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徒然112.文科系・理科系
 世に、文科系、理科系という区別がある。どうやら、明治期に西洋の学問を導入するときに付けた名称らしい。しかし問題は、こんな昔ながらの古臭いレッテルがいまだに世にはびこっていて、あたかも血液型による性格診断のように使われているから困る。私の家では、職業などでいえば、私と息子が法律をやっているので文科系、家内と娘が理科系ということになる。一般には、文科系イコール数学ができない人、でも口がうまくて人の考えていることがわかる連中。これに対して理科系は、数学はできるが、口べたな人が多く、他人の考えていることには無頓着な連中などといわれる。だから企業では、文科系は営業職など事務系に、理科系は技術研究所の研究職にでも行ってもらえ、ということになる。

 しかし、我が家では、この公式は当てはまらない。私と娘は数学が大の苦手、家内と息子は数学が大得意だからである。幸いにして子どもたちは、人当たりもいいし、口べたでもない。だから、それぞれ、医師、弁護士として、患者や顧客にもちゃんと対応しているようだ。たとえば、娘からは、こんなことを聞いた。まだ医師2年目のことである。「私は、診察しているときは、絶対にパソコンは見ないで、常に患者さんの顔と目を見ることにしているの。普通、お医者さんって、パソコンばかり見ていて、患者の顔をロクに見ない人が多いじゃない。どうかすると、患者さんの顔を一回も見ないで診察が終わってしまうこともあるわ。あれじゃ、診断を誤るわよね。」私はこれを耳にしたとき、思わず「ははあ、それは良いことだね」と言った。そして内心、これでこの子は、一生この職業でやっていけるなと思ったものである。

 これは、理科系でも、人づきあいというか、人あしらいというか、そんなセンスが必要なことを示している。だから、冒頭で述べた文科系と理科系についてのワンパターンの区別は、考えてみれば、偏見に満ち満ちているものではないか。実は人生には、そのいずれのセンスも必要なのである。たとえば、弁理士という職業がある。特許や商標を出願する際の代理人を務める専門家である。私の付き合っている中では、こういう暗黙の分類に分かれる。「ああ、あの先生は、機械? 化学(ばけがく)? それとも電気?」 「いやいや、商標なんだよ」 「あ、そうか」

 これについては、若干説明が必要となる。もともと専門家としての弁理士に期待されるのは、特許の出願、特に権利請求の範囲(クレーム)の書き方が主である。これの巧拙で、もらうべきはずの特許料が場合によっては何百億円も宙に飛んだりするから、みな真剣にならざるを得ない。そして、その分野は、おおむね物理と化学と電気の三つの専門に分かれている。だから、この先生の専門分野は、そのうちどれなのかが決定的に重要なのである。これに対して、最後の「商標」というのは、正直いって少し侮蔑の意味がないわけではない。というのは、弁理士試験では、特に理科系の科目を受験しなくとも、特許法や商標法のほか民法などの法律科目だけで弁理士資格をとることができるからである。だから、依頼人としては、そういう法律の素養はあっても技術を知らない先生に、理科的知識がてんこ盛りの特許出願を頼むのは、いささか勇気がいることだったからである。

 私も、ある人についてのその大学時代における文科系と理科系の区別というのは、その人の将来にわたって、それこそ一生のあいだ付きまとうレッテルのようなものだと思っていた。しかし、ほどなくアメリカの弁理士たちと付き合うようになると、そうした常識がひっくり返った。日本の場合は、弁護士と弁理士とは明確に区別されていて、前者は法律の、後者は技術の専門家(で、それ以外はできない人たち)と認識されている。ところがアメリカでは、彼らの資格はもともと弁護士で、そういう弁護士有資格者が、そんじょそこらの並みの弁護士たちと少しでも差をつけようとして、大学で理科系科目を修めた人が、技術もわかる弁護士(Patent Attorney)となる。つまりこちらの方が、両刀使いだから格上とみなされるのである。

 一般にアメリカでは日本の大学のような「法学部」はなく、どの学問分野の学士になっても、ロースクールさえ出て、そして受験者の7〜8割は合格する司法試験に通れば、弁護士になれるという制度である。だから、日本のように法律しか知らない、いわば法律専門バカのような弁護士は、そもそも存在しないということになる。それだからこそ、先般の司法制度改革で作られた
日本版法科大学院において、法学部以外の分野の学生を入れようとした。さもないと、ますます専門化する特許訴訟や医療過誤訴訟などは、その分野の専門知識や最先端技術を知らなければ、適切に処理できないからである。ところが、法科大学院が乱立したこともあって、その人たちの合格率はわずか3割という、情けないほど低い水準にとどまってしまった。要するに、文科系と理科系の両刀使いの弁護士は、日本ではやっぱり、さほど増えない見込みなのである。

 話は戻るが、私は高校のころ、大学受験に向けて勉強していたとき、その勉強時間の6割近くを数学にあてていた。好きな科目だったからではない。その逆で、どうにも不得意な科目だったからである。法学部を受ける身としては、もちろん国語、英語、世界史、日本史などが合格の鍵を握るが、私の場合はこれらの科目の内容が不思議と自分の思考方法と合致していて、読んだら容易に理解でき、幸いにもその記憶が頭からあまり出ていかないという特技があった。ところが、数学の場合は、いちいちその内容が引っかかってなかなか理解ができないのである。

