母と神戸なつかしの旅

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プロローグ

 今年の夏、もうそろそろ90歳になる母に「どこか、行きたいところがある?」と聞いたところ、「生まれ故郷を見てみたい。」というので、つい2ヶ月前に福井県の山深い町に行ってきたところである。そして、自宅に戻ってきた途端、母が「次は、新婚時代を過ごした神戸に是非行ってみたい。」という。年齢を考えると、いつ何時どうなるかわからないので、早速、企画した。そして、故郷から母と妹2人、東京から私たち夫婦の、合計5人による珍道中が始まったというわけである。神戸は坂が多い街なので、折りたためる車椅子を持ってきてもらった。

 なお、私や両親や息子は、神戸には、平成19年平成20年平成28年に行っている。


1日目〜熊内神社、布引ハーブ園、夜景

(1)熊内神社

 三宮のホテルにチェックインした後、直ぐに、昔々住んでいた中央区の熊内町の、かつての家の近くにある熊内神社(くもちじんじゃ)へ行った。神戸らしく、けっこう急な坂の途中に、神社の鳥居があった。神社本殿へは、その鳥居をくぐって更に上の坂を上がっていかなければならない。そこに車椅子を置いて、私と妹で母の両腕を支えつつ、母に歩いてもらい、登って行った。すると社務所があり、たまたまそこに神社の方がおられたので、来意を告げて本殿の前まで行った。そこはいわば急坂の踊り場で、本殿の隣は私が半世紀以上も前に通った幼稚園である。まだあるとは、感激ものだ。もちろん、建物は近代的になっているが、この踊り場のような境内兼園庭と、そこから眼下に見える神戸の景色、それに大きな銀杏の木は昔と変わらない。ただ、もう一つ大きな木があったが、それはもう幹の途中で切られてなくなっている。


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 そこで、皆で参拝をした。母が「懐かしい。懐かしい前回来たときお父さんを思い出すね。」と言いながら、お賽銭をかなり奮発している。そして昔、幼稚園児だった私が、この急坂を登るのが嫌だと駄々をこねたというエピソードを、妹たちや家内に語る。穴があったら入りたいくらいだ。もっとも、「この急坂を幼稚園児が登るのは、そりゃあ、嫌がるわね」と同情された。うちの一家は、皆優しい。

 さて、帰る段になり、登って来た脇道とは別の本道を降りようとしたら、なんとまあ、これも急階段である。子供の頃の私が、ストをしたのも無理はない。でも、これを降りるのが昔の思い出にもなる。行かざるを得ない。そこで思い出したのが、石川啄木の詩である。

 「たはむれに 母を背負ひて そのあまり軽きに泣きて 三歩あゆまず」

 それなら、私にもできるだろうと思い、母をおぶってその階段を下りようとした。腰を下ろして母を背中に乗せて持ち上げようとしたが、とんでもなく重い。そもそも、両足すら上がらないではないか。家内が、啄木の詩をもじって、

 「やむを得ず 母を背負はんとして そのあまりの重さに驚きて 一歩もあゆめず」

 というようなことを口にするので、大笑いとなった。そこで、母の両脇を2人で支えて下りていき、もう1人は車椅子を折りたたんで別に持ってきてもらうことにした。これは上手くいって、無事に降りられたし、母も歩いたという気がしたという。

 階段を下りきった後、昔、住んでいた家に行ってみようとした。ところが、予め中央区役所に問い合わせてみたものの、かつての町名の何丁目というものが昭和49年に3つに分かれたということだけはわかるが、個々の番地が新しくどの番地になったのかは記録がないのでわからないということだった。せめて現場に行けば何か分かるかと思ったが、母の記憶にある貯水池と観光ホテルのいずれもが現存せず、ついに分からず仕舞いであった。

(2)布引ハーブ園


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 それから車椅子をコトコト押しながら、新神戸駅を通り過ぎて、布引ハーブ園山麓駅からロープウェイに乗った。登るにつれ標高が高くなっていったせいか、次第に寒くなってきた。気温は7度から8度くらいではなかったかと思う。ゴンドラから下りてみると、展望台から遠望する神戸港と神戸の街並みが素晴らしい。ちょうどクリスマスの前哨戦らしく、ドイツフェアを開催中で、ドイツワインやドイツの食べ物を売っている。家内が「グリューワイン」を見つけてくれた。これは暖かいワインなので、寒い時にはちょうど良い。何種類かのソーセージをつまみ、そろそろ暗くなりかけの異国情緒を味わった。

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 建物とその飾りを見ていると、今はドイツにいると言われても、そうかもしれないと思うくらいだ。そうこうするうちに日が沈み、辺りが暗くなりかけ、電飾が美しく輝く。すると、思いがけず、3人の女性がまるで妖精のごとく、舞台上に登場した。まず行ったのが、クリスマスのイルミネーションの点灯だ。1、2、3の掛け声ととも、一斉に灯った。建物から放射状に広がるイルミネーションが実に美しいし、また周りの木が真っ赤に照らされているのも本当に綺麗だ。そこに流れてくる3人の女性のコーラスも、素晴らしいもので、思わず聞き行ってしまった。母も「良いわね。良いわね。」と何回も言う。旅行の良い記念になった。

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 帰りがけに見た神戸港と神戸市の夜景は、これまた非常に美しいもので、しかもそれが下りのロープウェイから見ると、刻々に変化するから面白い。私は今年5月に函館山からの夜景も見たが、それは両側から海がUの字型に入り込んでいる中で真ん中に挟まれた市街地が光り、港に元青函連絡船の灯火やイカ漁の舟の漁り火が見えるという美しさである。それに対して、神戸の夜景には動きやストーリー性がないと思っていたが、こうしてロープウェイに乗って、変化する夜景を見るという楽しみがあるとは知らなかった。さて景色とドイツ気分を堪能して、ロープウェイで降りてきたら、もう夕食時になっていた。それで、山麓駅近くにあるANAクラウンプラザ・ホテル神戸の中華料理店に入り、広東料理を堪能した。母をはじめ、皆さんが良く食べること、食べること。元気で良かった。

(3)神戸港の夜景

 さて、母をホテルに送り届けた後、私と妹たちは、神戸港の夜景を撮りに行った。まずモザイクに行き、そこから対岸のメリケンパークにある神戸ポートタワー、神戸海洋博物館、神戸メリケンパーク・オリエンタルホテル の3つを撮る。私のカメラ、EOS70Dは、光を集めすぎて、赤いポートタワーがまるで赤い蝋燭のように見え、緑の博物館が緑の凧のように写ってしまう。性能が良すぎるのもよろしくない。考えた末、露出を絞って暗くして撮ったら、ポートタワーや博物館を構成する線材が浮き出て見えるように撮ることができた。妹たちは、盛んに風景を褒める。連れて来た甲斐があった。


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 モザイクの観覧車に乗った。これだと、メリケンパークのポートタワー、博物館、ホテルの3セットを立体的に見ることができるし、地上からは見えない遠方の夜景を楽しむことができる。でも、たった15分間しかないのが欠点だ。降りてみると、隣にアンパンマン・ミュージアムがあった。孫たちを連れてくれば喜ぶのにと思ったが、今回は平均年齢が70歳近い5人組なので、さすがに孫の世話までは無理だった。


2日目〜網敷天満宮と須磨寺

(4)綱敷天幡宮

 朝早く三宮のホテルを出発し、JR神戸線で、かつて神戸で住んでいた二番目の家がある須磨に向かった。まず、近所だった綱敷天幡宮を訪れた。平安時代の創建なので、もう1,100年以上の歴史があるらしい。学問の神様である菅原道真を祀る。境内を歩くと、面白いものが多い。同神社のHPによれば、


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 (a)願いをかなえる「なすの腰かけ」・・・何でも願いが叶うというなすの腰掛け 「なす」の花は一つの無駄もなく実を結び また「成す」と語呂が同じ処より努力はむくわれ願いが叶えられるという縁起をふくみます。 願いを込めて「なす」に腰かければどんな願いも叶えられます。ということでそれぞれ願いを込めて実際に座ってみたが、はてさて、どうなることだろうか。

 (b)「綱敷の円座」の敷物・・・道真公がお休みになられたとされる漁網の円座を模した縁起物。道真公は九州太宰府に左遷された際、須磨の浦で波が高くなり航海を中断されました。その時、漁師達が網の大綱で円座を作り、お休みになられた事にちなんで創建されたのが綱敷天満宮です。こう表現しては不謹慎かもしれないが、我が家の食卓上にある鍋敷きそっくりなので、親しみが持てた。


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 (c)「波乗り祈願像」サーフボードを持たれた菅公さん・・・「波乗り祈願」とは、成功を収めるために、うまく時流の波に乗ることを祈願するものです。決して自分本位な行動をとるのではなく、時を読み、流れに逆らわず、自らの平衡感覚によって状況に適応していくことが、人間が生きていく上で大切だと思います。綱敷天満宮の近くには、古くから風光明媚な景勝地として親しまれている須磨の浦があります。 今も、夏になれば、須磨海岸には、多くの若者や家族が訪れ、賑わいます。この像は、時代の荒波に乗り、一人でも多くの方々が幸せになることを願い、須磨の海でサーフボードを抱える幼少時代の菅原道真公をモチーフに制作、建立しました。最初にこれを目にしたとき、平安時代の衣装を着けて、どう見てもサーフボードらしきものを持っているから、まさかあの時代にあるわけがないと思って、頭が混乱した。須磨海岸に来ているサーファーに来てもらおうというのだろうが、それを神社が考えるなんて、いかにも関西らしい。

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 (d)「牛」・・・ 「菅原道真公の出生年は丑年である」「大宰府への左遷時牛が道真公を泣いて見送った」「道真公は牛に乗り大宰府へ下った」「牛が刺客から道真公を守った」「道真公の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」など菅原道真公と牛にまつわる言伝えや縁起が数多くあります。これにより牛は天満宮では、牛は御祭神の使者とされ、縁起がいいとされてます。この像は、私も小さい頃に触った覚えがある。

 このうち(d)「牛」は、いずれの天神さまにもあるが、(b)はともかく、(a)や(c)などは一体どうやって考えついたのか想像もできない。このほか、(e)5歳の菅原道真公、(f)菅公母子像 、(g)北海道の名付け親のプレートなどがあり、まるでテーマパークのようだ。いやむしろ実際にそうだったのかもしれない。これらを見て回っていると、時間が経つのを忘れるほどである。ちなみに、綱敷天満宮は、平成7年の阪神大震災の際に相当の被害を受けたが、見事に復興した。しかし、それで境内の雰囲気がガラリと変わってしまっていて、私にとって昔を思い出すよすがは、(d)「牛」くらいしかないのは誠に残念である。

(5)天 神 町

 綱敷天満宮を脇の道から出た後、昔、住んでいた家に向かう。私の記憶の通りで、場所はすぐにわかった。前回11年前に来た時と相も変わらず、私の姓と同じ姓の方が住んでおられた。そこから少しのところに、私が通った小学校がある。その正門へと歩いて行った。実は私は、1982年にここに来たことがあるが、その時の正門と校舎はまだ昔の面影を残していた。ところが、今回見た校舎は既に建て替えられて、見違えるように非常に立派になっていた。

(6)須 磨 寺


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 小学校前から須磨寺に向かった。山陽電鉄の踏切を過ぎて、商店街を通り抜けたところにある。ここは、源平合戦の折に源氏の大将源義経の陣地だったことで有名なお寺である。そのHPに書かれていたことを要約すると、「源義経は、海側に陣を構えた平家の裏をかいて、山から崖を馬で駆け下り逆落としの奇襲をかけ、平家を打ち破った。その時、源氏の武将である熊谷次郎直実が、波打ち際で逃げ遅れた立派な鎧を着た平家の武者を発見し、一騎打ちでこれを倒した。首を取ろうと兜を取ると、自分の息子と同じ年の頃16ないし17歳と見える紅顔の美少年、平敦盛だった。見逃そうと思ったが、梶原景時ら味方の軍勢がすぐそこまで近づいてきていて、それもできない。やむなく首を取ったが、腰に一本の笛が差してある。今朝、平家の陣から聞こえてきた美しい音色を出した人物だと知って、ますます後悔の念に駆られる。やがて熊谷次郎直実は、殺しあわねばならない戦の世に無常を感じ、法然上人の元で出家した。」とのことである。ちなみに、熊谷次郎直実が熊谷蓮生法師として、平敦盛を弔って念仏一筋に暮らした念仏三味院が、長岡京の光明寺の前身である。ちなみに、山門の両脇にある仁王像つまり「金剛力士像」は、非常に力強くて立派だと思ったら、それもそのはずで、運慶と湛慶の作だった。

(7)鉄人28号


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 再びJR須磨駅まで戻り、新長田駅で降りた。そこにある、鉄人28号(横山正輝原作)の像を見物する。地元商店街を中心に、震災復興と地域活性化のシンボルとしての期待を託して作られたものだが、塗料が剥げたりしたため、大きな修理がされて、つい最近、それが完了したそうだ。だから、前回2年前に来たときに比べて、まるで見違えてしまった。車椅子の母を先頭に、おじいさんの私、おばあさんの家内や妹たちが一斉にそれを見上げる。側から見るとすれば、おかしな風景だと思って可笑しくなった。そのあたりでお昼になる。鉄人28号の前のビルに、たまたま「たこ焼き」屋さんがあったので、大阪風たこ焼きと、明石風の玉子焼きをいただいた。いわゆるB級グルメだが、皆には、おつゆのある玉子焼きが好評だった。

(8)神戸どうぶつ王国

 JRで三ノ宮駅に戻り、そこから神戸ポートライナーに乗って、京コンピュータ前駅で降りた。その駅のすぐ前が神戸どうぶつ王国である。目玉は、鷹や梟を飛ばすショーであり、これを母や妹たちに見てもらうつもりだった。三連休最後の日なので、親子連れが多い。入ると、まずは室内で、たくさんのフラワーポッドが天井からぶら下がっている。右手に進んで、色とりどりの睡蓮が数多く咲いている2つの大きな池に出た。そのうちの一方の池を大勢の人が座って取り囲んでいる。我々は行くのが遅れたので、2つの大きな池を挟む通路に位置どりをするしかなかった。ところが、これが幸いする。


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 バードショーの時間になった。人が取り囲んでいない方の池の端から、猛禽類の鷹が大きな羽を広げていきなり飛んでくる。我々の真上だ。バタバタという音で、思わず、首をすくめるほどだ。母も、車椅子に座っているのに、皆と同じく首をすくめる。「そんなこと、しなくても大丈夫だよ。」と言うと、「あら、そうかい。」と答える。それがバードショーの始まりで、睡蓮の池の反対側にいる係のお姉さんを目掛けて、睡蓮の池の上を鷹や梟、果ては青、赤、緑と黄色の派手な熱帯の鳥まで、バタバタと飛び交う。その度に、観客が「おおう!」、「キャー!」と大騒ぎの興奮が巻き起こる。中には、飛び方の下手な鳥がいて、睡蓮池スレスレに飛んで落ちそうになるから、ヒヤヒヤする。母も「すごいねえ。やっぱり都会は面白いねえ。」と、ショーが終わってからも、興奮冷めやらぬ様子である。

 それから、母や妹たちと、我々夫婦の二手に分かれて、自由に見て回った。我々は足が疲れたので、まず喫茶コーナーに行って座り、アイスクリームを食べながら休んだ。そして腰を上げてペリカンフライトや、動かない鳥ハシビロコウなどを見物した。母たちは、それに加えて、カピバラなどをじっくり見たらしい。

(9)神戸牛レストラン

 三宮のホテルに戻って、しばし休憩の後、夕食の時間となった。せっかく神戸に来たのだから、少し張込んで神戸牛のステーキを食べてもらおうと考えた。インターネットで調べ、良さそうなところに電話をして予約し、車椅子を押しながら出かけた。5人もいるので、要所要所で地下街の地図を解析したり、斥候を放ったりして、三宮駅の地下街をどこをどうやって歩いたかは二度と説明できないくらいに複雑な経路を辿って、ようやく到着した。

