長崎ランタンフェスティバル


 長崎ランタンフェスティバル2024に行ってきた・・・と言っても、ほんのさわりだけで、しかも小雨の中という天候には恵まれなかった。しかしそれでも、長崎燈會の極彩色の煌めく光のページェントと、変面などの演舞を堪能することができた。

 いただいたパンフレットによると、「このお祭りは、長崎新地中華街の人たちが、街の振興のために、中国の旧正月(春節)を祝う行事として始めたもので・・・平成6年から『長崎ランタンフェスティバル』として規模を拡大し、長崎の冬を彩る一大風物詩となりました・・・今年は2月9日から17日間にわたり開催され・・・期間中は中国の『元宵節』にあわせてランタン(中国提灯)を飾る風習に習い・・・市内中心部が1万5千個にも及ぶ続彩色のランタンなどで飾られます」とのこと。ここで元宵節とは、「旧暦の1月15日で、天の精霊が空を飛ぶのを見ることができると信じられてきました。この夜、雲や霧が出ていても精霊を見つけやすいようにランタンを灯して街を練り歩くお祭りが始まったと言われています」という。ちなみに今年は、2月17日に皇帝パレードに皇帝役として地元長崎出身の福山雅治、皇后役として同じく仲里依紗を招いて行ったものだから、大賑わいだったという。私が行ったのはその喧騒の後である。



 先ずは、新地中華街に飾られた中国ランタン装飾である。あっあー・・・無情にも雨が降ってきた。正面にあるのは、鯉の滝のぼりのモニュメントで、てっぺんにあるのが、牛に乗った人間だ、、、中に入ると、中国の武人、貴族、動物、火の鳥、日本の竜宮城まである。和中ごちゃ混ぜになっている。青森のねぶた像は骨組みが太くて力強いが、この中国ランタンはどの像も骨組みは華奢である。会場とその周辺の派手な像を観たり、天井にたくさん輝くランタンを見たりしていると、派手派手しくて目が回ってくる。

 次いで雨が降る暗い中を歩いて、孔子廟に向かう。そこでは、二胡の演奏と変面ショー、それに龍踊り(じゃおどり)が予定されていた。ところが、この日は、雨の影響を受けて、龍踊りは中止となった。残る二つの出し物はどうなるのかと思ったが、奇跡的に演技の時間だけは雨が止んだ。



 二胡の演奏をするのは、李文馨(Sissi-Ji)という若い胡弓奏者で、声も良く、演奏も良かった。最後の草原の歌は、馬のいななきのような音も出て、二胡の特徴を良く表していた。




 同じくパンフレットによれば、「中国変面ショーの『変面』とは、中国四川省の川劇に属し、お面が瞬時に十数枚変わる伝統芸能です。その仕掛けは中国の国家機密となります。長崎孔子廟に所属する変面師が皆様を魅了します」とある。その説明の通り、一瞬にして顔が変わる。手で変えているのかと思ったが、手は一切使っていない。一体どうなっているのか・・・どうやら、顔を左右に振る時に一瞬にして面が入れ替わるようだ。あまりに速いので、ビデオを撮っても写っていない。ともかく、これは、見応えがあった。なお、顔には表情があるし、人だけでなくお猿さんなどの動物の顔もあり、その時は演者の動作も猿らしくなっていた。






 長崎ランタンフェスティバル(写 真)


 二胡の演奏(ビデオ)


 変面ショー(ビデオ)


 ハウステンボス白銀の世界(ビデオ)




(2024年2月23日記)


カテゴリ:エッセイ | 21:30 | - | - | - |
イポーの中国正月 2024

GAC


 久しぶりにマレーシアの中国正月を訪れた。昨年末に開かれた友人の華僑の「古希の宴」の際に、招待されたものである。この一家はクアラルンプールより北に位置するイポー市の出身だが、兄弟姉妹など全部で8人にも及ぶその半数は、クアラルンプールと1人だけシンガポールに居を定めている。それが、中国正月や4月の先祖の供養日、そして8月のお盆には、一家で集まるのである。この兄妹姉妹の最高齢は78歳で、半数はもう70歳つまり古希の年齢を超えている。だから、各家庭平均2人の子供たちと、更にその子つまり孫世代が全員集まる。よって、もう「うるさい」というレベルではなく、家中がバタバタ、ドタドタ、ワーワーガーガーと、まるで休み時間の小学校のようだ。

 今年の中国正月は2月10日からなので、その前の日の明るい内にイポーに到着する。翌日つまり新年になって、指定のレストランに向かう。新春の宴で、中はもう大混雑。2階に案内され、4つのテーブルに分かれる。世代ごとだ。まずは、テーブルの真ん中に運ばれた「魚生(イーサン)」料理に対して、全員が嬉々としてそれぞれ箸を持って立ち上がり、「ヘーロイ(良いことが来ますように)」と叫びながら混ぜる。これは、当地の中国正月独特の慣習で、一体感が高まるそうだ。


 座ってそれをお皿に盛って食べてみると、甘酸っぱくて、胡麻が効いていて、不思議な味だ。肝心の中身は、野菜、鮑、クラゲ、イカを刻んだものが、バラバラになっているので個々の味はよくわからない。それに加えて白身の生魚がある、、、だから「魚生」というのかと納得。でも、こんな国で生魚とは参った。周りに聞くと、日本の刺身や寿司以外で、自分たちもこの料理以外は生魚は食べないそうだ。まあ、それなら良いかと思って少し安心して食べた。それを皮切りに、いつもの中華コース料理が次々に出てきて、皆たくさんよく食べること、食べること。その健啖ぶりに驚く。

 その割には、お腹が出ている人はいないと思って男性陣に聞くと、申し合わせたように「週に5日、毎朝45分の散歩をしている」などと語る。すごいの一言だ。この兄弟は仲が良くて日頃から連絡をとっているから、誰か一人、そういう運動を始めると、皆その真似をするようだ。思わず笑ってしまう。

 それやこれやで、親類一同の「絆(Reunion)」を深めるこの会食が終わり、皆で会食をセッティングしてくれたFさんの家に向かう。中流家庭が集まる地域にあるセミデタッチトの家なのだが、入って驚いた。トヨタのアルファードに並んで、ポルシェがあるではないか、、、こんな高い車は、クアラルンプールでもあまりお目にかからないのに、それが当たり前のように駐車している。

 私が、「これはすごい車だね」というと、Fさんは頭をかいて「息子が勤めている不動産会社は5人の部長がいるのだけど、他の4人が全員がポルシェなので、『お前も買え』ということになったらしいんだ」などと言う。それは、景気の良い話だ。でも、「今どき日本でそんなに儲けている会社があるだろうか。そもそも国の勢いが違うな」と、成熟した老大国日本から来た私は思う。

 ところで、Fさんと会うのはそれこそ5年ぶりくらいなのだが、その「老け」ぶりにビックリした。身体がひと回り細くなっただけでなく、上顎の前歯がなくなっている。60歳で定年後もう10年の歳月が過ぎたが、この間にさぞかし大変なことになっているのかと心配して聞いてみると、こういうことだった。

 Fさんには息子が1人、娘が2人いる。それぞれに、3人、2人、また2人の計7人の孫がいる。上は10歳、下は3歳だ。全部で7人の孫を全て引き受けて、日常の世話、保育園や幼稚園、小学校そして習い事への送り迎えを全部やっているそうだ。こちらでは、ほとんどの家庭が両親の共働きだから、そういう場合は外国人のメイドを雇って対応するのが普通だ。それなのに、Fさんは「外国人には大事な孫を預けられない」と言って、自分が育てることにしたようだ。へぇーっと、思わず感嘆する。当然のことながらそれは重労働で、上の前歯が全てなくなるはずだ。

 その奥さんによると、「ある時、洗濯物がとても多くて洗濯機が一杯なので、夫はタライで手洗いをし始めた。ところが、あまりに疲れていたようで、しばらくして仰向けに倒れてしばらく起き上がれなかった。そこで、皆が心配して、しばらく孫のことを忘れさせようと、近場に旅行に行ってもらった」ほど献身的に孫の世話をしていたとのこと。

 それほど祖父が苦労して育てたから、子供たちは実にしっかりしている。特にポルシェくんの息子の三人の子は、小4、小3、小2なのだが、そのうち小2の男の子と一緒の車となった。私が「お父さんのポルシェは良いね」と聞くと、「でも、2座席しかないから、ファミリー向けではないね。やはりアルファードが良い」と、ちゃんと英語で自分の意見を言う。しかも、北京語、広東語、マレー語もわかる。この歳でこんな子が日本にいるだろうか。そのお姉さんたちは、もっとインテリジェントだそうだ。

 元旦の日の夜になった。Fさんが、家の前の道路に何やら引き出した。こきりこ節に使われる「びんさざら」を長くして一周5メートルにもしたものだ。ひょっとしてと思うと、やはり火をつけた。バババッババンと、激しい音を立てて炸裂した。耳を覆わないと気絶しそうだ。何でも、悪霊を退散させる意味があるそうだ。確かに、、あちこちの家で、派手に花火を打ち上げている。


 ところで、Fさんの家の直ぐ近くの民泊に数家族で泊まるというので、私も付いて行った。立派な家で、車が何台も駐車できる。しかも、庭には何やら黄色とオレンジ色のフルーツが成った大きな棚がある。ちょうど、葡萄の棚のようなものである。何だろうと思って近づくと、見たことのないフルーツだ。名前は、「GAC」と言うらしい。見るからに美味しそうなのだが、そうでもなくて、味はなく、砂糖を混ぜたジュースにするのが、関の山らしい。



 翌朝、近くの「極楽洞」という鍾乳洞に行ってみた。あちこちに仏像が置いてあるから、お寺なのだろうか。鍾乳石の山の一角が開いていて、中には、つらら石、石筍、フローストーンがちゃんとある。だから鍾乳洞そのものである。面白いのは、それらを抜けたところに、池が広がっているのである。ちなみに、こういう構造は、風水の観点から理想的なのだそうだ。また、妙なものを見物してしまった。







 なお、5年前にも、私はこのマレーシアの地方都市イポーの中国正月を訪れたが、その時は獅子舞(ライオンダンス)を見て感激した。それは、この地の著名なホテルでの獅子舞だったが、一般市民の商店や家庭にも、ごく普通に獅子舞があった。ところが新型コロナ禍の悪夢の3年間を経験した今年は、市中の獅子舞をほとんど見かけなくなった。加えて、バババッババンの激しい音を立てる花火も、その時と比べて半減したそうだ。誰かが、「今年は不景気だな」とつぶやいた。





(2024年2月12日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:16 | - | - | - |
自伝的回想録の出版

元内閣法制局長官・元最高裁判所判事 回想録


 このたび「元内閣法制局長官・元最高裁判所判事 回想録」という題名で、私の人生を振り返った次の書物を、弘文堂から出版する運びとなった。読者の皆さま方が、その人生を歩む上で、何らかのご参考になればと願っている。 
(注) このうち「第5章 内閣法制局長官を辞する」以外は、このブログ上で公開していたものとほぼ同一である。



目 次
 はしがき
 第1章 波瀾万丈の幼少青年時代
 第2章 通商産業省で激務の日々
 第3章 家内と二人三脚で子育て
 第4章 内閣法制局で知恵を絞る
 第5章 内閣法制局長官を辞する
 第6章 最高裁判所判事を務める
 第7章 正に七転び八起きの人生





   はしがき

 国には、興亡盛衰というものがあるのは免れない。わが国も、あの悲惨な太平洋戦争で国全体が焦土と化したにもかかわらず、短期間に急速に立ち直り、私が大学を卒業した半世紀前には、アメリカに次ぐ世界第二位の経済力を誇るに至った。その頃は、高度経済成長期の余韻で「行け行けどんどん」という風潮がまだ色濃く残っていた。

 しかし何事も、頂点に達したかと思えば下り坂に差し掛かる。急速な経済成長の歪みで産業公害や貿易摩擦が起こり、度重なる石油危機で成長の腰が折られた。それとともに、社会のあちこちで既得権益が顕在化し、固定化して行った。政治の世襲化、一票の格差の放置、農業の参入障壁、通信や放送等の産業規制の残存などである。もちろん、国鉄や電電公社の民営化、郵政改革などは成し遂げられたものの、まだまだ不十分であることは否めない。 そうこうしているうちに、1990年代初頭のバブル崩壊後、わが国は長期低迷期に入った。

 今やその経済力はすでに中国に抜かれているが、やがてドイツに抜かれて第四位になる日が来るものと思われる。私が通産省と内閣法制局に在籍したのは、こうした日本の栄枯盛衰の時代である。

 私は、小さい頃、田舎で「ラジオの言葉を話す」と言われて散々いじめられたことから、将来は東京で大きな仕事をするつもりで勉強に励んだ。そして通産省に入省したときは、本当に嬉しくて天にも昇るような心地がしたものである。しかし、私を待ち受けていたのは、やり甲斐は大きいが、今で言えばブラック企業さながらの過酷な職場だった。でもそれに必死に耐え抜いたおかげで、企画力、交渉力、文章力、管理能力が身についた。

 そのうち、1994年に本省の課長となった時、業界人の皆さんから「あんな政治では、日本が潰れます。官僚の皆さんが日本を支えてください」と言われたことがある。思えば、この頃が官僚に対する国民の信頼が頂点だった時なのだろう。

 ところがその後、バブル経済が崩壊した影響で大銀行が次々に破綻し、大蔵省による接待問題が表面化し、日本経済は長期低迷期に入った。これら残念な一連の出来事で官僚に対する信頼は地に落ちた。この間、私は、通産省(後に経済産業省)で産業行政に携わり、日本経済を少しでも下支えしようと知恵をしぼった。その後、内閣法制局に出向して数々の法律の立案に従事した。内閣法制局という持ち場で、私は、せめて自分が作る法律案だけは、国民に分かりやすく、かつ役に立つものにしたいと努力していた。現代の行政は、法律による行政の原理を背景に制度がますます精緻なものとなり、それにつれて法律が複雑な規定ぶりになってしまうので、意識していないと、読みにくくなるからである。

 そういう生活も、内閣法制次長や内閣法制局長官になると、むき出しの政治の世界に踏み込まざるを得なくなる。とりわけ私の時代は、時の政権が民主党(当時)から自由民主党にまた戻り、安倍晋三首相(当時)が集団的自衛権の実現に執念を燃やされる時期にあった。その結果、私は天職だと思っていた長官を辞さざるを得なかった。第5章で紹介するように、内心、相当な葛藤があったのは事実であるが、それから最高裁判所判事となり、思い通りの判決をして、6年余りの任期を全うした。

 私は、結果的に、行政(通産省等)、立法(立案だけであるが内閣法制局)、司法(最高裁判所)の三権に関わったことになる。本書は、官僚(国家公務員)としてのこうした仕事の内容を紹介するとともに、私の小さい頃の思い出、自らの大学受験、子育てで経験した中学・高校受験などについても振り返ってみた。これから官僚を志す若い人だけでなく、幅広い読者の皆さま方が、その人生を歩む上で、何らかのご参考になればと願っている。

                     令和6年2月吉日

  元内閣法制局長官・元最高裁判所判事  山本庸幸







目 次

はしがき




第1章 波瀾万丈の幼少青年時代

 1 父と母は銀行の職場結婚

    生まれて早々の試練
    母方の系譜
    父方の系譜

 2 幼年時代は神戸で過ごす

    住んでいた神戸市須磨区の家
    小児結核に罹る
    母の愛情深い看護
    粘り強く打たれ強く楽天的
    病気療養中でも子どもらしい楽しみが

 3 福井県敦賀市へ転居していじめに遭う

    田圃や境内が自然のサナトリウム
    ラジオの言葉でいじめに
    図鑑や本に親しみ東京へ羽ばたく夢
    助けてくれた同級生に再会し同僚に
    妹が二人生まれ、父と釣り
    両親から受け継いだもの

 4 健康を回復した少年時代は模型に熱中

    福井市へ転居
    科学雑誌『子供の科学』
    鉱石ラジオの自作で大失敗
    模型の工夫と喜びが今も活きる
    息子の趣味には合わず
    福井で中学一年生になる
    三八豪雪に遭遇

 5 知性に目覚めた名古屋の中学校時代

    方言にがっかりしたが標準語は通じる
    世界の名著を通じて世の中が広がる
    ケネディ大統領の暗殺事件
    蒙古先生と熱血女教師
    高校入試は旭丘高校をめざす

 6 夢と希望の旭丘高等学校時代

    中学時代の勉強法が通じない
    数学に根源的な悩みを抱き、苦手意識が生まれた
    数学の授業なのに楽譜を書く
    寡黙な美人がソプラノで
    ドイツの片田舎で思い出す
    和歌の筆をカメラに持ち替えて
    文化祭に情熱、健康に自信、夢と希望
    責任者とは責任をとる者のこと

 7 波瀾万丈の大学受験時代

    現役時代の東大法学部受験
    合格発表の日、桜が散った
    予備校に通って苦手の数学が得意科目に
    好事魔多しで東大入試中止
    京都大学法学部を受験
    寒い京都の受験の日は殊更に寒く
    京都大学に合格し桜が咲いた
    東京大学に「お返し」は済んだ

 8 よく学びよく遊んだ京都大学時代

    最初の授業が過激派に粉砕される
    衝突の最初の頃にはまだ常識あり
    まるで古代ローマの戦争さながら
    本部時計塔が落城して京大紛争は終結
    宇宙船アポロ一一号の月着陸に感激
    同級生との結束は堅い
    大阪万国博
    中務ゼミに入る
    法律の発想が性に合う
    友人どうし互いの実家を訪ね合う
    全国を転勤する時代が終わり高岡の地が実家に
    立山で豪雨と落雷に遭う
    まさに命は紙一重

 9 日本経済の司令塔、通産省に憧れる

    大蔵省か通産省か自治省の三択
    明け方まで勉強のスタイルで失敗
    三菱銀行に内定し国家公務員試験は合格を確信
    通産省の面接準備
    通産省に合格しその格好の良さに感激




第2章 通商産業省で激務の日々

 1 昼は魚河岸、夜は居酒屋通産亭 


    ナポレオン史家の両角良彦次官から採用辞令
    公害防止企画課の係員に
    帰るどころか居酒屋になる
    夜中は来客が消えて国会答弁作り
    楽しかった人事院の研修は嵐の前の静けさ

 2 立地公害局公害防止企画課

    深刻な公害問題が全国的に広がる
    猫の手も借りたいほどの戦場
    中枢神経系の末端で見様見真似
    毎日が生き残りに必死
    仕事をする上でのスキルが身につく
    過酷の極致のような職場環境
    電気目覚まし時計
    ジャパン・アズ・ナンバーワン
    志の高い官僚は国家運営に不可欠
    一騎当千の強者が育つ
    三菱重工爆破事件を目撃

 3 一生の伴侶を得る

    西武園へ合同ハイキング
    家内の良いところ
    義理のお母さんとの出会い
    結婚式は学士会館でこぢんまりと
    小さな部屋で新婚生活を開始

 4 経済企画庁調整局財政金融課

    まるで梁山泊のような財政金融課
    四半期経済予測モデルはまだまだ未熟
    最新型のコンピュータも使いよう

 5 通商政策局総務課総括係長

    アメリカとの貿易摩擦の真っ最中
    青竹事件で統制経済の何かを知る

 6 省エネルギー対策課総括班長

    法律案の国会通過と円滑な施行が任務
    まるで漫才のネタ
    イラン革命で第二次石油危機
    猛烈に仕事をした省エネルギー対策課の仲間たち
    省エネルギー法の大きな成果
    「夏は28度、冬は20度」の経緯

 7 貿易局輸出課総括班長

    アメリカ大使館人質事件の余波
    ブーメラン論と比較衡量論の合わせ技
    ワシントン条約の批准
    対共産圏輸出統制委員会で先端技術を学ぶ
    自動車と半導体の日米貿易摩擦
    国務省の米国交流訪問
    日本人の通訳を真似て英会話を習得
    ニューヨークではCPと証券化の話が役に立つ
    シカゴ科学産業博物館で山本五十六長官の話
    航空母艦コンステレーションを見学
    航空機の修理方法と食堂の豊かさに驚く

 8 在マレーシア日本国大使館一等書記官

    赤道直下の暑い国だが料理は天国
    独特の訛りがある英語に苦労
    英語とゴルフに挑戦
    朝もやの中にゆらゆらと木の精が
    なかなかワイルドな世界
    あまりに暇過ぎてワーカホリックには辛い
    なぜ日本人商工会議所がないのだろう
    マハティール首相からお墨付きをもらう
    設立目標を半年以内にして皆で全力投球
    インド人弁護士のサービス
    英文の名称は瓢箪から駒
    マレーシア日本人商工会議所の設立と発展

 9 工業所有権制度改正審議室長

    ちょっと顔を出すつもりが午前二時
    特許制度の国際調和に取り組み始める
    米欧の交渉スタイル
    皆で古都アウグスブルクを訪ねる
    お洒落な街ミュンヘン
    ホーフブロイハウスの鳥打ち帽
    単項制から多項制へ
    黒い猫を白い猫と思う
    秘密特許問題は長年の懸案
    産業界からの圧力でアメリカ特許庁の担当者が来日
    全員のセキュリティ・クリアランスなど到底無理
    真夜中に奇跡的に解決策が閃く
    公表して大きな反響

 10 取引信用室長

    相互に何の脈絡もない所管業務
    クレジット業界
    冠婚葬祭互助会
    大蔵省銀行局の研究会で互助会の救済合併を説明
    銀行局担当の参事官から小馬鹿にされる
    経営者を見ずに表面的な検査だけでは
    ファイナンス・リースの課題
    義憤を覚えた銀行局の「あいまい」戦術
    出資法を逆手にとる投資家保護の規制法
    資産流動化法制の嚆矢となる特定債権法

 11 繊維製品課長

    一度なりたかった原課の課長
    日米繊維交渉の後遺症
    中国からの輸入急増問題
    産地を巡る旅
    丹後産地の苦衷
    生糸農家と絹織物業界の政治力
    中国との交渉は最後まで粘ること
    新繊維ビジョン
    ファッション開発と情報化
    QR(クイック・レスポンス)調査団
    情報技術の進歩と取引関係の改革
    岩島嗣吉さんとの出会い
    共著『コンシューマー・レスポンス革命』
    阪神淡路大震災の発生当日
    冬物衣類の供出依頼と運搬手段の模索
    見ず知らずの国税庁法人税課長の好意
    少しは役に立てたと思うが大きな被害に心が痛む
    着物の女王コンテスト
    地下鉄サリン事件に遭遇
    谷根千のマンションを衝動買い

 12 日本貿易振興会企画部長

    日本貿易振興会とアジア経済研究所との統合
    対等合併で平等主義が原則だが例外も
    東回りで世界一周
    南アフリカの歯医者
    ゴルフからテニスに転向
    ハーフのベスト・スコアが出て達成感
    ボールが飛んで行った先の落ち際が見えなくなった


