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骨折顛末記

手術直後の左手



1.骨折の日

 風呂場の僅かな水たまりに、つい足を取られて、大きくスリップしてしまった。頭を打たないよう咄嗟に左半身から落ちたが、そのときに、左手を不自然な形で床につき、そのところに全体重がかったようで、「ガキッ」という音がした。「ああ、左手を骨折したみたいだ。」と思った。どんどん膨れてくる。5本の指は少しは動くから、これは腕の骨の問題だ。机の上に腕と手首を乗せると、スプーンを下向きに置いたような不自然な形になっている。一応は歩けそうだが、余りの痛さに、いつもの病院までたどり着けるかわからない。仕方がないので、救急車を呼んでもらった。私は、救急車に同乗して患者とともに病院に行ったことは何度かあるが、自分が患者になるとは思わなかった。

 救急車に乗る前に、健康保険証と病院の診察カードを用意した。救急車に乗ったのはよいが、馴染みのない病院に送ってもらって、妙な治療をしてもらっても困るからだ。特にこれは、ややこしそうな骨折なので、自分が信頼できる病院の方が安心だ。救急車の中で隊員に診察カードを渡すと、それを元に病院に電話をしてくれて、受け入れ準備が整った。外出をしていた家内と携帯電話で連絡をとり、病院で落ち合うことにした。ほっと安心して、救急車の車内から、どこを走っているかを見ていたが、そのうちに痛くて、それどころではなくなった。

 やっと、病院に着いた。最初は歩いて中に入ったが、そのうち、車椅子に乗せられて、救急外来の中に入った。直ぐにエックス線室に連れていかれ、手を伏せた形と、手を縦にした形の写真を撮られた。それから診察室に戻ると、担当医が「折れていますね。左手の『橈骨(とうこつ』という親指側の太い骨の、手首に近いところが粉砕していて、『左橈骨遠端位骨折』と言います。」

 私が「単純骨折ではないんですか。それだとギプスで巻いて固定しておくだけですよね。」と聞くと、担当医は「いや、手首との接続部分が砕けているので、金属プレートを入れる手術をすることになります。」おやおや、これは大変、面倒なことになった。そこで、どうせ手術というのなら、早くやってもらおう、その方が直りも早いと思い、「では、直ぐに手術をお願いします。」と頼んだ。そうすると、1週間後だという。私は、「今日、明日というのは駄目ですか。」と粘ると、担当医は「それだと、金属プレートが用意できなくて、できないんですよ。」という。私が「では、4日又は5日後では、いかがですか。」再び担当医は席を外して調整に出かけた。そして、帰ってきてこう言う。「残念ながら、麻酔科の先生の時間が取れなくて、駄目なんです。手術が骨折の当日でも、1週間後でも、予後は変わりないというデータもあります。」・・・この最後の言葉が決め手となって、では仕方がない。その日程でお願いしますということになった。

 その若くて元気のよい担当医の先生は、「まず、とりあえずは手技で整復します。痛いですよ。」と言いつつ、2人がかりで手首と肘を引っ張ってくれた。相当に痛かったが、整復後は気のせいかもしれないが、親指の可動域が少々良くなった。それから担当医は、骨折した方の腕の肘から手首までを覆うギプスをはめてくれたのであるが、ギプスといっても、昔のものとは全くイメージが違っていた。昔のやり方は、石膏液に浸した包帯を先生が白くなりながら患部に巻いていって、それが固まると、カチンカチンの石のようになる。それがギプスだった。ところが今回は、1本の板を肘で折り曲げて両端を手首まで持ってきて、その長い「U」字形の底の空間をつぼめ、全体を包帯で巻いて出来上がりである。これだと、包帯を外しても、底の空間から落ちないし、上の空間から手を取り出せる。シャワーで洗ってもよいとのこと。なるほど、これは進化したものだ。昔は、夏の真っ盛りに2ヶ月間もギプスと包帯をすると、痒くて不潔で嫌になったものだが、今やそういうことはない。