 その神戸牛レストランでは、コースを頼み、母の分についてはサイコロステーキ状に小さくカットしてもらうことにした。なかなか充実したコースで、前菜のサラダ、ビーフシチューから始まり、スープ、メインのビーフステーキが出てきた。ビーフステーキについては、「まず何も付けないでビーフそのものの味を味わってください。少し甘く感じるのが神戸牛です。それからお好みで、当店特製ソースや、岩塩、わさびを付けてお召し上がりください。」と言われた。それぞれ試した結果、私は、わさびに特製ソースの組み合わせが美味しいと思った。それから、デザートとして、色とりどりのケーキ、アイスクリーム、フルーツの盛り合わせが出て、最後にコーヒー・紅茶が給仕された。驚いたことに、母が全てのプレートを平らげてしまった。これには妹たちもびっくりして、「家ではあまり食べないのに、こんなに食べるなんて、珍しいわ。」という。妹たちに、母の近況を聞くと、デイサービスに行き始めてもう5年目で、古株になって、すっかり取り仕切っているそうだ。まだ頭もしっかりしているし、口もそれなりに達者なので、さもありなんという気がする。

(10)神戸市役所展望ロビーの夜景

 食事の後、そろそろ暗くなってきたので、花時計の前を通って、神戸市役所1号館24階の展望ロビーに行った。地上からおよそ100mの高さからの夜景が楽しめる。神戸市のHPによると、「展望ロビーからは主に南側の眺望が楽しめます。ここからは、東は六甲アイランドやHAT神戸の街並みが、南は東遊園地からポートアイランド、晴れていれば対岸の紀伊半島まで見渡すことができます。西はハーバーランドの街並みなどが見ることができます。」ということである。昨夜見たモザイクからの眺めを反対側から見ていることになるが、残念ながら神戸ポートタワーと神戸海洋博物館は、ビルの谷間から顔を出しているような感じである。北側には、市街地が広がり、その暗い背景になっている背後の山肌の市章山、錨山、堂徳山に電飾の灯りが点いている。市章山には文字通り神戸市の市章、錨山には港町の神戸らしく錨マーク、堂徳山には20分ごとに「KOBE」「北前船(正面)」「北前船(側面)」のイルミネーションが現れる。なかなか美しい。それを見て、皆満足してホテルに帰った。


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3日目〜神戸異人館と京都

(11)風見鶏の館

 神戸の異人館街といえば、必ず取り上げられるのが風見鶏の館である。振り返ってみると、私は、8年前に訪れたことがある。こちらは、ドイツ人貿易商ゴットフリート・トーマス氏の自邸として、明治42年(1909年)頃に建てられた。外観は非常に美しく、1階から2階にかけて赤いレンガを多用していかにも重厚な感じを出しながら、その上には軽やかな白い壁の2階が乗り、更にその上には尖塔があって、しかもそのてっぺんには風見鶏が乗っている。よくできているものだ。背景は緑の山なので、まるでおとぎの国にでもあるような邸宅である。


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 ところで、この風見鶏の館が有名になったのは、昭和52年にNHKの朝のドラマ「風見鶏」の舞台になったからである。主演は、新井春美さんで、ドイツ人のパン職人のブルックマイヤー(蟇目良)と結婚して、本格的なヨーロッパ風のパン作りに情熱を傾けるという話だった。私はこの番組をかすかに覚えているが、妹たちは、まだ小さかったことから、全く知らないという。

 他の異人館の開始時間が9時からであるのに対して、この館は8時半からなので、それに間に合うように三宮のホテルから直行した。真っ先の入場者として入ったところ、車椅子の母がいるせいか、係の人にとても親切にしていただいた。クリスマス・ツリーの前で家族全員の写真を撮っていただいたり、母にサンタさんの帽子を被せて長椅子の前に座ってもらって記念撮影をしたりと、サービス満点で、非常に有り難かった。


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 1階には、玄関ホール、応接間、居間、食堂、書斎があり、調度品も豪華で、なかなか見ごたえがある。ちょうどシーズンのクリスマスの飾り付けもきらびやかで楽しい。2階には夫婦の寝室、子供部屋、客用寝室、朝食の間があるが、1階ほどには丁寧には作られていない。ベッドなどは、むしろ簡素なものである。子供部屋の遊び道具は、今と変わらない。

 ここからは、展示品の中にあった記述なので、いささかうろ覚えではあるが、敢えて記録しておきたい。この風見鶏の館の主であるトーマス氏は、娘のエルザを伴って夫婦で一時的にドイツに帰っていた時に、たまたま第一次世界大戦が起こり、日本は1914年8月、ドイツに対して宣戦布告をした。それに伴い、この館をはじめとするトーマス氏の財産は、敵性資産として没収されてしまったそうだ。財産を全て失ったトーマス氏は、ドイツ本国で困窮したという。その消息は長い間、不明であったが、ようやく娘さんのエルザが生存していることがわかった。そこで、30年ほど前に88歳のときに招待されて、自分の部屋を見て感激していたという写真と記録がある。

(12)萌黄の館

 萌黄(もえぎ)の館は、風見鶏の館のすぐ近くにあって、淡いグリーン色でコロニアル様式の外観の、これまた軽やかで美しい建物である。明治36年に、アメリカ総領事のハンター・シャープ氏の自宅として建てられた。1階には、ホール、応接室、書斎、食堂など、2階には居間、寝室、化粧室、子供部屋があり、それぞれに壁紙が違っている。また、大きな窓が付いた2階のベランダは、とても広くて気持ちがいい。裏に回ってみると、庭の片隅にレンガの大きな塊が転がっている。阪神淡路大震災のときに、屋根の上の暖炉の煙突が落ちてきて、女中部屋の天井を突き破ったそうで、その現物である。


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 ちなみに、この萌黄の館の入り口の右にある公園のベンチに、サックスを吹いているおじさんの等身大の像がある。ちょっと見る分には面白い像なのだが、その左に車椅子に乗ってニコニコ顔の母がいると、お互いにとっても似合っていて、皆で大笑いをしてしまった。

(13)ウロコの家

 前回11年前に訪れたとき、私はこう書いた。「うろこの館というのも、入口に天灯鬼、竜灯鬼がいたり、建物の中にはドンキホーテとサンチョパンサの像があったり、ガンダーラの仏があったりで、統一性がなく何が何だかわからない趣味であるが、どうやら像一般を見境なく集めるのが性癖だったらしい人の館である。こんなものを見て頭が混乱したあと、緑豊かな庭に出て、一瞬ほっとしたが、ふと横を見るとアンコールワットにある仏頭があったし、反対側を見ると、19世紀ロンドンで使われていた赤い電話ボックスがあった。」


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 では、今回はどうだったかというと、まず右の尖塔にはサンタクロースなどのクリスマスの飾り付けがあって、なかなか見ごたえがあり、楽しい。しかも左の尖塔との間の屋根の上には、よく見るとアメリカのトランプ大統領が北朝鮮の金正恩と握手している人形が乗っていて、思わず笑ってしまう。

 ウロコの家の中に入ると、前回驚いた数々の像がほとんどなくなっていた。併設の「うろこ美術館」に移してしまったようだ。でも、建物の外側にある大きな仏様の顔、ギリシャ風の女性像、猪の像、赤い電話ボックスはそのままで健在だった。

 ところで、このウロコの家は、大変急な坂の上にあるのである。車椅子には大敵で、バリアフリーどころかバリアフルである。車も通れない細い道だ。それでも行くときはさほどの高低差がなかったので良かったが、下り坂を車椅子で普通に行くと、転げ落ちてしまうのは必定だ。そこで、車椅子を逆に向けて、私の身体をブレーキ役にし、ゆっくりと坂下まで降りていった。

(14)ベンの家

 そうして降りて行って着いたところが、ベンの家の近くである。こちらも、11年前にウロコの家とともに訪れている。その時の感想は、「家の中は、シロクマ、バッファロー、ガゼル、トラなど、剥製の山である。何でも、貿易商だったベン氏は、商売を番頭に任せて、もっぱら趣味の狩猟に打ち込んだという。人生の理想というか………、とんでもないというか………、現代ではありえない生き方である。」


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 ウロコの家と異なり、こちらは、全くと言ってよいほど、前回と変わっていない。よく保存されている。ただし、現代では動物保護の風潮がますます強まっているから、仮にこれがヨーロッパにあったとしたら、今頃は焼き打ちに遭っていたかもしれない。それにしても、ベン氏は根っからのハンターだったのだろう。前回は気が付かなかったが、ベン氏の寝室にはベッドがなく、粗末なハンモックとキャンプ用具があっただけである。

(15)神戸北野美術館

 そろそろお昼になったので、どこかよいレストランはないかと思ってiPhoneを触りかけたら、ベンの家の向かいに神戸北野美術館というものがあって、そこで食事をすることができるらしい。階段があるから、母には車椅子を降りて歩いてもらったが、中に入ってその家庭的な雰囲気が気に入った。こちらは、明治31年(1898年)に建てられたアメリカ領事館官舎の建物である。

 現在、「モンマルトルの丘の画家たち」と題する展示がされている。「モンマルトルの丘地区を愛した画家たちの作品ポスター、テルトル広場で描く画家たちの作品、ムーランルージュの紹介、モンマルトル地区の紹介、ロートレックの作品のポスター」というところで、食事を待つ間、それらを見て回り、特にロートレックについては何も知識がなかったので、そういう人物だったのかと初めて知った。つまり、1984年に名門の伯爵家に生まれたが、生まれながらの遺伝病で脚が発達せず、成人した時の身長は152cmに過ぎなかった。父からも疎まれたので、パリに出て絵画を学ぶとともに、自分のような恵まれない境遇の娼婦、踊り子のような夜の世界の女たちに共感を覚えてデカダンな生活を送った。そして恵まれない彼女たちの様子を、愛情を持って描いたという。

 我々が案内されたのは、絵やロートレックを紹介するビデオが流されている部屋で、そこにあるのは我々のテーブルだけという、まるでどこかの家庭のダイニングルームにいるような雰囲気だったので、とてもリラックスできた。出てきた料理も、ホタテかサーモンがメインで、そこにワッフルが添えられていて、これが実に美味しいものだった。

 北野地区からタクシーに分乗して三宮に戻り、預けておいた荷物を取ってきて、そこから大阪に向かった。母と妹たちはそこから特急サンダーバードに乗って北陸方面へと帰っていった。「こんな楽しい、そして美味しいものを食べ、珍しいものを見た旅行はなかった。」ということで、喜んでもらえて良かった。

(16)鯖寿司いずう


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 我々夫婦は大阪からJRで京都に向かった。程なくして着いたので、京都駅近くのホテルにチェックインして一休み。どういうわけか、ホテルの前に警察のパレード隊が通った。交通安全のためのようだが、先頭を行く旗を持った女性の一隊が、命令調の掛け声で旗の持ち方の一斉切り替えをやっているところは、いかにも警察官らしいと思った次第である。その後、宿を出て四条烏丸の交差点に行き、四条通を河原町まで、久しぶりに夫婦で散歩した。ところが、通行人がひどく多くて、新宿駅の通勤時とあまり変わらないほどの混雑で参った。それでも、何とか鴨川を渡って、祇園地区に行こうとすると、新装なった南座が目に入って、その歌舞伎の看板をしばし眺めた。寿曽我対面、鈴ヶ森、封印切、連獅子などの歌舞伎の演目の看板が掛かっていて、その上にはずらりと歌舞伎俳優の名前が書かれた招き看板が掲げられている。全部で50枚あるそうだ。

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 鯖寿司をいただくために、祇園の「いずう」に行った。昔ながらの変わらぬ店構えを残している。席に着くと、家内が「この席は、以前来たときにも座ったところよね。」という。そういえば、その通りだ。前回来たのは10年も前のことなのに、よく覚えているものだと感心した。注文したのは、「鯖姿寿司」と「香子巻寿司」である。特に、鯖姿寿司の方はボリュームが多いので、1人一つは、とても多過ぎて無理だ。そこで、これらを一つずつ注文し、分け合うことにした。

 鯖姿寿司が運ばれてきた。昆布に巻かれていて、それを取ると、鯖の身が分厚い寿司が現れた。いや、実に濃厚な味ながら、魚特有の臭みがなく、するりと食べられて、口の中に旨味がふわりと広がる。美味しい。来て良かった。「香子巻寿司」の方は、香子つまりお新香の河童巻きである。こちらも箸休めのように食べると、あっさりして良い味である。食べながら店の様子を見ていると、次から次へとお客さんがやって来た、しかもその7割ほどは、持ち帰りの客である。よく流行っているらしい。結構なことだ。すっかり満足して、店を出た。家内は疲れたというので一人で京都駅近くのホテルに帰り、私は永観堂の紅葉のライトアップを見に行くことにした。

(17)永観堂のライトアップ

 永観堂は、正式には「浄土宗西山禅林寺派総本山禅林寺」といい、空海の高弟の真紹僧都を開基とし、本尊は阿弥陀如来である。古くより「秋はもみじの永観堂」と讃えられるほど紅葉の名所として知られる。最近のインターネット検索でも京都の紅葉ランキングで第1位である。


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 おそらくそのためであろうか、タクシーで永観堂に着いてみると、ものすごい数の人が並んでいる。事前に購入した拝観券のない当日券の人、つまり私のような気まぐれ観光客が並ばなければいけないらしい。「いやはや、ほんの数年前まではこんなことはなかったのに。まるで上野動物園でパンダのシャンシャンを見る時のようだ。」と思いながら、その長い列に並ぶ。暗い中を、列がうねうねと続く。ある時は入り口に近づいたと思ったらまた離れということを繰り返してようやく拝観券売り場にたどり着いた。ここに至るまで45分もかかり、身も心もああ疲れた。あまり、人には薦められない。

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 ライトアップされた永観堂の紅葉が暗い空にくっきりと浮かぶ。確かに、これは綺麗だ。あちこちにレンズを向けて、夜景モード(5枚の写真を連写し、それらを自動的に合成して手ブレを修正するモード)で撮る。放生池の寿橋を渡っていると、対岸の紅葉が水面に写って本物よりも本物らしくて美しい。ところが、危ないから、橋の上からは撮ってはいけないという。橋を渡り切って撮ろうとすると、今度は岸辺の樹木が邪魔して、水に写る紅葉が上手く撮れない。なかなか思い通りにはいかないものだ。それでも、あれやこれやとかなりの写真を撮って、満足して家内の待つホテルに戻った。


4日目〜京都

(18)東 福 寺

 翌朝、早くに起きて2人で朝食を摂ったが、和風で、しかも美味しい料理ばかりが並んでいて、大いに満足した。これは良いホテルだ。ダイエットの観点からしても、朝食にたくさん食べることは、理にかなっている。「朝食は貴族のように、昼食は平民のように、夕食は乞食のように」と言われる所以だ。もっとも、夕刻に会食が予定されていて貴族の食事のようになってしまう日もないではないが、そういう時でも朝はいつも通り豪華に、しかし昼はごくシンプルな食事にするよう心掛けている。


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 タクシーで近くの東福寺(臨済宗東福寺派大本山)に向かった。日本最古にしてかつ最大級の伽藍だという。8時半の開門の20分前に着いたが、既に長蛇の列だ。最近の京都は観光客が激増したせいか、どこへ行ってもこのような様子だという。困ったものだ。タクシー運転手さんによると、「例年は秋の紅葉と春の桜、それに夏休みのシーズンは混雑しますんですが、それでもさすがに1月から2月にかけては観光客が非常に少なくなって、京都は落ち着きを取り戻すんですけれども、なんですなあ、近頃はそういう時期でも外国人観光客がどんどん来てしまいますねん。」ということらしい。

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 開門時間になって列は動き出し、まずは通天橋を見に行く。ここは、まず谷底に下る途中で谷川の両脇から張り出す紅葉の木々を見る。谷川と崖を覆う苔の緑の絨毯と、色とりどりの紅葉の葉の対比が言葉を失うほどに美しい。それから宙に浮いている通天橋を見上げてその造型の美を感じ、次に橋の上から下界に広がる赤と黄色の雲のような紅葉を見下ろし、更にその橋と同じ高さで橋を取り巻く紅の雲のような紅葉に感動するという、単に平面的だけでなく、立体的にこれでもかというほどに紅葉を堪能することができる。私は、この東福寺が京都で一番の紅葉の名所ではないかと思う。

