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永平寺・東尋坊への旅

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1.はじめに

 いやはや、この旅は天候に恵まれずに終わり、敢えて言えば、失敗だった。まあ、あちらこちらを旅行して回っていると、こういう時もあるだろう。

 私は、小学生の一時期、福井県に住んでいたことがある。昔の家族写真をデジタル化する過程で、昔ながらの観光地である東尋坊や永平寺の写真を見て、非常に懐かしく感じた。東尋坊は、小学校の高学年のときに家族揃って行き、栄螺の壷焼きを食べた思い出があるし、永平寺は、やはりその頃に父と二人で行って、大きな杉の木立に囲まれた僧坊で、精進料理を御馳走になった記憶がある。

 それから半世紀以上の日々が経過し、ようやく時間とお金にいささか余裕ができたことから、今回はこの二ヶ所に行こうと計画した。まずは北陸新幹線で東京から金沢に行き、そこで在来線特急に乗り換えて、芦原温泉駅に着いた。荷物を駅のロッカーに預け、さあ東尋坊行きの京福バスに乗ろうとして観光案内所に立ち寄ると、東尋坊観光船は本日は欠航だという。台風は既に北へ去ったので、もう乗れるものと思い込んでいただけに、ガッカリした。よく調べると、その日の午前9時頃に、観光船のHPのトップページに「欠航」と載っていた。調査不足である。今から思えば、この辺りからケチのつき始めだった。

 さて、どうしたものかと思っていたら、観光案内所の方に、東尋坊から丸岡城を経由して永平寺まで行ける周遊切符があると教えてもらった。丸岡城は先日行ったのでもう行く必要はないとして、それなら、いっそのこと旅行先の計画の順序を逆にし、明日の朝に行くつもりであった永平寺に先に行けば良い。そういうことで、永平寺行きの京福バスに乗車した。ほとんど乗客はいなかったが、永平寺口駅というところからたくさん乗ってきた。福井市内からここまで、「えちぜん鉄道」という電車に乗ってやってきたのだ。「あれ、これは京福電車ではなかったか? なぜ永平寺まで行かないのだろう?」と思って調べた。すると、以前の京福電気鉄道越前本線は、2000年末から翌年にかけて半年間で2度の電車どうしの事故を起こして運休し、収支が悪化した。そこで福井県は第三セクター方式でその事業を継承したが、永平寺線だけは収支の好転が見込めず、廃止されたそうだ。


2.永平寺


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 さて、バスは山道を延々と走って、やっと永平寺に到着した。コインロッカーに荷物を預けようとしたら。ここでまた小さな誤算があった。何とまあ、500円硬貨しか受け付けてくれない。実は、事前にコインロッカー用にと500円硬貨をわざわざ100円硬貨に替えておいたことが、かえって裏目に出たのである。その辺のお土産屋さんが無料で預かるという看板を出していたが、特にiPadがなくなったりすると困る。だから、先に進んで永平寺にあるだろうと期待して行ってみたのだが、着いてみると預けるところはなく、やむを得ずそのまま担いで中に入った。これは、気温32度、しかも蒸し暑い中で、相当、体力を消耗する原因ではなかったかと、後から振り返って思う。ともあれ、小1時間ほどして参拝を終えて出てきた時には、まるでサウナに入っていたように、上半身は汗でずぶ濡れだった。この日は、ペットボトルのお茶と水を、4本も飲んだ。

 曹洞宗永平寺は、開祖道元禅師によって、鎌倉時代の初期である寛永2年(1244年)に坐禅修行の道場として開かれた。道元禅師は、正治2年(1200年)、京都に生まれ、14歳で比叡山で出家して天台宗を修め、24歳で中国に渡る。そこで曹洞宗天童山如浄禅師に出会って修行し、「正法仏法」を受け継いで28歳の時に帰国した。京都深草に興聖寺を建立したが、その活動が大きくなるに連れて比叡山からの弾圧を受ける。そこで、越前国地頭の波田野義重の招きに応じて、越前国に移り、永平寺を開いたと、いただいた参拝のしおりにある。


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 禅宗の寺院では、七堂伽藍が基本で、次の建物から成る。

 (1) 法堂(ほっとう)朝のお勤め等各種法要
 (2) 仏殿(ぶつでん)本尊の釈迦牟尼をお祀り
 (3) 僧堂(そうどう)修行の根本。坐禅・食事・就寝
 (4) 庫院(く い ん)全体の維持管理と食事の用意
 (5) 山門(さんもん)両側に四天王、楼上に五百羅漢
 (6) 東司(と う す)お手洗いで作法がある
 (7) 浴室(よくしつ)身も心も清浄にするため入浴


