母と生まれ故郷を訪問

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1.母の近況

 人間、それなりに歳をとると、来し方が懐かしく思うものである。現に私自身も、つい最近、小さい頃から高校時代を過ごした神戸北陸名古屋という全国各地の都市を順に訪ねて、思い出に浸ったものである。これらは、「なつかしの旅」として、このエッセイに収めている。

 ところで、私の父が7年前に亡くなった後、もうそろそろ90歳になる母が、北陸で、一人暮らしを続けている。昨年の春には、公民館の入り口で転倒して首筋を痛め、一時は歩くのもやっとという状態だったが、何とか回復して、とりあえずは歩き回れるようになった。ただ、そのせいかどうかはわからないが、やや耳が遠くなってきて、話し掛けるときは、少し大きな声でなければ聞こえなくなった。

 日常生活が心配なところだが、週に3度のデイ・サービス通いがあるほか、幸い、私の妹たちが近くに住んでいて、代わる代わるおかずを持って行ったり、買い物して冷蔵庫に入れたり、話し相手になったり、病院に連れて行ったり、ケアマネジャーと打ち合わせたりと、本当に良く面倒を見てくれているので、深く深く感謝している。

 ただ、それでは妹2人の負担が大きいので、私の義理の両親のように有料老人ホームに入ってもらおうと思って、妹たちの同意を得て、母に話を向けたのだが、「お父さんが建てたこの家に出来るだけ長くいたい。」という。加えて、当地はやや保守的な土地柄で、「親の面倒は子供が見るのが当然」という発想があるせいか、東京のような至れり尽くせりの有料老人ホームが、そもそも見当たらないという問題もある。さりとて、東京に連れて来るのは、妹たちと分断することになり、好ましくない。そういうことで、前に進めずにそのままとなっている。私と同様に地方に住む高齢の親を抱えている友達も、同じようなことを言っている人が多い。

 先日、東尋坊と永平寺を訪ねた帰り、実家に立ち寄ったところ、妹の一人が、母を連れてカラオケに行こうと言う。先日、母と初めて行ったところ、「北国の春」を熱唱していたそうだ。私は、カラオケは何十年ぶりだったが、行くことにした。姪っ子を交えて、親子三代と私である。母が慣れ親しんだ1945年から75年までの古い曲を選んで、母に一緒に歌おうとし向けると、テンポは緩いものの、一生懸命に歌っていた。私も、こんな歌の時代に、育ててもらったのかと、目が潤んできた。母も、何十年も前の歌詞を思い出して、ご満悦である。姪っ子が、最近の歌を歌いだすと、手拍子まで出てきて、絶好調である。これは、いわゆるボケ防止によいかもしれない。


2.行きたい所は生まれ故郷

 翌日、母に「どこか、行きたいところがある?」と聞くと、「生まれ故郷を見てみたい。」という。それは福井県の山深いところにあり、北陸自動車道を走って約3時間のところだ。私は、小学校6年生と大学生の時に、両親とともにそこへ行ったことがある。檀家だったお寺さんの裏庭に石ころがいくつもあって、これらが全て先祖のお墓だといわれたことを覚えている。

 母の家は、この地に代々住んでいた名主の家だったようだが、終戦前後の混乱期に戸主の放蕩や病死、農地改革や新円切替えの混乱で一挙に没落したそうだ。しかも母の母親は3歳の時に婚家で病死し、父親は田舎暮らしが性に合わず一家で都会に出たものの終戦直前にこれも病で亡くなり、母は祖母と妹を抱えて、未成年ながら戸籍上の女戸主になったという。それで終戦直後の混乱期を生き抜いたのだから、大したものだ。その頑張りのおかげで、我々があるので、感謝しなければならない。

 母自身は、その生まれ故郷には7歳までしかいなかったそうだが、このたび、その地を見たいというのである。もうすぐ90歳なので、その希望を叶えてあげないと、もうチャンスはないだろうと思って妹たちに意向を聞いた。すると、両手を挙げて賛成してくれて、しかも一緒に行ってくれるという。これは、絶好の機会だ。是非とも行かなければならない。

 山深いところゆえ、現地での宿の予約が鍵となる。調べてみると、母が通った小学校の跡地がたまたま旅館になっていて、幸い、そこを予約できた。次に、先祖代々お世話になったお寺を訪ねたい。十数年前にそこのご住職に来てもらって墓を移し替えたが、その時のご住職はもう亡くなり、その息子さんの時代となっている。電話をし、立ち寄って、お話しを願えないかとお聞きしたところ、快諾を得た。


3.祖母の実家の探索

 「他に立ち寄りたいところはありませんか。」と母に聞いたところ、自分の母親の実家だという。母は、「自分が3歳の時に亡くなったし、その後の戦中戦後の混乱期を挟んで、幼くして生まれた土地を離れ、それ以降生まれた田舎とは全く別の土地で生きてきたこともあって、交流は長らく途絶えているが、いつか訪ねてみたかった。」というのである。その実家は、母の生地の隣の集落で、姓はわかるが、住所は知らないとのこと。

 集落名と姓だけで、分かるものかと思ったが、もう一つの手掛かりとして、戸籍があった。父が亡くなったときに取り寄せた原戸籍が、手元にある。そこの祖父の欄を見ると、妻の欄があり、更にそこにその父親の名前と住所があった。ただ、達筆すぎて非常に読みにくい。さすがに名前はわかったが、番地が難しい。写真に撮って拡大し、「崩し字」事典と対比しつつ解読したところ、番地を何とか読むことができた。次に、グーグルで集落名と姓を重ねて、検索してみた。すると、その集落で当該姓を名乗る家は2軒しかない。しかも、その住所と電話番号が出てきたではないか。そのうちの一軒の番地が、先ほど戸籍から読み解いた番地と一致している。間違いない。この家だ。こんなに簡単に分かるとは思わなかった。インターネット時代の威力である。

 そこで、そのお宅に電話をしてみた。こちらの名前を伝えて、「親戚に当たるお宅を探しているのですが、そちら様のご先祖に、こういう名の方はいらっしゃらないですか。」と、先ほどの戸籍の名前を挙げたら、「確かに、それは私の先々代の名前です。」という話になり、そこから色々とお話をさせてもらい、今度、母を連れて行くことになった。そちらに行く道を確認するために、その住所をグーグル・ストリート・ビューに入れて検索したところ、あれまあ、何と、その方のご自宅まで拝見することができた。地方議会の議員をされている方のようだが、とても立派なお宅だった。


4.お寺さん訪問

 お寺さんでは、住職とそのお母さん(御新造さん)が待っておられた。まず本堂で読経をしていただいたのには、恐縮した。次に庫裏にて、過去帳とそこから抜き出した我が家の先祖の法名の一覧表をいただいた。その表に載っている最初の先祖は、文化13年(1816年)5月12日没で、次が文政元年(1818年)8月13日没である。残念ながら俗名はなく、戒名しか書かれていない。没年は、今から200年も前のことである。ちなみに、この頃に生まれた有名人としては、島津斉彬(1809年)、井伊直弼(1815年)、亡くなった有名人としては、喜多川歌麿(1806年)、杉田玄白(1817年)、伊能忠敬(1818年)などがいる。


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 それから、天保、弘化年間に亡くなった先祖が何人か書かれていて、明治期に入る。この辺りからは、戸籍上でも追跡できる。戸籍の最初に載っていた人物は明治17年没であり、この人は戸主で、確かに過去帳にもその年に亡くなった人物が載っている。ただ、過去帳では戒名しかわからないし、その一方で戸籍には俗名しか載っていないので、名前から確定することはできない。しかもこの人の場合、過去帳の没年は9月23日だが、戸籍ではそれが11月10日となっていて、ズレがある。ただこれは、役場への届出の遅れか、戸籍制度が始まったばかりの記帳の混乱によるものと考えれば、まず間違いなく同一人物だろう。現に明治29年と35年に若くして亡くなった兄弟については、過去帳と戸籍の死亡の日付けが一致している。間違いない。この辺りから、両方の文献の死亡の日付けが、一致又は近接してきている。戸籍制度がようやく確立したのだろう。

 それにしても、過去帳からよくこれだけの数を抜き出して一覧表にしていただいたものだ。もう90歳を超えた御新造さんがされたそうだが、心からお礼を申し上げておいた。お寺の裏手にある竹藪の一角に、我が家の先祖代々の墓がある。もはや苔むした石ころにしか見えないが、ご住職にそこまで案内いただいて、参拝をしてきた。途中の小道に、黄色い網がかかったような珍しい模様の蛇がいて、驚いた。


5.蕎麦打ち体験



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 名残惜しみつつ、厚くお礼を申し上げながら、そのお寺を辞した。午後の約束までまだ時間がある。たまたま、近くに蕎麦打ちを体験させていただけるお蕎麦屋さんがあった。そこで妹たちと3人で、蕎麦打ちに興じた。私は以前、蕎麦打ちをやってみたことがあったので、今回は主にカメラマンに回って、妹たちの蕎麦打ちを見守った。お師匠さんの指導の下、まず、蕎麦粉8、小麦粉2の割合で混ぜた粉を撒き、それに用意の水を半分注ぐ。それを、指先を下に曲げて左右にかき混ぜる。手のひらで混ぜてはいけないそうだ。ある程度混ざったら、残る水のうち8割方を撒き、また同じように混ぜる。最後にまた、わずかに残った水を打って全体をまとめ、今度は両方の手のひらで押すようにしていくと、丸まって横に広がり、クロワッサンのようになるので、それを縦にして同じように押す。これを何回か繰り返す。そして、両端を丸めるようにして内側に入れ、それをまた数回繰り返して、盛り上がった丸餅のような蕎麦球にする。それを、手のひらの手首側で押し付けながら回す。そうすると、綺麗な波形の模様がつくので、それをひっくり返して再び数回、同じようにする。

 近くの蕎麦打ち台では、小学生が数人混ざっていた。わあわあ、きゃあきゃあ言いながら作業している。ちょうど同じように蕎麦をこねる場面らしくて「美味しくなあーれ、美味しくなあーれ。」と、可愛い声で大合唱しているから、笑ってしまう。

 いよいよこれからが伸ばす工程に入る。麺棒を両手で爪を立てるようにし、真ん中から両端に向けて広げるようにして、蕎麦球を徐々に潰すように押し広げていく。当然、広がったものは丸い形をしている。このまま切ってしまうと、極端に短い麺と長い麺になってしまうので、「角出し」といって、伸ばしながら四角にする。これは結構難しい。麺棒を傾けながら押し、何とかそれらしくするが、厚さにムラが出来て、このままだと火が通らないと、師匠からダメ出しが入り、やり直してもらう。この工程は確かに難しい。師匠曰く。「昔はこんな工程はなかったが、全国蕎麦打ちコンテストが始まって、単に丸く広げるだけでは差がつかないので、この技法も腕自慢の対象として評価されるようになり、それで全国に一気に広まった。」