 13 立法学研究会

    学者と実務家が一同に会して研究
    各界のトップを輩出




第3章 家内と二人三脚で子育て

 1 幼児の頃は運動と栄養と睡眠が大事


    幼い娘と息子の可愛い寝顔
    幼児の水泳教室
    家内は体力、私は背丈が子育て方針
    オランダ人のように背を高くするには
    十分な睡眠とストレスフリー

 2 家族4人で世界一周旅行

    まずヨーロッパ一周のバスツアー
    アムステルダムで盗難に遭う
    支配人の半額補償提案を断固拒否
    パスポートと航空券が再発行されて残るは現金の取戻し
    スイスでバスツアーの一行に合流
    サン・マルコ寺院はまるで浅草寺
    モナコのカジノでオーストラリア人夫妻が大変身
    リヨン駅でフランス映画のような場面
    フランスを代表する芸術
    娘が「私は日本人だーっ」
    湖水地方でチェスを始めた子どもたち
    ボストンでゆっくりと過ごす
    坂の町サンフランシスコ

 3 小学生時代は存分に遊ばせる

    小学校の屋上から母の姿が見える
    息子は少年野球チーム、娘は習字
    赤いマイカーで関東近郊の行楽地へ
    冬になるとスキーに
    子どもの付き合いは表面的で心の交流がない
    ガキ大将がいなくなった
    想像を超える塾通い

 4 公立中学と私立中学

    娘が公立中学に入学
    公立中学3年のクラスは学級崩壊
    中野富士見中学のいじめ事件が生々しく
    小学校6年生から塾に通うのでは間に合わない
    遊ばせながら一日に合計一時間半くらい勉強
    御三家と新御三家の入試問題を検討
    新御三家の一つを「押さえ校」に
    ユニークな問題を出す御三家の一つ武蔵中学を「本命校」に
    クラスのうち半数が東大に行くなんて
    受験前日はあたかもはやる馬を抑えるように
    受験の日は大雪に見舞われた
    いかにも中学入試らしい風景
    「本命校」の合格者の番号がよく見えない
    「押さえ校」の受験中に「本命校」の結果
    とても良い私立中学なのだが、塾を敵に回したのかも
    世界の名画を数多く見せる
    公立中学の父親たち
    公立中学の生徒の学力の低下の悩み
    私立中学の担任と父母とのやりとりは、まるで漫才
    「自ら調べ自ら考える」を貫く

 5 都立高校と私立中高一貫校

    女生徒の大学受験向きの私立高校がない
    お嬢様学校に合格
    都立高校かお嬢様学校かの二者択一
    都立高校の内申書選抜は大学受験とミスマッチ
    都立高校の雰囲気は私の県立高校と全く同じ
    子どもたちと議論がかみ合う
    親の仕事をしている姿
    息子は硬式テニスクラブで運動
    中学校というよりレジャーランド
    一介のサラリーマンには高い授業料
    学費値上げに対する誠実な姿勢

 6 大学受験は医学部と法学部

    娘の予備校の帰りは駅に迎えに
    人助けになるし、手に職をつけておきたい
    人生、何でも挑戦だ
    前期は難関大学、後期の倍率は十数倍
    物理なんかまだ全然やっていない
    面接で試験官ともども大笑い
    なぜあんな難しい国立大学医学部に受かったのか?
    患者の方を見てパソコン画面は見ない
    数学は飛び抜けて優秀、国語と英語は並み
    飛鳥時代の農民一揆
    高校2年生で海外旅行に出す
    数学は新宿の塾、英語は渋谷の塾
    東京大学のどの学部を受けるのか
    無事に東大生となる
    企業法務専門の弁護士の道を歩む

 7 二人三脚で子育てした家内

    愛情豊かで合理的思考の持ち主
    子育てをバトンタッチされて
    奥様グループからテニスに誘われた旦那様たち
    奥様方の華麗なテニスにきりきり舞い
    奥様方のレベルに追いつき追い越せ
    人生に陥穽あり 

 8 初孫とともに暮らす日々   

    同じマンションに孫がやって来た
    生活習慣と想像力の豊かな遊び
    インターナショナル・スクールと日本の小学校
    子育て経験の欠落期を補う




第4章 内閣法制局で知恵を絞る

 1 内閣法制局第四部参事官


    将来に飛躍する大きな足掛かり
    参事官どうし肝胆相照らす間柄
    参事官は頭と体力の勝負
    基本法の中でも憲法の判例が豊富に
    法体系と整合し法規範として適切かどうか
    逐条ごとの審査の要点
    工業所有権特例法案では電子出願手続を導入
    再生資源利用法案はリサイクル法の先鞭
    独禁法の改正案では法人処罰を強化
    バーゼル条約実施法案は共同審査
    不正競争防止法は全面改正案
    製造物責任法案では審査テーブルで三省庁が大議論

 2 中央省庁等改革法制室長

   夏はとても暑く冬はどうしようもなく寒い
   橋本行革の青写真を具体化
   気が遠くなるような作業量
   知恵の場という文学的表現
   選りすぐりの精鋭たち
   各省設置法案のマニュアル
   中立公平の観点から調整案
   1週間の睡眠時間はわずか3時間
   執務室のドアはいつでも開放

  3 第四部長

   ようやく正式な役員クラスに
   電子署名認証法案は民事訴訟法規定のデジタル版
   特定放射性廃棄物最終処分法案の法律構成
   電子消費者契約法案は高度情報化時代の民法の特例
   鳥獣保護法案は自然保護官と作成
   援護審査会委員

 4 第二部長

    民事訴訟法の大家の隣
    質と量ともに大変な日々
    構造改革特区法案は地方公共団体の自主性の尊重が奏功
    窃盗の認知件数の激増と検挙率の激減で危機的状況
    特殊開錠用具所持禁止法案は一種の窃盗予備罪
    イラク特別措置法案では武力の行使に当たらないよう慎重審査
    武力行使の一体化、駆け付け警護、非戦闘地域
    公益通報者保護法案はコンプライアンスを徹底するもの
    武力攻撃事態法制は内容のある重たい法律案ばかり
    勤続30周年の永年勤続者表彰

 5 第三部長

    郵政民営化法案に取り組む
    郵政改革は与党に亀裂
    衆議院を解散し異論を封じる
    郵政民営化6法案がついに成立
    所得税法案・地方税法案は複雑かつ専門的
    金融商品取引法案は極めて広範囲で分かりにくい
    条約の審査は特有の日本語表現に難渋
    東京大学公共政策大学院の客員教授を兼務
    課題をやってきてもらってそれを講評
    東京大学法科大学院でも授業

 6 第一部長

    法解釈と国会答弁
    他国に向かう弾道ミサイルの撃墜
    早稲田大学法科大学院客員教授を兼務
    司法試験に三振した教え子に

 7 内閣法制次長

    長官代行・次長・第一部長事務取扱の一人三役
    八ッ場ダムの建設中止
    世が世なら辞表提出もの
    事務方の用意した答弁案が活用されず
    民主党政権が短命に終わった理由
    東日本大震災
    福島第一原子力発電所事故
    改め文から新旧対照表へは頓挫
    韓国の会議で基調講演

 8 内閣法制局長官

    父の秘かな願い
    政府特別補佐人として委員会等に出席
    国会内で時間を過ごす
    予算委員会で不条理な質問
    制定文は作ったときの歴史的事実を示すもの
    内閣法制局の幹部
    A法案とC法案の仕分け
    国会が閉会中には部内固め
    スマートフォン・クラブ
    テニスは下手の横好き
    テニスで肉離れを起こす




第5章 内閣法制局長官を辞する

 1 閣議のあと呼び止められて


    来るものが来た
    内閣法制局の歴史の転換点

 2 右翼のはずがいつの間にか左翼へ 

    自衛隊違憲論に対抗する憲法解釈
    戦争世代の引退と国際安全保障環境の変化
    一貫して同じ説明をしているのに昔の右翼が今では左翼

 3 集団的自衛権は憲法九条違反

    集団的自衛権の本質は憲法が禁ずる武力の行使
    「憲法の番人」の言葉が誇り
    立憲主義に基づく法治国家の理念

 4 忠と孝の狭間で悩むが憲法に従う

    一度は辞任の覚悟
    幻の辞任声明文
    サリー・イェイツ米司法長官代理
    廃止されても構わない

 5 第二次安倍内閣で小松一郎さんが長官に

    第二次安倍内閣で再任
    第二次安保法制懇の開催
    法学の常識は憲法が国際法より優先
    内閣法制局は蚊帳の外
    法的安定性や立憲主義を説いても無駄
    『安倍晋三回顧録』
    筋を通し、論理的な発想をする人
    官邸にとってのワンポイント・リリーフ

 6 内閣法制局長官の職を辞する日

    テレビに小松大使の活躍する姿
    誠実なお人柄

 7 最高裁判所判事は晴天の霹靂

    勤続四〇年で退職の文字が頭に浮かぶ
    まさか最高裁判所判事とは

 8 最高裁判所判事に就任

    任命直後の記者会見での質問
    正直に思うところを答える
    どん底から空高く舞い上がる
    秋山收元内閣法制局長官からの手紙

 9 小松一郎内閣法制局長官の悲報

    天皇誕生日の式典で小松さんご夫妻と
    体調を崩す中、国会で追求の矢面
    長官を退任直後に急逝される
    小松一郎を偲ぶ会
    素晴らしい人生だったとの最期の言葉




第6章 最高裁判所判事を務める

 1 就任時の自己紹介


    裁判官としての心構え
    好きな言葉
    印象に残った本
    趣味

 2 最高裁判所と行政機関の違い

    時間の流れがゆったりしている
    書類(記録)に無駄が多い
    書面審理より生身の人間
    刊行物中心に調査官が徹底的に調査

 3 最高裁判所判事の日常と仕事

    日常と審議の様子
    弁論と判決の当日
    健康がまず第一
    減量に取り組む

 4 歴史の審判に耐えられる裁判か

    記録は居住まいを正して読む
    判決は判例集の形で歴史に残る
    参議院議員選挙一票の格差事件(大法廷)
    元厚生事務次官夫妻等殺人事件
    暴力団員ゴルフ場利用詐欺事件
    特許PBPクレーム事件
    夫婦同氏制・再婚禁止期間事件(大法廷)
    遺族補償給付等不支給処分取消請求事件
    銀行支店記帳台上の現金盗難事件
    JR福知山線脱線事故業務上過失致死傷事件
    労働契約法20条の解釈を巡る二つの事件
    アンダーソン・毛利・友常法律事務所




第7章 正に七転び八起きの人生

 1 自分の歩んできた道のり


    定年退官を迎えて
    人生は阿弥陀くじのようなもの

 2 七転び八起きの人生そのもの

    人生の試練は乗り越えるためにある
    仕事と家庭に恵まれた

 3 ネットで拡がっている私の人物評

    日刊ゲンダイの記事
    私からのコメント

 4 平成から令和への御代替わりの儀式に参列

    天皇退位と即位関連の儀式
    剣璽等承継の儀での序列は8番目

 5 人生の黄金時代は70歳代から

    私の前には全く新しい世界が広がる
    残された貴重な人生を有意義に楽しく

 6 旭日大綬章を受章

 7 心から感謝

    まず両親と家内に感謝
    仕事先や友人、お世話になった皆様に感謝





(備考)この第5章以外は、2021年4月1日から19日にかけてこのブログで公開したものと、ほぼ同一である。これに第5章を書き加えて、このたび弘文堂から「元内閣法制局長官・元最高裁判所判事回想録」として、2024年2月29日に出版するに至ったものである。弘文堂編集部の中村壮亮さんには、大変お世話になった。この場を借りて、改めて感謝の意を表したい。









(2024年2月11日記)


カテゴリ:エッセイ | 19:05 | - | - | - |
シルク・ドゥ・ラ・シンフォニー



 近くの文京シビックホールで、シルク・ドゥ・ラ・シンフォニー(Cirque de la symphonie)という公演があるというので、観に行った。

 プログラムは、下記にある通り、知っている音楽ばかりで、これをウクライナ交響楽団が演奏するという。最近のウクライナの対ロシア戦争でのウクライナ支援のつもりで出掛けたのである。ところが、観てびっくり、、、これは音楽会というよりは、サーカスそのものだったからだ。

 およそ50名から成る交響楽団が舞台のやや奥に引っ込んでいると思ったら、その前のスペースで、素晴らしい演技が次々に繰り広げられる。

 まずはクラウン(道化役)のツアルコフが、コミカルな演技で客を沸かす。しかもこの人、輪や棍棒のジャグリングも上手い。超一流だ。その奥さんのエレーナも、新体操のようなリボン演技の名手だ。


 舞台に長い紐が下がってきて、それを使って男女二人が空中で演技を行う。エアリアルだ。ブランドンはラスベガスのヴェネツィアホテルで演技しているようだし、オーブリーはロサンゼルスがベースのようだ。それにしても、空中でぐるぐる回りながら、相方と手を離し、どうやって身体を支えているのだろうとわれわれ観客をはらはらさせる。。

 クラウンがまた出てきて、早変わりを演ずる。輪とそれに繋がる布で、美人の奥さんを数秒間隠してそれをさーっと下げたかと思うと、現れた奥さんが全く別の衣装で出てくる。あらかじめ中に着ているのかと思ったら、そうでもなくて更に大きな衣装を着て現れる。どうなっているのだろう。

 フラフープをまとった美人のソフィアが出てきて、フラフープをトンネルのようにしたかと思えば、両手、胴そして両脚で十数本も回していた。目を見張る。

 1本のワイヤの上で演技するのはエフゲニー。その上で逆立ちし、頭ひとつで両手両足を広げて離したり、もう自由自在で、驚いた。


 最後にびっくりしたのが、ストロングマン(セルゲイとアレクサンダー)。片方の身体がやや大きい。それで、その人が天灯鬼のようにドーンと立つ。もう一方の人がその天灯鬼の頭の上に片手で立ったり、頭ひとつで立ったりと、もはやアクロバットと言ってもよく、すごかった。

 ということで、これは只者ではないと思い、インターネットで検索したら、こういうことだった。


「『コンサートホールにサーカスを』をコンセプトに、フルオーケストラとの共演だけを行う世界唯一のパフォーマンスグループとして2006年にアメリカで発足。メンバーはエアリアル、フラフープ、ジャグリング、怪力男やピエロなど8名から成り、いずれもシルクドソレイユ等の有名団体でキャリアを有す他、オリンピック選手や国際選手権のゴールドメダリストも含まれている。

 これまでアメリカを中心にカナダ、メキシコ、ベネズエラ等北中米にて年間50〜100回の公演を行ってきた他、2015年には初のアジアツアーを開催。名門フィラデルフィア管弦楽団とニューヨークでのデビュー公演を果たして以来、ボストン・ポップス、シカゴ交響楽団、アトランタ交響楽団、ミネソタ管弦楽団、シドニー交響楽団、ロシア国立交響楽団等の超一流の楽団をはじめ世界中の100以上のオーケストラと共演。特に全米のツアーに際しては各地完売が続出する人気公演となっている。今回が3回目の来日」


 令和4年3月に、シルク・ドゥ・ソレイユ(CIRQUE DU SOLEIL)の代表作「アレグリア(ALEGRIA)」を観に行ったが、その時と同じような感動を味わった。






(別添)シルク・ドゥ・ラ・シンフォニーのプログラム

  1.エルガー:行進曲「威風堂々」
  2.JシュトラウスI I:ポルカ・シュネル「雷鳴と電光」
  3.サン・サーンス:歌劇「サムソンとデリラ」よりパッカナール
  4.ビゼー:歌劇「カルメン」よりジプシーの踊り
  5.グルック:歌劇「オルフェオとエウリディーチェ」より「復讐の女神の踊り」
  6.ブラームス:ハンガリー舞曲第一番
  7.ワーグナー:楽劇「ワルキューレ」より「ワルキューレの騎行」
  8.グノー:歌劇「ファウスト」より「鏡の踊り」
  9.スメタナ:歌劇「売られた花嫁」より「喜劇役者の踊り」
  10.ファリァ:歌劇「はかなき人生」間奏曲とスペイン舞曲
  11.Aポンキェッリ:歌劇「ジョコンダ」より「時の踊り」
  12.ファリァ:バレエ「恋は魔術師」
  13.JシュトラウスI I:美しく青きドナウ
  14.オッフェンバック:歌劇「天国と地獄」より「カンカン」第四番
  15.マルケス:ダンソン
  16.シベリウス:交響曲「フィンランディア」






(2024年1月5日記)


カテゴリ:エッセイ | 22:43 | - | - | - |
華僑の古希の宴


 私には、もう30年来の友達の華僑がいるが、彼の古希のお祝いに招かれたので、タイ北部からの帰国の途中に東南アジアの現地に来ている。会場に入ると、10人ずつかけるテーブルが20も続いている。ということは、今日は参加者が200人もいるということか、、、すごいなぁ。

 この日の主役は、さぞかし着飾っていると思ったら、主役の友達は黒っぽい地味なジャケットにノーネクタイ、その奥さんは黒のワンピースにブカブカの白のパンツという普段着で入り口にいて、お客さんを迎えている。とてもよそ行きというスタイルではない。まあ、これが華僑の良いところだ。アンパオというお祝い金をその息子さんに渡した。


 各テーブルには、真ん中に派手な造花があり、百合と薔薇だ。椅子は、もとより赤く飾られている。しかも、各人の前には、いかにも持ち帰ってくれとばかりに、お土産の赤い袋が置いてある。後から見ると、「福」と書かれたお茶碗と、箸だ。お茶碗は、これから食いっぱぐれがないようにという意味だそうだし、お箸は子孫繁栄を現しているとのこと。

 主役の息子(次男)が舞台に出てきて、「これから開会しまーす」という宣言をしてからは、特に手順もないままに、直ちに始まったようだ。

 壇上は、お爺さんたちが日頃の練習の成果か、カラオケに興じている。主役ご夫妻も普段から入れてもらっているグループだという。私と同じ世代なので懐メロばかりだ。そうかと思うと、幼稚園から小学校の子どもたちが自然にわらわらと出てきて、振付けありで童謡を歌う。


 各テーブルで、「ヤムセーーーン」という大きな掛け声で、乾杯を繰り返している。それがもう、うるさいのなんのって、、、でも、これが当地の華僑パーティの定番なのである。私のアイウォッチから警告が出る「騒音が95dBを超しています。30分以上いると、耳を痛めます」、、、しかし、そんなこと言われても、、、。




 そのうち、バースディケーキが出てきて、孫たちが集合した。「ハッピーバースディ」と、「結婚42周年おめでとう」の声が聞こえる。そして、花束贈呈のあと、蝋燭を皆で消した。それから、バックの画面に、子どもや孫たちからのビデオメッセージが出る。それを見ている主役の友達夫妻が、もう涙目だった。

 それからが、全くの無礼講で、お爺さんグループ、子どもたちのグループ、おばあさんコーラスなど、いやまあ、壇上の独占が続くは続くは、、、あれれ、子どもたちの小学生グループが、アナと雪の女王をやっている、、、それが実に上手い。感心してしまった、しかも、物怖じなんて無縁だ。舞台が開くのを待っている。そうそう、華僑は子供の頃からこれくらい厚かましくないと、生きていけない。

 お爺さんグループと一緒に、飲み歌い踊っていた主役は、遂に酔い潰れてしまった(笑)


 彼が復活した頃、長男一家が全員で歌い出して本日のお礼を喋った。それからは、三々五々に解散していく。これで終わりか、、、始まりも終わりも、形式なしだから、あっけないものだ。でも、世代を通して親類や取引先など皆が親密で、羨ましい限りである。





(2023年12月24日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:44 | - | - | - |
タイ北部への旅



 タイ北部への旅(写 真)





 エッセイ目次

  01.タイ北部は未踏の地
  02,城壁とお濠の街
  03.金ピカのドーイ・ステープ寺院
  04.三人の王のモニュメント
  05.チェンマイの小樽
  06.民族舞踊
  07.首長族(カレン族)の村
  08.エレファント・パーク
  09.ワン・マーケット
  10.レモンツリー・レストラン
  11.ナイト・マーケット
  12.天然温泉
  13.ホワイト・テンプル
  14.スカイウォーク
  15.黄金の三角地帯
  16.ミャンマーとの国境の街
  17.ムーン・マイ・レストラン
  18.イルミネーションに輝く時計塔
  21.ファイ・プラ・カン寺院
  20.カシューナッツ富豪
  21.中国マーケット
  22.中国式しゃぶしゃぶ
  23.旅を振り返って
  24.八方塞がりの日本の将来


01.タイ北部は未踏の地

 タイのバンコクには、仕事とプライベートを合わせると、これまで3回、行ったことがある。会議とゴルフだ。かつてゴルフに熱中していた頃は、バンコクのゴルフ場が4ボール(組)どころか6ボールまで認めて、かつ一人のゴルファーに6人ほどのキャディが付いた。それがまた珍しくて、面白かった。グリーン上に前の組が上がると、その42人がワイワイガヤガヤとまるで蟻のように群がっていたのを思い出す。


 それ以外は、渋滞と大気汚染の思い出しかない。もう、ゴルフもしなくなった。そこで今回は、まだ訪れたことのない北部のチェンマイ(Chiang Mai)と、さらにその北のチェンライ(Chiang Rai)に行ってみた。チェンマイ空港に到着したところ、ミス・チェンマイがレイを持って迎えてくれた。大歓迎である。


02.城壁とお濠の街

 チェンマイは、バンコクの北720kmにあるタイ第二の都市である。その旧市街は、13世紀末に王都として作られた一辺1.5kmの正方形の形をしている。昔は周辺の小国や大国ミャンマーとの争いが絶えず、その侵入を阻止するために、城壁とお濠が周囲に作られた。その城壁と濠の一部がなお現存していて、観光客がそれを見物しに集まってきている。


 ターペー門の一辺が騒がしい。人だかりがしている。古代劇の映画の撮影かと思ったら、そうではない。観光客の一部が戯れに古代衣装を着て、写真を撮ってもらっているだけだ。しかも、その貸し衣装屋が、餌を巻いて鳩を誘き寄せ、集まった鳩の群れを今度は逆に脅かして一斉に飛び立たせる、それを背景とする写真を撮るという凝りようだ。日本だと動物愛護法違反になりかねない。


03.金ピカのドーイ・ステープ寺院

 チェンマイに来たら必ず立ち寄るべき名所として、標高1600mのところに位置するドーイ・ステープ寺院(ワット・プラタート・ドーイ・ステープ、Wat Phra That Doi Suthep)がある。ドーイとは、山のことらしい。曲がりくねった道を延々と登って行き、ようやく頂上近くに着いた所で、簡素なケーブルカーに乗ってやっと到着だ。




 タイ音楽が迎えてくれる。人々が寄進した金ピカの仏の坐像が沢山ある中を抜けて行くと、視界がスーッと開けて金ピカのパゴダがある。青い空を背景に金の板が貼り付けられたパゴダとその周りの天蓋のような飾りに、綺麗なものだなと、思わず見惚れる。その周りを回っていくと、ほとんどの仏像が金ピカなのだが、稀に緑色の仏像や、青色のものすらある。これでも良いのかとガイドに聞くと、サファイアやエメラルドのような高価な材料を使えば、それだけ功徳が高まるとのことで、仏像は仏像だから、あまり気にしてないようだ。Sara treeと書いてある木があり、ソフトボール大の茶色の実が生っているので、ホウガンボクだ。実が落ちても大丈夫なようにネットまでかけてある。



