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徒然122.ウォーリー
 今月の初め、つまりお正月のうちに、日比谷のスカラ座で、映画「ウォーリー(Wall・E)」を見てきた。確か、昨年秋の封切り時(2008.12.5)には、大々的な宣伝をやっていたものだが、もうその頃には、映画館の650席のうち、わずか50席くらいしか埋まっていなくて、それは寂しいものだった。しかし、その分、真ん中の席でゆったりと・・・といいたいところであるが、親子連れがポリポリとポップコーンかじり、ズズーッとすするコーラの音などに囲まれながらの鑑賞となった。

 もう映画館での上映は終わっているので、あらすじをしゃべっても許されると思うが、ディズニーの映画だけあって、まあ単純至極なストーリーである。ゴミに囲まれて生存できなくなった地球から、人類が宇宙へと飛び出して、はや700年の歳月が流れた。その間、地球の生命は、ゴキブリの類は別としてすべて死に絶え、動くものといえば、ゴミ処理ロボットのウォーリーだけとなった。太陽電池をエネルギー源としており、双眼鏡のような二つの眼(ただし、左右は独立している)、錆びてぼろぼろの四角い箱の体、両足の代わりに三角形のキャタピラを左右につけて、結構速く移動することができる。

 ウォーリーは、缶やら屑などのゴミをその体に取り入れ、それを箱型に圧縮してから積み上げるという作業をしている。それを倦むことなく、来る日も来る日も、ひたすら繰り返している。しかし、ただの機械的なロボットというよりは、今では感傷や感動、憧れや恋愛といった感情が芽生えるようになった。たとえば、その生活しているボロ家には、記念の品や珍しい物を保存しているが、なかでもお気に入りは、人間の男女を描いたビデオである。そこで二人の男女が手をつなぐシーンでは、思わず自分の両手をつないだりして、それはそれは、機械というよりは誠に人間らしくなったロボットなのである。

 そんな変哲のない一日を繰り返していたある日、突然、空から宇宙船が下りてきた。驚いてウォーリーが見ていると、なにやら白く光り輝く物体を降ろして再び飛び去っていった。その物体は、美しいロボットで、空を自由自在に飛び回り、青いセンサーで何かを探している。ウォーリーは思わず近づこうとしたが、そのロボットは、物音を聞いただけで強力な光線を発射して、ウォーリーの隠れているゴミの山を一瞬で破壊するほど、パワーがあった。しかし、やがてウォーリーは、そのロボットに近づくチャンスを得た。そして、名前を聞くと「イーブ」と名乗る。

 700年も待ってようやく仲間、それもとびきり美しいイブを得たウォーリーは、天にも昇る心地となった。そして、イブを自分のボロ家に招く。ひとしきり、大事なお宝のビデオなどを見せた後、つい最近集めた、小さな植物をイブの前に差し出した。そうしたところ、イブに大きな変化が生じた。青い目を丸くしただけでなく、それを体の中にしまい込み、お腹に植物のマークを光らせたまま、硬直してしまったのである。

 ウォーリーは、訳がわからず大混乱となり、あらゆる手を尽くして、イブを覚醒させようとする。しかし、どうにも出来ないでいるうちに、再び轟音とともに空から宇宙船が下りてきて、硬直しているイブを回収してしまう。ウォーリーは、イブをとられまいとして、必死に宇宙船にしがみついた。すると、そのまま宇宙へと連れて行かれてしまった。星雲や銀河の横を抜けてひたすら飛んでいき、やがて宇宙船の母船に到着したのである。

 その宇宙船内に運び込まれたイブを追って侵入する形となったウォーリーは、びっくりした。この宇宙船には、700年前に地球を去った人類の子孫が大勢、乗っていたからである。ところが、すべてがロボットで動かされているこの宇宙船内の様子が、どこかおかしい。船内の人類は、移動するにも乗り物、何か食べるのもロボットからもらう。まるで赤ん坊のようなごとくで、体つきも丸々と太って、幼児を大きくしたようである。その極めつけは船長で、操舵輪のようなロボットのいいなりとなっているし、船内に飾られている歴代船長の顔写真を見れば、年代を経るごとに明らかに船長としての資質が劣化してきている。現在の船長は、起きるのも、顔を洗うのも、何から何まで、ロボット任せで、要は操舵輪型ロボットが、事実上の船長になってしまっている。船長がそんな体たらくであるから、もちろん一般の乗客もまた、すべてロボット任せの体質と体型になっていて、自分の目で見て判断するどころか、体を動かすこと自体も、ロボットなしではおぼつかない有り様である。

