ソニーのα7IIIを買う

α7III


1.α7IIIを選ぶ


α7III


 最近のカメラの世界は、まさに劇的な変化を遂げている。半世紀以上も続いたフィルムカメラから、今世紀に入ってデジタルカメラの時代になり、更に一眼レフからミラーレス一眼へ移行するようになったかと思うと、撮像素子が大きくなってAPSーC(23.4mm×16.7mm)から35mmフルサイズの時代へと、急速に目まぐるしく進歩している。実は私も、この流れに沿ってカメラを買い替えてきた。最近では初めて発売されたミラーレスのデジタル一眼であるオリンパス・ペンE−P1とそれに続くE−P3、そして一眼レフではあるがデジタルで本格的APSーCのEOS 70Dである。それぞれに味があって、写真を撮るのを充分に楽しませてもらった。

E−P1


E−P3



 昨年秋から今年春にかけて、キヤノン、ニコン、ソニーの主要3社から、35mmフルサイズのデジタル一眼カメラが出揃った。キヤノンはEOS R(又はRP)、ソニーはα7III(又はα7RIII)、ニコンはZ6で、本年5月初旬のお値段は、それぞれEOS(19万円、14万円)、α7(21万円、30万円)、Z6(21万円)だった。

EOS 70D


 私の持っているデジタル一眼レフカメラ(EOS 70D)は、そろそろ4年目になろうとする。仕事が一段落する今年の秋から重点的に海外に出掛けて景勝地の写真を撮るつもりだが、このカメラはそれには嵩張るし、やや重たく感じるようになった。また、せっかくなので、良い風景写真は、フルサイズで撮りたい。そういうことから、上記3社のカメラから選ぼうと考えた。まず、ニコンはあまり馴染みがないし、性能が変わり映えしない割には値段が高い。ということで、キヤノンかソニーかの選択になる。

 いまキヤノンのEOS 70Dを持っているから、スムースに移行するにはEOS RPが一番だ。キヤノン風のボタン操作にも慣れているし、上記機種の中では、価格が最も安い。ただ、現在3本持っているレンズのうち、フルサイズ対応は1本だけだし、気に入っているタムロンのレンズは残念ながらAPSーCであって、フルサイズではない。フルサイズの画像をクロップすれば使えなくもないが、結局はAPSーCサイズになるから意味がない。EOS RP側も、それ専用のレンズは、実質的にまだ1本しかない。キヤノンはこの分野に手を付けるのが遅かったので、レンズの品揃えでは大きく後手に回っている印象だ。

 それなら、レンズ資産もたくさんあって今後も使いそうなメーカーを選ぶべきで、それはソニーである。カメラメーカーの中で最も早くフルサイズに取り組んできたから、フルサイズのミラーレス一眼対応レンズ(Eマウント)の種類が豊富である。そうすると、α9は私にはオーバースペックだから、α7III又はα7RIIIということになる。それぞれ21万円、30万円か・・・発売が昨年3月と今年2月というだけで9万円の差となっているが、実をいうと、この2つのカメラには素人にとってさほど性能面での違いはないと思っている。もちろん、2420万画素と4200万画素というのは大きな差であるが、4200万というのはあまりに大き過ぎて、私には扱いかねる。それに、元々ソニーのカメラを使っていればレンズに投資をする必要がないので、α7RIIIを選ぶところだが、今回の私の場合はカメラとレンズの両方を買わなければならないので、今回はα7IIIを選択して、その分をレンズ資産への投資に回そうかと考えた。どうせ、今回買うカメラをまた買い換える数年後には、もっと良いカメラ本体が発売されるので、その時に奮発すればよいと思った。


2.レンズを2本選ぶ

 では、レンズはどうしようか・・・APSーCでタムロンの18-300mmレンズが非常に使い勝手が良かったので、フルサイズでそういうものは・・・あるわけがない。探したところ、ソニーのズームレンズ FE 70-300mmというものがあった。15万円もするが、これにしよう。次に70mm未満をカバーする適当なレンズはないかと調べたら、タムロンの レンズ (Eマウント)28-75mm がとても評判が良い。理由は、F値が2.8と、非常に明るいからである。先程の FE 70-300mmのF値が4.5から5.6なので、その明るさが際立つ。約10万円もするけれども、それだけの価値はある。


ソニーのズームレンズ FE 70-300mm


α7RIIIにつけたタムロンの レンズ (Eマウント)28-75mm


 という検討を経て、カメラ本体を21万円で、レンズ2本を合計25万円で買うことにした。数年後にカメラを買い換えるときに、レンズの方は、そのまま使えるだろうと思っている。今回、購入したものの詳細は、下表の通りである。

 さて、Amazonに注文したら、カメラ本体を含めてその大半を翌日に持ってきてくれた。箱から、カメラ本体を取り出すときが、無上の楽しみである。あれれ・・・本体はこんなに小さいのかというのが第一印象である。昔のオリンパス・ペンE−P1の時代に逆戻りしたかのごとくである。それに、別途注文したタムロンの レンズ (28-75mm)が届いたので、何かを撮りに行こう。ちょうど梅雨の晴れ間だから、紫陽花が良い。鎌倉の名月院に向かった。


3.名月院の紫陽花

 北鎌倉駅に降り立ったのは、6月16日(日)午前9時20分である。名月院は、ここから10分もかからないと思ったのも束の間で、少し行ったところで「名月院の最後尾」という看板を持ったガードマンがいた。そこからズラリと人の列が続く。聞いてみると、30分は掛かるそうだ。仕方がないので、その列に並ぶ。延々と並んで、名月院の門をくぐったのが10時頃だった。


名月院


名月院


 そこから、α7IIIを取り出して、紫陽花などの花を写し始めた。マクロモードにすると、背景がものすごくボケる。これは素晴らしい。人物のポートレートでは非常によく写ると思う。風景モードにすると、竹林や葉の緑と空の青さが際立つ。ソニーの撮像素子と液晶画面の色は本当に鮮やかだと感心した。

 この日は本当に見物人の数が多かった。紫陽花の花半分に強い日光が当たっていることが多かったので、HDRで撮りたかったのだが、慣れないα7IIIのダイヤルをいじくっているうちに後ろから押されるという具合で、十分に試し撮りが出来なかった。特に残念なのは、有名な丸窓を上手く撮れなかったことである。今しばらく時間があれば、何とかなったのに、あれだけ混雑が酷いと、ゆっくりしていること自体が迷惑なので、さっさとその場を離れた。やはり、日曜日なぞに鎌倉へ行くべきではない。


名月院


 そのほか、α7IIIについて感じたことは、まずシャッターが軽い。その上、シャッター音をサイレントモードにしておくと、果たして押せたのかどうか、あるいは何枚撮ったのかが全くわからないほどだ。一眼レフの、あのEOS 70Dのカシャカシャという連続シャッター音に慣れた身としては、これは凄いとしか言いようがない。次に、スイッチを入れると画面に被写体が映る。それを見て撮るのは、昔のオリンパス・ペンE−P1と同じだ。ところがE−P1にはなかったファインダーがα7IIIにはあり、それを片目で覗き込むと、自動的に画面がオフになるという仕組みで、これは便利だ。もう一つ、E−P1の画面は、現実の被写体とタイムラグが生じて、動きの早いものにはなかなか付いていけなかった。その点、このα7IIIではそういうフラストレーションを感ずることはなかったので、これも大きな進歩だと思う。

名月院


 反面、気温30度の下で2時間ほど連続して撮っていると、α7IIIの躯体が熱を帯びてきた。ああ、これはE−P1と全く同じ現象だ。一眼レフではこんなことはなかった。やはり、通常の撮影では、画面は使わずに、ファインダーを覗いて撮るべきだろう。また、α7III本体は565gと軽いが、このタムロンの レンズ (28-75mm)は550gで、この組み合わせだとバランスが良くて持ちやすい。ところが、ソニー のズームレンズ (FE 70-300mm)は854gだから、これを付けるとレンズがずっしりと重い。まるでカメラというよりレンズを持ち歩いているようだ。まあ、そのうちに慣れるだろう。


 名月院の紫陽花(写 真)



4.その他の試し撮り


(順次、掲載する予定です)








  今回購入したカメラと部品の構成



(1) ソニー (SONY )ミラーレス一眼 α7III ボディ ILCE-7M3 212,700円


α7III ボディ ILCE-7M3



(2) ソニー (SONY )ズームレンズ FE 70-300mm F4.5-5.6 G OSS Eマウント35mmフルサイズ対応 SEL70300G 150,309円


ズームレンズ FE 70-300mm



(3) ソニー (SONY) MCプロテクター 72mm VF-72MPAM 5,772円


MCプロテクター 72mm VF-72MPAM



(4) ソニー(SONY) 円偏光フィルター VF-72CPAM 12,850円


円偏光フィルター VF-72CPAM



(5) ソニー (SONY) αレンズ用フード ALC-SH144 2,128円


αレンズ用フード ALC-SH144



(6) ソニー (SONY) SDXC メモリーカード 64GB Class10 UHS-II対応 @13,473円 2個


SDXC メモリーカード 64GB



(7) ソニー α7III NP-FZ100 互換バッテリー 2個 + 充電器 7,599円


α7III NP-FZ100 互換バッテリー 2個 + 充電器



(8) Kenko 液晶保護フィルム ソニーα7III用 802円


Kenko 液晶保護フィルム



(9) タムロン(TAMRON) レンズ 28-75mm F/2.8 Di III RXD 99,500円


タムロン(TAMRON) レンズ 28-75mm



(10) KENKO 67mm、PRO1D(タムロンのレンズ保護フィルター) 3,445円


 KENKO 67mm、PRO1D



(11) HAKUBA ドライボックスNEO 9.5L スモーク 防湿庫 KMC-40 1,482円


HAKUBA ドライボックスNEO 9.5L スモーク 防湿庫 KMC-40



(12) HAKUBA レンズ専用防カビ剤 KMC-62 446円


HAKUBA レンズ専用防カビ剤 KMC-62







合計 523,531円(こんなにかかってしまった。)




(2019年6月19日記)


カテゴリ:エッセイ | 20:43 | - | - | - |
デジタルアート・ミュージアム

デジタルアート・ミュージアム


 ある晩餐会の席で、たまたま隣り合わせたアメリカ人女性から、お台場のデジタル・ミュージアムに行ったという話を聞いた。「あれが次世代の美術館だ」とまで言う。それまで私は、「どうせプロジェクション・マッピングの室内版だろう」と思っていたので、あまり行く気がなかったが、それではと俄然行く気になった。

 まずは、予約する必要がある。チケット・サイトを開き、日付をチェックし、クレジットカードで支払う。すると、メールが届く。普通ならそれが入場チケットなのだが、前日にならないと貰えないという。そうする必要性がよくわからないが、確かに前日になってメールが来て、そこに書かれていたアドレスをクリックすると、入場チケットになるQRコードが出てきた。それを持って出掛けた。

 場所はお台場のパレットタウンで、ゆりかもめ青海駅で降りて観覧車の下を通って入る。正式には「森ビルデジタルアートミュージアム:エプソン チームラボボーダレス東京」というらしい。長い名前で覚えにくい。会場は、外国人観光客も多くて、いやもう、大変な人だかりだ。入り口で傘やら荷物やらを預けて会場に入る。中には微かな光があるだけで、真っ暗だ。でも、だんだん暗さに眼が慣れてきた。


デジタルアート・ミュージアム


デジタルアート・ミュージアム


 入場して早々に写真を撮ろうとしたのだが、後ろから次々に観客が押し寄せるからカメラのボタンを設定している暇がないし、暗いからボタンもはっきりと見えない。手探りでやっている過程で、変なボタンを押してしまったようだ。構えてもちっとも撮れない。諦めて下に向けるとシャッターがおりる始末だ。だから、しばらくの間は、全く撮れなかった。そのうちようやく少し明るい所に出たので、カメラの設定を見たところ、どういうわけか、セルフタイマーになっていた。

デジタルアート・ミュージアム


デジタルアート・ミュージアム


 それから撮り始めた。床が平らでないところに行くと、壁からその盛り上がった床に掛けて水が流れるような所があり、それにカラフルな花の画像が混じって次々に流れていく。非常に幻想的な光景である。たまたま白い服を着た女性にその光が当たると、またそれも光景の一部となる。女性が動くとゆらゆらと揺れて、なかなか美しい。2階に上がる階段の壁にも、お花でいっぱいの画像が走る。くっきりしてこれも綺麗だ。

デジタルアート・ミュージアム


デジタルアート・ミュージアム


 長い廊下の壁には竹林の画像と、蛍のような黄色い点が飛び交う。丸いドームのような床に、火の鳥がキラキラと光跡を残し、羽根を広げたり閉じたりして飛ぶ。また、別の鳥が飛んできた。見ていて飽きない。壁の方に眼をやると、大きな鯨みたいなカラフルな動物が豪快に泳いでいる。見ていて楽しい。

デジタルアート・ミュージアム


デジタルアート・ミュージアム


 大きな瓢箪をひっくり返したようなものがたくさんある部屋に行った。それが青色、赤色、昼光色、オレンジ色と様々に変わる。その次の部屋では子供たちがぴょんぴょん飛び跳ねると、それに応じて下の模様も変わる。小さな子も大きな子も、皆夢中になってやっている。結構なことだ。

デジタルアート・ミュージアム


デジタルアート・ミュージアム


 次の部屋に入ると、大人も子供も一生懸命に何やら書いている。壁をみると、海の動物がたくさん動いている。ただ、よく見ると、あまり洗練された絵ではない・・・一体、何だろうと思ったら、これらの中には名前が書かれているものもあったから、観客が描いた絵だったと気が付いた。観客参加型か・・・これは、面白いことをする。

デジタルアート・ミュージアム


デジタルアート・ミュージアム


 歩き疲れたので、ミュージアム内の喫茶店に入った。それも、真っ暗な中にある。入り口で茶葉が入った小さな瓶を買い、それを持ってひとりひとり案内される。「何でこんなに暗いのだろう、人の顔もロクに見えない」と思った。やがて頼んだお茶が来て、その理由がわかった。お茶の表面にプロジェクターの光が当たるようになっていて、お花の模様などがカラフルに浮き出てきたのである。実に綺麗だ・・・ここまで徹底しているとは思わなかった。確かに、来てみてよかった。






 デジタルアート・ミュージアム(写 真)




(2019年6月16日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:07 | - | - | - |
パソコンは遂に8台目

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1.パソコンが壊れて買換え

 自宅で常日頃、使い続けてきた富士通パソコン(LIFEBOOK WAR2/R。型名FMVWRA2B78)が、2019年5月21日、遂に動かなくなってしまった。私のような使い方をしていると普通は3年強くらいしか持たないところだが、4年8ヶ月間も、よく動いてくれたものだと感謝しなければならない。手元の記録によると、このパソコンは2014年9月19日(製品発表時期2014年5月)、富士通ショッピングサイトWEB MARTを通じて購入し、価格は、211,968円とある。

 実はこのパソコン、購入して3年ほど経った約2年前にも、突然Windowsが立ち上がらなくなったことがある。夏の暑い日だった。もう3年経ったから寿命かもしれないと思いつつ、念のために別にバックアップしておいたイメージを使って再インストールをしたところ、幸い無事に復活してくれたという出来事があった。ところが、それから1年ほどして、バッテリーが完全に消耗して使えなくなった。これは単に取り替えるだけだと思ってメーカーから部品を買おうとしたところ、型が古すぎてもう売っていない。やむなく八方手を尽くしてようやく確保したが、入手後によくよく見てみると、それは中国からの輸入品だった。でも、ともかく使えた。そういう前歴があるので、今回はもはや仕方がないと観念して、買い替えることにした。

 前回は富士通のWEB MARTのインターネット通販で買ったが、今回はもう少し範囲を広げて探そうと、Amazonで検索した。想定したスペックは、ノートパソコンで、画面が17インチか15.6インチのワイド液晶、HDDが出来れば2TB、コアがインテルi7、メモリは大きいに越したことはないがさほどこだわらない、光学ドライブがスーパーマルチというところである。

 そうすると、画面が15.6インチのワイド液晶、SSD(256GB)HDD(1TB)、コアがインテルi7、メモリは16GB、光学ドライブがスーパーマルチ、Windows10(64ビット)という仕様の、希望に近いパソコンが見つかった。なんとまあ、やはり富士通のWEB MARTだった(型名:FMVWD1A37L)。よほど富士通パソコンと相性が良いものと見える。価格は、185,980円である。注文したら、4日後に届いた。以前のパソコンは黒色だったが、今回の新パソコンは紺色なので、少し新鮮に見える。


今回の新パソコン



2.セットアップと使用準備

 それでは、また数年後にやってくる買い換えの時のために、やや技術的だがメモを残しておきたい。

 (1) まずは最初に、Windows 10のセットアップをしなければならない。ACアダプタを接続して電源を入れる。20分ほどで終了した。次に自宅の無線LANに繋ぎ、マイクロソフト・アカウントに切り替え、アップデートナビの初期設定をする。このパソコンは、顔認識だからパスワードを入れる必要がなくて楽だ(もっとも、顔認識できない場合に備えてPINを設定する必要はある)。その過程で、ウェブのブラウザが「Microsoft Edge」になった。以前の「Internet Explorer」が重たくなりすぎたので、その後継のようだ。Googleの検索画面のように、読みたくもないニュースが出る。「お気に入り」のバーの出し方がわからない。しばらく使っていたが、どうも扱いにくいので、ブラウザは「Google Chrome」に変えた。