 その日は、そのギプス姿で、家内とともにタクシーに乗って自宅へ帰った。痛いときには、痛み止めのロキソニンとその副作用防止のために胃薬のムコスタを飲むようにと言われた。でも、起きている時は何かと気が紛れていて、さほどの痛さは感じない。しかしながら、寝床に入ると、やはり痛い。そういう訳で、寝はじめに1錠ずつ飲んだ。私は普段からなるべく余計な薬は飲まない主義だ。ただこのような場合、強い痛さを無理に我慢すると、神経が馬鹿になってそれ以降、痛くないときにも痛いと感じるときがあるとも聞いたので、やむを得ない。夜中、眠たくなって寝入り、痛くて起きてを繰り返したが、わざわざ痛み止めを飲むために起きるのも面倒だと思っているうちに朝になった。


2.手術の日まで

 さて、怪我の翌日は、よんどころのない用事で、いつものように出勤した。問題は、背広を着ることができるかどうかであったが、これも軽量ギプスのおかげで何とか背広の腕を通すことができた。すると、左腕がやや曲がって見えるくらいで、遠目には分からない。痛さは前日と変わらず、痛いには痛いが、仕事に穴を開ける訳にはいかない。そういうことで一日を過ごし、加えて忘年会にまで出た。

 忘年会では、最初の挨拶を頼まれていたので、今年の初めに当オフィスで亡くなった方の思い出に触れた後、「今年は6月から7月にかけて西日本を襲った大豪雨、9月の北海道胆振東部地震など、災害の多い年だった。だから京都清水寺の貫主の書く今年の漢字は『災』だそうだ。どこかよそ事のような気がしていたが、このように自分の身に降りかかって、実感した。」などと語り、笑いをとった。もう、笑い話にするほかない。

 翌日は休日だったので、以前から誘われていた孫娘の幼稚園のクリスマス会に行ってきた。痛みを紛らすには、ちょうどいい。息子一家に会い、息子とお嫁さんには驚かれたが、とりあえず左手が使えないだけだから、心配することはないと言っておいた。面白いのは6歳の孫娘の反応で、家内が「おじいさんは、手を怪我したの。」と言うと、「ああ、骨折ね。」と、事もなげに言ったそうだ。最近の子は、何でも理解が早い。

 クリスマス会という学芸会が始まった。例年、卒園間近の子たちが演じるらしい。題目は、イエス様の誕生だ。天使、羊飼い、東方の三賢人、宿屋の主人と女主人それぞれの服装をした子たちが出てきて、一言ずつ伝言ゲームのように台詞を語る。それどころか、踊って歌う役柄もあるから、ミュージカルにもなっている。「あれ、ウチの孫娘はどこかな。」と思っていたら、何と、マリア様として堂々と登場し、ステージのど真ん中を占めた。息子もそのキャスティングを知らなかったようで、驚いていた。終わったとき、盛大な拍手を送ろうとしたが、左手が使えないのに気がついた。

 ところで、私は小さい頃、なぜイエス・キリストが厩で生まれたのかと不思議に思っていたが、今回の学芸会でようやく理由がわかった。住民登録のためにベツレヘムの町に赴いたヨセフとマリアが宿を探したが、どこもいっぱいで、ようやくある宿屋の女主人の好意で馬小屋に泊まらせてもらい、そこでイエスを生み、飼い葉桶に寝かせたそうな。そのときに天使が羊飼いに救い主の誕生を告げ、東方の三賢人も星に導かれてイエスを拝みにくる。なるほど、クリスマスにふさわしいお話だった。

 翌週は、いくつかの夜の会食や忘年パーティの予定が入っていたが、申し訳ないと言いつつ、夜の予定は全てキャンセルさせてもらった。その代わり、昼のスケジュールには穴を開けないように努め、全てこなした。この頃になると、腕は、ギプスの効果なのか、無理に動かさない限り、余り痛くはなくなった。ただ、長袖の下着が着られないのには困った。そこで、やや古めの長袖下着の左袖を半分にカットした。こうすると、当たり前だが、左袖にギプスを通すことが簡単になる。ワイシャツは、何とかギプス部分が入る。もちろん、袖のボタンは留められない。そこにスーツのジャケットの袖をやっと通して、仕事着の出来上がりだ。

