<< 徒然165.他人の私の写真 | main | 京の紅葉(2)東福寺の紅葉の海 >>
京の紅葉(1)今熊野・泉涌寺・霊雲院

今熊野観音寺


 先ごろ、私自身の還暦祝いの記念に、家内とともに京都の祇園へと出かけてきたところであるが、そのときは久しぶりの京の都の雰囲気を大いに楽しんだ。そのとき、また紅葉の季節に来られたらいいね、という話をしていたのだけれど、先週、本当にまた京都に行ってしまった。まあ、二人とも心から京の都が好きとしか、言いようがない。

 紅葉の季節は、その年によって見ごろの時期が異なる。これは桜の季節と同じで、こればかりは自然のお天気の巡り合わせ次第であるから、仕方がない。しかしそうはいっても、見ごろはせいぜい一週間、長くて十日間くらいであるから、東京で仕事を持っている身としては、二週続けて行くこともできない。だから、これは一種の賭けとなって11月23日の三連休か、28日からの土日という二者択一となる。そこで結局のところどうしたかというと、後の方の日程にした。

 実はこの選択は、実に正しかったといえる。というのは、山の方は紅葉が早いが、それでも実際に行ってみたところ、ほとんどの木々にはまだ多くの紅葉が残っていたし、里の方ではこれから散り始めるという絶好のタイミングだったからである。これは、たまたま今年は11月に入ってから気温が上下して、例年より紅葉の時期が長くなったというのである。もっともその反面、あのしたたる血のような真っ赤な紅葉というのは、さほど見られなかったというが、それよりも我々のような遠来の客には、ともかく紅葉がちゃんと見られる方が有り難いことは、いうまでもない。今回は、京の洛中が主体というよりは、なるべくその外縁部に行くようにしたから、なおさらである。それでは、われわれが訪れた古刹の数々を順に記していきたい。


今熊野観音寺の紅葉の木


 朝早く、東海道新幹線のぞみ号で京都駅に着き、タクシーですぐに泉涌寺に向かった。車は観光客の人込みを縫って進んでいき、とある登り坂道の途中で降ろされた。はあ、ここかなぁと思いつつ、多くの観光客に混じって左手に降りて行く道をたどって行った。すると、「今熊野観音寺」と書かれていた。どうやら、泉涌寺本体ではないらしい。しかし、谷のような場所に雰囲気のある赤い橋「鳥居橋」が架かっていて、その周りには美しい紅葉の木がある。赤、黄、オレンジ、緑と、様々な色に包まれている。「ああ! まさに、これだこれだ! こういう紅葉を見たかったのだ・・・」と、まず感激を新たにした。そこを通って坂を上がって行くと、周囲は、長い歴史を感じさせるだけでなく、どこそこ深山幽谷のような趣のある寺域である。

 まず、子供に囲まれた僧侶の像がおわした。その名を「子護大師」という。なるほど、お顔がとても優しい。さらに坂を登ると、これまた品の良い観音像があった「ぼけ封じ観音」とのことで、そのネーミングには、不謹慎と思いながらも、思わず笑ってしまった。そんな直截的なお名前の観音様が現におられるとは思わなかった。

 そのすぐ後ろには、この寺の堂々たる本堂がある。そしてその向かって右手には「大師堂」という建物があり、そのところに巡礼中らしき年配の夫婦がおられて、京都弁で説明中のおじさんがいる。ははぁ、ここは西国巡礼の札所なのか・・・。加えてボケ封じとは、これは妙な組み合わせである。


今熊野観音寺の「ぼけ封じ観音」


 この今熊野観音寺のHPによると「東山三十六峰今熊野山のふところにいだかれて、今熊野観音寺は荘厳なるたたずまいを見せております。後白河法皇より山号を賜り、『新那智山」と称します。今熊野観音寺は、西国三十三ヶ所観音霊場の第十五番札所、ぼけ封じ・近畿十楽観音霊場の第一番札所(中略)として名高く、また古くからの霊験記にも記されている通り『頭の観音さん』として広く人々の信仰をあつめ、毎日多くの善男善女が参拝や巡礼におとずれ、たいへんにぎわっております。真言宗泉涌寺派。」とのこと。

 ではそれではと、「ボケないように」との念を込めて丁寧にお参りをしたが、やはり何か妙な気分であった。どうも、しっくりと心の中に落ちていかない感覚がするのである。ボケを心配するには、いささか早すぎる歳のせいであるかもしれない。そう考えつつ、本堂前の緋毛氈の長椅子にてちょっと一服をし、甘酒をいただいたが、寒い朝だったので、心から温まった。売り子のお姉さんに、「甘酒の生姜が、よく効いて美味しかったですよ」というと、にこりと笑ってくれた。


今熊野観音寺の緋毛氈の長椅子


 そこを出て、タクシーから降りた道をさらに上っていくと、やっと泉涌寺に着いた。広大な境内なので、大門を入ったところで見回すと、その外見がいささか無味乾燥な気がした。ところが、仏殿の横を通り舎利殿を過ぎ、本坊に入ると様子は一変して急に華やかな雰囲気となったのである。というのは、本坊の前庭に白い砂が敷かれており、その中のあちらこちらに前衛的な生け花が配置されていたからである。まるで草月流のような作品ばかりであるが、「華道月輪未生流」の作だという。これは美しいと思って、しばし立ち止まって、ひとつひとつを仔細に見て回った。


