神代植物公園 冬の温室

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 家内と冬の神代植物公園を訪れて、大温室に入った。私は元々、熱帯植物を見るのが大好きなのであるが、本日の目的は、「神代のダースベイダー」といわれる花が咲いているというので、それを見ることである。ところが温室内は広く、その花はごくごく小さいことから、見つけるのに難儀しそうなことである。温室内の緑の洪水の中で、まず目についたのは、ベニヒモノキ(紅紐の木)である。赤い紐のような花穂が垂れさがっている。まるで昔のエノコログサのようで、つい触りたくなる。そこを過ぎて、「ダースベイダーはどこかな。」と探そうとしたら、家内が「あそこに、人が集まっているわよ。」と教えてくれた。そちらへ行ってみると、地面の低いところにその花はあった。エルサルバドル原産の植物「アリストロキア・サルバドレンシス」である。なるほど、ダースベイダーそっくりだ。この両目のような白い部分は何かといえば、虫を誘うためにあるのではないかとのこと。意外と早く見つかった。しかも、旅人の木の根元に生えていたので、わかりやすい。

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 ダースベイダーのはす向かいには、バナナの木があった。しかも「まだ青いバナナの房」がたわわに実っている。いったい何本あるのだろう。これはとても良い姿形で、実に見事だ。

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 次にあったのが、お化粧のパフみたいな赤いボンボンのような花で、「オオベニゴウカン」という変な名前がついている。でもこれはカタカナだからで、漢字で書くと「大紅合歓」というので納得した。要するにネムノキなのだ。赤い色のほか、紫や青色もあるらしい。

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 二等辺三角形をした不思議な葉がある。しかもその模様も同じく二等辺三角形である。こんな形の葉は、初めて見た。

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 パパイヤの木に、たくさんの実が生っている。こんなにたくさん生えるのかと思うくらいに密集している。パパイヤの実は、大根のようにジアスターゼが多くて、健康に良い。東南アジアにいたときには、一番数多く食べたものだ。

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 これはあるだろうと思っていた花が、やはり、あった。「コエビソウ(小海老草)」である。本当に海老のようで、とても可愛い花である。メキシコ原産のキツネノマゴ科の植物で、別名はベロペロネというらしい。自宅近くでもよく見かける人気の園芸種である。

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 「アンスリウム」の花で、仏炎苞という赤楕円形の葉のようなもの真ん中から、白と黄色の花序が突き出しているサトイモ科の植物である。水芭蕉と形が似ているなと思ったら、やはりこの仲間らしい。

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 さて、これから蘭が続く。最初は「パンダ」、いや違った「バンダ」。青紫の花である。樹木の幹などにまとわりつくように生えていることから、サンスクリット語の「Vandaka(まとわりつく)」が転じて「Vanda Orchid 」となったらしい。それからお馴染みのリカステ、パフィオぺディラムなどがある。

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 「ベゴニア」もたくさんある。花言葉は、「片想い」「愛の告白」「親切」「幸福な日々」などと、その色と同じく多岐にわたっている。ピンクなどは、「愛の告白」にふさわしく、白くて周辺だけ赤く染まった花は、「片想い」かもしれない。オレンジ色は、「幸福な日々」といっても良いだろう。まあそういうことで、とても華やかな花である。

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 おっと、「フクシア」の花があった。別名が「釣浮き草」。まさにその通りである。花言葉は、「信じた愛」、「激しい心」、「センスが良い」、「おしゃれ」とのこと。なるほど、いかにもそういう感じがする。

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 これから、「熱帯睡蓮」の池に入る。紫、黄、白、ピンクなど色々なスイレンが咲いている。見ていて飽きない。ただ、池の中にあるので、望遠レンズでないと撮れない。

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 「ハイビスカス」の大振りの花が、睡蓮の池の周りに植えてあった。黄色いハイビスカスは、これもまた見事な花である。華やかな貴婦人という面持ちである。

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 様々な種類の「サボテン」があった。大きくて丸い椅子のようなもの、白くて棘がいっぱいのものなどと並んで、不思議なサボテンがある。土台は薄緑色の普通のサボテンなのに、その上にタワーの如く突き出ている部分が濃赤色という変わり種である。初めて見る種類である。

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 神代植物公園( 写 真 )






(2019年2月4日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:16 | - | - | - |
旧前田家本邸(駒場公園)

旧前田家本邸


 駒場東大前駅の近くに、駒場公園があり、そこに加賀藩前田家の本邸がある。そもそも駒場公園そのものが、前田家の屋敷跡だったのである。加賀藩は、尾張の地侍だった前田利家を藩祖とし、織田信長、豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは徳川家康についてその信任を得た。それ以来、徳川将軍家と姻戚関係を通じて関係を深めてきたことから親藩に準じる扱いとなり、加賀百万石と称される大藩となった。江戸時代中頃には、本郷に上屋敷、駒込に中屋敷、板橋の平尾に下屋敷のほか、深川にも蔵屋敷を置いた。本郷の東京大学にある赤門は、第12代の前田斉泰が文政10年に将軍家の息女溶姫の輿入れの際に造らせたものである。

旧前田家本邸


旧前田家本邸


旧前田家本邸


 明治に入って前田家は侯爵家となった。ところが15代利嗣侯爵は男子に恵まれなかったことから、遠い親戚筋に当たる七日市藩前田家5男の利為(としなり)が明治33年に養嗣子として迎えられ、16代の侯爵となった。そして明治39年には先代の長女と結婚し、名実ともに当主となる。軍人として国家に仕える道を選び、近衛歩兵第四聯隊大隊長、駐英大使館附武官、近衛歩兵第二聯隊長、第八師団長を歴任した。若い頃から欧州諸国に留学して見聞を広げていったが、滞欧中に夫人が病死した。のちに旧姫路藩酒井家次女の菊子夫人と再婚し、同夫人はこの駒場の前田家本邸で過ごした。

旧前田家本邸


旧前田家本邸


旧前田家本邸


 前田家は、江戸時代以来の本郷の上屋敷に居住していたが、利為は欧州で見聞した第1次大戦後の貴族の困窮ぶりを目の当たりにし、日本でもそういう日が来るものと思い、生活ぶりを引き締めにかかっていた折、東京大学が本郷の敷地を広げる必要から駒場への移転を打診されて、これに応じた。昭和2年に利為が駐英大使館附武官として赴任した後、昭和3年に塚本靖が中心になって建築にとりかかり、同5年に完成した。利為はかねてより「我が国には外国の貴賓を迎え得る邸宅がない」と考えていたことから、建物の様式はイギリス・チューダー朝のカントリーハウス風に建てられ、調度品もイギリスから運ばれた。

旧前田家本邸


旧前田家本邸


旧前田家本邸


 利為は、既に昭和13年には退役していたが、同16年に太平洋戦争が勃発したことから現役に復帰してボルネオ守備司令官に任じられ、現地に赴任した。ところが翌17年に、搭乗した飛行機が海中に墜落する事故で亡くなってしまった。享年58歳だった。この駒場の邸宅には、10年ほど居住したに過ぎなかった。

旧前田家本邸


旧前田家本邸


旧前田家本邸


 その後、この邸宅は中島飛行機が買収してその本社となったが、敗戦によってGHQに接収され、リッジウェイ最高司令官の官邸となる。ところが、その夫人が看護師だったことから、由緒ある金唐紙などが気に入らないということで、真っ白く塗り込められてしまうなど、かなりの改変が加えられてしまった。接収の解除後、国から都へ、更に都から目黒区へと移管されて今日に至っている。このような複雑な経緯を経ていながら、昭和初期の華族の生活を彷彿とさせる邸宅と庭園がほぼ元のまま残されているのは貴重であることから、平成25年には国の重要文化財に指定された。その後、復元工事が行われて、同30年10月から公開されている。

旧前田家本邸


旧前田家本邸


 家内と一緒に行ってみたのであるが、洋館入り口で靴を脱ぎ、入館料などはとらない。1階はお客をもてなすところで、重厚感のある焦げ茶色の玄関扉を開けると、柱が深緑で白い筋が入った蛇紋岩、床は真紅のカーペット、半螺旋形で二階へと繋がる階段には彫刻が施され、階段の下にマントルピースとソファを備えた待ち合わせの小さな空間(イングルヌック)、頭上にはシックなシャンデリアと、素晴らしい。大客室と小客室は、壁紙もシャンデリアもカーテンも椅子やソファも居心地がよい。晩餐会が開かれる大食堂の中央には白い大理石の大きなマントルピースが置かれている。2階は私的な空間で、侯爵夫妻の寝室、侯爵の書斎、夫人室、子供部屋などがある。特に夫人室は全体が落ち着いたピンク色で、家族が集まって過ごしたようである。以上が駒場本邸で、それに隣接して和館があり、こちらは純和風の建物である。

旧前田家本邸


旧前田家本邸


 現在NHKで再放送されている「ダウントン・アビー」は、第1次大戦前後のイギリス貴族の世界を描いている。日本でもこれと同じように、昭和の始めに旧有力大名家の華族は、このような建物で、かくなる豪華な生活をしていたのかと思うと、なかなか感慨深いものがある。



(2019年2月3日記)


カテゴリ:エッセイ | 21:21 | - | - | - |
北千住をちょっと歩く

宮田亮平文化庁長官(元東京芸術大学学長)作のイルカをモチーフにした像


 我が家から東京メトロの千代田線に乗って北へ約10分で、北千住駅に着く。先日、用事があって家内と一緒に出かけた。北千住駅西口には、2階部分に駅前広場をカバーするペデストリアン・デッキがあり、そこを歩いて見回すと、北千住を象徴する風景を一見することができる。駅から出てきて振り返れば、二つの大きなビル、ルミネと丸井があり、また正面を見ると、失礼ながらごちゃごちゃとした旧来の商店街が広がる。丸井の前には、宮田亮平文化庁長官(元東京芸術大学学長)作のイルカをモチーフにした像が異彩を放っている。これらのビルや東口の東京電機大学、近くに林立するマンション群を見ていると、首都近郊の新興開発地のような様相を呈している。

北千住駅前のルミネ"


 確かに、ここは交通のハブだから、通勤には非常に便利である。東京メトロ(千代田線、日比谷線)、JR東日本(常磐線快速)、東武鉄道伊勢崎線(東武スカイツリー線)、つくばエクスプレス線が乗り入れている。それだけでなく、私鉄との直通運転で、小田急線、半蔵門線、東急田園都市線とも繋がっている。東京都心にも近く、大手町駅には17分で着く。こうしたことから、北千住のマンションを買って移り住む若いファミリー層が増えている。加えて、この交通の便に着目して、2006年以降、東京芸術大学、東京未来大学、帝京科学大学、東京電機大学が相次いで千住キャンパスを新設したことから、街中に若い人が目立つようになった。今流行りの「移り住みたい街」の第1位というから、結構なことである。

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 ところが、北千住というのは、江戸時代は日光街道の千住宿という宿場町だった。その名残りからか、今でも昔ながらの古い商店街が残っている。それは良いのだけれども、お洒落というには程遠くて、ごちゃごちゃした飲み屋が多いせいか昼間から酔っ払っている人がいたり、煙草を辺り構わず吸う人が多かったりと、いささか猥雑な雰囲気も確かにある。夜はもっとすごいことになっているのかもしれないが、近づいていないので、よくわからない。要は、新旧の全く対照的な街が混在しているのである。

 一方、足立区作成の浸水ハザードマップによれば、台風などで荒川の堤防が決壊すると、北千住駅の辺りは5m以上も浸水するというので、これには驚いた。もっとも、そういう事態が起きるのは、例えば百年に一度という台風や大雨のような極めて稀な時だろうから、我々が生きているうちはまずないとは思う。しかしながら、東日本大震災のようなこともあり得るので油断大敵であり、普段からの備えが必要である。いま考えられているのは堤防の幅を大きく広げて厚くする「スーパー堤防」というものだが、北千住のロケーションを見ると、川に挟まれた中州のような立地なので、それもなかなか困難だろうと思う。だから、事前の避難が大事になってくる。ここに住まうには、そういうことを頭の片隅に置いておく必要がある。


足立区作成の浸水ハザードマップ


足立区作成の浸水ハザードマップ


 ともあれ、北千住駅西口のペデストリアン・デッキを降りて、日光街道(国道4号線)まで続くアーケード通りを歩いて行った。この辺り一帯を北千住駅西口美観商店街振興組合が担当していて、「歳末大売り出し、春のわんさ君祭り、そして西口商店街連携イベントとして、『足立の花火』屋台船ご招待セール、『お花見』屋台船ご招待セールを実施」しているらしい。こういう点は、昭和の雰囲気のままで、我々には懐かしい。

眼科医院


アーケード上の緑色の足場


 商店街の途中に、まるで大正時代からタイムスリップしてきたような建物がある。近づいてみたら、眼科医院であった。また、アーケードをしげしげと眺めると、天井に置かれた湾曲した茶色のアクリル板の上に、どういうわけか、緑色の足場が設置されている。「何だろう、洪水時の避難場所か。」とも考えたが、それは考え過ぎで、そもそも5mもの浸水には耐えられまい。単に天井を点検するための足場なのだろう。商店街を抜けて日光街道に至った。ビュンビュンと車が走っている。その交差点の角に、「天然たいやき・鳴門鯛焼き本舗」という店があった。「まさか、天然の鯛を焼いているのではないのだろうな。」と思って近づいてみると、やはり、普通の和菓子の「鯛焼き」だった。紛らわしいったらありゃしない。

天然たいやき・鳴門鯛焼き本舗






(2019年2月2日記)


カテゴリ:エッセイ | 20:08 | - | - | - |
ダナン・ホイアンへの旅

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1.海のシルクロード

 この4年ほど、東から西へと順に並べていくと、旧英領海峡植民地だったペナンマラッカシンガポール、【 】、ポルトガル植民地だったマカオ、英国植民地だった香港を訪ねてきたが、遂に今回、【 】の位置に当たるベトナムの古い港町ホイアンを訪れることができた。これで、海のシルクロードの真珠の首飾りが完成したと、我ながら悦に入っている。

 今回のベトナム観光は2泊3日の予定で組んでいて、当初の予定では第1日は港町ホイアン、第2日は古都フエ、第3日はダナン近郊を訪れるつもりだった。ところが、出発直前に手を怪我したので、特に第2日に、片道2時間もかかるフエに行くのは無理かもしれないと思うようになって、代替案としてガイドに提案されたバーナ高原に行くことにした。


2.ダナンの繁栄ぶり

 さて、順調なフライトの後、ベトナムのダナン空港に到着した。ダナン市内のホテルを確保してから、車で45分の古い港町ホイアンに行った。私などは、ダナンといえば、ベトナム戦争中は極東最大の米軍基地があったところだという認識しかなかった。ところが、ホイアンに行く途中、クラウンプラザなどの世界的ブランドのホテルが立ち並ぶ海岸地区を通り、その繁盛ぶりに目を見張った。

 面白いことに、道路沿いに、大理石の彫刻を売っている会社がいくつもあり、通りすがりで一瞥したところ、定番の観音像あり、メタボのお爺さん像あり、ギリシャ彫刻のような像あり、そうかと思えば日展に出品されそうな現代彫刻ありと、それなりの名作が道路脇にたくさん並んでいた。いずれも手彫りだそうだが、技術はなかなか高度なものである。


3.世界遺産ホイアン


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 ホイアンに近づくと、道路が狭くなって混雑してきた。やがて、歴史的地区にたどり着いたが、入るのに料金を払う。すると、日本から贈呈されたという遣唐使船の模型があって、その脇を通り過ぎると、まあごちゃごちゃした古い街並みが忽然と姿を現す。

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 ホイアンは、ベトナムの中部にあるダナンから、車で45分のところにある古くからの港町で、世界遺産に登録されている。7世紀から15世紀にかけて、この地はダナンを中心に繁栄したチャンパ王国の重要な港であった。ところがチャンパ王国は、古都フエを根拠地とするフエ王朝(広南国)に押されて衰退し、ホイアンは広南国の版図に入った。そして、徳川幕府の朱印船貿易による日本人街、明・清との貿易に伴う中華街、オランダ商館などが設けられて繁栄していった。

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 ホイアン観光局のパンフレットによれば、「16世紀から17世紀にかけて、ホイアンは南ベトナムの国際貿易の中心地であった。毎年4ヶ月から6ヶ月間開かれる国際交易フェアに向けて各国の交易船がたくさん来航した。そして、まさにこの街に、日本人、中国人、オランダ人、インド人貿易商が市場を開いたり、地区を定めてそこに住むようになった。」という。

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 ところが、徳川幕府の鎖国令、清による海禁令、内乱などによってホイアンは衰退し、国際貿易も大型船が寄港できるダナンに移っていった。それから、ホイアンは歴史の表舞台から姿を消す。ところが、これがかえって功を奏し、ベトナム戦争にも巻き込まれずに今日に至っている。

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 そういう歴史からして、日本、中国、西洋の文化が入り混じったエキゾチックな雰囲気を味わえる小さな街で、ファッション、土産物、ベトナム笠、ランタン屋などのお店を眺めながら、川風に吹かれてブラリブラリと歩けば、 歴史や場所を超越した気分になるから不思議である。17世紀に鎖国令が出るまで、ここに大きな日本街があったそうで、その時の名残りで来遠橋(日本橋)が残っている。これは今やホイアンのシンボルのような存在で、ベトナム通貨ドンにも描かれている。

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 現在の目で街を見ると、建物は、中華寺院風の華僑会館、日本の古民家、コロニアル式の洋館があり、商売もなかなか美しいアートギャラリー、色とりどりのランタン屋、ハンドバッグや靴の店があったかと思うと、どういうわけか仕立屋さんが目立って多い。

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 また、狭い道の両脇と上に植物が植えてあって、そこにランタンがさりげなく飾ってあり、とっても鄙びて懐かしい思いがする。何だろうこの思いはと左右を眺めながら遠い記憶を辿っていくと、そうだ小さい頃の古い日本の街並みと同じだと納得したりした。カルチャーセンターのような建物で、ベトナム舞踊のような、少数民族のような、はたまた西洋の踊りを取り入れてミックスしたような変わった踊りを見た。

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 本来なら、色とりどりのランタンが街の其処此処で彩られる夜のホイアンを散歩したかったのであるが、左手を怪我して手術したばかりなので、もう一度同じところを怪我すると直しようがないと言われていたことから、足元が危うい夜の散歩は自重することにした。