 そういうことで、仕事はできるし、骨折部はさほど痛くはなくなったのだが、その代わり、腕の腫れはなかなか引かない。担当医の先生は、腕を心臓より上にあげていると、浮腫みが良くなるとは言うが、仕事しているときなどは、そうそう、そんな動作をしておられない。それに、冷やせとも言われたが、これも氷嚢は病院や自宅では用意できるものの、やはり昼間は無理だ。ただ、後から振り返ってみると、どちらも工夫して丁寧にやってみるべきだった。特に、冷やすのには、別に氷嚢を使わなくても、「熱さまシート」や「冷えピタ」の8時間用を使えばよい。これは、その部分の体温を2度下げる効果があるといい、気持ちがよかった。また、手を吊る三角巾は最近ではなかなか格好がよくなっているし、ギプスを付けて身体を洗うのは面倒なものだが、そのための専用のカバーもある。いずれもアマゾンで簡単に入手できる。便利になったものだ。



熱さまシート


三角巾


ギプスを付けて身体を洗う専用のカバー




3.手術の2泊3日

 待ち遠しく思えた手術の日が、やっと来た。1週間前に骨折したが、痛みはさほどではなくなったので、できればこのまま放置しておくと首尾よく治るというのが望ましいところだが、それでは左手の可動域が狭まるなどの問題が残るというので、手術はやむを得ない。2泊3日の予定である。その前日の夕方、病院に入院した。個室を頼んでいたのに、病室の空き具合から2人部屋になってしまった。私は、他人の鼾を聞くと寝られない質なので、これには困ったなと思ったが、今更やむを得ない。どうせ手術直後は寝られないから、同じことだと諦めた。

 その夕刻には、担当医と助手を務めてくれる先生が病室までやってきて、手術に当たっての一般的注意や、全身麻酔下の手術の注意などを聞く。中でも、肺血栓閉塞症予防のための注意は詳しかった。手術箇所を間違えないようにと、左手の黒のマジックで矢印を付けられたのは、可笑しかった。まあ、私の場合は腫れているのが左手なので、すぐにわかるとは思うが、用心するに越したことはない。

 そして、橈骨遠端位骨折手術説明書に基づいて丁寧に説明してくれた。この骨折には保存療法(ギプス固定)と手術療法とがあるが、一般的にズレが大きく徒手的整復が困難な場合、骨折が関節面に達している場合には、将来変形性関節症が起こる可能性が高いため、手術療法が選択されるそうだ。手術法は、掌側の手首当たりに6センチ程度の皮膚切開を行い、橈骨の骨折部に達し、骨折部の整復をした後、金属のプレートスクリューで固定するとの由。この手術の効果としては、骨折部を固定することで早期から関節可動域訓練を行うことができるので、関節の拘縮や筋力低下を抑えられる。また、将来の変形性関節症の発生を減少させられるという。術後1ないし2週間で手関節の運動を開始する。ただし、手を突いて荷重をかけることはしない。基本的に骨融合が見られた後は、通常は1年ほど後に、金属を除去することが多いという。ならば、そうしようと思う。それから、手術同意書、輸血同意書(万が一のもので、結局、輸血はしなかった。)、肺血栓閉塞症説明書及び麻酔説明書の確認と同意書に署名した。

 それが終わったが、夕食はもらえないし、することがないので、トイレの後に、消灯時間の午後9時から寝はじめた。ところが、いつもの就寝時間より3時間も早いので、余り寝られたものではない。案の定、隣人が大音量で鼾をかき始めた。これは困ったと思っているうちに、いつしか寝てしまった。朝、起床時間の午前6時前に起きたので、500ccの水を飲み、午前8時近くにもう一度、指定されたOS1のボトルを一本飲んだ。それで待っていると、朝の早い時間にもかかわらず、家内がやってきてくれた。これは、とても有り難く感じた。次に、担当医と助手を務めてくれる先生が様子を見にやってきてくれた。早ければ午後1時、遅くとも3時ということだった。

