「<沿革>宝暦創建説と天明創建説があります。当初から長唄の石橋の操り人形があったため、台名もこれに由来します。弘化―嘉永年間(1844年から1854年)に改修。文久3年(1863年)大改修し、旧台を古川町に譲りました。(文久改修) 設計 村山勘四郎、工匠 畠中久造、彫刻 下段獅子 村山勘四郎、中段彫り龍 浅井一之(かずゆき)、牡丹 中川吉兵衛、見送り 朝鮮の段通(だんつう)、(構造) 切破風屋根 四輪内板車

  <特色>からくり人形は長唄石橋物(しゃっきょうもの)のうち、「英執着獅子(はやぶさしゅうちゃくじし)」を取り入れたものです。濃艶(のうえん)な美女が踊っているうち、狂い獅子に変身し、また元の姿に戻り両手に牡丹の花を持って千秋万歳(せんしゅうばんぜい)と舞い納める構成です。明治25年(1892年)に風紀上よくないと中止されましたが、昭和59年に復活されました。重厚で調和のとれた屋台です。」
とある。


石橋台


  私が見物していたごく僅かな時間でも、すっくと立つ絶世の美女の人形が、蒼顔の狂い獅子に変身して、体を這わせてぐるぐると回っていた。それにしても、明治期にこれが「風紀上よくないと中止され」たとは、どういうことだろう。そもそも私は「英執着獅子」とは何か知らなかったので、大辞林で調べてみると、「歌舞伎舞踊の一。石橋物の一。長唄。本名題、英執着獅子。初世杵屋弥三郎作曲。前半は手獅子を持って遊女が踊り、後半は、牡丹をあしらった笠を付けて獅子が華麗に舞い納める。」とあったが、ますますわからない。

 それで、更にインターネットの情報をかき集めると、「中国の清涼山という霊山に細い石の橋があり、その向こうは浄土で、人間には渡れない。伝説によると橋の向こうには獅子がいて、牡丹が咲き乱れる中を蝶とたわむれている。それだけでは劇にすると獅子しか出てこないと思ったのか、歌舞伎では女形が前半部分で遊女やお姫様に扮して舞い、後半部分でその女形の衣裳のままで獅子の被り物を被って舞うという。恋する相手に執着する女性として色っぽく舞うから、『執着獅子』という。」とのこと。なるほど、明治の人はそういう知識もあったのかと納得した。

(5)龍神台


龍神台


 最後に、高山陣屋前に並ぶ「からくり屋台」3台のうち向かって一番左手の「龍神台」についての高山市の解説は、「<沿革>創建年代未詳。安永4年(1775年)に弁財天像に猿楽を舞わせたとの記録があり、文化4年(1807年)の屋台曳順の「龍神」の台名がみえます。またこの頃、竹生島(ちくぶしま)弁財天にちなみ、「竹生島」とも呼ばれました。文化12年(1815年)に改造し、弘化3年(1846年)に修理。明治13年(1880年)から3年がかりで再改造され、唐破風屋根を現在の切破風に替えています。昭和41年、半丸窓上に龍彫刻が取り付けられました。(文化改造) 工匠 谷口紹芳、(明治改修) 工匠 彫刻 谷口宗之、塗師 小谷屋正三郎、(構造) 切破風屋根 四輪内板車

 <特色>32条の糸を操って龍神のはなれからくりが演じれます。これは、竹生島の龍神にちなんだもので、8尺余りの橋樋の先端に、唐子によって運ばれた壷の中から突然赫(あか)ら顔の龍神が紙吹雪をあげて現れ、荒々しく怒り舞うという構成です。見送りは試楽祭には望月玉泉(もちづきぎょくせん)筆の雲龍昇天図、本楽祭は久邇宮(くにのみや)朝彦親王の書で、明治天皇の鳳輦の裂れで表裂されたものを用いています。」
というが、残念ながら、今回はその演技を見る機会がなかった。



 高山春祭り(写 真)




3.高山陣屋をじっくり見学

高山陣屋


 そこで、せっかくだから、高山陣屋(かつての高山奉行所)に立ち寄ることにした。前回来たとき(平成29年1月7日)も見学したが、あまり時間がなかったので、じっくりと見て回る暇がなかった。その点、今日は大丈夫だ。江戸時代には全国におよそ60強の奉行所があったが、そのままの建物が現存しているのは、ここ高山のみだというから、これは貴重な文化遺産である。

 今回いただいたパンフレットによれば、「元禄5年(1692)、徳川幕府は飛騨を幕府直轄領としました。それ以来、明治維新に至るまでの177年に25代の代官・郡代が江戸から派遣され、幕府直轄領の行政・財政・警察などの政務を行いました。御役所・郡代役宅・御蔵等を併せて『高山陣屋』と称します。明治維新後は、主要建物がそのまま地方官庁として使用されてきました。昭和44年に飛騨県事務所が移転したのを機に、岐阜県教育委員会は、全国にただ一つ現存する徳川幕府郡代役所を保存するため、平成8年3月まで三次にわたり、復元修理を行いました。こうして江戸時代の高山陣屋の姿がほぼよみがえりました。」とある。

 高山陣屋のHPに書かれていたことをつなぎ合わせてみたところ、こういうことのようだ。「そもそもこの飛騨は、天正14年(1586年)から金森氏が6代(106年間)にわたり支配してきた地である。ところが幕府は、この飛騨の国が豊富な山林資源(木材)と地下資源(金・銀・銅・鉛)に恵まれていたことから、元禄5年(1692年)に金森氏を出羽国(現在の山形県と秋田県の一部)の上山に国替えさせ、飛騨を幕府が直接支配する「幕府直轄領」(幕府領・幕領)とした。それ以来、幕府支配の出張所(出先機関)として高山に役所が置かれ、それがのちに陣屋と呼ばれるようになった。当初は幕府から飛騨代官が派遣されていたが、安永6年(1777年)には飛騨郡代に昇格し、他の郡代役所(関東・西国・美濃)と並んで幕府の重要な直轄領となった。幕末には全国に60数ヵ所あったと言われている郡代・代官所の中で当時の主要建物が残っているのはこの高山陣屋だけで、全国で唯一、当時の建物が現存する遺跡として、昭和4年(1929)には国史跡に指定された。」


高山陣屋


 天保3年(1832)に建てられたという表門をくぐると、右手には山茱萸(さんしゅゆ)の木があって、一面に黄色い花を付けている。思わず稗搗き節「庭の山茱萸のぉきぃいい、鳴あるうぅ鈴うぅ掛けぇてぇ、ヨーオオーホイ」という歌が頭に浮かぶ。これがそうかと、しげしげと眺めた。秋には茱萸(ぐみ)のような赤い実が生るようだ。(もっとも、「山茱萸の木」ではなく、「山椒の木」という説もある。)

高山陣屋玄関之間


 それから玄関に入るが、藍染の葵の紋の天幕が凛々しくて清々しい。白い砂に波模様が描かれたところを通る。まるで龍安寺の石庭のようだ。通ると、身が引き締まる思いがする。さすが、代官所だけのことはある。文化13年(1816年)の改築以来そのままの「玄関之間」では、「10万石格を示す2間半の大床や、床の壁一面の青海波(波の模様)が目を引く。式台は身分の高い武士が駕籠で乗りつけるため低くしつらえてある」そうだ。

高山陣屋御用場


 廊下を歩いて行くと、「御用場」、つまり地役人の勤務する事務室(35畳)がある。ここで、前捌きをしていたのだろう。黒光りする漆塗りの小さな机と、火鉢が印象的である。次に、郡代、手附が執務を行う部屋の「御役所」(28畳)がある。ここが役所の中枢部という。これらの部屋の縁側のすぐ外には、御白州が広がっている。

 廊下を突き当たって右に曲がる。すると、「寺院詰所」があり、宗門改めのために僧侶が詰めたところらしい。その横に「町年寄、町組頭詰所」があって、これらは御役所の仕事を手助けするために町役人が詰めていたところで、身分が違うために出入口も異なっていた。「湯呑所」があり、部屋の中央部にある囲炉裏が、もはや忘れてしまった日本の伝統を思い起こさせる。「台所」の二つの大きなお釜には、存在感がある。

 「手附・手代の役宅跡」があった。飛騨代官(後に昇格して「郡代」)は、その職務遂行のために直属家臣を伴って着任したが、この家臣を手附・手代といい、その首席を元締と称した。用人部屋、女中部屋、下台所などがある。


高山陣屋下台所


高山陣屋下台所


 郡代が日常生活を送る「御居間」(嵐山之間)は書院造りで、床の間には漢詩の掛け軸が下がっていて、その右側には違い棚がある。私の小さい頃は、こういう床の間や違い棚を備えている住宅が普通だった。床の間には、季節の変わり目になると、父がその季節に合った掛け軸を掛けていたものだし、違い棚には、母が一輪の花を生けていたものである。また、小さな区画があるなと思ったら、「御囲い」という茶室だった。

高山陣屋庭


 濡れ縁越しに、広い庭を一望することができる。庭には、形よい庭木、リズミカルに続いている飛び石、やや遠いもののちゃんとした池がある。江戸時代から、こういう現代に通じるスッキリした庭があったのかと思うと、日本文化も捨てたものではない。腰を下ろして、しばらく庭を眺めていた。心が落ち着く。記録によれば、天明年間に造りかえられて、その後もしばしば手が加えられたそうだ。あまりに居心地が良いからか、どこからか白人の赤ちゃんが這って来たのには驚いた。これがまた、可愛いことといったらない。

高山陣屋で赤ちゃん


高山陣屋大広間


 「大広間」に行くと、三つの広間が繋がっている。やはり書院造りで、向かって左側の床の間には「義」と「孝」の掛け軸が下がっており、右側には違い棚がある。ここは、「書院」といって、儀式、会議、講釈などが行われる場所だった。南のお白州は、刑事事件の取り調べを行う吟味所でぐり石が敷いてあり、拷問の道具である責台、自白を迫る抱き石、罪人を入れる籠などがある。なお、民事関係は、北のお白州で扱ったそうだ。

高山陣屋南のお白州


 年貢米を収納する「御蔵」が大きくて実に立派なので感心した。幕府の支配の根源なのだから、それも当然である。中に入ると、年貢米の俵が壁一杯に積まれていて、1俵には玄米4斗と込米(付加税)1升が入っている。この御蔵は、元禄8年(1695年)に高山城三之丸から移築されたとのこと。創建以来、約400年もの歴史があり、全国でも最古かつ最大の米蔵だそうだ。

 それにしても、これだけ集めた年貢米をどうやって移出するのだろう。地図を見ると、高山を南北に通る宮川というのが流れていて、下流で高原川と合流して神通川となって富山湾に注いでいるから、このルートかもしれない。でも、そんな山奥を年貢米が通って大丈夫か。アメリカ西部で連邦政府の金塊を載せた幌馬車が襲われたように、山賊の類いに襲われないか。幕府は相当な数の警備の者を付けたに違いないなどと、想像が膨らむ。

 陣屋を出ようとして靴を履いていると、中年の白人のご夫婦で、どちらも半ズボンという出で立ちの二人がいた。気温は摂氏7度と低くて、私には凍える寒さだ。そんな格好で寒くないのかと思い、つい、「どこから来たのか、寒くはないのか。」と聞いてしまった。すると、「アイルランドから来た。これぐらいは普通だ。」というので、側にいたイスラエル人ともども、びっくりした。






 高山陣屋(写 真)








(2019年4月14日記)


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信州高遠城の桜

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 かねてから行ってみたかった信州高遠城址公園にとうとう行くことができ、念願の高遠小彼岸桜(コヒガンザクラ)を観てきた。今が満開なら良かったのだが、五分咲きといったところである。でも、西の勘助曲輪(かんすけくるわ)からは桜越しに甲斐駒ケ岳などの南アルプス連峰が見えたし、南曲輪(みなみくるわ)や法幢院曲輪(ほうどういんくるわ)ではもう桜が満開に近くて、真っ青な空にピンク色の桜の花がますます赤みを帯びて見えた。

 鉄道とバスでどう行こうかと事前に研究したのだが、結論としてツアーに参加することにした。というのは、公共交通機関で行くと、新宿 → (中央線特急)→ 松本 → 飯田線伊那市 → バスというコースで片道4時間半もかかる。加えて翌日の飛騨高山春祭りにも行こうとすると、距離的には近いのだけれど電車を使うとこれまた大変なのである。


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 そういうわけで、第1日は高遠城址公園、第2日は高山祭りというツアーにした。新宿→茅野間は特急あずさ、あとはバスという行程なのだけれど、宿泊は岐阜羽島と聞いて驚いた。しかし、高速道路が整備されているので、 高山までは2時間半程度で行けるそうだから、バスがあるなら合理的な選択といえる。

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 高遠城址公園に到着した。城址公園のすぐ横の駐車場から坂を上ったらもう中心部だ。「天下第一の桜の碑」があり、その向かいに「桜雲橋(おううんきょう)」があり、それは「問屋門」につながっている。でも、まだ渡らずに、坂を下りて下から桜雲橋を見上げると、いや、これはすごい。橋の上には桜の花が覆い被さり、橋の下から向こうを見通すと、これまた桜の花の洪水のようなものである。素敵な写真となった。

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 再び桜雲橋まで上がって、今度は橋を渡って「本丸」があった位置まで行くと、そこここに高遠小彼岸桜の古木がある。それを突っ切って太鼓櫓の近くまで行くと、眼前に南アルプス連峰が広がる。その中で一番目立つのが、「甲斐駒ケ岳」だそうだけれども、地図がないので、どの山か甲斐駒ケ岳なのかは、いまひとつ自信がない。

