マチュピチュ・ナスカへの旅

マチュピチュ遺跡



    目 次

   第1 マチュピチュ遺跡
   第2 ナスカの地上絵
   第3 リマ市内を観光
   第4 ペルーの一口知識
   第5 その他ペルー補遺


第1 マチュピチュ遺跡

1−1 そうだマチュピチュに行こう

 退官記念に、なかなか行けそうもないところに行こうと考えた。それにつけても思い出したのが、私が1997年に2代目のパソコンを買ったときのことである。壁紙としてパソコンの画面に映し出されたのが、マチュピチュ遺跡とエジプトのピラミッドである。どちらも神秘的な存在であるが、特にマチュピチュは、何百年ぶりに発見されたインカの遺跡として、脚光を浴びていた頃だ。一度、見てみたいものだと思っていた、今回、退官に際して真っ先に思ったのは、「京都」ならぬ「そうだ、マチュピチュに行こう」だった。

 私は、英語を話すのに不自由しないから、国内と同様、海外でも英語圏なら往復の航空券とホテルを予約して一人で行ってしまう方だ。ところが、南米のペルーというスペイン語圏で、しかも行くのに非常に面倒だと思えるマチュピチュ遺跡やナスカの地上絵に一人で行く自信は全くない。そこで、ツアーを探したところ、ちょうど手頃なのが見つかった。しかもナスカの地上絵も見ることができるというので、申し込んだのがこの旅の始まりである。

1−2 現地クスコまで28時間

 南米はそもそも地球の反対側にあるから、まず日本航空便でニューヨークに飛び(12時間55分)、そこでラタム航空便に乗り換えて、ペルーの首都リマへ行く(7時間40分)。リマからラタムの国内線でクスコに飛ぶ(1時間23分)。ここまで、乗換時間を入れるとおよそ28時間もの長旅である。

途中、ニューヨークでは保安検査がますます厳しくなっていて、予め取得したESTAを持って有人の窓口に並ぶと、全ての指の指紋を取られた。それだけでなく、靴も脱がされて検査をされた。また、皆で検査待ちのときに、麻薬探知犬がやってきて、荷物の間を嗅ぎまわっていた。それを同行のツアー客で、かなりの年配の人がペットみたいに触って、係員に注意されていた。まあ、注意を受ける程度で収まって良かった。

 リマ空港でクスコ行きのラタム航空便に乗り継ぎをしようとしたら、これも一筋縄ではいかないことがよくわかった。例えば、出発まであと1時間というのに、搭乗口がクルクルと3回も変わる。4番から12番、その次は8番という具合である。中には搭乗直前に20分ほど列を作って待っているというのに、何もアナウンスなしで変更されることすらあった。後ろの方の人は、先頭の人たちが落胆した表情で列を離れていくから、そうとわかる。いやはや、こんな調子では、一人で来なくてよかったと思う。添乗員さんによれば、ラテンアメリカでは、こんなことは日常茶飯事とのこと。

1−3 クスコ市内観光

 そうこうしながら、何とか無事にクスコ(Cusco)にたどり着き、空港に降り立った。クスコの現在の人口は45万人、13世紀から16世紀にかけて栄えたインカ帝国の首都で、1533年にスペイン人によって滅ぼされて以降は、スペインの植民地支配の拠点となった。そのため、石垣はインカ時代のもので、上に建つ教会などの建造物はスペイン支配時代のものと、両者が混ざり合って独特の雰囲気がある街となっている。もちろん、インカ時代の石垣はぴったり組み合わされているのに対して、その上のスペイン時代は石ころが雑に積み上げられているから、一見して違いがわかる。


インカ時代の石垣とその後の石垣


 クスコの標高は、3,400mという。私は、これまで標高3,000mの立山連峰の雄山には、何回も登ったことがある。ところが、クスコはそれより400mも高いので、果たして身体が順応するか、心許なかった。それなのに、飛行機で着くと、直ぐに旧市街の観光に連れ出された。それも、歩いてである。平地の東京から、飛行機で着いた途端に富士山の八合目の高さを歩かされるのだから、かなりの体育会系のツアーである。しかし、振り返ってみると、かえってこれが良かった。一種の高地順応の過程になったのかもしれないと思っている。

クスコ旧市街地


クスコ旧市街地


 バスを降りたところから、旧市街地を徒歩で20分ほどかけて中心部へと向かう。道は細くて、両側に石垣が壁のようになっている石畳の登りだ。そこを高山病にならないように深呼吸しながら、ゆっくりと歩く。ところどころで石垣の壁がぱっくりと割れて、店の入り口がある。レストランや両替屋だったり、土産物屋だったり、アルパカの毛で作った衣類を売っている店などと、様々だ。

ピューマと蛇の石垣


12角の石


 ガイドが石垣の前で止まった。石垣の石を繋げてみると、ピューマとヘビに見えるという。よく分からないので、その前の土産物屋の看板と照らし合わせて見たら、なるほどそのようだ。次いで、12角の石を見た。インカ文明の素晴らしいところは、道具といえば硬い削り石と縄しかない時代に、削った石と石の間にカミソリすら通さないほどぴったりと合わせて石垣を作る技術があったことである。12角の石というのは、それが12の面で周りの石と組み合わせてあるのでそのように称され、これぞインカ文明の技術水準の象徴のような存在となっている。私はこれには感激して、その横で手を軽く挙げたスタイルで、写真を撮ってもらった。



インカ第9代皇帝パチャクテク


大聖堂(カテドラル)


ラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会


 やっとクスコの旧市街地の中心部に位置するアルマス広場に着いた。中央の噴水にはインカ第9代皇帝パチャクテク(1438年から1471年まで)の黄金色の像が置かれている。インカ帝国は、元々はクスコ周辺の小さな王国だったが、それを三世代にわたる皇帝の力で南米の文明圏全てを支配下に置くようになった。パチャクテクは、その最初の皇帝である。つまりはインカ帝国の礎を築いた人物ということになる。また、マチュピチュを作りはじめた皇帝とも言われる。アルマス広場の一角には大聖堂(カテドラル)、もう一角にはラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会(イエズス会の教会)と自然史博物館、その横の建物に目立たないがスターバックスが入っている。昼食のためにそのスタバに入り、二階へ繋がる階段を勢いよく駆け上がったら、ハアハア、ゼイゼイと息切れがしてびっくりした。「ああ、これか、高地の影響は。」と思い、薄い空気を補うべく、大きな深呼吸を10回ほどしたら、元に戻った。席に座り、インカコーラという名の黄色い飲料を飲みつつ、サンドイッチを食べたが、普通に食べられた。

スタバに入り、二階へ繋がる階段を勢いよく駆け上がった


インカコーラなる黄色い飲料


 ちなみに、インカコーラとは、黄色い清涼飲料水である。別にパンチのある味では全くないので、やや拍子抜けする。現地では、このインカコーラが一番よく売れていて、本場アメリカのコーラは二番手であった。ところがその後、色々あってインカコーラは本場コーラに買収されてしまったそうだ。メニューのお値段は、もちろん現地通貨「ソル」で表示されている。しかし、USドルやクレジットカードも使える。水1本2ソル、1USドルは3ソルである。

 そのうち、身体に少し異変を感じた。尿意は覚えるが、いざトイレに行くと尿がほとんど出ないのである。しかし、クスコを離れて標高が20mと低いリマに行くと、普通に戻った。これは私の推測だが、標高の高いところでは体内の膀胱も拡張する。これを頭が膀胱が満タンだと勘違いしてトイレに行きなさいという信号を送るから、そういうことになるのだろう。気圧が身体の中の臓器にまで直接影響を及ぼしているようだ。

1−4 富士山より高いチンチェーロ展望台

 クスコは、マチュピチュ(Machu Picchu)に至る中継地点に過ぎない。これから更に延々と1時間ほど、山中の曲がりくねった山道の悪路を、小型バスで、オリャンタイタンボ(Ollantaytambo)に向かわなければならない。その途中で標高3,800mの峠を越える。事前にそれを聞いて、富士山(3,776m)をも越えるそんな高い所で高山病にならないだろうかと、いささか心配だった。


チンチェーロ(Chinchero)展望台から見たチコン山


チンチェーロ(Chinchero)展望台からの風景


 ところが、それは杞憂に終わった。我々の小型バスが、休憩のためにその峠にあるチンチェーロ(Chinchero)展望台でいったん停まったので、試しにバスから降りてみた。すると、ステップを降りるときに身体がややフワフワした感じがしたものの、ちゃんと地面に降り立ち、普通に歩くことができて安心した。何でも、まず試してみるものだ。しかもこの時は、チンチェーロ展望台の正面に見えるチコン山(Chicon。標高5,000m)の勇姿には、実に感動した。天空にたった一峰、頂上に薄い綿帽子を被って、どっしりと聳え立っている。しかも、その頂上に駆け上がるように、手前からまるで参道のように登る坂道のように見える山が続いている。あまりに神々しく、かつ雄大で、富士山とは全然異なる味わいの山である。

1−5 オリャンタイタンボの町

 小型バスは、そのチンチェーロ展望台を過ぎ、木々の緑がほとんどない荒れ果てた平原を進んでいく。周りは高山ばかりだ。すると、峠を越えたところでようやく、オリャンタイタンボの町(2,800m)に到着した。手作りの日干しレンガで建てた粗末な家々が建ち並ぶ。道路には、昔の日本で言えばバタバタ、現代のタイのトゥクトゥク、つまり小型三輪タクシーが走り回っている。ちなみにこの町には、侵略者ピサロが率いるスペイン軍に対して、インカ帝国が最後の抵抗を試みた遺跡があるそうだ。


オリャンタイタンボに至る道


オリャンタイタンボの町が見えた


オリャンタイタンボの町を走るトゥクトゥク


 そのオリャンタイタンボからは、ペルー鉄道のマチュピチュ線の列車に乗って約1時間45分で、ようやくマチュピチュ村に行くことができる。事前に想像していたのは、トロッコ電車に毛の生えたようなものだったが、実際に行ってみると、いやいやそれどころか、結構、本格的な客車だった。客車には色々なグレードがあるようで、我々が乗った客車はまあまあのレベルだったが、途中でそれを遥かに上回る豪華客車とすれ違った。まるで食堂車のように座席のテーブルをキノコのような可愛いランプが照らしている。ムード満点だ。あれ、これは良いなぁと思っているうちにマチュピチュ駅に到着し、駅のすぐ脇の道沿いにある我々のホテルに歩いて向かった。

ペルー鉄道のマチュピチュ線の列車


ペルー鉄道のマチュピチュ線の列車


インティプンク(INTI PUNKU)ホテル


1−6 マチュピチュ村

 マチュピチュ村は、これまた山中の寒村かと思いきや、とんでもない。あちこちにホテル、土産物屋、レストランが立ち並ぶ一大観光地の様相を呈している。例えていうなら、マッターホルン観光の始点の町ツェルマットのようである。そこへ、マチュピチュ鉄道で20分おきに観光客が送り込まれてれてくるから、村全体が繁盛しているわけだ。


インカ帝国の歴代王の像


 まず、村を横切るように激流のマチュピチュ川が流れている。その両側に土産物屋やホテルがぎっしりとある。川には3本の白い橋が架けられているから、渡るのは容易である。そのうち、鉄道側の川沿いに遊歩道まで設けられており、そのあちらこちらにインカ帝国の歴代王の像がある。なかなかの迫力である。また、見ていると、資材を運ぶのは、全て人力でやっている。自動車といえば、観光客をマチュピチュまで運ぶ小型バスぐらいで、そのほか例えば乗用車やトラックは、滅多に見かけない。これはちょうど、スイスのツェルマット町が、自動車といえば全て電気自動車しか許可していないのと同じようなものだろう。

インティプンク(INTI PUNKU)ホテル


 インティプンク(INTI PUNKU)ホテルにチェックインをした。部屋に入ってみると、日本のビジネスホテルくらいの設備で、やや安心した。ところが、夜中に気温13度と寒くなったので、備え付けのデロンギヒーターのスイッチを入れた。その途端、ガラン、ゴタン、ダダダッと、まるで工事現場のような音がする。この種のオイル・ヒーターでこんな騒音がするなんて、聞いたことがない。これは困ったと思ったが、もう真夜中だし、私自身も眠くてたまらないので、厚着をして、そのまま、寝てしまった。翌朝、ホテルにクレームを伝え、替えてもらった。新しいデロンギは、全く静かなものだった。

白い漏斗型の朝鮮朝顔


 この辺りは、まるで中国の桂林、マレーシアのイポーを思い起こさせるような、石灰石でできた大地が雨水で侵食されてできたカルスト地形である。あちらこちらにタワーカルスト(大きな鐘楼のような鍾乳石の岩の塊)の山々がそそり立つ。マチュピチュ山も、その一つだろう。また、村のそこここに、白い漏斗型の朝鮮朝顔(Engel’s Trumpet)の花が咲いている。日本だと、5月から6月にかけて咲く花だ。ここは南米だから季節がちょうど反対なので、今が盛りの時期なのかもしれない。

1−7 いよいよマチュピチュ遺跡へ

 その日は深い眠りにつき、翌朝は7時半頃にホテルを出発した。歩いてすぐのマチュピチュ川岸まで行って、その様子に驚いた。対岸の川沿いに、長い長い列を作って並んでいる大勢の人達がいる。マチュピチュ遺跡行きの小型バスを待っている登山客だ。我々もその中に入らないといけない。これは時間がかかるので大変だと思ったが、そうでもなく、意外と早く乗ることが出来た。


マチュピチュ川の両側に土産物屋やホテル


マチュピチュ遺跡行きの小型バス


 そこから遺跡まで走って30分だという。ところが、それがつづら折りの凄い山道で、しかも道幅がとても狭い。しかも、上から降りてくる小型バスと時折すれ違う。右側通行だから、われわれのバスは右の路肩ギリギリに寄せる。下は千仭の谷だ。思わず、手に汗を握る。ヒヤヒヤしながらしばらくそれを見ていたが、途中で嫌になって遠くの山々を見ることにした。すると、多分マチュピチュ山の手前の山だと思うが、円錐形の実にいい形をしている。こんな高地(標高2,400m)にもかかわらず、山の表面は緑に覆われている。なるほど、これはマチュピチュ山の兄弟山かもしれない。驚いたことに、小型バスに乗らずに、マチュピチュ村から歩いて登ってくる若い女性達がいる。元気が余っているのか、それともバスのチケットが買えなかったのか。

円錐形の実にいい形の山


マチュピチュ村から歩いて登ってくる若い女性達


 先頭に乗っている誰かが「ああっ、マチュピチュだ。」と叫ぶ。でも、私の席からは見えない。直ぐに視界が開け、なるほど、マチュピチュ山が見えてきた。先ほどの兄弟山と同じ形だが、緑の色がもっと濃い。しばらくして、ようやく入場口に繋がる小さな広場に着いた。事前に、20リットル以上の大きなリュックは預けなくてはいけないと聞いていたので、私は小さなリュックにしていた。右手にその大きな荷物の預り所がある。中央がトイレで、1USドルを支払ったら、お釣りとして現地通貨ソルのコインをもらった。

荷物の預り所とトイレ


マチュピチュ入場口


 さて、いよいよ入場口だ。事前にもらった入場許可証とパスポートを係員が照らし合せて、やっと入る許可が出る。そこを通った瞬間、いきなり登り階段がある。しかも、階段の幅が広かったり狭かったりで登りにくい。加えて道幅がとっても狭いところもある。空気も薄い。そこを一生懸命に登るものだから、ハアハア、ゼイゼイで息切れという体たらくになり、立ち止まって深呼吸を何回もする仕儀となる。加えて、リュックには、ソニーα7IIIのカメラに、広角、標準望遠そして超望遠の3本のレンズが入っている。それだけで4kg近いし、それにステンレスの水筒1.5kgも加わる。ちなみに、マチュピチュ遺跡には、ペットボトルの持ち込みは許されていない。だから、水筒になるのだが、これらだけでも6kg近くになる。

登り階段


 その重さのリュックを担ぎながら、2,400mの高地を一気に登るものだから、我ながらよくやったものだと思う。同行のツアー客の中には、いかにもか弱そうな体型の女性がいて、この人は高山病に罹ったのか動けなくなって、添乗員さんに支えられてフラフラと夢遊病患者のように歩く始末である。幸い、この人は間もなく回復した。人間の高地順応の能力は、大したものである。たまたま、今年のノーベル医学生理学賞は、細胞の低酸素応答のメカニズムに与えられたが、我々の身体にも、そのようなメカニズムが働いたのだろうか。

1−8 展望台から見た遺跡は絶景


第1展望台から見た遺跡


 ともかく、そういう難場をやっとのことで超え、急階段を登りきって少し行くと、遺跡全体を見渡せる第1展望台(ミラドール)があった。正面にはかつてパソコンの壁紙で見た通称マチュピチュ山(正式には、ワイナ・ピチュ)と、その麓にある居住地区の遺跡が広がっている。素晴らしい景観だ。インカ帝国がここを選んだ理由がわかる気がする。それにしても、40時間近くをかけて、やっと対面することができた。はるばる地球の反対側まで来た甲斐があったというわけである。しかもこの日は天候に恵まれて、快晴だから、真っ青の空の下に緑の山が鎮座している。山がくっきりと細部まで余すところなく見え、まさに写真日和である。広角と標準望遠レンズで撮りまくった。

手前の段々畑が綺麗に見え、美しいカーブを描いている。


右手に石垣、左手に断崖絶壁という場所を歩いて見張り台の下まで行く途中


 その第1展望台から、右手に石垣、左手に断崖絶壁という場所を歩いて見張り台の下まで行く。そこから段々畑が綺麗に見える。美しいカーブを描いている。ここに住む人達の食料となるトウモロコシやジャガイモを栽培したのだろう。更に行くと、芝生が植わった広場があり、そこが第2展望台となる。ガイドのウィリアムさんがインカ帝国やマチュピチュの歴史について説明してくれる。私は撮影に忙しくて上の空だったが、イヤホンを通じて話は聞ける。概要こんなことを語っていた。まず、この遺跡の発見の秘話である。この遺跡は、ペルー人の農園主リサラガが、1902年に発見してそれを遺跡の窓に書き付けた。その後、1911年にアメリカ人のイェール大学のハイラム・ビンガムが再発見した(一般にはビンガムが発見者とされているが、彼はリサラガの署名を消している。功名心が強かったのか、いささかずるい。)。元々ビンガムは、別の遺跡を探索する途中に、たまたま土地のインカ族に聞いて発見したという。その成果は、1913年にナショナル・ジオグラフィック誌に発表し、一般の知るところとなった。この遺跡は、1440年に作り始め、80年ほど生活が営まれたが、完成する前に放り出されたようで、現に動かす途中の大きな石が広場に放置されている。それにしても気になるのは、この空中の楼閣のような都市は、何のために作られたのかということである。征服者スペイン人に抵抗する最後の砦だったという説もあるが、そうではなくて、どうやら王や貴族の別荘を兼ねて、太陽を崇める宗教目的で作られたという説が有力のようである。

超望遠(300mm)に取り替えてマチュピチュ山頂上を見ると登山者が見えた。


超望遠(300mm)に取り替えてマチュピチュ山頂上を見る


 ところで、その第2展望台で、カメラのレンズを広角から超望遠(70mm - 300mm)に取り替えて目の前のマチュピチュ山を撮ると、びっくりした。頂上付近は段々畑のようになっていて、そこを登山者が登っているではないか。遺跡と山登りを兼ねた一石二鳥の楽しみ方だ。そういえば前夜、同じホテルに泊まっていたドイツ人夫妻と話をしたら、これからマチュピチュへ登りに行くと言っていたが、なるほど、これのことかと納得した。ちなみに、マチュピチュ山に登るには、許可証が必要だそうだ。

超望遠(300mm)に取り替えてマチュピチュ山麓の広場・神殿・居住地区を見る


超望遠(300mm)に取り替えてマチュピチュ山麓の広場・神殿・居住地区を見る


 少し降りて、第3展望台の方へと行く。ああ、これだ。ここから見たマチュピチュ遺跡の風景が、まさに昔のパソコンの壁紙そのものである。22年越しに、やっと本物を見ることができたというわけだ。写真だけでなく、記憶にしっかりと焼き付けた。そこで気がついたのは、マチュピチュ山には緑が多いのに、谷を隔ててその左手に広がる山々には緑がほとんどなく、まさに禿山なのである。ガイドが言うには、このマチュピチュだけは、周囲の山々からの湧き水があって、それと発生する霧で水分が補われているそうだ。なるほど、緑深い理由と、なぜここが選ばれたかという理由がわかった。