4.バーナ高原


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 翌日は、バーナ高原への遠出である。ダナンから車で小1時間かかる。この高原は、1920年代のフランス統治時代からリゾート地として有名なところで、頂上まで3本のロープウェイが繋がっている。うち、2本は途中の中継駅で乗り換えるが、残る1本は山頂まで直行だ。これらは、世界最長かつ発着地の高低さも世界一というギネス記録があるそうだ。そのバーナ高原ロープウェイで登って行ったのだが、着いてみると、いやもうあらゆる文化のごった煮のようなもので、それにびっくりし、またいっぱい押し掛けてきている中国人団体客の傍若無人な振る舞いにもまた驚いた。昔の日本の農協さんのような旅を世界各地でやっているものとみえる。

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 ここは、約1,500mほどの高山に造られた一大遊園地である。元々あった中国寺院や、フランス植民地時代に作られた伝統的なフランス建築による石造りの街並みなどを基礎に、サンワールドという会社がテーマパークに仕立てたものらしい。私が、これは良いなと思ったのは、1923年に造られたというフランスのワイン醸造所で、文字通り穴蔵の中のその雰囲気と、所々に置かれた手の込んだ模型が素晴らしい。セイント・デニス教会も、こじんまりした良い教会である。ところが、次々と押し寄せる中国人団体客によってじっくり見る間もなく、押し出されてしまった。

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 この日は、ともかく霧と小雨が多い日で、見通しが悪かった。しかし、気温は20度前後なので涼しくて過ごしやすかった。山の上であるだけに、霧、小雨、曇り、晴れとどんどん天気が変わる。ここのシンボルは、山の中腹の中継地バーナ駅にある「ゴールデンブリッジ」である。これは、二つの橋桁が人の手の掌と指のようになっていて、なかなか面白い造形美なのだが、どういうわけか苔むして薄汚れている。金色の橋桁とは、そぐわないので、もう少し何とかすればよいのにと思った。

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 頂上には伝統的なフランス建築による石造りの街並みがあるという。確かに、ハリーポッターに出てくるホグワーツ魔法学校のような建物があったが、残念ながらこの日は霧がかかっていてよく見えなかった。


5.ダナン市内


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 ダナン市内は、夜景が素晴らしい。特に、ハン川沿いの遊歩道から見るハン川橋、ドラゴン橋、行き交うイルミネーションが明るい遊覧船などがとても魅力的である。翌朝は、チャム彫刻博物館に行ったが、これは7世紀から15世紀にかけてこの地で繁栄したチャム王朝の彫刻を展示しているもので、ヒンドゥーの神々が飾られている。しかし、中には日本の百済観音を思い起こされる像もあった。

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 この博物館の隣には、救賜安隆寺という中国寺院があって、その観音様は、なかなか美しいものであった。ちなみに、ガイドのお兄さんに、「ベトナムは大乗仏教か、それともタイのような小乗仏教か」と聞くと、「ベトナムは中国の影響を受けているので、大乗仏教だ」と教えてくれた。ついでに、「チャム人は、フエ王朝に滅ばされたその後は、どうなったのか」と聞くと、「山の方に行って、今は少数民族として残っている」という。次に、「今のベトナム人の祖先は、そもそもどこから来たのか?」と聞くと、「現在のブータン附近にいて、それが川沿いに進んで、中国が分裂して争っている隙に乗じてベトナムの地に住み着いたと習った」と答えた。この最後の答えについては本当かと疑問に思って調べたところ、確認はできなかった。

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 街の大理石屋さんに連れて行ってもらった。するとまあ、どうだろう、この多種多様さといったらない。布袋さんなど七福神、モダンな女性像、丸い珠、アロワナまである。面白くて、ついつい時間を忘れてみて回った。

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 ダナン市内の五行山(マーブル・マウンテン)は、全山が大理石でできている。麓から階段を延々と登っていくと、リンウン寺に着いた。大日如来像のような仏絵が素晴らしい。それを出て更に進む。洞窟に行くと、磨崖仏のある古い祭壇にたどり着く。この祭壇は、元々はチャム族が作ったものだそうだ。ちなみに、この洞窟の天井には穴が開いてそこから光が降り注いでいるが、これはベトナム戦争時に米軍の爆撃で開いたものだそうだ。


6.ベトナム雑感

(1) ベトナムで買い物をして支払うときに、まず感覚として馴染めないのがその通貨ドンである。たとえば、バーナ高原のロープウェイでは、650,000ドンである。一瞬、これはとてつもなく高いと思うのであるが、実は日本円で3,250円にすぎない。一々iPhoneで計算するのも面倒だ。そこで気がついたのが、ドンの価格からゼロを2つ取り、残った数字を2で割るというやり方である。これで買い物がとても楽になった。

(2) 次に馴染めないのが交通マナーの悪さである。たとえば、歩道を歩いていると、その上にバイクが乱雑に置かれていて、真っ直ぐに進めない。しばしば車道に出ないと、前進できない。それどころか歩道にどんどんバイクが入って来て、危険を感ずる。それが前から来るのはまだ良いとして、危ないのは後方から来るバイクで、これは対応のしようがない。

(3) そして、道を渡るのが、とても危険なのである。たとえそれが信号の付いた正規の歩道でも、大いに危険を感ずる。歩道を歩行者が歩いていると、日本なら必ず車は止まる。しかし、ベトナムでは、全く止まってくれない。車はもちろん、バイクは右や左から自由自在にやってくるから困る。正規の歩道でもそうなのだから、ましてや歩道のない所での横断は、もう自殺行為に近い。私などは、ガイドのお兄さんの後に、おそるおそる付いていくしかなかった。

(4) 交通標識も、世界の常識からいささかずれている。私がびっくりしたのは、ダナンからホイアンに向かう途中の二車線の道路を走っているとき、いきなり「車両進入禁止」の標識が現れた。例の、赤い丸に、横一文字の白い線が描かれているものだ。これは、日本だと一方通行の逆走を禁止する標識だ。ところが、運転手もガイドのお兄さんも、平然としている。聞いてみると、これは逆に真っ直ぐ進めという意味らしい。

(5) 夕方、デパートに行ってみようと、フロントに聞いたところ、パークソンがあるという。そこにタクシーで向かおうとしたが、いや試しに配車アプリの「グラブ」を使ってみようと思って呼んだところ、わずか数分で来てくれた。しかも、車はどこが現在地で、あとどれくらいで着く。しかも料金はいくらという明朗会計だ。だから、なかなか来ないとか、高い料金を吹っ掛けられるのではないかとか、わざわざ遠回りされるのではないかなどという途上国特有の心配をする必要がない。これはいいと思っていると、帰りに呼んだグラブの運転手が、下りるときに何か言いたげで、スマホに打ち込んでいる。それは、ベトナム語を英語に変換するソフトで、「もし明日、バーナ高原に行くのなら、案内しますよ。」ということだった。そこで私も、「残念ながら、もう英語ガイドを予約してあるので結構です。」と英語で打ち込むと、それがたちどころにベトナム語に翻訳されて相手に伝わった。私はびっくりして、これからは外国語の勉強が必要なくなる世界が来ると確信した。もっとも、運転手が必要なくなる時代も、もうすぐ、そこまで来ている。






ダナン・ホイアン( 写 真 )



(2018年12月31日記)


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骨折顛末記

手術直後の左手


1.骨折の日

 風呂場の僅かな水たまりに、つい足を取られて、大きくスリップしてしまった。頭を打たないよう咄嗟に左半身から落ちたが、そのときに、左手を不自然な形で床につき、そのところに全体重がかったようで、「ガキッ」という音がした。「ああ、左手を骨折したみたいだ。」と思った。どんどん膨れてくる。5本の指は少しは動くから、これは腕の骨の問題だ。机の上に腕と手首を乗せると、スプーンを下向きに置いたような不自然な形になっている。一応は歩けそうだが、余りの痛さに、いつもの病院までたどり着けるかわからない。仕方がないので、救急車を呼んでもらった。私は、救急車に同乗して患者とともに病院に行ったことは何度かあるが、自分が患者になるとは思わなかった。

 救急車に乗る前に、健康保険証と病院の診察カードを用意した。救急車に乗ったのはよいが、馴染みのない病院に送ってもらって、妙な治療をしてもらっても困るからだ。特にこれは、ややこしそうな骨折なので、自分が信頼できる病院の方が安心だ。救急車の中で隊員に診察カードを渡すと、それを元に病院に電話をしてくれて、受け入れ準備が整った。外出をしていた家内と携帯電話で連絡をとり、病院で落ち合うことにした。ほっと安心して、救急車の車内から、どこを走っているかを見ていたが、そのうちに痛くて、それどころではなくなった。

 やっと、病院に着いた。最初は歩いて中に入ったが、そのうち、車椅子に乗せられて、救急外来の中に入った。直ぐにエックス線室に連れていかれ、手を伏せた形と、手を縦にした形の写真を撮られた。それから診察室に戻ると、担当医が「折れていますね。左手の『橈骨(とうこつ』という親指側の太い骨の、手首に近いところが粉砕していて、『左橈骨遠端位骨折』と言います。」

 私が「単純骨折ではないんですか。それだとギプスで巻いて固定しておくだけですよね。」と聞くと、担当医は「いや、手首との接続部分が砕けているので、金属プレートを入れる手術をすることになります。」おやおや、これは大変、面倒なことになった。そこで、どうせ手術というのなら、早くやってもらおう、その方が直りも早いと思い、「では、直ぐに手術をお願いします。」と頼んだ。そうすると、1週間後だという。私は、「今日、明日というのは駄目ですか。」と粘ると、担当医は「それだと、金属プレートが用意できなくて、できないんですよ。」という。私が「では、4日又は5日後では、いかがですか。」再び担当医は席を外して調整に出かけた。そして、帰ってきてこう言う。「残念ながら、麻酔科の先生の時間が取れなくて、駄目なんです。手術が骨折の当日でも、1週間後でも、予後は変わりないというデータもあります。」・・・この最後の言葉が決め手となって、では仕方がない。その日程でお願いしますということになった。

 その若くて元気のよい担当医の先生は、「まず、とりあえずは手技で整復します。痛いですよ。」と言いつつ、2人がかりで手首と肘を引っ張ってくれた。相当に痛かったが、整復後は気のせいかもしれないが、親指の可動域が少々良くなった。それから担当医は、骨折した方の腕の肘から手首までを覆うギプスをはめてくれたのであるが、ギプスといっても、昔のものとは全くイメージが違っていた。昔のやり方は、石膏液に浸した包帯を先生が白くなりながら患部に巻いていって、それが固まると、カチンカチンの石のようになる。それがギプスだった。ところが今回は、1本の板を肘で折り曲げて両端を手首まで持ってきて、その長い「U」字形の底の空間をつぼめ、全体を包帯で巻いて出来上がりである。これだと、包帯を外しても、底の空間から落ちないし、上の空間から手を取り出せる。シャワーで洗ってもよいとのこと。なるほど、これは進化したものだ。昔は、夏の真っ盛りに2ヶ月間もギプスと包帯をすると、痒くて不潔で嫌になったものだが、今やそういうことはない。

 その日は、そのギプス姿で、家内とともにタクシーに乗って自宅へ帰った。痛いときには、痛み止めのロキソニンとその副作用防止のために胃薬のムコスタを飲むようにと言われた。でも、起きている時は何かと気が紛れていて、さほどの痛さは感じない。しかしながら、寝床に入ると、やはり痛い。そういう訳で、寝はじめに1錠ずつ飲んだ。私は普段からなるべく余計な薬は飲まない主義だ。ただこのような場合、強い痛さを無理に我慢すると、神経が馬鹿になってそれ以降、痛くないときにも痛いと感じるときがあるとも聞いたので、やむを得ない。夜中、眠たくなって寝入り、痛くて起きてを繰り返したが、わざわざ痛み止めを飲むために起きるのも面倒だと思っているうちに朝になった。


2.手術の日まで

 さて、怪我の翌日は、よんどころのない用事で、いつものように出勤した。問題は、背広を着ることができるかどうかであったが、これも軽量ギプスのおかげで何とか背広の腕を通すことができた。すると、左腕がやや曲がって見えるくらいで、遠目には分からない。痛さは前日と変わらず、痛いには痛いが、仕事に穴を開ける訳にはいかない。そういうことで一日を過ごし、加えて忘年会にまで出た。

 忘年会では、最初の挨拶を頼まれていたので、今年の初めに当オフィスで亡くなった方の思い出に触れた後、「今年は6月から7月にかけて西日本を襲った大豪雨、9月の北海道胆振東部地震など、災害の多い年だった。だから京都清水寺の貫主の書く今年の漢字は『災』だそうだ。どこかよそ事のような気がしていたが、このように自分の身に降りかかって、実感した。」などと語り、笑いをとった。もう、笑い話にするほかない。

 翌日は休日だったので、以前から誘われていた孫娘の幼稚園のクリスマス会に行ってきた。痛みを紛らすには、ちょうどいい。息子一家に会い、息子とお嫁さんには驚かれたが、とりあえず左手が使えないだけだから、心配することはないと言っておいた。面白いのは6歳の孫娘の反応で、家内が「おじいさんは、手を怪我したの。」と言うと、「ああ、骨折ね。」と、事もなげに言ったそうだ。最近の子は、何でも理解が早い。

 クリスマス会という学芸会が始まった。例年、卒園間近の子たちが演じるらしい。題目は、イエス様の誕生だ。天使、羊飼い、東方の三賢人、宿屋の主人と女主人それぞれの服装をした子たちが出てきて、一言ずつ伝言ゲームのように台詞を語る。それどころか、踊って歌う役柄もあるから、ミュージカルにもなっている。「あれ、ウチの孫娘はどこかな。」と思っていたら、何と、マリア様として堂々と登場した。息子もそのキャスティングを知らなかったようで、驚いていた。終わったとき、盛大な拍手を送ろうとしたが、左手が使えないのに気がついた。

 ところで、私は小さい頃、なぜイエス・キリストが厩で生まれたのかと不思議に思っていたが、今回の学芸会でようやく理由がわかった。住民登録のためにベツレヘムの町に赴いたヨセフとマリアが宿を探したが、どこもいっぱいで、ようやくある宿屋の女主人の好意で馬小屋に泊まらせてもらい、そこでイエスを生み、飼い葉桶に寝かせたそうな。そのときに天使が羊飼いに救い主の誕生を告げ、東方の三賢人も星に導かれてイエスを拝みにくる。なるほど、クリスマスにふさわしいお話だった。

 翌週は、いくつかの夜の会食や忘年パーティの予定が入っていたが、申し訳ないと言いつつ、夜の予定は全てキャンセルさせてもらった。その代わり、昼のスケジュールには穴を開けないように努め、全てこなした。この頃になると、腕は、ギプスの効果なのか、無理に動かさない限り、余り痛くはなくなった。ただ、長袖の下着が着られないのには困った。そこで、やや古めの長袖下着の左袖を半分にカットした。こうすると、当たり前だが、左袖にギプスを通すことが簡単になる。ワイシャツは、何とかギプス部分が入る。もちろん、袖のボタンは留められない。そこにスーツのジャケットの袖をやっと通して、仕事着の出来上がりだ。

 そういうことで、仕事はできるし、骨折部はさほど痛くはなくなったのだが、その代わり、腕の腫れはなかなか引かない。担当医の先生は、腕を心臓より上にあげていると、浮腫みが良くなるとは言うが、仕事しているときなどは、そうそう、そんな動作をしておられない。それに、冷やせとも言われたが、これも氷嚢は病院や自宅では用意できるものの、やはり昼間は無理だ。ただ、後から振り返ってみると、どちらも工夫して丁寧にやってみるべきだった。特に、冷やすのには、別に氷嚢を使わなくても、「熱さまシート」や「冷えピタ」の8時間用を使えばよい。これは、その部分の体温を2度下げる効果があるといい、気持ちがよかった。また、手を吊る三角巾は最近ではなかなか格好がよくなっているし、ギプスを付けて身体を洗うのは面倒なものだが、そのための専用のカバーもある。いずれもアマゾンで簡単に入手できる。便利になったものだ。



熱さまシート


三角巾


ギプスを付けて身体を洗う専用のカバー




3.手術の2泊3日

 待ち遠しく思えた手術の日が、やっと来た。1週間前に骨折したが、痛みはさほどではなくなったので、できればこのまま放置しておくと首尾よく治るというのが望ましいところだが、それでは将来的に問題が起こるというので、手術はやむを得ない。2泊3日の予定である。その前日の夕方、病院に入院した。個室を頼んでいたのに、運営の都合で、2人部屋になってしまった。私は、他人の鼾を聞くと寝られない質なので、これには困ったなと思ったが、今更やむを得ない。どうせ手術直後は寝られないから、同じことだと諦めた。

 その夕刻には、担当医と助手を務めてくれる先生が病室までやってきて、手術に当たっての一般的注意や、全身麻酔下の手術の注意などを聞く。中でも、肺血栓閉塞症予防のための注意は詳しかった。手術箇所を間違えないようにと、左手の黒のマジックで矢印を付けられたのは、可笑しかった。まあ、私の場合は腫れているのが左手なので、すぐにわかるとは思うが、用心するに越したことはない。

 そして、橈骨遠端位骨折手術説明書に基づいて丁寧に説明してくれた。この骨折には保存療法(ギプス固定)と手術療法とがあるが、一般的にズレが大きく徒手的整復が困難な場合、骨折が関節面に達している場合には、将来変形性関節症が起こる可能性が高いため、手術療法が選択されるそうだ。手術法は、掌側の手首当たりに6センチ程度の皮膚切開を行い、橈骨の骨折部に達し、骨折部の整復をした後、金属のプレートスクリューで固定するとの由。この手術の効果としては、骨折部を固定することで早期から関節可動域訓練を行うことができるので、関節の拘縮や筋力低下を抑えられる。また、将来の変形性関節症の発生を減少させられるという。術後1ないし2週間で手関節の運動を開始する。ただし、手を突いて荷重をかけることはしない。基本的に骨融合が見られた後は、通常は1年ほど後に、金属を除去することが多いという。ならば、そうしようと思う。それから、手術同意書、輸血同意書(万が一のもので、結局、輸血はしなかった。)、肺血栓閉塞症説明書及び麻酔説明書の確認と同意書に署名した。

 それが終わったが、夕食はもらえないし、することがないので、トイレの後に、消灯時間の午後9時から寝はじめた。ところが、いつもの就寝時間より3時間も早いので、余り寝られたものではない。案の定、隣人が大音量で鼾をかき始めた。これは困ったと思っているうちに、いつしか寝てしまった。朝、起床時間の午前6時前に起きたので、500ccの水を飲み、午前8時近くにもう一度、指定されたOS1のボトルを一本飲んだ。それで待っていると、朝の早い時間にもかかわらず、家内がやってきてくれた。これは、とても有り難く感じた。次に、担当医と助手を務めてくれる先生が様子を見にやってきてくれた。早ければ午後1時、遅くとも3時ということだった。