 (2) ここまでは、マウスなしで操作した。この新パソコンはAmazonで買ったので、無線のコードレス・マウスは添付されていなかった。これは困ったと思ったが、試しにこれまでのパソコンで使っていたコードレス・マウスの無線USB部分を新パソコンに差し込んでみたら、ちゃんと認識されて、直ぐに使えたので、上手くなっていると感心した。

 (3) セキュリティソフトとして、「McAfee」が3年間分付いていたので、「Norton」はもう使わないことにした。その「McAfee」を動かしてみると、「2022年5月まで使えるが、それ以降も使うために自動継続するから、クレジットカード番号を入れよ」という表示が出る。しかし、そもそもそれまでMcAfeeという会社が存続しているとは限らないし、だいたい、そんな先のことについて、クレジットカードで支払いたくない。だから、その手には乗らず、自動継続はしないことにした(ところがその後、下記(16)の通り、結局いろいろと考えて、1年間だけ延長を行った)。

 (4) この新パソコンには搭載ディスクが2つあって、CドライブがSSD(256GB、全体がCディレクトリ)、DドライブがHDD(1TB、全体がDディレクトリ)である。システムはもちろんCディレクトリのSSDに入っていて高速なのであるが、256GBではいかんせん容量が少ない。出来れば500GBほどあれば良いのだが、そういう製品はなかった。こんなに小さいと、システムを入れるだけで一杯になりそうだ。特に問題なのは、「Document」と「Download」、それに「iTunes」を使った「iPhone」や「iPad」のバックアップ先が初期設定だとCディレクトリになっていることだ。それだけでもうCドライブが満杯になって動かなくなる。

 仕方がないので、まず、「Document」、「Download」、「Picture」の場所を変えることにした。この中で「Download」と「Picture」だけは、無事にDディレクトリに変えられたが、「Document」は赤字で「移動できません」の表示が出てうまくいかなかった。その原因として、セットアップ途中で入れさせられた「One Drive」の自動バックアップが足を引っ張ったのではないかと思った。だから、そちらを停止したところ首尾よく解決して、いずれもDディレクトリに変更できた。それはよかったのだけれど、私は、「iPad」で作業する時に参照したいので、文書類は可能な限り「Document」ではなく、Dディレクトリに置く「Dropbox」に蓄積しておくことにした。

(参 照)
 http://azby.fmworld.net/support /info/2hdd/

 (5) とりあえずWindows10が動かせるようになったので、まずは、しばらく更新できていなかった私のこのHP「悠々人生」の手入れから始めたい。そのためには、「窓の杜ライブラリ」から、NexusFile(統合ファイル管理)、Vix(画像一括加工)、TeraPad(テキスト・エディタ)、BunBackup(バックアップ。64ビット版)を取得してインストールした。それから、ディスクを通じて「Homepage Builder」と、ついでに「筆まめ」をインストールした。私はHTML言語が書けるので、もはや「Homepage Builder」本体はほとんど使わないが、その付属ソフトである「ファイル転送」(ファイルをアップロードするFTP)と「Webart Designer」(画像処理ソフト)はよく使って重宝する。だから、これらはHP「悠々人生」の手入れに必須といってよい。

 (6) 念のために、回復ドライブを作った。Amazonで32GBのUSBメモリを持ってきてもらって、それで作成した。30分ほどで呆気なく終わった。そのうち、必要なソフトを全部入れた段階で、Cディレクトリ全てをミラー形式でバックアップしたいと思っている。Dディレクトリは、別途、3TBのHDD(2つ)にダブルでバックアップしている。ちなみに、今回の新パソコンにも、既にバックアップ済みのこの3TBのHDDからデータをコピーして、その内容を回復させた。

 (7) さて、それからやや重たいソフトである「iTunes」をインストールする。ポイントは、Cディレクトリではなくて、Dディレクトリに入れることだ。「iTunes」本体は、あっという間にインストールできたが、その反面どこにインストールするかという選択する場面もなかったので、どうにもならず、Cディレクトリに入ってしまった。もっとも、本体のサイズは大したことがないので、まあいいだろう。問題はバックアップの場所である。私のiPhoneXとiPad、それに家内のiPhoneのバックアップ・サイズはおそらく180GB近くにもなるので、Dディレクトリに移すしかない。

(参 考) http://azby.fmworld.net/support /info/2hdd/

 その具体的な方法であるが、富士通のサポートの指示通りに行う。まずは画面左下の「検索欄」に「cmd」と打ち込み、出てきた画面の中の「管理者として実行」にチェックを入れて、黒いコマンド・プロンプト画面を出し、次のように打ち込む。ちなみに、私のユーザー名は「yama san」なので、「C:¥Users¥yama san ¥Apple¥・・・」となっているが、これをなぞって自分もやってみたい方は、この部分をそれぞれのユーザー名にすることになる。

C:¥Windows¥system32>mklink /d “C:¥Users¥yama san ¥Apple¥MobileSync¥Backup” “D:¥Computer¥iTunes Backup”

 すると、「シンボリック リンクが作成されました」と出てくる。これで、元のCディレクトリの「Users」以下には、Dディレクトリの該当部分へのリンクが張られるだけになり、データそのものはDディレクトリに収納される。

 (8) ところで、iTunesのバックアップの際、iPhoneを新パソコンに接続するときには、新パソコンの認証をしてもらわなければならない。そこで認証しようとしたところ、認識数は最大5つと決まっているので、それを越している場合には、「既に5に達しているので認証できない」との警告が出る。ではどうするか。結論からいうと、その5つの既存の認証を全部解除するしかない。そこで全て解除し、やっと新パソコンの認証を得た。それからバックアップをした。念のためにチェックすると、目論見通りDディレクトリに入っていた。

(参 考) https://www.iphone-utility.com/topic/change-itunes-backup-destination.htm

 (9) ブラウザベースの「Evernote」と「Box」は、「Google Chrome」の上で問題なく立ち上がった。次は、「Dropbox」だ。これは外出先でiPhoneやiPadと連携するのでとっても重宝している。ただ、データ量が多いので、やはりDディレクトリにしたい。Dropboxの公式ページからインストーラーをダウンロードしたら、自動的にDropboxディレクトリを探してくれたので、手間は全くかからなかった。

 (10) ということで、新パソコンにつき一通りのチューンナップが終わった。ここまでで、丸2日ほどかかったことになる。何が面倒だったかといえば、(1)の初期設定が一番で、次いで(7)の「iTunes」バックアップ先の変更だろう。これは、多少の知識が必要だ。

 (11) 念のためにソフトで二つのディレクトリの残容量を見てみたところ、Cディレクトリが60GB、Dディレクトリが590GBと出た。あれあれ、Cが少なすぎる。そこでCディレクトリの内訳を見たら、Dropboxが100GBも使っているではないか。上記(8)は勘違いで、実はDディレクトリにはなっていなかったのだ。そこで、Dropbox同期フォルダ変更手順に従い、「システムトレイの中にあるDropboxアイコンをクリック→Dropboxの画面中の歯車のアイコンをクリック→基本設定→右上の同期→Dropbox フォルダの場所中の移動ボタン→Dディレクトリを指定」ということで、Dディレクトリに移し替えた。再度チェックしたところ、Cディレクトリの残容量は、目出度く160GBとなった。やれやれ、これだからパソコンは、気が抜けない。

 しかし、それにしてもDディレクトリは1TBもあるのに、もう510GBも使っている。半分を越しているではないか。その内容を確認したところ、主なものは、昔の書類を入れてある「Cabinet」100GBのほか、「iTunesバックアップ」185GB、「最新Photos(今年の始めから)」80GB、「悠々人生」45GBである。これらだけでも410GBにもなっている。なかでも、今年の初めから撮りためた写真が、もう80GBに達しているとは思わなかった。まだ半年なので、今年の終わりにはその倍近くになるかもしれない。いやこれは・・・恐れ入った。個人レベルでも、ビックデータの時代になってしまった。

 (12) そういえば、「McAfee」に鞍替えしたので、「Norton」の自動更新を停止しないといけない。まず、シマンテックストアの注文情報確認ページを出して「メールアドレス」と「注文番号」を入れた。すると、私が使っている製品に関する情報が出てきた。そこに、「自動延長サービスの申込状況確認・停止手続き」というボタンが現れるはずなのに、出てこない。3回ほどやってみたが、やはり出ない。別途、iPadでも試してみたが、これでもダメだ。

 「一体どうなっているのだろう。ユーザーに停止させないためか。」などと邪推したほどだ。「仕方がない。明日にでもサポートに電話しようか」と思ったところで、気がついた。「この注文番号は昨年の更新時のものだからではないか。その前の年の注文番号にしたら、ひょっとしたら動くかもしれない。)と。そう考えて、一昨年の注文番号を入れてみたら、そのボタンが出てきて、やっと停止すらことができた。ここまでで、45分もかかってしまった。全く時間の無駄使いである。

 (13) OSのWindows10は、順調に動いてくれているが、一つだけある不満は、Photo Viewer で画像をクリックした時に、前後の画像に進むボタンがないことである。これだと、いちいち画像を閉じて見たい画像をダブルクリックしなければならない。これは面倒だ。そこでインターネットで調べると、「Restore Windows Photo Viewer」を使えばよいという記事があった。問題は、これが信用できるかだ・・・。載せている会社を見ると、あのインプレスだ。数多くのフリーソフトを提供している会社なので、まあ良さそうだと判断して、試してみることにした。すると、使えるようになり、「既定のアプリ」を「Windows Photo Viewer」にすることができた。

 (14) 一応、新パソコンの復旧作業が完全に終了したので、バックアップ・ソフトであるBunBackup(64ビット版)を動かしてみた。問題なく動作する。それで、2つの3TBのHDDの内容を整理しながら、それにバックアップした。なお、自宅の無線LANの「LANDISK」として3TBのHDDを一つ置いているので、それにもバックアップした。このLANDISKは、特に操作することもなく、新パソコンから認識することができたので助かった。

 (15) ただ、このようなHDDには容量の限界がある。私の場合は、過去に撮ったり昔のアルバムをスキャンして取り込んだ写真が既に1TB以上に達している。加えて、外付けHDDの中に収めておいても、パソコンと繋がっていないときや、iPhoneやiPadからは見られない。そう考えているときに、たまたま、「今お使いのDropbox plusをグレードアップしたので使ってください」というメールが来て、2TBまでクラウド上でスペース(容量)を提供してくれるそうだ。少し値上がって月1,200円かかるが、これを利用することにした。ただ、私のパソコンの中身が全てDropbox社に渡ることになる。これは、信用するほかない。

 次の段階として、どう操作すればよいのか・・・。ともかく、Dropboxにアクセスしたところ、「スマート・パスを使うように」とのことで、クリックして手続を行った。すると、「およそ1時間後に通知が届くので、記載された手順に沿って設定を完了してください」ということだった。なぜそんなに待たせるのか、よくわからないが、ともかく待っていた。ところが、待てと暮らせど、その通知メールが届かない。Dropboxにメールで問い合わせて、やっと通知がきて解決した。

 (16) 上記(3)で、セキュリティソフト「McAfee」を3年間使うので、それでよしと思っていたら、マカフィー社からメールが届いた。それによると、「現在、マカフィー・リブセーフ3年間の使用となっているが、4年目にさらに1年間延長しようとすると、8,980円かかるが、今だと2,980円で済むから、いかが?」というわけである。なかなか上手な勧誘だ。これまで問題なく使えているし、どうせ3年以上使うだろうから、その程度のお金なら今払ってもいいかと思って、延長することにした。

 (17) ということで、約1週間でパソコンの設定が終わり、ほぼ日常通りのパソコン生活に戻った。振り返ると、CドライブがSSD(256GB)、DドライブがHDD(1TB)という構成だったために、(7)の「iTunes」のバックアップ先をCからDディレクトリへと変更する必要が生じ、これが今回の作業の一番のヤマだった。

 これからは、Dropboxに2TBも保存してどこからでもアクセスできるようになった。だから、次にパソコンを買い換えるときは、画像の取扱いを迅速かつ容易にするため、CPUを高性能、メモリを大容量にして、あとはさほど容量の大きくないSSD(2個)でも良いのかもしれないと思っている。





(メ モ) これまで自宅で使ったパソコン一覧


【1台目】1993年から97年まで PC9821Ne(NECのノート。OS:MS-DOS、後にWindows 3.1、CPU:i486、メモリ:16M、HDD:340MB)

【2台目】1997年から2001年まで MN−5500(シャープのノート。OS:Windows 95、CPU:MMX Pentium 150HZ、メモリ:64MB、画面:11.3inch、(SVGA)TFT800X600の1677万色、HDD:3GB)

【3台目】2001年から2003年まで PC−MJ720M(シャープのノート。OS:Windows MeからXPへアップグレード、CPU:Pentium III 800MHz、メモリ:256MB、画面:14.1型 XGA対応 低反射ブラックTFT、HDD:30GB)

【4台目】2003年から2007年9月まで FMV−BIBLO NB16(富士通のノート。OS:Windows XP、CPU:Pentium 4、メモリ:514MB、画面:15型のスーパーファイン、HDD:40GB)

【5台目】2007年9月から2010年9月17日まで FMV−BIBLO NX90WN/D(富士通のノート。OS:Windows VISTA、CPU:Intel Core2 CPU T7200 @ 2.00GHz、メモリ:2GB、画面:17型、HDD:200GB)

【6台目】2010年9月17日から2014年9月19日まで VAIO VPCJ11AFJ(ソニーのデスクトップ。OS:Windows 7 Home Premium(64bit)、CPU:Intel Corei7-2.67GHz、メモリ:8GGB、画面:21.5型、HDD:1TB)

【7台目】2014年9月19日から2019年6月1日まで FMVWRA2B78(富士通のノート。OS:Windows 8、CPU:Core i7 3632QM(Ivy Bridge)/2.2GHz/4コア、メモリ:8GB、画面:15.6型、HDD:1TB)

【8台目】2019年6月1日から現在まで FMV LIFEBOOK AH WA3/D1(富士通のノート。OS:Windows 10、CPU:Core i7、メモリ:16GB、画面:15.6型ワイド、約256GB SSD + 約1TB HDD)





(2019年6月13日記)


カテゴリ:エッセイ | 19:52 | - | - | - |
ベトナム伝統音楽人形ショー

蝶踊り


 先日、私の職場にベトナムの人たちがやって来られて、国際交流の一環として見学の後に懇談をし、意見交換を行った。私は、昨2018年12月にダナンとホイアンを訪れて写真を撮ってきたばかりなものだから、この懇談をことのほか楽しみにしていた。すると、たまたまダナンから来た偉い人がいて、最近の現地の話題で話が弾んだ。

 実は、私は8年前にこんな文章を書いている。「これでも私は、ベトナムに1回だけ行ったことがある。しかし、20年ほど前のハノイなので、仕事以外で見たものといえば、ホーチミン将軍の遺体と、科挙の合格者を祭った孔子廟、それに例の水中人形劇だけ・・・である。しかし、そんな昔話はもうすっかり過去のことで、現代のベトナムは、これからますます発展するだろう。中国を挟んで東の日本と西のベトナムは、安南節度使を勤めた阿倍仲麻呂以来の縁がある。いずれも、国民が勤勉で人口も多い点(ベトナムは約8600万人、日本は約1億2752万人)、国が南北に長い点、米が主食である点など、共通点が多い。これから、日本が大事にしていきたい国のひとつである。(2011年9月18日)」

 今も「日本が大事にしていきたい国」という認識は変わらないが、この間、大きく変わったと思うことがある。それは、ベトナムがここ最近、大いに経済発展を遂げ、それが人々の態度や立ち居振る舞いに良い影響をもたらして、どことなく余裕を感じさせるようになったことだ。見方を変えたら、90年代のバブル経済崩壊後の日本経済が沈滞してほとんど経済成長がみられなかった一方で、ベトナムなどのアセアン諸国が順調に発展していっただけのことかもしれない。ともあれ、それと同時に、かつて高度経済成長を成し遂げた日本人としては、かつての栄光はどこに行ったのかと自問したい気がする。

 そうした経済発展を遂げつつあるベトナムのような国は、文化の面でも余裕が出てきたものとみえて、最近、かなり進歩したのではないかと感じる。というのは、平成23年に代々木公園で「ベトナム舞踊・アオザイショー」を見たときは、特に舞踊は、まだまた粗削りだなと思ったものである。ところが、今回、同じ代々木公園で行われた「Vietnum Traditonal Music Puppet Show」(ベトナム伝統音楽人形ショー)は、ベトナム人の器用さと洗練された伝統芸が程よく混ざりあって、なかなか芸術水準が高くなったと感じる。もちろん、芸術性の善し悪しは、これを演じるパフォーマー集団の質に左右される。その点、今回のパフォーマーは、ベトナム文化スポーツ観光省から派遣されたと言っていたから、それだけに演技がよかったのかもしれない。ただ、惜しむらくは、演目や内容についての説明が全くないものだから、我々観客も、どういう踊りなのか理解が今ひとつだったことだ。こういう点は、公演のパンフレットかホームページにでも載せておいていただければよかったのではないかと思う。

 ということで、私が勝手に命名した踊りの順序に従って、以下に写真を並べていきたい。なお、私はカメラを「キヤノン EOS70D」から、「ソニーα7III」のフルサイズに切り替えたので、この写真がEOS70Dで撮る最後の写真となる。早い動きにも、結構付いていくことができて満足している。