マチュピチュ遺跡の風景


石積みのアーチ形の門


石でできた受け具


マチュピチュ遺跡の風景


硬い黒っぽい石


 さて、それからいよいよ、眼下の広場・神殿・居住地区へと降りていった。石積みのアーチ形の門をくぐるとき、たぶん門扉を固定したのであろうと思われる石でできた受け具があった。なかなか、芸が細かい。まず、左手の石切場に行く。ここでガイドが見せてくれたのが、硬い黒っぽい石で、これで加工したそうだ。ところで、ここからマチュピチュ遺跡を左手から見ることができる。これまでとは別の角度から見るというだけだが、新鮮な感覚がする。

超望遠(300mm)で見た太陽の神殿


コンドルの神殿


 マチュピチュ遺跡に入るにはチケット(許可証)が必要だが、それに加えて太陽の神殿に登るには、今年の3月から午前中だけ、それも500人に限定されたようだ。遺跡保護のため、入場制限が次第に厳しくなるようだ。そういうわけで、残念ながら太陽の神殿は見られなかったが、3つの窓の主神殿 (神様ウラコチャのために作られた)と、コンドルの神殿はじっくりと観察できた。このうち前者の主神殿は、最近の研究で夏至や冬至の日に太陽の光がその先の石に当たるように設計されていることがわかった。後者のコンドルの神殿は、地面にコンドルの首の白い部分を模したと思われる二つの曲がった石が置かれ、それから胴体や羽根と思われる部分が見てとれる神殿である。ちなみにこの地方で古くから伝わる言い伝えでは、コンドルは、空の支配者とされている。

 居住地区には、600人から700人が住んでいたといわれる。今では屋根の木々やそれを葺いていた葉は失われて、単に壁だけが残っている。それでも、家の形はよくわかる。インカ式の強固な石積みだからこそ、これまで風雪に耐えてきたものと思われる。壁を見ると、外側に3個ほど石が突き出しており、ここに屋根材を固定していたようだ。壁の中には10センチほど引っ込んでいる空間があり、そこに蝋燭や土器などを置いたといわれている。


王の部屋


王の部屋で煮炊きする石


王の部屋


王の部屋


 王の部屋という区間があって、意外と狭くて日本の8畳間くらいのものだ。インカ皇帝や貴族が来たときに、ここに泊まったと言われている。その直ぐ前には、台所として使われ、煮炊きしたと思われるような二つの石がある。なお、最近のことだが、朝になってこの王の部屋にテントが発見された。侵入者が王様気分を味わおうと、ここに泊まったのではないかと大騒ぎになったそうだ。その近くに、湧き水を流している遺構があった。

湧き水を流している遺構


当時の家の復元


 階段状の棚田から、景色が良いなぁと思って遠くを眺めていると、突然、近くの花にハチドリが飛んできた。8cmくらいの小さな鳥で、羽を高速に動かしながら、花から花へと飛び回って蜜を吸っている。これは、めったにないチャンスだ。本来ならシャッター速度を2000分の1秒くらいにして撮りたいところだが、そんなことをしていると、撮り逃がしてしまう。仕方がないので、プログラム・モードのままで連写するしかない。ただ、焦点が少し広範囲なので、手前の花に合ってしまう。これも、無視するしかない。そうした中で、やっと何枚かハチドリの写真が撮れた。これは、今回の旅行での幸運の一つである。素直に嬉しい。更にその先を行くと、なんとまあ、リャマだと思うが、首の長い羊のような動物がいた。我々が狭い階段を登っていくと、その脇をすり抜けるように降りていく。おとなしそうで、助かった。

ハチドリ


ハチドリ


ハチドリ


リャマがいた


 さて、ひと渡り見て、入場した門の方に向かう。マチュピチュ遺跡では、見学は一方通行で、後戻りはできないことになっている。太陽の門へと続く道への分岐点に来た。そこからはインカ道で、小1時間ほど歩くと太陽の門と言われる見張り台に出るそうだ。私は当初行くつもりだったが、最初の登り階段でバテる寸前になったので、それは諦めることにした。後から、行った仲間から写真をもらったが、マチュピチュ遺跡全体を眺め下ろす見晴らしの良いものだった。

ヘリコニア


 今は10月の初めで、南半球は、これから春に向かおうとする時期である。ここマチュピチュは、私が登った午前中の時間の気温は、17度くらいであるが、直射日光が強くて、とても暑く感じ、汗をかいて下着がびっしょりと濡れてしまった。そこで、遺跡を退場してからその前にあるレストラン「サンクチュアリ・ロッジ」に入り、濡れた下着を着替えさせてもらった。そのついでにバイキング形式の昼食をとり、これはなかなか美味しくて、まさに格好のリフレッシュとなった。総じて、ペルーの食事は、どれもこれも私の口に合った。また、ミュージシャンがやってきて、ギターとともに、サンポーニャという笛を束ねたような楽器で「コンドルは飛んでいく」を奏でてくれた。サイモン&ガーファンクルを思い出して、懐かしい。

1−9 モルモットの丸焼きが名物料理

 マチュピチュ遺跡を小型バスで出たのは午後2時頃で、帰り着いたのは2時半過ぎとなり、それからお土産物屋を冷やかしたり、家内へのお土産としてペルーならではのTシャツを買ったりした。ホテルの部屋からはWiFiが通じたので、日本へメールを送ったりし、のんびりと過ごした。こういう時間も大事である。その夜は、添乗員さんが案内してくれたレストランで夕食をとった。まあ、なんというか、店に入った瞬間、壁という壁に名刺が貼ってある。炭火焼きの鶏肉、レモンソースの鱒などが美味しかった。看板メニューは、モルモットの丸焼きだった。パリパリして美味しいよと言われたが、さすがにそれは断った。

 ホテルに帰り、さあ寝付こうとしたら、まるで滝の中にいるのかと思うくらいの大雨が降った。なるほど、これは山の中ならではの天候である。急変すると、こんな風になるようだ。その中を、早朝に出発していくパーティがいた。大変だなぁと思う反面、昨日の我々は本当に天候に恵まれたと、感謝しなければならない。その幸運の続きかもしれないが、我々がホテルを出る時間になると、もう雨は上がっていた。ホテルの玄関を出てみれば、あれだけの大雨だったのに、朝鮮朝顔の花がしっかりと咲いていて、芳香まで漂わせているから、驚いた。でも、この花には毒があるそうだ。

 さて、ホテルを早朝出た我々は、来た道を逆にたどり、マチュピチュ鉄道でオリャンタイタンボに戻り、そこから小型バスでクスコへ、クスコから国内線の飛行機でリマに向かった。それから我々は、次の目的地、ナスカに、大型バスで向かった。このバスには、USBで充電できる端末があったので、助かった。

1−10 インカ道を歩く人々

 マチュピチュ鉄道でオリャンタイタンボに戻る途中、列車は川の急流の傍を通っていく。とあるところで、紺色の同じ制服を着た大勢のポーターらしい人々が荷物を担いで、一列となって細い道を歩いていくのを見た。やがて列車は駅に停車した。ピスカクチョというところらしい。そこに、登山者らしい外国人が何人か集まっている。


マチュピチュ鉄道


マチュピチュ鉄道


マチュピチュ鉄道


昔のインカ道を歩くツアー(インカ・トレイル)


昔のインカ道を歩くツアー(インカ・トレイル)


昔のインカ道を歩くツアー(インカ・トレイル)


 ガイドによれば、これは80kmを3泊4日の行程で、昔のインカ道を歩くツアー(インカ・トレイル)だという。最終目的地は、先ほどの太陽の門という見張り台で、それからマチュピチュ遺跡を見学することができるらしい。あの大勢のポーターは、コックまで伴ってお客さんに先回りしてテントや食料を運び、そこで、宿泊してもらいながら、マチュピチュ遺跡まで歩いて到達するのだそうだ。お値段は、一人1,200USドル(13万円)だという。

1−11 リマのマヨール広場

 その日は夕方にリマ(Lima)市内に入り、時間があったので、大統領と議会が対立して閉鎖中というマヨール広場に行ってみた。警官隊が規制して、広場の中には入ることはできなかったものの、周囲から大統領官邸、大聖堂などを眺めることができた。厳戒体制にあるといっても、緩い規制線である。大聖堂の中のキリストやマリア像は、非常に美しかった。また、周囲の商店街は、なかなか賑わっていた。


マヨール広場を警戒する警官隊


リマ大聖堂


政府機関


リマ大聖堂内部


リマ大聖堂


リマ大聖堂内部


賑わう商店街




第2 ナスカの地上絵

2−1 早起きしてイカ飛行場へ向かう

 前日、マチュピチュから夕刻にリマ市内に入り、シェラトン・ホテルに泊まった。翌朝、ナスカの地上絵を見るために飛行場に向けて出発するのだが、それが早朝4時半だという。これは早いなと思ったら、ナスカの地上絵を見るには、3つの飛行場のどれかに行かなければならないという。リマ飛行場、イカ飛行場、ピスコ飛行場である。


リマからイカ飛行場に向かう途中は砂漠地帯


イカ飛行場


 この中で、リマならすぐそばなので問題ないのだけれど、この旅行会社が契約しているのはイカ飛行場だから、そこに行くには、砂漠の中を伸びるパンアメリカン・ハイウェイを300kmも走らなければならないという。よって、朝9時のフライトに間に合わせるには、どうしてもこの時間になるとのこと。ならば仕方がない。早起きしてバスに乗り込んだ。

2−2 ナスカの地上絵とは

 ナスカは、亜熱帯の砂漠地帯にある。ナスカの地上絵の数は、確かなもので700を越え、おそらく800以上、いやいや最近でも新たに発見されているから1000ぐらいはあるのではないかと言われている。いずれも、一筆書きである。つい90年前ほどまでは、そんなものがあるとは誰も知らなかった。ところが、1930年代から商業航空便が飛ぶようになると、飛行機のパイロットの間で話題になり、そこで初めて知られるようになった。

 地上では、30cmから80cmほどの幅を15cmほど掘って表面の黒くなった小石を取り除き、それで溝を作って絵が描かれる。1世紀から7世紀にかけて描かれたと推定されているが、日本だと弥生時代の晩期から邪馬台国時代を経て古墳時代に描かれたということになる。つまり、およそ2000年前から1300年前に描かれたものなのに、年間降水量が僅か1mmという土地なので、現代まで残った。

 数年前に、NHKの番組で、地上絵を実物の半分の大きさで描く実験をした。それによると、道具として、木の棒に紐、小さな鋤を使う。表面の黒い土をどけると、下に風化していない白い土が現れる。これが、絵を描く作業となる。その前にまず、小さな下絵を描く。それを同じ倍率、例えば30倍で伸ばしていく。小さな紐でそれを何回か繰り返し、同じ点を横に結ぶ。その点同士を結ぶように鋤で地面を掘り返して線を引く。ナスカは気温40度にもなる極暑の地であるが、僅か4時間で本物の半分の地上絵を描くことが出来た。

 実際に描かれた地上絵のうち、今回の飛行で見られる可能性のあるものは、クジラ、コンパス、宇宙飛行士、三角形、猿、犬、ハチドリ、コンドル、蜘蛛、トカゲ、フラミンゴ、鸚鵡、木、手、花、渦である。これらを描いたのは、古代ナスカ人で、砂漠にトウモロコシを栽培した農耕民族である。砂しかない全くの不毛の地のように見えるが、どうやら地下水を使っていたようだ。

 次に、何のためにこの数多くの地上絵を描いたのかが、最大の謎となっている。気球をあげてその上から見るためだという気球説もあれば、この地に根を下ろして60年以上にもわたってこれを研究し、かつ保存運動を主導したドイツ人のマリア・ライヒェ(Maria Reiche)さんが唱える天文カレンダー説、山形大学が言うところの天の川説、つまり天の川の動物を地上に写し取り豊作を祈願する説など、様々な説がある。地元に言い伝えでもあれば別だが、現代の住民は古代ナスカ人とは全く関係がないので、当てにすることはできない。現に、火星人が描いたとか、宇宙と交信するためだとかいう人もいるくらいだ。

 では、何が正解なのだろうか。一つは、農業用水の確保が関係しているのではないかと言われている。元々、「ナスカ」の語源である「ナナスカ」は、辛く過酷な土地という意味だ。2000年前に描かれた大三角形の地上絵は、先端が、白い火山 (セロブランコ)の方向を指している。反対方向の長辺には奇妙な穴ぼこがいくつもあるが、これらは一連の井戸である。しかもこれらは相互に結ぶ地下トンネルで横に繋がっている。ということは、水源と地下水脈がどう繋がっているのかを示しているのが、この大三角形地上絵の意味だと推定される。

 この地方では、コンドルが水源の山から飛んできて、反対方向の海の方に行くと雨が降って井戸に水がたまるという言い伝えがある。同様に、ハチドリは、山に雨が降ると姿を現わす。普段は海にいるペリカンが出ると雨が降るなどと信じられている。だから、こうした水のないところでは、ともかく水を得ることが大事であるから、そのために天空にいる神々に捧げられたのが地上絵ではないかと考えられる。もっとも、渦巻き模様や人間の生首のように何のために描かれたか想像もつかないものもある。

2−3 小型機に乗り込んで飛び立つ

 さて、我々は予定通り、午前9時前にイカ飛行場に到着した。粗末な掘っ建て小屋を想像していたが、それどころか結構立派な建物である。メガネをかけた年配の知的な女性の肖像画が壁一面に描かれていると思ったら、それが、マリア・ライヒェさんである。地上絵を研究する傍ら、これを見るために30mの鉄製のタワーを建てたそうだ。


マリア・ライヒェの肖像画


乗り込む小型機


 12人乗りのセスナ機が2機稼働しており、我々ツアーメンバーの数は28人だから、12人ずつ2組と、4人が1組で、各フライトは1時間15分である。私は最後の組となった。だから、最初の組が搭乗してから2時間半後の搭乗となる。ところが、天候が悪くて最初のフライトがちっとも始まらない。靄がかかったり、砂嵐が発生しているようだ。待ちくたびれた頃に、ようやく第1便が飛んだ。それから待ちに待って、私のグループが飛んだのは、午後1時を回っていた。

 セスナ機のバランス調整のため、予め、手荷物を含めた搭乗者の体重測定があった。私は、80kgと出た。カメラなどの機材や衣服、靴や水も含むから、こんなものかと思ったが、他のツアーメンバーを見回すと、おそらく一番重かったのではあるまいか。だから、私の座席位置は前の方だと思われた。

 いよいよ出発だ。その30分前に、酔い止めの薬を飲んだ。私は、予想通り最前列の左側の1番、つまり主パイロットの真後ろの席だ。飛んでいる途中のコックピットの画面がよく見える。地面との傾きなどが、ビジュアルで良くわかる。


パイロットの画面


砂漠の中の町


川が流れた跡


川の両岸の緑


 飛行場を飛び立ち、ナスカ平原に向かう。ほとんどが何もない土漠である。途中、リーヘニョー川のあたりは、その両脇に、地下水脈のおかげで緑の谷ができている。さて、何もない不毛の地を更に進む。「あっ、線が見える」と思ったら、川が流れた跡だ。おや、機体が上下するピッチングが出てきた。気流の影響だろうか。あまり良い気分ではないが、でもこれくらいなら大丈夫だ。

 更に行くと、機体が左手にローリングする。困った。少し気持ち悪くなる。パイロットが突然、「ココ、ココー」と鶏のように叫ぶ。一体何のことだと思ったら、日本語の「ここ」だった。思わず笑えてくる。その地上絵を撮ろうとし、下を向いてカメラのファインダーを覗き込む。クジラの絵だ。おや、参った。気持ちが悪い。ミラーレスだからファインダーをのぞき込む必要はなくで、画面を見るだけでよい。しかし画面だけを見ることにしても、同じように気分が悪くてかなわない。飛行機酔いだ。仕方がない。カメラを覗き込むのはやめて、顔を上げて前を向き、レンズを地上に向けて盲滅法に連写する。静音モードにし忘れたので、ダダダッ、ダダダッ、ダダダダッと、まるでマシンガンの連射だ。撮れているかどうかも、確かめる余裕もない。私の真後ろの人も、同じような連写をしている。

 おっとまたローリング、今度は右手だ。またパイロットの鶏の叫び声がする。それに応じてまたカメラを連写する。ああ、あちらの向こうに見えるのは、猿だ。おお、ハチドリだ。コンドルだ。目に見える限り、カメラをそちらの方向に向けてまた連写をする。一体全体、こんな調子で撮れているのかどうか、さっぱりわからない。これは、帰ってからのお楽しみだ。それより、飛行機に酔ってしまわないように、しなければならない。ひたすら前方の遠いところを見る。ああ、ローリングがやっと終わり、地上絵エリアを離脱するようだ。よかった。何とか耐えられた。やがて飛行機は、無事に着陸した。


鯨


宇宙飛行士


猿


犬


トカゲ?


渦巻


鸚鵡


小動物


6花弁の花


マリア・ライヒェのタワー


 帰ってから、カメラの画像をチェックしたところ、しっかり写っていたのは、鯨、宇宙飛行士、猿、犬、鸚鵡、木、トカゲ、フラミンゴ、渦巻き、6つの花弁の花である。残念ながら、ハチドリはカメラの角度が悪くて尻尾のみ、コンドルは肉眼では見えたのに全く撮れていなかった。でも、これほど撮れたので、満足しよう。

土産物の刺繍


土産物の刺繍


 帰りのバスが立ち寄ったのは、日系人がやっている土産物屋である。私は普通、土産物は買わない主義だが、こちらにあった刺繍には、目を奪われた。インディオやアルパカなどアンデス文明の風景が描かれていて、実に可愛い。孫娘にあげるお土産として、買い求めた。


第3 リマ市内を観光

3−1 リマ旧市街

 ペルーの旧市街にあるシェラトン・ホテルに泊まった。大きな道を隔ててその向かいにある立派な建物は、ペルー最高裁判所である。ところが、治安が良くないので、写真を撮るのならホテル側からにして、絶対に道は渡るなとガイドさんに言われたので、ホテルからの遠景を撮るにとどまった。


ペルー最高裁判所


 前日、旧市街中心部のマヨール広場(別名は、プラザ・デ・アルマス[武器の広場])に行った。実はその数日前に大統領が議会を閉鎖したので、この広場には近づくことができないと、添乗員さんに連絡が入ったようなのである。どういうことかというと、元々犬猿の仲だった大統領と議会との対立が限界に達して、ついに大統領が議会閉鎖という強権を発動したそうだ。そうすると、このマヨール広場にはデモ隊が押し寄せるので、事前に封鎖してしまうのだという。ところが我々が行ったときには、やや規制が緩められて、広場そのものには入れさせないが、広場を眺める周囲ならばよろしいということになり、だから遠目に見ることができた。我々観光客の目の前には完全装備の警察がいる中、広場を眺めるという不思議な光景となった。我々の向かい側には大聖堂(カテドラル)、その左側には大統領官邸という位置から見て、広場の周りをぐるりと回って今度は大聖堂のところから、我々がつい先ほどいた場所を眺めた。

3−2 マリア・ライヒェ公園

 マリア・ライヒェとは、ナスカ空港待合室に描かれていたドイツ人の女性で、60年以上にもわたってナスカの地上絵を研究し、その保護に務めたた人物である。この公園は、その功績を称えて海岸沿いに作られたものである。もちろん、公園のあちらこちらには、ナスカの地上絵、猿、コンドル、ハチドリ、花などが大きく描かれている。これらを道路から見下ろすと、全体の形がよくわかる。ところが階段を下りていって、その地上絵近くに行くと、全体像があまりよくわからないというのも、本物によく似ていて、何だか可笑しい。


マリア・ライヒェ公園


マリア・ライヒェ公園


マリア・ライヒェ公園


 この日は、日曜日だったので、大勢の家族連れがいて、思い思いに和やかに過ごしていた。公園の中心部では、ワンちゃんと飼い主のファッション・ショーが行われていた。

3−3 愛の公園

 次いで、愛の公園なるものに行った。公園の一角に、男女が抱き合っている像があり、なるほど、こういう像の展示は、日本では難しいだろうなと思うのが率直な感想である。


愛の公園


愛の南京錠前


 そのすぐ近くの柵には、カップルの名前が書かれている数多くの南京錠前が結びつけられている。カップルが永遠の愛を誓い合い、錠前にお互いの名前を書いてここに結びつけて鍵をかけ、その鍵を捨てるのだそうだ。

3−4 旧日本大使公邸跡

 さて、今日はオプショナル・ツアーの開始である。旧日本大使公邸跡に立ち寄った。1996年12月17日にMRTA(トゥパク・アマル革命運動)のテロリストによる人質事件の舞台である。高級住宅街の一角にある。事件解決に4ヶ月ほどかかったので連日報道され、この玄関や白い塀は私の記憶に鮮明に残っている。あの悲劇の舞台である。


旧日本大使公邸跡


旧日本大使公邸跡の向かいの家


旧日本大使公邸跡


旧日本大使公邸跡の門の扉


旧日本大使公邸跡の門の扉に空いたままとなっている銃弾による穴


旧日本大使公邸跡の門の扉に空いたままとなっている銃弾による穴から中を眺める


 玄関のドアには、未だに銃弾による穴がいくつか開いているではないか。その穴から、中を覗き込むと、中には木と(隣の家かもしれないが)建物が見える。心の中で、この事件の犠牲者に黙祷をした。