 待っていたら、ようやく午後2時近くに呼びに来てくれたので、歩いて手術室に向かった。家内が付き添ってくれる。入り口に患者3人が集まったところで、順に中へ入って行った。幅の細い手術台に寝かされて、その左側に手を置く台がある。これなら、左右を間違えられることはない。横たわって天井を見上げると、電球が何個も着いた手術専用の丸い形のライトがある。名前と右手首のバーコードが確認され、腕から点滴をされ、胸にモニター用の電極がつけられて、口に酸素マスクが当てられた。麻酔科の先生が、「今から始めます。」と言っていたのを聞いてしばらくして意識が遠のいた。点滴で麻酔薬が入ったらしい。かくして、生まれて初めての全身麻酔が始まった。

 目を覚ますと、病室のベッドの上で、家内が心配そうに覗き込んでいる。まだ十分には覚醒していないので、意識は晴れず、淀んでいる。家内に時間を聞くと、午後5時頃に手術室から病室に戻ってきたそうだ。左手を見ると、包帯でぐるぐる巻きにされている。ところが、左肩から下の感覚は全然なくて、指の感触はもちろん、手が今どこの位置にあるのか、そもそも左手があるのかどうかもわからない。意識は戻りつつあるのに、これはどうしたことだと思って担当医に聞くと、左肩に神経ブロックをしたので、その影響らしい。全身麻酔より3時間ほど遅れて午前1時頃には感覚が戻るが、それから猛烈に痛くなるので、痛み止めの点滴をするという。実際、その時間になると、激烈な痛みが襲ってきた。左手を冷やすと、やや良くなるが、それだけではどうにもならず、痛みと戦いながら、朝を迎えた。

 ちなみに家内はといえば、お見舞い者の退出時間の午後8時に帰らざるを得ず、それからは、トイレに行くにしても、水を飲むにしても、身体中につけられたモニターの電極、右手親指の酸素濃度計、鼻から吸入する酸素などのコードや管が身体の自由を奪っている中、それに抗する形で起き上がり、点滴のスタンドを右手だけで引きながら、大変な思いをしながら行ったものである。看護師さんにはよく助けてもらったが、深夜の担当は数時間ごとに変わるので、「トイレに行くときは、ナースコールで呼んでください。」という人から、「これくらいは自分でやってください。」という人まで様々である。ところがいざ自分でやろうとすると、左手の自由が効かないし、暗い中でコードに引っかかって身体につけられた電極や、鼻に掛けられた酸素吸入チューブが飛んだりと、散々の結果となってしまい、結局、ナースコールに頼ることが3回ほどあった。

 病室に帰って来た時、2人部屋病室の相方が退院したらしい。別の病気で2日間の検査入院のはずが、検査の結果、前立腺ガンが 見つかって、有明のガンセンターに行くことになったと言っていた。「それは大変、お大事に」と励ましておいたが、挨拶の間もなく、転院したらしい。それで、今晩は1人だと思っていたら、日が変わる頃、看護師に連れられて、高齢の男性が隣のベッドに入って来た。そして、こう言う。「(前の部屋の)同室者の鼾が酷く、寝られない。よろしくお願いします。」と言う。「それは、大変でしたね。」と答えたが、こちらは左肩より先が麻痺して、その先は会話にならないし、相方も直ぐに寝てしまった。そして、高鼾をかき始めたから、思わず笑ってしまう。

 隣の鼾のバックグランド・ミュージックも、普段なら非常に困るところだが、この手術の当日に限っては、そうでもなくて、手の痛さを紛らせてくれた。何が幸いするかわからないものだ。神経ブロックの効果が切れた午前1時頃から、点滴で痛み止め薬が投与されたものの、ほとんど効果が実感できない。うつらうつらしてかなり時間が経ったのではないかと思ってiPhone で時間を確認すると、まだ午前2時だ。そんなことの繰り返しで、何とか起床時間の午前6時になった。その頃には、全身麻酔の影響が薄れてきて、頭の中がスッキリしてきた。「良し、これでいける。」という気がしてきた。すると、お腹が空いてくる。そういえば、この1日は、お腹に固形物が入っていない。現金なものだ。



