大学入学50周年記念

お茶屋の間仕切り


1.記念パーティ

 我々の大学入学50周年を記念して、京都で同窓会を開こうということになり、教養部時代の私のクラスを中心として学園祭の運営を行ったメンバー30人ほどが集まった。このうち多くが私のように東京在住で、他は関西特に大阪に住んでいて、京都に家がある人は、ほんの僅かである。折しも紅葉の季節で、赤や黄色の紅葉が美しかった。

大原三千院


 我々が入学した頃は、大学紛争で何もかもが滅茶苦茶な時代であり、明日の授業があるかどうかも分からない状態にあった。だから50年後の自分の姿を想像することなど全く考えつきもしなかった。それがまあ、どうだろう。皆、髪の毛は薄くなり、体重も平均で20kg以上増えたとはいえ、笑えば昔の記憶通りの笑顔が帰ってくるし、人柄や発想は全く昔のままで、ほとんど変わらない。自分も含めて、これで本当に歳をとり、それなりに経験を積んだ姿なのだろうかと、ついつい思いたくなるほどだ。


2.記念文集

 加えて今回の新企画は、各人に400字程度の感想文を書いてもらって、記念文集とすることだ。それに昔の写真を重ね合わせて電子データの文集を作り、これを配ることにした。皆さんの感想文は、いずれもなかなかの力作だったし、それを新聞記者だったプロが編集するのだから、読ませるものができた。その一端を紹介すると、こういうものだ。

「(この)メンバーといる時は、いつも時計台下の20歳前後の『紅顔の美少年』。いつまでも変わらず皆さんと共にいられますように。」(KA)

「徹マン、酒、ダンパ、ソフトボール大会、あの『祭り』、その後の連日連夜の饗宴、それらの一コマ一コマが目に浮かびます。」(MI)

「物心ついた頃からの目標である、東大→官僚→政治家という人生目標が大きく変わりました。京大の在野精神の方がはるかに私の性に合っている」(YO)

「(高校の修学旅行で)バスを降り下り松を見て、詩仙堂に入った。曼殊院のことは覚えていない。このときに大学は京都にしようと決めた。」(YK)

「人生で一番感動したのは、入社4年目でフランス語研修生として生まれて初めて国際線に乗って、いよいよパリに降り立つというあの一瞬」(YS)

「東京を中心としたオールジャパンでの厳しい競争ということは経験せずに、大阪でのんびりした人生を過ごせたことは、結果オーライ」(TT)

「卒業して半世紀弱、職業人生と家庭人生が人生の大半、過ぎ去ると南柯の夢ではあるが、全体的に右肩上がりで楽しい思い出が残る。」(KT)

「法律事務所の後輩が独立する時に『先生の正義感が頼もしく、大好きでした』とメッセージをもらった。正直嬉しかった。」(KN)

「第8聖都はあの世かも知れない。妻とは森林葬について話し合っている・・・(このグループの)歌声も千の風=記憶となって、墓の周りを回り続けることを夢想する。70歳代=人生の秋+冬を楽しみたい。」(SN)

「出会いから50年。完全燃焼感のないもう一つの人生とも言えるが、振り返ると意外と悪くもない。絶えず笑顔でいられたし、いつも誰かに支えられている実感は確かに残っている。」(TH)

「勉強はしなかったものの、京都大学の精神とか考え方は自然と影響を受けていると思うし、それがその後の『媚びない。上からの権威に怯まない。自分の意見を持つ。』という、自分なりの生き方を作った。」(MM)

「高校の時から少し異端者でした。強制されたら絶対に従わず、二択ならひとの反対を取る。自分の意見は中々譲らず、理不尽な仕打ちは決して忘れない。そのくせ自分が所属した集団には概して忠実」(TM)

「時計台大ホールの使用交渉から始まり、舞台設営・運営、会場運営、チケット販売、タレント交渉、広告・広報、果ては ヘルメット部隊来襲の備えまで、ちょっとした社会体験の場になった。なにより多士済済の仲間と協働できたことは一生の宝物だ。」(TK)


 いかがだろうか。皆さんの書かれたエッセイのほんの僅かな部分の引用だが、それでも見事に各人の人生観や感動した話、歩んできた道などが生き生きと描かれてる。誠に素晴らしい。これだからこそ、この同級生の皆さんは、私の宝物である。ちなみに、私の書いた「これからは黄金の70歳代」と題する文章は、次のようなものだ。

「今から50年前、大学受験の準備万端を整えて、さあ本番という時に東大入試中止が報じられた。まさかと思い名古屋から急遽上京して御茶ノ水駅に降りた途端、派出所は焼け落ち、道路一杯に転がる石ころには血糊らしきもの、火炎瓶の跡まである。これはもう駄目だと諦めて京大入試を受けた。

 京都は良い街で、充実した学生時代を送った。しかし東京で活躍したいという憧憬は止み難く、それには有力官庁に入るしかないと思い定めて、自分の感性に最も合う通産省へ入省した。以来、『誠心誠意』と『為せば成る』をモットーに仕事を続けて20年が経ち、途中、特許法と国際交渉に携わったせいか内閣法制局に呼ばれて、更に20年が経過した。

 内閣法制局では『原案を削ぎ落とす審査をする』のではなく「最も良い案にするために独創的な知恵を出す』という姿勢で、第四部長から始まって全ての部長を経験した。そして次長、長官を勤め上げてもう身を引くという時に、思いがけず最高裁判所判事の職に就くこととなった。以来6年間、『後世に残しても恥ずかしくない立派な判決を書こう』と努めてきた。そして今年の9月ようやく退官の日を迎えた。

 我が公務員人生を振り返ってみると、誰にもへつらわず忖度など全くせずに正論と筋を貫き通してきたが、よくそれで46年余を過ごすことができたものだと今となって思う。この間、家内や子供達をはじ め、ディオニソスの皆様、先輩、同僚、後輩その他ご交誼のあった皆様方には本当にお世話になった。改めて深く感謝申し上げる次第である。

 退官後、第一東京弁護士会に弁護士登録をした。社会貢献を兼ねてしばらく弁護士の仕事をするつもりである。それとともに、徐々に趣味の分野へと活動の重点を移していきたい。とりわけ、機会を見つけてカメラを肩に内外の景勝地へと旅行し、できれば芸術の薫りがする写真を撮り、人の心に沁み入るエッセイを書くことができれば、これに勝る幸せはない。そして、それらを自分のホームページ『悠々人生』に載せるなどして、文字通りの『黄金の70歳代』を過ごしたいと思っている。」



3.亡くなった仲間とご遺族

 我々の仲間の一人が、今年の2月に病気で亡くなった。この同窓会に皆勤といっても良いくらいに出ていた有力メンバーだったが、あの巨体がもはや見られないかと思うと、いささか寂しい。ところが、嬉しいことに、ご遺族の奥様とご長女とご長男がこの会合に参加された。私など、とりわけご長男のご挨拶を聞きながら、「もし私が亡くなったたとして、果たして私の息子は、こんな風に立派な挨拶ができるのだろうか」などど思ったくらいである。

 また、5年後くらいを目処に、我々の青春の地である京都で、こうして皆さんとともに、お互い元気で集まりたいものである。


4.先斗町のお茶屋さん

 その会合の夜は、私は有志と先斗町のお茶屋さんに上がり、芸妓さん、舞妓さんに囲まれて楽しい一夕を過ごした。私は特に「祇園小唄」の舞が大好きなので、じっくりと鑑賞させてもらい、「ああ、京都に来た。」という気がしたものである。

先斗町のお茶屋さんにて、芸妓さん


先斗町のお茶屋さんにて、芸妓さん


先斗町のお茶屋さんにて、芸妓さん


 御座敷の余興では、「金毘羅フネフネ」の音頭に合わせて舞妓さんと丸い朱肉台を挟んで対決する遊びが面白かった。それをスマホのカメラで撮って家内に送ったら、「そのルールはどうなっているのだろうと目を凝らして見たのだけれども、分からなかった。」と言っていたから、笑ってしまった。それもそのはずで、朱肉台を取るタイミングが好き勝手な時なので、それに目を奪われるからだろう。

 ルールは簡単で、舞妓さんと交互に朱肉台の上に開いた手を置く。餅つきのペタンペタンという要領だ。そしてどちらか一方は、朱肉台を持ち去ることができる。すると相手は、その無くなった位置にげんこつの「グー」を置く。朱肉台を持ち去った方は、次の番でそれを元の位置に戻す。それを延々とやって、失敗したらハイお仕舞いとなる。単純だが、面白かった。これは、酔えば酔うほど、早くお仕舞いになる。

先斗町のお茶屋さんにて、舞妓さん


先斗町のお茶屋さんにて、舞妓さん


先斗町のお茶屋さんにて、舞妓さん


 そのうち女将さんが出て来て、脱脂粉乳や鯨の給食とやらで、同年代とわかった。大学紛争の時の話では、学生との団交にほとほと疲れた京大の執行部たちが、この祇園で束の間の休息をとっていたなどという秘話が明かされたりして、大いに盛り上がった。数々の戦乱をかいくぐったいかにも京都らしいエピソードである。


5.京都は紅葉の季節

 ちょうど京都は紅葉の季節の真っ盛りを迎えていて、私は、その日の日中に、黒谷の金戒光明寺、京大近くの真如堂を回った。翌日は、それこそ半世紀ぶりに、洛北の山里に行ったみた。大原三千院、貴船神社、鞍馬寺である。岩倉実相院にも行こうとしたが、貴船神社から鞍馬寺の山中を歩いて消耗したので、それは諦めていったん四条河原町のホテルに戻った。そして夕刻になって、東寺のライトアップの見物に行ってきた。

 更に次の日は、京都から近江八幡に行き、そこで荷物を預けて、市内を観光した。八幡堀遊覧船に乗るつもりだったが、気温が10度まで下がって冷え冷えとしてきたので、それは止めた。お昼に近江牛のすき焼きを食べて元気が出たので、隣の安土に行き、そこから紅葉の名所として近年有名になった「教林坊」に行ってみた。これはこれは、誠に見事な紅葉のお寺だった。

鞍馬駅の天狗


東寺のライトアップ


教林坊の紅葉


 以上の旅の次第は、別のエッセイで詳しく述べることにしたい。紅葉の写真については、整理したところ特に大原三千院と教林坊のものが素晴らしかった。それにしても、1回の旅行で、懐かしい同級生との交歓、祇園の舞妓さん、紅葉狩りを兼ねた神社仏閣巡りなど、これほど内容が豊富な旅はなかなかないのではなかろうか。70歳の節目に、いつまでも心に残る記念碑となった。それにしても、前回までのように家内と一緒なら、もっと楽しかったと思うが、急に脚の付け根が痛くなったのでは仕方がない。年をとれば、そういう体の不調はやむを得ないものだ。無理せずに、その日の体調と相談しながら、うまく付き合っていかければならない。これも含めて、人生そのものである。





(2019年11月26日記)


カテゴリ:エッセイ | 15:42 | - | - | - |
京都滋賀へ紅葉の旅

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1.旅の概要

 京都で、大学入学50周年記念のクラス会のパーティが時計塔内のレストラン「ラトゥール」であり、それが楽しみで出掛けて行った。実は5年前にも同様に45周年のクラス会、また10年前にも40周年のクラス会があり、更に30周年もやはり京都祇園の「いもぼう」で開かれた。

 入学後50周年といえば、もう半世紀も経っているという驚くべきことなのだけれど、その様子は、別途、「大学入学50周年記念」というエッセイにまとめたので、ご覧いただければ幸いである。まあ、同級生はこの間、色々な道を歩んで来たが、まるで自分の分身のようにいとおしく感じる。

先斗町のお茶屋さんの食事


 時計台の後は、私は金戒光明寺と真如堂に行き、紅葉の景色を写真に収めてから、先斗町に行った。先斗町のお茶屋さんでは、もちろん舞妓さんや芸妓さんの踊りを堪能したことはもちろんだが、それより、同年代の女将さんと昔の京都の大学紛争のときの話が弾んで面白かった。

先斗町の舞妓さん


 それから翌日の2日目は、洛北を中心に、蓮華寺→大原三千院→貴船神社→鞍馬寺という順に周り、夕方は東寺のライトアップに行ってきた。このうち、大原三千院の燃えるような紅葉としっとりとした緑色の苔の組合せが最も素晴らしく、次に美しいと思ったのが東寺のライトアップであった。ところが洛北の地でたどった貴船神社から鞍馬寺への道は、何の面白味のないひどい山道で、これはお勧めしない。ただ、運動にはなった。

 次の3日目は、京都から在来線のJR琵琶湖線で滋賀県の近江八幡市に行った。とりわけ、大坂商人、伊勢商人と並ぶ日本三大商人の一つである近江商人について知りたかったからだ。その資料館など市内を見物した後に、「教林坊」という紅葉の名所に行ってきた。安土駅からタクシーで行くしかない辺鄙な寺だが、京都にも負けない素晴らしい紅葉であった。これは、わざわざ見物に行く価値がある。それから、米原駅から新幹線で帰京した。


2.金戒光明寺

 通称「くろ谷さん」の金戒光明寺は、浄土宗で法然上人を開祖とし、本尊は阿弥陀如来、唱える言葉は南無阿弥陀仏である。いただいたパンフレットによれば、「法然上人43歳の承安5年(1175)、比叡山での修行を終えてこの地で念仏された時、紫雲全山にたなびき光明が当たりを照らしたことから、浄土宗最初の念仏道場が開かれた場所」とある。

金戒光明寺


金戒光明寺


金戒光明寺


 正面の二層の堂々たる山門には、その正面に後小松天皇の御宸筆で「浄土真宗最初門」の勅額が、遥か仰ぎ見る位置に掲げられている。宝珠を頂いた納骨堂には、阿弥陀如来が祀られている。重厚な三重の塔(重要文化財)は、徳川秀忠の菩提を弔うために建立されたもので、真っ赤な紅葉との対比が実に美しい。

 阿弥陀堂は、慶長10(1605)年、豊臣秀頼により再建され、本尊阿弥陀如来は、「恵心僧都最終の作で『ノミおさめの如来』」と言われているそうだ。御影堂の内陣には、法然上人の75歳の坐像があり、その右には吉備観音(1200年前に遣唐使の吉備真備の難を救った観音様)、左には中山文殊(運慶作と伝えられ、いまなは無き中山宝?寺にあった)が置かれている。」という。

金戒光明寺


金戒光明寺


金戒光明寺


 さて、お庭を拝見ということで、まず「方丈北庭」に向かう。池に大きな紅葉の木が差し掛かっていて非常に見事だ。「ご縁の庭」は、真ん中の丸い石に向かって石畳が双方から伸びているという意匠で、その向こうの開いた空間には紅葉が見えるという独特のもの。「紫雲の庭」は、先程の「紫雲全山にたなびき」から取った名前と思うが、「法然上人の生涯と浄土宗の広がりを枯山水で表現したもので、白川砂と杉苔を敷き詰めた中に、法然上人や上人をとりまく人々を大小の石で表し、法然上人の『幼少時代 美作国』、『修業時代 比叡山延暦寺』、『浄土宗開祖 金戒光明寺の興隆』の三つの部分に分けて構成されている。」とのこと。枯山水は禅寺特有のものだと思い込んでいたが、このように浄土宗の、しかも本山にもあるとは知らなかった。

金戒光明寺


金戒光明寺の会津藩士の墓地


 ところで、このくろ谷には、幕末の激動期に会津藩の本陣が置かれ、京都守護職の松平容保が居を構えたところとしても有名である。一時は、新撰組の屯所もあった。その関係で境内には、幕末の戦乱で亡くなった会津藩士の墓地もある。


3.真 如 堂

真 如 堂


真 如 堂


 真如堂は、京都大学の近くであることから、学生時代の思い出がいっぱい詰まったところである。「正式には鈴聲山真正極楽寺といい、比叡山延暦寺を本山とする天台宗のお寺」だというが、実は今から50年前は、ほとんど人影を見ず、ひっそりとしたお寺だった。だから、のんびりするには絶好のお寺だったのだが、それがまあ、特に紅葉の季節にはこれほど多くの人々が押しかけるようになるとは、想像もしなかった。

真 如 堂


真 如 堂


 そのHPには、「庭園には「池庭」「枯山水」「露地」があり、真如堂の2つの庭は水の流れを白砂で表現した枯山水です。」とある。ああ、またこれは枯山水である。でも、私にとって、この季節の真如堂は、黒い五重の塔や本堂と赤い紅葉が対照的で、それを見ていれば、心休まる気がするのは、半世紀前と変わらない。


4.円山公園

 朝早く起きたので、泊まっている四条河原町に近い円山公園に歩いていった。四条大橋を過ぎると、右手には歌舞伎の南座だ。最近、改修された。四条通りが東大路通りに突きあたるところが八坂神社の楼門で、緋色の柱や門構えがいかにも京都らしい。その階段を昇っていき、境内に入る。その中に、常磐神社、大国主社、北向蛭子社など社(やしろ)がいっぱいあって、歴史の古さを感じる。

歌舞伎の南座


歌舞伎の南座


八坂神社


八坂神社


 八坂神社本殿と舞殿の間を通り抜け、しばらく行くと「祇園枝垂れ桜」がある。我々が学生の頃は、これがいかにも美しくて可憐な桜花を咲かせていたものだ。それが今はかなり樹勢が衰えてしまったようで、痛々しい姿になっている。残念至極である。

円山公園ひょうたん池


円山公園ひょうたん池


 更に行くと、円山公園ひょうたん池に出た。周囲に木々があまりない、さっぱりした池である。だから、これという被写体もない。そこをひと回りして、いもぼう平野屋の前を通って本殿のところに戻ってきた。すると、黒人の夫婦から、話しかけられた。「鳥居があるか?」という。私が「どんな鳥居か?」と聞くと、スマホの写真を見せてくれた。それは、伏見稲荷の千本鳥居だった。

 そこで、「これは、伏見稲荷と言って、京阪電車で行ける。そこの祇園四条駅から乗るといい。私もちょうど京阪電車の反対方向に乗るところだから、駅まで案内しよう。」と言うと、喜んで付いてきた。奥さんの英語は聞きやすかったが、旦那さんの方は英語は話さないようだ。二人の間で話される言葉は、全く見当もつかない。

 道すがら、「日本は初めてなの?」と聞くと、「いや2回目だ。」という。「最近、どんなところを旅行したの?」と尋ねると、「南欧とエジプト」という。「あ、私もたまたまその辺りに行きたいと思っている。」と言って、その詳しい話になりかけたときに、もう祇園四条駅に着いてしまった。てっきり、切符を買うのかと思って切符売り場に誘導しようとしたら、Suicaを持っていた。そこで別れたのだが、どこの国の人かを聞きそびれた。でも、まだ30代後半だと思うが、世界各地に旅行する余裕があるとは、誠に結構なことである。


5.蓮 華 寺

 その黒人夫婦と別れた後、私は京阪電車で祇園四条駅から出町柳駅に向かい、宝ヶ池駅で乗り換えて三宅八幡駅下車し、6分ほど歩いて「蓮華寺」に着いた。

蓮 華 寺


蓮 華 寺


蓮 華 寺


 そこでいただいたお札によれば、「蓮華寺は、元西八条塩小路附近(今の京都駅附近)にあった浄土宗系の古寺で、応仁の乱後荒廃していたのを、寛文2年(1662年)加賀前田藩の老臣今枝民部近義が祖父今枝重直の菩提の為にこの地に移し再興したものである。再興の際に石川丈山、狩野探幽、木下順庵、黄檗の隠元禅師木庵禅師等当時の著名文化人が強力している。尚本堂、鐘楼堂、井戸屋形、庭園は創建当時のままであり、小規模であるがいずらも文人の残した貴重な文化遺産である。」とある。

蓮 華 寺


蓮 華 寺


蓮 華 寺


 入らせていただいたが、なるほど本堂から、紅葉が真っ盛りの庭園を眺めることができる。座敷の奥の方から見れば、天井と畳に囲まれて、それらがまるで額縁のように見える。小ぶりの庭園の眺めも素晴らしい。古いお堂、池、苔に覆われた石と庭園、その周辺の赤と黄色の紅葉、まさにここが京都という観がある。新緑の季節はどうだろうか。また、訪れてみたい。


6.大原三千院

 蓮華寺を見終わり、また三宅八幡駅に戻って宝ヶ池駅から岩倉駅に行き、岩倉実相院に行くつもりだった。ところが、たまたまタクシーを掴まえることができたので、大原三千院に向かった。学生時代に数回訪ねたことがあるが、もうそれから半世紀も経っている。円山公園の枝垂れ桜のように、がっかりしなければ良いなと思っていた。

大原三千院


大原三千院


大原三千院


 ところが、結論から先に言うと、1960年代後半にデューク・エイセスが「京都、大原三千院、恋に疲れた女がひとり」と歌っていた頃の三千院と変わらず、真っ赤で燃え上がるような紅葉、目に染み入るような緑の苔、すっくと伸びた杉木立が本当に美しかった。

 いただいたバンフレットによれば、「大原の地は、千有百年前より魚山と呼ばれ、仏教音楽(声明)の発祥の地であり、念仏聖による浄土信仰の聖地として今日に至ります。創建は伝教大師最澄上人が比叡山延暦寺建立の際、草庵を結ばれたのに始まります。別名、梶井門跡、梨本門跡とも呼ばれる天台宗五箇門跡の一つで、当院は皇子皇族が住職を勤めた宮門跡です。現在の名称は、明治4年法親王還俗にともない、梶井御殿内の持仏堂に掲げられていた霊元天皇宸筆の勅額により三千院と公称されるようになりました。」とある。宮門跡だから、これだけ立派なのだと納得した。

大原三千院


大原三千院


大原三千院


 階段を上がって御殿門を入ると客殿で、そこから聚碧園を眺められる。客殿は、「平安時代、龍禅院と呼ばれ、大原寺の政所で、豊臣秀吉が禁裏修復の余材をもって修復されました。」とあり、聚碧園は、「池泉観賞式庭園で江戸時代の茶人・金森宗和の修築と伝えられます。」とある。

大原三千院


大原三千院


大原三千院


 この庭園は、非常に面白い。手前に池、正面の坂には丸く整えた木が幾つもあり、その背景には真っ赤な紅葉がある。両脇に「ハの字型」の壁のように木が切り揃えられていて、ちょっとしたアクセントになっている。縁側からじーっと眺めていて、飽きない。

大原三千院


大原三千院


大原三千院


 客殿から本堂の宸殿に至り、そこから有清園を観て、往生極楽院に行く。宸殿は、「後白河法皇により始められた宮中御せん法講(声明による法要)を今に伝える道場」であり、有清園は、「中国後晋(西晋)の詩人、左思の『山水有清音』により命名された池泉観賞式庭園で、杉木立の中、苔の大海原と紅葉が有名」とある。往生極楽院には、阿弥陀三尊(国宝)が安置されていて、「寛和2年(986)に『往生要集』の著者で天台浄土教の大成者である恵心僧都源信が父母の菩提のため姉の安養尼と共に建立した」という。

大原三千院


大原三千院


 往生極楽院から、わらべ地蔵、弁財天の順でそれらの脇を通り抜けて紫陽花苑内の金色不動堂に行く。これは、「智証大師作と伝えられる秘仏金色不動明王を本尊とし、平成元年に建立されたご祈願の根本道場」である由。途中、青々とした苔がある庭の上に、紅葉の落ち葉が並んで、実に美しかった。

大原三千院


大原三千院


 大原三千院を出てきた頃にはお昼になっていて、川沿いに下る途中のお蕎麦屋さんに入り、にしん蕎麦を食べた。その店内にあった大原女の人形が、なかなか可愛いものだった。


7.貴船神社

 いったん宝ヶ池駅に戻り、改めてそこから叡山電車で貴船口駅に行った。途中で「紅葉のトンネル」を通った。確かにその名の通りだったが、運転手の後ろにいたので、あまり良く撮れなかった。その電車を降り、バスに乗って貴船神社に向かった。神社の赤い鳥居と赤い木灯篭の列を見て、半世紀前にここに来たことを昨日のように思い出した。自分の頭の中に、こんな記憶が眠っていたとは、我ながら驚く。