3−5 ラルコ博物館


ラルコ博物館


ラファエル ラルコ


 ラファエル ラルコというトウモロコシ畑の大地主が、親子二代で4万5千点に及ぶ古代の墓からの発掘品等を収集した。ラルコ自身も発掘にあたり、数々の貴重な古美術品を掘り当てた。主にインカ文明以前の紀元前から13世紀頃までの品々が展示されている。この地方では、地上はピューマ、空はコンドル、冥界はヘビが支配すると考えられており、その図柄が多い。

ラルコ博物館の庭


ラルコ博物館の庭


 また、その庭は、世界の博物館の中で、第一位に輝いたこともあるほど、芸術性のあるものである。ペルー特有の色々な種類のサボテンをベースに、上からは蔦の緑の紐がいくつも垂れ下がり、それに赤と紫のブーゲンビリアの花が色を添えている。また、庭のあちらこちらには、大きな甕が、口を斜めにして置かれている。非常にユニークで、誠に趣きがある庭である。

ラルコ博物館収蔵品


ラルコ博物館収蔵品


ラルコ博物館収蔵品


ラルコ博物館収蔵品


 展示品の中でも、印象に残ったものをいくつか掲げておきたい。パラカス文化の2つの頭蓋骨は、いずれも頭に2ないし3センチの穴が開いている。戦争の犠牲者かと思ったが、頭の手術をした痕跡だそうだ。つまり、麻酔もない時代に頭に穴を開けて、悪性腫瘍などを取り出したのではないかと言われている。しかも、傷口の状態からして、向かって左側の人物は、その手術が元で死んでしまった。ところが、右側の人物は、手術後少なくとも数ヶ月は生きていたようなのである。

パラカス文化の2つの頭蓋骨


【展示品の日本語解説】 穿孔頭蓋骨と変形頭蓋骨

 頭蓋骨の穿孔手術は、古代アンデスの様々な社会において行われていた。頭蓋骨穿孔は、儀礼の戦いや戦闘の際に起こった内出血、骨折した頭蓋骨の破損部分を取り除くための外科手術だったほか、頭痛を和らげるために行われることもあった。穿孔手術には、黒曜石のナイフや金属製(銅や銅合金)のナイフが使われた。このほかにも、頭蓋骨の変形が行われていた。独特の形に変形された頭蓋骨は、社会的身分を示していた。

 この写真の左側は成人女性の頭蓋骨で、頭頂部の穿孔には再生形跡がない。すなわち、この手術によって死んでしまったことを示している。ところがこの写真の右側は成人男性の頭蓋骨で、顔面や頭部には骨折が治癒した跡が多数存在している。これらの骨折は鈍器による戦いで生じたものである。なかでも頭頂部右側の頭蓋穿孔は再生していることから、この男性は穿孔手術後も生き長らえたことを示している。


ナスカ文明の織物


ナスカ文明の鸚鵡の羽根の織物


 ナスカ文明では、織物技術が発達していたようで、色とりどりの柄の織物が展示されていた。青と黄色の色鮮やかな織物がある。一体、どういう糸を使っているのだろうと思ったら、何と鸚鵡の羽根だった。鮮やかなわけだ。あのような砂漠でどうやって入手したのだろうと不思議に思うところだが、どうやら北部アマゾン地区と交易があったようなのである。

 出口近くには、ミイラが身に付けていた黄金の飾りが展示されている。これは、世界的に人気があって、しばしば貸し出されているが、本日は戻ってきて、本物だそうだ。


金の装身具一式(チムー文化)


【展示品の日本語解説】 金の装身具一式(チムー文化。紀元後14〜16世紀初頭)

 古代アンデスの冶金技術はチムー文化において最盛期を迎えた。この装身具は泥の都市チャンチャンに埋葬された位の高い人物のもので、王冠と胸当ての縁には羽毛があり、これは鳥、つまり太陽に最も近づくことができる存在を意味する。耳飾りには、チムーの為政者の顔が正面向きで繰り返し表現されている。肩当てには、為政者が斬首した首を持ち、正面を向いて立ちあがった姿が表現される。王冠と胸当ての羽毛部分は、ネコ科動物の顔と半月状の額飾りを持つ人物の顔が側面を向いて行進する様子が表現されている。


飾り


 インカ文明の前に、ペルーにはこんな豊かな文明が発達していたとは、ついぞ知らなかった。それにしても、いずれも文字のない文化なのである。インダス文明の楔形文字、中国の甲骨文字、エジプトの象形文字に相当するものが全くない。そのせいか、紀元前から3000年近くにわたって継続した文明圏なのに、どの時代も同じようなもので、あまり発達した痕跡がないのである。やはり、文字というのは人類の知識や経験の積み重ねを行う上で、非常に大切なものであることが、良く分かった。

キープ


 そのインカ帝国も、文字はないのは同様であるが、例外的に「キープ」という紐の色と結び目で数字などの情報を伝えていたのではないかと言われているが、正確には分からない。インカを征服したスペイン人たちが、隠れて何か悪い企みをしているのではないかと邪推して、キープを知る人物を皆殺しにしてしまったからだという。

歯の痛みに耐えている人物


 ところで、この博物館の面白いのは、所蔵品の倉庫の中も公開しているところである。壺や土器などが、棚に整然と並べられていて、その多さに圧倒される。中には、異形の土器がある。例えば、脳出血や脳梗塞の後遺症で半身が麻痺している人物、歯の痛みに耐えている人物がある。現代と変わらない。

3−6 遺跡内のレストラン

 その日の夕食は、リマ市内にある「ワカプクジャーナ」というプレ・インカ(1,500年前)の遺跡の中にあるレストランに行った。台形のピラミッドで、その周りに日干しレンガの壁のようなものが縦横に走っている。それを見ながら食事をするのである。まあ、何というか、大胆な発想である。ちなみに、この遺跡では、まだ発掘が続いているという。日本では、およそ考えられない。


ワカプクジャーナ遺跡の中にあるレストラン


ワカプクジャーナ遺跡の中にあるレストラン



第4 ペルーの一口知識

 ガイドの皆さんから聞きかじった一口知識を記録しておきたい。

1.リマは雨が降らない。降っても夜中の霧雨。傘を持っていると奇異の目で見られる。傘は売っていない。

2.インティライムという太陽の祭りがあり、6月24日である。

3.アルパカには種類があり、お勧めはベイビーアルパカ、チクチクしない。

4.ペルーの国旗にある動物ビクーニャは、4000m以上の高地に住む。マフラーは10万円もする。凄く乱暴でツバを吐かれたり、蹴られたりする。

5.じゃがいもは、ペルーのアンデス山地が原産で、当地には3000種類以上ある 。日本では、最近は「インカの目覚め」という種類が売られている。

6.コカ茶は、高山病対策に効く。ただし、その名の通りコカインの元なので、国外に持ち出さないこと。アメリカでは麻薬として扱われる。

7.コーヒー は、トゥンキというブランドがお勧め。

8.ワインも有名で、中でもイカ県産が良い。

9.ピスコというのは、トウモロコシから作る蒸留酒で、アルコール度数は47%の地酒 である。これでは飲みにくいので、度数が14%に抑えたのが「ピスコサワー」である。

10.地元ビールには、ピスケーニャなどがあり、中でもクスケーニャはマチュピチュ産である。

11.アンデス山地の塩は、有名である。

12.「グイチャッカード」とは、モルモットが丸焼きで出てくる料理である。

13.フルーツの「チリモヤ」は、アンデス産である。白くて柔らかくて美味しい。ペルーでしか採れない。「ルクマ」も、ペルーでしか採れない。オレンジ色のアイスクリームなどとなって出てくることもある。「インカバナナ」もある。「カムカム」というのは、ピタミンC がオレンジの50倍もある。「マカ 」元気がでるので、「アンデスのパイアグラ」と言われる。「アスパラ」もペルー原産である。

14.「エケコ人形 」とは、願いを叶えてくれると信じられており、口が空いているのは、タバコが好きだから。色んなものをぶら下げている。

15.「トリトデブカラ 」とは、ブカラ村の子牛で、あたかも沖縄のシーサーのようなもので、家々の玄関口に置かれている。

16.「マチュピチュ」とは「古い山」を、「ワイナピチュ」は「若い山」を意味する。今では一日400人しか登れない。

17.「チチカカ湖 」は、クスコより標高が高くて4,000mもある。

18.アマゾン川の源流はペルーにあり、クルーズがある。

19.「ワカチナ湖 」は、オアシスの意味で、ボリビアとの国境にある。スポーツとして、サンドバギー、サンドボードができる。

20.インカ帝国時代に話されていた言葉は、「ケチャ語」で、地方によっては、今でも話している。

21.ペルーの国土は、60%がアマゾン、30%が山地、残る10%が砂漠である。



第5 その他ペルー補遺


 ペルーの人口3,200万人のうち、日系人は10万人だという。その多くは沖縄の出身で、そのせいで沖縄の姓を名乗る人が多い。

 マチュピチュを案内してくれたウィリアムズくんは、曽祖父が沖縄からの移民で、4世だという。小さい頃、両親が日本へ出稼ぎに行って働いたときに一緒に来日し、日本語を覚えた由。それからペルーに帰国して、高卒資格をとったと話していた。

 ナスカを案内してくれた熱川さんは、やはり日系4世で、祖父母も父母も日系人同士で結婚したから、外見は日本人そのものである。

 マチュピチュ村の初代村長は、野内与吉さん(福島県出身)という日系一世である。21歳でペルーへ移民し、マチュピチュ鉄道の敷設工事で働いたことを契機に村に定住した。水道を引き、水力発電所を作ったりして、村の発展に大いに貢献したそうだ。10人の子供をもうけたが、そのうちの孫世代の中には日本で働いている人もいる。

 今回の旅で、マチュピチュ村を歩いていると、チロルハットを被った格好良いおじさんから、いきなり日本語で話しかけられた。やはり日系人で、日本語のガイドでお金を稼いだ後、今はマチュピチュでレストランを経営しているそうだ。フジモリ元大統領はよく知られているが、その他こうして名もない日系人が活躍している姿を見るのは、日本人として嬉しいものだ。

 話は変わるが、クスコやマチュピチュ村の街中には、犬が多い。一見するとおとなしいが、万が一噛まれたりすると、大事になるかもしれない。だから、予め狂犬病の注射をしてくるべきだったと思った。







 マチュピチュ・ナスカへの旅(写 真)






(2019年10月 8日記)


 
カテゴリ:エッセイ | 23:50 | - | - | - |
退官に当たってのご挨拶

最高裁判所大法廷



1.挨 拶 状

 令和元年9月26日、次の挨拶状を親戚、先輩、同僚、後輩、そして親しい友人たちに送付させていただいた。

拝啓 皆様におかれては、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
                          さて 私こと  このたび、定年により、最高裁判所判事を退官いたしました。
 昭和48年に旧通商産業省に入省以来、経済企画庁、資源エネルギー庁、外務省、特許庁、経済産業省、日本貿易振興会、内閣法制局、最高裁判所に勤務して合計46年余の充実した公務員生活を送ることができました。この間、皆様から公私にわたり温かいご支援とご厚情を賜り、改めて、心より御礼を申し上げます。
 今後は、これまで培った法律や経済の知識と経験を生かし、弁護士として引き続き社会に貢献するよう努めていきたいと考えています。末筆ながら、皆様のご健勝とご多幸をお祈りして、私の挨拶とさせていただきます。
                          敬具



2.自分がたどってきた道のり

 退官日の前日、最高裁判所大ホールに整列した長官をはじめとする同僚裁判官の一人一人に挨拶を交わした。それから記念の花束を受け取り、立ち並ぶ職員の皆さんの万雷の拍手を受けて車に乗り込み、最高裁判所の建物を後にした。その時、私の胸には文字通り万感の思いがこみ上げてきた。

 自分がたどってきた道のりを振り返ると、我ながら色々とあったものだと思う。ともあれ、戦後に団塊の世代の一人として生まれ、それなりの波瀾万丈の人生を歩んできた。

 中でも、青年期に経験した東大入試中止は、東京へ出て、日本のために大きな舞台で活躍したいと思う私の心に、強力な火を点けてくれた。大学卒業後、運良く通商産業省への入省の夢がかない、その後は、良き先輩・同僚・後輩に恵まれて、どんな仕事も選り好みせずに全力で取り組んだ。内閣法制局に移ってからも、法律の解釈や法令案の審査を一生懸命に勤め、また最高裁判所ではこれまでの知識と経験を生かして信念に基づく判決を行い、それぞれ満足のいく仕事ができた。

 こうした多忙な仕事をする一方で、家に帰れば、家内が愛情深くて色々と気を配ってくれるから、一緒にいて幸福感があった。ともに子育てを楽しみ、二人の子供も医師と弁護士として活躍している。家内なくして、今の私は存在しなかった。おかげで、実に幸せな人生を歩ませてもらったと思う。


3.70歳代は人生の黄金時代

 私は、昭和に生まれ、平成を生き抜き、令和で人生の最終章を迎えそうだ。これからの私に残された時間は、そう長くはないと思うが、私の公務員人生はここでピリオドを打ち、私の前には全く新しい世界が待っている。そう思うと、生来の好奇心が湧き起こってきて、楽しくて仕方がない。

 通商産業省のある先輩は、80歳代になってその人生を振り返り、「70歳代が一番幸せだった。」と語っておられた。確かにこの先輩は、現役時代は文字通り「仕事の鬼」と言われたほどだったが、引退後は健康そのもので、しばしば海外旅行に行ったり、趣味の陶芸やゴルフに打ち込んだりして、楽しそうに過ごしておられた。見習うべき先達である。

 その生き方を踏襲すると、私もこれから人生の黄金時代を迎えそうだ。公務員として46年余、やるべきことはやったから、もう思い残すことはない。退官を契機に心を新たにし、健康に気をつけながら、弁護士として今少し社会に幾ばくかの貢献をしつつ、家内、子供たち、孫たちとともに、残された貴重な人生を有意義に楽しく過ごしていきたい。

 このホームページ「悠々人生」の読者の皆様にも、人生の黄金時代に入った私が見た美しい風景の写真、物事への考察や感想を記したエッセイなどを、引き続きお届けできればと思っている。



最高裁判所大法廷


最高裁判所








(2019年9月26日記)


カテゴリ:エッセイ | 08:09 | - | - | - |
本場おわら風の盆

鏡町おわら


1.一度は本物を観てみたかった

 「越中八尾おわら風の盆」については、これまで「月見おわら」「前夜祭」などを見て、それなりにわかったつもりでいた。ところが、やはり本物を見てみたいと思って、八尾に出掛けて観ることにした。今年の9月1日は日曜日で祭りは3日まであるから、2日丸一日と3日午前中(帰京)を休めば、丸々2日間は見られるという算段である。だから、たとえ一日くらい雨で中止になっても、さほど悔しくない。

 また、かつて行った前夜祭のときのカメラはオリンパスE−P3だったので、こういう暗い中での撮影は、ほぼ不可能だった。月見おわらのときはキヤノンEOS70Dだからそれよりはマシだったが、やはり、動き回る早い所作には不向きだった。その点、幸い今回は新しく買ったソニーのα7IIIを持っていくので、楽に撮れるはずだと期待する。実際、その通りだった。

 大人の休日倶楽部で北陸フリー切符というものがあって、往復には北陸新幹線を使えて、北陸エリア内では乗り降り自由であり、新幹線終点の金沢からもっと西に行こうとすると、特急の自由席に乗ることができる。価格も22,000円と合理的だし、いちいち行先を確かめて切符を買うという煩わしさがない。だから、北陸地方へ行くときは、私は専らこれを利用している。宿泊は、富山は混んでいるだろうから、少し外して高岡のホテルを予約した。地元の「あいの風富山鉄道」で富山から17分ないし18分と、それほど遠くない。県内の二大都市間だから、夜中もちゃんと電車がある。

 当日、乗り込んだ北陸新幹線は順調に走り、富山駅で降りて「あいの風富山鉄道」に乗り換えようとしたところ、ちょうど「おわら風の盆」のポスターが目に入った。越中八尾駅は富山駅から高山本線で20分ほどのところにあるが、その電車には整理券がないと乗ることができないという。その整理券は、乗車時刻の1時間前から発売だとのこと。そんな話、聞いていなかった。これは面倒だと思って地元の妹たちに行き方を相談すると、八尾のスポーツアリーナまで送ってくれるというので、好意に甘えることにした。これは助かった。そのスポーツアリーナは、見物客向けの大掛かりな駐車場となっていて、町の中心部までシャトルバスが出ている。

 スポーツアリーナは高岡から車で40分の道のりだ。午後4時頃に着き、シャトルバスに乗り込む。到着したのが、八尾町域の東の城ヶ山公園の近くだ。そこから坂を登って町域に入る。町の北側には井田川がある。山中を流れてきて、ふと平野が開けるところに町がある。現在の川面はかなり下がっているものの、その地形からして、過去に何回も洪水に襲われたのだろう。その度に標高の高い所へと移っていったものと見える。だから八尾は、総じて坂の街である。

 ちなみに、以下は、私が最も感動した「おたや階段」下の広場で行われた鏡町の皆さんによる「おわら風の盆」踊りである。


鏡町おわら


鏡町おわら


鏡町おわら


鏡町おわら


鏡町おわら


鏡町おわら


鏡町おわら





2.おわら風の盆の由来

 おわら風の盆の由来は、八尾の公式ホームページから引用させていただこう。

おわら風の盆の幕開け
 二百十日の初秋の風が吹くころ、おわら風の盆の幕開けを迎えます。毎年9月1日から3日にかけて行われるこのおわら風の盆は、今も昔も多くの人々を魅了します。涼しげな揃いの浴衣に、編笠の間から少し顔を覗かせたその姿は、実に幻想的であり優美で、山々が赤くもえる夕暮れを過ぎると、家並みに沿って並ぶぼんぼりに淡い灯がともります。
 それぞれの町の伝統と個性を、いかんなく披露しながら唄い踊り、その町流しの後ろには、哀愁漂う音色に魅せられた人々が1人、また1人と自然につらなり、闇に橙色の灯が浮かび上がり、誰もがおわらに染まっていきます。

おわらの歴史は、元禄ごろから
 おわらがいつ始まったのか、明瞭な文献が残っていないためはっきりしません。
 「越中婦負郡志」によるおわら節の起源として、元禄15年(1702)3月、加賀藩から下された「町建御墨付」を八尾の町衆が、町の開祖米屋少兵衛家所有から取り戻した祝いに、三日三晩歌舞音曲無礼講の賑わいで町を練り歩いたのが始まりとされています。
 どんな賑わいもおとがめなしと言うことで、春祭りの三日三晩は三味線、太鼓、尺八など鳴り物も賑々しく、俗謡、浄瑠璃などを唄いながら仮装して練り廻りました。これをきっかけに孟蘭盆会(旧暦7月15日)も歌舞音曲で練り廻るようになり、やがて二百十日の風の厄日に風神鎮魂を願う「風の盆」と称する祭りに変化し、9月1日から3日に行うようになったと言われます。

「おわら」とは
 一説では、江戸時代文化年間頃、芸達者な人々は、七五調の唄を新作し、唄の中に「おわらひ(大笑い)」という言葉を差しはさんで町内を練り廻ったのがいつしか「おわら」と唄うようになったというものや、豊年万作を祈念した「おおわら(大藁)」説、小原村の娘が唄い始めたからと言う「小原村説」などがあります。

風の盆の由来
 二百十日の前後は、台風到来の時節。昔から収穫前の稲が風の被害に遭わないよう、豊作祈願が行われてきました。その祭りを「風の盆」というようです。また、富山の地元では休みのことを「ボン(盆日)」という習わしがあったと言われます。種まき盆、植え付け盆、雨降り盆などがあり、その「盆」に名前の由来があるのではないかとも言われています。

多くの人々に育てられて
 大正期から昭和初期におわらが大きく変化を迎えます。大正ロマンと呼ばれるほど文化に自由な気風が溢れた時代、大正9年に誕生した「おわら研究会」も影響を受け、おわらの改良(唄や踊り)を行いました。また、昭和4年に結成された「越中八尾民謡おわら保存会」初代会長の川崎順二の文化サロンを中心とした働きで、各界の文人が次々と八尾に来訪しました。おわらに一流の文化意識を吹き込んだ文化人には、宗匠・高浜虚子、作家・長谷川伸もいたと言われています。
 同年、東京三越での富山県物産展に於ける公演をを契機に、おわらの改良がなされ、画家の小杉放庵、舞踊の若柳吉三郎が創った「四季の踊り」は大人気となりました。このときのおわらが「女踊り」「男踊り」として継承され今日のおわら風の盆になりました。
 その時代に生きた文芸人らの想いは今、歌碑となって町内のあちらこちらで息づいています。散歩がてら町の「おわら名歌碑」めぐりをして廻るのもおわらの楽しみの一つです。
 新しい時代の息吹を吸収しながら生きるおわら風の盆は、これからも新しい変化を繰り返し、次の世代へと継承されていくことでしょう。また、そう願わずにはいられません。