 ガイドが、仏像が安置してある部屋の中に入って行って、木綿の糸で作った紐を手首に結んでくれた。仏様と結縁の意味があるそうだ。それから転じて、強くなるとか、幸せになるとか、色んな功徳があるという。その晩は、お風呂に入る時も寝る時も、そのまま手首に巻いて寝たが、「いつ取るのだろう」と気になってガイドに聞いたら、「2〜3日で良い」とのご宣託だった。


04.三人の王のモニュメント

 チェンマイの街は、16世紀半ばまで、ランナータイ王国の首都であった。この像の中の中央の(ランナータイ王朝をつくった)マンラーイ王が主導して、右側の(スコータイ王国の)ラムカムヘーン王、左側の(パヤオ王国の)カムムアン王が協力して作られたものだという。それはいつで、なぜ3人だと聞いても、今回のガイドは歴史の知識が乏しくて、何にも答えられないのが困るのだが、どうやらこういうことらしい。当時のタイ北部は、各地方に別れた群雄割拠の時代で、その中でもこの3人の王はお互いに争わないとして協力し、このチェンマイの街を新しく作り上げたそうだ。チェンマイというのは、「新しい(マイ)」「町(チェン)」という意味らしい。


 ちなみに、これから行く北部のチェンライの街は、「ライ」とあることからもわかるように、マンラーイ王の本来の根拠地だったようだ。


05.チェンマイの小樽

 面白かったのは、「Otaru川辺地区」である。数年前まで、ゴミが散乱して悪臭を放っていた川があった。それを綺麗に清掃して「Otaru川」と名付け、川の両岸を散歩出来るように遊歩道を設け、しかも花まで植えた。ほんの1年前のことである。そうすると、川辺りに物を売る店が増え、また川を横切るように橋まで架けて対岸に渡れるようにしたところ、散歩する人が増えたという。




 そこで、「どうして『Otaru』なの?」と聞いたら、「もちろん、北海道の小樽のことさ」と言うので、「あれは、川辺りに遊歩道はあるけど、対岸は倉庫群だよ。あまりにイメージが違うのだけど」と言うと、「まあ、細かいところは気にしない(マイペンライ)」のだそうだ。かくして、こんなタイ北部の地に、小樽の姉妹川ができてしまった。もう、笑い話だ。


 珍しかったのは、観光客の振る舞いだ。多分、中国人だと思うが、古代の衣装、それも髪型と上半身は王朝風、下半身はゾロリとしたタイ風のスカートを巻いて、いかにも幸せそうに、写真を撮っていたことだ。最近の彼らの流行りだそうだ。


06.民族舞踊

 カントケとは、大きな容器に料理を盛り付けて出す田舎の風習らしい。この名前の伝統芸能の民族舞踊が見られるレストランに行った。その名の通り赤い大きな容器にたくさんの料理が盛り付けられていた。中心にグリーンチリのペーストが置かれ、その周りにはスティック状の野菜、キュウリ、ニンジン、キャベツなどがある。これはもう、とてつもなく辛くて、口にするどころではなかった。その周辺には、照焼チキン、野菜煮、ビーフンなどがあり、これらで何とか夕食になった。


 ポコン、ポコン、ニャーラララーという軽快な音楽に乗って、女性の踊り手が6人ほど現れて、優雅な踊りを披露してくれる。手の先まで神経が行き届いているようで、まあその優雅さといったら、これ以上のものはないほどだ。何種類かの踊りの中に、蝋燭を両手でもって、それをこねくり回す踊りがあり、これには感心した。





 男性の踊りもあったが、これも両手をこねくり回すスタイルで、男女に共通するようだ。ただ、男性の場合は銅鑼を叩いたり、剣を両手に持ったりして、優雅さとは程遠い。そのどちらもビデオと写真を撮って、大いに満足した。これだけでも、、タイ北部まで来た甲斐があるというものだ。






07.首長族(カレン族)の村

 翌朝、チェンマイ近郊のエレファント・パークに向かう。途中で、首長族の村(Long Neck Village)に立ち寄る。ガイドに、「はて、『首長族(Long Neck Tribe)』とは、ひょっとして首に金属の輪を重ねている人たちか?」と聞いたら、「そうだ」と言う。「あれは、ミャンマーの奥地に居る人々ではないか」と聞くと、「最近の軍と少数民族や民主派などとの武力闘争で、危険を感じてタイに逃げ出してきた人々だ。タイはミャンマーと違って少数民族を迫害するような阿漕なことはしないし、彼らはここに来て、観光で暮らして多少のお金も入るから、ハッピーではないか」と言う。



 山間の普通の谷のような所に着いた。電気はかろうじて通っているし、沢水だろうが上水も来ているようだ。もちろん、舗装などはなくて、剥き出しの土の谷間である。そこの両側に粗末なバラックがあって、そこに手作りの土産物品を並べてある。てっきり売り子の女性が首長族かと思ったら、そうではない。首に何も巻いていないし、そもそも違った民族衣装を着ている。ビレッジの入り口の説明板によると、これは全く別の種族だ。首長族はもっと100m先らしい。

 歩いていくと、それらしき売り子がいた。首に、真鍮製の輪をたくさん巻いている。まだ若い子だ。その隣には、年配の女性がいて、これが確かに首が長い。30cmはありそうだ。ガイドによると、首が長い方が美人ということで、そういうものを付けるそうだ。しかし、重たいし、寝るときも大変だろうと思うが、寝ている姿の写真もあった。更に進んでいくと、わずか3歳ほどの幼女にも付けている。近代的価値観で物を申すのもよろしくないとはいえ、これは、女性虐待ではないかと思うほど本当に妙な風習だと思いながら、その場を後にした。


08.エレファント・パーク

 そこから30分ほど行って、象がたくさんいるメーサー・エレファント・キャンプ(Maetaeng Elephant Park)に着いた。運動場のようなところに面して、粗末ながらも100人ほど座れそうな見物席がある。我々は最初の客だったから、どこに座っても良かったが、万が一にも席が壊れて潰れてしまったら怖いから、前から二番目の列にした。それでも途中、皆が手拍子をした時に、観客席全体がいささか揺れたので、大丈夫かと心配になった。




 象のパフォーマンスが始まった。8頭ほどの象が、象使いを乗せて出てきた。一斉にお辞儀をし、フラフープを鼻で器用に回す。丸太ん棒を転がしたり、サッカーすらできる。感心したのは、象が鼻でサッカーボールを高く飛ばし、それが落ちてくる所を足を曲げてボレーシュートをした時だ。運度神経がそれくらい良いのだ。そうかと思うと、お客さんを象の前に立たせて、象がその肩越しに鼻を伸ばして斜めに抱きつくとか、象使いが自分のパナマ帽を象の鼻に渡すと、象がそれをお客さんに被せるとか、もう自由自在だ。お客さんも、バナナの束を買って、それを象に食べさせている。




 びっくりしたのは、象が絵を書いたことだ。それが、とても上手なのである。もちろん、象使いが筆に色を付けて渡すという補助をするのだが、例えばまず、鼻で縦に木を2本書く。しかも、すらすらと自然に書くのだ。それで、木の上部に広がるような枝を書き足す。それから、ポンボンという調子で木の上に花々を書く。そして、真っ白な下半分に、緑色の草地のような情景を描く。最後にその2本の木の間に、象自身の姿を書いておしまいだ。絵は、もちろん象によって違う。かなり訓練したのかもしれないが、少なくとも私よりは上手だと認めなければならない。いやはや、驚いたのなんのって、、、




 それが終わると、いよいよ乗馬ならぬ乗象の時間だ。象の背中に括り付けられた二人乗りの座席の真ん中に、一人で座る。歩き出すと左右に10cmほど揺れる。だから、両手を伸ばして座席の背中にある持ち手に掴まる。象が、川に入っで行く。深さはさほどでもない。せいぜい、象のお腹にも届かない水深だ。そこをしずしずという感じで進んで行く。川から上がりだした。それもかなりの急坂に繋がる所だ。わざわざこんな場所を選ばなくてもいいのにと思えるが、そこを上がって行く。上がる所はまだ良いが、急坂を下る時には、座席からつんのめって落ちそうだ。座席の真ん中に居ないと重心が傾いて危険なので、それに注意していたら、今度は身体が斜めになりそうだ。急峻な下り坂の道なき道を見ると、前を行く象の「黄色い落し物」がある。落ちてあんな所に突っ込んだら飛んでもないことになる。それやこれやで神経を使う。こんなに大変とは思わなかった。やがて、また川の中に戻り、水平になったので、ひと安心だ。そして、出発から30分ほどして、やっと乗象体験が終わった。


 次は、乗牛の体験だ。これは、茶色と黒の水牛に引かれた馬車に4人で乗るもので、象とはうってかわって何の危険もなく、ただただ平らな所をのんびりと進んでいくものだ。途中で方向を曲げて道路の看板に向かって進むから何かと思ったら、その下に設えてある水飲み場が目的で、ガボガボと音を立てて豪快に水を飲んでいた。変わったことといえばそれくらいで、平穏な20分間だった。

 バイキングの昼食後、ラフティングの時間となる。横2m、縦6mほどの竹で作られた筏を、前後の2人の船頭が竹の棒を操って進んでいくものだ。川の水は泥だから、濁っていて川底が見えないので、操舟はかなり熟練してないと危ないと思うのだが、その中をライフジャケットも付けないで、流れに任せて下っていく。流れは緩やかで水深も深くないから良いようなものの、そうでなければあまり乗りたくない代物だ。



 しかし、出発してしまえば、そんなのを忘れる。川の両脇の緑、中洲、川辺りの住宅、象の訓練所など、見所が次々に出てくる。びっくりしたのは川辺りの住宅で、高床式になっているコンクリート製の建物なのだけど、それを支える数メートルの長さの柱が、誠に細いのである。あんなに細くて大丈夫かと心配になるほどだ。たまには洪水になるだろうし、そうなったら真っ先に流されそうだ。

 後ろから、大声で歌ったり笑ったりする賑やかな筏が続いてきた。筏上のカラオケ大会に興じているようだ。マレー語だから、マレーシア人の団体だろう。面白い連中だ。ある時、歌が聞こえなくなったと思うと、今度は川岸の物売りの所で冷やかしている嬌声が聞こえてきた。可笑しいったら、ありゃしない。

 近くの「I love flower」というお花ガーデンに立ち寄った。1年前にできたばかりということで、まだ地元の人しかいない。それでもこの日は、地元の大学の卒業の日ということで、その卒業生が式のマントを羽織ったまま記念写真に興じている。子供を抱えているから、家族を持ちながら頑張って卒業証書を手にしたのだろう。おめでとうと言いたい。



 お花といえば、薄青のラベンダー風の花畑が正面に広がる。でもこんな熱帯でラベンダーはあり得ないし、そもそもこちらの花の方が背が高い。その右手には、赤とピンクと白の賑やかな花が一面に広がっている。それだけだ。でも、こちらの宣伝ポスターでは、綺麗なモデルさんが、こうしたお花畑を背景に、色々なポーズを撮っている。なるほど、、、背景全面がお花ずくしというのが、魅力的なのかもしれない。


09.ワン・マーケット

 チェンマイに、倉庫を近代的に改造したような、小洒落たワン・マーケット(One Market)がある。横浜の赤レンガ倉庫を思い出してしまった。あれのコンセプトを借用したのかもしれない。中は、大小の区画に別れていて、それぞれに趣味の良い店が入っている。驚いたのはこのマーケットの建物の外側にも、ナイトマーケットのような露店が立ち並んでいて、それもかなり質の良い商品を売っていたことだ。タイの北部といえばただの農村地帯を想像していたが、実はこんな素敵な近代的マーケットがあるとは考えもしなかった。



 ガイドは、「このチェンマイの近郊の田舎の出だが、チェンマイには伝統的なチャイナタウンもあるし、こうした洒落たマーケットもできたし、バンコクのような交通渋滞や大気汚染や生活費の高騰も一切ないしと良いことづくめで、ここでの生活に本当に満足している」とのことだった。なるほどと納得した。

 ちなみに、「大卒の初任給は、月12,000バーツ(約50,000円)で、バンコクの月18,000バーツ(約75,000円)に比べれば安い。でも、その分、生活費も安くつくので、ガイドでも自分はマンションも車も持てたし、ここにして良かったと思う」と話していた。では、「あとは旦那さんだけだね」と私が言うと、下を向いて赤くなっていた。


10.レモンツリー・レストラン

 夕食に、レモンツリー・レストラン(Lemon Tree restaurant)に行った。これは、ガイドの旅行会社が勧めてくれたものだが、実際に行ってみると、街中の小さな食堂だ。これが本当にそうなのかと疑問に思ったが、ここだと言うので入ってみた。そして、グリーン・カレー、八宝菜、トムヤムクン・スープ(Tom Yam Kung、エビが入った酸っぱくて辛いスープ)を頼んだ。


 トムヤムクンを一口啜ったところで、その実力がわかった。とっても美味しい。下手なレストランなら、ただただ辛いだけだが、これは辛くて、しかも味がある。辛さが抜けた後に、何ともいえない芳醇な味の余韻が残るのである。鶏肉のグリーン・カレーも、実に美味しい。八宝菜も然り。こんなに美味いタイ料理を食べたことがない。大当たりだ。


11.ナイト・マーケット

 マレーシアのパサ・マラーム(Pasar Malam)(夜市)と同じである。通りにたくさんの露店が出て、様々な商品を並べている。スリに注意しながら、見物する。食品、衣料品、生活用品、玩具、食べ物など、何でも揃っている。


12.天然温泉

 チェンマイの北へ車で約1時間近くの所に、天然温泉がある。本当に温泉が豪快に噴出していて驚く。足湯もある。ここは日本でいうと道の駅のようになっていて、休憩とトイレと買い物をする所だ。隣にアンコールワット風の寺院があると思ったら、コロナ前に企画されたものの、資金不足で建物は未完成のまま放置されていて、おそらく完成しないだろうとのこと。何百年も経ったら、本物のアンコールワットになりそうだ。(大笑い)



13.ホワイト・テンプル

 チェンライ出身の画家、チャルーンチャイ・コーシピパットがイギリスで成功を収め、多額の財産を得た。そして、故郷に広大な敷地を購入し、しかも真っ白な寺院群(ワット・ローンクン(Wat Rong Khun、通称は、White Temple)を建設したのである。手前に長鰭の錦鯉が泳ぐ池を配置し、真っ白で壮大な寺院があちらこちらに立ち並ぶ。空の青、芝生の緑、池に写った青い空と白亜の寺院が実に美しい。最初に出迎えるのが本院で、まずは地獄の描写から入る。そして空にかかった橋を渡り、天国のような本殿に行く。いずれも白ずくめだ。




 本殿内部の写真撮影は禁止されているので撮れなかったが、手前に蝋人形の僧(モンク)があり、その上に金ピカのタイ風仏像があって、それらを見下ろすように白い優しげな仏像が配置されている。白い仏様は、見れば見るほどに素敵な顔だ。日本の中宮寺の弥勒菩薩のお顔に似ている。



 何というものを作ったのだろう。この世の天国を現している。ちなみにオーナーは、リタイアしてバイクを乗り回している、、、と思ったら、サングラスをして、眼の前に現れた。70歳余で、私とさほど変わらない。若造りの素敵なおじさんだった。


14.スカイウォーク

 チェンライから更に北へ1時間の道のりで、スカイウォークに着く。ワット・プラタート・パーガオ(Wat Phrathat Pha Ngao)という寺院で、わずか1年前にできたばかりだそうな。寺院なのに、はて、「スカイウォーク=空の道」って何だろうと思う。入り口の近くで、トヨタ車だがトクトク風に改造されている向かい合わせ8人乗りの車に乗った。それがシャトルバスとして動いて、上まで連れて行ってくれる。そこに着くと、「履物の上にカバー」をせよと言われて付ける。そして、透明なガラスの上を歩くのである。下を見ると怖くなる。水平図にすると「コの字型」になっていて、角に1本ずつ、桜が満開のような造花がある。




 その辺りまで恐る恐る歩いていくと、わぁ凄い、、、目の前が息をのむような風景だ。緑豊かな森林の中を左右に切り裂くように、大河メコン川が左手から右へとゆったりと流れている。対岸は別の国ラオスだ、、、なるほど、これがスカイ・ウォークか、、、それにしても、なぜこれが寺院にあるのか不思議と思うところだ。ポスターによると、オレンジ色の僧衣をまとったモンクつまり僧たちが、ニコニコしながら渡り初めをしている写真があった。その時から、各自があの「履物の上のカバー」をしているから、可笑しい。話によると、観光名所を作ろうと、お寺が寄付を募って作ったそうだ。凄いな、、、タイではお寺がGNPを引き上げる原動力になっているとは、、、



 ところで、日本でいえば、願掛けの絵馬のような「リボン」が括り付けてあった。紹介すると、 「財源廣進家宅康寧」、「成名就事業順達」、「寶増長諸願皆成」、「事如意吉祥圓満」、「家庭金玉良縁」など、どの国も変わらない。


15.黄金の三角地帯

 メコン川が合流して大きくなって流れる「Y」の字を描いたような地形で、その字の左岸がタイ、右岸がラオス、上のVの字のところがミャンマーという3ヶ国に挟まれた地域に案内された。黄金の三角地帯(GoldenTriangle)というらしい。

 古くは、麻薬の密輸でその名が知られたそうだが、今はカジノが、メコン川を挟んでラオスとミャンマー側にある。まるで宮殿のように聳え立つのがラオス側のキング・ロマン・カジノで、ミャンマー側は、確かウィン&ウィンと言っていたと記憶している。それに比べてタイ側はというと、高さ16mの大きな金ピカの仏様の坐像が、あたりを睥睨している。まあ、平和でよい。ちなみにラオス側は、新型コロナ前はその宮殿のような建物だけだったのに、今ではその周辺に雨後の筍のように高層マンションが乱立している。この3年間、ここに来ていなかったガイドは、「びっくり仰天だ」と言っていた。




 せっかくだから、国境の街ここチェンセーンからメコン川を観光船で一周することになった。救命胴衣を着せられ、結構な速さで遡る。メコン川そのものは泥川でつまらない。周りの風景も、カジノ以外には目を引くものはない。ミャンマーのカジノ辺りで方向転換して川を下り、ラオスのカジノ付近まで行って戻ってきた。船頭に「ラオスに一時、入国してみるか?別料金だが」と聞かれたが、人さらいにでも遭ったら困るので、危うきに近寄らず、「No Thank you!」と言って断った。



 船から降りて、タイ側で一番目についた金ピカの仏様(プラ・プッタナワラーントゥー)まで歩いて行った。仏様は、よく見ると船を模して作られたものの上に鎮座されている。作者は仏様の向く方向にかなり苦労したのだろう。メコン川に向いて座っておられるのではなく、川と平行に左半分を川、右半分をタイ側に向けている。メコン川に向いたらまるで、通航する船を監視している税関のようだし、タイ側におしりを向けるのは不都合だ、、、なるほど、この方向が一番だと思った。日本風に深々とお辞儀をして、徒歩で帰ってきた。


16.ミャンマーとの国境の街

 メーサイ国境検問所に行った。ちなみに、ここはタイの最北端の街だそうだ。午後4時頃なので、ミャンマーに帰る車とバイクでごった返している。その脇には色んな店が多くあって、冷やかしに入ってみると、安い。例えば、「タナカ」というのはミャンマーの日焼け止めだが、首長族の村では1本100バーツ(約410円)で買ったのに、それがここではわずか20バーツ(約82円)だと憤っていた人がいた。



 まあ、こういう国は、そんなものだ。首長族に寄付をしたと思えば良いではないか。その他、ゴールドを売る店が目立っていた。純金の割合は、99.99らしい。私には関係ないけれど、、、。


17.ムーン・マイ・レストラン

 一言で言うと、凝りに凝った装飾のレストラン(Moon Mai restaurant)だ。庭のあちこちに、ディズニーに出てきそうな子供や24人の小人、中国人の子供、西洋人の子たちの像が置いてあって、ジャングルの中のような雰囲気を醸し出している変わったレストランである。トリップ・アドバイザーのランキングで第1位になったことがあるらしい。




 料理はというと、とっても美味しい。チキンとカシューナッツのトマトソース味、野菜炒め、トムヤムナムコン(ココナッツミルクを使っているから白い色のトムヤムクン)の三種類だが、いやもう素晴らしい味だった。とりわけトムヤムナムコンは、まろやかなトムヤムクンスープで、とても食べやすい。ここは、わざわざ紹介してもらっただけのことはあった。同行の皆さんも、口々に味を褒めあっていた、


18.イルミネーションに輝く時計塔

 チェンライ市内で、ムーン・マイ・レストランからホテルに戻る途中、昼間見たなんの変哲もない時計塔が、イルミネーションに輝いているのに出会った。しかも音楽付きと、大変身で、ビックリすることばかりだ。



19.ファイ・プラ・カン寺院

 丘の上にパゴダと白い本殿、それに巨大な仏様の坐像が見える。近づくと、目の前に白い壁に青い縁どりの巨大な病院がある。これは生活困窮者のために寄付で建てられたもので、そして背景にあるパゴダも本殿も仏様の坐像もこれら全てが、当地の僧侶の発願で華僑とマレーシア中国人の寄付によって作られたという。驚くほどの費用がかかったはずだ。




 このワット・ファイ・プラ・カン (Watt Huai Pla Kang)については、タイ観光局の説明がわかりやすい。それによれば、「チェンライ市内から約7km離れた小高い丘の上にあるこの寺院は、2001年に修行者のための場として建立。2005年にポップショークという名の僧侶により修行者のための施設や仏塔の建設が始まり、2009年に正式な寺院として認められ・・た。」



 本堂と同じ純白の外観が目を引く高さ69mもの巨大な観音像の内部はエレベーターで上ることができ、23階の窓の外にはチェンライの美しい街並みが広がります。ランナーと中国のスタイルが融合した9階建ての仏塔の内部も見学可能です」とのこと。


20.カシューナッツ富豪

 チェンマイまで車で4時間ほどかかって戻ってきた。途中、ローカルのレストランで昼食をとる。魚の丸ごとの煮物、イカリングの揚物、八宝菜ら、キャベツと春雨のスープである。これも、美味しかった、今回の旅は、見る物だけでなく食べ物にも恵まれた。

 近くにカシューナッツの畑と加工場があるようで、色々な風味のカシューナッツを売っていた。ガイドによると、このオーナーは、昔は夫婦2人と使用人3人で細々とやっていたが、中国語を学んで中国に売りに行き、一気に商売を拡大して、この大農場と数百人が働く工場を所有するに至ったそうだ。


21.中国マーケット

 チェンマイに着き、夕食まで時間があったので、チャイナ・タウンの中心にある中国式マーケットに立ち寄った。すると、ドリアン製品がある。ドリアンをそのまま凍らせたフリーズド・ドライと、ドリアンのペーストを棒状にしたものだ。ただ、前者は水分が全部飛んでスカスカだから、あまり好きではない。昔から後者が好きなので、喜んで買い求めた。それからと、、、お茶屋さんがあり、「高山茶」がないかと探したら、すぐに見つかった。これは、台湾の高山でとれる特殊な烏龍茶の一種で、香りが良い上に味がしっかりしているから好きだ。これも買った。

 でも、ほどほどにしておかないとキリがないので、早々に退出しようとしているうちに、ある不思議な店を見つけた。コーチやルイヴィトンなどのブランド品、高級な家に高級車、、紙幣、、、これらが全て、紙で精巧に作られている。ガイドに聞くと、「死んだ時のお葬式に死者と一緒に燃やすのさ」と、事もなげに言う。なるほど、生前には叶えなかった夢を、死んだ時に叶えさせてあげるのか、、、それにしても、何かおかしくないだろうか?