 待っていたら、ようやく午後2時近くに呼びに来てくれたので、歩いて手術室に向かった。家内が付き添ってくれる。入り口に患者3人が集まったところで、順に中へ入って行った。幅の細い手術台に寝かされて、その左側に手を置く台がある。これなら、左右を間違えられることはない。横たわって天井を見上げると、丸い形の電球が何個も着いた手術専用のライトがある。名前と右手首のバーコードが確認され、腕から点滴をされ、胸にモニター用の電極がつけられて、口に酸素マスクが当てられた。麻酔科の先生が、「今から始めます。」と言っていたのを聞いてしばらくして意識が遠のいた。点滴で麻酔薬が入ったらしい。かくして、生まれて初めての全身麻酔が始まった。

 目を覚ますと、病室のベッドの上で、家内が心配そうに覗き込んでいる。まだ十分には覚醒していないので、意識は晴れず、淀んでいる。家内に時間を聞くと、午後5時頃に手術室から病室に戻ってきたそうだ。左手を見ると、包帯でぐるぐる巻きにされている。ところが、左肩から下の感覚は全然なくて、指の感触はもちろん、手が今どこの位置にあるのか、そもそも左手があるのかどうかもわからない。意識は戻りつつあるのに、これはどうしたことだと思って担当医に聞くと、左肩に神経ブロックをしたので、その影響らしい。全身麻酔より3時間ほど遅れて午前1時頃には感覚が戻るが、それから猛烈に痛くなるので、痛み止めの点滴をするという。実際、その時間になると、激烈な痛みが襲ってきた。左手を冷やすと、やや良くなるが、それだけではどうにもならず、痛みと戦いながら、朝を迎えた。

 ちなみに家内はといえば、お見舞い者の退出時間の午後8時に帰らざるを得ず、それからは、トイレに行くにしても、水を飲むにしても、身体中につけられたモニターの電極、右手親指の酸素濃度計、鼻から吸入する酸素などのコードや管が身体の自由を奪っている中、それに抗する形で起き上がり、点滴のスタンドを右手だけで引きながら、大変な思いをしながら行ったものである。看護師さんにはよく助けてもらったが、深夜の担当は数時間ごとに変わるので、「トイレに行くときは、ナースコールで呼んでください。」という人から、「これくらいは自分でやってください。」という人まで様々である。ところがいざ自分でやろうとすると、左手の自由が効かないし、暗い中でコードに引っかかって身体につけられた電極や、鼻に掛けられた酸素吸入チューブが飛んだりと、散々の結果となってしまい、結局、ナースコールに頼ることが3回ほどあった。

 病室に帰って来た時、2人部屋病室の相方が退院したらしい。別の病気で2日間の検査入院のはずが、検査の結果、前立腺ガンが 見つかって、有明のガンセンターに行くことになったと言っていた。「それは大変、お大事に」と励ましておいたが、挨拶の間もなく、転院したらしい。それで、今晩は1人だと思っていたら、日が変わる頃、看護師に連れられて、高齢の男性が隣のベッドに入って来た。そして、こう言う。「(前の部屋の)同室者の鼾が酷く、寝られない。よろしくお願いします。」と言う。「それは、大変でしたね。」と答えたが、こちらは左肩より先が麻痺して、その先は会話にならないし、相方も直ぐに寝てしまった。そして、高鼾をかき始めたから、思わず笑ってしまう。

 隣の鼾のバックグランド・ミュージックも、普段なら非常に困るところだが、この手術の当日に限っては、そうでもなくて、手の痛さを紛らせてくれた。何が幸いするかわからないものだ。神経ブロックの効果が切れた午前1時頃から、点滴で痛み止め薬が投与されたものの、ほとんど効果が実感できない。うつらうつらしてかなり時間が経ったのではないかと思ってiPhone で時間を確認すると、まだ午前2時だ。そんなことの繰り返しで、何とか起床時間の午前6時になった。その頃には、全身麻酔の影響が薄れてきて、頭の中がスッキリしてきた。「良し、これでいける。」という気がしてきた。すると、お腹が空いてくる。そういえば、この1日は、お腹に固形物が入っていない。現金なものだ。



オプサイト・フレキフィックス


 午前7時半頃に朝食を持ってきてくれたので、さあいただこうとしていたところに、担当医と助手の先生がやって来られて、左手の様子を診てくれた。まず包帯を外したところ、傷口が見えた。6cmもの長さだから、てっきり数針縫ってあると思ったら、案に相違して、白い横筋が入った透明な医療用テープが貼られているだけだ。それを、エタノールの脱脂綿で拭いてくれる。その上から、医療用の「オプサイト・フレキフィックス」という名称の、真ん中は白い布だがその上から周辺まで含めて透明なフィルムで覆われたものを貼り付けてくれた。何と、それで終わりで、ギプスもない。こんなので本当に大丈夫かと心配になるくらいだ。担当医によると、この方が、治りは早いし傷跡も残らず綺麗になるし、ギプスがないからリハビリを早い時期から行えるという。また、昔は消毒液を付けたが、そうするとかえって治りが遅いので、今では水道水の流水で流し、綺麗な布で拭いて、こういうフィルムで覆っていけば良いそうだ。また、金属プレートが入った私の手のレントゲン写真を見せてくれた。悲しいかな、文字通りのサイボーグ人間になってしまった。しかし、そのうち、これを取り出せば、再び普通の人間に戻るというわけだ。


手の写真


手のレントゲン写真


 ギプスが取れてスッキリしたが、未だに膨れている左手を見つつ、朝食をパクパク食べて、少しは元気になった。それで身支度をし、家内に助けてもらいながら退院の手続きをし、しかるのちに、病院から直接、仕事場に向かった。痛みはあるので、我慢せずに、痛み止めの薬のロキソニンと、その副作用防止のレバミピド(ムコスタ)を飲むことにした。その他、感染症予防のために、抗生物質のケフラールを毎食毎、4時間の間隔を開けて3日間連続して飲むようにと言われた。これは、飲み切って終了だそうだ。退院時の体温は37.1度と、少し上がっていた。その日は、いつものように出勤して仕事をした後、夕方に帰宅した。


痛み止めの薬のロキソニンと、その副作用防止のレバミピド(ムコスタ)


抗生物質のケフラール




4.リハビリの日々

 担当医の助手が、 「早めに指のリハビリをして下さいね。特に指を反り返らせるようにしないと、将来、十分に曲がらなくなりますから、グーとパーを繰り返して下さい。」という。そんなものかと思うが、手術が終わってその当日、いざやってみると、あれあれ、そもそも指が2cmしか曲がらない。親指に至っては、1cmがやっとだ。反り返らせるなんて、とんでもない。だいたい、その前に肘のところが90度に固まっていて、動かせない。ところがこれは、30分間ほど、伸ばしたり、縮めたりを繰り返したら、痛さを感じないで出来るようになった。それにしても、たった1週間、三角巾で吊っていただけでこうなるとは、恐るべきものだ。これを筋肉の「拘縮」というらしい。こういうことがあるから、健康になっても、できるだけ毎日、身体を動かさないといけないと思う。



まず、指先からのリハビリ


 肘は何とかなったので、次は指の番だ。手術翌日と翌々日に、痛さに堪えながら曲げていく。30分もやっていると、4本の指が掌に届くようになった。次は、親指だ。これは、だいたい第1関節がちゃんと動かせないから、拳を作ることが中途半端になる。ただ、指を反り返らせるのは、まだ無理だ。この調子では、時間がかかる。それと同時に、力を要しない日常の動作をすることにした。まずは、マウスを持って机の上のあちこちに動かす。次に、ピーナッツの粒を親指と他の指に挟んで、左から右へと20個動かす。本を持って、場所を移動させる。日に日に、出来ることが増えていくのは楽しみだ。それにしても、たった1回、転んだだけで、こうなってしまうとは思わなかった。人生、至るところに陥穽ありということか。いずれにせよ、家内には心配をかけたので、誠に申し訳なく思っている。また、病室では献身的に付き添ってくれた。心から感謝している。

 次に担当医の先生に診てもらうのは、手術から10日後になる。それまで、リハビリをどうしようかと思ってネットで検索したところ、「済生会小樽病院」のハンドブックがあった。「橈骨遠端位骨折術後の作業療法(リハビリテーション)」というもので、非常によく出来た冊子だ。有り難い。これに従って、リハビリを地道に続けていくことにした。それにしても、今年はまさに「災」の年(annus horribilis)だった。来年は、良い年であることを期待しよう。




【後日談1】術後10日

 手術から10日後、手術していただいた先生の元を訪れて、診てもらった。患部に貼られた医療用の「オプサイト・フレキフィックス」を剥がすと、切開されたところに医療用のテープで固定している部分がむき出しになる。そして、「ああ、心配ありませんね。化膿もせず、ちゃんと傷口は閉じています。では、このままで。」と軽く言われた。


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 私が、「ええっ! 何も貼らないのですか?」と聞くと、

 先生は、「この方が治りは早いんです。」と答える。「それから、なるべく手の甲を前と後ろに曲げるリハビリをして下さいね。」と付け加える。

 私が、手の傷口を見ながら「はあ、やってみます。」と言って頭を上げると、もう先生の姿はカーテンの陰に消えていた。文字通りの1分診療だ。年末年始の休み中だから、診てもらっただけでも、良しとしよう。




【後日談2】術後20日

 手術後20日経過したので、担当医に診てもらいに行った。手首のレントゲン写真を縦と横の2方向から撮り、その画面を拡大していく。すると、埋め込まれた金属プレート(掌側ロッキングプレート)のちょうど裏側で、手の甲と橈骨の繋ぎ目の付近において、骨が三角形に小さく欠けている。先生に「ああ、これですね。」と言うと、「そうです。」と応じてくれる。その辺りの骨の角度を測って、何やら検討してくれている。そして「まあ、骨とプレートの状態は、これでよろしいでしょう。あとは、傷口が縫合しているかどうかだけど・・・」といいながら手首の医療用のテープを剥がしていき、「うん、いいですね。これも治っています。」と言ってくれた。テープを剥がして現れた傷口は、まるで魚の骨のようだった。無理に触らない限り、もう痛みなどは、全くない。


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 次に、「手と手首の動きはどうですか?」と聞くので、手の開閉、手首の左右への回転をやってみせて、「自主的にリハビリをやっていまして、まあ、8割ほどは回復しています。」と答えた。「では、引き続きリハビリを続けてください。ただし、手の自重の範囲内にとどめて、重い物は持たないで下さい。次は、1月半後にまた診ます。」と言われた。

 私が、「この調子で手の動きが順調に治っていくなら、3月からテニスを再開しよう思いますが、どうですか?」と聞いた。すると、「とんでもない。手がちゃんとくっつくのに、半年はかかりますから、まだしないで下さい。その間、患部がずれてしまったら、再手術が必要になります。」と言われてしまい、ガッカリした。でも、私のテニスはバックバンドも含めて健常な腕の右手一本でやっているから、怪我をした左手は使わない。だから、5月頃になったら再開したいと考えている。

 なお、これからのリハビリは、インターネットで調べた竹中準先生のリハビリテーション・マニュアルを参考にしたいと考えている。



【後日談3】術後30日

 リハビリは順調に進んでいる。指のグーとパー、手首の左右への回転は、稼動範囲はもう右手と変わらなくなった。次に、掌を上下に曲げようとしている。これも8割くらいは出来るようになった。しかし、これらを組み合わせて、例えばシートベルトを締めるために引き出したり、ネクタイを締めるために斜めに曲げたりすると、まだ痛さを感じる。次第に痛さは弱くなりつつあるが、無理をしない範囲内で毎日少しずつやっている。

 最近始めたのが500ccのペットボトルを左手首に持って腕を机の上に置き、手首を机の端から出してペットボトルを上下させるという運動である。最初はかなり痛かった。だから、水の量を三分の一くらいから始めて3日間かけてようやくフルタンクで動かせるようになった。

 リハビリのマニュアルによると、そろそろ左手でガラス拭きのような「手を突いた」運動を始める時期なのだそうだ。そこで、風呂場の鏡などをそろりそろりと拭いているが、特段の痛さは感じていない。まあ、3か月で稼動範囲が以前の80%、力が同じく70%戻るというのがリハビリの目標なので、この調子でいくと、軽く超えそうだ。

 話は変わるが、病院から昨年の救急診療代と入院・手術代の請求書が来た。ちょうど20万円だった。差額ベッド代が、本来なら個室でそれだけで15万円であるはずのところ、結果的に2人部屋になってしまったことから、この値段で済んだようだ。ところで、私は掛け捨ての都民共済の保険に入っている。今まで病気も怪我もしたことがないことから、そもそも保険金を請求したことがない。だからいくら保険金が降りるのか知らなかった。

 そこで、今回、請求してみることとし、その前に保険約款などを見て自分なりに計算したところ、保険金は12万5千円だった。入院特約10万円というのを付加していたのが効いたようだ。そこで診断書を付けて請求してみたところ、まさにその額が出た。そうすると、自己負担は、僅か7万5千円ということになる。だから、経済的には助かるが、「あれほどの怪我なのに、これだけの負担でよいものか。」という気すらするくらいだ。こういうところを見ると、日本が高福祉国家であるのは、間違いない。でも、高福祉がいつまでも続くという甘い期待(むしろ「幻想」か?)は持たずに、今のうちから、しっかり貯蓄しておく方が無難だろうと思う。




(2018年12月24日記。2019年1月追記)


カテゴリ:エッセイ | 19:10 | - | - | - |
母と神戸なつかしの旅

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プロローグ

 今年の夏、もうそろそろ90歳になる母に「どこか、行きたいところがある?」と聞いたところ、「生まれ故郷を見てみたい。」というので、つい2ヶ月前に福井県の山深い町に行ってきたところである。そして、自宅に戻ってきた途端、母が「次は、新婚時代を過ごした神戸に是非行ってみたい。」という。年齢を考えると、いつ何時どうなるかわからないので、早速、企画した。そして、故郷から母と妹2人、東京から私たち夫婦の、合計5人による珍道中が始まったというわけである。神戸は坂が多い街なので、折りたためる車椅子を持ってきてもらった。

 なお、私や両親や息子は、神戸には、平成19年平成20年平成28年に行っている。


1日目〜熊内神社、布引ハーブ園、夜景

(1)熊内神社

 三宮のホテルにチェックインした後、直ぐに、昔々住んでいた中央区の熊内町の、かつての家の近くにある熊内神社(くもちじんじゃ)へ行った。神戸らしく、けっこう急な坂の途中に、神社の鳥居があった。神社本殿へは、その鳥居をくぐって更に上の坂を上がっていかなければならない。そこに車椅子を置いて、私と妹で母の両腕を支えつつ、母に歩いてもらい、登って行った。すると社務所があり、たまたまそこに神社の方がおられたので、来意を告げて本殿の前まで行った。そこはいわば急坂の踊り場で、本殿の隣は私が半世紀以上も前に通った幼稚園である。まだあるとは、感激ものだ。もちろん、建物は近代的になっているが、この踊り場のような境内兼園庭と、そこから眼下に見える神戸の景色、それに大きな銀杏の木は昔と変わらない。ただ、もう一つ大きな木があったが、それはもう幹の途中で切られてなくなっている。


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 そこで、皆で参拝をした。母が「懐かしい。懐かしい前回来たときお父さんを思い出すね。」と言いながら、お賽銭をかなり奮発している。そして昔、幼稚園児だった私が、この急坂を登るのが嫌だと駄々をこねたというエピソードを、妹たちや家内に語る。穴があったら入りたいくらいだ。もっとも、「この急坂を幼稚園児が登るのは、そりゃあ、嫌がるわね」と同情された。うちの一家は、皆優しい。

 さて、帰る段になり、登って来た脇道とは別の本道を降りようとしたら、なんとまあ、これも急階段である。子供の頃の私が、ストをしたのも無理はない。でも、これを降りるのが昔の思い出にもなる。行かざるを得ない。そこで思い出したのが、石川啄木の詩である。

 「たはむれに 母を背負ひて そのあまり軽きに泣きて 三歩あゆまず」

 それなら、私にもできるだろうと思い、母をおぶってその階段を下りようとした。腰を下ろして母を背中に乗せて持ち上げようとしたが、とんでもなく重い。そもそも、両足すら上がらないではないか。家内が、啄木の詩をもじって、

 「やむを得ず 母を背負はんとして そのあまりの重さに驚きて 一歩もあゆめず」

 というようなことを口にするので、大笑いとなった。そこで、母の両脇を2人で支えて下りていき、もう1人は車椅子を折りたたんで別に持ってきてもらうことにした。これは上手くいって、無事に降りられたし、母も歩いたという気がしたという。

 階段を下りきった後、昔、住んでいた家に行ってみようとした。ところが、予め中央区役所に問い合わせてみたものの、かつての町名の何丁目というものが昭和49年に3つに分かれたということだけはわかるが、個々の番地が新しくどの番地になったのかは記録がないのでわからないということだった。せめて現場に行けば何か分かるかと思ったが、母の記憶にある貯水池と観光ホテルのいずれもが現存せず、ついに分からず仕舞いであった。

(2)布引ハーブ園


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 それから車椅子をコトコト押しながら、新神戸駅を通り過ぎて、布引ハーブ園山麓駅からロープウェイに乗った。登るにつれ標高が高くなっていったせいか、次第に寒くなってきた。気温は7度から8度くらいではなかったかと思う。ゴンドラから下りてみると、展望台から遠望する神戸港と神戸の街並みが素晴らしい。ちょうどクリスマスの前哨戦らしく、ドイツフェアを開催中で、ドイツワインやドイツの食べ物を売っている。家内が「グリューワイン」を見つけてくれた。これは暖かいワインなので、寒い時にはちょうど良い。何種類かのソーセージをつまみ、そろそろ暗くなりかけの異国情緒を味わった。

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 建物とその飾りを見ていると、今はドイツにいると言われても、そうかもしれないと思うくらいだ。そうこうするうちに日が沈み、辺りが暗くなりかけ、電飾が美しく輝く。すると、思いがけず、3人の女性がまるで妖精のごとく、舞台上に登場した。まず行ったのが、クリスマスのイルミネーションの点灯だ。1、2、3の掛け声ととも、一斉に灯った。建物から放射状に広がるイルミネーションが実に美しいし、また周りの木が真っ赤に照らされているのも本当に綺麗だ。そこに流れてくる3人の女性のコーラスも、素晴らしいもので、思わず聞き行ってしまった。母も「良いわね。良いわね。」と何回も言う。旅行の良い記念になった。