 余談だが、今回のフェスティバルでは、メインステージのほかに特設舞台でベトナムの水上人形劇(ムアゾイヌオック)が披露されたようだが、私は既にハノイや平成26年9月に横浜で見学しているので、今回はパスをした。また、会場では私の好物のドリアンが売られていた。やや小ぶりのものの値段を聞くと、重さを測ってくれて3,250円だという。現地価格の3倍だが、日本で売られている売価の半値だ。それならばと購入し、その場で食べてみた。ところが収穫してから日が経つせいか、やや乾燥が進みすぎて匂いは弱い。肝心の味はといえば、ドリアン特有の、あの高級チーズのようなねっとりとした感触があまりない。やはり、値段相応の味だった。


(1)蝶踊りと旗振り


旗振り


 さて、メインステージでのベトナム伝統音楽人形ショーの様子である。最初は、男性が出てきて、カラフルな旗を両手に持ってそれを振る。どういう意味があるのかわからない。だから、「旗振り」としか表現できないのだけれども、共産国らしくマスゲームを行うときなどに使われるのかもしれない。

旗振り


蝶踊り


蝶踊り


 次に、腰周りに蓮の花のようなピンク色の花びらを付けた華やかな女性ダンサー5人が登場し、優雅な踊りを見せる。ピーターパンに出てくる妖精ティンカーベルのようで、なかなか美しい。1人で両手を左右に動かしたり、5人が横に並んだり縦になったり、まるでマスゲームの小型版だ。次に場面転換のようで、男性が出てきて、笛で鳥のさえずりのような音を出す。耳が痛くなるほど大きな音だ。

蝶踊り


蝶踊り


 それが終わると、再び男性による旗振りがひとしきりあってから、また女性ダンサーが登場した。今度は蝶の羽根のようなものを見に付けている。これは優雅としか言いようがない。ただ、惜しむらくは蝶の羽根が内側に描かれていることで、外側にも全く同じように描くと、もっと見栄えがするのではないかと思った。


(2)カルメン人形


カルメン


カルメン


 突然、カルメンの曲が流れてきた。ベトナムとカルメンとは結びつかないなと思っていたら、上下が黒でスカートが赤の女性ダンサーが現れて、スペイン風の踊りを始めたから、一瞬、違和感を覚えたが、なかなか上手なので、面白いと思って観ていた。

カルメン人形


カルメン人形


カルメン人形


カルメン人形


 すると、男性が操り人形を持って登場した。それを合図に、3人の女性ダンサーがいずれも「カルメン人形」を持って踊りだした。なるほど、これがこの劇団の本業のようだ。ダンサーたちは、人形を操りながら、しかも自分で踊らなければならない。踊るだけでも大変なのに、一人で踊り手と操り手の二役をこなすという活躍ぶりだ。しかもよく見ると、例えば、人形がスカートの端を持ってたくしあげたりするほどの細かい操作をやったりしている。おっと、人形を振り回し始めた・・・色々とやるものだ。加えて、ダンサー全員が左手を上げてポーズをとっていた場面があったが、実は人形の方も同じポーズをし、そのためにダンサーは左手に操り糸を持っているという芸の細かさだ。それを客席には笑顔を振りまきながら行うのだから、これはこれでかなりの修練が必要だろうと思う。感心してしまった。

ベトナム女性人形


ベトナム女性人形


 やがて場面が変わって、今度は主役がカルメン人形からベトナム女性人形になった。女性と男性の操作者が、腰位の高さの人形を操る。今度の人形はベトナムの農民がよく被る日よけ傘(ノンラー)を持っているから、それだけ操るのが難しい。ところが、この日よけ傘が表現のポイントであるから面白い。それを身体の前に密着させて持つか、それとも片手でやや上向き加減にするかで、受ける感じが全く異なってしまう。私は飽きずに、その日よけ傘の持ち方を眺めていた。

ベトナム女性人形


ベトナム女性人形





(3)ろうそく踊り


ろうそく踊り


ろうそく踊り


 次の出しものは、私もこれを何と言うか表現するに困って、「ろうそく踊り」とでも言っておこう。宗教的意味がありそうなのだが、例によって説明がないので、よくわからないのが残念なところである。舞台の真ん中に「ろうそく」が添えられた花籠が恭しく置かれて、その前でグリーン色の衣装に身を包んだ一人の女性ダンサーが踊る。そのうち、花籠から両手に3本ずつ、火を灯したろうそくを持って踊る。まるで、巫女さんのようだ。やがて、ピンク色の衣装の3人の踊り手がそれを支えるように一緒に踊る。それから、先程の花籠を頭に載せて踊り出す。そのうち、鉦を持ったオレンジ色の踊り手も入ってくるといったものである。ともかく、優雅で賑やかで、カラフルで陽気で、かつ楽しいひと時を過ごすことができた。主催者と出演者に深く感謝したい。

ろうそく踊り


ろうそく踊り


ろうそく踊り









 ベトナム伝統音楽人形ショー(写 真)




(2019年6月9日記)


カテゴリ:エッセイ | 21:45 | - | - | - |
天橋立・舞鶴・蘇洞門への旅

天橋立


1.天橋立

 京都府の日本海側を旅する機会があり、まず天橋立に行ってみた。そのきっかけを作ったのは、父の遺品のアルバムだ。父が亡くなってしばらくして、遺品のアルバムを整理していたところ、父が両脚を広げてその股の間から向こうを覗いている写真を見つけた。妙なことをやっているなと一瞬思ったが、背景の景色を見て何の写真かがわかった。これは、天橋立の名物「股のぞき」なのだ。ああ、父も天橋立に行って、実際にやってみたのだと思うと、無性に行きたくなったというわけである。ちなみに、私はこれまで、当地を訪れたことはないから楽しみだ。

 ところが、天橋立にたどり着くには、かなり遠い道のりなのである。東京から京都までは、新幹線のぞみで2時間15分ほどであるのに対し、京都から天橋立まで、それとほぼ同じくらいかかる。まず、京都から宮津まで特急はしだて号で行き、そこから私鉄の京丹後鉄道で天橋立駅に行くと、連絡が良い場合で2時間、連絡が悪い場合は更に45分ほどかかることがある。行程に慣れてないせいか、非常に長くか感じる。もちろん飛行場もないから飛行機が使えない。ただ、京都から天橋立まで行く高速バスの便があるようだから、乗り換える必要がないので、そちらの方が楽かもしれない。

 ともあれ、私は天橋立駅に降り立った。駅構内に観光案内所があって、幾つかパンフレットをもらった。駅を出たところ、ふと目の前にあるホテルが視界に入る。今晩泊めてもらう天橋立ホテルだ。これはわかりやすい場所にある。チェックインして荷物を置き、早速、近くの桟橋から観光船に乗った。対岸の傘松公園から天橋立を眺めに行くためだ。


天橋立


天橋立


天橋立


 観光船が通るのは、天橋立で仕切られた「宮津湾」の内側にある「阿蘇海」である。船は出発したが、海の上から見る天橋立は、単なる海岸の松林のように見えるだけで、景色としてはとても単調だ。この退屈なままで対岸に着くのかと思ったら、そうでもなくて、空中でぎゃあぎゃあと大騒ぎが起こった。一緒に船の屋根のない最上階に上っていた親子連れが、空に向かってお菓子を投げ始めたからである。するとそれを狙ってたくさんのカモメが集まってきて、奪い合いの大騒ぎになった。

天橋立


天橋立


 観光船のスピードはかなりあるので、カモメたちはそれに飛行しながら追い付くのも大変なのに、その上、空に投げられたあの小さなお菓子を空中で器用にキャッチするのである。大変な運動神経を持つものだ。気のせいか、カモメがお菓子をキャッチした瞬間、ニヤリと笑うような表情をするから面白い。その写真を撮りながら、国定公園の中でこんなことをやって良いのだろうかと考えたりするのだが、どうも観光船は放任しているようだ。

天橋立


天橋立


 さて、わずか15分で対岸に到着した。船着き場からすぐのところに、「丹後一の宮 元伊勢 籠(この)神社」がある。とても由緒ある神社のようで、そのHPによれば「第10代崇神天皇の御代に天照大神が倭国笠縫邑からお遷りになり、天照大神と豊受大神を吉佐宮(よさのみや)という宮号でご一緒に4年間お祀り申し上げました。その後天照大神は第11代垂仁天皇の御代に、又豊受大神は第21代雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢にお遷りになりました。それに依って当社は伊勢神宮内宮の元宮、更に外宮の元宮という意味で『元伊勢』と呼ばれております。」なるほど、これは古いわけだ。

天橋立


天橋立


 この神社の中を通ってケーブルカー乗り場まで行く。かわいい乗り場があり、ケーブルがガラゴロと動いている。それに乗ったら、直ぐに高台の傘松公園だ。天橋立の北東端に当たる。天橋立は、目の前の右手上から左手下にかけて斜めに走っている。なるほど、これは絶景だ。眺めて飽きない。いただいたパンフレットによれば、「天橋立は陸前(宮城県)の松島、安芸(広島県)の宮島と共に日本三景の一つに数えられる景勝地である。『丹後国風土記逸文』に、国を生まれた伊弉諾尊が天に通うために梯(はし)を作られたが、命(みこと)が寝ている間に倒れ伏したという記事があり、これが名の起りである。・・・神秘的で美しい姿は、野田川から流れ出る砂粒と外海から流れ来る砂粒とがぶつかりあって出来たと考えられる。約500年前に描かれた雪舟画の国宝天橋立図には現在より短い天橋立が描かれている。」とある。天橋立とは、天に掛けた架け橋が倒れた姿か・・・なるほど、なかなか巧みな描写である。

天橋立


天橋立


 ところで、この傘松公園側から見る天橋立は「昇龍観」といい、反対側の天橋立駅(ビューロランド)側からの景観は「飛龍観」というらしい。天橋立を眼下にして、至る所にお立ち台ならぬ「股のぞき台」があるのが可笑しい。いろいろな人たちが入れ替わり立ち替わり、御覧のようにやっている。あんなに腰を曲げて、その上、頭を落として股の間をよくのぞけるものだと感心する。私も父のようにやってみたところ、そもそも腰が十分に曲がらない。一回の試しでもう十分だ。もっとも、当地の名物とはいえ、頭に血がのぼるし、あまり品の良いものではないから何回も試すような代物ではない。

天橋立


 それから、飽きるまで写真を撮っていると帰りはもう時間がなくなった。名刹の成相寺には立ち寄りたかったが、もう夕刻で、寄っている暇がない。それは次の機会ということにして、傘松公園リフトを使って麓まで降りてきた。リフトに乗っているとき、景色が良いので、つい脚を前後に振ったりしがちだが、安全のため厳禁とのこと。

天橋立


天橋立


 麓に着いて、反対側に帰るために再び観光船に乗るというのも有り得たが、運動のためだと思って天橋立の中を歩くことにした。所要小1時間だという。天橋立の中から見ると、単なる松林が続いているだけだが、その中で目立つ松に名前が付けられている。舟越の松、双龍の松、見返り松、小袖の松、雪舟の松、夫婦松、阿蘇の松、千貫の松という具合であるが、このうち双龍の松は平成に入ってからの台風で敢え無く倒壊し、現在は碑のみが置かれている。

天橋立


天橋立


 また、途中には、松尾芭蕉の句碑、真水が湧くという磯清水、与謝野寛・晶子歌碑があって、歴史を感じさせる。そもそも、百人一首にある「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天橋立」(小式部内侍)とあるくらいだから、平安時代から名所として人口に膾炙していたものとみえる。

天橋立


 天橋立駅側に近づくと、橋が2つある。なるほど、内海の阿蘇海は、仕切られているのではなくて、宮津湾とここで繋がっているのだ。しかも陸側の端は、「廻旋橋」という。つまり、真ん中を中心に橋桁を水平に回旋して舟を通すという仕組みらしい。昔は、人力で回旋していたという写真があった。ところで、こちら側にも智恩寺という有名なお寺があるようだが、本日は純粋に景色を撮りにきたし、いささか疲れたので割愛することにした。

天橋立


天橋立


天橋立


 そして翌朝、朝一番で天橋立ビューランドにリフトで登り、飛龍観を写真に撮った。こちらの方が、砂が小さな三角形となって続き、それがあたかも飛龍の背びれのように見えるので、迫力満点の写真となった。これは素晴らしいと感激していたら、何のことはない。京都府丹後広域振興局が、天の橋立について歴史や保全活動について述べているHPの記事があった、それによると、小さな三角形がはっきり見えるのは、天橋立の宮津湾側の海岸の砂がなくならないようにするサンドバイパス工事(砂浜に沿って流れゆく砂が人工構造物などに移動をさえぎられたため、その上手側に堆積したものを下手側の海岸に人工的に移動させる一種の養浜工事)の結果らしい。


2.舞 鶴

 翌日は、舞鶴に行ってみた。西と東とに分かれていて、歴史的には、西舞鶴はかつては田辺藩の城下町で戦前は大連やウラジオストックへの玄関口である商業港として、東舞鶴は言うまでもなく旧帝国海軍の軍港として、それぞれ発展してきた。各々に鉄道の駅がある。このうち西舞鶴駅は、京都丹後鉄道の宮津線とJR西日本の舞鶴線が乗り入れ、いわゆる接続駅となっている。その舞鶴線は、綾部から西舞鶴を経由して東舞鶴に繋がり、東舞鶴からはJR西日本の小浜線となって敦賀に至る。


舞鶴


舞鶴


 この日は、天橋立駅から東舞鶴駅まで乗り、タクシーで赤レンガパークまで行って、「旧海軍ゆかりの港を巡る遊覧船」なるものに乗った。たまたまこの日は、海上自衛隊を退職された方がボランティアで説明をしてくれる。あちこちに自衛隊の艦艇が碇泊中で、それを洋上から見物するという 趣向である。横須賀港でもやはり同じようなツアーがあるが、これほど間近で見ることはできないというのが、こちらの売り文句である。

舞鶴


 ボランティアさんの説明は、例えば、こんな調子である。「右手に並んでいる681と682の二つの護衛艦、それぞれ『すがしま』と『のとじま』ですが、これらは同型艦で、いずれも掃海艇です。磁気に反応してはいけないので、木造の船でして、しかも機械にはなるべくステンレス、アルミ、銅という材料が使われております。排水量は610トンで、速度25km/時しか出ません。湾岸戦争時には、わざわざペルシャ湾まで掃海に行ったのですが、速度が遅いために行くのに何ヶ月もかかりました。あそこに見える『東山』には、戦時中には機銃砲台があり、大きな防空壕があります。ただ、もう相当古くなっているので、立ち入りは禁止されています。」と、なかなか名調子である。

舞鶴


舞鶴


舞鶴


 最初はそれを聞いていたのだが、そのうちカメラを持って舷側に行って手当り次第に写真を撮るのに集中していたら、反対側にいるボランティアさんの説明があまり良く聞こえない位置だったので、せっかくの説明が頭に入らなくなり、実に残念なことをした。それにしても、護衛艦の写真は撮り放題だ。これと同じことを外国でやったら、いつ何時スパイ容疑で逮捕される災難に遭うかもしれないので、外国では決してしないように心しておきたい。

舞鶴


舞鶴


 すぐ近くのドックにイージス艦「みょうこう(175)」が入っている。アメリカ映画「バトルシップ」で浅野忠信が演じるナガタ艦長が指揮していた艦だ。一方、はるか遠いところにイージス艦が停泊中だど思ったら、修理点検を終えた「あたご(177)」のようだ。艦に弾薬やミサイルを積込み中らしくて、市街地から離れたところで作業しているとのこと。また、戦前の舞鶴海軍工廠からスピンアウトした形で、造船のジャパンマリンユナイテッドと日立造船、日本板硝子の工場などがある。関西電力の石炭火力発電所も陸の施設として目立って見えた。ジャパンマリンユナイテッドでは、幾つかドックがあって、自衛艦の艦船を修理していたほか、受注した民間タンカーが完成間近だった。

舞鶴


 帰りがけに、市内の様子を見ようとして、港から東舞鶴駅へと25分の道のりを歩いて行った。すると駅前に続くアーケードのある大通りを通ったが、土曜日だというのに完全なシャッター通りと化していて、驚いたことにわずか数人の通行人しか会わなかった。しかもそのうち2人は、白い制服を着た女性海上自衛官だった。日本の地方都市は、どうなってしまうのだろう。


3.蘇洞門(そとも)

 舞鶴で遊覧船に乗ったその日の午後、JR西日本小浜線で福井県小浜に向かった。海の景勝地である「蘇洞門(そとも)」と、それから「鯖街道記念館」を見学したいと思ったからである。ホテルは、記念館のすぐ隣に確保した。チェックインしてみると、午後3時半だ。蘇洞門巡りの遊覧船の最終便が出るのは4時で、その桟橋はこのホテルから歩いて10分もかからない。それに、今日は風がなく凪なので海は荒れていないから、外海に出ても船酔いの心配はない。乗船するには絶好のチャンスだと思って、急いで行ってみることにした。


蘇洞門


蘇洞門


 出航の10分前に、乗船券売り場の若狭フィッシャーマンズワーフに着いた。「まだ、間に合いますかね。」と、受付の女性に聞くと、満面の笑みで「はい、大丈夫ですよ。」と返してくれる。こういうときの女性は、それこそ観音さま・菩薩さまに見える。乗船券を買って勢いよく乗り込んだ。そのまま直ぐに上階に上がって吹きさらしの先頭で、ステンレスの棒に掴まる。