オプサイト・フレキフィックス


 午前7時半頃に朝食を持ってきてくれたので、さあいただこうとしていたところに、担当医と助手の先生がやって来られて、左手の様子を診てくれた。まず包帯を外したところ、傷口が見えた。6cmもの長さだから、てっきり数針縫ってあると思ったら、案に相違して、白い横筋が入った透明な医療用テープが貼られているだけだ。それを、エタノールの脱脂綿で拭いてくれる。その上から、医療用の「オプサイト・フレキフィックス」という名称の、真ん中は白い布だがその上から周辺まで含めて透明なフィルムで覆われたものを貼り付けてくれた。何と、それで終わりで、ギプスもない。こんなので本当に大丈夫かと心配になるくらいだ。担当医によると、この方が、治りは早いし傷跡も残らず綺麗になるし、ギプスがないからリハビリを早い時期から行えるという。また、昔は消毒液を付けたが、そうするとかえって治りが遅いので、今では水道水の流水で流し、綺麗な布で拭いて、こういうフィルムで覆っていけば良いそうだ。また、金属プレートが入った私の手のレントゲン写真を見せてくれた。悲しいかな、文字通りのサイボーグ人間になってしまった。しかし、そのうち、これを取り出せば、再び普通の人間に戻るというわけだ。


手の写真


手のレントゲン写真


 ギプスが取れてスッキリしたが、未だに膨れている左手を見つつ、朝食をパクパク食べて、少しは元気になった。それで身支度をし、家内に助けてもらいながら退院の手続きをし、しかるのちに、病院から直接、仕事場に向かった。痛みはあるので、我慢せずに、痛み止めの薬のロキソニンと、その副作用防止のレバミピド(ムコスタ)を飲むことにした。その他、感染症予防のために、抗生物質のケフラールを毎食毎、4時間の間隔を開けて3日間連続して飲むようにと言われた。これは、飲み切って終了だそうだ。退院時の体温は37.1度と、少し上がっていた。その日は、いつものように出勤して仕事をした後、夕方に帰宅した。


痛み止めの薬のロキソニンと、その副作用防止のレバミピド(ムコスタ)


抗生物質のケフラール




4.リハビリの日々

 担当医の助手が、 「早めに指のリハビリをして下さいね。特に指を反り返らせるようにしないと、将来、十分に曲がらなくなりますから、グーとパーを繰り返して下さい。」という。そんなものかと思うが、手術が終わってその当日、いざやってみると、あれあれ、そもそも指が2cmしか曲がらない。親指に至っては、1cmがやっとだ。反り返らせるなんて、とんでもない。だいたい、その前に肘のところが90度に固まっていて、動かせない。ところがこれは、30分間ほど、伸ばしたり、縮めたりを繰り返したら、痛さを感じないで出来るようになった。それにしても、たった1週間、三角巾で吊っていただけでこうなるとは、恐るべきものだ。これを筋肉の「拘縮」というらしい。こういうことがあるから、健康になっても、できるだけ毎日、身体を動かさないといけないと思う。



まず、指先からのリハビリ


 肘は何とかなったので、次は指の番だ。手術翌日と翌々日に、痛さに堪えながら曲げていく。30分もやっていると、4本の指が掌に届くようになった。次は、親指だ。これは、だいたい第1関節がちゃんと動かせないから、拳を作ることが中途半端になる。ただ、指を反り返らせるのは、まだ無理だ。この調子では、時間がかかる。それと同時に、力を要しない日常の動作をすることにした。まずは、マウスを持って机の上のあちこちに動かす。次に、ピーナッツの粒を親指と他の指に挟んで、左から右へと20個動かす。本を持って、場所を移動させる。日に日に、出来ることが増えていくのは楽しみだ。それにしても、たった1回、転んだだけで、こうなってしまうとは思わなかった。人生、至るところに陥穽ありということか。いずれにせよ、家内には心配をかけたので、誠に申し訳なく思っている。また、病室では献身的に付き添ってくれた。心から感謝している。