 蕎麦生地がようやく綺麗に薄く広がった。これからカットに入る。生地に片栗粉を振り掛ける。師匠は粉を摘んで一振りすると、白い粉が美しく均等に広がる。我々がやると、濃淡がひどくて、しかも数回に分けてやる羽目になる。それを折り畳んで、蕎麦切りの台にセットする。蕎麦包丁は手前まで刃が付いているので、注意するように言われる。白い木の板で作られたブリッジのようなガイドに当てながらその包丁で蕎麦生地を切っていくのだが、力は要らないものの、切る幅を揃えるとともに、食べごろの太さにする必要がある。これが細すぎるとまるでソーメン、太すぎるとあたかも名古屋きしめんになってしまう。コツは、切ったあと、包丁で進行方向にちょっと押し、そのときに必要な幅が出るようにすることだそうだ。まず師匠がお手本を見せてくれて、我々が続いたが、妹2人はなかなか上手だったが、私がやると、細すぎたり、太すぎたりで、これでは蕎麦屋になるのはとても無理だと感じた。


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 さて、所要時間50分で出来上がった。それで蕎麦を茹でてもらい、大きなザルに入れてもらって、ネギのみじん切り、鰹節、大根おろしを添えて、母も交えてツルツルと食べた。自分で言うのもなんだが、非常に美味しく感じた。蕎麦打ちは、大成功だ。


6.日本の原風景での人生の禍福



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 そのお蕎麦屋さんを出て、周りを車で一周した。この村をじっくり観察する。山間の河岸段丘に広がる典型的な中山間地である。川の両脇に広がる田圃には、たわわに実った稲が植わっていて、所々に曼珠沙華の赤い華が彩りを添えている。鮮やかな赤色をしたキノコもある。田圃が切れたところには美しく杉の木が植林されている。そのバックには、なだらかな山があり、さらにその背景には、蒼くけぶる遠い山々が連なる。まるで日本の原風景とも言える佇まいである。川の側の遊歩道を歩くと、川の色がライトブルーで美しい。川の周囲の崖からも、湧き水が次々に流れてくる。これが、水量が多い原因のひとつなのだろう。川の中ほどに、吊り橋が掛かっている。揺れるし、踏み板の隙間が大きいから、女性の中には途中で立ち往生する人もいる。これだけの急流の川だから、昔から水の事故があったのだろう。川のほとりには。観音様の像が建てられていた。

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 そこから更に山奥の方に、車を走らせる。途中、道の傍らには、お地蔵さまが道行く車を見守っている。山の中に分け入っていくと、栗もたわわに生っている。突然、大きな滝が現れた。水量も多く、それが左右に拡がっているからとても迫力がある。道路から、滝の流れのところまで降りられるので、見上げることができる。

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 「私たちの先祖は、こういうところで、少なくとも250年はいたのだなあ。幕末に開国しなければ、この幸せな農村でずーっと暮らしていたかもしれないね。」と、妹たちと語り合う。先祖代々の血と汗の結晶で、見渡す限りの田畑や山林を所有していたそうだが、我々の祖父の代でたまたま都会に出た終戦前後の混乱期に前述のような出来事がいろいろとあって家運が傾き、一挙に没落したと聞いている。仮に祖父がそのまま田舎に留まって普通の暮らしをしていたならば、その子孫の我々は今頃一体どうなっていたのだろうかと思う。そういえば、先程の蕎麦屋さんにも、昔々の我々の家の分家の流れをくむ人が働いていたし、近くの観光施設の切符のモギリをしていた人も、そういう我が一族の方のようだ。

 考えてみると、祖父があのままこの田舎に住み続けていたのなら、私も田畑や山林を守って伝統的な生活をしていたに違いない。それが母の時代になり、終戦直後の混乱期、父親が病に倒れた後に徒手空拳で都会にとどまり、母は父とともにその生活を確立した。それが、ひいては東京での今日の私の時代における発展につながっている。これと言うのも、祖父が田舎暮らしを嫌い、好き放題やってくれたからだと、むしろ感謝しなければならない。でなければ、今頃は猫の額のような田畑を耕したり、あるいはそれでは食べていけないのでこの地のどこかのお店で働いていたのかもしれないのである。世の中が封建時代のままだったら、それも悪くはないかもしれない。ところが、幕末にペリー提督がやって来て開国を迫られ、日本という国そのものが弱肉強食の列強国家群の前に投げ出された。その結果、国民を挙げてその力を結集しなければ、国として立ち行かなくなり、戦前は軍事強国として、戦後は経済大国としての道を歩んできた。私の父母も、私自身も、いわば田舎から呼び出されて、経済大国を作り上げるのに邁進してきたようなものである。そして、無一文のどん底の状態から、親子で努力に努力を重ねて、ようやく浮かび上がって来たというわけである。そう考えると、「人生、いや一家の禍福は、正にあざなえる縄のごとし」だと思えてくる。


7.母の実家

 さて、母の実家を訪ねる時間となった。カーナビに住所を入れると、懇切丁寧に案内をしてくれるので、直ぐに着いた。途中の田圃の畔に固まって咲く曼珠沙華の華が美しい。お宅では、ご当主と奥様がにこやかに迎えてくださった。私が当方の戸籍の祖母の欄をお見せすると、ご当主もわざわざ家系図をこしらえて用意しておられて、それが完全に一致していた。そこで、母のよもやま話を交えて話が弾み、時を忘れるほどだった。応接間の隣の仏壇の間で先祖の霊に拝ませていただき、その間の長押に掛かっていた写真の一つが、母の祖母だった。

 この地区は、終戦直後に大火に見舞われ、先祖代々の資料が全部焼失してしまったので、昔はどうだったかということは、村の古老も亡くなった現在、もはや知りようがないそうだ。そういう残念な歴史はあったものの、未だに伝統を守って、村の神事を行っているという。しかし、人口は、終戦直後には8,000人あったものが、今ではその3分の1になってしまったという。加えて、高齢化率も半分近くにまで上がってきたとのこと。そういうわけで、まだまだ話し足りない雰囲気ではあったが、おいとまする時間となった。


8.一般財団法人の宿

 この町には、一般財団法人が運営する和風旅館があり、4人でそこに泊まった。温泉があり、お湯は透明で、とろりとしている。妹たちは、「この温泉から出て来ると、お肌がすべすべになる。」と話している。夕食も、朝食も、なかなかのもので、大いに満足した。何よりも、母が出された食事のほとんどを平らげたのには、驚いた。日中の訪問では、折り畳み式の車椅子を用意したのだが、かなりの距離を歩いてくれたから、良い運動になってお腹が空いたのかもしれない。

 ともあれ、母にとっても、我々にとっても、記念すべき旅行となった。家に帰り着いてほっとしていると、母がポツリとこう言った。「次は、新婚時代を過ごした神戸に、行ってみたい。」・・・「うむむ・・・わかりました。」


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(2018年9月25日記)


カテゴリ:エッセイ | 21:22 | - | - | - |
永平寺・東尋坊への旅

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1.はじめに

 いやはや、この旅は天候に恵まれずに終わり、敢えて言えば、失敗だった。まあ、あちらこちらを旅行して回っていると、こういう時もあるだろう。

 私は、小学生の一時期、福井県に住んでいたことがある。昔の家族写真をデジタル化する過程で、昔ながらの観光地である東尋坊や永平寺の写真を見て、非常に懐かしく感じた。東尋坊は、小学校の高学年のときに家族揃って行き、栄螺の壷焼きを食べた思い出があるし、永平寺は、やはりその頃に父と二人で行って、大きな杉の木立に囲まれた僧坊で、精進料理を御馳走になった記憶がある。

 それから半世紀以上の日々が経過し、ようやく時間とお金にいささか余裕ができたことから、今回はこの二ヶ所に行こうと計画した。まずは北陸新幹線で東京から金沢に行き、そこで在来線特急に乗り換えて、芦原温泉駅に着いた。荷物を駅のロッカーに預け、さあ東尋坊行きの京福バスに乗ろうとして観光案内所に立ち寄ると、東尋坊観光船は本日は欠航だという。台風は既に北へ去ったので、もう乗れるものと思い込んでいただけに、ガッカリした。よく調べると、その日の午前9時頃に、観光船のHPのトップページに「欠航」と載っていた。調査不足である。今から思えば、この辺りからケチのつき始めだった。

 さて、どうしたものかと思っていたら、観光案内所の方に、東尋坊から丸岡城を経由して永平寺まで行ける周遊切符があると教えてもらった。丸岡城は先日行ったのでもう行く必要はないとして、それなら、いっそのこと旅行先の計画の順序を逆にし、明日の朝に行くつもりであった永平寺に先に行けば良い。そういうことで、永平寺行きの京福バスに乗車した。ほとんど乗客はいなかったが、永平寺口駅というところからたくさん乗ってきた。福井市内からここまで、「えちぜん鉄道」という電車に乗ってやってきたのだ。「あれ、これは京福電車ではなかったか? なぜ永平寺まで行かないのだろう?」と思って調べた。すると、以前の京福電気鉄道越前本線は、2000年末から翌年にかけて半年間で2度の電車どうしの事故を起こして運休し、収支が悪化した。そこで福井県は第三セクター方式でその事業を継承したが、永平寺線だけは収支の好転が見込めず、廃止されたそうだ。


2.永平寺


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 さて、バスは山道を延々と走って、やっと永平寺に到着した。コインロッカーに荷物を預けようとしたら。ここでまた小さな誤算があった。何とまあ、500円硬貨しか受け付けてくれない。実は、事前にコインロッカー用にと500円硬貨をわざわざ100円硬貨に替えておいたことが、かえって裏目に出たのである。その辺のお土産屋さんが無料で預かるという看板を出していたが、特にiPadがなくなったりすると困る。だから、先に進んで永平寺にあるだろうと期待して行ってみたのだが、着いてみると預けるところはなく、やむを得ずそのまま担いで中に入った。これは、気温32度、しかも蒸し暑い中で、相当、体力を消耗する原因ではなかったかと、後から振り返って思う。ともあれ、小1時間ほどして参拝を終えて出てきた時には、まるでサウナに入っていたように、上半身は汗でずぶ濡れだった。この日は、ペットボトルのお茶と水を、4本も飲んだ。

 曹洞宗永平寺は、開祖道元禅師によって、鎌倉時代の初期である寛永2年(1244年)に坐禅修行の道場として開かれた。道元禅師は、正治2年(1200年)、京都に生まれ、14歳で比叡山で出家して天台宗を修め、24歳で中国に渡る。そこで曹洞宗天童山如浄禅師に出会って修行し、「正法仏法」を受け継いで28歳の時に帰国した。京都深草に興聖寺を建立したが、その活動が大きくなるに連れて比叡山からの弾圧を受ける。そこで、越前国地頭の波田野義重の招きに応じて、越前国に移り、永平寺を開いたと、いただいた参拝のしおりにある。


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 禅宗の寺院では、七堂伽藍が基本で、次の建物から成る。

 (1) 法堂(ほっとう)朝のお勤め等各種法要
 (2) 仏殿(ぶつでん)本尊の釈迦牟尼をお祀り
 (3) 僧堂(そうどう)修行の根本。坐禅・食事・就寝
 (4) 庫院(く い ん)全体の維持管理と食事の用意
 (5) 山門(さんもん)両側に四天王、楼上に五百羅漢
 (6) 東司(と う す)お手洗いで作法がある
 (7) 浴室(よくしつ)身も心も清浄にするため入浴