蘇洞門


蘇洞門


蘇洞門


 船は走り出した。スピードが上がっていくにつれて向かい風が強くなり、帽子が飛ばされそうだ。カメラもしっかり構えないと、被写体が定まらない。やがて船は港を出て、半島部を右手に回り込んで行く。まず見えるのは、海にちぎれるように浮かんでいる「三ツ岩」「二ツ岩」である。その向かいにある半島部が「松ヶ崎」で、その付近から海中に突き出しているのが、「鎌の首」である。いただいたパンフレットの説明によれば、「根元より頭の部分が大きく、イースター島のモアイ巨石の様な形をし、農作業で使う鎌の柄の部分にそっくりなところからそう呼ばれています。」とのこと。でも、船は猛スピードで走るし、しっかりと掴まっていない振り落とされそうでこわい。それもあって、三ツ岩以外はどれも同じに見えて、何が何だかよく判別できなかった。

蘇洞門


蘇洞門


蘇洞門


 その先にあって、同じく海に屹立しているのが「唐船島」で、同じくパンフレットの説明では「昔、南蛮人を乗せた『唐船』をこの島につないだところからこの名前が付いたといわれています。」という。島といっても、とても住める所ではない。あそこに見える岩かなという気がするが、よくわからない。次は、「あみかけ岩」で、「岩に網目のように亀裂が入り、まるで網を掛けたように見えるところからそう呼ばれています。」とのこと。ただ、これは柱状摂理の地形の典型である。ちなみに「柱状摂理」とは、マグマが地上に噴出して冷えて固まるときに玄武岩や安山岩になるが、その時に五角形や六角形の柱のような割れ目が生じてその断面がまるで蜂の巣に似た形になることである。福井県の東尋坊などに見られる。これは、判別できた。それにしても、あちらこちらの岩で、熱心に釣っている人の姿を見かける。いったいどうやって来たのだろうという気もするし、またどういう方法で帰るのだろうという気もする。誰かに船で送り迎えしてもらわないと不可能だ。

蘇洞門


蘇洞門


蘇洞門


 「夫婦亀石」は、「同じような大きさの亀が2匹おぶさっているように見えるところからこの名前が付いています。」という説明だが、あまりそのようには見えない。「白糸の滝」「年中水量が変わらない、非常に美しい滝です。最近まで上流で『わさび』が栽培されていました。」と説明されていた。確かに、か細いけれども、滝の流れが見えた。

蘇洞門


蘇洞門


蘇洞門


蘇洞門


 「大門・小門」は、海側から見ているとよくわからないが、この日はいわゆる「ベタ凪」だったので、船が内側に回り込んで5分ほど停泊してくれたので、ハッキリと見ることができて感激した。「右を『大門』左を『小門』と呼び、『小門』の高さは大人の背丈の3倍以上あります。近くには『吹雪の滝』が流れ落ちています。」とのことであるが、これは柱状摂理の柱が波に侵食されて脱落したものだろう。同行した地元の大学生は、「これは余程、天候が良くないとここまで来られないから、今日は運が良かった。」と、喜んでいた。


4.鯖街道

事前に旅行のプランを練るとき、小浜市に行って観光するとすればどこがよいかと思って調べたところ、小浜市のHPで、次のような文章を見つけた。

「 近年、鯖街道という言葉がしきりに聞かれます。若狭湾で取れた鯖に、一塩して、夜も寝ないで京都まで運ぶと、ちょうど良い味になっていた、とよく言われます。この道は、単に鯖ばかりを運んだ道ではありません。街道沿いや、到着地の人々に尋ねてみると、イカやカレイや、グジ(アマダイ)、その他、多種の海産物などが運ばれています。いわゆる北前船から陸揚げされた物資も、盛んに輸送されました。 

 鯖は、今と全く比較にならず沢山とれ、体形も大きく、ことさらに一般庶民に喜ばれ待ち望まれたために、これを運ぶ道にさえ、いつしか鯖街道の名が付けられたものです。いわば、鯖街道とは、その代表名に他なりません。古文献には見い出せないことから、その命名は新しく、恐らく戦後に、文人たちが書き始めたのではないかと、考えられています。

 しかし、鯖街道の実質的な起源は、極めて古く、はるか千二百数十年昔の奈良の都、平城宮の跡から発掘された木簡に、若狭から送られたタイの鮓を始め、既に十種に近い魚介(貝)の名が見えています。また、塩を送った多数の荷札が見出されており、鯖街道は、まさに塩の道でもありました。この荷札である木簡は、さかのぼって、現在橿原市の藤原宮の跡からも出土しています。さらに、ごく最近、奈良県明日香村の都の跡で、千三百年の以前に、若狭の三方から送られた、タイの木簡が発掘されました。ますます古い歴史が、よみがえってまいります。

 ところで、日本海と都を結ぶ鯖街道は、また政治の道、軍事の道、特に文化の道でもありました。近年、よく用いられる裏日本という言葉は、暗く、うら寂れた感じを伴い、日本海側地帯の特徴を表しているような錯覚さえも起こさせました。しかし、調べてみると、この裏日本という用語は、わずか百年ばかりの歴史しかありません。いうまでもなく、この日本海に面する一帯は、太古より、まさしく表日本であり、しかも若狭地方はその正面玄関でもありました。小浜の名勝を代表する「そとも」も「外面(そとも)」から取っており、漢字は時の国文学者に「蘇洞門」とつけていただいた経緯があります。きっと、大陸文化の渡来も、久しく行われたことでありましょう。また、鳥浜貝塚から、五千年以上も前に漂着したココヤシの実が、幾つも発見されていることや、室町時代に南蛮船が小浜へ象をもたらした史実など、遠く南方との交流をも思わせます。

 さて、鯖街道とは、決して単に、小浜と京都を結ぶ一本の道のみを意味しません。若狭湾岸の幾つかの地点から、多数の道が、京都へ、遠くは奈良へ飛鳥へ、さらには丹波の篠山などへと通じていました。日本海の幸を送る通称鯖街道は、大陸などの文化をも届け、また、都から幾多の文化を、この地方に招来しました。優れた仏教美術の存在を始め、今も若狭には、雅の言葉が残るといわれ、都人の教えを受けた詩歌や、多くの芸能の伝わることも、その証といえましょう。」


 なかなか、良い文章だ。そういえば、京都祇園「いづう」の鯖ずしは絶品だが、元はといえば、ここから来ていたのかと思うと親しみが湧く。では、行ってみようかと考えた。そこで、鯖街道起点と鯖街道資料館のすぐ裏手のホテルを予約した。


鯖街道起点


鯖街道資料館があったはずの元商店街


 夕方、まだ明るいので、実際の鯖街道資料館の見学は明朝にすることにし、事前に場所を確認しておくことにした。その「いずみ町商店街」に行くと、何だか様子がおかしい。道路の拡張工事が始まっていて、商店街のアーケードが壊されているし、更地になっていたり、セットバックした新しい建物もある。その中を進んでいくと、床のタイルに、「鯖街道起点」と書かれている。ああ、ここだ、間違いない。ところが、鯖街道資料館のあった辺りは見る影もない更地になっていて、影も形もない。「何だこれは、あの小浜市のHPは何だったのか、せめて『しばらく休館です』ぐらいの表示があってしかるべきではないか。」と思った次第である。


5.福井県年縞博物館

 そういうことで、翌日はさっさと小浜を離れて、福井県年縞博物館のある三方(みかた)に向かった。三方五湖のうちの三方湖の畔にあるこの博物館を見学したところ、いやもう、感激してしまった。「年縞」というのは、あまり聞き慣れない言葉なので、まずは博物館のHPを見てみたい。「年代測定の世界標準のものさし『年縞(ねんこう)』を展示する『福井県年縞博物館』が2018年9月15日(土)にオープン・・・名勝『三方五湖』の一つ『水月湖」の湖底には、世界でも唯一7万年分もの縞模様の地層『年縞』が堆積しています。博物館では、45mの実物展示のほか、体験しながら学ぶことができるコーナーも充実しています。カフェも併設しており、湖を眺めながらゆったりとした時間を過ごすことができます。」ということだが、これだけではまだ何のことやら全くわからない。

 日本のように四季が移り変わるところでは、春は花粉、秋は落葉などが舞い、それが人里離れた湖底にひっそりと降り積もる。それは湖底の地層の中に順次規則的に積もっていって、その断面を見ると縞のようになっており、それが一年分を表している。それをずーっと根気よく数えていけば、個々の縞が今から何年前のものかがわかる。その中に含まれている葉っぱの放射性年代測定を行えばその年代が特定できて、例えば古代の遺跡から出土した人骨など有機物の放射性年代測定結果と付き合わせると、その人骨の年代が年単位で極めて正確に決定できるという意味で、重要な物差しとなる。


福井県年縞博物館


福井県年縞博物館


 水月湖(すいげつこ)では、このような年縞が過去7万年分、ボーリングの深さで45メートルを採取することができた。これは、ひとつの奇跡のような条件が重なった結果だという。第1に、水月湖の水深は34メートルと、かなり深くて、湖底をかき回す風や生物の影響を受けにくかったことである。水深が浅いと、湖面を吹く風がどうしても湖底に達して年縞を乱すし、酸素が湖底まで行き届いて魚などが生息し、これまた湖底を乱す。そういうことが起こりにくかったのである。第2に、東隣の三方湖が、いわば防波堤の役割を果たしてくれて、地殻変動の影響を免れたことである。水月湖もその一つである三方五湖周辺は、長年にわたり湖の東側が隆起する。その度に土砂が流入して年縞を乱すところを、三方湖が防いでくれた。

 1994年から年縞の枚数を数えて葉の化石の放射性物質(炭素14)を測定する研究を始め、98年にはアメリカの科学誌「サイエンス」に掲載されるが、「世界標準のものさし」としての採用は見送られた。理由は、年縞が連続していなくて正確さを欠いたからである。というのは、当時のボーリング技術では、2メートルの長さのサンプルしか採れず、それを繋ぎ合わせていっても、サンプル両端の部分では年縞が潰れてしまったからである。ライバルの他国関係者から指摘された。その問題を解決するため、ボーリングをする地点のすぐ近くで、採取する長さをずらせて二つ目のボーリングを行い、二つのサンプルを比べ合わせて欠けた部分を補うという手法をとった。すると、見事に連続する7万年分のサンプルを採ることができたという。


福井県年縞博物館


福井県年縞博物館


 これは、博物館2階の45メートルの展示となっている。この展示を作るに当たっては、水分を抜いてスライスする特殊な技術が必要で、ドイツの技術者に依頼したようである。さて、そういうことで、45メートルに及ぶ水月湖年縞のステンドグラスの実物を細かに見ていった。実物は黄色と黒色の縞が延々繋がっている。その中で、手書きで、姶良カルデラの噴火、ベスビオ火山の噴火、湖の土砂崩れなどと書いてある。特に、火山の噴火は世界的な出来事なので、これを他国の年縞と比較すれば、ますます正確な年代測定ができる。

福井県年縞博物館


福井県年縞博物館


 さて、その水月湖年縞の裏側にも色々と展示があるが、中でも素晴らしいと思ったものがある。それは、年代を示す手元のスケールを動かすと、その時の水月湖周辺の環境が画面に出てくるコーナーである。水月湖年縞の中の花粉を分析し、温暖化の時代や寒冷化の時代にはそれぞれ内容が異なることがわかった。その一方、日本各地の土壌を集めてその中の花粉を分析し、それと水月湖年縞の中の花粉と照らし合わせて、当時の森林環境を再現してこれらの画像となったそうだ。これらの研究者の皆さんの地道なご努力に、心から敬意を表したい。なお、HPに書いてある年表を次に引用させていただこう。

1962年 三方湖の近くで縄文時代の遺跡、鳥浜貝塚を発見
1991年 鳥浜貝塚の研究の一環として行った水月湖でのボーリング調査で「年縞」を発見
1993年 国際日本文化研究センター安田喜憲教授(当時)が本格的なボーリング調査を実施、水月湖の年縞が45m連続していることを発見
1994年 国際日本文化研究センター北川浩之助手(当時)が年縞の枚数を数え、葉の化石の放射性物質(炭素14)を測定する研究を開始
1998年 北川浩之助手(当時)の研究データが、アメリカの科学誌「サイエンス」に掲載されるが、「世界標準のものさし」としての採用は見送り
2006年 ニューカッスル大学(英国)の中川毅教授(当時)を中心とした国際チームが再度ボーリング調査を実施、「完全に連続」した年縞の採取に成功
2012年7月 パリで開催された「第21回国際放射性炭素会議」において、水月湖のデータを中心に作成された「IntCal(イントカル)」が年代の「世界標準のものさし」として採用
2012年9月 水月湖の新しいデータを報告した論文が、アメリカの科学誌「サイエンス」に掲載
2013年9月 水月湖のデータを中心に作成された「IntCal(イントカル)」が年代の「世界の標準ものさし」として運用開始


福井若狭縄文博物館


 福井県年縞博物館と同じ敷地に、福井若狭縄文博物館という建物があって、そこにも入ってみた。年縞と違って、特に目新しい展示はなかったが、この三方五湖からは、縄文時代の丸木舟や漆器が出土したそうだ。

 そういうことで、日本海側の二泊三日の旅が終わった。昨年東尋坊に行ったときには海は時化ていて船酔いしそうになったが、今回は天の橋立、舞鶴、蘇洞門と3回も船に乗ったものの、いずれも海はベタ凪で良かった。鯖街道資料館がいつの間にか消えていたという残念なことがあったものの、その後の年縞博物館の素晴らしさが帳消しにしてくれた。総じて、誠に実り多い旅だったといえる。







 天橋立・舞鶴・蘇洞門への旅(写 真)




(2019年5月26日記)


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蔵王・山寺・酒田への旅

御釜


1.蔵王の御釜

 山形県と宮城県にまたがる蔵王連峰は、冬は樹氷、夏は火口湖の御釜で有名なので、一度は行ってみたいと思っていた。5月になってたまたま山形県に行く用があったので、ではこの際だからと出掛けることにした。当初の予定では日曜日に行くつもりだった。ところが、その日は蔵王ロープウェイが設備点検で休止中、山交バスも蔵王トレイルランのイベントのために運休と聞いて、急遽前日の土曜日に変えた。

 当日の天候は晴れで、絶好の登山日和だった。山形駅前を出発したバスは、雪がまだ残る山道を順調に登り、午前11時過ぎには山頂の県営レストハウスに到着した。バスの乗客の半数弱は中国人である。観光すべきところを実によく、知っているのには感心する。バスを降りてみると風が強い。しかもそれが冷たい風なので、かなり冷える。気温はおそらく10度くらいだろうが、この風のために体感温度は低くなり、特に頬と手先がかじかんできた。その中を数分歩くと、御釜を展望する場所に着く。本当に近くて呆気ないくらいだ。蔵王ロープウェイに乗ると40分歩かないといけないので、そのつもりでトレッキングシューズを履いてきたというのに、これでは運動にならない。

 眼前に広がる御釜の色は、まさにエメラルドグリーンそのもの。思わず「これは綺麗だ!」と口にしたくなる。周囲の火口壁が赤茶けたり黄色っぽかったりする土色なので、御釜のグリーン色がますます引き立つ。それにしても、「御釜」などという即物的な名前を付けるのではなくて、もっ詩情あふれる名称にすれば良かったのにと残念至極に思う。別名は「五色沼」だそうだが、まだそちらの方が詩や歌の題材になるかもしれない。


御釜


御釜に向かって左回りにガレ場を歩く


 さて、同じところから写真を撮るのも芸がないので、御釜の周りを巡ることにした。柵があるので、それより出ないようにした。最初は向かって左回りにガレ場を歩いていった。遠くに見える高山特有の荒々しい風景に息をのむ思いだ。その中で、自家用車で上がってきたのか、家族連れが一列に並んで雪が積もる遠くの山を仲良く眺めている。その情景が、何かミスマッチのような気がして、可笑しかった。ところで、至る所に雪解け水が流れているし、足元は泥だらけになってくるしで、歩くのもなかなか大変だ。それでも数百メートルほど行ってみて、御釜を真下に見下ろす写真を撮ってきた。帰ろうとしたが、あまりにも足場が悪いものだから、途中で元きた道を引き返すのは止めて、垂直に階段を登っていって、レストハウスに戻った。

御釜の反対側の眺め


山頂2階のレストラン


 こんな山頂なのに、2階建ての建物の中にちゃんとしたレストランがある。そこに立ち寄ってメニューを見ると「蔵王御膳」なるものは、まるで旅館で出る食事のように豪華だ。こんなものを食べてしまうと、今晩の旅館の夕食が美味しくいただけない。ということで、シンプルなビーフカレーにした。外の山々が連なる景色を見ながら黙々と食べて、食堂の配膳のおじさんに「ご馳走さま」と声をかけて出てきたのが30分後である。

刈田岳山頂からの眺め


刈田岳山頂からの眺め


刈田嶺神社


 再び御釜が見えるところに行き、右手に向かい、午前中には行かなかった神社の建物を目指して上がっていった。そこを登り切ったところが刈田岳山頂で、刈田嶺神社がある。 刈田岳(かつただけ)は、1,758メートルの山だ。何だ、大したことのない山だと思われるかもしれないが、関東や中部地方に比べれば高緯度にあるので、実感としては、中部地方だったら、2,300メートル程度の山に相当するのではないかと思っている。山形は、桜やツツジが咲くのは東京より1ヶ月弱ほど遅いので、そんなところではないだろうか。