 次に担当医の先生に診てもらうのは、手術から10日後になる。それまで、リハビリをどうしようかと思ってネットで検索したところ、「済生会小樽病院」のハンドブックがあった。「橈骨遠端位骨折術後の作業療法(リハビリテーション)」というもので、非常によく出来た冊子だ。有り難い。これに従って、リハビリを地道に続けていくことにした。それにしても、今年はまさに「災」の年(annus horribilis)だった。来年は、良い年であることを期待しよう。




【後日談1】術後10日

 手術から10日後、手術していただいた先生の元を訪れて、診てもらった。患部に貼られた医療用の「オプサイト・フレキフィックス」を剥がすと、切開されたところに医療用のテープで固定している部分がむき出しになる。そして、「ああ、心配ありませんね。化膿もせず、ちゃんと傷口は閉じています。では、このままで。」と軽く言われた。


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 私が、「ええっ! 何も貼らないのですか?」と聞くと、

 先生は、「この方が治りは早いんです。」と答える。「それから、なるべく手の甲を前と後ろに曲げるリハビリをして下さいね。」と付け加える。

 私が、手の傷口を見ながら「はあ、やってみます。」と言って頭を上げると、もう先生の姿はカーテンの陰に消えていた。文字通りの1分診療だ。年末年始の休み中だから、診てもらっただけでも、良しとしよう。




【後日談2】術後20日

 手術後20日経過したので、担当医に診てもらいに行った。手首のレントゲン写真を縦と横の2方向から撮り、その画面を拡大していく。すると、埋め込まれた金属プレート(掌側ロッキングプレート)のちょうど裏側で、手の甲と橈骨の繋ぎ目の付近において、骨が三角形に小さく欠けている。先生に「ああ、これですね。」と言うと、「そうです。」と応じてくれる。その辺りの骨の角度を測って、何やら検討してくれている。そして「まあ、骨とプレートの状態は、これでよろしいでしょう。あとは、傷口が縫合しているかどうかだけど・・・」といいながら手首の医療用のテープを剥がしていき、「うん、いいですね。これも治っています。」と言ってくれた。テープを剥がして現れた傷口は、まるで魚の骨のようだった。無理に触らない限り、もう痛みなどは、全くない。


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 次に、「手と手首の動きはどうですか?」と聞くので、手の開閉、手首の左右への回転をやってみせて、「自主的にリハビリをやっていまして、まあ、8割ほどは回復しています。」と答えた。「では、引き続きリハビリを続けてください。ただし、手の自重の範囲内にとどめて、重い物は持たないで下さい。次は、1月半後にまた診ます。」と言われた。

 私が、「この調子で手の動きが順調に治っていくなら、3月からテニスを再開しよう思いますが、どうですか?」と聞いた。すると、「とんでもない。手がちゃんとくっつくのに、半年はかかりますから、まだしないで下さい。その間、患部がずれてしまったら、再手術が必要になります。」と言われてしまい、ガッカリした。でも、私のテニスはバックバンドも含めて健常な腕の右手一本でやっているから、怪我をした左手は使わない。だから、5月頃になったら再開したいと考えている。

 なお、これからのリハビリは、インターネットで調べた竹中準先生のリハビリテーション・マニュアルを参考にしたいと考えている。



【後日談3】術後30日

 リハビリは順調に進んでいる。指のグーとパー、手首の左右への回転は、稼動範囲はもう右手と変わらなくなった。次に、掌を上下に曲げようとしている。これも8割くらいは出来るようになった。しかし、これらを組み合わせて、例えばシートベルトを締めるために引き出したり、ネクタイを締めるために斜めに曲げたりすると、まだ痛さを感じる。次第に痛さは弱くなりつつあるが、無理をしない範囲内で毎日少しずつやっている。

 最近始めたのが500ccのペットボトルを左手首に持って腕を机の上に置き、手首を机の端から出してペットボトルを上下させるという運動である。最初はかなり痛かった。だから、水の量を三分の一くらいから始めて3日間かけてようやくフルタンクで動かせるようになった。