22.中国式しゃぶしゃぶ

 この日の夕食は、英語で「steam boat」だという。「中国式しゃぶしゃぶ」のことだ。大きな野菜の皿に、キャベツ、ニンジンなどが入って運ばれてきて、それに日本で言えばわんこそばのような容器に、お揚げさん、水餃子、ハム、春雨、黄色いソバ、牛肉や豚肉の薄切り、卵などが入れられ、それらがうず高く積まれる。大きな鍋は、何とまあ、昆布出汁だ。

 日本と違うのは、ソースがポン酢やゴマだれではなくて、チリソースだけということだ。でもそのチリソースは、よく考えられていて、しゃぶしゃぶにピッタリと合うのである。お店の人に、「このチリソースは、しゃぶしゃぶにピッタリな味だね」と言うと、「はい。しゃぶしゃぶ用に開発されたチリソースで、すぐそばの市場に売ってますよ」と正直に話してくれた。


23.旅を振り返って

 これで、私のタイ北部の旅は終わった。美味しいタイ料理に恵まれたし、象に乗ったり、首長族、ホワイトテンプルを見たり、黄金の三角地帯、スカイウォークに行ったりと、本当に実り多い日々だった。

 それにしても思うのだけど、タイ北部に対する私の先入観は、「所々に古いお寺があって、ひたすら農村地帯が続いている」というものだった。実際に行ってみると、それは全く間違っていたことに気付いた。あちこちに、人々の溢れるようなエネルギーが渦巻いていたからである。中でも、お坊さん(モンク)までその先頭を走っているのはタイらしい。

 例えば、プラタート・パーガオ寺院は、お坊さん自らが寄付を募って建ててしまった観光名所である。ファイ・プラ・カン寺院も、当地と隣国マレーシアの華僑から寄付をあおいでお寺の3つの建物と貧困者用の大病院まで作ったものである。それどころか、坊さんでもない一画家が、イギリスで稼いだお金を使って独力で完成させたものが、ホワイトテンプルだ。いやもう、平安時代の弘法大師のような人たちだ。


24 .八方塞がりの日本の将来

 これらの努力は、もの凄いと思う反面、日本には、こんな底知れないエネルギーを持っている人々はもういないなぁと、寂しい気がする。日本は1990年のバブル崩壊後、賃金も物価も伸びずに経済成長もないという「失われた30年」を経験した。それどころか、やれ「大人の引きこもり」、「子どものいじめ」、「行きずりの無差別殺人」、「企業は最高益なのに賃金は伸びない」などと、マイナスばかりが目に付く。

 私が大学を出た半世紀前、日本のGDPは、アメリカに次ぐ世界第2位になったと喜んでいた。しかし、いつの間にか中国に抜かれた。それは仕方がないとしても、失われた30年のせいで、うかうかしているとドイツにも抜かれて世界第4位になりそうだ。若い人は外国にも出たがらないし、このままでは日本の地盤沈下は止まらず、早晩、「かつての経済大国で、今や落ち目の老大国」に成り下がりそうだ。

 かつては、大蔵省、通産省といった「官僚」が気概を持って発展途上国経済から先進国経済へと脱皮を図る上で大きな役割を果たした。ところが、日本には今やそのような存在はいない。「官僚」は、叩かれ過ぎて萎縮して、とてもリーダーシップをとるどころではない。政界も、政治屋はいるが、肝心の政策論を闘わせる人材がいない。故与謝野馨をもって最後だったかもしれない。財界も、かつての松下幸之助、本田宗一郎、盛田昭夫、井深大、土光敏夫などに比肩する気骨のある経営者がいない。まさに八方塞がりである。困ったものだ。






 タイ北部への旅(写 真)






(2023年12月15日記)


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独居老人の独り言


1.内閣府の令和3年高齢社会白書(第1章第1節)によれば、令和元年現在、 65歳以上の者のいる世帯数は全世帯(5,178万5千世帯)の半数(49.4%)を占めている。かつて昭和55年では三世代同居世帯の割合が一番多く、それが全体の半数を占めていたものである。ところが、最近ではその様相が一変して、令和元年では夫婦のみの世帯が一番多く32.3%を占めており、男女どちらか一方の単独世帯28.8%と、これらを合わせると約6割となっている。


 中でも、65歳以上の一人暮らしの者は男女ともに増加傾向にあり、かつて昭和55年には男性約19万人、女性約69万人、それぞれ65歳以上人口に占める割合はわずかに男性4.3%、女性11.2%であった。ところが、近頃はそれが激増して平成27年には男性約192万人、女性約400万人となり、それらが65歳以上人口に占める割合は男性13.3%、女性21.1%となっている。男性は3倍増、女性は2倍増だ。これは実績値だが、将来的に2040年には、男性20.8%、女性24.5%と推計されている。要は、65歳以上になると、おそらくその5人又は4人に一人が独り暮らしになるということだ。


 実は、私の所もそうで、家内が今年5月に老人ホームに入ってしまったから、私は74歳にして単独世帯つまり独居老人ということになる。

 これは、寂しいものだ。独りで毎晩買い物をし、翌朝自分だけの食事を作り、お昼と夕食は届けられるお弁当を食する毎日だ。でも、週3回はテニスをするので、その時だけは仲間と話して気が紛れる。

 また、月に一度は昔の職場仲間や、テニスの友達、大学の同級生、あるいは今の法律事務所の秘書さんたちなどを家に呼んで、伊豆栄のお弁当をつつきながらよもやま話をする。その時は、本当に楽しい。ところが、皆さんが帰って、家の中がシーンとすると、片付けながら何とも言えない寂寥感に襲われる。

 これではいけないと、テレビのスイッチをつけると、何やら賑やかにやっているが、いつもの芸人がありきたりのコメントしかしていなかったり、歌手と称して身体中でぴょんぴょん跳ねながらよく分からない歌詞を歌ったりで、全然面白くない。だから、ついNHKニュースを見る。しかしこれも、火事現場などのくだらないニュースが多い。そこで、YouTubeを見る。最近では、ウクライナ戦争の状況や宇宙の話をよく観ているが、前者は明日の日本かもしれないと思って真剣に観ているし、後者は最前線の学者が最新の研究の内容を紹介してくれるので、面白い。

 それから、パソコンを前にして著作にとりかかる。今は、私自身の「回想録」を執筆中だ。いったん書き上げてから、その中に人の名前や固有名詞が数多く出てくるので、チェックが大変だ。これをやっていると、気が紛れるが、ある程度で切り上げないと、明日に差し障る。執筆が佳境に差し掛かったときには、寝る時間が午前1時、2時、3時と次第に遅くなっていって、翌朝のテニスの時にフラフラになったので、それはもう止めている。


2.このように、独り暮らしだと、誰にも気兼ねせずに好きなように時間を使い、自由に暮らせる。それは良いのだが、反面、孤独感に苛まれるし、特に事故があったりした時のことを考えると非常に怖い。

 大学時代以来親しくしていた私の友人は、数年前に脳出血で倒れた。それも、家で発症したから、まだ良かった。奥さんが変調に気づいてすぐに救急車を呼び、直ちに手当をしたから助かった。発症直後は身体の片側が麻痺して言葉も発せない状態だったが、その後、3年に及ぶリハビリの結果、今ではほぼ普通に日常生活を送れるまでになった。

 ところが一人暮らしだと、下手をすると「倒れてそのまま死亡し、何ヶ月後に発見される」という憂き目に遭う。そこまでいかなくても、深刻な後遺症が残ったりすると最悪だ。早く通報されれば、後遺症は軽くて済むし、何よりも命が助かる確率は高まる。しかし、通報が遅れて後遺症が重症になってしまうと生きる意味がなくなる。通報されることなく数ヶ月後にそんな形で死んでしまうのは、回りに迷惑をかける最悪の死に様だから、これだけは絶対に避けたい。

 しかし最近、とても気になることが二度あった。最初は、冬用の暖かいスリッパを履いていて普通に歩いていたのに寝室で両脚揃って見事に滑り、腰を打ったことである。数年前に風呂場の脱衣場で同じようなことが起こり、その時は不幸なことに左手首を複雑骨折した。だから、注意しなければならない。それ以来、家の中では絶対に滑らないスリッパを履くようにしている。

 そして2回目は、お風呂の浴槽に入る時、浴槽の真ん中辺りに滑り止めの仕掛けがあるにもかかわらず、わざわざそこを外して入ったために、これまた滑ったことである。何ともなかったとはいえ、危なかった。

 もし、こういう場面に遭遇した場合、誰か私を助けてくれるか? 私には娘と息子がいるが、元より娘は、医師の仕事と子育てで忙しいせいか、電話すら寄越さない。息子は、数ヶ月に一度はテレビ電話をしてくれるが、電話が繋がったと思ったら孫に取られて、大人の会話が出来ない。こんな調子では、数ヶ月後に死体発見、、、となりかねない。

 そういうことを、いつも通う散髪屋のママさんにブツブツ話すと、「子供は、親はいつも元気だと思い込んでいるし、皆さん生活に追われて日々忙しいのよ。仕事に家事に子育てに住宅ローンにとね、、、だから、暇な老人の相手はしてくれないわよ」と、グサリと言われる。


3.私が続ける。「でもね、私や家内や妹たちは、一生懸命にやったよ。まず妹たちは、富山の両親のすぐ近くに住んで、日を変えてかわりばんこに見にいっていた。実家に交換日記を置いて、『今日、ママさんは何を食べた』とか、『持って行ったおかずは何だ』とか、『ママさんの体調が良くないから、散歩は控えさせて』とか、『薬はまだ、何が飲んでない』とかね」

 「家内は、静岡に住んでいる両親の元に、週に1回は必ず通って、病院通い、投薬の受取と整理、買い物、冷蔵庫の中のチェック、おかずの持参など、実質的な世話をしていた。毎日電話するしね。私も代わりによく電話した。ある時など、寒い季節になっていつものように私が電話で話したら、『ああ大丈夫だよ』と言うのだけど、声の調子がいつもと違っていたから気になって、仕事帰りに新幹線に飛び乗って様子を見に行った。すると、気温が5度くらいの寒い部屋の中にいるではないか。びっくりしてしまった。歳をとって感覚が鈍くなり、寒いと身体が感じないのだ。そこで、押し入れからオイルヒーターを2台出してきて、台所と居間に設置して暖かくしてあげたんだよ。こういうことをするのが、老人の世話というものだ。結局、老人の二人暮しはニッチもサッチもいかなくなって、老人ホームを捜して入れてあげたけどね、、、しかし、老人ホームに入ったら入ったで、そこからの医者通いは家族の仕事なんだよね。これがまた大変で、東京から行って現地で付き添うのは難行苦行だった」。


4.「振り返ったら私自身も、特にこの新型コロナウイルスの3年間は、家内の介護に明け暮れた。思い出すのも辛いが、1年目には脳梗塞に見舞われた。何とか一命を取りとめて、脳内の塞がっているところのバイパス手術を受けた。これ以降、身体が不自由になったからオムツ生活が始まった。リハビリを終えても捗々しい改善はなく、日常生活全てに介護が必要だから、私に負担がかかる。

 2年目は骨盤内骨折だ。家の前でちょっと転けただけで、骨折してしまった。長年服用しているステロイド剤の副作用で、骨粗鬆症なのだ。それも、救急車で担ぎこんだ病院で骨折していないと誤診されたせいで、ひどく手間がかかってしまった。

 3年目は、背骨が折れた。それも、バラバラ次々と合計5箇所である。身体を動かすと酷く痛いので、もう寝たきりである。しかも、ステロイド剤の副作用で1時間か2時間おきの頻尿と来ている。夜も昼もない有り様だ。大型のオムツをしたが、役に立たない。加えて前のマンションの部屋はトイレと洗面所に段差があって、越えられない。だから昼も夜も介助しなければならない。いやもうこれが辛くて、寝不足と疲労で、私自身が病気になりそうだった。

 やむを得ないので、バリアフリーの今のマンションに引越した。手すりを付けると自分でゆっくり歩ける。すると、夜中の介助の回数は減って助かった。ところが今度は、たびたび下痢をするようになった。私と同じものを食べてもらっているのに、私は大丈夫なのに家内は下痢ときている。どの食べ物が原因なのか良く分からない。生サラダや刺し身などの生ものがいけないということまでは分かったが、それ以外でも下痢をする。そうこうするうちに、介護ベッド、廊下、トイレに至るまで汚物まみれになり、その清掃と本人の世話に追われる。これが一晩に2回も3回もあると、もうお手上げ状態だ。しかし、これが介護の現実なのである。これは参ったというのが毎晩続いて、私もおかしくなりかけた。だから、万策尽きて老人ホームに入ってもらったというわけだ」


5.散髪屋のママさんは、いたく同情してくれて、「それは、本当に良くやったわよ、、、ウチのマスターも、糖尿病と認知症を併発していて、それはそれは手がかかる。だけど、今聞いたような悲惨な介護までは行っていないわね。それでも、私は毎日、家に帰るのが億劫なのよね。介護って、本当に嫌になっちゃう。介護している私自身が病気になりそうよ。いやもう病気なのかも」と言う。

 私は、「お互い大変だね、、、子供の世話なら、年が行くにつれて楽になるし見通しがつくけど、老人の介護というのは、状況が一人ひとり違うし、悪くなる一方だし、エンドレスつまり、いつまで続くか分からないから困るよね。しかも、こんなことになっているなんて、世話をする当事者でない人には想像もつかないだろうしね、、、」と答える。


6.私は海外にも友達がいる。親しくしてもらっている東南アジアの華僑ファミリーを見ると、三世代同居がごく当たり前である。年寄りを大切にする文化が根付いていて、例えば中華料理店でテーブルを囲む時は、必ず10人近い大人数で一つのテーブルを囲み、そこへ孫がおじいさん、おばあさんの手を引いて椅子まで連れて行っている微笑ましい光景を普通に見かける。

 そういうのを目にすると、日本は、戦後なぜこんなに家族がバラバラになってしまったのかと思ってしまう。大家族が一緒に住んでいるからこそ、 たくさんの大人が子供の面倒を見るし、子供が大きくなったら逆におじいさん、おばあさんの面倒を見る。世代間で、知識や経験を伝え合い、教え合い、助け合うことができる。良いことばかりだと思うのに、いつの間にか強い遠心力が働いてバラバラになってしまっている。親世代に干渉されたくないのだろうが、それによって失うものも大きい。

 考えてみると、東南アジアの華僑は、周りは全て敵に囲まれている。移住した先の国でもそうで、いつまで経っても「よそ者」のままだ。だから頼れるのは身内と、同郷の人くらいということなので、ますます大家族主義が発達したのかもしれない。

 一例を挙げると、中国の南の福建省などには、「円楼(福建土楼)」なるものがある。おそらく13世紀くらいから19世紀にかけて作られたもので、大きな5階建ての円のような建物だ。そこに客家といわれる人達が100家族ほど住んでいる。これは何かと言うと、親族とともに住まう「要塞」なのである。つまり、客家というのは独自の文化と言語を持つ民族で、古くは秦の始皇帝から逃れるために中国各地を彷徨い、ようやく福建省の何もない山の中に安住の地を見付けて、そこに定住したと言われる。周りは敵だらけのため、版築で堅固な要塞を作ってその中に住んだというわけだ。ちなみにこれらの人々は、海外移住に積極的で、今はもう円楼は、もぬけの殻だそうだ。こういう出自の背景もあるから、華僑は未だに大家族主義なのだろうと思う。



7.話が華僑へと飛躍してしまったが、また元に戻して我が身を振り返ると、そういうことで、家内を老人ホームに入れるまでは、私は慣れない介護に無我夢中だった。それが終わって一息つくと、今度は虚脱感に襲われた。加えて、一人暮らしの寂寥感も、ヒタヒタと押し寄せる。更には、事故や急病の場合に面倒を見てくれる人が誰もいないことが本当に心配だ。

 こうした寂寥感や心配を解消するため、東京に独りでいるよりはと、長期の旅に出掛けることにした。それも、添乗員付きの旅だ。もし、私が朝起きて来なかったら、添乗員が対応してくれるはずだ。ということで、今年に入って大型の海外旅行に何度か行った。ニュージーランド、スイス、エジプトで、今はタイに滞在している。

 考えてみると、私の身体的コンディションは、今はまだ良い。どこも悪くない。氷点下のスイス・アルプスや気温47度の灼熱のエジプトにも行ける。日常生活も、食事、運動、睡眠などに気を配っているし、執筆や弁護士活動を続けて頭が老化しないように努めている。しかし、友達のようにいつ何時、脳出血などに襲われるかも知らないし、何年か先のことはもちろんわからない。そのうち、とうとう立ち行かなくなったら、誰にも迷惑かけないで、自ら進んで老人ホームに入ろうと思っている。しかし、今はまだその段階ではない。

 そうであれば、老人ホームに入る前の現在のような「いささか危うい」自立期には、誰が私の面倒を見てくれるのか?また冒頭の疑問が湧き上がる。

 二段階がある。一つは、先々、老人ホームに行く前の普段の生活で、事故や急病の時に備えた見守りである。もう一つは、老人ホームに入ったときの通院の付き添いや、役所の手続である。今は家内のために私が月に何度かやっているが、、、これがまた、とても面倒なのだ。

 私と家内は、静岡の両親に対して前者の見守りと後者の通院の付き添いをしっかり行ってきた。特に通院は、わざわざ東京から新幹線で静岡まで行って付き添ったから、時間的にも体力的にも大変で、費用は年間50万円、10年で500万円も掛かった。

 妹たちは、先も述べたように、両親の近くに住んで、毎日訪ねて、見守るという言葉以上に本当によく介護をしてくれた。そして自分たちの手に余る状態になってからは、老人ホームに入れて、しばしば会いに行き、かつ通院もきっちりと付き添ってくれた。だから私も常々感謝して、相続の時にはそれなりの配慮をさせてもらったつもりだ。

 最後に、私は、家内に対して、見守りも付き添いも充分過ぎるほどやった。特に最近出て来た問題は、車椅子を長時間を押すと、腰が痛くなるのである。たぶん私の背の高さと市販の車椅子の押す部分とがマッチしないのだと思うが、歳のせいかもしれない。そこまで考えて、ふと思った。

 私と家内がその両親に対して、
 妹たちが両親に対して、
 そして私が家内に対して、

これまで営々と行ってきたような見守りや介護を、誰が私に対してやってくれるのかと、、、散髪屋ののママさんが言うように、自分の仕事や家庭で忙しい子供たちを当てにすることはできない。

 介護保険的に言うと、私はまだまだ自立で、要支援ですらない。ケアマネジャーといっても、私の両親のところのケアマネは、他人の家を勝手に家探ししてプライバシーを覗くような人だったから、そういう手の人には絶対に入ってほしくない。

 そう思っていたところ、ある時、年下の友人と会話をしていて、家の掃除の話となった。

 私が「部屋や廊下は、掃除するのは屈むことになって、万一、それが原因で腰が痛くなると困るから、アイロボットにさせています。かなり綺麗になりますよ。ただ最近気になっているのは、天井の換気口の掃除で、長年放置されているから相当な埃が溜まっている。これは椅子に上ってフィルターを取り換えないといけない」というと、

「ああ、それはいけません。椅子から落ちたりすると、怪我しますから、しない方がいいです。代わりに私がやりますから」と言ってくれて、実際に会社帰りにわざわざやってきて、手際よく二つとも取り換えてくれた。

 親切だなぁと思うとともに、私の父が今の私の年齢の時に、やはり椅子に上って高い所を掃除しようとして、落ちて踝(くるぶし)を複雑骨折したのを思い出した。父はそれ以来、歩くのが困難になってしまった。この人は、一瞬にしてそんなことを想像して、私がしようとするのを止めたのだ。見守りや介護の本質をよくわかっている。こういう配慮のできる人に、見守ってほしいものだと願っている。

 私は今は74歳だから、取り敢えず、少なくとも85歳になるまでは自立で行きたい。それまでに、怪我をしないように、そしてややこしい病気を発症しないように気をつけよう。そして、85歳時点でまだ元気だったら、あと5年は、今の家で更に頑張りたい。その上で、90歳になったら、いよいよ老人ホームに入るかどうかを決断しよう。そんな計画を心積りとしている。


8.ネットで、精神科医の和田秀樹さんの記事が目に止まった。この人は多芸多筆で、確か数年前までは受験をテーマに多くの著作を書いていたのに、最近は業態転換して老年学が中心だ。ちなみに、彼の受験の著作の一つに、弟を指南して東大に入れたという話がある。東大に入って検事となったその弟さんと、私は一緒に仕事をしたことがあるので、そのお兄さんにも親近感を覚えている。

 彼の著作の「80歳の超え方」を要約したこの記事は長文だが、そのいくつかのポイントを上げていくと、

(1)ひとりでも楽しめるスキル、家族だけに精神的に依存しないスキル、他者と交流するスキルも必要

(2)妻から精神的に自立し、ひとりになってものんびりと楽しく生きるスキルは身につけておく

(3)老いてもなお精神的にタフであれ、自分の尊厳と自由を守るためにもタフでありたい

(4)精神的にタフになる日課や、落ち込んだときに「これをやると元気になる」行動を自分でリストアップしておく

(5)人に頼ったり薬に頼ったりするだけでなく、自分の元気回復の素を「宝箱」に詰め込んでみる。元気回復の素はたくさんあったほうがいい。

「それぞれ面倒と思えば面倒かもしれないが、でもその面倒を乗り越えるたびに老いを乗り越える元気が備わっていく」
のだそうだ。そして、こんな話もあった。

「文芸評論家の江藤淳さんは『脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は、形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり』という遺書を書いて自殺しました。

 一部では前年に妻を病気で亡くしてから気力がなくなっていったという話もあり、うつ状態があったかもしれません。もし、妻が傍らにいたら、脳梗塞のリハビリだと文章を書き続けてがんばったかもしれません。