 これらの建物は山の斜面に建てられており、渡り廊下で相互に繋がっていて、参拝者は、階段を上がったり下ったりしながら、全て見て回ることができる。ただ、この日の福井地方は気温32度の猛暑日で、湿気が非常に高い中だったから、回るのが精一杯で、各建物の意義をじっくりと味わうなどという余裕はなかった。それでも、曹洞宗の僧侶の修行の場としての、雰囲気だけは味わうことができた。夏は暑いが、厳冬期の寒さもひときわ身にこたえることだろう。とりわけ、冬に雪が降りしきる中を、托鉢姿の修行僧たちが民家を訪ねて回る姿の写真が印象に残る。

 なお、永平寺での修行僧の生活は、次のようなものだそうだ。

 (1) 坐禅(ざぜん) 早朝に行う坐禅は修行の根本で、背筋を伸ばして姿勢を正す。
 (2) 朝課(ちょうか)坐禅に引き続いて行う朝のおつとめで、全員で読経する。
 (3) 行鉢(ぎょうはつ)正式な作法に則り食事をする。
 (4) 作務(さむ)坐禅や朝課以外に行う掃除などで、廻廊の雑巾掛けは毎日行う。


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 最後に、吉祥閣で見かけた法話のような額のいくつかを掲げておこう。

 ひとの価値は、地位、財産、職業に関係ありません。知識、能力だけでひとを評価すると、過ちを招きます。知識を生かす心と行いこそ大切です。ひとの価値は、心と行いから生ずるのです。

 人生に定年はありません。老後も余生もないのです。死を迎えるその一瞬までは人生の現役です。人生の現役とは自らの人生を悔いなく生き切る人のことです。そこには「老い」や「死」への恐れはなく「尊く美しく老い」と「安らかな死」があるばかりです。

 生まれて死ぬ一度の人生をどう生きるか。それが仏法の根本問題です。長生きすることが幸せでしょうか。そうでもありません。短命で死ぬのが不幸でしょうか。そうでもありません。問題はどう生きるかなのです。

 生まれたものは死に、会ったものは別れ、持ったものは失い、作ったものはこわれます。時は矢のように去っていきます。全てが「無常」です。この世において、無常ならざるものはあるのでしょうか。

 満天の星が輝く宇宙よ! 母なる太陽を慕いつつ、今日も銀河空間を渡る美しい地球よ! 地球は青い一顆の明珠・・・一千、一万、一億、一兆年、無量百千万億阿僧祇劫∞、美しい地球よ永遠に!


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3.東尋坊


東尋坊観光船




 翌日は、再び芦原温泉駅まで行って、荷物を預け、東尋坊行きの京福バスに乗った。この日もまた気温33度を超える真夏日である。本日の観光船は、東尋坊からではなくて、その先の三国サンセットビーチから乗船ということで、それには米ヶ脇北バス停で降りなければならないという。45分ほど走り、東尋坊を過ぎて、そこに着いた。桟橋で何人かが釣りをしている小さな漁港である。そこに、漁船を改造したような船があった。一見すると小さく見えるが、定員は81名だという。チケットを買うと、船の中に入れてくれた。外は焼け付くような日光が降り注いで日差しを遮る所もないので、これはありがたかった。船の中に運転席があり、あとは座席がずらりと並んでいる。私はその船の最初の客だったので、運転席の隣の最前の席に座った。冷房が効いていて、快適である。

 ほぼ満席となり、観光船は出発した。波が荒い。防波堤の内側はまだ良かったが、外に出ると、まるで木の葉のように揺れる。左に20度くらい傾いたかと思うと、次の瞬間には右にそれくらい傾くローリングがあったかと思えば、波乗りしているようなピッチングが続く。これで波高50センチだそうだ。一昨日、北海道沖に去った台風の置き土産らしい。これでは、船に酔ってしまうと思って、近くを見ないで、なるべく遠くの景色を見るようにした。


雄島に繋がっている赤い歩道橋


沖から見た雄島




 船は、東尋坊の沖を通って一路、雄島に向かう。この島は無人で、大湊神社があって、新造船の進水のときには、必ずお祓いをしてもらうそうだ。本土とは、赤い歩道橋で繋がっている。信仰のおかげで、太古からの原生林が残っているそうだから、後から、行って見ようと思った。その雄島沖で船はいったん停まったものだから、ピッチングとローリングが激しくなった。いや、これは堪らない。カメラのファインダーを覗いていると、船酔いが進んで気持ちが悪くなる。