 これらの建物は山の斜面に建てられており、渡り廊下で相互に繋がっていて、参拝者は、階段を上がったり下ったりしながら、全て見て回ることができる。ただ、この日の福井地方は気温32度の猛暑日で、湿気が非常に高い中だったから、回るのが精一杯で、各建物の意義をじっくりと味わうなどという余裕はなかった。それでも、曹洞宗の僧侶の修行の場としての、雰囲気だけは味わうことができた。夏は暑いが、厳冬期の寒さもひときわ身にこたえることだろう。とりわけ、冬に雪が降りしきる中を、托鉢姿の修行僧たちが民家を訪ねて回る姿の写真が印象に残る。

 なお、永平寺での修行僧の生活は、次のようなものだそうだ。

 (1) 坐禅(ざぜん) 早朝に行う坐禅は修行の根本で、背筋を伸ばして姿勢を正す。
 (2) 朝課(ちょうか)坐禅に引き続いて行う朝のおつとめで、全員で読経する。
 (3) 行鉢(ぎょうはつ)正式な作法に則り食事をする。
 (4) 作務(さむ)坐禅や朝課以外に行う掃除などで、廻廊の雑巾掛けは毎日行う。


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 最後に、吉祥閣で見かけた法話のような額のいくつかを掲げておこう。

 ひとの価値は、地位、財産、職業に関係ありません。知識、能力だけでひとを評価すると、過ちを招きます。知識を生かす心と行いこそ大切です。ひとの価値は、心と行いから生ずるのです。

 人生に定年はありません。老後も余生もないのです。死を迎えるその一瞬までは人生の現役です。人生の現役とは自らの人生を悔いなく生き切る人のことです。そこには「老い」や「死」への恐れはなく「尊く美しく老い」と「安らかな死」があるばかりです。

 生まれて死ぬ一度の人生をどう生きるか。それが仏法の根本問題です。長生きすることが幸せでしょうか。そうでもありません。短命で死ぬのが不幸でしょうか。そうでもありません。問題はどう生きるかなのです。

 生まれたものは死に、会ったものは別れ、持ったものは失い、作ったものはこわれます。時は矢のように去っていきます。全てが「無常」です。この世において、無常ならざるものはあるのでしょうか。

 満天の星が輝く宇宙よ! 母なる太陽を慕いつつ、今日も銀河空間を渡る美しい地球よ! 地球は青い一顆の明珠・・・一千、一万、一億、一兆年、無量百千万億阿僧祇劫∞、美しい地球よ永遠に!


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3.東尋坊


東尋坊観光船




 翌日は、再び芦原温泉駅まで行って、荷物を預け、東尋坊行きの京福バスに乗った。この日もまた気温33度を超える真夏日である。本日の観光船は、東尋坊からではなくて、その先の三国サンセットビーチから乗船ということで、それには米ヶ脇北バス停で降りなければならないという。45分ほど走り、東尋坊を過ぎて、そこに着いた。桟橋で何人かが釣りをしている小さな漁港である。そこに、漁船を改造したような船があった。一見すると小さく見えるが、定員は81名だという。チケットを買うと、船の中に入れてくれた。外は焼け付くような日光が降り注いで日差しを遮る所もないので、これはありがたかった。船の中に運転席があり、あとは座席がずらりと並んでいる。私はその船の最初の客だったので、運転席の隣の最前の席に座った。冷房が効いていて、快適である。

 ほぼ満席となり、観光船は出発した。波が荒い。防波堤の内側はまだ良かったが、外に出ると、まるで木の葉のように揺れる。左に20度くらい傾いたかと思うと、次の瞬間には右にそれくらい傾くローリングがあったかと思えば、波乗りしているようなピッチングが続く。これで波高50センチだそうだ。一昨日、北海道沖に去った台風の置き土産らしい。これでは、船に酔ってしまうと思って、近くを見ないで、なるべく遠くの景色を見るようにした。


雄島に繋がっている赤い歩道橋


沖から見た雄島




 船は、東尋坊の沖を通って一路、雄島に向かう。この島は無人で、大湊神社があって、新造船の進水のときには、必ずお祓いをしてもらうそうだ。本土とは、赤い歩道橋で繋がっている。信仰のおかげで、太古からの原生林が残っているそうだから、後から、行って見ようと思った。その雄島沖で船はいったん停まったものだから、ピッチングとローリングが激しくなった。いや、これは堪らない。カメラのファインダーを覗いていると、船酔いが進んで気持ちが悪くなる。


沖から見た東尋坊


沖から見た東尋坊




 雄島沖合いでUターンして、やっと帰るようだ。船が動き出すと、少しは船酔いが楽になる。でも、写真を撮る気が起こらない。液晶画面を見ながら適当にシャッターボタンを押すだけだ。それが精一杯で、構図の選択や露出の調整など、とてもできたものではない。船長が何やら説明してくれるが、耳に入らない。全然、覚えていないので、いただいたパンフレットに書かれているところによると、「約1キロにも及ぶ海食景観断崖に日本海の荒波が打ち砕ける東尋坊の見所は、何といっても波の浸食によって荒波が打ち寄せるさまは、実に豪快。これほど巨大な輝石安山岩の柱状節理は、日本ではここ一ヶ所しかなく、地質学的にも貴重で、国の天然記念物にも指定されています。」とのこと。


沖から見た東尋坊


沖から見た東尋坊




 そういえば、なぜ東尋坊というかというと、伝説が残っている。1300年前に開かれた名刹の平泉寺に、東尋坊と称する坊主がいて、日頃から乱暴のし放題だったが、それに加えてある姫君を巡って別の坊主と争っていた。あるとき、その恋敵がもう我慢ならずばかりに、皆で酒盛りをして、東尋坊を酔い潰した。そこで、その身体を持ち上げて、崖から突き落として殺してしまった。それ以後、その崖を東尋坊と呼ぶようになったそうだ。虎は死んで毛皮を残し、東尋坊は死んでその名が残ったというわけだ。そのせいかどうかはよく知らないが、今日でも投身自殺がしばしば見受けられる。船長によれば、ここで身を投げると、まず7割は助からないという。


沖から見た東尋坊


沖から見た東尋坊




 あれあれ、船酔いがきつくなって、船長の説明など、もはやどうでもよくなった。ハチの巣岩、夫婦岩、大池、ライオン岩、ローソク岩などというが、少しも頭に入らない。そのうち、ようやく三国サンセットビーチに帰り着き、ほっとした。用意されてあったビニール袋を使わずに済んだ。船を降りて浜辺に降り立ったが、まだ船酔いの気分だ。しばらく休めれば良かったのだが、すぐにバスが来た。東尋坊と雄島に行くつもりで乗ったが、いやもう、気持ちが悪くてそれどころではなくなった。そのまま、芦原温泉駅に着き、次の目的地である金沢方面に向かう特急に飛び乗った。うつらうつらしながら軽い眠りにつき、1時間ほど乗って目的地に着く頃には、ようやく気分が良くなった。


福井駅前広場にある動く恐竜の像




 話は飛ぶが、前日は、福井市内に泊まったのだが、福井駅前広場に、3匹の恐竜の大きな像があって、しかもそれらが唸り声をあげて動くから面白い。永平寺の先の勝山には福井県立恐竜博物館があるそうだ。私は、恐竜にはあまり関心がないので行く気にはならなかったが、興味のある子供さんには、さぞかし楽しいだろうと思う。

 私が福井市にいた半世紀以上前の頃には、現在のように恐竜が丸ごと発掘されるなどということは全然予想もされていなかった。ただ、中生代ジュラ紀から白亜紀にかけて形成された手取層群には、植物の化石が出ることだけは知られていた。私の中学の先生も、化石の専門家であった。我々生徒もその影響を受けて、金づちを持って山の谷川筋に化石の採取に出掛けたものである。私は、葉っぱの化石を見つけて、先生に鑑定してもらったことがある。そうしたある日のこと、1人で山に出掛けた私は、こぶし大の金色に光る石を見つけた。綺麗な立方体をしていて表面が滑らかで、しかもピカピカと光っている。私は、「金ではないか」と思って、胸の鼓動が早くなった。それを大事に持ち帰り、翌日、先生に「これは金ですか?」と勢い込んで見せた。すると「なーんだ。黄鉄鉱だね。『愚か者の金』というんだよ。」と言われてしまった。

 金だったらどうしようと思いながら、一晩まんじりともせずに過ごしたあの頃の愚者の自分が懐かしい。それから半世紀以上も経って、少しは賢者になったのだろうか・・・いやいや、本質的には、あまり変わっていない気がする。ともあれ、聞いて良かった。さきほどの永平寺風でいえば、こうなる。

 ひとに聞くことを恥じたり、おそれたりしてはいけません。むしろ、ひとに聞かないで、知ったかぶりをしたり、いつまでも知らないままでいることを恥じるべきです。




(2018年8月27日記)


カテゴリ:エッセイ | 10:37 | - | - | - |
ドリアン図鑑

ドリアンの外観


 私は、王様の果物といわれるドリアンを、こよなく愛する一人である。ドリアンの魅力については、この悠々人生のエッセイでも何度か取り上げている(その1その2)。ドリアンの原産地はマレー半島である。話は飛ぶが、実はバナナの原産地も同じくマレー半島で、私は種が一列に並んで入っている小さいバナナの原種を見たことがある。ただ、不味くてとても食べられたものではないそうだ。

 それと同様に、カンポン(田舎)産のドリアンには、かつては色々な種類があった。種の多様性というものだろう。ドリアンといえば、あのトゲトゲの果実を開いてみると、黄色の実が現れるのが普通である。ところが、私が一番驚いたのは、カンポン産の中に、黄色ではなくて文字通り「ピンク色」のドリアンがあったことだ。食べてみると、なかなか美味しかった。地元の人も、これは珍しいと言っていたほどだ。その他、味にしても、大きさにしても、実の色にしても、まるで日本の蜜柑や林檎のような多様性がある。問題は、果実を開いてみなければ、味の良し悪しが分からないことだ。2,000円近い高いお金を払って買ったのに、ひどく不味かったでは、がっかりする。そういうわけで、近頃はドリアンの売り手の方も工夫をして、美味しいドリアンにはブランドを付けて売るようになってきた。

 なかでもトップ・ブランドが、「猫山王(Musang King)」(1,000円/kg)で、これは掛け値なく美味しい。その代わり、普通のカンポン産のドリアンと比べると、値段は倍ぐらいになっている。その他、「D24 XO」(750円/kg)など、様々なブランドが育っている。私の現地の友人から、そうしたブランド化されたドリアンについての資料を貰ったので、私の心覚えのためにも、下に掲げておきたい。

ドリアンの実だけを取り出したもの


 ところで、現地で言われるのは、ドリアンがあまりに強烈な果物であるだけに、色々な伝説がある。それを集大成したものが、次の6つのタブーである。ただ、私は、昔の日本で言われた「食べ合わせ」(「天麩羅と西瓜は同時に食べるな」など)のようなもので、(2)のアルコール以外については、本当かどうかは、かなり疑わしいと思っている。