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 それでも、快晴の空の青さ、南アルプス連峰に積もった雪の白さ、桜の花のピンク色は、まさに組合わせの妙である。こんなに素晴らしい色の組み合わせは、そうめったにあるものではない。夢中になってシャッターを切ったところ、出来上がった写真は、絵葉書にでもしたいような図柄となった。芸術性はともかく、素人としては望外の出来となった。

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 もと来た道を戻り、今度は「二の丸」へ行く。いやはや、この辺りは屋台でいっぱいだ。ただ、私は体重コントロール中なので、こういう食べ物を口にしたら、何キロ太るかわからない。だから、一切、口にしないことにしている。また、酒も飲めない口なので、こんなところで地元のお酒を1杯飲んだら楽しいだろうなと思いつつ、屋台の前を素通りした。

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 それから、陽当たりの良い「南曲輪」と「法幢院曲輪」に行ってみたら、こちらの桜はほぼ満開のピンク一色で、実に見事なものである。真っ青な空の元で、満開の桜の花を下から見上げ、思わず息を呑んだり、果ては溜め息をついたりと、人によって楽しみ方は色々だ。特に南曲輪の先端部では、頂上に雪を抱いた山々を再び桜越しに見ることができる。私の聞き違いでなければ、近くを通ったガイドが、「中央アルプス宝剣岳の直下に広がる千畳敷カールが見える」と言っていた。最後は、登録有形文化財「高遠閣」に立ち寄り、「新庄藤原神社」の脇から、坂道を下って、帰途に着いた。

 ところで、伊那市観光協会からいただいたパンフレットに、高遠小彼岸桜について、次のような記事があったので、ここに記録しておきたい。

「タカトオコヒガンザクラはこの地にしかない固有種で、花形はやや小ぶりで赤味が強いのが特徴です。高遠城址公園には明治8年頃から植え始め、樹齢140年を超える老木を含め、現在では約1500本の樹林となっています。桜の日本三大名所とこの公園は満開を迎えると訪れる人々を桜が包み込み、その可憐さと規模の大きさは『天下第一の桜』と称されます。その樹林は県の天然記念物の指定を受け、平成2年には日本さくらの会の『さくら名所100選』に選ばれています。」

 ちなみに、高遠小彼岸桜は、あっという間に咲いて満開になり、すぐに散るというので有名だそうだ。そこで、満開のときを狙って行くのは難しいらしい。あまり他の地には植えられていないものの、それでも、かつての藩主だった内藤家の縁で、新宿御苑や新宿区中央公園に若干あるというので、今度行ってみて、確認して来ようと思っている。







 信州高遠城の桜(写 真)




(2019年4月13日記)


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桜の季節 2019年

千鳥ヶ淵の桜


1.皇居北半周(千鳥ヶ淵など)

 いよいよ平成最後の桜見の季節になった。まずは牛ヶ淵濠より始まって千鳥ヶ淵濠から、皇居のお濠を北から半蔵門までを半周した。私は、なんと言っても千鳥ヶ淵が日本の「桜の王者」であると思っている。かつて私は、次のように書いたことがある。


千鳥ヶ淵の桜


 「ここは、日本の桜の名所の中でもベストワンではないかと思う。というのは、まず、歩いているところが桜のトンネルのように、頭上とお濠寄り一面に広がる枝に、桜が鈴なりなのである。ここまでは、桜の普通の名所と変わりない。しかし、左手のお濠の方に目をやると、対岸に桜の木があり、しかもその岸全体を覆い尽くすように咲いている。その間の緑色のお濠の水面には、ボートがたくさん出ていてゆっくりと動いている。時々それが桜の花で隠れるが、その桜の木は手前の岸の下の方から出ている。だから、ボートが上も下も桜の花で囲まれているように見える。うわぁ、すごいと思わず声が出る。

千鳥ヶ淵の桜


千鳥ヶ淵の桜


 引き続き歩いて行くと、やがてボート場とその上の展望台に着く。お濠に少し突き出しているような形なので、見晴しが良い。そこから今来た道の方を振り返ると、お濠の両側からこんもりした桜の花の山が水面に向かって垂れ下がり、その桜のピンク色が、グリーン色の水面と青色の空の色によく映えて、実に美しい。その間にゆっくりと動き回るボートがいかにも春らしい風情を添えている。いやいや、とても良かった。」
2015年

千鳥ヶ淵の桜


千鳥ヶ淵の桜


 「(千鳥ヶ淵の)何が美しいのだろうと考えてみると、まずお濠に桜が突出していて、そのピンク色がお濠の薄緑色の水面と非常にマッチしている。それに、お濠の向こう側にも同じように桜が咲いている。加えて、頭の上にもまた、桜が咲いていて、もう頭から目が届く先々に染井吉野の洪水のような桜の花の大群に囲まれるからである。また、ボートが出ていると、それがアクセントになる。加えて、空が青ければ、その補色効果でさらに美しくなる。私はここ千鳥ヶ淵こそが、日本の桜の観光地の王者といっても良いと思っている。・・・とまあ、饒舌はそれくらいにして、ともかく洪水のような染井吉野の桜の花の美を堪能していただこう。もう、言葉や文章では表せないほどの美しさなのである。これがたった1週間で散ってしまうとは、なんともったいないことか・・・いや、だからこそ、美しいのかもしれない。」2012年

千鳥ヶ淵の桜


 「この千鳥ヶ淵の桜の何が良いかというと、まずはお濠沿いの道の頭上に染井吉野の並木が立ち並ぶ。ここまではありきたりの風景であるが、それに並行してお濠ギリギリのところにも染井吉野の並木があって、それらの桜がお濠に対してグーンと張り出している。それだけでなく、対岸の皇居側の方にも桜の木があるから、お濠を両岸から桜で覆うようになっていることだ。その桜の雲の下を、のんびりとボートが行き交う。しかもこれらの風景を十分に堪能したところに展望台がある。その真下が貸しボート乗り場というわけだ。そこからたった今歩いて来た方向を振り返ると、まるで四角いキャンバスを2本の対角線で4つに分割したような情景で、上の逆三角形は青い空、下の三角形はグリーン色のお濠の水面、両脇の2つの相対する三角形は桜の雲である。もう、絶景としか言いようがない。これを観て感激しない人はいないだろう。」2018年

 いずれの年の感想も、私の素直な気持ちである。今年の千鳥ヶ淵も、これ以上の描写と感想と賛辞が書けないほどの、素晴らしい桜だった。平成最後の桜だと思うと、ますます愛おしくなるのは、私だけではないだろう。


 皇居北半周の桜(写 真)



2.皇居南半周(大手門など)


大手門の枝垂れ桜


大手門の枝垂れ桜


 家内と二人で、皇居の周りの桜を観てこようとして、自宅から千代田線で大手町駅に行った。大手門に行くと、枝垂れ桜が満開である。ピンク色が強いし、枝の形も美しい。外国人観光客も多い。良い季節に来たものだと思う。しばし桜を愛でたあと、皇居東御苑には入らずに、そこから二重橋方面に向かった。途中、ものすごい人だかりがしていると思ったら、皇居乾通りの一般公開の列だった。それには加わらずに、二重橋(正しくは正門石橋)を眺めて、桜田門を抜け、お濠を時計周りに行くことにした。

法務省のレンガ造りの建物に咲く染井吉野の桜


桜田濠に沿って緩いカーブの曲がり角のところで何本かの染井吉野が満開


 道の向こう側だが、法務省のレンガ造りの建物に咲く染井吉野の桜が美しい。そのまま桜田濠に沿って緩いカーブを曲がっていくと、その曲がり角のところに何本かの染井吉野が満開である。黄色い菜の花が少しだけ、可憐で健気に咲いている。

桜田濠から半蔵門方向を見晴らす


黄色い菜の花が少しだけ


 内堀通りを渡って最高裁判所の前に出ると、その敷地に沿って植えられている染井吉野がこれまた満開だ。更に行くと、隣の国立劇場前の桜である小松乙女、駿河桜、仙台屋、神代曙が既に盛りを若干過ぎたものの、それでも最期の頑張りとばかりに咲きほこっていた。これは見事だと思わず見とれていた。

国立劇場前の神代曙桜


国立劇場前の小松乙女桜


 すると、近くに甘いもの処「おかめ」があったのを思い出した。そこで、二人で仲良くこの季節限定の「桜おはぎ」を食べたら、それ以上歩いていく気がどうにも失せてしまって、そのまま半蔵門駅から家路に着いた。実は、更に歩いていくと「千鳥ヶ淵の桜」に出会う。私はこの桜が東京で一番に美しくて見ごたえがあると思うのだが、きょうは花より団子だ。また別の機会に撮ることにしよう。

「おかめ」の「桜おはぎ」




 皇居南半周の桜(写 真)



3.増上寺・不忍池の桜


 千鳥ヶ淵と国立劇場前の神代曙は別格としても、去年と同じところの桜を観に行くのもあまり芸のない話だから、どこか他の所の桜にしようと思っていた。今日は午前中が空いていたので、まずは芝の増上寺に行くことにした。桜の季節には、東京タワーの上から増上寺を見下ろすと、あの広い寺域全体が淡いピンク色に包まれる。

 増上寺は1393年に創建された浄土宗の大本山の一つで、徳川将軍家の菩提寺であったことから、江戸時代には京都の知恩院と並んで隆盛を誇っていた。ところが明治維新で徳川家は没落した上、明治期に二度の大火に遭い、しかも太平洋戦争の戦災で堂宇は灰燼に帰した。その中で、時間は掛かっているが、大殿、慈雲閣、安国殿などと着実に復興しつつある。


増上寺の三解脱門


 正面の日比谷通りに面したところに三解脱門がある。大きすぎて、いったん道を渡って振り向かないと、全体の写真が撮れない。本日は、御忌大会(浄土宗の元祖法然上人の忌日法要)の日だったらしくて、三門をくぐった参道の両脇には縁日のお店が並んでいた。もう少し待てば、練り行列が見られたのだが、午後からのテニスの予定があって、そうもいかなかった。

増上寺と東京タワーのとりあわせ


増上寺と東京タワーのとりあわせ


 境内にはもう少し桜の木があると思っていたが、そうでもない。本日は空が真っ青で、ピンク色の桜の花が非常に目立つ。ところが、大殿の右手背後にそびえる東京タワーがなんとも言えないアクセントになっている。伝統的仏教建築である大殿と、近代的通信設備の対比が、一瞬奇妙な感覚呼び起こす。いや、見れば見るほど、不思議な空間だ。今日は桜を撮りに来たのに、そちらの方に目が奪われた。加えて、水子地蔵だと思うが、増上寺にお地蔵さんが多くあったのは、意外だった。

増上寺のお地蔵さん


 さて、境内を離れて、東京プリンスホテルとの間の道路を桜並木に沿って歩いて行った。目指すは東京タワーである。歩くにつれて桜並木のあちこちに東京タワーが顔を出す。それを撮るのだけれど、近づくにつれ、タワーが高くなって、ついに見上げると首が痛くなるというところに来たら、もうタワーの足元だった。そこに、鯉のぼりが数多く風に翻っていた。今年で、60周年を迎えるらしい。


東京タワー


 神谷町の地下鉄の駅から帰途に着いたのだが、途中、不忍池周辺で桜と野鳥を見たいと思い、湯島駅で降りてみた。すると、弁天堂の周りに桜の花垣ができている。染井吉野である。池の周りにも桜があるが、残念ながら「関山」で、まだつぼみである。私はこの関山という八重桜が大好きで、いつも咲くのを楽しみにしている。というのは、ピンク色が強いし、花が八重なので非常に豪華な印象を与え、しかも長持ちもするからだ。ところが、開花が染井吉野よりも1週間ほど遅い。だから今日は少し早かった。また来週末にでも来てみよう。

弁天堂の周りに桜


白鷺


 もう一つのお目当ての野鳥だが・・・いたいた、白鷺が池の中にいた。これは、コサギである。浅瀬に入って水面をじっくりと眺めている。私もしばらく観察していたが、ついに獲物は獲得できなかった。そうかと思うと、足元に一羽の鳥が飛んできた。雀よりは大きく、鳩よりは小さい。嘴がオレンジ色なのが特徴的だ。野鳥図鑑を見ると、ムクドリだ。集まって暮らす習性があるため、糞汚染や騒音公害で最近、問題になっている鳥である。直ぐに飛んで行ってしまった。

ムクドリ


スワンボート


 次に、近くの染井吉野の花を見ていると、高いところに1羽の鳥が止まって、桜の花びらをついばみ始めた。動きが早くて、なかなかレンズに収まってくれない。それでもようやく撮って、家に帰って拡大写真を見たら、何のことはない。普通の家雀だった。

家雀




増上寺・不忍池の桜(写 真)



4.新宿御苑の夜桜


関山と月


 新宿御苑で初めて、八重桜をライトアップするイベントが開かれるというので、夕食後に、写真を撮りに行った。4月15日(月)、午後7時から9時半までの間である。新宿門から入り、係員の誘導に従って、真っ暗の中を進んで行く。もちろん、電池式の足元ランプが進路の両側に置いてはあるが、それだけで、元々が芝生広場だから上から道筋を照らしてくれる街灯のようなものは一切ない。

一葉(いちよう)


関山(かんざん)


御衣黄(ぎょいこう)


 そういう中を皆で足元頼りなげにゆっくり進んで行くと、暗い中にぼんやりと、満開の八重桜が浮かぶ。遠くから見ると、いささか寒々しい。ところが、近寄って見ると、真っ白な花弁にピンク色が混じった美しい八重桜だ。これは、新宿御苑の代表的な品種の「一葉(いちよう)」であり、満開の花を大きく広げている。その下に潜り込んで上を見上げると、月が見えたので、不思議な感覚を覚える。また、西の方を見ると、桜越しに代々木のドコモタワーが目に入り、しかも赤青白に彩色されているから、目立ち過ぎるくらいに目立つ。目を周囲に転じれば、ライトアップされた八重桜の中で、ピンク色が一際濃い品種がある。これは私の好きな「関山(かんざん)」である。また、よく見ると薄い緑色の八重桜もあるが、「御衣黄(ぎょいこう)」である。これは、大変に希少な品種とのこと。