鏡町おわら


鏡町おわら


鏡町おわら


鏡町おわら


鏡町おわら


鏡町おわら


鏡町おわら


鏡町おわら





3.曳山展示館とおわら演舞場

 私の旅行は、かつては事前に色々と調べて完璧ともいえるプランで臨んだものだが、そうすると旅が窮屈になる上、様々なハプニングに柔軟に対応できないうらみがある。だから最近では、特に国内旅行は一応調べてはいくものの、基本的には行き当たりばったりで、その度ごとのハプニングを楽しむというスタイルである。今回もその調子で特に詳しく調べていくようなことはせず、シャトルバスに乗り込む時にいただいたパンフレットを眺めることから始めた。

 そうすると、「曳山展示館ステージでの実演」「おわら演舞場(八尾小学校校庭)」というのがあった。前者が午後5時からで1,500円、後者が午後7時からで指定席券3.600円である。では、開始時間を考えると、まず前者に向かおうかと思って地図を眺めていたところ、後者の小学校は今いる場所のすぐ近くなのに気が付いた。だから、まずそこに立ち寄って指定席券を買うことにした。窓口で聞くと、運よく良さそうな席が空いていたので、それを買うことができた。

 地図を見ながら曳山展示館に到着した。そこでは山車が並べられていて興味をそそられたが、おわら風の盆の舞台を見に来たので、まずはそちらの列に並んだ。次から次へと観客が来るので、列は延々と長くなる。やっと時間になり、ホールへと入った。どこでも良いというので、最前列のかぶりつきに着席した。残念ながら写真は禁止だ。


おわら雪洞



 いよいよ始まり、まずはおわら風の盆の所作の解説である。豊年踊り四季踊り案山子踊りなどがある。最初に左上で3回、手を叩き、右下で1回叩くのはこれから始めるという合図だとか、目の前で3回水平に手を動かすのは蚕棚を整理している所だとか、それから右や左へと手を斜めに動かすのは確認している所作だとか、色々と解説がある。それから踊り手さんたちが舞台でやってみせる。舞台踊りだそうだ。30分のステージで、本日は西新町支部が担当である。でも、「あれっ、これで終わりか。」と言いたくなるほどの内容の薄さだ。おわらは全く初めてという人には良いかもしれないが、私のように少しは知っているお客にとっては子供騙しのようで、物足りなくて損をした気分である。せめて、歌詞と所作の解説をしたメモでも配ってくれれば、この値段に合った価値があったのかもしれないと残念である。

 さて、午後7時近くになってきた。気を取り直して、演舞場に向かう。小学校の大きな校庭に沢山の椅子を並べて、正面に舞台が設えてある。舞台の背景の絵は、真ん中に大きな橋がかかっている川の風景である。なかなか良い。30分ごとに4つの支部が出演する本格的なものらしい。3日間で合計11の支部と、八尾高校郷土芸能部が出演する。私が見たこの日は、上新町、東新町、西町、天満町の順で、終演が午後9時近くになる。


上新町


上新町


上新町


上新町


 いよいよ始まった。まず、上新町の出演である。胡弓、三味線、太鼓の素朴で情緒あふれる旋律が聞こえてきた。次いで長く続く絞り出すような声でおわら節が朗々と唄われる。男性の踊り手が出てきて、左上で3回手を叩き、次いで斜めに手を動かして右下で1回手を叩くことから始まり、両手を水平にして手首を曲げる。これが案山子踊りか。それからピンクの衣装の女性の踊り手が男性と入れ替わるように現れて、優雅に踊る。菅笠を目深に被るので、「夜目遠目笠の内」ではないが、どの人も美人にみえる。面白いものだ。

 正確に言うとこの日の歌詞とは違うかもしれないが、例えば、こういう歌詞である。八尾四季(作詞:小杉放庵)

 揺らぐ吊り橋 手に手を取りて
 渡る井田川 オワラ 春の風
 富山あたりか あのともしびは
 飛んでいきたや オワラ 灯とり虫
 八尾坂道 別れてくれば
 露か時雨(しぐれ)か オワラ ハラハラと
 もしや来るかと 窓押し開けて
 見れば立山 オワラ 雪ばかり


東新町


東新町


東新町


東新町


東新町


東新町


東新町


東新町



 東新町の出演時には、小学生の女の子を早乙女姿で出し、男の子を黒い男性衣装で出してきて、そのあまりの可愛さに、観客から拍手喝采だった。大人の男性は黒っぽくてさほどの差がないと思っていたら、町によって、男性がウグイス色の衣装で出てきた。ピンク色の女性とマッチして、非常によかった。

東新町


東新町


東新町


東新町




 また、黒い男性の踊り手が、案山子踊りの最中に、両手を斜めに伸ばし、片足を上げて固まったように動かなくなり、それに更に2人が同じように固まった姿勢をとる。これにも、観客が大きな拍手喝采を送った。そういう調子で、最後まで観て、おわら風の盆を堪能した。素人は、このステージだけでも良いかもしれない。もっとも、おわらの真の楽しみは、思わず町流しにぶつかって、その町独特の衣装、踊り、歌い方を堪能するところにある。


西町


西町


西町


西町


西町


西町


西町


西町


西町


西町



 さて、これが終わったのは、午後9時を回っていた。それから日付けが変わるまで町流しを見るのがおわら風の盆見物の醍醐味だ。ところが、泊まりは高岡なので終電などを気にするのも面倒だし、明日があると思って、本日はもう帰ることにした。越中八尾駅まで歩いて30分はかかりそうだ。それで帰りかけたら、東町での町流しにぶつかった。狭い通りを、胡弓と三味線を流しながら朗々と歌い、その前を編み笠を目深に被った黒い男性とピンクの女性の浴衣姿が踊りながら流していく。この歌がまたよい。ドッコイサーのサッサなどと、頭にリズムが残る。哀愁を帯びた懐かしさがこみあげてくる。これを記録するには、写真では全く不十分だ。このおわら節と一緒でなければ、意味がない。そういうことで、今回のおわら風の盆見物には、写真よりビデオの方を多く撮った。


天満町


天満町


天満町


天満町


天満町


天満町


天満町


天満町


天満町


天満町


天満町


天満町


天満町


天満町


天満町



 それを見終わって、駅を目指して歩き始めたのは午後9時半頃だ。パンフレットの地図を頼りに十三石橋を渡ったのはよいが、そこでグーグル・マップを取り出したのは失敗だった。これに駅までの道順が出てくるので、ついついそれを頼りに進むと、一応は歩道があるけれど、だんだん道が暗くなってきた。構わずに歩くと、なんと墓地がある。そういえば、どこか見覚えがあると思ったら、その一角に親類の山口家のお墓がある墓地だ。間違いない。全くの偶然で驚いたが、この夜中にわざわざ立ち寄ってお参りする気も起こらず、心の中で亡き従兄弟のSさんに挨拶をして、そのまま通り過ぎた。

 更に行くと、真っ暗な中で突然、道が途絶えている。こんなことがあるものかと思ってよく見ると、階段だ。はるか下に、鳥居があるので、神社の参道の階段を下れというのが、グーグル・マップの指示だ。こんなに傾斜があるなら、そう表示してもらいたい。もう二度とグーグル・マップは使うものかと思いつつ、暗い中を何とか階段を降り切った。そこは、駅にほど近いところで、街頭もあり、ようやく文明社会に帰ってきた気がした。高山本線の電車に乗ったのは午後10時37分、高岡のホテルに帰り着いたのは、11時30分だった。いやはや、ひどい目に遭った。とんだ、夏の夜の肝試しの日だった。



天満町




4.おわら保存会11支部の特徴

 いただいたパンフレットの中にあった八尾町の地図で、上(南西部)から下(北東部)へとこれらの11支部(町内)が並んでいる順に見ていくと、最南西端は「東新町」(地図の左手)と「西新町」(右手)から、川を渡った所にある「福島」までは、次の通りである。

「東新町」、「西新町」
「諏訪町」、「上新町」
「鏡 町」
「東 町」、「西 町」
「今 町」
「下新町」
「天満町」
「福 島」


 それぞれの支部の特徴について、いただいたパンフレットには、このようにある。

「西新町」・・最も南に位置する支部です。新しく区画割されたことをあらわす「新屋敷」という通称でも呼ばれます。腰を深く落としてから大きく伸び上がる所作の男踊り、また繊細かつ優美な女踊りとも相まっての町流しは見応えがあります。

「東新町」・・諏訪町の先にあって最も高台に位置する支部です。この支部の少女だけが愛らしい早乙女衣装をまとって踊ります。また、この支部にはカイコを奉った若宮八幡社があり、その境内で奉納されるおわらには独特の風情があります。

「諏訪町」・・往時を偲ばせる佇まいの家々立ち並び坂のまち風情を色濃く残している支部です。東新町へと続く緩やかな坂道にボンボリが並び、狭い家並みにおわらの音曲が反響し、道の両脇を流れるエンナカと呼ばれる用水の水音と相まって、おわらなとっての最高の舞台を演出します。

「上新町」・・旧町の中で一番道幅が広く、商店が多く立ち並んでいる支部です。通りが広いので、比較的容易に町流しを楽しむことができます。また、午後10時から始まる大輪踊りには、観光客の皆様も参加して地元気分で楽しんでいただけることから、大変好評です。

「鏡 町」・・・かつては花街として賑わった町の支部で、女踊りには芸妓踊りの名残もあって、艶と華やかさには定評があります。鏡町支部への入口でもある、おたや階段下が支部のメイン会場になっていて、その会場で行われる舞台踊りや輪踊りをおたや階段に座って鑑賞するスタイルが有名です。

「東 町」・・・旧町でも古い町にある支部で、かつては旦那町とも呼ばれたほど大店が連なっていたと伝えられており、他支部と異なる色合いの女性の衣装に当時の旦那衆の遊び心が伺いしれます。また、おわらの名手だった江尻豊治や越中おわら中興の祖といわれる川崎順治などを輩出し、おわらの芸術性を育んだ町でもあります。

「西 町」・・・東町とともに旧町の中心にあって旦那町として栄えた支部です。今でも土蔵造りの家や風情ある酒蔵、格子戸の旅館など情緒あふれる建物が残っています。昼間に行われる、禅寺坂をくだった先にある禅寺橋で石垣をバックにした輪踊りには独特の風情が感じられます。

「今 町」・・・旧町の古刹聞名寺の正面に位置する支部です。東西両町の中心に位置したことから、かつては中町と呼ばれました。青年男女が絡む男女混合踊りは、この支部が他の支部に先駆けて取り入れたものとつたえられており、創作当時のスタイルを大切に守っています。

「下新町」・・福島から旧町への入口にある支部で、かつては勾配のある坂道に沿って多くの商店が立ち並んでいました。坂の中腹には八幡社があり、春季祭礼の曳山祭りでは曳山が奉納されるメイン会場となっています。朱色を基調とした女性の浴衣が特徴的です。

「天満町」・・東西北の三方を川に囲まれた町にある支部です。町はかつて川窪新町といわれていました。明治23年に天満町と改称し、その名の通り天満宮があります。この町では、おわらの唄(上句)の途中にコラショットと囃子を入れて、音程を下げて力強く歌う独特の歌い方があります。その歌い方は、川窪(こくぼ)おわらと呼ばれています。

「福 島」・・・旧町から移り住んだ人達を中心として結成された最も新しい支部です。風の盆期間中は駅横の特設舞台でステージ踊りが実際されます。また、大人数で広い通りを流す福島独特の町流しは見応えがあり、大変好評です。


 各支部の特徴が非常によく分かり、なかなか優れた解説である。とても参考になった。ついでに、同じパンフレットに書いてあったQ&Aのうち、興味を惹かれたものを引用すると、

 顔が見えないくらいに深く編み笠を被るのはどうしてですか。
 風の盆がはじまった当初は、照れやはずかしさから人目を忍び、手ぬぐいで顔を隠して踊ったのが始まりだったと伝えられています。編み笠に変わった今もその名残りで、顔が見えないくらいに深く被ります。

 女子の踊り子さんの帯はなぜ黒いのですか。
 その昔、おわらの衣装を揃えた際、高価な帯まで手が届かゆかったので、どこの家庭にもあった黒帯を用いて踊った名残りといわれます。

 初めて風の盆に行くのですが、どのように見たらよいですか。
 大きく分けて2つの見方があります。ステージでの鑑賞と各町内踊りでの町流しになります。初めての方は、椅子に座って見ていただける八尾小学校演舞場(有料)がおすすめです。

 町流しとは、とのようなものですか。
 おわらの町流しは、11あるおわら保存会支部がそれぞれ町の通りを歌い踊りながら流すもので、昔からのおわらの姿がここにあります。町流しには踊りと地方(じかた)が一体になった町流しと、地方だけの町流しがあります。


 なるほど、編み笠を深く被ることや黒帯の理由が、よく分かった。私は、9月1日の第1日目夜は八尾小学校演舞場で座って4つの支部を見物し、第2日目は、午後の町流しと、その夜は町流しはもちろん鏡町に陣取って舞台踊りなどを見たから、11支部のうち、少なくとも半分程度は見たと思う。町流しの見物も、この辺りで始まるななどと勘が働くようになり、だんだん慣れてきた。


5.鏡町のおたや階段下の広場

 さて、2日目は、やはり妹に送ってもらってスポーツアリーナに着いたのが午後2時半頃だ。午後3時から5時まで、各町内で昼間の町流しがある。それで、東町 → 西町 → 上新町 → 諏訪町 → 東新町 → 西新町 → 鏡町 の順で、町流しを観ていった。上新町公民館の前では、舞台踊りが披露され、それを堪能した。


西町


上新町公民館


西町


西町


西町



 午後7時から夜の町流しが始まるので、それまで2時間ほどある。先ずは早目の夕食を食べようと、食堂に入って親子丼をいただいた。関東の親子丼のように醤油を使っていない。だから、卵と玉ねぎと鶏肉がそのまま白いご飯にのっていて、まるで味がしない。富山では、他で親子丼を食べたことがないので、この店だけの味か、それともこの地方特有の味なのかはよく分からなかった。まあ、減塩にはよいから良いものの、シンプルすぎる味である。


西新町


西新町


西新町


西新町


西新町


西新町


西新町


西新町



 まだ、夜の町流しまで1時間半もある。地図で見た鏡町の「おたや階段」に行ってみた。この階段に座って、その下の石畳の広場で行われる演技を楽しむのが鏡町流の楽しみ方だそうだ。西町から「おたや階段」についた。そこから階段の下を見下ろすと、石畳の広場がまるでマッチ箱くらいにしか見えない。でも、もう階段の下から3分の2は、見物客で埋まっている。試しに空いている階段に座ったところ、それでも眼下の広場はまるで手帳サイズである。冗談ではない、こんなところにいても仕方がないと思って、階段を降りていき、下の広場に着いた。すると、人々がもう周辺に座っている。スケジュールを見たら、午後8時開始である。まだ、2時間半もあるのに、もう待っているのかと思い、馬鹿馬鹿しくなって、その辺りに座った。歩き疲れていたので、少し休むつもりだった。


6.退職者の鏡のような元気なおじさん

 すると、隣に座っていた60歳代の男性が、私の持っているカメラを指さして話し掛けてきた。「そのカメラ、いいなあ。よく撮れるでしょう?」

 私は、「いやいや、前回、キヤノンのカメラを持ってきたのですが、もう全然撮れなかったので、今回はこのソニーα7にしました。多分、多少暗くても大丈夫でしょう。」

おじさん「私は、ソニーα6400だから、そのα7だと、もっと良く撮れるでしょう。例えば、これでも(と言ってカメラの画像を拡大して)、ほら、踊り子さんのうなじの髪の毛まで写ってますよね。」

私「ああ、これは良く撮れている。目深に被る編み笠を正面から捉えるのではなくて、後ろからうなじに焦点をあてるなんて、これはなかなか非凡な構図ですね。芸術的だ。」

おじさん(気を良くして)「いやいや、ありがとうございます。そうやって気に入った写真を印画して、部屋に飾っています。」

私「それは、なかなか良いご趣味ですね。おわらは初めてですか?」

おじさん「いやいや、去年も来たのですが、鏡町のおわらは、この位置が絶好の場所です。なんとなれば、背景に見物人が写り込まない。ほら、黒い板塀でしょう。だから、あと2時間以上あるけど、ここで待っている価値があります。あと、今町の聞名寺(もんみょうじ)、これも良い。見物人が写らないアングルがあります。」

 私はそれを聞いて、ここで、このおじさんとおしゃべりをして時間を潰すことにした。気がついてみると最前列だから、写真を撮るには絶好のポジションである。

おじさん「流鏑馬に行ってみたことがありますか?」

私「いや、一度もありません。関東近辺では、鎌倉ですか?」

おじさん「鎌倉、逗子、平塚、そして明治神宮ですが、このうちでは、逗子が一番、絵になります。というのは、背景が海になるんです。たまに富士山が見えたりしてね。だから、あそこの流鏑馬は最高です。明治神宮も、背景に見物人が写りこまない良いアングルがありますよ。」

私「そうなんですか。逗子と明治神宮ねぇ。では今度、行ってみます。」

おじさん「ところで、ここまでどうやって来られたんですか?」

私「いつも、大人の休日倶楽部で、北陸フリー切符を買って来るんです。」

おじさん「私は、国内旅行は、なるべく格安航空券を買っていくことにしてます。例えば、先日は熊本まで3千円で行ってきました。北海道も、2千数百円で行けますよ。航空会社の販売サイトを丹念に見ていたら、そういう券があるんです。先日は、ジェットスターで291円というのがあって、申し込みました。我々は、土日は関係ないですから、暇な期間にそういう券のオファーがあります。」

 などというとりとめない話をしていたら、いつの間にか午後8時になって、鏡町のおわら風の盆公演が始まった。先ずは地方が「歌われよ わしゃ囃す」から始まって「越中で立山 加賀では白山 駿河の富士山三国一だよ」と続き、歌と囃子が続いていく。その途中で、三方から踊り子さんたちが出てきて踊る。上手いものだ。撮りに撮ったことは、言うまでもない(上記1.の写真参照)。

 おわら風の盆の踊りは素晴らしかったが、それとともに、退職者の鏡のような、このおじさんの存在には驚いた。現役の時は、さぞかし有能な人だったのだろうと思う。その時の勢いのまま、退職しても相変わらず精力的に全国を歩き回っている。「セールス」ではなくて、単に「良い写真を撮る」だけのために・・・いやもう、大した人だ。日本も、人口が減る、労働力が減るなどと言っていないで、こういう元気な高齢者を活用すべきだと思った次第である。



西新町


西新町


西新町



 なお、今晩の帰りの時刻は午後9時半頃に出発となったが、昨晩の反省からグーグル・マップを見るのは止めて、パンフレットの地図に従って十三石橋を渡るとすぐ右に曲がり、そのまま前進すると地鉄バスの発着場に出た。そこから左手に行けば高山本線の越中八尾駅であるが、試しにバスの出発時刻を聞くと、もうすぐだ。そこで、バスに乗ることにした。富山駅経由で高岡駅に着いたのは、午後11時頃だった。そのうちまたやって来て、今回の2日間で見られなかった支部のおわら風の盆を見てみたいと思っている。


7.八尾町の皆さんに感謝

 こういう風の盆をもう300年近く踊り、歌い続けてきたそうであるが、まずはその伝統を守ってきた八尾町の皆さんに対して敬意を表したい。また、そうした地域のお祭りに、我々のような何十万人にも及ぶ観光客を心よく受け入れて、かつ見物をさせていただくという皆さんの度量の広さにも感謝する次第である。願わくば、この伝統の芸術、日本の宝ともいえるお祭りを、今後も末永く続けていってもらいたいものである。







 本場おわら風の盆(写 真)




(2019年9月 3日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:30 | - | - | - |
シンガポールへの旅

マリーナ・ベイ・サンズ


1.ジュエル・シティ

 日本国内は、お盆休みで帰省ラッシュの中、台風10号の襲来でフェーン現象が起き、全国各地で気温が40度近くに達して暑さに喘いでいるという。そういうとき、私がシンガポールで過ごしたのだけれど、気温は最高で32度ほどだったから、今の日本よりは過ごしやすい。まるで東南アジアに避暑に来たようなものだ。もっとも、直射日光を浴びると、こちらの方でも身にこたえるので、なるべく地下鉄(MRT)や建物内を歩くことにしている。近代的な都会だから、それで十分に思ったところに行ける。


