アート・アクアリアム

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 この夏は、まだ始まったばかりだというのに、猛烈な暑さである。7月の平均気温は平年より2.8度も高い。一時は絶対値で40度もあったほどだ。ということで、せっかくの土曜日だから、出掛けるにしても、暑くないところと考えて、日本橋の三井ホールで行われている「アート・アクアリウム 2018」に行くことにした。

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 入場すると、廊下の天井に格子があって、その一つ一つに琉金が入ってゆらゆらと動いている。背景に立体的な鏡があるので、その姿があちこちに反射して、何尾もいるように見える。江戸時代に、紀伊国屋文左衛門という目端の効いた商人が、大火で焼け野原になった江戸の町へ、木曽の木材を運んで大儲けした。大金持ちとなった文左衛門は、その屋敷の天井にギヤマンつまりガラスを張って、金魚を浮かべて悦にいったと聞いたことがある。それはこういうものだったのかと思ったのだが、この展示は、まさにその話をヒントにしたようだ。

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 会場に入ると、全体に暗くしてあって、色々な形の水槽があり、そこに当たる光の色が刻々と変わる。オレンジ色、紫色、青色、緑色、赤色、昼光色と、様々で、もちろんそれに応じてその色を反射する金魚や緋鯉の見え方も変わっていく。写真を撮る時はこれがカメラマン泣かせで、昼光色の光が当たっていないと、色がめちゃくちゃになってしまう。例えば、真っ赤な模様のはずの金魚が、何とまあ、真っ黒な模様に写ってしまうのである。そんな中で何とか写すことができたのが、別途の写真である。

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 ちなみにこの会場に入る時に確かめたところ、ビデオやフラッシュによる写真だけが禁止されていて、あとは良いという。インスタ映えを狙っているのだろう。「花魁」のイメージが元に作られた不思議な形の水槽などは、インスタグラムに写真を載せれば、確かに見栄えがする。

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 最初に、緋鯉が立派なのには驚いた。それもそのはずで、これらは緋鯉の本場である山古志村の産だという。値段を言うのも品がないかもしれないが、一匹が何百万円もしそうだ。

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 金魚は、2000年ほど前に、中国南部の鮒の一種(ヂイ)から偶然に赤い個体が生まれ、それが代々にわたって飼育され、新品種が選び抜かれて今日に至っている。日本に渡来したのは今から1500年ほど前の室町時代である。その時は、今でいう「和金」つまり流線形をした赤い小さな魚だったという。それが、今では多くの品種に分かれている。

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 「水泡眼」は、ほっぺたが膨らんで、ゆらゆらと揺れている珍しい金魚だ。「琉金」は、口が突き出た卵で尾が短めのスカートをはいているように見えるありふれた金魚だが、観ていて飽きない。「蘭鋳」は、まるで卵に飛行機の尾翼を直接くっつけたような金魚だ。よくこんな姿で泳げるものだ。

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 黒の「出目金」は、横から見るとまるで怪獣映画に出てきそうな剣呑な顔つきをしている。紫色の照明に照らされて、ますます不気味に感じる。ところが、水槽を上から覗き込むと、印象は全く変わって、よちよち歩きの幼児のように可愛い。その次のスマートな流線型で尾びれが長いのは、いわゆる「コメット」だ。欧米に渡ってからその地で作出された品種らしい。

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 琉金タイプの金魚にも、色々ある。赤白黒の色の派手な金魚は「キャリコ」である。頭に何か被り物をしているように見える金魚は「オランダ獅子頭」だ。その泳ぎ方を見ていると、実に可愛いのである。最後は、頭だけが赤くて、後は真っ白の「丹頂」である。一見して涼やかで、凛々しい。

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 私などは、こうして緋鯉や金魚の種類だけを鑑賞して十分に楽しんでいる方だが、このアート・アクアリウムは、更にまた水槽の形や照明で飾ろうとする。これを「アート」というのか、魚にとっての「迷惑」というのか、私にはよくわからない。






 アート・アクアリアム(写 真)


(2018年8月 4日記)

カテゴリ:エッセイ | 21:29 | - | - | - |
上野動物園の初夏

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 実は、7月の終わりのこの週末は、能登半島の先端の松波で行われる予定の「松波人形キリコ祭り」を見に行くつもりで、飛行機と宿を手配していた。能登半島では、7月から8月にかけての週末に、どこかの町でキリコ祭りが行われる。こちらの能登町松波の各町内から出るキリコは、「金箔を施した総漆塗り、前面には人形を飾る」ということで、他のキリコとはまた別の趣があるから、是非行きたい思ったわけである。ところが、たまたま台風12号が発生し、その進路予想によるとちょうど週末に東京から能登に抜けるということになっていた。だから、ひょっとして飛行機が飛ばないかもしれないと懸念していた。そうこうしているうちに、前々日の木曜日になって、ANAからメールが入った。要は、「天候が悪いので、日程の変更か払戻しをお勧めする」というものである。この進路予想からして、やむを得ないと思い、インターネットで解約をした。手数料は不要だった。それから、泊まる予定だった宿と、空港に来てもらう予定だったタクシー会社にキャンセルの電話をした。その上で、2〜3日間は籠城できる水と食糧があることを確認して、自宅にいた。隅田川花火大会も、土曜日は中止となった。

 そうしたところ、何のことはない。台風の進路が関東直撃の予想だったものがそれて、実際には東海道沖の海岸に沿って東から西へと進み、三重県に上陸して大阪から瀬戸内を経由して九州方面へと行ってしまった。まさか台風がこの場所から西へ進むとは、常識では考え付かない逆行現象である。唖然としてしまった。特に瀬戸内地方ではつい最近、豪雨に見舞われて大変な被害をこうむったが、またこの台風で災害を重ねなければよいがと心配する。それはともかくとして、結果的には羽田空港から能登空港へ飛べたし、松波キリコ祭りも開かれたようだから、予定通り行っていればよかったのにという気もする。まあしかし、台風に閉じ込められるというリスクを冒すこともないと、自ら納得した次第である。そういうことで、週末に行くところがなくなってしまった。そこで、昨日のしながわ水族館のウミウシに続いて本日は、パンダのシャンシャンを見に近くの上野動物園へ行くことにした。


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 パンダ舎の前には行列ができていて、40分待ちの表示があった。そこに並んでいると、天幕の一部が上げられていて、パンダの様子がチラリと見える。なかなか良い仕掛けである。そこから覗いていると、木の上に白い丸いものが見える。1歳になったばかりの赤ちゃんパンダのシャンシャンが、木の上でだらりと寝ているのだ。2メートルはありそうな木の上だから、危なくないのだろうかと思うが、平気で器用に寝入っている。そこから、更に20分ほどして、いよいよ私たちの番になり、パンダ舎に入った。最初に父親のリーリーがいる。上向きでだらしなく寝ている。次に母親のシンシンがいて、これはうつ伏せに寝ている。シャンシャンはというと、先ほどと全く同じ姿勢で、微動だにせずに寝ている。連日40度前後のうだるような暑さだから、よく寝たくなるのも、わからないわけではない。でも、なんともはや、張り合いのないパンダ見物となった。

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 せっかく来たからというので、まずタイガーを見に行った。ライオンと違って、タイガーはしょっちゅう動き回っている。この日もそうで、あっちへ行ったりこちらに来たりで忙しい。連日の40度を越すほどの猛暑で暑くてたまらないせいか、タイガーが池の水の中に入っている珍しい写真が撮れた。ライオンは、雄を撮りたかったが、雌しか見当たらなかった。こちらも、相変わらずゴロゴロとしている。

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 西ローランドゴリラの方に行った。そういえば、かつては孤高の哲学者のような風情を見せていた「ムサシ」は、もう亡くなっている。その代わり、雄として、「ハオコ」がいる。シルバーバックだから、今が男盛りなのだろう。目つきを見ると、まあ普通なので、よいお父さんなのだろうと思う。大人の雌として、「モモコ」がいる。いたずらっぽいような目つきをしているこのゴリラが、そうかもしれない。まだ子供のゴリラで、雄の「リキ」がいるはずだ。頬杖をついているこの子がそうだろうと思う。

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 バードハウスに入ると、「ルリゴシボタンインコ」というオレンジと黄緑のスズメ大の可愛い鳥がいた。愛らしく動作も機敏なので、見ていて飽きがこない。「カンムリエボシトリ」という鳥は、すっきりした感じで、なかなか品が良い。

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 シロクマ館に入って、北極から来た白熊くんを撮ろうとした。まず空中に出ている顔を写そうとしたが、ガラスが曇っていて、うまく撮れない。そこで、水中の白熊を撮るしかなかったが、潜るのに夢中でなかなかこちらを向いてくれない。それでも、水中ではとても身軽に動いていると思った。そうでないと、アザラシ猟などできないからだ。本来の生息地である北極では、温暖化のために氷面が縮小して海面が広がりつつある。そうすると北極熊は狩りができないらしい。だから絶滅が心配されている。

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 そこを出て、蓮池の方に行き、今が盛りの蓮の花を撮り、ペンギン、フラミンゴ、ハシビロコウを見て帰って来た。ハシビロコウは、相変わらずじーっと立っていて、その顔を見るとユーモラスで面白い。上野公園に一時、パンダがいなかったとき、パンダに代わる人気者だったそうだ。




 上野動物園の初夏(写 真)


(2018年7月29日記)

カテゴリ:エッセイ | 20:01 | - | - | - |
しながわ水族館の海牛

アオウミウシ


 先々週は西日本で大変な災害に見舞われたと思ったら、先週は連日摂氏40度になろうとする猛暑が続いた。そうしたところ、今度は関東圏から中部圏そして近畿圏にまたがって台風が直撃した。異常気象も、ここに極まれりというわけだ。そういう中、涼しくて大雨にも大丈夫な「しながわ水族館」に行ってきた。前回は2010年に行ったから、8年ぶりとなる。

 実は今回は、「ウミウシ」特別展が開催されている。これが、行ってみようと思った動機である。ウミウシ(海牛)というのは、「後鰓類」という巻き貝の一種であるが、元々持っていた貝殻が縮小していたり、体内に埋没していたり、甚だしいのは消失していたりする種だ。そうすると外敵に対して防護手段がないのではないかと思うのだけれど、どういうわけか、鮮やかな色合や模様を呈しているものが多い。そのため、シンデレラとか、ハナオトメなどという派手派手しい名前がつけられている。色鮮やかだから、被写体としては最適だ。私は、アオウミウシが気に入って、しばらく眺めてから、写真を撮ろうとした。


アオウミウシ


 ところが、なかなか撮れない。まずは大方のウミウシが余りにも小さくて、数cm以下だ。しかも、それが水槽の中にいるものだから、ただでさえ撮りにくい。次に、水面近くを這い回っていたり、隅っこにいるものだから、これまた撮りにくいのである。うっかりしてマクロレンズを持っていなかったこともあり、四苦八苦しながらどうにか何枚かを物にした。

ハナオトメウミウシ


テヒダイボメウミウシ


 それにしても、妙な動物である。ピンク色、白と黒のブチ模様、白い身体にオレンジ色の玉模様、青と黄色の縞模様など、まさに色々だ。でも、どれにも共通なのは頭の上に2本の角、お尻のところに尻尾みたいなものが付いている。ノロノロと動いている。まるでナメクジそのものだ。なぜ襲われないのだろうと調べてみたら、まず全然美味しくないらしいし、それだけでなく、中には有毒なものを食べてその毒を蓄積しているものもいるらしい。フグのような生き残り戦略である。

クリオネ


クリオネ


 同じく貝殻の退化した後鰓類で、北方の海中で天使の翼のようなヒレで遊泳するのが、クリオネ(ハダカカメガイ)である。「裸殻翼足類」というそうだ。これも展示してあって、体が半透明でオレンジ色の頭や内臓が見えるが、頭に角のような2本の可愛い突起があり、小さな三角形の翼を広げたり閉じたりして美しく優雅に泳いでいる。背景を青くしてあるから、泳ぐ姿がはっきりと見える。つくづく眺めていると、本当に不思議な生き物だ。いつぞやのテレビ番組で見たが、エサを獲るときは、この頭が割れて6本の突起が出、それで押さえ込んで力づくで捉える。まるで天使が一瞬にして悪魔になったように感じたものである。何でも、見かけで判断してはいけないということだろう。

