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徒然104.日本人4人がノーベル賞受賞
 2008年10月8日と9日の二日続けて、合計4人の日本人がノーベル賞を受賞した。これで、日本人の受賞者は、12人から一気に16人となった。本当にうれしいニュースである。しかも、うち3人は物理学賞で、宇宙の根本を解き明かそうとする素粒子論である。

 そのおひとりの南部陽一郎博士はシカゴ大学で、かねてから何でも数年前に最新のテーマに取り組み、大きな研究成果を上げられることで有名である。その発表時にはあまり注目されないが、やがてその真価が認められて、その方向で一気に研究が進められるということが多かったらしい。洗礼者ヨハネといわれたり、大御所のビョルケンから「万人に先んじて荒野に立つ」と評された。

 たとえば、私が関心を抱いている超ひも理論でも、「その正体はひものようなもの」と最初に言い出されたし、これで強い力を現す公式を説明されようとしたが、それ自体は誤りであったものの、実はそれはもっとむずかしいと思われていた重力を現す説明であり、それが超ひも理論の基礎を形作ったという経緯がある。今回の受賞理由はこれとは違って、1961年に、対称性の自発的破れの概念を最初に提唱し、これがウィークボソンに質量があることを説明した。これは、ゲージ理論に応用されて、ヒッグズ粒子という新しい素粒子の存在が予測され、これは今年の9月から稼働中のスイスのセルンにある超大型加速器LHCで見つかるのも時間の問題といわれている。

 また、小林・益川理論で知られる小林誠博士(高エネルギー加速器研究機構名誉教授)と益川俊英博士(京都産業大理学部)は、1973年に、標準理論の柱となったCP対称性の破れを理論的に説明したものである。その当時見つかっていた3つの素粒子が、6つ以上であると予言し、現に2002年から3年にかけて、これらの素粒子が見つかった。

 他方、10月9日の下村脩博士は、ウッズホール海洋生物学研究所上席研究員で、1970年代に、オワンクラゲの発光する仕組みを解明した。それは、イクオリンというタンパク質がカルシウムと結合することで青く光り、そのエネルギーを使ってGFPというタンパク質がが緑に光って見えるというものである。ご本人は、「抽出のときは、どうやってやるか、朝昼晩と考えた。あるとき、酸性にすればとひらめいて、試すとうまくいった。天の助けだ」、「発見のころは美しいからどうしてこんな色が出るのだろうと疑問に思って、応用なんて考えなかった。」とおっしゃっている。

 ところがそうやって抽出された物質、特にGFPは、後に生きているタンパク質の動きを解明する重要なものとなる。90年代にGFPを作る遺伝子がわかり、遺伝子組換え技術を使って他のタンパク質に入れ込む形で細胞中に組み込まれるようになった。それをガン細胞に対して行えばガンの転移先で光り、アルツハイマー病の神経細胞やすい臓でインスリンを分泌される細胞の動きの解明などにも応用されるということである。

 これで、ノーベル物理学は、1949年に湯川秀樹博士、65年に朝永振一郎博士、73年に江崎玲於奈博士、2002年に小柴昌俊博士と続き、今回と合わせれば受賞者は一挙に7人となった。また、ノーベル化学賞は、1981年の福井謙一博士、2000年の白川英樹博士、01年の野依良治博士、02年の田中耕一さんに続いて、下村脩博士が5人目である。このほか、科学分野では、1987年に利根川進博士が医学生理学賞を受賞している(残る受賞者は、1968年に川端康成氏、94年に大江健三郎氏がノーベル文学賞、1974年に佐藤栄作元首相がノーベル平和賞)。

 いずれにせよ、日本がいわゆる「ソフト・パワー」でもって、世界の進歩に大きく貢献していることが証明されたことになり、まことに喜ばしい限りである。




 ところで、下村脩博士の弁ということで、「ノーベル賞の受賞は東大や京大卒の人が多いが、(長崎医科大学付属薬学専門部から苦学した私のように)地方の大学の人にとっては励みになるのかな」と目を潤ませたという(10月9日付け読売新聞)ことが伝えられた。事実、下村博士は、10数年かけてクラゲを85万匹も採取し、、それは重さにして100トンを超した由。これには、二人の子供を含めて家族全員も手伝ってくれたとのこと。桟橋に30個のバケツを5メートルほどの間隔で並べ、流れてくるクラゲをネットで掬ってバケツに入れたという。ちなみに、研究費の潤沢な教授の場合は、何十人という人を雇って大々的な研究ができたが、下村博士の場合は、クラゲの採取を行ってくれたのは、家族の他は、ほんのわずかの数の助手だったというのである。

 私は、これを聞いて、思わず、白川 静博士(1910年4月9日〜2006年10月30日)のことを思い出した。京都在住の白川博士は、立命館大学専門部の夜間を卒業し、中学校教諭を経てご苦労の末、相当のお歳で同大学の教授となった漢文学者である。この方は、漢字の起源について、従来の通説に挑み、その実証のために膨大な数の甲骨文字を、ひとつひとつ、紙になぞって書いていったという。そして、京都大学の伝統的ないわば「インテリ」学派ではとうてい成し得なかった漢字の起源を解き明かし、それを『字統』(1984年)、『字訓』(1987年)及び「字通」(1996年)の漢字学三部作として、まとめ上げた。

 下村博士が、85万匹ものクラゲをくる日もくる日も採取するような、いわば泥臭い体を張って行った作業の末に、ノーベル賞級の成果を上げたのであるが、この白川博士も、膨大な数の甲骨文字を自らの手に覚えさせて偉大な学術的成果を上げた。いずれも、青白いインテリの理論派にはできなかったことなのである。


(2008年10月9日記、10日追加)




【後日談】

 会ってしまった。会ってしまった。いや本当に。誰かというと、小林誠博士と益川俊英博士である。きょうの午後7時前のこと、たまたま霞が関のとあるビルで、エレベーターに乗って下っていた。そこに、両博士が3人のお伴をともなって、乗ってきたのである。私のすぐ右側にはおでこの広い小林誠博士、その前で私の右前方にはお茶目な白髪の益川俊英博士がおられた。私は、お二人にちょっと目礼して、それに応じていただいた。

 ただそれだけであるが、私はかつて、アメリカのポーケプシーのIBMに行ったときに、江崎玲於奈博士と(こちらとは本当に、しばしの間)お話をさせていただいたので、これで3人のノーベル賞受賞者と、「お近づきになった」というわけである。


(参 考)ネットのニュースによれば、この日、お二人は、首相官邸に麻生太郎首相を表敬したとのことで、首相は「とても誇らしかった。国民からみればヤッターちゅう感じ」と祝意を伝えた由。いささか、劇画的な表現である・・・。


(2008年10月31日記)
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