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 帰りがけに見た神戸港と神戸市の夜景は、これまた非常に美しいもので、しかもそれが下りのロープウェイから見ると、刻々に変化するから面白い。私は今年5月に函館山からの夜景も見たが、それは両側から海がUの字型に入り込んでいる中で真ん中に挟まれた市街地が光り、港に元青函連絡船の灯火やイカ漁の舟の漁り火が見えるという美しさである。それに対して、神戸の夜景には動きやストーリー性がないと思っていたが、こうしてロープウェイに乗って、変化する夜景を見るという楽しみがあるとは知らなかった。さて景色とドイツ気分を堪能して、ロープウェイで降りてきたら、もう夕食時になっていた。それで、山麓駅近くにあるANAクラウンプラザ・ホテル神戸の中華料理店に入り、広東料理を堪能した。母をはじめ、皆さんが良く食べること、食べること。元気で良かった。

(3)神戸港の夜景

 さて、母をホテルに送り届けた後、私と妹たちは、神戸港の夜景を撮りに行った。まずモザイクに行き、そこから対岸のメリケンパークにある神戸ポートタワー、神戸海洋博物館、神戸メリケンパーク・オリエンタルホテル の3つを撮る。私のカメラ、EOS70Dは、光を集めすぎて、赤いポートタワーがまるで赤い蝋燭のように見え、緑の博物館が緑の凧のように写ってしまう。性能が良すぎるのもよろしくない。考えた末、露出を絞って暗くして撮ったら、ポートタワーや博物館を構成する線材が浮き出て見えるように撮ることができた。妹たちは、盛んに風景を褒める。連れて来た甲斐があった。


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 モザイクの観覧車に乗った。これだと、メリケンパークのポートタワー、博物館、ホテルの3セットを立体的に見ることができるし、地上からは見えない遠方の夜景を楽しむことができる。でも、たった15分間しかないのが欠点だ。降りてみると、隣にアンパンマン・ミュージアムがあった。孫たちを連れてくれば喜ぶのにと思ったが、今回は平均年齢が70歳近い5人組なので、さすがに孫の世話までは無理だった。


2日目〜網敷天満宮と須磨寺

(4)綱敷天幡宮

 朝早く三宮のホテルを出発し、JR神戸線で、かつて神戸で住んでいた二番目の家がある須磨に向かった。まず、近所だった綱敷天幡宮を訪れた。平安時代の創建なので、もう1,100年以上の歴史があるらしい。学問の神様である菅原道真を祀る。境内を歩くと、面白いものが多い。同神社のHPによれば、


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 (a)願いをかなえる「なすの腰かけ」・・・何でも願いが叶うというなすの腰掛け 「なす」の花は一つの無駄もなく実を結び また「成す」と語呂が同じ処より努力はむくわれ願いが叶えられるという縁起をふくみます。 願いを込めて「なす」に腰かければどんな願いも叶えられます。ということでそれぞれ願いを込めて実際に座ってみたが、はてさて、どうなることだろうか。

 (b)「綱敷の円座」の敷物・・・道真公がお休みになられたとされる漁網の円座を模した縁起物。道真公は九州太宰府に左遷された際、須磨の浦で波が高くなり航海を中断されました。その時、漁師達が網の大綱で円座を作り、お休みになられた事にちなんで創建されたのが綱敷天満宮です。こう表現しては不謹慎かもしれないが、我が家の食卓上にある鍋敷きそっくりなので、親しみが持てた。


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 (c)「波乗り祈願像」サーフボードを持たれた菅公さん・・・「波乗り祈願」とは、成功を収めるために、うまく時流の波に乗ることを祈願するものです。決して自分本位な行動をとるのではなく、時を読み、流れに逆らわず、自らの平衡感覚によって状況に適応していくことが、人間が生きていく上で大切だと思います。綱敷天満宮の近くには、古くから風光明媚な景勝地として親しまれている須磨の浦があります。 今も、夏になれば、須磨海岸には、多くの若者や家族が訪れ、賑わいます。この像は、時代の荒波に乗り、一人でも多くの方々が幸せになることを願い、須磨の海でサーフボードを抱える幼少時代の菅原道真公をモチーフに制作、建立しました。最初にこれを目にしたとき、平安時代の衣装を着けて、どう見てもサーフボードらしきものを持っているから、まさかあの時代にあるわけがないと思って、頭が混乱した。須磨海岸に来ているサーファーに来てもらおうというのだろうが、それを神社が考えるなんて、いかにも関西らしい。

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 (d)「牛」・・・ 「菅原道真公の出生年は丑年である」「大宰府への左遷時牛が道真公を泣いて見送った」「道真公は牛に乗り大宰府へ下った」「牛が刺客から道真公を守った」「道真公の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」など菅原道真公と牛にまつわる言伝えや縁起が数多くあります。これにより牛は天満宮では、牛は御祭神の使者とされ、縁起がいいとされてます。この像は、私も小さい頃に触った覚えがある。

 このうち(d)「牛」は、いずれの天神さまにもあるが、(b)はともかく、(a)や(c)などは一体どうやって考えついたのか想像もできない。このほか、(e)5歳の菅原道真公、(f)菅公母子像 、(g)北海道の名付け親のプレートなどがあり、まるでテーマパークのようだ。いやむしろ実際にそうだったのかもしれない。これらを見て回っていると、時間が経つのを忘れるほどである。ちなみに、綱敷天満宮は、平成7年の阪神大震災の際に相当の被害を受けたが、見事に復興した。しかし、それで境内の雰囲気がガラリと変わってしまっていて、私にとって昔を思い出すよすがは、(d)「牛」くらいしかないのは誠に残念である。

(5)天 神 町

 綱敷天満宮を脇の道から出た後、昔、住んでいた家に向かう。私の記憶の通りで、場所はすぐにわかった。前回11年前に来た時と相も変わらず、私の姓と同じ姓の方が住んでおられた。そこから少しのところに、私が通った小学校がある。その正門へと歩いて行った。実は私は、1982年にここに来たことがあるが、その時の正門と校舎はまだ昔の面影を残していた。ところが、今回見た校舎は既に建て替えられて、見違えるように非常に立派になっていた。

(6)須 磨 寺


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 小学校前から須磨寺に向かった。山陽電鉄の踏切を過ぎて、商店街を通り抜けたところにある。ここは、源平合戦の折に源氏の大将源義経の陣地だったことで有名なお寺である。そのHPに書かれていたことを要約すると、「源義経は、海側に陣を構えた平家の裏をかいて、山から崖を馬で駆け下り逆落としの奇襲をかけ、平家を打ち破った。その時、源氏の武将である熊谷次郎直実が、波打ち際で逃げ遅れた立派な鎧を着た平家の武者を発見し、一騎打ちでこれを倒した。首を取ろうと兜を取ると、自分の息子と同じ年の頃16ないし17歳と見える紅顔の美少年、平敦盛だった。見逃そうと思ったが、梶原景時ら味方の軍勢がすぐそこまで近づいてきていて、それもできない。やむなく首を取ったが、腰に一本の笛が差してある。今朝、平家の陣から聞こえてきた美しい音色を出した人物だと知って、ますます後悔の念に駆られる。やがて熊谷次郎直実は、殺しあわねばならない戦の世に無常を感じ、法然上人の元で出家した。」とのことである。ちなみに、熊谷次郎直実が熊谷蓮生法師として、平敦盛を弔って念仏一筋に暮らした念仏三味院が、長岡京の光明寺の前身である。ちなみに、山門の両脇にある仁王像つまり「金剛力士像」は、非常に力強くて立派だと思ったら、それもそのはずで、運慶と湛慶の作だった。

(7)鉄人28号


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 再びJR須磨駅まで戻り、新長田駅で降りた。そこにある、鉄人28号(横山正輝原作)の像を見物する。地元商店街を中心に、震災復興と地域活性化のシンボルとしての期待を託して作られたものだが、塗料が剥げたりしたため、大きな修理がされて、つい最近、それが完了したそうだ。だから、前回2年前に来たときに比べて、まるで見違えてしまった。車椅子の母を先頭に、おじいさんの私、おばあさんの家内や妹たちが一斉にそれを見上げる。側から見るとすれば、おかしな風景だと思って可笑しくなった。そのあたりでお昼になる。鉄人28号の前のビルに、たまたま「たこ焼き」屋さんがあったので、大阪風たこ焼きと、明石風の玉子焼きをいただいた。いわゆるB級グルメだが、皆には、おつゆのある玉子焼きが好評だった。

(8)神戸どうぶつ王国

 JRで三ノ宮駅に戻り、そこから神戸ポートライナーに乗って、京コンピュータ前駅で降りた。その駅のすぐ前が神戸どうぶつ王国である。目玉は、鷹や梟を飛ばすショーであり、これを母や妹たちに見てもらうつもりだった。三連休最後の日なので、親子連れが多い。入ると、まずは室内で、たくさんのフラワーポッドが天井からぶら下がっている。右手に進んで、色とりどりの睡蓮が数多く咲いている2つの大きな池に出た。そのうちの一方の池を大勢の人が座って取り囲んでいる。我々は行くのが遅れたので、2つの大きな池を挟む通路に位置どりをするしかなかった。ところが、これが幸いする。


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 バードショーの時間になった。人が取り囲んでいない方の池の端から、猛禽類の鷹が大きな羽を広げていきなり飛んでくる。我々の真上だ。バタバタという音で、思わず、首をすくめるほどだ。母も、車椅子に座っているのに、皆と同じく首をすくめる。「そんなこと、しなくても大丈夫だよ。」と言うと、「あら、そうかい。」と答える。それがバードショーの始まりで、睡蓮の池の反対側にいる係のお姉さんを目掛けて、睡蓮の池の上を鷹や梟、果ては青、赤、緑と黄色の派手な熱帯の鳥まで、バタバタと飛び交う。その度に、観客が「おおう!」、「キャー!」と大騒ぎの興奮が巻き起こる。中には、飛び方の下手な鳥がいて、睡蓮池スレスレに飛んで落ちそうになるから、ヒヤヒヤする。母も「すごいねえ。やっぱり都会は面白いねえ。」と、ショーが終わってからも、興奮冷めやらぬ様子である。

 それから、母や妹たちと、我々夫婦の二手に分かれて、自由に見て回った。我々は足が疲れたので、まず喫茶コーナーに行って座り、アイスクリームを食べながら休んだ。そして腰を上げてペリカンフライトや、動かない鳥ハシビロコウなどを見物した。母たちは、それに加えて、カピバラなどをじっくり見たらしい。

(9)神戸牛レストラン

 三宮のホテルに戻って、しばし休憩の後、夕食の時間となった。せっかく神戸に来たのだから、少し張込んで神戸牛のステーキを食べてもらおうと考えた。インターネットで調べ、良さそうなところに電話をして予約し、車椅子を押しながら出かけた。5人もいるので、要所要所で地下街の地図を解析したり、斥候を放ったりして、三宮駅の地下街をどこをどうやって歩いたかは二度と説明できないくらいに複雑な経路を辿って、ようやく到着した。

 その神戸牛レストランでは、コースを頼み、母の分についてはサイコロステーキ状に小さくカットしてもらうことにした。なかなか充実したコースで、前菜のサラダ、ビーフシチューから始まり、スープ、メインのビーフステーキが出てきた。ビーフステーキについては、「まず何も付けないでビーフそのものの味を味わってください。少し甘く感じるのが神戸牛です。それからお好みで、当店特製ソースや、岩塩、わさびを付けてお召し上がりください。」と言われた。それぞれ試した結果、私は、わさびに特製ソースの組み合わせが美味しいと思った。それから、デザートとして、色とりどりのケーキ、アイスクリーム、フルーツの盛り合わせが出て、最後にコーヒー・紅茶が給仕された。驚いたことに、母が全てのプレートを平らげてしまった。これには妹たちもびっくりして、「家ではあまり食べないのに、こんなに食べるなんて、珍しいわ。」という。妹たちに、母の近況を聞くと、デイサービスに行き始めてもう5年目で、古株になって、すっかり取り仕切っているそうだ。まだ頭もしっかりしているし、口もそれなりに達者なので、さもありなんという気がする。

(10)神戸市役所展望ロビーの夜景

 食事の後、そろそろ暗くなってきたので、花時計の前を通って、神戸市役所1号館24階の展望ロビーに行った。地上からおよそ100mの高さからの夜景が楽しめる。神戸市のHPによると、「展望ロビーからは主に南側の眺望が楽しめます。ここからは、東は六甲アイランドやHAT神戸の街並みが、南は東遊園地からポートアイランド、晴れていれば対岸の紀伊半島まで見渡すことができます。西はハーバーランドの街並みなどが見ることができます。」ということである。昨夜見たモザイクからの眺めを反対側から見ていることになるが、残念ながら神戸ポートタワーと神戸海洋博物館は、ビルの谷間から顔を出しているような感じである。北側には、市街地が広がり、その暗い背景になっている背後の山肌の市章山、錨山、堂徳山に電飾の灯りが点いている。市章山には文字通り神戸市の市章、錨山には港町の神戸らしく錨マーク、堂徳山には20分ごとに「KOBE」「北前船(正面)」「北前船(側面)」のイルミネーションが現れる。なかなか美しい。それを見て、皆満足してホテルに帰った。


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3日目〜神戸異人館と京都

(11)風見鶏の館

 神戸の異人館街といえば、必ず取り上げられるのが風見鶏の館である。振り返ってみると、私は、8年前に訪れたことがある。こちらは、ドイツ人貿易商ゴットフリート・トーマス氏の自邸として、明治42年(1909年)頃に建てられた。外観は非常に美しく、1階から2階にかけて赤いレンガを多用していかにも重厚な感じを出しながら、その上には軽やかな白い壁の2階が乗り、更にその上には尖塔があって、しかもそのてっぺんには風見鶏が乗っている。よくできているものだ。背景は緑の山なので、まるでおとぎの国にでもあるような邸宅である。


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 ところで、この風見鶏の館が有名になったのは、昭和52年にNHKの朝のドラマ「風見鶏」の舞台になったからである。主演は、新井春美さんで、ドイツ人のパン職人のブルックマイヤー(蟇目良)と結婚して、本格的なヨーロッパ風のパン作りに情熱を傾けるという話だった。私はこの番組をかすかに覚えているが、妹たちは、まだ小さかったことから、全く知らないという。

 他の異人館の開始時間が9時からであるのに対して、この館は8時半からなので、それに間に合うように三宮のホテルから直行した。真っ先の入場者として入ったところ、車椅子の母がいるせいか、係の人にとても親切にしていただいた。クリスマス・ツリーの前で家族全員の写真を撮っていただいたり、母にサンタさんの帽子を被せて長椅子の前に座ってもらって記念撮影をしたりと、サービス満点で、非常に有り難かった。


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 1階には、玄関ホール、応接間、居間、食堂、書斎があり、調度品も豪華で、なかなか見ごたえがある。ちょうどシーズンのクリスマスの飾り付けもきらびやかで楽しい。2階には夫婦の寝室、子供部屋、客用寝室、朝食の間があるが、1階ほどには丁寧には作られていない。ベッドなどは、むしろ簡素なものである。子供部屋の遊び道具は、今と変わらない。

 ここからは、展示品の中にあった記述なので、いささかうろ覚えではあるが、敢えて記録しておきたい。この風見鶏の館の主であるトーマス氏は、娘のエルザを伴って夫婦で一時的にドイツに帰っていた時に、たまたま第一次世界大戦が起こり、日本は1914年8月、ドイツに対して宣戦布告をした。それに伴い、この館をはじめとするトーマス氏の財産は、敵性資産として没収されてしまったそうだ。財産を全て失ったトーマス氏は、ドイツ本国で困窮したという。その消息は長い間、不明であったが、ようやく娘さんのエルザが生存していることがわかった。そこで、30年ほど前に88歳のときに招待されて、自分の部屋を見て感激していたという写真と記録がある。

(12)萌黄の館

 萌黄(もえぎ)の館は、風見鶏の館のすぐ近くにあって、淡いグリーン色でコロニアル様式の外観の、これまた軽やかで美しい建物である。明治36年に、アメリカ総領事のハンター・シャープ氏の自宅として建てられた。1階には、ホール、応接室、書斎、食堂など、2階には居間、寝室、化粧室、子供部屋があり、それぞれに壁紙が違っている。また、大きな窓が付いた2階のベランダは、とても広くて気持ちがいい。裏に回ってみると、庭の片隅にレンガの大きな塊が転がっている。阪神淡路大震災のときに、屋根の上の暖炉の煙突が落ちてきて、女中部屋の天井を突き破ったそうで、その現物である。


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 ちなみに、この萌黄の館の入り口の右にある公園のベンチに、サックスを吹いているおじさんの等身大の像がある。ちょっと見る分には面白い像なのだが、その左に車椅子に乗ってニコニコ顔の母がいると、お互いにとっても似合っていて、皆で大笑いをしてしまった。

(13)ウロコの家

 前回11年前に訪れたとき、私はこう書いた。「うろこの館というのも、入口に天灯鬼、竜灯鬼がいたり、建物の中にはドンキホーテとサンチョパンサの像があったり、ガンダーラの仏があったりで、統一性がなく何が何だかわからない趣味であるが、どうやら像一般を見境なく集めるのが性癖だったらしい人の館である。こんなものを見て頭が混乱したあと、緑豊かな庭に出て、一瞬ほっとしたが、ふと横を見るとアンコールワットにある仏頭があったし、反対側を見ると、19世紀ロンドンで使われていた赤い電話ボックスがあった。」


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 では、今回はどうだったかというと、まず右の尖塔にはサンタクロースなどのクリスマスの飾り付けがあって、なかなか見ごたえがあり、楽しい。しかも左の尖塔との間の屋根の上には、よく見るとアメリカのトランプ大統領が北朝鮮の金正恩と握手している人形が乗っていて、思わず笑ってしまう。

 ウロコの家の中に入ると、前回驚いた数々の像がほとんどなくなっていた。併設の「うろこ美術館」に移してしまったようだ。でも、建物の外側にある大きな仏様の顔、ギリシャ風の女性像、猪の像、赤い電話ボックスはそのままで健在だった。

 ところで、このウロコの家は、大変急な坂の上にあるのである。車椅子には大敵で、バリアフリーどころかバリアフルである。車も通れない細い道だ。それでも行くときはさほどの高低差がなかったので良かったが、下り坂を車椅子で普通に行くと、転げ落ちてしまうのは必定だ。そこで、車椅子を逆に向けて、私の身体をブレーキ役にし、ゆっくりと坂下まで降りていった。

(14)ベンの家

 そうして降りて行って着いたところが、ベンの家の近くである。こちらも、11年前にウロコの家とともに訪れている。その時の感想は、「家の中は、シロクマ、バッファロー、ガゼル、トラなど、剥製の山である。何でも、貿易商だったベン氏は、商売を番頭に任せて、もっぱら趣味の狩猟に打ち込んだという。人生の理想というか………、とんでもないというか………、現代ではありえない生き方である。」