貴船神社


貴船神社


 そこからこの階段を上がっていくと正面に馬の像があったはずだと思ったら、やはりあった。すると、左手が社務所だなと思い出したら、その通りだった。「変わっていないなぁ、何もかも。」と思うと、これが京都の良さなのだと気づく。

貴船神社


 かつて私は、右も左もわからない紅顔の少年だったのに、この地から出発して大志を抱いて上京し、中央省庁に勤めて40年間、そのうち特に最初の15年間ほどは、本当にひどい勤務だった。自宅に帰るのが午前2時、3時の日々が続いた。病気にならなかったのは、奇跡に近い。ただ、この時の豊富な経験がその後に実を結び、構想力、交渉力、突破力、適応力の基礎となったのは事実である。だから、その後の人生に十分に役に立ち、裁判官となっても真実の究明と公平な判断に寄与することができたと信じている。


8.鞍 馬 寺

 貴船神社は本宮だけにお参りして、「紅葉はあまりないなぁ」と思いつつ、坂道を下って行こうとしたその時、左手に「鞍馬寺西門」という表示があり、誰かいる。そこへ行ってみると、「鞍馬山案内図」を渡されて、鞍馬寺に行けるという。このままバスを待ってまた叡山電車に乗るのも芸がないと思って、山中だが、歩いてみようという気になった。

 行程は、貴船神社 →(573m)→ 魔王殿 →(461m)→ 背くらべ石 →(403m)→ 本殿金堂 →(456m)→ 多宝塔 →(ケーブル200m)→ 仁王門・鞍馬駅。

鞍馬寺西門


鞍馬寺西門から鞍馬寺へ


鞍馬寺西門から鞍馬寺へ


 これは、山の中のほぼ登りの道で、本殿金堂まではあまり整備もされていないから、とても大変だった、しかも、最近、台風が襲来したようで、あちらこちらに大きな杉の木が倒れていて、まだ手をつけていないところも多い。さすがに山道を塞ぐような木は道の脇に動かしているものの、中には丸太のように切ってあって道から外してあるが、地震でも起こってそれらが転がり落ちたら大怪我をしそうだ。ともかく、この道はお勧めしない。

鞍馬寺西門


鞍馬寺魔王堂


背くらべ石


 なお、西門から入って全行程の4分の3を踏破し、小一時間ほど経ったとき、反対方向から来る年配の女性たちに会った。そのうちの一人は、杖をついている。「後、どれくらいですか?」と聞かれた。私は「まあ、1時間もあれば貴船神社に着くでしょうが、下りでひどい道です。あまりお勧めしません。」と言ったのに、前の方だけ聞いて「あと、1時間だって。」と言ってそのまま行ってしまった。人の話は最後まで聞くものだ。

 いただいたパンフレットによれば、なかなか魅力的なことが書いてある。曰く「鞍馬山は、太古より尊天のお力が満ちあふれています。この地に宝亀元年(796)鑑真和上の高弟・鑑禎上人(思託律師)が毘沙門天をお祀りし、延暦15年(796)には藤原伊勢人が堂塔伽藍を整え千手観世音も祀って鞍馬山が生まれました。以来、幅広い信仰を集めてきましたが、昭和22年に古神道、密教、浄土教、修験道など多様な信仰の流れを統一し、鞍馬弘教と名付け、鞍馬寺はその総本山となっています。」これを読んで、驚いた。これだけ多種多様な宗教を能く一緒にできたものだと。実に日本らしいではないか。

鞍馬寺


鞍馬寺


鞍馬寺


 それはともかく、庶民としては、源義経(幼名:牛若丸)がこの鞍馬の地で幼少期を過ごしたことに関心があるので、数々の名所旧跡が用意されている。例えば、鬼一法眼社(牛若丸に兵法を授けたという陰陽師鬼一法眼を祀る)、義経公供養塔(牛若丸が7歳から10歳まで過ごした東光坊跡地に建立)、霊宝殿(牛若丸はこの中の国宝の毘沙門天三尊を眺めて寂しさを紛らわせていた)、息つぎの水(牛若丸が東光坊から奥の院に兵法修行に向かう際、この清水を飲んだ)、背くらべ石(牛若丸16歳、奥州に下る時に名残りを惜しんで背比べをした石)、義経堂などである。

鞍馬駅の天狗




9.東寺のライトアップ

 いったん京都の都心部に戻り、四条通りや河原町通り、祇園や先斗町辺りを散歩して、四条河原町のホテルに戻ったら、もう夕方になっていた。ひと休みして、午後7時近くから、東寺のライトアップに出掛けた。

東寺のライトアップ


東寺のライトアップ


 東寺に着くと、ライトアップされた国宝の五重塔が夜空に浮かび上がっていた。大宮通りに面した東門から入ると、すぐ左手奥に五重塔が光って輝いており、目の前の池面にその姿が鏡のように写っている。その両脇には紅葉の木々があり、こちらも水面に反射して綺麗だ。それから瓢箪池に向かって歩き、五重塔まで到達する。

 いただいたバンフレットによれば、「この五重塔は、天長3年(826)、弘法大師の創建着手に始まり、雷火によって焼失すること3回に及んだ。現在の塔は正保元年(1644)徳川家光の寄進によって竣工した総高55mの、現存する日本の古塔中最高の塔です。」とある。

東寺のライトアップ


東寺のライトアップ


 ライトアップされた紅葉は独特で、光の色の加減にもよるのだろうが、オレンジ色が強くなって赤みが増す。それが瓢箪池に写って、上も下も紅葉となる。拝観者は、「わー、綺麗ね。」などと、ため息をつくほどだ。私も感嘆し、次いで写真を撮ろうとしたが、三脚は持って来てない。当然、禁止されているのだろうと思って荷物の中に入れて来なかったのだ。ところが、周りのカメラマンたちは、ちゃんと三脚で撮っていた。

東寺のライトアップ


 まあ、仕方がない。私の前のカメラであるキヤノンEOS70Dは、三脚がない場合には数枚連続して撮ってカメラ内で自動的に合成して夜間撮影の手ブレをなくすという優れた機能があった。ところが、いまのソニーα7IIIには見当たらない。ISO感度を最大まで上げてやってみようとしたが、ザラザラ感がでてしまう。色々とやってみようにも、混雑しているから試してみる暇がない。仕方がないのでお手軽だが「シーンモード(夜間)」にして、2秒後のタイマーで撮ってみた。すると、細部までしっかりと写っていて、かなり良い写真となった。

 五重塔と紅葉を堪能して帰ろうとして歩き出したら、金堂(国宝)に入れてもらえるらしい。入ってみると、暗い中に本尊の薬師如来坐像と日光菩薩、月光菩薩があって、坐像の周りに十二神将が立ち並ぶ。ライトアップされているから、顔の彫りが深く見え、昼間に拝見するのとはまた違った趣きがある。すべての衆生に安らぎと癒しをもたらす薬師如来ならではの表情である。


10.近江八幡

 翌日は、京都の紅葉に別れを告げて、一挙に滋賀県近江八幡市に行った。といっても、JR琵琶湖線の新快速でわずか35分ほどである、ここは、近江商人発祥の地ということで、一度は訪れてみたかった所だ。さて、駅に降り立った。観光案内所に飛び込む。そこで相談して作ったルートが次のようなものだ。

 近江八幡駅前 → 八幡小学校 → 池田町洋風住宅街 → 郷土博物館 → 歴史民俗資料館 → 旧西川家住宅 → 旧伴家住宅 → 八幡堀 → 明治橋 → 日牟禮八幡宮 → 八幡山ロープウェイ → 村雲御所瑞龍寺 → 白雲館 → (近江牛のすき焼き)→ 近江八幡駅

 ずいぶんと回ったようにみえるが、町並みがコンパクトだから一挙に回れるので、実はそうでもないのである。八幡堀の遊覧船に乗るつもりだったが、この日は気温が極端に低くなって日中でも10度を切っていたので、風邪をひくといけないと思って、止めた。私のような年代になると、「風邪をひくな」、「転けるな」、「ボケるな」は、もう合言葉と言ってよい。

近江八幡


近江八幡


 さて、近江八幡観光案内所でいただいたパンフレットによると、「まちの中には洋風建築が数多くあります。それらの建築の設計を手掛けたのがウィリアム・メレル・ヴォーリズです。彼は明治38年、滋賀県立商業学校に英語教師として来日しました。来日後、熱心なキリスト教伝道活動を行うとともに、『建物の風格は、人間と同じくその外見よりもむしろその内容にある。』との信念で、全国で約1,600にも及ぶ建築設計に携わりました。

 メンソレータムを日本に輸入した人物であり、当時不知の病として恐れられていた結核治療を目的とした近江療養院の建設、さらには市内の子供たちの教育の場として図書館や近江兄弟社学園の設立など、多岐にわたる社会貢献事業を展開しました。」
とあり、

 「ヴォーリズ夫人の満喜子は、播州小野藩の藩主であった一柳末徳(その後、子爵)の三女として東京で生まれました。神戸女学院音楽部ピアノ専攻を卒業後、9年間の留学の間に教育者であるアリス・ベーコンに師事し、近代女性にふさわしい主体的な生き方を身につけて帰国しました。ヴォーリズとの出会いは、現在の大同生命の創業にかかわった広岡家に養子入りした実兄の恵三とヴォーリズとの通訳を務めたことがきっかけでした。」とある。

 ということで、じっくりとヴォーリズ建築を見たかったのだが、池田町の洋風住宅街をさっと見た程度であるから、あまり語る資格がない。いずれも、暖炉の煙突がすっくと立っているのが特徴である。それにしても、このヴォーリズさんが近江八幡に残した財産は多岐にわたり、しかもとっても大きい。また、ご本人の人柄に触れるために、アンドリュース記念館、ウォーターハウス記念館、ヴォーリズ学園のハイド記念館・教育記念館にも行ってみたかったが、また今度にしよう。

近江八幡


近江八幡


 「八幡商人のまちなみ」ということで、近江八幡市立資料館(郷土資料館、歴史民俗資料館、旧西川家住宅)があった。そうそう、こういう展示を見たかったので、早速入ってみた。郷土資料館は、なかなかすっきりした洋風建築だと思ったら、これももちろんヴォーリズ設計事務所がかかわっている。長年、近江八幡警察署として使われていたそうだ。

 近江八幡には、縄文時代から人が住み着いていたが、町の形になったのは、戦国時代末期で、まず織田信長が安土に城と城下町を築いた。信長が明智光秀に討ち取られた後、豊臣秀次によって八幡山に城と城下町が造られて安土の城下町から町人か移り住んだ。ところが秀次が切腹させられ、京極高次が後を継いだが、長続きせずに開城後わずか10年で廃城になってしまった。それからは、在郷町として、八幡商人の町となった。それ以来、独立覇気の精神に昔の八幡城の跡には、村雲御所瑞龍寺が建っている。

 「歴史民俗資料館」は、もともと江戸時代末期が八幡商人の豪商であった森五郎兵衛の控え宅で、元近江八幡警察署長官舎だったものを市が譲り受けたという。中に入ると、豪商の屋敷そのもので、台所はそのまま、生活用具も見られる。なかでも、陶器でできた湯たんぽには、感心した。

森五郎兵衛の控え宅


森五郎兵衛の控え宅


森五郎兵衛の控え宅


 パンフレットによれば、「『近江商人』とは、江戸時代近江国に本店を置き、全国で商活動をした商人達のことで、近江八幡『八幡商人』は近江商人発祥の一つとされる。天秤棒一つで日本全国を商売して回り、江戸日本橋をはじめ当時の主要都市に出店を構えて活躍した八幡商人は、質素倹約、質実剛健のもとに信用を第一とした。」

森五郎兵衛の控え宅


森五郎兵衛の控え宅


 近江商人といえば、「売り手よし、買い手よし、世間よし」の「三方よし」の精神で知られている。これは、流通業に携わる皆さんの人口に膾炙している言葉で、今で言えば、前半の2つはWin−Win関係、後半はCSR(企業の社会的責任:cooperate sociel responsibility )の考えにも通じている。商売をしていれば、ともすれば自らの目先の利益ばかりを考えて強欲に走りがちだが、それでは長続きしないことを戒めている。近江商人の流れをくむ伊藤忠商事の創設者、初代伊藤忠兵衛も、「商売は菩薩の業(行)、商売道の尊さは、売り買い何れをも益し、世の不足をうずめ、御仏の心にかなうもの」という言葉を残している。どこか、プロテスタンティズムと資本主義の精神を思い出す。

 旧西川家住宅は、「西川利右衛門家住宅は、江戸時代初めの天保3年(1706)に建てられた京風の建物で、質素な中にも洗練された意匠を残している、蚊帳や畳表などを扱って財をなした西川家は、11代約300年続いた近江八幡市を代表する近江商人で、屋号を『大文字屋』と称していた」という。

 それから、「旧伴家住宅 」を訪れた。こちらは、「江戸時代初期の豪商『伴庄右衛門』が本家として建てた商家です。屋号は扇屋といい、商号として『地紙一』を使用、畳表、蚊帳、扇子、麻織物を主力に商売に励み、大阪、京都に出店を持ち、やがて江戸日本橋にも大店を構えるようになり、為替業務や大名貸しもしていました。・・・隆盛を誇った伴家でしたが、江戸時代の末期から急速に家運が衰え、明治期には商家をたたみ、現在は子孫も途絶えています。」という。

旧伴家住宅


旧伴家住宅


 300年にわたって続いた商家でも、やはり、時代の趨勢には勝てなかったということか。明治になって大名貸しなどあるはずもないし、全て貸倒れだろう。また、畳表、蚊帳、扇子、麻織物という扱い品目も、時代遅れとしか言いようがない。特に明治に入って近代的な織機が輸入されて大量生産され、庶民の衣類は朝から綿に変わっていったから、時代の流れに乗れなかったのだと思う。建物の1階の大きな吹抜けの土間には、左義長の屋台がある。3月らしいので、今度見に来て写真を撮りたい。

豪商の家が立ち並ぶ新町通り


西川利右衛門家住宅


 そういった豪商の家が立ち並ぶ新町通り(近江商人の町並み)を北に歩くと、八幡堀に出る。桜並木がトンネルのように堀を覆い、桜の季節には、さぞかし美しい風景だろうと思う。そこを遊覧船がゆらゆらと行くが、残念ながらこの日はとても寒くて、乗る気が失せた。

	八幡堀の遊覧船


日牟禮八幡宮


 白雲橋で八幡堀を渡り、日牟禮八幡宮という大きなお社の前を通って、八幡山ロープウェイに乗った。八幡山の標高はわずか271mだ、「丘」といってもよいくらいの山だが、ここに豊臣秀次が城を築いたほどだから、とても眺めが良い。ロープウェイを降りたところで、村雲御所瑞龍寺に向かう。ちょっとした石の階段が続くが、前日に貴船神社から鞍馬寺への山道を踏破したのだから、何ということもなく、瑞龍寺に着いた。途中、もう少しで瑞龍寺というところで、階段の石の隙間に落ちていたスマートフォンを拾った。カバーからして女性のものだ。瑞龍寺には人影が見当たらなかったが、落とし主は困っていると思い、帰りに立ち寄るロープウェイの駅で係員に渡した。すると、「今乗っていた団体さんかもしれないので、麓の駅に連絡しておきます。」ということだった。

八幡山ロープウェイ


八幡山ロープウェイ山上駅からの眺め


村雲御所瑞龍寺の紅葉


村雲御所瑞龍寺


白雲館


 近江八幡市内に降りてきて、鳥居をくぐって白雲館に立ち寄った。観光案内所になっている。もう昼をとっくに過ぎているので、近江牛を食べたいと思って聞くと、その近くに適当なレストランがあった。そこで、近江牛のすき焼きを食べた。なかなか美味しかった。


11.教 林 坊

 それから、いよいよ本日のハイライトである安土の教林坊に行こうとしてJRに乗ったら、隣の駅だった。安土駅にも観光案内所があって教林坊への行き方を聞いたら、「バスは数時間に1本しかなくて、とても不便だからタクシーで行くしかない。それも、安土駅にあるタクシーはたった2台だ。」と聞いて、力が抜けた。そこで、タクシーのアプリで呼ぼうとしたら、ご親切にもその案内所の人が「私が呼んであげる」と言って呼んでくれた。待つこと20分でようやくやって来て、それに乗り込んだ。教林坊に着いた。わずか10分、料金にして2,000円だったから、歩いてもそんなに遠くなかったのかもしれない。

教 林 坊


教 林 坊


教 林 坊


教 林 坊


 教林坊は、そのHPによると、「推古13(605)年に聖徳太子によって創建されました。寺名の『教林』とは太子が林の中で教えを説かれたことに由来し、境内には「太子の説法岩」と呼ばれる大きな岩とご本尊を祀る霊窟が残され、『石の寺』と呼ばれています。」とあり、特にその書院と庭園については、「江戸時代前期の茅葺き書院は里坊建築の古様式を伝える貴重な指定文化財です。また書院西面の名勝庭園は小堀遠州作と伝えられ枯れ滝・鶴島・亀島など巨石を用いて豪快に表現された桃山時代を象徴する池泉回遊式庭園です。書院南面にも室町時代と考えられる庭園があり小さいながら良くまとまった枯庭となっています。」とある。

教 林 坊


教 林 坊


教 林 坊


教 林 坊


 入ってみると、いやこれは素晴らしい。いかにも歳月を感じさせる、味のある大岩が並び、しかもしっとりとした苔に覆われている。その周りはもちろん、紅葉の木々がびっしりと並び、天まで覆っている。まるで赤い紅葉のドームであり、こんな所は初めてだ。書院から庭を眺めてその絶景にため息をつき、庭に出てみて丘の上から庭園と書院を眺めて絶句するといったたぐいだ。また、紅葉の木々の背景に緑が滴るような竹林があるのも良い。なんとまあ、美しいのだろうと思って、あっという間に時間が過ぎた。本日中に米原駅から東海道新幹線で東京に帰らないといけない。タクシーを呼び、やはり20分後にやって来た。

教 林 坊


教 林 坊


教 林 坊


教 林 坊


 教林坊から安土駅への道すがら、タクシーの運転手さんの話は面白かった。私が、安土城の再建の話はないのかと聞いた。すると、「いや、それがあるんですよ。長い話だけどね、まあ聞いてください。バブルの頃、そういう話があって、その時の安土町長が、安土城を再興しようとした。でも、どういう姿をしていたか、資料が全然ない。そこで目をつけたのが、かつて信長が狩野派の絵師に描かせた安土城の絵図で、当時はそれを宣教師に託してローマ法王に贈ったものだ。時はバブルの頃で、これがあると国から補助金が出るという。町長はバチカンに乗り込んで探したが、残念ながら発見できずに今日に至っている。それで、この話は終わりかと思ったら、最近は滋賀県が、力を入れ始めて、今年はその絵図の発見をするための400万円の予算を組んだそうですよ。」

教 林 坊


教 林 坊


教 林 坊


教 林 坊


 また、教林坊については、「住職が代わり、坊内のごちゃごちゃしたものを片付けて綺麗にして、春と秋に公開を始めたんですよ。最初は、かなりお客さんを集めたけれども、そのうちお客さんの数が減ったために、春は土日だけの公開になった。秋はまだ、平日もやっています。最近はまたブームで、ライトアップまで始めた。なんでですかねぇ。」と言う。私が「いや、首都圏では大々的な宣伝をやっていて、例えばクラブツーリズムの秋刊号の表紙は、この教林坊ですよ。」と言うと、「へぇー」と絶句していた。それからJR安土駅に戻り、近江八幡駅に預けていた荷物をとって米原駅に行き、19:10の東京行きひかり号に乗ることができた。なかなか、実り多き旅だった。







 京都滋賀へ紅葉の旅(写 真)






(2019年11月26日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:59 | - | - | - |
逗子の流鏑馬

女性騎馬武者が二の的を狙う


 鎌倉や明治神宮だけでなく、逗子にも流鏑馬(やぶさめ)があると聞いて、見物に行くことにした。実は、私は逗子駅には降り立ったことがない。横須賀線の路線図を見たところ、鎌倉の次の駅で、葉山の隣りだった。すると、以前に海岸線を車で通りかかったことはあるが、かなり昔のことなので、記憶はあやふやだ。観光スポットはというと、まさにその逗子海岸で、そこで流鏑馬があるらしい。

逗子開成学園の子たち


 当日は快晴で、逗子海岸に着いてみると10人以上がウィンドサーフィンを楽しみ、海に色とりどりの帆が林立している。それを見る海岸の砂浜に、太鼓が並んでいて、若い男の子たちが準備している。逗子開成学園の子たちで、元気よく和太鼓を披露してくれた。これは、いわば前座である。

流鏑馬一行の登場


流鏑馬一行の登場


 始まる前に、いただいたパンフレットを拝見すると、このように書かれていた。「鎌倉幕府の行事記録である吾妻鏡によれば、正治2年(1199)9月2日、源氏2代将軍頼家が小壺の海辺で弓馬の達人集めて笠懸を射させたという記録があります・・・笠懸は流鏑馬と共に疾走する馬上から弓を射るという騎射の一種で、これは関東武士のお家芸であり、当時最高の武技であったのです・・・流鏑馬は起源が古く、6世紀の半ば神事として始まり、平安朝では宮廷の公事として年々催されておりました。その後、源頼朝が鎌倉に幕府を開き、全国の統一を果たしたので、天下泰平を祈願するため文治3年(1187)8月15日に鎌倉八幡宮の宝前で流鏑馬を催し、以来源家3代を経て文永3年(1267)に至るまで毎年のごとく行われた・・・逗子商店会では約800年前に行われた逗子流鏑馬を再現させ、市民の皆様に、往時の伝統武芸をご高覧いただきたく存じます。。

流鏑馬解説

【天長地久の式】(てんちょうちきゅうのしき)
 奉行は、記録所前に勢揃いした諸役の前中央に進み、「五行之乗法」を行う。乗馬して左へ3回、右へ2回、馬を回して中央の位置で馬を止め、鏑矢を弓につがえて、天と地に対して満月の弓を引き「天下泰平、五穀豊穣、国民安堵」を祈念する。式が終わると奉行、射手、所役は行列を組み「序之太鼓」に合わせて射手は馬場本に進む。。

【素 駆】(すばせ)
 馬場入後、奉行は記録所に上がり、諸役一同は各部署に着く。射手は馬場本の馬溜りに集合する。奉行は、各自の配置と馬場内の安全を確認する。馬場本、馬場末の扇方は馬場内の安全を確認を確認し、準備完了の扇の合図を行う。その後、奉行は、「破之太鼓」を打ち、射手は、順に馬場に全力で馬を打ち込む。。

【奉 射】(ほうしゃ)
 馬場に3つの「式之的」が立てられ、射手は馬を全力走らせながら腰の鏑矢を引き抜いて重藤(しげとう)の弓につがえ、一の的から次々に射て馬場を駆け抜ける。これを決められた回数繰り返す。的は一尺八寸四方で、檜板を網代に組み、その上に白紙を貼って青、黄、赤、白、紫の5色であらわし、的の後ろに四季の花を添える。。

【競 射】(きょうしゃ)
 的は、径三寸の土器2枚を合わせて、中に五色の紙切れを入れてあり、命中すると土器は裂け、中の五色の紙は花吹雪のように飛び散る、こうして競射が終わると、奉行は記録所で「止之太鼓」を打ち、射手、諸役は行列を組んで記録所前に向かう。

【凱陣の式】(がいじんのしき)
 記録所前に勢揃いした後、競射の最多的中者は式之的を持って奉行の前に座する。奉行は、扇を開いて骨の間から的を見聞する。扇をたたみ太刀の鯉口を切った時、太鼓をドン・ドン・ドン」と三打する。奉行の「エイ・エイ・エイ」の声に続いて、射手諸役一同「オーッ」と唱和、これを3回繰り返して勝どきを揚げる。この儀式は、流鏑馬そのもの、世の邪悪退治も意味しているため、退治した邪悪の「首実験」の意味も込められている。