 リハビリのマニュアルによると、そろそろ左手でガラス拭きのような「手を突いた」運動を始める時期なのだそうだ。そこで、風呂場の鏡などをそろりそろりと拭いているが、特段の痛さは感じていない。まあ、3か月で稼動範囲が以前の80%、力が同じく70%戻るというのがリハビリの目標なので、この調子でいくと、軽く超えそうだ。

 話は変わるが、病院から昨年の救急診療代と入院・手術代の請求書が来た。ちょうど20万円だった。差額ベッド代が、本来なら個室でそれだけで15万円であるはずのところ、結果的に2人部屋になってしまったことから、この値段で済んだようだ。ところで、私は掛け捨ての都民共済の保険に入っている。今まで病気も怪我もしたことがないことから、そもそも保険金を請求したことがない。だからいくら保険金が降りるのか知らなかった。

 そこで、今回、請求してみることとし、その前に保険約款などを見て自分なりに計算したところ、保険金は12万5千円だった。入院特約10万円というのを付加していたのが効いたようだ。そこで診断書を付けて請求してみたところ、まさにその額が出た。そうすると、自己負担は、僅か7万5千円ということになる。だから、経済的には助かるが、「あれほどの怪我なのに、これだけの負担でよいものか。」という気すらするくらいだ。こういうところを見ると、日本が高福祉国家であるのは、間違いない。でも、高福祉がいつまでも続くという甘い期待(むしろ「幻想」か?)は持たずに、今のうちから、しっかり貯蓄しておく方が無難だろうと思う。



【後日談4】術後50日

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 前回の診察から30日が経ち、診察を受けに行った。レントゲン写真では、骨折した窪みにうっすらと影ができつつある(上の写真の赤丸部分)。先生のコメントは、「順調に回復していますね。」とのこと。実は、日常生活では重い物は持たないようにしているが、それ以外では、よほど極端なことをしない限り、何をやっても、もう痛みは全くない。手術でカットされた傷口も、順調に閉じてきているので、これも問題ないそうだ。 。

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 怪我した左手の可動範囲のチェックとして、両手を拝むように重ね、次にその状態で両手の指先を真下に向けて、両手を比較する。そうすると、左手首の角度がまだ少々、右手首ほどは曲がっていない。あと1割程度というところか。先生は、「もうほんの少しですね。ただ、今のところはまだ負荷をかけないでください。ペットボトル程度なら結構です。」と言う。そして、「では、次回は1月半後で、握力測定をしましょう。」とのこと。

 お礼を言って診察室から出てきて、診療点数の計算のために並ぶと、そこでたまたま先輩に会った。それから支払いの順番待ちをしているときに、ついついお互いの病状の紹介となる。私は、左手首の傷痕と、金属プレートが映ったレントゲン写真を見せた。すると一言「こけたのか。まあ、歳だな」。昔から、口の悪いことで有名だった人なので、相変わらずだ。「先輩は、どうされたんですか。」と聞いた。すると、

「SCCという腫瘍マーカーがあるんだ。これは扁平上皮癌関連抗原で、例えば食道癌、肺癌などの扁平上皮癌があるときに出てくるらしい。その数値が上がってきてね。医者に言われてPETを受けたら、肺の端っこに光るものがあるんだよね。医者は『早い方が内視鏡で取れる』と言うんだけど、この歳だから決心がつかなくて、データを全部貰ってセカンドオピニオンを貰おうと思ってるところなんだ。」と言う。

 これは、かなり深刻だ。私は、「そんなものを待っていて数ヶ月経つと、癌がどんどん大きくなって内視鏡では取りきれなくなるから、そりゃあ迷わずに、さっさと早く切ってもらってはどうですか。」と言っておいた。先程の敵討ちという意味もないではないが、やはりこういう場合は、内視鏡なら身体へのダメージはさほど大きくないのだから、手術は可能な限り早めにすべきではないのかと思う。ともあれ、お互いに身体をいたわり合って別れた。こういうところは、歳をとって素直になったところである。




【後日談5】術後1年


      骨折手術後金属片取出し(エッセイ)









(2018年12月24日記。2019年1月・2月・12月追記)


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