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 ウロコの家と異なり、こちらは、全くと言ってよいほど、前回と変わっていない。よく保存されている。ただし、現代では動物保護の風潮がますます強まっているから、仮にこれがヨーロッパにあったとしたら、今頃は焼き打ちに遭っていたかもしれない。それにしても、ベン氏は根っからのハンターだったのだろう。前回は気が付かなかったが、ベン氏の寝室にはベッドがなく、粗末なハンモックとキャンプ用具があっただけである。

(15)神戸北野美術館

 そろそろお昼になったので、どこかよいレストランはないかと思ってiPhoneを触りかけたら、ベンの家の向かいに神戸北野美術館というものがあって、そこで食事をすることができるらしい。階段があるから、母には車椅子を降りて歩いてもらったが、中に入ってその家庭的な雰囲気が気に入った。こちらは、明治31年(1898年)に建てられたアメリカ領事館官舎の建物である。

 現在、「モンマルトルの丘の画家たち」と題する展示がされている。「モンマルトルの丘地区を愛した画家たちの作品ポスター、テルトル広場で描く画家たちの作品、ムーランルージュの紹介、モンマルトル地区の紹介、ロートレックの作品のポスター」というところで、食事を待つ間、それらを見て回り、特にロートレックについては何も知識がなかったので、そういう人物だったのかと初めて知った。つまり、1984年に名門の伯爵家に生まれたが、生まれながらの遺伝病で脚が発達せず、成人した時の身長は152cmに過ぎなかった。父からも疎まれたので、パリに出て絵画を学ぶとともに、自分のような恵まれない境遇の娼婦、踊り子のような夜の世界の女たちに共感を覚えてデカダンな生活を送った。そして恵まれない彼女たちの様子を、愛情を持って描いたという。

 我々が案内されたのは、絵やロートレックを紹介するビデオが流されている部屋で、そこにあるのは我々のテーブルだけという、まるでどこかの家庭のダイニングルームにいるような雰囲気だったので、とてもリラックスできた。出てきた料理も、ホタテかサーモンがメインで、そこにワッフルが添えられていて、これが実に美味しいものだった。

 北野地区からタクシーに分乗して三宮に戻り、預けておいた荷物を取ってきて、そこから大阪に向かった。母と妹たちはそこから特急サンダーバードに乗って北陸方面へと帰っていった。「こんな楽しい、そして美味しいものを食べ、珍しいものを見た旅行はなかった。」ということで、喜んでもらえて良かった。

(16)鯖寿司いずう


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 我々夫婦は大阪からJRで京都に向かった。程なくして着いたので、京都駅近くのホテルにチェックインして一休み。どういうわけか、ホテルの前に警察のパレード隊が通った。交通安全のためのようだが、先頭を行く旗を持った女性の一隊が、命令調の掛け声で旗の持ち方の一斉切り替えをやっているところは、いかにも警察官らしいと思った次第である。その後、宿を出て四条烏丸の交差点に行き、四条通を河原町まで、久しぶりに夫婦で散歩した。ところが、通行人がひどく多くて、新宿駅の通勤時とあまり変わらないほどの混雑で参った。それでも、何とか鴨川を渡って、祇園地区に行こうとすると、新装なった南座が目に入って、その歌舞伎の看板をしばし眺めた。寿曽我対面、鈴ヶ森、封印切、連獅子などの歌舞伎の演目の看板が掛かっていて、その上にはずらりと歌舞伎俳優の名前が書かれた招き看板が掲げられている。全部で50枚あるそうだ。

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 鯖寿司をいただくために、祇園の「いずう」に行った。昔ながらの変わらぬ店構えを残している。席に着くと、家内が「この席は、以前来たときにも座ったところよね。」という。そういえば、その通りだ。前回来たのは10年も前のことなのに、よく覚えているものだと感心した。注文したのは、「鯖姿寿司」と「香子巻寿司」である。特に、鯖姿寿司の方はボリュームが多いので、1人一つは、とても多過ぎて無理だ。そこで、これらを一つずつ注文し、分け合うことにした。

 鯖姿寿司が運ばれてきた。昆布に巻かれていて、それを取ると、鯖の身が分厚い寿司が現れた。いや、実に濃厚な味ながら、魚特有の臭みがなく、するりと食べられて、口の中に旨味がふわりと広がる。美味しい。来て良かった。「香子巻寿司」の方は、香子つまりお新香の河童巻きである。こちらも箸休めのように食べると、あっさりして良い味である。食べながら店の様子を見ていると、次から次へとお客さんがやって来た、しかもその7割ほどは、持ち帰りの客である。よく流行っているらしい。結構なことだ。すっかり満足して、店を出た。家内は疲れたというので一人で京都駅近くのホテルに帰り、私は永観堂の紅葉のライトアップを見に行くことにした。

(17)永観堂のライトアップ

 永観堂は、正式には「浄土宗西山禅林寺派総本山禅林寺」といい、空海の高弟の真紹僧都を開基とし、本尊は阿弥陀如来である。古くより「秋はもみじの永観堂」と讃えられるほど紅葉の名所として知られる。最近のインターネット検索でも京都の紅葉ランキングで第1位である。


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 おそらくそのためであろうか、タクシーで永観堂に着いてみると、ものすごい数の人が並んでいる。事前に購入した拝観券のない当日券の人、つまり私のような気まぐれ観光客が並ばなければいけないらしい。「いやはや、ほんの数年前まではこんなことはなかったのに。まるで上野動物園でパンダのシャンシャンを見る時のようだ。」と思いながら、その長い列に並ぶ。暗い中を、列がうねうねと続く。ある時は入り口に近づいたと思ったらまた離れということを繰り返してようやく拝観券売り場にたどり着いた。ここに至るまで45分もかかり、身も心もああ疲れた。あまり、人には薦められない。

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 ライトアップされた永観堂の紅葉が暗い空にくっきりと浮かぶ。確かに、これは綺麗だ。あちこちにレンズを向けて、夜景モード(5枚の写真を連写し、それらを自動的に合成して手ブレを修正するモード)で撮る。放生池の寿橋を渡っていると、対岸の紅葉が水面に写って本物よりも本物らしくて美しい。ところが、危ないから、橋の上からは撮ってはいけないという。橋を渡り切って撮ろうとすると、今度は岸辺の樹木が邪魔して、水に写る紅葉が上手く撮れない。なかなか思い通りにはいかないものだ。それでも、あれやこれやとかなりの写真を撮って、満足して家内の待つホテルに戻った。


4日目〜京都

(18)東 福 寺

 翌朝、早くに起きて2人で朝食を摂ったが、和風で、しかも美味しい料理ばかりが並んでいて、大いに満足した。これは良いホテルだ。ダイエットの観点からしても、朝食にたくさん食べることは、理にかなっている。「朝食は貴族のように、昼食は平民のように、夕食は乞食のように」と言われる所以だ。もっとも、夕刻に会食が予定されていて貴族の食事のようになってしまう日もないではないが、そういう時でも朝はいつも通り豪華に、しかし昼はごくシンプルな食事にするよう心掛けている。


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 タクシーで近くの東福寺(臨済宗東福寺派大本山)に向かった。日本最古にしてかつ最大級の伽藍だという。8時半の開門の20分前に着いたが、既に長蛇の列だ。最近の京都は観光客が激増したせいか、どこへ行ってもこのような様子だという。困ったものだ。タクシー運転手さんによると、「例年は秋の紅葉と春の桜、それに夏休みのシーズンは混雑しますんですが、それでもさすがに1月から2月にかけては観光客が非常に少なくなって、京都は落ち着きを取り戻すんですけれども、なんですなあ、近頃はそういう時期でも外国人観光客がどんどん来てしまいますねん。」ということらしい。

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 開門時間になって列は動き出し、まずは通天橋を見に行く。ここは、まず谷底に下る途中で谷川の両脇から張り出す紅葉の木々を見る。谷川と崖を覆う苔の緑の絨毯と、色とりどりの紅葉の葉の対比が言葉を失うほどに美しい。それから宙に浮いている通天橋を見上げてその造型の美を感じ、次に橋の上から下界に広がる赤と黄色の雲のような紅葉を見下ろし、更にその橋と同じ高さで橋を取り巻く紅の雲のような紅葉に感動するという、単に平面的だけでなく、立体的にこれでもかというほどに紅葉を堪能することができる。私は、この東福寺が京都で一番の紅葉の名所ではないかと思う。

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 次に、東福寺の方丈(禅宗寺院の僧侶の住まい)を拝観させていただいた。東西南北にそれぞれ一つずつ、4庭が配され、「八相成道(釈迦の生涯に起こった八つの重要な出来事)」にちなんで「八相の庭」と称されている。正式には「東福寺本坊庭園」という。これは、あの著名な作庭家である重森三玲(1896-1975年)によって昭和14年(1939年)の手によるものである。非常にモダンで、これが70年前のものとは思えないほどである。

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 まず目に入るのが、峻険な山々を想像させる大小様々な岩が林立する石庭の「南庭」である。白い砂に水が渦を巻くような雲状の溝が描かれており、それぞれ、八相成道にちなんで、蓬莱、方丈、八海、五山など八つを表すそうだ。それらをしばし眺めていると、雑念か何かは知らないが、色々な思いが心に浮かぶ。流石に禅寺である。「西庭」には、井田市松といって、白い砂地にサツキを刈り込んだ大きな市松模様が置かれている。「北庭」には、その市松模様がもっと小さくなって、緑主体のように見え、その背景には赤い紅葉と黄色い紅葉が美しい。なんとモダンな庭なのだろう。「東庭」は、やはり雲状の溝が刻まれた白い砂地の上に、北斗七星を模して円柱形の柱が立てられ、その向こうには天の川を模した緑の生垣が配されていて、誠に素晴らしい。

(19)圓 光 寺


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 東福寺をタクシーで出て、岡崎と京都大学を経由して一乗寺に至り、右折して詩仙堂のところを左手に曲がって「圓光寺」に着いた。「臨済宗南禅寺派 瑞厳山圓光寺」が正式な名称という。実は私はこのお寺を訪ねるのは初めてで、その縁起によれば、徳川家康が1601年に、足利学校の学頭を招いて伏見に圓光寺を設立して学校とし、それが相国寺山内を経て60数年経って現在の地に移転したということらしい。こちらには、山門をくぐってすぐに、「奔龍庭」という実に特色のあるお庭が広がる。白い砂による石庭なのだが、全体を龍に見立てて、頭部に当たる所に迫力ある石を置き、龍の身体を表すように瓦を埋めて、力強い線を描き出している。一度見たら、二度と忘れないほどの庭である。

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 「十牛の庭」は、牛を追う牧童が描かれた十牛図を題材にして近世に造られた池泉回遊式庭園で、紅葉が真っ盛りである。南側には栖龍池があって、なかなか風情がある。この庭園を室内から眺めると、まるで一幅の絵画のごとくに思える。庭の片隅には、水琴窟がある。その前を通りかかると、何とも言えない優しい音が聞こえる。竹の棒が交差するように無造作に2本、設えてあって、それに耳を近づけると、埋められた甕の中で水滴が落ちて砕ける、はっきりとした音を聞くことができる。心が洗われるようだ。これを聞くだけでも、拝観した値打ちがある。「淡桜庭」には十一面観音様がいて、春になると周りの桜が美しいらしい。そこから竹林の脇の道を登って山に登ってみると、開基徳川家康を祀ったお墓がある。やはりこれも、東照宮という由。

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(20)詩 仙 堂

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 私は、詩仙堂へは学生時代を含めて、何度も訪ねたことがある。昔は、こんな鄙びた地区までやって来るような参拝客など、あまりいなかったものだ。でも今では、紅葉の季節のせいかもしれないが、ひどい混雑なのを目にして、少し驚いてしまった。こちら詩仙堂は、現在は曹洞宗永平寺の末寺で、徳川家康に仕えた石川丈山が33歳で隠退後、朱子学を修め、禅寺の和尚に禅を学んだ後に、59歳で造営し、没するまでの30余年を過ごしたところである。HPによると、丈山は、「清貧の中に聖賢の教えを自分の勤めとし、詩や書や作庭に寝食を忘れてこれを楽しんだ風雅な文化人」であったとのこと。嘯月楼は、普通の屋根に小さな望楼のような屋根付き展望階が乗っている建物であるが、そこから紅葉の庭を眺めると、まさに絶景としか言いようがない。ときどき、竹を叩くような音が聞こえると思ったら、「鹿おどし」の音だった。

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 詩仙堂の紅葉を十分に見たので満足をして、そこから叡山電鉄の一乗寺駅の方へと2人で歩いて行った。僅か10分ほどの距離だが、私は昨夜の永観堂で疲れたので、ちょうどお昼時だし、どこかよいレストランか喫茶店がないかと思っていた。すると、京都中央信用金庫の建物を過ぎてしばらく行った辺りで、右手にピザ屋さん(Doppio Zero:ドッピオ・ゼロ)があった。覗いてみると、竃を備えた本格的なもののようだ。失礼ながらなぜこんな鄙びた場所にという気がしたものの、それだからこそ、きっと美味しいに違いないと思って入った。メニューを見ると、結構な値段だったので、これなら良いかもしれないと、最も高い生ハムとルーコラのピザを頼んだ。大きいので、2人で一つを分け合うことができる。そうするとこの値段でも、リーズナブルなものかもしれない。

 さて、熱々のピザが来た。家内と分け合って半分ずついただいた。ううーむ。これはとっても美味しい。このレストランに入って良かった。見ていると、シェフはイタリア人のようだ。その方と2人の女性とでやっているお店らしい。どうか、この調子で美味しいピザを地域の皆さんや私たちのような京都を訪れる観光客に提供していってほしいものだ。

(21)渉成園(枳殻邸)

 ピザ屋さんで大いに満足した後は、叡山電鉄で出町柳を経由して、京阪電車で七条駅まで行って、渉成園(枳殻邸)に歩いていった。渉成園には、私はかなり前に、家内は2011年に来たことがあり、非常にバランスのとれた美しい庭園だという記憶があったからだ。ちなみに渉成園とは、真宗大谷派の本山東本願寺の飛地境内地であり、国の名勝にも指定されている池泉回遊式庭園である。


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 入り口で参観料をお支払いすると、パンフレットを2種類もいただいた。こういう気前の良いところは、さすがに宗教団体の施設である。正面の「高石垣」が面白い。長い板のような石が斜めに配置され、石臼のようなものもあれば、色味が違う石もあって、これらが組み合わされて不思議な存在感がある。

 中に入って印月池を見に行ったのであるが、周囲を少し回っただけで、ガッカリしてしまった。記憶とはかなり違っていたからである。何というか、庭木にしても、池にしても、昔の手入れの方が、はるかに良かったと思う。それであちらこちらの写真を少し撮ってはみたものの、途中で続ける気が失せて、そのまま出てきてしまった。なぜなのだろう。かつてのお東さん騒動で、いったん売り払われて買い戻された影響が、なお残っているのだろうか。せっかくの文化財なのにと、残念に思えてならない。敢えて言うと「外れ」だったが、ここに至るまでは全て「当たり」だったので、画竜点睛を欠く思いだ。しかし、まあこういう時もあるだろう。


エピローグ

 夕方、京都から東京行きの新幹線に乗り、無事に帰京することができた。一家5人、平均年齢が70歳近くの面白い旅だった。それにしても、母をはじめとして皆、元気に帰って来ることができたので、何よりだった。思い返すと、まさに珍道中だった。その中でも面白かったエピソードを二つ、ご紹介しよう。

 その一つは、神戸に到着した日のことである。ホテルを出てすぐに気がついたのは、気温が低くて、かなり寒いということだ。車椅子に座る母には、妹たちが膝掛けは用意してくれていたが、手が冷たかろうと、上の妹が自分の手袋を渡そうとした。ところが、どこかで片方を落としたか置き忘れたかで、一つしかない。そこで、私が近くのコンビニで毛糸の手袋を買い求めて、母に渡した。母は「あったかい。ありがとうねぇ」と言ってはめてくれていたが、財布を出そうとして手袋を外したらそのまま置き忘れたりするので、その度に誰かが注意してみておくことになった。

 そうして、綱敷天満宮で綱敷の円座やなすの腰掛けなどを見物し、それから小学校に向けて歩いているとき、「あっ、手袋がない」と、誰かが気がついた。下の妹が天満宮に探しに行ったものの、しばらくして「なかったわぁ」と言って帰ってきた。「それは、残念。ご苦労様でした。また、その辺で買うからいいよ。」と言って歩き出したところ、「ああっ、そこにあるわ。ほれ、お兄ちゃんのポケット」と誰かの声。「どこに?」と言って振り返った途端、私のコートがふわりと翻り、ポケットのマジックテープにくっついているものが見えた。外してみると、母が置き忘れたと思いこんでいた手袋そのものだったので、5人でそれこそもう大笑いをして、お腹が痛くほどだった。

 そういえば、天満宮で私は暑く感じたので、コートを脱ぎ、綱敷の円座の上に置いておいた。その時に、母もたまたま手袋を外して私のコートの上に置いたのだろう。それで、お参りが終わった後、私は手袋に気がつかないままコートを着たから、こうなってしまったのに違いない。何はともあれ、丸く収まってよかった。それにしても、笑い過ぎで、まだ胸とお腹が痛い。これは文字通りの珍道中だ。

 第二は、神戸の中華料理店での出来事である。入って丸いテーブルに着いた途端、もうすぐ90歳になる母をはじめとして、60歳と59歳の妹たちが、方言丸出しで喋る。それも、まるで関西の漫才のようで、母はボケ役(もしかして、本物かもしれない)、長女はツッコミ役、次女はとりなし役と、役割分担までして、まあそのかしましいことといったらない。

「あれ、そんなことするんがけ。」
「ほやほや、そうするがやちゃ。」
「なーん、そんなこと、ないっちゃー。」
「ほな、そうしられ。」


 という調子である。北陸各地の方言で、しかもそれらが入り交じって高速で話されるものだから、男の私が口を挟む隙間もないし、こういうときの標準語は弾き飛ばされて、全く役に立たない。注文を取りに来たレストランの人は唖然として「これはどこの外国語だろう」という顔で見回していた。私が標準語で注文しだすと、ほっとしたような顔で、メニューの説明をしてくれた。








 母と神戸なつかしの旅(写 真)







 母と生まれ故郷を訪問






(2018年11月26日記)


カテゴリ:エッセイ | 00:04 | - | - | - |
栃木秋祭り

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 栃木秋祭り(写 真)


1.栃木への旅

 栃木秋祭りに行ってきた。私は栃木県といえば、日光や那須には良く行ったり、たまには泊まったりするが、栃木市はその途中にあるいわば通過地であるため、これまで電車を降りたこともなかった。ところが今回は、2年に1度開催されるお祭りで、人形を乗せた絢爛豪華な山車が出るという。そこで、その最終日である11月11日(日)に写真を撮りに行った。北千住駅から東武鉄道の特急スペーシアに乗り、わずか1時間という近さである。