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 次に、東福寺の方丈(禅宗寺院の僧侶の住まい)を拝観させていただいた。東西南北にそれぞれ一つずつ、4庭が配され、「八相成道(釈迦の生涯に起こった八つの重要な出来事)」にちなんで「八相の庭」と称されている。正式には「東福寺本坊庭園」という。これは、あの著名な作庭家である重森三玲(1896-1975年)によって昭和14年(1939年)の手によるものである。非常にモダンで、これが70年前のものとは思えないほどである。

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 まず目に入るのが、峻険な山々を想像させる大小様々な岩が林立する石庭の「南庭」である。白い砂に水が渦を巻くような雲状の溝が描かれており、それぞれ、八相成道にちなんで、蓬莱、方丈、八海、五山など八つを表すそうだ。それらをしばし眺めていると、雑念か何かは知らないが、色々な思いが心に浮かぶ。流石に禅寺である。「西庭」には、井田市松といって、白い砂地にサツキを刈り込んだ大きな市松模様が置かれている。「北庭」には、その市松模様がもっと小さくなって、緑主体のように見え、その背景には赤い紅葉と黄色い紅葉が美しい。なんとモダンな庭なのだろう。「東庭」は、やはり雲状の溝が刻まれた白い砂地の上に、北斗七星を模して円柱形の柱が立てられ、その向こうには天の川を模した緑の生垣が配されていて、誠に素晴らしい。

(19)圓 光 寺


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 東福寺をタクシーで出て、岡崎と京都大学を経由して一乗寺に至り、右折して詩仙堂のところを左手に曲がって「圓光寺」に着いた。「臨済宗南禅寺派 瑞厳山圓光寺」が正式な名称という。実は私はこのお寺を訪ねるのは初めてで、その縁起によれば、徳川家康が1601年に、足利学校の学頭を招いて伏見に圓光寺を設立して学校とし、それが相国寺山内を経て60数年経って現在の地に移転したということらしい。こちらには、山門をくぐってすぐに、「奔龍庭」という実に特色のあるお庭が広がる。白い砂による石庭なのだが、全体を龍に見立てて、頭部に当たる所に迫力ある石を置き、龍の身体を表すように瓦を埋めて、力強い線を描き出している。一度見たら、二度と忘れないほどの庭である。

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 「十牛の庭」は、牛を追う牧童が描かれた十牛図を題材にして近世に造られた池泉回遊式庭園で、紅葉が真っ盛りである。南側には栖龍池があって、なかなか風情がある。この庭園を室内から眺めると、まるで一幅の絵画のごとくに思える。庭の片隅には、水琴窟がある。その前を通りかかると、何とも言えない優しい音が聞こえる。竹の棒が交差するように無造作に2本、設えてあって、それに耳を近づけると、埋められた甕の中で水滴が落ちて砕ける、はっきりとした音を聞くことができる。心が洗われるようだ。これを聞くだけでも、拝観した値打ちがある。「淡桜庭」には十一面観音様がいて、春になると周りの桜が美しいらしい。そこから竹林の脇の道を登って山に登ってみると、開基徳川家康を祀ったお墓がある。やはりこれも、東照宮という由。

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(20)詩 仙 堂

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 私は、詩仙堂へは学生時代を含めて、何度も訪ねたことがある。昔は、こんな鄙びた地区までやって来るような参拝客など、あまりいなかったものだ。でも今では、紅葉の季節のせいかもしれないが、ひどい混雑なのを目にして、少し驚いてしまった。こちら詩仙堂は、現在は曹洞宗永平寺の末寺で、徳川家康に仕えた石川丈山が33歳で隠退後、朱子学を修め、禅寺の和尚に禅を学んだ後に、59歳で造営し、没するまでの30余年を過ごしたところである。HPによると、丈山は、「清貧の中に聖賢の教えを自分の勤めとし、詩や書や作庭に寝食を忘れてこれを楽しんだ風雅な文化人」であったとのこと。嘯月楼は、普通の屋根に小さな望楼のような屋根付き展望階が乗っている建物であるが、そこから紅葉の庭を眺めると、まさに絶景としか言いようがない。ときどき、竹を叩くような音が聞こえると思ったら、「鹿おどし」の音だった。

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 詩仙堂の紅葉を十分に見たので満足をして、そこから叡山電鉄の一乗寺駅の方へと2人で歩いて行った。僅か10分ほどの距離だが、私は昨夜の永観堂で疲れたので、ちょうどお昼時だし、どこかよいレストランか喫茶店がないかと思っていた。すると、京都中央信用金庫の建物を過ぎてしばらく行った辺りで、右手にピザ屋さん(Doppio Zero:ドッピオ・ゼロ)があった。覗いてみると、竃を備えた本格的なもののようだ。失礼ながらなぜこんな鄙びた場所にという気がしたものの、それだからこそ、きっと美味しいに違いないと思って入った。メニューを見ると、結構な値段だったので、これなら良いかもしれないと、最も高い生ハムとルーコラのピザを頼んだ。大きいので、2人で一つを分け合うことができる。そうするとこの値段でも、リーズナブルなものかもしれない。

 さて、熱々のピザが来た。家内と分け合って半分ずついただいた。ううーむ。これはとっても美味しい。このレストランに入って良かった。見ていると、シェフはイタリア人のようだ。その方と2人の女性とでやっているお店らしい。どうか、この調子で美味しいピザを地域の皆さんや私たちのような京都を訪れる観光客に提供していってほしいものだ。

(21)渉成園(枳殻邸)

 ピザ屋さんで大いに満足した後は、叡山電鉄で出町柳を経由して、京阪電車で七条駅まで行って、渉成園(枳殻邸)に歩いていった。渉成園には、私はかなり前に、家内は2011年に来たことがあり、非常にバランスのとれた美しい庭園だという記憶があったからだ。ちなみに渉成園とは、真宗大谷派の本山東本願寺の飛地境内地であり、国の名勝にも指定されている池泉回遊式庭園である。


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 入り口で参観料をお支払いすると、パンフレットを2種類もいただいた。こういう気前の良いところは、さすがに宗教団体の施設である。正面の「高石垣」が面白い。長い板のような石が斜めに配置され、石臼のようなものもあれば、色味が違う石もあって、これらが組み合わされて不思議な存在感がある。

 中に入って印月池を見に行ったのであるが、周囲を少し回っただけで、ガッカリしてしまった。記憶とはかなり違っていたからである。何というか、庭木にしても、池にしても、昔の手入れの方が、はるかに良かったと思う。それであちらこちらの写真を少し撮ってはみたものの、途中で続ける気が失せて、そのまま出てきてしまった。なぜなのだろう。かつてのお東さん騒動で、いったん売り払われて買い戻された影響が、なお残っているのだろうか。せっかくの文化財なのにと、残念に思えてならない。敢えて言うと「外れ」だったが、ここに至るまでは全て「当たり」だったので、画竜点睛を欠く思いだ。しかし、まあこういう時もあるだろう。


エピローグ

 夕方、京都から東京行きの新幹線に乗り、無事に帰京することができた。一家5人、平均年齢が70歳近くの面白い旅だった。それにしても、母をはじめとして皆、元気に帰って来ることができたので、何よりだった。思い返すと、まさに珍道中だった。その中でも面白かったエピソードを二つ、ご紹介しよう。

 その一つは、神戸に到着した日のことである。ホテルを出てすぐに気がついたのは、気温が低くて、かなり寒いということだ。車椅子に座る母には、妹たちが膝掛けは用意してくれていたが、手が冷たかろうと、上の妹が自分の手袋を渡そうとした。ところが、どこかで片方を落としたか置き忘れたかで、一つしかない。そこで、私が近くのコンビニで毛糸の手袋を買い求めて、母に渡した。母は「あったかい。ありがとうねぇ」と言ってはめてくれていたが、財布を出そうとして手袋を外したらそのまま置き忘れたりするので、その度に誰かが注意してみておくことになった。

 そうして、綱敷天満宮で綱敷の円座やなすの腰掛けなどを見物し、それから小学校に向けて歩いているとき、「あっ、手袋がない」と、誰かが気がついた。下の妹が天満宮に探しに行ったものの、しばらくして「なかったわぁ」と言って帰ってきた。「それは、残念。ご苦労様でした。また、その辺で買うからいいよ。」と言って歩き出したところ、「ああっ、そこにあるわ。ほれ、お兄ちゃんのポケット」と誰かの声。「どこに?」と言って振り返った途端、私のコートがふわりと翻り、ポケットのマジックテープにくっついているものが見えた。外してみると、母が置き忘れたと思いこんでいた手袋そのものだったので、5人でそれこそもう大笑いをして、お腹が痛くほどだった。

 そういえば、天満宮で私は暑く感じたので、コートを脱ぎ、綱敷の円座の上に置いておいた。その時に、母もたまたま手袋を外して私のコートの上に置いたのだろう。それで、お参りが終わった後、私は手袋に気がつかないままコートを着たから、こうなってしまったのに違いない。何はともあれ、丸く収まってよかった。それにしても、笑い過ぎで、まだ胸とお腹が痛い。これは文字通りの珍道中だ。

 第二は、神戸の中華料理店での出来事である。入って丸いテーブルに着いた途端、もうすぐ90歳になる母をはじめとして、60歳と59歳の妹たちが、方言丸出しで喋る。それも、まるで関西の漫才のようで、母はボケ役(もしかして、本物かもしれない)、長女はツッコミ役、次女はとりなし役と、役割分担までして、まあそのかしましいことといったらない。

「あれ、そんなことするんがけ。」
「ほやほや、そうするがやちゃ。」
「なーん、そんなこと、ないっちゃー。」
「ほな、そうしられ。」


 という調子である。北陸各地の方言で、しかもそれらが入り交じって高速で話されるものだから、男の私が口を挟む隙間もないし、こういうときの標準語は弾き飛ばされて、全く役に立たない。注文を取りに来たレストランの人は唖然として「これはどこの外国語だろう」という顔で見回していた。私が標準語で注文しだすと、ほっとしたような顔で、メニューの説明をしてくれた。








 母と神戸なつかしの旅(写 真)







 母と生まれ故郷を訪問






(2018年11月26日記)


カテゴリ:エッセイ | 00:04 | - | - | - |
栃木秋祭り

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 栃木秋祭り(写 真)


1.栃木への旅

 栃木秋祭りに行ってきた。私は栃木県といえば、日光や那須には良く行ったり、たまには泊まったりするが、栃木市はその途中にあるいわば通過地であるため、これまで電車を降りたこともなかった。ところが今回は、2年に1度開催されるお祭りで、人形を乗せた絢爛豪華な山車が出るという。そこで、その最終日である11月11日(日)に写真を撮りに行った。北千住駅から東武鉄道の特急スペーシアに乗り、わずか1時間という近さである。

 特急の中で、「そういえば、栃木県の県庁所在地は宇都宮市で、なぜ栃木市ではないのだろう。」ということが気になり、インターネットで調べた。そうすると、山形県令から福島県令を経由して栃木県令となった三島通庸(その後、警視総監で亡くなる)が、その当時、自由民権運動が盛んだった栃木市を敬遠して、宇都宮市に県庁を持っていったということがわかった。なんともはや、明治の初期らしい強引なやり方である。でも「そのおかげで」などというと語弊があるかもしれないが、近代化とは一線を画した江戸情緒あふれるしっとりとした街並みが残ったようだ。この話を聞いて、山口県の萩の街を思い出した。あそこも、明治以後は山口市に県庁が置かれて、維新の英雄を輩出した萩は置いてきぼりにされたが、そのおかげで、維新に活躍した英雄の家がそのまま残っている。何が幸いするかわからない。


2.絢爛豪華な山車

 栃木駅に降り立つと、祭りのパンフレット((表紙)(会場周辺図)(会場案内図)(山車等案内)(主なみどころ)(秋まつり日程))を配っていた。それを見て、お祭り会場の「蔵の街大通り」へと歩いて行く。大きな江戸型人形山車が林立しているのが見えてきた。栃木市のHPによると、

 「このまつりは、見事な彫刻と金糸銀糸の刺繍をほどこした絢爛豪華な江戸型人形山車が蔵の街を巡行するもので、明治7年より、慶事や祝典にあわせて行われ、市制施行を境に概ね5年ごとに開催されてきました。神社の祭りではなく、江戸との舟運で栄えた『小江戸とちぎ』の当時の商人たちの心意気と財力で作り上げてきたこの祭りの伝統は、蔵の街並みとともに受け継がれ、現在では隔年開催となっております。江戸末期から明治時代にかけて作られた9台の山車は、江戸山王祭に参加していた静御前の山車を筆頭に、3代目原舟月などの名工の手による人形を載せており、6台が栃木県指定有形民俗文化財になっています。」とのこと。

 そのおかげで、こうして見物させてもらっているというわけだ。江戸の山王祭は、今でこそ、このような豪華な山車は一つも見当たらなくなっているが、かつては、こういう立派なものだったのかと、感慨深いものがあり、江戸期の文化水準の高さに改めて感心し、同時に失われた江戸文化そのものに思いを馳せた。この山車は、将軍の上覧に供するために江戸城内へ入るときに、門でつかえないよう、最上階の人形の身体が山車の中へと収納されて高さがその分だけ低くなるように作られている。現在、その機能は、道路の途中にある電線を避けるために実際に使われているというから、面白いものだ。

 さて、その江戸型人形山車を地図に並んでいた順に南から北へと書き出すと、【室町の桃太郎】、【倭町二丁目の神武天皇】、【倭町三丁目の静御前】、【万町一丁目の劉備玄徳】、【万町二丁目の関羽雲長】、【万町三丁目の張飛翼徳】、【嘉右衛門町の仁徳天皇】、【泉町の諌鼓鶏】、【大町の弁慶】となる。この他に山車ではないが【倭町一丁目の雄獅子、雌獅子】が展示されていた。前日に来れば、【万町一丁目の天照大神】と【万町二丁目の素盞嗚尊】が見られたようだ。


倭町一丁目の雄獅子、雌獅子


 午後2時から山車が動き出すようだが、それまでは蔵の街大通りに山車が並べられている。それを南から北へと撮って行き、次に動き出してからまた撮った。まずは、【倭町一丁目の雄獅子、雌獅子】であるが、これだけは道端に展示されているだけで、山車はない。明治6年頃の作で、厄除け、和合、火防の願いが込められているそうだ。なぜ山車がないのかは聞きそびれたが、夜になるとこの二つの獅子の間に提灯を持って立つ姿の私自身の写真を撮っていただいた。良い記念になった。改めて、お礼を申し上げたい。

室町の桃太郎


室町の桃太郎


室町の桃太郎


室町の桃太郎


 それから、【室町の桃太郎】である。これは、明治38年作の県指定有形民俗文化財であり、総合的に見て、私が最も良いと思った山車である。桃太郎人形は、「日本一」の旗を背中に挿した童顔で「日本一」の旗を背中に挿した童顔で、素朴な表情をしている。山車の前に置かれている囃子座は小松流で、屋根がなくて外に出ている。錫杖を持って行列の先頭に立って歩く手古舞衆(注)というお嬢さん方の数が揃っていて可愛いし、何よりもユニークなのは、2人の鬼である。その「手作り感」がとても良いし、皆で写真を撮るときなどはそのうち1人が寝転ぶという茶目っ気ぶり。また、その前に大きな御幣のような棒を持って乱入して振り回す男女2人もいて、皆で大笑いしている。とても仲が良い町内だなと、誠に微笑ましく思った。
(注)「手古舞(てこまい)衆」というのは、川越祭りの用語

倭町二丁目の神武天皇


倭町二丁目の神武天皇


倭町二丁目の神武天皇


倭町二丁目の神武天皇


倭町二丁目の神武天皇


倭町二丁目の神武天皇


倭町二丁目の神武天皇


 【倭町二丁目の神武天皇】逆光になったが、神武天皇の山車があった。明治38年作の県指定有形民俗文化財とのこと。四囲の幕には赤地に金の龍が描かれていて、神武天皇の人形が持つ金ピカに光る八咫烏が太陽と重なって実に神々しい。これが動き出すと、八咫烏がゆらゆら揺れてますます有り難みが増す。その前に4人の手古舞衆のお嬢さんたちは日本髪姿で和風だから、これまた神武天皇像と良くマッチしている。平砥流のお囃子が力強く鳴り、「ああ、お祭りだなぁ」と思う。

