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函館への旅

函館の夜景

 

 「函館への旅」といっても、そんな大それたものではない。仕事で行ったものだから、夕食直前の1時間と、夕食後の1時間半ほどで、それこそ慌ただしく写真を撮って回った程度なので、とても旅と言える代物ではない。しかし、まだ日がある時に撮った端正な教会群と、函館山からの夜景の写真が綺麗だったので、それを残しておくこととしたい。

 私は、函館に行くのは今回で4回目となる。1回目は、大学時代の若干20歳の頃に、旭川へ行く途中に立ち寄った。当時、北海道に行くにはもちろん飛行機もあったが、国鉄の青函連絡船が全盛期の時代である。乗ったのは八甲田丸だったのではないかと思うが、冬の寒い日に青森から津軽海峡を渡って函館にたどり着いた。市内観光のバスに乗り、元町の教会群やトラピスチヌ修道院、トラピスト修道院、それに五稜郭などを回った。その時、とりわけ函館山の上からの函館市内の夜景が実に美しくて、とても感動した。まるで色々な宝石を散りばめた宝石箱のようなものだったからである。六甲山の上に登って見る神戸の夜景も確かに美しくて心を動かされるが、この函館山からの夜景には及ばないと思った。というのは、神戸の夜景はどうしても左右に平面的に広がってしまうが、函館の夜景は左右対称にU字型に黒い海が市内に向けて切れ込んでいるから、その形がこれまた美しいのである。それに、当時は盛んだったイカ釣り漁船の漁り火が、黒い海面を煌々と照らしていて、若かった私には、希望の光のように見えたものである。

 2回目の函館訪問は、確か1990年の頃だ。当時、中学2年生だった息子に初めてゴルフをさせようと、函館本線の鹿部にあるホテルに連れて行ったことがある。その時、函館を通ったので、息子と夜景を見ようと函館山に登った。しかし残念なことに、濃い霧が立ち込めて、夜景を見ることは叶わなかった。でも、鹿部では晴れていて、絶好のゴルフ日和りだったのは、何よりだった。

 3回目は、4年前の7月の北海道縦断の旅の時である。最終目的地がこの函館で、湯の川温泉に泊まって、夜景を見に行った。この時は、やや霧が掛かっていたものの、綺麗な夜景が目の前に広がって、大いに満足したものである。この時点で、夜景見物は、2勝1敗というわけだ。

 そういう経緯を経て、今回の訪問になったのであるが、仕事も含めて函館市内にほんの1日という短い時間だったとはいえ、率直に感じたことを記しておきたい。まずは、市中心部に、住民の姿がほとんどいないのには驚いた。代わって見かけるのは、観光客、それも8割方中国人ばかりということだ。ここも地方都市のご多分にもれず、郊外に大規模スーパーやショッピングモールができて、そちらに人口が吸い寄せられてしまったらしい。それに、イカ釣り漁業が地元の中心産業だったのに、肝心のイカが取れなくなったという。加えて、北海道新幹線が2016年3月26日に開業して以降は、新幹線の駅が函館から「はこだてライナー」で約20分の新函館北斗駅になってしまったこともあると思われる。札幌まで延伸されれば、言葉は悪いが、函館があたかも「盲腸」のようになってしまい、そうなると北海道の玄関と言われた往時の繁栄を取り戻すのは、ますます難しいものと考えられる。

 そもそもこうなったのは、青函トンネルのルート選定にある。北海道の松前と青森県の津軽地方を結んで1988年3月13日に開通したが、これを「西ルート」とすると、函館と大間を結ぶ「東ルート」があったそうで、距離的にはこちらの方が近かったという。ところが、海底までの深さがより深かったことと、一部に掘削に適さない地層があったことから、採用されなかったそうだ。こちらに決まっていれば、函館が相も変わらず北海道の表玄関であったものをと、いささか歯噛みする思いである。