グレートバリアーリーフ


ナポレオン・フィッシュ


 ところで、この品川水族館の売りのひとつは、イルカ・アシカのショーなのだが、1週間ほど前にバンドウ・イルカのチィナが出産したので、この日は中止となった。もうひとつは、トンネル水槽で、アオウミガメが非常に印象的だった。こちらは、以前とあまり変わりがない。ともかく、繁殖に成功しておめでたいことである。そのほか、グレートバリアーリーフの熱帯の海は相変わらずきらびやかなお魚が泳いでいたし、ナポレオン・フィッシュは堂々としていた。ニモとして有名になったカクレクマノミは、実に可愛い。オオカミウオは、よく見ると、結構トボけた顔をしていて面白い。クラゲは、いくつか展示してあったが、どれも小型であまり印象に残らなかった。近く、クラゲ専門の鶴岡市立加茂水族館から援軍が来るてくれるそうだ。そういう交流で、切磋琢磨してくれれば良いと思う。

カクレクマノミ


オオカミウオ


クラゲ








 しながわ水族館(写 真)


(2018年7月28日記)

カテゴリ:エッセイ | 19:09 | - | - | - |
浜松への旅

浜松城


 私は、東海道新幹線に乗って通過するたびに気になっていたのが、浜松駅前にある特徴的な高層ビルである。一見して200mを超えるレンガ色のハーモニカのような形のビルで、同じ静岡県でも県庁所在地である静岡駅には、こんなに高い建物はない。これは、いったい何だろうと思っていたからである。ところがこのほど、機会があって、浜松を訪れることができた。いつものように、あまり時間がない忙しい旅なので、楽器博物館、浜松城、ジオラマパーク、そしてこの高層ビル(アクトシティ浜松)を見てきた。このほか時間があれば、井伊家の菩提寺である龍潭寺と、地元の自動車メーカーであるスズキ歴史館にも行きたかったのだが、それぞれ、車で片道45分もかかるとか、事前の予約が必要とか言われて断念した。

楽器博物館


 まずは、楽器博物館に行った。イヤホンを貸してくれて、その楽器の前に行って掲示してある番号を押すと、音楽や解説が聞こえてくるという仕組みだ。解説はもちろん有り難いが、それ以上に、目の前の楽器からはこんな音が聞こえてくるのかと納得できるのがよい。だいたいが見かけ通りの音だったが、中にはその武骨な外観とは想像ができないほどに繊細な音が聞こえてきて、面白い。係りの人には、全部を聴いて回ると、2時間かかると言われた。

楽器博物館 アジアや中近東の民族楽器


楽器博物館 バリ島のガムラン


楽器博物館 タイの楽器


 1階には、アジアや中近東の民族楽器が展示してある。入り口から入って正面にあるのは、ジャワとバリ島のガムラン音楽の楽器である。打楽器だが、お鍋そのもの並んでいるような楽器もある。また、私が先年バリ島に行ったときに観た「バロン劇」に出てくる善の神バロンのようなものまであった。まさかこれは楽器ではないだろう・・・日本で言えば、お獅子のようなものである。そうかと思えば、近くに仏像と象が表に彫られた不思議な楽器があった。これはタイのものかと思ったら、やはりそうだった。更に先へと進む。おやこれは、古代中国の曾侯乙墓から出てきた「編鐘」のレプリカだ。昔、東京国立博物館で開催された特別展「曾侯乙墓」で見たことがある。大中小の数多くの青銅製の鐘が、青銅の支えがある3段の木枠に並べられた楽器だ。このように、どうも私は、音楽や楽器よりもむしろ民族文化に、ついつい興味が向いてしまう。

楽器博物館 編鐘


楽器博物館 楽器の東西伝播ルート


 地下1階に降りると、まずは中南米やアフリカの楽器が置いてある。弦楽器の伝播の地図がある。中近東のペルシャで生まれた「バルバット(?)」が、西へ渡って西アジアの「ウード」になり更に西の欧州の「リード」になった。そのバルバットは、東へ渡って中国の「ビバ」に、それが日本に伝来して「琵琶」になったそうな。平家物語の引き語る琵琶も、シルクロードの伝来物だったとは知らなかった。 それから、アフリカの楽器もある。これらは、音色はともかく太鼓を叩く姿などその素朴な生活を表す造形が面白い。また、木琴のような打楽器の下を覗くと、色々な大きさの瓢箪が付けられていて、共鳴器のように使っていた。

楽器博物館 アフリカ


楽器博物館 アフリカ


楽器博物館 エチオピア


 地下1階の奥の部分には、とりわけピアノの歴史がよくわかるようになっていて、その原型のチェンバロから、これに音の強弱を付けられるようにしたピアノの先祖に当たる「クラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ」に始まり、現代のピアノに至るまで技術的改良が加えられてきた経緯が良く分かる。感心したのは、アクション(鍵を押し下げるとハンマーが連動して弦を叩く仕組み)の改良の歴史で、アップライト型ピアノの時代とグランド型ピアノの時代への移行と、アクションがウイーン式、フランス式、最後にイギリス式へ進化していく過程を、実際にその模型で知ることができる。音を出してみて、よくわかった。

楽器博物館 ピアノの原型


 こうしてピアノはもちろん、そのほか管楽器も含めて、どうしてこれほどまでに体系的に揃っているのかと思ったら、同博物館のHPによると、「楽器収集家であったアメリカ人、ロバート・ローゼンバウム氏のコレクションが中心で、18〜19世紀の管楽器がそろっています。T.スティンズビーSr.作のイギリスのオーボエや,プロイセン王国フリードリヒ大王ゆかりのフライヤー作クヴァンツ型フルート、フランス ブルボン王朝の王室御用達楽器製作家F.E.ブランシェ2世作のチェンバロなど,世界的名器も含まれています。ウィーンのワルターやシュトライヒャー、ロンドンのブロードウッドなど名工の手による19世紀のピアノ(フォルテピアノ)は圧巻です。A.サックス自身の作のサクソフォーン、19世紀イギリス製のミンストレル・バンジョーも世界的に貴重なコレクションです」とのこと。なるほどと納得した。

浜松城天守閣


 次に浜松城に向かう。当時の遺構は野面積みの石垣だけで、天守閣そのものは戦後のコンクリート造りであるから文化財としての価値はない。しかし、なんと言っても徳川家康の根拠地であったし、その後に江戸幕府が成立してからも、藩政300年の間に歴代浜松城主が25代もころころと代わったが、水野忠邦などその多くが幕府の重役に出世した。老中に5人、大阪城代と京都所司代に各2人、寺社奉行に4人という具合で、「はま松は 出世城なり 初松魚」(松島十湖)と詠まれたという面白いお城である。

浜松城天守門


 浜松城の天守門を140年ぶりに復元し、加えて今年は天守閣の再建60周年記念だそうだ。天守閣そのものは3層構造で、他の城の天守閣を見慣れた目には、非常に小さく見えるが、登ってみると、見晴らしは非常に良い。ただ、最上階の周囲を金網で覆っているために、写真が撮れないのは、誠に残念である。手を伸ばして金網の上から数枚を撮ったが、疲れる。管理者の方で、金網のところどころに、写真用の穴を開けてくれればと思った次第である。

家康が三方ヶ原の合戦直後に絵師に描かせたという自らの憔悴した姿


 かねてより観てみたいと思っていたのが、家康が三方ヶ原の合戦直後に絵師に描かせたという自らの憔悴した姿である(本物は、たしか徳川美術館にあった)。言い伝えによると、家康はこれを見て常に自分を戒めたという。なるほど、油断したり奢ることなく、いつも自省しつつ慎重に行動するというのは、いかにも家康らしい。ところで、その脇にあった「徳川家康公400年記念事業として制作された30歳前後の等身大家康像。 『手相・しわ・毛穴』まで再現され、今までにない家康公の姿を披露しています。」には、そのあまりの迫真さにビックリした。

徳川家康公400年記念事業として制作された30歳前後の等身大家康像


 三方ヶ原の合戦(元亀3年:1572年)は、家康の生涯で最大の敗戦で、南下して通過しようとする武田信玄の騎馬軍団2万7千に対し、家康が1万2千(8千という説もある)で挑んで一蹴された戦である。この戦いについては、次のような色々な伝承がある。曰く、

 (1) 「小豆餅」「銭取」という地名の由来である。家康が三方ヶ原で敗戦の直後に逃げてきたところ、ある茶店に小豆餅を売っていた。それを口にしていたところ、武田氏の軍が追いかけてきた。そこで家康は、代金を払わないまま逃げ出した。茶店番の老婆はこれを数キロも追いかけて、遂に支払ってもらったという。その茶店があったところが「小豆餅」(あずきもち)と、代金を払ってもらったところが「銭取」(ぜにとり)というらしい。いずれも現存している。

 (2) 「白尾」というのは、三方ヶ原の敗戦で、白い尾の馬に乗って辛くも逃げてきた家康が、八幡神社の楠木の洞穴に逃げ込んだ。ところが白い尾が出ているので、村人がそれを指摘したことから、難を逃れた。家康は恩賞としてその村人に「白尾」(しらお)という苗字を与えた。

 (3) 「小粥」というのは、三方ヶ原の敗戦で逃げている途中の家康が空腹になり、とある農家に逃げ込んだ。ところが食べるものといえば、粥しかない。それを何杯も食べた家康は、お礼として後に「小粥」(おがゆ)という苗字を与えたという。

いずれも話としては面白いが、どれも出来過ぎていて、眉唾物である。


浜松ジオラマファクトリー スターウォーズ


浜松ジオラマファクトリー スターウォーズ


浜松ジオラマファクトリー 「天空の城ラピュタ」に出てくるロボット


 さて、そこから少し歩いて、ザザシティという建物の中にある「浜松ジオラマファクトリー」というところに行った。こちらは、山田卓司さんという地元のジオラマ作家の作品を常時展示しているところで、駄菓子屋さんの一画を借りている風である。スターウォーズやゴジラなどの日本の怪獣もの、スタジオジブリの「天空の城ラピュタ」に出てくるロボットなどがある。それに、郷愁をそそる「昭和シリーズ」(主に昭和30年代が描かれている。)、例えば、扇風機の前で気持ちよく寝入っている男の子、アイロンがけのお母さん、セミ採りの男の子などがある。そしてこれは一般からの応募作品らしいが、農家の嫁入りや卒業を描いた作品もあった。

浜松ジオラマファクトリー 扇風機の前で気持ちよく寝入っている男の子


浜松ジオラマファクトリー アイロンがけのお母さん


浜松ジオラマファクトリー セミ採りの男の子


 最後に、高層ビル(アクトシティ浜松)に行ってみた。そのHPによると、「大・中ホールやコングレスセンターなどを持つAゾーン、オフィスやホテル、専門店街のあるアクトタワーのBゾーン、展示イベントホールのCゾーン、楽器博物館・研修交流センターのあるDゾーンの4つのゾーンに分かれており、Bゾーンは民間が管理する民間施設、その他は浜松市から管理委託を受けて公益財団法人浜松市文化振興財団が管理する市施設となっております。アクトシティの象徴でもあるアクトタワーは、地上 45階、高さ212.77mの超高層ビル。 低層部にはガレリアモールとショッピング街・レストラン街で構成される『アクトプラザ』、中層部はオフィス、高層部には『オークラアクトシティホテル浜松』があり、人と環境の融和への配慮が随所に生かされた魅力的な都市空間となっております。
 浜松市の施設は、日本初の4面舞台を持ち、本格的なオペラや歌舞伎も上演できる大ホール、フランス・コワラン社のパイプオルガンを備えた音響の優れた中ホール、国際コンベンション等多用な利用が可能なコングレスセンター・研修交流センターの会議室、広さ3500平米を有し展示会や様々なイベントを開催できる展示イベントホールの貸出施設と、公立では全国で初めての楽器専門の博物館である『楽器博物館』、そして音楽の人材育成を図る『アクトシティ音楽院』から構成されております。」
という。

 何のことはない。最初に行った楽器博物館は、アクトシティ浜松の一部だったのだ。交差点のはす向かいにあるから、分からなかった。それはともかく、ハーモニカに当たるアクトタワーの最上階には展望台があるというので行ってみたが、残念ながらこの日は雨模様の曇りで非常に視界が悪い。ちょうど夕食時だから、30階のレストラン、パガニーニに行き、そこで食事をした。ちょっとしたコースがあって、なかなか美味しく食べられた。ビルの谷間に、先程、訪れた浜松城が見えた。


