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京の紅葉(3)永観堂の晶子歌碑

永観堂の入口


 これで今回、京の古刹を訪ねるのは五つ目であるが、それぞれに特徴があることが次第にわかるようになった。誤解をおそれずにいえば、あたかも客商売のように、それぞれがターゲットとする顧客層・・・寺社の場合はもちろん信者層・・・がいるようだ。たとえば、今熊野観音寺は、ボケ封じや巡礼などの民間信仰のお寺であるから、これはこれでその種の素朴な信仰を持つ人々を対象としているものと思われる。ところがその隣に鎮座する泉涌寺は、皇族ゆかりの御寺であるだけに、そういう高貴な方々を対象としていることがよくわかる。たとえば現代アートのような生け花ひとつをとっても、敢えていえばいささか高等趣味のようなものを感じる。東福寺は、足利義持・豊臣秀吉・徳川家康などの名だたる武将の庇護下にあったようで、枯山水など武家好みの禅宗らしさが目に付き、何事もさっぱり恬淡としているといったところである。もちろん、これらは信仰の内容もロクに知らない者による戯言の類であるから、関係の方々は、あまり気にしないでいただきたい。

緑の松と真赤な紅葉


 その点、この永観堂はどうかというと、ああ、これが浄土宗かとすぐにわかる。阿弥陀如来の慈悲に導かれるというので、先の私の分類では民間信仰であるから、今熊野観音寺に近い。というのは、拝観するときにいただいたパンフレットの中の文章に次のように書かれていたからである。「永保2年(1082年)2月15日早朝。阿弥陀堂に人影が動く。夜を徹して念仏行に励んでいる僧侶がいるらしい。東の空がしらじらとし始めた。ふっと緊張がとけた一瞬、僧は息をのんだ。自分の前に誰かがいる。それが誰か気がついて、足が止まった。『永観、遅し』ふりかえりざま、その方は、まっすぐ永観の眼を見つめられた。」そしてそのふりかえったお姿をもって永観堂のご本尊とし、「みかえり阿弥陀」というのである。しかし、なぜ阿弥陀様がそんな早朝、永観和尚の前にお姿をあらわして「遅い」などといわれるのか、その状況設定がさっぱりわからない。もっとも、理屈が先にたつ現代の分析的な頭でそんな感想を持つ者には、そもそも民間信仰は向かないということだろう。

東山を背景とする紅葉の鮮烈さ


 理屈はその程度にして、このお寺の歴史をひも解くと、いま話題に上った永観律師をさかのぼること200年前の863年に、こちらは真言密教の寺の禅林寺として始まったそうだ。そして永観さんのときに大きく発展し、そのため禅林寺はいつしか永観堂と呼ばれるようになったとの由。先ほどの説明によれば永観さんはとても社会慈善活動にも熱心で、「禅林寺の境内に、薬王院という施療院を建て、窮乏の人達を救いその薬食の一助にと梅林を育てて『悲田梅』と名づけて果実を施す等、救済活動に努力せられた」ということである。ところが鎌倉時代に住職となった静遍僧都は真言宗の僧侶だったが、法然上人の教えに深く帰依し、その愛弟子の証空上人を次の住職に招いたことから、そのうちに浄土宗西山禅林寺派の総本山となったという。なるほど、宗派がここで抜本的に変わってしまったのか・・・。「以来今日まで、約八百年永観堂は浄土宗西山禅林寺派の根本道場として、法灯を掲げています」とされる。

釈迦堂の中庭


 永観堂の特徴と見どころというパンフレットの文章によれば、「東山を背景に、阿弥陀堂をはじめとする古建築が、緑と水に恵まれた庭に調和しています。古来、都びとに愛された優美な景観のなかで静かなひとときを過ごしていただきます」とある。私もそうしたかったが、紅葉目当てでものすごい数の観光客が押し寄せていて、たいへんだった。その紅葉については、「もみじの永観堂は、全国にその名を知られています。境内を染め上げる紅葉はもちろん、お堂や回廊のすぐ目の前にせまってくる鮮やかな岩垣紅葉は、ここでしか見られないものです」とある。