倭町三丁目の静御前


倭町三丁目の静御前


倭町三丁目の静御前


倭町三丁目の静御前


倭町三丁目の静御前


 【倭町三丁目の静御前】は、嘉永元年(1848年)作の県指定有形民俗文化財。四囲の幕には、二段目が緑地に雲模様、三段目が赤地に金で若松模様が描かれている。山車の前には、ひょっとこのお兄さんが剽軽な踊りを披露していて、その脇には姉さんかぶりの手古舞衆のお嬢さんたちがいる。神武天皇の日本髪を結った手古舞衆のお嬢さんたちがやや武家風だとすると、こちらは茶摘み娘のような非常に庶民的な感じの手古舞衆のお嬢さんたちである。衣装一つでそれほどの個性の違いが見て取れる。ただ、静御前は公家風の烏帽子をかぶっているので、それと対比すると、なかなか面白い。

万町二丁目の関羽雲長


万町二丁目の関羽雲長


万町二丁目の関羽雲長


万町二丁目の関羽雲長


 【万町二丁目の関羽雲長】は、明治26年の作で、同じ町内の日本武尊や万町三丁目の素戔嗚尊などと同じ作者であるが、これら2つが県指定有形民俗文化財なのに、これはそういう指定有形民俗文化財には指定されていない。途中で原型をとどめないほどの破損でもあったのだろうか。よくわからない。聞きそびれた。関羽雲長像そのものは、中国風の槍を縦に構えていて目立つ。それに、山車の周りを彩る幕には赤地の背景に金色の糸で羽の生えた飛龍が刺繍で描かれていて、スコットランドのドラゴンに似ている。どちらも想像上の動物だから、まあ目くじらを立てるほどのことはない。いずれにせよ、誠に力強い限りの刺繍である。こちらは、手古舞衆のお嬢さんたちというよりは、いなせないでたちの若衆(?)が目立っていた。

万町一丁目の劉備玄徳


万町一丁目の劉備玄徳


万町一丁目の劉備玄徳


万町一丁目の劉備玄徳


万町一丁目の劉備玄徳


 【万町一丁目の劉備玄徳】は、明治26年の作で、中国風の冠を被っている文人風の像であり、漢王朝の始祖である劉備玄徳だろう。山車の周りを彩る幕には関羽雲長の山車と同じ飛龍が刺繍で描かれていると思ったら、作者はこれと同一の三代目法橋 原舟月だった。いやいや、それどころか、神武天皇も静御前も張飛翼徳も、皆同じ作者である。本日は見られなかった天照大神と素盞嗚尊もそうだという。このうち4体が県指定有形民俗文化財となっている。現代の目から見ても写実的で実に美しい人形である。

泉町の諌鼓鶏


泉町の諌鼓鶏


泉町の諌鼓鶏


泉町の諌鼓鶏


【泉町の諌鼓鶏】は、「人型の人形」ではなくて「鼓に乗った鶏の人形」であることが面白い。これが曳きまわされていくと、ものすごく存在感があって辺りを睥睨するかのようだ。これには説明があって、「天下泰平の象徴で、良い政治が行われ訴えを聞く太鼓を叩く者がなく鶏が太鼓に巣を作ったという故事」からきたものだという。かつての手古舞衆のお嬢さんたち(?)が元気に縄を引いて頑張っていた。この調子で高齢者の模範として、それこそ足腰が立たなくなるまで、続けていっていただきたいものだ。

万町三丁目の張飛翼徳


万町三丁目の張飛翼徳


万町三丁目の張飛翼徳


万町三丁目の張飛翼徳


万町三丁目の張飛翼徳


【万町三丁目の張飛翼徳】は、明治26年の作。髪が両側から迫って顔の半ば以上を覆っているので、人形の表情を窺うのは難しいほどである。遠くから見ると、鼻しか見えない。そして、額に犬の面のようなものを付けているので、ますます剣呑に見える。ついでに言うと、四囲の幕には虎が刺繍されていて、おどろおどろしい。顔については、夜になってライトアップされて、ようやく見ることができた。

大町の弁慶


大町の弁慶


大町の弁慶


大町の弁慶


大町の弁慶


【大町の弁慶】は、明治初期の作で、作者は不明だが栃木市指定有形民俗文化財である。例の弁慶姿で、薙刀を斜めに構え、これから切って捨てるぞとでも言いそうな迫力がある。それはとっても良いのだが、人形の難点としては、顔の表情がいかにも素人が作ったと思える造作なのである。しかも、腕に凸凹があって、あまり美しくない。少なくとも腕に付いては、弁慶らしくボディビルダーのようなムキムキの筋肉を付けられないものか・・・いやいやそうすると、せっかくの民俗文化財の指定が取り消されるかもしれない。余計なことを言ったかもしれないが、明治初期といえば既に150年は経っている。今や立派な文化財である。こちらも、行列の先頭には日本髪を結った手古舞衆のお嬢さんたちがいて、とても可愛い。

嘉右衛門町の仁徳天皇"


嘉右衛門町の仁徳天皇"


嘉右衛門町の仁徳天皇"


嘉右衛門町の仁徳天皇"


【嘉右衛門町の仁徳天皇】は、栃木市指定有形民俗文化財であり、非常に印象に残るお顔をした人形である。仁徳天皇が、威厳のある顔にも見えるし、やや憂いを帯びた顔にも見える。天皇というお立場を表裏共に表現しているように思えるのである。この山車に付いていくと、蔵の街大通りを左に曲がって、銀座通りに入り、巴波川(うずまがわ)の方へと向かった。銀座通りには電線が縦横に走っている。どうするのだろうと思っていたら、仁徳天皇像がするすると下がって山車の中に収納され、おじさんがその脇で先が三角形になっている木の棒を構えている。電線がある所に来るとそれを使って電線を上に持ち上げて通過している。なるほど、うまくできている。そうやって銀座通りを突っ切り巴波川に架かっている幸来橋に至り、それを渡り切ると思いきや、橋の向こう側でUターンした。

嘉右衛門町の仁徳天皇"


嘉右衛門町の仁徳天皇"


嘉右衛門町の仁徳天皇"


万町一丁目の劉備玄徳"


万町一丁目の劉備玄徳"


 おやおや、どうするのだろうと思っていると、また銀座通りを通って別の山車である万町一丁目の劉備玄徳がやってきた。そうして橋の上で嘉右衛門町の仁徳天皇と向かい合う。すると、手古舞衆のお嬢さんたちがお囃子衆の台に上がって、黄色い声を張り上げて、自分の町内の名前を叫んでいる。ああ、これは川越祭りでいう「 曳っかわせ」というものではないか。この栃木祭りでは、「これらの絢爛豪華な山車とともに囃子が競演する『ぶっつけ』では、山車を寄せあって日頃の練習の成果を競い合い、その盛り上がりは、まさにこの祭りの醍醐味といえます。」とされている。遠く秋田の角館のお祭りでは、道を譲れ、譲らぬという交渉人のやり取りがあって揉めると聞くが、こちらではお囃子の競い合いで平和に勝負を決するようだ。お祭りらしくて、なかなかよろしい。何回か見たが、しばらくしてどちらかが道を譲って去っていく。なぜ、どういうことで一方が譲るのか、未だによくわからない。これも地元の人に聞きそびれた。


3.遊覧船に乗る



蔵の街遊覧船"


蔵の街遊覧船"


蔵の街遊覧船"


 幸来橋のたもとから巴波川(うずまがわ)沿いに散策路が続いていて、それに沿って行くと、蔵の街遊覧船乗り場がある。所要時間わずか20分ほどである。菅笠を貸してくれるので、それを被って待っていると人数が揃ったと見えて、20人乗りほどの平底の舟に案内されて乗り込んだ。そこから船頭さんがゆったりと漕ぎ出す。川の水の透明度が高くて、鯉らしき大きな魚が行き交う。そのまま幸来橋まで行くと、橋上ではちょうど劉備玄徳と張飛翼徳の山車が対決をして「ぶっつけ」の最中である。お囃子の響きとぶっつけの女の子の声、それを囃す人々の怒号などが鳴り響いている。

蔵の街遊覧船"


蔵の街遊覧船"


蔵の街遊覧船"


蔵の街遊覧船"


蔵の街遊覧船"


蔵の街遊覧船"


 そこで巴波川をUターンして、舟は船着場の前を通り過ぎ、橋の向こう側の瀬戸ヶ堰の手前まで行く。そこは川幅が少し広がっていて、全長が1mはあろうかというくらいに大きい鯉がたくさん生息している。また、色々な種類の鴨がいる。そこへ、出るときに船着場で鯉の餌を買った人がそれを投げ込むと、多くの鯉や鴨が面白いほどに寄ってきて、争って食べる。最後に、船頭さんが美声を披露して、船着場に戻る。5月になると、この川を挟んで数多くの鯉のぼりが飾られるそうだ。


4.蔵の街並み

 いただいたパンフレットによると、「江戸との舟運そして日光例幣使街道の宿場町として栄えた『小江戸とちぎ』には商人の心意気が残っております。明治7年、県庁構内(当時栃木町)で行われた神武祭典には東京日本橋の町内から購入した現在の山車が参加し、明治26年、栃木県最初の商業会議所開設認可に係る祝典では計6台の山車が競演し、町をあげてのお祭りとなりました。豪華絢爛な山車が蔵の街並みを巡行する様は栄華を極めた往時の栃木を彷彿とさせます。」とある。


蔵の街並み"


蔵の街並み"


蔵の街並み"


 なるほど、ここは川越のような町なのだということで納得し、それに日光例幣使街道の宿場町だということで、二度納得した。それにしても、川越のような土蔵造りばかりだと思ったら、やはり幕末に3度の大火と1度の水戸天狗党による兵火に見舞われたそうだ。そういう悲しい歴史の上での土蔵造りなのである。なお、この巴波川は舟運の中心地だったが、明治期の鉄道の開通によって、衰退したらしい。



5.夜のお祭り



夜のお祭り"


夜のお祭り"


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夜のお祭り"


夜のお祭り"


夜のお祭り"


夜のお祭り"


 さて、夕食を食べてお祭り会場に戻ってみると、空がすっかり暗くなっていて、その中をしずしずと山車が進んでいる。それぞれの山車は提燈が下がり、人形にはライトが当てられて、昼間の姿とはまた違った幻想的な美しさがある。それに笛と太鼓のリズミカルなお囃子が耳に心地よく聞こえてくる。道路周辺の夜店もお祭りの盛り上がりに一興を添えている。2台の山車の「ぶっつけ」が始まった。女の子たちが山車に登り、その周りで若衆がてんでに持った縦長の提灯を上下に揺らして大声を上げる。昔はともかく、今はとても友好的で、お互いに対するエールの交換のように聞こえてくる。昼間とは違って、夜は余計なものが目に入らないから、純粋にお祭りの世界に没入することができる。いや、とても楽しい。

 室町の桃太郎の一行に出会った。ライトアップされた桃太郎人形が夜空に輝いている。手古舞衆のお嬢さんたちに、昼間とはまた違った艶やかさを感じる。おやおや、鬼の前で小さな子供たちがポーズをとっていて、それがまた実に可愛い。


夜のお祭り"


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 そういうことで、十分に楽しんだことから、午後9時の終了を待たずに午後8時半発の特急で帰ることにした。それにしても、毎回思うことだが、この地に生まれてこのような伝統的な祭りに参加することができる地元の人は、本当に幸せである。私のように全国各地を巡って来たために伝統行事のある故郷というものがなく、その挙句に東京に定住してしまった人間には、とても味わえない幸福である。もちろん、その反面として、伝統の灯を絶やさないための家族や町内全部の人々による見えない努力や負担があるとは思うが、どうかこの伝統行事を次代に引き継いでいっていただきたいと、心から願うものである。

夜のお祭り"


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(2018年11月11日記)


カテゴリ:エッセイ | 00:03 | - | - | - |
長瀞ライン下り

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 ようやく11月になり、家内と「近場に紅葉を観に行くには、少しばかり早すぎるね。」という話をしていたところ、「久しぶりに長瀞に行ってみよう」ということになった。実は9年前の9月半ばに家内と一緒に長瀞へ行って、七草寺めぐり、SL撮影、ライン下りと、色々と盛りだくさんに楽しんだからだ。「もう季節が季節だけに、七草寺めぐりは無理だが、SL撮影とライン下り、それに時間があれば宝登山ロープウェイに乗ってみよう。紅葉が綺麗だと良いけれど。」という気持ちで、出掛けることにした。

 アプリで調べると、文京区の我が家から池袋にて東武東上線に乗り換え、小川町経由で寄居にて秩父鉄道に乗って長瀞で降りると、2時間25分で行ける。ところが、別ルートとしてJRで熊谷まで行って秩父鉄道に乗り換えて長瀞まで行くと、2時間40分もかかる。この場合は秩父鉄道に53分も乗っていないといけない。ちなみに前の寄居経由ではそれが23分だから、この秩父鉄道の乗車時間の違いだ。往復で30分の人生の無駄なので、前の寄居経由のルートにした。

 逆方向だから土曜日ながら通勤ラッシュにも全く無縁で、寄居駅に着いた。東武東上線から秩父鉄道に乗り換えようとしてびっくり・・・改札がない。スイカ(Suica)カードをどうすれば良いのだろうかと思っていたところ、階段の脇に「ピッ」とタッチする機器があり、どうもこれでカードに記録しておけるようだ。


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 それを2回繰り返して秩父鉄道の電車に乗ったのだが、プラットホームのレトロな雰囲気と、乗った電車の吊り革などを見て、恐れ入った。まるで昭和40年代のようなのである。特に長瀞駅舎では、小さなサイズの四角い格子の枠にはめられたガラスをよく見ると、向こうの人や建物が歪んでいる。これは、現代的な工業生産法による以前のガラス製法のもののようだが、割れてしまったらどうするのだろうと、思わず心配するほどだ。駅舎の傍にある郵便ポストも、未だに円筒状の丸型ポストだし、しかも塗装が相当に剥げている。レトロにしても、やり過ぎのような気もしないではない。

 秩父鉄道のSL、パレオエクスプレスに乗ろうとしたら、故障で既に1ヶ月ほど運休なのだそうだ。秩父鉄道といえば、「首都圏で最も近くでSLに乗れる鉄道です」というのが売り物なのに、故障とあれば、残念だが仕方がない。それにしても、SLにはお金をかけているのに、駅舎や普通車両に投資をした形跡はほとんど見当たらない。ついでに言うと、長瀞ライン下りも、秩父鉄道の経営だったから驚いた。

 さて、その長瀞ライン下りだが、もう100年の歴史があるそうだ。待合室に掲げてあった写真を見ると、屋根付きのいわゆる屋形船で、芸者衆と舟旅を楽しんでいる姿が写っていた。長瀞駅前の観光案内所前に置かれたテレビでは、NHKの番組「ブラタモリ」で、ここ長瀞が取り上げられた様子が放映されている。それによると、長瀞を訪れる観光客の数は、年間270万人だという。なるほど、これだけの数のお客さんが来てくれるからこそ、秩父鉄道が潤っているのだろう。だから集客の目玉であるライン下りが重要となるはずである。


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 駅前で、ライン下りの切符売り場に行くと、上流の上長瀞駅近くの親鼻橋から、長瀞駅近くの岩畳まで下るAコース(約3キロ)と、その岩畳から下流の高砂橋まで下るBコース(約3キロ)という2つのコースに分けて運航しているようだ。私が聞いたときにはAコースが混んでいてBコースはそうでもないと聞いて、まずBに乗ることにした。長瀞駅の踏切を渡って両側の食堂やらお土産屋さんを抜けて行くと荒川の川原にある岩畳乗船場所に出て、そこから舟に乗った。快晴の日で、空が真っ青である。

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 舟はざっと見たところ20人乗りで、私と家内は最後に乗船したから、思わず、舳先(へさき)に座ることになった。私の前には船頭さんがいるだけだから、視界が開けていて写真が取りやすい。ここ数日は晴れているから、水の量が高さで5cmほど少ないそうだ。そのため、時折、ガリッと音がして舟底を擦っていた。