代々木のドコモタワー


 広場の向こう側で、食べ物か何かを販売しているようだ。それだけでなくステージを設けてショーをやっていた。これは、観光庁が主催する「公共空間を活用したナイトタイムエコノミーの推進」というイベントだそうだ。このうち、「ナイトタイムエコノミー」とは何かというと、夜遊びで需要を創出するもののようで、後から観光庁のHPを検索したところ、次のような趣旨と内容のものらしい。

「観光庁では、4月14日(日)〜18日(木)の5日間、ナイトタイムエコノミーの推進に向けて、八重桜ライトアップの機会を捉え、桜、食、伝統芸能等をはじめとするエンターテインメントを活用したコンテンツを実施します。

 観光庁では、訪日外国人旅行者の地方誘客、消費機会の拡大を図るための取組の一つとして、ナイトタイムエコノミーを推進しているところです。公共空間の夜間開放に関する取組の一環として、新宿御苑における八重桜ライトアップ (主催者:環境省)の機会を捉え、訪日外国人の受入環境整備の更なる満足度向上、消費額向上の観点を加味し、我が国ならではの資源である桜、食、伝統芸能等をはじめとするエンターテインメントを組み合わせた夜間の観光コンテンツを下記のとおり実施します。

(1)キッチンカーを中心とする飲食物の提供 ・・・多種多様なジャンルのキッチンカー(海外フード系、イベント屋台定番系、ファストフード系等)

(2)伝統芸能をはじめとするエンターテインメントの提供 ・・・能楽師によるステージパフォーマンス、ダンスパフォーマンス等」
                 


一葉の大木


ライトアップされた関山、一葉と代々木のドコモタワー


 訪日外国人観光客が激増する中ではあるが、観光庁がこんなことまでするのかという気もしないではない。まあしかし、話題作りには良いと思う。それで、どんなエンタメかといえば、これが色々とある。書き連ねると、「木場木遣保存会、金春流能楽、折り紙、忍者スタイルのバスケ、トリックスターなどのダンス、マジック、ヴァイオリン忍者」という。特に忍者スタイル以降はどういうものなのか、想像もつかない。でも、一つくらいは見ようと思って、トリックスターのダンスパフォーマンスを見た。

トリックスターのダンスパフォーマンス


トリックスターのダンスパフォーマンス


 すると、ピカピカと光る和服の袴姿の男達が出てきて、肘のところで腕を曲げたり、体全体をピクピクと動かしたり、後ろを向いていたかと思うと急に能のお面を付けて現れるなど、実に奇想天外な動きで聴衆を魅了する。音楽も、和風で楽しい。しかも大真面目でやっているから、可笑しい。これは、外国人に受けそうだと思った。官製なのに、面白いことを始めたものだ。ちなみに、この催しは、「ナイトタイムエコノミーイベント『ナガッパ』」というそうだ。

富久クロスコンフォートタワーとライトアップされた桜


富久クロスコンフォートタワーを囲む関山


 最後に、満開で枝を大きく広げた八重桜「関山」をもう一度よく鑑賞しようとしたら、東の方角に高層マンションらしき高い建物があるのに気がついた。豪華絢爛に輝いているからよく目立つ。あの方向には、億ションの富久クロスコンフォートタワーという55階建てのマンションがあったから、それかもしれない。それと、「関山」を一緒に撮ろうとしたが、夜間のことでもあり、両方に焦点を合わせるのはできず、マンションに焦点を合わせたところ、周りの桜がボケてしまったが、これはこれで、何とか見られる写真になっている。それにしても、桜の花は、このように夜に見るのも幻想的という意味で、一興ではある。しかしながら、やはり晴れた青い空の下で見るのが一番だと思う。


5.目黒川の夜桜

  (別途、掲載)エッセイ写 真 集


6.日立風流物と桜

  (別途、掲載)エッセイ写 真 集


7.信州高遠城の桜

  (別途、掲載)エッセイ写 真 集





【余 談】カメラと虫捕り

 ところで、こんな調子で私が毎週末にカメラを持って写真を撮りに出かけていると、それを見た同じマンションの奥さんが、私の家内にこう言ったそうだ。

 「良いわねぇ。お宅のご主人。いつもカメラを持って颯爽と出かけていらっしゃる。都会的ねぇ。そこへいくと、私の主人ったら、田舎育ちなもんだから、70にもなって未だに補虫網を担いで虫を捕りに行くのよね。家中が変な虫だらけで、もう、嫌になっちゃう。」

 虫好きのご主人と、虫嫌いな奥さんという組み合わせらしい。それは、もともと合わないと思うから、どちらかが我慢するしかない。加えて「カメラ=都会的、虫捕り=田舎的」という図式が、どうもこの奥さんの頭にあるようだけれども、必ずしもそうではないと思うので、もう苦笑するしかない。でも、幾つになっても心は少年のように没入できる趣味があることは脳の健康上とっても良いことで、それがカメラだろうが、虫捕りだろうが、何でも構わない。そういう意味ではこのご主人、心身ともに健康的な人だと思うが、いかがだろうか。






(2019年3月31日から4月14日記)


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日立風流物と桜

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 私は、2年前の桜の季節に初めて「日立風流物」を見に行った。その様子は後述するが、その時、「江戸や京都ではなく、関東の奥座敷とも言えるこの地方に、こういう素晴らしい文化があって、もう300年以上も続いているのか。日本の文化にも、なかなか厚みがあるではないか。」などと思ったものである。

 「日本三大曳山祭り」と言えば、京都の祇園祭飛騨の高山祭秩父の夜祭であるが、これを「日本五大曳山祭り」に広げてみると、高岡の御車山祭と、この日立風流物が加わる。このうち京都は別格としても、飛騨は木材、秩父は絹織物、高岡は商業と伝統産業で栄えた地で、それぞれかつての豪商たちによってお祭りの基礎ができて、それが数百年に渡り今日まで連綿と続けれてきたのはよく知られている。ところが、この日立風流物に限っては、農民などの地元の氏子たちが、それこそ手作りで知恵を絞って生み出してきた工夫が今につながっている。


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 それがまた、なかなかの工夫なのである。昔は道路が狭かったので人形劇の舞台をより広いものにするため、(1) 普段は折りたたみの舞台で動かすが、本番の公演の時には両脇へと舞台を拡張したり(2) それでは足らずに立体化して五層建にしたり、あるいは(3) 早返り(例えば、武士が一瞬にして腰元になる「どんでん返し」)をして観る人を驚かせたり、更には表舞台「表山」の高層化のために余裕ができた山車の裏側を(4) 第二の舞台である「裏山」として用意し、なおかつ(5) 山車を上下分離してそれを回転させた上で観客に見せるなどの諸々の工夫には感心する。現代日本人の物作りにも相通じる知恵と工夫である。

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 日立風流物は、神峰神社の氏子である4つの町内がそれぞれ一基の山車を持っていて、毎年一つずつ奉納するが、7年に一度の大祭禮の折には4基が勢ぞろいする。実は今年がその年で、5月の連休の間に行われるそうだ。それとは別に、今回、私が訪れた日立さくら祭りでは、例年通り一基の山車が出て、今年は本北町だという。演目は、表山が「風流太閤記」裏山が「風流花咲爺」である。 >

 日立風流物に先立って、山車の前で「佐々羅(ささら)」が演じられる。これは、茨城県指定無形民俗文化財となっていて、市内各地の神社の出社祭禮の際に露払いの役目をする3匹から成る獅子舞だという。なかなか、おどろおどろしい格好をしている。


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 本日は日曜日のため、午後1時からと3時からの二度の公演である。午後1時からの公演は、出来るだけ山車の真正面にいることにした。12時半頃に行くと、正面には既に人だかりがあって、山車の前では、もう佐々羅が演じられている。私は山車の真正面の3列目くらいにいることになった。佐々羅が終わったら、「北町子ども鳴物」という横断幕が掛かり、今度は山車を出している本北町の子供たちが笛と太鼓で祭り囃子を演奏する。大きな子から小さな子まで、なかなかの熱演である。

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 いよいよ、日立風流物の始まりである。拍子木が鳴らされる。先ずは、表山だ。15mの高さの真ん中ほどにある緑色の窓の下半分がちょうどライティングデスクの蓋のように前に降りてきて、水平になって止まる。次に、5層建の各層が順にせり上がってくる。各層には数人の人形を操る人が乗っているから、それを持ち上げなければならない。「カグラサン」という梃子の原理を利用した装置で行うそうだ。各層が全てせり上がると、屋根が左右に分かれて舞台が広がり、グーンと華やかになる。

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 各層に3体ほどの人形が出てきて、それぞれに動きがある。山車の最上層の5層目から見ていくと、真ん中にいるのは白い寝衣姿だから本能寺の変のときの織田信長だ。「二」の字のような二つ引両の旗があるから間違いない。槍を振り回している。その両脇に両刀を抜いた武者姿が二人いて、信長を襲っているのだろう。このうちのどちらかが、明智光秀か。それにしては、水色桔梗紋がないなぁと思うが、よくわからない。背景の安土城らしき天守閣がスルスルと伸びてきて、右が五階建て、左が三階建てになった。これは、面白い。

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 その下の4層目にも三人いて、そのうち真ん中と左手は兜を被った武者で、右は槍を持った足軽のようだ。これも、本能寺の変らしい。次に更に下の3層目と2層目は、山崎の合戦とある。やや、3層目には豊田秀吉の印である千成り瓢箪があるし、真ん中の馬に乗って弓矢を持った武者がなかなか偉そうな雰囲気を醸し出している。すると、これが秀吉か。太閤記と書かれている幟があるから、間違いないだろう。2層目は、左から槍を振り回す雑兵、兜の武者、鉄砲を持った雑兵である。最下層は、決戦桶狭間とあり、二人の武士が戦っているかのようだ。見物人が「ああっ、おおうっ」とどよめく。3段層の馬に乗った武者から矢が放たれて、見物人の中に着地したのである。なるほど、これは見せ場である。その後、何本か放たれ、見物人が競って採ろうとする。家に持ち帰って、縁起物にするそうだ。


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 さて、拍子木が鳴らされる。何が起こるのかと思って一人の武士を観察していると、あれれ・・・その武士の首が後ろに消えた・・・まさか討ち取られたのではあるまいかという考えも一瞬浮かんだ。ところが他の武士に目をやると、さすがに馬上の武者だけは早返りは無理だったようだが、それ以外の全員が美人の腰元に変身しているではないか。1秒もかからない早技である。しかもそれまで振っていた刀が、和傘やお花に代わっている・・・これは実に見事なものだ。

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 ちなみに、午後1時からの公演ではカメラとスマホをいじくっていて、残念ながら早返りの瞬間を撮ることができなかった。そこで3時からの二度目の公演でようやくスマホのビデオに撮ることができた。以下はそのビデオから取った5枚の画像だが、特に左上の人形に注目されたい。(1) 武士の姿から、(2) 身体が仰向くようになり、(3) 一瞬にしてひっくり返って、(4) 腰元の衣装に早変わりし、(5) 刀に替えて赤い和傘を振っている。その他の人形も同様だが、その変化はまさに一瞬のことで、ビデオでもなかなか上手くとらえきれなかったほどである。

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 さて表山が終わり、今度は全員が総出で山車を回転させ、裏山が表に出てきた。題目は花咲爺だから、わかりやすい。見物人がどよめく。カメラのファインダーから目を離して山車を見ると、てっぺん近くに一匹の猿が出てきたと思ったら、その両脇下にも、それぞれ猿が出現した。

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 続いて舞台には、犬のポチが現れて左右に軽やかに走り回る。真ん中から花咲爺さんが登場し、犬が「ここを掘れ」とばかりに指したところを鍬で掘り出した。お爺さんの右手にはお婆さん、若い女と馬に乗った人物、左手にはお隣の強欲爺さんらしき男がやはり鍬を振るう。花咲爺さんが小判を掘り出したようで、金色に光る杵で臼をつきだした。そのうち、花咲爺さんの分身が現れて桜の木の枝の上に立ち、灰を撒き出した。そうすると、枯れ木に次々と桜の花が咲いていく。次の瞬間、今度は小判が観客席に向けて撒き散らされた。山車の下で待っていた子供達が喜んで拾う・・・というところで、芝居は最高潮に達するという次第である。

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 そういう具合で、日立風流物の山車を舞台にした熱演が終わった。この公演が行われた平和通りは、日立駅につながる広い大通りで1kmの長さがあり、両脇の染井吉野の桜の木が大きく育って、桜のトンネルを作っている。これは、素晴らしい。たくさんの屋台も出て、とても賑やかな日立市「さくらまつり」だった。

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 このお祭りは、日立製作所グループが支援している。それ自体は企業城下町によくあるパターンなのだけれども、それがいかにも日立らしいのである。例えば、平和通りの中ほどで、道端に卓球台が置かれて、見物人と若い選手が卓球をしている。何かと思ったら、「日立化成卓球部」とある。お金を使わないし、お祭りのアトラクションとしては、確かに面白いが、もうまるで大学の体育祭のノリだ。質実な日立らしい。