 特急の中で、「そういえば、栃木県の県庁所在地は宇都宮市で、なぜ栃木市ではないのだろう。」ということが気になり、インターネットで調べた。そうすると、山形県令から福島県令を経由して栃木県令となった三島通庸(その後、警視総監で亡くなる)が、その当時、自由民権運動が盛んだった栃木市を敬遠して、宇都宮市に県庁を持っていったということがわかった。なんともはや、明治の初期らしい強引なやり方である。でも「そのおかげで」などというと語弊があるかもしれないが、近代化とは一線を画した江戸情緒あふれるしっとりとした街並みが残ったようだ。この話を聞いて、山口県の萩の街を思い出した。あそこも、明治以後は山口市に県庁が置かれて、維新の英雄を輩出した萩は置いてきぼりにされたが、そのおかげで、維新に活躍した英雄の家がそのまま残っている。何が幸いするかわからない。


2.絢爛豪華な山車

 栃木駅に降り立つと、祭りのパンフレット((表紙)(会場周辺図)(会場案内図)(山車等案内)(主なみどころ)(秋まつり日程))を配っていた。それを見て、お祭り会場の「蔵の街大通り」へと歩いて行く。大きな江戸型人形山車が林立しているのが見えてきた。栃木市のHPによると、

 「このまつりは、見事な彫刻と金糸銀糸の刺繍をほどこした絢爛豪華な江戸型人形山車が蔵の街を巡行するもので、明治7年より、慶事や祝典にあわせて行われ、市制施行を境に概ね5年ごとに開催されてきました。神社の祭りではなく、江戸との舟運で栄えた『小江戸とちぎ』の当時の商人たちの心意気と財力で作り上げてきたこの祭りの伝統は、蔵の街並みとともに受け継がれ、現在では隔年開催となっております。江戸末期から明治時代にかけて作られた9台の山車は、江戸山王祭に参加していた静御前の山車を筆頭に、3代目原舟月などの名工の手による人形を載せており、6台が栃木県指定有形民俗文化財になっています。」とのこと。

 そのおかげで、こうして見物させてもらっているというわけだ。江戸の山王祭は、今でこそ、このような豪華な山車は一つも見当たらなくなっているが、かつては、こういう立派なものだったのかと、感慨深いものがあり、江戸期の文化水準の高さに改めて感心し、同時に失われた江戸文化そのものに思いを馳せた。この山車は、将軍の上覧に供するために江戸城内へ入るときに、門でつかえないよう、最上階の人形の身体が山車の中へと収納されて高さがその分だけ低くなるように作られている。現在、その機能は、道路の途中にある電線を避けるために実際に使われているというから、面白いものだ。

 さて、その江戸型人形山車を地図に並んでいた順に南から北へと書き出すと、【室町の桃太郎】、【倭町二丁目の神武天皇】、【倭町三丁目の静御前】、【万町一丁目の劉備玄徳】、【万町二丁目の関羽雲長】、【万町三丁目の張飛翼徳】、【嘉右衛門町の仁徳天皇】、【泉町の諌鼓鶏】、【大町の弁慶】となる。この他に山車ではないが【倭町一丁目の雄獅子、雌獅子】が展示されていた。前日に来れば、【万町一丁目の天照大神】と【万町二丁目の素盞嗚尊】が見られたようだ。


倭町一丁目の雄獅子、雌獅子


 午後2時から山車が動き出すようだが、それまでは蔵の街大通りに山車が並べられている。それを南から北へと撮って行き、次に動き出してからまた撮った。まずは、【倭町一丁目の雄獅子、雌獅子】であるが、これだけは道端に展示されているだけで、山車はない。明治6年頃の作で、厄除け、和合、火防の願いが込められているそうだ。なぜ山車がないのかは聞きそびれたが、夜になるとこの二つの獅子の間に提灯を持って立つ姿の私自身の写真を撮っていただいた。良い記念になった。改めて、お礼を申し上げたい。

室町の桃太郎


室町の桃太郎


室町の桃太郎


室町の桃太郎


 それから、【室町の桃太郎】である。これは、明治38年作の県指定有形民俗文化財であり、総合的に見て、私が最も良いと思った山車である。桃太郎人形は、「日本一」の旗を背中に挿した童顔で「日本一」の旗を背中に挿した童顔で、素朴な表情をしている。山車の前に置かれている囃子座は小松流で、屋根がなくて外に出ている。錫杖を持って行列の先頭に立って歩く手古舞衆(注)というお嬢さん方の数が揃っていて可愛いし、何よりもユニークなのは、2人の鬼である。その「手作り感」がとても良いし、皆で写真を撮るときなどはそのうち1人が寝転ぶという茶目っ気ぶり。また、その前に大きな御幣のような棒を持って乱入して振り回す男女2人もいて、皆で大笑いしている。とても仲が良い町内だなと、誠に微笑ましく思った。
(注)「手古舞(てこまい)衆」というのは、川越祭りの用語

倭町二丁目の神武天皇


倭町二丁目の神武天皇


倭町二丁目の神武天皇


倭町二丁目の神武天皇


倭町二丁目の神武天皇


倭町二丁目の神武天皇


倭町二丁目の神武天皇


 【倭町二丁目の神武天皇】逆光になったが、神武天皇の山車があった。明治38年作の県指定有形民俗文化財とのこと。四囲の幕には赤地に金の龍が描かれていて、神武天皇の人形が持つ金ピカに光る八咫烏が太陽と重なって実に神々しい。これが動き出すと、八咫烏がゆらゆら揺れてますます有り難みが増す。その前に4人の手古舞衆のお嬢さんたちは日本髪姿で和風だから、これまた神武天皇像と良くマッチしている。平砥流のお囃子が力強く鳴り、「ああ、お祭りだなぁ」と思う。

倭町三丁目の静御前


倭町三丁目の静御前


倭町三丁目の静御前


倭町三丁目の静御前


倭町三丁目の静御前


 【倭町三丁目の静御前】は、嘉永元年(1848年)作の県指定有形民俗文化財。四囲の幕には、二段目が緑地に雲模様、三段目が赤地に金で若松模様が描かれている。山車の前には、ひょっとこのお兄さんが剽軽な踊りを披露していて、その脇には姉さんかぶりの手古舞衆のお嬢さんたちがいる。神武天皇の日本髪を結った手古舞衆のお嬢さんたちがやや武家風だとすると、こちらは茶摘み娘のような非常に庶民的な感じの手古舞衆のお嬢さんたちである。衣装一つでそれほどの個性の違いが見て取れる。ただ、静御前は公家風の烏帽子をかぶっているので、それと対比すると、なかなか面白い。

万町二丁目の関羽雲長


万町二丁目の関羽雲長


万町二丁目の関羽雲長


万町二丁目の関羽雲長


 【万町二丁目の関羽雲長】は、明治26年の作で、同じ町内の日本武尊や万町三丁目の素戔嗚尊などと同じ作者であるが、これら2つが県指定有形民俗文化財なのに、これはそういう指定有形民俗文化財には指定されていない。途中で原型をとどめないほどの破損でもあったのだろうか。よくわからない。聞きそびれた。関羽雲長像そのものは、中国風の槍を縦に構えていて目立つ。それに、山車の周りを彩る幕には赤地の背景に金色の糸で羽の生えた飛龍が刺繍で描かれていて、スコットランドのドラゴンに似ている。どちらも想像上の動物だから、まあ目くじらを立てるほどのことはない。いずれにせよ、誠に力強い限りの刺繍である。こちらは、手古舞衆のお嬢さんたちというよりは、いなせないでたちの若衆(?)が目立っていた。

万町一丁目の劉備玄徳


万町一丁目の劉備玄徳


万町一丁目の劉備玄徳


万町一丁目の劉備玄徳


万町一丁目の劉備玄徳


 【万町一丁目の劉備玄徳】は、明治26年の作で、中国風の冠を被っている文人風の像であり、漢王朝の始祖である劉備玄徳だろう。山車の周りを彩る幕には関羽雲長の山車と同じ飛龍が刺繍で描かれていると思ったら、作者はこれと同一の三代目法橋 原舟月だった。いやいや、それどころか、神武天皇も静御前も張飛翼徳も、皆同じ作者である。本日は見られなかった天照大神と素盞嗚尊もそうだという。このうち4体が県指定有形民俗文化財となっている。現代の目から見ても写実的で実に美しい人形である。

泉町の諌鼓鶏


泉町の諌鼓鶏


泉町の諌鼓鶏


泉町の諌鼓鶏


【泉町の諌鼓鶏】は、「人型の人形」ではなくて「鼓に乗った鶏の人形」であることが面白い。これが曳きまわされていくと、ものすごく存在感があって辺りを睥睨するかのようだ。これには説明があって、「天下泰平の象徴で、良い政治が行われ訴えを聞く太鼓を叩く者がなく鶏が太鼓に巣を作ったという故事」からきたものだという。かつての手古舞衆のお嬢さんたち(?)が元気に縄を引いて頑張っていた。この調子で高齢者の模範として、それこそ足腰が立たなくなるまで、続けていっていただきたいものだ。

万町三丁目の張飛翼徳


万町三丁目の張飛翼徳


万町三丁目の張飛翼徳


万町三丁目の張飛翼徳


万町三丁目の張飛翼徳


【万町三丁目の張飛翼徳】は、明治26年の作。髪が両側から迫って顔の半ば以上を覆っているので、人形の表情を窺うのは難しいほどである。遠くから見ると、鼻しか見えない。そして、額に犬の面のようなものを付けているので、ますます剣呑に見える。ついでに言うと、四囲の幕には虎が刺繍されていて、おどろおどろしい。顔については、夜になってライトアップされて、ようやく見ることができた。

大町の弁慶


大町の弁慶


大町の弁慶


大町の弁慶


大町の弁慶


【大町の弁慶】は、明治初期の作で、作者は不明だが栃木市指定有形民俗文化財である。例の弁慶姿で、薙刀を斜めに構え、これから切って捨てるぞとでも言いそうな迫力がある。それはとっても良いのだが、人形の難点としては、顔の表情がいかにも素人が作ったと思える造作なのである。しかも、腕に凸凹があって、あまり美しくない。少なくとも腕に付いては、弁慶らしくボディビルダーのようなムキムキの筋肉を付けられないものか・・・いやいやそうすると、せっかくの民俗文化財の指定が取り消されるかもしれない。余計なことを言ったかもしれないが、明治初期といえば既に150年は経っている。今や立派な文化財である。こちらも、行列の先頭には日本髪を結った手古舞衆のお嬢さんたちがいて、とても可愛い。

嘉右衛門町の仁徳天皇"


嘉右衛門町の仁徳天皇"


嘉右衛門町の仁徳天皇"


嘉右衛門町の仁徳天皇"


【嘉右衛門町の仁徳天皇】は、栃木市指定有形民俗文化財であり、非常に印象に残るお顔をした人形である。仁徳天皇が、威厳のある顔にも見えるし、やや憂いを帯びた顔にも見える。天皇というお立場を表裏共に表現しているように思えるのである。この山車に付いていくと、蔵の街大通りを左に曲がって、銀座通りに入り、巴波川(うずまがわ)の方へと向かった。銀座通りには電線が縦横に走っている。どうするのだろうと思っていたら、仁徳天皇像がするすると下がって山車の中に収納され、おじさんがその脇で先が三角形になっている木の棒を構えている。電線がある所に来るとそれを使って電線を上に持ち上げて通過している。なるほど、うまくできている。そうやって銀座通りを突っ切り巴波川に架かっている幸来橋に至り、それを渡り切ると思いきや、橋の向こう側でUターンした。

嘉右衛門町の仁徳天皇"


嘉右衛門町の仁徳天皇"


嘉右衛門町の仁徳天皇"


万町一丁目の劉備玄徳"


万町一丁目の劉備玄徳"


 おやおや、どうするのだろうと思っていると、また銀座通りを通って別の山車である万町一丁目の劉備玄徳がやってきた。そうして橋の上で嘉右衛門町の仁徳天皇と向かい合う。すると、手古舞衆のお嬢さんたちがお囃子衆の台に上がって、黄色い声を張り上げて、自分の町内の名前を叫んでいる。ああ、これは川越祭りでいう「 曳っかわせ」というものではないか。この栃木祭りでは、「これらの絢爛豪華な山車とともに囃子が競演する『ぶっつけ』では、山車を寄せあって日頃の練習の成果を競い合い、その盛り上がりは、まさにこの祭りの醍醐味といえます。」とされている。遠く秋田の角館のお祭りでは、道を譲れ、譲らぬという交渉人のやり取りがあって揉めると聞くが、こちらではお囃子の競い合いで平和に勝負を決するようだ。お祭りらしくて、なかなかよろしい。何回か見たが、しばらくしてどちらかが道を譲って去っていく。なぜ、どういうことで一方が譲るのか、未だによくわからない。これも地元の人に聞きそびれた。


3.遊覧船に乗る



蔵の街遊覧船"


蔵の街遊覧船"


蔵の街遊覧船"


 幸来橋のたもとから巴波川(うずまがわ)沿いに散策路が続いていて、それに沿って行くと、蔵の街遊覧船乗り場がある。所要時間わずか20分ほどである。菅笠を貸してくれるので、それを被って待っていると人数が揃ったと見えて、20人乗りほどの平底の舟に案内されて乗り込んだ。そこから船頭さんがゆったりと漕ぎ出す。川の水の透明度が高くて、鯉らしき大きな魚が行き交う。そのまま幸来橋まで行くと、橋上ではちょうど劉備玄徳と張飛翼徳の山車が対決をして「ぶっつけ」の最中である。お囃子の響きとぶっつけの女の子の声、それを囃す人々の怒号などが鳴り響いている。

蔵の街遊覧船"


蔵の街遊覧船"


蔵の街遊覧船"


蔵の街遊覧船"


蔵の街遊覧船"


蔵の街遊覧船"


 そこで巴波川をUターンして、舟は船着場の前を通り過ぎ、橋の向こう側の瀬戸ヶ堰の手前まで行く。そこは川幅が少し広がっていて、全長が1mはあろうかというくらいに大きい鯉がたくさん生息している。また、色々な種類の鴨がいる。そこへ、出るときに船着場で鯉の餌を買った人がそれを投げ込むと、多くの鯉や鴨が面白いほどに寄ってきて、争って食べる。最後に、船頭さんが美声を披露して、船着場に戻る。5月になると、この川を挟んで数多くの鯉のぼりが飾られるそうだ。


4.蔵の街並み

 いただいたパンフレットによると、「江戸との舟運そして日光例幣使街道の宿場町として栄えた『小江戸とちぎ』には商人の心意気が残っております。明治7年、県庁構内(当時栃木町)で行われた神武祭典には東京日本橋の町内から購入した現在の山車が参加し、明治26年、栃木県最初の商業会議所開設認可に係る祝典では計6台の山車が競演し、町をあげてのお祭りとなりました。豪華絢爛な山車が蔵の街並みを巡行する様は栄華を極めた往時の栃木を彷彿とさせます。」とある。


蔵の街並み"


蔵の街並み"


蔵の街並み"


 なるほど、ここは川越のような町なのだということで納得し、それに日光例幣使街道の宿場町だということで、二度納得した。それにしても、川越のような土蔵造りばかりだと思ったら、やはり幕末に3度の大火と1度の水戸天狗党による兵火に見舞われたそうだ。そういう悲しい歴史の上での土蔵造りなのである。なお、この巴波川は舟運の中心地だったが、明治期の鉄道の開通によって、衰退したらしい。



5.夜のお祭り



夜のお祭り"


夜のお祭り"


夜のお祭り"


夜のお祭り"


夜のお祭り"


夜のお祭り"


夜のお祭り"


 さて、夕食を食べてお祭り会場に戻ってみると、空がすっかり暗くなっていて、その中をしずしずと山車が進んでいる。それぞれの山車は提燈が下がり、人形にはライトが当てられて、昼間の姿とはまた違った幻想的な美しさがある。それに笛と太鼓のリズミカルなお囃子が耳に心地よく聞こえてくる。道路周辺の夜店もお祭りの盛り上がりに一興を添えている。2台の山車の「ぶっつけ」が始まった。女の子たちが山車に登り、その周りで若衆がてんでに持った縦長の提灯を上下に揺らして大声を上げる。昔はともかく、今はとても友好的で、お互いに対するエールの交換のように聞こえてくる。昼間とは違って、夜は余計なものが目に入らないから、純粋にお祭りの世界に没入することができる。いや、とても楽しい。

 室町の桃太郎の一行に出会った。ライトアップされた桃太郎人形が夜空に輝いている。手古舞衆のお嬢さんたちに、昼間とはまた違った艶やかさを感じる。おやおや、鬼の前で小さな子供たちがポーズをとっていて、それがまた実に可愛い。


夜のお祭り"


夜のお祭り"


夜のお祭り"


夜のお祭り"


夜のお祭り"


 そういうことで、十分に楽しんだことから、午後9時の終了を待たずに午後8時半発の特急で帰ることにした。それにしても、毎回思うことだが、この地に生まれてこのような伝統的な祭りに参加することができる地元の人は、本当に幸せである。私のように全国各地を巡って来たために伝統行事のある故郷というものがなく、その挙句に東京に定住してしまった人間には、とても味わえない幸福である。もちろん、その反面として、伝統の灯を絶やさないための家族や町内全部の人々による見えない努力や負担があるとは思うが、どうかこの伝統行事を次代に引き継いでいっていただきたいと、心から願うものである。

夜のお祭り"


夜のお祭り"


夜のお祭り"


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夜のお祭り"






(2018年11月11日記)


カテゴリ:エッセイ | 00:03 | - | - | - |
長瀞ライン下り

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 ようやく11月になり、家内と「近場に紅葉を観に行くには、少しばかり早すぎるね。」という話をしていたところ、「久しぶりに長瀞に行ってみよう」ということになった。実は9年前の9月半ばに家内と一緒に長瀞へ行って、七草寺めぐり、SL撮影、ライン下りと、色々と盛りだくさんに楽しんだからだ。「もう季節が季節だけに、七草寺めぐりは無理だが、SL撮影とライン下り、それに時間があれば宝登山ロープウェイに乗ってみよう。紅葉が綺麗だと良いけれど。」という気持ちで、出掛けることにした。