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 川幅が広いところを過ぎたら、すぐに川幅が狭い急流に差し掛かった。「大河瀬(おおかわせ)」という。水がかかるから、舟に備え付けのビニールを被った。ジャボジャボ、ザザザーという水音が大きくなって、舟が左右に揺れる。それを、舟の前後に乗り組んでいる2人の船頭さんが、長い竿1本を操って必死に操船する。おっと、やっと乗り切った。これは、ちょっとしたスリリングな経験である。あとは左右の景色をゆったりと楽しんだ。

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 特に、石畳から続く岩は、面白い外観をしていて、ミルフィーユのような層状でしかも傾いている。こういう岩をじっくりと見た。これらは、海底に堆積した地層がプレートの移動に連れて大陸の下に潜り、しかもそれが斜めに引き伸ばされて何層にもなり、地下深くからこの地表面に出てきたものだそうだ。

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 更に先へと行くと、カエルのような形をした岩があったりして、景色に変化がある。しかも、川の水の色が紺碧、真っ青、石の回りの逆巻く白と変化するのを眺められる。加えて、川面には、野鴨が遊び、水中には鯉がいた。誠に、長閑な風景である。

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 やがて、Bコースの終点である高砂橋に着いた。その少し前、船頭さんから「お客さんから『この舟は、今は下って来たけど、もう一度戻るときには、どうするのだろう?』という質問をよく受けますが、その答えは、あそこにあります。」と話していた。その指さす方向を見ると、舟をクレーンで吊り上げてトラックの上に重ねて載せ、また出発点まで運んでいる。我々は前回来たので分かっていたが、これは、良い考えだ。そしてお客の我々はというと、マイクロバスで、また石畳近くの長瀞駅裏手の乗船券発売所まで送ってくれるのである。

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 その乗船券発売所まで帰ってきて、面白かったので、もう一つのAコースにも乗ろうということになり、バスで上流の親鼻橋に向かった。舟に乗るのが最初になったので、先程とは逆に、今度は艫(とも)に座ることとなった。向かい側は乗客の頭で撮りにくいが、背中側には振り返りさえすれば障害物なく撮れる。

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 舟は親鼻橋乗船所を出発した。出てすぐのこと、左手の川中に、岩がいくつかあり、水に洗われている。そのうちの一つだけが、他と違うと思った。そこで良く見たら、何だ、煉瓦の塊の人工物だった。妙なものが川中のあると思いつつ、川の流れに身を任せていたところ、やがて前方に、川を横切る鉄道橋が見えた。たまたまタイミング良く、秩父鉄道の電車が通っている。ただ、人の頭に遮られて、カメラをちゃんと構えることができなかったことは残念だ。その荒川橋梁は、100年前に完成して、まだ現役だそうだ。しかも、橋脚が煉瓦で出来ている。それが、先程、川中で見たものと同じなので、びっくりしてしまった。「では、あの煉瓦塊は、どこから来たのだろう。この上流にあった昔の構造物が洪水か何かで壊れて流されたからか?」などと考えたら、まるでミステリーだ。

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 左手に、亀の子岩なるものが見えた。先程のカエル岩のようなものだが、それよりは、もっと厚みがある。「小滝の瀬(こたきのせ)」に差し掛かった。Aコースの大河瀬のような急流スポットだ。途中で1mほどの段差があるところを通るらしい。急に川幅が狭くなり、ザアーザアーという水音が高くなったと思ったら、腰が揺れる感じがした。段差を通過したらしい。ちょうどディズニーランドで、乗り物に乗っているようなものだ。それから流れは緩やかになり、「秩父赤壁」と名付けられた高い断崖を過ぎて、舟は岩畳へと戻ってきた。

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 岩畳の近くを散歩していたら、お昼を過ぎてかなり経ったので、家内とその辺の食堂に入り、トロロ蕎麦を頼んだ。それなりに美味しく味わって、満足して出て来たら、日はやや傾き、11月らしく風が冷たくなってきた。宝登山ロープウェイには、行けないこともなかったが、家内と相談して、今日はあまり欲張らないでこの辺で帰ろうということになり、来たときと同じルートで帰京した。



(2018年11月 3日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:35 | - | - | - |
日光東照宮と並び地蔵

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 暑い夏が終わり、ようやく涼しい秋風が吹くようになった。関東近辺でどこか早めの紅葉が見られないかと思い、調べると中禅寺湖がある。日光いろは坂の渋滞は有名だが、インターネットを見る限りでは、渋滞情報は見当たらない。場合によっては、日光東照宮見物に切り替えれば良いからと思って、日曜日の朝、東武鉄道のスペーシアという特急で行ってみた。

 東武日光駅に着いてバスの乗車券を購入しようと窓口に行ってみたら、「当駅から中禅寺湖までは通常50分のところ、大渋滞が発生しており、現在のところ3時間ほどかかる見込みです。」という。帰りも同じというので、これは駄目だと中禅寺湖に行くのは諦めた。可哀想に思ったのか、窓口の人は、東照宮南に位置する‘光田母沢御用邸記念公園、日光植物園、J造喘和◆焚修叡和◆砲魎めてくれた。時間が余ったら、行くことにしよう。

 紅葉を撮りに来たのに、東照宮見物になってしまった。輪王寺と東照宮には、つい4ヶ月前(6月16日)に来たばかりだ。その時は小雨の中で、せっかくの日暮し門の彫刻もよく見えなかったが、今日は秋晴れだ。その点は良い。ただし、紅葉は色づき始めたばかりなので、まだまだというところ。真っ赤になるまで、あと2週間はかかりそうだ。どうにも中途半端な時期の観光になってしまった。


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 さて、東照宮までどう行くか・・・東武日光駅前のバス乗り場には長蛇の列だ。とりあえず神橋(しんきょう)まで歩いて行くか・・・グーグルで見れば30分もかからない。国道119号線を歩き始めた。道の両脇には歩道が整備されていて、しかもお店屋さんが並んでいるので、それらを眺めながら、坂道を登っていく。日光名物の湯葉の店、羊羹の店がある。店先には、金魚さんたちもいて、なかなか楽しい。ところが、日曜日だというのに、開いている店は3分の1もない。全く営業がされていないような店も、3分の1を超える。これは、どうしたことだ。日光の観光地としての魅力がもはや薄れているのか、あるいは過疎化が進んでいるのかもしれない。

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 神橋の赤い橋が見えてきた。これを渡ると、いよいよ輪王寺と東照宮の領域である。道の右手にある日光山輪王寺は6月に行ったばかりだから、今回は省略して、表参道の突き当たりの日光東照宮に向かう。もう既に、外国人観光客ばかりだ。まず、五重の塔が左手にあり、写真を撮る。小雨だった前回に比べると、今回は晴れ渡っているから、はるかにくっきりとした写真が撮れる。そこで本日は、この調子で彫刻を主体に写真を撮っていこうと思った。

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 そのまず手始めは、仁王門をくぐってすぐ左手にある神厩舎の一連の猿の彫刻である。「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿(Three wise monkeys)をはじめとして、猿の彫刻ばかりが正面に5面、右側面に3面の合計8面がある。これらは、人間の一生を風刺したものだそうだ。それを一つ一つ撮っていく。母猿を見上げる子猿、人生の荒波を示す青い波、伴侶を求める猿など、確かに、人生そのものである。作者は不明だそうだが、後でじっくり写真を見てみよう。よい芸術作品は、人間の想像力を刺激するものだ。しかもそれは、しばしば作者の想像を超える。修理して色鮮やかになったので、非常にわかりやすくなった。

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 石の階段を登って、陽明門に差し掛かる。そこから見上げると、童子の彫刻がある。本を読む者、笛太鼓を演奏する者、両手を広げたり手を叩いて遊ぶ者、座って話をする者、喧嘩しているような者、踊っている者、大笑いしている者など、様々だ。それが立体的に彫られているから、素晴らしい。また、その上には、大人の世界で、体の前にある大きな器に液体を注がれている者、巻物を広げて読む者、童子に書を教えているような者、碁を打つ者などが彫られている。表情まで細かく表現されていて、感心した。

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 せっかくだから、陽明門の向かって右側に広がる門の彫刻を見ることにした。これも国宝で「東西廻廊」の東側である。取り上げられている題材は、松の木、孔雀、水鳥といったところだが、説明によると「狩野理右衛門の下絵になる極彩色の大彫刻。欄間には雲、胴羽目には花鳥動物、腰羽目には水鳥が天地水と組み合わせて彫り分けられている」そうだ。陽明門の中を通り過ぎて反対側の上を見上げると、瓢箪を首から下げた男が童子の頭を撫でていたり、孔雀や龍や鯉に跨がった仙人がいたり、巻物を広げた仙人など、確かに見ていて全く飽きない。これは、日が暮れると言われるわけだ。

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 次に、国宝の唐門に行く。江戸時代には、ここから昇殿できるのは、御目見得以上の旗本や大名に限られていたそうだ。唐門の上の方には、「古代中国の聖餐の故事を題材にした彫刻」という説明があるが、「許由と巣父」や「舜帝朝見の儀」などといった方がわかりやすい。こちらの彫刻には、陽明門彫刻のような色が付いておらず、胡粉で真っ白なため、表情などが今一つわからないのが残念である。昇殿して中に入り、説明を聞き、参拝する。建物は、平成の大修理で未だに修復中である。

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 さて、坂下門の中にある左甚五郎作の国宝「眠り猫」をまた見に行くことにしよう。前回と違って人の数はさほどでもないので、ゆっくりと何回も写すことができた。正面だけでなく、右手からも撮ってみたが、あまり印象は変わらなかった。それを過ぎて、前回は断念した家康公墓所まで行ってみることにした。杉木立の中の207階段(奥社参道)を延々と登って、ようやく着いたが、「(家康の墓所なのに)あれ、これだけ?」という感じ。途中の踊り場にあった立て札「人の一生は重荷を負うて遠き道行くが如し。急ぐべからず。(東照宮御遺訓)」が、胸に響く。ただ、私の場合は「人の一生はなるべく軽き荷にして、見通しよく最短距離を行くべし。」という方針である。

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 陽明門を出て、本地堂(薬師寺)に向かう。前回に続いて再び「鳴き竜」を聞くためだ。天井の檜の板に描かれた大きな竜の絵の尾の下で、拍子木を打つと、拍子木の鳴る音だけが聞こえるのに対して、天井の竜の顔の下で拍子木を打つと、拍子木の音に反響して「キュィーン」という甲高い音が続き、あたかも竜が鳴いているように聞こえる。それを確かめて、「よし、聞こえた。」と、すっかり満足して、その場を離れた。

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 前回の時には行けなかった家光廟大猷院まで行くことにした。杉木立の街道を少し歩き、二荒山神社の鳥居前を過ぎて、徳川三代将軍家光公霊廟「日光山大猷院」に着いた。まず、仁王門が立ちはだかる。右手の「阿形(口が開いている)」と左手の「吽形(口を閉じている)」2体の仁王像、つまり「金剛力士像」の間を通り抜ける。御水舎の前から階段で、登りきったところに夜叉門があった。そこに行く途中の脇が展望所で、そこから下を覗くと古い石灯籠が並んでいる。これは、大名たちから寄進されたもので、これ以上は天界になって、中小クラスの大名は登れなかったそうだ。



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 夜叉門には、「阿跋摩羅(あばつまら)、毘陀羅(びだら)、烏摩勒伽(うまろきゃ)、□陀羅(けんだら)」という4体の夜叉が安置されている。赤、青、緑、白という原色である。この門は、またの名を牡丹門という。牡丹の花が彫刻されているからだそうだ。非常にカラフルだ。元はインドで人を害する悪鬼だったが、仏教では毘沙門天の眷属で、北方を守護する鬼神ということらしい。



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 拝殿と本殿にお参りし、更に奥の皇嘉門に行く。中国明朝建築の竜宮作りだそうだ。どこかで見たことがあると思ったら、「耳なし芳一」で知られている下関の赤間神宮と同じ形だった。もっとも、東照宮造営は家光の時代だから、建物そのものはこちらの方が古いと思うが、どうであろうか。

 昼食後、時計を見ると、まだ2時を過ぎたばかりだ。まず、iPhoneを使って、帰りの特急電車の予約を午後7時過ぎから早めに変更できるか試してみた。最速のスペーシアは、午後4時台も5時台も満席だ・・・おっと、これはどうだろう。少し時間がかかるが、午後5時27分からの在来特急が空いている。これを予約したら、スペーシアとの差額410円が戻ってきた。なんとまあ、よく出来たシステムだ。




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 そうすると、3時間弱をどう過ごすか、とりあえず神橋から大谷川(だいやがわ)に沿って上流に向けて上がって行こう。それにしても、この川は流れが早いし、水量も多い。ザアザアと音を立てて滔々と流れている。国道120号の歩道を通る。中禅寺湖方面に行く車が、大渋滞を起こしているところだ。その脇をスタスタと歩いて、日光総合会館というところに出た。ここからは、排ガスを吸う機会をなるべく少なくしようと思って、国道から離れて大谷川の近くを行くことにした。含満大谷橋という小さな橋を渡って川の急流を右手に見ながら歩くと、「ストーンパーク」なる所を通る。道の両脇にある芝生の中に、確かに古い石があちらこちらに転がっている。これは、一体なんだろう。元はお寺の僧坊か何かが軒を連ねていたのだろうか? それにしても、建物の礎石というには、数がごく少ない。ううむ、よくわからない。



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 それを抜けたところに、「慈雲寺」と書かれた古ぼけた門があった。やはり、お寺だったのだ。この付近は、「憾満ガ淵(かんまんがふち)」といわれる地である。川が長い間かけてえぐり取った崖の所をその流れに沿って歩く。眼下には、清流なるも激しい流れが渦巻いていて、落ちたら一巻の終わりである。水の流れの写真を撮るときは、シャッター速度を落とすと、水面が滑らかな絹のような感じに仕上がる。ところが、ここでそうやって撮ると、あまりに水の流れが激しいために、真っ白な木綿の布地のようになってしまう。だから、かえってシャッター速度が速い方が、荒々しい感じが出る。面白いものだ。



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 「慈雲寺」の門をくぐると、そこは全くの別世界である。左手にずーっと、たくさん、古ぼけた石のお地蔵さんが並んでいる。苔むして、いずれも赤い帽子によだれかけを付けている。それだけで、もはや宗教感が溢れている。まるで、京の化野の念仏寺を初めて見た時のようだ。背筋にゾクっとしたものが走る。慈雲寺は1654年、晃海大僧正による創建で、これらの並び地蔵は、その弟子たちが寄進したものである。ところが、明治期の終わりの1902年の大洪水によって、本堂とともにかなり流されてしまったようだ。中には胴体がなくて、頭だけの痛々しいお姿のお地蔵さんがいらっしゃるのは、そのせいかもしれない。



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 そのお地蔵さん群を左手に見て、霊庇閣という東屋にたどり着いた。これは、川の中に突き出している場所にある。急流を眺めるには良い場所だけど、これは洪水に遭ったら御仕舞いだと思ったら、案の定、その明治の大洪水で流され、これはその後に再建されたもののようである。並び地蔵さんは、この辺りで終わっている。ちなみに、なぜ「化け地蔵」と言われるかというと、その数を数えると、行きのときと帰りのときとで、違うからだという。さもありなんという気がした。

 そこから引き返し、また神橋に戻って、東武日光駅まで歩いて行った。夕食をとってから、予定通り午後5時27分からの在来特急に乗った。北千住駅まで2時間の予定だ。私の席は窓側だったが、隣の席に座ったのは、まるで小錦かと見がまうばかりの巨大な体型の外人男性で、圧迫感が半端ではない。しかも、スペイン語で母国の娘とビデオ通話をしている。大声なので、うるさくてかなわない。これは参ったと思ったが、朝が早かったので、電車が動き始めると眠たくなり、寝入ってしまったようだ。