 午後1時から流鏑馬が始まったのだが、このパンフレット中の「流鏑馬解説」にそのまま沿って行われた。行事が全て終了してから気が付いたのだから、笑い話だ。当たり前といえば当たり前なのだが、それならそれで、題名を「本日の流鏑馬の流れ」とでもしてくれていれば、わかりやすかったのかもしれない。

 私は、この種の伝統行事や祭りに最初に行く時には、有料観覧席に座ることにしている。現地の事情がわからないからだが、この日もそうしたところ、中央の「櫓」つまり記録所のすぐ近くだった。ここから見ると、正面は海、これに沿って一直線に218mの馬場が走る。左手奥に馬場本があり、そこが出発点で、その近くに一の的が、私がいる記録所前に二の的がある。そして我々の前を通り過ぎると、右手奥に三の的がある。その先が馬場末だ。

 この流鏑馬をしているのは、武田流で、「立ち透かし」という「上半身が上下動しない美しくかつ正確な騎射を可能にする究極の技術」を披露できるという。同団体では、この逗子のほか、鎌倉八幡宮、明治神宮などで披露しているとのこと。なお、念のために検索してみたところ、公益社団法人 大日本弓馬会一般社団法人 日本古式弓馬術協会(武田流鎌倉派)特定非営利活動法人 武田流流鏑馬保存会の3つの団体がヒットした。このうちどれかだろうと思ったが、当日のアナウンスを聞いていたところ、その内容は大日本弓馬会のホームページのものと共通していたので、本日の団体は間違いなく大日本弓馬会である。(その後、同会の行事予定に掲載された。)

 午後1時になり、最初に、逗子市長などの来賓挨拶があった。市長は、「財政事情が厳しい折、この流鏑馬予算を2年前からカットしてゼロにせざるを得なかった。」などと平然と語る。ある意味、大したものだ。

天長地久の式


我々の横の櫓(記録所)


 櫓の前で「天長地久の式」が始まった。騎馬武者が馬を左右に回し、止まって矢をつがえて天と地に向ける。天に向けたとき、あのまま矢を放つのかと思ったほど弓を引き絞っていた。それから、一行は旗を先頭にして、太鼓の音とともに左手の馬場本の方に向かい、奉行は我々の横の櫓(記録所)に登った。子供武者行列の一行がやってきた。周りの見物人から、「まあ、可愛い」という声があがる。亀岡八幡宮からやってきたらしい。

子供武者行列の一行


騎馬武者が全速力で馬を走らせてきた


 太鼓の音が鳴り、馬場本で旗が上がったと思ったら、騎馬武者が全速力で馬を走らせてきた。騎射はしない。そして、右手の馬場末へと走り去った。それが何騎か続く。これが、いわば馬の準備運動だろう。やがて、前を通った4騎が全て揃って馬場末から同じ道をゆっくりと馬場本へ帰っていった。

一辺50センチの四角いカラフルな的。その的の上に花が飾られている


 いよいよこれからが本番の流鏑馬だ。我々の前の二の的に、一辺50センチの四角いカラフルな的が上下左右に角がくるように掲げられた。的の上に花が飾られていると思ったら、かつて的を射るのに失敗したことを恥じて自害した武士がいたことから、こうするようになったという。

 準備万端が整い、馬場本で旗が上がった。騎馬武者(射手)が、あちらの一の的に向けて矢をつがえて放った。バキッと音がして、記録所の係が「命中」と叫ぶ。ドドッ、ドドドッと音を立てて我々の二の的に向かってくる。この間に矢をつがえなければならない。そして、二の的でまた放つ、バキッ・・・見事、命中だ。さらに右手に走り去り、あちらの三の的を狙ったかと思うと、ワァーと歓声があがる。おお、素晴らしい。三つとも命中だ。

流鏑馬の本番


流鏑馬の本番


流鏑馬の本番


流鏑馬の本番


流鏑馬の本番


流鏑馬の本番


流鏑馬の本番


流鏑馬の本番


流鏑馬の本番


流鏑馬の本番


流鏑馬の本番


流鏑馬の本番


流鏑馬の本番


流鏑馬の本番


流鏑馬の本番


流鏑馬の本番


流鏑馬の本番


流鏑馬の本番


流鏑馬の本番


流鏑馬の本番


 次の騎馬武者が来る。一の的は失敗だ。我々の二の的は、バキッと、これは当たった。三の的は、残念ながら失敗だ。なかなか難しいものらしい。更に三番目の騎馬武者はというと、これは女性だ。気のせいか馬で駆ける音もかろやかで、一の的は成功、二の的は、失敗、三の的は成功・・・とまあ、そういう具合で4人の武者が駆け抜けた。騎馬武者は一の組と二の組、それぞれ4人ずついるという。中でも、先頭と殿(しんがり)は最も上手な射手を配するらしい。

旗が上がっていないのに、もう騎馬武者が駆けてきた


 あれあれ、旗が上がっていないのに、もう騎馬武者が駆けてきた・・・ところが、私の前の二の的では、二人がかりでまだ的を変更する作業中である。走ってくる騎馬武者が矢をつがえた。あっ、危ない!と思ったその時、すんでのところで騎馬武者が気がついて、矢を放つのを止めた。そして、来た道を引き返して戻って行って、やり直した。

 ところで、私は写真を撮ろうといつものソニーα7IIIを持っていったのだが、この日の撮影は難しかった。まず、二の的付近では完全な逆光となる。次に、馬は速い、速すぎる。加えて、私から見て一の的と二の的の間に仕切りの棒があって視界を遮るから、コンティニュアス・フォーカスがそこで途切れる。それやこれやで、最悪の条件だった。

凱陣の式


凱陣の式


 流鏑馬は続き、的がカラフルなものから、四角い板になり、最後は、丸いかわらけ(素焼き土器)になった。真ん中に黒い目玉が描かれていて、かなり小さい。これを速く走る馬の上から射るわけだから、非常に難しいと思う。これほど的が小さいと、たとえボールを投げても当たる確率は低いのではないか。それを弓で射抜くのだから、大したものだ。本番だが、我々の前の二の的については、騎馬武者のうち二人当てた。当たった瞬間、中に仕込んであったカラフルな紙が舞った。

流鏑馬の本番


流鏑馬の本番


 最後は、凱陣の式である。最もたくさん当てた騎馬武者が、その的を持って奉行に見せると、奉行は、「扇を開いて骨の間から的を見聞」している。何をやっているのだろうと思ったら、獲物は邪悪つまり穢れたもの故、直接見てはいけないそうだ。そうやって見聞が終わると、「扇をたたみ太刀の鯉口を切る」。そして太鼓の合図とともに奉行の「エイ・エイ・エイ」の声に続いて、一同が「オーッ」と唱和するという次第だった。日本古来の武芸も、なかなか良いものだ。







 逗子の流鏑馬(写 真)






(2019年11月17日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:42 | - | - | - |
即位礼正殿の儀

おことばを読まれる天皇陛下。宮内庁のHPより


1.即位礼正殿の儀に参列

 令和元年10月22日、宮中で「即位礼正殿(そくいれいせいでんのぎ)の儀」が粛々と挙行された。既に5月1日には剣璽等承継の儀と即位礼正殿の儀が挙行されているので、それに引き続く今回の儀は「御即位を公に宣明され、その御即位を内外の代表がお祝いする儀式」である。当日は、200人近い外国の元首や祝賀使節を含めて、総数約2,500人が宮殿に参列した。

 光栄なことに、私もその一人として招かれ、参列することができた。朝9時半に迎えに来た車に乗って10時過ぎに皇居に着くと、宮殿内を豊明殿に案内され、そこに並べられた数多くの椅子の一つに腰を掛けた。周りの方はほとんど男性で、モーニング・コートに身を包んでいる。目の前は、宮殿の中庭である。残念ながらこの日は雨で、しかも風がますます強くなってきた。


2.当日の中庭と参列者の配置

 中庭には色とりどり、形も様々な「旛(ばん)」と呼ばれる旗が縦二列に立てられ、それらが風に吹かれてはためいている。事前の話では、中庭には王朝絵巻のように、武官の装束姿の「威儀(いぎ)の者」や、太刀、弓、盾などの「威儀物(いぎもの)」を持った者たちが並ぶはずだったが、この日は残念ながら雨や風の天候がそれを許さない。


当日の中庭。官邸広報ビデオより


 我々のいる豊明殿の左手が長和殿で、外国の元首や祝賀使節が座っておられる。それに相対する右手が正殿で、そちらに向かって白木の階段が造られ、その上り先の中央が松の間である。そこに、平安時代そのものの宮中の伝統装束を身にまとった天皇皇后両陛下が、それぞれ、京都御所から運ばれてきた「高御座(たかみくら)」と「御帳台(みちょうだい)」に登壇されて、即位を内外に宣明される手筈らしい。

高御座。官邸広報ビデオより


御帳台。官邸広報ビデオより


私がいた豊明殿。官邸広報ビデオより


 豊明殿にいて見上げると、大きなスクリーンがあり、天皇皇后両陛下のご業績として、各地の訪問や日本学士院賞授章式の模様を映し出している。画面が切り替わったときに、ほんの1秒にも満たないくらいの極くわずかな時間だけど、何とまあ、私自身が画面の右端に出てきてびっくりした。ああ、あの時のことかと思い当たったが、ビデオに撮られていたとは思わなかった。


3.儀式直前の様子

 さて、外の雨が、しとしととした弱い降りから少し強くなってきた中を、豊明殿の中で大勢の一人として椅子に座ってひたすら待つ。小1時間経ち午前11時になり、更に1時間経ってお昼になった。何も起こらない。更に待つこと30分ほどで、ようやく動きがあった。正殿に向かって左手の北渡から平安時代そのままの衣冠束帯姿で一列になって貴人が歩いてくる。黒い姿の人物に先導されて渋いオレンジ色の衣冠束帯姿の秋篠宮が歩いて来られ、それから十二単姿の同妃殿下、眞子女王、佳子女王が続く。シューシューという聞き慣れない音が聞こえると思ったら、これは絹による衣擦れの音そのものだ。


皇嗣一家のお四方は、松の間の中で高御座に向かって左手に立たれた。官邸広報ビデオより


常陸宮殿下ら他の皇族方が一列になって入って来られて、右手に立たれる。官邸広報ビデオより


 そしてこれら皇嗣一家のお四方は、松の間の中で高御座に向かって左手に立たれた。表現の順序は前後してしまったが、その前に首相、衆参議長、最高裁判所長官が一列になって入ってきて、皇嗣一家の後ろの位置に既に立っている。次いで、常陸宮殿下ら他の皇族方が一列になって入って来られて、右手に立たれる。女性皇族方はもちろん十二単姿で、誠に艶やかである。

皇嗣一家のお四方の側から高御座を見る。官邸広報ビデオより


黄櫨染御袍を着用された高御座の天皇陛下。官邸広報ビデオより


十二単姿で御帳台におられる皇后陛下。官邸広報ビデオより


高御座の天皇陛下と御帳台の皇后陛下。官邸広報ビデオより


 さて、その状態で待つ。カメラは、高御座を詳しく映す。頂上には鳳凰が、スカート部分には唐獅子のような図柄が配してあり、その間は紫色の幕で覆われている。午後1時を過ぎた頃、「チン」という合図で高御座と御帳台の正面がそれぞれ二人ずつの侍従と侍女によって左右に開かれた。すると、天皇皇后両陛下がそこにおいでになった。天皇陛下は専用の装束「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」を着ておられ、皇后陛下は十二単姿である。天皇陛下に、侍従が「おことば」の紙を差し出す。それを広げて陛下がお読みになったのが、次のお言葉である。


4.おことばと寿詞

(1)天皇陛下のおことば


おことばを読まれる天皇陛下。官邸広報ビデオより


おことばを読まれる天皇陛下。官邸広報ビデオより


 「さきに,日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより皇位を継承いたしました。ここに「即位礼正殿の儀」を行い,即位を内外に宣明いたします。

 上皇陛下が30年以上にわたる御在位の間,常に国民の幸せと世界の平和を願われ,いかなる時も国民と苦楽を共にされながら,その御心を御自身のお姿でお示しになってきたことに,改めて深く思いを致し,ここに,国民の幸せと世界の平和を常に願い,国民に寄り添いながら,憲法にのっとり,日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓います。

 国民の叡智とたゆみない努力によって,我が国が一層の発展を遂げ,国際社会の友好と平和,人類の福祉と繁栄に寄与することを切に希望いたします。」


 ちなみに、このおことばの時には、不思議なことに降り続いていた雨が止んで空には青い部分が広がり、あまつさえ虹が出たのには驚いた。

(2)安倍内閣総理大臣の寿詞


寿詞(よごと)を述べる安倍首相。官邸広報ビデオより


 これに引き続いて、安倍総理は、次のように寿詞(よごと)を述べた。

「謹んで申し上げます。

 天皇陛下におかれましては、本日ここにめでたく『即位礼正殿の儀』を挙行され、即位を内外に宣明されました。一同こぞって心からお慶び申し上げます。

 ただいま、天皇陛下から、上皇陛下の歩みに深く思いを致され、国民の幸せと世界の平和を常に願い、国民に寄り添いながら、日本国憲法にのっとり、象徴としての責務を果たされるとのお考えと、我が国が一層発展し、国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄与することを願われるお気持ちを伺い、深く感銘を受けるとともに、敬愛の念を今一度新たにいたしました。

 私たち国民一同は、天皇陛下を日本国及び日本国民統合の象徴と仰ぎ、心を新たに、平和で、希望に満ちあふれ、誇りある日本の輝かしい未来、人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ時代を創り上げていくため、最善の努力を尽くしてまいります。

 ここに、令和の代の平安と天皇陛下の弥栄をお祈り申し上げ、お祝いの言葉といたします。」


 続いて安倍内閣総理大臣の主導で万歳三唱が行われ、我々参列者がこれに唱和する。これに合わせ、「ドーン」、「ドーン」という腹に響く音がしたが、これは皇居に隣接する北の丸公園で陸上自衛隊が礼砲を21発打ち鳴らしたからだと知った。

 そういうことで、式次第が全て終了して帰途に着いたが、何しろ参加人数が多いものだから、私の番になって豊明殿から出たのは午後3時を過ぎていて、内閣府を経由して自宅に帰り着いたのは、4時頃になっていた。帰ってモーニング・コートを脱ぎ捨ててから、どうも喉が乾いたなと思ったら、この間、飲まず食わずだったことに気が付いた。世紀の行事に出席させていただいて、固唾を飲んで見ていたので、喉が渇くのも空腹すらも忘れてしまった。まあ、格好のダイエットになったかもしれない。


5.饗宴の儀

(第1回) その10月22日夜は、海外賓客248人を迎えた祝宴「饗宴の儀(きょうえんのぎ)」が宮殿で行われた。これは、両陛下が「祝宴に臨んで即位を披露し祝福を受けられる儀式」といわれる。

 宮内庁によれば、「天皇陛下は燕尾服を着用され、『大勲位菊花章頸飾』という最高位の勲章などを身につけられていた。また皇后陛下はローブデコルテというロングドレスを着用し、上皇后さまから受け継いだティアラや勲章を身につけられていた。まず『竹の間』でおよそ1時間にわたって出席者から順番に挨拶を受けられた。その際、挨拶を終えた出席者は『春秋の間』に移動し、食前の飲み物を手に秋篠宮ご夫妻など皇族方と和やかな雰囲気で歓談を行った。ここでは、宮内庁の楽部職員が『太平楽(たいへいらく)』と『舞楽(ぶがく)』を演じたという。また、『松の間』では儀式で使われた『高御座』と『御帳台』を間近で見る機会も設けられた。

 それから出席者は皇族方とともに食事会場の『豊明殿』に移り、午後9時すぎ、両陛下が部屋の奥にあるメインテーブルの中央に着席されて食事が始まった。食事は上皇さまの即位を祝った前回をほぼ踏襲した和食で、まつたけやくりなど秋の味覚も取り入れた合わせて9品が出された。食事のあとは『春秋の間』に場所を移し、食後酒やコーヒーなどが出されて、和やかに歓談が行われたということである。宮内庁によれば、この第1回目の『饗宴の儀』の食事は上皇さまの即位を祝った前回をほぼ踏襲する形で、次の和食が供された。この食事の後は『春秋の間』に場所を移して食後酒やコーヒーなどが出される中、和やかに歓談が行われた。」
という。

 ▽「前菜」は、かすごたいの姿焼きや蒸したあわび、ゆり根、くりなど(扇の形をした木の器に盛りつけ)
 ▽「酢の物」は、スモークサーモン
 ▽「焼物」は、アスパラガスの牛肉巻き
 ▽「温物」は、ふかひれやまいたけが入った茶わん蒸し
 ▽「揚物」は、かに、きす、若鶏の三色揚げ
 ▽「加薬飯」は、たけのこやしいたけが入ったたいのそぼろごはん
 ▽「吸物」の具には、伊勢えびのくず打ちやまつたけ
 ▽「果物」として、イチゴやマスクメロン、パパイヤ
 ▽「菓子」として、和菓子

(第3回) 饗宴の儀は、10月22日(火)の第1回に引き続いて25日(金)には第2回、29日(火)に第3回、そして31日(木)に最後の第4回が開催された。実は私は、もう退官しているので、そのうち第3回に招かれた。元議員や地方公共団体の長などと同じグループである。もうこの回になると、もちろんシッティング・ディナーではなく、内容も簡略化されている。

 まず松の間に案内されて、高御座と御帳台を間近で見た後、春秋の間に案内された。そこで、立ちながらワイン、日本酒、ビール、烏龍茶、ジュースなどをいただきながら知人友人と雑談していると、雅楽の演奏が聞こえてきた。演目は、「平調音取(ひらじょうのねとり)」、「五常楽急(ごじょうらくのきゅう)」、「越殿楽(えてんらく)」などである。


松の間で控えていると天皇皇后両陛下と皇族方が入ってこられた。官邸広報ビデオより


天皇皇后両陛下と皇族方が入ってこられた。官邸広報ビデオより


 そしてしばらくあって、天皇皇后両陛下と皇族方が入ってこられた。天皇陛下がご挨拶をされた後、参加者を代表してどなたかがお祝いを述べ、それから懇談に入った。天皇皇后両陛下は主に最前列に陣取った人たちとお話をされていたが、私は暫くぶりに会った友人と後方で話をしていたところ、思いがけず、承子女王殿下がおいでになって、しばし歓談申し上げることになり、とても光栄に感じた次第である。

鯛が入ったお膳


祝い物のお菓子


菊の御紋の入った杯


 それが終わり、帰り際に次の写真のような鯛が入ったお膳、祝い物のお菓子、そして記念品のボンボニエールをいただいた。宮内庁によれば、今回のボンボニエールは丸みを帯びた形で、直径6センチで高さは3センチ余り。表面には前回と同じように菊の御紋と「鳳凰」の模様があしらわれており、中には色とりどりの金平糖が入っている。前回の上皇様のときにいただいた2つのボンボニエールと今回のものを並べると対になるようにデザインされているという。

御紋付真鍮製銀鍍金仕上ボンボニエール


 なお、外国からの賓客には銀製のものを贈られたと聞いたが、我々がいただいたものは、どうも真鍮製らしい。もしかしてと思って入札情報を調べてみたところ、「御紋付真鍮製銀鍍金仕上ボンボニエール」は、2,150個の製造を入札にかけられ、1個当たり5,694円の単価で、銀座の「(株)宮本商行」という会社が落札したらしい。かくして最近は、何でもわかるから良いような悪いような・・・。

 ともあれ、世紀の慶事に参加することができて、誠に光栄に思った次第である。ところで、即位に伴うパレード「祝賀御列の儀(しゅくがおんれつのぎ)」は、台風19号の被害が大きかったことから、これを踏まえて11月10日に延期された。


6.祝賀御列の儀

祝賀御列の儀


 天皇陛下の即位を祝うパレード「祝賀御列の儀」が、平成元年11月10日午後3時から30分をかけて、皇居・宮殿 → 皇居前広場 → 桜田門 → 国会議事堂前 → 永田町 → 赤坂 → 青山一丁目 → 赤坂御所のコースで行われた。私も両陛下の晴れ姿を拝見するために行ったのだが、始まる2時間半前ではやや遅かったようで、残念ながら冒頭の写真を取ったあとは、あっという間に目の前を通り過ぎられてしまった。


7.大 嘗 祭

 11月14日の夕方から15日未明にかけて、大嘗祭が執り行われる。天皇が即位後はじめて行う新嘗祭である。これで、剣璽等承継の儀・即位後朝見の儀から始まる一連の行事が終わる。





(備 考) このエッセイ中の写真は、直前の5枚を除き、首相官邸の広報ビデオから複写したものである。







(2019年10月22日記、同29日、11月10日追記)


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ひたち秋祭り 郷土芸能大会

西馬音内盆踊り


1.日本各地の郷土芸能を呼ぶ

 日立のお祭りといえは、日本五大曳山祭りの一つである「日立風流物」が演じられる「ひたち春祭り」だけかと思っていた。ところが、「ひたち秋祭り」もあって、その最大の目玉は、日本各地の郷土芸能を呼んできて、それを演じてもらうことだという。今年の演目を見ていると、かねてから関心のあった秋田の「西馬音内(にしもない)盆踊り」があるではないか。この機会にとりあえず、どんなものかを観て、これは良いと思ったら、そのうち本物を西馬音内まで見物に行けばよいと思い、日立市へ出かけることにした。

 祭り当日の10月26日は、前日の台風による大雨の影響で千葉県から福島県にかけて河川の氾濫や山崩れなどが起きて、午前中は常磐線を走るスーパーひたちが運休になった。被害に遭われた方々には、心から哀悼の意を表する次第である。ところが、その時にはそれほどの被害が出たとはついぞ知らず、大雨の影響があったかどうか線路の点検を行うということだった。この催しは午後5時半からなので、それまでには運行されるだろうと思っていた。すると、お昼を回った頃に平常通り時刻表に沿って運転が始まった。

 日立駅に降り立って、会場の日立シビックセンターに行ってみたら、何と野天の会場である。ところが、今日は台風一過の晴天なので、助かった。比較的早く行ったので、たまたま隣り合わせた同年輩の地元の女性と話していたら、昨年は雨が降ってきて、カッパを着て観覧したそうだ。


2.西馬音内盆踊り

 いよいよ始まった。それでは、私が気に入った順にご紹介したい。まずは、何といっても本日のハイライトの「西馬音内盆踊り」である。秋田県羽後町の盆踊りで、黒い布で顔を隠して踊る、あの「亡者踊り」の写真を見て驚かない人はいないだろう。

西馬音内盆踊り


西馬音内盆踊り


西馬音内盆踊り


 いただいたパンフレットには、このように紹介してある。「西馬音内盆踊りは、国指定重要無形民俗文化財に登録されて、700年以上の伝統を守る日本三大盆踊りの一つです。豊年祈願や盆供養のために始められた伝統行事であり、勇ましくにぎやかに鳴り響く囃子に対し、優雅で流れるような上方風の美しい踊りの対照が特徴です。

 女性の踊り手で多く用いられるのが『端縫い衣装』です。端縫い衣装は四種も五種もの絹布を端縫ったもので、母から子へと代々受け継がれ、故郷に生きた女性たちの思いも同時に身にまとって踊るという意味を持ちます。

 衣装から踊り手の指先までもが美しい西馬音内盆踊りにぜひご注目ください。」


 実は、本番が始まる前に会場そのものを使ったリハーサルがあって、その時に金髪でアメカジ(アメリカン・カジュアル)という格好のいいお兄さんたちが出てきて、まるでジャズ風に手や足をくねくねさせて踊っていた。私の隣のおばあさんたちは、「わあーっ、カッコいい!」と呟いたほどだ。私は、かつて一世を風靡した原宿の竹の子族みたいなこのお兄さん達が、本当に700年も続く伝統の踊りを踊るのかと、いささか半信半疑になってきた。

 太鼓がドドンと響き、ヤートーセ・ヨーイワナー・セッチャーという掛け声で始まった。笛に合わせて歌われるその歌詞には、思わず笑ってしまった。秋田弁なので、詳しくはわからないが、断片的にわかっただけでも、抱腹絶倒の代物だ。例えば、