レストラン、パガニーニのコースの一部


レストラン、パガニーニのコースの一部



 ところで、このアクトシティ浜松について調べてみると、バブル経済の最後の1991年に着工されて1994年に完成した。市有の大中ホール、コングレスセンター、博物館、研修センターと、私有の複合商業ビル(アクトタワー)から成る。アクトタワーは高さが212m、45階である。静岡市で最も高いビルが葵タワーの125m、25階であるから、これを超えて静岡県で最も高いビルとなっている。静岡市への対抗意識からか、それにしても浜松市は頑張ったものだ。当初の事業主体は、浜松市と第一生命、三菱地所である。現在の運営主体は、市有施設は浜松市文化振興財団、私有施設はオリックス傘下の子会社である。市有施設は、音楽コンクールやサーカスの公演などの文化施設の運営がうまくいっているそうで、税金による赤字補てんはないようだ。私有施設については、いったんはバブル崩壊によって不良債権化しかけたことから、当初の施主の第一生命がオリックスの子会社に売却したようだ。しかしその後、浜松市が政令指定都市となったことなどから稼働率は回復し、今では入居率が95%と、過去最高を記録しているという。結構なことである。また、アクトタワーにあるホテルオークラ浜松は、当初はホテルオークラの直営であったが、2004年にオークラの名前を残しながらオリックスの運営になっているとのこと。ただ、レストランは、桃花林、さざんか、山里など、ホテルオークラ東京と同じ名前のため、私には馴染みがあるものの、運営主体が違っているとまでは思わなかった。レストラン・パガニーニの料理とサービスは、なかなか良かった。






 浜松への旅(写 真)




(2018年7月 7日記)

カテゴリ:エッセイ | 22:10 | - | - | - |
毛呂山の花蓮と睡蓮

毛呂山の花蓮


 私の家の近くには不忍池があり、毎年7月には、それはそれは見事な「蓮(はす)」の花が咲く。説明によると数種あるらしいが、一番多いし目立つのがいわゆる「古代蓮」である。この蓮は、東京大学農学部の大賀一郎博士によって、弥生の遺跡から「実」が発掘されて2000年ぶりに花を咲かせたということで、非常に有名になった。それは、鮮やかなピンク色をした、いかにも蓮らしい蓮である。清楚で清潔でありながら艶やかで、じーっと見つめていると、まるでその中に吸い込まれるような魅力的な色をしている。しかも、咲き始めて僅か4日で儚く散ってしまう運命にある。私はこの大賀蓮が大好きで、毎年のように朝早く起きて不忍池に撮りに行っている。

毛呂山の花蓮


 ところが、人間というのは贅沢なもので、たまには大賀蓮以外の蓮の花を撮ってみたくなった。白い蓮の花も良いし、できれば花弁の先がほんのりピンク色をしている蓮の花も撮りたい・・・先日、静岡のとあるお寺さんで見かけた蓮の花だ。そういう場所はないかと思って探してみたら、埼玉県毛呂山町で育てているという。それが意外なことに、少子化で使われなくなった町営の「流れるプール」で栽培されているそうだ。行田市から古代蓮など20種類以上の蓮の花をいただいて、苦心惨憺の末にようやく定着させることができた由。

 これは行かなくてはと思って、朝早く5時過ぎに起きて出掛けることにした。蓮の花は、夜明け頃に咲いて、お昼頃になると、もうそのほとんどが花を閉じてしまうからだ。文京区の私の家を発ったのが朝の6時半前、池袋から東武東上線で川越駅からJRに乗換え高麗川駅(こまがわ)に降り立った。そこからバスで直行できるはずだったが、どういうわけか終点の埼玉医大に来てしまった。仕方がないので、そこからタクシーで毛呂山総合公園に行った。着いたのは8時半だから、家を出て2時間もかかってしまったことになる。


毛呂山の花蓮


毛呂山の花蓮


 現地でいただいたパンフレットは、なかなか詩心(うたごころ)のある方が作ったとみえて、随所にその片鱗がうかがえる。まず、その題名が良い。「悠久のしらべ 花蓮の光明」とある。そして、次のように続く。

毛呂山の花蓮


毛呂山の花蓮


「悠 − 古代より命を繋ぐ蓮、美しさと生命力の強さをあわせ持つ
  根からも種からも繁殖する強さで泥のなかで根を張り巡らせる
  葉の上の露は宝石のようにキラキラと輝き
  天に向かって伸びた花は、命の輝きを水面に映す」


 確かに、 仏教では蓮は昔から西方浄土に咲く花として珍重されてきたし、泥の中でもこんなに美しく咲くことができるのだから、人間も見習うべきだなどというお坊さんの説教の題材にもなっていた。


毛呂山の花蓮


「清 − 泥に染まらず凛として、それでいて儚く、切ない・・・
  わずか3日の儚い命・・・4日目に散りゆくその姿は、悟ったように潔い
  大きく膨らんだその蕾は、ためらうように恥じらうように花開き、艶やかで気品ある姿で魅了する」


 いやまあ、確かにそういう感じなのだが、「ためらうように恥じらうように」とか、「艶やかで気品ある」とかというのは、若い女性をイメージしてのことのようで、私にはとてもとても思い付かない表現である。


毛呂山の花蓮


「慈 − 蓮は永遠の愛とやすらぎのシンボル、すべてに行き渡る広大無辺の愛
  誰にも優しく、心安らげる場所 − そんな公園でありたいと願う
  蓮が花開く以上のやりがいがここにある。」


 この公園を作って世話していただいている皆さんの合言葉のようなものであろう。ここに至るまでには、相当なご苦労があったようである。「毛呂山町の花蓮育成は、行田市より古代蓮の根を株分けしていただいたところから始まりました。はじめは、プール跡地での育成に四苦八苦しましたが、福田夫妻のたゆみないご尽力と多大なるご協力の下、大輪の花を拝むことができました。」という。


毛呂山の花蓮


「祈 − 夏の夕べ、竹灯籠が幻想的な世界を作り出す
  蓮の花は泥から出てきたとは思えない清らかな花を咲かせます。たとえ汚濁と混沌に満ちた世の中であっても、清らかに生きることの大切さを私たちに教えてくれているかのようです
  また、蓮はその美しい花ばかり注目されますが、美しい花が咲くのも、根がしっかりと育っているからこそです。泥中の 根は、見えないところで広く深く成長しますが、肥料を与え過ぎると根腐れを起こします。
  根本の手入れを怠ることなく、基礎をしっかりと築くことでようやく美しい花を咲かせることができるのです。何もものをいわない蓮ですが、香ばしい花を咲かせるたび、人の生き方、あり方について示唆しているかのようです。」


 今年の7月7日七夕の夕刻に、「花蓮 光明まつり」がここで行われるそうだ。蓮や睡蓮の中に、竹灯籠に火が灯され、その暖かい光が水に反射して、さぞかし美しいことだろうと思う。


毛呂山の花蓮


「憩 − どこまでも青く澄んだ空、緑深い山々、癒しの空間で自然を奏でる」

 確かに、この毛呂山総合公園のかつての流れるプールは、かなり山深いところにあるから、そういう風に表現できるのは間違いないが、「癒しの空間で自然を奏でる」どころか、たまたま行ったのは32度を越す猛暑日だったので、日射病になりそうだった。


毛呂山の花蓮


 蓮の花の中心にある、まるでシャワーヘッドのようなものは「花托」である。花が咲き終わって花びらが全て落ちると、これだけが残り、やがて成熟してたくさんの実を付ける。そこに、蜻蛉が留まっていた。小さい頃は、近くの神社の池で、よく追いかけたものだ。とても懐かしい。しばし、写真を撮ってその場に留まったが、かなり長い間、蜻蛉は微動だにしなかった。今や、蜻蛉を獲ろうという子供がいなくなったということか。

毛呂山の睡蓮


毛呂山の睡蓮


 ところで、蓮の花ばかりが注目されているが、同時に植えられている睡蓮(すいれん)の花も、なかなかのものだった。睡蓮の花は、新宿御苑夢の島熱帯植物館神代植物園のそれぞれの温室や明治神宮で見たことがある。しかし、こうして屋外で咲いているのを見たのは、ほとんどない。先日、明治神宮の花菖蒲を見に行った時に、たまたま黄色い睡蓮を目にしたくらいである。ここ毛呂山に植えられている睡蓮は、種類が多くて、花の色だけでも、赤色、ワインレッド、黄色、紫色など、様々なものがあった。赤色と黄色が半々のキメラのような睡蓮があったのには、驚いた。

毛呂山の睡蓮


毛呂山の睡蓮


 こうして、蓮も睡蓮も見終わって満足して帰ろうとしたところ、たまたま凌霄花(のうぜんかずら)のオレンジ色の花が目に入った。初夏にふさわしい元気な花で、見ていると力が湧いてくるようだ。

毛呂山の凌霄花









 毛呂山の花蓮と睡蓮( 写 真 )






(2018年7月 2日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:04 | - | - | - |
鉄道模型と横浜港

原鉄道模型博物館


 横浜の原鉄道模型博物館に行ってきた。6年前の平成24年7月10日に開館したもので、その頃に行った家内によれば、その当時は大変な混みようだったそうだ。私も小さい頃から模型が大好きだったから、そのうち行きたいとは思っていたものの、写真撮影は禁止されていると聞いて、行くのはやめていた。博物館の名前からして、これは「模鉄」(鉄道模型を造るのが好きな鉄道ファン)が主体のところで、「撮り鉄」(鉄道写真を撮るのが好きな鉄道ファン)は、眼中にないのだと早合点したからだ。

原鉄道模型博物館


 ところが、今回はたまたま田舎から出て来た人がいて、東京と横浜を案内することになった。聞いてみたら鉄道模型が好きだという。それではということで、初めてこの博物館へ行ってみた。すると、もうあまり観客がいなくなったせいか、それとも「撮り鉄」からの要望があったせいか、その経緯は知らないが、何とまあ撮影が解禁されていた。それどころか「ここが撮影ポイント」という表示すらあって、至るところに「撮り鉄」の心をくすぐる配慮がされていた。いやしくも鉄道ファンであるなら、こうでなくてはいけない。(既に、平成25年11月1日には、解禁されていたようだ。)

原鉄道模型博物館


 この博物館は、原 信太郎(1919年から2014年)という稀代の鉄道ファンによって作成、撮影、蒐集された鉄道模型(約6000両)、鉄道写真(約10万枚)・フィルムとビデオ(約440時間)、一番切符その他鉄道資料を展示するために設立された。そもそも、この原さんという人は、知れば知るほど、まるで規格外のスケールの人物である。

原鉄道模型博物館


 博物館の展示とHPによれば、「幼児の頃から、いかにグズっていても、鉄道の音を聞けばピタリと泣き止む。海外の鉄道について知りたくて、小学生の時から英語を学び、中学・高校でドイツ語、フランス語、スペイン語、イタリア語を習得。大学入学前にはロシア語も習得した。」。ううむ、この語学能力だけを見ても、並みの天才ではない。「小学6年生から本格的な模型製作を始める。・・・鉄道技術を学ぶために東京工業大学工学部機械工学科に入学。第二次大戦後、コクヨ株式会社で開発技術担当。在職中、世界初の立体自動倉庫やオフィス家具自動一貫製造ラインなどを開発し、300以上の技術特許を個人で出願・維持。」とある。鉄道模型以外でも天才的技術者だったというわけだ。加えて、「戦後は海外に積極的に渡航し、各国の鉄道車両を模型化。所蔵模型数約6000両。これまで訪れた国、延べ約380ヶ国。」いやはや、これは凄いとしか、言いようがない。こういう人がいたということを知っただけでも、本日はこの博物館に来た甲斐があったというものだ。

原鉄道模型博物館


原鉄道模型博物館


原鉄道模型博物館


 普通、何かの蒐集家といえば、乏しい資産の一切をありとあらゆるものを集めるのに使って、残ったものはガラクタばかりというのが通り相場である。ところが原信太郎の場合は、語学の天才かつ成功した技術者でありながら、非常に完成度の高い模型を数多く残した。HPに曰く「原信太郎の模型は、通常の模型と異なり、鉄のレールと鉄の車輪を用い、架線から電気を集める。また、揺れ枕やスパーギア、コアレスモーターなどを用いて惰力走行を実現したが、それぞれ、本物の鉄道の技術を深く理解して成立したもの」だという。ジオラマ展示室に入ると、本物の鉄道と同じく、「ゴォー、ガタンゴトン」という音に包まれるから、つい嬉しくなる。これは「本物の鉄道車両を忠実に再現していることです。模型は架線から電気をとり、鉄のレールを鉄の車輪で走行します。なかでもご注目いただきたいのはその"走行音"。レールのつなぎ目の音がゴトンゴトンと鳴り、本物と同じサウンドを聞くことができます。ギア、板バネ、ベアリング、揺れ枕、ブレーキ・・・外からは見えませんが、本物の鉄道で使われている技術を搭載することにより実現した」ものだそうだ。

原鉄道模型博物館


原鉄道模型博物館


 また、ジオラマ展示室は、照明が変えられる。これで走っている鉄道車両は、昼間の走行、夕方の暮れなずむ頃の走行、そして夜行列車の雰囲気が味わえる。ジオラマは、街並み、大きな駅、鉄橋、山岳地帯などと、変化に富んでいる。その大半はヨーロッパのようである。ただ、街の広場のようなところで、ヨーロッパ人の人形に混じって、日本の漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の主人公の警官「両津勘吉」らしき人形があるのには、笑ってしまった。ガタンゴトンと走る世界各国の車両に混じって、空中に黄色いゴンドラが浮かんで動いている。ちょっとした遊び心が散見される博物館だ。