 突然、電車が急停止した。出発から小1時間ほど経った頃だ。私は先頭車両に乗っていたが、前方で踏切のカンカンカンという音がしている。消防車やパトカーが何台も集まっている。何事が起こったのだろうと思っていると、放送があった。「だだ今、前方の踏切で自動車が立ち往生をしていまして、それを動かそうとしています。しばらくお待ちください。」それから1時間遅れでやっと動き出した。北千住駅で千代田線に乗り換えて、家に着いたのは、午後9時に近かった。どうもこの日は、最初から最後まで、思い通りにはならなかった。まあ、こういう日もある。




(2018年10月27日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:37 | - | - | - |
母と生まれ故郷を訪問

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1.母の近況

 人間、それなりに歳をとると、来し方が懐かしく思うものである。現に私自身も、つい最近、小さい頃から高校時代を過ごした神戸北陸名古屋という全国各地の都市を順に訪ねて、思い出に浸ったものである。これらは、「なつかしの旅」として、このエッセイに収めている。

 ところで、私の父が7年前に亡くなった後、もうそろそろ90歳になる母が、北陸で、一人暮らしを続けている。昨年の春には、公民館の入り口で転倒して首筋を痛め、一時は歩くのもやっとという状態だったが、何とか回復して、とりあえずは歩き回れるようになった。ただ、そのせいかどうかはわからないが、やや耳が遠くなってきて、話し掛けるときは、少し大きな声でなければ聞こえなくなった。

 日常生活が心配なところだが、週に3度のデイ・サービス通いがあるほか、幸い、私の妹たちが近くに住んでいて、代わる代わるおかずを持って行ったり、買い物して冷蔵庫に入れたり、話し相手になったり、病院に連れて行ったり、ケアマネジャーと打ち合わせたりと、本当に良く面倒を見てくれているので、深く深く感謝している。

 ただ、それでは妹2人の負担が大きいので、私の義理の両親のように有料老人ホームに入ってもらおうと思って、妹たちの同意を得て、母に話を向けたのだが、「お父さんが建てたこの家に出来るだけ長くいたい。」という。加えて、当地はやや保守的な土地柄で、「親の面倒は子供が見るのが当然」という発想があるせいか、東京のような至れり尽くせりの有料老人ホームが、そもそも見当たらないという問題もある。さりとて、東京に連れて来るのは、妹たちと分断することになり、好ましくない。そういうことで、前に進めずにそのままとなっている。私と同様に地方に住む高齢の親を抱えている友達も、同じようなことを言っている人が多い。

 先日、東尋坊と永平寺を訪ねた帰り、実家に立ち寄ったところ、妹の一人が、母を連れてカラオケに行こうと言う。先日、母と初めて行ったところ、「北国の春」を熱唱していたそうだ。私は、カラオケは何十年ぶりだったが、行くことにした。姪っ子を交えて、親子三代と私である。母が慣れ親しんだ1945年から75年までの古い曲を選んで、母に一緒に歌おうとし向けると、テンポは緩いものの、一生懸命に歌っていた。私も、こんな歌の時代に、育ててもらったのかと、目が潤んできた。母も、何十年も前の歌詞を思い出して、ご満悦である。姪っ子が、最近の歌を歌いだすと、手拍子まで出てきて、絶好調である。これは、いわゆるボケ防止によいかもしれない。


2.行きたい所は生まれ故郷

 翌日、母に「どこか、行きたいところがある?」と聞くと、「生まれ故郷を見てみたい。」という。それは福井県の山深いところにあり、北陸自動車道を走って約3時間のところだ。私は、小学校6年生と大学生の時に、両親とともにそこへ行ったことがある。檀家だったお寺さんの裏庭に石ころがいくつもあって、これらが全て先祖のお墓だといわれたことを覚えている。

 母の家は、この地に代々住んでいた名主の家だったようだが、終戦前後の混乱期に戸主の放蕩や病死、農地改革や新円切替えの混乱で一挙に没落したそうだ。しかも母の母親は3歳の時に婚家で病死し、父親は田舎暮らしが性に合わず一家で都会に出たものの終戦直前にこれも病で亡くなり、母は祖母と妹を抱えて、未成年ながら戸籍上の女戸主になったという。それで終戦直後の混乱期を生き抜いたのだから、大したものだ。その頑張りのおかげで、我々があるので、感謝しなければならない。

 母自身は、その生まれ故郷には7歳までしかいなかったそうだが、このたび、その地を見たいというのである。もうすぐ90歳なので、その希望を叶えてあげないと、もうチャンスはないだろうと思って妹たちに意向を聞いた。すると、両手を挙げて賛成してくれて、しかも一緒に行ってくれるという。これは、絶好の機会だ。是非とも行かなければならない。

 山深いところゆえ、現地での宿の予約が鍵となる。調べてみると、母が通った小学校の跡地がたまたま旅館になっていて、幸い、そこを予約できた。次に、先祖代々お世話になったお寺を訪ねたい。十数年前にそこのご住職に来てもらって墓を移し替えたが、その時のご住職はもう亡くなり、その息子さんの時代となっている。電話をし、立ち寄って、お話しを願えないかとお聞きしたところ、快諾を得た。


3.祖母の実家の探索

 「他に立ち寄りたいところはありませんか。」と母に聞いたところ、自分の母親の実家だという。母は、「自分が3歳の時に亡くなったし、その後の戦中戦後の混乱期を挟んで、幼くして生まれた土地を離れ、それ以降生まれた田舎とは全く別の土地で生きてきたこともあって、交流は長らく途絶えているが、いつか訪ねてみたかった。」というのである。その実家は、母の生地の隣の集落で、姓はわかるが、住所は知らないとのこと。

 集落名と姓だけで、分かるものかと思ったが、もう一つの手掛かりとして、戸籍があった。父が亡くなったときに取り寄せた原戸籍が、手元にある。そこの祖父の欄を見ると、妻の欄があり、更にそこにその父親の名前と住所があった。ただ、達筆すぎて非常に読みにくい。さすがに名前はわかったが、番地が難しい。写真に撮って拡大し、「崩し字」事典と対比しつつ解読したところ、番地を何とか読むことができた。次に、グーグルで集落名と姓を重ねて、検索してみた。すると、その集落で当該姓を名乗る家は2軒しかない。しかも、その住所と電話番号が出てきたではないか。そのうちの一軒の番地が、先ほど戸籍から読み解いた番地と一致している。間違いない。この家だ。こんなに簡単に分かるとは思わなかった。インターネット時代の威力である。

 そこで、そのお宅に電話をしてみた。こちらの名前を伝えて、「親戚に当たるお宅を探しているのですが、そちら様のご先祖に、こういう名の方はいらっしゃらないですか。」と、先ほどの戸籍の名前を挙げたら、「確かに、それは私の先々代の名前です。」という話になり、そこから色々とお話をさせてもらい、今度、母を連れて行くことになった。そちらに行く道を確認するために、その住所をグーグル・ストリート・ビューに入れて検索したところ、あれまあ、何と、その方のご自宅まで拝見することができた。地方議会の議員をされている方のようだが、とても立派なお宅だった。


4.お寺さん訪問

 お寺さんでは、住職とそのお母さん(御新造さん)が待っておられた。まず本堂で読経をしていただいたのには、恐縮した。次に庫裏にて、過去帳とそこから抜き出した我が家の先祖の法名の一覧表をいただいた。その表に載っている最初の先祖は、文化13年(1816年)5月12日没で、次が文政元年(1818年)8月13日没である。残念ながら俗名はなく、戒名しか書かれていない。没年は、今から200年も前のことである。ちなみに、この頃に生まれた有名人としては、島津斉彬(1809年)、井伊直弼(1815年)、亡くなった有名人としては、喜多川歌麿(1806年)、杉田玄白(1817年)、伊能忠敬(1818年)などがいる。


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 それから、天保、弘化年間に亡くなった先祖が何人か書かれていて、明治期に入る。この辺りからは、戸籍上でも追跡できる。戸籍の最初に載っていた人物は明治17年没であり、この人は戸主で、確かに過去帳にもその年に亡くなった人物が載っている。ただ、過去帳では戒名しかわからないし、その一方で戸籍には俗名しか載っていないので、名前から確定することはできない。しかもこの人の場合、過去帳の没年は9月23日だが、戸籍ではそれが11月10日となっていて、ズレがある。ただこれは、役場への届出の遅れか、戸籍制度が始まったばかりの記帳の混乱によるものと考えれば、まず間違いなく同一人物だろう。現に明治29年と35年に若くして亡くなった兄弟については、過去帳と戸籍の死亡の日付けが一致している。間違いない。この辺りから、両方の文献の死亡の日付けが、一致又は近接してきている。戸籍制度がようやく確立したのだろう。

 それにしても、過去帳からよくこれだけの数を抜き出して一覧表にしていただいたものだ。もう90歳を超えた御新造さんがされたそうだが、心からお礼を申し上げておいた。お寺の裏手にある竹藪の一角に、我が家の先祖代々の墓がある。もはや苔むした石ころにしか見えないが、ご住職にそこまで案内いただいて、参拝をしてきた。途中の小道に、黄色い網がかかったような珍しい模様の蛇がいて、驚いた。


5.蕎麦打ち体験



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 名残惜しみつつ、厚くお礼を申し上げながら、そのお寺を辞した。午後の約束までまだ時間がある。たまたま、近くに蕎麦打ちを体験させていただけるお蕎麦屋さんがあった。そこで妹たちと3人で、蕎麦打ちに興じた。私は以前、蕎麦打ちをやってみたことがあったので、今回は主にカメラマンに回って、妹たちの蕎麦打ちを見守った。お師匠さんの指導の下、まず、蕎麦粉8、小麦粉2の割合で混ぜた粉を撒き、それに用意の水を半分注ぐ。それを、指先を下に曲げて左右にかき混ぜる。手のひらで混ぜてはいけないそうだ。ある程度混ざったら、残る水のうち8割方を撒き、また同じように混ぜる。最後にまた、わずかに残った水を打って全体をまとめ、今度は両方の手のひらで押すようにしていくと、丸まって横に広がり、クロワッサンのようになるので、それを縦にして同じように押す。これを何回か繰り返す。そして、両端を丸めるようにして内側に入れ、それをまた数回繰り返して、盛り上がった丸餅のような蕎麦球にする。それを、手のひらの手首側で押し付けながら回す。そうすると、綺麗な波形の模様がつくので、それをひっくり返して再び数回、同じようにする。

 近くの蕎麦打ち台では、小学生が数人混ざっていた。わあわあ、きゃあきゃあ言いながら作業している。ちょうど同じように蕎麦をこねる場面らしくて「美味しくなあーれ、美味しくなあーれ。」と、可愛い声で大合唱しているから、笑ってしまう。

 いよいよこれからが伸ばす工程に入る。麺棒を両手で爪を立てるようにし、真ん中から両端に向けて広げるようにして、蕎麦球を徐々に潰すように押し広げていく。当然、広がったものは丸い形をしている。このまま切ってしまうと、極端に短い麺と長い麺になってしまうので、「角出し」といって、伸ばしながら四角にする。これは結構難しい。麺棒を傾けながら押し、何とかそれらしくするが、厚さにムラが出来て、このままだと火が通らないと、師匠からダメ出しが入り、やり直してもらう。この工程は確かに難しい。師匠曰く。「昔はこんな工程はなかったが、全国蕎麦打ちコンテストが始まって、単に丸く広げるだけでは差がつかないので、この技法も腕自慢の対象として評価されるようになり、それで全国に一気に広まった。」

 蕎麦生地がようやく綺麗に薄く広がった。これからカットに入る。生地に片栗粉を振り掛ける。師匠は粉を摘んで一振りすると、白い粉が美しく均等に広がる。我々がやると、濃淡がひどくて、しかも数回に分けてやる羽目になる。それを折り畳んで、蕎麦切りの台にセットする。蕎麦包丁は手前まで刃が付いているので、注意するように言われる。白い木の板で作られたブリッジのようなガイドに当てながらその包丁で蕎麦生地を切っていくのだが、力は要らないものの、切る幅を揃えるとともに、食べごろの太さにする必要がある。これが細すぎるとまるでソーメン、太すぎるとあたかも名古屋きしめんになってしまう。コツは、切ったあと、包丁で進行方向にちょっと押し、そのときに必要な幅が出るようにすることだそうだ。まず師匠がお手本を見せてくれて、我々が続いたが、妹2人はなかなか上手だったが、私がやると、細すぎたり、太すぎたりで、これでは蕎麦屋になるのはとても無理だと感じた。


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 さて、所要時間50分で出来上がった。それで蕎麦を茹でてもらい、大きなザルに入れてもらって、ネギのみじん切り、鰹節、大根おろしを添えて、母も交えてツルツルと食べた。自分で言うのもなんだが、非常に美味しく感じた。蕎麦打ちは、大成功だ。


6.日本の原風景での人生の禍福



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 そのお蕎麦屋さんを出て、周りを車で一周した。この村をじっくり観察する。山間の河岸段丘に広がる典型的な中山間地である。川の両脇に広がる田圃には、たわわに実った稲が植わっていて、所々に曼珠沙華の赤い華が彩りを添えている。鮮やかな赤色をしたキノコもある。田圃が切れたところには美しく杉の木が植林されている。そのバックには、なだらかな山があり、さらにその背景には、蒼くけぶる遠い山々が連なる。まるで日本の原風景とも言える佇まいである。川の側の遊歩道を歩くと、川の色がライトブルーで美しい。川の周囲の崖からも、湧き水が次々に流れてくる。これが、水量が多い原因のひとつなのだろう。川の中ほどに、吊り橋が掛かっている。揺れるし、踏み板の隙間が大きいから、女性の中には途中で立ち往生する人もいる。これだけの急流の川だから、昔から水の事故があったのだろう。川のほとりには。観音様の像が建てられていた。

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 そこから更に山奥の方に、車を走らせる。途中、道の傍らには、お地蔵さまが道行く車を見守っている。山の中に分け入っていくと、栗もたわわに生っている。突然、大きな滝が現れた。水量も多く、それが左右に拡がっているからとても迫力がある。道路から、滝の流れのところまで降りられるので、見上げることができる。

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 「私たちの先祖は、こういうところで、少なくとも250年はいたのだなあ。幕末に開国しなければ、この幸せな農村でずーっと暮らしていたかもしれないね。」と、妹たちと語り合う。先祖代々の血と汗の結晶で、見渡す限りの田畑や山林を所有していたそうだが、我々の祖父の代でたまたま都会に出た終戦前後の混乱期に前述のような出来事がいろいろとあって家運が傾き、一挙に没落したと聞いている。仮に祖父がそのまま田舎に留まって普通の暮らしをしていたならば、その子孫の我々は今頃一体どうなっていたのだろうかと思う。そういえば、先程の蕎麦屋さんにも、昔々の我々の家の分家の流れをくむ人が働いていたし、近くの観光施設の切符のモギリをしていた人も、そういう我が一族の方のようだ。

 考えてみると、祖父があのままこの田舎に住み続けていたのなら、私も田畑や山林を守って伝統的な生活をしていたに違いない。それが母の時代になり、終戦直後の混乱期、父親が病に倒れた後に徒手空拳で都会にとどまり、母は父とともにその生活を確立した。それが、ひいては東京での今日の私の時代における発展につながっている。これと言うのも、祖父が田舎暮らしを嫌い、好き放題やってくれたからだと、むしろ感謝しなければならない。でなければ、今頃は猫の額のような田畑を耕したり、あるいはそれでは食べていけないのでこの地のどこかのお店で働いていたのかもしれないのである。世の中が封建時代のままだったら、それも悪くはないかもしれない。ところが、幕末にペリー提督がやって来て開国を迫られ、日本という国そのものが弱肉強食の列強国家群の前に投げ出された。その結果、国民を挙げてその力を結集しなければ、国として立ち行かなくなり、戦前は軍事強国として、戦後は経済大国としての道を歩んできた。私の父母も、私自身も、いわば田舎から呼び出されて、経済大国を作り上げるのに邁進してきたようなものである。そして、無一文のどん底の状態から、親子で努力に努力を重ねて、ようやく浮かび上がって来たというわけである。そう考えると、「人生、いや一家の禍福は、正にあざなえる縄のごとし」だと思えてくる。