 アプリで調べると、文京区の我が家から池袋にて東武東上線に乗り換え、小川町経由で寄居にて秩父鉄道に乗って長瀞で降りると、2時間25分で行ける。ところが、別ルートとしてJRで熊谷まで行って秩父鉄道に乗り換えて長瀞まで行くと、2時間40分もかかる。この場合は秩父鉄道に53分も乗っていないといけない。ちなみに前の寄居経由ではそれが23分だから、この秩父鉄道の乗車時間の違いだ。往復で30分の人生の無駄なので、前の寄居経由のルートにした。

 逆方向だから土曜日ながら通勤ラッシュにも全く無縁で、寄居駅に着いた。東武東上線から秩父鉄道に乗り換えようとしてびっくり・・・改札がない。スイカ(Suica)カードをどうすれば良いのだろうかと思っていたところ、階段の脇に「ピッ」とタッチする機器があり、どうもこれでカードに記録しておけるようだ。


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 それを2回繰り返して秩父鉄道の電車に乗ったのだが、プラットホームのレトロな雰囲気と、乗った電車の吊り革などを見て、恐れ入った。まるで昭和40年代のようなのである。特に長瀞駅舎では、小さなサイズの四角い格子の枠にはめられたガラスをよく見ると、向こうの人や建物が歪んでいる。これは、現代的な工業生産法による以前のガラス製法のもののようだが、割れてしまったらどうするのだろうと、思わず心配するほどだ。駅舎の傍にある郵便ポストも、未だに円筒状の丸型ポストだし、しかも塗装が相当に剥げている。レトロにしても、やり過ぎのような気もしないではない。

 秩父鉄道のSL、パレオエクスプレスに乗ろうとしたら、故障で既に1ヶ月ほど運休なのだそうだ。秩父鉄道といえば、「首都圏で最も近くでSLに乗れる鉄道です」というのが売り物なのに、故障とあれば、残念だが仕方がない。それにしても、SLにはお金をかけているのに、駅舎や普通車両に投資をした形跡はほとんど見当たらない。ついでに言うと、長瀞ライン下りも、秩父鉄道の経営だったから驚いた。

 さて、その長瀞ライン下りだが、もう100年の歴史があるそうだ。待合室に掲げてあった写真を見ると、屋根付きのいわゆる屋形船で、芸者衆と舟旅を楽しんでいる姿が写っていた。長瀞駅前の観光案内所前に置かれたテレビでは、NHKの番組「ブラタモリ」で、ここ長瀞が取り上げられた様子が放映されている。それによると、長瀞を訪れる観光客の数は、年間270万人だという。なるほど、これだけの数のお客さんが来てくれるからこそ、秩父鉄道が潤っているのだろう。だから集客の目玉であるライン下りが重要となるはずである。


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 駅前で、ライン下りの切符売り場に行くと、上流の上長瀞駅近くの親鼻橋から、長瀞駅近くの岩畳まで下るAコース(約3キロ)と、その岩畳から下流の高砂橋まで下るBコース(約3キロ)という2つのコースに分けて運航しているようだ。私が聞いたときにはAコースが混んでいてBコースはそうでもないと聞いて、まずBに乗ることにした。長瀞駅の踏切を渡って両側の食堂やらお土産屋さんを抜けて行くと荒川の川原にある岩畳乗船場所に出て、そこから舟に乗った。快晴の日で、空が真っ青である。

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 舟はざっと見たところ20人乗りで、私と家内は最後に乗船したから、思わず、舳先(へさき)に座ることになった。私の前には船頭さんがいるだけだから、視界が開けていて写真が取りやすい。ここ数日は晴れているから、水の量が高さで5cmほど少ないそうだ。そのため、時折、ガリッと音がして舟底を擦っていた。

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 川幅が広いところを過ぎたら、すぐに川幅が狭い急流に差し掛かった。「大河瀬(おおかわせ)」という。水がかかるから、舟に備え付けのビニールを被った。ジャボジャボ、ザザザーという水音が大きくなって、舟が左右に揺れる。それを、舟の前後に乗り組んでいる2人の船頭さんが、長い竿1本を操って必死に操船する。おっと、やっと乗り切った。これは、ちょっとしたスリリングな経験である。あとは左右の景色をゆったりと楽しんだ。

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 特に、石畳から続く岩は、面白い外観をしていて、ミルフィーユのような層状でしかも傾いている。こういう岩をじっくりと見た。これらは、海底に堆積した地層がプレートの移動に連れて大陸の下に潜り、しかもそれが斜めに引き伸ばされて何層にもなり、地下深くからこの地表面に出てきたものだそうだ。

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 更に先へと行くと、カエルのような形をした岩があったりして、景色に変化がある。しかも、川の水の色が紺碧、真っ青、石の回りの逆巻く白と変化するのを眺められる。加えて、川面には、野鴨が遊び、水中には鯉がいた。誠に、長閑な風景である。

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 やがて、Bコースの終点である高砂橋に着いた。その少し前、船頭さんから「お客さんから『この舟は、今は下って来たけど、もう一度戻るときには、どうするのだろう?』という質問をよく受けますが、その答えは、あそこにあります。」と話していた。その指さす方向を見ると、舟をクレーンで吊り上げてトラックの上に重ねて載せ、また出発点まで運んでいる。我々は前回来たので分かっていたが、これは、良い考えだ。そしてお客の我々はというと、マイクロバスで、また石畳近くの長瀞駅裏手の乗船券発売所まで送ってくれるのである。

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 その乗船券発売所まで帰ってきて、面白かったので、もう一つのAコースにも乗ろうということになり、バスで上流の親鼻橋に向かった。舟に乗るのが最初になったので、先程とは逆に、今度は艫(とも)に座ることとなった。向かい側は乗客の頭で撮りにくいが、背中側には振り返りさえすれば障害物なく撮れる。

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 舟は親鼻橋乗船所を出発した。出てすぐのこと、左手の川中に、岩がいくつかあり、水に洗われている。そのうちの一つだけが、他と違うと思った。そこで良く見たら、何だ、煉瓦の塊の人工物だった。妙なものが川中のあると思いつつ、川の流れに身を任せていたところ、やがて前方に、川を横切る鉄道橋が見えた。たまたまタイミング良く、秩父鉄道の電車が通っている。ただ、人の頭に遮られて、カメラをちゃんと構えることができなかったことは残念だ。その荒川橋梁は、100年前に完成して、まだ現役だそうだ。しかも、橋脚が煉瓦で出来ている。それが、先程、川中で見たものと同じなので、びっくりしてしまった。「では、あの煉瓦塊は、どこから来たのだろう。この上流にあった昔の構造物が洪水か何かで壊れて流されたからか?」などと考えたら、まるでミステリーだ。

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 左手に、亀の子岩なるものが見えた。先程のカエル岩のようなものだが、それよりは、もっと厚みがある。「小滝の瀬(こたきのせ)」に差し掛かった。Aコースの大河瀬のような急流スポットだ。途中で1mほどの段差があるところを通るらしい。急に川幅が狭くなり、ザアーザアーという水音が高くなったと思ったら、腰が揺れる感じがした。段差を通過したらしい。ちょうどディズニーランドで、乗り物に乗っているようなものだ。それから流れは緩やかになり、「秩父赤壁」と名付けられた高い断崖を過ぎて、舟は岩畳へと戻ってきた。

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 岩畳の近くを散歩していたら、お昼を過ぎてかなり経ったので、家内とその辺の食堂に入り、トロロ蕎麦を頼んだ。それなりに美味しく味わって、満足して出て来たら、日はやや傾き、11月らしく風が冷たくなってきた。宝登山ロープウェイには、行けないこともなかったが、家内と相談して、今日はあまり欲張らないでこの辺で帰ろうということになり、来たときと同じルートで帰京した。



(2018年11月 3日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:35 | - | - | - |
日光東照宮と並び地蔵

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 暑い夏が終わり、ようやく涼しい秋風が吹くようになった。関東近辺でどこか早めの紅葉が見られないかと思い、調べると中禅寺湖がある。日光いろは坂の渋滞は有名だが、インターネットを見る限りでは、渋滞情報は見当たらない。場合によっては、日光東照宮見物に切り替えれば良いからと思って、日曜日の朝、東武鉄道のスペーシアという特急で行ってみた。

 東武日光駅に着いてバスの乗車券を購入しようと窓口に行ってみたら、「当駅から中禅寺湖までは通常50分のところ、大渋滞が発生しており、現在のところ3時間ほどかかる見込みです。」という。帰りも同じというので、これは駄目だと中禅寺湖に行くのは諦めた。可哀想に思ったのか、窓口の人は、東照宮南に位置する‘光田母沢御用邸記念公園、日光植物園、J造喘和◆焚修叡和◆砲魎めてくれた。時間が余ったら、行くことにしよう。

 紅葉を撮りに来たのに、東照宮見物になってしまった。輪王寺と東照宮には、つい4ヶ月前(6月16日)に来たばかりだ。その時は小雨の中で、せっかくの日暮し門の彫刻もよく見えなかったが、今日は秋晴れだ。その点は良い。ただし、紅葉は色づき始めたばかりなので、まだまだというところ。真っ赤になるまで、あと2週間はかかりそうだ。どうにも中途半端な時期の観光になってしまった。


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 さて、東照宮までどう行くか・・・東武日光駅前のバス乗り場には長蛇の列だ。とりあえず神橋(しんきょう)まで歩いて行くか・・・グーグルで見れば30分もかからない。国道119号線を歩き始めた。道の両脇には歩道が整備されていて、しかもお店屋さんが並んでいるので、それらを眺めながら、坂道を登っていく。日光名物の湯葉の店、羊羹の店がある。店先には、金魚さんたちもいて、なかなか楽しい。ところが、日曜日だというのに、開いている店は3分の1もない。全く営業がされていないような店も、3分の1を超える。これは、どうしたことだ。日光の観光地としての魅力がもはや薄れているのか、あるいは過疎化が進んでいるのかもしれない。

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 神橋の赤い橋が見えてきた。これを渡ると、いよいよ輪王寺と東照宮の領域である。道の右手にある日光山輪王寺は6月に行ったばかりだから、今回は省略して、表参道の突き当たりの日光東照宮に向かう。もう既に、外国人観光客ばかりだ。まず、五重の塔が左手にあり、写真を撮る。小雨だった前回に比べると、今回は晴れ渡っているから、はるかにくっきりとした写真が撮れる。そこで本日は、この調子で彫刻を主体に写真を撮っていこうと思った。

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 そのまず手始めは、仁王門をくぐってすぐ左手にある神厩舎の一連の猿の彫刻である。「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿(Three wise monkeys)をはじめとして、猿の彫刻ばかりが正面に5面、右側面に3面の合計8面がある。これらは、人間の一生を風刺したものだそうだ。それを一つ一つ撮っていく。母猿を見上げる子猿、人生の荒波を示す青い波、伴侶を求める猿など、確かに、人生そのものである。作者は不明だそうだが、後でじっくり写真を見てみよう。よい芸術作品は、人間の想像力を刺激するものだ。しかもそれは、しばしば作者の想像を超える。修理して色鮮やかになったので、非常にわかりやすくなった。

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 石の階段を登って、陽明門に差し掛かる。そこから見上げると、童子の彫刻がある。本を読む者、笛太鼓を演奏する者、両手を広げたり手を叩いて遊ぶ者、座って話をする者、喧嘩しているような者、踊っている者、大笑いしている者など、様々だ。それが立体的に彫られているから、素晴らしい。また、その上には、大人の世界で、体の前にある大きな器に液体を注がれている者、巻物を広げて読む者、童子に書を教えているような者、碁を打つ者などが彫られている。表情まで細かく表現されていて、感心した。

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 せっかくだから、陽明門の向かって右側に広がる門の彫刻を見ることにした。これも国宝で「東西廻廊」の東側である。取り上げられている題材は、松の木、孔雀、水鳥といったところだが、説明によると「狩野理右衛門の下絵になる極彩色の大彫刻。欄間には雲、胴羽目には花鳥動物、腰羽目には水鳥が天地水と組み合わせて彫り分けられている」そうだ。陽明門の中を通り過ぎて反対側の上を見上げると、瓢箪を首から下げた男が童子の頭を撫でていたり、孔雀や龍や鯉に跨がった仙人がいたり、巻物を広げた仙人など、確かに見ていて全く飽きない。これは、日が暮れると言われるわけだ。

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 次に、国宝の唐門に行く。江戸時代には、ここから昇殿できるのは、御目見得以上の旗本や大名に限られていたそうだ。唐門の上の方には、「古代中国の聖餐の故事を題材にした彫刻」という説明があるが、「許由と巣父」や「舜帝朝見の儀」などといった方がわかりやすい。こちらの彫刻には、陽明門彫刻のような色が付いておらず、胡粉で真っ白なため、表情などが今一つわからないのが残念である。昇殿して中に入り、説明を聞き、参拝する。建物は、平成の大修理で未だに修復中である。

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 さて、坂下門の中にある左甚五郎作の国宝「眠り猫」をまた見に行くことにしよう。前回と違って人の数はさほどでもないので、ゆっくりと何回も写すことができた。正面だけでなく、右手からも撮ってみたが、あまり印象は変わらなかった。それを過ぎて、前回は断念した家康公墓所まで行ってみることにした。杉木立の中の207階段(奥社参道)を延々と登って、ようやく着いたが、「(家康の墓所なのに)あれ、これだけ?」という感じ。途中の踊り場にあった立て札「人の一生は重荷を負うて遠き道行くが如し。急ぐべからず。(東照宮御遺訓)」が、胸に響く。ただ、私の場合は「人の一生はなるべく軽き荷にして、見通しよく最短距離を行くべし。」という方針である。

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 陽明門を出て、本地堂(薬師寺)に向かう。前回に続いて再び「鳴き竜」を聞くためだ。天井の檜の板に描かれた大きな竜の絵の尾の下で、拍子木を打つと、拍子木の鳴る音だけが聞こえるのに対して、天井の竜の顔の下で拍子木を打つと、拍子木の音に反響して「キュィーン」という甲高い音が続き、あたかも竜が鳴いているように聞こえる。それを確かめて、「よし、聞こえた。」と、すっかり満足して、その場を離れた。

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 前回の時には行けなかった家光廟大猷院まで行くことにした。杉木立の街道を少し歩き、二荒山神社の鳥居前を過ぎて、徳川三代将軍家光公霊廟「日光山大猷院」に着いた。まず、仁王門が立ちはだかる。右手の「阿形(口が開いている)」と左手の「吽形(口を閉じている)」2体の仁王像、つまり「金剛力士像」の間を通り抜ける。御水舎の前から階段で、登りきったところに夜叉門があった。そこに行く途中の脇が展望所で、そこから下を覗くと古い石灯籠が並んでいる。これは、大名たちから寄進されたもので、これ以上は天界になって、中小クラスの大名は登れなかったそうだ。



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 夜叉門には、「阿跋摩羅(あばつまら)、毘陀羅(びだら)、烏摩勒伽(うまろきゃ)、□陀羅(けんだら)」という4体の夜叉が安置されている。赤、青、緑、白という原色である。この門は、またの名を牡丹門という。牡丹の花が彫刻されているからだそうだ。非常にカラフルだ。元はインドで人を害する悪鬼だったが、仏教では毘沙門天の眷属で、北方を守護する鬼神ということらしい。



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 拝殿と本殿にお参りし、更に奥の皇嘉門に行く。中国明朝建築の竜宮作りだそうだ。どこかで見たことがあると思ったら、「耳なし芳一」で知られている下関の赤間神宮と同じ形だった。もっとも、東照宮造営は家光の時代だから、建物そのものはこちらの方が古いと思うが、どうであろうか。

 昼食後、時計を見ると、まだ2時を過ぎたばかりだ。まず、iPhoneを使って、帰りの特急電車の予約を午後7時過ぎから早めに変更できるか試してみた。最速のスペーシアは、午後4時台も5時台も満席だ・・・おっと、これはどうだろう。少し時間がかかるが、午後5時27分からの在来特急が空いている。これを予約したら、スペーシアとの差額410円が戻ってきた。なんとまあ、よく出来たシステムだ。




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 そうすると、3時間弱をどう過ごすか、とりあえず神橋から大谷川(だいやがわ)に沿って上流に向けて上がって行こう。それにしても、この川は流れが早いし、水量も多い。ザアザアと音を立てて滔々と流れている。国道120号の歩道を通る。中禅寺湖方面に行く車が、大渋滞を起こしているところだ。その脇をスタスタと歩いて、日光総合会館というところに出た。ここからは、排ガスを吸う機会をなるべく少なくしようと思って、国道から離れて大谷川の近くを行くことにした。含満大谷橋という小さな橋を渡って川の急流を右手に見ながら歩くと、「ストーンパーク」なる所を通る。道の両脇にある芝生の中に、確かに古い石があちらこちらに転がっている。これは、一体なんだろう。元はお寺の僧坊か何かが軒を連ねていたのだろうか? それにしても、建物の礎石というには、数がごく少ない。ううむ、よくわからない。



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 それを抜けたところに、「慈雲寺」と書かれた古ぼけた門があった。やはり、お寺だったのだ。この付近は、「憾満ガ淵(かんまんがふち)」といわれる地である。川が長い間かけてえぐり取った崖の所をその流れに沿って歩く。眼下には、清流なるも激しい流れが渦巻いていて、落ちたら一巻の終わりである。水の流れの写真を撮るときは、シャッター速度を落とすと、水面が滑らかな絹のような感じに仕上がる。ところが、ここでそうやって撮ると、あまりに水の流れが激しいために、真っ白な木綿の布地のようになってしまう。だから、かえってシャッター速度が速い方が、荒々しい感じが出る。面白いものだ。



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 「慈雲寺」の門をくぐると、そこは全くの別世界である。左手にずーっと、たくさん、古ぼけた石のお地蔵さんが並んでいる。苔むして、いずれも赤い帽子によだれかけを付けている。それだけで、もはや宗教感が溢れている。まるで、京の化野の念仏寺を初めて見た時のようだ。背筋にゾクっとしたものが走る。慈雲寺は1654年、晃海大僧正による創建で、これらの並び地蔵は、その弟子たちが寄進したものである。ところが、明治期の終わりの1902年の大洪水によって、本堂とともにかなり流されてしまったようだ。中には胴体がなくて、頭だけの痛々しいお姿のお地蔵さんがいらっしゃるのは、そのせいかもしれない。



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 そのお地蔵さん群を左手に見て、霊庇閣という東屋にたどり着いた。これは、川の中に突き出している場所にある。急流を眺めるには良い場所だけど、これは洪水に遭ったら御仕舞いだと思ったら、案の定、その明治の大洪水で流され、これはその後に再建されたもののようである。並び地蔵さんは、この辺りで終わっている。ちなみに、なぜ「化け地蔵」と言われるかというと、その数を数えると、行きのときと帰りのときとで、違うからだという。さもありなんという気がした。