ジュエル・シティ


ジュエル・シティ


 チャンギ空港に着き、最近完成したという「ジュエル」に向かう。ターミナル2の方向だ。クアラルンプールで、知り合いに「最近シンガポールにできた名所はあるか」と聞いたら、ここを勧められた。特に夜に行くと綺麗だという。今はお昼近くだけど、まあ良い、行ってみるかという気になった。近付いてみると、平らで丸いアンパン型の建物だ。入ってみれば、普通のショッピングモールのようなレストランが並んでいる。しかし、中心部から滝の流れるような音が聞こえてくる。そちらに引かれるように歩いていくと、なんとまあ、大きなドーナツ形の天井の穴から、滝が勢いよく流れ落ちている。3階建ての建物の天井からなので、少なくとも20メートルの落差がある。見ていると、ドーナツ型の透明な天井から、水が渦巻いて中心部に空いた穴に向かい、それが流れ落ちるものだから、もの凄い迫力の瀑布となる。

ジュエル・シティ


ジュエル・シティ


 昔々、お台場の東京ビッグサイトの向かいに計画された、東京ファッションタウン(TFT)というビルに携わったことがある。その売りものの展示は、「室内滝シャワーツリー35」で、入口付近にある「受け皿」に対して35メートルの高さから2トンの水が流れ落ちるというものだ。当時はなかなかダイナミックなディスプレイだと思ったが、このジュエル・シティの派手な「猛瀑」には、遠く及ばない。まるで大人と幼児だ。こんなところでも、シンガポールに追い抜かれてしまった。

 その日は、マリーナ地区のホテルに泊まった。昔からマンダリン・オリエンタルが私の定宿で、そこの朝食のお粥(ポリッジ)が大好きだったのだが、今回は新しいところを開拓しようと、泊まったことがないホテルにした。結論としては、外観は良いしMRTの駅にも近いが、東南アジアのホテルにしては、部屋の設備があまりよくないので、お勧めしない。ただ、朝食は良かった。今時シンガポールに来るなら、マリーナ・ベイ・サンズに泊まるべきだろうが、家内の体調が回復して一緒に来られるようになってからにしよう。


2.シンガポール・フライヤー


シンガポール・フライヤー


シンガポール・フライヤー


 午後はまず、シンガポール・フライヤー(新加坡摩天)に乗って市内見物をした。これは高さ185メートルと、つい最近、ラスヴェガスに抜かれるまで、世界一の大きさを誇ったそうだ。筒のような形のカプセルにゆったり座れる1周30分の空の旅である。ここからは、マリーナ・ベイ・サンズが横向きに見える。せり上がってくるに連れて、その向かいのガーデンズ・バイ・ザ・ベイの全体の姿が見えてきた。後からここへ行くつもりだが、要は植物園だ。

シンガポール・フライヤー


シンガポール・フライヤー


シンガポール・フライヤー


シンガポール・フライヤー


シンガポール・フライヤー


 フライヤーは更に上がり、シンガポール港の全容が一望できるようになった。ものすごい数の船が停泊中だ。さすが世界でも名だたる貿易港である。振り返ってシンガポール本体の方を見ると、高層ビルが林立している。どれが何のビルかは知らないが、上海やクアラルンプールのようなユニークな形のビルがあまりないのは、シンガポールらしい。それだけに、今回のマリーナ・ベイ・サンズの三本脚タワーの変わった造形がよく目立つ。ガーデンズ・バイ・ザ・ベイの見事な形も、非常に美しい。フライヤーの頂点近くでは、マリーナ・ベイ・サンズの頂点部が、まるで空に浮かぶ南海の孤島のように見える。あちらの高さが200メートルだから、やや見上げる形となる。ところが、距離が近いはずなのに、ややボケて見える。スマトラ島からの煙害(HAZE)の影響かもしれない。HAZEは、シンガポールとマレーシアの夏季のリスクになりつつある。だから、このフライヤーは、夜景を見た方が綺麗だったかもしれない。


3.マリーナ・ベイ

 マリーナ・ベイ・サンズに行き、タワー1から3までの根元に当たるショッピングモールとレストランを回る。天井が高いし、ブランドショップばかりだから、明らかにカジノ仕様だ。真ん中辺りにそのカジノ(賭場)がある。ただ、私は長年の経験でカジノは体質的に合わないので、今回も入ろうとは思わなかった。こういうものが、近々日本にもできるらしいが、ただでさえパチンコやら多重債務やらで問題が山積しているのに、また新たに似たような社会問題が出てきてしまうのではないかと危惧している。


マリーナ・ベイ・サンズ


マリーナ・ベイ・サンズ


マリーナ・ベイ・サンズ


マリーナ・ベイ・サンズ


マリーナ・ベイ・サンズ


 美味しそうな中華レストランを見つけたから、取り敢えずそこで食事をした。そろそろ日没なので、隣にあるガーデンズ・バイ・ザ・ベイに向かう。夜景が綺麗だというので、その写真を撮りたい。切符売り場に行くと、ダンス、フロート、ワルツなど幾つかのパートに分かれていて、全部を回るには時間がないという。「また来るからいいか、本日の目的は『スーパーツリー・グローブ』と称する木のような不思議な造形の夜景だから」と思って、「そちらに行くにはどうするのか」と聞いたら、シンガポール名物の無愛想な女の子が、「あっちへ行って、そちらで券を買え」とぶっきらぼうに言う。「これでは逆効果ではないか、ますます買う気がなくなる。」と思いつつ、そちらの方へと向かう。

ガーデンズ・バイ・ザ・ベイ


ガーデンズ・バイ・ザ・ベイ


ガーデンズ・バイ・ザ・ベイ


 ようやく暮れなずむ頃になって、夜景に切り替わりつつある。ところが、気温が高く、30度は超えているのは確実だ。しかも湿気を含んでいるから、外を歩くとサウナに入っているようで、汗びっしょりになる。ブリッジを渡ってスーパーツリー・グローブの近くへと行った。いやこれは、宇宙のどこかの星に生えている木ではないかと思うほどにSF風の形をしている。10年ほど前にアバターという映画があったが、その中に出てくる惑星パンドラに生えていた木とそっくりだ。それが、夜空に紫色など様々な色に光るから、ますます現実離れした風景となる。また、その木と木の間が、カーブする細いブリッジで結ばれていて、そこを人が歩いている。かなり高い所なので、人間がアリのようにごく小さく見える。この暑い中を、あそこまで行くのかと思ったら、行く気が失せた。

 そろそろ、マリーナ・ベイ・サンズの夜の出し物である「光と水のショー」の時間が近づいてきた。そちらも是非見たいので、ガーデンズ・バイ・ザ・ベイはまた来ようと思って、再びマリーナ・ベイ・サンズに戻った。会場はプロムナードで、マリーナ・ベイ・サンズを背にし、向い側の高層ビル群を背景に、目の前の池のような運河のようなところが会場だ。適当な所に座る。


マリーナ・ベイ・サンズ


マリーナ・ベイ・サンズ


マリーナ・ベイ・サンズ


マリーナ・ベイ・サンズ


 開始時間の午後8時になり、光と水のショーが始まった。池の真ん中にでこぼこした柱が立っていると思ったら、それが光りはじめ、緑、青、赤の光を放ちだした。オーケストラのような荘重な音楽に合わせてあちらこちらで噴水が出だし、上へ斜めへ、色々な高さに水を吹き上げる。その水に色がつくから、いやもうその派手なことといったらない。噴水の中に三角形の形が現れる。プリズムでも使っているのか、それに色がついて美しい。音楽がどんどん盛り上がってきて、それに連れて噴水がますます高く吹き上がり、やがて全てが沈黙した。うーん、なかなかの演出である。こういう無駄なことができるというのも、カジノの稼ぎが元になっているからなのだろう。この時ばかりは、中東か中国か知らないが、カジノのお客さんに感謝したい。


4.リバー・サファリ

 シンガポールで、どこか暑くないところはないかと思って調べたら、まずはセントサ島の水族館があるが、既に行ったことがある。動物園も木陰が多くていいが、これも何回か行っている。少し前からナイト・サファリなるものも始まったが、写真が撮れないので、この案も却下だ。そういうことで、最近完成したばかりのリバー・サファリに行ってみることにした。もちろん、これは初めてだ。

 世界の川をテーマにしているらしい。それなら、淡水の水族館に違いない。きらびやかな熱帯魚はいないかもしれないが、水槽だから、涼しいに違いない。パンフレットを見ると、あれあれ、川とは無縁のはずなのに、パンダがいる。これはひょっとして、川というあまりに地味なテーマなので、文字通りの客寄せパンダのつもりで置いているのかもしれない。まあ、それでもいいか、上野以外でパンダが見られるのだからと思って、行くことにした。

 順を追っていくと、まず、ジェムス川には、エンゼル・フィッシュがいた。二匹がペアのようにゆっくり浮かんでいる。こんなにのんびりして大丈夫なのかと心配するほどだ。次のミシシッピ川には、いかにも獰猛な亀(Alligator Snapping Turtle )がいた。おお、これは数年前、上野公園不忍池で立て続けに見つかった噛みつき亀そのものだ。アリゲーターという名が付くガーという魚がいて、顔は鰐そのもの、体は古代魚である。そのなかでも、プラチナ・アリゲーター・ガーは、優雅で美しいから、一見の価値がある。コンゴ川には、タイガー・フィッシュという魚がいて、なるほど口に並ぶ歯が恐ろしい。ガンジス川には、小型の鰐、大型の鯰がいる。これでは聖なる川も、落ちたら大変だ。オーストラリアのメアリ川には、アーチァーフィッシュがいて、水鉄砲で昆虫を落とすらしい。見てみたいものだ。


リバー・サファリ


リバー・サファリ


リバー・サファリ


 次にタッチプールがあって、ヒトデや兜蟹を触らせてくれる。兜蟹は日本では天然記念物に指定されているが、ここでは幾らでもいるので、あまり有名ではないらしい。なお、系統的には蟹のような甲殻類ではなく、蠍のような節足動物の仲間だという。昔、マレーシアに住んでいたとき、東海岸に行ってこの兜蟹を持ち帰り、一時飼っていたことがあったが、お手伝いの中国人女性がそれを欲しがった。「何故だ」と聞くと、「食べたら美味しいに決まっている」という。『中国人は、四つ足のものは机以外は何でも食べる』と聞いたことがあるが、四つ足でもなく、こんな兜のような頭と槍のような尻尾しかない動物のどこを食べるというのかと驚いた。そこで、「食べるところなど、どこにあるのか」と問うと、「頭の裏側に卵があって、それが実に美味い」という。なるほど、先程の諺は、『中国人は、動くものなら何でも食べる』と言い換えた方が良さそうだと思った。

リバー・サファリ


リバー・サファリ


リバー・サファリ


 メコン川には、ジャイアント・キャットフィッシュつまり大鯰が出てきた。絶滅危惧種らしい。また、淡水エイもいる。エイを英語で言うと、「Stingray」とのこと。なるほど、直接的な表現だ。覚えておこう。長江には、大型の山椒魚(Salamander)がいた。これまた、日本では天然記念物である。次の本物パンダの前にレッド・パンダというのがいる。可愛いが、これは、まるで猫だ。さて、いよいよ「大熊猫」つまりパンダに会える名前は、凱凱(カイカイ)と嘉嘉(ライライ)だ。パンダ舎に入ってみると、上野公園のようなガラス越しではなくて、やや遠目だがパンダを直接見下ろすことができる。ガラスに反射しないから写真に撮るには良い。しかも取り放題だ。これでパンダが身体を起こして竹でも食べていてくれれば、それなりに絵になるのだけれども、そうは問屋が卸さない。目の前のカイカイは、だらしなく寝そべっている。しばらく待っても起きてくれそうにもないので、仕方なくそれを撮ってきた。生き物相手は、なかなか上手くいかないものだ。

 次に進むと、大きな貯水池に出て、そこを対岸まで渡っていける橋がある。渡り切ると、貯水池を小さく一周する船に乗る。いやまあ、単にそれだけである。対岸は動物園なので、木の間をゆっくり歩くキリンを見たのが一度だけあったが、変わったことといえばそれくらいで、あとは何もない。平和だ。平和過ぎる。心身ともに、無の境地になる。そういう調子で先ほど乗船した桟橋に戻り、ぼんやりとした頭で前を見ると、「アマゾン川探検」というのがある。これは有料だが、歩くのに疲れたから、乗り物に乗ることにして、乗り込んだ。


リバー・サファリ


リバー・サファリ


リバー・サファリ


 すると、いきなり、ガガガッという音と共に2階の高さに持ち上げられた。そこからは、ちょっとした川下りのジェットコースターもどきになっている。流れていく川の両岸に、何とかモンキーとか虎とかがいるらしいが、木に遮られて、よく見えない。もう終わりかけというときに、やっと、紅色のトキとフラミンゴ、そしてカピバラが見えた。これでは、フラストレーションが募るばかりだ。

 出発点に戻り、係員のインド人女性に冗談のつもりで「動物が見えなかったので、もう1回」と頼んだら、なんとまあ、それが通じたようで「OK」という答えが返ってきて、面白かった。こういう問答ができるのが旅の醍醐味だし、何事も頼んでみるものだ。日本の動物園では、全くダメだろう。そういうことで、もう一回チャレンジしたが、木の上で幸せそうに寝ている「吠え猿(Howler Monkey)」が見えただけだった。それでも係員の配慮に感謝しないといけない。その後は、シルバー・アロワナ、電気鰻、マナティにピラニアまで見て、まあ、こんなものだと納得した。



5.財富の泉



富貴の泉


富貴の泉


 ホテルに帰る前に、最近できた「サンテック・シティ」というショッピングモールに行ってみた。財富の泉というのができたというのである。どんなものかと思って立ち寄ってみた。するとそれは噴水で、覆うように黄銅色のリングが上方にあって、同色の柱で四方から支えられている。見ていると、中国人たちが嬉々としてその噴水を触りながらその周りを巡っている。三回まわると、お金持ちになれるそうだ。何とも他愛のないもので、これもシンガポールらしいというか、なんというか。






 シンガポールへの旅(写 真)






(2019年8月14日記)


カテゴリ:エッセイ | 21:40 | - | - | - |
相馬野馬追祭り

甲冑競馬で疾走中



1.相馬野馬追祭りの全容

 福島県南相馬市まで、「相馬野馬追(そうまのうまおい)」を見物に来ている。見るもの聞くものが全て荒々しく勇ましい祭典である。戦国時代の合戦は、さも斯くもありなんと思うほどの荒ぶる行事であった。その全容を知るには、これを説明している南相馬観光協会のガイドブックが非常にわかりやすかった。それによると、

「 一千有余年の歴史を経て、今なお勢いづく伝統の祭り 血湧き肉躍る戦国争乱のドラマ

 甲冑に身をかためた五百余騎の騎馬武者が、腰に太刀、背に旗指物をつけて野原を疾走する、力強く勇壮な時代絵巻。伝説によれば、相馬野馬追は今から千年以上も昔、相馬氏の遠祖とされる平将門が下総国小金ヶ原(千葉県西部)に放した野馬を敵兵に見立てて軍事演習に応用したことにはじまったと伝えられています。そして捕らえた馬を神馬として氏神てある妙見に奉納したのです。
 その後、相馬重胤が奥州行方郡(現・南相馬市)に移ってからも代々の領主がこの行事を伝承。野馬を奉納し、相馬地方の平和と安寧を祈る神事として、怠ることなく野馬追いが行われてきました。現在は国の重要文化財となっています。旧藩領あげての最大の祭典として、今も熱気あふれる行事がくりひろげられています。
妙見とは仏教でいう妙見菩薩のことであり、北極星・北斗七星を神格化したものです。家紋『九曜』も、これに由来すると伝えられています。相馬氏は初代師常公の時代から妙見信仰を守り続けてきました。下総国から陸奥国に移り、はじめの地であった太田、続く小高城、そして中村城に妙見宮をお祀りしています。これが今に至る太田神社、小高神社、中村神社で、合わせて『相馬三社』と呼ばれ、現在も地域の人々の信仰を集めています。」


 旧奥州中村藩の領域は、太平洋に沿って走る浜街道沿いに連なる5つの郷で、それぞれが相馬三社に供奉する。北から南へ見ていくと、宇陀郷と北郷(中村神社)、中ノ郷(太田神社)、小高郷と標葉郷(小高神社)であり、これによって野馬追の組織を構成する。相馬野馬追祭りは、次の3日間の日程で行われる。

【第1日】お繰り出し「総大将の下知により出立」相馬三社のそれぞれにおいて、陣笠、陣羽織、甲冑姿で集まり、出陣式を挙行し、隊列を整えて「お繰出し」。騎馬隊は各自のコースで雲雀ケ丘祭場地に向かい、馬場清めの儀式の後、宵乗り競馬を開催する。


甲冑競馬でこれから出番



甲冑競馬でこれから出番



【第2日】お祭りのハイライトで、お行列(おぎょうれつ)、甲冑競馬、神旗争奪戦、火の祭りが行われる。

 [お行列]総勢500余騎が、甲冑姿で太刀を持ち、先祖伝来の旗指物を風になびかせながら、総大将、軍師、侍大将、軍者、組頭、螺役長などの順で威風堂々と雲雀ケ丘祭場地まで行進する。殿様の行列なので、観覧の心得として、行列を横切らない、2階など高いところから見下ろさない。

 「甲冑競馬」法螺貝の音とともに、鎧武者が10騎ずつ10回、一周千メートルの競走を行う。

 「神旗争奪戦」相馬三社のご神旗を数百騎の騎馬武者が奪い合う。

 「火の祭り」騎馬行列が雲雀ケ丘祭場地から帰る頃、住民が沿道に提灯や松明をかざしたことから始められた行事で、行列が小高神社に到着する頃に花火が打ち上げられる。

【第3日】野馬懸けで、多くの馬の中から神の思し召しにかなう馬を捕えて奉納する「上げ野馬の神事」である。まず、騎馬武者が馬を小高神社境内に追い込む。目印を付けた馬を御小人(おこびと)という10数人の白装束の男が総がかりで捕え、神社に奉納するというもの。

2.甲冑競馬と神旗争奪戦

(1)第2日後半のハイライトのみ見物

 私は、このお祭りの事情がよく分からなかった。そこで、そういう場合の常道であるツアーに乗った。日帰りコースだから、見られたのは甲冑武者競馬と神旗争奪戦だけである。後から思うと、騎馬武者隊列をじっくり写真に撮るには、お行列が良かったのだが、その出発は午前9時半であるのに対して、我々が東京駅から東北新幹線で出たのが午前7時8分、雲雀ケ丘祭場地到着が11時半頃だったから、とても間に合わない。

 しかも、その当日は、雨模様のためにお祭りがどうなるか、とても気をもんだ。というのは、3日前の木曜日に日本列島のすぐ南の海上で台風が発生し、いきなり北上をはじめたからである。翌日には三重県に上陸し、相馬野馬追の第2日目の日曜日には、天気予報によれば、会場を直撃しそうな雰囲気だったからだ。

 多少の雨なら挙行するだろうけど、それにしても雨対策は必要だろうと思って、リュックの中の物は全て小分けにしてビニール袋に包んだ。特に全身がずぶ濡れになることも考えて、雨合羽はもちろんのこと、シャツ、ズボンから下着に至るまで着替えを準備した。また、カメラも、買ったばかりのソニーα7の超望遠レンズは200mmと短いので、キヤノンEOS70Dの300mm(フルサイズ換算460mm)を持っていくことにした。結果的には、この判断が正解だった。

 日曜日の当日朝、家から出てみると、無常にも大雨だ。「現地では晴れてくれないかな」と思いつつ、その中を傘をさしながら駅に向かった。ところが、福島駅に到着した頃には雨が上がっていて、その代わりカンカン照りの夏日和だ。その暑い中、駐車場から道を歩いていくと、カッポカッポとお馬さんが通る。ときどき、道には馬の落とし物があるので、踏まないようにしなければならない。


会場の雲雀ケ丘祭場地



会場の雲雀ケ丘祭場地の観客席



 会場の雲雀ケ丘祭場地に到着した。牛来口(ごらいぐち)ゲートから入ると、目の前は一周千メートルの大きな馬場だ。段々になっている観客席の小山(本陣山)の坂が、これまた広大である。そこに、3万人もの見物客が集まっている。暑くて日除けの傘をさしたいが、後列の観客席の人の視界の妨げになるので、それもできない。頭には、つば広の帽子を被っているから、まあまあ大丈夫だが、背中から長袖のシャツを貫いて日光の熱が身体に入ってくる。このままでは、日射病になるかもしれないので、水をどんどん飲むことにした。この日で、合計2リットル半は飲んだと思う。しかもその半分は、塩分入りのものだったから、何とか身体が持ってくれたようなものだ。この日見られたのは、甲冑競馬と神旗争奪戦である。

(2)甲冑競馬

 お昼の12時になった。ブオー、ブオーーという法螺貝の厳かな音色が鳴り響く。甲冑武者姿の競馬が始まるようだ。「総大将に申し上げる。10騎中、8騎が揃い、出発するー」。総大将「承知!」などというやり取りがあって始まる。ところが、出走馬がなかなか来ない。アナウンスがあって、「この競馬には出発ゲートがないので、全騎が息を合わせて出発しないといけません。フライングがあったようです。」などと言うので、観客がどっと笑う。その中を一群の甲冑武者騎馬軍団が、やっと走ってきた。