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 そうかと思うと、トラック・ステージなるものがあった。公園に日立物流のトラックを横付けしてトラックの横の壁面を全開し、荷物室を即席の舞台にして、そこで楽器を演奏したり、和服姿の女性歌手に演歌を歌わせたりしているのである。なるほど、これは考えたものだ。お祭りが終われば、トラックを動かすだけで直ぐに撤収できる。合理的と言えばその通りなのだが、ただ舞台に当たるトラックの荷物室の内側の壁面はそのままで何の手も加えていないから、灰色のモノトーンが剥き出しで殺風景なものである。そこでよさこいを踊ったり、女性演歌歌手が歌ったりするものだから、ますます「すさまじきこと」になる。せめて、色が付いた「さくらまつり」のポスターでも背景に貼ってあげればと思ったりした。まあ、これも剛健な日立らしさとでも言おうか。




日立風流物(写 真)







 なお、私が2年前に初めて日立風流物の見物に行ったときのエッセイを、その説明を兼ねて、以下に掲げておきたい。

 日立市に、国指定重要有形・無形文化財で、ユネスコの無形文化遺産に登録されている「日立風流物」という山車があり、それが桜の季節に演じられるということを聞いた。そこで、4月8日、東京駅からスーパーひたちに乗って、日立市に行ってみた。上野東京ラインが2年前の3月に出来てから、私は今日初めて、東京駅より常磐方面に乗る。行ってみると、同じ8番線から東海道方面の列車が出ていたりして、少し戸惑った。これがもう少し歳をとったりしたら、うっかりすると、逆方向へ乗るかもしれないので、気を付けよう。

 さて、約1時間半の電車による快適な旅が終わり、日立駅に到着した。ここも、最近の地方都市のご多聞にもれず、駅前はすっきりと整備されているが、建物は鉄パイプとガラスでできているから、地方の駅の個性がなくなってしまっているのは残念だ。ただ唯一、駅前ロータリーに大きな歯車のモニュメントがあったのが特徴といえば特徴で、これは、日立製作所の企業城下町らしくて、とても良い。駅の出口で、さくら祭りや、日立市の由来に関するパンフレットを配布中だ。「日立風流物の仕組みがわかるものは、ありませんか。」と聞くと、わざわざ探してくれて、それをいただいた。よしよしと、これで少しは足しになると思ったら、それどころか、後述するように、とても参考になった。

 それによると「日本各地に残る山車カラクリの系統は、大きく2つの方向に発展してきました。1つは飛騨高山の高山祭に象徴される方向です。専門の人形師の手による人形カラクリを配し、山車の装飾に贅を尽くして山車を豪華絢爛な美術品まで昇華させました。一方で氏子たち自らが道具を握り仕掛けの技を工夫してカラクリを操る楽しさを見出した日立の風流物があります。優れた匠や豪商がいなくても、観てくれる人たちの喜びを糧として素人技ながら創意工夫をしてきたのです。その意気込みが人形カラクリの技を磨かせるとともに山車を大型化させる原動力となったのです。」ということだそうだ。それにしても、この説明は、簡にして要を得ている名文である。感心した。

 駅前ロータリーからクランク状に折れて進むと、そこが平和通りで、広い道の両側に樹齢30年から60年の染井吉野の並木があり、空も覆うほどの桜のトンネルになっている。数百メートルを進むと、大きな交差点に、山車が見えてきた。家のような形が五層にもなっている。非常に高くて、驚くほどだ。15メートル、重さ5トンだという。それにしても、幅が狭くて細長い。写真で見たのとは、かなり違う。この疑問は、演技が始まって、やっと分かった。それは後で説明することにして、どこで写真を撮ろうか、真正面だと道の真ん中に山車があり、両脇に桜の木が配置されるから、構図としては理想的だ。しかし、真正面にはもう多くのカメラマンがいて、立錐の余地もない。仕方がないので、脇に回ろうと思って適当な場所を探し、斜め横から撮ることにした。この方が近いし、細長い山車を撮るには良い。気が付いてみると、三脚を担いだビデオカメラマンが隣にいた。なぜこの位置を選んだのかと聞いたら、「人形の表情が良く撮れるから」という答えだった。

 さて、山車の前でお囃子が演奏され、それが終わると、山車の中から聞こえてくる。それが最高潮に達した頃、いよいよ山車の舞台が始まった。まず、山車の前の部分が前方へ倒れ、棚のようになる。人形の顔が見える。すると、家のような形が左右に割れて、それが舞台になる。つまり、元の舞台の幅が3倍になる。それが、一番下の層から始まって順次上の層に伝わり、最後の5層目が開き終わると、鳥が羽を広げたようになる。なるほど、この写真は、見たことがある。その舞台は、忠臣蔵を演じていて、下の層には大石内蔵助が討ち入りの太鼓を叩いている。あちこちで赤穂浪士と吉良邸の武士たちの死闘が繰り広げられている。層の最上部では、吉良上野介らしき寝間着姿のお殿様が、自ら刃を振るって赤穂浪士と渡り合っている。

 なぜ、こんな5層もの「開き」ができたかというと、こういうことらしい。複数の人形を使った物語性のある演目をするには、ある程度の舞台の幅が必要なのだが、当時の狭い道路では、山車としてはこの幅が限界だった。そこで舞台で演ずるときには、開いて大きな舞台にしようとした。それと同時に、もっと大きな舞台がほしいということになり、高層化に進み、ついに大正時代になって今の5層の「開き」のスタイルになった。それと同時に、山車の内部では人形の操作者もエレベーターのように上部にせり上がるようになっていて、その機構を「カグラサン」という。もちろんこれは人力である。

 さて、人形の舞台を見ていたところ、吉良上野介の人形がひっくり返ったと思ったら、あっという間に御殿女中になってしまった。顔まで若い女性になったのには、驚いた。これは「早変わり」というもので、先に演じている役のところにあるフックを引っ張ると、くるりを別の顔と衣装になる。見ると、15体の人形が一斉にひっくり返って、数分で全員が女性になってしまった。しかも、それまで持っていた刀が、いつの間にか蛇の目傘になっていて、それがぐるぐると回されている。どうなっているのだろう。

 それを眺めていると、舞台はどうやら終わったみたいで、皆さんが一息ついている。そこで、20人ほどが、山車の土台を動かそうとし始めた。でも、なかなか動かない。何回かやって、ようやく動き、山車の前後が逆になった。すると、正面の観客に向けられた崖のようになっている部分の真ん中が前方へ倒れ、また棚のようになった。崖の中から2人の武士たちが現れ、矢をつがえて空に撃ち始めた。棚の上には、農民夫婦が出てきて鍬を振るったり、仙人のような老人が出てくる。大蛇まで出てきて、棚の上に移動した。そこに大きなガマガエルが出現して、争っている。どうも、筋が分からないので隔靴掻痒の感があるが、表の舞台がいわばお能のようなものだとすると、こちらは狂言のようなものらしい。

 パンフレットによれば「山車の大型化に伴い、山車の裏側の利用価値が高まる。『まだ人形を載せる余地がある。しかし、大観客を裏側に移動させるわけにはいかない。』この矛盾は、土台を上下2層化し、上部のみを観客に向けて回転させることで解決した。」という。それまで演じていたのが表山(おもてやま)で、「物語は忠臣蔵や源平争乱など歴史物、武者物が多い。」。これに対してひっくり返った裏山(うしろやま)は、「八岐の大蛇や加藤清正虎退治など、動物版勧善懲悪ものが多い」という。

 この日立風流物の沿革は、パンフレットでは「昔は宮田風流物といわれ、その起源は定かではありませんが、元禄8年(1695年)徳川光圀公の命により、神峰神社が宮田、助川、会瀬3村の鎮守になったときに、氏子たちが作った山車を祭礼に繰り出したのがはじまりだといわれています。この山車に人形芝居を組み合わせるようになったのは、享保年間(1716ー1735)からと伝えられています。壮大な山車とともに日立風流物の特徴を成すからくり人形の由来も確かな記録は残っていませんが、風流物が起こった江戸中期は人形浄瑠璃が一世を風靡した時代であり、その影響を受けた村人達が農作業の傍ら工夫を重ね、人形作りの技術を自分達のものとしていったと考えられます。4町(東町、北町、本町、西町)4台の風流物は村人達の大きな娯楽となり、町内の競い合いもあいまって、明治中期から大正初期にかけて改造を重ね大型化されました。その風流物も昭和20年7月、米軍の焼夷弾攻撃により2台が全焼1台が半焼、また人形の首も約7割を焼失してしまいました。しかし、郷土有志の努力により、昭和33年5月には1台だけながら念願の復元を果たしました・・・昭和41年5月までには残りの3台も復元された」とのことで、かなりの苦難の道を歩んだようで、その結果の国指定重要有形・無形文化財、ユネスコの無形文化遺産への登録だったというから、地元関係者のご努力に、頭が下がる思いである。


(参考)日立風流物パンフレット日立市郷土博物館
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目黒川の夜桜

目黒川の夜桜


 去年の桜の季節には、今から思うと結構頑張って、あちこちの桜の写真を撮りに行った。皇居濠周辺と六義園の枝垂れ桜(昼夜)、国立劇場前の神代曙、千鳥ヶ淵、横浜三渓園、小田原城址公園それに愛宕神社の染井吉野、新宿御苑の八重桜、鎌倉の古刹の桜に塩山の桃の花と桜である。我ながらよく行ったものだ。晴天が続き、しかも土日の具合と桜の開花時期とがうまく重なったという事情もあったと思う。

 桜の季節 2018年
    皇居濠周辺の桜 
    六義園(昼)の桜 
    六義園(夜)の桜 
    国立劇場前の桜 
    横浜三渓園の桜 
    小田原城址の桜 
    千鳥ヶ淵の昼桜 
    飛鳥山公園の桜 
    愛宕神社の昼桜 
10     新宿御苑の昼桜 
11     鎌倉の古刹の桜 
12     塩山の桃花と桜 


 今年の方針として、去年行かなかったところを中心に桜を撮りに行くことにした。まずは、最近とみに評判の高い「目黒川の夜桜」である。私の友達によれば、今からおよそ30年前の昭和の終わり頃に目黒川のほとりに住んでいたけれども、その時は商店街の人たちが「川沿いには何もないから、桜の苗木でも植えようか。」という調子だったそうだ。ところが、その苗木が大きく育って、10年くらい前から「目黒川沿いの桜」として取り上げられるようになったので、驚いているという。

 インターネットを見ると、昼間よりもライトアップされた夜間の方が、川のコンクリートが見えないし、幻想的な雰囲気があってよろしいのではないかと思われるので、夜桜を見に行くことにした。池尻大橋駅からと、中目黒駅から行く方法があるが、我が家から地下鉄を1度乗り換えて30分余りで行ける中目黒に行くことにした。


目黒川の夜桜


 中目黒駅で降りて目黒川まで歩くと、ほんの数分で着く。すごい人波だ。目黒川には数多くの橋が掛けられていて、その橋の上から目黒川を眺めるれば、川に沿って数多く飾られているボンボリ、そのピンク色が反射して美しい川面、川の両岸から覆い被さるように咲く染井吉野の桜を一度に眺められる。しかも、手間の桜はボンボリの色を反射してピンク色に、もっと先の桜は白色LEDライトを反映して白っぽく見えて、奥行きを感じさせる。

目黒川の夜桜ぼんぼり


目黒川の夜桜の猫


目黒川の夜桜


 面白いのはボンボリで、大抵はお店の名前が書いてある宣伝だが、中には「祝銀婚(夫婦の名前)」「(子供さんの名前)一歳おめでとう」などがあって、微笑ましい。飼い猫が二匹、大人しく重なって休んでいる。ところで、中目黒から北へは、川岸の東側が一方通行になっていて、西側がその逆だ。そこで、東側を人波に乗ってぶらぶらと歩き、橋のところに来たら写真を撮り、また歩くということを繰り返して、ついに山手通りに区切られるところまで来た。

目黒川の夜桜


目黒川の夜桜


 そこで橋を渡って西岸をまた中目黒方面に戻れば良かったが、もう少し北はどうなっているのだろうと興味を持って、山手通りを横切って北上した。すると再び目黒川のボンボリと桜の風景が現れたが、その前と比べて物寂しいし、全体に暗い。桜を照らす白色LEDライトがないからだ。そうこうしているうちに池尻大橋駅に着いた。夜桜を満喫したというか、ピンク色にいささか辟易してきたので、そろそろ帰ることにした。

目黒川の夜桜


 この夜桜は、会社帰りに同僚と、あるいはカップルで、飲み物を手にそぞろ歩きをしながら眺めるのが一番かもしれない。ただ、外国人とりわけ中国人が多い。彼らは一家揃って来日するケースが多いから、小さな子供さんや、もう90歳は超えているのではないかと思われる高齢のお爺さんお婆さんも連れてきている。そのバイタリティには、驚くばかりである。







 目黒川の夜桜( 写 真 )





(2019年3月28日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:21 | - | - | - |
梅と寒桜とメジロ

新宿御苑のメジロ"


1.亀戸天神の梅

 3月もそろそろ中旬に入ろうとする頃、久しぶりに快晴の土曜日となった。これはどこかで写真を撮って来なければと思い、家内を誘って亀戸天神に出かけた。梅が見頃と聞いたからだ。亀戸天神といえば藤の花だから、梅の木なんてあるのかと思ったが、いざ着いてみると、池の周囲と本殿の両脇に梅の木があってなかなか立派だった。


青い空に赤い鳥居が目立つ亀戸天神


ピンク色の枝垂れ梅越しに、欄干が赤い太鼓橋


 参道に入って行くと、青い空に赤い鳥居が目立つ。正面は丸い太鼓橋だが、紅白の梅に誘われて左手に進む。すると、ピンク色の枝垂れ梅越しに、欄干が赤い太鼓橋が見えるポイントがあった。ただ、梅の花があまりにばらついていることから、写真の構図としてはなかなかうまくいかないのが残念である。