 たとえば、複素数なるものがある。例の、「i」二乗イコールマイナス1、という場合の「i」であるが、なぜわざわざその二乗がマイナス1となるものを考えなくてはならないのか、その理由がさっぱりわからない。それをしつこく先生に問いただしても、「そういうものだ」という答えしか返って来ない。また、物理では、ニュートンの万有引力の法則は、F=G×M,m/r2 (F:万有引力、G:万有引力定数、M,m:物体の質量、r:物体間の距離)として表され、これはりんごの落下でも太陽と地球の間でも、二つの物体間ではすべて同じだと習った。しかし、たとえば銀河と銀河などでも同じなのかと聞くと、「それはアインシュタインの相対性原理というのが扱っているけれど、それを理解できている学者は世界に数えるほどしかいない」などと、わけのわからない答えがされる。もう半世紀近くも前のことだから、知識がないので仕方がないといえばそれまでなのであるが、私は理解できないことをそのままにしておきたくなかった。たとえば、世の中の人は、数学や物理こそ、ひとつの公式や理論で、すべての事象を現すことができる学問だと言っている。しかし私には、それがどうにも納得できず、公式や理論といっても、物事はそんな単純なものではなくて、前提やら場合分けが必要なのではないかと、思っていたというわけである。

 その点、大学で数学を専攻した家内を見ていると、どうも理科系の人というのは、数字や公式でもって物事を単純化したり、そうした結果をあるがままに素直に受け取ったりするのではないかと思えてきた。二人が知り合った頃のデートのときから、たとえば螺旋階段を下っているときに、「この階段の曲率は・・・」などと言っていた。どうやら、「この曲がり方は、あまりにも急ね」とでもいえば済むところを、正確に言いたかったのかどうかはわからないが、ついつい、そういう数値的表現が出てしまうらしい。また家内は、ごく最近まで「数独」に凝っていて、中級はもちろん上級のそのまた上の級まで、すべて征服してしまったようだ。私などは、「あんな数字の羅列、どこが面白いのか。お金をくれると言われても、絶対にやりたくない」と思うのだが、ご本人は、難しい問題を手早く解けたといっては、いたくご満悦の様子である。

 どうやら、このように素直になりきらないと、数学や物理を扱えないことが、よくわかった。その点、私の場合は、公式や概念がなぜそうなるのか、その背景や前提は何か、どういう場合や要件が考えられるのかなどと、詰めて考える癖があるので、素直に前提を信じるという数学の達人の域には、いつまで経ってもとうてい及ばないようなのである。これが、数学や物理に向いていないと自覚する根源なのかもしれない。最近、そういう私に、ついに長年の疑問が氷解しかけて大いに溜飲を下げる思いがする出来事があった。ひとつは、さきほどの事例のうちの前者、複素数についてである。


 私が日頃、愛読している「科学雑誌ニュートン」の2008年12月号は、虚数、つまりその複素数を特集していた。これを読んでいると、私が中学で習った当時、これが何を意味しているのか、まったくわかっていなかった。その事情は今も同じようなものだが、たったひとつ、虚数は量子力学に不可欠な概念であることがわかったという。つまり、私が習った中高校の先生も、その本質がいったい何であるかわからないままに、教えていたというわけだ。そして後者の万有引力の法則も、それが今では時空連続体の存在を前提とするアインシュタインの一般相対性理論に、特異な前提を置いた場合に限って成り立つ法則であることがわかっている。やはり、世の中、そんな単純な理論や公式通りではなかったではないか。

 つまり、私が中高校時代に「こういうのは怪しいなぁ、場合分けや前提が足りないのではないか」と直観的に思ったことが、ホントだったというわけだ。それはそうとして、こういう法学的思考方法が知らず知らずに身についてしまっていたので、先ほども申し上げたように、数学は大の苦手科目だった。このままでは目指す大学は受からない。それでどうしたかといえば、自分の最も得意とする手法でいくこととした。それは、良問とその解答を丸暗記するのである。たとえば、図形の軌跡の問題が出てきたらこういう風に解くなどというように、過去の問題を徹底的にすべて暗記した。すると、本番では必ずそのどれかのパターンに類似した問題が出るので、なんとか対応できるというわけである。それゆえ、非常に時間を要し、これがこの勉強方法の、唯一かつ最大の欠点だった
(ついでにいうと、私の娘は、私とは全く違う、あっと驚く方法で数学を克服し、国立大の医学部へ難なく入った。ちなみにこれは、企業秘密ということらしい)。

 ところが、息子が中高校時代にその勉強の様子を見ていると、私とはまったく違っていた。私の場合は、記憶のために、わら半紙に何でもかんでも書き散らす癖があって、勉強のあとには膨大な紙くずが発生していた。しかし、息子の場合は、数学を勉強していても、ほとんど何も書かない。小さなスペースに、何行かの式をちょいちょいと書きこんで、それで解答は終わり。それでいて、模擬試験に行くと、全国レベルで文字通りトップクラスとなっている。私とは、まるで月とスッポン 〜 この表現が古いなら 〜 LED照明と白熱電球くらいの差がある。親子2代で、よくもまあこれほど進歩してくれたものだと感心した。自分の息子という点を割り引いても、かつての数学劣等生としては、どうしてこんなことが出来るのだろうかと、ほとほと羨ましく感じたのである。

 ところがこういうタイプは、得てして、国語が課題となる。国語の場合は、素直にパッと解くというより、「ああでもない、こうでもない、どういう場合ならそうなるのか」などとさんざん、思考の試行錯誤を繰り返す必要があるからである。それに、いろいろな文章を読み慣れていないと、意味をなかなか追い切れない。そういうアドバイスをしたからか、それとも数学満点の実力のせいか、たぶん後者だろうが、いずれにせよめでたく法学部に入れたというわけである。息子にはこれから、むしろ理科系の素養のある人が文科系に行ったという感じで、活躍してくれればと願っている。いずれにせよ、これでようやく私も、親子2代かかって、中学以来の数学への劣等感と、明治以来の文科系・理科系の呪縛から、逃れられることができたのではないかと、ひそかに思っている。




 (2008年12月15日記)
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