  (1)カフェインとともに食べないこと。
  (2)アルコールとともに食べないこと。
  (3)蟹とともに食べないこと。
  (4)コーラとともに食べないこと。
  (5)乳製品とともに食べないこと。
  (6)茄子とともに食べないこと。

 ドリアンを巡る話は尽きないが、最近は中国経済の急拡大に伴い中国がものすごい勢いで輸入するようになって、価格が高騰するようになった。だから、高級なブランド物は、あっという間に価格が2倍から3倍になって、地元では金持ちはともかく、普通の人はカンポン産のドリアンしか手が出なくなった。そういう状況を見て、ドリアンの産地のプランテーション農園にも、新規参入が相次いでいる。私がテレビで見たのは、なだらかな丘陵地帯で、いかにもかつてはパーム椰子が植えられていたようなところに、ドリアンの苗木が幾何学模様を描いて整然と植えられている情景である。しかも、個々の苗木の根元には散水装置まで設置してあって、その稼働状況をビデオで監視している。これには驚いた。これらの最新鋭の農園が本格的に生産する頃には、ドリアンの価格が再び安くなることを祈りたい。

 その反面、一部の農園で行われていると言われているのが、成長促進剤の使用である。日本の「桃栗3年、柿8年」の伝でいくと、ドリアンは、柿と同じで果実が生るまで8年かかる。しかも、果実が大きくて重いものほど高く売れる。だから収穫までの期間を短縮したり、果実を大きくしようと化学物質を使うのである。日本でも種無し葡萄の作出に使われているジベレリンではないかと思うが、消費者にとってあまり気持ちのいいものではない。








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(2018年8月21日記)


カテゴリ:エッセイ | 19:29 | - | - | - |
アート・アクアリアム

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 この夏は、まだ始まったばかりだというのに、猛烈な暑さである。7月の平均気温は平年より2.8度も高い。一時は絶対値で40度もあったほどだ。ということで、せっかくの土曜日だから、出掛けるにしても、暑くないところと考えて、日本橋の三井ホールで行われている「アート・アクアリウム 2018」に行くことにした。

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 入場すると、廊下の天井に格子があって、その一つ一つに琉金が入ってゆらゆらと動いている。背景に立体的な鏡があるので、その姿があちこちに反射して、何尾もいるように見える。江戸時代に、紀伊国屋文左衛門という目端の効いた商人が、大火で焼け野原になった江戸の町へ、木曽の木材を運んで大儲けした。大金持ちとなった文左衛門は、その屋敷の天井にギヤマンつまりガラスを張って、金魚を浮かべて悦にいったと聞いたことがある。それはこういうものだったのかと思ったのだが、この展示は、まさにその話をヒントにしたようだ。

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 会場に入ると、全体に暗くしてあって、色々な形の水槽があり、そこに当たる光の色が刻々と変わる。オレンジ色、紫色、青色、緑色、赤色、昼光色と、様々で、もちろんそれに応じてその色を反射する金魚や緋鯉の見え方も変わっていく。写真を撮る時はこれがカメラマン泣かせで、昼光色の光が当たっていないと、色がめちゃくちゃになってしまう。例えば、真っ赤な模様のはずの金魚が、何とまあ、真っ黒な模様に写ってしまうのである。そんな中で何とか写すことができたのが、別途の写真である。

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 ちなみにこの会場に入る時に確かめたところ、ビデオやフラッシュによる写真だけが禁止されていて、あとは良いという。インスタ映えを狙っているのだろう。「花魁」のイメージが元に作られた不思議な形の水槽などは、インスタグラムに写真を載せれば、確かに見栄えがする。

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 最初に、緋鯉が立派なのには驚いた。それもそのはずで、これらは緋鯉の本場である山古志村の産だという。値段を言うのも品がないかもしれないが、一匹が何百万円もしそうだ。

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 金魚は、2000年ほど前に、中国南部の鮒の一種(ヂイ)から偶然に赤い個体が生まれ、それが代々にわたって飼育され、新品種が選び抜かれて今日に至っている。日本に渡来したのは今から1500年ほど前の室町時代である。その時は、今でいう「和金」つまり流線形をした赤い小さな魚だったという。それが、今では多くの品種に分かれている。

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 「水泡眼」は、ほっぺたが膨らんで、ゆらゆらと揺れている珍しい金魚だ。「琉金」は、口が突き出た卵で尾が短めのスカートをはいているように見えるありふれた金魚だが、観ていて飽きない。「蘭鋳」は、まるで卵に飛行機の尾翼を直接くっつけたような金魚だ。よくこんな姿で泳げるものだ。

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 黒の「出目金」は、横から見るとまるで怪獣映画に出てきそうな剣呑な顔つきをしている。紫色の照明に照らされて、ますます不気味に感じる。ところが、水槽を上から覗き込むと、印象は全く変わって、よちよち歩きの幼児のように可愛い。その次のスマートな流線型で尾びれが長いのは、いわゆる「コメット」だ。欧米に渡ってからその地で作出された品種らしい。

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 琉金タイプの金魚にも、色々ある。赤白黒の色の派手な金魚は「キャリコ」である。頭に何か被り物をしているように見える金魚は「オランダ獅子頭」だ。その泳ぎ方を見ていると、実に可愛いのである。最後は、頭だけが赤くて、後は真っ白の「丹頂」である。一見して涼やかで、凛々しい。

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 私などは、こうして緋鯉や金魚の種類だけを鑑賞して十分に楽しんでいる方だが、このアート・アクアリウムは、更にまた水槽の形や照明で飾ろうとする。これを「アート」というのか、魚にとっての「迷惑」というのか、私にはよくわからない。






 アート・アクアリアム(写 真)


(2018年8月 4日記)

カテゴリ:エッセイ | 21:29 | - | - | - |
上野動物園の初夏

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 実は、7月の終わりのこの週末は、能登半島の先端の松波で行われる予定の「松波人形キリコ祭り」を見に行くつもりで、飛行機と宿を手配していた。能登半島では、7月から8月にかけての週末に、どこかの町でキリコ祭りが行われる。こちらの能登町松波の各町内から出るキリコは、「金箔を施した総漆塗り、前面には人形を飾る」ということで、他のキリコとはまた別の趣があるから、是非行きたい思ったわけである。ところが、たまたま台風12号が発生し、その進路予想によるとちょうど週末に東京から能登に抜けるということになっていた。だから、ひょっとして飛行機が飛ばないかもしれないと懸念していた。そうこうしているうちに、前々日の木曜日になって、ANAからメールが入った。要は、「天候が悪いので、日程の変更か払戻しをお勧めする」というものである。この進路予想からして、やむを得ないと思い、インターネットで解約をした。手数料は不要だった。それから、泊まる予定だった宿と、空港に来てもらう予定だったタクシー会社にキャンセルの電話をした。その上で、2〜3日間は籠城できる水と食糧があることを確認して、自宅にいた。隅田川花火大会も、土曜日は中止となった。

 そうしたところ、何のことはない。台風の進路が関東直撃の予想だったものがそれて、実際には東海道沖の海岸に沿って東から西へと進み、三重県に上陸して大阪から瀬戸内を経由して九州方面へと行ってしまった。まさか台風がこの場所から西へ進むとは、常識では考え付かない逆行現象である。唖然としてしまった。特に瀬戸内地方ではつい最近、豪雨に見舞われて大変な被害をこうむったが、またこの台風で災害を重ねなければよいがと心配する。それはともかくとして、結果的には羽田空港から能登空港へ飛べたし、松波キリコ祭りも開かれたようだから、予定通り行っていればよかったのにという気もする。まあしかし、台風に閉じ込められるというリスクを冒すこともないと、自ら納得した次第である。そういうことで、週末に行くところがなくなってしまった。そこで、昨日のしながわ水族館のウミウシに続いて本日は、パンダのシャンシャンを見に近くの上野動物園へ行くことにした。


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 パンダ舎の前には行列ができていて、40分待ちの表示があった。そこに並んでいると、天幕の一部が上げられていて、パンダの様子がチラリと見える。なかなか良い仕掛けである。そこから覗いていると、木の上に白い丸いものが見える。1歳になったばかりの赤ちゃんパンダのシャンシャンが、木の上でだらりと寝ているのだ。2メートルはありそうな木の上だから、危なくないのだろうかと思うが、平気で器用に寝入っている。そこから、更に20分ほどして、いよいよ私たちの番になり、パンダ舎に入った。最初に父親のリーリーがいる。上向きでだらしなく寝ている。次に母親のシンシンがいて、これはうつ伏せに寝ている。シャンシャンはというと、先ほどと全く同じ姿勢で、微動だにせずに寝ている。連日40度前後のうだるような暑さだから、よく寝たくなるのも、わからないわけではない。でも、なんともはや、張り合いのないパンダ見物となった。

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 せっかく来たからというので、まずタイガーを見に行った。ライオンと違って、タイガーはしょっちゅう動き回っている。この日もそうで、あっちへ行ったりこちらに来たりで忙しい。連日の40度を越すほどの猛暑で暑くてたまらないせいか、タイガーが池の水の中に入っている珍しい写真が撮れた。ライオンは、雄を撮りたかったが、雌しか見当たらなかった。こちらも、相変わらずゴロゴロとしている。

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 西ローランドゴリラの方に行った。そういえば、かつては孤高の哲学者のような風情を見せていた「ムサシ」は、もう亡くなっている。その代わり、雄として、「ハオコ」がいる。シルバーバックだから、今が男盛りなのだろう。目つきを見ると、まあ普通なので、よいお父さんなのだろうと思う。大人の雌として、「モモコ」がいる。いたずらっぽいような目つきをしているこのゴリラが、そうかもしれない。まだ子供のゴリラで、雄の「リキ」がいるはずだ。頬杖をついているこの子がそうだろうと思う。

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 バードハウスに入ると、「ルリゴシボタンインコ」というオレンジと黄緑のスズメ大の可愛い鳥がいた。愛らしく動作も機敏なので、見ていて飽きがこない。「カンムリエボシトリ」という鳥は、すっきりした感じで、なかなか品が良い。

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 シロクマ館に入って、北極から来た白熊くんを撮ろうとした。まず空中に出ている顔を写そうとしたが、ガラスが曇っていて、うまく撮れない。そこで、水中の白熊を撮るしかなかったが、潜るのに夢中でなかなかこちらを向いてくれない。それでも、水中ではとても身軽に動いていると思った。そうでないと、アザラシ猟などできないからだ。本来の生息地である北極では、温暖化のために氷面が縮小して海面が広がりつつある。そうすると北極熊は狩りができないらしい。だから絶滅が心配されている。

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 そこを出て、蓮池の方に行き、今が盛りの蓮の花を撮り、ペンギン、フラミンゴ、ハシビロコウを見て帰って来た。ハシビロコウは、相変わらずじーっと立っていて、その顔を見るとユーモラスで面白い。上野公園に一時、パンダがいなかったとき、パンダに代わる人気者だったそうだ。




 上野動物園の初夏(写 真)


(2018年7月29日記)

カテゴリ:エッセイ | 20:01 | - | - | - |
しながわ水族館の海牛

アオウミウシ


 先々週は西日本で大変な災害に見舞われたと思ったら、先週は連日摂氏40度になろうとする猛暑が続いた。そうしたところ、今度は関東圏から中部圏そして近畿圏にまたがって台風が直撃した。異常気象も、ここに極まれりというわけだ。そういう中、涼しくて大雨にも大丈夫な「しながわ水族館」に行ってきた。前回は2010年に行ったから、8年ぶりとなる。