 それに、今回もし時間があれば、松前まで行くつもりだった。ところが時刻表などを調べて驚いた。最短で行くのに3時間、行ったは良いが、函館まで戻るのに待ち時間が多くて6時間という。北海道新幹線の開業で、在来線は道南いさりび鉄道という第三セクターに代わっていて、それも松前に行く途中の木古内までしか行かない。木古内には新幹線の駅があり、新函館北斗駅の次の駅だ。ところが、そこから松前までは鉄道が廃止されてしまっていて、路線バスしかない。木古内と松前間は、これで1時間半だ。松前には新幹線は通るが、木古内のような駅がないために陸の孤島のような状態になっている。ということで、松前に行くのは早々に諦めたが、2031年に新幹線が札幌まで全線開業して以降は、函館がそのような状態にならないかが心配である。

 今回、函館では、ロープウェイ山麓駅の近くの教会エリアを、合わせて回ってきた。函館ハリストス正教会(ロシア正教)、日本キリスト教団函館教会(プロテスタント)、函館聖ヨハネ教会(英国国教)などである。特に、ライトアップされた函館ハリストス正教会は、神々しいばかりに美しい。  では、写真を撮った順に説明して行こう。まず、泊まったホテル「ラビスタ函館ベイ」から函館山の方向に向かった。昔は埠頭の倉庫だった地区が、レストランや物品施設に再生されている。「金森赤レンガ倉庫」というらしい。空の青さとレンガの赤い色との対比が美しい。中には、一面が緑の蔦に覆われているところがある。これも綺麗だ。港にはヨットが浮かんでいる。「Amigo」、スペイン語で「友達」とは、なかなか良い。

 

金森赤レンガ倉庫

 

ヨットAmigo

 

 交差点に来た。さて、どちらに行こうか。このまま函館山の方へは、八幡坂通りを上がっていけば良さそうだ。それにしてもこの坂は、かなり急だ。歩道に階段まである。左手に、日本キリスト教団函館教会があった。アーチの入り口や窓が美しい。HPによると、「日本キリスト教団函館教会は、統一協会(統一原理)、エホバの証人(ものみの塔)、末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)とは一切関係がありません。正統的なキリスト教信仰に立つ教会です。その中でも、東方教会(ギリシャ正教やロシア正教など)に対して、西方教会に所属します。さらに、その西方教会のうち、ローマカトリック教会から、16世紀に分かれた福音主義(プロテスタント)教会です。どなたでも礼拝に出席できますので、どうぞお出かけください。」とある。なるほど、かなりオープンなのだ。

 

日本キリスト教団函館教会

 

シャルトル聖パウロ修道女会函館修道院マリア像

 

 そこから更に八幡坂を登ったところに、シャルトル聖パウロ修道女会函館修道院があって、その脇に設置されているマリア像が、優しさ、慈しみ、母性愛を深く感じさせて秀逸である。この修道院は聞いたことがないなと思ってHPを見てみると、「1878年(明治11年)5月28日、北日本代牧区のオズーフ司教からの要請を受けて、 フランスの修道会本部から派遣された3人の修道女が函館に上陸し、日本宣教の第一歩をしるしました。Srマリー・オグスト、Srマリー・オネジム、Srカロリヌでした。マスールたちは早速、近隣の病人訪問を始め、これがのちの診療所「博愛医院」と名付けられ、。翌年の大火で親を亡くした子どもたちを引き取って育てたのが、現代の乳児院と児童養護施設となりました。また、近隣の少女たちに編み物や刺繍などの手仕事を教えたのが学校の始まりで、明治19年には「聖保禄女学校」が開校しました。現在の「函館白百合学園中学校・高等学校」の前身です。以来、130年余、度々の大火や第二次世界大戦の戦火をくぐりぬけながら、社会福祉・医療・教育が本会の日本での宣教の主な柱となっていったのでした。3人の創立者とその後に続いた宣教女、日本人修道女たちの播いた種が、函館から日本各地に芽吹き成長し実を結んでいるのです。」とある。いやすごいものだ。同じHPに「全世界へ行って、福音を宣べ伝えなさい」とも書いてあるが、フランスの修道会本部の指示だったのだろう。19世紀にこんな言葉に送られて、欧州からすれば未開の地と思われていた極東の島国にやって来て、たった3人の女性で、診療所、乳児院、学校などを次々に作って行ったとは、驚きである。宗教的情熱の為せることとはいえ、3人寄れば文殊の知恵、人間やってやれないことはないという見本のようなものである。