 死の真相は誰にもわかりませんが、脳梗塞などの病気をひとりでリハビリしていくのは大変です。それが男性だとより孤独に見えてしまうのは、まだまだ男性は精神的な自立ができていないように見えるからです」


 しかし、うつの影響があったにせよ、これは最悪の死に方だ。そのきっかけは、妻を亡くし、自身が脳梗塞に遭って身体が不自由になったからである。ということは、健康管理を日頃からしっかりとやり、かつ安心できる見守りの体制を確保するほかないと考える今日この頃だ。





(2023年12月8日記)


カテゴリ:エッセイ | 11:19 | - | - | - |
エジプトへの旅

ピラミッドとスフィンクス


エッセイ目次
 1  前書き
 2  エジプトの歴史
 3  ルクソール到着
 4  ルクソール神殿
 5  ベリーダンスショー
 6  王家の谷
 7  ハトシェプスト女王葬祭殿
 8  ネフェルタリの墓
 9  カルナック神殿
10  エスナの水門
11  ホルス神殿
12  コムオンボ神殿
13  イシス神殿
14  未完のオベリスク
15  アスワンハイダム
16  アムシンベル神殿
17  ギザのピラミッド
18  スフィンクス
19  エジプト考古学博物館
20  後書き

ネフェルタリの墓




別掲:写真目次
 0  総 集 編
 1  ナイルクルーズとルクソール神殿
 2  ベリーダンスとス−フィズムもどき
 3  王家の谷・ハトシェプスト葬祭殿
 4  カルナック神殿とエスナの水門
 5  ホルス神殿・ナイル河クルーズ
 6  コムオンボ神殿とナイル河水量計
 7  イシス神殿・未完オベリスク・ダム
 8  夜間のアムシンベル神殿の風景
 9  昼間のアムシンベル神殿の風景
10  ギザのピラミッドと考古学博物館



1.前書き

 エジプトに一人で行くには今ひとつ自信がないので、安全のためにクラブツーリズムのツアーに参加した。成田空港からトルコ航空機(TK51)でイスタンブールまで13時間半飛んだ。フライトマップを見ていると、北京上空から真西の方向に飛ぶのだが、中国上空で微妙にジグザグ飛行をしている。地上に軍事基地でもあるのか、それともウクライナ戦争のせいでロシア上空を飛べないのか、そのどちらかだろう。

 イスタンブールからカイロに向かう(TK692)のだけれども、何とまあ、乗り継ぎの間隔が7時間も空いている。これは非効率だ、、、仕方がないので、ラウンジのリクライニング・シートで5時間近くじっくりと寝た。ちなみに、来る途中の機内でも、3席を独占して寝ていたから、睡眠は十分で、かつ腰も全然痛くならなかったのは、幸いだった。

 なお、この旅行の後の9月28日に、成田からカイロへの直行便(エジプト航空)が就航したそうだ。最初の便は、全300席が満席だったという。

 明け方近くにカイロのホテルにようやく到着し、ホテルでひと休憩して朝食後、国内便でルクソールへ向かった、


2.エジプトの歴史

 エジプトは、国土の縦の長さが1024キロメートルの細長い国で、ナイル河流域は概して海抜0メートル地帯が広がっている。

 古代エジプトの歴史について、今はやりのチャットGPTに聞いてみたら、次の通りである。なお、別の角度からいくつか質問して、その回答を組み合わせてある。

(1) 上下エジプトの統合

 紀元前3100年頃、つまり今から5100年も前に、それまで別れていた上エジプト(南部)と下エジプト(北部)が統一され、古代エジプト文明が始まった。

 両エジプトを統一したのは、古代エジプトの最初のファラオである「メネス」又は「ナルメル」(Narmer)という王とされている。彼は上エジプトの王冠と下エジプトの王冠を組み合わせた「二重冠」を使用し、統一を象徴した。この出来事は古代エジプト文明の成立と発展の基盤となり、エジプトの歴史の始まりとされている。

 エジプトはナイル河の豊かな流域に位置し、この河が生活の中心だった。毎年のその氾濫が肥沃な土壌を提供し、古代の農業を支えた。

 古代エジプト人はヒエログリフと呼ばれる文字を使用した。フランスの学者ジャン=フランソワ・シャンポリオンが、19世紀初頭にロゼッタ・ストーンを元にこれを解読する業績を残したのは、有名な話である。

 古代エジプト人は多神教を信仰し、多くの神々を崇拝した。有名な神々には、ラー、イシス、オシリス、ホルスなどがある。

 ファラオは死後も信仰され、彼らの霊魂はアフターライフで永遠の生活を楽しむと信じられていた。そのため、ピラミッドには棺のほか、貴重な宝物や食品が埋葬された。

 古代エジプトは、芸術、建築、宗教、科学などの面で多くの重要な貢献をした。その影響は世界中に広がり、今日でもその遺産は素晴らしいものである。

(2) 古王国(紀元前2686年から紀元前2181年まで)

 古王国は、エジプトの歴史の初期に位置し、有名なピラミッドが建設された時代である。最初の王朝である第3王朝から第6王朝までがこの時期に存在した。

 ギザのピラミッド(クフ、カフラ、メンカウラ王のもの)などが建設され、ファラオの権力が最も強かった時期でもある。

(3) 中王国(紀元前2040年から紀元前1640年まで)

 中王国は、古王国の後に続く時代で、文学、詩、宗教の発展など、安定と文化の発展が特徴である。

 インテフ家から始まった第11王朝と、テーベのメンフト家によって統一された第12王朝が含まれる。

(4) 新王国(紀元前1550年から紀元前1070年まで)

 新王国は、エジプトの歴史の中で最も栄えた時代で、次のような多くの著名なファラオが登場した。彼らの治世はエジプトの影響力が最も高かった時期である。

 ・ アーメンホテプ4世(アクエンアテン)は、太陽神アテンへの信仰を推進し、アマルナ時代として知られている。
 ・ ツタンカーメン王(クィング・タトシ)の時代にアマルナ宗教が終わり、再び伝統的な宗教が復活した。
 ・ ラムセス2世の時代は、カルナック神殿の拡張やアブシンベル神殿の建設があり、ヒッタイトとのカデシュの戦いの後に平和協定を締結した。

(5) グレコローマン時代(紀元前332年から紀元7世紀まで)

 アレクサンダー大王によるエジプト征服(紀元前332年)から始まり、その死後、エジプトはプトレマイオス王朝に統治された。これは紀元前4世紀から紀元前1世紀まで続いた。その最大の功績は、アレクサンドリアという新しい都市を建設したことで、これが古代世界の重要な文化的中心となった。

 プトレマイオス朝最後のファラオは、クレオパトラ7世で、有名な女性ファラオだった。彼女はローマの将軍ユリウス・シーザ、後にマルクス・アントニウスと関係を持ち、ローマとエジプトの関係の政治的な糸口を握った。

 ところが、アントニウスは、クレオパトラ7世とともにオクタヴィアヌス(後の初代ローマ皇帝アウグストゥス)に敗れ、エジプトは紀元前30年にその支配下に入り、プトレマイオス朝は終焉した。

 グレコローマン時代には、エジプトの伝統的な神々とギリシャ・ローマの神々が融合し、新しい宗教的信仰が形成され、エジプト固有の宗教と神話も一部は維持された。古代エジプトとクラシックなギリシャ・ローマ文化の影響が融合した興味深い時代である。

(6) イスラム化(紀元7世紀以降)

 イスラム教は7世紀初頭にアラビア半島で創始された。エジプトにおいても、イスラム教の布教活動が行われた。

 イスラム教の指導者であるカリフ・ウマル・イブン・アル=ハッターブにより、エジプトは紀元642年に征服された。このアラブ征服により、エジプトはイスラム世界の一部となった。

 これ以降、エジプトにおいては、アラビア語とイスラム教が広まり、多くのエジプト人がイスラム教に改宗した。イスラム文化や法律が導入され、アラビア語が広まったことから、エジプトの文化や社会はイスラムの影響を強く受けた。

 バグダードがイスラム世界の中心だったが、エジプトはアッバース朝の支配下に入り、この時期、エジプトは知識と文化の中心地として栄え、バグダードと並ぶ重要な都市の一つだった。


 今回の私のエジプト訪問の地には、ファラオ時代だけでなく、グレコローマン時代(プトレマイオス朝)の遺産が多い。


3.ルクソール到着

 カイロからルクソールへ行くのに国内線(Air Cairo 60)に乗った。カイロ空港で、3回も手荷物検査があったのには参った。これはターミナル1だったが、ターミナル2の手荷物検査は2回だというけれども、なぜそうなっているのかよくわからない。1997年にルクソール事件を引き起こしたイスラム過激派が、ターミナル1に向かうとでも思っているのか、、、。

 ちなみにルクソールとは、古代エジプトの中王朝から新王朝にかけて首都が置かれたテーベのことである。

 このルクソールで、ナイル河遊覧船の「アルハンブラ号」に乗船し、チェックインをした。4階建てのクルーズ船で、屋上にはプールがある。欧州からの客だと思うが、日本の縄文のヴィーナスを思い起こさせる豊かな肢体にまるで裸のような水着を着て、泳いだりのんびりとベンチに横たわったりしていた。目のやり場に困る。

 遊覧船の中で、ツタンカーメンのお墓の発見者のお孫さん(ヌービーさん)の話を聞く機会があった。彼はナイル西岸の有力な部族であるアブドラスーニー家の一族だという。やってきた本人は、あまり話が上手でなく、USBメモリーで発見時の様子や一族の写真を見せてくれた。





 ツタンカーメンの墓は、アメリカ人の考古学者ハワード・カーターが、1917年に王家の谷で発掘を始めて、1922年にお墓の入口を発見した。そのきっかけは、現場監督をしていたこの人の祖父フセインさんである。

 祖父は、発掘現場の監督だった。なかなか発掘が上手くいかずに難航している中、祖父は、作業員に水を飲まそうとして、ロバに水瓶を積んでナイル川に水を汲みに行った。帰ってきたところで、ロバが転けて、水瓶が割れた。するとその水が土に染み込んで行ったので、ここに空洞があると分かり、そこでカーター博士を呼んだのが発見のきっかけだったという。



 世界遺産の3分の1が、エジプトにあり、ルクソールには更にその3分の1がある。ちなみにルクソールとは、アラビア語で宮殿の複数形の由。


4.ルクソール神殿

 古代エジプトの中王朝から新王朝にかけて首都が置かれたテーベ(今のルクソール)にあるルクソール神殿は、まさに街の真ん中、それも街一番繁盛している市場のすぐ脇から入場する。夜の訪問となったが、昼間のように暑くなくて、ちょうどいい。ライトアップされているから、景色に深みが出て素晴らしい。







 高いオベリスク、たくさんの列柱、見下ろされる王様の像には圧倒される。台座にもオベリスクにも、象形文字(ヒエログリフ)が刻まれている。いかにも「ああ、エジプトに来た」という感がした。




 それにしても、参道の両脇に、日本の神社でいえば灯籠の行列のような、スフィンクスの行列があるとは知らなかった。これも、圧巻の光景である。


5.ベリーダンスショー

 ベリーダンスは、(身も蓋もない言い方をして申し訳ないのだが、はっきり言うと)太鼓腹のベリーダンサーが、この日の主役である。本人も踊るが、お客さんの中から適当な女性を引き出してきて、一緒に演技させるという趣向だ。



 引き出されたお客さんの中には上手い人もいて、聞くと長年フラダンスを習っているとのこと。なるほど、、、踊り方で一番の違いは、日本舞踊もフラも膝を使うが、ベリーダンスは腰を使うことらしい。

 その次は、ぐるぐる回る男性が出てきた。カラフルな二つの輪形の布を纏って、ぐるぐると回る。我々なら、数分踊っているだけで倒れそうなのだが、一向に平気な顔をしている。「すごい」のひと言である。





 隣国トルコには、スーフィズムというイスラム教の神秘主義の一派がある。これは、神との密接なつながりを追求し、個人の霊的成長と宗教体験に焦点を当てた宗教的実践として、「グルグル回る」のである。関係ないかもしれないが、ついそれを思い出してしまった。


6.王家の谷

(1)3つのお墓を見学


 朝早く午前5時45分にクルーズ船を出発して、王家の谷の観光に出かける。船は午後2時が出航の予定だから、それまでに戻らなければならない。早朝の観光だから、観光客の数は多くないし、上空の雲で影ができているから、とても快適である。気温も、30度は超えていないはずだ。

 王家の谷の全体像は「砂岩の山の谷」のような地形で、ビジターセンターにはその地表と地下の模型があった。王家の谷では、墓が62箇所も発見されている。保存のために、順番にいくつかの墓に限って一般に公開される。今回は、ラムセス4世の墓(KV 2)とその息子のメレンヴィタハの墓(KV 8)、そして幸運なことにツタンカーメンのお墓(KV62)を見ることができた。

 ちなみに、墓の意味は、生まれ変わりができるように、その人のミイラを保存する場所である。

 ガイドのアムロさんによると、古代エジプト人は、太陽が毎日沈んでいって朝にまた出てくるのは、太陽が毎日なくなって復活するものだと考えた。そしてナイル川が毎年氾濫してまた元の流れに戻るのも、やはり復活を繰り返すものだと考えていた。だから人間も、いったんは死んでも、また魂が戻ってきて復活すると信じていた。

 だから、生前と同じ形つまりミイラを作り、復活に備えた。ミイラの作成過程は必ずしも全容がわかってはいないが、基本的には塩と太陽光線で乾燥させて、あとはタールと蝋を塗って作成したと考えられている。

(2)ラムセス4世の墓



 ガイドのアムロさんが、墓の絵とヒエログリフを見て解説してくれる。

「これは、生前にしなかったり、やるべきことをやらなかったりしたことを書き連ねる死者の告白だ。

 あれは空の神の姿 → 女性がブリッジしている形 → ヌートリ神 → 空の神様が太陽を食べて、一晩でまた出てくる。

 空からお墓に向かって死者の魂が降りてきて、蛇がそれを邪魔をし、魂が勝ったら引き続き降り、再び別の蛇に邪魔をされているということを現している」
などと、実に詳しい。

(3)ツタンカーメンの墓

 最後に発見されたのが新王朝のツタンカーメンのお墓である。1922年のことで、アメリカ人ハワード・カーター博士による。




 ツタンカーメンの墓は、王家の墓の中で最新の62番目の発見である。8歳で即位して18歳で亡くなったので、ピラミッドの用意はまた準備の段階だった。そこで、もう完成していた神官の墓と交換した。神官はツタンカーメンのために予定されていた墓に埋葬されたが、そちらはやがて盗掘されて何も残っていない。交換して良かったといえる。

 ちなみにツタンカーメンのミイラは、カイロの博物館ではなく、まさにこの玄室のすぐそばに安置されていた。もっとも、あの有名なお面は、後述のとおりカイロの博物館にあった。

(4)メレンヴィタハの墓

 メレンヴィタハは、ラムセス2世の長男である。その墓は、浮き彫りのレリーフが美しい。



 ちなみに、浮き彫りレリーフにするか、それとも沈み彫りレリーフにするかのいずれになるかは、その描かれる場所による。というのは、当時は採光が不十分なので、その場所によって美しく見える方法を採用したらしい。


 外に出てバスでしばらく走ると、熱気球が何基も上がっていた。ここは、熱気球でも有名らしい。砂漠の暑い気候の中で、色とりどりの熱気球がたくさん浮かぶ風景は、なかなか「絵になる」が、惜しむらくは、逆光だった。


7.ハトシェプスト女王葬祭殿

(1)ハトシェプスト女王


 18王朝のハトシェプスト女王は、初の女性ファラオとして有名であるが、後継のトトメス3世との仲違いのために、その作った建造物は全て破壊されたという特異な背景がある。





 トトメス2世の長男はトトメス3世であるが、幼い頃からシリアに行かされた。その間、トトメス2世が亡くなり、その後、その妃であったハトシェプストは、未成年のトトメス3世の後見人としてファラオに即位した。ハプシュフストの時代は戦争をしなかったので、平和が続いた。暇になった軍隊は農業やら開拓に従事させて、経済は大いに発展したという。





 ところがトトメス3世がシリアから帰ってきて、王位の争いがあり、3世が勝ったので、ハトシェプスト女王の業績は全面的に否定され、その作ったものは全て壊されたと言われる。そしてトトメス3世はハプシュフスト葬祭殿の隣に自分の神殿を作ったが、岩が落ちてきて粉々に壊れた。いわば、天罰のようなものである。

(2)メムノンの巨像

 ハトシェプスト女王葬祭殿にほど近いところに、新王国時代に建てられたメムノンの巨像がある。これは、18メートルの高さの2体の巨大な石像で、ファラオであるアメンホテプ3世の像とされる。


 ちなみに、「メムノン」とは、ギリシャ神話に登場するトロイ戦争の英雄メムノンに由来する。


8.ネフェルタリの墓

 王妃の谷にあるネフェルタリ(美人の中の美人)の墓には、その保存の良さに驚くとともに、美しい色彩に感動した。

 彼女は、ラムセス2世の最愛の妃で、この墓は1908年に発見された。海水にいったんは水没し、そのために絵画が塩で覆われてしまった。しかしながら逆にそれが幸いして、普通のお墓より絵や色彩が保存されたそうだ。その塩を除去して修復したら、これほど美しいレリーフや絵が出て来たという。




 3300年前のもので、色彩も形も王妃の谷の中で最も良く残っている。これを最初に見てしまうと、残りの墓は大したことなく見えてしまうくらいだ。



 なお、ソニーα7でネフェルタリの墓の内部を撮ったのであるが、設定に失敗したからなのか、それとも先を急いでしっかり撮らなかったからか、全く写っていなかった。後で振り返ってみると、気温が高すぎてカメラが誤作動を起こした可能性が高いのではないかと思い至った。不具合が起こったのは蒸し暑い墓の中や直射日光が当たる場所だったことから、カメラの温度は40度をはるかに超えていたのではないだろうか。しかし、驚いたことに、予備としてiPhoneで撮った写真がよく写っていたので助かった。最近のスマホの能力向上には目を見張るものがある。


 ネフェルタリの墓を見学後、さきほどのメムノンの巨像に立ち寄り、モーターボートでナイル河の対岸に渡った。


9.カルナック神殿

 テーベ(今のルクソール)の中心的な神殿であるカルナック神殿は、4000年前から2000年かけて作られた。何代ものファラオがアムン神への信仰の証として増改築を繰り返した巨大な神殿である。

 ちなみにこちらの参道にあるものは普通のスフィンクスではなくて、羊の頭をしたスフィンクスである。それが参道の両脇にズラリと並んでいるから、思わず感動する。






 巨大な境内の中に入ると、火焔樹があり、ナイルアカシアもある。しかし、すぐに赤茶けた大地が広がる。

 カルナック神殿観光は、午前中だからまだ気温は35度程度だった。ところが、午後3時頃になると41度になるという。実に広大な敷地で、歴代のファラオが作っていったので、奥になるほど古いものがある。いやもう暑くて暑くて、見ていると熱中症で倒れる観光客もいたほどだ。

 134本の列柱が立ち並ぶ大列柱室の規模に圧倒された。かと思うと、スカラベ(黄金虫)の像その周りをぐるぐると回っている人々がいる。何かの願い事をしているのだろう。





 酷暑なのに境内は、大勢の観光客に埋め尽くされている。ドイツ語、スペイン語、英語、中国語、アラビア語、日本語が飛び交い、まあその喧騒たるや、推して知るべし。

 内部の壁にしても列柱にしても、今は色がすっかり褪せてしまっているが、本来はもっと彩り豊かだったようで、その名残りがあちこちに残っている。顔料は原則として石で、薄青い色はトルコ色、濃い青はラピスラズリ、白は石灰岩、赤は鉄のサビ、黒は墨、緑はマラカイトだという。レリーフの彫りを深く掘って顔料を入れ、最後は卵の白身を使うようだ。それも、ダチョウの卵などの大きな卵らしい。


10.エスナの水門


 船は順調に上流に向けて出航した。私は、朝が早かったのと、炎天下に歩き回って疲れたことから、午後3時頃から昼寝をすることにした。ベッドに入った瞬間に寝てしまい、起きたのが午後6時である。途中でワイワイ騒ぐ声がしたが、眠すぎてそのまま寝続けた。少しの間、起きて窓を開け、外を見ると、船はナイル河を順調に航行している。



 部屋でまどろんでいると、「ハロー、ハロー、ハロー」と騒がしい。起きて見に行く気力もないので、そのまま休んでいたところ、そのうるさい声がやがて遠のいて行った。翌朝、それが何かわかった。物売りの小舟が近づいてきて、クルーズ船の乗客相手に何やら売り付けているのである。

 本日の夕食は遅くて午後8時からだ。その途中でエスナの水門をこの船が通るという。たまたま食事中に通ることになったので、コース料理の半ばで食べるのを中断して見に行った。

 屋上から見渡すと、水門に向かってたくさんの船が並んで水門通過待ちをしている。左隣の船と並んで停船していると、その船が先に出航して行った。続いて我々の船だ。水門には横に2隻、縦に2隻が入る。手漕ぎボートが、水先案内人として先導してくれる。船の両脇には、船員が大声を出して進路を調整中である。壁との間は、僅か数十センチほどしかない。そんな狭い空間に、あんな大きな船が、よく入るものだ。



 ようやく水門内に入ると、先の方に行って止まる。後尾の船が入って水門が静々と閉まり、水がどんどん上がってきて、船体が浮き上がる。やがて水のレベルが上流と同じになったと思ったときに、前の門が開いて、船は進み出す。それだけで、簡単な仕組みだ。


11.ホルス神殿

 ナイル河西岸に位置するエドムのホルス神殿は、グレコローマン時代の遺跡である。長年、砂漠に埋まっていたことから、エジプトで最も保存状態の良い神殿だという。







 紀元前237年から57年にかけて建造されたもので、プトレマイオス3世の時に始まり、12世の時に完成した。祭神はハヤブサの形をしたホルス神で、北のデンデラにある神殿にいるハトホル神(女神)と夫婦で、毎年、ハトホルがエドフのホルスを訪ねてデンデラの神殿より南へと旅する。まるで織姫と彦星の話のようだ。その2人の神の聖なる結婚を示す行事が、エジプトの大規模なお祭りと巡礼のきっかけとなった。最も奥には、聖なる舟がある。これが、お祭りでは一番敬われたそうだ。




 ガイドのアムロさんによると、「オシリス神の子ホルス神は、小さな頃から母イシス神より『あなたのセト叔父さんは、父の仇よ』と教えられ、成人してセト叔父と戦って、これを殺した。その過程を描いている壁面のレリーフがある。この中でセト叔父は、カバの形をしていて、それをホルス神が銛で突いて捕獲し、チェーンで繋いで船で運び、裁判にかけて死刑にする情景が描写されている。ちなみにオシリスは、もう殺されないように、冥界の神となった」とのこと。


 「ホルス神の彫刻が、神殿の入り口に2体ある。特に向かって左の方が保存状態が良い。帽子を二つ被っているように見えるが、上エジプトと下エジプトを象徴している」そうな。その前で写真を撮ってもらったが、我ながら一番気に入った写真となった。