 実は今回は、「ウミウシ」特別展が開催されている。これが、行ってみようと思った動機である。ウミウシ(海牛)というのは、「後鰓類」という巻き貝の一種であるが、元々持っていた貝殻が縮小していたり、体内に埋没していたり、甚だしいのは消失していたりする種だ。そうすると外敵に対して防護手段がないのではないかと思うのだけれど、どういうわけか、鮮やかな色合や模様を呈しているものが多い。そのため、シンデレラとか、ハナオトメなどという派手派手しい名前がつけられている。色鮮やかだから、被写体としては最適だ。私は、アオウミウシが気に入って、しばらく眺めてから、写真を撮ろうとした。


アオウミウシ


 ところが、なかなか撮れない。まずは大方のウミウシが余りにも小さくて、数cm以下だ。しかも、それが水槽の中にいるものだから、ただでさえ撮りにくい。次に、水面近くを這い回っていたり、隅っこにいるものだから、これまた撮りにくいのである。うっかりしてマクロレンズを持っていなかったこともあり、四苦八苦しながらどうにか何枚かを物にした。

ハナオトメウミウシ


テヒダイボメウミウシ


 それにしても、妙な動物である。ピンク色、白と黒のブチ模様、白い身体にオレンジ色の玉模様、青と黄色の縞模様など、まさに色々だ。でも、どれにも共通なのは頭の上に2本の角、お尻のところに尻尾みたいなものが付いている。ノロノロと動いている。まるでナメクジそのものだ。なぜ襲われないのだろうと調べてみたら、まず全然美味しくないらしいし、それだけでなく、中には有毒なものを食べてその毒を蓄積しているものもいるらしい。フグのような生き残り戦略である。

クリオネ


クリオネ


 同じく貝殻の退化した後鰓類で、北方の海中で天使の翼のようなヒレで遊泳するのが、クリオネ(ハダカカメガイ)である。「裸殻翼足類」というそうだ。これも展示してあって、体が半透明でオレンジ色の頭や内臓が見えるが、頭に角のような2本の可愛い突起があり、小さな三角形の翼を広げたり閉じたりして美しく優雅に泳いでいる。背景を青くしてあるから、泳ぐ姿がはっきりと見える。つくづく眺めていると、本当に不思議な生き物だ。いつぞやのテレビ番組で見たが、エサを獲るときは、この頭が割れて6本の突起が出、それで押さえ込んで力づくで捉える。まるで天使が一瞬にして悪魔になったように感じたものである。何でも、見かけで判断してはいけないということだろう。

グレートバリアーリーフ


ナポレオン・フィッシュ


 ところで、この品川水族館の売りのひとつは、イルカ・アシカのショーなのだが、1週間ほど前にバンドウ・イルカのチィナが出産したので、この日は中止となった。もうひとつは、トンネル水槽で、アオウミガメが非常に印象的だった。こちらは、以前とあまり変わりがない。ともかく、繁殖に成功しておめでたいことである。そのほか、グレートバリアーリーフの熱帯の海は相変わらずきらびやかなお魚が泳いでいたし、ナポレオン・フィッシュは堂々としていた。ニモとして有名になったカクレクマノミは、実に可愛い。オオカミウオは、よく見ると、結構トボけた顔をしていて面白い。クラゲは、いくつか展示してあったが、どれも小型であまり印象に残らなかった。近く、クラゲ専門の鶴岡市立加茂水族館から援軍が来るてくれるそうだ。そういう交流で、切磋琢磨してくれれば良いと思う。

カクレクマノミ


オオカミウオ


クラゲ








 しながわ水族館(写 真)


(2018年7月28日記)

カテゴリ:エッセイ | 19:09 | - | - | - |
浜松への旅

浜松城


 私は、東海道新幹線に乗って通過するたびに気になっていたのが、浜松駅前にある特徴的な高層ビルである。一見して200mを超えるレンガ色のハーモニカのような形のビルで、同じ静岡県でも県庁所在地である静岡駅には、こんなに高い建物はない。これは、いったい何だろうと思っていたからである。ところがこのほど、機会があって、浜松を訪れることができた。いつものように、あまり時間がない忙しい旅なので、楽器博物館、浜松城、ジオラマパーク、そしてこの高層ビル(アクトシティ浜松)を見てきた。このほか時間があれば、井伊家の菩提寺である龍潭寺と、地元の自動車メーカーであるスズキ歴史館にも行きたかったのだが、それぞれ、車で片道45分もかかるとか、事前の予約が必要とか言われて断念した。

楽器博物館


 まずは、楽器博物館に行った。イヤホンを貸してくれて、その楽器の前に行って掲示してある番号を押すと、音楽や解説が聞こえてくるという仕組みだ。解説はもちろん有り難いが、それ以上に、目の前の楽器からはこんな音が聞こえてくるのかと納得できるのがよい。だいたいが見かけ通りの音だったが、中にはその武骨な外観とは想像ができないほどに繊細な音が聞こえてきて、面白い。係りの人には、全部を聴いて回ると、2時間かかると言われた。

楽器博物館 アジアや中近東の民族楽器


楽器博物館 バリ島のガムラン


楽器博物館 タイの楽器


 1階には、アジアや中近東の民族楽器が展示してある。入り口から入って正面にあるのは、ジャワとバリ島のガムラン音楽の楽器である。打楽器だが、お鍋そのもの並んでいるような楽器もある。また、私が先年バリ島に行ったときに観た「バロン劇」に出てくる善の神バロンのようなものまであった。まさかこれは楽器ではないだろう・・・日本で言えば、お獅子のようなものである。そうかと思えば、近くに仏像と象が表に彫られた不思議な楽器があった。これはタイのものかと思ったら、やはりそうだった。更に先へと進む。おやこれは、古代中国の曾侯乙墓から出てきた「編鐘」のレプリカだ。昔、東京国立博物館で開催された特別展「曾侯乙墓」で見たことがある。大中小の数多くの青銅製の鐘が、青銅の支えがある3段の木枠に並べられた楽器だ。このように、どうも私は、音楽や楽器よりもむしろ民族文化に、ついつい興味が向いてしまう。

楽器博物館 編鐘


楽器博物館 楽器の東西伝播ルート


 地下1階に降りると、まずは中南米やアフリカの楽器が置いてある。弦楽器の伝播の地図がある。中近東のペルシャで生まれた「バルバット(?)」が、西へ渡って西アジアの「ウード」になり更に西の欧州の「リード」になった。そのバルバットは、東へ渡って中国の「ビバ」に、それが日本に伝来して「琵琶」になったそうな。平家物語の引き語る琵琶も、シルクロードの伝来物だったとは知らなかった。 それから、アフリカの楽器もある。これらは、音色はともかく太鼓を叩く姿などその素朴な生活を表す造形が面白い。また、木琴のような打楽器の下を覗くと、色々な大きさの瓢箪が付けられていて、共鳴器のように使っていた。

楽器博物館 アフリカ


楽器博物館 アフリカ


楽器博物館 エチオピア


 地下1階の奥の部分には、とりわけピアノの歴史がよくわかるようになっていて、その原型のチェンバロから、これに音の強弱を付けられるようにしたピアノの先祖に当たる「クラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ」に始まり、現代のピアノに至るまで技術的改良が加えられてきた経緯が良く分かる。感心したのは、アクション(鍵を押し下げるとハンマーが連動して弦を叩く仕組み)の改良の歴史で、アップライト型ピアノの時代とグランド型ピアノの時代への移行と、アクションがウイーン式、フランス式、最後にイギリス式へ進化していく過程を、実際にその模型で知ることができる。音を出してみて、よくわかった。

楽器博物館 ピアノの原型


 こうしてピアノはもちろん、そのほか管楽器も含めて、どうしてこれほどまでに体系的に揃っているのかと思ったら、同博物館のHPによると、「楽器収集家であったアメリカ人、ロバート・ローゼンバウム氏のコレクションが中心で、18〜19世紀の管楽器がそろっています。T.スティンズビーSr.作のイギリスのオーボエや,プロイセン王国フリードリヒ大王ゆかりのフライヤー作クヴァンツ型フルート、フランス ブルボン王朝の王室御用達楽器製作家F.E.ブランシェ2世作のチェンバロなど,世界的名器も含まれています。ウィーンのワルターやシュトライヒャー、ロンドンのブロードウッドなど名工の手による19世紀のピアノ(フォルテピアノ)は圧巻です。A.サックス自身の作のサクソフォーン、19世紀イギリス製のミンストレル・バンジョーも世界的に貴重なコレクションです」とのこと。なるほどと納得した。

浜松城天守閣


 次に浜松城に向かう。当時の遺構は野面積みの石垣だけで、天守閣そのものは戦後のコンクリート造りであるから文化財としての価値はない。しかし、なんと言っても徳川家康の根拠地であったし、その後に江戸幕府が成立してからも、藩政300年の間に歴代浜松城主が25代もころころと代わったが、水野忠邦などその多くが幕府の重役に出世した。老中に5人、大阪城代と京都所司代に各2人、寺社奉行に4人という具合で、「はま松は 出世城なり 初松魚」(松島十湖)と詠まれたという面白いお城である。

浜松城天守門


 浜松城の天守門を140年ぶりに復元し、加えて今年は天守閣の再建60周年記念だそうだ。天守閣そのものは3層構造で、他の城の天守閣を見慣れた目には、非常に小さく見えるが、登ってみると、見晴らしは非常に良い。ただ、最上階の周囲を金網で覆っているために、写真が撮れないのは、誠に残念である。手を伸ばして金網の上から数枚を撮ったが、疲れる。管理者の方で、金網のところどころに、写真用の穴を開けてくれればと思った次第である。

家康が三方ヶ原の合戦直後に絵師に描かせたという自らの憔悴した姿


 かねてより観てみたいと思っていたのが、家康が三方ヶ原の合戦直後に絵師に描かせたという自らの憔悴した姿である(本物は、たしか徳川美術館にあった)。言い伝えによると、家康はこれを見て常に自分を戒めたという。なるほど、油断したり奢ることなく、いつも自省しつつ慎重に行動するというのは、いかにも家康らしい。ところで、その脇にあった「徳川家康公400年記念事業として制作された30歳前後の等身大家康像。 『手相・しわ・毛穴』まで再現され、今までにない家康公の姿を披露しています。」には、そのあまりの迫真さにビックリした。

徳川家康公400年記念事業として制作された30歳前後の等身大家康像


 三方ヶ原の合戦(元亀3年:1572年)は、家康の生涯で最大の敗戦で、南下して通過しようとする武田信玄の騎馬軍団2万7千に対し、家康が1万2千(8千という説もある)で挑んで一蹴された戦である。この戦いについては、次のような色々な伝承がある。曰く、