 思わぬところで手間取った。もう少し八幡坂を登って、やっと左右に広がる水平な道に出た。正面には函館西高等学校がある。この生徒さんたちは、毎日こんな急坂を登っているのだから、さぞかし身体が鍛えられることだろう。左手に行くと、函館ハリストス正教会だ。こちらは、函館で最も美しい教会だと思うし、また観光客の敷地内への立ち入りが許されるなど、オープンな精神で素晴らしい。ギリシャ正教と日本との関わり合いについては、去年2月に豊橋ハリストス正教会に行って来たときに神父さんからお聞きした話があるので、そちらをご覧いただきたい。

 

函館ハリストス正教会

 

函館ハリストス正教会

 

 ところで、この函館ハリストス正教会の建物は、横から見ても素晴らしいが、中でも一番美しいと思うのは、やはり正面からの姿である。入り口のアーチ、その上のイコン、更に上に乗っている玉ねぎ型のドームは、見る人に忘れられない印象を与える。脇に回ってみると、聖ニコライの絵があった。ちなみに同教会のHPによれば、「函館ハリストス正教会は、1858年(安政5年)、日本で最初のロシア領事館が箱館に置かれたことに端を発する。1859年(安政6年)、初代ロシア領事、ゴシュケヴィツチは、現在の教会所在地にロシア領事館の敷地を確保。その附属聖堂として1860年(安政7年)、日本で最初の正教会の聖堂「主の復活聖堂」が建てられた。1861年(文久元年)、管轄司祭ワシイリイ・マホフ神父の後任として、修道司祭ニコライ・カサートキンが来函(1912年、東京神田にて永眠。1970年、「亜使徒日本の大主教聖ニコライ」として列聖される)、函館を拠点とした正教の伝道が始まる。1868年(慶応4年)、函館において最初の日本人三名の洗礼が行われた(パウエル澤辺琢磨、イオアン酒井篤礼、イアコフ浦野大蔵)。1882年(明治15年)、管轄司祭として初めて日本人の司祭ティト小松韜蔵が着任し、次第に日本の正教会として根付いていく。1907年(明治40年)の函館大火で焼失した初代聖堂に代わって、1916年(大正5年)、現在の聖堂が建てられた。1983年(昭和58年)、聖堂が国の重要文化財に指定される。」

 

函館ハリストス正教会

 

函館ハリストス正教会聖ニコライの絵

 

 1996年(平成8年)、鐘楼の鐘の音が、環境庁の「日本の音風景百選」に認定されたという。聴いてみると、単調ながらも、鐘の余韻が素敵で、なるほど、さもありなんと思う。これに比べれば、私がよく通りかかる御茶ノ水のニコライ堂の鐘の音の派手なことといったらない。ガラン、ゴローン、ガラン、ゴローンと、うるさく感じるほどだ。ちなみにこちらは、音風景百選には入っていない。

 

日本聖公会函館聖ヨハネ教会

 

 隣に、日本聖公会函館聖ヨハネ教会がある。建物が不思議な形にしているとは思ったら、上空から見ると十字架の形になるようになっているそうだ。聖公会というのは、私にはあまり馴染みがないので、そのHPを見てみると、「1874年、英国人のデニング宣教師の函館上陸と共に、道内最初の聖公会として活動を開始。数度の大火で聖堂を焼失することもあったが、医療、教育事業も展開した。現聖堂は1979年に落成。聖公会の礼拝堂では珍しく、ドーム型の天井を有する。教会は観光の中心地である元町にあり、ハリストス正教会、カトリック元町教会が隣接。年間、のべ1万人に上る見学者が教会を訪れる。」

