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天橋立・舞鶴・蘇洞門への旅

天橋立


1.天橋立

 京都府の日本海側を旅する機会があり、まず天橋立に行ってみた。そのきっかけを作ったのは、父の遺品のアルバムだ。父が亡くなってしばらくして、遺品のアルバムを整理していたところ、父が両脚を広げてその股の間から向こうを覗いている写真を見つけた。妙なことをやっているなと一瞬思ったが、背景の景色を見て何の写真かがわかった。これは、天橋立の名物「股のぞき」なのだ。ああ、父も天橋立に行って、実際にやってみたのだと思うと、無性に行きたくなったというわけである。ちなみに、私はこれまで、当地を訪れたことはないから楽しみだ。

 ところが、天橋立にたどり着くには、かなり遠い道のりなのである。東京から京都までは、新幹線のぞみで2時間15分ほどであるのに対し、京都から天橋立まで、それとほぼ同じくらいかかる。まず、京都から宮津まで特急はしだて号で行き、そこから私鉄の京丹後鉄道で天橋立駅に行くと、連絡が良い場合で2時間、連絡が悪い場合は更に45分ほどかかることがある。行程に慣れてないせいか、非常に長くか感じる。もちろん飛行場もないから飛行機が使えない。ただ、京都から天橋立まで行く高速バスの便があるようだから、乗り換える必要がないので、そちらの方が楽かもしれない。

 ともあれ、私は天橋立駅に降り立った。駅構内に観光案内所があって、幾つかパンフレットをもらった。駅を出たところ、ふと目の前にあるホテルが視界に入る。今晩泊めてもらう天橋立ホテルだ。これはわかりやすい場所にある。チェックインして荷物を置き、早速、近くの桟橋から観光船に乗った。対岸の傘松公園から天橋立を眺めに行くためだ。


天橋立


天橋立


天橋立


 観光船が通るのは、天橋立で仕切られた「宮津湾」の内側にある「阿蘇海」である。船は出発したが、海の上から見る天橋立は、単なる海岸の松林のように見えるだけで、景色としてはとても単調だ。この退屈なままで対岸に着くのかと思ったら、そうでもなくて、空中でぎゃあぎゃあと大騒ぎが起こった。一緒に船の屋根のない最上階に上っていた親子連れが、空に向かってお菓子を投げ始めたからである。するとそれを狙ってたくさんのカモメが集まってきて、奪い合いの大騒ぎになった。

天橋立


天橋立


 観光船のスピードはかなりあるので、カモメたちはそれに飛行しながら追い付くのも大変なのに、その上、空に投げられたあの小さなお菓子を空中で器用にキャッチするのである。大変な運動神経を持つものだ。気のせいか、カモメがお菓子をキャッチした瞬間、ニヤリと笑うような表情をするから面白い。その写真を撮りながら、国定公園の中でこんなことをやって良いのだろうかと考えたりするのだが、どうも観光船は放任しているようだ。

天橋立


天橋立


 さて、わずか15分で対岸に到着した。船着き場からすぐのところに、「丹後一の宮 元伊勢 籠(この)神社」がある。とても由緒ある神社のようで、そのHPによれば「第10代崇神天皇の御代に天照大神が倭国笠縫邑からお遷りになり、天照大神と豊受大神を吉佐宮(よさのみや)という宮号でご一緒に4年間お祀り申し上げました。その後天照大神は第11代垂仁天皇の御代に、又豊受大神は第21代雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢にお遷りになりました。それに依って当社は伊勢神宮内宮の元宮、更に外宮の元宮という意味で『元伊勢』と呼ばれております。」なるほど、これは古いわけだ。

天橋立


天橋立


 この神社の中を通ってケーブルカー乗り場まで行く。かわいい乗り場があり、ケーブルがガラゴロと動いている。それに乗ったら、直ぐに高台の傘松公園だ。天橋立の北東端に当たる。天橋立は、目の前の右手上から左手下にかけて斜めに走っている。なるほど、これは絶景だ。眺めて飽きない。いただいたパンフレットによれば、「天橋立は陸前(宮城県)の松島、安芸(広島県)の宮島と共に日本三景の一つに数えられる景勝地である。『丹後国風土記逸文』に、国を生まれた伊弉諾尊が天に通うために梯(はし)を作られたが、命(みこと)が寝ている間に倒れ伏したという記事があり、これが名の起りである。・・・神秘的で美しい姿は、野田川から流れ出る砂粒と外海から流れ来る砂粒とがぶつかりあって出来たと考えられる。約500年前に描かれた雪舟画の国宝天橋立図には現在より短い天橋立が描かれている。」とある。天橋立とは、天に掛けた架け橋が倒れた姿か・・・なるほど、なかなか巧みな描写である。