12.コム・オンボ神殿

 コム・オンボ神殿は、プトレマイオス朝の時代(紀元前332-32年)に作られた世にも珍しい二重神殿である。つまり、二つの祭神、セベクとハロエリス(大ホルス)が祀られているので、神殿の構造も左右対称に作られている。

 ナイル河を北から南へと遡上して、この神殿前の船着場に到着した。神殿は、そこから歩いて数分の所にある。

 コム・オンボ神殿の見学は、午後4時頃に下船して行ったのだが、もう船を降りた瞬間、もの凄い暑さに出くわした。後から聞くと摂氏42度だというから、私の経験したことのない暑さだ。それは、肌がチクチク刺されるような感覚で、素肌を露出すると、痛い。

 持っていたタオルを鼻や口にあてると、その嫌な感じはなくなる。考えてみると、アラブ女性のあの全身黒ずくめのカラスのような格好は、宗教上の理由だけでなく、この気候に合っている服装なのかもしれない。





 ガイドのアムロさんが、ヒエログリフで壁に書かれている象形文字を読んでくれた。それは表音文字で何と「クレオパトラ」だった。もう少し先に行き、壁面の絵画を指して、「古代エジプトは医学が発達していて、ヒッタイト人が捧げ物を持ってやってきた(と、左の方の人物を指す)、右の人物が医師で、その真ん中に描かれているのが診察です。そして、医師の左手の丸椅子の上に描かれた象形文字が処方された薬で、食後、毎日飲めとか書いてあります」などと説明してくれた。

 あるいは、別の壁画を指さして「古代エジプトは、種蒔きや収穫の時期を知るため、独自の暦を発達させた。それは、今のような1週間に相当するのが10日単位で、ここにそれが、ずーっと書かれている」と説明してくれる。

 余りに精緻な説明なので、私が「アムロさんは、ただのガイドではないですね。古代エジプトの専門家でしょう?」と聞くと、「2年間留学して古代エジプト史のディプローマを持ってます。早稲田の吉村作治先生はよく存じ上げていて、一緒に仕事をしたことがあります」という話だった。これは素晴らしいガイドに当たったものだ。



 井戸のようなものがあり、覗くと螺旋階段が下に続いている。ナイルの水量計だという。どういうことかというと、古代エジプトでは、ナイル河の水量が、その年によって大きく変化していた。水の量が多いと、その分、耕地が広がるので、税金が高くなる。しかし、水の量が少ないと耕地が痩せ細るので、税金が少なくなるという制度があり、そのためにその年の水量を計測する施設なのだという。こんなものが数千年前からあるなんて、非常に合理的で、感心してしまった。

 ワニの剥製が並んでいる建物があった。意味がよくわからなかったが、当時はワニも、人々から畏れられ、かつ敬われる「聖獣」だったらしい。


 古代エジプトで、どうやってこの石の壁を積み上げたのかという疑問を解消してくれる所があった。アムロさんによると、「それは、入り口の近くに、日干し煉瓦が斜めに積み上げられた箇所があり、これがヒントだという。つまり、あの石のブロックは、人が抱えて積むものなのだけど、せいぜい高さが3個までしかできない。それ以上になると、その積む高さまで日干し煉瓦で斜面を作る。そこに更に3個積み上げ、それが終わると更に斜面を作ってそこに3個積み上げるという手順でやっていった」そうだ。


13.イシス神殿

 3日間過ごしたクルーザーを下船し、ナイル河を航行する帆船ファルーカに乗った。周囲の河岸には、椰子の木などの緑が生えていて、その向こうには砂岩の岩山があり、よく見ると連続して横に穴が空いている。貴族の墓だそうだ。





 我々の乗ったファルーカは、残念なことに、風が全くなくて漂っている。そこで、エンジンのある船に引航してもらって、ようやく動き出した。ファルーカの船長さんは、色が黒い。はやい話が黒人だ。ヌビア人だそうだ。ちょっとしたタンバリンで歌を披露し、かつ女性の飾り物や木の彫り物を売っていた。面白かったのは、両脇を押すと動くワニの木像だった。そこから約20分間、バスに乗り、アブシンベルと同時に移設されたイシス神殿に向かう小舟に乗った。

 イシス神殿(フィラエ神殿)は、豊穣の神であるイシス神を祀っている。現存する神殿はプトレマイオス朝時代に建設され、その後ローマ時代にかけて増築が繰り返された。





 この神殿も、アブシンベル神殿と同様にアスワンハイダムの建設により水没することになっていたが、その当時あったフィラエ島から、近くのアギルキア島に移築されて保存されることとなった。




 アムロ説明によると「イシスはオシリスの妹であり妻でもあり、またホルスの母である。イシスの夫であるオシリスは、弟のセト神に殺され、身体をバラバラにされて川に流されるが、イシスがそれらを拾い集めてオシリスを復活させた。オシリスは復活後は冥界の王となり、古代エジプトの重要な神として崇拝され、また穀物の神としても民衆にあがめられていた。

 ホルス神は天空と太陽の神であり、猛禽類の隼の頭をした男性神として現れる。エジプトの王朝の初期においては、王はホルス神の化身とされ、ホルスとは即ち王を意味する存在であった。イシス神殿のあるフィラエ島は、女神イシスがホルス神を生んだ聖地であり、それを崇拝するために神殿が築かれた」とのこと。

 太陽は、朝は丸い形で、昼はハヤブサ、夜はスカラベ(黄金虫)の形になる。確かに、それを示した壁画があった。


14.未完のオベリスク

 アラビア語で、オベリスクというのは布団用の大きな針という意味。なぜこんなものを作ったかというと、ピラミッドの代わりなのだそうだ。

 ピラミッドは盗掘されてしまうので、色々と試行錯誤の上、先端がピラミッドと同じ三角形(エジプト人にとって、聖なる形)のオベリスクになった。これは宗教的なものなので、ただ立てられているだけである。もちろんオベリスクの下には、別にミイラなどの埋葬物はない。



 見学してきた「未完のオベリスク」は、製作途中で放棄されたものである。全てのオベリスクは一枚の花崗岩から出来ていて、どのオベリスクもここから出荷されたものだという。

 掘り方は、一枚岩に穴を開けて、その隙間に乾いた木片を詰める。それが水を吸って隙間を広げていき、やがて空間が広がるということらしい。現に、古代の木片が刺さっている場所があった。

 例えばこの未完のオベリスクは、高さ41m、重量が1,160tもある。運ぶのは、大変だ。ナイル河の渇水の時に筏を用意し、その上に載せ、季節が過ぎるのを待って水位が上がると、水に浮かぶ。そうやって下流に向けて航行して運んだという。


15.アスワンハイダム

 アブシンベルに向かう途中、アスワンハイダムに立ち寄った。軍隊が守る重要施設である。ダムの上流は細長い流れで、ダムの下流には、見渡す限りの広大な水面が広がっている。なるほど、これなら、相当広範な地域が水没したはずである。ブーゲンビリアの可憐な花が美しかった。





 引き続き、アムシンベルの街に向けて、砂漠の中をバスでひたすら3時間近く走った。文字通りの一本道で、両側が砂漠というか、土漠である。見渡す限り、黄土色で真っ平らで何にもない。それどころか、遠くに何やらフワーッと浮かんでいるから、「あれは何だ」と聞くと、蜃気楼だという。これはすごい所に来たものだ。


 このヌビア砂漠は、サハラ砂漠の東端の一部だという。その中を走りに走る。送電線が見えたと思ったら、途中でドライブインがあった。バスはそれに立ち寄った。まさに干天の慈雨かと思ったが、バスを降りた途端に、熱波が顔を打ち、暑くてチクチクする。これはたまらないと、慌ててバスに戻った。気温は、43度だという。コム・オンボ神殿の時より高い。こんな経験、人生で初めてだ。

 更にバスが進むと、緑が少し見えてきた。脇から合流してくる道路に沿って、椰子の木がポツポツと生えている。その脇にはアパート群があるが、誰も住んでいないようだ。こんな厳しい自然条件の中で、どんな人たちが住むというのだろう。

 地形に起伏が出てきたところで、道路を横断する「運河」があった。しかも、滔々と水をたたえている。そこから水を引いているのだろうか、丸くて広大な緑があちこちにある。作物はトウモロコシらしい。丸の真ん中から長い棒が突き出ていて、ゆっくりと回って水を撒いている。ガイドによれば、ダムの余剰水に地下水を足して、こうした灌漑農地を作っているそうな。

 道がガタガタになってきた。バスは、ゆっくり走り、穴を避けて左右へと車体を揺らす。やがて、またちゃんとした舗装道路に戻った。ラクダを乗せたトラックを追い越した。アムシンベルの街に、ラクダの検査場があり、健康なものだけを選別するそうだ。

 やっとこの日の宿泊施設である「セティ・アブシンベル・レイクリゾート・ホテル」に到着した。ナセル湖に面し、屋外プールを二段に配置した、趣きのあるホテルである。




 残念なことに、Wi-Fiが各部屋になくて、いちいちリセプションやコーヒーショップに出向かないといけない。この40度を超す暑さの中、とんでもない。そこで、自室に一番近いコーヒーショップでWi-Fiに繋ぎ、ゆっくり歩いて自室の前まで来た。嬉しいことに、まだ繋がっている。そこで、ドアを開けて中に入り、それをバタンと閉めた瞬間、無情にもWi-Fiが途切れた。もはや笑うしかない。


16.アムシンベル神殿

 この壮大なアムシンベル神殿は、ラムセス2世が作った。全部が一つの岩山から成り、それを水平に51mまでくり抜いて作ったもの。3300年前の建造である。

 なぜこの地にこんな大規模な神殿を作ったのかというと、次の4つの理由がある。

(1)10月と2月の22日に、太陽が差し込んでくるように作ってある。ちなみに10月22日はラムセス2世の誕生日、2月22日は、戴冠記念日である。
(2)愛妃ネフェルタリの出身地である。
(3)金山がこの地に数多くあった。
(4)まだ南方のヌビア人と争っていたので、エジプト王朝の権威を示すためでもあった。

 なお、(1)で22日と記したが、元々の場所は、10月21日と2月21日なのだそうだ。アスワンハイダムに沈むから、60m上で場所も動いたため、1日ずれてしまったようだ。それとも、3000年の間に、暦がズレてしまったのかもしれない。




 まず、夜の音と光のショーとプロジェクションマップを観に行った。暗い中を足元の街灯を頼りにかなり歩いて、大神殿と小神殿の両方を見渡せる座席に落ち着いた。ちなみに、大神殿は新王朝19代ファラオのラムセス2世を祀ったもので、小神殿はその愛妃ネフェルタリのためのものである。ガイドが、レシーバーを配り、放送の翻訳が流される。放送はその日最も数が多い観客の言語で行われる。この日は、アメリカ人観光客が多かったので、英語である。

 暗い中、始まった。おそらく遺跡を傷つけないようにとの配慮からか、投影される光の量が少ないので、最初は画像がよくわからなかった。しかもこの晩は満月に近かったから外が明るく、それもあって肉眼ではあまりよく見えない。そこで、iPhoneでビデオを撮ろうとしたら、これはすごい。何が映っているのか、よく見えるではないか。もはや目の力を超えている。内容は、

(1)ユネスコの協力で水没から免れたこと。
(2)ヒッタイトとの度重なる戦争の末に和平条約を結んだこと。
(3)愛妃ネフェルタリのこと。
(4)ラムセス2世の治世の素晴らしさなどである。



 翌朝、歩いてアブシンベル神殿に行く。見上げると、実に大きい。左側にある大神殿には高さ20mの4つの巨像があり、いずれもラムセス2世の像で、左から右へと、壮年期から老年期にかけての像とされる。巨像の足元には、妃や子供達の小さな像がある。左から二番目の巨像の頭部分が欠けているのは、地震によって倒壊したものだそうだ。その崩れた部分は、像の足元に転がっている。







 大神殿に入り、左手の壁面には、戦車に乗ってヒッタイト族と戦うラムセス2世の姿がある。ガイドのアムロさんによれば、これは世界最初の3D画像だという。その馬の脚を見ると、2本のはずが細かく4本に分かれており、弓の弦も二重に描かれている。これらは、激しい動きを表しているのだそうだ。なるほど、そうかもしれない。






 小神殿は、正面に2体の王妃ネフェルタリの像とその脇に2体ずつ計4体のラムセス2世の像があり、像の足元には、彼らの子どもたちが並んでいる。こちらには、大神殿の場合と異なり像と像との間に仕切りが存在する。中に入ると、牛の姿をしたハトホル女神のレリーフがある。





 かくしてアブシンベル神殿の見学が終わり、アスワン空港に向けて来た道を引き返した。再びあの土漠の中の一本道をひた走る。きっちり3時間後にアスワンの街に着いた。空港への道すがら、繁華街を通り過ぎていると、細ーい枠を元に建物を作っている。これでは、地震が来たら一挙に倒壊するのではないかというレベルだ。そう思うとエジプトの建物という建物が怖い気がする。

 アスワン空港から、プロペラ機に乗って、一路カイロに向けて出発した。これは、エジプト航空のLCC子会社であるエア・カイロなのだが、機内に空調がないのには、参った。暑くて暑くてかなわない。機内の送風口からも、生暖かい風しか出てこない。カイロからルクソールに行った時は、同じエア・カイロのプロペラ機でもちゃんと空調が効いていたのに、これは何としたことか、、、早くカイロ空港に着いてほしい。そうでないと、屋外では熱中症にならなかったのに、機内でなりそうだ。

 ようやくカイロ国際空港に到着した。機内で水が配られたので、ひと息ついたのと、座席の背面にある航空機搭乗のしおりがたまたまプラスチック製だったので、皆がそれをうちわ代わりにバタバタやり出したので、私も倣った。すると、少しは涼しくなった。

 カイロに着いたのだが、またまた不合理なことに直面する。同じターンテーブルに、何と4機分が集中するので、その場がまるで豊洲市場の競り市のようになっている。だから、なかなか出て来ない。かなり待ってやっと出て来たので、荷物を引っ張っていってバスに乗った。すると、同じ駐車場にバスが5〜6台停まっているのに、ポリスが「全部のバスが揃わないと出させない」などとめちゃくちゃなことを言う。そのせいで、更に40分近く待つ羽目になった。こういう融通の効かないところが、なかなか発展できない理由なのだろうか。





 カイロで、パピルス屋さんを立ち寄った。パピルスは、先端がはたきのようになっていて、幹の断面が三角形であり、それを薄く縦に切る。それを縦横に組み合わせて平らにしたものを1週間以上プレスすると、紙の代わりのパピルスができる。これを使って記録されたのが、古代エジプトのパピルス文書である。こんな簡単なものだったのかと驚く。

 パピルス屋さんでは、ピラミッドその他のお墓の中の絵をモチーフに、人物、命の鍵、太陽、スカラベ(黄金虫=糞転がし)など色々な芸術的な絵が描かれている。


17.ギザのピラミッド

 「ギザ」というのは、「入口」という意味で、砂漠の入口となる地域を現しているらしい。大小9つのピラミッドが見える展望レストランがある。

 中でも大きな3つのピラミッドの被葬者はクフ王、カフラー王、メンカウラー王である。それぞれのピラミッドには王妃たちのピラミッドや参道があり、カフラー王のピラミッドの参道入り口には、ギザの大スフィンクスが聳え立つ。

 クフ王のピラミッドが建造されたのは4600年前で、240万個の石でできている。14階建の建物に相当する。かつては上部が金色で、よく目立っていたと思われる。



 ガイドのアムロさんによれば、「ピラミッドの建設には、まず下地となる基礎を真っ平らにしなければならない。そして石の切出し、積み上げという過程をたどる。こんな大変な工事なのに、20年間で完成した。それも、農民だから一年間に6ヶ月しか働かなかった。それも嫌々働いたかというと、そうでもなく、王は神の化身で復活の権利を持っているから、その役に立つのは名誉と思って喜んで建設に従事した」らしい。

 また、アムロ情報によると、「ピラミッドの建設方法は、下から3分の1までは、コム・オンボ神殿で述べたように、日干し煉瓦を斜めに積み上げて坂を作ってそこの上を運ぶやり方である。残る3分の2は、螺旋階段のような構造を作って積み上げていくやり方だというのが有力とのこと。いずれも、木でソリのようなものを作ってそれを引っ張るのだという。そのソリも出土しているとのこと。石の大きさは、上に行くほど小さくなる」由。




 クフ王のピラミッド内部の見学は、暑くて、急な傾斜で、狭くて(中腰にならないと通れないトンネルがあるから、そういう所で時々頭を天井にぶつけて)玄室まで往復1時間のアドベンチャーだった。大袈裟に言うと、気温43度の屋外とさして差はなく、この墓の中で熱中症になりかけた。昔の墓泥棒も、さぞかし大変だったろうと思う。



 ちなみに王家の谷では、墓泥棒がそうやって見つけた墓の入口に家を建て、何代にもわたってその恩恵に預かったそうだ。笑うしかない。


18.スフィンクス

 古代は、スフィンクスの前が船着場だったようで、そこに河岸神殿があった。王の遺体を乗せた船が横付けされ、細い登り坂を運ばれて、ピラミッドの脇でミイラにされたようだ。




 スフィンクスとは、「ライオンの胴体と人頭をもった怪獣で,古代エジプトの王権の象徴、百獣の王としてのライオンが神格化された王ファラオと合体したと考えられる。聖域守護などの目的で,各種の神殿の前に配置された」そうだ(旺文社世界史事典 三訂版)。まあ、日本の神社でいえば、狛犬のようなものか。

 このギザの大スフィンクスを作らせたのは、クフ王という説もあるが、紀元前2500年頃に第四王朝カフラーの命により、第2ピラミッドとともに作られたという説が有力である。


19.エジプト考古学博物館

 エジプト考古学博物館(通称:カイロ博物館)は1901年の建築であまりに古いので、新しく博物館を作って移転中とのこと。例えば、ミイラは既に新しい大エジプト博物館(2023年12月開館予定)に移されている。そういうことで、この古い博物館には冷房がないので、ひどく暑かった。

 ツタンカーメン王の展示室だけエアコンが効いていることもあり、外はあまりに暑いから、ここに入り浸り状態である。有名な黄金のマスクがあり、金色を基調に、髪の青い線は高価なラピスラズリ、その他、赤やら黒やらが使われている。ただ、残念なことに、この部屋だけ写真撮影は許されていなかった。仕方がないので、黄金のマスクは、外のお土産屋さんで撮った。




 ミイラには、この黄金のマスクが被せられ、その形で小型のお棺に入れられ、それがまた大きなお棺に納められる。その形で玄室の石棺の中に収まるとのこと。ロシアのマトリューシカ人形のようだ。





 5000年前に上下エジプトを統一したナルメル王のパレット、サッカラの階段ピラミッドを作ったジョセル王ゆかりの品、発掘した時に自分たちの村の村長さんとそっくりの木像が出てきたので、ついた渾名が「村長さん」、金の長持ちの周りを両手で囲むような金の女性像、まるで4人でお風呂に入っているかのような像とか、色々あって楽しかった。


20.後書き

(1)私は、先進国の首都や大きな都市なら、往復の飛行機と泊まる宿を確保して、自分で行く自信はある。ところが、論理も社会も生活習慣も違う上に交通が不便なエジプトのような国になると、やはりツアーに乗るのが安全である。

(2)私が、日本で初めて発売されたカラーノートパソコンを購入したのは、1991年のことだったが、それからほどなくウィンドウズ3.1というソフトが発売されて、それ以降、マイクロソフトの現在の隆盛に繋がった。

 ところで、その3.1を開いてみると、壁紙にペルーのマチュピチュ遺跡と、エジプトのピラミッドが載っていた。それをつくづく見ていると、まあその魅力的なことといったらない。だから、この2箇所には、いつかは行ってみたいと、かねてから思っていた。既にマチュピチュについては行ったので、残るはピラミッドだけである。

(3)ということで、クラブツーリズムのツアーに参加することにした。当日、成田空港に着いてみると、二つびっくりしたことがある。その一つは、添乗員が突然変更になったことである。何でも、身内に不幸があったらしい。

 代わりに来てくれたのが、前日の午後10時に急遽代わってくれと言われたという添乗員さんで、前々日にカンボジアから帰ったばかりだという。こんなこともあるんだ、、、。それにしても、タフでなければ務まらない職業だ。

 次は、ツアーといっても参加者はわずか5人で、しかも添乗員を含めて私以外は全員女性だ。お客さんは、母と娘が2組と、私という有様。何でも、出発直前に何人かが脱落したということで、それでも中止にならないのは、「出発確定」とアナウンスしたからだという。日本の旅行社らしい生真面目さだ。その新しい添乗員の山崎さんによると、過去、参加者が僅か3名ということがあったらしい。

(4)エジプトに行くということで、事前に友達に聞いてみたら、お腹を壊したという人が何人かいたので、生ものは食べず、かつ日本からペットボトルの水を10本と、食べ物が合わない時に備えて食料を幾つか持っていくことにした。加えて、旅行会社からもらった冊子には、「エジプトでは、ホテルにはシャンプーとコンディショナー、ボディーソープと歯ブラシのないところが多いので、これらは持参してください」などと書かれている。これらを買い込んだせいで、大きなトランクの重量は22キロと、制限の23キロギリギリである。

 それで、どうなったかというと、クルーズ船も含めて、さすがに歯ブラシはなかったが、それ以外のものは揃っていた。また、水もホテルで1本、バスでも1本もらった。だから、心配することもなかった。もっとも、大汗をかいたので、持参した日本のペットボトルも1日1本飲んでいたから、ちょうど良かったといえる。ただし、エジプトのペットボトルの水は硬水のようだから、これに弱い人はいわゆる「水が合わない」ということになるので、飲まない方が無難である。

 生ものは、最初は食べないようにと思って、一泊目のホテルでは、サラダや果物は食べなかったが、やはりこういうものは身体が欲する。二泊目のクルーザーからは、思い切って食べ始めた。サラダといっても、トマト、レタス、きゅうり、デーツ程度だけど、美味しいし、特に問題はなかった。その調子で、生ジュースにも挑戦してみた。マンゴーとストロベリーのダブルである。いや、実に美味しくいただいた。もう一杯、注文したほどだ。

 レストランの飲み物の支払いは、全て米ドルで事足りる。あらかじめ八重洲口の両替屋で、1ドル札と10ドル札ばかりに両替しておいたから、助かった。ちなみに、観光地で物売りが寄ってきて、「ワンダラー、ワンダラー」と叫んでいる。本当にワンダラーかと思って聞くと、「これは、ツウェンティダラー」と言う。ではあの「ワンダラー」は何かというと、ただ「いらっしゃい、いらっしゃい」と言ってるのと同じことだと分かった。笑い話だ。






 エジプトへの旅(写 真)






(2023年9月30日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:43 | - | - | - |
日光への旅