 「ホラいっぱい機嫌で踊りコ踊たば 皆に褒められた いい気になりゃがてホカブリ取ったれば 息子に怒られた」

 キタカサッサ・ドッコイナ

 「ホラ隣の嫁コさ盆踊り教えたば ふんどし礼に貰た 早速持ってきてかがどさ見せたば 横面殴られた」

 キタカサッサ・ドッコイナ

 「おらえのお多福ぁ めったにない事 びん取って髪結った お寺さ行ぐどって そば屋さ引っかがって みんなに笑われた」

 などと、延々と面白い話が続く。時々、意味が分かって、思わず笑ってしまう。これは、農民の憂さばらしそのものではないか。

西馬音内盆踊り


西馬音内盆踊り


西馬音内盆踊り


 舞台の上では、編み笠に「端縫(はぬい)衣装」というきらびやかな姿の女性や、あの黒い「彦三(ひこさ)頭巾」に藍染め衣装姿の男性や未婚女性が、一重の細長い輪を作って優雅に踊っている。手の動きが綺麗だ。ここまでを「音頭」というらしい。

 次に、彦三頭巾の男性たち数人が舞台から降りてきて、曲のテンポが早くなり、歌詞の中身も変わる。例えば、

 「お盆恋しや かがり火恋し まして踊り子 なお恋し」

 「月は更けゆく 踊りは冴える 雲井はるかに 雁の声」

 「踊る姿にゃ 一目で惚れた ひこさ頭巾で 頭しらぬ」

 「踊ってみたさに 盆踊習った やっと覚えたば 盆がすぎた」などという調子である。

 音頭のときは陽気でひょうきんな感じだったが、それから一転してこのような情緒と哀愁感あふれる歌詞に移行する。それと同時に、とりわけ男性たちのダイナミックで早いテンポの踊りに観客は魅了される。これが「がんけ」というものらしい。その漢字は、定まっていないようだ。

西馬音内盆踊り


西馬音内盆踊り


 彦三頭巾姿のその男性たちが、私のすぐ横で踊り出した。まずはその彦三頭巾が独特である。長細い黒い布の目の部分に二つ穴を開け、それを頭に被って豆絞りの鉢巻きをして留める。おどろおどろしい感もあるが、それもそのはずで、これは亡者を表しているそうだ。そもそもお盆というのは、死者を迎えて供養するための行事なので、本来の趣旨に沿ったものといえるが、やはり、いささか怖い気がするのもやむを得ないところだろう。

 ところで、この彦三頭巾姿の若者たち、音頭のときと違って、グルグル回る。しかも、人差し指を立てる動作も加わる。まるで、西洋式のダンスだ。思わず見とれていると、目の前にやってきて、何とか「どっこいショ」と言って脅かされる。面白い。それやそれやで、西馬音内盆踊りの魅力を十分に味わった。これは、本番を見に行く価値は十分にあると思う。


3.石見神楽

 石見神楽(いわみかぐら)については、私は全く知らなかったが、八岐大蛇伝説を演じる非常に魅力的な舞台だった。演者の皆さんは、この日は島根県益田市から16時間もかけて来ていただいたそうだ。

石見神楽(須佐之男命)


石見神楽(媼)


石見神楽(翁)


石見神楽(奇稲田姫)


 いただいたパンフレットによれば、「石見神楽は、神事を主とする小神楽と呪的な色彩を帯びた大元神楽とが融合したもので、遅くとも室町時代には島根県西部の石見地方一円に流行しました。江戸時代までは神職による神事であったものが、明治維新以降、土地の人々に受け継がれ、更に民衆の新しい感覚が加わり民俗芸能として舞われています。

石見神楽(大蛇)


石見神楽(大蛇)


石見神楽(大蛇)


石見神楽(大蛇)


 演目の多くは古事記・日本書紀が題材とされ、大太鼓、小太鼓、手拍子、笛の囃子が奏でる調子やリズムは、勇壮にして活発な八調子と呼ばれるテンポの速いもので、見る人を魅了します。

 大蛇(おろち)

 悪業により高天原を追われた須佐之男命は、放浪の旅の途中、出雲国で八岐大蛇の災難に嘆き悲しむ老夫婦と奇稲田姫に出会う。須佐之男命がその訳を尋ねると『八岐大蛇が毎年出没し、7年に7人の娘がさらわれてしまった。残ったこの娘も喰われてしまう』と告げる。一計を案じた須佐之男命は、毒酒で大蛇を酔わせて討ち取る。この時大蛇の尾から出た宝剣『天叢雲剣』は天照大神に捧げられ、三種の神器の一つとして熱田神宮に祀られている。」
とのこと。

石見神楽(須佐之男命が大蛇を退治)


石見神楽(須佐之男命が大蛇を退治)


 舞台では、奇稲田姫を中央に置いて、左手から媼、右手から翁が出てきて、嘆き悲しんでいる。そこに須佐之男命が通り掛かり、事情を聞いて八岐大蛇と戦う決心をする。そこへ大蛇が現れ、須佐之男命と大乱戦が始まる。太鼓がドドドーッ、ドドドーッと鳴り響き、その合間に合図があって、大蛇の形態が変化する。横長に絞った紐のようにもなれば、縦に渦巻きのようにもなる。それがまた、非常に見事なものである。最後は、須佐之男命が剣で大蛇の頭を一つ一つ斬り裂いて、大円団となるという趣向である。クライマックスでは、パチパチッと、花火まで使われる。いや、これも見事というほかない。もちろん、劇の主役は須佐之男命だが、8人の蛇役が一糸乱れずに演じるからこそ、この神話劇が成り立つ。さすが、出雲大社の近くの地元というほかない。それにしても、大蛇役は大変だ。劇が終わって被り物を取り去った姿は、いかにも疲れたという表情だった。


4.大川平荒馬

大川平荒馬


大川平荒馬


 大川平荒馬(おおかわだいあらま)は、青森県今別町からで、パンフレットによると、「津軽統一の故事にも由来し、馬と田畑を切り開いてきた苦労と喜びを、荒馬と手綱取りの絶妙な連携と華麗で迫力のある踊りで表現されます。扇ねぶたの山車とねぶたの衣装をまとったハネトが荒馬を囲み、『ラッセーラー』の掛け声と太鼓や笛の囃子に合わせて舞います。」という。

大川平荒馬


大川平荒馬


大川平荒馬


 花道をいきなり、弘前風の扇形をした「ねぷた」が出てきた。もう夜だから、灯りが眩しいほどで、綺麗なねぷたである。そして、青森ねぶた祭のハネト(跳人。派手な花笠を被って白い浴衣着にピンクや赤色が出るようにし、鈴をつけた独特な衣装の人)が、片足で2回ずつ飛ばながら、紅白の手網で荒馬を引っ張ってくる。荒馬を演ずる人は、身体の前に小さな木馬、身体の後ろに馬の胴体を付けて、結構早いテンポで左下、右下へと動く。掛け声は、青森ねぶた祭と同じく「ラッセーラー」である。とても威勢が良く、素晴らしい踊りだった。


5.神川豊穣ばやし

神川豊穣ばやし


神川豊穣ばやし


 神川豊穣(かみかわほうじょう)ばやしは、「埼玉県北部に位置する神川町において、1994年に町おこし太鼓教室をきっかけに新しい芸能として誕生しました。町に流れる神流川の豊かな流れと大地の恵みに深く感謝し、『全ての豊穣』作物も人間も豊かに稔ることを願う意味が込められています。現在、郷土芸能として定着することを目指して活動しています。老若男女が息を合わせてさまざまな演目を用意しています。10人で操る大獅子舞、子供や女性の太鼓や舞、力強く叩かれる四尺の大太鼓をご覧ください。」とのこと。



神川豊穣ばやし


神川豊穣ばやし


神川豊穣ばやし


 その説明の通りだと、わずか25年前に始まった芸能である。しかし、その割には、小太鼓、中太鼓、大太鼓があり、また巨大な獅子が出てくるなど、非常に充実している。思わず感心して見ていた。特に巨大な獅子は、他では見たことがない。大勢の人が一心同体となってよく動かしているのは素晴らしい。また、大太鼓の周りを打ち手がいかにも楽しそうに打ちながら踊りまわっている。結構なことだ。


6.津軽三味線

 水戸市から、佐々木光儀一門の津軽三味線奏者がやって来て、ペペペン、ペペン、ペンと、お馴染みの演奏を披露してくれた。まあその迫力といったらない。あの広い青空会場全体に響き渡る。これは、写真よりはビデオに撮っておくべきだろうが、著作権がどうなっているのか不明だし、私のホームページ内では取り扱いづらいので、いつも通り写真だけにしておこう。

津軽三味線。高橋拓美さんと高森彩花さん、そして師匠の佐々木光儀家元


 この日は、佐々木光儀家元とその一門、特にまだ大学生の高橋拓美さんと高森彩花さんが演奏してくれたのだが、この若いお二人は、津軽三味線全国大会で日本一に輝いたそうだ。それもそのはずで、6歳、7歳の頃から修業を積んできているという。佐々木光儀家元は、こういう方々をはじめとして、プロの奏者も何人かを育て上げられたようで、これまた素晴らしいことである。






 ひたち郷土芸能大会(写 真)






(2019年10月26日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:35 | - | - | - |
東京モーターショー 2019

アルピーヌA110S


1.全般的な印象

 東京モーターショーは、2年ごとに開催されており、メモを見ると私は2011年以来、4回、観に行っている。実はその前も、記録はないものの何回か観た記憶があるので、自分では、かなりの自動車ファンではないかと思っている。

 ただ、残念ながら、モーターショーの内容が、次第につまらなくなってきたと思っている。特に今回は、その傾向が強かった。例えば、外国メーカーの出展がない。唯一、ルノーなどが(おそらく日産とのお付き合いの関係で)、日産ブースの真向かいに数台並べていただけだ。一昨年の前回の場合には、ポルシェ、メルセベス・ベンツ、アウディ、フォルクスワーゲンなどが、結構面白い車を展示していたので、様変わりである。

 国内メーカーも、あまり元気がない。例えばトヨタは、レクサスを前回は派手に展示していたが、今回はとても控え目で目立たなかった。その他ホンダ、三菱自動車、スズキなどは、前回までは舞台からのアピールに力を入れていた感があったが、今回はそれほどではなくて、舞台の上はかなり寂しくなった。

 この体たらくは何なのかと思ったが、考えてみると、特に外国メーカーはもう日本市場を見限ったのだろう。それもそれはずで、日本は既に人口減少時代に入り、高齢化が進み、若い人の間ではそもそも自動車に魅力を感じる層が少なくなってきた。かく言う私も、外車でもレクサスでも、買おうと思えばいつでも買えるくらいの資力はできたが、都心に住んでいることから、車は必要ないし買っても逆にお荷物になるばかりだ。

 それに比べて、例えば人口が日本の10倍ある中国では、公共交通機関が未発達である一方、急速な経済発展で自動車を買う余裕がある層が急増しつつある。そこで自動車は必要となるし、充分に買える消費者が育っているが、本格的普及はこれからという段階にある。だから自動車市場としての将来性は、日本より遥かにあるだろう。ということで、やや湿っぽい話になってしまったが、昨今の日中間の経済関係の差が、こんなところにも現れていると思った次第である。


2.主要メーカー

(1)日産グループ

フェアレディZ


真っ赤に塗られたスカイライン


 それでは、見た順に印象に残った車などについて書いていこう。まずは日産だ。目に止まった中に、我々の世代には懐かしいフェアレディZがあった。前者は馬力、後者は優雅さで、一世を風靡した。若い頃、私もこんな車を買いたいなと思ったものだ。ただ、このうちフェアレディZに施された今風の赤と白の塗装はいただけない。これでは、まるでピエロではないか・・・古き良きイメージを大きく損ねている・・・と思いながらしばらく行くと、あった、あった。全て真っ赤に塗られたスカイラインが。車は、やはりこうでなければいけない。

セレナ


電気自動車のリーフ


電気自動車のリーフ


 次にあるのは、セレナか。バンタイプだから、大家族でも乗ることができるし、車椅子対応もできるそうだ。電気自動車のリーフがあった。充電中で、充電ポートが開けてあるのを初めて見た。60分の急速充電で、458kmの航続距離だという。

アルピーヌA110S


 日産の前のブースはルノーだ。黄色い車があったが、説明がないので、よくわからない。その隣に、アルピーヌA110Sという車があった。これは、さぞかしよく走りそうな素晴らしいスポーツカーのように見受けられた。

M1−TECH


K−WAGON


 それから、三菱自動車のブースがあった。ここは3年前に日産グループになってしまった。気のせいか、2年前まではこのモーターショーでの宣伝は、もっと派手だったような記憶があるが、今日はとても大人しい。M1−TECH(マイテック)というコンセプトモデルがあった。小型電気自動車で、しかもオープンカーだ。とても格好が良い。K−WAGONもコンセプトモデルで、なかなか渋いスタイルをしている。でもこれは、軽自動車だ。

(2)ヤマハ

ヤマハ自動二輪


電動の車椅子


 自動二輪車が並んでいる。色目は、ブルーが基調である。あれ、あそこに変わったモデルがある。何だろうと思って近づいてみると、電動の車椅子だ。それも自走式で、しかも折り畳める。これはかなりコンパクトである。リチウムイオン電池だと最大8時間は持ち、市価は45万円だという。将来、家内か私がお世話になるかもしれないので、覚えておこう。

(3)カワサキ

カワサキ自動二輪


 こちらは同じく自動二輪車のメーカーだが、緑色を基調としている。まるで、会社ごとにシンボルカラーがあるみたいだ。しかも、うち1台のモデルの名前が「NINJYA」というから、マンガチックだ。しかし、デザイン的には、いずれの自動二輪も空力特性を考慮した美しい流線型で、非常に優れていると思った。

(4)ホンダ

ホンダNSX


 まず印象に残ったのは、NSXである。若い頃は、スポーツカーとしてこれ以上のものはないと思って乗りたいなと憧れたものだ。ところがうまくしたもので、買いたかった若い頃にはお金がなく、歳をとってお金ができた頃には若さがなくなっていた。こういうものは、買いたいなと思ったときに無理して買わないと、意味がない。

FITベイシック


FITクロススター


 ところで、FITは、ハッチバック式の小型車であるが、ベイシック、ネス、クロススターなどと、色々な種類がある。それからアコードがあった。ホンダを代表する車種で、東南アジアにいたときには、現地の人がとても欲しがっていた。前のライトが細長くて流れるようなデザインだ。

アコード



(5)スズキ

ハスラー


ハスラー


舞台上のお姉さん


 一番の注目を浴びたのが、ハスラーの新型である。ワゴンとSUVを軽自動車で融合したモデルで、ますます力強いデザインとなった。舞台上のお姉さんも、力を入れて宣伝を熱演していた。

アルト


アルト


 ああ、アルトがあった。これは懐かしい。我が家が最初に所有した車である。まるで郵便局の車のように真っ赤に塗られていたが、非常によく走ってくれて、関東各地や中部地方の観光地に子供を連れていくのに重宝した。

(6)三菱ふそう

スーパーグレート


 大型トラック「スーパーグレート」があった。ステアリング、アクセル、ブレーキ制御を自動化し、ドライバーをサポートする技術を搭載しているというのが売りだったが、運転席を覗いてもさっぱりわからなかった。

普通の路線バスを2台連結したバス


普通の路線バスを2台連結したバス


 普通の路線バスを2台連結したバスがあった。中に入ってみると、運転席も座席もそのままに、ずっと後ろまで繋がっている。2台のバスの連結部は、蛇腹である。なるほど、これは道路事情さえ許せば、運転手不足の折には、良い考えかもしれない。

(7)いすゞ自動車

 基幹モデルの「ギガ」が置いてあった。説明によれば、「ドライバーへの疲労軽減装備を拡充し、歩行者や自転車も検知するプリクラッシュブレーキを備えるなど最新のテクノロジーが満載」だそうだ。

ギガ



(8)UD

風神


雷神


 このメーカーはネーミングセンスが非常に良くて、実験車両のトラックに「風神」、「雷神」と名付けている。このうち風神は、レベル4の自動運転技術実験車で、雷神はハイブリッド実験車である。とりわけ風神は、なかなか難しい近未来の技術であるが、高速道路の上だけでも実現できれば、安全運転、省エネルギー、運転手不足などに大きな効果がある。早く市販にこぎ着けてもらいたいものだ。

(9)スバル

レヴォーグ


 基幹車であるレヴォーグが非常に素晴らしい。精悍で力強いフォルム、これで実際に走ってみたいと思わせる車だ。世の中に根強いスバル・ファンがいるのは、さもありなんという気がする。

(10)トヨタ

トヨタ


トヨタ


 トヨタは、市販モデルを並べるのではなくて、未来のコンセプトに繋がるモデルを用意したというのであるが、素人にはあまりに先端すぎて、何が何だかよくわからなかった。これに対してトヨタグループのダイハツの車は、そのまま野菜を売りに行けそうなものなど生活に身近なもので、わかりやすかった。


3.その他メーカー

(1)AGVとNCV

AGVと天野浩教授


 濃い青の小型のスポーツカーがあった。その脇に見たことがある人の全身写真があって、にこやかに笑っている。どこかで見たことがある人だと思ったら、青色LEDに関する研究でノーベル物理学賞を受賞した名古屋大学の天野浩教授ではないか。書かれていたものを書き写すと、「AGV(All GaN Vehicle)は、低酸素モビリティ社会を実現するため、次世代半導体材料GaN(窒化ガリウム)を電動化技術に適用したコンセプトカーです。平成29年度よりGaNインバータやコンバータなどの研究開発に着手し、CO2排出量20%削減を目標として、電動化部品開発、車両性能評価、CO2削減効果などの評価・検証に取り組みます。

 駆動システムとして、後輪にインホイルモーターとGaNトラクションインバータに配置、さらにGaNを適用したコンバータ、車載充電器、レーザーハイビームランプなど省エネルギーGaNエレクトロニクス・システムを採用。」
とある。なるほど、電気自動車でも、シリコン型半塔体に替えて、次世代半導体材料のGaN(窒化ガリウム)を使って、CO2排出量20%削減を目指す。その研究を天野教授が行っているというわけだ。

NCVとミス日本みどりの女神


 そうかと思うと、ガルウィングの小型スポーツカーがあり、その隣に「ミス日本みどりの女神」というミスコンテストの優勝者らしきお嬢さんがにこやかに微笑んでいる。その説明には、「NCV(ナノ・セルロース・ヴィークル)、木からつくる自然なクルマへの挑戦。環境省セルロース・ナノ・ファィバー(CNF)等の次世代素材活用推進事業」とある。そして、

 「今、自動車が大きく変わろうとしてします。CO2排出量を大幅に減らすための電動化と軽量化です。軽量化には、軽くて強い材料が必要になります。その材料として注目を浴びているのが、植物を原料としたナノレベルの強化繊維:セルロース・ナノ・ファィバー(CNF)です。環境省では、そのCNFを使った車(NCV)っくりに挑戦しています。」と書かれていた。

 へーぇ、環境省はこんなことまでやっているのか。なになに、ボンネットは100%CNFで作っている。ドアトリムとスポイラーはPP−CNF製、インテークマニホールドはPA6−CNF製だという。これらはプラスチックとCNFとの複合材料だろう。このうちPPはポリプロピレンだから、これに植物のセルロースから作ったCNFを混ぜて強化プラスチックとするようだ。気泡ができたり、成形がうまくいかなかったり、強度が足りなかったりと、色々と問題山積だったと思うが、それを乗り切って作ったのだろう。これらを活用して、車全体で10%以上の軽量化を達成したそうだ。

 それにしても気になるのは、こうした材料は、鋼板のように再利用出来ないのではないだろうか。それに加えて、車が軽くなって燃費は上がるかもしれないが、プラスチックとCNFを作ったりこれらを混ぜて成形したりするエネルギーを計算して鋼板を使うケースと総合的に比較しないと、本当の答えは分からないのかもしれない。

(2)澤藤電機

澤藤電機のブース


 最後にもう一つ、印象に残った展示がある。それは「澤藤電機」のプラズマを用いた水素製造装置「プラズマ・メンブレン・リアクター(PMR)」である。要はアンモニアから水素を得てこれを燃料に使うシステムだ。

 これまでのシステムで水素を得る方法は、

  ・ 水の電気分解から
  ・ 天然ガスなどの化石燃料から
  ・ 森林資源や廃材などのバイオマスから
  ・ 製鉄所や食塩電解などの工場で発生するガスから

の4択だったが、今度は「アンモニアから」という新たな選択肢ができたというわけだ。

 なぜこの技術が注目すべきかというと、将来この装置が小型化して車に積めることができれば、常温で液体のアンモニアの形でトヨタのミライなど既存の「燃料電池車(FCV)」にそのまま積載してこれを走らせることができるからだ。というのは、従来のシステムでは、工場で水素を製造してから運搬するのに絶対温度に近い零下253度に冷やさないといけない。こうすれば体積を800分の1にすることができる。そうした上で、これをガソリンスタンドに相当する「水素ステーション」に運ぶ。そこでは、燃料電池車に充填するのであるが、従来は200気圧程度の高圧水素タンクが使われていて、最近はその倍以上の気圧のタンクが普及しつつあるものの、高圧になればなるほど取扱いが難しい。もしこれが、この澤藤と岐阜大学のシステムでアンモニアから水素を発生させて代替できるとなれば、こうした問題は全てなくなる。なぜなら、アンモニアは常温では液体なので扱い易く、その分、効率が上がるからだ。

 では、どういう仕組みかというと、「プラズマを用いた水素製造装置『プラズマ・メンブレン・リアクター(PMR)』を用いた水素製造装置は、水素分離膜(高電圧電極を兼ねる)、石英ガラス管、接地電極、プラズマ電源で構成されています。PMRにアンモニアを供給し、プラズマ電源から3万ボルトの電圧を印加すると、アンモニアが水素原子(H)と窒素原子(N)に分解されます。水素分離膜は水素原子のみを透過させるので、水素原子と窒素原子を分離することが出来ます。水素分離膜を透過した水素原子は結合して水素(H2)になり、高純度水素として外部に取り出すことが出来ます。また、残りの窒素原子は結合して窒素(N2)になり、大気へ排出されます。

 改良型PMRには、プラズマとアンモニアの接触時間を長くする目的で、電極間(水素分離膜と接地電極の間)に、吸着剤を充填しています。この吸着剤の効果により、プラズマによる水素原子の生成が促進され、水素分離膜を透過する水素原子の量を増加させ、従来と比較して、2倍の水素製造量300NL/h が得られるようになりました。」
とある。

 その説明は、石英ガラス管の中にアンモニアを入れ、管の中の水素分離膜に高電圧をかけると、水素原子だけを分離することができ、その水素原子は結合して水素分子となって取り出すことができる。そして今回の改良は電極間に吸着剤を充填したことにより、その効果で製造量を倍にしたということらしい。目標は、更にその倍にすることを目指してようだから、水素の流通と利用を大きく変える可能性を秘めている。是非とも頑張っていただきたい。





(2019年10月25日記)


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マチュピチュ・ナスカへの旅

マチュピチュ遺跡



    目 次

   第1 マチュピチュ遺跡
   第2 ナスカの地上絵
   第3 リマ市内を観光
   第4 ペルーの一口知識
   第5 その他ペルー補遺


第1 マチュピチュ遺跡

1−1 そうだマチュピチュに行こう

 退官記念に、なかなか行けそうもないところに行こうと考えた。それにつけても思い出したのが、私が1997年に2代目のパソコンを買ったときのことである。壁紙としてパソコンの画面に映し出されたのが、マチュピチュ遺跡とエジプトのピラミッドである。どちらも神秘的な存在であるが、特にマチュピチュは、何百年ぶりに発見されたインカの遺跡として、脚光を浴びていた頃だ。一度、見てみたいものだと思っていた、今回、退官に際して真っ先に思ったのは、「京都」ならぬ「そうだ、マチュピチュに行こう」だった。