 (1) 「小豆餅」「銭取」という地名の由来である。家康が三方ヶ原で敗戦の直後に逃げてきたところ、ある茶店に小豆餅を売っていた。それを口にしていたところ、武田氏の軍が追いかけてきた。そこで家康は、代金を払わないまま逃げ出した。茶店番の老婆はこれを数キロも追いかけて、遂に支払ってもらったという。その茶店があったところが「小豆餅」(あずきもち)と、代金を払ってもらったところが「銭取」(ぜにとり)というらしい。いずれも現存している。

 (2) 「白尾」というのは、三方ヶ原の敗戦で、白い尾の馬に乗って辛くも逃げてきた家康が、八幡神社の楠木の洞穴に逃げ込んだ。ところが白い尾が出ているので、村人がそれを指摘したことから、難を逃れた。家康は恩賞としてその村人に「白尾」(しらお)という苗字を与えた。

 (3) 「小粥」というのは、三方ヶ原の敗戦で逃げている途中の家康が空腹になり、とある農家に逃げ込んだ。ところが食べるものといえば、粥しかない。それを何杯も食べた家康は、お礼として後に「小粥」(おがゆ)という苗字を与えたという。

いずれも話としては面白いが、どれも出来過ぎていて、眉唾物である。


浜松ジオラマファクトリー スターウォーズ


浜松ジオラマファクトリー スターウォーズ


浜松ジオラマファクトリー 「天空の城ラピュタ」に出てくるロボット


 さて、そこから少し歩いて、ザザシティという建物の中にある「浜松ジオラマファクトリー」というところに行った。こちらは、山田卓司さんという地元のジオラマ作家の作品を常時展示しているところで、駄菓子屋さんの一画を借りている風である。スターウォーズやゴジラなどの日本の怪獣もの、スタジオジブリの「天空の城ラピュタ」に出てくるロボットなどがある。それに、郷愁をそそる「昭和シリーズ」(主に昭和30年代が描かれている。)、例えば、扇風機の前で気持ちよく寝入っている男の子、アイロンがけのお母さん、セミ採りの男の子などがある。そしてこれは一般からの応募作品らしいが、農家の嫁入りや卒業を描いた作品もあった。

浜松ジオラマファクトリー 扇風機の前で気持ちよく寝入っている男の子


浜松ジオラマファクトリー アイロンがけのお母さん


浜松ジオラマファクトリー セミ採りの男の子


 最後に、高層ビル(アクトシティ浜松)に行ってみた。そのHPによると、「大・中ホールやコングレスセンターなどを持つAゾーン、オフィスやホテル、専門店街のあるアクトタワーのBゾーン、展示イベントホールのCゾーン、楽器博物館・研修交流センターのあるDゾーンの4つのゾーンに分かれており、Bゾーンは民間が管理する民間施設、その他は浜松市から管理委託を受けて公益財団法人浜松市文化振興財団が管理する市施設となっております。アクトシティの象徴でもあるアクトタワーは、地上 45階、高さ212.77mの超高層ビル。 低層部にはガレリアモールとショッピング街・レストラン街で構成される『アクトプラザ』、中層部はオフィス、高層部には『オークラアクトシティホテル浜松』があり、人と環境の融和への配慮が随所に生かされた魅力的な都市空間となっております。
 浜松市の施設は、日本初の4面舞台を持ち、本格的なオペラや歌舞伎も上演できる大ホール、フランス・コワラン社のパイプオルガンを備えた音響の優れた中ホール、国際コンベンション等多用な利用が可能なコングレスセンター・研修交流センターの会議室、広さ3500平米を有し展示会や様々なイベントを開催できる展示イベントホールの貸出施設と、公立では全国で初めての楽器専門の博物館である『楽器博物館』、そして音楽の人材育成を図る『アクトシティ音楽院』から構成されております。」
という。

 何のことはない。最初に行った楽器博物館は、アクトシティ浜松の一部だったのだ。交差点のはす向かいにあるから、分からなかった。それはともかく、ハーモニカに当たるアクトタワーの最上階には展望台があるというので行ってみたが、残念ながらこの日は雨模様の曇りで非常に視界が悪い。ちょうど夕食時だから、30階のレストラン、パガニーニに行き、そこで食事をした。ちょっとしたコースがあって、なかなか美味しく食べられた。ビルの谷間に、先程、訪れた浜松城が見えた。


レストラン、パガニーニのコースの一部


レストラン、パガニーニのコースの一部



 ところで、このアクトシティ浜松について調べてみると、バブル経済の最後の1991年に着工されて1994年に完成した。市有の大中ホール、コングレスセンター、博物館、研修センターと、私有の複合商業ビル(アクトタワー)から成る。アクトタワーは高さが212m、45階である。静岡市で最も高いビルが葵タワーの125m、25階であるから、これを超えて静岡県で最も高いビルとなっている。静岡市への対抗意識からか、それにしても浜松市は頑張ったものだ。当初の事業主体は、浜松市と第一生命、三菱地所である。現在の運営主体は、市有施設は浜松市文化振興財団、私有施設はオリックス傘下の子会社である。市有施設は、音楽コンクールやサーカスの公演などの文化施設の運営がうまくいっているそうで、税金による赤字補てんはないようだ。私有施設については、いったんはバブル崩壊によって不良債権化しかけたことから、当初の施主の第一生命がオリックスの子会社に売却したようだ。しかしその後、浜松市が政令指定都市となったことなどから稼働率は回復し、今では入居率が95%と、過去最高を記録しているという。結構なことである。また、アクトタワーにあるホテルオークラ浜松は、当初はホテルオークラの直営であったが、2004年にオークラの名前を残しながらオリックスの運営になっているとのこと。ただ、レストランは、桃花林、さざんか、山里など、ホテルオークラ東京と同じ名前のため、私には馴染みがあるものの、運営主体が違っているとまでは思わなかった。レストラン・パガニーニの料理とサービスは、なかなか良かった。






 浜松への旅(写 真)




(2018年7月 7日記)

カテゴリ:エッセイ | 22:10 | - | - | - |
毛呂山の花蓮と睡蓮

毛呂山の花蓮


 私の家の近くには不忍池があり、毎年7月には、それはそれは見事な「蓮(はす)」の花が咲く。説明によると数種あるらしいが、一番多いし目立つのがいわゆる「古代蓮」である。この蓮は、東京大学農学部の大賀一郎博士によって、弥生の遺跡から「実」が発掘されて2000年ぶりに花を咲かせたということで、非常に有名になった。それは、鮮やかなピンク色をした、いかにも蓮らしい蓮である。清楚で清潔でありながら艶やかで、じーっと見つめていると、まるでその中に吸い込まれるような魅力的な色をしている。しかも、咲き始めて僅か4日で儚く散ってしまう運命にある。私はこの大賀蓮が大好きで、毎年のように朝早く起きて不忍池に撮りに行っている。

毛呂山の花蓮


 ところが、人間というのは贅沢なもので、たまには大賀蓮以外の蓮の花を撮ってみたくなった。白い蓮の花も良いし、できれば花弁の先がほんのりピンク色をしている蓮の花も撮りたい・・・先日、静岡のとあるお寺さんで見かけた蓮の花だ。そういう場所はないかと思って探してみたら、埼玉県毛呂山町で育てているという。それが意外なことに、少子化で使われなくなった町営の「流れるプール」で栽培されているそうだ。行田市から古代蓮など20種類以上の蓮の花をいただいて、苦心惨憺の末にようやく定着させることができた由。

 これは行かなくてはと思って、朝早く5時過ぎに起きて出掛けることにした。蓮の花は、夜明け頃に咲いて、お昼頃になると、もうそのほとんどが花を閉じてしまうからだ。文京区の私の家を発ったのが朝の6時半前、池袋から東武東上線で川越駅からJRに乗換え高麗川駅(こまがわ)に降り立った。そこからバスで直行できるはずだったが、どういうわけか終点の埼玉医大に来てしまった。仕方がないので、そこからタクシーで毛呂山総合公園に行った。着いたのは8時半だから、家を出て2時間もかかってしまったことになる。


毛呂山の花蓮


毛呂山の花蓮


 現地でいただいたパンフレットは、なかなか詩心(うたごころ)のある方が作ったとみえて、随所にその片鱗がうかがえる。まず、その題名が良い。「悠久のしらべ 花蓮の光明」とある。そして、次のように続く。

毛呂山の花蓮


毛呂山の花蓮


「悠 − 古代より命を繋ぐ蓮、美しさと生命力の強さをあわせ持つ
  根からも種からも繁殖する強さで泥のなかで根を張り巡らせる
  葉の上の露は宝石のようにキラキラと輝き
  天に向かって伸びた花は、命の輝きを水面に映す」


 確かに、 仏教では蓮は昔から西方浄土に咲く花として珍重されてきたし、泥の中でもこんなに美しく咲くことができるのだから、人間も見習うべきだなどというお坊さんの説教の題材にもなっていた。


毛呂山の花蓮


「清 − 泥に染まらず凛として、それでいて儚く、切ない・・・
  わずか3日の儚い命・・・4日目に散りゆくその姿は、悟ったように潔い
  大きく膨らんだその蕾は、ためらうように恥じらうように花開き、艶やかで気品ある姿で魅了する」


 いやまあ、確かにそういう感じなのだが、「ためらうように恥じらうように」とか、「艶やかで気品ある」とかというのは、若い女性をイメージしてのことのようで、私にはとてもとても思い付かない表現である。


毛呂山の花蓮


「慈 − 蓮は永遠の愛とやすらぎのシンボル、すべてに行き渡る広大無辺の愛
  誰にも優しく、心安らげる場所 − そんな公園でありたいと願う
  蓮が花開く以上のやりがいがここにある。」


 この公園を作って世話していただいている皆さんの合言葉のようなものであろう。ここに至るまでには、相当なご苦労があったようである。「毛呂山町の花蓮育成は、行田市より古代蓮の根を株分けしていただいたところから始まりました。はじめは、プール跡地での育成に四苦八苦しましたが、福田夫妻のたゆみないご尽力と多大なるご協力の下、大輪の花を拝むことができました。」という。


毛呂山の花蓮


「祈 − 夏の夕べ、竹灯籠が幻想的な世界を作り出す
  蓮の花は泥から出てきたとは思えない清らかな花を咲かせます。たとえ汚濁と混沌に満ちた世の中であっても、清らかに生きることの大切さを私たちに教えてくれているかのようです
  また、蓮はその美しい花ばかり注目されますが、美しい花が咲くのも、根がしっかりと育っているからこそです。泥中の 根は、見えないところで広く深く成長しますが、肥料を与え過ぎると根腐れを起こします。
  根本の手入れを怠ることなく、基礎をしっかりと築くことでようやく美しい花を咲かせることができるのです。何もものをいわない蓮ですが、香ばしい花を咲かせるたび、人の生き方、あり方について示唆しているかのようです。」


 今年の7月7日七夕の夕刻に、「花蓮 光明まつり」がここで行われるそうだ。蓮や睡蓮の中に、竹灯籠に火が灯され、その暖かい光が水に反射して、さぞかし美しいことだろうと思う。


毛呂山の花蓮


「憩 − どこまでも青く澄んだ空、緑深い山々、癒しの空間で自然を奏でる」

 確かに、この毛呂山総合公園のかつての流れるプールは、かなり山深いところにあるから、そういう風に表現できるのは間違いないが、「癒しの空間で自然を奏でる」どころか、たまたま行ったのは32度を越す猛暑日だったので、日射病になりそうだった。