天橋立


天橋立


 ところで、この傘松公園側から見る天橋立は「昇龍観」といい、反対側の天橋立駅(ビューロランド)側からの景観は「飛龍観」というらしい。天橋立を眼下にして、至る所にお立ち台ならぬ「股のぞき台」があるのが可笑しい。いろいろな人たちが入れ替わり立ち替わり、御覧のようにやっている。あんなに腰を曲げて、その上、頭を落として股の間をよくのぞけるものだと感心する。私も父のようにやってみたところ、そもそも腰が十分に曲がらない。一回の試しでもう十分だ。もっとも、当地の名物とはいえ、頭に血がのぼるし、あまり品の良いものではないから何回も試すような代物ではない。

天橋立


 それから、飽きるまで写真を撮っていると帰りはもう時間がなくなった。名刹の成相寺には立ち寄りたかったが、もう夕刻で、寄っている暇がない。それは次の機会ということにして、傘松公園リフトを使って麓まで降りてきた。リフトに乗っているとき、景色が良いので、つい脚を前後に振ったりしがちだが、安全のため厳禁とのこと。

天橋立


天橋立


 麓に着いて、反対側に帰るために再び観光船に乗るというのも有り得たが、運動のためだと思って天橋立の中を歩くことにした。所要小1時間だという。天橋立の中から見ると、単なる松林が続いているだけだが、その中で目立つ松に名前が付けられている。舟越の松、双龍の松、見返り松、小袖の松、雪舟の松、夫婦松、阿蘇の松、千貫の松という具合であるが、このうち双龍の松は平成に入ってからの台風で敢え無く倒壊し、現在は碑のみが置かれている。

天橋立


天橋立


 また、途中には、松尾芭蕉の句碑、真水が湧くという磯清水、与謝野寛・晶子歌碑があって、歴史を感じさせる。そもそも、百人一首にある「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天橋立」(小式部内侍)とあるくらいだから、平安時代から名所として人口に膾炙していたものとみえる。

天橋立


 天橋立駅側に近づくと、橋が2つある。なるほど、内海の阿蘇海は、仕切られているのではなくて、宮津湾とここで繋がっているのだ。しかも陸側の端は、「廻旋橋」という。つまり、真ん中を中心に橋桁を水平に回旋して舟を通すという仕組みらしい。昔は、人力で回旋していたという写真があった。ところで、こちら側にも智恩寺という有名なお寺があるようだが、本日は純粋に景色を撮りにきたし、いささか疲れたので割愛することにした。

天橋立


天橋立


天橋立


 そして翌朝、朝一番で天橋立ビューランドにリフトで登り、飛龍観を写真に撮った。こちらの方が、砂が小さな三角形となって続き、それがあたかも飛龍の背びれのように見えるので、迫力満点の写真となった。これは素晴らしいと感激していたら、何のことはない。京都府丹後広域振興局が、天の橋立について歴史や保全活動について述べているHPの記事があった、それによると、小さな三角形がはっきり見えるのは、天橋立の宮津湾側の海岸の砂がなくならないようにするサンドバイパス工事(砂浜に沿って流れゆく砂が人工構造物などに移動をさえぎられたため、その上手側に堆積したものを下手側の海岸に人工的に移動させる一種の養浜工事)の結果らしい。


2.舞 鶴

 翌日は、舞鶴に行ってみた。西と東とに分かれていて、歴史的には、西舞鶴はかつては田辺藩の城下町で戦前は大連やウラジオストックへの玄関口である商業港として、東舞鶴は言うまでもなく旧帝国海軍の軍港として、それぞれ発展してきた。各々に鉄道の駅がある。このうち西舞鶴駅は、京都丹後鉄道の宮津線とJR西日本の舞鶴線が乗り入れ、いわゆる接続駅となっている。その舞鶴線は、綾部から西舞鶴を経由して東舞鶴に繋がり、東舞鶴からはJR西日本の小浜線となって敦賀に至る。


舞鶴


舞鶴


 この日は、天橋立駅から東舞鶴駅まで乗り、タクシーで赤レンガパークまで行って、「旧海軍ゆかりの港を巡る遊覧船」なるものに乗った。たまたまこの日は、海上自衛隊を退職された方がボランティアで説明をしてくれる。あちこちに自衛隊の艦艇が碇泊中で、それを洋上から見物するという 趣向である。横須賀港でもやはり同じようなツアーがあるが、これほど間近で見ることはできないというのが、こちらの売り文句である。