 私は、英語を話すのに不自由しないから、国内と同様、海外でも英語圏なら往復の航空券とホテルを予約して一人で行ってしまう方だ。ところが、南米のペルーというスペイン語圏で、しかも行くのに非常に面倒だと思えるマチュピチュ遺跡やナスカの地上絵に一人で行く自信は全くない。そこで、ツアーを探したところ、ちょうど手頃なのが見つかった。しかもナスカの地上絵も見ることができるというので、申し込んだのがこの旅の始まりである。

1−2 現地クスコまで28時間

 南米はそもそも地球の反対側にあるから、まず日本航空便でニューヨークに飛び(12時間55分)、そこでラタム航空便に乗り換えて、ペルーの首都リマへ行く(7時間40分)。リマからラタムの国内線でクスコに飛ぶ(1時間23分)。ここまで、乗換時間を入れるとおよそ28時間もの長旅である。

途中、ニューヨークでは保安検査がますます厳しくなっていて、予め取得したESTAを持って有人の窓口に並ぶと、全ての指の指紋を取られた。それだけでなく、靴も脱がされて検査をされた。また、皆で検査待ちのときに、麻薬探知犬がやってきて、荷物の間を嗅ぎまわっていた。それを同行のツアー客で、かなりの年配の人がペットみたいに触って、係員に注意されていた。まあ、注意を受ける程度で収まって良かった。

 リマ空港でクスコ行きのラタム航空便に乗り継ぎをしようとしたら、これも一筋縄ではいかないことがよくわかった。例えば、出発まであと1時間というのに、搭乗口がクルクルと3回も変わる。4番から12番、その次は8番という具合である。中には搭乗直前に20分ほど列を作って待っているというのに、何もアナウンスなしで変更されることすらあった。後ろの方の人は、先頭の人たちが落胆した表情で列を離れていくから、そうとわかる。いやはや、こんな調子では、一人で来なくてよかったと思う。添乗員さんによれば、ラテンアメリカでは、こんなことは日常茶飯事とのこと。

1−3 クスコ市内観光

 そうこうしながら、何とか無事にクスコ(Cusco)にたどり着き、空港に降り立った。クスコの現在の人口は45万人、13世紀から16世紀にかけて栄えたインカ帝国の首都で、1533年にスペイン人によって滅ぼされて以降は、スペインの植民地支配の拠点となった。そのため、石垣はインカ時代のもので、上に建つ教会などの建造物はスペイン支配時代のものと、両者が混ざり合って独特の雰囲気がある街となっている。もちろん、インカ時代の石垣はぴったり組み合わされているのに対して、その上のスペイン時代は石ころが雑に積み上げられているから、一見して違いがわかる。


インカ時代の石垣とその後の石垣


 クスコの標高は、3,400mという。私は、これまで標高3,000mの立山連峰の雄山には、何回も登ったことがある。ところが、クスコはそれより400mも高いので、果たして身体が順応するか、心許なかった。それなのに、飛行機で着くと、直ぐに旧市街の観光に連れ出された。それも、歩いてである。平地の東京から、飛行機で着いた途端に富士山の八合目の高さを歩かされるのだから、かなりの体育会系のツアーである。しかし、振り返ってみると、かえってこれが良かった。一種の高地順応の過程になったのかもしれないと思っている。

クスコ旧市街地


クスコ旧市街地


 バスを降りたところから、旧市街地を徒歩で20分ほどかけて中心部へと向かう。道は細くて、両側に石垣が壁のようになっている石畳の登りだ。そこを高山病にならないように深呼吸しながら、ゆっくりと歩く。ところどころで石垣の壁がぱっくりと割れて、店の入り口がある。レストランや両替屋だったり、土産物屋だったり、アルパカの毛で作った衣類を売っている店などと、様々だ。

ピューマと蛇の石垣


12角の石


 ガイドが石垣の前で止まった。石垣の石を繋げてみると、ピューマとヘビに見えるという。よく分からないので、その前の土産物屋の看板と照らし合わせて見たら、なるほどそのようだ。次いで、12角の石を見た。インカ文明の素晴らしいところは、道具といえば硬い削り石と縄しかない時代に、削った石と石の間にカミソリすら通さないほどぴったりと合わせて石垣を作る技術があったことである。12角の石というのは、それが12の面で周りの石と組み合わせてあるのでそのように称され、これぞインカ文明の技術水準の象徴のような存在となっている。私はこれには感激して、その横で手を軽く挙げたスタイルで、写真を撮ってもらった。



インカ第9代皇帝パチャクテク


大聖堂(カテドラル)


ラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会


 やっとクスコの旧市街地の中心部に位置するアルマス広場に着いた。中央の噴水にはインカ第9代皇帝パチャクテク(1438年から1471年まで)の黄金色の像が置かれている。インカ帝国は、元々はクスコ周辺の小さな王国だったが、それを三世代にわたる皇帝の力で南米の文明圏全てを支配下に置くようになった。パチャクテクは、その最初の皇帝である。つまりはインカ帝国の礎を築いた人物ということになる。また、マチュピチュを作りはじめた皇帝とも言われる。アルマス広場の一角には大聖堂(カテドラル)、もう一角にはラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会(イエズス会の教会)と自然史博物館、その横の建物に目立たないがスターバックスが入っている。昼食のためにそのスタバに入り、二階へ繋がる階段を勢いよく駆け上がったら、ハアハア、ゼイゼイと息切れがしてびっくりした。「ああ、これか、高地の影響は。」と思い、薄い空気を補うべく、大きな深呼吸を10回ほどしたら、元に戻った。席に座り、インカコーラという名の黄色い飲料を飲みつつ、サンドイッチを食べたが、普通に食べられた。

スタバに入り、二階へ繋がる階段を勢いよく駆け上がった


インカコーラなる黄色い飲料


 ちなみに、インカコーラとは、黄色い清涼飲料水である。別にパンチのある味では全くないので、やや拍子抜けする。現地では、このインカコーラが一番よく売れていて、本場アメリカのコーラは二番手であった。ところがその後、色々あってインカコーラは本場コーラに買収されてしまったそうだ。メニューのお値段は、もちろん現地通貨「ソル」で表示されている。しかし、USドルやクレジットカードも使える。水1本2ソル、1USドルは3ソルである。

 そのうち、身体に少し異変を感じた。尿意は覚えるが、いざトイレに行くと尿がほとんど出ないのである。しかし、クスコを離れて標高が20mと低いリマに行くと、普通に戻った。これは私の推測だが、標高の高いところでは体内の膀胱も拡張する。これを頭が膀胱が満タンだと勘違いしてトイレに行きなさいという信号を送るから、そういうことになるのだろう。気圧が身体の中の臓器にまで直接影響を及ぼしているようだ。

1−4 富士山より高いチンチェーロ展望台

 クスコは、マチュピチュ(Machu Picchu)に至る中継地点に過ぎない。これから更に延々と1時間ほど、山中の曲がりくねった山道の悪路を、小型バスで、オリャンタイタンボ(Ollantaytambo)に向かわなければならない。その途中で標高3,800mの峠を越える。事前にそれを聞いて、富士山(3,776m)をも越えるそんな高い所で高山病にならないだろうかと、いささか心配だった。


チンチェーロ(Chinchero)展望台から見たチコン山


チンチェーロ(Chinchero)展望台からの風景


 ところが、それは杞憂に終わった。我々の小型バスが、休憩のためにその峠にあるチンチェーロ(Chinchero)展望台でいったん停まったので、試しにバスから降りてみた。すると、ステップを降りるときに身体がややフワフワした感じがしたものの、ちゃんと地面に降り立ち、普通に歩くことができて安心した。何でも、まず試してみるものだ。しかもこの時は、チンチェーロ展望台の正面に見えるチコン山(Chicon。標高5,000m)の勇姿には、実に感動した。天空にたった一峰、頂上に薄い綿帽子を被って、どっしりと聳え立っている。しかも、その頂上に駆け上がるように、手前からまるで参道のように登る坂道のように見える山が続いている。あまりに神々しく、かつ雄大で、富士山とは全然異なる味わいの山である。

1−5 オリャンタイタンボの町

 小型バスは、そのチンチェーロ展望台を過ぎ、木々の緑がほとんどない荒れ果てた平原を進んでいく。周りは高山ばかりだ。すると、峠を越えたところでようやく、オリャンタイタンボの町(2,800m)に到着した。手作りの日干しレンガで建てた粗末な家々が建ち並ぶ。道路には、昔の日本で言えばバタバタ、現代のタイのトゥクトゥク、つまり小型三輪タクシーが走り回っている。ちなみにこの町には、侵略者ピサロが率いるスペイン軍に対して、インカ帝国が最後の抵抗を試みた遺跡があるそうだ。


オリャンタイタンボに至る道


オリャンタイタンボの町が見えた


オリャンタイタンボの町を走るトゥクトゥク


 そのオリャンタイタンボからは、ペルー鉄道のマチュピチュ線の列車に乗って約1時間45分で、ようやくマチュピチュ村に行くことができる。事前に想像していたのは、トロッコ電車に毛の生えたようなものだったが、実際に行ってみると、いやいやそれどころか、結構、本格的な客車だった。客車には色々なグレードがあるようで、我々が乗った客車はまあまあのレベルだったが、途中でそれを遥かに上回る豪華客車とすれ違った。まるで食堂車のように座席のテーブルをキノコのような可愛いランプが照らしている。ムード満点だ。あれ、これは良いなぁと思っているうちにマチュピチュ駅に到着し、駅のすぐ脇の道沿いにある我々のホテルに歩いて向かった。

ペルー鉄道のマチュピチュ線の列車


ペルー鉄道のマチュピチュ線の列車


インティプンク(INTI PUNKU)ホテル


1−6 マチュピチュ村

 マチュピチュ村は、これまた山中の寒村かと思いきや、とんでもない。あちこちにホテル、土産物屋、レストランが立ち並ぶ一大観光地の様相を呈している。例えていうなら、マッターホルン観光の始点の町ツェルマットのようである。そこへ、マチュピチュ鉄道で20分おきに観光客が送り込まれてれてくるから、村全体が繁盛しているわけだ。


インカ帝国の歴代王の像


 まず、村を横切るように激流のマチュピチュ川が流れている。その両側に土産物屋やホテルがぎっしりとある。川には3本の白い橋が架けられているから、渡るのは容易である。そのうち、鉄道側の川沿いに遊歩道まで設けられており、そのあちらこちらにインカ帝国の歴代王の像がある。なかなかの迫力である。また、見ていると、資材を運ぶのは、全て人力でやっている。自動車といえば、観光客をマチュピチュまで運ぶ小型バスぐらいで、そのほか例えば乗用車やトラックは、滅多に見かけない。これはちょうど、スイスのツェルマット町が、自動車といえば全て電気自動車しか許可していないのと同じようなものだろう。

インティプンク(INTI PUNKU)ホテル


 インティプンク(INTI PUNKU)ホテルにチェックインをした。部屋に入ってみると、日本のビジネスホテルくらいの設備で、やや安心した。ところが、夜中に気温13度と寒くなったので、備え付けのデロンギヒーターのスイッチを入れた。その途端、ガラン、ゴタン、ダダダッと、まるで工事現場のような音がする。この種のオイル・ヒーターでこんな騒音がするなんて、聞いたことがない。これは困ったと思ったが、もう真夜中だし、私自身も眠くてたまらないので、厚着をして、そのまま、寝てしまった。翌朝、ホテルにクレームを伝え、替えてもらった。新しいデロンギは、全く静かなものだった。

白い漏斗型の朝鮮朝顔


 この辺りは、まるで中国の桂林、マレーシアのイポーを思い起こさせるような、石灰石でできた大地が雨水で侵食されてできたカルスト地形である。あちらこちらにタワーカルスト(大きな鐘楼のような鍾乳石の岩の塊)の山々がそそり立つ。マチュピチュ山も、その一つだろう。また、村のそこここに、白い漏斗型の朝鮮朝顔(Engel’s Trumpet)の花が咲いている。日本だと、5月から6月にかけて咲く花だ。ここは南米だから季節がちょうど反対なので、今が盛りの時期なのかもしれない。

1−7 いよいよマチュピチュ遺跡へ

 その日は深い眠りにつき、翌朝は7時半頃にホテルを出発した。歩いてすぐのマチュピチュ川岸まで行って、その様子に驚いた。対岸の川沿いに、長い長い列を作って並んでいる大勢の人達がいる。マチュピチュ遺跡行きの小型バスを待っている登山客だ。我々もその中に入らないといけない。これは時間がかかるので大変だと思ったが、そうでもなく、意外と早く乗ることが出来た。


マチュピチュ川の両側に土産物屋やホテル


マチュピチュ遺跡行きの小型バス


 そこから遺跡まで走って30分だという。ところが、それがつづら折りの凄い山道で、しかも道幅がとても狭い。しかも、上から降りてくる小型バスと時折すれ違う。右側通行だから、われわれのバスは右の路肩ギリギリに寄せる。下は千仭の谷だ。思わず、手に汗を握る。ヒヤヒヤしながらしばらくそれを見ていたが、途中で嫌になって遠くの山々を見ることにした。すると、多分マチュピチュ山の手前の山だと思うが、円錐形の実にいい形をしている。こんな高地(標高2,400m)にもかかわらず、山の表面は緑に覆われている。なるほど、これはマチュピチュ山の兄弟山かもしれない。驚いたことに、小型バスに乗らずに、マチュピチュ村から歩いて登ってくる若い女性達がいる。元気が余っているのか、それともバスのチケットが買えなかったのか。

円錐形の実にいい形の山


マチュピチュ村から歩いて登ってくる若い女性達


 先頭に乗っている誰かが「ああっ、マチュピチュだ。」と叫ぶ。でも、私の席からは見えない。直ぐに視界が開け、なるほど、マチュピチュ山が見えてきた。先ほどの兄弟山と同じ形だが、緑の色がもっと濃い。しばらくして、ようやく入場口に繋がる小さな広場に着いた。事前に、20リットル以上の大きなリュックは預けなくてはいけないと聞いていたので、私は小さなリュックにしていた。右手にその大きな荷物の預り所がある。中央がトイレで、1USドルを支払ったら、お釣りとして現地通貨ソルのコインをもらった。

荷物の預り所とトイレ


マチュピチュ入場口


 さて、いよいよ入場口だ。事前にもらった入場許可証とパスポートを係員が照らし合せて、やっと入る許可が出る。そこを通った瞬間、いきなり登り階段がある。しかも、階段の幅が広かったり狭かったりで登りにくい。加えて道幅がとっても狭いところもある。空気も薄い。そこを一生懸命に登るものだから、ハアハア、ゼイゼイで息切れという体たらくになり、立ち止まって深呼吸を何回もする仕儀となる。加えて、リュックには、ソニーα7IIIのカメラに、広角、標準望遠そして超望遠の3本のレンズが入っている。それだけで4kg近いし、それにステンレスの水筒1.5kgも加わる。ちなみに、マチュピチュ遺跡には、ペットボトルの持ち込みは許されていない。だから、水筒になるのだが、これらだけでも6kg近くになる。

登り階段


 その重さのリュックを担ぎながら、2,400mの高地を一気に登るものだから、我ながらよくやったものだと思う。同行のツアー客の中には、いかにもか弱そうな体型の女性がいて、この人は高山病に罹ったのか動けなくなって、添乗員さんに支えられてフラフラと夢遊病患者のように歩く始末である。幸い、この人は間もなく回復した。人間の高地順応の能力は、大したものである。たまたま、今年のノーベル医学生理学賞は、細胞の低酸素応答のメカニズムに与えられたが、我々の身体にも、そのようなメカニズムが働いたのだろうか。

1−8 展望台から見た遺跡は絶景


第1展望台から見た遺跡


 ともかく、そういう難場をやっとのことで超え、急階段を登りきって少し行くと、遺跡全体を見渡せる第1展望台(ミラドール)があった。正面にはかつてパソコンの壁紙で見た通称マチュピチュ山(正式には、ワイナ・ピチュ)と、その麓にある居住地区の遺跡が広がっている。素晴らしい景観だ。インカ帝国がここを選んだ理由がわかる気がする。それにしても、40時間近くをかけて、やっと対面することができた。はるばる地球の反対側まで来た甲斐があったというわけである。しかもこの日は天候に恵まれて、快晴だから、真っ青の空の下に緑の山が鎮座している。山がくっきりと細部まで余すところなく見え、まさに写真日和である。広角と標準望遠レンズで撮りまくった。

手前の段々畑が綺麗に見え、美しいカーブを描いている。


右手に石垣、左手に断崖絶壁という場所を歩いて見張り台の下まで行く途中


 その第1展望台から、右手に石垣、左手に断崖絶壁という場所を歩いて見張り台の下まで行く。そこから段々畑が綺麗に見える。美しいカーブを描いている。ここに住む人達の食料となるトウモロコシやジャガイモを栽培したのだろう。更に行くと、芝生が植わった広場があり、そこが第2展望台となる。ガイドのウィリアムさんがインカ帝国やマチュピチュの歴史について説明してくれる。私は撮影に忙しくて上の空だったが、イヤホンを通じて話は聞ける。概要こんなことを語っていた。まず、この遺跡の発見の秘話である。この遺跡は、ペルー人の農園主リサラガが、1902年に発見してそれを遺跡の窓に書き付けた。その後、1911年にアメリカ人のイェール大学のハイラム・ビンガムが再発見した(一般にはビンガムが発見者とされているが、彼はリサラガの署名を消している。功名心が強かったのか、いささかずるい。)。元々ビンガムは、別の遺跡を探索する途中に、たまたま土地のインカ族に聞いて発見したという。その成果は、1913年にナショナル・ジオグラフィック誌に発表し、一般の知るところとなった。この遺跡は、1440年に作り始め、80年ほど生活が営まれたが、完成する前に放り出されたようで、現に動かす途中の大きな石が広場に放置されている。それにしても気になるのは、この空中の楼閣のような都市は、何のために作られたのかということである。征服者スペイン人に抵抗する最後の砦だったという説もあるが、そうではなくて、どうやら王や貴族の別荘を兼ねて、太陽を崇める宗教目的で作られたという説が有力のようである。

超望遠(300mm)に取り替えてマチュピチュ山頂上を見ると登山者が見えた。


超望遠(300mm)に取り替えてマチュピチュ山頂上を見る


 ところで、その第2展望台で、カメラのレンズを広角から超望遠(70mm - 300mm)に取り替えて目の前のマチュピチュ山を撮ると、びっくりした。頂上付近は段々畑のようになっていて、そこを登山者が登っているではないか。遺跡と山登りを兼ねた一石二鳥の楽しみ方だ。そういえば前夜、同じホテルに泊まっていたドイツ人夫妻と話をしたら、これからマチュピチュへ登りに行くと言っていたが、なるほど、これのことかと納得した。ちなみに、マチュピチュ山に登るには、許可証が必要だそうだ。

超望遠(300mm)に取り替えてマチュピチュ山麓の広場・神殿・居住地区を見る


超望遠(300mm)に取り替えてマチュピチュ山麓の広場・神殿・居住地区を見る


 少し降りて、第3展望台の方へと行く。ああ、これだ。ここから見たマチュピチュ遺跡の風景が、まさに昔のパソコンの壁紙そのものである。22年越しに、やっと本物を見ることができたというわけだ。写真だけでなく、記憶にしっかりと焼き付けた。そこで気がついたのは、マチュピチュ山には緑が多いのに、谷を隔ててその左手に広がる山々には緑がほとんどなく、まさに禿山なのである。ガイドが言うには、このマチュピチュだけは、周囲の山々からの湧き水があって、それと発生する霧で水分が補われているそうだ。なるほど、緑深い理由と、なぜここが選ばれたかという理由がわかった。

マチュピチュ遺跡の風景


石積みのアーチ形の門


石でできた受け具


マチュピチュ遺跡の風景


硬い黒っぽい石


 さて、それからいよいよ、眼下の広場・神殿・居住地区へと降りていった。石積みのアーチ形の門をくぐるとき、たぶん門扉を固定したのであろうと思われる石でできた受け具があった。なかなか、芸が細かい。まず、左手の石切場に行く。ここでガイドが見せてくれたのが、硬い黒っぽい石で、これで加工したそうだ。ところで、ここからマチュピチュ遺跡を左手から見ることができる。これまでとは別の角度から見るというだけだが、新鮮な感覚がする。

超望遠(300mm)で見た太陽の神殿


コンドルの神殿


 マチュピチュ遺跡に入るにはチケット(許可証)が必要だが、それに加えて太陽の神殿に登るには、今年の3月から午前中だけ、それも500人に限定されたようだ。遺跡保護のため、入場制限が次第に厳しくなるようだ。そういうわけで、残念ながら太陽の神殿は見られなかったが、3つの窓の主神殿 (神様ウラコチャのために作られた)と、コンドルの神殿はじっくりと観察できた。このうち前者の主神殿は、最近の研究で夏至や冬至の日に太陽の光がその先の石に当たるように設計されていることがわかった。後者のコンドルの神殿は、地面にコンドルの首の白い部分を模したと思われる二つの曲がった石が置かれ、それから胴体や羽根と思われる部分が見てとれる神殿である。ちなみにこの地方で古くから伝わる言い伝えでは、コンドルは、空の支配者とされている。

 居住地区には、600人から700人が住んでいたといわれる。今では屋根の木々やそれを葺いていた葉は失われて、単に壁だけが残っている。それでも、家の形はよくわかる。インカ式の強固な石積みだからこそ、これまで風雪に耐えてきたものと思われる。壁を見ると、外側に3個ほど石が突き出しており、ここに屋根材を固定していたようだ。壁の中には10センチほど引っ込んでいる空間があり、そこに蝋燭や土器などを置いたといわれている。


王の部屋


王の部屋で煮炊きする石


王の部屋


王の部屋


 王の部屋という区間があって、意外と狭くて日本の8畳間くらいのものだ。インカ皇帝や貴族が来たときに、ここに泊まったと言われている。その直ぐ前には、台所として使われ、煮炊きしたと思われるような二つの石がある。なお、最近のことだが、朝になってこの王の部屋にテントが発見された。侵入者が王様気分を味わおうと、ここに泊まったのではないかと大騒ぎになったそうだ。その近くに、湧き水を流している遺構があった。

湧き水を流している遺構


当時の家の復元


 階段状の棚田から、景色が良いなぁと思って遠くを眺めていると、突然、近くの花にハチドリが飛んできた。8cmくらいの小さな鳥で、羽を高速に動かしながら、花から花へと飛び回って蜜を吸っている。これは、めったにないチャンスだ。本来ならシャッター速度を2000分の1秒くらいにして撮りたいところだが、そんなことをしていると、撮り逃がしてしまう。仕方がないので、プログラム・モードのままで連写するしかない。ただ、焦点が少し広範囲なので、手前の花に合ってしまう。これも、無視するしかない。そうした中で、やっと何枚かハチドリの写真が撮れた。これは、今回の旅行での幸運の一つである。素直に嬉しい。更にその先を行くと、なんとまあ、リャマだと思うが、首の長い羊のような動物がいた。我々が狭い階段を登っていくと、その脇をすり抜けるように降りていく。おとなしそうで、助かった。

ハチドリ


ハチドリ


ハチドリ


リャマがいた


 さて、ひと渡り見て、入場した門の方に向かう。マチュピチュ遺跡では、見学は一方通行で、後戻りはできないことになっている。太陽の門へと続く道への分岐点に来た。そこからはインカ道で、小1時間ほど歩くと太陽の門と言われる見張り台に出るそうだ。私は当初行くつもりだったが、最初の登り階段でバテる寸前になったので、それは諦めることにした。後から、行った仲間から写真をもらったが、マチュピチュ遺跡全体を眺め下ろす見晴らしの良いものだった。

ヘリコニア


 今は10月の初めで、南半球は、これから春に向かおうとする時期である。ここマチュピチュは、私が登った午前中の時間の気温は、17度くらいであるが、直射日光が強くて、とても暑く感じ、汗をかいて下着がびっしょりと濡れてしまった。そこで、遺跡を退場してからその前にあるレストラン「サンクチュアリ・ロッジ」に入り、濡れた下着を着替えさせてもらった。そのついでにバイキング形式の昼食をとり、これはなかなか美味しくて、まさに格好のリフレッシュとなった。総じて、ペルーの食事は、どれもこれも私の口に合った。また、ミュージシャンがやってきて、ギターとともに、サンポーニャという笛を束ねたような楽器で「コンドルは飛んでいく」を奏でてくれた。サイモン&ガーファンクルを思い出して、懐かしい。