霧に包まれる御釜


 刈田岳山頂から見下ろす御釜は、よく観光絵葉書に出てくるあの構図である。ここからなら、確かに御釜の美しさを余すところなく撮ることができる。そこでしばらく写真を撮り、背後にある刈田嶺神社にお参りし、また振り返ると、白い霧が御釜を覆いつつある。そして、あれよあれよという間に、辺りを真っ白なミルク色にしてしまった。もう御釜は見えない。山の天気は変わりやすいとはいえ、これは極端だ。このままでは、山全体が霧に包まれてしまったりすると大事だ。ちょうどその頃に下山するバスに乗り込むことができた。

 ところでレストランにあった説明では、蔵王の由来について「修験の開祖である役行者の叔父・願行は、自身も徳の高い修験者であり、道場にふさわしい山を求めて旅していたが、この地にそびえる雄大な山々を目の当たりにするに及び、ついにこの地を道場とすることを決意さ、山頂に吉野金峯山蔵王堂の祭神である蔵王大権現を分祀した。そして、この山の麓に僧坊を構えて、修行三昧の日々を過した、やがて、多くの修験者が集う一大道場へと発展し、願行の死後、その僧坊の跡地に願行寺と号する大寺院が建立された。願行寺を中心に多くの寺院・僧坊が築かれ、『願行寺四十八坊』と称されるまでになった。願行寺の修験者たちが道場とした山は、願行が蔵王大権現を祀ったことから『蔵王山』と呼ばれるようになったと言われています。」(蔵王町歴史と文化財公式HPより)とあり、

 御釜については、「蔵王刈田岳・熊野岳・五色岳の3峰に抱かれた円形の火口湖で、釜状なので『御釜』という名前がついています。湖面はエメラルドグリーンの水をたたえ、荒々しい火口壁と対比して神秘的な雰囲気をもち、冬の樹氷とともに蔵王の象徴となっています。今までに26回の噴火を繰り返し、最近では明治28年2月15日に噴火しました。昭和14年測深した当時は、深さが63メートルありましたが、 五色岳断崖の崩落により年々埋まり、昭和43年測深時では、最大深度27.6メートル、平均深度17.8メートル、周囲1,080メートル、東西径325メートル、南北径335メートルでした。湖水は強酸性のため生物は生息できません。水温は表面から10数メートルの深度で摂氏2度まで下がり、それより深度を増すと温度が高くなる特殊双温層で、世界でも例がない湖です。太陽光線の当たり方でさまざまに色を変えるため『五色沼』とも呼ばれています。南西から流れ出て濁り川となり、賽の磧の北側を迂回して太平洋へ流れ出ています。」(蔵王町歴史と文化財公式HPより)とある。


2.山寺(立石寺)



山寺駅


山寺駅


 山形県に行ったついでに、宝珠山立石寺、通称、「山寺」に行けるかどうか調べたところ、山形駅から仙山線で3つ目の山寺駅に行けばよいことがわかった。20分もかからないので、行ってみることにした。午前10時過ぎに山寺駅に着いた。赤い欄干に金色擬宝珠のある橋を渡った正面には、唐破風屋根を備えた古い建物がある。旅館だそうだ。そこを右手に曲がってすぐに、「登山道」とある。ああ、これだ。これから千段もの階段を登らなければならない。

赤い欄干に金色擬宝珠のある橋


山寺駅前旅館


 立石寺(りっしゃくじ)のHPによると、「当山は宝珠山立石寺といい通称『山寺』と呼ばれています。天台宗に属し、創建は貞観二年(860年)。天台座主第3世慈覚大師円仁によって建立されました。当時、この地を訪れた慈覚大師は土地の主より砂金千両・麻布三千反をもって周囲十里四方を買い上げ寺領とし、堂塔三百余をもってこの地の布教に勤められました。開山の際には本山延暦寺より伝教大師が灯された不滅の法灯を分けられ、また開祖慈覚大師の霊位に捧げるために香を絶やさず、大師が当山に伝えた四年を一区切りとした不断の写経行を護る寺院となりました。」とある。「砂金千両・麻布三千反」という表現が、なんとも生々しいが、よくそれほどの資金があったものだ。それだけ寄進してくれる人々がいたのだろう。

山寺登り口


芭蕉と手水盤


山寺入口


 立石寺は、言うまでもなく松尾芭蕉が「閑さや岩にしみ入る蝉の声」という有名な句を詠んだ舞台である。麓の根本中堂の脇に芭蕉の句碑がある。そこから日枝神社の脇を通って山門(鎌倉時代作)からいよいよ階段が続く。登山開始だ。両脇には、日光のような大きな杉の木々が並び、暑い日光が遮られてなかなか涼しい。森林浴のような気分で快調に登っていく。立石寺のHPにあった模式図の通り、笠岩、姥堂、慈覚大師お手掛け岩と登っていくうち、いささか疲れてきた。すると、せみ塚というものがあって、うまいことに休める台がある。ここは、芭蕉の句をしたためた短冊が納めてあるという。リュックの中の水を飲む。周りには、白人や中国人などが日本人よりも多く、各国語が飛び交う。開祖の慈覚大師が1100年後にはこうなっていると知ったら、驚くだろう。

登り道


登る途中の不動明王


せみ塚


せみ塚


弥陀洞


 さて、登山を再開だ。しばらく登ると、右手に弥陀洞がある。かつては、ここでかなりの宗教行事が行われたようだ。更に進むと、大きな建物が見えてきた。これが仁王門だ。嘉永元年(1848年)に再建された美しい門で、左右の仁王尊像は運慶の弟子達の作らしい。その辺りから登るにつれて建物があり、性相院、金乗院の次に最上義光御霊屋というものまであった。義光は、山形地方の人々に今なお尊敬されている英雄だ。中性院、納骨堂、三重塔とあって、ようやく奥の院までたどり着いた。

仁王門


仁王門の仁王尊像


性相院


納経堂(最も古い建物)


 開山堂・納経堂まではすぐで、これらは「立石寺を開いた慈覚大師円仁を祀るお堂で、大師の木造の尊像が安置されて居り朝夕食飯と香を供えている。 向かって左の岩の上の赤い小さな堂は写経を納める納経堂で山内一古い建物である。」とのこと。その脇に小道があり、五大堂につながる。これは「開山30年後に建立された五大明王を祀る道場。断崖に突き出すようお堂が立ち山寺を一望。山中随一の絶景。」とされる。まさに絶景で、いま登ってきた疲れが一気に吹き飛ぶほどの爽快感が味わえる。今は新緑の季節なので、青葉がしたたるほどの美しさだが、秋の紅葉の時季も、さぞかし綺麗だろう。

五大堂


五大堂からの眺望(左手)


五大堂からの眺望(中央)


五大堂からの眺望(右手)


金灯籠


(奥の院)大仏殿


 その絶景を眺めることができたので、さっさと降ることにした。登りには1時間ほどかかったが、降りは写真を撮ることもなかったので30分ほどで出発地点の山寺駅まで帰り着いた。お昼前だったが、蕎麦屋に入り、山形名物の板そばと芋煮を注文した。そばはいま一つだったが、当地の名物の芋煮が美味しかった。


3.文翔館


文翔館


 山形市内に戻ってきて、帰りの新幹線まで時間があったので、文翔館に行った。県のHPによると、「『文翔館』(旧県庁舎及び県会議事堂)は、大正5年に建てられた英国近世復興様式のレンガ造りの建物です。大正初期の洋風建築を代表する貴重な遺構として、昭和59年、国の重要文化財に指定されました。昭和61年から10年の歳月をかけて保存修復工事が行われ、現在は、山形県郷土館『文翔館』として一般に無料公開されています。創建当時の工法をもとに忠実に復原された建物や豪華な内装は、大正の古き良き時代の薫りを今に伝え、館内には、復原の記録とともに山形の歴史・文化を紹介する展示室も設けられています。」とのこと。

文翔館


文翔館


文翔館


 私は家内と平成20年にここ文翔館へ来たことがある。その時、外観はイギリス・ルネサンス様式のモダンな形だし、知事室や客間はロココ風でものすごく豪華なのにびっくりしたものだが、なるほど、当時の明治政府の為政者はこういう新たな舞台装置で時代が変わったと県民を納得させて行政を進めていったのかと思ったものである。

文翔館


文翔館の展示・赤紙


文翔館の展示・慰問袋


文翔館の展示・満蒙開拓ポスター


文翔館の展示・三島通庸


 ところが、前回と比べて、山形の歴史・文化を紹介する展示室が一新されたようで、非常に見やすくなっていた。明治政府の政策、大正時代の繁栄、昭和初期の贅沢禁止、戦争中の赤紙や慰問袋の現物、終戦後の復興などの様子がよくわかる。東京などは戦争末期に一面の焼け野原になってしまって何も残っていないが、戦争による物的被害が最小限に抑えられた山形だから、残っているのだろう。

山形駅脇のホテルからの眺め


山形駅脇のホテルからの眺め


山形駅脇のホテルからの眺め





4.酒 田

(1)酒田とは

 あまり時間がなかったが、酒田にも少し立ち寄ったので、その印象を記しておきたい。まず、酒田の位置を語る前に、山形県の地理を見てみよう。山形県が長四角だとすると、縦に二分し、右側がその北から南へと最上地方(新庄市、最上郡)、村山地方(山形市、村山市、天童市、寒河江市等)、置賜(おきたま)地方(米沢市、南陽市等)である。これに対し、左側は少し小さくて北に偏っているが、全体が庄内地方で、日本海に面している。その南の中心が鶴岡藩の根拠地だった鶴岡市で、北にある港町がかつての豪商の町酒田である

 酒田は最上川の河口に位置し、16世紀に源頼朝によって滅ぼされた奥州藤原氏の家臣36人が藤原氏の姫君を奉じてこの地に移り住んだのが始まりとされる。中世から貿易の中継地だったが、江戸時代には北前船で栄え、西の堺に対して東は酒田と称されるほどだったといわれる。廻船問屋の鐙屋(あぶみや)をはじめ、貿易で稼いだ資金で土地を買い集めて日本一の地主となった本間家など、数々の豪商をうみ、堺のように町は三十六人衆という自治組織によって運営されていた。ちなみに、鐙屋と本間家は、現存している。「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と言われたそうだから、お殿様よりも上とは、もう笑うほかない。


(2)相馬樓



相馬樓


相馬樓


相馬樓


 相馬樓は、そのHPによると、「江戸時代より料亭『相馬屋』として賑わっていました。現在残る木造の主屋は、明治27年の庄内大震災の大火で焼失した直後、残った土蔵を取り囲んで建てられたもので、平成8年11月、国の登録文化財建造物に指定されました。伝統に新しい息吹を加えて修復した相馬樓は、1階の20畳部屋を『茶房くつろぎ処』とし、2階の大広間は舞娘さんの踊りとお食事を楽しむ演舞場に、かつての厨房は相馬樓酒田舞娘のけいこ場となっています。2008年には館内に『竹久夢二美術館』を設置しました。酒田にゆかりのある夢二が相馬屋を訪れた際に贈ったという『からふねや』をはじめ肉筆画10点を中心に版画や写真、カメラや年譜など夢二の品を展示しています。また樓内の土蔵には雛人形や樓主・新田嘉一所有の書画や古美術等を展示しています。」という。

相馬樓


相馬樓


相馬樓


 確かに、これは豪華な料亭である。玄関に入ると、金箔の松竹梅と扇が迎えてくれる。くつろぎ処という部屋では、中庭を眺められるようになっている。そこに大きな一木のテーブルがあり、座布団が扇形をしているから可愛い。壁は緋色だ。この壁の風景、とこかで見たことがあると思ったら、金沢のひがし茶屋街だ。すると、この改装を手掛けたのが泉椿魚氏で、金沢の懐華樓も手掛けたことがあるというので、納得した。その前は、普通の色の壁だったらしい。

 2階に上がっていくと、商人どうしの密談にも使われたのではないかと思える小部屋もあったりして、ますます面白い。また、泉椿魚さんの詩が描かれている襖があって、それが誠に魅力的なのである。曰く、


相馬樓


相馬樓


 あなたは雨ですか 風ですか それとも雪ですか

 雨ならば雨の如く 風ならば風の如く 雪ならば雪の如く

 人生 素直に 朗らかに 自然のままに 生きられれば

 それが一番 倖せなのかも しれませんね

           戯遊詩画人  椿魚




相馬樓


相馬樓


 2階の大広間は、敷いてある畳が赤っぽいと思ったら、最上地方の特産の紅花で染め上げているという。そこで、5人いる酒田舞妓さんが地元の踊りを踊ってくれるそうだ。その他、蔵座敷、竹久夢二美術館があった。なお、NHKの大河ドラマ「おしん」の舞台として、鐙屋、山居倉庫とともに、この相馬樓もロケに使われたとのこと。

 私は法律を専門としているので、昔、酒田で相馬屋事件という椿事があったと聞いたことがある。その舞台が、まさにこの相馬樓2階の大広間だったので、思い出しておかしかった。ちなみにこの事件は、県会議員大泉長治郎と骨董屋丸山卯吉が幹事となり、酒田の豪商10数名が新年会を宮廷風にやろうとして、京都から衣装や小物を取り寄せ、明治26年1月28日に秘密裏に開いたことがきっかけだった。天皇役には大泉長治郎、皇后役には相馬樓の娘という役どころだったのだが、どこから漏れたのか新聞にすっば抜かれた。すると、不敬罪で全員が警察に逮捕拘留されてしまった。酒田の名士が全て捕まったために町をあげての大騒ぎとなった。そこで、東京から凄腕の弁護士を招き、「あれはひな祭りの余興だった」ということにして、無事に釈放にこぎ着けたというものである。


相馬樓


 かくして、それほど有名な相馬屋ではあったが、時代の流れもあって、平成7年に廃業してしまった。そこに救いの手を差し伸べたのが地元の有力企業である平田牧場の新田社長で、平成12年3月に現在の形で再開したという。おかげで、我々も重要文化財を拝見できるというわけだ。ちなみに、お昼頃に来ると、仕出しのお弁当をいただきながら酒田舞妓さんの踊りが観られるそうだ。


(3)日和山公園と鳥海山

 酒田在住の友人に酒田市内を車で案内してもらった。まず、高台の日和山公園から、六角灯台越しには酒田港や最上川河口を一望できた。奥の細道をたどる松尾芭蕉が元禄2年にこの地を訪れたそうで、その銅像が建てられている。「五月雨を集めて早し最上川」と詠んだ最上川はこれかと納得した。なるほど、川幅が実に広い。これならば、梅雨時には濁流が勢いよく流れるに違いない。


六角灯台


松尾芭蕉の銅像


 ちなみに、山形県の中央にあって出羽山脈の南部に位置する月山(がっさん)は、標高1,974メートルの山である。飛行機の上から見たら、もう5月中旬だというのにたくさんの積雪があり、まだスキーを楽しめるそうだ。庄内平野の南部では、この山がいわばシンボルだと聞いている。それに対して、庄内平野の北に位置する酒田では、むしろ秋田との県境にある鳥海山(ちょうかいさん)の方に、親しみを感じている人が多いという。こちらは、標高2,236メートルである。酒田市内を走っていると、確かに、町の至るところから鳥海山を眺めることができる。


(4)山居倉庫



山居倉庫


山居倉庫


 川岸の山居(さんきょ)倉庫に行った。いただいたパンフレットによると、「明治26年(1893年)に建造された米の保管倉庫で、現在も農業倉庫として活躍しています。土蔵作りの12棟からなる倉庫の屋根は断熱を考慮した二重構造で内部の土間にはにがりを練り固めるなどした湿気防止構造になっています。背後を囲むケヤキ並木は日よけ・風よけの役目を果たし、自然を利用した低温管理が行われているなどの工夫を随所に見ることができます。」となっていて、現存する12の棟のうち、1号棟は庄内米歴史資料館、12・13号棟は観光物産館になっているほかは、現役の倉庫として活用されているそうだ。周りを歩いたが、もう150歳を超えるケヤキ並木が、十分に歴史を感じさせる。


(5)南州神社

 友人が南州神社というところに連れて行ってくれた。南州といえば鹿児島の西郷隆盛なのに、なぜ酒田にあるのだろうという疑問が当然浮かぶ。これについては、酒田市のHPによると「南洲神社は、南洲翁(西郷隆盛)を祀る神社です。鹿児島市、沖永良部島和泊町、宮崎県都城市、そして山形県酒田市です。九州以外では、酒田市にしかありません。なぜ遠く離れた酒田市へ南洲神社があるのか・・・。そこには、南洲翁と庄内藩の交わり、そして先達たちの『後世に南洲翁の遺徳を伝えよう』という思いがありました。」・・・いや、まださっぱりわからない。続いて書いてあるのが


南州神社


南州神社


 「明治元年の戊辰戦争で、庄内藩は幕府側として官軍に激しく抵抗した末、帰順降伏しました。厳しい処分を覚悟してた庄内藩でしたが、南洲翁の指示により、公明正大で極めて寛大な降伏条件の言い渡しを受けたのでした。この公明正大な処分に感銘を受けたことから、明治3年から8年にかけ、庄内藩は藩主酒井忠篤公を先頭に鹿児島を訪れ、南洲翁の学びを得ました。また、明治8年には旧庄内藩の中老、臥牛翁(菅実秀)が、鹿児島の武屋敷を訪れ、南洲翁とお互いに親睦を深め、『徳の交わり』を誓い合っています。」ということだが、要は、庄内の人々は、極めて義理に篤いということなのだろう。