原鉄道模型博物館


原鉄道模型博物館


 隣の部屋には、また趣きが変わって、横浜みなとみらい21地区のジオラマがある。もちろん、鉄道模型であるから高架の鉄路があって、電車が走っている。秀逸なのは、左手の高層ビル横浜ランドマーク・タワー、中央の観覧車、右手のヨットの帆のようなヨコハマ グランド インターコンチネンタル ホテルが描かれていて、昼間、夕方、夜間とそれらの照明が変わることだ。特に夜間は、ネオンが輝いて、本物に負けないほど美しい。また、昼間も、どこからともなく現れた海鳥が乱舞する。実に、良くできていると感心した。

海上保安庁巡視船


横浜中華街の関帝廟


シーバスから見た横浜みなとみらい21地区


 横浜駅東口ベイクォーターから、シーバスで元町公園に行き、横浜中華街を歩いて、そこでランチをいただいた。次いで再びシーバスで途中まで戻って、赤レンガ倉庫に着いた。すると、北朝鮮の工作船を展示している「海上保安資料館横浜館」別名「工作船資料館」があった。平成13年12月に奄美沖で発生したスパイ船領海侵入事件の主役で、いったん自沈した船を海から引き上げたものである。私は、平成15年に東京お台場にある「船の科学館」で、これを見たことがあるが、それ以来である。その感想はそれを記したエッセイに譲るが、今回は海上保安庁自身の展示とあって、工作船を追い詰めたときに受けた銃撃の模様や、ロケット弾攻撃の様子がビデオの資料として展示されており、より生々しくなっていた。現在の北朝鮮問題を考える上で、是非とも見ておくべき展示物だといえよう。

赤レンガ倉庫


海上保安資料館横浜館


海上保安資料館横浜館


 赤レンガ倉庫を見物して少し早目の夕食を食べ、それから夜景を見るために、大桟橋の方へと行った。ここは、海に突き出ていて、しかも3階ほどの高さがあるから、みなとみらい21地区の夜景を見るには、最適の場所だ。やがて夕闇が迫り、いい感じになってきた。先程の原鉄道模型博物館のジオラマより、もちろん本物の方が見応えがある。左手から右手へとライトの付いた建物などが連なり、横浜ランドマーク・タワー、横浜コスモワールドの大観覧車、クイーンズ伊勢丹の三連のビル、ヨットの帆のようなヨコハマ グランド インターコンチネンタル ホテルである。中でも、大観覧車のカラフルな色が、暗くなった空に映え、何よりも美しかった。

横浜みなとみらい21地区の本物の夜景


横浜みなとみらい21地区の本物の夜景








 鉄道模型と横浜港(写 真)





(2018年6月17日記)


カテゴリ:エッセイ | 21:08 | - | - | - |
雨の日光東照宮

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 日光東照宮には、遥か昔の半世紀ほど前と、最近では2009年に訪れたことがある。東京の自宅から2時間半以上かかるので、いかに世界遺産とはいえ、そう気楽に何度も行く気がしないところである。ところが、平成25年から31年3月にかけて行われる平成の大修理があと1年弱と終わりに近づき、特に三猿や国宝の眠り猫が見違えるように美しくなったという。加えて、田舎から出てきた人がたまたまいたので、一緒に見に行くことにした。しかし、残念なことが二つあった。

 一つは、訪れた当日の天候が悪かったことだ。6月の梅雨の季節らしい小雨で、その雨粒が画面に写り込んでしまうから、建物の写真を撮るには最悪の天候だった。しかも6月の半ばにしては、異常に寒い日であった。朝の気温は12度で、昼になっても15度にしか上がらない。私は、前日にアプリで天気予報を調べて、冬の下着にダウンのジャケットまで用意して行ったから、まだ何とか凌ぐことができた。でも、例えば同じバスに乗っていた70歳前後の屈強なおじさんは、半袖シャツ1枚という着た切り雀の姿で、着いた途端に「寒い。寒い。」を連発して、可哀想になったほどである。

 もう一つ、がっかりしたことは、輪王寺にしても、東照宮にしても、世界遺産の建物やご本尊の由来や歴史的意義のようなインテリ向けの説明が一切なく、説明パンフレットもなかったことだ。それに代わって、つまらないと言っては語弊があるかもしれないが、やれ鬼門除けだの、干支の数珠だの、御守りだのを、「これは御利益があります」
などと言って、売り付けようとするのである。しかもその説明が、「通常ならこの御守りは、毎年、神社に返納してお焚き上げをしてもらう必要があるけれども、これは御利益あらたかなので3年に1回でよい。」とか、大きくて丸い形だが上下が尖っている平板を示して「これは、家庭の鬼門を抑え、ご家族一人ひとりに巡りくる悪い運勢を良い運勢に 転じる鬼門除けです。はがきが同封されているので、これにお名前、住所、ご家族の名前を全て書いて送っていただければ、御守りの効果はその全員に及びます。」などと言う。ちょっと見たところでは、そのはがきには個人情報保護シールが添付されていないようだったので、どうなっているのかと思った。ともあれ、商売熱心が過ぎて、いささかげんなりとする。

 それよりも、外国人観光客の数が激増したのには驚いた。しかも、欧米人、中国人、東南アジア人と、満遍なく全世界中から来ている。ところが、そういう外国人観光客への配慮が足りないのである。特に英語の案内すらあまり見当たらない。この数年来、参拝客筋が従来の農村部の信心深い老人層から、外国人観光客へと劇的な変化を遂げているのだから、十年一日のごとく御守りやご祈祷などに拘泥せず、外国人観光客への対応をもっと考えればよいと思うのだが、いかがであろうか。

 

 

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 それはともかくとして、小雨が降る寒い中を歩いて見てきた順に書いておきたい。まずは、神橋から右手に折れて、緩い上り坂を登っていく右手に、日光山輪王寺の本堂(三仏堂)がある。入ったところの左手にある大きな建物なのだが、今は修理用の足場に囲まれて、建物本体の外観を全く見ることができない。その代わり、本物と同じサイズの絵が足場を覆うシートに描かれているから、笑えてくる。修理期間は10年で、今年で既に9年が経ち、もう内部はほぼ仕上がっているが、外の足場を外すのにあと1年かかるそうだ。

 日光山輪王寺は、そのHPによると、「本堂(三仏堂)・大猷院・慈眼堂・常行堂・中禅寺・大護摩堂・四本龍寺等のお堂や本坊、さらに十五の支院を統合して出来ており、その全体を指して輪王寺と総称します。境内地は大きく分けて、中央の「山内」と、「いろは坂」を登った「奥日光」の2ヶ所となります。」
とのこと。

 三仏堂には、千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音が安置されていて、いずれもなかなかの力量のある仏師の作である。しばしお顔を拝見し、有り難く拝んできた。こうしてごく近くで仏像を見上げて拝むというのは、かつて住んでいた京都や奈良ではごく当たり前のこととして行ってきたが、考えてみると、関東ではこれまでは鎌倉の大仏様くらいであった。そういう意味では、今回は貴重な機会である。この三仏のように、お顔の表情や御手、それにお身体の姿の良い仏像を見ると、拝見する我々の身も心も体も、すっかり洗われる思いがする。

 

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 昔、ロンドンの大英博物館の日本コーナーで、法隆寺の百済観音をすぐ目の前で見たことがある。本物が来るはずがないのでレプリカだったかもしれないが、その背の高いほっそりとした身体つきで、右手を掌を上にして肘から前へと倒し、左手は軽く伸ばして瓶を持つ。仏の顔に目をやると、目元と顔つきは優しいものの、どこか異国風である。その優雅な姿に、しばし心を奪われた。この経験をして以来、良い仏像とは、いわば心が共鳴するようになった。興福寺の阿修羅像、宇治平等院の阿弥陀如来像などがそうであるが、ここ輪王寺の阿弥陀如来像にも、そのような感覚を持った。

 三仏堂から、東照宮に向かう。その前に、輪王寺、徳川家康、家光の関係について、整理をしておきたい。元々、日光山は、奈良時代に開かれ、関東では有名な修験道の霊場だった。ところが江戸時代になって、日光が江戸の鬼門の方角に当たることから、それに対する押さえとするとともに徳川家の威光を示すために、諸大名に莫大な費用を負担させて、まず家康の東照宮が置かれ、次いで家光の廟が置かれて、今日に至ったものである。輪王寺のHPによると「日光山は天平神護二年(766年)に勝道上人により開山されました。以来、平安時代には空海、円仁ら高僧の来山伝説が伝えられ、鎌倉時代には源頼朝公の寄進などが行われ、関東の一大霊場として栄えました。江戸時代になると家康公の東照宮や、三代将軍家光公の大猷院廟が建立され、日光山の大本堂である三仏堂と共にその威容を今に伝えております。」
という。

 

 

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 砂利道の参道を上がって行く。すると、右手に「世界遺産 日光東照宮」の石碑があり、その先に「東照大権現」の扁額が掛かった鳥居がある。徳川家康が大権現という神様だ。どうも日本という国は、こういう実在の人物を神格化して神様にしてしまうところがある。古くは菅原道真の天満宮であるし、新しくは乃木希典の乃木神社である。多神教の国ならではの現象である。いい加減と言えばその通りである。しかし考えてみると、唯一神の国よりも、この方が時代の流れに柔軟に対応できるのではないかと思う。

 例えば、イスラム教では、教義上許されている4人の妻は戦争で生まれる未亡人の救済の意味があったし、タブーの豚は当時は非常に不潔で病気の元になったというし、一日5回の礼拝はそもそも砂漠の民を従わせるにはそれくらいしないとダメだったというし、酒の禁止は砂漠性気候の下での飲酒は健康を害するおそれがあった上に戦士を常に素面にしておいて戦争に備えさせる必要があったなどと、教義が確立した時代には、それぞれちゃんとした合理的理由があった。ところが時代が移り、もはやそういう理由が解消されても、一神教だと、教義を見直して方向転換をするのはまず至難の業だ。現にキリスト教は、長い間、何世紀にもわたるカトリックとプロテスタントの間の血みどろの戦いを経てやっと争いは終息し、今ではようやくお互いを認めあって平和的に共存している。この間の犠牲は大変なものだった。その点、日本のような多神教の国では、宗教改革や教義の変更どころか、実在の人物に基づいて次から次へと神様が生まれるくらいの宗教的には柔軟な風土なので、その結果、各時代に応じた教義にならざるを得ない。だから、一神教の国ほどの宗教的な対立は、まず起こり得ないのではないかと思っている。

 

 

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 おや、雨が強くなってきた。左手に五重塔があるが、雨のせいで、上手く写真が撮れない。正面には、仁王門があり、階段を上って門を潜ろうとするとき、左右に安置されている仁王像を見る。これは、別に塗り直しはされていない。右手と正面に、上神庫・中神庫・下神庫の「三神庫」がある。この中には、春秋渡御祭「百物揃千人武者行列」で使用される馬具や装束類が収められているそうだ。それに沿って直角に左に曲がると、神厩舎がある。これは、ご神馬をつなぐ厩で、昔から猿が馬を守るとされているところから、その長押上には「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿をはじめとして、猿の彫刻ばかりが8面ある。これらは、人間の一生を風刺したものだそうだ。その中で、三猿はというと・・・あった、一番左にあった。なるほど、この猿の彫刻は、いずれも修理がされていて、色が格段に鮮やかになっている。中でも、顔とお腹が真っ白である。まるで、漫画のキャラクターのようになってしまった。おかげで、見やすくなったのは事実であるが、歳月を経てきたもの特有の有り難みが失われてしまった感がしないでもない。

 

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 そこを右手へと曲がり、いよいよ陽明門に向かう。雨だから、どこを向いても写真には雨傘ばかりが写ってしまう。その階段にさしかかる直前の左手に鼓楼が、右手に鐘楼がある。この形でこの大きさの楼はなかなかないので、しばし見とれる。階段を登りはじめて陽明門を仰ぎ見ると、さすがに彫刻は綺麗になっている。特に、獅子は真っ白に塗られていて、こんなに美しいものだったかと驚くほどだ。武者像も塗り直しされたか、凛々しい表情である。天井の龍の絵が力強くて、これまた素晴らしい。思わず見とれてしまう。そもそもこの門はあまりに美しいものだか、見ていると日が暮れるという意味で、「日暮門」というそうだが、さもありなんというところだ。ただ、この日は土曜日なので、寒い気候にもかかわらず、大勢の参拝客やら観光客が押し寄せて来ているので、のんびり見上げている余裕はなかった。なお、陽明門そのものはこうして修理は終わったが、その両脇に広がっている「廻廊」の花鳥の彫刻は、陽明門と同じ国宝ではあるが、現時点では特に修理はされていなかった。