沖から見た東尋坊


沖から見た東尋坊




 雄島沖合いでUターンして、やっと帰るようだ。船が動き出すと、少しは船酔いが楽になる。でも、写真を撮る気が起こらない。液晶画面を見ながら適当にシャッターボタンを押すだけだ。それが精一杯で、構図の選択や露出の調整など、とてもできたものではない。船長が何やら説明してくれるが、耳に入らない。全然、覚えていないので、いただいたパンフレットに書かれているところによると、「約1キロにも及ぶ海食景観断崖に日本海の荒波が打ち砕ける東尋坊の見所は、何といっても波の浸食によって荒波が打ち寄せるさまは、実に豪快。これほど巨大な輝石安山岩の柱状節理は、日本ではここ一ヶ所しかなく、地質学的にも貴重で、国の天然記念物にも指定されています。」とのこと。


沖から見た東尋坊


沖から見た東尋坊




 そういえば、なぜ東尋坊というかというと、伝説が残っている。1300年前に開かれた名刹の平泉寺に、東尋坊と称する坊主がいて、日頃から乱暴のし放題だったが、それに加えてある姫君を巡って別の坊主と争っていた。あるとき、その恋敵がもう我慢ならずばかりに、皆で酒盛りをして、東尋坊を酔い潰した。そこで、その身体を持ち上げて、崖から突き落として殺してしまった。それ以後、その崖を東尋坊と呼ぶようになったそうだ。虎は死んで毛皮を残し、東尋坊は死んでその名が残ったというわけだ。そのせいかどうかはよく知らないが、今日でも投身自殺がしばしば見受けられる。船長によれば、ここで身を投げると、まず7割は助からないという。


沖から見た東尋坊


沖から見た東尋坊




 あれあれ、船酔いがきつくなって、船長の説明など、もはやどうでもよくなった。ハチの巣岩、夫婦岩、大池、ライオン岩、ローソク岩などというが、少しも頭に入らない。そのうち、ようやく三国サンセットビーチに帰り着き、ほっとした。用意されてあったビニール袋を使わずに済んだ。船を降りて浜辺に降り立ったが、まだ船酔いの気分だ。しばらく休めれば良かったのだが、すぐにバスが来た。東尋坊と雄島に行くつもりで乗ったが、いやもう、気持ちが悪くてそれどころではなくなった。そのまま、芦原温泉駅に着き、次の目的地である金沢方面に向かう特急に飛び乗った。うつらうつらしながら軽い眠りにつき、1時間ほど乗って目的地に着く頃には、ようやく気分が良くなった。


福井駅前広場にある動く恐竜の像




 話は飛ぶが、前日は、福井市内に泊まったのだが、福井駅前広場に、3匹の恐竜の大きな像があって、しかもそれらが唸り声をあげて動くから面白い。永平寺の先の勝山には福井県立恐竜博物館があるそうだ。私は、恐竜にはあまり関心がないので行く気にはならなかったが、興味のある子供さんには、さぞかし楽しいだろうと思う。

 私が福井市にいた半世紀以上前の頃には、現在のように恐竜が丸ごと発掘されるなどということは全然予想もされていなかった。ただ、中生代ジュラ紀から白亜紀にかけて形成された手取層群には、植物の化石が出ることだけは知られていた。私の中学の先生も、化石の専門家であった。我々生徒もその影響を受けて、金づちを持って山の谷川筋に化石の採取に出掛けたものである。私は、葉っぱの化石を見つけて、先生に鑑定してもらったことがある。そうしたある日のこと、1人で山に出掛けた私は、こぶし大の金色に光る石を見つけた。綺麗な立方体をしていて表面が滑らかで、しかもピカピカと光っている。私は、「金ではないか」と思って、胸の鼓動が早くなった。それを大事に持ち帰り、翌日、先生に「これは金ですか?」と勢い込んで見せた。すると「なーんだ。黄鉄鉱だね。『愚か者の金』というんだよ。」と言われてしまった。

 金だったらどうしようと思いながら、一晩まんじりともせずに過ごしたあの頃の愚者の自分が懐かしい。それから半世紀以上も経って、少しは賢者になったのだろうか・・・いやいや、本質的には、あまり変わっていない気がする。ともあれ、聞いて良かった。さきほどの永平寺風でいえば、こうなる。

 ひとに聞くことを恥じたり、おそれたりしてはいけません。むしろ、ひとに聞かないで、知ったかぶりをしたり、いつまでも知らないままでいることを恥じるべきです。




(2018年8月27日記)


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