本殿の両脇には、向かって右が紅梅、左手が白梅の大きな木


菅原道真公5才


 本殿の両脇には、向かって右が紅梅、左手が白梅の大きな木である。その本殿のバックには、東京スカイツリーがちょっと顔を覗かせている。まさに旧と新の組み合わせだから面白い。菅原道真公が僅か5才の頃、紅梅が美しいことから「美しや紅の色なる梅の花 あこが顔にもつけたくぞある」という一句を詠んだというから、ただ者ではない。文字通りの天才だったのだろう。

猿回し


 本殿の近くの舞台前では、猿回しのお兄さんが、元気な若いお猿さんとコンビを組んで、大道芸を披露していた。


2.清澄白河庭園の青鷺

 清澄白河庭園は、亀戸天神から比較的近いところにある。この庭園は、中心に大きな池があってそれを見るだけでも気分が清々するところである。しかし、それだけでなく、全国各地から集めてきた貴重な石を観て楽しむというのが「通」の過ごし方である。ただ私は、未だにそういう境地には至っていない。


中心に大きな池


 池の中には大きな鯉がいる。また、雁や鴨が飛んで来て、池に浮かんでいる。石の上には亀が甲羅干しをしている。実に長閑な風景だ。その中で、水辺に一羽の青鷺(アオサギ)が立ち尽くしており、その周辺にはどことなく緊張感が漂っていると思うのは、いささか考え過ぎなのかもしれない。

鴨


青鷺(アオサギ)


 池の裏手に行くと、背の高い木に、真っ赤な花がいっぱい咲いている。近づくと、ピンク色が濃い寒緋桜である。染井吉野の桜には2週間ほど早いので、今年初めての桜である。これは美しい。ただ、寒緋桜の桜は下向きに咲くので、どうも撮りにくい。露出をややプラスに補正して、何とか対応した。

ピンク色が濃い寒緋桜





3.神田明神のエドッコ


神田明神 随神門


神田明神 御神殿


 次の日は曇天だったが、神田明神まで出かけた。家内は久しぶりだったので、随神門と御神殿が格段に美しくなったと言っていた。随神門をくぐり、そのすぐ左手には、新しい建物があった。これは、3ヶ月前にオープンしたばかりの「エドッコ(EDOCCO)」と称する文化交流館だという。

神田明神 エドッコ(EDOCCO)


 コンセプトは「伝統と革新」で、神社らしい建築様式の建物ではあるが、現代アートの作品を展示したり、秋葉原が近いので土日にはメイドカフェやアイドルのイベントも開くというから、聞くだけでも頭が混乱しそうだ。


4.東京都庁の観光宣伝

 それから、東京都庁に行った。展望台に登って降りてきて、観光案内所を覗いて、面白いものを見つけた。正面に大きな縁起物の熊手が置いてあるが、それを真似たのか、東京の地区毎を紹介する「宝船」が飾ってある。それが実に良く出来ている。


中野区のコーナーでは高円寺の阿波踊りや仏像


台東区のコーナーでは浅草の雷門両国の相撲、上野公園のパンダなど


 例えば、東京の離れ島を紹介するコーナーでは、大島のアンコ椿のお姉さん、サーファー、小笠原諸島の熱帯の海にいる鯨、海亀、熱帯魚、ダイバー、温泉などが「飛び出す絵」のように立体的に作られている。中野区のコーナーでは高円寺の阿波踊りや仏像が、台東区のコーナーでは浅草の雷門両国の相撲、上野公園のパンダなどが描かれている。これには、感心してしまった。

新宿観光特使「ちびゴジラ」



 なお、東京都庁に行く道すがら、新宿住友ビルの壁面に、新宿観光特使「ちびゴジラ」という東宝のキャラクターが描かれている。昨年10月から今年3月までの期間限定ということだそうだ。今回は3回目で、前回は鉄腕アトム、前々回の初回は大人のゴジラの上半身だったそうだ。


5.新宿御苑の寒桜とメジロ

 新宿御苑は、桜の季節には必ず行って見ることをお勧めしたい。約1月にわたって、染井吉野だけでなく関山のような様々な八重桜がバトンリレーのように次々と咲き、実に見事なものである。それに比べて、本日は3月10日だから2週間ほど早いなと思いながら入園したところ、思わぬ光景に出会えた。意外にも、大きな桜の木が満開だったことだ。「寒桜」という。先程の清澄白河庭園で観た桜は「寒緋桜」で、あまりに赤色が強すぎたり花が下向きだったりして、桜というにはどうも認めかねるものだった。それに対してこの寒桜は、色もピンクで申し分ないし、とても華やかで良い。


寒桜



 それを愛でながらつくづく眺めていると、「チチチッ」という小さな声がしたと思ったら、数羽の小柄な鳥が飛んできて、盛んに花びらを啄ばみ始めた。体は黄緑色である。これはもしかしてメジロかと思って超望遠レンズをセットしてカメラを向けたところ、やはりそうだった。眼の周りが白いので、間違いない。しばらくその姿を撮らせてもらい、腕がだるくなるまで続けた。帰宅してパソコンで画像を見たところ、結構良く撮れていたので、大いに満足をした。これは良い休日だった。

寒桜を啄むメジロ


寒桜を啄むメジロ


 その他、この季節に新宿御苑で咲く花で普段はあまり見かけることのないものとして、木五倍子(きぶし)、三叉(みつまた)などがあった。三叉は、確かに一本の枝が三本に分かれて、その先にそれぞれ花を咲かせている。なるほど、名前の由来の通りである。

木五倍子(きぶし)


三叉(みつまた)





6.上野公園の猫とヒヨドリ

 先週末の土日、家内とともに、亀戸天神の梅を見たり、新宿御苑でメジロを見たりして、もう春の足あとが聞こえると思って、幸せな気分になった。今週また土曜日が巡ってきたが、いつ雨が降るかもしれないという天気だったので、今回は遠出はやめて、二人で不忍池と上野公園を通り抜け、御徒町へと歩いて行った。


上野動物園の猫


 途中、上野動物園の不忍口脇に、寒緋桜がある。それを見上げていたら、鳥が来て花を啄ばみ始めた。先週末は新宿御苑で同じような光景に出会った。その時はメジロだったが、今回の鳥は黒っぽいし、体がもっと大きい。ただ、お昼前だったので、逆光気味でよく見えないし、写真に撮ってもおそらく真っ黒に写るだろうから、露出を調整したとしても、絵にならないだろうと思って眺めていた。すると、側でそれを見ていた動物園のガードマンのおじさんが、「先週まではメジロが来ていたんだけど、その次は、ヒヨドリがやって来るのさ。」と教えてくれた。「なるほど、あのヒヨドリか」と思いつつ、お礼を言って、その場を離れて不忍池に向かった。

桜の木の上の方に、ヒヨドリがやってきた


 不忍池をぐるりと回り、上野公園の入り口に行くと、両脇の2本の大きな桜がもう咲いている。ああ、これも寒桜だから早めに咲くのだ。その前では、中国人らしき観光客が大勢、写真を撮っている。女性は、片脚を少し前へ出して小首を傾げるなど、ポーズをとるのがとても上手い。交番脇の寒桜の木の幹の股には、飼い猫が置かれていて、なかなか可愛い。それを見ていると、桜の木の上の方に、ヒヨドリがやってきた。今度は逆光にならずに撮れる。少し遠いしメジロより動きが早いので、撮るのにはひと工夫もふた工夫も必要だが、何とか撮ることができた。

 それが終わって、御徒町で食事をする。家内は体重を増やさなければいけないので、しっかりと食べてもらい、私はせっかく減量した成果を無駄にしたくないので、軽く済ませた。ところが、店を出てみると、少しお腹が空いている。結局、近くの「みはし」で甘いものを食べてしまったから、何をか言わんやだ。


ユリカモメ


 それからデパート地下で買い物をする家内と別れて、私は再び来た道を通って家に歩いて戻った。その途中、不忍池で鳥を撮った。鴨は平和でよろしいが、ユリカモメは、その険しい顔付きといい、鋭く尖った嘴といい、かなり恐ろしい鳥だ。そういうことからも、鳥類は恐竜の子孫という説は、本当だと思う。ちなみに、別名、寝癖鳥というキンクロハジロが、いたいた。頭の後ろの寝癖のような毛が、何とも可愛い。

キンクロハジロ








 梅と寒桜とメジロ( 写 真 )








(2019年3月10日記。17日に6.を追加)


カテゴリ:エッセイ | 21:12 | - | - | - |
カメラと写真の見本市

バービー人形カメラ




     目 次 

 1.ミラーレス一眼の大変革
 2.CP+2019の模様
 3.横浜をぶらっと散歩



1.ミラーレス一眼の大変革

 パシフィコ横浜で開催された「CP+(シーピープラス)2019」に行ってきた。これは、「カメラと写真映像のワールド・プレミア・ショー」というもので、そのHPによれば、「“スマホで十分”な方から、プロフォトグラファーまで。シーピープラスは“写真のある生活”を送るすべてのかたが、カメラと写真の楽しみ方をあらゆる角度で体感できる総合イベントです。目玉の製品展示をはじめとして、ためになるセミナーや楽しいイベント、参加型写真展や写真集販売、中古カメラやフォトアクセサリーの販売など、パシフィコ横浜と大さん橋ホールの2会場で、もりだくさんの4日間です。」という。


キヤノンEOS70Dとタムロンのレンズ


 私は、普段はAPSーC仕様のデジタル一眼レフカメラ(キヤノンEOS70D)を持ち歩いて、このHP(悠々人生)に載せる写真を撮っている。これとタムロンのレンズ(16−300mm。APS−C専用)の組合せは非常に具合が良くて、レンズの取り替えをすることなく、広角端(16mm)でも望遠端(300mm)でも、夜間などの撮影条件の悪い時でも、何でも撮ることができる。それでいて、撮ったものを多少引き伸ばしても、それなりに見られる写真となる。

オリンパス・ペンE−P3


 そういうことで、「あと少なくとも数年は、この組合せで趣味の写真を撮っていくのも良いな。」と思っているのだけれど、かつてのパソコンと同じで、デジタルカメラの技術進歩は著しい。どんどん素晴らしい製品が出てきている。振り返ってみると、私は、平成21年6月に、その当時のミラーレス一眼カメラの走りだった「オリンパス・ペンE−P1」を買い、それから同23年8月に「オリンパス・ペンE−P3」に乗り換え、更に25年9月に現在のキヤノンEOS70Dにたどり着いた。それ以来、5年4ヶ月の間、現在のカメラとレンズで撮り続けている。何でも新しいものに飛びつく癖のある私にしては、これは相当に長い期間だ。つまりは、それだけ気に入っているからだが、強いて言えば、歳をとるに連れてカメラとレンズが重たく感じられるようになった。それに、タムロンのレンズとの組合せが良くないのか、特に望遠端でピントが合うのが遅いという気になる点もある。

 この間、ミラーレス一眼の世界には大変革が起こった。当初は、パナソニック(ブランド名は「ルミックス」)とオリンパスが画像素子(センサー)の小型の規格(「マイクロフォーサーズ」規格)を提唱した。平成20年8月のことで、その翌年に私が買ったオリンパス・ペンE−P1は、このタイプである。ソニーは、このマイクロフォーサーズ陣営には加わらずに独自路線を貫き、それよりも画像素子が大きいAPS−Cサイズのミラーレス一眼を発表し、じわじわと普通のデジタル一眼レフを追い上げてきた。ちなみに、それまで一般的だったデジタル一眼レフとミラーレス一眼との差は、カメラの中に撮りたい被写体を反射させる「レフ(鏡)」があるかどうか、つまりミラーボックスと光学式ファインダーを持つか持たないかという点で、これらを持たないミラーレス一眼の方が、より小型で、かつ軽くなる。ところが、じかに被写体が見られる一眼レフの場合と違ってミラーレスの場合はファインダーにその被写体が映るのに若干のタイムラグがあることと、フルサイズの画像素子を持つものがない
(注)というのが最大の欠点で、これらがプロには使ってもらえない理由だった。

(注)画像素子の面積の比較

 画像素子(センサー)の面積は、コンパクトデジカメ(1/2.3)を1とすると、マイクロフォーサーズは7.8、APS−Cは12.8、フルサイズは20である。もちろん、この値が大きいほど、綺麗な写真が撮れるという理屈である(レンズや画像エンジンの性能にもよるが、それは捨象する。)。


 しかし、それをブレイク・スルーしたメーカーが現れた。ソニーである。あの小さなミラーレス一眼のボディーに、フルサイズの画像素子を載せたのである。しかもファインダーのタイムラグを短くしたようだ。その製品が、今から5年前に発売された「α7(アルファ・セブン)」だった。価格も、うろ覚えだが、確かボディーだけで当初50万円くらいはしたと思う。その性能と値段にビックリしたことを覚えている。そうこうしているうちに、どんどんと性能が上がり、現在では第三世代の「α9」となっている。1秒間に20枚も連写でき、合焦速度は早く、かつ(両目ではなく)片目にピントを合わせられるという驚きの性能だ。

 ところが、デジタル一眼レフの2大メーカーであるキヤノンとニコンは、この急速に進化するミラーレスの様子を見ながら、ここ数年間は音無の構えだった。おそらく、ミラーレスのフルサイズを発売したりすると、既存のデジタル一眼レフ市場と共食いになってしまうことを懸念したのであろう。しかし、デジタル一眼レフの売上が落ち始め、ミラーレスがどんどん伸びてくると、そうも言って居れなくなった。そこでキヤノンとニコンの2社は、昨年(平成30年)秋に相次いで、フルサイズのミラーレスの発売に踏み切った。これにより、消費者としては、商品選択の幅が広がって、これは面白くなったといえる。