 

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 陽明門をくぐると、左手に神與舎、右手に神楽殿と祈祷殿があり、正面には唐門、その両脇には透塀がある。唐門には、「全体が胡粉で白く塗られ、「許由と巣父」や「舜帝朝見の儀」など細かい彫刻がほどこされて」いるそうだが、解説がないことには、どれがどれやらわからなかった。ちなみに、昔々の高校時代に習った記憶によると、許由と巣父はいずれも隠遁生活を送った国士である。許由は、古代中国の理想の君主である堯から州の長に任命されようとしたのを聞いて「耳が汚された。」といって川でこれを洗い、その顛末を聞いた巣父は川が汚れたといって渡らなかったと言われる。現代風にいえば、さしずめ「反骨の士」とでも言うのだろう。

 

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 神楽殿から家康廟の方に向かうところの坂下門の中に、名工である左甚五郎作の国宝「眠り猫」がある。見上げたところで目が合う位置にあり、初めて見たときには、「その名声に比べて、実物はこんなに小さなものか。」と思った記憶がある。もっとも、猫が実際によく見かける大きさよりもっと大きな彫刻だと、それこそまるでお化け猫だから、これくらいで、ちょうど良いのかもしれない。でも、今回の修理で顔が白く、目鼻立ちもくっきりとしたから、普通の大きさに感じた。

 そこから取って返して拝殿に入る。ここは、撮影禁止だ。あちこちで彫刻や柱が丁寧に修復された跡がある。ゆっくり見たかったが、何しろ人の流れが強く、トコロテンのように押し出されてあっと言う間に出て来てしまった。それから、本地堂(薬師寺)に向かった。ここには、天井に「鳴き竜」がある。天井の檜の板に大きな竜の絵が描かれている。昔ここに来たときは、柏手を打って音を聞いて喜んでいたものである。今回は、もっとシステマチックになっていて、一定数のお客さんを入れて、まず天井の竜の尾の下で、拍子木を打つ。すると、拍子木の鳴る音だけが聞こえる。次に天井の竜の顔の下で再び拍子木を打つと、あら不思議、拍子木の音の次に「キュィーン」という甲高い音が反響して、あたかも竜が鳴いているように聞こえる。それは良いのであるが。帰り際に何か売りつけられそうになったのには参った。

 そのあたりから、雨脚が強くなった。本来なら家光廟大猷院まで行くべきところだったが、気温が15度ほどと、まるで3月ではないかと思うほど低い。こんなところで風邪をひいてはつまらないと思い、すっかり意気を阻喪して参道を下りた。日光カステラのところまで下りて、そこでカステラをつまみつつ身体を温めて、帰途に着いた。日光へは、また1年後の大修理完了後に、再挑戦することとしたい。なお、来る途中に館林つつじが岡公園にバスが立ち寄ったので、写真集にはその様子も載せておいた。しかし、花菖蒲を見るには遅すぎ、さりとて蓮の花を見るには早すぎるという中途半端な時期であった。


 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 雨の日光東照宮(写 真)

 

 

 

 

 

 


(2018年6月16日記)
 

 

 

 

 

カテゴリ:エッセイ | 22:02 | - | - | - |
菖蒲アヤメと睡蓮

明治神宮

 

1.明治神宮の花菖蒲園

 都内3箇所で、菖蒲とアヤメを観てきた。まず最初は、明治神宮の花菖蒲園である。この悠々人生の記録を見ると、2010年6月13日に訪れている。こちらの特徴は、原宿や表参道という都会の繁華街のすぐそばにもかかわらず、まるで深山幽谷のような趣きのある菖蒲の花を楽しめることだ。千代田線の明治神宮前駅を降りて神宮橋を渡って、大きな鳥居をくぐって本殿につながる参道をひたすら行く。途中で森の中を左手に曲がり、500円の入苑料を支払って中に入る。

 いただいたパンフレットによると、この明治神宮御苑は、江戸時代初頭には熊本藩主加藤家下屋敷の庭園だったが、その後、彦根藩主井伊家のものとなり、明治維新で皇室の御料地となったそうだ。静謐な地だったので、明治天皇はお気に召され、「うつせみの 代々木の里は しづかにて 都のほかの ここちこそすれ」と詠まれたという。

 

明治神宮

 

 隔雲亭(かくうんてい)という数寄屋造りの家屋は、明治天皇が昭憲皇后の休息所として作られたそうだが、その前に南池(なんち)があり、今は睡蓮が真っ盛りに咲いている。ピンク色がかった睡蓮の花が実に美しくて、写真を撮った後も、その場でしばし眺めていた。池の真ん中には睡蓮の葉が密集しているところがあり、そこに1本の低い杭が打たれている。すると、その杭に、まるで図ったように青鷺がとまっていて、細長い首を伸び縮みさせながら水中の魚を粘り強く狙っている。10分ほどする内に、ついに魚を捕まえてしまった。

 

明治神宮

 

明治神宮

 

明治神宮

 

 南池から小径を進むと、両側を森に囲まれた花菖蒲園に出る。菖蒲田の周囲が緩やかなカーブを描いていて、誠に優雅な形をしている。立ち姿が美しい江戸系の菖蒲を中心に植えられているそうだ。おや、菖蒲の向こうに、白人のよちよち歩きの赤ちゃんが見える。菖蒲を見て、指をさしている。その脇には、白人のお父さんがいる。体重は、200kg近いのではないかと思われるが、この小さな赤ちゃんも、将来はこれくらいの偉丈夫になるのだろうか。

 

明治神宮

 

明治神宮

 

明治神宮

 

 花菖蒲を眺められる丘には、茅葺き屋根の四阿(あずまや)がある。今日のような太陽の光が燦燦と照りつけるような日には、非常にありがたい。そこに入って一休みしていると、目の前に「菖蒲、アヤメ、カキツバタ」の区別が書いてあった。それによると、花菖蒲(アヤメ科)は湿地に生育し、花の弁元が黄色く、葉の筋は表に1本、裏に2本。アヤメ(アヤメ科)は乾いたところに生育し、花の弁元が淡い黄色で周りが白色、葉の幅が細い。カキツバタ(アヤメ科)は水辺に生育し、花の弁元に細長く白い筋、葉は幅が広くて薄い。

 

明治神宮

 

明治神宮

 

 話は変わるが、私は「菖蒲」というのは、英語ではてっきり「iris」というものだと、昔から思っていたが、どうもそうではなくて、「菖蒲」は「Japanese iris」、「アヤメ」は「iris」又は「Siberian iris」というそうだ。これは、ややこしいと思っていたら、どちらも「sweet flag」でよいそうなので、これからそのように覚えておこうと考えている。ただし、「カキツバタ」は「rabbit ear iris」というらしい。「兎の耳」ねえ・・・それで「iris」か・・・ああ、またややこしくなった。肝心の「菖蒲、アヤメ、カキツバタ」だが、紺色、紫色、白色という単色の花はもちろん美しい。しかし、それにも増して、白色を基調に淡い紫色の線が混ざっている花も、また見事なものである。ただ、これらはどの花も、同じ品種ならほとんど差はなくて、例えば薔薇のような品種の多様性は見られない。またそこが、菖蒲らしいところだといえる。


2.しょうぶ沼公園

 

しょうぶ沼公園

 

しょうぶ沼公園

 

しょうぶ沼公園

 

 足立区しょうぶ沼公園は、千代田線の北綾瀬駅のすぐ側にある。足立区のHPによると「しょうぶ沼公園一帯は、その昔野生のノハナショウブが多数咲き誇っていました。土地区画整理事業に伴う公園を造成するにあたり、昔の地名を残したいとの地元の方々の願いから、旧地名である菖蒲沼耕地にちなんで「しょうぶ沼公園」と名づけられました。」とある。

 

しょうぶ沼公園

 

しょうぶ沼公園

 

しょうぶ沼公園

 

 訪れたときは、たまたま「しょうぶ祭り」の日で、噴水広場は飲食物販エリアとなっていて、多くのテントが並んでおり、たくさんの人々が集って賑やかだ。そこを通って、細長い菖蒲田に向かう。目指す菖蒲田はすぐ近くにある。その前には、これもまた細長い藤棚があって、その下に並べられたベンチを涼やかなものにしている。そのベンチに腰を下ろして菖蒲田を見渡す。こういう下町のイベントの日だから、家族連れとお年寄りが多い。相撲の玉ノ井部屋が主催する子供相撲大会があるなど、長閑なイベントである。ここでも、菖蒲田の中に桟道が通っているので、菖蒲に近づいて写真を撮りやすい。しばらく花菖蒲とアヤメを撮り、三連水車なるものまで見て、満足して帰途に着いた。


3.小石川後楽園

 地元の文京区の東京ドームの隣にある公園で、言わずと知れた水戸藩の上屋敷、水戸黄門のゆかりの地である。そのHPによると、「江戸時代初期、寛永6年(1629年)に水戸徳川家の祖である頼房が、江戸の中屋敷(後に上屋敷となる。)の庭として造ったもので、二代藩主の光圀の代に完成した庭園です。光圀は作庭に際し、明の儒学者である朱舜水の意見をとり入れ、中国の教え『(士はまさに)天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ』から『後楽園』と名づけられました。庭園は池を中心にした『回遊式築山泉水庭園』になっており、随所に中国の名所の名前をつけた景観を配し、中国趣味豊かなものになっています。また、当園の特徴として各地の景勝を模した湖・山・川・田園などの景観が巧みに表現されています。この地は小石川台地の先端にあり、神田上水を引入れ築庭されました。また光圀の儒学思想の影響の下に築園されており、明るく開放的な六義園と好対照をなしています。」とのことである。

同じ文京区に、柳沢吉保の屋敷跡である六義園がある。私はどちらかといえば、六義園が好きでよく行くが、この小石川後楽園には、あまり足を運ぶことはない。好みの問題かもしれないが、例えば春になると咲く枝垂れ桜は、小石川後楽園にもあるのだけれど、もう圧倒的に六義園の方が素晴らしい。池も、六義園の方は和歌調で、馴染みやすいのに対して、小石川後楽園のは西湖の堤などと中国趣味に溢れていて、今ひとつ馴染みがない。それに、秋の六義園の紅葉は、これまた素晴らしい。というわけで、六義園ばかりに目を向ける結果となってしまっている。ただ、小石川後楽園にも魅力はないのかと問われれば、決してそういうわけではなくて、早春の梅林と、それからこの季節の菖蒲と睡蓮は、とても素晴らしいと思っている。

 

小石川後楽園

 

小石川後楽園

 

小石川後楽園

 

 というわけで、まず花菖蒲田に行ったのだけれど、背景に文京シビック・センター(文京区役所)やら、東京ドームやら、挙げ句の果てには後楽園遊園地のジェット・コースターの一部が写り込んで、あまり良い写真にはならない。その割には、カメラを持った多くの皆さんがやってきて、写真を撮っている。都内の花菖蒲なら、堀切菖蒲園や、上の明治神宮の花菖蒲園の方が良いなと思う。

 

 

小石川後楽園

 

小石川後楽園

 

 花菖蒲園の隣には、梅林があって、ちょうど季節なので、梅の実が生っている。それを抜けて、大泉水の周りを回っていくと、紅葉の木の青葉が眩しいほど美しい。地面に生えた羊歯の葉も、梅雨入りした直後のせいか、生き生きとしている。

 

小石川後楽園

 

小石川後楽園

 

 それから最奥の唐門跡を過ぎると、内庭の池があり、睡蓮の葉が丸い大きな固まりとなって、池のあちこちに見受けられ、その中に白い睡蓮の花が咲いている。蓮の実ピンク色も華やかで美しく、私は大好きだが、こういう白い睡蓮も、清楚で綺麗である。マネやモネが、睡蓮を良く描いたのは、同じような気持ちだったのだろうか。



(2018年6月3日記)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カテゴリ:エッセイ | 23:53 | - | - | - |
函館への旅

函館の夜景

 

 「函館への旅」といっても、そんな大それたものではない。仕事で行ったものだから、夕食直前の1時間と、夕食後の1時間半ほどで、それこそ慌ただしく写真を撮って回った程度なので、とても旅と言える代物ではない。しかし、まだ日がある時に撮った端正な教会群と、函館山からの夜景の写真が綺麗だったので、それを残しておくこととしたい。