 そうした中で、地球を探索したイブが「植物」を見つけたという報告が上がってきて、船長はびっくりした。というのは、地球に植物が再び生えるようになった時に、この宇宙船は再び地球に戻ることになるという言い伝えがあったからである。どうしようかとあわてているうちに、マニュアルなるものが見つかった。それを開くと、植物が地球に見つかれば、そのときこそが地球に戻る時だといい、それにはマニュアルどおりにすればよくて、簡単だというのである。

 それで、イブを調べてみるが、植物は見つからず、センサーの間違いとなった。ところがそれは、ロボットの陰謀で、実はその植物は、宇宙船を地球に帰らせないようにするために、操舵輪ロボットたちが隠してしまったからである。そういう事情を、イブを探しに来たウォーリーが見つけて、妨害するロボット軍団から逃れつつ、植物をイブや仲間となったロボットたちとともに、船長の元へと届ける。船長は、正気を取り戻して操舵輪型ロボットたちの反乱を押さえつけた。そして、めでたく宇宙船の針路を地球にとり、地球に到着して、乗客たちに植物を見せ、さあこれから地球での生活を始めるぞ、というところで、話は終わっている。

 以上のあらすじを聞くと、はあ、そんなものかと思われるだろうが、その通りで、とりたてて面白い話とか手の込んだ話は、これ以上は見当たらない。ただ、強いていえば、ロボットのウォーリーが、これはまるっきり人間そのものではないかと思うほどに、人間臭く描かれているという点である。たとえば、双眼鏡のような形をした二つの眼を寄せたり、ばらばらに動かしたりして、困った表情、イブを思う表情を醸し出している。あるいは恋人たちが手を握り合っているシーンを見て、ハサミのような両手を合わせる様子などは、ちょっとした役者さんでもなかなか出来ないのではないかと思うほどに、人間的である。こういう点は、いささかマニアック的ではあるが、それにしても
監督さんやアニメを担当したピクサーは、よく頑張ったとほめてあげたい。本当に好きでなければ、できない仕事である。しかし、そちらに力を入れすぎたせいか、宇宙船に乗っている船長やら乗客やらの人間たちが、あまりに定型的・ロボット的で、要は無個性に描かれているのは、それがシナリオの狙いとはいえ、もう少し、何とかならないものかと思った次第である。この映画、あまり客の入りがよくなかったそうであるが、さもありなん、というところである。

 それなら、なぜそんなつまらない映画に行ったのかというと、実はオフィスで入場券を買ってしまったからで、別にこれという動機があったわけではない。ただ、ひとつだけ共感したことがある。私のように、還暦近く(最近ではこれを、「アラカン」というらしい。もちろん、嵐勘十郎のことではない)になると、昔のように昼休みにオフィス近くを歩けばしょっちゅう友人知人に会うということが、絶えてなくなった。それどころか、最近は、知人友人には、先輩や同輩はもちろん後輩ですらも、めったに出くわさない。皆、偉くなってオフィス・カーで移動しているという境遇の人ばかりではないらしい。第二の人生で、あちらこちらに散らばったからであろう。

 なんだこれは、まるでウォーリーと同じではないかと思う、今日この頃である。確かに、誰もいなくなった後、せっせ、せっせとばかりに、いろんな法律のガラクタを体に貯め込んで、それを四角くして吐き出し、それらしく見せているといえば、いえなくもないか・・・。それに、歳をとるごとに、路傍の花が美しくみえてくる。ますます、ウィーりーと似てきているようで、空恐ろしい気がしないでもない。ま、これが人生というものかもしれない。その点、この映画は人の本質を突いている感がする。

 ただし、確実なのは、このまま700年経っても、イブは現れないということである。その代りといえば失礼かもしれないが、約半世紀も経った年代物の元イブが、いま隣にいる。



(2009年1月27日記)


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