甲冑競馬



甲冑競馬



甲冑競馬



甲冑競馬



 一周千メートルの馬場は早朝の雨でぬかるんでいる。そこを旗指物を背中に括りつけて、ドドドッとばかりに集団で走ってくる。これは凄い迫力だ。土くれが巻き上がり、武者の顔が泥だらけである。あっという間に目の前を通り過ぎて、コーナーに向かう。やがてコースの向こう側に廻り、いやもう走るは走るは。そしていよいよ最後のコーナーに差し掛かり、ゴールに向かう。遂に通り過ぎた。勝者は嬉しくて嬉しくて、拳を何回も突き上げる。そして、ゆっくりと戻ってきて、審判役から着順の証明をもらう。それから、本陣山の観客席の真ん中をジグザグに貫く「羊腸の坂」(この名前がまた良い)をその馬で一気に駆け上がって、頂上の神社か本陣かに、その栄誉を報告に行くそうだ。

甲冑競馬で勝って手を挙げる武者



甲冑競馬で勝って羊腸の坂を駆け上がる



 観客席に座っていては、写真にならない。そこで、一番下に降りて行って走って来る出走馬を撮る。スポーツモードだから、コンティニュアス・フォーカスと連射の組合せだ。これで甲冑武者を連射したところ、何とか見られる写真が撮れた。ただ、もう少し良い撮影ポジションがなかったかどうかが反省点である。振り返ってみると、最初から観客席ではなくて馬場に近い所で撮っていた方が良かったのかもしれないし、加えて牛腸の坂にも行けば、甲冑武者とその馬を間近に撮ることが出来たと思う。もっとも、あの暑い中を大きく動き回ると、日射病にかかっていたかもしれないので、何とも言えない。

(3)神旗争奪戦

 午後1時になり、次にいよいよ神旗争奪戦が始まる。1発の花火中に2つの神旗が入っていて、高さ150mに打ち上げる。それが地上へ降りてくる途中で、騎馬武者が鞭に絡めて取る。地面に落ちたのはカウントしない。神旗を取った武者は、例えば「中ノ郷地区の谷口」などと名前が告げられる。その栄誉を称えて、取った武者には、羊腸の坂を駆け昇ることが許される。神旗には、赤、青、黄色の三色があり、それぞれ、神社が違う。


神旗争奪戦で神旗入り花火を打ち上げ



空中を降りてくる赤と青の神旗



空中を降りてくる青の神旗



空中を降りてくる赤の神旗



 さて、ズドーンという花火の音で、始まった。空を見上げると、花火が破裂する白い煙が数ヶ所見える。それから、青い神旗と赤い神旗がゆらゆらと降りてくる。中に書かれた字が読めるほどだ。地下では、風向きを読んで沢山の騎馬武者が旗指物を左右に揺らして待ち構えている。あっ、地上までもう少しというところで武者群にはっきりと動きがあり、皆我先に鞭を空中に伸ばしている。ああっ、神旗が誰かの鞭に包まれてしまった。取られたのだ。

神旗争奪戦で騎馬武者の頭上に降りてくる赤い神旗



赤の神旗を取り合う騎馬武者



 これを20回、40本の神旗について繰り返す。中には、鈴木さんという「女性武者」がいて、この人もちゃんと神旗を取っていたから、笑ってしまう。戦国絵巻での女性の活躍だ。なかなか良いではないか。ある時は、黄色の神旗も降りてきた。それとペアの青い神旗も降りてきたが、あれあれ、こちらの方は、風に流されて場外に出てしまった。これはノーカウントらしい。

甲冑武者が落馬



甲冑武者が落馬して、馬がそのまま走って行ってしまう



そのまま走って行ってしまう馬が取り押さえられた。



 それから、乗り手の甲冑武者が落馬して、馬がそのまま走って行ってしまうこともよくあった。危ないので、無主の馬は、すぐに取り押さえられていた。

(4)やはりお行列を撮りたい

 というわけで、本日のハイライトである2つの行事が終わった。期待していた通りのお祭りだったが、次の機会があれば、前日に一泊して「お行列」の写真を是非とも撮ってみたいと思っている。






 相馬野馬追祭り(写 真)






(2019年7月28日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:22 | - | - | - |
鋸山ロープウェーと日本寺

地獄のぞき


 最近の外国人観光客は、2回目、3回目の来日という人が多い。だから東京に来ると、浅草寺、お台場、東京スカイツリーなどの定番の観光地は飽きてしまって、横浜、日光、鎌倉などへと足を伸ばすそうだ。しかしそれもマンネリ化して、飛騨高山、合掌造集落、千葉の鋸山と日本寺に行って感激しているという話を聞いた。高山と合掌造は知っているが、鋸山とは何だろうと思ったのがきっかけである。

 調べてみると、東京から木更津経由で延々とJRの電車に乗って3時間弱で浜金谷というところに行き、そこから鋸山ロープウェイに乗ればよいということである。バスを利用したり特急を使うと2時間半くらいにはなるらしい。それなら許容範囲だと思って、行ってみることにした。


鋸山ロープウェイ


 浜金谷駅に着いた。ロープウェイ山麓駅まで10分弱ほど歩く。行ってみると、小さな駅だ。スイス製のゴンドラで、40人乗りというが、とてもそんなに乗れるとは思えない代物である。ともかく山頂駅に着き、そこからは展望台まで階段を少し登る。

展望台からの眺め


展望台からの眺め


展望台からの眺め


 さて、展望台に到着した。目の前は浜金谷港、対岸の久里浜港まで東京湾フェリーが出ている。天気が良ければ富士山も見えるというが、残念ながらこの日は視界には入らなかった。東京湾を行き交う大型船舶がよく見える。左右は、青々とした緑だ。とっても気持ちがよい。その脇に看板があったが、それをじっくり見ないままに方向の矢印だけを見て歩き始めた。

地獄のぞき


 まずは、「地獄のぞき」を目指す。崖の上にせり出しているところがあり、それをそのように言うらしい。そこまでたどり着くには、結構な岩場を歩いて20分もかかった。まず、その対岸にある休憩所に行くと、「地獄覗き」は指呼の間だ。もちろんその間は断崖絶壁である。よくこんな所に突き出た岩があると思うくらいである。では次に、ぐるりと回ってその「地獄のぞき」そのものに向かう。かなり足場が悪いが、すぐ近くまで来て岩の上に立った。我ながら物好きだと思う。

途中の階段


折れ曲がってまた真っ直ぐ伸びている杉の木


 次は「百尺観音」(20分)にするか、磨崖仏(40分)にするか迷った末、まずは遠い方からと思って磨崖仏方面に向かった。 いやそれが遠いこと、遠いこと。斜面を上がったり下がったり、また下がったりと、だんだんロープウェイ山頂駅から離れるのが気になる。まだかまだかと思っているうちに、やっと着いた。途中、折れ曲がってまた真っ直ぐ伸びている杉の木を見つけた、その生命力に感心して、大したものだと思う。

薬師瑠璃光佛


薬師瑠璃光佛


 通称磨崖仏、御本尊の薬師瑠璃光佛は、岩に彫られた仏様である。長い間、荒れるにまかせていたが、同寺のHPによると「江戸末期になって、自然の風触による著しい崩壊があり、頭部の半分が崩れ落ち、膝の部分も埋没した状態になってしまいました。昭和に入り彫刻家八柳恭次氏の指導のもとに昭和44年、4ヶ年の歳月を費やし大仏の復元が完成いたしました。」ということだそうだ。


紫陽花


 さて、それから「百尺観音」に行くということになるのだが、またあの登り階段の山道を戻ってさらに20分というのはさすがにこたえるので、この日はもう帰ることにした。それでも別の道を通って登り、20分くらいで山頂駅にやっとたどり着いた。これはもう登山である。途中の紫陽花は美しかったが、ともあれ生半可な気持ちで来る所ではない。







 鋸山ロープウェーと日本寺(写 真)




(2019年6月16日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:01 | - | - | - |
ソニーのα7IIIを買う

α7III


1.α7IIIを選ぶ


α7III


 最近のカメラの世界は、まさに劇的な変化を遂げている。半世紀以上も続いたフィルムカメラから、今世紀に入ってデジタルカメラの時代になり、更に一眼レフからミラーレス一眼へ移行するようになったかと思うと、撮像素子が大きくなってAPSーC(23.4mm×16.7mm)から35mmフルサイズの時代へと、急速に目まぐるしく進歩している。実は私も、この流れに沿ってカメラを買い替えてきた。最近では初めて発売されたミラーレスのデジタル一眼であるオリンパス・ペンE−P1とそれに続くE−P3、そして一眼レフではあるがデジタルで本格的APSーCのEOS 70Dである。それぞれに味があって、写真を撮るのを充分に楽しませてもらった。

E−P1


E−P3



 昨年秋から今年春にかけて、キヤノン、ニコン、ソニーの主要3社から、35mmフルサイズのデジタル一眼カメラが出揃った。キヤノンはEOS R(又はRP)、ソニーはα7III(又はα7RIII)、ニコンはZ6で、本年5月初旬のお値段は、それぞれEOS(19万円、14万円)、α7(21万円、30万円)、Z6(21万円)だった。

EOS 70D


 私の持っているデジタル一眼レフカメラ(EOS 70D)は、そろそろ4年目になろうとする。仕事が一段落する今年の秋から重点的に海外に出掛けて景勝地の写真を撮るつもりだが、このカメラはそれには嵩張るし、やや重たく感じるようになった。また、せっかくなので、良い風景写真は、フルサイズで撮りたい。そういうことから、上記3社のカメラから選ぼうと考えた。まず、ニコンはあまり馴染みがないし、性能が変わり映えしない割には値段が高い。ということで、キヤノンかソニーかの選択になる。

 いまキヤノンのEOS 70Dを持っているから、スムースに移行するにはEOS RPが一番だ。キヤノン風のボタン操作にも慣れているし、上記機種の中では、価格が最も安い。ただ、現在3本持っているレンズのうち、フルサイズ対応は1本だけだし、気に入っているタムロンのレンズは残念ながらAPSーCであって、フルサイズではない。フルサイズの画像をクロップすれば使えなくもないが、結局はAPSーCサイズになるから意味がない。EOS RP側も、それ専用のレンズは、実質的にまだ1本しかない。キヤノンはこの分野に手を付けるのが遅かったので、レンズの品揃えでは大きく後手に回っている印象だ。

 それなら、レンズ資産もたくさんあって今後も使いそうなメーカーを選ぶべきで、それはソニーである。カメラメーカーの中で最も早くフルサイズに取り組んできたから、フルサイズのミラーレス一眼対応レンズ(Eマウント)の種類が豊富である。そうすると、α9は私にはオーバースペックだから、α7III又はα7RIIIということになる。それぞれ21万円、30万円か・・・発売が昨年3月と今年2月というだけで9万円の差となっているが、実をいうと、この2つのカメラには素人にとってさほど性能面での違いはないと思っている。もちろん、2420万画素と4200万画素というのは大きな差であるが、4200万というのはあまりに大き過ぎて、私には扱いかねる。それに、元々ソニーのカメラを使っていればレンズに投資をする必要がないので、α7RIIIを選ぶところだが、今回の私の場合はカメラとレンズの両方を買わなければならないので、今回はα7IIIを選択して、その分をレンズ資産への投資に回そうかと考えた。どうせ、今回買うカメラをまた買い換える数年後には、もっと良いカメラ本体が発売されるので、その時に奮発すればよいと思った。


2.レンズを2本選ぶ

 では、レンズはどうしようか・・・APSーCでタムロンの18-300mmレンズが非常に使い勝手が良かったので、フルサイズでそういうものは・・・あるわけがない。探したところ、ソニーのズームレンズ FE 70-300mmというものがあった。15万円もするが、これにしよう。次に70mm未満をカバーする適当なレンズはないかと調べたら、タムロンの レンズ (Eマウント)28-75mm がとても評判が良い。理由は、F値が2.8と、非常に明るいからである。先程の FE 70-300mmのF値が4.5から5.6なので、その明るさが際立つ。約10万円もするけれども、それだけの価値はある。


ソニーのズームレンズ FE 70-300mm


α7RIIIにつけたタムロンの レンズ (Eマウント)28-75mm


 という検討を経て、カメラ本体を21万円で、レンズ2本を合計25万円で買うことにした。数年後にカメラを買い換えるときに、レンズの方は、そのまま使えるだろうと思っている。今回、購入したものの詳細は、下表の通りである。

 さて、Amazonに注文したら、カメラ本体を含めてその大半を翌日に持ってきてくれた。箱から、カメラ本体を取り出すときが、無上の楽しみである。あれれ・・・本体はこんなに小さいのかというのが第一印象である。昔のオリンパス・ペンE−P1の時代に逆戻りしたかのごとくである。それに、別途注文したタムロンの レンズ (28-75mm)が届いたので、何かを撮りに行こう。ちょうど梅雨の晴れ間だから、紫陽花が良い。鎌倉の名月院に向かった。


3.名月院の紫陽花

 北鎌倉駅に降り立ったのは、6月16日(日)午前9時20分である。名月院は、ここから10分もかからないと思ったのも束の間で、少し行ったところで「名月院の最後尾」という看板を持ったガードマンがいた。そこからズラリと人の列が続く。聞いてみると、30分は掛かるそうだ。仕方がないので、その列に並ぶ。延々と並んで、名月院の門をくぐったのが10時頃だった。


名月院


名月院


 そこから、α7IIIを取り出して、紫陽花などの花を写し始めた。マクロモードにすると、背景がものすごくボケる。これは素晴らしい。人物のポートレートでは非常によく写ると思う。風景モードにすると、竹林や葉の緑と空の青さが際立つ。ソニーの撮像素子と液晶画面の色は本当に鮮やかだと感心した。

 この日は本当に見物人の数が多かった。紫陽花の花半分に強い日光が当たっていることが多かったので、HDRで撮りたかったのだが、慣れないα7IIIのダイヤルをいじくっているうちに後ろから押されるという具合で、十分に試し撮りが出来なかった。特に残念なのは、有名な丸窓を上手く撮れなかったことである。今しばらく時間があれば、何とかなったのに、あれだけ混雑が酷いと、ゆっくりしていること自体が迷惑なので、さっさとその場を離れた。やはり、日曜日なぞに鎌倉へ行くべきではない。


名月院


 そのほか、α7IIIについて感じたことは、まずシャッターが軽い。その上、シャッター音をサイレントモードにしておくと、果たして押せたのかどうか、あるいは何枚撮ったのかが全くわからないほどだ。一眼レフの、あのEOS 70Dのカシャカシャという連続シャッター音に慣れた身としては、これは凄いとしか言いようがない。次に、スイッチを入れると画面に被写体が映る。それを見て撮るのは、昔のオリンパス・ペンE−P1と同じだ。ところがE−P1にはなかったファインダーがα7IIIにはあり、それを片目で覗き込むと、自動的に画面がオフになるという仕組みで、これは便利だ。もう一つ、E−P1の画面は、現実の被写体とタイムラグが生じて、動きの早いものにはなかなか付いていけなかった。その点、このα7IIIではそういうフラストレーションを感ずることはなかったので、これも大きな進歩だと思う。

名月院


 反面、気温30度の下で2時間ほど連続して撮っていると、α7IIIの躯体が熱を帯びてきた。ああ、これはE−P1と全く同じ現象だ。一眼レフではこんなことはなかった。やはり、通常の撮影では、画面は使わずに、ファインダーを覗いて撮るべきだろう。また、α7III本体は565gと軽いが、このタムロンの レンズ (28-75mm)は550gで、この組み合わせだとバランスが良くて持ちやすい。ところが、ソニー のズームレンズ (FE 70-300mm)は854gだから、これを付けるとレンズがずっしりと重い。まるでカメラというよりレンズを持ち歩いているようだ。まあ、そのうちに慣れるだろう。


 名月院の紫陽花(写 真)



4.代々木公園のイベント

ワールドグルメ&ミュージックフェスタ


 今度は、動きのある被写体でソニーα7IIIを試すつもりで、先々週のベトナムに引き続いて踊っている人を撮ろうと、代々木公園で開催中の「エジプト・フェスティバル2019」に行ってみた。フェスティバルのオフィシャル・アカウントを見たのだが、当日のタイム・スケジュールが見当たらない。仕方がないので、出演するはずの舞踊団のHPを見たら出演は12時、2時、4時だとわかったので、先週と同じく屋外ステージだろうと思って、午後2時に間に合うようにイベント広場に向かうことにした。

 広場に足を踏み入れたところで、確かにイベントをやっていたのだけれども、どうも様子がおかしい。エジプトとは全く関係がないようなのである。背の高い黒人男性やエネルギッシュな黒人女性が、跳びはねて何やら踊っている。ああ、これは、サルサだ。間違いない。周りを見渡すと、サルサ料理やモヒート、ラム酒やテキーラなどを売る屋台が並ぶ。後から調べてみたら、「サルサ・ストリート・フェスティバル」だった。サルサダンスのパフォーマンスや特設ステージではラテンフィットネスをやっている。陽気な雰囲気がこれでもかとばかりにまき散らされている。これは場違いなところに来てしまったと思いつつ、屋外ステージの方に向かった。


ラテンフィットネス


 その屋外ステージでは、日本人の女の子2人が、楽器を演奏して歌っている。その場馴れしている様子からして素人ではないし、エジプトに関係する音楽でもなさそうだ。それが直ぐに終わり、ステージを片付けて次の出し物の用意だ。もう2時になるので、エジプトの踊りかと思って待っていたところ、出てきたのが、日本人の女の子だ。それで、「ワールドグルメ&ミュージックフェスタようこそ。」などと言うので、やっとここではないと気が付いた。

ワールドグルメ&ミュージックフェスタ


 何とも間が抜けた話だが、いずれにせよ今日はソニーα7IIIとソニー のズームレンズ (FE 70-300mm)を使った動きのある被写体の試し撮りだから、実は被写体にはこだわらない。では、この歌手のお嬢さんを撮らせてもらうことにした。申し訳ないが、お名前はわからない。ただ、お年は32歳とのことだった。それにしても、この子、よく歌って動く。

ワールドグルメ&ミュージックフェスタ


 プログラムの「P」モードにして動きの少ない場面を、「シーン」モードのスポーツにして飛び上がる場面をそれぞれ撮ってみたところ、良く写る。次に、初めて「ビデオ」モードで撮ってみた。パソコンで見ないとわからないが、まあ映っている。4Kだそうだ。家に帰って見てみたら、映像も音声もしっかり撮れている。これは、ビデオカメラとしても充分に使えそうだ。ただ、いきなり撮ると当然焦点は合っていないから、写真を撮る要領で合焦してからビデオボタンを押すとよいらしい。

ワールドグルメ&ミュージックフェスタ


 ということで、ひとしきり歌手のお嬢さんを撮らせてもらって、少しはカメラに習熟したつもりである。それにしてもこのカメラ、例えば、顔の皺など、恐ろしいくらいに細かなところまで写る。もちろん動きのない人物を撮るにはそれなりの「人物」モードで撮るから、顔の皺などはデジタル的に処理されて消されると思うが、この「P」モードは、写りすぎである。

エジプト・フェスティバル


 さあ、帰ろうと思ったところで、「エジプト・フェスティバル」をようやく見つけた。欅並木の方で開かれていた。特設ステージというのも、ごく小さな慎ましやかなものだから、遠くからはわからなかったのは仕方がない。その小さなステージで、多くの人たちが手と腰を振り振り、これまた陽気に踊っていた。ちなみに、この日は、「サルサ」、「グルメ&ミュージック」そして「エジプト」の3つのフェスティバルが、仕切りもなく隣合って開催されていたのである。

代々木公園の薔薇


代々木公園の薔薇


 帰りには、代々木公園内を通ったので、満開の薔薇、紫陽花、サルビア・ガラニチカ、百合の花を撮ってきた。このズームレンズ (FE 70-300mm)の望遠端で撮ると、当然ながら面白いように花の周辺がボケて、花が浮き出るように見える。最短撮影距離は1mである。

代々木公園のサルビア・ガラニチカ


代々木公園の百合





5.サンシャイン水族館


コブダイ


 さて次の撮影の練習の場として、難易度が高い水族館に行くことにした。水槽の中の魚のうち特に熱帯魚の場合は早く動くので焦点を合わせにくいし、ほかの魚も水槽が暗いことが多いので、これまた撮りにくい。自宅からほど近いサンシャイン水族館を選んだ。

ナポレオンフィッシュ(メガネモチノウオ)