7.母の実家

 さて、母の実家を訪ねる時間となった。カーナビに住所を入れると、懇切丁寧に案内をしてくれるので、直ぐに着いた。途中の田圃の畔に固まって咲く曼珠沙華の華が美しい。お宅では、ご当主と奥様がにこやかに迎えてくださった。私が当方の戸籍の祖母の欄をお見せすると、ご当主もわざわざ家系図をこしらえて用意しておられて、それが完全に一致していた。そこで、母のよもやま話を交えて話が弾み、時を忘れるほどだった。応接間の隣の仏壇の間で先祖の霊に拝ませていただき、その間の長押に掛かっていた写真の一つが、母の祖母だった。

 この地区は、終戦直後に大火に見舞われ、先祖代々の資料が全部焼失してしまったので、昔はどうだったかということは、村の古老も亡くなった現在、もはや知りようがないそうだ。そういう残念な歴史はあったものの、未だに伝統を守って、村の神事を行っているという。しかし、人口は、終戦直後には8,000人あったものが、今ではその3分の1になってしまったという。加えて、高齢化率も半分近くにまで上がってきたとのこと。そういうわけで、まだまだ話し足りない雰囲気ではあったが、おいとまする時間となった。


8.一般財団法人の宿

 この町には、一般財団法人が運営する和風旅館があり、4人でそこに泊まった。温泉があり、お湯は透明で、とろりとしている。妹たちは、「この温泉から出て来ると、お肌がすべすべになる。」と話している。夕食も、朝食も、なかなかのもので、大いに満足した。何よりも、母が出された食事のほとんどを平らげたのには、驚いた。日中の訪問では、折り畳み式の車椅子を用意したのだが、かなりの距離を歩いてくれたから、良い運動になってお腹が空いたのかもしれない。

 ともあれ、母にとっても、我々にとっても、記念すべき旅行となった。家に帰り着いてほっとしていると、母がポツリとこう言った。「次は、新婚時代を過ごした神戸に、行ってみたい。」・・・「うむむ・・・わかりました。」


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 母と神戸なつかしの旅








(2018年9月25日記)


カテゴリ:エッセイ | 21:22 | - | - | - |
永平寺・東尋坊への旅

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1.はじめに

 いやはや、この旅は天候に恵まれずに終わり、敢えて言えば、失敗だった。まあ、あちらこちらを旅行して回っていると、こういう時もあるだろう。

 私は、小学生の一時期、福井県に住んでいたことがある。昔の家族写真をデジタル化する過程で、昔ながらの観光地である東尋坊や永平寺の写真を見て、非常に懐かしく感じた。東尋坊は、小学校の高学年のときに家族揃って行き、栄螺の壷焼きを食べた思い出があるし、永平寺は、やはりその頃に父と二人で行って、大きな杉の木立に囲まれた僧坊で、精進料理を御馳走になった記憶がある。

 それから半世紀以上の日々が経過し、ようやく時間とお金にいささか余裕ができたことから、今回はこの二ヶ所に行こうと計画した。まずは北陸新幹線で東京から金沢に行き、そこで在来線特急に乗り換えて、芦原温泉駅に着いた。荷物を駅のロッカーに預け、さあ東尋坊行きの京福バスに乗ろうとして観光案内所に立ち寄ると、東尋坊観光船は本日は欠航だという。台風は既に北へ去ったので、もう乗れるものと思い込んでいただけに、ガッカリした。よく調べると、その日の午前9時頃に、観光船のHPのトップページに「欠航」と載っていた。調査不足である。今から思えば、この辺りからケチのつき始めだった。

 さて、どうしたものかと思っていたら、観光案内所の方に、東尋坊から丸岡城を経由して永平寺まで行ける周遊切符があると教えてもらった。丸岡城は先日行ったのでもう行く必要はないとして、それなら、いっそのこと旅行先の計画の順序を逆にし、明日の朝に行くつもりであった永平寺に先に行けば良い。そういうことで、永平寺行きの京福バスに乗車した。ほとんど乗客はいなかったが、永平寺口駅というところからたくさん乗ってきた。福井市内からここまで、「えちぜん鉄道」という電車に乗ってやってきたのだ。「あれ、これは京福電車ではなかったか? なぜ永平寺まで行かないのだろう?」と思って調べた。すると、以前の京福電気鉄道越前本線は、2000年末から翌年にかけて半年間で2度の電車どうしの事故を起こして運休し、収支が悪化した。そこで福井県は第三セクター方式でその事業を継承したが、永平寺線だけは収支の好転が見込めず、廃止されたそうだ。


2.永平寺


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 さて、バスは山道を延々と走って、やっと永平寺に到着した。コインロッカーに荷物を預けようとしたら。ここでまた小さな誤算があった。何とまあ、500円硬貨しか受け付けてくれない。実は、事前にコインロッカー用にと500円硬貨をわざわざ100円硬貨に替えておいたことが、かえって裏目に出たのである。その辺のお土産屋さんが無料で預かるという看板を出していたが、特にiPadがなくなったりすると困る。だから、先に進んで永平寺にあるだろうと期待して行ってみたのだが、着いてみると預けるところはなく、やむを得ずそのまま担いで中に入った。これは、気温32度、しかも蒸し暑い中で、相当、体力を消耗する原因ではなかったかと、後から振り返って思う。ともあれ、小1時間ほどして参拝を終えて出てきた時には、まるでサウナに入っていたように、上半身は汗でずぶ濡れだった。この日は、ペットボトルのお茶と水を、4本も飲んだ。

 曹洞宗永平寺は、開祖道元禅師によって、鎌倉時代の初期である寛永2年(1244年)に坐禅修行の道場として開かれた。道元禅師は、正治2年(1200年)、京都に生まれ、14歳で比叡山で出家して天台宗を修め、24歳で中国に渡る。そこで曹洞宗天童山如浄禅師に出会って修行し、「正法仏法」を受け継いで28歳の時に帰国した。京都深草に興聖寺を建立したが、その活動が大きくなるに連れて比叡山からの弾圧を受ける。そこで、越前国地頭の波田野義重の招きに応じて、越前国に移り、永平寺を開いたと、いただいた参拝のしおりにある。


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 禅宗の寺院では、七堂伽藍が基本で、次の建物から成る。

 (1) 法堂(ほっとう)朝のお勤め等各種法要
 (2) 仏殿(ぶつでん)本尊の釈迦牟尼をお祀り
 (3) 僧堂(そうどう)修行の根本。坐禅・食事・就寝
 (4) 庫院(く い ん)全体の維持管理と食事の用意
 (5) 山門(さんもん)両側に四天王、楼上に五百羅漢
 (6) 東司(と う す)お手洗いで作法がある
 (7) 浴室(よくしつ)身も心も清浄にするため入浴


 これらの建物は山の斜面に建てられており、渡り廊下で相互に繋がっていて、参拝者は、階段を上がったり下ったりしながら、全て見て回ることができる。ただ、この日の福井地方は気温32度の猛暑日で、湿気が非常に高い中だったから、回るのが精一杯で、各建物の意義をじっくりと味わうなどという余裕はなかった。それでも、曹洞宗の僧侶の修行の場としての、雰囲気だけは味わうことができた。夏は暑いが、厳冬期の寒さもひときわ身にこたえることだろう。とりわけ、冬に雪が降りしきる中を、托鉢姿の修行僧たちが民家を訪ねて回る姿の写真が印象に残る。

 なお、永平寺での修行僧の生活は、次のようなものだそうだ。

 (1) 坐禅(ざぜん) 早朝に行う坐禅は修行の根本で、背筋を伸ばして姿勢を正す。
 (2) 朝課(ちょうか)坐禅に引き続いて行う朝のおつとめで、全員で読経する。
 (3) 行鉢(ぎょうはつ)正式な作法に則り食事をする。
 (4) 作務(さむ)坐禅や朝課以外に行う掃除などで、廻廊の雑巾掛けは毎日行う。


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 最後に、吉祥閣で見かけた法話のような額のいくつかを掲げておこう。

 ひとの価値は、地位、財産、職業に関係ありません。知識、能力だけでひとを評価すると、過ちを招きます。知識を生かす心と行いこそ大切です。ひとの価値は、心と行いから生ずるのです。

 人生に定年はありません。老後も余生もないのです。死を迎えるその一瞬までは人生の現役です。人生の現役とは自らの人生を悔いなく生き切る人のことです。そこには「老い」や「死」への恐れはなく「尊く美しく老い」と「安らかな死」があるばかりです。

 生まれて死ぬ一度の人生をどう生きるか。それが仏法の根本問題です。長生きすることが幸せでしょうか。そうでもありません。短命で死ぬのが不幸でしょうか。そうでもありません。問題はどう生きるかなのです。

 生まれたものは死に、会ったものは別れ、持ったものは失い、作ったものはこわれます。時は矢のように去っていきます。全てが「無常」です。この世において、無常ならざるものはあるのでしょうか。

 満天の星が輝く宇宙よ! 母なる太陽を慕いつつ、今日も銀河空間を渡る美しい地球よ! 地球は青い一顆の明珠・・・一千、一万、一億、一兆年、無量百千万億阿僧祇劫∞、美しい地球よ永遠に!


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3.東尋坊


東尋坊観光船




 翌日は、再び芦原温泉駅まで行って、荷物を預け、東尋坊行きの京福バスに乗った。この日もまた気温33度を超える真夏日である。本日の観光船は、東尋坊からではなくて、その先の三国サンセットビーチから乗船ということで、それには米ヶ脇北バス停で降りなければならないという。45分ほど走り、東尋坊を過ぎて、そこに着いた。桟橋で何人かが釣りをしている小さな漁港である。そこに、漁船を改造したような船があった。一見すると小さく見えるが、定員は81名だという。チケットを買うと、船の中に入れてくれた。外は焼け付くような日光が降り注いで日差しを遮る所もないので、これはありがたかった。船の中に運転席があり、あとは座席がずらりと並んでいる。私はその船の最初の客だったので、運転席の隣の最前の席に座った。冷房が効いていて、快適である。

 ほぼ満席となり、観光船は出発した。波が荒い。防波堤の内側はまだ良かったが、外に出ると、まるで木の葉のように揺れる。左に20度くらい傾いたかと思うと、次の瞬間には右にそれくらい傾くローリングがあったかと思えば、波乗りしているようなピッチングが続く。これで波高50センチだそうだ。一昨日、北海道沖に去った台風の置き土産らしい。これでは、船に酔ってしまうと思って、近くを見ないで、なるべく遠くの景色を見るようにした。


雄島に繋がっている赤い歩道橋


沖から見た雄島




 船は、東尋坊の沖を通って一路、雄島に向かう。この島は無人で、大湊神社があって、新造船の進水のときには、必ずお祓いをしてもらうそうだ。本土とは、赤い歩道橋で繋がっている。信仰のおかげで、太古からの原生林が残っているそうだから、後から、行って見ようと思った。その雄島沖で船はいったん停まったものだから、ピッチングとローリングが激しくなった。いや、これは堪らない。カメラのファインダーを覗いていると、船酔いが進んで気持ちが悪くなる。


沖から見た東尋坊


沖から見た東尋坊




 雄島沖合いでUターンして、やっと帰るようだ。船が動き出すと、少しは船酔いが楽になる。でも、写真を撮る気が起こらない。液晶画面を見ながら適当にシャッターボタンを押すだけだ。それが精一杯で、構図の選択や露出の調整など、とてもできたものではない。船長が何やら説明してくれるが、耳に入らない。全然、覚えていないので、いただいたパンフレットに書かれているところによると、「約1キロにも及ぶ海食景観断崖に日本海の荒波が打ち砕ける東尋坊の見所は、何といっても波の浸食によって荒波が打ち寄せるさまは、実に豪快。これほど巨大な輝石安山岩の柱状節理は、日本ではここ一ヶ所しかなく、地質学的にも貴重で、国の天然記念物にも指定されています。」とのこと。


沖から見た東尋坊


沖から見た東尋坊




 そういえば、なぜ東尋坊というかというと、伝説が残っている。1300年前に開かれた名刹の平泉寺に、東尋坊と称する坊主がいて、日頃から乱暴のし放題だったが、それに加えてある姫君を巡って別の坊主と争っていた。あるとき、その恋敵がもう我慢ならずばかりに、皆で酒盛りをして、東尋坊を酔い潰した。そこで、その身体を持ち上げて、崖から突き落として殺してしまった。それ以後、その崖を東尋坊と呼ぶようになったそうだ。虎は死んで毛皮を残し、東尋坊は死んでその名が残ったというわけだ。そのせいかどうかはよく知らないが、今日でも投身自殺がしばしば見受けられる。船長によれば、ここで身を投げると、まず7割は助からないという。


沖から見た東尋坊


沖から見た東尋坊




 あれあれ、船酔いがきつくなって、船長の説明など、もはやどうでもよくなった。ハチの巣岩、夫婦岩、大池、ライオン岩、ローソク岩などというが、少しも頭に入らない。そのうち、ようやく三国サンセットビーチに帰り着き、ほっとした。用意されてあったビニール袋を使わずに済んだ。船を降りて浜辺に降り立ったが、まだ船酔いの気分だ。しばらく休めれば良かったのだが、すぐにバスが来た。東尋坊と雄島に行くつもりで乗ったが、いやもう、気持ちが悪くてそれどころではなくなった。そのまま、芦原温泉駅に着き、次の目的地である金沢方面に向かう特急に飛び乗った。うつらうつらしながら軽い眠りにつき、1時間ほど乗って目的地に着く頃には、ようやく気分が良くなった。


福井駅前広場にある動く恐竜の像




 話は飛ぶが、前日は、福井市内に泊まったのだが、福井駅前広場に、3匹の恐竜の大きな像があって、しかもそれらが唸り声をあげて動くから面白い。永平寺の先の勝山には福井県立恐竜博物館があるそうだ。私は、恐竜にはあまり関心がないので行く気にはならなかったが、興味のある子供さんには、さぞかし楽しいだろうと思う。

 私が福井市にいた半世紀以上前の頃には、現在のように恐竜が丸ごと発掘されるなどということは全然予想もされていなかった。ただ、中生代ジュラ紀から白亜紀にかけて形成された手取層群には、植物の化石が出ることだけは知られていた。私の中学の先生も、化石の専門家であった。我々生徒もその影響を受けて、金づちを持って山の谷川筋に化石の採取に出掛けたものである。私は、葉っぱの化石を見つけて、先生に鑑定してもらったことがある。そうしたある日のこと、1人で山に出掛けた私は、こぶし大の金色に光る石を見つけた。綺麗な立方体をしていて表面が滑らかで、しかもピカピカと光っている。私は、「金ではないか」と思って、胸の鼓動が早くなった。それを大事に持ち帰り、翌日、先生に「これは金ですか?」と勢い込んで見せた。すると「なーんだ。黄鉄鉱だね。『愚か者の金』というんだよ。」と言われてしまった。

 金だったらどうしようと思いながら、一晩まんじりともせずに過ごしたあの頃の愚者の自分が懐かしい。それから半世紀以上も経って、少しは賢者になったのだろうか・・・いやいや、本質的には、あまり変わっていない気がする。ともあれ、聞いて良かった。さきほどの永平寺風でいえば、こうなる。

 ひとに聞くことを恥じたり、おそれたりしてはいけません。むしろ、ひとに聞かないで、知ったかぶりをしたり、いつまでも知らないままでいることを恥じるべきです。




(2018年8月27日記)


カテゴリ:エッセイ | 10:37 | - | - | - |
ドリアン図鑑

ドリアンの外観


 私は、王様の果物といわれるドリアンを、こよなく愛する一人である。ドリアンの魅力については、この悠々人生のエッセイでも何度か取り上げている(その1その2)。ドリアンの原産地はマレー半島である。話は飛ぶが、実はバナナの原産地も同じくマレー半島で、私は種が一列に並んで入っている小さいバナナの原種を見たことがある。ただ、不味くてとても食べられたものではないそうだ。

 それと同様に、カンポン(田舎)産のドリアンには、かつては色々な種類があった。種の多様性というものだろう。ドリアンといえば、あのトゲトゲの果実を開いてみると、黄色の実が現れるのが普通である。ところが、私が一番驚いたのは、カンポン産の中に、黄色ではなくて文字通り「ピンク色」のドリアンがあったことだ。食べてみると、なかなか美味しかった。地元の人も、これは珍しいと言っていたほどだ。その他、味にしても、大きさにしても、実の色にしても、まるで日本の蜜柑や林檎のような多様性がある。問題は、果実を開いてみなければ、味の良し悪しが分からないことだ。2,000円近い高いお金を払って買ったのに、ひどく不味かったでは、がっかりする。そういうわけで、近頃はドリアンの売り手の方も工夫をして、美味しいドリアンにはブランドを付けて売るようになってきた。