舞鶴


 ボランティアさんの説明は、例えば、こんな調子である。「右手に並んでいる681と682の二つの護衛艦、それぞれ『すがしま』と『のとじま』ですが、これらは同型艦で、いずれも掃海艇です。磁気に反応してはいけないので、木造の船でして、しかも機械にはなるべくステンレス、アルミ、銅という材料が使われております。排水量は610トンで、速度25km/時しか出ません。湾岸戦争時には、わざわざペルシャ湾まで掃海に行ったのですが、速度が遅いために行くのに何ヶ月もかかりました。あそこに見える『東山』には、戦時中には機銃砲台があり、大きな防空壕があります。ただ、もう相当古くなっているので、立ち入りは禁止されています。」と、なかなか名調子である。

舞鶴


舞鶴


舞鶴


 最初はそれを聞いていたのだが、そのうちカメラを持って舷側に行って手当り次第に写真を撮るのに集中していたら、反対側にいるボランティアさんの説明があまり良く聞こえない位置だったので、せっかくの説明が頭に入らなくなり、実に残念なことをした。それにしても、護衛艦の写真は撮り放題だ。これと同じことを外国でやったら、いつ何時スパイ容疑で逮捕される災難に遭うかもしれないので、外国では決してしないように心しておきたい。

舞鶴


舞鶴


 すぐ近くのドックにイージス艦「みょうこう(175)」が入っている。アメリカ映画「バトルシップ」で浅野忠信が演じるナガタ艦長が指揮していた艦だ。一方、はるか遠いところにイージス艦が停泊中だど思ったら、修理点検を終えた「あたご(177)」のようだ。艦に弾薬やミサイルを積込み中らしくて、市街地から離れたところで作業しているとのこと。また、戦前の舞鶴海軍工廠からスピンアウトした形で、造船のジャパンマリンユナイテッドと日立造船、日本板硝子の工場などがある。関西電力の石炭火力発電所も陸の施設として目立って見えた。ジャパンマリンユナイテッドでは、幾つかドックがあって、自衛艦の艦船を修理していたほか、受注した民間タンカーが完成間近だった。

舞鶴


 帰りがけに、市内の様子を見ようとして、港から東舞鶴駅へと25分の道のりを歩いて行った。すると駅前に続くアーケードのある大通りを通ったが、土曜日だというのに完全なシャッター通りと化していて、驚いたことにわずか数人の通行人しか会わなかった。しかもそのうち2人は、白い制服を着た女性海上自衛官だった。日本の地方都市は、どうなってしまうのだろう。


3.蘇洞門(そとも)

 舞鶴で遊覧船に乗ったその日の午後、JR西日本小浜線で福井県小浜に向かった。海の景勝地である「蘇洞門(そとも)」と、それから「鯖街道記念館」を見学したいと思ったからである。ホテルは、記念館のすぐ隣に確保した。チェックインしてみると、午後3時半だ。蘇洞門巡りの遊覧船の最終便が出るのは4時で、その桟橋はこのホテルから歩いて10分もかからない。それに、今日は風がなく凪なので海は荒れていないから、外海に出ても船酔いの心配はない。乗船するには絶好のチャンスだと思って、急いで行ってみることにした。


蘇洞門


蘇洞門


 出航の10分前に、乗船券売り場の若狭フィッシャーマンズワーフに着いた。「まだ、間に合いますかね。」と、受付の女性に聞くと、満面の笑みで「はい、大丈夫ですよ。」と返してくれる。こういうときの女性は、それこそ観音さま・菩薩さまに見える。乗船券を買って勢いよく乗り込んだ。そのまま直ぐに上階に上がって吹きさらしの先頭で、ステンレスの棒に掴まる。

蘇洞門


蘇洞門


蘇洞門


 船は走り出した。スピードが上がっていくにつれて向かい風が強くなり、帽子が飛ばされそうだ。カメラもしっかり構えないと、被写体が定まらない。やがて船は港を出て、半島部を右手に回り込んで行く。まず見えるのは、海にちぎれるように浮かんでいる「三ツ岩」「二ツ岩」である。その向かいにある半島部が「松ヶ崎」で、その付近から海中に突き出しているのが、「鎌の首」である。いただいたパンフレットの説明によれば、「根元より頭の部分が大きく、イースター島のモアイ巨石の様な形をし、農作業で使う鎌の柄の部分にそっくりなところからそう呼ばれています。」とのこと。でも、船は猛スピードで走るし、しっかりと掴まっていない振り落とされそうでこわい。それもあって、三ツ岩以外はどれも同じに見えて、何が何だかよく判別できなかった。

