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徒然108.テンセルのスーツ
 そろそろ本格的な冬が来るので、秋物から冬物に切り替えようと、洋服ダンスを整理していた。そして、一着のスーツに気がついた。色は薄い紺色だが、それほど濃いものではなく、手触りは柔らかい。ああ、この生地は「テンセル」だったと思い出した。長らく着ないで、そのままにしてあったものだ。しかし、今風の目からすると、ちょっと洒落ているという印象を与えるかもしれないとの直感が働いた。

 このテンセルのスーツは、今から十数年前に、ある業界の会合で大森企画の大森さんという人に出会ったことが始まりである。その大森さんによると、テンセルは、イギリスのコートルズ社というメーカーが開発した人工繊維で、木材パルプから出来ているというのである。一瞬、聞き違いかと思って、「ええっ、それじゃあ、紙と同じですか」と聞くと、その通りだという。化学繊維の場合、たとえばナイロンだとカプロラクタムという合成高分子を材料に紡糸して作るが、テンセルは木材パルプを溶剤で溶いてろ過した後、不純物を取り除き、それを細かい孔から押し出して紡糸して作る。つまり、正真正銘の天然性分子ができているとのこと。だから、たとえばそのまま捨てると、微生物に分解されて再び土に還るらしい。

 それでは、同様にパルプなどセルロースから作るレーヨンとどこが違うのかと聞くと、レーヨンは、セルロースを水酸化ナトリウム等のアルカリと二硫化炭素に溶かすという化学処理を行ってビスコースにし、これを酸の中で紡糸して作る。しかし、その過程で分子量の低下を招き、強度が低下するという。テンセルの場合は、そのような化学処理はほとんどしていないし、溶剤に溶解したままで紡糸するので、分子量は低下しない。だから、とても強いという。それに、縮みにくいから、寸法安定性が高い。水を吸収しやすい反面、そうやって吸収した水がすばやく乾くので、洗濯に適している。外見は、ソフトな風合いがあるとのこと。

 私も、新しい物(たまに珍奇な物も交じるが、それもご愛敬・・・)が好きなので、それでは自分で試してみようと、その大森企画にスーツを注文した。いざ、注文の品が届いてみると、紺の色は、その頃の流行とは違って、ちょっとぼけた色でどうかなぁと思う感じであった。これには、いささか落胆した。他方、もともと木材だから、ゴワゴワではないかと心配したが、実際にはその逆で、手触りはとてもスムーズだった。これはよかった点である。しかし、全体の印象としては、ジーンズの生地をちょっとやわらかくして、仕立てたという感じをぬぐえない。「確かに、カジュアルでは面白いものの、仕事のスーツにしては、あまりピシッとしないなぁ」ということで、引出しの奥に仕舞い込み、そのままタンスの肥しになっていたのである。

 その後、タンスを整理するたびに、このテンセルの服が目に入ったが、いずれの時代の雰囲気にも遠かった。たとえば、仕舞い込んで数年後には、もう早や、その頃のスーツの流行の型が違ってきていた。その頃にとりわけ人気があったのはダブルの服だったのに、このテンセルの服の型はシングルで、たちまち全くの時代遅れの長物となった。さらに数年後、ようやくダブル全盛の時期が終わったと思ったら、今度は襟の太さが細くなり、これまたテンセルの服はいかにも流行遅れとなっていた。それから再び数年の時が過ぎたが、その頃には、三つボタンと短い襟の時代となっていた。もちろん、このテンセルの服の出番は全くなかった。

 さてそれで、今日という日を迎えたのである。気がついてみたら、スーツについての今の流行は、何とまあ十数年前と同じ、いや十数年前に戻っているではないか・・・。二つボタンと普通の太さの襟、それにちょっと、ダホダホのズボン・・・もちろん、裾はシングルで構わない・・・。おお、これはうれしいと思って、試しにそれを着てみた。十数年前には十分に余裕のあった腹回りがちょっとだけ(?)苦しくなったという変化はあったものの、着られないということはない。それどころか、何というか・・・その、我ながら似合っている気がしたのである。気に入ってしまった。

 翌朝、そのスタイルで、オフィスに出たのは、いうまでもない。秘書の女の子が、私のテンセルの服を目ざとく見つけて、何か言いそうになっていたが、私は立ち止まらず、そのまま一目散に、自分の部屋に入って行ったのである。

 こんなことがあったものだから、その大森さんはどうしていらっしゃるかと思い、インターネットで「大森企画」を検索してみた。すると、確かに大森企画という会社が存在し、イギリスのコートルズ社からテンセルの原綿を直輸入するオペレーションを一手に引き受けていたが、残念なことに、既に経営破たんしたということだった。その間、このテンセルの服は、生みの親の破たんも、時代の流行も知らずに、私の家の洋服ダンスの中で、眠り続けていたというわけだ。

 そんな話を家内にしたら、「古い物を大切にする人ねぇ」と感心するやら、呆れるやら・・・。そこで私が言った。「そうだよ、我が家で一番古いのは、君なんだから・・・。」



(2008年11月18日記)
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