 私は、函館に行くのは今回で4回目となる。1回目は、大学時代の若干20歳の頃に、旭川へ行く途中に立ち寄った。当時、北海道に行くにはもちろん飛行機もあったが、国鉄の青函連絡船が全盛期の時代である。乗ったのは八甲田丸だったのではないかと思うが、冬の寒い日に青森から津軽海峡を渡って函館にたどり着いた。市内観光のバスに乗り、元町の教会群やトラピスチヌ修道院、トラピスト修道院、それに五稜郭などを回った。その時、とりわけ函館山の上からの函館市内の夜景が実に美しくて、とても感動した。まるで色々な宝石を散りばめた宝石箱のようなものだったからである。六甲山の上に登って見る神戸の夜景も確かに美しくて心を動かされるが、この函館山からの夜景には及ばないと思った。というのは、神戸の夜景はどうしても左右に平面的に広がってしまうが、函館の夜景は左右対称にU字型に黒い海が市内に向けて切れ込んでいるから、その形がこれまた美しいのである。それに、当時は盛んだったイカ釣り漁船の漁り火が、黒い海面を煌々と照らしていて、若かった私には、希望の光のように見えたものである。

 2回目の函館訪問は、確か1990年の頃だ。当時、中学2年生だった息子に初めてゴルフをさせようと、函館本線の鹿部にあるホテルに連れて行ったことがある。その時、函館を通ったので、息子と夜景を見ようと函館山に登った。しかし残念なことに、濃い霧が立ち込めて、夜景を見ることは叶わなかった。でも、鹿部では晴れていて、絶好のゴルフ日和りだったのは、何よりだった。

 3回目は、4年前の7月の北海道縦断の旅の時である。最終目的地がこの函館で、湯の川温泉に泊まって、夜景を見に行った。この時は、やや霧が掛かっていたものの、綺麗な夜景が目の前に広がって、大いに満足したものである。この時点で、夜景見物は、2勝1敗というわけだ。

 そういう経緯を経て、今回の訪問になったのであるが、仕事も含めて函館市内にほんの1日という短い時間だったとはいえ、率直に感じたことを記しておきたい。まずは、市中心部に、住民の姿がほとんどいないのには驚いた。代わって見かけるのは、観光客、それも8割方中国人ばかりということだ。ここも地方都市のご多分にもれず、郊外に大規模スーパーやショッピングモールができて、そちらに人口が吸い寄せられてしまったらしい。それに、イカ釣り漁業が地元の中心産業だったのに、肝心のイカが取れなくなったという。加えて、北海道新幹線が2016年3月26日に開業して以降は、新幹線の駅が函館から「はこだてライナー」で約20分の新函館北斗駅になってしまったこともあると思われる。札幌まで延伸されれば、言葉は悪いが、函館があたかも「盲腸」のようになってしまい、そうなると北海道の玄関と言われた往時の繁栄を取り戻すのは、ますます難しいものと考えられる。

 そもそもこうなったのは、青函トンネルのルート選定にある。北海道の松前と青森県の津軽地方を結んで1988年3月13日に開通したが、これを「西ルート」とすると、函館と大間を結ぶ「東ルート」があったそうで、距離的にはこちらの方が近かったという。ところが、海底までの深さがより深かったことと、一部に掘削に適さない地層があったことから、採用されなかったそうだ。こちらに決まっていれば、函館が相も変わらず北海道の表玄関であったものをと、いささか歯噛みする思いである。

 それに、今回もし時間があれば、松前まで行くつもりだった。ところが時刻表などを調べて驚いた。最短で行くのに3時間、行ったは良いが、函館まで戻るのに待ち時間が多くて6時間という。北海道新幹線の開業で、在来線は道南いさりび鉄道という第三セクターに代わっていて、それも松前に行く途中の木古内までしか行かない。木古内には新幹線の駅があり、新函館北斗駅の次の駅だ。ところが、そこから松前までは鉄道が廃止されてしまっていて、路線バスしかない。木古内と松前間は、これで1時間半だ。松前には新幹線は通るが、木古内のような駅がないために陸の孤島のような状態になっている。ということで、松前に行くのは早々に諦めたが、2031年に新幹線が札幌まで全線開業して以降は、函館がそのような状態にならないかが心配である。

 今回、函館では、ロープウェイ山麓駅の近くの教会エリアを、合わせて回ってきた。函館ハリストス正教会(ロシア正教)、日本キリスト教団函館教会(プロテスタント)、函館聖ヨハネ教会(英国国教)などである。特に、ライトアップされた函館ハリストス正教会は、神々しいばかりに美しい。  では、写真を撮った順に説明して行こう。まず、泊まったホテル「ラビスタ函館ベイ」から函館山の方向に向かった。昔は埠頭の倉庫だった地区が、レストランや物品施設に再生されている。「金森赤レンガ倉庫」というらしい。空の青さとレンガの赤い色との対比が美しい。中には、一面が緑の蔦に覆われているところがある。これも綺麗だ。港にはヨットが浮かんでいる。「Amigo」、スペイン語で「友達」とは、なかなか良い。

 

金森赤レンガ倉庫

 

ヨットAmigo

 

 交差点に来た。さて、どちらに行こうか。このまま函館山の方へは、八幡坂通りを上がっていけば良さそうだ。それにしてもこの坂は、かなり急だ。歩道に階段まである。左手に、日本キリスト教団函館教会があった。アーチの入り口や窓が美しい。HPによると、「日本キリスト教団函館教会は、統一協会(統一原理)、エホバの証人(ものみの塔)、末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)とは一切関係がありません。正統的なキリスト教信仰に立つ教会です。その中でも、東方教会(ギリシャ正教やロシア正教など)に対して、西方教会に所属します。さらに、その西方教会のうち、ローマカトリック教会から、16世紀に分かれた福音主義(プロテスタント)教会です。どなたでも礼拝に出席できますので、どうぞお出かけください。」とある。なるほど、かなりオープンなのだ。

 

日本キリスト教団函館教会

 

シャルトル聖パウロ修道女会函館修道院マリア像

 

 そこから更に八幡坂を登ったところに、シャルトル聖パウロ修道女会函館修道院があって、その脇に設置されているマリア像が、優しさ、慈しみ、母性愛を深く感じさせて秀逸である。この修道院は聞いたことがないなと思ってHPを見てみると、「1878年(明治11年)5月28日、北日本代牧区のオズーフ司教からの要請を受けて、 フランスの修道会本部から派遣された3人の修道女が函館に上陸し、日本宣教の第一歩をしるしました。Srマリー・オグスト、Srマリー・オネジム、Srカロリヌでした。マスールたちは早速、近隣の病人訪問を始め、これがのちの診療所「博愛医院」と名付けられ、。翌年の大火で親を亡くした子どもたちを引き取って育てたのが、現代の乳児院と児童養護施設となりました。また、近隣の少女たちに編み物や刺繍などの手仕事を教えたのが学校の始まりで、明治19年には「聖保禄女学校」が開校しました。現在の「函館白百合学園中学校・高等学校」の前身です。以来、130年余、度々の大火や第二次世界大戦の戦火をくぐりぬけながら、社会福祉・医療・教育が本会の日本での宣教の主な柱となっていったのでした。3人の創立者とその後に続いた宣教女、日本人修道女たちの播いた種が、函館から日本各地に芽吹き成長し実を結んでいるのです。」とある。いやすごいものだ。同じHPに「全世界へ行って、福音を宣べ伝えなさい」とも書いてあるが、フランスの修道会本部の指示だったのだろう。19世紀にこんな言葉に送られて、欧州からすれば未開の地と思われていた極東の島国にやって来て、たった3人の女性で、診療所、乳児院、学校などを次々に作って行ったとは、驚きである。宗教的情熱の為せることとはいえ、3人寄れば文殊の知恵、人間やってやれないことはないという見本のようなものである。

 思わぬところで手間取った。もう少し八幡坂を登って、やっと左右に広がる水平な道に出た。正面には函館西高等学校がある。この生徒さんたちは、毎日こんな急坂を登っているのだから、さぞかし身体が鍛えられることだろう。左手に行くと、函館ハリストス正教会だ。こちらは、函館で最も美しい教会だと思うし、また観光客の敷地内への立ち入りが許されるなど、オープンな精神で素晴らしい。ギリシャ正教と日本との関わり合いについては、去年2月に豊橋ハリストス正教会に行って来たときに神父さんからお聞きした話があるので、そちらをご覧いただきたい。

 

函館ハリストス正教会

 

函館ハリストス正教会

 

 ところで、この函館ハリストス正教会の建物は、横から見ても素晴らしいが、中でも一番美しいと思うのは、やはり正面からの姿である。入り口のアーチ、その上のイコン、更に上に乗っている玉ねぎ型のドームは、見る人に忘れられない印象を与える。脇に回ってみると、聖ニコライの絵があった。ちなみに同教会のHPによれば、「函館ハリストス正教会は、1858年(安政5年)、日本で最初のロシア領事館が箱館に置かれたことに端を発する。1859年(安政6年)、初代ロシア領事、ゴシュケヴィツチは、現在の教会所在地にロシア領事館の敷地を確保。その附属聖堂として1860年(安政7年)、日本で最初の正教会の聖堂「主の復活聖堂」が建てられた。1861年(文久元年)、管轄司祭ワシイリイ・マホフ神父の後任として、修道司祭ニコライ・カサートキンが来函(1912年、東京神田にて永眠。1970年、「亜使徒日本の大主教聖ニコライ」として列聖される)、函館を拠点とした正教の伝道が始まる。1868年(慶応4年)、函館において最初の日本人三名の洗礼が行われた(パウエル澤辺琢磨、イオアン酒井篤礼、イアコフ浦野大蔵)。1882年(明治15年)、管轄司祭として初めて日本人の司祭ティト小松韜蔵が着任し、次第に日本の正教会として根付いていく。1907年(明治40年)の函館大火で焼失した初代聖堂に代わって、1916年(大正5年)、現在の聖堂が建てられた。1983年(昭和58年)、聖堂が国の重要文化財に指定される。」

 

函館ハリストス正教会

 

函館ハリストス正教会聖ニコライの絵

 

 1996年(平成8年)、鐘楼の鐘の音が、環境庁の「日本の音風景百選」に認定されたという。聴いてみると、単調ながらも、鐘の余韻が素敵で、なるほど、さもありなんと思う。これに比べれば、私がよく通りかかる御茶ノ水のニコライ堂の鐘の音の派手なことといったらない。ガラン、ゴローン、ガラン、ゴローンと、うるさく感じるほどだ。ちなみにこちらは、音風景百選には入っていない。

 

日本聖公会函館聖ヨハネ教会

 

 隣に、日本聖公会函館聖ヨハネ教会がある。建物が不思議な形にしているとは思ったら、上空から見ると十字架の形になるようになっているそうだ。聖公会というのは、私にはあまり馴染みがないので、そのHPを見てみると、「1874年、英国人のデニング宣教師の函館上陸と共に、道内最初の聖公会として活動を開始。数度の大火で聖堂を焼失することもあったが、医療、教育事業も展開した。現聖堂は1979年に落成。聖公会の礼拝堂では珍しく、ドーム型の天井を有する。教会は観光の中心地である元町にあり、ハリストス正教会、カトリック元町教会が隣接。年間、のべ1万人に上る見学者が教会を訪れる。」

 「私たちの教会は聖公会と言います。「聖公会」は、カンタベリー大主教を精神的指導者とするイングランド教会を母体に、世界160ヵ国に広がる教会です。(信徒6500万人)。ローマ・カトリックとプロテスタントに大別される西方キリスト教会の中で、聖公会は両者の要素を兼ね備え、その中間に位置しているといわれています。聖公会の信仰は、東アジアには18世紀から19世紀にかけて、英国と米国の両聖公会から伝えられました。日本には1859年(安政6年)米国聖公会から二人の宣教師が渡来、今日の礎を築きました。キリスト教禁令が廃止された後は英国、カナダ聖公会の宣教師団も伝道に加わり、1887年(明治20年)「日本聖公会」が創設されたのです。現在、日本聖公会は北海道から沖縄に至る全国11の教区によって構成され、約300の教会があります。その他、立教大学などの大学及び短大、小、中、高校、各種専門学校等の教育機関、幼稚園、保育園、また聖路加国際病院を始めとする種々の医療事業や社会福祉事業は日本聖公会の宣教の中で生まれました。」

 なるほど、池袋の立教大学や、築地の聖路加国際病院の源流が、聖公会にあるとは、ついぞ知らなかった。

 

カトリック函館元町教会

 

カトリック函館元町教会

 