 そこから引き返し、また神橋に戻って、東武日光駅まで歩いて行った。夕食をとってから、予定通り午後5時27分からの在来特急に乗った。北千住駅まで2時間の予定だ。私の席は窓側だったが、隣の席に座ったのは、まるで小錦かと見がまうばかりの巨大な体型の外人男性で、圧迫感が半端ではない。しかも、スペイン語で母国の娘とビデオ通話をしている。大声なので、うるさくてかなわない。これは参ったと思ったが、朝が早かったので、電車が動き始めると眠たくなり、寝入ってしまったようだ。

 突然、電車が急停止した。出発から小1時間ほど経った頃だ。私は先頭車両に乗っていたが、前方で踏切のカンカンカンという音がしている。消防車やパトカーが何台も集まっている。何事が起こったのだろうと思っていると、放送があった。「だだ今、前方の踏切で自動車が立ち往生をしていまして、それを動かそうとしています。しばらくお待ちください。」それから1時間遅れでやっと動き出した。北千住駅で千代田線に乗り換えて、家に着いたのは、午後9時に近かった。どうもこの日は、最初から最後まで、思い通りにはならなかった。まあ、こういう日もある。




(2018年10月27日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:37 | - | - | - |
母と生まれ故郷を訪問

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1.母の近況

 人間、それなりに歳をとると、来し方が懐かしく思うものである。現に私自身も、つい最近、小さい頃から高校時代を過ごした神戸北陸名古屋という全国各地の都市を順に訪ねて、思い出に浸ったものである。これらは、「なつかしの旅」として、このエッセイに収めている。

 ところで、私の父が7年前に亡くなった後、もうそろそろ90歳になる母が、北陸で、一人暮らしを続けている。昨年の春には、公民館の入り口で転倒して首筋を痛め、一時は歩くのもやっとという状態だったが、何とか回復して、とりあえずは歩き回れるようになった。ただ、そのせいかどうかはわからないが、やや耳が遠くなってきて、話し掛けるときは、少し大きな声でなければ聞こえなくなった。

 日常生活が心配なところだが、週に3度のデイ・サービス通いがあるほか、幸い、私の妹たちが近くに住んでいて、代わる代わるおかずを持って行ったり、買い物して冷蔵庫に入れたり、話し相手になったり、病院に連れて行ったり、ケアマネジャーと打ち合わせたりと、本当に良く面倒を見てくれているので、深く深く感謝している。

 ただ、それでは妹2人の負担が大きいので、私の義理の両親のように有料老人ホームに入ってもらおうと思って、妹たちの同意を得て、母に話を向けたのだが、「お父さんが建てたこの家に出来るだけ長くいたい。」という。加えて、当地はやや保守的な土地柄で、「親の面倒は子供が見るのが当然」という発想があるせいか、東京のような至れり尽くせりの有料老人ホームが、そもそも見当たらないという問題もある。さりとて、東京に連れて来るのは、妹たちと分断することになり、好ましくない。そういうことで、前に進めずにそのままとなっている。私と同様に地方に住む高齢の親を抱えている友達も、同じようなことを言っている人が多い。

 先日、東尋坊と永平寺を訪ねた帰り、実家に立ち寄ったところ、妹の一人が、母を連れてカラオケに行こうと言う。先日、母と初めて行ったところ、「北国の春」を熱唱していたそうだ。私は、カラオケは何十年ぶりだったが、行くことにした。姪っ子を交えて、親子三代と私である。母が慣れ親しんだ1945年から75年までの古い曲を選んで、母に一緒に歌おうとし向けると、テンポは緩いものの、一生懸命に歌っていた。私も、こんな歌の時代に、育ててもらったのかと、目が潤んできた。母も、何十年も前の歌詞を思い出して、ご満悦である。姪っ子が、最近の歌を歌いだすと、手拍子まで出てきて、絶好調である。これは、いわゆるボケ防止によいかもしれない。


2.行きたい所は生まれ故郷

 翌日、母に「どこか、行きたいところがある?」と聞くと、「生まれ故郷を見てみたい。」という。それは福井県の山深いところにあり、北陸自動車道を走って約3時間のところだ。私は、小学校6年生と大学生の時に、両親とともにそこへ行ったことがある。檀家だったお寺さんの裏庭に石ころがいくつもあって、これらが全て先祖のお墓だといわれたことを覚えている。

 母の家は、この地に代々住んでいた名主の家だったようだが、終戦前後の混乱期に戸主の放蕩や病死、農地改革や新円切替えの混乱で一挙に没落したそうだ。しかも母の母親は3歳の時に婚家で病死し、父親は田舎暮らしが性に合わず一家で都会に出たものの終戦直前にこれも病で亡くなり、母は祖母と妹を抱えて、未成年ながら戸籍上の女戸主になったという。それで終戦直後の混乱期を生き抜いたのだから、大したものだ。その頑張りのおかげで、我々があるので、感謝しなければならない。

 母自身は、その生まれ故郷には7歳までしかいなかったそうだが、このたび、その地を見たいというのである。もうすぐ90歳なので、その希望を叶えてあげないと、もうチャンスはないだろうと思って妹たちに意向を聞いた。すると、両手を挙げて賛成してくれて、しかも一緒に行ってくれるという。これは、絶好の機会だ。是非とも行かなければならない。

 山深いところゆえ、現地での宿の予約が鍵となる。調べてみると、母が通った小学校の跡地がたまたま旅館になっていて、幸い、そこを予約できた。次に、先祖代々お世話になったお寺を訪ねたい。十数年前にそこのご住職に来てもらって墓を移し替えたが、その時のご住職はもう亡くなり、その息子さんの時代となっている。電話をし、立ち寄って、お話しを願えないかとお聞きしたところ、快諾を得た。


3.祖母の実家の探索

 「他に立ち寄りたいところはありませんか。」と母に聞いたところ、自分の母親の実家だという。母は、「自分が3歳の時に亡くなったし、その後の戦中戦後の混乱期を挟んで、幼くして生まれた土地を離れ、それ以降生まれた田舎とは全く別の土地で生きてきたこともあって、交流は長らく途絶えているが、いつか訪ねてみたかった。」というのである。その実家は、母の生地の隣の集落で、姓はわかるが、住所は知らないとのこと。

 集落名と姓だけで、分かるものかと思ったが、もう一つの手掛かりとして、戸籍があった。父が亡くなったときに取り寄せた原戸籍が、手元にある。そこの祖父の欄を見ると、妻の欄があり、更にそこにその父親の名前と住所があった。ただ、達筆すぎて非常に読みにくい。さすがに名前はわかったが、番地が難しい。写真に撮って拡大し、「崩し字」事典と対比しつつ解読したところ、番地を何とか読むことができた。次に、グーグルで集落名と姓を重ねて、検索してみた。すると、その集落で当該姓を名乗る家は2軒しかない。しかも、その住所と電話番号が出てきたではないか。そのうちの一軒の番地が、先ほど戸籍から読み解いた番地と一致している。間違いない。この家だ。こんなに簡単に分かるとは思わなかった。インターネット時代の威力である。

 そこで、そのお宅に電話をしてみた。こちらの名前を伝えて、「親戚に当たるお宅を探しているのですが、そちら様のご先祖に、こういう名の方はいらっしゃらないですか。」と、先ほどの戸籍の名前を挙げたら、「確かに、それは私の先々代の名前です。」という話になり、そこから色々とお話をさせてもらい、今度、母を連れて行くことになった。そちらに行く道を確認するために、その住所をグーグル・ストリート・ビューに入れて検索したところ、あれまあ、何と、その方のご自宅まで拝見することができた。地方議会の議員をされている方のようだが、とても立派なお宅だった。


4.お寺さん訪問

 お寺さんでは、住職とそのお母さん(御新造さん)が待っておられた。まず本堂で読経をしていただいたのには、恐縮した。次に庫裏にて、過去帳とそこから抜き出した我が家の先祖の法名の一覧表をいただいた。その表に載っている最初の先祖は、文化13年(1816年)5月12日没で、次が文政元年(1818年)8月13日没である。残念ながら俗名はなく、戒名しか書かれていない。没年は、今から200年も前のことである。ちなみに、この頃に生まれた有名人としては、島津斉彬(1809年)、井伊直弼(1815年)、亡くなった有名人としては、喜多川歌麿(1806年)、杉田玄白(1817年)、伊能忠敬(1818年)などがいる。


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 それから、天保、弘化年間に亡くなった先祖が何人か書かれていて、明治期に入る。この辺りからは、戸籍上でも追跡できる。戸籍の最初に載っていた人物は明治17年没であり、この人は戸主で、確かに過去帳にもその年に亡くなった人物が載っている。ただ、過去帳では戒名しかわからないし、その一方で戸籍には俗名しか載っていないので、名前から確定することはできない。しかもこの人の場合、過去帳の没年は9月23日だが、戸籍ではそれが11月10日となっていて、ズレがある。ただこれは、役場への届出の遅れか、戸籍制度が始まったばかりの記帳の混乱によるものと考えれば、まず間違いなく同一人物だろう。現に明治29年と35年に若くして亡くなった兄弟については、過去帳と戸籍の死亡の日付けが一致している。間違いない。この辺りから、両方の文献の死亡の日付けが、一致又は近接してきている。戸籍制度がようやく確立したのだろう。

 それにしても、過去帳からよくこれだけの数を抜き出して一覧表にしていただいたものだ。もう90歳を超えた御新造さんがされたそうだが、心からお礼を申し上げておいた。お寺の裏手にある竹藪の一角に、我が家の先祖代々の墓がある。もはや苔むした石ころにしか見えないが、ご住職にそこまで案内いただいて、参拝をしてきた。途中の小道に、黄色い網がかかったような珍しい模様の蛇がいて、驚いた。


5.蕎麦打ち体験



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 名残惜しみつつ、厚くお礼を申し上げながら、そのお寺を辞した。午後の約束までまだ時間がある。たまたま、近くに蕎麦打ちを体験させていただけるお蕎麦屋さんがあった。そこで妹たちと3人で、蕎麦打ちに興じた。私は以前、蕎麦打ちをやってみたことがあったので、今回は主にカメラマンに回って、妹たちの蕎麦打ちを見守った。お師匠さんの指導の下、まず、蕎麦粉8、小麦粉2の割合で混ぜた粉を撒き、それに用意の水を半分注ぐ。それを、指先を下に曲げて左右にかき混ぜる。手のひらで混ぜてはいけないそうだ。ある程度混ざったら、残る水のうち8割方を撒き、また同じように混ぜる。最後にまた、わずかに残った水を打って全体をまとめ、今度は両方の手のひらで押すようにしていくと、丸まって横に広がり、クロワッサンのようになるので、それを縦にして同じように押す。これを何回か繰り返す。そして、両端を丸めるようにして内側に入れ、それをまた数回繰り返して、盛り上がった丸餅のような蕎麦球にする。それを、手のひらの手首側で押し付けながら回す。そうすると、綺麗な波形の模様がつくので、それをひっくり返して再び数回、同じようにする。

 近くの蕎麦打ち台では、小学生が数人混ざっていた。わあわあ、きゃあきゃあ言いながら作業している。ちょうど同じように蕎麦をこねる場面らしくて「美味しくなあーれ、美味しくなあーれ。」と、可愛い声で大合唱しているから、笑ってしまう。

 いよいよこれからが伸ばす工程に入る。麺棒を両手で爪を立てるようにし、真ん中から両端に向けて広げるようにして、蕎麦球を徐々に潰すように押し広げていく。当然、広がったものは丸い形をしている。このまま切ってしまうと、極端に短い麺と長い麺になってしまうので、「角出し」といって、伸ばしながら四角にする。これは結構難しい。麺棒を傾けながら押し、何とかそれらしくするが、厚さにムラが出来て、このままだと火が通らないと、師匠からダメ出しが入り、やり直してもらう。この工程は確かに難しい。師匠曰く。「昔はこんな工程はなかったが、全国蕎麦打ちコンテストが始まって、単に丸く広げるだけでは差がつかないので、この技法も腕自慢の対象として評価されるようになり、それで全国に一気に広まった。」

 蕎麦生地がようやく綺麗に薄く広がった。これからカットに入る。生地に片栗粉を振り掛ける。師匠は粉を摘んで一振りすると、白い粉が美しく均等に広がる。我々がやると、濃淡がひどくて、しかも数回に分けてやる羽目になる。それを折り畳んで、蕎麦切りの台にセットする。蕎麦包丁は手前まで刃が付いているので、注意するように言われる。白い木の板で作られたブリッジのようなガイドに当てながらその包丁で蕎麦生地を切っていくのだが、力は要らないものの、切る幅を揃えるとともに、食べごろの太さにする必要がある。これが細すぎるとまるでソーメン、太すぎるとあたかも名古屋きしめんになってしまう。コツは、切ったあと、包丁で進行方向にちょっと押し、そのときに必要な幅が出るようにすることだそうだ。まず師匠がお手本を見せてくれて、我々が続いたが、妹2人はなかなか上手だったが、私がやると、細すぎたり、太すぎたりで、これでは蕎麦屋になるのはとても無理だと感じた。


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 さて、所要時間50分で出来上がった。それで蕎麦を茹でてもらい、大きなザルに入れてもらって、ネギのみじん切り、鰹節、大根おろしを添えて、母も交えてツルツルと食べた。自分で言うのもなんだが、非常に美味しく感じた。蕎麦打ちは、大成功だ。


6.日本の原風景での人生の禍福



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 そのお蕎麦屋さんを出て、周りを車で一周した。この村をじっくり観察する。山間の河岸段丘に広がる典型的な中山間地である。川の両脇に広がる田圃には、たわわに実った稲が植わっていて、所々に曼珠沙華の赤い華が彩りを添えている。鮮やかな赤色をしたキノコもある。田圃が切れたところには美しく杉の木が植林されている。そのバックには、なだらかな山があり、さらにその背景には、蒼くけぶる遠い山々が連なる。まるで日本の原風景とも言える佇まいである。川の側の遊歩道を歩くと、川の色がライトブルーで美しい。川の周囲の崖からも、湧き水が次々に流れてくる。これが、水量が多い原因のひとつなのだろう。川の中ほどに、吊り橋が掛かっている。揺れるし、踏み板の隙間が大きいから、女性の中には途中で立ち往生する人もいる。これだけの急流の川だから、昔から水の事故があったのだろう。川のほとりには。観音様の像が建てられていた。

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 そこから更に山奥の方に、車を走らせる。途中、道の傍らには、お地蔵さまが道行く車を見守っている。山の中に分け入っていくと、栗もたわわに生っている。突然、大きな滝が現れた。水量も多く、それが左右に拡がっているからとても迫力がある。道路から、滝の流れのところまで降りられるので、見上げることができる。

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 「私たちの先祖は、こういうところで、少なくとも250年はいたのだなあ。幕末に開国しなければ、この幸せな農村でずーっと暮らしていたかもしれないね。」と、妹たちと語り合う。先祖代々の血と汗の結晶で、見渡す限りの田畑や山林を所有していたそうだが、我々の祖父の代でたまたま都会に出た終戦前後の混乱期に前述のような出来事がいろいろとあって家運が傾き、一挙に没落したと聞いている。仮に祖父がそのまま田舎に留まって普通の暮らしをしていたならば、その子孫の我々は今頃一体どうなっていたのだろうかと思う。そういえば、先程の蕎麦屋さんにも、昔々の我々の家の分家の流れをくむ人が働いていたし、近くの観光施設の切符のモギリをしていた人も、そういう我が一族の方のようだ。

 考えてみると、祖父があのままこの田舎に住み続けていたのなら、私も田畑や山林を守って伝統的な生活をしていたに違いない。それが母の時代になり、終戦直後の混乱期、父親が病に倒れた後に徒手空拳で都会にとどまり、母は父とともにその生活を確立した。それが、ひいては東京での今日の私の時代における発展につながっている。これと言うのも、祖父が田舎暮らしを嫌い、好き放題やってくれたからだと、むしろ感謝しなければならない。でなければ、今頃は猫の額のような田畑を耕したり、あるいはそれでは食べていけないのでこの地のどこかのお店で働いていたのかもしれないのである。世の中が封建時代のままだったら、それも悪くはないかもしれない。ところが、幕末にペリー提督がやって来て開国を迫られ、日本という国そのものが弱肉強食の列強国家群の前に投げ出された。その結果、国民を挙げてその力を結集しなければ、国として立ち行かなくなり、戦前は軍事強国として、戦後は経済大国としての道を歩んできた。私の父母も、私自身も、いわば田舎から呼び出されて、経済大国を作り上げるのに邁進してきたようなものである。そして、無一文のどん底の状態から、親子で努力に努力を重ねて、ようやく浮かび上がって来たというわけである。そう考えると、「人生、いや一家の禍福は、正にあざなえる縄のごとし」だと思えてくる。


7.母の実家

 さて、母の実家を訪ねる時間となった。カーナビに住所を入れると、懇切丁寧に案内をしてくれるので、直ぐに着いた。途中の田圃の畔に固まって咲く曼珠沙華の華が美しい。お宅では、ご当主と奥様がにこやかに迎えてくださった。私が当方の戸籍の祖母の欄をお見せすると、ご当主もわざわざ家系図をこしらえて用意しておられて、それが完全に一致していた。そこで、母のよもやま話を交えて話が弾み、時を忘れるほどだった。応接間の隣の仏壇の間で先祖の霊に拝ませていただき、その間の長押に掛かっていた写真の一つが、母の祖母だった。

 この地区は、終戦直後に大火に見舞われ、先祖代々の資料が全部焼失してしまったので、昔はどうだったかということは、村の古老も亡くなった現在、もはや知りようがないそうだ。そういう残念な歴史はあったものの、未だに伝統を守って、村の神事を行っているという。しかし、人口は、終戦直後には8,000人あったものが、今ではその3分の1になってしまったという。加えて、高齢化率も半分近くにまで上がってきたとのこと。そういうわけで、まだまだ話し足りない雰囲気ではあったが、おいとまする時間となった。


8.一般財団法人の宿

 この町には、一般財団法人が運営する和風旅館があり、4人でそこに泊まった。温泉があり、お湯は透明で、とろりとしている。妹たちは、「この温泉から出て来ると、お肌がすべすべになる。」と話している。夕食も、朝食も、なかなかのもので、大いに満足した。何よりも、母が出された食事のほとんどを平らげたのには、驚いた。日中の訪問では、折り畳み式の車椅子を用意したのだが、かなりの距離を歩いてくれたから、良い運動になってお腹が空いたのかもしれない。

 ともあれ、母にとっても、我々にとっても、記念すべき旅行となった。家に帰り着いてほっとしていると、母がポツリとこう言った。「次は、新婚時代を過ごした神戸に、行ってみたい。」・・・「うむむ・・・わかりました。」


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 母と神戸なつかしの旅








(2018年9月25日記)


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