蘇洞門


蘇洞門


蘇洞門


 その先にあって、同じく海に屹立しているのが「唐船島」で、同じくパンフレットの説明では「昔、南蛮人を乗せた『唐船』をこの島につないだところからこの名前が付いたといわれています。」という。島といっても、とても住める所ではない。あそこに見える岩かなという気がするが、よくわからない。次は、「あみかけ岩」で、「岩に網目のように亀裂が入り、まるで網を掛けたように見えるところからそう呼ばれています。」とのこと。ただ、これは柱状摂理の地形の典型である。ちなみに「柱状摂理」とは、マグマが地上に噴出して冷えて固まるときに玄武岩や安山岩になるが、その時に五角形や六角形の柱のような割れ目が生じてその断面がまるで蜂の巣に似た形になることである。福井県の東尋坊などに見られる。これは、判別できた。それにしても、あちらこちらの岩で、熱心に釣っている人の姿を見かける。いったいどうやって来たのだろうという気もするし、またどういう方法で帰るのだろうという気もする。誰かに船で送り迎えしてもらわないと不可能だ。

蘇洞門


蘇洞門


蘇洞門


 「夫婦亀石」は、「同じような大きさの亀が2匹おぶさっているように見えるところからこの名前が付いています。」という説明だが、あまりそのようには見えない。「白糸の滝」「年中水量が変わらない、非常に美しい滝です。最近まで上流で『わさび』が栽培されていました。」と説明されていた。確かに、か細いけれども、滝の流れが見えた。

蘇洞門


蘇洞門


蘇洞門


蘇洞門


 「大門・小門」は、海側から見ているとよくわからないが、この日はいわゆる「ベタ凪」だったので、船が内側に回り込んで5分ほど停泊してくれたので、ハッキリと見ることができて感激した。「右を『大門』左を『小門』と呼び、『小門』の高さは大人の背丈の3倍以上あります。近くには『吹雪の滝』が流れ落ちています。」とのことであるが、これは柱状摂理の柱が波に侵食されて脱落したものだろう。同行した地元の大学生は、「これは余程、天候が良くないとここまで来られないから、今日は運が良かった。」と、喜んでいた。


4.鯖街道

事前に旅行のプランを練るとき、小浜市に行って観光するとすればどこがよいかと思って調べたところ、小浜市のHPで、次のような文章を見つけた。

「 近年、鯖街道という言葉がしきりに聞かれます。若狭湾で取れた鯖に、一塩して、夜も寝ないで京都まで運ぶと、ちょうど良い味になっていた、とよく言われます。この道は、単に鯖ばかりを運んだ道ではありません。街道沿いや、到着地の人々に尋ねてみると、イカやカレイや、グジ(アマダイ)、その他、多種の海産物などが運ばれています。いわゆる北前船から陸揚げされた物資も、盛んに輸送されました。 

 鯖は、今と全く比較にならず沢山とれ、体形も大きく、ことさらに一般庶民に喜ばれ待ち望まれたために、これを運ぶ道にさえ、いつしか鯖街道の名が付けられたものです。いわば、鯖街道とは、その代表名に他なりません。古文献には見い出せないことから、その命名は新しく、恐らく戦後に、文人たちが書き始めたのではないかと、考えられています。

 しかし、鯖街道の実質的な起源は、極めて古く、はるか千二百数十年昔の奈良の都、平城宮の跡から発掘された木簡に、若狭から送られたタイの鮓を始め、既に十種に近い魚介(貝)の名が見えています。また、塩を送った多数の荷札が見出されており、鯖街道は、まさに塩の道でもありました。この荷札である木簡は、さかのぼって、現在橿原市の藤原宮の跡からも出土しています。さらに、ごく最近、奈良県明日香村の都の跡で、千三百年の以前に、若狭の三方から送られた、タイの木簡が発掘されました。ますます古い歴史が、よみがえってまいります。