(6)土門拳記念館

 また、写真家の土門拳もこの酒田の出身らしくて、土門拳記念館というものがあった。酒田市名誉市民の第1号で、その全作品7万点を寄贈したそうだ。池のほとりにその記念館が建っている。なかなかの良い佇まいの建物であるが、残念ながら閉館が早くて、見学はできなかった。


土門拳記念館









 蔵王・山寺・酒田への旅( 写 真 )




(令和元年5月19日著)


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バツー洞窟

ムルガン神像


 ヒンズー教とはどういう宗教かと、その雰囲気を味わうには、本場のインド以外では、クアラルンプールのバツー洞窟(バツー・ケーブ)に行くとよい。市内中心にある交通の要衝のKLセントラル駅から、北に向かうKTMコミューターという電車で乗り換えなしで30分で行くことができる。私は、約30年前にこの地に住んでいたとき、ここに何回も来たことがあるけれども、その時は車で行くしかなかった。ところが今は、それに比べたらはるかに便利になったものだ。バツー・ケイブ駅で降りて構内を出るとすぐ左手に、薄緑色のハヌマン神像(力と勇気の神)が迎えてくれる。その脇にはラーマーヤナ洞窟があるが、時間が惜しいし、昔とさほど変わりがない思うので、通りすぎてバツー洞窟の入り口に向かった。

ハヌマン神像(力と勇気の神)


ムルガン神像の上部


 入り口でまず目立つのは、右手前に聳えている威風堂々の黄金色の神像である。タミル系ヒンズー教のムルガン神像で、高さは43mというが、余りにも背が高いので、びっくりするほどだ。これは何かと現地のインド人に聞いたところ、シヴァ神の息子ムルガンだという。昔々のそのまた昔、悪魔と正義の戦いがあり、正義軍が敗北の寸前まで追い詰められた。その時、天界のシヴァ神が送ったのが戦士スカンダで、何を隠そう、自らの息子ムルガンだった。その活躍で、正義軍がついに勝利を収めた。その時に負けた悪魔は、シヴァ神によって孔雀にその姿を変えられた。だから、孔雀も神聖な存在だ・・・ということを熱弁していた。

孔雀も神聖な存在


 ところで、年に一度のタイプーサムというヒンズー教のお祭りがある。何回か見たことがあるが、夜にその行列に出会うと、ピカピカに光り輝いているお神輿を中心に大勢のインド人がカネや太鼓で賑やかに練り歩いていて、驚いてしまう。もっとびっくりするのは、それを担ぐ信者たちが、鋭い串(カバディ)やフックを顔や身体に刺したり引っ掛けたりしていることである。これは、そういう障害を克服して、正義の存在であるムルガンに捧げるのだそうだ。その祈りの対象を具現化したものが、このバツー洞窟にあるムルガン神像なのである。鉄の串を舌や皮膚に刺して痛くないのかと思うが、現地のインド人は真顔で、「神様のご利益があらたかなので、そんなもの翌日にはもう傷痕は消える。」と言っていたのを思い出す。科学的に言えば、鍼のようなものかとは思うが、いやしかしカバディの刺し跡からは確か血が出ていたはずだ。まあ、宗教上の「荒行」の一種なのだろう。日本でも山伏が裸足で火渡りの行を行うし、イスラムのシーア派の男達はアーシューラーの行事で自らの体を鎖で打って血を流すから、同じようなものかもしれない。 。

バツー洞窟名物のカラフルな272段の階段


 そういうことを考えつつもう一度ムルガン神像を見上げると、黄金色に輝いていることもあり、あまりにも神々しくて、その脇にあるバツー洞窟名物の272段の階段が霞んで見えるくらいだ。ところでその階段だが、やけにカラフルになっている。昔ここに来たときは、この神像も色付き階段もなく、両脇に石灰岩が剥き出しのさっぱりした古びた階段だったが、変われば変わるものだ。それにしても、こんなイスラム国家で、これほどまでに目立つ偶像を作って問題にされないのだろうかと思う。ただ、現地の人に宗教上の微妙なニュアンスに関わることを下手に質問すると、どんなリアクションを受けるかわからないので、危うきに近寄らずという主義で聞かないことにしている。だからその答えはよくわからないが、要は、宗教的に寛容になりつつあるのかなと思う。

野猿


野猿


 さて、いよいよバツー・ケーブ名物の272段の階段を上がっていく。手すりが両端と真ん中に2つあるので、階段が3つに分かれている。三分の一ほど上がって市内の方を振り向くと、少し白っぽくぼやけて見える。もしかしてHazeによる大気汚染の影響かもしれない。それにしても、左手にあるムルガン神像の後ろ姿が目立つ。更に登って行くと、野猿が手すりの上を自由自在に走り回り、時には観光客が手にぶら下げているプラスチック袋やペットボトルを引ったくろうとする傍若無人ぶりだ。その一方では小さな子猿がいたかと思うと、そのお母さん猿もいて、見ていて飽きない。おっと、まだ半分くらいだ。この暑い中をもっと登らなければならない。更に階段を上って三分の二のところに来た。ムルガン神像の顔くらいの高さだ。もうちょっと頑張ってやっと272段を登りきった。そこで目の前に見たのは、大きな洞窟でできた広場である。

バツー洞窟の272段の階段を登り切ったところにある大きな洞窟でできた広場


踊るシヴァ神の像


 広場の高さは数十mはあるだろう。周囲に太い鍾乳石の氷柱状のようなものがあったので、こんな太いものができるまでに何億年もかかったのは、間違いないだろう。そこを更に進むと、右手には、踊るシヴァ神の像がある。左手には神聖なものとされる孔雀が羽を広げた像で区切られた一角があり、ここは神聖な場所とのこと。入ろうと思えば入れるが、靴を脱がなければならない。この国のことだから、いったん靴を脱いでしまうと、戻ってきたときにその場からなくなったりしていると一大事だ。笑い話のようだが、あり得る。そういう訳で、入る気がしなかった。日本と違って、外国ではあらゆる事態に備える必要がある。

バツー洞窟の広場の奥にある最後の神聖な場所


 突き当たりに、更に数十段の階段があって、また階段かと思いながら上って行くと、そこがやっと最後の神聖な場所である。鍾乳洞の天井が空に向けて開いていて、日の光が差し込んでいる。昔は、この光が斜めに差し込んでいたりして、非常に神々しく思えたものだが、今はあちこちに照明があるので明るく、残念ながら以前のような神秘さが消えてしまった。その代わり、洞窟のあちこちに極彩色の神像が置かれている。インド人の男性、サリーを着た女性というのは、まあ馴染みがあるので、普通に見られる。ところが、ヒンズー教の象の姿をしたガネーシャ神だけは、何回見ても、見慣れない。そのお話も、これまた独特だ。

ガネーシャ神


 このガネーシャ神は、商業と学問の神様である。象の頭をしている所以だが、私が以前、インド人から聞いたところによると、次のようなものである。偉大なシヴァ神の妻パールヴァティーは、子供ガネーシャを生み出した。ガネーシャが父親シヴァ神が帰って来たときに、父親とは知らずに入室を拒んだことから、怒ったシヴァ神はその頭を切り落として遠くへ投げ捨てた。ところが、我が子と知ったシヴァ神は、ガネーシャの頭を探したが見つからなかったので、代わりに象の頭を切り落としてガネーシャの胴体に付けたことから、今のようなお姿になったという。何ともインドらしいお話だが、例によってコメントはしないでおこう。そうした大変な出来事をくぐり抜けて来た神様だから、あらゆる障害を克服する霊験あらたかな神として信仰されるようになったそうだ。

馴染みがないヒンズー教の神


 いずれにせよ、我々日本人にとって、ヒンズー教はあまり馴染みがない。仏教を生み出した国なのに、仏教は廃れて、ヒンズー教一色になってしまった。そのヒンズー教も、今の形になるまでは、各地の土着の宗教を取り込んできたという。特にタミル系インド人の人達は、こういう神を信じているのかということを思うだけでも、国際理解に少しは役立つかもしれないと思うのである。話は変わるが、インド人といえばターバン姿を思う日本人が多いけれども、あれはシーク教徒の人達で、その割合はインド人全体の僅か2%にも満たない。その話は、別のエッセイで書いたので、ここでは割愛しよう。

 さて、見学が終わり、無事に272段を降りてきた。もと来た道を辿って、バツー・ケーブ駅に着いた。午前11時18分のことである。「さて、クアラルンプール方面に戻るか。次の電車は何時だろう。」と思って、表示を見て、我が目を疑った。それには、「12時15分」とあったからである。こんな猛暑のプラットホームで、1時間も待たなければならない。これは大変だと思っていたら、しばらくして電車が入って来たので、とにかく乗り込んだ。あんな暑いプラットホームにいるのは、もうたくさんだ。乗り込んでみると、エアコンが効いている。これは助かった。階段を登ったり降りたリしたので、大汗をかいている。それがちょうど良いくらいに引いた頃に、電車が発車してくれた。







 バツー洞窟(写 真)




(2019年5月 5日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:17 | - | - | - |
退位と即位後朝見の儀

首相官邸広報写真より



1.退位礼正殿の儀

首相官邸広報ビデオより


 天皇陛下(現上皇陛下)御在位30年記念式典が、平成31年2月24日に挙行された。それに続き、いよいよ同年4月30日、天皇陛下が退位されて上皇陛下となられ、翌令和元年5月1日新天皇陛下が即位されて、時代は平成から令和へと大きく移り変わった。この退位は、皇室典範特例法に基づいて行われたもので、その理由として、「象徴としての公的な御活動に精励してこられた中、御高齢になられ、今後これらの御活動を天皇として自ら続けられることが困難となることを深く案じておられること、これに対し、国民は、御高齢に至るまでこれらの御活動に精励されている天皇陛下を深く敬愛し、この天皇陛下のお気持ちを理解し、これに共感していること」などが規定されている(同法第1条)。

首相官邸広報ビデオより


首相官邸広報ビデオより


 確かに、天皇皇后両陛下(現上皇上皇后陛下)は、外国賓客などの接遇その他の多忙な日常の公務に忙殺されつつも、大規模な自然災害が続いた平成年間でそうした災害が起こる度に現地入りして被災者に寄り添って励まされたりするなど、80歳を超えるご高齢の御身を削るようにして公務に精励されるお姿をテレビなどで拝見する機会が多かった。そうした場面を見るたびに、国民の一人として有り難いことだと思いつつも、前立腺がんや心臓病をお持ちなのでお身体は大丈夫なのだろうかと心配になっていたのであるから、そういう意味では、胸をなで下ろしたというのが正直な気持ちである。

首相官邸広報ビデオより


 この退位は、同年4月30日午後5時からの「退位礼正殿の儀」によって行われた。両陛下が宮殿内で最も格式の高い「松の間」に入られ、我々参列者の前にすっくと立たれた。すると侍従が皇位の御印である剣や爾などの三種の神器を捧げ持って両陛下の前の白木の台(案)に載せた。それを待って、国民の代表として安倍晋三首相が次の挨拶を行った。

首相官邸広報ビデオより


「 謹んで申し上げます。
 天皇陛下におかれましては、皇室典範特例法の定めるところにより、本日をもちまして御退位されます。
 平成の30年、『内平らかに外成る』との思いの下、私たちは天皇陛下と共に歩みを進めてまいりました。この間、天皇陛下は、国の安寧と国民の幸せを願われ、一つ一つの御公務を、心を込めてお務めになり、日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たしてこられました。
 我が国は、平和と繁栄を享受する一方で、相次ぐ大きな自然災害など、幾多の困難にも直面しました。そのような時、天皇陛下は、皇后陛下と御一緒に、国民に寄り添い、被災者の身近で励まされ、国民に明日への勇気と希望を与えてくださいました。
 本日ここに御退位の日を迎え、これまでの年月を顧み、いかなる時も国民と苦楽を共にされた天皇陛下の御心に思いを致し、深い敬愛と感謝の念をいま一度新たにする次第であります。
 私たちは、これまでの天皇陛下の歩みを胸に刻みながら、平和で、希望に満ちあふれ、誇りある日本の輝かしい未来を創り上げていくため、更に最善の努力を尽くしてまいります。
 天皇皇后両陛下には、末永くお健やかであらせられますことを願ってやみません。
 ここに、天皇皇后両陛下に心からの感謝を申し上げ、皇室の一層の御繁栄をお祈り申し上げます。」


首相官邸広報ビデオより


 その後、天皇陛下が、次のお言葉を述べられた。

「 今日をもち、天皇としての務めを終えることになりました。
 ただ今、国民を代表して、安倍内閣総理大臣の述べられた言葉に、深く謝意を表します。
 即位から30年、これまでの天皇としての務めを、国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たことは、幸せなことでした。象徴としての私を受け入れ、支えてくれた国民に、心から感謝します。
 明日から始まる新しい令和の時代が、平和で実り多くあることを、皇后と共に心から願い、ここに我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります。」


首相官邸広報ビデオより


 簡潔なお言葉ではあったが、これを聞いた参列者の中には、男女を問わず眼に涙を浮かべている人もいて、実に感動的な瞬間であった。いかに平成天皇陛下が国民に慕われていたかを示すエピソードである。

首相官邸広報ビデオより


 そのお言葉が終わり、天皇陛下は皇后陛下とともに静かに退出され、三種の神器を捧げ持つ侍従が続いた。それから皇太子殿下及び同妃殿下(当時)などが続いて退出され、儀式は滞りなく10分ほどで終わった。


2.剣璽等承継の儀


剣璽等承継の儀。首相官邸広報ビデオより


 「剣璽等承継の儀」は、令和元年5月1日午前10時半から宮殿「松の間」で行われ、国民代表として安倍晋三首相ら三権の長や閣僚など26人が燕尾服姿で参列した。この儀式は伝統的に成年男性皇族だけで行われるということで、天皇陛下のほか、秋篠宮殿下及び常陸宮殿下も両脇に参列された。

剣璽等承継の儀。首相官邸広報ビデオより


剣璽等承継の儀。首相官邸広報ビデオより


剣璽等承継の儀。首相官邸広報ビデオより


 天皇陛下が松の間に入ってこられて壇上にお上がりになり、正面の玉座を背にして参列者と向き合ってお立ちになる。陛下は、天皇が装着する最高の勲章「大勲位菊花章頸飾」を身につけておられ、実にご立派であられる。見とれていると、松の間の扉がまた開いて、三種の神器のうちの剣及び璽、国事行為で使われる御璽及び国璽をそれぞれ捧げ持った4人の侍従が一列になってしずしずと入ってきて、それらを陛下の前の案に置いた。それから、一瞬時間が止まったような感覚がしたかと思うと、暫くして陛下が壇上からゆっくりとお下りになり、剣や璽などを捧げ持った侍従らをあたかも引き連れるようにして松の間を退出され、他の皇族方もこれに続いた。この間、誰も一言も発しなかった。これで、天皇という地位の象徴である三種の神器が無事に受け継がれたようだ。かくしてこの儀式はおよそ7分ほどで終わった。

剣璽等承継の儀。首相官邸広報ビデオより


剣璽等承継の儀。首相官邸広報ビデオより


剣璽等承継の儀。首相官邸広報ビデオより



3.即位後朝見の儀

即位後朝見の儀。首相官邸広報ビデオより


即位後朝見の儀。首相官邸広報ビデオより


 「即位後朝見の儀」は、剣璽等承継の儀に引き続き、やはり宮殿「松の間」において、午前11時10分過ぎ頃から行われた。今回の参列者は原則夫婦同伴で、三権の長、閣僚、地方自治体の代表など292人が参列した。最前列は、さきほどの剣璽等承継の儀に引き続いての出席者だから燕尾服姿で、その他の参列者は原則として男性はモーニングコート、女性の多くは和服の白襟紋付姿である。また、皇后陛下をはじめとする女性皇族は、ティアラを頭に載せられた白いローブ・デコルテ(ロングドレス)姿だったから、非常に華やかな儀式となった

即位後朝見の儀。首相官邸広報ビデオより


 天皇皇后両陛下が秋篠宮殿下ご夫妻ら成年の皇族方とともに松の間に入ってこられた。そして、天皇陛下から次のお言葉があった。

「 日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより,ここに皇位を継承しました。
 この身に負った重責を思うと粛然たる思いがします。
 顧みれば,上皇陛下には御即位より,30年以上の長きにわたり,世界の平和と国民の幸せを願われ,いかなる時も国民と苦楽を共にされながら,その強い御心を御自身のお姿でお示しになりつつ,一つ一つのお務めに真摯に取り組んでこられました。上皇陛下がお示しになった象徴としてのお姿に心からの敬意と感謝を申し上げます。
 ここに,皇位を継承するに当たり,上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いを致し,また,歴代の天皇のなさりようを心にとどめ,自己の研鑽に励むとともに,常に国民を思い,国民に寄り添いながら,憲法にのっとり,日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い,国民の幸せと国の一層の発展,そして世界の平和を切に希望します。」