勅使門と身を清める白砂


 それで、さあどうかと思って総門をくぐり境内に入らせていただくと、なるほど、永観堂のHPやパンフレットで自慢されるほどのことは十分にある。東山の緑の山々を背景にして、道の両脇には、まるで燃えるように鮮やかな赤い紅葉と、炎の先のような鮮烈なオレンジ色をした紅葉が立ち誇っているようだ。その中を歩くと、紅蓮の炎が両脇でめらめらと燃えているような気さえする。そのような中を進んでいって中門をくぐり、それから玄関から釈迦堂に入らせていただく。その建物には、中庭として、ちょっとした池があって、それまでは紅葉の赤の世界だったので、その池の周りの緑色に、目が安まったような気さえしたほどである。そこから、唐門を眺めると、門の前には、大きな小判型をした白砂が敷かれていて、その中が市松模様になっている。これは勅使門で、天皇の使いである勅使が来たときは、この白砂を踏んで身を清めてから釈迦堂に入ったそうだ。

道の両脇には燃えるように鮮やかな紅葉が


弁天池の紅葉


 阿弥陀堂まで行って、写真に撮ることはできなかったものの、みかえり阿弥陀様の像をチラリと見せていただき、そこから退出した。途中、悲田の梅といって永観さんがその実を施したという梅の木、三鈷の松といって葉先が三つに分かれていて三鈷すなわち「知恵」「慈悲」「まごころ」を表すという永観堂の名所があったが、大勢の観光客に押し出されるようになってしまい、じっくりと見ることができなかった。あ、そうそう、多宝塔につながる臥龍廊というウナギの寝床のような廊下があったが、ここも行きそびれた。また次回、人が少ないときにでも、行ってみたい。

弁天池の紅葉と橋


 建物から出て、放生池の周りを廻っていると、非常に不思議な感覚に襲われた。なぜだろうと考えてみたら、こういうことである。つまり、池の水面に晴れた青空が写っていて、その回りを紅蓮の炎のような紅葉の木々が取り巻いていて、まるでこの世のものとも思えない風景だったからである。この稿の冒頭の写真を見ていただくと、よくわかると思うが、どうだろう、この美しさは・・・。そもそも、青と赤は対比色だから、ただでさえお互いに引き立つのに、それに加えて、白い雲、緑の松や苔、黄色い紅葉などが取り囲んで、まるで絵の具をパレットにぶちまけたような風景なのである。しばし、その場にたたずんでいた。そして、今の風景を目に焼き付けて、ゆっくりと歩いていくと、池の中に弁天島へと続く石橋があった。その下を数羽の鴨が泳いでいる。そこで、鴨が目の前に来たときをねらって写真を撮ったが、今日という日を代表する写真が撮れた。さて、そのすぐ先には、一本の歌碑があり、よく見ると与謝野晶子の歌ではないか。

弁天池の鴨。本日の代表作


与謝野晶子の歌


 「秋を三人椎の実なげし鯉やいづこ池の朝かぜ手と手つめたき」と刻まれている。帰って調べてみると、これは与謝野鉄幹をめぐる三角関係の歌らしい。1900年の8月、鳳晶子は初めて鉄幹と出会い、急速に惹かれていく。その年の11月、それを知ってか知らずしてか鉄幹は晶子と山川登美子の三人で、この永観堂の紅葉見物をした。そのとき、この弁天池に三人で無邪気に椎の実を投げ込んだりして遊ぶが、池には鯉(「恋」と掛けているのかもしれない)が見当たらないし、たまに触れる手と手はお互いに冷たい。まさに、恋のさや当てを詠んだ歌である。ちなみにそれから十日後、山川登美子は郷里の小浜に戻り、そこで意に沿まぬ結婚をすることを晶子に告げに来たとのことである。まさに紅蓮の炎のような今日の紅葉にふさわしい話である。なお、「三人」は(みたり)と読むらしい。

帰る頃にはもう日が傾いてきた



(2009年12月3日記)



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