 まずは、大水槽の中の魚である。最初に出てきたのは、「コブダイ」である。これは、ゆっくりと動いてくれるし、物おじせずに近づいてくれるので、撮りやすい。「Pモード」で大迫力の写真が何枚か撮れた。次は、これまた大型の「ナポレオンフィッシュ(メガネモチノウオ)」である。私はこの魚が大好きで、水族館に行ったら必ずその写真を撮ることにしている。

コブシメ


クラゲ


 イカの仲間の展示があった。暗い中で、しかもイカの体は白く透き通っていて、焦点がなかなか合わない。あきらめて、隣の水槽にいた「コブシメ」を撮る。これもイカの一種なのだそうだ。それから、クラゲの水槽に行く。白い照明にしてくれれば撮れるのにそれは一瞬にすぎず、ほとんどが青い照明なので、あまり良い写真にはならなかった。ところが、この写真だけは、まあまあ見られる。「AUTO」モードである。

女性ダイバーが餌をあげる


 それからダイバーによる給餌の時間ということで、再び大水槽に戻る。女性ダイバーが餌をあげると、そこに熱帯魚が群がる。幻想的といってもよい。「AUTO」モードである。それから、私が好きなグレート・バリア・リーフの水槽に行く。こちらの熱帯魚は、動きが速いので「Sモード」の1/320秒で撮る。青い魚は「ナンヨウハギ」だ。これは動きが速くて、なかなか捕捉しにくい。方向転換をするその一瞬を捉えたのが、この写真である。色もちゃんと出ている。黄色い魚は「キイロハギ」だ。これも、かなりの速さであるが、しっかりと捉えられた。焦点合わせは、けっこう速いので、満足である。イソギンチャクに隠れた「カクレクマノミ」を撮ってみたら、うまく撮れている。これまでのカメラの中では、一番良いと思う。

青い魚「ナンヨウハギ」


黄色い魚「キイロハギ」


イソギンチャクに隠れた「カクレクマノミ」


 屋外エリアに出て、天空のペンギンを見ようと思ったら、ペンギンではなくてペリカンが空中を泳いでいた。来た時間が悪かったようだ。それでも、ちょうど、アシカのショーが始まった。それを「スポーツ」モードで撮ったのだが、目の前の飼育員さんとアシカに焦点を合わせたつもりなのに、カメラが勝手に、その向こうにいる観客の目を検出してそれに焦点を合わせてしまうので、困ってしまった。これを止めさせることはもちろんできそうだが、そのためにメニューのボタンを弄くっていると撮るチャンスを逃すので、何とか撮り続けたが、性能が良いというのも、良し悪しだと思った。

飼育員さんとアシカ


 前のカメラEOS 70Dと今のα7IIIと比較して大きく違う点は、撮像素子(イメージ・センサー)のクリーニング方式である。EOSの場合は、電源を入れたときと切るときの両方でクリーニング・モードが自動的に動き、カメラがブルブルと震えてクリーニングされていた。だから、クリーニングなんて、全く縁がなかった。ところが、α7IIIの場合はそういう自動で行ってくれる仕組みがないので、いちいちメニューを立ち上げて手動でクリーニングをする必要がある。それだけでなく、マニュアルによるとその度に電源を切ってレンズを外し、ブローアーで撮像素子の下側を吹きとばせというのである。やや、面倒なことになってしまった。



 サンシャイン水族館(写 真)






6.不忍池の蓮


不忍池の蓮の花


 今年の梅雨は、しとしと降る雨が長く続いて、日照不足で野菜が「L」字型に曲がってしまって売り物にならず、野菜の価格が高騰するという有り様だ。せっかく新カメラの試し撮りをしようにも、雨が多くてはなかなかその機会がない。本当は雄大な景色や夜景を撮りたいのだけれども、ついつい手近な花や室内の水族館を撮って、お茶を濁すくらいだ。

不忍池の蓮の花の雨の水滴


 6月末から7月にかけての季節は、紫陽花がほぼ終わって、蓮の花が咲く頃である。新聞記事によると、千葉市の千葉公園の大賀蓮、行田市の古代蓮の里などが有名であるが、ご承知の通り、蓮の花はわずか4日間の命であり、それも夜明け頃に咲いてお昼前にはもうあらかた閉じてしまうので、朝早く行かなければ間に合わない。ところが、私の家から行田市の古代蓮の里に行くには、片道2時間近くかかるので、毎年行こうとは思うのだけれど、面倒な気がして止めてしまう。それでも、昨年は埼玉県毛呂山町に蓮と睡蓮を撮りに行ったことがある。白い花びらに僅かにピンク色がかかった美しい蓮の花があって、それなりに楽しめた。

不忍池の蓮に隠れる雀


不忍池の川鵜


不忍池の蓮の花に向かっている蜂


 ところで、私の家は、都内有数の蓮の名所となっている不忍池(上野公園)の近くなので、朝早くても何とか起きて、蓮の花を撮りに行くことができる。7月7日と13日に行ってみた。まだ、蓮はさほど咲いてはいなかったものの、ズームレンズ (FE 70-300mm)の望遠端を使っても、雨に濡れた蓮の花びらに付いた水滴が、歪みもなく実に綺麗に写っていた。試しに雀、川鵜などの野鳥にもこのズームレンズを向けてみたが、早い動きにもかかわらずシャッター速度1/500ほどで美しく撮れた。肉眼では見えなかったが、蓮の花に向かっている蜂の姿まで写っていた。ただし、蜂がいたとは知らなかったので、単なる「Pモード」だった。

不忍池の弁天堂と手前の蓮の花


 上の写真は、遠く離れている弁天堂と、手前の蓮の花を画面に同時に入れようとした。ズームレンズなので、このまま撮るとどちらか一方がものすごくボケてします。そこで、F値をかなり上げて22にして撮ってみたら、焦点を遠くの弁天堂に合わせても、手前の蓮の花がさほどボケないで済んだ。そういうわけで、このズームレンズは、なかなか使えることがわかった。唯一の欠点があるとすれば、どうしても画角が狭いということで、これは仕方がない。超望遠レンズの宿命である。。



 不忍池の蓮(写 真)






7.ロボット・レストラン


ロボット・レストラン


 新宿歌舞伎町のロボット・レストランに再び行ってきた。前回は、この悠々人生に「平成27年2月11日に行った。」と記録があるので、それから4年半も経っている。それで、まず全体の雰囲気はどうだったかというと、お客は、前回は日本人客が2割、外国人観光客が8割という割合だったが、今回はお客の大半が外国人観光客となってしまっている。これは、驚きだ。出てくるポップコーンのサイズも、日本の映画館のドリンク・カップのようなものではなく、まるでバケツのようなカップに入っている。これもアメリカの映画館並みだ。肝心の出し物はというと、全体の流れのようなものは、ほとんど変わっていない。でも、ロボットたちやダンサーの衣装などは、ほぼ全部が入れ替わっていて、ますます外国人が喜びそうなものとなっていた。

ロボット・レストラン


ロボット・レストラン


ロボット・レストラン


ロボット・レストラン


ロボット・レストラン


 今回のカメラは、ソニーのα7IIIで撮ったのであるが、あの暗くて照明が様々な色へと千変万化するにもかかわらず、その割には非常によく撮れていたので、嬉しかった。本来なら、色々と諸元を調整して撮るべきなのだが、撮影条件が時々刻々変化するし、場面の展開が目まぐるしい中で細かい調整が不可能だから、仕方なくプログラム(P)モード一本やりで撮っていた。それでもカメラの性能がそうした変化に十分追い付いているから、かなり使える写真が多かったのは驚きだ。前回キヤノンEOS70Dを持って行ったときは、100枚撮った中で使える写真はわずか10枚にも満たなかったが、今回は100枚中80枚は、まあまあ見られる写真だった。これも、ソニーα7IIIがカメラとして如何に優れているかを示している。



 ロボット・レストラン(写 真)






8.越中八尾おわら風の盆


おわら風の盆の雪洞


 さて、ソニーのα7IIIの試し撮りの最後は、「越中八尾おわら風の盆」である。おわらの鑑賞は、なんといっても夕方にそぞろ歩きをしながら町流しを観るところにある。ところが、明かりといえばボンボリ程度で余りにも暗い上に、おわらの踊りはゆっくりしているものの、それでも手などは早く動く。その中で従来のカメラを使うと、フラッシュなしで撮影をするのはほぼ不可能である。

 現に、これまで2回にわたって写真を撮ろうとしてきた。1度目は2011年の「前夜祭」である。 そのときのカメラはオリンパスE−P3だったが、どれも真っ暗に写ったり、たまに撮れても幽霊のようにボケたりして、とても使い物にならなかった。2017年にはキヤノンEOS70Dを持って行って 「月見おわら」を撮ったが、これも少しはマシだったものの、総じて似たりよったりだった。でも、おわらには踊りの中で一瞬ポーズをとる場面があり、そのときはまあまあの写真が撮れた。しかし、肝心の踊りで動いている撮りたい場面が撮れないので、フラストレーションがたまった。そういう伏線がある上で、今回新しく買ったソニーのα7IIIとタムロン・レンズ 28-75mm F/2.8 Di III RXD を持っていったというわけである。さて、どうなるか。

 私が最も感動したのが、「おたや階段」下の広場で午後8時から始まった「鏡町」の皆さんによる「おわら風の盆」である。 石畳が敷かれている小さな四角い広場で、その一角に階段の降り口と並んで「地方(じかた)」の皆さんが揃い、胡弓、三味線、太鼓をバックに朗々と「歌われよ わしゃ囃す」から始まって「越中で立山 加賀では白山 駿河の富士山三国一だよ」と続き、歌と囃子が続いていく。その途中で、三方から踊り子さんたちが出てきて踊る。哀愁あり、叙情あり、感動ありの芸術性の高い踊りである。それで、肝心の写真はどうなったかというと、次の通り、あの暗い中でしかも動く被写体を非常に良く捉えている。このカメラとレンズの性能には、とても満足している。なお、これらの写真は、地方(じかた)の音楽や歌いと一緒に見ると、ますます情感が増す。


「鏡町」のおわら風の盆


「鏡町」のおわら風の盆


「鏡町」のおわら風の盆


「鏡町」のおわら風の盆


「鏡町」のおわら風の盆


「鏡町」のおわら風の盆


「鏡町」のおわら風の盆


「鏡町」のおわら風の盆






 本場おわら風の盆(写 真)












  今回購入したカメラと部品の構成



(1) ソニー (SONY )ミラーレス一眼 α7III ボディ ILCE-7M3 212,700円


α7III ボディ ILCE-7M3



(2) ソニー (SONY )ズームレンズ FE 70-300mm F4.5-5.6 G OSS Eマウント35mmフルサイズ対応 SEL70300G 150,309円


ズームレンズ FE 70-300mm



(3) ソニー (SONY) MCプロテクター 72mm VF-72MPAM 5,772円


MCプロテクター 72mm VF-72MPAM



(4) ソニー(SONY) 円偏光フィルター VF-72CPAM 12,850円


円偏光フィルター VF-72CPAM



(5) ソニー (SONY) αレンズ用フード ALC-SH144 2,128円


αレンズ用フード ALC-SH144



(6) ソニー (SONY) SDXC メモリーカード 64GB Class10 UHS-II対応 @13,473円 2個


SDXC メモリーカード 64GB



(7) ソニー α7III NP-FZ100 互換バッテリー 2個 + 充電器 7,599円


α7III NP-FZ100 互換バッテリー 2個 + 充電器



(8) Kenko 液晶保護フィルム ソニーα7III用 802円


Kenko 液晶保護フィルム



(9) タムロン(TAMRON) レンズ 28-75mm F/2.8 Di III RXD 99,500円


タムロン(TAMRON) レンズ 28-75mm



(10) KENKO 67mm、PRO1D(タムロンのレンズ保護フィルター) 3,445円


 KENKO 67mm、PRO1D



(11) HAKUBA ドライボックスNEO 9.5L スモーク 防湿庫 KMC-40 1,482円


HAKUBA ドライボックスNEO 9.5L スモーク 防湿庫 KMC-40



(12) HAKUBA レンズ専用防カビ剤 KMC-62 446円


HAKUBA レンズ専用防カビ剤 KMC-62







合計 523,531円(こんなにかかってしまった。)




(2019年6月19日記。23日4.追記。8月14日7.追記)


カテゴリ:エッセイ | 20:43 | - | - | - |
デジタルアート・ミュージアム

デジタルアート・ミュージアム


 ある晩餐会の席で、たまたま隣り合わせたアメリカ人女性から、お台場のデジタル・ミュージアムに行ったという話を聞いた。「あれが次世代の美術館だ」とまで言う。それまで私は、「どうせプロジェクション・マッピングの室内版だろう」と思っていたので、あまり行く気がなかったが、それではと俄然行く気になった。

 まずは、予約する必要がある。チケット・サイトを開き、日付をチェックし、クレジットカードで支払う。すると、メールが届く。普通ならそれが入場チケットなのだが、前日にならないと貰えないという。そうする必要性がよくわからないが、確かに前日になってメールが来て、そこに書かれていたアドレスをクリックすると、入場チケットになるQRコードが出てきた。それを持って出掛けた。

 場所はお台場のパレットタウンで、ゆりかもめ青海駅で降りて観覧車の下を通って入る。正式には「森ビルデジタルアートミュージアム:エプソン チームラボボーダレス東京」というらしい。長い名前で覚えにくい。会場は、外国人観光客も多くて、いやもう、大変な人だかりだ。入り口で傘やら荷物やらを預けて会場に入る。中には微かな光があるだけで、真っ暗だ。でも、だんだん暗さに眼が慣れてきた。


デジタルアート・ミュージアム


デジタルアート・ミュージアム


 入場して早々に写真を撮ろうとしたのだが、後ろから次々に観客が押し寄せるからカメラのボタンを設定している暇がないし、暗いからボタンもはっきりと見えない。手探りでやっている過程で、変なボタンを押してしまったようだ。構えてもちっとも撮れない。諦めて下に向けるとシャッターがおりる始末だ。だから、しばらくの間は、全く撮れなかった。そのうちようやく少し明るい所に出たので、カメラの設定を見たところ、どういうわけか、セルフタイマーになっていた。

デジタルアート・ミュージアム


デジタルアート・ミュージアム


 それから撮り始めた。床が平らでないところに行くと、壁からその盛り上がった床に掛けて水が流れるような所があり、それにカラフルな花の画像が混じって次々に流れていく。非常に幻想的な光景である。たまたま白い服を着た女性にその光が当たると、またそれも光景の一部となる。女性が動くとゆらゆらと揺れて、なかなか美しい。2階に上がる階段の壁にも、お花でいっぱいの画像が走る。くっきりしてこれも綺麗だ。

デジタルアート・ミュージアム


デジタルアート・ミュージアム


 長い廊下の壁には竹林の画像と、蛍のような黄色い点が飛び交う。丸いドームのような床に、火の鳥がキラキラと光跡を残し、羽根を広げたり閉じたりして飛ぶ。また、別の鳥が飛んできた。見ていて飽きない。壁の方に眼をやると、大きな鯨みたいなカラフルな動物が豪快に泳いでいる。見ていて楽しい。

デジタルアート・ミュージアム


デジタルアート・ミュージアム


 大きな瓢箪をひっくり返したようなものがたくさんある部屋に行った。それが青色、赤色、昼光色、オレンジ色と様々に変わる。その次の部屋では子供たちがぴょんぴょん飛び跳ねると、それに応じて下の模様も変わる。小さな子も大きな子も、皆夢中になってやっている。結構なことだ。

デジタルアート・ミュージアム


デジタルアート・ミュージアム


 次の部屋に入ると、大人も子供も一生懸命に何やら書いている。壁をみると、海の動物がたくさん動いている。ただ、よく見ると、あまり洗練された絵ではない・・・一体、何だろうと思ったら、これらの中には名前が書かれているものもあったから、観客が描いた絵だったと気が付いた。観客参加型か・・・これは、面白いことをする。

デジタルアート・ミュージアム


デジタルアート・ミュージアム


 歩き疲れたので、ミュージアム内の喫茶店に入った。それも、真っ暗な中にある。入り口で茶葉が入った小さな瓶を買い、それを持ってひとりひとり案内される。「何でこんなに暗いのだろう、人の顔もロクに見えない」と思った。やがて頼んだお茶が来て、その理由がわかった。お茶の表面にプロジェクターの光が当たるようになっていて、お花の模様などがカラフルに浮き出てきたのである。実に綺麗だ・・・ここまで徹底しているとは思わなかった。確かに、来てみてよかった。






 デジタルアート・ミュージアム(写 真)




(2019年6月16日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:07 | - | - | - |
パソコンは遂に8台目

500-01.jpg


1.パソコンが壊れて買換え

 自宅で常日頃、使い続けてきた富士通パソコン(LIFEBOOK WAR2/R。型名FMVWRA2B78)が、2019年5月21日、遂に動かなくなってしまった。私のような使い方をしていると普通は3年強くらいしか持たないところだが、4年8ヶ月間も、よく動いてくれたものだと感謝しなければならない。手元の記録によると、このパソコンは2014年9月19日(製品発表時期2014年5月)、富士通ショッピングサイトWEB MARTを通じて購入し、価格は、211,968円とある。

 実はこのパソコン、購入して3年ほど経った約2年前にも、突然Windowsが立ち上がらなくなったことがある。夏の暑い日だった。もう3年経ったから寿命かもしれないと思いつつ、念のために別にバックアップしておいたイメージを使って再インストールをしたところ、幸い無事に復活してくれたという出来事があった。ところが、それから1年ほどして、バッテリーが完全に消耗して使えなくなった。これは単に取り替えるだけだと思ってメーカーから部品を買おうとしたところ、型が古すぎてもう売っていない。やむなく八方手を尽くしてようやく確保したが、入手後によくよく見てみると、それは中国からの輸入品だった。でも、ともかく使えた。そういう前歴があるので、今回はもはや仕方がないと観念して、買い替えることにした。

 前回は富士通のWEB MARTのインターネット通販で買ったが、今回はもう少し範囲を広げて探そうと、Amazonで検索した。想定したスペックは、ノートパソコンで、画面が17インチか15.6インチのワイド液晶、HDDが出来れば2TB、コアがインテルi7、メモリは大きいに越したことはないがさほどこだわらない、光学ドライブがスーパーマルチというところである。

 そうすると、画面が15.6インチのワイド液晶、SSD(256GB)HDD(1TB)、コアがインテルi7、メモリは16GB、光学ドライブがスーパーマルチ、Windows10(64ビット)という仕様の、希望に近いパソコンが見つかった。なんとまあ、やはり富士通のWEB MARTだった(型名:FMVWD1A37L)。よほど富士通パソコンと相性が良いものと見える。価格は、185,980円である。注文したら、4日後に届いた。以前のパソコンは黒色だったが、今回の新パソコンは紺色なので、少し新鮮に見える。


今回の新パソコン



2.セットアップと使用準備

 それでは、また数年後にやってくる買い換えの時のために、やや技術的だがメモを残しておきたい。

 (1) まずは最初に、Windows 10のセットアップをしなければならない。ACアダプタを接続して電源を入れる。20分ほどで終了した。次に自宅の無線LANに繋ぎ、マイクロソフト・アカウントに切り替え、アップデートナビの初期設定をする。このパソコンは、顔認識だからパスワードを入れる必要がなくて楽だ(もっとも、顔認識できない場合に備えてPINを設定する必要はある)。その過程で、ウェブのブラウザが「Microsoft Edge」になった。以前の「Internet Explorer」が重たくなりすぎたので、その後継のようだ。Googleの検索画面のように、読みたくもないニュースが出る。「お気に入り」のバーの出し方がわからない。しばらく使っていたが、どうも扱いにくいので、ブラウザは「Google Chrome」に変えた。

 (2) ここまでは、マウスなしで操作した。この新パソコンはAmazonで買ったので、無線のコードレス・マウスは添付されていなかった。これは困ったと思ったが、試しにこれまでのパソコンで使っていたコードレス・マウスの無線USB部分を新パソコンに差し込んでみたら、ちゃんと認識されて、直ぐに使えたので、上手くなっていると感心した。

 (3) セキュリティソフトとして、「McAfee」が3年間分付いていたので、「Norton」はもう使わないことにした。その「McAfee」を動かしてみると、「2022年5月まで使えるが、それ以降も使うために自動継続するから、クレジットカード番号を入れよ」という表示が出る。しかし、そもそもそれまでMcAfeeという会社が存続しているとは限らないし、だいたい、そんな先のことについて、クレジットカードで支払いたくない。だから、その手には乗らず、自動継続はしないことにした(ところがその後、下記(16)の通り、結局いろいろと考えて、1年間だけ延長を行った)。

 (4) この新パソコンには搭載ディスクが2つあって、CドライブがSSD(256GB、全体がCディレクトリ)、DドライブがHDD(1TB、全体がDディレクトリ)である。システムはもちろんCディレクトリのSSDに入っていて高速なのであるが、256GBではいかんせん容量が少ない。出来れば500GBほどあれば良いのだが、そういう製品はなかった。こんなに小さいと、システムを入れるだけで一杯になりそうだ。特に問題なのは、「Document」と「Download」、それに「iTunes」を使った「iPhone」や「iPad」のバックアップ先が初期設定だとCディレクトリになっていることだ。それだけでもうCドライブが満杯になって動かなくなる。