1−9 モルモットの丸焼きが名物料理

 マチュピチュ遺跡を小型バスで出たのは午後2時頃で、帰り着いたのは2時半過ぎとなり、それからお土産物屋を冷やかしたり、家内へのお土産としてペルーならではのTシャツを買ったりした。ホテルの部屋からはWiFiが通じたので、日本へメールを送ったりし、のんびりと過ごした。こういう時間も大事である。その夜は、添乗員さんが案内してくれたレストランで夕食をとった。まあ、なんというか、店に入った瞬間、壁という壁に名刺が貼ってある。炭火焼きの鶏肉、レモンソースの鱒などが美味しかった。看板メニューは、モルモットの丸焼きだった。パリパリして美味しいよと言われたが、さすがにそれは断った。

 ホテルに帰り、さあ寝付こうとしたら、まるで滝の中にいるのかと思うくらいの大雨が降った。なるほど、これは山の中ならではの天候である。急変すると、こんな風になるようだ。その中を、早朝に出発していくパーティがいた。大変だなぁと思う反面、昨日の我々は本当に天候に恵まれたと、感謝しなければならない。その幸運の続きかもしれないが、我々がホテルを出る時間になると、もう雨は上がっていた。ホテルの玄関を出てみれば、あれだけの大雨だったのに、朝鮮朝顔の花がしっかりと咲いていて、芳香まで漂わせているから、驚いた。でも、この花には毒があるそうだ。

 さて、ホテルを早朝出た我々は、来た道を逆にたどり、マチュピチュ鉄道でオリャンタイタンボに戻り、そこから小型バスでクスコへ、クスコから国内線の飛行機でリマに向かった。それから我々は、次の目的地、ナスカに、大型バスで向かった。このバスには、USBで充電できる端末があったので、助かった。

1−10 インカ道を歩く人々

 マチュピチュ鉄道でオリャンタイタンボに戻る途中、列車は川の急流の傍を通っていく。とあるところで、紺色の同じ制服を着た大勢のポーターらしい人々が荷物を担いで、一列となって細い道を歩いていくのを見た。やがて列車は駅に停車した。ピスカクチョというところらしい。そこに、登山者らしい外国人が何人か集まっている。


マチュピチュ鉄道


マチュピチュ鉄道


マチュピチュ鉄道


昔のインカ道を歩くツアー(インカ・トレイル)


昔のインカ道を歩くツアー(インカ・トレイル)


昔のインカ道を歩くツアー(インカ・トレイル)


 ガイドによれば、これは80kmを3泊4日の行程で、昔のインカ道を歩くツアー(インカ・トレイル)だという。最終目的地は、先ほどの太陽の門という見張り台で、それからマチュピチュ遺跡を見学することができるらしい。あの大勢のポーターは、コックまで伴ってお客さんに先回りしてテントや食料を運び、そこで、宿泊してもらいながら、マチュピチュ遺跡まで歩いて到達するのだそうだ。お値段は、一人1,200USドル(13万円)だという。

1−11 リマのマヨール広場

 その日は夕方にリマ(Lima)市内に入り、時間があったので、大統領と議会が対立して閉鎖中というマヨール広場に行ってみた。警官隊が規制して、広場の中には入ることはできなかったものの、周囲から大統領官邸、大聖堂などを眺めることができた。厳戒体制にあるといっても、緩い規制線である。大聖堂の中のキリストやマリア像は、非常に美しかった。また、周囲の商店街は、なかなか賑わっていた。


マヨール広場を警戒する警官隊


リマ大聖堂


政府機関


リマ大聖堂内部


リマ大聖堂


リマ大聖堂内部


賑わう商店街




第2 ナスカの地上絵

2−1 早起きしてイカ飛行場へ向かう

 前日、マチュピチュから夕刻にリマ市内に入り、シェラトン・ホテルに泊まった。翌朝、ナスカの地上絵を見るために飛行場に向けて出発するのだが、それが早朝4時半だという。これは早いなと思ったら、ナスカの地上絵を見るには、3つの飛行場のどれかに行かなければならないという。リマ飛行場、イカ飛行場、ピスコ飛行場である。


リマからイカ飛行場に向かう途中は砂漠地帯


イカ飛行場


 この中で、リマならすぐそばなので問題ないのだけれど、この旅行会社が契約しているのはイカ飛行場だから、そこに行くには、砂漠の中を伸びるパンアメリカン・ハイウェイを300kmも走らなければならないという。よって、朝9時のフライトに間に合わせるには、どうしてもこの時間になるとのこと。ならば仕方がない。早起きしてバスに乗り込んだ。

2−2 ナスカの地上絵とは

 ナスカは、亜熱帯の砂漠地帯にある。ナスカの地上絵の数は、確かなもので700を越え、おそらく800以上、いやいや最近でも新たに発見されているから1000ぐらいはあるのではないかと言われている。いずれも、一筆書きである。つい90年前ほどまでは、そんなものがあるとは誰も知らなかった。ところが、1930年代から商業航空便が飛ぶようになると、飛行機のパイロットの間で話題になり、そこで初めて知られるようになった。

 地上では、30cmから80cmほどの幅を15cmほど掘って表面の黒くなった小石を取り除き、それで溝を作って絵が描かれる。1世紀から7世紀にかけて描かれたと推定されているが、日本だと弥生時代の晩期から邪馬台国時代を経て古墳時代に描かれたということになる。つまり、およそ2000年前から1300年前に描かれたものなのに、年間降水量が僅か1mmという土地なので、現代まで残った。

 数年前に、NHKの番組で、地上絵を実物の半分の大きさで描く実験をした。それによると、道具として、木の棒に紐、小さな鋤を使う。表面の黒い土をどけると、下に風化していない白い土が現れる。これが、絵を描く作業となる。その前にまず、小さな下絵を描く。それを同じ倍率、例えば30倍で伸ばしていく。小さな紐でそれを何回か繰り返し、同じ点を横に結ぶ。その点同士を結ぶように鋤で地面を掘り返して線を引く。ナスカは気温40度にもなる極暑の地であるが、僅か4時間で本物の半分の地上絵を描くことが出来た。

 実際に描かれた地上絵のうち、今回の飛行で見られる可能性のあるものは、クジラ、コンパス、宇宙飛行士、三角形、猿、犬、ハチドリ、コンドル、蜘蛛、トカゲ、フラミンゴ、鸚鵡、木、手、花、渦である。これらを描いたのは、古代ナスカ人で、砂漠にトウモロコシを栽培した農耕民族である。砂しかない全くの不毛の地のように見えるが、どうやら地下水を使っていたようだ。

 次に、何のためにこの数多くの地上絵を描いたのかが、最大の謎となっている。気球をあげてその上から見るためだという気球説もあれば、この地に根を下ろして60年以上にもわたってこれを研究し、かつ保存運動を主導したドイツ人のマリア・ライヒェ(Maria Reiche)さんが唱える天文カレンダー説、山形大学が言うところの天の川説、つまり天の川の動物を地上に写し取り豊作を祈願する説など、様々な説がある。地元に言い伝えでもあれば別だが、現代の住民は古代ナスカ人とは全く関係がないので、当てにすることはできない。現に、火星人が描いたとか、宇宙と交信するためだとかいう人もいるくらいだ。

 では、何が正解なのだろうか。一つは、農業用水の確保が関係しているのではないかと言われている。元々、「ナスカ」の語源である「ナナスカ」は、辛く過酷な土地という意味だ。2000年前に描かれた大三角形の地上絵は、先端が、白い火山 (セロブランコ)の方向を指している。反対方向の長辺には奇妙な穴ぼこがいくつもあるが、これらは一連の井戸である。しかもこれらは相互に結ぶ地下トンネルで横に繋がっている。ということは、水源と地下水脈がどう繋がっているのかを示しているのが、この大三角形地上絵の意味だと推定される。

 この地方では、コンドルが水源の山から飛んできて、反対方向の海の方に行くと雨が降って井戸に水がたまるという言い伝えがある。同様に、ハチドリは、山に雨が降ると姿を現わす。普段は海にいるペリカンが出ると雨が降るなどと信じられている。だから、こうした水のないところでは、ともかく水を得ることが大事であるから、そのために天空にいる神々に捧げられたのが地上絵ではないかと考えられる。もっとも、渦巻き模様や人間の生首のように何のために描かれたか想像もつかないものもある。

2−3 小型機に乗り込んで飛び立つ

 さて、我々は予定通り、午前9時前にイカ飛行場に到着した。粗末な掘っ建て小屋を想像していたが、それどころか結構立派な建物である。メガネをかけた年配の知的な女性の肖像画が壁一面に描かれていると思ったら、それが、マリア・ライヒェさんである。地上絵を研究する傍ら、これを見るために30mの鉄製のタワーを建てたそうだ。


マリア・ライヒェの肖像画


乗り込む小型機


 12人乗りのセスナ機が2機稼働しており、我々ツアーメンバーの数は28人だから、12人ずつ2組と、4人が1組で、各フライトは1時間15分である。私は最後の組となった。だから、最初の組が搭乗してから2時間半後の搭乗となる。ところが、天候が悪くて最初のフライトがちっとも始まらない。靄がかかったり、砂嵐が発生しているようだ。待ちくたびれた頃に、ようやく第1便が飛んだ。それから待ちに待って、私のグループが飛んだのは、午後1時を回っていた。

 セスナ機のバランス調整のため、予め、手荷物を含めた搭乗者の体重測定があった。私は、80kgと出た。カメラなどの機材や衣服、靴や水も含むから、こんなものかと思ったが、他のツアーメンバーを見回すと、おそらく一番重かったのではあるまいか。だから、私の座席位置は前の方だと思われた。

 いよいよ出発だ。その30分前に、酔い止めの薬を飲んだ。私は、予想通り最前列の左側の1番、つまり主パイロットの真後ろの席だ。飛んでいる途中のコックピットの画面がよく見える。地面との傾きなどが、ビジュアルで良くわかる。


パイロットの画面


砂漠の中の町


川が流れた跡


川の両岸の緑


 飛行場を飛び立ち、ナスカ平原に向かう。ほとんどが何もない土漠である。途中、リーヘニョー川のあたりは、その両脇に、地下水脈のおかげで緑の谷ができている。さて、何もない不毛の地を更に進む。「あっ、線が見える」と思ったら、川が流れた跡だ。おや、機体が上下するピッチングが出てきた。気流の影響だろうか。あまり良い気分ではないが、でもこれくらいなら大丈夫だ。

 更に行くと、機体が左手にローリングする。困った。少し気持ち悪くなる。パイロットが突然、「ココ、ココー」と鶏のように叫ぶ。一体何のことだと思ったら、日本語の「ここ」だった。思わず笑えてくる。その地上絵を撮ろうとし、下を向いてカメラのファインダーを覗き込む。クジラの絵だ。おや、参った。気持ちが悪い。ミラーレスだからファインダーをのぞき込む必要はなくで、画面を見るだけでよい。しかし画面だけを見ることにしても、同じように気分が悪くてかなわない。飛行機酔いだ。仕方がない。カメラを覗き込むのはやめて、顔を上げて前を向き、レンズを地上に向けて盲滅法に連写する。静音モードにし忘れたので、ダダダッ、ダダダッ、ダダダダッと、まるでマシンガンの連射だ。撮れているかどうかも、確かめる余裕もない。私の真後ろの人も、同じような連写をしている。

 おっとまたローリング、今度は右手だ。またパイロットの鶏の叫び声がする。それに応じてまたカメラを連写する。ああ、あちらの向こうに見えるのは、猿だ。おお、ハチドリだ。コンドルだ。目に見える限り、カメラをそちらの方向に向けてまた連写をする。一体全体、こんな調子で撮れているのかどうか、さっぱりわからない。これは、帰ってからのお楽しみだ。それより、飛行機に酔ってしまわないように、しなければならない。ひたすら前方の遠いところを見る。ああ、ローリングがやっと終わり、地上絵エリアを離脱するようだ。よかった。何とか耐えられた。やがて飛行機は、無事に着陸した。


鯨


宇宙飛行士


猿


犬


トカゲ?


渦巻


鸚鵡


小動物


6花弁の花


マリア・ライヒェのタワー


 帰ってから、カメラの画像をチェックしたところ、しっかり写っていたのは、鯨、宇宙飛行士、猿、犬、鸚鵡、木、トカゲ、フラミンゴ、渦巻き、6つの花弁の花である。残念ながら、ハチドリはカメラの角度が悪くて尻尾のみ、コンドルは肉眼では見えたのに全く撮れていなかった。でも、これほど撮れたので、満足しよう。

土産物の刺繍


土産物の刺繍


 帰りのバスが立ち寄ったのは、日系人がやっている土産物屋である。私は普通、土産物は買わない主義だが、こちらにあった刺繍には、目を奪われた。インディオやアルパカなどアンデス文明の風景が描かれていて、実に可愛い。孫娘にあげるお土産として、買い求めた。


第3 リマ市内を観光

3−1 リマ旧市街

 ペルーの旧市街にあるシェラトン・ホテルに泊まった。大きな道を隔ててその向かいにある立派な建物は、ペルー最高裁判所である。ところが、治安が良くないので、写真を撮るのならホテル側からにして、絶対に道は渡るなとガイドさんに言われたので、ホテルからの遠景を撮るにとどまった。


ペルー最高裁判所


 前日、旧市街中心部のマヨール広場(別名は、プラザ・デ・アルマス[武器の広場])に行った。実はその数日前に大統領が議会を閉鎖したので、この広場には近づくことができないと、添乗員さんに連絡が入ったようなのである。どういうことかというと、元々犬猿の仲だった大統領と議会との対立が限界に達して、ついに大統領が議会閉鎖という強権を発動したそうだ。そうすると、このマヨール広場にはデモ隊が押し寄せるので、事前に封鎖してしまうのだという。ところが我々が行ったときには、やや規制が緩められて、広場そのものには入れさせないが、広場を眺める周囲ならばよろしいということになり、だから遠目に見ることができた。我々観光客の目の前には完全装備の警察がいる中、広場を眺めるという不思議な光景となった。我々の向かい側には大聖堂(カテドラル)、その左側には大統領官邸という位置から見て、広場の周りをぐるりと回って今度は大聖堂のところから、我々がつい先ほどいた場所を眺めた。

3−2 マリア・ライヒェ公園

 マリア・ライヒェとは、ナスカ空港待合室に描かれていたドイツ人の女性で、60年以上にもわたってナスカの地上絵を研究し、その保護に務めたた人物である。この公園は、その功績を称えて海岸沿いに作られたものである。もちろん、公園のあちらこちらには、ナスカの地上絵、猿、コンドル、ハチドリ、花などが大きく描かれている。これらを道路から見下ろすと、全体の形がよくわかる。ところが階段を下りていって、その地上絵近くに行くと、全体像があまりよくわからないというのも、本物によく似ていて、何だか可笑しい。


マリア・ライヒェ公園


マリア・ライヒェ公園


マリア・ライヒェ公園


 この日は、日曜日だったので、大勢の家族連れがいて、思い思いに和やかに過ごしていた。公園の中心部では、ワンちゃんと飼い主のファッション・ショーが行われていた。

3−3 愛の公園

 次いで、愛の公園なるものに行った。公園の一角に、男女が抱き合っている像があり、なるほど、こういう像の展示は、日本では難しいだろうなと思うのが率直な感想である。


愛の公園


愛の南京錠前


 そのすぐ近くの柵には、カップルの名前が書かれている数多くの南京錠前が結びつけられている。カップルが永遠の愛を誓い合い、錠前にお互いの名前を書いてここに結びつけて鍵をかけ、その鍵を捨てるのだそうだ。

3−4 旧日本大使公邸跡

 さて、今日はオプショナル・ツアーの開始である。旧日本大使公邸跡に立ち寄った。1996年12月17日にMRTA(トゥパク・アマル革命運動)のテロリストによる人質事件の舞台である。高級住宅街の一角にある。事件解決に4ヶ月ほどかかったので連日報道され、この玄関や白い塀は私の記憶に鮮明に残っている。あの悲劇の舞台である。


旧日本大使公邸跡


旧日本大使公邸跡の向かいの家


旧日本大使公邸跡


旧日本大使公邸跡の門の扉


旧日本大使公邸跡の門の扉に空いたままとなっている銃弾による穴


旧日本大使公邸跡の門の扉に空いたままとなっている銃弾による穴から中を眺める


 玄関のドアには、未だに銃弾による穴がいくつか開いているではないか。その穴から、中を覗き込むと、中には木と(隣の家かもしれないが)建物が見える。心の中で、この事件の犠牲者に黙祷をした。

3−5 ラルコ博物館


ラルコ博物館


ラファエル ラルコ


 ラファエル ラルコというトウモロコシ畑の大地主が、親子二代で4万5千点に及ぶ古代の墓からの発掘品等を収集した。ラルコ自身も発掘にあたり、数々の貴重な古美術品を掘り当てた。主にインカ文明以前の紀元前から13世紀頃までの品々が展示されている。この地方では、地上はピューマ、空はコンドル、冥界はヘビが支配すると考えられており、その図柄が多い。

ラルコ博物館の庭


ラルコ博物館の庭


 また、その庭は、世界の博物館の中で、第一位に輝いたこともあるほど、芸術性のあるものである。ペルー特有の色々な種類のサボテンをベースに、上からは蔦の緑の紐がいくつも垂れ下がり、それに赤と紫のブーゲンビリアの花が色を添えている。また、庭のあちらこちらには、大きな甕が、口を斜めにして置かれている。非常にユニークで、誠に趣きがある庭である。

ラルコ博物館収蔵品


ラルコ博物館収蔵品


ラルコ博物館収蔵品


ラルコ博物館収蔵品


 展示品の中でも、印象に残ったものをいくつか掲げておきたい。パラカス文化の2つの頭蓋骨は、いずれも頭に2ないし3センチの穴が開いている。戦争の犠牲者かと思ったが、頭の手術をした痕跡だそうだ。つまり、麻酔もない時代に頭に穴を開けて、悪性腫瘍などを取り出したのではないかと言われている。しかも、傷口の状態からして、向かって左側の人物は、その手術が元で死んでしまった。ところが、右側の人物は、手術後少なくとも数ヶ月は生きていたようなのである。

パラカス文化の2つの頭蓋骨


【展示品の日本語解説】 穿孔頭蓋骨と変形頭蓋骨

 頭蓋骨の穿孔手術は、古代アンデスの様々な社会において行われていた。頭蓋骨穿孔は、儀礼の戦いや戦闘の際に起こった内出血、骨折した頭蓋骨の破損部分を取り除くための外科手術だったほか、頭痛を和らげるために行われることもあった。穿孔手術には、黒曜石のナイフや金属製(銅や銅合金)のナイフが使われた。このほかにも、頭蓋骨の変形が行われていた。独特の形に変形された頭蓋骨は、社会的身分を示していた。

 この写真の左側は成人女性の頭蓋骨で、頭頂部の穿孔には再生形跡がない。すなわち、この手術によって死んでしまったことを示している。ところがこの写真の右側は成人男性の頭蓋骨で、顔面や頭部には骨折が治癒した跡が多数存在している。これらの骨折は鈍器による戦いで生じたものである。なかでも頭頂部右側の頭蓋穿孔は再生していることから、この男性は穿孔手術後も生き長らえたことを示している。


ナスカ文明の織物


ナスカ文明の鸚鵡の羽根の織物


 ナスカ文明では、織物技術が発達していたようで、色とりどりの柄の織物が展示されていた。青と黄色の色鮮やかな織物がある。一体、どういう糸を使っているのだろうと思ったら、何と鸚鵡の羽根だった。鮮やかなわけだ。あのような砂漠でどうやって入手したのだろうと不思議に思うところだが、どうやら北部アマゾン地区と交易があったようなのである。

 出口近くには、ミイラが身に付けていた黄金の飾りが展示されている。これは、世界的に人気があって、しばしば貸し出されているが、本日は戻ってきて、本物だそうだ。


金の装身具一式(チムー文化)


【展示品の日本語解説】 金の装身具一式(チムー文化。紀元後14〜16世紀初頭)

 古代アンデスの冶金技術はチムー文化において最盛期を迎えた。この装身具は泥の都市チャンチャンに埋葬された位の高い人物のもので、王冠と胸当ての縁には羽毛があり、これは鳥、つまり太陽に最も近づくことができる存在を意味する。耳飾りには、チムーの為政者の顔が正面向きで繰り返し表現されている。肩当てには、為政者が斬首した首を持ち、正面を向いて立ちあがった姿が表現される。王冠と胸当ての羽毛部分は、ネコ科動物の顔と半月状の額飾りを持つ人物の顔が側面を向いて行進する様子が表現されている。


飾り


 インカ文明の前に、ペルーにはこんな豊かな文明が発達していたとは、ついぞ知らなかった。それにしても、いずれも文字のない文化なのである。インダス文明の楔形文字、中国の甲骨文字、エジプトの象形文字に相当するものが全くない。そのせいか、紀元前から3000年近くにわたって継続した文明圏なのに、どの時代も同じようなもので、あまり発達した痕跡がないのである。やはり、文字というのは人類の知識や経験の積み重ねを行う上で、非常に大切なものであることが、良く分かった。

キープ


 そのインカ帝国も、文字はないのは同様であるが、例外的に「キープ」という紐の色と結び目で数字などの情報を伝えていたのではないかと言われているが、正確には分からない。インカを征服したスペイン人たちが、隠れて何か悪い企みをしているのではないかと邪推して、キープを知る人物を皆殺しにしてしまったからだという。

歯の痛みに耐えている人物


 ところで、この博物館の面白いのは、所蔵品の倉庫の中も公開しているところである。壺や土器などが、棚に整然と並べられていて、その多さに圧倒される。中には、異形の土器がある。例えば、脳出血や脳梗塞の後遺症で半身が麻痺している人物、歯の痛みに耐えている人物がある。現代と変わらない。

3−6 遺跡内のレストラン

 その日の夕食は、リマ市内にある「ワカプクジャーナ」というプレ・インカ(1,500年前)の遺跡の中にあるレストランに行った。台形のピラミッドで、その周りに日干しレンガの壁のようなものが縦横に走っている。それを見ながら食事をするのである。まあ、何というか、大胆な発想である。ちなみに、この遺跡では、まだ発掘が続いているという。日本では、およそ考えられない。


ワカプクジャーナ遺跡の中にあるレストラン


ワカプクジャーナ遺跡の中にあるレストラン



第4 ペルーの一口知識

 ガイドの皆さんから聞きかじった一口知識を記録しておきたい。

1.リマは雨が降らない。降っても夜中の霧雨。傘を持っていると奇異の目で見られる。傘は売っていない。

2.インティライムという太陽の祭りがあり、6月24日である。

3.アルパカには種類があり、お勧めはベイビーアルパカ、チクチクしない。

4.ペルーの国旗にある動物ビクーニャは、4000m以上の高地に住む。マフラーは10万円もする。凄く乱暴でツバを吐かれたり、蹴られたりする。

5.じゃがいもは、ペルーのアンデス山地が原産で、当地には3000種類以上ある 。日本では、最近は「インカの目覚め」という種類が売られている。

6.コカ茶は、高山病対策に効く。ただし、その名の通りコカインの元なので、国外に持ち出さないこと。アメリカでは麻薬として扱われる。

7.コーヒー は、トゥンキというブランドがお勧め。

8.ワインも有名で、中でもイカ県産が良い。

9.ピスコというのは、トウモロコシから作る蒸留酒で、アルコール度数は47%の地酒 である。これでは飲みにくいので、度数が14%に抑えたのが「ピスコサワー」である。