 なかでもトップ・ブランドが、「猫山王(Musang King)」(1,000円/kg)で、これは掛け値なく美味しい。その代わり、普通のカンポン産のドリアンと比べると、値段は倍ぐらいになっている。その他、「D24 XO」(750円/kg)など、様々なブランドが育っている。私の現地の友人から、そうしたブランド化されたドリアンについての資料を貰ったので、私の心覚えのためにも、下に掲げておきたい。

ドリアンの実だけを取り出したもの


 ところで、現地で言われるのは、ドリアンがあまりに強烈な果物であるだけに、色々な伝説がある。それを集大成したものが、次の6つのタブーである。ただ、私は、昔の日本で言われた「食べ合わせ」(「天麩羅と西瓜は同時に食べるな」など)のようなもので、(2)のアルコール以外については、本当かどうかは、かなり疑わしいと思っている。

  (1)カフェインとともに食べないこと。
  (2)アルコールとともに食べないこと。
  (3)蟹とともに食べないこと。
  (4)コーラとともに食べないこと。
  (5)乳製品とともに食べないこと。
  (6)茄子とともに食べないこと。

 ドリアンを巡る話は尽きないが、最近は中国経済の急拡大に伴い中国がものすごい勢いで輸入するようになって、価格が高騰するようになった。だから、高級なブランド物は、あっという間に価格が2倍から3倍になって、地元では金持ちはともかく、普通の人はカンポン産のドリアンしか手が出なくなった。そういう状況を見て、ドリアンの産地のプランテーション農園にも、新規参入が相次いでいる。私がテレビで見たのは、なだらかな丘陵地帯で、いかにもかつてはパーム椰子が植えられていたようなところに、ドリアンの苗木が幾何学模様を描いて整然と植えられている情景である。しかも、個々の苗木の根元には散水装置まで設置してあって、その稼働状況をビデオで監視している。これには驚いた。これらの最新鋭の農園が本格的に生産する頃には、ドリアンの価格が再び安くなることを祈りたい。

 その反面、一部の農園で行われていると言われているのが、成長促進剤の使用である。日本の「桃栗3年、柿8年」の伝でいくと、ドリアンは、柿と同じで果実が生るまで8年かかる。しかも、果実が大きくて重いものほど高く売れる。だから収穫までの期間を短縮したり、果実を大きくしようと化学物質を使うのである。日本でも種無し葡萄の作出に使われているジベレリンではないかと思うが、消費者にとってあまり気持ちのいいものではない。








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(2018年8月21日記)


カテゴリ:エッセイ | 19:29 | - | - | - |
アート・アクアリアム

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 この夏は、まだ始まったばかりだというのに、猛烈な暑さである。7月の平均気温は平年より2.8度も高い。一時は絶対値で40度もあったほどだ。ということで、せっかくの土曜日だから、出掛けるにしても、暑くないところと考えて、日本橋の三井ホールで行われている「アート・アクアリウム 2018」に行くことにした。

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 入場すると、廊下の天井に格子があって、その一つ一つに琉金が入ってゆらゆらと動いている。背景に立体的な鏡があるので、その姿があちこちに反射して、何尾もいるように見える。江戸時代に、紀伊国屋文左衛門という目端の効いた商人が、大火で焼け野原になった江戸の町へ、木曽の木材を運んで大儲けした。大金持ちとなった文左衛門は、その屋敷の天井にギヤマンつまりガラスを張って、金魚を浮かべて悦にいったと聞いたことがある。それはこういうものだったのかと思ったのだが、この展示は、まさにその話をヒントにしたようだ。

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 会場に入ると、全体に暗くしてあって、色々な形の水槽があり、そこに当たる光の色が刻々と変わる。オレンジ色、紫色、青色、緑色、赤色、昼光色と、様々で、もちろんそれに応じてその色を反射する金魚や緋鯉の見え方も変わっていく。写真を撮る時はこれがカメラマン泣かせで、昼光色の光が当たっていないと、色がめちゃくちゃになってしまう。例えば、真っ赤な模様のはずの金魚が、何とまあ、真っ黒な模様に写ってしまうのである。そんな中で何とか写すことができたのが、別途の写真である。

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 ちなみにこの会場に入る時に確かめたところ、ビデオやフラッシュによる写真だけが禁止されていて、あとは良いという。インスタ映えを狙っているのだろう。「花魁」のイメージが元に作られた不思議な形の水槽などは、インスタグラムに写真を載せれば、確かに見栄えがする。

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 最初に、緋鯉が立派なのには驚いた。それもそのはずで、これらは緋鯉の本場である山古志村の産だという。値段を言うのも品がないかもしれないが、一匹が何百万円もしそうだ。

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 金魚は、2000年ほど前に、中国南部の鮒の一種(ヂイ)から偶然に赤い個体が生まれ、それが代々にわたって飼育され、新品種が選び抜かれて今日に至っている。日本に渡来したのは今から1500年ほど前の室町時代である。その時は、今でいう「和金」つまり流線形をした赤い小さな魚だったという。それが、今では多くの品種に分かれている。

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 「水泡眼」は、ほっぺたが膨らんで、ゆらゆらと揺れている珍しい金魚だ。「琉金」は、口が突き出た卵で尾が短めのスカートをはいているように見えるありふれた金魚だが、観ていて飽きない。「蘭鋳」は、まるで卵に飛行機の尾翼を直接くっつけたような金魚だ。よくこんな姿で泳げるものだ。

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 黒の「出目金」は、横から見るとまるで怪獣映画に出てきそうな剣呑な顔つきをしている。紫色の照明に照らされて、ますます不気味に感じる。ところが、水槽を上から覗き込むと、印象は全く変わって、よちよち歩きの幼児のように可愛い。その次のスマートな流線型で尾びれが長いのは、いわゆる「コメット」だ。欧米に渡ってからその地で作出された品種らしい。

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 琉金タイプの金魚にも、色々ある。赤白黒の色の派手な金魚は「キャリコ」である。頭に何か被り物をしているように見える金魚は「オランダ獅子頭」だ。その泳ぎ方を見ていると、実に可愛いのである。最後は、頭だけが赤くて、後は真っ白の「丹頂」である。一見して涼やかで、凛々しい。

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 私などは、こうして緋鯉や金魚の種類だけを鑑賞して十分に楽しんでいる方だが、このアート・アクアリウムは、更にまた水槽の形や照明で飾ろうとする。これを「アート」というのか、魚にとっての「迷惑」というのか、私にはよくわからない。






 アート・アクアリアム(写 真)


(2018年8月 4日記)

カテゴリ:エッセイ | 21:29 | - | - | - |
上野動物園の初夏

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 実は、7月の終わりのこの週末は、能登半島の先端の松波で行われる予定の「松波人形キリコ祭り」を見に行くつもりで、飛行機と宿を手配していた。能登半島では、7月から8月にかけての週末に、どこかの町でキリコ祭りが行われる。こちらの能登町松波の各町内から出るキリコは、「金箔を施した総漆塗り、前面には人形を飾る」ということで、他のキリコとはまた別の趣があるから、是非行きたい思ったわけである。ところが、たまたま台風12号が発生し、その進路予想によるとちょうど週末に東京から能登に抜けるということになっていた。だから、ひょっとして飛行機が飛ばないかもしれないと懸念していた。そうこうしているうちに、前々日の木曜日になって、ANAからメールが入った。要は、「天候が悪いので、日程の変更か払戻しをお勧めする」というものである。この進路予想からして、やむを得ないと思い、インターネットで解約をした。手数料は不要だった。それから、泊まる予定だった宿と、空港に来てもらう予定だったタクシー会社にキャンセルの電話をした。その上で、2〜3日間は籠城できる水と食糧があることを確認して、自宅にいた。隅田川花火大会も、土曜日は中止となった。

 そうしたところ、何のことはない。台風の進路が関東直撃の予想だったものがそれて、実際には東海道沖の海岸に沿って東から西へと進み、三重県に上陸して大阪から瀬戸内を経由して九州方面へと行ってしまった。まさか台風がこの場所から西へ進むとは、常識では考え付かない逆行現象である。唖然としてしまった。特に瀬戸内地方ではつい最近、豪雨に見舞われて大変な被害をこうむったが、またこの台風で災害を重ねなければよいがと心配する。それはともかくとして、結果的には羽田空港から能登空港へ飛べたし、松波キリコ祭りも開かれたようだから、予定通り行っていればよかったのにという気もする。まあしかし、台風に閉じ込められるというリスクを冒すこともないと、自ら納得した次第である。そういうことで、週末に行くところがなくなってしまった。そこで、昨日のしながわ水族館のウミウシに続いて本日は、パンダのシャンシャンを見に近くの上野動物園へ行くことにした。


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 パンダ舎の前には行列ができていて、40分待ちの表示があった。そこに並んでいると、天幕の一部が上げられていて、パンダの様子がチラリと見える。なかなか良い仕掛けである。そこから覗いていると、木の上に白い丸いものが見える。1歳になったばかりの赤ちゃんパンダのシャンシャンが、木の上でだらりと寝ているのだ。2メートルはありそうな木の上だから、危なくないのだろうかと思うが、平気で器用に寝入っている。そこから、更に20分ほどして、いよいよ私たちの番になり、パンダ舎に入った。最初に父親のリーリーがいる。上向きでだらしなく寝ている。次に母親のシンシンがいて、これはうつ伏せに寝ている。シャンシャンはというと、先ほどと全く同じ姿勢で、微動だにせずに寝ている。連日40度前後のうだるような暑さだから、よく寝たくなるのも、わからないわけではない。でも、なんともはや、張り合いのないパンダ見物となった。

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 せっかく来たからというので、まずタイガーを見に行った。ライオンと違って、タイガーはしょっちゅう動き回っている。この日もそうで、あっちへ行ったりこちらに来たりで忙しい。連日の40度を越すほどの猛暑で暑くてたまらないせいか、タイガーが池の水の中に入っている珍しい写真が撮れた。ライオンは、雄を撮りたかったが、雌しか見当たらなかった。こちらも、相変わらずゴロゴロとしている。

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 西ローランドゴリラの方に行った。そういえば、かつては孤高の哲学者のような風情を見せていた「ムサシ」は、もう亡くなっている。その代わり、雄として、「ハオコ」がいる。シルバーバックだから、今が男盛りなのだろう。目つきを見ると、まあ普通なので、よいお父さんなのだろうと思う。大人の雌として、「モモコ」がいる。いたずらっぽいような目つきをしているこのゴリラが、そうかもしれない。まだ子供のゴリラで、雄の「リキ」がいるはずだ。頬杖をついているこの子がそうだろうと思う。

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 バードハウスに入ると、「ルリゴシボタンインコ」というオレンジと黄緑のスズメ大の可愛い鳥がいた。愛らしく動作も機敏なので、見ていて飽きがこない。「カンムリエボシトリ」という鳥は、すっきりした感じで、なかなか品が良い。

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 シロクマ館に入って、北極から来た白熊くんを撮ろうとした。まず空中に出ている顔を写そうとしたが、ガラスが曇っていて、うまく撮れない。そこで、水中の白熊を撮るしかなかったが、潜るのに夢中でなかなかこちらを向いてくれない。それでも、水中ではとても身軽に動いていると思った。そうでないと、アザラシ猟などできないからだ。本来の生息地である北極では、温暖化のために氷面が縮小して海面が広がりつつある。そうすると北極熊は狩りができないらしい。だから絶滅が心配されている。

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 そこを出て、蓮池の方に行き、今が盛りの蓮の花を撮り、ペンギン、フラミンゴ、ハシビロコウを見て帰って来た。ハシビロコウは、相変わらずじーっと立っていて、その顔を見るとユーモラスで面白い。上野公園に一時、パンダがいなかったとき、パンダに代わる人気者だったそうだ。




 上野動物園の初夏(写 真)


(2018年7月29日記)

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しながわ水族館の海牛

アオウミウシ


 先々週は西日本で大変な災害に見舞われたと思ったら、先週は連日摂氏40度になろうとする猛暑が続いた。そうしたところ、今度は関東圏から中部圏そして近畿圏にまたがって台風が直撃した。異常気象も、ここに極まれりというわけだ。そういう中、涼しくて大雨にも大丈夫な「しながわ水族館」に行ってきた。前回は2010年に行ったから、8年ぶりとなる。

 実は今回は、「ウミウシ」特別展が開催されている。これが、行ってみようと思った動機である。ウミウシ(海牛)というのは、「後鰓類」という巻き貝の一種であるが、元々持っていた貝殻が縮小していたり、体内に埋没していたり、甚だしいのは消失していたりする種だ。そうすると外敵に対して防護手段がないのではないかと思うのだけれど、どういうわけか、鮮やかな色合や模様を呈しているものが多い。そのため、シンデレラとか、ハナオトメなどという派手派手しい名前がつけられている。色鮮やかだから、被写体としては最適だ。私は、アオウミウシが気に入って、しばらく眺めてから、写真を撮ろうとした。


アオウミウシ


 ところが、なかなか撮れない。まずは大方のウミウシが余りにも小さくて、数cm以下だ。しかも、それが水槽の中にいるものだから、ただでさえ撮りにくい。次に、水面近くを這い回っていたり、隅っこにいるものだから、これまた撮りにくいのである。うっかりしてマクロレンズを持っていなかったこともあり、四苦八苦しながらどうにか何枚かを物にした。

ハナオトメウミウシ


テヒダイボメウミウシ


 それにしても、妙な動物である。ピンク色、白と黒のブチ模様、白い身体にオレンジ色の玉模様、青と黄色の縞模様など、まさに色々だ。でも、どれにも共通なのは頭の上に2本の角、お尻のところに尻尾みたいなものが付いている。ノロノロと動いている。まるでナメクジそのものだ。なぜ襲われないのだろうと調べてみたら、まず全然美味しくないらしいし、それだけでなく、中には有毒なものを食べてその毒を蓄積しているものもいるらしい。フグのような生き残り戦略である。

クリオネ


クリオネ


 同じく貝殻の退化した後鰓類で、北方の海中で天使の翼のようなヒレで遊泳するのが、クリオネ(ハダカカメガイ)である。「裸殻翼足類」というそうだ。これも展示してあって、体が半透明でオレンジ色の頭や内臓が見えるが、頭に角のような2本の可愛い突起があり、小さな三角形の翼を広げたり閉じたりして美しく優雅に泳いでいる。背景を青くしてあるから、泳ぐ姿がはっきりと見える。つくづく眺めていると、本当に不思議な生き物だ。いつぞやのテレビ番組で見たが、エサを獲るときは、この頭が割れて6本の突起が出、それで押さえ込んで力づくで捉える。まるで天使が一瞬にして悪魔になったように感じたものである。何でも、見かけで判断してはいけないということだろう。

グレートバリアーリーフ


ナポレオン・フィッシュ


 ところで、この品川水族館の売りのひとつは、イルカ・アシカのショーなのだが、1週間ほど前にバンドウ・イルカのチィナが出産したので、この日は中止となった。もうひとつは、トンネル水槽で、アオウミガメが非常に印象的だった。こちらは、以前とあまり変わりがない。ともかく、繁殖に成功しておめでたいことである。そのほか、グレートバリアーリーフの熱帯の海は相変わらずきらびやかなお魚が泳いでいたし、ナポレオン・フィッシュは堂々としていた。ニモとして有名になったカクレクマノミは、実に可愛い。オオカミウオは、よく見ると、結構トボけた顔をしていて面白い。クラゲは、いくつか展示してあったが、どれも小型であまり印象に残らなかった。近く、クラゲ専門の鶴岡市立加茂水族館から援軍が来るてくれるそうだ。そういう交流で、切磋琢磨してくれれば良いと思う。

カクレクマノミ


オオカミウオ


クラゲ








 しながわ水族館(写 真)


(2018年7月28日記)

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