2.CP+2019の模様

 いわば前置きが長くなったが、私がCP+(シーピープラス)2019に行こうという気になったのは、かくしてようやく出揃ったソニー、キヤノン、ニコンの3社のフルサイズのミラーレス一眼を実際に手に取り、気に入ったものがあれば買おうかという気持ちになったからである。そういうことで、我が家から千代田線に乗って明治神宮前駅で副都心線に乗り換え、そのまま、直通運転で、みなとみらい駅に到着した。同駅から、パシフィコ横浜までは、歩いて数分だ。

 建物の中に入ると、まず、リコーの全天球カメラ(THETE)のブースがあった。人がかなり並んでいたが、私は未だ触ったことがないので興味が湧き、ふと入ろうとすると、既にこのカメラの旧型を持っている人だけが対象だという。これは逆で、むしろ私のようにこのカメラに未だ触ったことがない人を対象とすべきである。旧型を持っている人は、放っておいても関心を持つのは当然だから、それ以外の人を対象にしないと顧客の裾野が広がらないと思うが、どうだろうか。

 次にあったのが、タムロンのブースである。私のキヤノンのカメラにはタムロンのレンズを付けているから、今度は堂々と入ることができると思ったら、誰でも自由に入ることができて、しかも目の前のモデルさんを自由自在に撮ることができると知って、拍子抜けした。モデルさんの周りには、多くのカメラが置いてあってその全てにタムロンのレンズが付けてあり、入場者はそれを手に取ってモデルさんを撮れる。自分のSDカードを持ち込めば、その撮った写真を持ち帰ることができるという趣向である。


タムロンのモデルさん


タムロンの18−400mm(F/3.5-6.3 Di II VC HLD)


 実は、その時に渡されたパンフレットに、大いに気がそそられるレンズが載っていた。それは、18−400mm(F/3.5-6.3 Di II VC HLD)である。「世界発の18mmから400mmまでをカバーする超望遠高倍率ズームで、望遠側400mmは35mm版換算で620mm相当の超望遠撮影となる」という。掲載されている写真によると、18mmの時では豆粒のような大きさの人物が、400mmの時は画面一杯に広がっている。これは凄い。私は今持っている16−300mmのレンズを初めて付けた時に大いに感動したものだが、その時と全く同じような感覚だ。つまりはその上位版というわけである。希望小売価格は9万円だから、ボディーだけで約40万円のソニーα9よりはるかに安い。

ソニーα9


 どうしようかと迷うところだが、結局は、その人がどんな被写体を撮りたいのか、そしてその撮った写真をいかに使うかということに尽きるのだと思う。私の場合は、どこへ行くにしてもなるべく1本のレンズで済ませたいし、被写体に近づくのは面倒で遠くから望遠で済ませたい方なので、そういう人物にはこの18−400mmの魅力には抗い難い。反面、ソニーα9の連写機能は、高速で飛んでいる飛行機や演技中のフィギュア・スケートを撮るにはよいが、私が好む被写体にはそういうものはほとんどないから、α9はオーバースペックとなる。

早いテンポでダンスをするモデルさん


 そういうことで、意外なことに、見本市の最初の段階で、フルサイズのミラーレスの購買意欲をいささか失ってしまった。妙なことになってしまったが、そのまま進んで行くと、本日のお目当てだったソニーのブースがあった。タムロンと同様にモデルさんがいてαシリーズのカメラで撮れるという趣向である。観客に、早いテンポでダンスをするモデルさんや、ぴょんびょん飛び回るスケートボードのお兄さんを撮らせている。いざソニーα9を手に取ってみると、レフ(鏡)がないので当然かもしれないが、シャッターボタンを押したときの軽やかさが気に入った。画質は、今のカメラと比べてみることができないので、よくわからない。ただ、片目にピントを合わせているのは本当で、こんなことまでやるのかと思わず笑ってしまった。隣のセミナー会場では、冬の北欧フィンランドに行った女性写真家(山本まりこさん)の講演をやっていたが、その写真のスライドを見る限りは、細部まで詳細に写り込まれていた。

ぴょんびょん飛び回るスケートボードのお兄さん


 改めてソニーα9を手にしてみると、ボディの重さは435gというから、確かに軽い。しかし、当たり前のことだが、付けるレンズが重いと、そのボディーの軽さが帳消しになることが良くわかった。ソニーはフルサイズのミラーレスで他社を5年も先行しているので、ミラーレス専用のレンズはもう28種類(Eマウント、35mmのみ)にも上っていて、他社を圧倒している。ちなみにミラーレスは、レフ(鏡)がないだけに、その分、専用レンズの開発の余地がある。ラインナップされている超望遠レンズの中には、最大の望遠端が400mmというものがあるのだけれど、そのFE 100mm-400mmは、残念ながら重さ1.5kgで32万円もする。つまりα9のボディーの3倍の重さで値段はほぼ同額だというのだから、それだけの投資をする気にはなかなかならない。

キヤノンのミラーレスEOS RP


 次に、キヤノンのミラーレスEOS RPを手にした。キヤノンとしては初めてのミラーレスである。その市場が急速に伸びて既存の一眼レフ市場が落ち込み始めたから慌てて出したのか、それとも無理矢理出さざるを得なくなったのかはよくわからない。手に取ったところ、ともかく軽いの一言だ。485gと、ペットボトルより軽いし、なるほど宣伝文句にあるようにA6の文庫本のサイズより小さいというから、まあ頑張って作ったというべきか。もっとも、肝心の画質がどうなのかは、外形からはわからないし、とりわけ優れているという説明も見当たらなかった。1秒間の連続撮影枚数も、私のEOS70Dですら7枚だというのに、5枚に過ぎない。まだまだ発展途上という印象を受ける。発売されたばかりなのでやむを得ないが、ソニー・アルファ・シリーズの蓄積に追い付くのには、少し時間がかかるかもしれない。

ニコンのミラーレスZ7


 ニコンのミラーレスZ7については、手に持つとずっしりくると思ったら、675gと、かなり重い。1秒間の連続撮影枚数は7枚だ。画質はよくわからない。記録媒体がXQDカード一本というのが、素人カメラマンとしては気に入らない。手持ちのSDメモリカードが使えないばかりか、読み出すのにわざわざカード・リーダーが必要となるからだ。プロならともかく、素人なら高速SDカードで十分だと思うのだけれど、このあたりが、将来の劣勢につながらなければよいと願うばかりだが、果たしてどうなるか。

パナソニックのブース


 パナソニックのブースでは、今月下旬に発売予定の画像素子(センサー)がフルサイズのミラーレス、LUMIX S1Rがあった。いよいよマイクロフォーサーズから脱却するらしい。結構なことだ。しかもライカレンズのLマウントを採用したから、その本気度がわかる。記録媒体がXQDカードとSDメモリカードのダブルスロットというので、やや心が動いた。

 オリンパスのブースを覗いたが、こちらは相変わらずマイクロフォーサーズ規格である。私には非常に懐かしい。もっとも現在の主力機種は、かつてのペン・シリーズからOMーDシリーズへと移したようで、小型軽量、防塵防滴、耐低温を売り物にしている。私もかつてペン・シリーズを2機種使ったから、ノスタルジーを感じる。でも、画像素子(センサー)が小さいというのは致命的な欠点で、昼間の太陽の下での撮影ならAPS−Cやフルサイズとの違いはさほど目立たないが、夕暮れや夜間などの厳しい条件下での撮影では、子供と大人ほどの差が出てしまった。そういう点は、このOMーDシリーズでは解消されたのだろうか。いささか気になるところである。

  (【後日談】デジタル一眼カメラ販売ランキングを参照)

 富士フイルムのブースに行ったが、こちらはかなりユニークなメーカーで、プロ向けにGFX 50Sという「フルサイズ」(35mm)どころか更にその上の「中判」(43.8mm x 32.9mmで、35mmの1.7倍)というミラーレスを売っている。そうかと思えば、素人の愛好家向けの小型軽量モデルも売るという幅の広い製品群を擁している。一説によれば同社のカメラは画像エンジンが良いので色の発色が美しいとか、いやいやオートフォーカスが弱いとか、バッテリーが長持ちしないとか言われている。今回、それを確かめようと近づこうとしたら、大混乱の様を呈していたので、やめてしまった。会場の整理に当たっている係員がもう少し上手にやればいいのにと思うほどだった。だから、それらが本当かどうかを確かめる術がなくなった。

ケンコーのPLフィルターのブース


 そのほか、ケンコーのブースでは、大きな収穫があった。「PL(偏向)フィルターの達人」という人がいたので、日頃の質問をぶつけてみた。

「お宅のPLフィルターを持っているのですが、撮るときにレンズ先端の花形フードが邪魔をして、上手く回せないのです。指をフィルターに直接当てて、それで回すのですかね。その被写体によってフィルターを回す角度がそれぞれ違うから、どうしても撮る直前に回さないといけない。しかし、その度にいちいちフードを取り外すのも面倒ですよね。皆さん、どうしていますか?」

達人「いえいえ、そのように指を使うと、レンズが汚れてしまうので、やはりフードを取り去って、回すしかないでしょう。フードによっては、フィルターを回せるように隙間があけられている製品もあるから、各社のカタログを取り寄せてみたらいかがですか。」

なるほど、そうしてみようと思う。私は桜などが水面に写る写真を撮るのが好きだが、PLフィルターを使えば、空も水面も青さが際立つ。もっと活用したいと思っている。

 次に、ND(減光)フィルターの達人という人がいた。先日、友人である写真家が、私に「NDフィルターを使ったらいいよ。」と言ってくれたが、その時はあまり気にも止めなかった。だからどういう機能のものか全く知識がない。よい機会なので、教えてもらった。例えば水の流れを撮るとき、スローシャッターにして水があたかも絹布のように滑らかに見えるように撮る技法があるが、そうすると取り込む光の量が多くなり過ぎて細かなところが白く潰れたりする。NDフィルターはそういう場合に光量を絞る効果があるという。あるいは、花火を撮るときに光量オーバーになって白く潰れたようになるが、その場合にも効果があるとのこと。いずれも、非常に勉強になった。


超小型カメラ「ミゼット」


ピストルの形をしたカメラ


 このCP+(シーピープラス)2019 には、特別協力という形で日本カメラ博物館が参加しているが、そこで見た超小型カメラ「ミゼット」は、私が神戸でまだ小学1年生だった頃に使っていたカメラによく似ていて、非常に懐かしかった。実際にこれで撮った写真を未だに持っている。その他、バービー人形やピストルの形をしたカメラがあったとは知らなかった。特にバービー人形は、胸の中央のダイヤモンドのような飾りがカメラのレンズだというので、これまた笑ってしまった。

バービー人形型カメラ





3.横浜をぶらっと散歩

 そういうことで、パシフィコ横浜の会場を後にして帰ろうとしたが、冬にしては気温が10度と、暖かい方なので、ぶらっと散歩することにした。まずは、クイーンズスクエアの3連棟の建物の2階部分を抜ける。もうお昼時なので、どこか適当なレストランがあれば入るつもりだったが、どのレストランも長蛇の列を作っている。土曜日だから仕方がない。更に進んで、ランドマーク・タワーに入ると、こちらはそれほどではない。どこかないかと思っていたら、名古屋発祥のコメダ珈琲店があった。

 これは久しぶりとばかりに入り、定番の小倉サンドにサラダと紅茶を注文した。小倉サンドは厚切りかどうかを聞かれたので、普通のをお願いしたら、それでも持ってきてもらったものを見ると、いやまあ凄い量だ。これだけ食べるなら、かなり歩かないといけないと思いつつ、パクパクとみな食べてしまった。


大規模修繕中の帆船日本丸


 これで腹ごしらえは終わり、店を出た。動く歩道の脇道を歩き、帆船日本丸を撮ろうとしたが、残念なことに、ただいま大規模修繕中で、マストはオレンジ色に塗られ、船体は四角く囲われている。船が入っているドックの水まで抜かれていた。なお、2019年中に行われる帆船日本丸の総帆展帆スケジュールというのがあった。つまり、日本丸の帆を広げる予定日だ。さぞかし帆船らしくなるだろう。その日にまた来て、撮ってみようと思う。

水陸両用バス


 日本丸のところまで降りて、ドックを半周して汽車道の方に向かおうとしたら、水陸両用バスがあった。ちょうど出るところだった。大人1人が3,500円とのこと。いささか強気過ぎるのではないか。それでも座席は、8割ほど埋まっていた。

教会風の建物


結婚式に向かう新郎新婦が運河に添って歩く


 汽車道を赤煉瓦倉庫の方に向かい、港三号橋梁を渡る。海風がやや冷たい。歩く途中の運河の向こうにある教会風の建物では、ファンファーレが鳴ったかと思うと、メンデルスゾーンの結婚行進曲が聞こえてきた。そちらに目をやると、結婚式に向かう新郎新婦が運河に添って歩いていて、皆が満面の笑みで祝福している。新郎は嬉しくて仕方がないという表情だし、新婦はその弾むような歩き方からして、これまた幸せいっぱいだ。これは良いものを観た。どうかこの幸せが、一生続きますようにと、お祈りをしておいた。それにしても、この地区は、夜になると色とりどりのネオンが溢れるようにあって、前衛的な建物、大観覧車、運河を行く船など、被写体に事欠かない。

NAVIOS横浜


 運河を渡り終えると、左手にはワールドポーターズ、正面にはまるで風水で穴が空いたようなNAVIOS横浜(横浜国際船員センター。ホテル)である。そのHPによれば、なぜこのような形にしているかという質問に対して、「『凱旋門のような形』をしているナビオス横浜ですが、実は凱旋門がモチーフではありません。ナビオス横浜は1999年10月に竣工しておりますが、建築の際の構想として、遊歩道である『汽車道』の一環として建築されました。あのような形は実は『絵画の額』がモチーフとなっており、汽車道に立ち、みなとみらいを背にしてナビオス横浜を覗くとベイブリッジ・赤レンガ倉庫といった『旧き良き横濱』の景色が、また赤レンガ倉庫を背にしてナビオス横浜を覗くとランドマークタワーといった『新しいヨコハマ』の景色がまるで絵画のように見えるように設計されています。」とのこと。でも、香港から来た観光客は、どう見ても風水の影響だと思うだろう。