即位後朝見の儀。首相官邸広報ビデオより


 重責を負われる責任感と緊張感が、ひしひしと伝わってくるようなお言葉である。日本国民統合の象徴として、誠にご立派な天皇陛下を戴いたものだと感激する一方で、どうかお身体を大切にされたいと、心から願うものである。そういうことを考えているうちに、国民代表としての安倍首相が祝いの辞を述べた。

「 謹んで申し上げます。
 天皇陛下におかれましては、本日、皇位を継承されました。国民を挙げて心からお慶び申し上げます。  ここに、英邁なる天皇陛下から、上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いを致し、日本国憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たされるとともに、国民の幸せと国の一層の発展、世界の平和を切に希望するとのおことばを賜りました。
 私たちは、天皇陛下を国及び国民統合の象徴と仰ぎ、激動する国際情勢の中で、平和で、希望に満ちあふれ、誇りある日本の輝かしい未来、人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ時代を、創り上げていく決意であります。
 ここに、令和の御代の平安と、皇室の弥栄をお祈り申し上げます。」


即位後朝見の儀。首相官邸広報ビデオより


 中身が凝縮されていたので長い時間が過ぎたようにも感じたが、計ってみると、この儀式もおよそ7分ほどで終わったそうだ。いずれにせよ、国民の一人として、これらの歴史的瞬間を目の当たりにして、これに勝る名誉はないと感激しているところである。


4.今後の儀式の予定

 今後の即位の関連儀式として様々なものが予定されているが、中でも本年10月22日の「即位礼正殿の儀」が最大の儀式である。これは、平安時代そのものの宮中の伝統装束を身にまとった天皇皇后両陛下が、それぞれ、京都御所から運ばれてきた「高御座(たかみくら)」と「御帳台(みちょうだい)」に登壇され、天皇陛下が即位を宣言する儀式である。国内外から約2500人が招待されるが、特に国外からは各国の元首級や王族らの来訪が予定されている。即位を祝う「饗宴の儀」は、この日から4回に分けて開かれ、合計2600人が招かれることになっているという。





(参 考)天皇の退位等に関する皇室典範特例法

(趣旨)
第一条
 この法律は、天皇陛下が、昭和64年1月7日の御即位以来28年を超える長期にわたり、国事行為のほか、全国各地への御訪問、被災地のお見舞いをはじめとする象徴としての公的な御活動に精励してこられた中、83歳と御高齢になられ、今後これらの御活動を天皇として自ら続けられることが困難となることを深く案じておられること、これに対し、国民は、御高齢に至るまでこれらの御活動に精励されている天皇陛下を深く敬愛し、この天皇陛下のお気持ちを理解し、これに共感していること、さらに、皇嗣である皇太子殿下は、57歳となられ、これまで国事行為の臨時代行等の御公務に長期にわたり精勤されておられることという現下の状況に鑑み、皇室典範(昭和22年法律第三号)第四条の規定の特例として、天皇陛下の退位及び皇嗣の即位を実現するとともに、天皇陛下の退位後の地位その他の退位に伴い必要となる事項を定めるものとする。

(天皇の退位及び皇嗣の即位)
第二条
 天皇は、この法律の施行の日限り、退位し、皇嗣が、直ちに即位する。

(上皇)
第三条
 前条の規定により退位した天皇は、上皇とする。 2 上皇の敬称は、陛下とする。 3 上皇の身分に関する事項の登録、喪儀及ひ゛陵墓については、天皇の例による。 4 上皇に関しては、前二項に規定する事項を除き、皇室典範(第二条、第二十八条第二項及ひ゛第三項並ひに第三十条第二項を除く。)に定める事項については、皇族の例による。

 (上皇后)
第四条
 上皇の后は、上皇后とする。 2 上皇后に関しては、皇室典範に定める事項については、皇太后の例による。

 (皇位継承後の皇嗣)
第五条
 第二条の規定による皇位の継承に伴い皇嗣となった皇族に関しては、皇室典範に定める事項については、皇太子の例による。

 (附則以下略)





(備 考) このエッセイ中の写真は、首相官邸の広報ビデオから複写したものである。




(2019年5月1日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:55 | - | - | - |
三世代で箱根旅行

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1.孫娘はピカピカの一年生

 息子一家と箱根に二泊三日の小旅行に行った。久しぶりに孫娘ちゃんと直系くんに会い、丸二日にわたって一緒に過ごした。二人の成長ぶりには、目を見張るものがあった。

 孫娘ちゃんは、この春に小学校に入学して、ピカピカの一年生となった。バレーと英会話を習い、よく笑う活発な子に育っている。小学校へは5分の道のりである。お母さんが一緒に登校しようとすると、「自分で行きます。」 と、既に自立の気概を見せているとのこと。お母さんは心配でたまらないが、しばらく見守っているしかないようだ。

 また、習っているバレーの発表会が今年も都内で開かれるので、それに向けて一生懸命に練習しているそうだ。2年前に同じバレー・スクールの発表会があったときには、我々夫婦も見に行って、孫娘ちゃんの成長ぶりに目を細めたものだが、また今年も楽しみにしたい。

 先日、パパが送ってくれた写真の中に、孫娘ちゃんが居間の椅子に掴まってバレーの開脚をしているものがあった。それが斜め45度の角度で見事に一直線になっていたので、びっくりした。


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2.直系くん語録


 直系くんは、もうすぐ3歳になる。ずーっと話すことができなかったが、つい最近になってようやく喋り始めたばかりだという。しかし、それにしては、これがまた、実に面白いお喋りをするのには感心した。

 これくらいの幼児は、話す前にまず手が出たり、体を動かしてその要求を満たそうとするものだと思っていた。だから、その意図を掴みかねて、親が困るという構図が普通だと考えていたのだけれど、どうもこの子は違うようだ。

 まず、何をするにも、また何か思うところがあるときは、必ずそれを喋ってくれるから、とても理解しやすい。私はこれを「直系語録」と名付けて、以下に採取しておいたので、まずはお読みいただきたい。

 (箱根ロープウェイが最高点に達した後、芦ノ湖に向かって降りていくとき)「ああ、おちちゃう」と心配そうな声を出す。

 (小さなおもちゃを買ってもらって)「ペンギンのペンちゃんだをー 。おふろに、うかべるー。」(舌足らずなため、まだ「よー」と言えずに「をー」となる。)

(芦ノ湖に棒切れを投げたものの、それが波で岸に打ち寄せられてくると)「ああ、もどってくるー。」

 (親が声をかけて「行くよー 」というと)「やだー。やだをー。」

 (芦ノ湖畔の芝生広場を通りかかった。そこは、今から9ヶ月前の去年8月に虫の展示があったところである。するといきなり)「カブトムシやりたいー。」(そんな前のことをよく覚えているものだ)

 (姉を倒して押さえつけて)「ねーちゃん、だーじょーぶ?」(だったら、最初から乱暴するな)

(食卓で騒ぎ立てるおそれが出てきたので、親が抱き上げたら)「だめー。はなちぇー。」(と、反りくり返る)つい、こう言いたくなる。「ウチの孫 「はなちぇー」と イナバウアー」

 (お土産に買ったプラスティックのおもちゃの一つ一つをつまんで)「たぶん、ヒトデだをー。こっちは、ダイアモンドだー。お、カメがでてきたをー。」(「たぶん」などという言葉を子供が使うか?)

 (お姉さんのプラスチックのおもちゃと比べて)「お、カメがおなじだー。」

 (自分の身体より大きい熊の置き物の頭を伸び上がって撫でて)「かーわいいね。」

(走って長ソファの背後に回り込んで)「うしよに、まわりこむをーっ」(まだ「後ろ」といえずに「うしよ」と言っているのに「回り込む」などという難しい単語をよく知っている!)

 (テレビの幼児番組を見て飛行機が離陸するのを見ていて)「あっ、コーキがとんだー。」

 どんな局面でも、パパはどこ?、ママはどこ?、姉ちゃんはどこ?と気にかけている。 今は連休中なので、パパが朝から皆と一緒に寛いでいると、「パパ、きょうは会社、行かないの?」などと聞いて、パパを苦笑させたりしている。つまり、周囲や社会的環境にも興味と関心を示しているので、なかなか結構なことである。聞かれたらできるだけわかりやすく説明してあげるなどして、こういう特性を大切にしつつ育てていってほしいと願っている。

 ただ、我々は、もう育てるどころではない。たった1時間預かっただけで、「あれしよう。これしよう。」と言われ、その一方で怪我をしないか常時みていなければならない。それが二人分だから、ほとほと疲れ果てた。まさに、「来て嬉し、帰って嬉しい、孫の顔」の心境である。


3.海賊船と水族館など


大涌谷


海賊船


 泊まっていた強羅から、箱根ケーブルカーで早雲山に登り、そこから箱根ロープウェイで大涌谷を経由して桃源台に着く。海賊船に乗って元箱根まで約40分間航行し、そこで昼食をとった。海賊船は、クイーン、ビクトリー、ロワイヤルの3隻だが、繁盛しているのか、近くもう1隻が就航するそうだ。湖上を動くから、この季節は頬を切る風が冷たい。最初は甲板から景色の良い屋上に上がっていたが、寒くなって船室に入った。

白い雪を被った富士山


芦ノ湖遊覧船


 元箱根港に近づくと、箱根外輪山越しの右手後方に、青い空の下で白い雪を被った富士山が大きく見えて、とても感激した。来る途中の箱根ロープウェイからも見えたが、一瞬のことだったからか、さほどの感慨は感じなかったので、不思議なものである。

芦ノ湖遊覧船


芦ノ湖遊覧船船長さんの操舵


箱根神社の赤い鳥居


龍宮殿


 昼食後、今度は芦ノ湖遊覧船で元箱根港から箱根園港に向かう。わずか15分間、船上の客となる。こちらの遊覧船は、双胴のため平らで客室が広く、船長さんの操舵がよく見えた。途中、箱根神社の赤い鳥居が目に焼き付くようだ。箱根園港に近づくと、右手に奈良のお寺のような目立つ建物が見えるが、これはプリンスホテル系の龍宮殿である。

大きな大島桜


大きな大島桜越しに見える駒ケ岳ロープウェイ


 箱根園港の桟橋に着くと、岸辺の砂浜に続いて芝生広場があり、その真ん中に大きな大島桜が満開である。5本を寄せて植えてから100年は経っているという。あまりの見事さに、しばし孫たちのことも忘れて眺めていた。すると、息子一家はママの周りを、パパ、孫娘ちゃん、直系くんが一列になってグルグルと追いかけっこを始めた。それがまた早いこと、早いこと。もし、私がやったら、すぐに目を回して脱落するに違いない。きょうは乗り物に長く乗ったので、子供たちには良い運動になっただろう。

ふれあい動物ランド だっこして ZOO


ふれあい動物ランド だっこして ZOO


ふれあい動物ランド だっこして ZOO


ふれあい動物ランド だっこして ZOO


ふれあい動物ランド だっこして ZOO


 芝生広場の右手には「ふれあい動物ランド だっこして ZOO」があり、これが最初の目的地だそうだ。中に入るときにプラスチックのバケツを買い、その中に細長くカットした人参、胡瓜、大根、カステラ様のもの、笹の葉などが入っている。それを子供たちが、飼われている動物、カピバラ、山羊、猿、犬猫、兎などに食べさせるという趣向である。犬猫や兎は身体を撫でてあげることが出来る。なかでも兎、猫、小型犬は確かに可愛い。でも、身体が大きなカピバラは、これが鼠の仲間かと思うと、どうもそういう気にはなれなかった。これがアルマジロか・・・まるで円谷映画に出てくる怪獣のようだ、こんなものが可愛いのか・・・。ともかく、色々な動物がいて、孫たちは2人とも、一生懸命に餌をやって、バケツはたちまち空になった。

箱根園水族館


箱根園水族館


箱根園水族館


箱根園水族館


箱根園水族館


箱根園水族館で、直系くんが孫娘の背中に手をやっている


 次の目的地は、同じ敷地内の箱根園水族館である。こちらは「日本で一番標高の高いところにある海水の水族館で、毎日伊豆の海からタンクローリーで新鮮な海水を運んでいます。」とのこと。なるほど、一通りの海水魚がいて、水温26度の大水槽には、熱帯魚が乱舞している。直系くんが「あぁー、カメさん」と言って、盛んに亀の姿を追いかけている。パパに聞くと、大好きなのだそうだ。私も熱帯魚の姿を写真に撮っていると、孫娘ちゃんが「私も撮りたい!」とやって来た。「あぁ、いいよ」とシャッターボタンを押してもらうと、連射の設定にしておいたものだから、変わった姿の魚の写真がたくさん撮れて、それを見て大笑いしていた。二人で、水槽を覗き込んでいる。良く見ると、直系くんが孫娘の背中に手をやっている。こういうところは、男の子の証かもしれないと、頼もしく思う。

箱根園水族館でのアザラシ


箱根園水族館で血を流しているアザラシ


 水族館のアザラシの水槽は戸外にある。ほとんどはマリンブルーの水の中にいるが、一匹だけ石の上に上がって日向ぼっこをしている。遠目では普通だが、やや体が傾いている。向こう側に回ってみると、胴体が10センチほど赤くなって石の上に血が流れている。あれあれ、これは怪我をしたのかと思って、通りかかった飼育員さんにその写真を見せた。そうしたところ、飼育員さん曰く「毛が抜け代わる時期なので、かゆいらしくて引っ掻くのです。だから、ご心配なく。」とのこと、でも、鰭のようなごく短い手しかないのにどうやって引っ掻くのか不思議に思ったが、いずれにせよ、そういうことらしい。

 もう、夕方になったので、予約しておいたザ・プリンス箱根芦ノ湖のレストランに入った。子供連れなので、バイキングのレストランにして良かった。周りはそういうファミリー層でいっぱいである。私はなるべく食べ過ぎないようにしなければいけない。家内と私で孫娘ちゃんの両隣に座り、時には孫娘ちゃんと手をつないで、食べ物を取りに行った。直系くんは、パパとママに挟まれて食べていたが、遠くにあるチョコレートタワーを目ざとく見つけて、まだ食べ始めたばかりだというのに、「チョコレートが食べたい」とグズって、両親がなだめるのに苦労していた。そこで、パパが数分ほどレストランの外に連れ出して戻って来たら、すっかり忘れていた。こういうところは、まだまだ幼児である。

 それから、タクシーで強羅の宿まで帰って来たが、その辺りは坂に次ぐ坂で、それも急坂が多くて驚いた。今まで強羅というところは通過地点だったので全然知らなかったが、平らなところは、駅の周辺くらいしかないことが、よくわかった。

 それはともかく、三世代で一緒に旅行するというのも、なかなか良い経験である。我々は孫たちの成長の様子もわかるし、両親も、日頃の24時間保育の体制から、一時的にせよ緊張感を解くことができる。パパが休みをとれるときに、また行きたいなと願っている。








 三世代で箱根旅行(写 真)




(2019年4月29日記)


カテゴリ:エッセイ | 13:40 | - | - | - |
飛騨高山への旅

高山陣屋前の広場で、からくり3屋台



1.高山春祭りは雨


 前日の高遠城址公園では、絶好の快晴日和で、高遠小彼岸桜と南アルプス連峰を眺めることができ、満足する写真を撮ることができた。そこで、本日は飛騨高山の春祭りもさぞかし・・・と期待していたのだが、そうは幸運は続かないもので、祭りの途中で小雨が降りだしてきて、期待外れに終わった。

 そもそも、午前11時から高山陣屋前の広場で春祭りとして繰り出す11台の屋台(山車)のうち、「からくり人形」のある3台が演技をするというので、とても楽しみにして行った。ところが、雨模様のために急遽繰り上げて午前10時からになってしまったようで、10時半頃に広場に着いたときには、もう3台目の「三番叟」の演技が終わろうとしていた時だった。慌ててカメラを構えたが、果たしてどれだけ撮れたか心もとない。それでも、「神楽台」を先頭に、「三番叟」「石橋台」「龍神台」の4台が勢揃いする雄姿が見られただけでも良しとしよう。その他の屋台は、各町内にあるそれぞれの屋台の車庫(?)に全て帰っていったらしく、並んでいたはずの道路上はもぬけの殻だった。

 せっかく、ツアーで現地滞在5時間の余裕を持たせてくれたのに、このままでは終われないと思って、地図を見ながら11台全ての屋台の車庫を見て回ることにした。幸い、この日は屋台の車庫の扉を全開にしてあり、その前を通りかかると、その姿を写真に収めることができる。中には、その町内の方が親切にも、屋台を背景に写真を撮ってくれるところもあった。


高山祭りの倉庫の屋台


高山祭りの倉庫の屋台


 そういうことで、神楽台(かぐらたい)、三番叟(さんばそう)、麒麟台(きりんたい)、石橋台(しゃっきょうたい)、五台山(ごたいさん)、鳳凰台(ほうおうたい)、恵比寿台(えびすたい)、龍神台(りゅうじんたい)、崑崗台(こんこうたい)、琴高台(きんこうたい)、青龍台(せいりゅうたい)と回ってみた。町内の散らばって置いてあるので、それを行きつ戻りつしながら見て歩いたから、かなり疲れた。その中でも、大國台(だいこくたい)は、お祭りの中心の中橋からはかなり離れたところにある。やっとのことで、その前に来たら、なんと倉庫の扉は閉まっていた。そういえば、春の屋台は12台と聞いていたのに、今年は11台が出るということだったので、ではその出ない1台は、これだったのか。くたびれ損だったかと、徒労感が残る。