10.地元ビールには、ピスケーニャなどがあり、中でもクスケーニャはマチュピチュ産である。

11.アンデス山地の塩は、有名である。

12.「グイチャッカード」とは、モルモットが丸焼きで出てくる料理である。

13.フルーツの「チリモヤ」は、アンデス産である。白くて柔らかくて美味しい。ペルーでしか採れない。「ルクマ」も、ペルーでしか採れない。オレンジ色のアイスクリームなどとなって出てくることもある。「インカバナナ」もある。「カムカム」というのは、ピタミンC がオレンジの50倍もある。「マカ 」元気がでるので、「アンデスのパイアグラ」と言われる。「アスパラ」もペルー原産である。

14.「エケコ人形 」とは、願いを叶えてくれると信じられており、口が空いているのは、タバコが好きだから。色んなものをぶら下げている。

15.「トリトデブカラ 」とは、ブカラ村の子牛で、あたかも沖縄のシーサーのようなもので、家々の玄関口に置かれている。

16.「マチュピチュ」とは「古い山」を、「ワイナピチュ」は「若い山」を意味する。今では一日400人しか登れない。

17.「チチカカ湖 」は、クスコより標高が高くて4,000mもある。

18.アマゾン川の源流はペルーにあり、クルーズがある。

19.「ワカチナ湖 」は、オアシスの意味で、ボリビアとの国境にある。スポーツとして、サンドバギー、サンドボードができる。

20.インカ帝国時代に話されていた言葉は、「ケチャ語」で、地方によっては、今でも話している。

21.ペルーの国土は、60%がアマゾン、30%が山地、残る10%が砂漠である。



第5 その他ペルー補遺


 ペルーの人口3,200万人のうち、日系人は10万人だという。その多くは沖縄の出身で、そのせいで沖縄の姓を名乗る人が多い。

 マチュピチュを案内してくれたウィリアムズくんは、曽祖父が沖縄からの移民で、4世だという。小さい頃、両親が日本へ出稼ぎに行って働いたときに一緒に来日し、日本語を覚えた由。それからペルーに帰国して、高卒資格をとったと話していた。

 ナスカを案内してくれた熱川さんは、やはり日系4世で、祖父母も父母も日系人同士で結婚したから、外見は日本人そのものである。

 マチュピチュ村の初代村長は、野内与吉さん(福島県出身)という日系一世である。21歳でペルーへ移民し、マチュピチュ鉄道の敷設工事で働いたことを契機に村に定住した。水道を引き、水力発電所を作ったりして、村の発展に大いに貢献したそうだ。10人の子供をもうけたが、そのうちの孫世代の中には日本で働いている人もいる。

 今回の旅で、マチュピチュ村を歩いていると、チロルハットを被った格好良いおじさんから、いきなり日本語で話しかけられた。やはり日系人で、日本語のガイドでお金を稼いだ後、今はマチュピチュでレストランを経営しているそうだ。フジモリ元大統領はよく知られているが、その他こうして名もない日系人が活躍している姿を見るのは、日本人として嬉しいものだ。

 話は変わるが、クスコやマチュピチュ村の街中には、犬が多い。一見するとおとなしいが、万が一噛まれたりすると、大事になるかもしれない。だから、予め狂犬病の注射をしてくるべきだったと思った。







 マチュピチュ・ナスカへの旅(写 真)






(2019年10月 8日記)


 
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退官に当たってのご挨拶

最高裁判所大法廷



1.挨 拶 状

 令和元年9月26日、次の挨拶状を親戚、先輩、同僚、後輩、そして親しい友人たちに送付させていただいた。

拝啓 皆様におかれては、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
                          さて 私こと  このたび、定年により、最高裁判所判事を退官いたしました。
 昭和48年に旧通商産業省に入省以来、経済企画庁、資源エネルギー庁、外務省、特許庁、経済産業省、日本貿易振興会、内閣法制局、最高裁判所に勤務して合計46年余の充実した公務員生活を送ることができました。この間、皆様から公私にわたり温かいご支援とご厚情を賜り、改めて、心より御礼を申し上げます。
 今後は、これまで培った法律や経済の知識と経験を生かし、弁護士として引き続き社会に貢献するよう努めていきたいと考えています。末筆ながら、皆様のご健勝とご多幸をお祈りして、私の挨拶とさせていただきます。
                          敬具



2.自分がたどってきた道のり

 退官日の前日、最高裁判所大ホールに整列した長官をはじめとする同僚裁判官の一人一人に挨拶を交わした。それから記念の花束を受け取り、立ち並ぶ職員の皆さんの万雷の拍手を受けて車に乗り込み、最高裁判所の建物を後にした。その時、私の胸には文字通り万感の思いがこみ上げてきた。

 自分がたどってきた道のりを振り返ると、我ながら色々とあったものだと思う。ともあれ、戦後に団塊の世代の一人として生まれ、それなりの波瀾万丈の人生を歩んできた。

 中でも、青年期に経験した東大入試中止は、東京へ出て、日本のために大きな舞台で活躍したいと思う私の心に、強力な火を点けてくれた。大学卒業後、運良く通商産業省への入省の夢がかない、その後は、良き先輩・同僚・後輩に恵まれて、どんな仕事も選り好みせずに全力で取り組んだ。内閣法制局に移ってからも、法律の解釈や法令案の審査を一生懸命に勤め、また最高裁判所ではこれまでの知識と経験を生かして信念に基づく判決を行い、それぞれ満足のいく仕事ができた。

 こうした多忙な仕事をする一方で、家に帰れば、家内が愛情深くて色々と気を配ってくれるから、一緒にいて幸福感があった。ともに子育てを楽しみ、二人の子供も医師と弁護士として活躍している。家内なくして、今の私は存在しなかった。おかげで、実に幸せな人生を歩ませてもらったと思う。


3.70歳代は人生の黄金時代

 私は、昭和に生まれ、平成を生き抜き、令和で人生の最終章を迎えそうだ。これからの私に残された時間は、そう長くはないと思うが、私の公務員人生はここでピリオドを打ち、私の前には全く新しい世界が待っている。そう思うと、生来の好奇心が湧き起こってきて、楽しくて仕方がない。

 通商産業省のある先輩は、80歳代になってその人生を振り返り、「70歳代が一番幸せだった。」と語っておられた。確かにこの先輩は、現役時代は文字通り「仕事の鬼」と言われたほどだったが、引退後は健康そのもので、しばしば海外旅行に行ったり、趣味の陶芸やゴルフに打ち込んだりして、楽しそうに過ごしておられた。見習うべき先達である。

 その生き方を踏襲すると、私もこれから人生の黄金時代を迎えそうだ。公務員として46年余、やるべきことはやったから、もう思い残すことはない。退官を契機に心を新たにし、健康に気をつけながら、弁護士として今少し社会に幾ばくかの貢献をしつつ、家内、子供たち、孫たちとともに、残された貴重な人生を有意義に楽しく過ごしていきたい。

 このホームページ「悠々人生」の読者の皆様にも、人生の黄金時代に入った私が見た美しい風景の写真、物事への考察や感想を記したエッセイなどを、引き続きお届けできればと思っている。



最高裁判所大法廷


最高裁判所









 (退官記念に、天皇陛下から賜った銀杯)

退官記念の天皇陛下からの賜り物








(2019年9月26日記)


カテゴリ:エッセイ | 08:09 | - | - | - |
本場おわら風の盆

鏡町おわら


1.一度は本物を観てみたかった

 「越中八尾おわら風の盆」については、これまで「月見おわら」「前夜祭」などを見て、それなりにわかったつもりでいた。ところが、やはり本物を見てみたいと思って、八尾に出掛けて観ることにした。今年の9月1日は日曜日で祭りは3日まであるから、2日丸一日と3日午前中(帰京)を休めば、丸々2日間は見られるという算段である。だから、たとえ一日くらい雨で中止になっても、さほど悔しくない。

 また、かつて行った前夜祭のときのカメラはオリンパスE−P3だったので、こういう暗い中での撮影は、ほぼ不可能だった。月見おわらのときはキヤノンEOS70Dだからそれよりはマシだったが、やはり、動き回る早い所作には不向きだった。その点、幸い今回は新しく買ったソニーのα7IIIを持っていくので、楽に撮れるはずだと期待する。実際、その通りだった。

 大人の休日倶楽部で北陸フリー切符というものがあって、往復には北陸新幹線を使えて、北陸エリア内では乗り降り自由であり、新幹線終点の金沢からもっと西に行こうとすると、特急の自由席に乗ることができる。価格も22,000円と合理的だし、いちいち行先を確かめて切符を買うという煩わしさがない。だから、北陸地方へ行くときは、私は専らこれを利用している。宿泊は、富山は混んでいるだろうから、少し外して高岡のホテルを予約した。地元の「あいの風富山鉄道」で富山から17分ないし18分と、それほど遠くない。県内の二大都市間だから、夜中もちゃんと電車がある。

 当日、乗り込んだ北陸新幹線は順調に走り、富山駅で降りて「あいの風富山鉄道」に乗り換えようとしたところ、ちょうど「おわら風の盆」のポスターが目に入った。越中八尾駅は富山駅から高山本線で20分ほどのところにあるが、その電車には整理券がないと乗ることができないという。その整理券は、乗車時刻の1時間前から発売だとのこと。そんな話、聞いていなかった。これは面倒だと思って地元の妹たちに行き方を相談すると、八尾のスポーツアリーナまで送ってくれるというので、好意に甘えることにした。これは助かった。そのスポーツアリーナは、見物客向けの大掛かりな駐車場となっていて、町の中心部までシャトルバスが出ている。

 スポーツアリーナは高岡から車で40分の道のりだ。午後4時頃に着き、シャトルバスに乗り込む。到着したのが、八尾町域の東の城ヶ山公園の近くだ。そこから坂を登って町域に入る。町の北側には井田川がある。山中を流れてきて、ふと平野が開けるところに町がある。現在の川面はかなり下がっているものの、その地形からして、過去に何回も洪水に襲われたのだろう。その度に標高の高い所へと移っていったものと見える。だから八尾は、総じて坂の街である。

 ちなみに、以下は、私が最も感動した「おたや階段」下の広場で行われた鏡町の皆さんによる「おわら風の盆」踊りである。


鏡町おわら


鏡町おわら


鏡町おわら


鏡町おわら


鏡町おわら


鏡町おわら


鏡町おわら





2.おわら風の盆の由来

 おわら風の盆の由来は、八尾の公式ホームページから引用させていただこう。

おわら風の盆の幕開け
 二百十日の初秋の風が吹くころ、おわら風の盆の幕開けを迎えます。毎年9月1日から3日にかけて行われるこのおわら風の盆は、今も昔も多くの人々を魅了します。涼しげな揃いの浴衣に、編笠の間から少し顔を覗かせたその姿は、実に幻想的であり優美で、山々が赤くもえる夕暮れを過ぎると、家並みに沿って並ぶぼんぼりに淡い灯がともります。
 それぞれの町の伝統と個性を、いかんなく披露しながら唄い踊り、その町流しの後ろには、哀愁漂う音色に魅せられた人々が1人、また1人と自然につらなり、闇に橙色の灯が浮かび上がり、誰もがおわらに染まっていきます。

おわらの歴史は、元禄ごろから
 おわらがいつ始まったのか、明瞭な文献が残っていないためはっきりしません。
 「越中婦負郡志」によるおわら節の起源として、元禄15年(1702)3月、加賀藩から下された「町建御墨付」を八尾の町衆が、町の開祖米屋少兵衛家所有から取り戻した祝いに、三日三晩歌舞音曲無礼講の賑わいで町を練り歩いたのが始まりとされています。
 どんな賑わいもおとがめなしと言うことで、春祭りの三日三晩は三味線、太鼓、尺八など鳴り物も賑々しく、俗謡、浄瑠璃などを唄いながら仮装して練り廻りました。これをきっかけに孟蘭盆会(旧暦7月15日)も歌舞音曲で練り廻るようになり、やがて二百十日の風の厄日に風神鎮魂を願う「風の盆」と称する祭りに変化し、9月1日から3日に行うようになったと言われます。

「おわら」とは
 一説では、江戸時代文化年間頃、芸達者な人々は、七五調の唄を新作し、唄の中に「おわらひ(大笑い)」という言葉を差しはさんで町内を練り廻ったのがいつしか「おわら」と唄うようになったというものや、豊年万作を祈念した「おおわら(大藁)」説、小原村の娘が唄い始めたからと言う「小原村説」などがあります。

風の盆の由来
 二百十日の前後は、台風到来の時節。昔から収穫前の稲が風の被害に遭わないよう、豊作祈願が行われてきました。その祭りを「風の盆」というようです。また、富山の地元では休みのことを「ボン(盆日)」という習わしがあったと言われます。種まき盆、植え付け盆、雨降り盆などがあり、その「盆」に名前の由来があるのではないかとも言われています。

多くの人々に育てられて
 大正期から昭和初期におわらが大きく変化を迎えます。大正ロマンと呼ばれるほど文化に自由な気風が溢れた時代、大正9年に誕生した「おわら研究会」も影響を受け、おわらの改良(唄や踊り)を行いました。また、昭和4年に結成された「越中八尾民謡おわら保存会」初代会長の川崎順二の文化サロンを中心とした働きで、各界の文人が次々と八尾に来訪しました。おわらに一流の文化意識を吹き込んだ文化人には、宗匠・高浜虚子、作家・長谷川伸もいたと言われています。
 同年、東京三越での富山県物産展に於ける公演をを契機に、おわらの改良がなされ、画家の小杉放庵、舞踊の若柳吉三郎が創った「四季の踊り」は大人気となりました。このときのおわらが「女踊り」「男踊り」として継承され今日のおわら風の盆になりました。
 その時代に生きた文芸人らの想いは今、歌碑となって町内のあちらこちらで息づいています。散歩がてら町の「おわら名歌碑」めぐりをして廻るのもおわらの楽しみの一つです。
 新しい時代の息吹を吸収しながら生きるおわら風の盆は、これからも新しい変化を繰り返し、次の世代へと継承されていくことでしょう。また、そう願わずにはいられません。


鏡町おわら


鏡町おわら


鏡町おわら


鏡町おわら


鏡町おわら


鏡町おわら


鏡町おわら


鏡町おわら





3.曳山展示館とおわら演舞場

 私の旅行は、かつては事前に色々と調べて完璧ともいえるプランで臨んだものだが、そうすると旅が窮屈になる上、様々なハプニングに柔軟に対応できないうらみがある。だから最近では、特に国内旅行は一応調べてはいくものの、基本的には行き当たりばったりで、その度ごとのハプニングを楽しむというスタイルである。今回もその調子で特に詳しく調べていくようなことはせず、シャトルバスに乗り込む時にいただいたパンフレットを眺めることから始めた。

 そうすると、「曳山展示館ステージでの実演」「おわら演舞場(八尾小学校校庭)」というのがあった。前者が午後5時からで1,500円、後者が午後7時からで指定席券3.600円である。では、開始時間を考えると、まず前者に向かおうかと思って地図を眺めていたところ、後者の小学校は今いる場所のすぐ近くなのに気が付いた。だから、まずそこに立ち寄って指定席券を買うことにした。窓口で聞くと、運よく良さそうな席が空いていたので、それを買うことができた。

 地図を見ながら曳山展示館に到着した。そこでは山車が並べられていて興味をそそられたが、おわら風の盆の舞台を見に来たので、まずはそちらの列に並んだ。次から次へと観客が来るので、列は延々と長くなる。やっと時間になり、ホールへと入った。どこでも良いというので、最前列のかぶりつきに着席した。残念ながら写真は禁止だ。


おわら雪洞



 いよいよ始まり、まずはおわら風の盆の所作の解説である。豊年踊り四季踊り案山子踊りなどがある。最初に左上で3回、手を叩き、右下で1回叩くのはこれから始めるという合図だとか、目の前で3回水平に手を動かすのは蚕棚を整理している所だとか、それから右や左へと手を斜めに動かすのは確認している所作だとか、色々と解説がある。それから踊り手さんたちが舞台でやってみせる。舞台踊りだそうだ。30分のステージで、本日は西新町支部が担当である。でも、「あれっ、これで終わりか。」と言いたくなるほどの内容の薄さだ。おわらは全く初めてという人には良いかもしれないが、私のように少しは知っているお客にとっては子供騙しのようで、物足りなくて損をした気分である。せめて、歌詞と所作の解説をしたメモでも配ってくれれば、この値段に合った価値があったのかもしれないと残念である。

 さて、午後7時近くになってきた。気を取り直して、演舞場に向かう。小学校の大きな校庭に沢山の椅子を並べて、正面に舞台が設えてある。舞台の背景の絵は、真ん中に大きな橋がかかっている川の風景である。なかなか良い。30分ごとに4つの支部が出演する本格的なものらしい。3日間で合計11の支部と、八尾高校郷土芸能部が出演する。私が見たこの日は、上新町、東新町、西町、天満町の順で、終演が午後9時近くになる。


上新町


上新町


上新町


上新町


 いよいよ始まった。まず、上新町の出演である。胡弓、三味線、太鼓の素朴で情緒あふれる旋律が聞こえてきた。次いで長く続く絞り出すような声でおわら節が朗々と唄われる。男性の踊り手が出てきて、左上で3回手を叩き、次いで斜めに手を動かして右下で1回手を叩くことから始まり、両手を水平にして手首を曲げる。これが案山子踊りか。それからピンクの衣装の女性の踊り手が男性と入れ替わるように現れて、優雅に踊る。菅笠を目深に被るので、「夜目遠目笠の内」ではないが、どの人も美人にみえる。面白いものだ。

 正確に言うとこの日の歌詞とは違うかもしれないが、例えば、こういう歌詞である。八尾四季(作詞:小杉放庵)

 揺らぐ吊り橋 手に手を取りて
 渡る井田川 オワラ 春の風
 富山あたりか あのともしびは
 飛んでいきたや オワラ 灯とり虫
 八尾坂道 別れてくれば
 露か時雨(しぐれ)か オワラ ハラハラと
 もしや来るかと 窓押し開けて
 見れば立山 オワラ 雪ばかり


東新町


東新町


東新町


東新町


東新町


東新町


東新町


東新町



 東新町の出演時には、小学生の女の子を早乙女姿で出し、男の子を黒い男性衣装で出してきて、そのあまりの可愛さに、観客から拍手喝采だった。大人の男性は黒っぽくてさほどの差がないと思っていたら、町によって、男性がウグイス色の衣装で出てきた。ピンク色の女性とマッチして、非常によかった。

東新町


東新町


東新町


東新町




 また、黒い男性の踊り手が、案山子踊りの最中に、両手を斜めに伸ばし、片足を上げて固まったように動かなくなり、それに更に2人が同じように固まった姿勢をとる。これにも、観客が大きな拍手喝采を送った。そういう調子で、最後まで観て、おわら風の盆を堪能した。素人は、このステージだけでも良いかもしれない。もっとも、おわらの真の楽しみは、思わず町流しにぶつかって、その町独特の衣装、踊り、歌い方を堪能するところにある。


西町


西町


西町


西町


西町


西町


西町


西町


西町


西町



 さて、これが終わったのは、午後9時を回っていた。それから日付けが変わるまで町流しを見るのがおわら風の盆見物の醍醐味だ。ところが、泊まりは高岡なので終電などを気にするのも面倒だし、明日があると思って、本日はもう帰ることにした。越中八尾駅まで歩いて30分はかかりそうだ。それで帰りかけたら、東町での町流しにぶつかった。狭い通りを、胡弓と三味線を流しながら朗々と歌い、その前を編み笠を目深に被った黒い男性とピンクの女性の浴衣姿が踊りながら流していく。この歌がまたよい。ドッコイサーのサッサなどと、頭にリズムが残る。哀愁を帯びた懐かしさがこみあげてくる。これを記録するには、写真では全く不十分だ。このおわら節と一緒でなければ、意味がない。そういうことで、今回のおわら風の盆見物には、写真よりビデオの方を多く撮った。


天満町


天満町


天満町


天満町


天満町


天満町


天満町


天満町


天満町


天満町


天満町


天満町


天満町


天満町


天満町



 それを見終わって、駅を目指して歩き始めたのは午後9時半頃だ。パンフレットの地図を頼りに十三石橋を渡ったのはよいが、そこでグーグル・マップを取り出したのは失敗だった。これに駅までの道順が出てくるので、ついついそれを頼りに進むと、一応は歩道があるけれど、だんだん道が暗くなってきた。構わずに歩くと、なんと墓地がある。そういえば、どこか見覚えがあると思ったら、その一角に親類の山口家のお墓がある墓地だ。間違いない。全くの偶然で驚いたが、この夜中にわざわざ立ち寄ってお参りする気も起こらず、心の中で亡き従兄弟のSさんに挨拶をして、そのまま通り過ぎた。

 更に行くと、真っ暗な中で突然、道が途絶えている。こんなことがあるものかと思ってよく見ると、階段だ。はるか下に、鳥居があるので、神社の参道の階段を下れというのが、グーグル・マップの指示だ。こんなに傾斜があるなら、そう表示してもらいたい。もう二度とグーグル・マップは使うものかと思いつつ、暗い中を何とか階段を降り切った。そこは、駅にほど近いところで、街頭もあり、ようやく文明社会に帰ってきた気がした。高山本線の電車に乗ったのは午後10時37分、高岡のホテルに帰り着いたのは、11時30分だった。いやはや、ひどい目に遭った。とんだ、夏の夜の肝試しの日だった。



天満町




4.おわら保存会11支部の特徴

 いただいたパンフレットの中にあった八尾町の地図で、上(南西部)から下(北東部)へとこれらの11支部(町内)が並んでいる順に見ていくと、最南西端は「東新町」(地図の左手)と「西新町」(右手)から、川を渡った所にある「福島」までは、次の通りである。

「東新町」、「西新町」
「諏訪町」、「上新町」
「鏡 町」
「東 町」、「西 町」
「今 町」
「下新町」
「天満町」
「福 島」


 それぞれの支部の特徴について、いただいたパンフレットには、このようにある。

「西新町」・・最も南に位置する支部です。新しく区画割されたことをあらわす「新屋敷」という通称でも呼ばれます。腰を深く落としてから大きく伸び上がる所作の男踊り、また繊細かつ優美な女踊りとも相まっての町流しは見応えがあります。

「東新町」・・諏訪町の先にあって最も高台に位置する支部です。この支部の少女だけが愛らしい早乙女衣装をまとって踊ります。また、この支部にはカイコを奉った若宮八幡社があり、その境内で奉納されるおわらには独特の風情があります。

「諏訪町」・・往時を偲ばせる佇まいの家々立ち並び坂のまち風情を色濃く残している支部です。東新町へと続く緩やかな坂道にボンボリが並び、狭い家並みにおわらの音曲が反響し、道の両脇を流れるエンナカと呼ばれる用水の水音と相まって、おわらなとっての最高の舞台を演出します。

「上新町」・・旧町の中で一番道幅が広く、商店が多く立ち並んでいる支部です。通りが広いので、比較的容易に町流しを楽しむことができます。また、午後10時から始まる大輪踊りには、観光客の皆様も参加して地元気分で楽しんでいただけることから、大変好評です。

「鏡 町」・・・かつては花街として賑わった町の支部で、女踊りには芸妓踊りの名残もあって、艶と華やかさには定評があります。鏡町支部への入口でもある、おたや階段下が支部のメイン会場になっていて、その会場で行われる舞台踊りや輪踊りをおたや階段に座って鑑賞するスタイルが有名です。

「東 町」・・・旧町でも古い町にある支部で、かつては旦那町とも呼ばれたほど大店が連なっていたと伝えられており、他支部と異なる色合いの女性の衣装に当時の旦那衆の遊び心が伺いしれます。また、おわらの名手だった江尻豊治や越中おわら中興の祖といわれる川崎順治などを輩出し、おわらの芸術性を育んだ町でもあります。

「西 町」・・・東町とともに旧町の中心にあって旦那町として栄えた支部です。今でも土蔵造りの家や風情ある酒蔵、格子戸の旅館など情緒あふれる建物が残っています。昼間に行われる、禅寺坂をくだった先にある禅寺橋で石垣をバックにした輪踊りには独特の風情が感じられます。