 赤煉瓦倉庫に着くと、2棟のうちひとつは大規模修繕中である。その前にたくさんのテントが並んでいると思ったら、全てパン屋さんで、入り口ではそれぞれの店が売り切れそうかどうかがわかる一覧表まであった。そこから大桟橋の方を望むと、大きな豪華客船が停泊している。これは、行って見なければ。


ダイヤモンド・プリンセス


 象の鼻パークを経由して、大桟橋に向かう。近づくと、豪華客船は「ダイヤモンド・プリンセス」だった。そう、三菱重工業長崎造船所で建造中に火災を起こし、大赤字の原因となったいわくつきの船だ。もっとも、この船自体は、別名で同時に建造中だった姉妹船を転用したものだから、実は関係はない。その後は、無事に運行されているようだから、慶賀の至りである。内部を見ることはもちろんできなかったが、外から見る限りでは、個々の部屋のベランダに二脚の椅子があるなど、まるでマンションにエンジンを載せて動かしているかの如くである。

キング(神奈川県庁)


クイーン(横浜税関)


ジャック(開港記念会館)


 さて、そろそろ帰るとしよう。地図を見ると今居る所は、昔、横浜に入港する船員が目印とした3つの塔、キング(神奈川県庁)、クイーン(横浜税関)、ジャック(開港記念会館)が近い。せっかくだから、その写真を撮ってこようとした。まずはクイーンだが、運悪く逆光だ。そこでキングの裏手に回って何とかとらえた。ただし背景にビルがあって、構図としてはあまりよろしくない。そのキングだが、これも逆光気味だったけれども、裏手に回る途中、少し左手に動いたのでその位置で撮った。最後にジャックに近づいて行ったら、残念なことにただいま大規模修繕中で、塔の先端だけが出ている。それをなんとか撮って、みなとみらい線の日本大通り駅から帰路に着いた。本日はかなり歩き、帰ってみれば1万6千歩と、本年の新記録となった。




 カメラと写真の見本市(写 真)





【後日談】デジタル一眼カメラ販売ランキング

 ヨドバシカメラ1社の販売統計であるが、2019年2月16日から2月28日までの間のデジタル一眼カメラ販売ランキングを見ると、売れ筋の第1位は、意外と言ったら失礼かもしれないが、オリンパス製の縦位置グリップ一体型のプロフェッショナルモデル(OM-D E-M1X ボディ)だった。2月22日に発売されたばかりの約35万円のカメラである。ということは、カメラマニアの間の評価が非常に高いらしい。そのHPでの説明によると、「小型で軽量、高画質を実現する『マイクロフォーサーズシステム規格』準拠のミラーレス一眼カメラです。縦位置グリップ一体構造を採用し、安定したホールディング性、高い操作性を実現。さらに約7.5段分の手ぶれ補正能力も備え、夜間や室内での手持ち撮影時の画質がさらに向上、撮影可能なシーンを拡大します。フィッシュアイから超広角、超望遠、マクロまで、高画質で多彩なラインアップのM.ZUIKOレンズ群との組み合わせで、小型・軽量・高画質なカメラシステムを実現。スポーツや動物など高い機動性が必要な撮影シーンに特に威力を発揮、一瞬のシャッターチャンスを狙う写真家の信頼に応えるプロフェッショナルモデルです。」というから、かつてのオリンパス・ペンのシリーズとは異なり、夜間や室内での手持ち撮影に十分耐えられるどころか、スポーツや動物などを撮影するプロ写真家にも支持されているようだ。これは、オリンパスカメラへの認識を改めなければならない。ちなみに、ランキング上位10位の機種は、次の通りである。

 これらを眺めると、オリンパス以外は、やはり豊富な機種を揃えたソニーの一人勝ちの様相を呈している。私は、当面はタムロンの18−400mmで凌ぐとしても、これから内外を旅行して風景写真を撮る機会が格段に増えるので、早晩、フルサイズのミラーレス一眼を買う時期が来ると思う。その時、ソニーの天下が続いているか、それともキヤノンやニコンがその地力を発揮して追い付いてくるかがまだ見えてこない。それ次第で、どのメーカーのカメラにするかを決めようと思う。現在の延長線上では、レンズ資産を少しは持っているのでキヤノンのカメラということになるが、良いミラーレスが発売されていなかったり、あるいはそのレンズ資産が使えないのであれば、いっそのことソニーのαシリーズにするという手もある。近い将来の悩みどころはであるが、楽しい選択でもある。


第1位 オリンパス OM-D E-M1X ボディ

第2位 ソニー α7 III ボディ

第3位 ニコン Z 6 キット(ボディ+NIKKOR Z 24-70mm f/4 S+マウントアダプターFTZ)

第4位 キヤノン EOS R ボディ

第5位 ソニー α7R III ボディ

第6位 ソニー α7 III レンズキット(ボディ+FE 28-70mm F3.5-5.6 OSS)

第7位 ソニー α6400 ダブルズームレンズキット(ボディ+E PZ 16-50mm F3.5-5.6 OSS+E 55-210mm F4.5-6.3 OSS )

第8位 ニコン D5600 ダブルズームキット(ボディ+AF-P DX NIKKOR 18-55mm f/3.5-5.6G VR+AF-P DX NIKKOR 70-300mm f/4.5-6.3G ED VR)

第9位 ソニー α6400 高倍率ズームレンズキット(ボディ+E 18-135mm F3.5-5.6 OSS)

第10位 ソニー α6400 パワーズームレンズキット(ボディ+E PZ 16-50mm F3.5-5.6 OSS → 3月9日には、これがミラーレス一眼カメラ販売の第1位となる。












(2019年3月2日記。9日追記)


カテゴリ:エッセイ | 20:17 | - | - | - |
天皇陛下御在位30年記念

政府インターネットテレビより


             目 次

 1.記念式典
         (資 料)当日の式次第

         (頂き物)CD「御即位から三十年」

 2.宮中茶会
         (頂き物)ボンボニエール



1.記念式典

 天皇陛下御在位30年記念式典が、平成31年4月24日に東京都千代田区の国立劇場で開かれた。私も参列する機会に恵まれ、間近で式典の模様をつぶさに観ることができたが、中でも天皇陛下のお言葉には万感の思いが込められており、深く胸を打たれるものがあったので、まずはそれを掲げておきたい。

「 在位30年に当たり、政府並びに国の内外から寄せられた祝意に対し、深く感謝いたします。

 即位から30年、こと多く過ぎた日々を振り返り、今日こうして国の内外の祝意に包まれ、このような日を迎えることを誠に感慨深く思います。平成の30年間、日本は国民の平和を希求する強い意志に支えられ、近現代において初めて戦争を経験せぬ時代を持ちましたが、それはまた、決して平坦な時代ではなく、多くの予想せぬ困難に直面した時代でもありました。

 世界は気候変動の周期に入り、我が国も多くの自然災害に襲われ、また高齢化、少子化による人口構造の変化から、過去に経験のない多くの社会現象にも直面しました。島国として比較的恵まれた形で独自の文化を育ててきた我が国も、今、グローバル化する世界の中で、更に外に向かって開かれ、その中で叡智を持って自らの立場を確立し、誠意を持って他国との関係を構築していくことが求められているのではないかと思います。

 天皇として即位して以来今日まで、日々国の安寧と人々の幸せを祈り、象徴としていかにあるべきかを考えつつ過ごしてきました。しかし憲法で定められた象徴としての天皇像を模索する道は果てしなく遠く、これから先、私を継いでいく人たちが、次の時代、更に次の時代と象徴のあるべき姿を求め、先立つこの時代の象徴像を補い続けていってくれることを願っています。天皇としてのこれまでの務めを、人々の助けを得て行うことができたことは幸せなことでした。

 これまでの私の全ての仕事は、国の組織の同意と支持のもと、初めて行い得たものであり、私がこれまで果たすべき務めを果たしてこられたのは、その統合の象徴であることに、誇りと喜びを持つことのできるこの国の人々の存在と、過去から今に至る長い年月に、日本人がつくり上げてきた、この国の持つ民度のお陰でした。

 災害の相次いだこの30年を通し、不幸にも被災の地で多くの悲しみに遭遇しながらも、健気に耐え抜いてきた人々、そして被災地の哀しみを我が事とし、様々な形で寄り添い続けてきた全国の人々の姿は、私の在位中の忘れ難い記憶の1つです。

 今日この機会に、日本が苦しみと悲しみのさ中にあった時、少なからぬ関心を寄せられた諸外国の方々にも、お礼の気持ちを述べたく思います。数知れぬ多くの国や国際機関、また地域が、心のこもった援助を与えてくださいました。心より深く感謝いたします。

 平成が始まって間もなく、皇后は感慨のこもった一首の歌を記しています。

 ともどもに平(たひ)らけき代を築かむと諸人(もろひと)のことば国うちに充(み)つ

 平成は昭和天皇の崩御と共に、深い悲しみに沈む諒闇の中に歩みを始めました。そのような時でしたから、この歌にある「言葉」は、決して声高に語られたものではありませんでした。しかしこの頃、全国各地より寄せられた「私たちも皇室と共に平和な日本をつくっていく」という静かな中にも決意に満ちた言葉を、私どもは今も大切に心にとどめています。

 在位30年に当たり、今日このような式典を催してくださった皆様に厚く感謝の意を表し、ここに改めて、我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります。


 明治期の日本は、近代国家の建設によって列強諸国と伍していくために天皇を中心とする中央集権体制を作り上げた。そして富国強兵、殖産興業を旗印に欧米諸国と対等に渡り合える実力を備えた国家へと成長を遂げたが、残念ながら昭和に入りその方向を誤って、太平洋戦争に突入した。その結果、戦争による大惨禍と無残な敗戦を経験し、それから民主主義国家として再出発して今日の隆盛を迎えたわけである。

 その過程では、やはり昭和天皇が最も過酷な経験をされたのだと思う。軍部主導で戦争に突入して敗戦のやむなきに至り、残されたのは数百万人を超える戦死者と負傷者、そして焦土と化した国土である。占領期を経て、それまでの「現人神」から、「人間宣言」とも解される詔書を出されて全国各地を親しくお巡りになって国民と交流され、復興を見守りつつ戦争による被害を受けた国民に対する癒しにも目を配られた。振り返ってみると、戦前は軍部との厳しいやりとり、戦後は占領軍との関係など価値観がまさに180度変わった上での困難な対応であったろうと推察する。昭和の63年間は、これを3つに分けると、最初の20年間は「戦争」、次の20年間は「復興」、最後の23年間は「発展」ということになろうか。まさに、起承転結の「起承転」である。

 それに対して、平成の時代は、「結」であったと思う。平成天皇は、このような歴史を十分に踏まえられて、「国の象徴」としての役割を模索されたことは、上のお言葉に詳しい。とりわけ「象徴としての天皇像を模索する道は果てしなく遠く」とおっしゃっているが、全くその通りだったと思う。しかし、平成天皇が十分にその象徴としての善くその役割を果たされたという事実は、万人の認めるところだと思う。中でも、阪神大震災や東日本大震災などの自然災害の折に、体育館などの被災者を親身に見舞うそのお姿には、全国民が感動したものである。


政府インターネットテレビより


 加えて、美智子皇后の存在は平成天皇にとって、非常に大事なことであったろうと思う。前述のお言葉でも皇后の御歌が引かれているが、単なる人生のパートナー以上の心と心の結びつきが感じられるのである。実は先程の天皇陛下のお言葉の最中に、陛下がお読みになる原稿を読み飛ばす局面があったが、皇后陛下は傍らで、それをしっかりとサポートされた。そのお姿には、参列者一同、改めて感じ入った次第である。

 天皇陛下御在位30年記念式典の当日は、安倍晋三内閣総理大臣の式辞に続いて、衆参両議院議長、最高裁判所長官、サンマリノ共和国駐日大使、福島県知事、川口順子元外務大臣による祝辞が披露された。その後、平成15年の歌会始の儀で両陛下がお詠みになられた御製と御歌を、波乃久里子さんが読み上げた。

(御製)我が国の旅重ねきて思ふかな 年経る毎に町はととのふ
(御歌)ひと時の幸わかつがに人びとの 佇むゆふべ町に花降る


 天皇陛下の御製(ぎょせい)は、長年の国内の旅のご経験を通じて実感された日本国の発展の様を嬉しくお思いになるご様子を表現され、また皇后陛下の御歌(みうた)は、町の庶民のささやかな幸せに心を配られるその優しいお気持ちを歌い上げておられる。実に麗しい和歌であると感じ入った。

 次は記念演奏があり、「歌声の響き」(独唱:三浦大知、ピアノ:千住明、バイオリン:千住真理子)と、「おもひ子」(独唱:鮫島有美子、ハープ:吉野直子)である。前者は沖縄の船出歌「だんじゅかりゆし」をベースに両陛下が作詞作曲されたもの、後者は皇后陛下が作曲された子守歌である。特に沖縄は、先の大戦で甚大な被害を受けたところであり、昭和天皇に引き続いて平成天皇もこうして気配りをされたものと思われる。


政府インターネットテレビより


 以上で式典は終わり、天皇皇后両陛下が退出されることになった。壇上では、式辞や祝辞を述べた方々や記念演奏の関係者が並び、両陛下が一人一人に挨拶をされた。その中でも、御製や御歌を読み上げた波乃久里子さんは、思わず涙を流していた。それから両陛下は、舞台の袖で観客席に向かって、長い間、手を振られていた。両陛下と出席者とが一体となった最も感激する瞬間であった。