泉涌寺の華道月輪未生流の作


 この泉涌寺のHPによると、「東山三十六峯の一嶺、月輪山の麓にたたずむ泉涌寺。皇室の菩提所として、また諸宗兼学の道場として、壮麗な堂宇が甍を連ね、幽閑脱俗の仙境、清浄無垢の法城となっている。当寺は天長年間、弘法大師がこの地に草庵を結び、法輪寺と名付けられたことに由来し、後に仙遊寺と改名された。(中略)奥まった境内には大門、仏殿、舎利殿を配した中心伽藍と天智天皇、光仁天皇そして桓武天皇以降の天皇・皇族方の御尊牌をお祀りする霊明殿と御座所、庫裡などの建物が甍を連ねている。全山木々に包まれて静かにたたづむ堂宇、玉砂利の境内は、春は新緑、秋は紅葉に色どられて、一種別天地の雰囲気をかもしだす。」とある。なるほど、皇室の菩提所であることから、「御寺(みてら)泉涌寺」というらしい。


泉涌寺の御座


 本堂内を見せていただくと、襖絵も立派で、たいへん美しい。しかし、その説明には笑ってしまった。「玄間に近い表向きには唐絵、奥向きには大和絵を置くという宮中襖絵の特徴」というのである。外向きには外国のものを見せたがるのは、宮中でも同じらしい。ところで、さきほどの華道月輪未生流は、もともと歴代皇族への献華がその始まりとのこと。ちなみに、同じく泉涌寺のHPによると、「現在は、古式に則った伝統花である『生花(せいか)』と、自由な発想で創り上げる『自由花』があり、花を生けることだけでなく、草花の出生や、儀礼作法等を学ぶ事ができるのが特徴」とある。この「自由な発想」というのが、確かに作品に現れているが、私の好みにも合っている。


泉涌寺の御庭


 御座所の東南から、御殿の南側にかけてに、小さな御庭が築かれている。その築山は小じんまりしていてちょうどよいし、緑に映えた紅葉が誠に美しくて、素晴らしい庭である。たまたま観光客の数が多くなかったこともあって、そこに半時間ほど逗留した。説明によれば、真紅の紅葉の季節だけでなく、サツキや雪化粧の季節も楽しめるということである。季節を変えて、また訪ねてみたいお庭である。ところで、泉涌寺から帰る途中、楊貴妃観音堂というものがあった。しかし、後で知ったのであるが、そんな美しい聖観音像が祀られていたとはつゆ知らず、残念ながら今回は見逃してしまった。次のお楽しみとしよう。

 さて、それから東福寺へと向かった。わずか10分くらいの距離である。途中、東福寺塔頭のひとつ、霊雲院を訪れた。ここは、普通は拝観ができないと聞いていたが、幸いにもこの日は、九山八海・臥雲庭園を拝観できるという。これは、ひょっとして作庭家の重森三玲(みれい)の庭ではないかと思ったら、やはりそうだった。重森三玲(1896年-1975年)は岡山県生まれで、いけばなを能くしたほか日本庭園を独学で学び、その研究家として有名だっただけでなく、自ら優れた枯山水の庭園を作った。力強い石組みと苔の地割りが特徴的であるとされる。


東福寺塔頭のひとつ霊雲院の九山八海の庭


 九山八海(くせんはっかい)とは、須弥山を中心に計九つの山と八つの海がとりまくという仏説のことだそうだ。この庭は、誠に不思議な形をした遺愛石(いあいせき)を須弥山に見立てたほか、枯山水の白砂の波紋が、山と海とを表現しているとのこと。遺愛石が中心にポツンとあるようでいながら、その回りを白砂の波が丸く波紋のように周囲に広がっていっており、なるほど、まさにこれが須弥山かという気がする。白砂の向こうには、緑の低木と赤い紅葉の木々が丸く植えられていて、その下の苔の緑色と非常によく調和している。

 ちなみに、その場でいただいた霊雲院の案内書によれば、「第七世の湖雪守沅は肥後熊本の人で、藩主の細川忠利と親交があったが、和尚がこちらの住職となったときに、寺産五百医師を送ろうとしたところ、和尚が『出家の後、禄の貴きは参禅の邪鬼なり。庭石の貴石を賜はらば寺宝とすべし』とおっしゃったので、細川家では『遺愛石』と銘をつけ、須弥第と石船を作って贈った」とのこと。良い話ではないか。


東福寺塔頭のひとつ霊雲院の臥雲の庭


 書院の中に目をやると、達磨さんの絵が掛けられている。例の、両目をギョロリと開けたお馴染みのお姿である。さて、次にこれまた重森三玲作の臥雲(がうん)の庭を拝見した。もちろんこれも枯山水庭園で、渓谷に流れる川の流れと山腹に湧く雲を、白やカーキ色の砂と枯滝組で表現している。「雲の描く美しさと、無心に動く水の美しさ」をあらわしているとのこと。特に、川の流れは、岩が大きいせいか迫力満点であるし、雲を表すと思われるカーキ色というかベージュ色の砂の渦巻きがとっても素晴らしい。ああ、良いものを見させていただいた。

 ところで、書院に説明書きがあったのであるが、幕末にはこの寺で西郷隆盛と勤王の僧の月照が密議を交わしたといわれている。それだけでなく、日露戦争当時にはロシア兵の捕虜収容所ともなったそうで、50人のロシア兵が8ヶ月間ここで生活したそうだ。また、彼らが使った弦楽器が展示されていたが、これは立ち去るときにお世話になったといって、ここに置いていったという。そんな歴史の舞台であるとは思わなかった。良い庭と深い歴史、ここに来て、本当に良かったと思った次第である。



(2009年12月1日記)



 京の都の紅葉を愛で
( 写 真 )
(エッセイ)




カテゴリ:エッセイ | 21:39 | - | - | - |