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萩市内
萩城下の武家地区にある円政寺。「高杉晋作・伊藤博文両公幼年勉学の地」とある。


萩の武家屋敷を散歩の写真は、こちら


 萩といえば、長州藩があったところである。この地で、明治維新の英雄たちが生まれて育った。毛利家の居城である萩城は、残念なことに明治の初期に取り壊されて今はもうなくなってしまったが、その跡地は城下町のはずれの指月山の麓にある。指月「山」といっても、わずかに標高143メートル、おわんを伏せたような美しい形をしている。本来は半島のようになっていたようであるが、その首に当たるところにお掘のようなものが作られていて、町域とは切り離されている。こうして出島のようになったその指月山一帯にほど近い城下町地域に、武家の居住区がある。萩城に近いところほど家老などの高位の家来の屋敷があり、外れになって商家に近くなるほど、身分の低い家来の家がある。その当たりには、高杉晋作生誕地、木戸考允旧宅、田中義一誕生地などがあるし、その地にあるの冒頭の写真の円政寺には、「高杉晋作・伊藤博文両公幼年勉学の地」とある。また、毛利家の藩医であった青木周弼の養子である明治の外交官、青木周蔵の家も、そのすぐ近くにあった。

毛利家の藩医であった青木周弼、その養子である明治の外交官、青木周蔵の家の近くの武家屋敷の塀と小道。


 この地区は、全体的に、旧武家地区の雰囲気そのままで、あちこち歩き回ると、そういう明治維新やその後に活躍した勤王の志士や明治の元勲たちの旧居や生誕地が思いがけず眼前に現れてきて、歴史好きには実に楽しいところである。また、藩内経済を一手に握っていた菊屋の宏大な住宅も入って見ることができる。今回は行けなかったが、吉田松陰の記念館もあるようだし、木々の間に車窓からちょっと見えただけだが、郊外に韮山にあるのと同じような反射炉もあった。これはすごい歴史が息づいていると、ひとりで感激に浸っていたら、萩博物館というところでバスを下ろされた。

 萩博物館に入ってみたところ、奇兵隊を作った高杉晋作のコーナーが特に面白かった。長州征伐のときに農民町民も含む奇兵隊を組織して見事に勝利を収めたり、英仏米欄などとの馬関戦争のときには講話使節となって植民地化を防いだり八面六臂の活躍をした人である、幕末の最重要人物である。結核にかかって、残念ながら29歳の若さで亡くなるわけであるが、その妻の肉声の録音が残っている。解説によると、7年間の結婚生活で、一緒にいたのはわずか2年間ほどで、年に1〜2回しか家にいなかった年もあったという。そして妻は語る。「東行(晋作のこと)との間には、東一が生まれましたが、ほんのわずかの期間しかいなかったので、何も思い出すことはございません」・・・そうなんだろうなぁ。今でいえば、家庭をとるか仕事をとるかといわれて、仕事を目茶苦茶にとったからこそ、あんな大それた業績を上げられたということかもしれない。やはり、二者択一となってしまったようだ。

高杉晋作と時世の句。


 博物館に入る前、木戸考允旧宅という家に入ってみた。ここでいただいたパンフレットに、木戸考允(桂小五郎)の年譜があった。それによると次のようなものであるが、木戸考允は、京都を中心に活躍して国事に奔走した。とりわけ薩長同盟で維新の実現に力を尽くし、維新後は明治政府において、五箇条のご誓文、版籍奉還、廃藩置県という実績を残した。西郷隆盛、大久保利通とともに、維新の三傑といわれた。6尺つまり180センチ近い大男で、写真をみると、現代に見かけてもおかしくないようなモダンで聡明な顔をしている。また、その横は京都の芸妓上がりの幾松夫人で、新撰組が跋扈する京都で、幾多の危難から桂小五郎を身を挺して守ったことで名高い。鹿鳴館の華だった。こちらも、非常に近代的な顔をしていると思った次第である。


木戸考允と幾松夫人。



1833年  1歳 6月26日、藩医の和田昌景の子として出生
1840年  8歳 桂家の養子となり、家督を継ぐ。
1849年 17歳 吉田松陰に師事
1852年 20歳 江戸の斉藤弥九郎道場に入門し翌年塾頭になる。
1853年 22歳 江川太郎左衛門に洋式兵術を学ぶ。
1855年 23歳 造船術と蘭学を学ぶ。
1859年 27歳 江戸藩邸の有備館用掛に任ぜられる。
1862年 30歳 奉勅攘夷の藩論に転換
1863年 31歳 京都神戸で勝海舟に出会う。
1864年 32歳 京都留守居役。池田屋事件を免れるが禁門の変に敗北
1865年 33歳 下関で坂本龍馬と出会う。
1866年 34歳 薩長同盟
1867年 35歳 薩長が出兵を盟約
1868年 36歳 明治維新。太政官の徴士、総裁局顧問・外国事務掛
1871年 39歳 参議。全権副使として渡米し、2年後帰朝。
1874年 42歳 文部卿を兼任するが、辞職して帰郷。
1877年 45歳 京都で死去。5月26日没


 こんな調子で、維新の志士をそれぞれひとりずつ、調べていきたいところであるが、残念ながら今回は、あまり時間がなかった。ところで、この萩には、幕末そのままの武家屋敷の町並みが、なぜこれほど残っているのだろうかと不思議に思っていた。ガイドさんによると、それは、明治維新のときに、この萩にいては不便だということで、幕府の許可を受けて毛利家の居城を山口に移したからだという。そのときに、武家の大半が山口に転居してしまったために、ここが昔のまま残されたのだという。発展から取り残された形だが、それが今となっては、幸運だったのかもしれない。

 また、武家屋敷の庭のあちこちに、どういうわけか夏みかんの木が生えていて、実が成っている。これについてガイドさんは、維新の後、武家が窮乏していたことから、明治9年に小幡高政によって夏ミカンの木の苗が1万本も配られて、家計の足しにするよう工夫がされたとのこと。高値で取引されたことから、昭和40年代半ば頃まで萩の経済を支え、一方で萩の景観も形作ってきたとされる。ちなみにこの人は、第百十国立銀行の創立に加わって2代目頭取となっている。明治39年に享年90歳で没したという。
 



(2008年9月11日記)
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