 9月も半ばになるというのに、連日32度から33度の猛暑の日々が続いている。平日に暇ができたので、東武鉄道の最新の特急列車、スペーシアXに乗って、日光に行くことにした。午前9時発に乗ろうとしたら、もう満席である。その前の8時発も、窓側があと一席という混雑ぶりで、驚いた。コロナの期間に外出できなかったせいの、リベンジ旅行なのかもしれない。



 北千住駅で待っていると、スペーシアXが入線してきた。先頭のラウンジ車両の窓が「X」になっているところにこだわりがある。乗ってみると、まだ車両が新しいだけに、快適そのものだ。

 東武日光駅から緩い登り坂を上がっていく。道の両側にはたくさんのお店が、、、と言いたいところだが、残念なことに年々寂れていくのが有り有りというところである。それでも我慢して写真を撮りつつ登っていく。左手に堂々と聳える日本風の建物は、日光の市役所だったから、恐れ入る。



 やっと、神橋(しんきょう)にたどり着いた。入場料を払って中に入り、橋を渡る。その時、中東風の顔をしたお兄さんに、写真を撮ってくれと言われた。そこで、上流に向けてとか、橋のたもとをバックにとか、色々な方向で撮ってあげた。すると話しかけてきて、「自分はイスラエルから来た。私のいるところは、こんな所だ」と言って、砂漠の中にいる写真を見せられた。どこを見ても砂、砂、砂ばかりの世界に私がびっくりしていると、「だから、こんな日本の清流と木々の緑を見ると、心が洗われるようだ」と言う。




 私が「文字通り、砂漠の国から来たのなら、こういう高い木々や綺麗な水が流れる川は貴重なんだね。ところで、日光東照宮の『見ざる、聞かざる、言わざる』は見たの?」と聞くと、耳や口や目を押さえる仕草をして「あれは有名だから、今から見に行く」というので、「そうしてください。あの三猿は、封建時代のものなので、言論の自由などないから、庶民にとってあれが一番、安全な生き方だったんです。まるで、今のロシアみたいだ」というと、苦笑していた。





 日光東照宮に着き、三猿の建物(神厩舎)を通り過ぎて陽明門をくぐった。この前にある中国風彫刻が、精緻で美しい。一つ一つ見ると、楽器をかき鳴らしているのもあれば、碁や将棋のような盤を囲んでいるのもあり、表情が生き生きとしている。左甚五郎の眠り猫を見て、本殿を参拝したところで、修学旅行の小中学生に囲まれたので、早々に退散してきた。



 帰りは、金谷ホテルで、のんびりとコース料理を食べてきた。色んな料理が少しずつ味わえて、美味しい。これこそ、旅行の楽しみと言えよう。






 日光への旅(写 真)






(2023年9月14日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:50 | - | - | - |
スイスへの旅

ルツェルン







 スイスへの旅(写 真)


     目  次

 01  ライン瀑布を見る
 02  チューリッヒを歩く
 03  ルツェルンを歩く
 04  ベルン(首都)を歩く
 05  インターラーケンを歩く
 06  イゼルトヴァルトを歩く
 07  ユングフラウヨッホに登る
 08  グレイシャー3000に行く
 09  グシュタードを歩く
 10  展望列車に乗る
 11  ヴヴェイで楽しむ
 12  シオン城を見学
 13  チョコ・チーズ工場を見学
 14  グリュイエールを見る
 15  ローザンヌを歩く
 16  ジュネーブを歩く
 17  後書き
 18  同行者




 今回のスイス旅行は、本当に楽しかった。このところ、家内の老人ホーム入りや親友の奥さんの急な逝去など、心が沈むことばかりが続いていたが、この旅行で久々に気持ちが晴れる感覚を味わった。そのハイライトを記録しておきたい。


1.ライン瀑布を見る

 チューリッヒに到着した最初の日は、直ぐに北へ1時間ほど走り、ドイツとの国境に近いシャフハウゼンにあるライン瀑布を見に行った。ライン川本流の中で唯一の滝だという、その川の水の色も、ダークグリーンで惚れ惚れするほどに美しい。それが、ある所で大きな滝となる。それを手前から、脇から、上から、そして船から観られる趣向になっている。

ライン瀑布


ライン瀑布


 ソニーα7iiiを構えて写真を撮っていたら、通りかかった現地の年配の男性から「この滝は一番ね」と日本語で話しかけられてびっくりした。「Yeah This is the number one waterfall in Europe. 」と答えたものの、なぜ日本語を知っているのかと思った。ところが滝の脇に、古い日本語の表記があったから疑問は氷解した。なるほど、一時は日本人観光客が大勢押し寄せたことがあったのだ、、、かつて花盛りだった日本人観光客の栄華が偲ばれる。今はどこへ行っても中国人と韓国人ばかりだ。

 私は前回のニュージーランドに続いて、今回もマレーシアで組まれた現地のツアーに参加しているのだが、同じツアーのー行の40歳代の華人女性に、「現地の人に日本語で話しかけられちゃった」という話をすると、彼女は、「ええっ、あなた日本語もわかるの?」というので、「そりゃぁ、日本語が母国語だからさ」と答えると、「ええっ、あなた日本人なの?」と二度びっくりされた。我ながら、「うーん、環境に完全に溶け込んでいる。これでよし」と思った。


チューリッヒのグロスミュンスター大聖堂


チューリッヒのグロスミュンスター大聖堂


2.チューリッヒを歩く

 リマト川に面したグロスミュンスター大聖堂に行く。こちらは15世紀に建てられたロマネスク様式のプロテスタント教会とのこと。内部に入り、カラフルなステンドグラスを眺めた。とても色鮮やかで美しい。それに信仰心が加わって徹底的に作り込むから、ヨーロッパの教会のステンドグラスは、非常に素晴らしい。地下室に行くと、恐ろしいほど力強い男性の像があり、これにはびっくりしてしまった。

チューリッヒ


チューリッヒ


チューリッヒ


 その大聖堂の裏手の登り坂をひたすら上がっていくと、リンデンホーフの坂に出る。そこから、チューリッヒの街を一望できる。青銅色の尖塔が特徴のフラウミュンスター教会(聖母教会)である。一見するとその名の通り女性的な優雅さがあって素敵だ。それもそのはずで、もともとは女子修道院だったそうな。それをはじめとしてあちこちに教会の尖塔が見受けられ、信仰の長い歴史を感じる。見渡すと普通の建物は煉瓦色の屋根瓦で、その手前に繁華街のバーンホーフ通りがあり、その前には2台か3台連結の路面電車がが行き交う。更に手前は川という誠に平和な風景だ。


ルツェルン名物の瀕死のライオン像


3.ルツェルンを歩く

 ルツェルン名物の瀕死のライオン像に着いた。ガイドによると、「フランス革命の時に、王族一家を護衛していたスイス人の傭兵760人が惨殺され、350人が生き残った(最近の研究では殺されたのは300人余りという説もある)。たまたま休暇でフランスを離れていて難を逃れた将校がそれを悼んで募金を募り、それで建立した」そうな。写真左の十字がスイスを象徴し、その下がルイ王家のユリの紋章である。陰惨な歴史があったものだ。

ルツェルン湖風致地区カペル橋


ルツェルン湖風致地区カペル橋


ルツェルン湖風致地区


 ルツェルン湖で、風致地区を歩く。カペル橋というのは、ロイス川に斜めに掛かっているヨーロッパ最古の橋で、中世の面影を見ることができる。その脇面には赤や黄色や紫色の小さな花が一面に飾られていて、実に美しい。三角帽子の可愛いらしい塔まで建っている。これを見るだけでも、スイスに来た甲斐がある。この橋には屋根があり、その中を通っていくと、上には絵が描かれていて、両脇は吹き抜けだから気持ちがいい。その先には、美しい街並みが見られる。その先の山には、白いお城のような建物があり、これまた綺麗だ。



ルツェルン湖風致地区カシュプロイアー橋一人だけ礼拝できる教会


 その近くにあるシュプロイアー橋は、構造はカペル橋とほぼ同じだが、小さな尖塔が橋から突き出ている。そこは一人だけ礼拝できる教会だそうだ。

土産物屋に日の丸がない


 暑さを凌ぐつもりで土産物屋に入ったが、その前の各国の国旗の先頭が中国で、米国、イラン、フランス、スイス、ニュージーランド、韓国と続き、日の丸がなくてがっかりした。日本のプレゼンスがこれほど落ちているとは思わなかった。非常に残念だ。1990年頃のバブル後の失われた30年は、こんなところにも影を落としている。私が社会に出た1973年は、日本経済の最盛期だった。現に79年には「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という書物が出版されるほどだったのに、、、今や日本も、イギリスのような老大国になりつつあるのだろう

 土産物屋の二階には、鳩時計が並べられていて、なかなか可愛い。孫が来た時などに飾ろうと思って買った。ところが、包装が嵩張るので困る。包装を外して嵩を減らし、機内持ち込み手荷物の中に何とか入れた。

 ルツェルンといえば、ウィリアム・テル伝説の本場である。ガイドの話によると、14世紀にこの地を統治していたハプスブルク家の代官ゲスラーは、道に自分の帽子をぶら下げて、通る人にお辞儀を強要したという。まあ、相当な悪代官だったのだろう。ところが、息子を連れたウィリアム・テルはお辞儀を断ったので逮捕された。

 ゲスラーはテルに、「お前の息子の頭の上に載せた林檎を射抜いたら許す」と言ったので、テルはやむを得ず矢を放った。すると、見事に林檎に命中し、息子は無事だった。ところが、テルが2本目の矢を抜いていた。それは、もし息子に矢が当たったら、ゲスラーを射抜くつもりだったと知り、ゲスラーは激怒して、テルを投獄した。テルは、船で牢獄に送られる途中に脱出し、このエピソードはその後のスイスの独立の礎となったという。

 ベルンに行く途中のルンゲルンでは、おとぎの国のような山と湖の写真を撮った。素晴らしい。それこそ、絵葉書のようだ。これは、百聞に一見にしかずで、次の写真の通りである。


ルンゲルンのおとぎの国のような山と湖


ルンゲルンのおとぎの国のような山と湖


ルンゲルンのおとぎの国のような山と湖


4.ベルンを歩く

 ベルンの国会議事堂は、何の変哲もない普通のビルだから、前を通ってそれだと言われないと、気がつかない。そこから、旧市街に向けて、ダラダラと歩く。塔のようなものが二つもあったが、それぞれ、街を囲う城壁の名残りだそうだ。

ベルンの泉(水飲み場)のカラフルな像


ベルンの泉(水飲み場)のカラフルな像


ベルンの泉(水飲み場)のカラフルな像


ベルンの街中の塔、街を囲う城壁の名残り


 道の真ん中に泉(水飲み場)があり、そこには冷たい清水が出てくる。飲めるそうで、人々が空きボトルに水を詰めている。花に飾られたその水受けの背からは、飾り棒が上に伸びていて、その先に人型のカラフルな像が載っている。キリストのような像、熊の兵士の像、甲冑をまとった騎士の像など、中世の世界を思い起こさせるものばかりだ。見ていて飽きない。

ベルンのアインシュタインの家


ベルンの年取ったアインシュタインの像


 私が昔ここのアーケードを訪れた時にアインシュタインが2年間過ごしたという家があり、確かスイス特許庁に勤務していたはずだ。私も特許庁に勤めていたことがあるから親近感がある。もっとも、何の関係もない(笑い)。探したところ、ほとんど変わらずに、そのままの姿で見つけた。昔と違うのは、その脇のお店には年取ったアインシュタインの像があって、一緒に写真が撮れることで、笑ってしまった。

ベルンを流れるアール川


ベルンの若い頃のアインシュタインのベンチ


 先に進む。ベルンで最初に出来た橋は、湾曲して流れてくるアール川に掛かる。そのたもとにベンチがあり、そこにもアインシュタインの像があって並んで写真を撮ることができる。ただし、こちらはアインシュタインの若い頃の像である。ツアーガイドにこれと一緒に私の写真を撮ってもらい、何だか賢くなった気がした(大笑い)。その脇の売店で買ったアイスクリームが美味しかった。

ベルンのバラ公園


 街を見下ろす高台にあるバラ公園には、もう8月も終わりだから、バラはないものと思っていたが、実際に行ってみると少し残っていた。ここから、街全体を眺めることができる。


5.インターラーケン

 インターラーケンというのは、ブリエンツ湖とトゥーン湖の間に位置する町である。着いて直ぐにスイスの民族音楽を聴きながらのディナーがあるというので、駅近くの川を渡った所にあるレストランまで歩いて行った。

インターラーケン


インターラーケンの街


 アルプスのハイジの服装をした女性ボーカル、麦わらパナマ帽の似合う年配の紳士、禿頭のおじさんのアコーディオンという3人組がパフォーマーである。

インターラーケンのパフォーマンス


 ただし女性は体が横に相当大きい人で、ハイジなら3人ほどが入りそうな体躯である。これで歌えるのかと心配する。それでも始まってみると大きい声ではないが、まあ普通の声量で、「ララロ、ララロ、ラッラッロー」とやっているから安心した。

 パナマ帽の紳士は、バイオリン引きが本業だが、副業にカウベルを持ち出し、大小様々な大きさのカウベルを器用に扱って、エーデルワイスなどを演奏している。なかなか上手い。

 そうかと思うと、アコーディオンのおじさんは、ノコギリを持ち出して「ウィーン、ボローン」などとやっている。しかし、あの音はやめてほしい。鳥肌が立つからだ。

 ひと通りそれらが終わると、パナマ帽がアルペンホルンを持ち出し、器用に演奏した。それで、ツアーのメンバーから吹きたい人を募った。高校生の男の子が手を挙げてチャレンジした。結構大きな音を出して拍手喝采をもらった。次に20歳くらいの女の子がやってみたら、ほとんど音にならずに敗退。驚いたのがツアーコンダクターのおじさんで、音が出て、しかも音程になっている。何でも、若い頃、サキソホンを吹いていたからだというから、大いに納得した。

 それを契機に、ほぼ半数の人を舞台に上げて、何やら楽器を持たせて演奏をし始めた。スイスやマレーシアの国旗まで用意し、演奏しない人にこれらを持たせて大騒ぎだ。これが結構、ツアー一行の心を掴んだようで、楽しい馬鹿騒ぎとなった。

インターラーケン街を闊歩する観光馬車


インターラーケンの空に舞うパラグライダー


 翌朝、町には観光馬車が走り、たまたま上を見上げると空にはパラグライダーが舞っていた。インターラーケンは、パラグライダーのメッカらしい。教習所もあるというから、私ももう少し若かったら挑戦してみたかった。


6.イゼルトヴァルトを歩く

 インターラーケンをバスで出発し、しばらくしてイゼルトヴァルトに到着した。こちらは、ブリエンツ湖の南岸にある平和で美しい村で、「ブリエンツ湖の真珠」と言わているそうだ。それぞれの家が色とりどりの花を植えて、さりげなく飾っている。これも、言葉を尽くして説明するより、写真を並べた方が百聞は一見にしかずである。


平和で美しい村イゼルトヴァルト


平和で美しい村イゼルトヴァルト


平和で美しい村イゼルトヴァルト


平和で美しい村イゼルトヴァルト


平和で美しい村イゼルトヴァルト


平和で美しい村イゼルトヴァルト


7.ユングフラウヨッホに登る

 グランデルバルトからロープウェイでアイガー・グレイシャー(2,320m)に到着した。そこまではわずか15分間で、ゆっくり景色を眺めている暇がないほどだ。直ぐにそこから鉄道に乗り換えて、頂上を目指す。ここまで、昔は鉄道だったが、それだと40分間はかかるそうだ。標高が上がるに連れて高山病の兆しが出てこないか気になるが、マチュピチュの時と同様に、私は全く問題がなかった。でも、同行の21人中、3人が目眩いがしたそうだ。

グランデルバルトからユングフラウヨッホ駅まで


グランデルバルトからユングフラウヨッホ駅まで


グランデルバルトからユングフラウヨッホ駅まで


グランデルバルトからユングフラウヨッホ駅まで


グランデルバルトからユングフラウヨッホ駅まで


グランデルバルトからユングフラウヨッホ駅まで


 終点のユングフラウヨッホ駅(3,454m)の直ぐ手前でアレッチ氷河を見られるポイントがあり、そこで5分間の停車となる。急いで降りて見物に行った。以前来た時もここで降りたことを思い出した。

 次にすぐユングフラウヨッホ峰(3,466m)の駅に着いて電車を降りた。ここは、ユングフラウ峰とメンヒ峰を結ぶ稜線の鞍部にある山である。ちょうどお昼前だったから直ちにスフィンクス展望台(3,571m)に上がり、そこで昼食となる。スープに骨付き鶏とポテトチップが出てくる。大量生産向きだ。時間のない時に何かお腹の中に入れておくような場合には、こういう方式しかないのだろうが、そうでない場合には、ごめん被りたいメニューだ。

 ここスフィンクス展望台は、外に出られる。前回来た時は、外は嵐気味で周囲は真っ白だったが、今回は曇りではあるものの、一応、外が見える。目の前に見えるのは、ユングフラウ(4,150m)か、メンヒ(4,107m)か、それともアイガー(3,970m)か、、、形からして、ユングフラウ峰に間違いない。ツアー・ガイドもそう言っていた。

ユングフラウのスフィンクス展望台


ユングフラウのスフィンクス展望台からの眺め


ユングフラウ峰


 下界を見下すと、中ほどに雲がたなびいているものの、晴れていて、景色が良く見える。手前はもちろんアレッチ氷河、その向こうは緑の大地(グリンデルワルト谷)、更に向こうは青く霞む山々だ。ここからの眺めが、「ヨーロッパ最高地点」 の3,600m余りと思うと、感激もひとしおと言いたいところだが、2時間ほどであまりにもあっけなく来たので「着いたぞ」とでも言われなければわからないのが笑い話だ。ひと通り眺め渡したところで、寒くなって中に入ったら、大吹雪になった。山の天候は一瞬にして変わる。

スフィンクス展望台内で、ユングフラウ鉄道建設の歴史を学ぶ動く歩道


スフィンクス展望台内で、ユングフラウ鉄道建設の歴史を学ぶ動く歩道


 展望台の中のツアーがある。まずはこのトンネルの歴史である。1862年からトンネルを掘り始めて、60年もかかってようやく完成したそうだ。こんな高所にトンネルを掘ろうなんて良く思いついたものだ。工事にあたったのはイタリア人工夫で、最初は機械もダイナマイトもなかったことから、全て手掘りだったとのこと。日本の黒部ダムの比ではない。

スフィンクス展望台のアイスパレス


 次は氷河をくり抜いた氷のトンネルである。周りも床も、氷であることは無論のこと、手摺があるとはいえ、滑りやすい。歩いている途中、注意していたはずなのに、やはり滑って転んで尻もちをついてしまった。トレッキングシューズを履いていながら滑るとは、我ながら情けない。

 幸い怪我はないから良かったものの、そこから氷の上で立ち上がるのに往生した。つるつる滑って本当に立ち上がれない。スケートリンクで立ち上がるのが難しいのと同じだ。ほとほと困っていると、親切なことに、近くにいた大柄のインド人が助けてくれた。

スフィンクス展望台から降りてくる


スフィンクス展望台から降りてくる


スフィンクス展望台から降りてくる


スフィンクス展望台から降りてくる


スフィンクス展望台から降りてくる


 アウタブルナーからバスでインターラーケンへ行く途中は、かなりのくねくね道(ワインディングロード)である。その中を我がバスのイタリア人運転手は、鼻歌を歌って運転している。時々真横を向いてツアーコンダクターと大きな身振りで話をする。イタリア人らしいが、本当にやめて欲しい。ああ、危ない、対向車が来た。彼は慌ててハンドルを少し切ったが、慣れているらしくて、ほんのちょっとのことだから、我々の腰がわずかにツイストしただけだ。それにしても、、、大丈夫かこの人、、、。

スフィンクス展望台から降りてくる


 道中で大きな滝を見つけた。100mはあろうかという垂直の崖から、一筋の滝が落ちてくる。氷河の雪溶け水だそうで、春はもっと幅広の大滝になるそうだ。


8.グレイシャー3000に行く

 インターラーケン発、コルデュピロンでロープウェイ(1,546m)に乗り、カベーヌ(2,525m)で別のロープウェイに乗り替え、セ・ルージュ山頂駅(2,971m)に到着した。途中の下界の風景は、まるで繊細に作られたジオラマのような世界で、感激してしまった。

グレイシャー3000に行く


グレイシャー3000に行く


グレイシャー3000に行く


グレイシャー3000に行く


 駅に着いて外に出てみると、素晴らしい天気で、太陽の日ざしが、燦々と降り注ぐ。気温は8度だが、体感温度は15度くらいでピクニック日和だ。4人乗りのリフトがあり、下の氷河へ氷遊びに行けるようだが、氷河が溶けて、岩肌が剥き出しで、痛々しい限り。これも地球温暖化のせいか?

