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高岡・山町筋のひなまつり

高岡・山町筋のひなまつり


 前回、山形に行ったとき、観光案内で「山形雛のみち」、「庄内雛のみち」といわれる雛祭りがあることを知った。これは、江戸時代に山形は紅花(ベニバナ)の産地として栄え、最上川の舟運を通じて京都・大阪と北前船で結びつき、紅花商人たちが活躍したことによるものという。我々がいまでも親しんでいる舞妓さんの、あの真っ赤なおちょぼ口の紅は、紅花から抽出した染料でできている由。ともあれ、江戸期には質・量とも山形が日本一の紅花産地となり、その最盛期には全国の紅花市場の半分以上を占めたというから、一大産業だったことがわかる。そのおかげで、紅花の公益で巨万の富を築いた豪商も数多く現れたという。

 さて、ここからが今日の本題であるが、最上川流域の町々には、そうした紅花商人たちによって京都から持ち帰って来られた江戸時代の享保雛、有職雛、古今雛などの古い雛人形が、今でもたくさん残っている。3月から4月にかけて、そうした歴史のある雛人形の展示が盛んに行われているという。なるほど、そういう歴史のあるお雛様なら、機会を見つけて一度は見物してみたいものだと思っていた。ところが、山形ではないが、たまたま所用で出かけた富山で、同じような雛まつりを見る機会があったので、うれしくなったというわけである。  先日、越後湯沢まで上越新幹線で行って、そこから「ほくほく線」特急はくたかに乗り、富山県高岡市に到着した。そこで「山町筋のひなまつり」を見物してきたところである。そもそも、高岡について、あまりその歴史は知られていないと思うので、以下に高岡市のHPからその歴史の解説を引用しておきたい。

■開町時の町

 加賀藩2代藩主前田利長公が、「関野」と呼ばれていた荒地に築かれた高岡城に入城したのは、慶長14年(1609)9月13日のことです。公の入城に随従した家臣は430名余り。町民は、富山・守山・木舟の旧城下や美濃・近江・越前等前田氏縁の地より集まった630戸、武士・町民併せても5000人に満たない人々で、高岡町が開かれました。城の周囲や南側に連なる台地上には武家屋敷を配置し、町屋は鴨島町〜京町(旧油町)、片原町〜風呂屋町の一円を約75m(京間40間)四方の碁盤目状に割りふられました。町人は、間口1.5間・奥行17間程の敷地を、藩より無租地として分け与えられました。このような町は「本町」と呼ばれ、旧武家屋敷を借りて町立された「地子町」や、町の周辺部の「散町」とは区分されました。御車山を所有する「山町」10ヵ町は、本町35ヵ町の中心に位置しています。

■城下町から商工業都市への転換

 高岡城は、元和の一国一城令により破却されました。城を失った城下町は、衰退への道をたどるのが常でした。3代藩主利常は、元和6年(1620)に高岡町民の転出を規制し、商業都市への転換を図りました。古城内には、藩米蔵が置かれ、蔵宿や批屋(へぎや)等の多くの商人により米相場が形成されるようになりました。加越能三国では最大の生産量を誇り、江戸大阪まで流通した越中米流通の中心地として、高岡は繁栄しました。また、専売品であった塩や鳥魚類は高岡に集められ、藩内各地へ供給されました。綿・布・鋳物等の生産、流通も町経済の発展にとって忘れることの出来ないものです。

■明治期の高岡

 明治に入ると、高岡町の行政機構はめまぐるしく変遷し、明治16年に富山県の所属となりました。そして、明治22年4月1日には、全国で初めて市制が施行された31都市の一つとして「高岡市」が誕生したのです。明治初期の高岡は人口2万人を越え、商工業都市としてますます発展をとげることになります。明治17年に設立された「高岡米穀取引所」は、名古屋や金沢の米取引にも匹敵する、全国7位の取引高を誇ったこともありました。。銅器産業も、幕藩体制の崩壊により職を失った加賀象嵌師(ぞうがんし)を招いて高級化指向を目指す等、新たな隆盛期を迎えています。明治20〜30年代にかけては、「高岡紡績」や電灯会社の設立や鉄道の開設と続き、日本海有数の商工業都市としての、高岡の位置はますますゆるぎないものとなっていきました。


 ということで、現在は富山県第二の都市となっていて、人口は176,186人、産業はアルミサッシの生産額が日本一、伝統工芸の高岡銅器や高岡漆器などが全国的に知られる。特に江戸から明治にかけて商業が繁栄し、かつては「北陸の商都」となっていた。しかし最近では、モータリゼーションの進展や道路の整備などに伴って商圏の重心が郊外や金沢へと移り、残念なことに市街地には往時のような輝きは見られない。


商業が繁栄した時代の土蔵造りの商家の大店


 かつて商業が繁栄した時代の北陸道沿いには、商家の大店が立ち並んだ。その代表的な通りが山町(やまちょう)筋一帯で、この辺りには明治33年(1900)の大火を契機に建てられた土蔵造りの家が立ち並んでいて、独特な景観を引き出している。関東でいえば、川越のような雰囲気である。

先祖から長年伝えられてきた豪華な雛人形


 今回の雛まつりは、そうした旧家の家々が、それぞれ先祖から長年伝えられてきた豪華な雛人形を店先に並べて、見物させるという趣向である。古いものでは、享保年間の享保雛から始まって、明治、大正、昭和にかけてのものから、最近のお雛様まで飾られている。雛人形の見物とともに、各土蔵造りの家の店先から、時にはその中まで見学させていただいたが、中は天井が高く、中庭まであって、往時の繁栄振りが偲ばれた。ただ、そういうわけで、各個人の家が手持ちのお雛様を一般に公開するという催しのため、いつ頃の作か、どこの産か、どういう云われかなどということが、ほとんど考証されていないので、学問的な興味に結び付くものではない。

 まあしかし、素人目には、これだけのお雛様のセットを百数十年前に、よく揃えられたものだとか、お雛様の様式の変遷を目の当たりにしていかに今日のお雛様になったのかとか、いたく感ずるところがあった。また、世代によっては大きなセットを買う余裕がない中、それでも小さいながら娘に揃えてやったのだろうと推測できるものが何代にもわたって数多くあったりして、商家の栄枯盛衰の姿が偲ばれるなど、なかなか面白い催しであった。


古くから伝わっている古代雛


(2010年3月16日記)



 高岡・山町筋のひなまつり( 写 真 )は、こちらから。





【参 考】 山町筋のひなまつり (高岡観光協会HPより)

  3月13日(土)〜14日(日) 山町筋一帯 土蔵造りのある山町筋の家々が、お雛様の町並みギャラリーに変身する。贅を尽くした、長年伝えられてきた豪華な雛人形が店先を彩る。

土蔵造りの町並み〈重要伝統的建造物群保存地区〉御馬出町、守山町、木舟町、小馬出町と続くかつての北陸道に残る土蔵造りの家は、明治33年(1900)の大火後の明治から昭和初期にかけ建造された優れた防火建築です。この4町を含め、利長公より御車山を拝領した10町を山町といいますが、毎年5月1日の高岡御車山祭では、これらの町並みを背景に、山車が練り歩きます。

 (交) JR高岡駅から徒歩10分
 (車) 能越自動車道高岡ICから10分

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