 「私たちの教会は聖公会と言います。「聖公会」は、カンタベリー大主教を精神的指導者とするイングランド教会を母体に、世界160ヵ国に広がる教会です。(信徒6500万人)。ローマ・カトリックとプロテスタントに大別される西方キリスト教会の中で、聖公会は両者の要素を兼ね備え、その中間に位置しているといわれています。聖公会の信仰は、東アジアには18世紀から19世紀にかけて、英国と米国の両聖公会から伝えられました。日本には1859年(安政6年)米国聖公会から二人の宣教師が渡来、今日の礎を築きました。キリスト教禁令が廃止された後は英国、カナダ聖公会の宣教師団も伝道に加わり、1887年(明治20年)「日本聖公会」が創設されたのです。現在、日本聖公会は北海道から沖縄に至る全国11の教区によって構成され、約300の教会があります。その他、立教大学などの大学及び短大、小、中、高校、各種専門学校等の教育機関、幼稚園、保育園、また聖路加国際病院を始めとする種々の医療事業や社会福祉事業は日本聖公会の宣教の中で生まれました。」

 なるほど、池袋の立教大学や、築地の聖路加国際病院の源流が、聖公会にあるとは、ついぞ知らなかった。

 

カトリック函館元町教会

 

カトリック函館元町教会

 

 カトリック函館元町教会というのがあった。函館ハリストス正教会からは一段、坂下に位置しているので、正教会からその十字架のある屋根がよく見えた。そのHPによると、「カトリック函館元町教会は、横浜山の手教会や長崎の教会とともに長い歴史がある。1860年にパリ福音主義伝道師メルメット・キャションによって仮の教会が建てられ、マリア様の無原罪懐胎に捧げられた。現在の教会は、1921年の函館大火の後、1924年に建てられたものである。重厚な内装が特徴的なゴシック様式で、日本にある大聖堂の中では極めて稀なものである。中央祭壇を含めてすべての彫像は、イタリアのチロル地方(現在はオーストリアの一部)製の木材で造られ、法皇ベネディクト15世によって本教会に送られたものである。」(原文は英語(注)で、宗教用語が多いことから正しい翻訳ではないかもしれない。)

 

旧函館区公会堂

 

 それから、元町公園へと歩いて行った。公園に着くと、旧函館区公会堂がある。いかにも、明治の洋式建築という雰囲気のある建物である。その説明によると、「明治40年(1907年)8月の大火で、函館区の約半数、12,000戸余りを焼失した。この大火で区民の集会所であった町会所も失ったため・・・区民の浄財を募ったが、思うように集まらなかった。当時、函館の豪商と言われた相馬哲平氏は自分の店舗など多くを消失したにもかかわらず5万円の大金を寄付したためこれを元に明治43年現在の公会堂が完成した。この建物は北海道の代表的な明治洋風建築物で左右対称となっているほか、2階にはベランダを配しているほか屋根窓を置き、玄関、左右入口のポーチの円柱には柱頭飾りがあるなど、特徴的な様式を表している。」

 

旧北海道庁函館支庁庁舎

 

 他にも、元町公園には同様な明治洋風建築物として、旧北海道庁函館支庁庁舎があり、また、函館の街の発展に尽くした四天王、今井市右衛門、平田文右衛門、渡邉熊四郎、平塚時蔵の銅像がある。その添書きによると、「明治の函館は本州の都市のように、旧藩の遺産も恩恵もなく従ってその束縛もなく、市民は自主的に市民精神を養い、経済の発展を計り進んだ都市造りをした。造船所、器械製作所等の重要産業を興すと共に日刊新聞の発行、学校、 病院、水道、公園をはじめ、恵まれない人々のための教育、医療施設に至るまで力を尽くした。明治、大正には東京の文化は東北を素通りして北海道に渡ったといわれたが、その北海道とは函館のことである。その繁栄は、平田文右衛門をはじめ四天王の合議によって昔の泉州の堺港のと比べて明治の自由都市と称する人もある。人口は終戦前まで常に全国第十位前後であった。」