下の氷河へ氷遊びに行く


Peak Walk by Tissot


 氷が汚いものだから、氷遊びはほどほどにして、いよいよ二つのピークを結ぶ橋(Peak Walk by Tissot)に行く。ところがかなりの登り階段で、しかも、工事現場の足場のような造りのもので出来ているから、歩きにくい。幸い冬ではないので滑らないからよいようなものの、そこの階段を上がらなければならない。何しろ標高3000mの高台に行こうとするわけだから、ゆっくり、一歩一歩確かめるようにして上がる。転けたら周りに迷惑だ。途中で1回休んだ。数えてはいないが、数十段は登ったのではないか、ようやく二つの峰を結ぶ橋の片方のたもとに着いた。そこから、もうひとつの峰に向けて吊り橋が掛かっている。

Peak Walk by Tissotからの眺め


Peak Walk by Tissotからの眺め


 風はなく快晴で、遠くまで見渡せる。近いところは剥き出しの岩場で、所々に氷河らしきものがある。吊り橋の片方には、下に広がる緑の大地が凹んでいる感じだ。その向こうには、また山々が連なる。それらは、上から下へと眺めていくと、山肌の上はもちろん岩石と氷河ばかり、その下には緑の芝生のような植生で、更に下には黒っぽい森林が広がる。ああ、、地の底のような所に湖があった。その周りに人家が散らばっている。これはまたあたかも神様が天上界から下界を眺め下ろすような、まさに絶景である。

 近くの人に、「どれがアイガーで、どれがユングフラウだ」と聞いたら、「自分もわからないが、あの望遠鏡を覗いてみたらわかる」と聞いて、覗いてみた。その方向にむけると、確かに文字が書いているではないか、、、ところが、光が反射する上に、文字が細かすぎてよくわからなかった。

シルソーン山の頂き


 吊り橋を渡り始めたが、風がないので歩きやすい。途中で写真を撮りながら、何なく向こう側に着いた。シルソーン山の頂きである。岩場の上にスイスの国旗が翻っている。

下る人もいれば登ってくる人もいる


 ここは標高3,000mの地点だというのに、吊り橋の柵を乗り越えて、岩肌剥き出しのところを足早に降りていく人物がいて、びっくりした。でも、更に上手がいた。その人物とすれ違うように下から登ってくる屈強な男たちがいてやはり柵を乗り越えて入ってくるのを見た時は、驚いたの何のって、、、日本でいえば、山伏の役小角みたいな人たちだ、、、ああ、ちょっとたとえが古いか。

 これが、グレイシャー3000かと思いながら周りを見渡すと、先ほど吊り橋の向こうから見た風景とあまり変わりがない。当たり前だ。早々に退散して、階段を下ってきた。今度は下りだから、さっさと降りてこられた。


9.グシュタードを歩く

 グレイシャー3000から下ってきて、グシュタード(標高1,049m)に到着した。素朴で静かな雰囲気の町で、どこもかしこも綺麗にしつらえている。ロジャー・ムーアやエリザベス・テイラーなどの映画スターや各国のセレブに人気のある有名な土地ということである。日本でいうと、軽井沢といったところか。メイン通りの建物は、いずれも花また花に飾られていて、まるでおとぎの国のように美しい。丘の上には、古城のような外観の高級ホテルがある。

グシュタード


グシュタード


グシュタード


 しばらく見て回っていたら、同じユニフォームを着て黒い大きなカウベルを傍に置く集団がいた。何かのイベントで、それを演奏するらしい。でも、どれも同じ大きさのカウベルだから、ミュージックになるのか不思議だった。でも、数分後に謎が氷解する。単調な音だが、マーチとしては、成立しているから面白い。


カウベルの行進


10.展望列車に乗る

 パノラミックトレイン(展望列車)というものに乗った。ルツェルンからモントレーまで行くもので、途中のグシュタードからの乗車である。左右の景色は、すこぶる良い。緑の斜面に家がポツポツとあり、いずれも申し合わせたように、スイス式の木造の家(シャレー)である。

グシュタード


グシュタード


グシュタード


 スイス政府観光局のHPによると、「春には花が咲き誇る草原と放牧されている牛たち、伝統的な木造のシャレー、奥に広がるアルプスの山々など、展望車両の窓に次々と展開する絵画のような風景を眺めながら、セレブが集う山里グシュタードや伝統の牧童の暮らしが息づくペイダンオー地方へ。そして、5月には一帯の山の斜面に可憐なナルシスの花々が咲くレザヴァンを過ぎる頃、美しいレマン湖と名峰ダン・デュ・ミディが見えてきます。さらに世界遺産のラヴォー地区の葡萄畑が広がる絶景を走り抜けるとモントルーに到着します」とある。

 同行の元教師の人が、「あの緑の芝生は、自然のままなのですかね。マレーシアだったら、放っておくと伸びていくんですけど、こちらは放っておいても伸びない草なのでしょうか」という。

 私が「日本でも、夏場に草を刈らないと、1m以上の草ボウボウ状態になる。これは、地味が豊かな証拠だと思う。その点、スイスの山岳地帯は、土壌が貧しくて、こういう地味に合った背の低い芝生のような植物しか生えないのかもしれない」と言ったが、多分それで当たっているのではないかと思っている。


11.モントルーとヴヴェイで楽しむ

 レマン湖の東の端にやってきた。モントルーで、反対側の西の端にはジュネーブがある。

 泊まったのは、モントルー郊外ヴヴェイのモダンタイムスホテルで、その名の通り、チャーリー・チャプリンの映画にちなんでいる。館内はもちろん全室に、この地ヴヴェイで亡くなったチャプリン由来のものが館内のあちこちに置かれている。

モダンタイムスホテル


モダンタイムスホテル


モダンタイムスホテル


モダンタイムスホテル


 ヴヴェイを出て、近くのボヴィ・ワイン醸造所に着き、ワインを4種類、試飲する。白(1年物)、白(2年物)、ロゼ、赤なのだが、私にはどうもしっくり来なかった。でも、ここからの眺めは抜群で、目の前はレマン湖が広がり、手前には湖に面してなだらかな斜面があって、そこに葡萄が植えられていて、もう実をつけている。このワイン醸造所は三代目がやっていて、もうすぐ四代目になるという。おじいさんの代に作られたオークの醸造用の樽は、200年以上も持つそうだ。そのおじいさんが樽に描いた年代物の絵は、なかなか味があった。

ボヴィ・ワイン醸造所


ボヴィ・ワイン醸造所


ボヴィ・ワイン醸造所


 ヴヴェイに戻り、街を歩く。湖畔にチャプリンの銅像がある。その近くの湖水中に、10mくらいの高さのフォークが突き刺さっている。何とも刺激的なオブジェだ。

チャプリンの銅像


フォークが突き刺さっている


チャプリンの銅像


 クイーンのフレディ・マーキュリーの像もあるが、片手を上げている格好をしているので、その脇で同じような形をしてポーズをとり、一緒に写真を撮っている人がいて、笑ってしまった。

クイーンのフレディ・マーキュリーの像


 お昼ご飯は各自でというので、探して歩いていたら、寿司屋があった。仲間を誘って入り、アボガドサーモン丼を頼んだら、美味しいし、ボリュームもちょうどいい。何よりも、久しぶりの和食だから、生き返ったような気がした。


12.シオン城を見学

 シオン城(Chillon Castle)は、レマン湖の南北通航を監視する防衛拠点として、12世紀に設けられ、それ以来改築を重ねてきた城である。その歴史は、次の3期に分けられるという。

 サヴォア家領時代(12世紀から1536年まで)
 ベルン人所有時代(1536年から1798年まで)
 ヴォー州所有時代(1803年から現在まで)


 この城は、当地の豪族だったサヴォア家が所有し、サヴォア伯爵・公爵のものだったが、実際に住んでいたのは、城主と言われた代官だったようだ。

 1536年にベルン地方のスイス人がこのヴォー地方とこの城を占領し、その後260年にわたり、城は要塞、武器庫、牢獄として使用された。1778年のヴォー州革命によってベルン人は去り、ヴォー州が成立した1803年からその所有となった。

 中を見て回ると、まさに中世のお城そのもので、なかなか興味深い。それにしても思うのは、ここに住むのはさぞかし寒かっただろうなということだ。暖炉はあるが、何しろ石造りで、天井が高く、窓にガラスがないから吹きっさらしだ、、、。

 宴会の間があった。中世の騎士たちが集まり、大きな暖炉で豚の丸焼きを作り、木製の頑丈なテーブルにそれをドーンと置き、ワイワイガヤガヤと飲み食いしている姿が目に浮かぶ。

 寝室に入ると、ベッドの長さが短くて140cmから150cmしかない。これは、当時の人々の背が低かっただけでなく、背中にクッションを入れて半ば身を起こす形で寝る習慣があったのではないかと言われているそうだ。常在戦場という意識なのだろうか。

 シオン城がイギリスのロンドン塔と同じだなと思ったのは、通行税を集める関所、いざという時の要塞、そして牢獄という3つの役割を果たしているので、外見以上の歴史があるからだ。ちなみに、イギリスの詩人バイロンが書いた詩のうちの「シオンの囚人」は、ここのことを言っているらしい。

シオン城


シオン城


シオン城


 モントルーには、カジノがある。私は賭けはしないことにしているので、パスしようとしたら、同じ建物に「クイーン」の衣装やシンセサイザーなどが展示されているコーナーがあるというので、行ってみた。しかし、私は歌謡界には疎くて、そもそも「クイーンって何だ?」という状態だから、感激も何もなかった。それにしても、奇抜な格好をするものだ。NHK紅白歌合戦の小林幸子と同じかもしれない、、、いやいや、小林幸子の方が、もっと派手か。

カジノ


クイーンの衣装


 昨晩、ホテルにチェックインして部屋に入り、あまりに疲れていたことから、シャワーを浴びて髪を乾かした直後に、そのまま寝てしまった。ところがかなり寒かったようで、翌朝、喉が痛いし、咳も出る。エアコンの設定を見ると、なんとまぁ摂氏18度で、めちゃくちゃだ。これは駄目だ。せっかく3000mの世界から下界に戻ったというのに、ここで風邪を引いては何にもならない。薬局(phermacy)がないかなと思って街を歩いていると、カジノの前にあった。

 入って、女性の薬剤師に、「咳が出るし、喉が痛い」というと、「dry or wet?」と聞くので< 「Well... It's rather dry.」と答えると、茶色の瓶を出してきた。咳止めのシロップだ。1日に3回、1回に15cc、最大4回飲めという。それに、日本で言えば「のど飴」に当たるものも添えてくれた。合計35CHF(約5,700円)である。これが良く効いて、1日半で咳は完全に治まった。のど飴もシュガーレスの「グミ」のようなものだったから、くどくなくて良かった。


13.チョコレートとチーズ工場を見学

 今日はチョコレート工場とチーズ工場に行く日だ。ただし私は、チーズは食べるが、普通のチョコレートは甘すぎて、進んで食べようという気にはならない。もっとも、GODIVAは別格で、これは美味しく感じて好んで食べている。

チョコレート工場


チーズ工場


 スイスの老舗ブランドであるカイエ(Cailler)のメゾン・カイエ(チョコレート工場)では、スペインのインカ帝国征服の頃から、ココアとチョコレートがいかにヨーロッパ中に広がっていったかというチョコレートの歴史を、まるでお化け屋敷のようなところで展示していた。

 スイスでは、人気の順にいうとミルクチョコが70%、普通のチョコが25%、ホワイトチョコが5%だという。ミルクチョコと、ホワイトチョコとはどう違うのかと聞いた。すると前者には牛乳が、後者にはカカオニブが使われているそうだ。

 チーズ工場では、牛乳を大きな鍋でかき回している場面を見せてくれた。解説によると、85kgの草と100Lの水から25kgの牛乳がとれる。400Lの牛乳から35kgの丸い大きなチーズがとれる。12Lの牛乳から1kgのカットチーズがとれると書いてあった。ということは、1kgのカットチーズを作るためには、3.4kgの草と4Lの水が必要なのか、、、資源多消費型の製品なのだな、、、。


14.グリュイエールを見る

 グリュイエールは、ちょっとした高台にあるお城が、中世の面影を良く残している。この街のHPによれば、こういう歴史らしい。

「この村の名前は、この地で鶴(grue)を仕留め村の礎を築いたとの伝説が残る偉人グリュリウス(Grurius)に由来している。村の紋章に鶴が描かれているのは、そのためである。

 グリュイエール公の名は11世紀の文献にすでに表れている。以後、グリュイエール家は広大な土地を支配し続け、サヴォワ公国の従属となりながらも独立を維持した。

 しかしグリュイエール家最後の領主ミシェル公は、1544年に当時ベルン公国とフリブール公国との争いに巻き込まれる形で、領主権を売却せざるを得なくなってしまった。」


グリュイエール


グリュイエール


グリュイエール


グリュイエール


 起伏のある牧草地が広がり、その所々に家が散見されるのどかな「くねくね道」を行くと、石畳の登り坂がある。そこに車を停めて、坂を登り、城門をくぐると、城内に入る。広場は石畳、真ん中に花を二段に飾ったモニュメントがあり、綺麗だし、ランドマークになっている。その左右にレストランやホテルがごちゃごちゃとある。奥の方は教会で、そこまで登り坂が続く。

グリュイエール


グリュイエール


グリュイエール


 その坂の中途あたりのレストランで、チーズ・フォンデュを食べる。最初はパンを小さく千切って煮え立つチーズに漬けて食べ、次はブロックに切った牛肉、鶏肉、豚肉をやはり煮え立つ油の中に突っ込んで食べるという趣向だ。これらの次に果物の角切りを煮え立つチョコレートに漬けて食べるというものだが、あれあれ、野菜はないのか?、、、何とも中途半端でチープなフォンデュだった。


15.ローザンヌを歩く

 ローザンヌは、国際オリンピック委員会本部とオリンピック・ミュージアムがあることで有名だが、今日は朝から気温35度のところを歩いてきたので、疲れた。夕方にいったんホテルに着いてからは、とてもオリンピックミュージアムまで歩く気にはならなかった。

ローザンヌ


ローザンヌ


 街から坂をあがり、ノートルダム大聖堂 (Cathedrale de Lausanne) にやって来た。焼けてなくなったパリの同名の大聖堂を思い起こすが、こちらの方も負けず劣らず美しくて立派なゴシック様式の教会だ。外は35度の焼けるような高温なのに、中に入ったら、とても涼しい。それもそのはずで、中は22度だという。色が煌めくステンドグラスが素晴らしい。礼拝の簡素な椅子が並んでいるところをしずしずと進んでいく。中ほどで振り返ると、入口の2階部分には、立派なパイプオルガンがあった。

ローザンヌ


ローザンヌ


 こちらは12世紀にローマンカトリック教会として出発した。もちろんその時代には高い建物がないから、そんな時ににこんな強烈な存在感があるものを見せられたのでは、教会の権威にひれ伏すわけだ。もっとも、この教会も宗教改革の嵐に巻き込まれて、16世紀にカソリックからプロテスタントになったそうだ。ドイツでのルターの活動、スイスやフランスでのカルヴァンの改革などは、こういう教会の権威と戦ったのかと思うと、誠に感慨深いものがある。


ローザンヌ


ローザンヌ


16.ジュネーブを歩く

 ローザンヌで大聖堂を見てから、バスに乗ってうとうとしていると、「国連です。あれが壊れた椅子です」という声が聞こえてきた。あれ、もうジュネーブに着いたようだ。まだ1時間余りしか寝ていない。

国連ビル


国連ビル


 国連ビルの前には、芝生の両側に各国の旗が4列に並んでいる。日本の旗がないかと探したら、あったので、記念に撮ってきた。

壊れた椅子


壊れた椅子


 壊れた椅子は、その国連の敷地の前にある。地雷禁止条約交渉のときに、地雷がいかに非人道的かを示すシンボルとして、わざと4本の脚のうちの1本を壊した椅子を展示し、その後もこれは良い作品だということで、引き続き展示されているのだそうだ。今もウクライナの地に、ロシアによって膨大な数の地雷が敷設され、人々が犠牲になっている。何とも悲しい気がした。

大噴水


観光列車


花時計


ジュネーブ市内


 レマン湖の花時計の前で下ろしてもらい、そこから反時計回りに湖の周囲を歩く。目の前には140mも上がっている大噴水(Water Jet)がある。ジュネーブ名物だ。宇宙からも見えるという。ただ、今私が居る位置は、風の関係で水が落ちる方向があまり美しくない。それに、水滴があるから、方向によっては虹が見えるかもしれないと期待して、ぐるりと四分の一周したが、残念ながら虹は見えなかった。この大噴水は、元々は水力発電所の余剰圧力を逃がすために19世紀末に設けられたが、これは観光名物になるということで、1951年に大きく増強されて、今に至っているとのこと。

 帰国の便に乗るためにジュネーブ空港でエティハド航空のカウンターで並んだ。私の番が来てパスポートと旅程表を見せると、「マレーシアのビザはあるか」と聞いてくるので、「3ヶ月の観光ビザを貰うつもりだ」というと、「いつ日本に帰国するのか」とまた聞くから、「8月28日のJALだ」と答えると、「その航空券を見せろ」と言う。「紙の旅程表は、この中だ」と預けるつもりの荷物を指さすと、「見せてくれ。これも規則でね」と言う。今から開けるのも面倒なので、「携帯の電子航空券で良いか」と言うと、「それでも良い」と言うから見せると、やっとそれで通った。このやり取りに時間がかかったし、同じカウンターで私の後方に並んでいた人には、迷惑をかけて申し訳なかった。ニュージーランドのツアーの時には、こんなことはなかったというのに、これは何としたことだろう。不法移民が多くて、ピリピリしているのかとしか思えない。





17.後書き

(1) 円レートが146円にもなったせいか、海外旅行の料金が高騰している。スイスエアを使ったスイスへの旅が、エコノミークラスで81万円、ビジネスクラスで121万円とは、これは驚いた。確か8年前はビジネスクラスで70万円だったのに、、、

 実は私は、先般のニュージーランド旅行でマレーシア中国人のツアーに入って楽しかったので、今回も同様にした。数ヶ月前に支払ったのは、エコノミーで53万円である。そんなものだろう。ただし、日本からだとマレーシアに渡航する費用が必要だが、私はコロナ禍の3年間の買い物でマイレージが貯まりに貯まっているから、それを使った。でも、燃料サーチャージとやらで、現金をかなり支払ったので、それを入れると57万円になる。それでも、日本発ツアーよりはお得である。

(2) なんでこうなっているのか、成田・クアラルンプール間の航空運賃を比較してみた(2023年12月6日搭乗、片道)

 バティックエア(直行)   57,360円
 エアアジア(直行夜間便)  61,550円
 マレーシア航空(直行)   103,960円
 日本航空(直行)      243,060円


 新型コロナ禍が終わって減収分を取り戻そうとしているのか、日本航空なんて、出鱈目とか言いようがないほど高い。ナショナルフラッグという意味では同じだから、スイス航空も似たようなものなのだろう。

(3) 新聞によれば、「世界各地で国際航空券価格が高止まりしている。米国―アジア便は新型コロナウイルス禍前の2019年に比べ6割高い。管制官や地上職員の不足などによる減便に加え、ジェット燃料費の高騰が主因だ。コロナ禍前の水準にほぼ回復した国内線とは対照的に、航空各社は国境を越えた移動の需要に応えきれていない。(中略)

 航空券価格上昇の要因のひとつが航空大手による減便だ。

 ドイツ航空大手のルフトハンザは今夏のフライト数を計画比で10〜15%削減すると決めた。カールステン・シュポア最高経営責任者(CEO)は『本来はもっと航空券を売ることができたはずで、夏休みの旅行需要を逃している』と語る。

 英格安航空会社(LCC)のイージージェットはロンドン発着便を中心に7月から9月に約1700便の欠航を発表した。

 長引くコロナ禍で航空会社の就業者数は大幅に減少した。コロナ明け当初、世界的な問題となったパイロット不足は大幅な賃上げや定年延長で解消に向かいつつあるが、地上スタッフや管制官はまだ不足しており、運航便数を増やすことが難しい。(以下略)」
とのこと。(日経新聞2023年8月23日付)

(4)とまあ、旅行代金に対する不満から話をしているが、どうして今回のマレーシア発の旅行が安いのか、その理由がわかった。エティハド航空という聞いたことのない航空会社を使ったからだ。これは、アラブ首長国連邦の航空会社らしい。そのせいで、アブダビ乗換えになってしまった。

 エティハド航空の座席はやや狭いが、機内サービスと座席の画面の使い勝手はごく普通だった。映画には、ミッションインポシブルシリーズのように、日本語吹替えのものもある充実ぶりである。

 ただし、乗換え地のアブダビの飛行場はいただけない。乗り換えようとしたら、そもそもボーディングブリッジがない(もっとも、帰るときの乗換えにはあった)、一部の待合室のエアコンが壊れている、雨漏りすらしている、搭乗口の電子表示がついたり消えたりして見にくいなど、快適とはとても言えない。ここでの乗換えは、なるべく避けた方が良いだろう。エミレーツ航空の方が良かった。

(5)それにしても、今回のスイス旅行は暑かった。行く前は、スイスの気候は、例えば軽井沢のような高原の気候と考えて、厚さ対策など想像もせずに荷物を準備していた。ところがいざ行ってみると、前回は零下に近かったスフィンクス展望台はなんと摂氏8度もある。グレイシャー3000も同様で氷河が溶けている。こんな標高3000m地点でも、これは温かいと思って見て回った。それは良かった。ところが、ルツェルンのような平地に降りてみても、気温32度は普通で、もう熱帯並みの暑さでびっくりした。こちらだけかと思って他の都市に行ってみても、事情は同じだ。その中を歩き回らないといけなかったから、ほとほと疲れた。 18.同行者

(1)マレーシアの国旗

 首都ベルンの街で、我々のガイドが、マレーシアの国旗を掲げて先導している。現地の紳士が、「あれ、、どこの国かな」と呟くので、傍らを歩いていた私が冗談で「アメリカですかね(Is it the United States flag?)」と言うと、「それにしては、何かが違っている、、、ああ、、星のところに月がある」と言うので、マレーシア人が大笑いした。

 しばらく行くと、今度は相当年配の白人が、この旗を見て、何と敬礼をしたので、びっくりした。元軍人さんなのだろうか。


(2)アブダビ乗換え

 私が、「今回のアブダビでの乗換えが最悪だった、ドバイ乗換えの方がマシなのではないか」と言うと、「いやいや、ドバイは別の意味で最悪だ」という人がいた。

 その人は、ブダペストに行く途中、なんとまぁ、置いていかれたそうだ。「Final Callが聞こえなかったのか」と聞くと、「ドバイは、設備は最新だが、放送しない方針らしい。だから、搭乗口の近くにいたのに、つい寝てしまい、気がついたらもう出発していた。アブダビなら、椅子が固くて寝入ることはないのに、ドバイは変に設備が良いから、寝てしまった」というので、皆で笑ってしまった。

(3)バルマティ

 前回のニュージーランド旅行の時は、私以外の全員がマレーシア中国人だったが、今回は一行の中にインド人が4人いる。だからガイドの説明が全て英語だったので助かった。

 ところでそのインド人のうち、目がパッチリして鼻の高い美人がいる。アーシャーという名で、どうやらパンジャビ(シーク教徒ではなく通常のヒンズー教徒だという)らしい。肉は一切食べないせいか、背は低いものの、スタイルは抜群である。50歳だというが、長年ベジタリアンを続けると、こんな風になるのかと、思ってしまった。

 この人が、時に面白いことを言って笑わせる。ある時、彼女の友達が入院したというので、病院へお見舞いに行った。ちなみにこちらでは、相手のファーストネーム(名)はもちろん知っているが、サーネーム(姓)を知らないことがしばしばある。

 病院で、相手のファーストネームを看護師に言うと、「ああ、バルマティね」と言って、奥の方を指差した。ちなみに、マレー語で「バル」とは「新しい」とか「◯◯したばかり」を言い、「マティ」とは「死体」を言うから、見舞いに来たのにその人が「死んだばかり」と思って、ひどく動揺したという。

 ところが実は、その病人のサーネームがたまたま「バルマティ」だとわかって、大笑いしたそうだ。多民族国家で人種と言葉が交錯するこの国らしい話である。

 そういえば、前回のニュージーランド旅行でも、同行者の一人で太っている女性がいた。その名前のスペルが 「Hui Hui」というので、誰かに「あれは『フィフィ』と呼ぶのか」と聞いたら、「そんなことは言っちゃ駄目。それは広東語で『太っちょ』という意味なんだから」と言われて、びっくりして大笑いしたことがある。また今回も、似たような経験をした。これだから、海外旅行は止められない。


(4)あなたは55歳か

 インド人の二つのカップルのうちの若い方の男性が私に話しかけてきた。「あなた、何歳なの?」というわけだ。「当ててみたら?」というと、首をかしげながら、「ううーん、55歳かな」というので、「残念でした。もうすぐ74歳になる」と答えた。すると両手を上にあげて「ええっ、父親の世代だ。そんな風には見えない」とビックリしていた。

 この旅行で、一番嬉しかったことだ。笑うしかない。





 スイスへの旅(写 真)






(2023年8月26日記)


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