 ところで、日本海と都を結ぶ鯖街道は、また政治の道、軍事の道、特に文化の道でもありました。近年、よく用いられる裏日本という言葉は、暗く、うら寂れた感じを伴い、日本海側地帯の特徴を表しているような錯覚さえも起こさせました。しかし、調べてみると、この裏日本という用語は、わずか百年ばかりの歴史しかありません。いうまでもなく、この日本海に面する一帯は、太古より、まさしく表日本であり、しかも若狭地方はその正面玄関でもありました。小浜の名勝を代表する「そとも」も「外面(そとも)」から取っており、漢字は時の国文学者に「蘇洞門」とつけていただいた経緯があります。きっと、大陸文化の渡来も、久しく行われたことでありましょう。また、鳥浜貝塚から、五千年以上も前に漂着したココヤシの実が、幾つも発見されていることや、室町時代に南蛮船が小浜へ象をもたらした史実など、遠く南方との交流をも思わせます。

 さて、鯖街道とは、決して単に、小浜と京都を結ぶ一本の道のみを意味しません。若狭湾岸の幾つかの地点から、多数の道が、京都へ、遠くは奈良へ飛鳥へ、さらには丹波の篠山などへと通じていました。日本海の幸を送る通称鯖街道は、大陸などの文化をも届け、また、都から幾多の文化を、この地方に招来しました。優れた仏教美術の存在を始め、今も若狭には、雅の言葉が残るといわれ、都人の教えを受けた詩歌や、多くの芸能の伝わることも、その証といえましょう。」


 なかなか、良い文章だ。そういえば、京都祇園「いづう」の鯖ずしは絶品だが、元はといえば、ここから来ていたのかと思うと親しみが湧く。では、行ってみようかと考えた。そこで、鯖街道起点と鯖街道資料館のすぐ裏手のホテルを予約した。


鯖街道起点


鯖街道資料館があったはずの元商店街


 夕方、まだ明るいので、実際の鯖街道資料館の見学は明朝にすることにし、事前に場所を確認しておくことにした。その「いずみ町商店街」に行くと、何だか様子がおかしい。道路の拡張工事が始まっていて、商店街のアーケードが壊されているし、更地になっていたり、セットバックした新しい建物もある。その中を進んでいくと、床のタイルに、「鯖街道起点」と書かれている。ああ、ここだ、間違いない。ところが、鯖街道資料館のあった辺りは見る影もない更地になっていて、影も形もない。「何だこれは、あの小浜市のHPは何だったのか、せめて『しばらく休館です』ぐらいの表示があってしかるべきではないか。」と思った次第である。


5.福井県年縞博物館

 そういうことで、翌日はさっさと小浜を離れて、福井県年縞博物館のある三方(みかた)に向かった。三方五湖のうちの三方湖の畔にあるこの博物館を見学したところ、いやもう、感激してしまった。「年縞」というのは、あまり聞き慣れない言葉なので、まずは博物館のHPを見てみたい。「年代測定の世界標準のものさし『年縞(ねんこう)』を展示する『福井県年縞博物館』が2018年9月15日(土)にオープン・・・名勝『三方五湖』の一つ『水月湖」の湖底には、世界でも唯一7万年分もの縞模様の地層『年縞』が堆積しています。博物館では、45mの実物展示のほか、体験しながら学ぶことができるコーナーも充実しています。カフェも併設しており、湖を眺めながらゆったりとした時間を過ごすことができます。」ということだが、これだけではまだ何のことやら全くわからない。

 日本のように四季が移り変わるところでは、春は花粉、秋は落葉などが舞い、それが人里離れた湖底にひっそりと降り積もる。それは湖底の地層の中に順次規則的に積もっていって、その断面を見ると縞のようになっており、それが一年分を表している。それをずーっと根気よく数えていけば、個々の縞が今から何年前のものかがわかる。その中に含まれている葉っぱの放射性年代測定を行えばその年代が特定できて、例えば古代の遺跡から出土した人骨など有機物の放射性年代測定結果と付き合わせると、その人骨の年代が年単位で極めて正確に決定できるという意味で、重要な物差しとなる。


福井県年縞博物館


福井県年縞博物館


 水月湖(すいげつこ)では、このような年縞が過去7万年分、ボーリングの深さで45メートルを採取することができた。これは、ひとつの奇跡のような条件が重なった結果だという。第1に、水月湖の水深は34メートルと、かなり深くて、湖底をかき回す風や生物の影響を受けにくかったことである。水深が浅いと、湖面を吹く風がどうしても湖底に達して年縞を乱すし、酸素が湖底まで行き届いて魚などが生息し、これまた湖底を乱す。そういうことが起こりにくかったのである。第2に、東隣の三方湖が、いわば防波堤の役割を果たしてくれて、地殻変動の影響を免れたことである。水月湖もその一つである三方五湖周辺は、長年にわたり湖の東側が隆起する。その度に土砂が流入して年縞を乱すところを、三方湖が防いでくれた。