 仕方がないので、まず、「Document」、「Download」、「Picture」の場所を変えることにした。この中で「Download」と「Picture」だけは、無事にDディレクトリに変えられたが、「Document」は赤字で「移動できません」の表示が出てうまくいかなかった。その原因として、セットアップ途中で入れさせられた「One Drive」の自動バックアップが足を引っ張ったのではないかと思った。だから、そちらを停止したところ首尾よく解決して、いずれもDディレクトリに変更できた。それはよかったのだけれど、私は、「iPad」で作業する時に参照したいので、文書類は可能な限り「Document」ではなく、Dディレクトリに置く「Dropbox」に蓄積しておくことにした。

(参 照) http://azby.fmworld.net/support /info/2hdd/

 (5) とりあえずWindows10が動かせるようになったので、まずは、しばらく更新できていなかった私のこのHP「悠々人生」の手入れから始めたい。そのためには、「窓の杜ライブラリ」から、NexusFile(統合ファイル管理)、Vix(画像一括加工)、TeraPad(テキスト・エディタ)、BunBackup(バックアップ。64ビット版)を取得してインストールした。それから、ディスクを通じて「Homepage Builder」と、ついでに「筆まめ」をインストールした。私はHTML言語が書けるので、もはや「Homepage Builder」本体はほとんど使わないが、その付属ソフトである「ファイル転送」(ファイルをアップロードするFTP)と「Webart Designer」(画像処理ソフト)はよく使って重宝する。だから、これらはHP「悠々人生」の手入れに必須といってよい。

 (6) 念のために、回復ドライブを作った。Amazonで32GBのUSBメモリを持ってきてもらって、それで作成した。30分ほどで呆気なく終わった。そのうち、必要なソフトを全部入れた段階で、Cディレクトリ全てをミラー形式でバックアップしたいと思っている。Dディレクトリは、別途、3TBのHDD(2つ)にダブルでバックアップしている。ちなみに、今回の新パソコンにも、既にバックアップ済みのこの3TBのHDDからデータをコピーして、その内容を回復させた。

 (7) さて、それからやや重たいソフトである「iTunes」をインストールする。ポイントは、Cディレクトリではなくて、Dディレクトリに入れることだ。「iTunes」本体は、あっという間にインストールできたが、その反面どこにインストールするかという選択する場面もなかったので、どうにもならず、Cディレクトリに入ってしまった。もっとも、本体のサイズは大したことがないので、まあいいだろう。問題はバックアップの場所である。私のiPhoneXとiPad、それに家内のiPhoneのバックアップ・サイズはおそらく180GB近くにもなるので、Dディレクトリに移すしかない。

(参 考) http://azby.fmworld.net/support /info/2hdd/

 その具体的な方法であるが、富士通のサポートの指示通りに行う。まずは画面左下の「検索欄」に「cmd」と打ち込み、出てきた画面の中の「管理者として実行」にチェックを入れて、黒いコマンド・プロンプト画面を出し、次のように打ち込む。ちなみに、私のユーザー名は「yama san」なので、「C:¥Users¥yama san ¥Apple¥・・・」となっているが、これをなぞって自分もやってみたい方は、この部分をそれぞれのユーザー名にすることになる。

C:¥Windows¥system32>mklink /d “C:¥Users¥yama san ¥Apple¥MobileSync¥Backup” “D:¥Computer¥iTunes Backup”

 すると、「シンボリック リンクが作成されました」と出てくる。これで、元のCディレクトリの「Users」以下には、Dディレクトリの該当部分へのリンクが張られるだけになり、データそのものはDディレクトリに収納される。

 (8) ところで、iTunesのバックアップの際、iPhoneを新パソコンに接続するときには、新パソコンの認証をしてもらわなければならない。そこで認証しようとしたところ、認識数は最大5つと決まっているので、それを越している場合には、「既に5に達しているので認証できない」との警告が出る。ではどうするか。結論からいうと、その5つの既存の認証を全部解除するしかない。そこで全て解除し、やっと新パソコンの認証を得た。それからバックアップをした。念のためにチェックすると、目論見通りDディレクトリに入っていた。

(参 考) https://www.iphone-utility.com/topic/change-itunes-backup-destination.htm

 (9) ブラウザベースの「Evernote」と「Box」は、「Google Chrome」の上で問題なく立ち上がった。次は、「Dropbox」だ。これは外出先でiPhoneやiPadと連携するのでとっても重宝している。ただ、データ量が多いので、やはりDディレクトリにしたい。Dropboxの公式ページからインストーラーをダウンロードしたら、自動的にDropboxディレクトリを探してくれたので、手間は全くかからなかった。

 (10) ということで、新パソコンにつき一通りのチューンナップが終わった。ここまでで、丸2日ほどかかったことになる。何が面倒だったかといえば、(1)の初期設定が一番で、次いで(7)の「iTunes」バックアップ先の変更だろう。これは、多少の知識が必要だ。

 (11) 念のためにソフトで二つのディレクトリの残容量を見てみたところ、Cディレクトリが60GB、Dディレクトリが590GBと出た。あれあれ、Cが少なすぎる。そこでCディレクトリの内訳を見たら、Dropboxが100GBも使っているではないか。上記(8)は勘違いで、実はDディレクトリにはなっていなかったのだ。そこで、Dropbox同期フォルダ変更手順に従い、「システムトレイの中にあるDropboxアイコンをクリック→Dropboxの画面中の歯車のアイコンをクリック→基本設定→右上の同期→Dropbox フォルダの場所中の移動ボタン→Dディレクトリを指定」ということで、Dディレクトリに移し替えた。再度チェックしたところ、Cディレクトリの残容量は、目出度く160GBとなった。やれやれ、これだからパソコンは、気が抜けない。

 しかし、それにしてもDディレクトリは1TBもあるのに、もう510GBも使っている。半分を越しているではないか。その内容を確認したところ、主なものは、昔の書類を入れてある「Cabinet」100GBのほか、「iTunesバックアップ」185GB、「最新Photos(今年の始めから)」80GB、「悠々人生」45GBである。これらだけでも410GBにもなっている。なかでも、今年の初めから撮りためた写真が、もう80GBに達しているとは思わなかった。まだ半年なので、今年の終わりにはその倍近くになるかもしれない。いやこれは・・・恐れ入った。個人レベルでも、ビックデータの時代になってしまった。

 (12) そういえば、「McAfee」に鞍替えしたので、「Norton」の自動更新を停止しないといけない。まず、シマンテックストアの注文情報確認ページを出して「メールアドレス」と「注文番号」を入れた。すると、私が使っている製品に関する情報が出てきた。そこに、「自動延長サービスの申込状況確認・停止手続き」というボタンが現れるはずなのに、出てこない。3回ほどやってみたが、やはり出ない。別途、iPadでも試してみたが、これでもダメだ。

 「一体どうなっているのだろう。ユーザーに停止させないためか。」などと邪推したほどだ。「仕方がない。明日にでもサポートに電話しようか」と思ったところで、気がついた。「この注文番号は昨年の更新時のものだからではないか。その前の年の注文番号にしたら、ひょっとしたら動くかもしれない。)と。そう考えて、一昨年の注文番号を入れてみたら、そのボタンが出てきて、やっと停止すらことができた。ここまでで、45分もかかってしまった。全く時間の無駄使いである。

 (13) OSのWindows10は、順調に動いてくれているが、一つだけある不満は、Photo Viewer で画像をクリックした時に、前後の画像に進むボタンがないことである。これだと、いちいち画像を閉じて見たい画像をダブルクリックしなければならない。これは面倒だ。そこでインターネットで調べると、「Restore Windows Photo Viewer」を使えばよいという記事があった。問題は、これが信用できるかだ・・・。載せている会社を見ると、あのインプレスだ。数多くのフリーソフトを提供している会社なので、まあ良さそうだと判断して、試してみることにした。すると、使えるようになり、「既定のアプリ」を「Windows Photo Viewer」にすることができた。

 (14) 一応、新パソコンの復旧作業が完全に終了したので、バックアップ・ソフトであるBunBackup(64ビット版)を動かしてみた。問題なく動作する。それで、2つの3TBのHDDの内容を整理しながら、それにバックアップした。なお、自宅の無線LANの「LANDISK」として3TBのHDDを一つ置いているので、それにもバックアップした。このLANDISKは、特に操作することもなく、新パソコンから認識することができたので助かった。

 (15) ただ、このようなHDDには容量の限界がある。私の場合は、過去に撮ったり昔のアルバムをスキャンして取り込んだ写真が既に1TB以上に達している。加えて、外付けHDDの中に収めておいても、パソコンと繋がっていないときや、iPhoneやiPadからは見られない。そう考えているときに、たまたま、「今お使いのDropbox plusをグレードアップしたので使ってください」というメールが来て、2TBまでクラウド上でスペース(容量)を提供してくれるそうだ。少し値上がって月1,200円かかるが、これを利用することにした。ただ、私のパソコンの中身が全てDropbox社に渡ることになる。これは、信用するほかない。

 次の段階として、どう操作すればよいのか・・・。ともかく、Dropboxにアクセスしたところ、「スマート・パスを使うように」とのことで、クリックして手続を行った。すると、「およそ1時間後に通知が届くので、記載された手順に沿って設定を完了してください」ということだった。なぜそんなに待たせるのか、よくわからないが、ともかく待っていた。ところが、待てと暮らせど、その通知メールが届かない。Dropboxにメールで問い合わせて、やっと通知がきて解決した。

 (16) 上記(3)で、セキュリティソフト「McAfee」を3年間使うので、それでよしと思っていたら、マカフィー社からメールが届いた。それによると、「現在、マカフィー・リブセーフ3年間の使用となっているが、4年目にさらに1年間延長しようとすると、8,980円かかるが、今だと2,980円で済むから、いかが?」というわけである。なかなか上手な勧誘だ。これまで問題なく使えているし、どうせ3年以上使うだろうから、その程度のお金なら今払ってもいいかと思って、延長することにした。

 (17) ということで、約1週間でパソコンの設定が終わり、ほぼ日常通りのパソコン生活に戻った。振り返ると、CドライブがSSD(256GB)、DドライブがHDD(1TB)という構成だったために、(7)の「iTunes」のバックアップ先をCからDディレクトリへと変更する必要が生じ、これが今回の作業の一番のヤマだった。

 これからは、Dropboxに2TBも保存してどこからでもアクセスできるようになった。だから、次にパソコンを買い換えるときは、画像の取扱いを迅速かつ容易にするため、CPUを高性能、メモリを大容量にして、あとはさほど容量の大きくないSSD(2個)でも良いのかもしれないと思っている。





(メ モ) これまで自宅で使ったパソコン一覧


【1台目】1993年から97年まで PC9821Ne(NECのノート。OS:MS-DOS、後にWindows 3.1、CPU:i486、メモリ:16M、HDD:340MB)

【2台目】1997年から2001年まで MN−5500(シャープのノート。OS:Windows 95、CPU:MMX Pentium 150HZ、メモリ:64MB、画面:11.3inch、(SVGA)TFT800X600の1677万色、HDD:3GB)

【3台目】2001年から2003年まで PC−MJ720M(シャープのノート。OS:Windows MeからXPへアップグレード、CPU:Pentium III 800MHz、メモリ:256MB、画面:14.1型 XGA対応 低反射ブラックTFT、HDD:30GB)

【4台目】2003年から2007年9月まで FMV−BIBLO NB16(富士通のノート。OS:Windows XP、CPU:Pentium 4、メモリ:514MB、画面:15型のスーパーファイン、HDD:40GB)

【5台目】2007年9月から2010年9月17日まで FMV−BIBLO NX90WN/D(富士通のノート。OS:Windows VISTA、CPU:Intel Core2 CPU T7200 @ 2.00GHz、メモリ:2GB、画面:17型、HDD:200GB)

【6台目】2010年9月17日から2014年9月19日まで VAIO VPCJ11AFJ(ソニーのデスクトップ。OS:Windows 7 Home Premium(64bit)、CPU:Intel Corei7-2.67GHz、メモリ:8GGB、画面:21.5型、HDD:1TB)

【7台目】2014年9月19日から2019年6月1日まで FMVWRA2B78(富士通のノート。OS:Windows 8、CPU:Core i7 3632QM(Ivy Bridge)/2.2GHz/4コア、メモリ:8GB、画面:15.6型、HDD:1TB)

【8台目】2019年6月1日から現在まで FMV LIFEBOOK AH WA3/D1(富士通のノート。OS:Windows 10、CPU:Core i7、メモリ:16GB、画面:15.6型ワイド、約256GB SSD + 約1TB HDD)





(2019年6月13日記)


カテゴリ:エッセイ | 19:52 | - | - | - |
ベトナム伝統音楽人形ショー

蝶踊り


 先日、私の職場にベトナムの人たちがやって来られて、国際交流の一環として見学の後に懇談をし、意見交換を行った。私は、昨2018年12月にダナンとホイアンを訪れて写真を撮ってきたばかりなものだから、この懇談をことのほか楽しみにしていた。すると、たまたまダナンから来た偉い人がいて、最近の現地の話題で話が弾んだ。

 実は、私は8年前にこんな文章を書いている。「これでも私は、ベトナムに1回だけ行ったことがある。しかし、20年ほど前のハノイなので、仕事以外で見たものといえば、ホーチミン将軍の遺体と、科挙の合格者を祭った孔子廟、それに例の水中人形劇だけ・・・である。しかし、そんな昔話はもうすっかり過去のことで、現代のベトナムは、これからますます発展するだろう。中国を挟んで東の日本と西のベトナムは、安南節度使を勤めた阿倍仲麻呂以来の縁がある。いずれも、国民が勤勉で人口も多い点(ベトナムは約8600万人、日本は約1億2752万人)、国が南北に長い点、米が主食である点など、共通点が多い。これから、日本が大事にしていきたい国のひとつである。(2011年9月18日)」

 今も「日本が大事にしていきたい国」という認識は変わらないが、この間、大きく変わったと思うことがある。それは、ベトナムがここ最近、大いに経済発展を遂げ、それが人々の態度や立ち居振る舞いに良い影響をもたらして、どことなく余裕を感じさせるようになったことだ。見方を変えたら、90年代のバブル経済崩壊後の日本経済が沈滞してほとんど経済成長がみられなかった一方で、ベトナムなどのアセアン諸国が順調に発展していっただけのことかもしれない。ともあれ、それと同時に、かつて高度経済成長を成し遂げた日本人としては、かつての栄光はどこに行ったのかと自問したい気がする。

 そうした経済発展を遂げつつあるベトナムのような国は、文化の面でも余裕が出てきたものとみえて、最近、かなり進歩したのではないかと感じる。というのは、平成23年に代々木公園で「ベトナム舞踊・アオザイショー」を見たときは、特に舞踊は、まだまた粗削りだなと思ったものである。ところが、今回、同じ代々木公園で行われた「Vietnum Traditonal Music Puppet Show」(ベトナム伝統音楽人形ショー)は、ベトナム人の器用さと洗練された伝統芸が程よく混ざりあって、なかなか芸術水準が高くなったと感じる。もちろん、芸術性の善し悪しは、これを演じるパフォーマー集団の質に左右される。その点、今回のパフォーマーは、ベトナム文化スポーツ観光省から派遣されたと言っていたから、それだけに演技がよかったのかもしれない。ただ、惜しむらくは、演目や内容についての説明が全くないものだから、我々観客も、どういう踊りなのか理解が今ひとつだったことだ。こういう点は、公演のパンフレットかホームページにでも載せておいていただければよかったのではないかと思う。

 ということで、私が勝手に命名した踊りの順序に従って、以下に写真を並べていきたい。なお、私はカメラを「キヤノン EOS70D」から、「ソニーα7III」のフルサイズに切り替えたので、この写真がEOS70Dで撮る最後の写真となる。早い動きにも、結構付いていくことができて満足している。

 余談だが、今回のフェスティバルでは、メインステージのほかに特設舞台でベトナムの水上人形劇(ムアゾイヌオック)が披露されたようだが、私は既にハノイや平成26年9月に横浜で見学しているので、今回はパスをした。また、会場では私の好物のドリアンが売られていた。やや小ぶりのものの値段を聞くと、重さを測ってくれて3,250円だという。現地価格の3倍だが、日本で売られている売価の半値だ。それならばと購入し、その場で食べてみた。ところが収穫してから日が経つせいか、やや乾燥が進みすぎて匂いは弱い。肝心の味はといえば、ドリアン特有の、あの高級チーズのようなねっとりとした感触があまりない。やはり、値段相応の味だった。


(1)蝶踊りと旗振り


旗振り


 さて、メインステージでのベトナム伝統音楽人形ショーの様子である。最初は、男性が出てきて、カラフルな旗を両手に持ってそれを振る。どういう意味があるのかわからない。だから、「旗振り」としか表現できないのだけれども、共産国らしくマスゲームを行うときなどに使われるのかもしれない。

旗振り


蝶踊り


蝶踊り


 次に、腰周りに蓮の花のようなピンク色の花びらを付けた華やかな女性ダンサー5人が登場し、優雅な踊りを見せる。ピーターパンに出てくる妖精ティンカーベルのようで、なかなか美しい。1人で両手を左右に動かしたり、5人が横に並んだり縦になったり、まるでマスゲームの小型版だ。次に場面転換のようで、男性が出てきて、笛で鳥のさえずりのような音を出す。耳が痛くなるほど大きな音だ。

蝶踊り


蝶踊り


 それが終わると、再び男性による旗振りがひとしきりあってから、また女性ダンサーが登場した。今度は蝶の羽根のようなものを見に付けている。これは優雅としか言いようがない。ただ、惜しむらくは蝶の羽根が内側に描かれていることで、外側にも全く同じように描くと、もっと見栄えがするのではないかと思った。


(2)カルメン人形


カルメン


カルメン


 突然、カルメンの曲が流れてきた。ベトナムとカルメンとは結びつかないなと思っていたら、上下が黒でスカートが赤の女性ダンサーが現れて、スペイン風の踊りを始めたから、一瞬、違和感を覚えたが、なかなか上手なので、面白いと思って観ていた。

カルメン人形


カルメン人形


カルメン人形


カルメン人形


 すると、男性が操り人形を持って登場した。それを合図に、3人の女性ダンサーがいずれも「カルメン人形」を持って踊りだした。なるほど、これがこの劇団の本業のようだ。ダンサーたちは、人形を操りながら、しかも自分で踊らなければならない。踊るだけでも大変なのに、一人で踊り手と操り手の二役をこなすという活躍ぶりだ。しかもよく見ると、例えば、人形がスカートの端を持ってたくしあげたりするほどの細かい操作をやったりしている。おっと、人形を振り回し始めた・・・色々とやるものだ。加えて、ダンサー全員が左手を上げてポーズをとっていた場面があったが、実は人形の方も同じポーズをし、そのためにダンサーは左手に操り糸を持っているという芸の細かさだ。それを客席には笑顔を振りまきながら行うのだから、これはこれでかなりの修練が必要だろうと思う。感心してしまった。

ベトナム女性人形


ベトナム女性人形


 やがて場面が変わって、今度は主役がカルメン人形からベトナム女性人形になった。女性と男性の操作者が、腰位の高さの人形を操る。今度の人形はベトナムの農民がよく被る日よけ傘(ノンラー)を持っているから、それだけ操るのが難しい。ところが、この日よけ傘が表現のポイントであるから面白い。それを身体の前に密着させて持つか、それとも片手でやや上向き加減にするかで、受ける感じが全く異なってしまう。私は飽きずに、その日よけ傘の持ち方を眺めていた。

ベトナム女性人形


ベトナム女性人形





(3)ろうそく踊り


ろうそく踊り


ろうそく踊り


 次の出しものは、私もこれを何と言うか表現するに困って、「ろうそく踊り」とでも言っておこう。宗教的意味がありそうなのだが、例によって説明がないので、よくわからないのが残念なところである。舞台の真ん中に「ろうそく」が添えられた花籠が恭しく置かれて、その前でグリーン色の衣装に身を包んだ一人の女性ダンサーが踊る。そのうち、花籠から両手に3本ずつ、火を灯したろうそくを持って踊る。まるで、巫女さんのようだ。やがて、ピンク色の衣装の3人の踊り手がそれを支えるように一緒に踊る。それから、先程の花籠を頭に載せて踊り出す。そのうち、鉦を持ったオレンジ色の踊り手も入ってくるといったものである。ともかく、優雅で賑やかで、カラフルで陽気で、かつ楽しいひと時を過ごすことができた。主催者と出演者に深く感謝したい。

ろうそく踊り


ろうそく踊り


ろうそく踊り









 ベトナム伝統音楽人形ショー(写 真)




(2019年6月9日記)


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