 ともあれ、歩き回ったから、疲れも限界にきた。お昼をかなり過ぎたので空腹感を覚えた。そこで、たまたま見つけた飛騨牛ステーキ屋さんに飛び込んで、それを注文した。味噌の味で、いささか塩気が強かったが、十分に美味しかった。街中では、五平餅、串カツ、コロッケ、みたらし団子はもちろん、飛騨牛握りなるものまで売られていたが、そういうものを口にすると無駄に太るから食べないようにしていたので、このステーキで、ようやく元気を取り戻した。


2.神楽台・からくり3屋台

(1)思いがけず写真が


三番叟


 ところが、思いがけないことが起こるものである。帰ってから、撮った写真を整理していると、最初の高山陣屋前からくり人形の演技が結構撮れていたので、我ながら驚いた。というのは、からくり人形の演技が急遽1時間も早まったことから、それを知らない私たちが到着したのはもう終了の15分ほど前で、ほとんど観る時間がなかった。しかも陣屋前広場の端で演技中の3台の屋台からは、相当離れている場所(中橋のたもとに近いところ)で観るほかなく、大勢の人々の頭越しにカメラを構えなければならない。仕方がないので私はカメラの液晶画面のチルト機構を利用し、両手を伸ばしてカメラを構えながらその液晶画面を頼りにシャッターを押すのだけれども、そんな苦しい姿勢では焦点を合わせるどころではない。しかも困ったことに、液晶画面に光が反射してよく見えない。こんな悪条件にもかかわらず、それなりの写真が撮れていたから、びっくりしたのである。これというのも、タムロンの望遠レンズとキヤノンのデジタル一眼レフのおかげである。

石橋台(右)と龍神台(左)


 気を良くしたので、それでは、からくり人形のある3台の屋台について撮った写真と照らし合わせて、少し書き残していきたい。その前に、高山市の観光情報によると、「16世紀後半から17世紀が起源とされる高山祭。高山祭とは春の『山王祭』と秋の『八幡祭』の2つの祭をさす総称で、高山の人々に大切に守り継がれてきました。このうち、高山に春の訪れを告げる『山王祭』は、旧高山城下町南半分の氏神様である日枝神社(山王様)の例祭です。毎年4月14日・15日、祭の舞台となる安川通りの南側・上町には、『山王祭』の屋台組の宝である屋台12台が登場。うち3台がからくり奉納を行うほか、祭行事では賑やかな伝統芸能も繰り広げられます。」とのこと。

(2)神楽台


神楽台


 一連の春の屋台の最初に並ぶ「神楽台」が、高山陣屋前に並ぶ3台の「からくり屋台」に相対する形で中橋を背にして置かれていたので、まずその神楽台についての高山市の解説を見てみよう。それによると、「<沿革>古くから山王祭の神楽、獅子舞を主管し、初めの頃は白木のわくに太鼓をつって二人でかついだものでした。文化年間(1804年〜1818年)、四輪の屋台形にし、嘉永七年(1854年)の大改修により現台形となりました。明治26年(1893年)改修。その後数度の改修が行われています。(嘉永改修) 工匠 谷口延儔(のぶとし)、 彫刻 谷口与鹿(よろく)(明治改修) 工匠 村山民次郎、塗師 田近宇之助、金具 井上芳之助(構造) 屋根無 太鼓昇降 四輪外御所車

 <特色>祭礼に際しては、侍烏帽子(さむらいえぼし)、素襖(すおう)姿の五人の楽人を乗せて獅子舞を付随させ、全屋台に先行します。曲は『場ならし』『高い山』など多数あり、場所により使い分けられます。嘉永の改修のとき、金具に一坪(3.3平方センチメートル)あたり一匁(4グラム)の純金が使用されました。」
ということである。

(3)三番叟


三番叟


 次に、高山陣屋前に並ぶ「からくり屋台」3台のうち、向かって一番右にある「三番叟」についての高山市の解説によると、次の通りである。「<沿革>宝歴年間(1751〜1764)の創建で、台銘は「恩雀(おんじゃく)」、天明年間(1781〜1789)に翁操りを取り入れ「翁(おきな)台」と改銘、文化三年(1806)に雛鶴(ひなずる)三番叟の謡曲による操り人形に替え、台銘も三番叟となりました。天保八年(1837)、現在の台形に改造され、大正七年と昭和四十一年に大修理が行われました。(天保改造) 工匠 牧野屋忠三郎・彦三郎、(構造)切破風屋根 四輪内板車

 <特色>二十五条の細綱で操るからくりがあります。童形の三番叟人形が所作を演じつつ、機関(からくり)樋の先端へ移行した聯台(れんだい)上の扇子と鈴を持ち、面筥(めんばこ)に顔を伏せ、翁の面を被り、謡曲『浦島(うらしま)』に和して仕舞を演ずるという構成です。屋台曳行順のくじは、必ず『一番』を引くことになっていて、神楽台についで他の屋台に先行する慣例となっています。」


動き出す三番叟屋台


 確かに、三番叟人形は童顔で、これが顔を伏せたかと思うと、いきなりお爺さんの顔になる。だいたい、「三番叟」とは何だろうと大辞林をひもとくと「能の『翁』を、三番叟の部分のみ舞踊化した歌舞伎所作事」とある。意味や背景を書いてくれないと、さっぱりわからない。こういう時は、ウィキペディアの助けを借りるしかない。それをまとめてみると、「三番叟の舞は2段に分かれ、前半の揉ノ段は面を付けず、足拍子を力強く踏み、軽快・活発に舞う。後半の鈴ノ段は黒式尉を付け、鈴を振りながら、荘重かつ飄逸に舞う。その前の翁の舞が天下泰平を祈るのに対して、三番叟の舞は五穀豊穣を寿ぐといわれ、足拍子に農事にかかわる地固めの、鈴ノ段では種まきを思わせる所作があり、豊作祈願の意図がうかがえる。」ということなので、人形の顔の変化は、この2つ段を表しているのだろう。

(4)石橋台


石橋台


 高山陣屋前に並ぶ「からくり屋台」3台のうち、真ん中の屋台は「石橋台」である。高山市の解説には、「<沿革>宝暦創建説と天明創建説があります。当初から長唄の石橋の操り人形があったため、台名もこれに由来します。弘化―嘉永年間(1844年から1854年)に改修。文久3年(1863年)大改修し、旧台を古川町に譲りました。(文久改修) 設計 村山勘四郎、工匠 畠中久造、彫刻 下段獅子 村山勘四郎、中段彫り龍 浅井一之(かずゆき)、牡丹 中川吉兵衛、見送り 朝鮮の段通(だんつう)、(構造) 切破風屋根 四輪内板車

  <特色>からくり人形は長唄石橋物(しゃっきょうもの)のうち、「英執着獅子(はやぶさしゅうちゃくじし)」を取り入れたものです。濃艶(のうえん)な美女が踊っているうち、狂い獅子に変身し、また元の姿に戻り両手に牡丹の花を持って千秋万歳(せんしゅうばんぜい)と舞い納める構成です。明治25年(1892年)に風紀上よくないと中止されましたが、昭和59年に復活されました。重厚で調和のとれた屋台です。」
とある。


石橋台


  私が見物していたごく僅かな時間でも、すっくと立つ絶世の美女の人形が、蒼顔の狂い獅子に変身して、体を這わせてぐるぐると回っていた。それにしても、明治期にこれが「風紀上よくないと中止され」たとは、どういうことだろう。そもそも私は「英執着獅子」とは何か知らなかったので、大辞林で調べてみると、「歌舞伎舞踊の一。石橋物の一。長唄。本名題、英執着獅子。初世杵屋弥三郎作曲。前半は手獅子を持って遊女が踊り、後半は、牡丹をあしらった笠を付けて獅子が華麗に舞い納める。」とあったが、ますますわからない。

 それで、更にインターネットの情報をかき集めると、「中国の清涼山という霊山に細い石の橋があり、その向こうは浄土で、人間には渡れない。伝説によると橋の向こうには獅子がいて、牡丹が咲き乱れる中を蝶とたわむれている。それだけでは劇にすると獅子しか出てこないと思ったのか、歌舞伎では女形が前半部分で遊女やお姫様に扮して舞い、後半部分でその女形の衣裳のままで獅子の被り物を被って舞うという。恋する相手に執着する女性として色っぽく舞うから、『執着獅子』という。」とのこと。なるほど、明治の人はそういう知識もあったのかと納得した。

(5)龍神台


龍神台


 最後に、高山陣屋前に並ぶ「からくり屋台」3台のうち向かって一番左手の「龍神台」についての高山市の解説は、「<沿革>創建年代未詳。安永4年(1775年)に弁財天像に猿楽を舞わせたとの記録があり、文化4年(1807年)の屋台曳順の「龍神」の台名がみえます。またこの頃、竹生島(ちくぶしま)弁財天にちなみ、「竹生島」とも呼ばれました。文化12年(1815年)に改造し、弘化3年(1846年)に修理。明治13年(1880年)から3年がかりで再改造され、唐破風屋根を現在の切破風に替えています。昭和41年、半丸窓上に龍彫刻が取り付けられました。(文化改造) 工匠 谷口紹芳、(明治改修) 工匠 彫刻 谷口宗之、塗師 小谷屋正三郎、(構造) 切破風屋根 四輪内板車

 <特色>32条の糸を操って龍神のはなれからくりが演じれます。これは、竹生島の龍神にちなんだもので、8尺余りの橋樋の先端に、唐子によって運ばれた壷の中から突然赫(あか)ら顔の龍神が紙吹雪をあげて現れ、荒々しく怒り舞うという構成です。見送りは試楽祭には望月玉泉(もちづきぎょくせん)筆の雲龍昇天図、本楽祭は久邇宮(くにのみや)朝彦親王の書で、明治天皇の鳳輦の裂れで表裂されたものを用いています。」
というが、残念ながら、今回はその演技を見る機会がなかった。



 高山春祭り(写 真)




3.高山陣屋をじっくり見学

高山陣屋


 そこで、せっかくだから、高山陣屋(かつての高山奉行所)に立ち寄ることにした。前回来たとき(平成29年1月7日)も見学したが、あまり時間がなかったので、じっくりと見て回る暇がなかった。その点、今日は大丈夫だ。江戸時代には全国におよそ60強の奉行所があったが、そのままの建物が現存しているのは、ここ高山のみだというから、これは貴重な文化遺産である。

 今回いただいたパンフレットによれば、「元禄5年(1692)、徳川幕府は飛騨を幕府直轄領としました。それ以来、明治維新に至るまでの177年に25代の代官・郡代が江戸から派遣され、幕府直轄領の行政・財政・警察などの政務を行いました。御役所・郡代役宅・御蔵等を併せて『高山陣屋』と称します。明治維新後は、主要建物がそのまま地方官庁として使用されてきました。昭和44年に飛騨県事務所が移転したのを機に、岐阜県教育委員会は、全国にただ一つ現存する徳川幕府郡代役所を保存するため、平成8年3月まで三次にわたり、復元修理を行いました。こうして江戸時代の高山陣屋の姿がほぼよみがえりました。」とある。

 高山陣屋のHPに書かれていたことをつなぎ合わせてみたところ、こういうことのようだ。「そもそもこの飛騨は、天正14年(1586年)から金森氏が6代(106年間)にわたり支配してきた地である。ところが幕府は、この飛騨の国が豊富な山林資源(木材)と地下資源(金・銀・銅・鉛)に恵まれていたことから、元禄5年(1692年)に金森氏を出羽国(現在の山形県と秋田県の一部)の上山に国替えさせ、飛騨を幕府が直接支配する「幕府直轄領」(幕府領・幕領)とした。それ以来、幕府支配の出張所(出先機関)として高山に役所が置かれ、それがのちに陣屋と呼ばれるようになった。当初は幕府から飛騨代官が派遣されていたが、安永6年(1777年)には飛騨郡代に昇格し、他の郡代役所(関東・西国・美濃)と並んで幕府の重要な直轄領となった。幕末には全国に60数ヵ所あったと言われている郡代・代官所の中で当時の主要建物が残っているのはこの高山陣屋だけで、全国で唯一、当時の建物が現存する遺跡として、昭和4年(1929)には国史跡に指定された。」


高山陣屋


 天保3年(1832)に建てられたという表門をくぐると、右手には山茱萸(さんしゅゆ)の木があって、一面に黄色い花を付けている。思わず稗搗き節「庭の山茱萸のぉきぃいい、鳴あるうぅ鈴うぅ掛けぇてぇ、ヨーオオーホイ」という歌が頭に浮かぶ。これがそうかと、しげしげと眺めた。秋には茱萸(ぐみ)のような赤い実が生るようだ。(もっとも、「山茱萸の木」ではなく、「山椒の木」という説もある。)

高山陣屋玄関之間


 それから玄関に入るが、藍染の葵の紋の天幕が凛々しくて清々しい。白い砂に波模様が描かれたところを通る。まるで龍安寺の石庭のようだ。通ると、身が引き締まる思いがする。さすが、代官所だけのことはある。文化13年(1816年)の改築以来そのままの「玄関之間」では、「10万石格を示す2間半の大床や、床の壁一面の青海波(波の模様)が目を引く。式台は身分の高い武士が駕籠で乗りつけるため低くしつらえてある」そうだ。

高山陣屋御用場


 廊下を歩いて行くと、「御用場」、つまり地役人の勤務する事務室(35畳)がある。ここで、前捌きをしていたのだろう。黒光りする漆塗りの小さな机と、火鉢が印象的である。次に、郡代、手附が執務を行う部屋の「御役所」(28畳)がある。ここが役所の中枢部という。これらの部屋の縁側のすぐ外には、御白州が広がっている。

 廊下を突き当たって右に曲がる。すると、「寺院詰所」があり、宗門改めのために僧侶が詰めたところらしい。その横に「町年寄、町組頭詰所」があって、これらは御役所の仕事を手助けするために町役人が詰めていたところで、身分が違うために出入口も異なっていた。「湯呑所」があり、部屋の中央部にある囲炉裏が、もはや忘れてしまった日本の伝統を思い起こさせる。「台所」の二つの大きなお釜には、存在感がある。

 「手附・手代の役宅跡」があった。飛騨代官(後に昇格して「郡代」)は、その職務遂行のために直属家臣を伴って着任したが、この家臣を手附・手代といい、その首席を元締と称した。用人部屋、女中部屋、下台所などがある。


高山陣屋下台所


高山陣屋下台所


 郡代が日常生活を送る「御居間」(嵐山之間)は書院造りで、床の間には漢詩の掛け軸が下がっていて、その右側には違い棚がある。私の小さい頃は、こういう床の間や違い棚を備えている住宅が普通だった。床の間には、季節の変わり目になると、父がその季節に合った掛け軸を掛けていたものだし、違い棚には、母が一輪の花を生けていたものである。また、小さな区画があるなと思ったら、「御囲い」という茶室だった。

高山陣屋庭


 濡れ縁越しに、広い庭を一望することができる。庭には、形よい庭木、リズミカルに続いている飛び石、やや遠いもののちゃんとした池がある。江戸時代から、こういう現代に通じるスッキリした庭があったのかと思うと、日本文化も捨てたものではない。腰を下ろして、しばらく庭を眺めていた。心が落ち着く。記録によれば、天明年間に造りかえられて、その後もしばしば手が加えられたそうだ。あまりに居心地が良いからか、どこからか白人の赤ちゃんが這って来たのには驚いた。これがまた、可愛いことといったらない。

高山陣屋で赤ちゃん


高山陣屋大広間


 「大広間」に行くと、三つの広間が繋がっている。やはり書院造りで、向かって左側の床の間には「義」と「孝」の掛け軸が下がっており、右側には違い棚がある。ここは、「書院」といって、儀式、会議、講釈などが行われる場所だった。南のお白州は、刑事事件の取り調べを行う吟味所でぐり石が敷いてあり、拷問の道具である責台、自白を迫る抱き石、罪人を入れる籠などがある。なお、民事関係は、北のお白州で扱ったそうだ。

高山陣屋南のお白州


 年貢米を収納する「御蔵」が大きくて実に立派なので感心した。幕府の支配の根源なのだから、それも当然である。中に入ると、年貢米の俵が壁一杯に積まれていて、1俵には玄米4斗と込米(付加税)1升が入っている。この御蔵は、元禄8年(1695年)に高山城三之丸から移築されたとのこと。創建以来、約400年もの歴史があり、全国でも最古かつ最大の米蔵だそうだ。

 それにしても、これだけ集めた年貢米をどうやって移出するのだろう。地図を見ると、高山を南北に通る宮川というのが流れていて、下流で高原川と合流して神通川となって富山湾に注いでいるから、このルートかもしれない。でも、そんな山奥を年貢米が通って大丈夫か。アメリカ西部で連邦政府の金塊を載せた幌馬車が襲われたように、山賊の類いに襲われないか。幕府は相当な数の警備の者を付けたに違いないなどと、想像が膨らむ。

 陣屋を出ようとして靴を履いていると、中年の白人のご夫婦で、どちらも半ズボンという出で立ちの二人がいた。気温は摂氏7度と低くて、私には凍える寒さだ。そんな格好で寒くないのかと思い、つい、「どこから来たのか、寒くはないのか。」と聞いてしまった。すると、「アイルランドから来た。これぐらいは普通だ。」というので、側にいたイスラエル人ともども、びっくりした。






 高山陣屋(写 真)








(2019年4月14日記)


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