毛呂山の花蓮


 蓮の花の中心にある、まるでシャワーヘッドのようなものは「花托」である。花が咲き終わって花びらが全て落ちると、これだけが残り、やがて成熟してたくさんの実を付ける。そこに、蜻蛉が留まっていた。小さい頃は、近くの神社の池で、よく追いかけたものだ。とても懐かしい。しばし、写真を撮ってその場に留まったが、かなり長い間、蜻蛉は微動だにしなかった。今や、蜻蛉を獲ろうという子供がいなくなったということか。

毛呂山の睡蓮


毛呂山の睡蓮


 ところで、蓮の花ばかりが注目されているが、同時に植えられている睡蓮(すいれん)の花も、なかなかのものだった。睡蓮の花は、新宿御苑夢の島熱帯植物館神代植物園のそれぞれの温室や明治神宮で見たことがある。しかし、こうして屋外で咲いているのを見たのは、ほとんどない。先日、明治神宮の花菖蒲を見に行った時に、たまたま黄色い睡蓮を目にしたくらいである。ここ毛呂山に植えられている睡蓮は、種類が多くて、花の色だけでも、赤色、ワインレッド、黄色、紫色など、様々なものがあった。赤色と黄色が半々のキメラのような睡蓮があったのには、驚いた。

毛呂山の睡蓮


毛呂山の睡蓮


 こうして、蓮も睡蓮も見終わって満足して帰ろうとしたところ、たまたま凌霄花(のうぜんかずら)のオレンジ色の花が目に入った。初夏にふさわしい元気な花で、見ていると力が湧いてくるようだ。

毛呂山の凌霄花









 毛呂山の花蓮と睡蓮( 写 真 )






(2018年7月 2日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:04 | - | - | - |
鉄道模型と横浜港

原鉄道模型博物館


 横浜の原鉄道模型博物館に行ってきた。6年前の平成24年7月10日に開館したもので、その頃に行った家内によれば、その当時は大変な混みようだったそうだ。私も小さい頃から模型が大好きだったから、そのうち行きたいとは思っていたものの、写真撮影は禁止されていると聞いて、行くのはやめていた。博物館の名前からして、これは「模鉄」(鉄道模型を造るのが好きな鉄道ファン)が主体のところで、「撮り鉄」(鉄道写真を撮るのが好きな鉄道ファン)は、眼中にないのだと早合点したからだ。

原鉄道模型博物館


 ところが、今回はたまたま田舎から出て来た人がいて、東京と横浜を案内することになった。聞いてみたら鉄道模型が好きだという。それではということで、初めてこの博物館へ行ってみた。すると、もうあまり観客がいなくなったせいか、それとも「撮り鉄」からの要望があったせいか、その経緯は知らないが、何とまあ撮影が解禁されていた。それどころか「ここが撮影ポイント」という表示すらあって、至るところに「撮り鉄」の心をくすぐる配慮がされていた。いやしくも鉄道ファンであるなら、こうでなくてはいけない。(既に、平成25年11月1日には、解禁されていたようだ。)

原鉄道模型博物館


 この博物館は、原 信太郎(1919年から2014年)という稀代の鉄道ファンによって作成、撮影、蒐集された鉄道模型(約6000両)、鉄道写真(約10万枚)・フィルムとビデオ(約440時間)、一番切符その他鉄道資料を展示するために設立された。そもそも、この原さんという人は、知れば知るほど、まるで規格外のスケールの人物である。

原鉄道模型博物館


 博物館の展示とHPによれば、「幼児の頃から、いかにグズっていても、鉄道の音を聞けばピタリと泣き止む。海外の鉄道について知りたくて、小学生の時から英語を学び、中学・高校でドイツ語、フランス語、スペイン語、イタリア語を習得。大学入学前にはロシア語も習得した。」。ううむ、この語学能力だけを見ても、並みの天才ではない。「小学6年生から本格的な模型製作を始める。・・・鉄道技術を学ぶために東京工業大学工学部機械工学科に入学。第二次大戦後、コクヨ株式会社で開発技術担当。在職中、世界初の立体自動倉庫やオフィス家具自動一貫製造ラインなどを開発し、300以上の技術特許を個人で出願・維持。」とある。鉄道模型以外でも天才的技術者だったというわけだ。加えて、「戦後は海外に積極的に渡航し、各国の鉄道車両を模型化。所蔵模型数約6000両。これまで訪れた国、延べ約380ヶ国。」いやはや、これは凄いとしか、言いようがない。こういう人がいたということを知っただけでも、本日はこの博物館に来た甲斐があったというものだ。

原鉄道模型博物館


原鉄道模型博物館


原鉄道模型博物館


 普通、何かの蒐集家といえば、乏しい資産の一切をありとあらゆるものを集めるのに使って、残ったものはガラクタばかりというのが通り相場である。ところが原信太郎の場合は、語学の天才かつ成功した技術者でありながら、非常に完成度の高い模型を数多く残した。HPに曰く「原信太郎の模型は、通常の模型と異なり、鉄のレールと鉄の車輪を用い、架線から電気を集める。また、揺れ枕やスパーギア、コアレスモーターなどを用いて惰力走行を実現したが、それぞれ、本物の鉄道の技術を深く理解して成立したもの」だという。ジオラマ展示室に入ると、本物の鉄道と同じく、「ゴォー、ガタンゴトン」という音に包まれるから、つい嬉しくなる。これは「本物の鉄道車両を忠実に再現していることです。模型は架線から電気をとり、鉄のレールを鉄の車輪で走行します。なかでもご注目いただきたいのはその"走行音"。レールのつなぎ目の音がゴトンゴトンと鳴り、本物と同じサウンドを聞くことができます。ギア、板バネ、ベアリング、揺れ枕、ブレーキ・・・外からは見えませんが、本物の鉄道で使われている技術を搭載することにより実現した」ものだそうだ。

原鉄道模型博物館


原鉄道模型博物館


 また、ジオラマ展示室は、照明が変えられる。これで走っている鉄道車両は、昼間の走行、夕方の暮れなずむ頃の走行、そして夜行列車の雰囲気が味わえる。ジオラマは、街並み、大きな駅、鉄橋、山岳地帯などと、変化に富んでいる。その大半はヨーロッパのようである。ただ、街の広場のようなところで、ヨーロッパ人の人形に混じって、日本の漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の主人公の警官「両津勘吉」らしき人形があるのには、笑ってしまった。ガタンゴトンと走る世界各国の車両に混じって、空中に黄色いゴンドラが浮かんで動いている。ちょっとした遊び心が散見される博物館だ。

原鉄道模型博物館


原鉄道模型博物館


 隣の部屋には、また趣きが変わって、横浜みなとみらい21地区のジオラマがある。もちろん、鉄道模型であるから高架の鉄路があって、電車が走っている。秀逸なのは、左手の高層ビル横浜ランドマーク・タワー、中央の観覧車、右手のヨットの帆のようなヨコハマ グランド インターコンチネンタル ホテルが描かれていて、昼間、夕方、夜間とそれらの照明が変わることだ。特に夜間は、ネオンが輝いて、本物に負けないほど美しい。また、昼間も、どこからともなく現れた海鳥が乱舞する。実に、良くできていると感心した。

海上保安庁巡視船


横浜中華街の関帝廟


シーバスから見た横浜みなとみらい21地区


 横浜駅東口ベイクォーターから、シーバスで元町公園に行き、横浜中華街を歩いて、そこでランチをいただいた。次いで再びシーバスで途中まで戻って、赤レンガ倉庫に着いた。すると、北朝鮮の工作船を展示している「海上保安資料館横浜館」別名「工作船資料館」があった。平成13年12月に奄美沖で発生したスパイ船領海侵入事件の主役で、いったん自沈した船を海から引き上げたものである。私は、平成15年に東京お台場にある「船の科学館」で、これを見たことがあるが、それ以来である。その感想はそれを記したエッセイに譲るが、今回は海上保安庁自身の展示とあって、工作船を追い詰めたときに受けた銃撃の模様や、ロケット弾攻撃の様子がビデオの資料として展示されており、より生々しくなっていた。現在の北朝鮮問題を考える上で、是非とも見ておくべき展示物だといえよう。

赤レンガ倉庫


海上保安資料館横浜館


海上保安資料館横浜館


 赤レンガ倉庫を見物して少し早目の夕食を食べ、それから夜景を見るために、大桟橋の方へと行った。ここは、海に突き出ていて、しかも3階ほどの高さがあるから、みなとみらい21地区の夜景を見るには、最適の場所だ。やがて夕闇が迫り、いい感じになってきた。先程の原鉄道模型博物館のジオラマより、もちろん本物の方が見応えがある。左手から右手へとライトの付いた建物などが連なり、横浜ランドマーク・タワー、横浜コスモワールドの大観覧車、クイーンズ伊勢丹の三連のビル、ヨットの帆のようなヨコハマ グランド インターコンチネンタル ホテルである。中でも、大観覧車のカラフルな色が、暗くなった空に映え、何よりも美しかった。

横浜みなとみらい21地区の本物の夜景


横浜みなとみらい21地区の本物の夜景








 鉄道模型と横浜港(写 真)





(2018年6月17日記)


カテゴリ:エッセイ | 21:08 | - | - | - |
雨の日光東照宮

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 日光東照宮には、遥か昔の半世紀ほど前と、最近では2009年に訪れたことがある。東京の自宅から2時間半以上かかるので、いかに世界遺産とはいえ、そう気楽に何度も行く気がしないところである。ところが、平成25年から31年3月にかけて行われる平成の大修理があと1年弱と終わりに近づき、特に三猿や国宝の眠り猫が見違えるように美しくなったという。加えて、田舎から出てきた人がたまたまいたので、一緒に見に行くことにした。しかし、残念なことが二つあった。

 一つは、訪れた当日の天候が悪かったことだ。6月の梅雨の季節らしい小雨で、その雨粒が画面に写り込んでしまうから、建物の写真を撮るには最悪の天候だった。しかも6月の半ばにしては、異常に寒い日であった。朝の気温は12度で、昼になっても15度にしか上がらない。私は、前日にアプリで天気予報を調べて、冬の下着にダウンのジャケットまで用意して行ったから、まだ何とか凌ぐことができた。でも、例えば同じバスに乗っていた70歳前後の屈強なおじさんは、半袖シャツ1枚という着た切り雀の姿で、着いた途端に「寒い。寒い。」を連発して、可哀想になったほどである。

 もう一つ、がっかりしたことは、輪王寺にしても、東照宮にしても、世界遺産の建物やご本尊の由来や歴史的意義のようなインテリ向けの説明が一切なく、説明パンフレットもなかったことだ。それに代わって、つまらないと言っては語弊があるかもしれないが、やれ鬼門除けだの、干支の数珠だの、御守りだのを、「これは御利益があります」
などと言って、売り付けようとするのである。しかもその説明が、「通常ならこの御守りは、毎年、神社に返納してお焚き上げをしてもらう必要があるけれども、これは御利益あらたかなので3年に1回でよい。」とか、大きくて丸い形だが上下が尖っている平板を示して「これは、家庭の鬼門を抑え、ご家族一人ひとりに巡りくる悪い運勢を良い運勢に 転じる鬼門除けです。はがきが同封されているので、これにお名前、住所、ご家族の名前を全て書いて送っていただければ、御守りの効果はその全員に及びます。」などと言う。ちょっと見たところでは、そのはがきには個人情報保護シールが添付されていないようだったので、どうなっているのかと思った。ともあれ、商売熱心が過ぎて、いささかげんなりとする。