 かくして、参列者と国民に深い印象と感動を与えて、在位30年記念式典は無事に終了した。途中、天皇陛下がお言葉を述べられる際に、感極まって涙声になられたり、先ほど記したように皇后陛下のお助けで読み続けられたようなことがあったものの、これらはそれぞれ陛下の人間味と、ご高齢による退位の必要性を改めて人々に感じさせた。そういう意味で、私はかえって良かったのではないかとすら思うくらいである。

 帰りがけ、紫のフェルトで包まれた平らな箱をいただいた。帰って開けてみたら、「天皇陛下御在位三十年記念 ー 常に国民とともに」と題するCDだった。その内容は、政府インターネットテレビの皇室チャネルにあるので、御覧いただければと思う。これは、「昭和64年1月7日の剣璽等承継の儀や、平成2年11月12日の即位礼正殿の儀の映像とともに、日ごろの御公務、御研究を紹介。 また、全国各地へのご訪問、国際親善、被災地へのお見舞い、慰霊の旅、御家族との御様子など、御即位から30年の歩みを紹介しています。」というものである。


「天皇陛下御在位三十年記念 ー 常に国民とともに」と題するCD


「天皇陛下御在位三十年記念 ー 常に国民とともに」と題するCD




2.宮中茶会

 翌25日の夕刻には、宮中茶会が催された。まず春秋の間に案内され、そこで同僚や友人知人たちと懇談していた。そうしたところ、舞楽が始まった。「ブオーン、フォーン、ピィー」と響く笙や篳篥や笛の雅な音色と、太鼓の「ドドドドッ、ドーン」という腹に響く音に乗って、4人の舞人が現れて優雅に舞う。演目は、「萬歳楽」と「延喜楽」だそうだ。足の動きや上体の傾け方などはまさに古式豊かなものであるが、アップテンポの現代音楽や舞踊しか見ていない我々にすれば、スロー過ぎてもどかしいくらいだ。しかし、千年以上前の平安時代からこの原型を崩さずに連綿と伝えられてきていると思えば、厳粛な気持ちになる。

 それが終わると、豊明殿に案内された。その人数はとても多い。後日の新聞によれば、450人だったそうだ。殿の中に入るときに差し出された飲み物を手に取ったものの、つい部屋の奥の方に行きそびれて、入り口の近くで再び同僚や友人たちと歓談のひと時を過ごす。そうこうしているうちに、奥の方で左手のドアが開いて、天皇皇后両陛下、皇太子同妃両殿下、秋篠宮同妃両殿下、眞子内親王殿下、佳子内親王殿下などがお出ましになられたようだ。「ようだ。」というのは、遠すぎる上に、人垣に遮られてよく見えなかったからだ。そういう手順をあらかじめ知っていたのなら、もう少し何とかなったのかもしれないが、今からでは遅い。またそのうち、御代がわりの儀式の時にでもまた、お話が出来る機会もあるだろうから、本日は無理をせずに、その場で控えておくことにした。


宮中茶会でのいただき物


宮中茶会でのいただき物



 帰り際に、陛下からの頂き物があった。皇室の菊の御紋が刻印された小ぶりの金属製の丸い容器を開けたら、色とりどりの綺麗な金平糖が入っていた。あゝこれは、銀(鍍金)製の「ボンボニエール」ではないか。元々、フランス語の「ボンボン」つまり砂糖菓子を入れる容器で、あちらでは結婚したときや、あるいは赤ちゃんが生まれたときなどのお祝い事があったようなときに配られる引出物だそうだ。日本の皇室でも、いつの頃からか今回のような宮中宴会などのときに配られるようになったという。つくづく鑑賞すると、十六八重表菊の御紋が黄色に彩色され、それをまるで手のひらで包むように2枚の菊の葉が配置されている。誠にシンプルだが、それだけに素朴な美を感じる。

 金平糖の色の数は5色である。入っていたのはごく小さな粒のもので、しかも少量だ。たとえばこれを孫に渡したりすると、二口、三口であっという間になくなりそうな量だけれど、家内ともども、いささか畏れ多くて、なかなか口にすることができない。ともあれ、この式典といい、茶会といい、平成という時代の最後の記念となる、一生忘れがたい経験であった。この菊の御紋を刻んだボンボニエールを手元に置くことにより、平成天皇皇后両陛下を思い出し、また我々夫婦の来し方を振り返るよすがとしよう。




当日の式次第


当日の式次第


当日の式次第


当日の式次第


当日の式次第









(2019年2月25日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:33 | - | - | - |
神代植物公園 冬の温室

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 家内と冬の神代植物公園を訪れて、大温室に入った。私は元々、熱帯植物を見るのが大好きなのであるが、本日の目的は、「神代のダースベイダー」といわれる花が咲いているというので、それを見ることである。ところが温室内は広く、その花はごくごく小さいことから、見つけるのに難儀しそうなことである。温室内の緑の洪水の中で、まず目についたのは、ベニヒモノキ(紅紐の木)である。赤い紐のような花穂が垂れさがっている。まるで昔のエノコログサのようで、つい触りたくなる。そこを過ぎて、「ダースベイダーはどこかな。」と探そうとしたら、家内が「あそこに、人が集まっているわよ。」と教えてくれた。そちらへ行ってみると、地面の低いところにその花はあった。エルサルバドル原産の植物「アリストロキア・サルバドレンシス」である。なるほど、ダースベイダーそっくりだ。この両目のような白い部分は何かといえば、虫を誘うためにあるのではないかとのこと。意外と早く見つかった。しかも、旅人の木の根元に生えていたので、わかりやすい。

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 ダースベイダーのはす向かいには、バナナの木があった。しかも「まだ青いバナナの房」がたわわに実っている。いったい何本あるのだろう。これはとても良い姿形で、実に見事だ。

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 次にあったのが、お化粧のパフみたいな赤いボンボンのような花で、「オオベニゴウカン」という変な名前がついている。でもこれはカタカナだからで、漢字で書くと「大紅合歓」というので納得した。要するにネムノキなのだ。赤い色のほか、紫や青色もあるらしい。

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 二等辺三角形をした不思議な葉がある。しかもその模様も同じく二等辺三角形である。こんな形の葉は、初めて見た。

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 パパイヤの木に、たくさんの実が生っている。こんなにたくさん生えるのかと思うくらいに密集している。パパイヤの実は、大根のようにジアスターゼが多くて、健康に良い。東南アジアにいたときには、一番数多く食べたものだ。

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 これはあるだろうと思っていた花が、やはり、あった。「コエビソウ(小海老草)」である。本当に海老のようで、とても可愛い花である。メキシコ原産のキツネノマゴ科の植物で、別名はベロペロネというらしい。自宅近くでもよく見かける人気の園芸種である。

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 「アンスリウム」の花で、仏炎苞という赤楕円形の葉のようなもの真ん中から、白と黄色の花序が突き出しているサトイモ科の植物である。水芭蕉と形が似ているなと思ったら、やはりこの仲間らしい。

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 さて、これから蘭が続く。最初は「パンダ」、いや違った「バンダ」。青紫の花である。樹木の幹などにまとわりつくように生えていることから、サンスクリット語の「Vandaka(まとわりつく)」が転じて「Vanda Orchid 」となったらしい。それからお馴染みのリカステ、パフィオぺディラムなどがある。

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 「ベゴニア」もたくさんある。花言葉は、「片想い」「愛の告白」「親切」「幸福な日々」などと、その色と同じく多岐にわたっている。ピンクなどは、「愛の告白」にふさわしく、白くて周辺だけ赤く染まった花は、「片想い」かもしれない。オレンジ色は、「幸福な日々」といっても良いだろう。まあそういうことで、とても華やかな花である。

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 おっと、「フクシア」の花があった。別名が「釣浮き草」。まさにその通りである。花言葉は、「信じた愛」、「激しい心」、「センスが良い」、「おしゃれ」とのこと。なるほど、いかにもそういう感じがする。

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 これから、「熱帯睡蓮」の池に入る。紫、黄、白、ピンクなど色々なスイレンが咲いている。見ていて飽きない。ただ、池の中にあるので、望遠レンズでないと撮れない。

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 「ハイビスカス」の大振りの花が、睡蓮の池の周りに植えてあった。黄色いハイビスカスは、これもまた見事な花である。華やかな貴婦人という面持ちである。

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 様々な種類の「サボテン」があった。大きくて丸い椅子のようなもの、白くて棘がいっぱいのものなどと並んで、不思議なサボテンがある。土台は薄緑色の普通のサボテンなのに、その上にタワーの如く突き出ている部分が濃赤色という変わり種である。初めて見る種類である。

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 神代植物公園( 写 真 )






(2019年2月4日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:16 | - | - | - |
旧前田家本邸(駒場公園)

旧前田家本邸


 駒場東大前駅の近くに、駒場公園があり、そこに加賀藩前田家の本邸がある。そもそも駒場公園そのものが、前田家の屋敷跡だったのである。加賀藩は、尾張の地侍だった前田利家を藩祖とし、織田信長、豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは徳川家康についてその信任を得た。それ以来、徳川将軍家と姻戚関係を通じて関係を深めてきたことから親藩に準じる扱いとなり、加賀百万石と称される大藩となった。江戸時代中頃には、本郷に上屋敷、駒込に中屋敷、板橋の平尾に下屋敷のほか、深川にも蔵屋敷を置いた。本郷の東京大学にある赤門は、第12代の前田斉泰が文政10年に将軍家の息女溶姫の輿入れの際に造らせたものである。

旧前田家本邸


旧前田家本邸


旧前田家本邸


 明治に入って前田家は侯爵家となった。ところが15代利嗣侯爵は男子に恵まれなかったことから、遠い親戚筋に当たる七日市藩前田家5男の利為(としなり)が明治33年に養嗣子として迎えられ、16代の侯爵となった。そして明治39年には先代の長女と結婚し、名実ともに当主となる。軍人として国家に仕える道を選び、近衛歩兵第四聯隊大隊長、駐英大使館附武官、近衛歩兵第二聯隊長、第八師団長を歴任した。若い頃から欧州諸国に留学して見聞を広げていったが、滞欧中に夫人が病死した。のちに旧姫路藩酒井家次女の菊子夫人と再婚し、同夫人はこの駒場の前田家本邸で過ごした。

旧前田家本邸


旧前田家本邸


旧前田家本邸


 前田家は、江戸時代以来の本郷の上屋敷に居住していたが、利為は欧州で見聞した第1次大戦後の貴族の困窮ぶりを目の当たりにし、日本でもそういう日が来るものと思い、生活ぶりを引き締めにかかっていた折、東京大学が本郷の敷地を広げる必要から駒場への移転を打診されて、これに応じた。昭和2年に利為が駐英大使館附武官として赴任した後、昭和3年に塚本靖が中心になって建築にとりかかり、同5年に完成した。利為はかねてより「我が国には外国の貴賓を迎え得る邸宅がない」と考えていたことから、建物の様式はイギリス・チューダー朝のカントリーハウス風に建てられ、調度品もイギリスから運ばれた。

旧前田家本邸


旧前田家本邸


旧前田家本邸


 利為は、既に昭和13年には退役していたが、同16年に太平洋戦争が勃発したことから現役に復帰してボルネオ守備司令官に任じられ、現地に赴任した。ところが翌17年に、搭乗した飛行機が海中に墜落する事故で亡くなってしまった。享年58歳だった。この駒場の邸宅には、10年ほど居住したに過ぎなかった。

旧前田家本邸


旧前田家本邸


旧前田家本邸


 その後、この邸宅は中島飛行機が買収してその本社となったが、敗戦によってGHQに接収され、リッジウェイ最高司令官の官邸となる。ところが、その夫人が看護師だったことから、由緒ある金唐紙などが気に入らないということで、真っ白く塗り込められてしまうなど、かなりの改変が加えられてしまった。接収の解除後、国から都へ、更に都から目黒区へと移管されて今日に至っている。このような複雑な経緯を経ていながら、昭和初期の華族の生活を彷彿とさせる邸宅と庭園がほぼ元のまま残されているのは貴重であることから、平成25年には国の重要文化財に指定された。その後、復元工事が行われて、同30年10月から公開されている。

旧前田家本邸


旧前田家本邸


 家内と一緒に行ってみたのであるが、洋館入り口で靴を脱ぎ、入館料などはとらない。1階はお客をもてなすところで、重厚感のある焦げ茶色の玄関扉を開けると、柱が深緑で白い筋が入った蛇紋岩、床は真紅のカーペット、半螺旋形で二階へと繋がる階段には彫刻が施され、階段の下にマントルピースとソファを備えた待ち合わせの小さな空間(イングルヌック)、頭上にはシックなシャンデリアと、素晴らしい。大客室と小客室は、壁紙もシャンデリアもカーテンも椅子やソファも居心地がよい。晩餐会が開かれる大食堂の中央には白い大理石の大きなマントルピースが置かれている。2階は私的な空間で、侯爵夫妻の寝室、侯爵の書斎、夫人室、子供部屋などがある。特に夫人室は全体が落ち着いたピンク色で、家族が集まって過ごしたようである。以上が駒場本邸で、それに隣接して和館があり、こちらは純和風の建物である。

旧前田家本邸


旧前田家本邸


 現在NHKで再放送されている「ダウントン・アビー」は、第1次大戦前後のイギリス貴族の世界を描いている。日本でもこれと同じように、昭和の始めに旧有力大名家の華族は、このような建物で、かくなる豪華な生活をしていたのかと思うと、なかなか感慨深いものがある。



(2019年2月3日記)


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