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新司法試験合格者の話
 今年、新司法試験に合格した皆さんから、話を聞く機会があった。皆さんが一様に指摘していたのは、「法科大学院に在籍していても、『書く』機会が非常に少ないので、もっと増やしてほしい」ということである。『書く』とは、もちろん答案のことで、期末試験程度しか機会がないという。考えてみれば全くその通りである。司法試験という関門は択一と論文のふたつの試験から成るが、択一は答が比較的はっきりしているから自分で勉強できるけれども、論文は内容をわかっている専門家に見てもらわないと、自分が書いたものが果たしてそれでよいのか、あるいは間違っているのか、よくわからないはずである。

 法科大学院の授業は、もちろん在来の法学部の教員が主体であることから、基本的には昔ながらの一方通行の講義が中心となるし、学生さんもそれに慣れっこである。アメリカのロースクールでは、ソクラテス・メソッドがよく見受けられることから、日本でもなるべくこうした手法を取り入れるように言われているので、これを上手にやれる先生はよいが、全員が全員とも、そうではない。まあそれでも、今やかなり普及しているといえる。かつて学生さんに聞くと、これは実際の試験でも非常に役立ったと語っていたが、最近ではそれは既に織り込み済みで、学生さんたちの関心は、新たに『書く』練習へと移ってきたようだ。

 しかし、何十人もの受講者がいるような授業をいくつも持っていると、試験以外に、いや試験ですら、学生の書いたものをいちいち見てコメントすることは、大変な労力を要する。こんなことをしていては、研究に差し支えるし、ほかに仕事もあるということで、御免こうむるという先生が多い。これも確かにそのとおりで、学生の要望は応じられないということになる。

  ところで、私は未だもって「在来の司法試験の受験勉強と、法科大学院での授業とは違うのだ」という主張というか、今や金科玉条のようになっている考え方について、その意味するところがよくわからないのである。しかし、たぶん、こういうことを言っているのではないかと思う。それは、在来の旧司法試験は、予備校でのワンパターンの論理と論証を記憶したところを書くだけの試験にとどまっていたが、法科大学院の授業と新司法試験は、もっと多様な観点から幅広く課題の解決に役立つ能力をもった法曹を育てるのだというものである。・・・しからば、予備校でのワンパターンの論理と論証は、新司法試験には役立たないはずだと思うのだが、新司法試験とて、日数が限られた中での試験なのだから、そのうち予備校の受験指導技術が追い付いて、元の黙阿弥になってしまうのではないかと危惧するところである。まあ、それは余談だが・・・

 いずれにせよ問題は、上記の金科玉条の考え方が効き過ぎていて、学生の書いたものを批評することすら差し控えるような雰囲気が、なきにしもあらずという点である。しかし、もともと法科大学院は専門職を育てるところなのだから、ちゃんとした法的文章が書けなければ、たとえ司法試験が受かっても、何の役にも立たない法曹を生み出すことになりかねない。

 したがって、私の授業では、(まだ文句をいわれたことはないが)誰が何と言おうと・・・それに、標榜する科目の性質もあって・・・、毎回、A4で2枚程度の分量で法律の論文を書く課題を出してきた。その意味では、『書く』を先取りしてきたことになる。というのは、口でへらへら言うことは、誰でもできることなのだけれど、いざそれをペーパーに書くとなると、内容がわかっていないと、なかなか書けないからである。実務には『書く』ことが一番なのである。そうすると、ホントにいろいろなことを経験した。中にはインターネット上の論文の丸写しというものもあったし、箇条書きの社内の企画書風のものもあった。あるいは、14ページ書くのに丸3日かかったという大論文もあった。このうち、他人の論文の丸写しなどは論外だが、時間がかかっても自分で書いたものには、それなりの思考が込められている。授業ではそれを、法的発想のレベルに引き上げ、それから論理構成を作り、最後に論証というのは、こういう風に書くと説明をした。