「今 町」・・・旧町の古刹聞名寺の正面に位置する支部です。東西両町の中心に位置したことから、かつては中町と呼ばれました。青年男女が絡む男女混合踊りは、この支部が他の支部に先駆けて取り入れたものとつたえられており、創作当時のスタイルを大切に守っています。

「下新町」・・福島から旧町への入口にある支部で、かつては勾配のある坂道に沿って多くの商店が立ち並んでいました。坂の中腹には八幡社があり、春季祭礼の曳山祭りでは曳山が奉納されるメイン会場となっています。朱色を基調とした女性の浴衣が特徴的です。

「天満町」・・東西北の三方を川に囲まれた町にある支部です。町はかつて川窪新町といわれていました。明治23年に天満町と改称し、その名の通り天満宮があります。この町では、おわらの唄(上句)の途中にコラショットと囃子を入れて、音程を下げて力強く歌う独特の歌い方があります。その歌い方は、川窪(こくぼ)おわらと呼ばれています。

「福 島」・・・旧町から移り住んだ人達を中心として結成された最も新しい支部です。風の盆期間中は駅横の特設舞台でステージ踊りが実際されます。また、大人数で広い通りを流す福島独特の町流しは見応えがあり、大変好評です。


 各支部の特徴が非常によく分かり、なかなか優れた解説である。とても参考になった。ついでに、同じパンフレットに書いてあったQ&Aのうち、興味を惹かれたものを引用すると、

 顔が見えないくらいに深く編み笠を被るのはどうしてですか。
 風の盆がはじまった当初は、照れやはずかしさから人目を忍び、手ぬぐいで顔を隠して踊ったのが始まりだったと伝えられています。編み笠に変わった今もその名残りで、顔が見えないくらいに深く被ります。

 女子の踊り子さんの帯はなぜ黒いのですか。
 その昔、おわらの衣装を揃えた際、高価な帯まで手が届かゆかったので、どこの家庭にもあった黒帯を用いて踊った名残りといわれます。

 初めて風の盆に行くのですが、どのように見たらよいですか。
 大きく分けて2つの見方があります。ステージでの鑑賞と各町内踊りでの町流しになります。初めての方は、椅子に座って見ていただける八尾小学校演舞場(有料)がおすすめです。

 町流しとは、とのようなものですか。
 おわらの町流しは、11あるおわら保存会支部がそれぞれ町の通りを歌い踊りながら流すもので、昔からのおわらの姿がここにあります。町流しには踊りと地方(じかた)が一体になった町流しと、地方だけの町流しがあります。


 なるほど、編み笠を深く被ることや黒帯の理由が、よく分かった。私は、9月1日の第1日目夜は八尾小学校演舞場で座って4つの支部を見物し、第2日目は、午後の町流しと、その夜は町流しはもちろん鏡町に陣取って舞台踊りなどを見たから、11支部のうち、少なくとも半分程度は見たと思う。町流しの見物も、この辺りで始まるななどと勘が働くようになり、だんだん慣れてきた。


5.鏡町のおたや階段下の広場

 さて、2日目は、やはり妹に送ってもらってスポーツアリーナに着いたのが午後2時半頃だ。午後3時から5時まで、各町内で昼間の町流しがある。それで、東町 → 西町 → 上新町 → 諏訪町 → 東新町 → 西新町 → 鏡町 の順で、町流しを観ていった。上新町公民館の前では、舞台踊りが披露され、それを堪能した。


西町


上新町公民館


西町


西町


西町



 午後7時から夜の町流しが始まるので、それまで2時間ほどある。先ずは早目の夕食を食べようと、食堂に入って親子丼をいただいた。関東の親子丼のように醤油を使っていない。だから、卵と玉ねぎと鶏肉がそのまま白いご飯にのっていて、まるで味がしない。富山では、他で親子丼を食べたことがないので、この店だけの味か、それともこの地方特有の味なのかはよく分からなかった。まあ、減塩にはよいから良いものの、シンプルすぎる味である。


西新町


西新町


西新町


西新町


西新町


西新町


西新町


西新町



 まだ、夜の町流しまで1時間半もある。地図で見た鏡町の「おたや階段」に行ってみた。この階段に座って、その下の石畳の広場で行われる演技を楽しむのが鏡町流の楽しみ方だそうだ。西町から「おたや階段」についた。そこから階段の下を見下ろすと、石畳の広場がまるでマッチ箱くらいにしか見えない。でも、もう階段の下から3分の2は、見物客で埋まっている。試しに空いている階段に座ったところ、それでも眼下の広場はまるで手帳サイズである。冗談ではない、こんなところにいても仕方がないと思って、階段を降りていき、下の広場に着いた。すると、人々がもう周辺に座っている。スケジュールを見たら、午後8時開始である。まだ、2時間半もあるのに、もう待っているのかと思い、馬鹿馬鹿しくなって、その辺りに座った。歩き疲れていたので、少し休むつもりだった。


6.退職者の鏡のような元気なおじさん

 すると、隣に座っていた60歳代の男性が、私の持っているカメラを指さして話し掛けてきた。「そのカメラ、いいなあ。よく撮れるでしょう?」

 私は、「いやいや、前回、キヤノンのカメラを持ってきたのですが、もう全然撮れなかったので、今回はこのソニーα7にしました。多分、多少暗くても大丈夫でしょう。」

おじさん「私は、ソニーα6400だから、そのα7だと、もっと良く撮れるでしょう。例えば、これでも(と言ってカメラの画像を拡大して)、ほら、踊り子さんのうなじの髪の毛まで写ってますよね。」

私「ああ、これは良く撮れている。目深に被る編み笠を正面から捉えるのではなくて、後ろからうなじに焦点をあてるなんて、これはなかなか非凡な構図ですね。芸術的だ。」

おじさん(気を良くして)「いやいや、ありがとうございます。そうやって気に入った写真を印画して、部屋に飾っています。」

私「それは、なかなか良いご趣味ですね。おわらは初めてですか?」

おじさん「いやいや、去年も来たのですが、鏡町のおわらは、この位置が絶好の場所です。なんとなれば、背景に見物人が写り込まない。ほら、黒い板塀でしょう。だから、あと2時間以上あるけど、ここで待っている価値があります。あと、今町の聞名寺(もんみょうじ)、これも良い。見物人が写らないアングルがあります。」

 私はそれを聞いて、ここで、このおじさんとおしゃべりをして時間を潰すことにした。気がついてみると最前列だから、写真を撮るには絶好のポジションである。

おじさん「流鏑馬に行ってみたことがありますか?」

私「いや、一度もありません。関東近辺では、鎌倉ですか?」

おじさん「鎌倉、逗子、平塚、そして明治神宮ですが、このうちでは、逗子が一番、絵になります。というのは、背景が海になるんです。たまに富士山が見えたりしてね。だから、あそこの流鏑馬は最高です。明治神宮も、背景に見物人が写りこまない良いアングルがありますよ。」

私「そうなんですか。逗子と明治神宮ねぇ。では今度、行ってみます。」

おじさん「ところで、ここまでどうやって来られたんですか?」

私「いつも、大人の休日倶楽部で、北陸フリー切符を買って来るんです。」

おじさん「私は、国内旅行は、なるべく格安航空券を買っていくことにしてます。例えば、先日は熊本まで3千円で行ってきました。北海道も、2千数百円で行けますよ。航空会社の販売サイトを丹念に見ていたら、そういう券があるんです。先日は、ジェットスターで291円というのがあって、申し込みました。我々は、土日は関係ないですから、暇な期間にそういう券のオファーがあります。」

 などというとりとめない話をしていたら、いつの間にか午後8時になって、鏡町のおわら風の盆公演が始まった。先ずは地方が「歌われよ わしゃ囃す」から始まって「越中で立山 加賀では白山 駿河の富士山三国一だよ」と続き、歌と囃子が続いていく。その途中で、三方から踊り子さんたちが出てきて踊る。上手いものだ。撮りに撮ったことは、言うまでもない(上記1.の写真参照)。

 おわら風の盆の踊りは素晴らしかったが、それとともに、退職者の鏡のような、このおじさんの存在には驚いた。現役の時は、さぞかし有能な人だったのだろうと思う。その時の勢いのまま、退職しても相変わらず精力的に全国を歩き回っている。「セールス」ではなくて、単に「良い写真を撮る」だけのために・・・いやもう、大した人だ。日本も、人口が減る、労働力が減るなどと言っていないで、こういう元気な高齢者を活用すべきだと思った次第である。



西新町


西新町


西新町



 なお、今晩の帰りの時刻は午後9時半頃に出発となったが、昨晩の反省からグーグル・マップを見るのは止めて、パンフレットの地図に従って十三石橋を渡るとすぐ右に曲がり、そのまま前進すると地鉄バスの発着場に出た。そこから左手に行けば高山本線の越中八尾駅であるが、試しにバスの出発時刻を聞くと、もうすぐだ。そこで、バスに乗ることにした。富山駅経由で高岡駅に着いたのは、午後11時頃だった。そのうちまたやって来て、今回の2日間で見られなかった支部のおわら風の盆を見てみたいと思っている。


7.八尾町の皆さんに感謝

 こういう風の盆をもう300年近く踊り、歌い続けてきたそうであるが、まずはその伝統を守ってきた八尾町の皆さんに対して敬意を表したい。また、そうした地域のお祭りに、我々のような何十万人にも及ぶ観光客を心よく受け入れて、かつ見物をさせていただくという皆さんの度量の広さにも感謝する次第である。願わくば、この伝統の芸術、日本の宝ともいえるお祭りを、今後も末永く続けていってもらいたいものである。







 本場おわら風の盆(写 真)




(2019年9月 3日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:30 | - | - | - |
シンガポールへの旅

マリーナ・ベイ・サンズ


1.ジュエル・シティ

 日本国内は、お盆休みで帰省ラッシュの中、台風10号の襲来でフェーン現象が起き、全国各地で気温が40度近くに達して暑さに喘いでいるという。そういうとき、私がシンガポールで過ごしたのだけれど、気温は最高で32度ほどだったから、今の日本よりは過ごしやすい。まるで東南アジアに避暑に来たようなものだ。もっとも、直射日光を浴びると、こちらの方でも身にこたえるので、なるべく地下鉄(MRT)や建物内を歩くことにしている。近代的な都会だから、それで十分に思ったところに行ける。


ジュエル・シティ


ジュエル・シティ


 チャンギ空港に着き、最近完成したという「ジュエル」に向かう。ターミナル2の方向だ。クアラルンプールで、知り合いに「最近シンガポールにできた名所はあるか」と聞いたら、ここを勧められた。特に夜に行くと綺麗だという。今はお昼近くだけど、まあ良い、行ってみるかという気になった。近付いてみると、平らで丸いアンパン型の建物だ。入ってみれば、普通のショッピングモールのようなレストランが並んでいる。しかし、中心部から滝の流れるような音が聞こえてくる。そちらに引かれるように歩いていくと、なんとまあ、大きなドーナツ形の天井の穴から、滝が勢いよく流れ落ちている。3階建ての建物の天井からなので、少なくとも20メートルの落差がある。見ていると、ドーナツ型の透明な天井から、水が渦巻いて中心部に空いた穴に向かい、それが流れ落ちるものだから、もの凄い迫力の瀑布となる。

ジュエル・シティ


ジュエル・シティ


 昔々、お台場の東京ビッグサイトの向かいに計画された、東京ファッションタウン(TFT)というビルに携わったことがある。その売りものの展示は、「室内滝シャワーツリー35」で、入口付近にある「受け皿」に対して35メートルの高さから2トンの水が流れ落ちるというものだ。当時はなかなかダイナミックなディスプレイだと思ったが、このジュエル・シティの派手な「猛瀑」には、遠く及ばない。まるで大人と幼児だ。こんなところでも、シンガポールに追い抜かれてしまった。

 その日は、マリーナ地区のホテルに泊まった。昔からマンダリン・オリエンタルが私の定宿で、そこの朝食のお粥(ポリッジ)が大好きだったのだが、今回は新しいところを開拓しようと、泊まったことがないホテルにした。結論としては、外観は良いしMRTの駅にも近いが、東南アジアのホテルにしては、部屋の設備があまりよくないので、お勧めしない。ただ、朝食は良かった。今時シンガポールに来るなら、マリーナ・ベイ・サンズに泊まるべきだろうが、家内の体調が回復して一緒に来られるようになってからにしよう。


2.シンガポール・フライヤー


シンガポール・フライヤー


シンガポール・フライヤー


 午後はまず、シンガポール・フライヤー(新加坡摩天)に乗って市内見物をした。これは高さ185メートルと、つい最近、ラスヴェガスに抜かれるまで、世界一の大きさを誇ったそうだ。筒のような形のカプセルにゆったり座れる1周30分の空の旅である。ここからは、マリーナ・ベイ・サンズが横向きに見える。せり上がってくるに連れて、その向かいのガーデンズ・バイ・ザ・ベイの全体の姿が見えてきた。後からここへ行くつもりだが、要は植物園だ。

シンガポール・フライヤー


シンガポール・フライヤー


シンガポール・フライヤー


シンガポール・フライヤー


シンガポール・フライヤー


 フライヤーは更に上がり、シンガポール港の全容が一望できるようになった。ものすごい数の船が停泊中だ。さすが世界でも名だたる貿易港である。振り返ってシンガポール本体の方を見ると、高層ビルが林立している。どれが何のビルかは知らないが、上海やクアラルンプールのようなユニークな形のビルがあまりないのは、シンガポールらしい。それだけに、今回のマリーナ・ベイ・サンズの三本脚タワーの変わった造形がよく目立つ。ガーデンズ・バイ・ザ・ベイの見事な形も、非常に美しい。フライヤーの頂点近くでは、マリーナ・ベイ・サンズの頂点部が、まるで空に浮かぶ南海の孤島のように見える。あちらの高さが200メートルだから、やや見上げる形となる。ところが、距離が近いはずなのに、ややボケて見える。スマトラ島からの煙害(HAZE)の影響かもしれない。HAZEは、シンガポールとマレーシアの夏季のリスクになりつつある。だから、このフライヤーは、夜景を見た方が綺麗だったかもしれない。


3.マリーナ・ベイ

 マリーナ・ベイ・サンズに行き、タワー1から3までの根元に当たるショッピングモールとレストランを回る。天井が高いし、ブランドショップばかりだから、明らかにカジノ仕様だ。真ん中辺りにそのカジノ(賭場)がある。ただ、私は長年の経験でカジノは体質的に合わないので、今回も入ろうとは思わなかった。こういうものが、近々日本にもできるらしいが、ただでさえパチンコやら多重債務やらで問題が山積しているのに、また新たに似たような社会問題が出てきてしまうのではないかと危惧している。


マリーナ・ベイ・サンズ


マリーナ・ベイ・サンズ


マリーナ・ベイ・サンズ


マリーナ・ベイ・サンズ


マリーナ・ベイ・サンズ


 美味しそうな中華レストランを見つけたから、取り敢えずそこで食事をした。そろそろ日没なので、隣にあるガーデンズ・バイ・ザ・ベイに向かう。夜景が綺麗だというので、その写真を撮りたい。切符売り場に行くと、ダンス、フロート、ワルツなど幾つかのパートに分かれていて、全部を回るには時間がないという。「また来るからいいか、本日の目的は『スーパーツリー・グローブ』と称する木のような不思議な造形の夜景だから」と思って、「そちらに行くにはどうするのか」と聞いたら、シンガポール名物の無愛想な女の子が、「あっちへ行って、そちらで券を買え」とぶっきらぼうに言う。「これでは逆効果ではないか、ますます買う気がなくなる。」と思いつつ、そちらの方へと向かう。

ガーデンズ・バイ・ザ・ベイ


ガーデンズ・バイ・ザ・ベイ


ガーデンズ・バイ・ザ・ベイ


 ようやく暮れなずむ頃になって、夜景に切り替わりつつある。ところが、気温が高く、30度は超えているのは確実だ。しかも湿気を含んでいるから、外を歩くとサウナに入っているようで、汗びっしょりになる。ブリッジを渡ってスーパーツリー・グローブの近くへと行った。いやこれは、宇宙のどこかの星に生えている木ではないかと思うほどにSF風の形をしている。10年ほど前にアバターという映画があったが、その中に出てくる惑星パンドラに生えていた木とそっくりだ。それが、夜空に紫色など様々な色に光るから、ますます現実離れした風景となる。また、その木と木の間が、カーブする細いブリッジで結ばれていて、そこを人が歩いている。かなり高い所なので、人間がアリのようにごく小さく見える。この暑い中を、あそこまで行くのかと思ったら、行く気が失せた。

 そろそろ、マリーナ・ベイ・サンズの夜の出し物である「光と水のショー」の時間が近づいてきた。そちらも是非見たいので、ガーデンズ・バイ・ザ・ベイはまた来ようと思って、再びマリーナ・ベイ・サンズに戻った。会場はプロムナードで、マリーナ・ベイ・サンズを背にし、向い側の高層ビル群を背景に、目の前の池のような運河のようなところが会場だ。適当な所に座る。


マリーナ・ベイ・サンズ


マリーナ・ベイ・サンズ


マリーナ・ベイ・サンズ


マリーナ・ベイ・サンズ


 開始時間の午後8時になり、光と水のショーが始まった。池の真ん中にでこぼこした柱が立っていると思ったら、それが光りはじめ、緑、青、赤の光を放ちだした。オーケストラのような荘重な音楽に合わせてあちらこちらで噴水が出だし、上へ斜めへ、色々な高さに水を吹き上げる。その水に色がつくから、いやもうその派手なことといったらない。噴水の中に三角形の形が現れる。プリズムでも使っているのか、それに色がついて美しい。音楽がどんどん盛り上がってきて、それに連れて噴水がますます高く吹き上がり、やがて全てが沈黙した。うーん、なかなかの演出である。こういう無駄なことができるというのも、カジノの稼ぎが元になっているからなのだろう。この時ばかりは、中東か中国か知らないが、カジノのお客さんに感謝したい。


4.リバー・サファリ

 シンガポールで、どこか暑くないところはないかと思って調べたら、まずはセントサ島の水族館があるが、既に行ったことがある。動物園も木陰が多くていいが、これも何回か行っている。少し前からナイト・サファリなるものも始まったが、写真が撮れないので、この案も却下だ。そういうことで、最近完成したばかりのリバー・サファリに行ってみることにした。もちろん、これは初めてだ。

 世界の川をテーマにしているらしい。それなら、淡水の水族館に違いない。きらびやかな熱帯魚はいないかもしれないが、水槽だから、涼しいに違いない。パンフレットを見ると、あれあれ、川とは無縁のはずなのに、パンダがいる。これはひょっとして、川というあまりに地味なテーマなので、文字通りの客寄せパンダのつもりで置いているのかもしれない。まあ、それでもいいか、上野以外でパンダが見られるのだからと思って、行くことにした。

 順を追っていくと、まず、ジェムス川には、エンゼル・フィッシュがいた。二匹がペアのようにゆっくり浮かんでいる。こんなにのんびりして大丈夫なのかと心配するほどだ。次のミシシッピ川には、いかにも獰猛な亀(Alligator Snapping Turtle )がいた。おお、これは数年前、上野公園不忍池で立て続けに見つかった噛みつき亀そのものだ。アリゲーターという名が付くガーという魚がいて、顔は鰐そのもの、体は古代魚である。そのなかでも、プラチナ・アリゲーター・ガーは、優雅で美しいから、一見の価値がある。コンゴ川には、タイガー・フィッシュという魚がいて、なるほど口に並ぶ歯が恐ろしい。ガンジス川には、小型の鰐、大型の鯰がいる。これでは聖なる川も、落ちたら大変だ。オーストラリアのメアリ川には、アーチァーフィッシュがいて、水鉄砲で昆虫を落とすらしい。見てみたいものだ。


リバー・サファリ


リバー・サファリ


リバー・サファリ


 次にタッチプールがあって、ヒトデや兜蟹を触らせてくれる。兜蟹は日本では天然記念物に指定されているが、ここでは幾らでもいるので、あまり有名ではないらしい。なお、系統的には蟹のような甲殻類ではなく、蠍のような節足動物の仲間だという。昔、マレーシアに住んでいたとき、東海岸に行ってこの兜蟹を持ち帰り、一時飼っていたことがあったが、お手伝いの中国人女性がそれを欲しがった。「何故だ」と聞くと、「食べたら美味しいに決まっている」という。『中国人は、四つ足のものは机以外は何でも食べる』と聞いたことがあるが、四つ足でもなく、こんな兜のような頭と槍のような尻尾しかない動物のどこを食べるというのかと驚いた。そこで、「食べるところなど、どこにあるのか」と問うと、「頭の裏側に卵があって、それが実に美味い」という。なるほど、先程の諺は、『中国人は、動くものなら何でも食べる』と言い換えた方が良さそうだと思った。

リバー・サファリ


リバー・サファリ


リバー・サファリ


 メコン川には、ジャイアント・キャットフィッシュつまり大鯰が出てきた。絶滅危惧種らしい。また、淡水エイもいる。エイを英語で言うと、「Stingray」とのこと。なるほど、直接的な表現だ。覚えておこう。長江には、大型の山椒魚(Salamander)がいた。これまた、日本では天然記念物である。次の本物パンダの前にレッド・パンダというのがいる。可愛いが、これは、まるで猫だ。さて、いよいよ「大熊猫」つまりパンダに会える名前は、凱凱(カイカイ)と嘉嘉(ライライ)だ。パンダ舎に入ってみると、上野公園のようなガラス越しではなくて、やや遠目だがパンダを直接見下ろすことができる。ガラスに反射しないから写真に撮るには良い。しかも取り放題だ。これでパンダが身体を起こして竹でも食べていてくれれば、それなりに絵になるのだけれども、そうは問屋が卸さない。目の前のカイカイは、だらしなく寝そべっている。しばらく待っても起きてくれそうにもないので、仕方なくそれを撮ってきた。生き物相手は、なかなか上手くいかないものだ。

 次に進むと、大きな貯水池に出て、そこを対岸まで渡っていける橋がある。渡り切ると、貯水池を小さく一周する船に乗る。いやまあ、単にそれだけである。対岸は動物園なので、木の間をゆっくり歩くキリンを見たのが一度だけあったが、変わったことといえばそれくらいで、あとは何もない。平和だ。平和過ぎる。心身ともに、無の境地になる。そういう調子で先ほど乗船した桟橋に戻り、ぼんやりとした頭で前を見ると、「アマゾン川探検」というのがある。これは有料だが、歩くのに疲れたから、乗り物に乗ることにして、乗り込んだ。


リバー・サファリ


リバー・サファリ


リバー・サファリ


 すると、いきなり、ガガガッという音と共に2階の高さに持ち上げられた。そこからは、ちょっとした川下りのジェットコースターもどきになっている。流れていく川の両岸に、何とかモンキーとか虎とかがいるらしいが、木に遮られて、よく見えない。もう終わりかけというときに、やっと、紅色のトキとフラミンゴ、そしてカピバラが見えた。これでは、フラストレーションが募るばかりだ。

 出発点に戻り、係員のインド人女性に冗談のつもりで「動物が見えなかったので、もう1回」と頼んだら、なんとまあ、それが通じたようで「OK」という答えが返ってきて、面白かった。こういう問答ができるのが旅の醍醐味だし、何事も頼んでみるものだ。日本の動物園では、全くダメだろう。そういうことで、もう一回チャレンジしたが、木の上で幸せそうに寝ている「吠え猿(Howler Monkey)」が見えただけだった。それでも係員の配慮に感謝しないといけない。その後は、シルバー・アロワナ、電気鰻、マナティにピラニアまで見て、まあ、こんなものだと納得した。



5.財富の泉



富貴の泉


富貴の泉


 ホテルに帰る前に、最近できた「サンテック・シティ」というショッピングモールに行ってみた。財富の泉というのができたというのである。どんなものかと思って立ち寄ってみた。するとそれは噴水で、覆うように黄銅色のリングが上方にあって、同色の柱で四方から支えられている。見ていると、中国人たちが嬉々としてその噴水を触りながらその周りを巡っている。三回まわると、お金持ちになれるそうだ。何とも他愛のないもので、これもシンガポールらしいというか、なんというか。






 シンガポールへの旅(写 真)






(2019年8月14日記)


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