 カトリック函館元町教会というのがあった。函館ハリストス正教会からは一段、坂下に位置しているので、正教会からその十字架のある屋根がよく見えた。そのHPによると、「カトリック函館元町教会は、横浜山の手教会や長崎の教会とともに長い歴史がある。1860年にパリ福音主義伝道師メルメット・キャションによって仮の教会が建てられ、マリア様の無原罪懐胎に捧げられた。現在の教会は、1921年の函館大火の後、1924年に建てられたものである。重厚な内装が特徴的なゴシック様式で、日本にある大聖堂の中では極めて稀なものである。中央祭壇を含めてすべての彫像は、イタリアのチロル地方(現在はオーストリアの一部)製の木材で造られ、法皇ベネディクト15世によって本教会に送られたものである。」(原文は英語(注)で、宗教用語が多いことから正しい翻訳ではないかもしれない。)

 

旧函館区公会堂

 

 それから、元町公園へと歩いて行った。公園に着くと、旧函館区公会堂がある。いかにも、明治の洋式建築という雰囲気のある建物である。その説明によると、「明治40年(1907年)8月の大火で、函館区の約半数、12,000戸余りを焼失した。この大火で区民の集会所であった町会所も失ったため・・・区民の浄財を募ったが、思うように集まらなかった。当時、函館の豪商と言われた相馬哲平氏は自分の店舗など多くを消失したにもかかわらず5万円の大金を寄付したためこれを元に明治43年現在の公会堂が完成した。この建物は北海道の代表的な明治洋風建築物で左右対称となっているほか、2階にはベランダを配しているほか屋根窓を置き、玄関、左右入口のポーチの円柱には柱頭飾りがあるなど、特徴的な様式を表している。」

 

旧北海道庁函館支庁庁舎

 

 他にも、元町公園には同様な明治洋風建築物として、旧北海道庁函館支庁庁舎があり、また、函館の街の発展に尽くした四天王、今井市右衛門、平田文右衛門、渡邉熊四郎、平塚時蔵の銅像がある。その添書きによると、「明治の函館は本州の都市のように、旧藩の遺産も恩恵もなく従ってその束縛もなく、市民は自主的に市民精神を養い、経済の発展を計り進んだ都市造りをした。造船所、器械製作所等の重要産業を興すと共に日刊新聞の発行、学校、 病院、水道、公園をはじめ、恵まれない人々のための教育、医療施設に至るまで力を尽くした。明治、大正には東京の文化は東北を素通りして北海道に渡ったといわれたが、その北海道とは函館のことである。その繁栄は、平田文右衛門をはじめ四天王の合議によって昔の泉州の堺港のと比べて明治の自由都市と称する人もある。人口は終戦前まで常に全国第十位前後であった。」

 

四天王といわれたこともあったが、今井市右衛門、平田文右衛門、渡邉熊四郎、平塚時蔵の銅像

 

ペリー提督

 

 なるほど、明治期の函館は、中世の堺と比肩されるほどの自由都市で、市民のリーダーによってその合議により運営されたとは、知らなかった。だからこそ、これだけの近代的な街並みができたのだと納得した。しかし実はその前提として、函館が発展する契機となったのが、アメリカのマシュー・C・ペリー提督の来航だった。というのは、江戸幕府の終わり頃に締結した日米和親条約で下田とともに箱館(現在の函館)が開港地に選ばれ、ペリー提督はその下見にやってきたのである。これから、函館は国際港湾都市としての道を歩むことになる。ということで、元町公園に隣接してペリー提督の銅像が建てられている。ちなみに、この来航時には箱館奉行所は元町公園の所にあったが、外敵に襲われた場合にひとたまりもないため、防衛を堅固にすることとし、合わせて蝦夷地統治の拠点として五稜郭の建造が決定され、奉行所はそこに移ったという。私は、かねてから中央から遠く離れた蝦夷地に、なぜあのような近代的な城郭が築かれたのかと思っていたが、なるほど、開港したばかりで列強の軍事力を怖れてのものだったのかと、これも良くわかった。もっとも、それが後日、戊辰戦争の舞台になろうとは、誰も予想し得なかったことだろう。

 

ロープウェイに乗り込み、動き出したばかりの函館の夜景

 

函館の夜景

 

 夜8時頃に、ホテルから函館山麓のロープウェイ乗り場へとタクシーで向かった。直ぐに着いて、往復乗車券を購入して乗り込んだ。湾の方を向いていると、ロープウェイが上がるに連れて、それまで寝ているように見えた夜景が起き上がって立体的になってくる。山頂駅に到着し、早速、夜景が見える展望台へと駆け上がった。3階ほど上になる。幸い、この日は快晴で、霧もなく、目の前にはダイヤモンドがキラキラ光るような函館の夜景が広がっている。これは絶好の撮影日和りだ。これで夜景見物は、3勝1敗である。さっそく三脚を出し、周りの人の邪魔にならないように立てて写真を撮る。左側の湾の岸壁に係留されているのは、青函連絡船だった摩周丸だ。拡大して撮ってみたら、まあまあ写っている。しばらく撮っていて、たまたま右手の太平洋側を見ると、海の中が煌々と満月に照らされている。そういえば、この数日は、木星が地球に大接近していたはずだ。と思って夜空を見ると、あの満月の左上にある惑星らしき星が木星かもしれない。試しに撮ってみたが、そもそも星を撮るレンズを付けているわけではないし、明るい月が隣にあるから、上手くいかなかった。

 

函館に係留されている青函連絡船だった摩周丸の拡大

 

函館の夜景の拡大


 山頂からロープウェイで降りてきて、そこから日中に見た教会のライトアップを撮りに行った。函館ハリストス正教会は白くライトアップされて清浄無垢、あるいは謹厳な感じがし、函館聖ヨハネ教会は白とオレンジ色のライトアップで、暖かい印象を受けた。
 

函館ハリストス正教会

 

函館聖ヨハネ教会



 


 
 函館への旅(写 真)



 

(2018年5月31日記)





(注)History of Catholic Motomachi Church Catholic Motomachi Church has an old history along with Yamanote Church in Yokohama and Ohura Church in Nagasaki. In 1860, atemporary church was built by the Paris Evangelical Missionary Societypriest Mermet Cachon and was dedicated to the Immaculate Conception of the Blessed Virgin Mary. The present church was constructed in 1924 after the Hakodate Great Fire of 1921. Gothic architecture characterizesits magnificent interior, which is quite rare among cathedrals in Japan. All the statues including the central altar were made of wood in the Tirol district of Italy (now part of Austria) and were sent to this church by Pope Benedict XV.


 

 

 

 

カテゴリ:エッセイ | 23:09 | - | - | - |
屋久島への旅

屋久杉

 

1.屋久島とは

 鹿児島県の屋久島に一泊二日の短い日程で行ってきた。先日、NHKの番組で、いかに屋久島が特殊な成り立ちの島かという解説を行っていて、興味を覚えた方も多いと思う。屋久島は、黒潮に浮かぶ周囲100kmの丸い形の島で、2つの地層から出来ている。まず、4000万年前から海洋部のフィリピン海プレートの上に堆積した地層が、プレートの沈み込みによって大陸側のユーラシア・プレートに乗り上げたものが島の基盤となった。次いで1550万年前に地下深部からマグマが上昇して冷えて固まり巨大な花崗岩となり、それが最大1000mも隆起して花崗岩の上部が地表に露出し、島を代表する中央部の山岳地帯の地層が形成されたというものである。ところが、7300年前に屋久島の北30kmのところで鬼界カルデラ火山が大爆発を起こした。その時に発生した火砕流が海を渡って屋久島を襲って生態系が大きく破壊されたと考えられている。大変な歴史があったものだ。

 現在、屋久島の人口は、12,300人、24集落があり、海岸部の平地に住む。屋久島に最初に定住したのが平家の落人だったという伝説があり、そのときに海上から舟を寄せる目印にしたという丸くて白い石が残っている。島の9割が森林山岳地帯であることから、「洋上のアルプス」とも称される。隣の細長い種子島で一番高い山の高さは282mなのに対して、屋久島には1000m以上の山が45座、1500m以上の山が20座、うち宮之浦岳が一番高くて、1936mというから、地中深くで前述のような大規模な地質の運動でもない限り、そんな不思議な地形の島は、できないはずだと納得した。ちなみに、その宮之浦岳だけれども、地元の皆さんが住んでいる地区のどこからも全く見えない。その手前に立つ他の高い山に邪魔されてしまうからである。

 屋久島の海岸部は亜熱帯気候であるのに対して、島の中心部は高山地帯特有の亜寒帯気候であることから、非常に変化に富んだ植物が見られる。まず、周辺部全体が照葉樹林であり、落葉樹はないので、秋の紅葉というものはない。シダ植物が豊富で300種類もある。とりわけウラジロは、新芽が出る季節がとても綺麗である。それから苔類の数は600種類以上もあり、白谷雲水峡は、「もののけ姫」のモデルとなったほど苔の多いところである。標高1,000m以上のところには、杉の大木である屋久杉が生えている。中には昭和41年に発見された縄文杉のように、その年齢が2,000年とも、いやいや7,000年以上とも言われるほど古いものもある(放射性年代測定では、2000年だった。)。ちなみに縄文杉を見るためには完全な登山行となり、往復に平均10時間かかるといわれる。先日やってきた海上自衛隊員は頑張って6時間というから、これが限界である。

 屋久島は古代から神の島であり、その大木の屋久杉は神の木として伐採されてこなかった。それが江戸時代になり、鹿児島の島津藩への年貢代わりに、屋久杉を切って横60cm、縦10cmの平木(ひらき) にして納めるようになった。屋久杉は油分が多くて、屋根を敷く用途に使われたそうである。木目が曲がっていたら平木にはならないので、形の良い杉ばかりが切られた。また、外側はまっすぐでも切ってみたら木目が曲がっていて使えないという杉は、そのまま現地に放置された。更には「土埋木」(どまいぼく)と言って、根とそれに近い部分は油分が多くて加工しにくいので、これもその場でそのまま放っておかれた。普通の杉なら直ぐに朽ち果てるたころだが、屋久杉は何しろ油分が多いことから300年近くも変わらずに残っている。

 ということで、それなりに事前勉強をして行くことにしたのであるが、調べれば調べるほど、縄文杉のところまで行くのなんてとんでもないという結論になった。でも、やはり屋久杉を見なければ始まらないと思い、何とかならないかと思って調べたら、島の中央部の標高1,200m付近に屋久杉ランドというところがあり、そこには一周30分コースから150分コースまであるという。ただ、安房(あんぼう)という集落から内陸部に向かって15kmもあるということで、行くだけで疲れ果ててはどうにもならない。そこで、到着したその日は屋久杉ランドに行く観光コースに、次の日の午前中も屋久島の海岸部を一周する観光コースに乗ることにした。最もお手軽で、とりあえず全部を見られるというわけだ。


2.屋久杉ランド

 そういうことで、屋久島に着いた当日は、空港から「やくざる号」という小型観光バスに乗った。安房(あんぼう)を経由して島の中心部に向かい、屋久杉ランドまで直行した。標高1,000mから1,300mに広がる面積270haの自然休養林とのことで、歩く人の体力と関心に応じて、30分、50分、80分、150分の4コースに分かれているそうだ。私が乗った観光バスには「50分の散策」とあったから、てっきり50分コースだと思い込んでいたが、30分コースだと分かって、少しガッカリした。

 

屋久島レクリエーションの森保護管理協議会のサイトより転載

 

ヤクスギランドの入口

 

 屋久杉ランド(正確には、ヤクスギランド)の入口には小屋があり、そこで森林環境整備推進協力金という実質的な入山料500円の支払いを済ませて、いよいよ出発である。森林内の湿気が凄い。「屋久島は、ひと月に35日も雨が降る」などと冗談まじりに言われるほど雨の多い土地柄で、行ってみると森の中に霧が出ている。だからカメラの自動焦点が定まらない。また、歩く足元にはとりあえず道らしきものが整備されているものの、湿気のために非常に滑りやすい。私はトレッキング・シューズを履いてきたから大丈夫だったが、そうでない街中を歩くような靴を履いていた人は、相当、慎重に歩かないというスリップしてしまう。しかも、高低差のある道を歩く。でも、沢渡りをしなければならないところには、簡単な踏み橋や吊り橋がかけられていて、なかなか考えられている。

 

ヤクスギランドの杉

 

ヤクスギランドの杉

 

ヤクスギランドの杉

 

ヤクスギランドの杉

 