 それよりも、外国人観光客の数が激増したのには驚いた。しかも、欧米人、中国人、東南アジア人と、満遍なく全世界中から来ている。ところが、そういう外国人観光客への配慮が足りないのである。特に英語の案内すらあまり見当たらない。この数年来、参拝客筋が従来の農村部の信心深い老人層から、外国人観光客へと劇的な変化を遂げているのだから、十年一日のごとく御守りやご祈祷などに拘泥せず、外国人観光客への対応をもっと考えればよいと思うのだが、いかがであろうか。

 

 

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 それはともかくとして、小雨が降る寒い中を歩いて見てきた順に書いておきたい。まずは、神橋から右手に折れて、緩い上り坂を登っていく右手に、日光山輪王寺の本堂(三仏堂)がある。入ったところの左手にある大きな建物なのだが、今は修理用の足場に囲まれて、建物本体の外観を全く見ることができない。その代わり、本物と同じサイズの絵が足場を覆うシートに描かれているから、笑えてくる。修理期間は10年で、今年で既に9年が経ち、もう内部はほぼ仕上がっているが、外の足場を外すのにあと1年かかるそうだ。

 日光山輪王寺は、そのHPによると、「本堂(三仏堂)・大猷院・慈眼堂・常行堂・中禅寺・大護摩堂・四本龍寺等のお堂や本坊、さらに十五の支院を統合して出来ており、その全体を指して輪王寺と総称します。境内地は大きく分けて、中央の「山内」と、「いろは坂」を登った「奥日光」の2ヶ所となります。」
とのこと。

 三仏堂には、千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音が安置されていて、いずれもなかなかの力量のある仏師の作である。しばしお顔を拝見し、有り難く拝んできた。こうしてごく近くで仏像を見上げて拝むというのは、かつて住んでいた京都や奈良ではごく当たり前のこととして行ってきたが、考えてみると、関東ではこれまでは鎌倉の大仏様くらいであった。そういう意味では、今回は貴重な機会である。この三仏のように、お顔の表情や御手、それにお身体の姿の良い仏像を見ると、拝見する我々の身も心も体も、すっかり洗われる思いがする。

 

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 昔、ロンドンの大英博物館の日本コーナーで、法隆寺の百済観音をすぐ目の前で見たことがある。本物が来るはずがないのでレプリカだったかもしれないが、その背の高いほっそりとした身体つきで、右手を掌を上にして肘から前へと倒し、左手は軽く伸ばして瓶を持つ。仏の顔に目をやると、目元と顔つきは優しいものの、どこか異国風である。その優雅な姿に、しばし心を奪われた。この経験をして以来、良い仏像とは、いわば心が共鳴するようになった。興福寺の阿修羅像、宇治平等院の阿弥陀如来像などがそうであるが、ここ輪王寺の阿弥陀如来像にも、そのような感覚を持った。

 三仏堂から、東照宮に向かう。その前に、輪王寺、徳川家康、家光の関係について、整理をしておきたい。元々、日光山は、奈良時代に開かれ、関東では有名な修験道の霊場だった。ところが江戸時代になって、日光が江戸の鬼門の方角に当たることから、それに対する押さえとするとともに徳川家の威光を示すために、諸大名に莫大な費用を負担させて、まず家康の東照宮が置かれ、次いで家光の廟が置かれて、今日に至ったものである。輪王寺のHPによると「日光山は天平神護二年(766年)に勝道上人により開山されました。以来、平安時代には空海、円仁ら高僧の来山伝説が伝えられ、鎌倉時代には源頼朝公の寄進などが行われ、関東の一大霊場として栄えました。江戸時代になると家康公の東照宮や、三代将軍家光公の大猷院廟が建立され、日光山の大本堂である三仏堂と共にその威容を今に伝えております。」
という。

 

 

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 砂利道の参道を上がって行く。すると、右手に「世界遺産 日光東照宮」の石碑があり、その先に「東照大権現」の扁額が掛かった鳥居がある。徳川家康が大権現という神様だ。どうも日本という国は、こういう実在の人物を神格化して神様にしてしまうところがある。古くは菅原道真の天満宮であるし、新しくは乃木希典の乃木神社である。多神教の国ならではの現象である。いい加減と言えばその通りである。しかし考えてみると、唯一神の国よりも、この方が時代の流れに柔軟に対応できるのではないかと思う。

 例えば、イスラム教では、教義上許されている4人の妻は戦争で生まれる未亡人の救済の意味があったし、タブーの豚は当時は非常に不潔で病気の元になったというし、一日5回の礼拝はそもそも砂漠の民を従わせるにはそれくらいしないとダメだったというし、酒の禁止は砂漠性気候の下での飲酒は健康を害するおそれがあった上に戦士を常に素面にしておいて戦争に備えさせる必要があったなどと、教義が確立した時代には、それぞれちゃんとした合理的理由があった。ところが時代が移り、もはやそういう理由が解消されても、一神教だと、教義を見直して方向転換をするのはまず至難の業だ。現にキリスト教は、長い間、何世紀にもわたるカトリックとプロテスタントの間の血みどろの戦いを経てやっと争いは終息し、今ではようやくお互いを認めあって平和的に共存している。この間の犠牲は大変なものだった。その点、日本のような多神教の国では、宗教改革や教義の変更どころか、実在の人物に基づいて次から次へと神様が生まれるくらいの宗教的には柔軟な風土なので、その結果、各時代に応じた教義にならざるを得ない。だから、一神教の国ほどの宗教的な対立は、まず起こり得ないのではないかと思っている。

 

 

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 おや、雨が強くなってきた。左手に五重塔があるが、雨のせいで、上手く写真が撮れない。正面には、仁王門があり、階段を上って門を潜ろうとするとき、左右に安置されている仁王像を見る。これは、別に塗り直しはされていない。右手と正面に、上神庫・中神庫・下神庫の「三神庫」がある。この中には、春秋渡御祭「百物揃千人武者行列」で使用される馬具や装束類が収められているそうだ。それに沿って直角に左に曲がると、神厩舎がある。これは、ご神馬をつなぐ厩で、昔から猿が馬を守るとされているところから、その長押上には「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿をはじめとして、猿の彫刻ばかりが8面ある。これらは、人間の一生を風刺したものだそうだ。その中で、三猿はというと・・・あった、一番左にあった。なるほど、この猿の彫刻は、いずれも修理がされていて、色が格段に鮮やかになっている。中でも、顔とお腹が真っ白である。まるで、漫画のキャラクターのようになってしまった。おかげで、見やすくなったのは事実であるが、歳月を経てきたもの特有の有り難みが失われてしまった感がしないでもない。

 

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 そこを右手へと曲がり、いよいよ陽明門に向かう。雨だから、どこを向いても写真には雨傘ばかりが写ってしまう。その階段にさしかかる直前の左手に鼓楼が、右手に鐘楼がある。この形でこの大きさの楼はなかなかないので、しばし見とれる。階段を登りはじめて陽明門を仰ぎ見ると、さすがに彫刻は綺麗になっている。特に、獅子は真っ白に塗られていて、こんなに美しいものだったかと驚くほどだ。武者像も塗り直しされたか、凛々しい表情である。天井の龍の絵が力強くて、これまた素晴らしい。思わず見とれてしまう。そもそもこの門はあまりに美しいものだか、見ていると日が暮れるという意味で、「日暮門」というそうだが、さもありなんというところだ。ただ、この日は土曜日なので、寒い気候にもかかわらず、大勢の参拝客やら観光客が押し寄せて来ているので、のんびり見上げている余裕はなかった。なお、陽明門そのものはこうして修理は終わったが、その両脇に広がっている「廻廊」の花鳥の彫刻は、陽明門と同じ国宝ではあるが、現時点では特に修理はされていなかった。

 

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 陽明門をくぐると、左手に神與舎、右手に神楽殿と祈祷殿があり、正面には唐門、その両脇には透塀がある。唐門には、「全体が胡粉で白く塗られ、「許由と巣父」や「舜帝朝見の儀」など細かい彫刻がほどこされて」いるそうだが、解説がないことには、どれがどれやらわからなかった。ちなみに、昔々の高校時代に習った記憶によると、許由と巣父はいずれも隠遁生活を送った国士である。許由は、古代中国の理想の君主である堯から州の長に任命されようとしたのを聞いて「耳が汚された。」といって川でこれを洗い、その顛末を聞いた巣父は川が汚れたといって渡らなかったと言われる。現代風にいえば、さしずめ「反骨の士」とでも言うのだろう。

 

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 神楽殿から家康廟の方に向かうところの坂下門の中に、名工である左甚五郎作の国宝「眠り猫」がある。見上げたところで目が合う位置にあり、初めて見たときには、「その名声に比べて、実物はこんなに小さなものか。」と思った記憶がある。もっとも、猫が実際によく見かける大きさよりもっと大きな彫刻だと、それこそまるでお化け猫だから、これくらいで、ちょうど良いのかもしれない。でも、今回の修理で顔が白く、目鼻立ちもくっきりとしたから、普通の大きさに感じた。

 そこから取って返して拝殿に入る。ここは、撮影禁止だ。あちこちで彫刻や柱が丁寧に修復された跡がある。ゆっくり見たかったが、何しろ人の流れが強く、トコロテンのように押し出されてあっと言う間に出て来てしまった。それから、本地堂(薬師寺)に向かった。ここには、天井に「鳴き竜」がある。天井の檜の板に大きな竜の絵が描かれている。昔ここに来たときは、柏手を打って音を聞いて喜んでいたものである。今回は、もっとシステマチックになっていて、一定数のお客さんを入れて、まず天井の竜の尾の下で、拍子木を打つ。すると、拍子木の鳴る音だけが聞こえる。次に天井の竜の顔の下で再び拍子木を打つと、あら不思議、拍子木の音の次に「キュィーン」という甲高い音が反響して、あたかも竜が鳴いているように聞こえる。それは良いのであるが。帰り際に何か売りつけられそうになったのには参った。

 そのあたりから、雨脚が強くなった。本来なら家光廟大猷院まで行くべきところだったが、気温が15度ほどと、まるで3月ではないかと思うほど低い。こんなところで風邪をひいてはつまらないと思い、すっかり意気を阻喪して参道を下りた。日光カステラのところまで下りて、そこでカステラをつまみつつ身体を温めて、帰途に着いた。日光へは、また1年後の大修理完了後に、再挑戦することとしたい。なお、来る途中に館林つつじが岡公園にバスが立ち寄ったので、写真集にはその様子も載せておいた。しかし、花菖蒲を見るには遅すぎ、さりとて蓮の花を見るには早すぎるという中途半端な時期であった。


 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 雨の日光東照宮(写 真)

 

 

 

 

 

 


(2018年6月16日記)
 

 

 

 

 

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