 

四天王といわれたこともあったが、今井市右衛門、平田文右衛門、渡邉熊四郎、平塚時蔵の銅像

 

ペリー提督

 

 なるほど、明治期の函館は、中世の堺と比肩されるほどの自由都市で、市民のリーダーによってその合議により運営されたとは、知らなかった。だからこそ、これだけの近代的な街並みができたのだと納得した。しかし実はその前提として、函館が発展する契機となったのが、アメリカのマシュー・C・ペリー提督の来航だった。というのは、江戸幕府の終わり頃に締結した日米和親条約で下田とともに箱館(現在の函館)が開港地に選ばれ、ペリー提督はその下見にやってきたのである。これから、函館は国際港湾都市としての道を歩むことになる。ということで、元町公園に隣接してペリー提督の銅像が建てられている。ちなみに、この来航時には箱館奉行所は元町公園の所にあったが、外敵に襲われた場合にひとたまりもないため、防衛を堅固にすることとし、合わせて蝦夷地統治の拠点として五稜郭の建造が決定され、奉行所はそこに移ったという。私は、かねてから中央から遠く離れた蝦夷地に、なぜあのような近代的な城郭が築かれたのかと思っていたが、なるほど、開港したばかりで列強の軍事力を怖れてのものだったのかと、これも良くわかった。もっとも、それが後日、戊辰戦争の舞台になろうとは、誰も予想し得なかったことだろう。

 

ロープウェイに乗り込み、動き出したばかりの函館の夜景

 

函館の夜景

 

 夜8時頃に、ホテルから函館山麓のロープウェイ乗り場へとタクシーで向かった。直ぐに着いて、往復乗車券を購入して乗り込んだ。湾の方を向いていると、ロープウェイが上がるに連れて、それまで寝ているように見えた夜景が起き上がって立体的になってくる。山頂駅に到着し、早速、夜景が見える展望台へと駆け上がった。3階ほど上になる。幸い、この日は快晴で、霧もなく、目の前にはダイヤモンドがキラキラ光るような函館の夜景が広がっている。これは絶好の撮影日和りだ。これで夜景見物は、3勝1敗である。さっそく三脚を出し、周りの人の邪魔にならないように立てて写真を撮る。左側の湾の岸壁に係留されているのは、青函連絡船だった摩周丸だ。拡大して撮ってみたら、まあまあ写っている。しばらく撮っていて、たまたま右手の太平洋側を見ると、海の中が煌々と満月に照らされている。そういえば、この数日は、木星が地球に大接近していたはずだ。と思って夜空を見ると、あの満月の左上にある惑星らしき星が木星かもしれない。試しに撮ってみたが、そもそも星を撮るレンズを付けているわけではないし、明るい月が隣にあるから、上手くいかなかった。

 

函館に係留されている青函連絡船だった摩周丸の拡大

 

函館の夜景の拡大


 山頂からロープウェイで降りてきて、そこから日中に見た教会のライトアップを撮りに行った。函館ハリストス正教会は白くライトアップされて清浄無垢、あるいは謹厳な感じがし、函館聖ヨハネ教会は白とオレンジ色のライトアップで、暖かい印象を受けた。
 

函館ハリストス正教会

 

函館聖ヨハネ教会



 


 
 函館への旅(写 真)



 

(2018年5月31日記)





(注)History of Catholic Motomachi Church Catholic Motomachi Church has an old history along with Yamanote Church in Yokohama and Ohura Church in Nagasaki. In 1860, atemporary church was built by the Paris Evangelical Missionary Societypriest Mermet Cachon and was dedicated to the Immaculate Conception of the Blessed Virgin Mary. The present church was constructed in 1924 after the Hakodate Great Fire of 1921. Gothic architecture characterizesits magnificent interior, which is quite rare among cathedrals in Japan. All the statues including the central altar were made of wood in the Tirol district of Italy (now part of Austria) and were sent to this church by Pope Benedict XV.


 

 

 

 

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