 そうすると、14回の授業が終わる頃には、かなりの学生が、まあまあのレベルに達してきた(と思っていた)。期末試験では、学生さんたちがどういう答案を書いてくるのか待ち構えた。試験直後、模範解答案と採点基準とをネットに掲載した。いざ答案が手元に来て、それを採点していくと、その評価は、受験者数の10%のA+と、30%のがまあまあの水準で、合わせて全体の4割だった。少ないかもしれないが、元々は未修者であるし、最初の時点と比較すれば、はるかに良くなったというのが実感である。ちなみに、今年の司法試験の合格率は33%だから、そんなものかもしれない。

 私の試験を受けた人のすべてにコメントを書いて差し上げたのだが、以上の人は良いとして、困ったのが、の人である。このうち、の人は、書き方はそれほど悪くないのだけれども、論証の進め方が間違っていたり、あらぬ方に飛んでいたり、少しも説得的でなかったり、大事な論点が抜けていたりする。だから、そういう点をいちいち挙げ、指摘して差し上げた。これを直すのはそう簡単ではないが、よく専門書を読み込めば、直せないわけでもない。

 それは良いとして、の人の書いたものは、単なる感想文のレベルにとどまっていたり、または知識や論理が出鱈目だったりするから、これを実務や試験に受かるレベルに持っていくのは、はっきり言ってラクダを針の穴に通すようなものだ・・・。それでも、コメントには、専門書をもう一度、最初からよく読み返しなさいよと書いて差し上げたものの、勉強態度そのものから変えないと、なんともならないのではないかと思う。

 それとも、そもそも向き・不向きの問題かもしれない。どういうことかというと、法律の勉強には、人の思考を鋳型にはめるような嫌味なところがあるから、たぶん、そんなことはご免こうむって、自由人でいたいというタイプなのだろう。こういう方は、この分野には向いていないということで、さっさと進路を別方面に転換した方が本人のためだと考える。もっとも、今の法科大学院は早めに引導を渡すようなシステムにはなっていないし、今の日本で仮にこれをやったりすると、本人が受けるショックをどう緩和するかという問題はさておき、学園をゆるがす大問題になるかもしれない。これというのも、平均の合格率が33%(2008年)という数字がもたらす冷徹な現実のひとつであろう。

 そのほか、新司法試験合格者がしていた話として、「隠れ未修者」というものがある。これは、実は法学部出身で法律の勉強をしていたのだけれども、いざ法科大学院に入学する段になってどうも自信がないので、未修者となることを選択した人たちのことを指すらしい。しかし、それも良し悪しで、1年生のときは学部時代の蓄積があるから純粋な未修者よりは知識があるので、さほど勉強しなくとも授業に付いていける。ところが、そういう調子でのんべんだらりと勉強をする「怠け癖」がついてしまうと、2年・3年となって授業内容が次第に難しくなると、たちまち落伍してしまうことになるという。なるほど、そういうことがあるだろうなと思う。

 また、「未修外し」というのがあると聞いて、そんなことが現にあるのかと驚いた。純粋な未修者には、周囲がわざと、勉強をさせないように持って行っているというのである。具体的には、あまりに素人っぽい質問には、わかっていてもわざと答えない。授業で、次回はこういう課題について書いて来るようにと先生から説明があったのに、その日たまたま休んだ数人の学生のうち、どういうわけかそういう人だけには連絡が行ってなかったとか、まあそういう話である。確かに同じ試験を受けるというのはライバル関係に立つわけではあるが、こういう話が本当だとすると、まことに寒々しい話ではないか。これというのも、単に最近の学生の心の貧しさのせいだけでなく、合格率が33%という低さのせいでもあると思うが、いかがであろうか。これが、当初のもくろみ通り、合格率7〜8割であれば、もっと豊かな学生生活が送れるはずである。もっともその場合は、そもそも法科大学院への入学段階で、同じことが起こるのかもしれない。



(2008年9月26日記)
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