 そうした橋から下を見下ろすと、流れる水が本当に透き通っていて、美しい。島の高地全体が花崗岩でできているので、泥などないのだ。また、岩を抱くように木が生えていたが、長い間にその岩が失われて、結果として木の根だけが空を張っているものすらある。岩は全面が苔に覆われているし、木の根にもびっしりと苔が生えている。羊歯植物も多い。森に特有の清浄な空気に、肺の中が隅々まで洗われるようだ。土埋木が出てきた。つくづく眺めてたくさん写真を撮りたいが、グループだからそれについていかなければならないのが辛いところだ。さりとて、プロの写真家ではないのだから、こんな森林内に一人で来る気もしない。少しその場に留まって写真を撮って、走って仲間を追いかけるということの繰り返しだ。「ときめきの径」と称するこのコース上には、木の股を潜り抜ける「くぐり栂」、「林泉橋」、切株の中から別の木が生えている「切株更新」、「千年杉」(ちなみに屋久島では樹齢千年以上になって初めて一人前の「屋久杉」と呼ばれ、それ以下は「子杉」と言われるそうだ。)、「双子杉」、「くぐり杉」、吊り橋の「清涼橋」などがある。コース上では、この季節には「油桐(あぶらぎり)」の白い細かい花や、薄いピンクの「桜つつじ」、コブラが鎌首を持ち上げたような「マムシ草」が咲いている。
 

羊歯の芽生え

 

羊歯

 

マムシ草

 

桜つつじ

 

 そのコースを歩き終えて、そこから車で20分ほどの「紀元杉」を見に行った。この屋久杉は、周囲8.1m、樹高19.5m、推定樹齢が3000年である。残念ながら何年か前の台風で先端が折れてしまったようだが、それでも下から見上げると堂々とした風格を感じさせる樹姿である。私は写真で自らの姿を撮ることはあまりしない方だが、この時ばかりは紀元杉と一緒の写真を撮りたくなって、ガイドさんにお願いして撮ってもらった。

 

紀元杉

 

紀元杉

 

紀元杉

 

 

 

 


3.屋久島海岸部

 

 

観光コースのパンフレット

 

観光コースのパンフレット

 

千尋の滝(せんぴろのたき)

 

千尋の滝近くの紫陽花

 

 さて、翌日は、別の観光コースに参加した。屋久島は丸い形をしている。それを上から見下ろして時計に例えると、4時の位置の安房から時計回りに1時の位置の宮之浦まで、ほぼ四分の三周するものだ。まずは5時の位置にある「千尋の滝(せんぴろのたき)」である。「滝の左側にある岩盤は、まるで千人が手を結んだくらいの大きさ」ということで、この名が付けられたという。ちょうど「V」字型の谷の中央部から勢いよく水が落ちている。モッチョム岳という不思議な名前の近くの山から流れてきた水だそうだ。でも、落ちる水を見て見て感激するかと聞かれればそうでもなくて、「ああ、滝だ」というのが正直なところである。それよりも、滝の左側にある赤味を帯びた巨大な一枚岩に注目したい。高さ300mで、地下深いところでマグマがゆっくり冷えてできた花崗岩である。滝よりも、むしろこちらの岩に重点を置いて観光客にアピールした方が良いかもしれない。ちなみに一枚岩で、世界一大きなものは、オーストラリアのマウント・オーガスタス(858m)であるが、その次がウルル(エアーズロック。335m)だから、これと比べて決して引けを取らない。

 それからバスでしばらく行くと、「イタリア人宣教師シドッチの上陸地点」がある。鎖国下の1708年に屋久島に上陸したが捕らえられ、長崎経由で江戸に送られて、茗荷谷の切支丹屋敷で亡くなったという。新井白石がシドッチから外国事情を聞いて、本にしたものが「西洋紀聞」である。

 

中間(なかま)ガジュマル

 

中間(なかま)ガジュマル

 

ブーゲンビリア

 

 ガジュマルが植えられている「中間(なかま)集落」を通った。7時の位置である。ガジュマルは桑科の植物で、根を張って長持ちすることから、海からの風の影響を防ぐために家の周りに植えられたという。古いと300年もの樹齢の木もあるそうだ。ちなみに屋久島は、ガジュマルの最北限の生息地だとのこと。どこかでお目にかかったのではないかという気がして、よくよく見ていたら、「ああ、これは『締め殺し』という物騒な名前で聞いたことがある」と思い出した。ベトナムで見たことがある。他の木の上で芽を出して、垂れ下がった気根を絡みつかせ、ついにはその寄生されてしまった木を枯らしてしまうという、ちょっと恐ろしい木である。

 

大川の滝

 

大川の滝からの清流

 

 「大川の滝(おおこのたき)」は、8時の位置にある。この島では、「川」のことを「こ」というそうだ。先端から滝筋が2本に分かれていて、左側の水量が多くて、右側の水量はさほどでもない。ガイドさんが言うには、雨がたくさん降って水量が多いときには、中央から1本になってドドっとばかりに降ってくるらしい。

 

西部林道(せいぶりんどう。世界遺産)

 

西部林道(せいぶりんどう。世界遺産)

 

西部林道(せいぶりんどう。世界遺産)

 

 バスは、「西部林道(せいぶりんどう。世界遺産)」に入る。8時の位置から10時の位置である。海から1000mの高さまで垂直に山がそそり立っていて、それを見ると日本列島の全ての植物層を一度に見られるという。実は、この世界遺産の地区は、杉の木も含めて木は切られていない、手付かずの原生林だという。林野庁が一旦は切る方針を示していたが、色々あった結果、幸いにしてこのように残ったそうな。良かった。おかげで、世界遺産に登録されたという。

 

西部林道にいたヤクザルの母子

 

西部林道にいたヤクシカ

 

 そういう原生林であれば、屋久島だけに生息しているヤクザルとヤクシカが見られないかと、期待が高まる。ちなみに、いずれも本土の猿や鹿と比べて、身体がひと回り小さい。特にヤクシカは体重が平均36kgで、エゾジカの120kgに比べれば、子供と大人くらいの違いがある。林道の終わりに近づいて、もう猿も鹿も撮れないのかと諦めかけたときに、道路の左端に、何尾かの猿が現れた。しかもその内の一匹は、胸に抱いた子猿に授乳中である。バスの中からだったが、何とか撮ることができた。気を良くしていると、今度は道路の右手斜面に鹿が現れた。これがすばしこくて、カメラを向けてもお尻の白い尻尾しか撮れない。やっと撮れたと思ったが、顔が草の葉で隠れてしまったり、お尻を向けられている。こちらは、上手く撮れなかった。

 

永田いなか浜

 

永田いなか浜

 

永田いなか浜の海亀が産卵した卵がある場所を示す標識

 

 その西部林道を抜けて、「永田いなか浜」に着く。永田(ながた)集落だ。こちらは、海亀の産卵地として有名で、もう産卵シーズンが始まっている。私が行った時には海岸の一角が仕切られていた。海亀が産卵した卵がある場所に、人が近づかないようにする保護措置だそうだ。また、産卵する海亀は神経質になっていて、道路を走る車のヘッドライトが目に入るとまた海の中に戻ってしまうので、遮光板が設置されていた。1回の産卵で120個ほどの卵を産むという。見たい観光客は、午後8時頃から海岸に行き、待っているそうだ。

 

永田いなか浜の向かいに見える口永良部島

 

世界遺産へ登録された記念碑

 

 さて、いよいよツアーの終点の「宮之浦ふるさと市場」に着いた。1時の位置である。宮之浦港の入り口である。世界遺産へ登録された記念碑がある。食事後、空港に行くバスが来るまで、すぐそばの「屋久島環境文化村センター」で展示や映画を見て、屋久島の自然について、改めて学んだ。


4.屋久島のいろいろ

 

トビウオ丼

 

 屋久島の名物の一つは「飛魚」である。お昼前に飛行機で着いたことから、レストランに行くと、「トビウオ丼」というメニューがあった。物珍しいので注文したところ、長い羽根(胸ビレ)を含めて一匹丸ごと唐揚げにしたものが出された。これは何だとばかりに眺めていると、「ヒレも食べられるよ」と言われた。そんなものかと思って、ヒレの先端からポリポリとかじり始めた。単調な味だから、掛かっていた甘ったるいソースがなければ食べられたものではない。やっとヒレを食べ終わったので、二つに切られて胴体に取り掛かる。外観はまるで秋刀魚だ。ところが、食べてみると実は白身で、あまり味がしない。ちくわや蒲鉾の材料としてなら良いが、揚げ物はさほど美味しいものではないとわかった。むしろ、泊まったホテルで出てきたように、生の切り身を酢の物にしたものの方が美味しかった。ちなみに、屋久島と鹿児島を結ぶ2隻の高速船のうちの1隻を「ロケット」といい、もう1隻を飛魚の愛称である「トッピー」というそうだ。

 

屋久島グリーンホテル玄関

 

屋久島グリーンホテルのガジュマル

 

屋久島グリーンホテル周辺の散歩コースが描かれた紙

 

屋久島グリーンホテルのハイビスカス

 

屋久島グリーンホテルのコエビソウ

 

 泊まったところは「屋久島グリーンホテル」で、インターネットを通じて予約した。大きな集落の「安房(あんぼう)」にあるから便利だろうと思ったが、その通りだった。島を一周する県道に面していて屋久島ランドへ行く道の起点である。駐車場には大きなガジュマルの木がある。チェックインするときに、ホテル周辺の散歩コースが描かれた紙を渡された。それを片手に少し散歩し、若干の花をカメラに収めることができた。夕食は「鄙にも稀」というと失礼かもしれないが、なかなか豪華で美味しくて、ダイエット中の身には逆にこたえた。鹿の生肉が出されて、「はて、どうしたものか。野生のエゾジカの生肉を食べてE型肝炎になった人がいるからな」と思ったからだ。ふと思い付いて、グツグツ煮立ったしゃぶしゃぶの中に一緒に入れたところ、やや硬めになったが、食べられた。

 

屋久島グリーンホテルの夕食

 

屋久島グリーンホテルの亀の手

 

屋久島グリーンホテルの亀の手を開いたところ

 

 それから、ホテルで、「亀の手」という珍味が出た。いかにも亀さんの手らしきもので、こんなもの食べられるのかと怪訝な顔をして眺めていたら、給仕してくれたお嬢さんが、食べ方を伝授してくれた。要は、蓋を開けるように二つに割って、その中身を食べるようにとのこと。そうしたところ、わずかな量だが、中身が出てきてそれを口にしたところ、カニのような味がした。「これは、ひょっとして海岸のテトラポットによくくっついているあれかな」と思って調べたところ、やはりそうであった。動かないから、当然、貝の仲間だろうと思っていたが、意外なことに、甲殻類つまり海老や蟹の近縁種だそうだ。だから、カニのような味がしたのは当然だった。

 

日本エア・コミューターのターボプロップ機

 

 屋久島への行き帰りに乗ったのは、鹿児島空港との間を結ぶ「日本エア・コミューター」というJALグループの会社のプロペラ機である。ターボプロップ機で、この種の機体に乗るのはYS11以来のことで、若い頃の国内出張時によく乗ったものだ。ブーンという騒音がうるさいことも含めて、とても懐かしかった。この鹿児島からのフライトは、晴れた日なら美しい海や海岸線が見えるはずなのに、残念ながら雲が垂れ込めて、空の旅を楽しむどころではなかった。それでも定刻通りに屋久島空港へと着陸した。着いてから時間があったので、周辺を散歩してみると、空港の端に、丸いお椀を上向きにしたような、遠目では直径20mくらいの灰色の設備があった。成田空港や羽田空港では見かけたことがない設備だなと思っていたら、翌日、その前を通るとき、バスのガイドさん曰く「屋久島空港には管制塔がありません。やって来る飛行機は全て有視界飛行で、これがその設備です。つまり、鹿児島を飛び立って島の近くに来ても、滑走路が見えなければ、島の周囲をぐるぐると回ったり、あるいはまた鹿児島に戻ったりします。」などという。いや、そんなことは全く知らなかった。でも、それは困った。明日は仕事なので、天候が良くなることを祈るしかない。しかし、案ずるより産むがやすしで、実際には、帰りは、時折、小雨がパラつく天候だったので、少々気をもんだものの、幸い鹿児島空港まで遅れることもなく帰ることができた。ただ、鹿児島空港から羽田空港まで行く乗り継ぎの飛行機が機材到着の遅れで1時間ほど遅延してしまった。

 かくして、屋久島への旅行は終わった。盛りだくさんの内容で、とても面白かったが、もう少し森林地帯の写真を撮りたかった。そういう意味で、次回また行く機会があれば、白谷雲水峡と、それから屋久島ランドの150分コースに行って、じっくりと写真を撮ってきたいと思っている。なお、屋久島には、熊も猪もハブもいない。蝮などのハブ以外の毒蛇はいるそうだが、危ないのはそれくらいで、季節が早かったせいか、それとも場所がよかったせいか、蚊や虻のような有害な昆虫もいなかった。ただ、南西部にはヤマヒルがいると聞いているので、気を付けたい。




(2018年5月20日記)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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