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広島と平和
広島の原爆ドーム


広島平和記念資料館の写真は、こちら


 ツアーの最初の日、呉で大和ミュージアムを見学した後、バスで広島に向かった。市内に着き、元安川の橋を渡る前後に、原爆ドームを見た。ああ、これだった・・・。40年前と少しも変わらない姿だ。既に世界文化遺産の登録されているそうだ。そして、広島平和記念資料館で降りて、まず入口で平和の鐘を見たあと、広島への最初の原爆投下の日と最後の核実験の日から、それぞれ何日が経っているかを数えている平和監視時計を見る。これで、最後の核実験の日から、わずか2年なのかと知る。北朝鮮かパキスタンなのだろうか。

 広島平和記念資料館に入る。かつて私は、高校の修学旅行でここに来ていて、原爆による熱光線で焼き付いた人影の石や、折り鶴を作りはじめた佐々木禎子(さだこ) さんの話を知って、たいへん衝撃を受けたことがある。今回もやはり、同じ展示があって、そのときに受けた悄然とした思いが心に蘇った次第である。

 近年、その青春を太平洋戦争期に過ごした年代の方が次第にお年を召されてきた。かつて、こういう人たちにかかると、軍事的なるものには、何でもすべて徹底的に反対ということだった。国を運営する上では、これはこれで少し困ったものである。しかし最近のように、戦争を経験していない世代が増えてきて、国論の中心を担うようになってくると、風は全くの逆向きに吹いてくるようになった。つまり、政界のみならず言論界でも、軍事面で「勇ましい意見」が強まるようになってきたと思う。

 私などは、戦後生まれの世代に属しているが、それでも小さいながら、空襲で廃墟となった大都市の姿をまだ覚えているし、戦争未亡人だった貧しい家庭も知っている。繁華街に行けば、白衣を着た本物の傷痍軍人さんたちをよく見かけたものである(先般、おばあちゃんの原宿、つまり巣鴨の商店街で、このスタイルをした傷痍軍人もどきの物乞いの人がいて、心底びっくりした)。それにこの、広島長崎の原爆の話も学校で繰り返し教わり、「原爆を許すまじ」の歌も、小中学校で歌わされた記憶がある。そういうわけだから、最近のそういう「勇ましい意見」の人たちは、その結果どうなるのか、本当にわかっているのかと思ったりする。

 もっとも、外交や軍事は、国と国とのやりとりなので、いろいろな手練手管をすべて繰り出すには、多少は勇ましくても、それは許容される範囲であろう。しかし、その先まで深く考えないままに、単に勇ましいだけなのではないかと、一抹の疑念がある。それでは済まないのではないかと思う。ただし、現に、どうにも困った隣人がいたりすると、きれい事ばかり言っておれないのも事実である。苦しくともそれを力に頼らないで、外交で解決するというのが理想であるし、それが戦後日本の目指してきたところではないだろうか。そうこう考えているうち、私自身も、そのうちリタイヤの時期を迎えそうだが、国を運営する上での最重要課題として、次世代の人々には、よくよく心に留めておいてほしいものである


平和公園内にある原爆慰霊碑


 資料館を出て、平和公園内にある原爆慰霊碑に歩いて行った。ここには、被爆者の過去帳を納めてあり、古代の埴輪の馬の鞍をモデルにしている。ほんの数日前、アメリカのペロシ下院議長(民主党・女性)がやって来られて、ユリなどの花束を捧げてくれたようで、それが残っていた。お参りをしてふと左の方を見ると、青空にへんぽんとはためく美しい日章旗が、目にとまった。空の青さと日章旗の白と赤の色が、どことなく空虚になっていた私の心に沁みた。

平和公園内で、青空にへんぽんとはためく日章旗。美しい。


 帰りのバスで、ガイドさんが偶然にも、「原爆を許すまじ」を歌ってくれた。今ではこの歌は、公式の場ではあまり歌われなくなって、専ら三代目の歌が有名らしいが、私たちの世代には、この歌の方がなじみ深いし、世代を超えて語り継いでいってもらいたいものである。




 「原爆を許すまじ」(浅田石二作詞・木下航二作曲)

  ふるさとの街やかれ
  身よりの骨うめし焼土(やけつち)に
  今は白い花咲く
  ああ許すまじ原爆を
  三度(みたび)許すまじ原爆を
  われらの街(まち)に
           (二番以下 略)


(2008年9月14日記)
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