 1994年から年縞の枚数を数えて葉の化石の放射性物質(炭素14)を測定する研究を始め、98年にはアメリカの科学誌「サイエンス」に掲載されるが、「世界標準のものさし」としての採用は見送られた。理由は、年縞が連続していなくて正確さを欠いたからである。というのは、当時のボーリング技術では、2メートルの長さのサンプルしか採れず、それを繋ぎ合わせていっても、サンプル両端の部分では年縞が潰れてしまったからである。ライバルの他国関係者から指摘された。その問題を解決するため、ボーリングをする地点のすぐ近くで、採取する長さをずらせて二つ目のボーリングを行い、二つのサンプルを比べ合わせて欠けた部分を補うという手法をとった。すると、見事に連続する7万年分のサンプルを採ることができたという。


福井県年縞博物館


福井県年縞博物館


 これは、博物館2階の45メートルの展示となっている。この展示を作るに当たっては、水分を抜いてスライスする特殊な技術が必要で、ドイツの技術者に依頼したようである。さて、そういうことで、45メートルに及ぶ水月湖年縞のステンドグラスの実物を細かに見ていった。実物は黄色と黒色の縞が延々繋がっている。その中で、手書きで、姶良カルデラの噴火、ベスビオ火山の噴火、湖の土砂崩れなどと書いてある。特に、火山の噴火は世界的な出来事なので、これを他国の年縞と比較すれば、ますます正確な年代測定ができる。

福井県年縞博物館


福井県年縞博物館


 さて、その水月湖年縞の裏側にも色々と展示があるが、中でも素晴らしいと思ったものがある。それは、年代を示す手元のスケールを動かすと、その時の水月湖周辺の環境が画面に出てくるコーナーである。水月湖年縞の中の花粉を分析し、温暖化の時代や寒冷化の時代にはそれぞれ内容が異なることがわかった。その一方、日本各地の土壌を集めてその中の花粉を分析し、それと水月湖年縞の中の花粉と照らし合わせて、当時の森林環境を再現してこれらの画像となったそうだ。これらの研究者の皆さんの地道なご努力に、心から敬意を表したい。なお、HPに書いてある年表を次に引用させていただこう。

1962年 三方湖の近くで縄文時代の遺跡、鳥浜貝塚を発見
1991年 鳥浜貝塚の研究の一環として行った水月湖でのボーリング調査で「年縞」を発見
1993年 国際日本文化研究センター安田喜憲教授(当時)が本格的なボーリング調査を実施、水月湖の年縞が45m連続していることを発見
1994年 国際日本文化研究センター北川浩之助手(当時)が年縞の枚数を数え、葉の化石の放射性物質(炭素14)を測定する研究を開始
1998年 北川浩之助手(当時)の研究データが、アメリカの科学誌「サイエンス」に掲載されるが、「世界標準のものさし」としての採用は見送り
2006年 ニューカッスル大学(英国)の中川毅教授(当時)を中心とした国際チームが再度ボーリング調査を実施、「完全に連続」した年縞の採取に成功
2012年7月 パリで開催された「第21回国際放射性炭素会議」において、水月湖のデータを中心に作成された「IntCal(イントカル)」が年代の「世界標準のものさし」として採用
2012年9月 水月湖の新しいデータを報告した論文が、アメリカの科学誌「サイエンス」に掲載
2013年9月 水月湖のデータを中心に作成された「IntCal(イントカル)」が年代の「世界の標準ものさし」として運用開始


福井若狭縄文博物館


 福井県年縞博物館と同じ敷地に、福井若狭縄文博物館という建物があって、そこにも入ってみた。年縞と違って、特に目新しい展示はなかったが、この三方五湖からは、縄文時代の丸木舟や漆器が出土したそうだ。

 そういうことで、日本海側の二泊三日の旅が終わった。昨年東尋坊に行ったときには海は時化ていて船酔いしそうになったが、今回は天の橋立、舞鶴、蘇洞門と3回も船に乗ったものの、いずれも海はベタ凪で良かった。鯖街道資料館がいつの間にか消えていたという残念なことがあったものの、その後の年縞博物館の素晴らしさが帳消しにしてくれた。総じて、誠に実り多い旅だったといえる。







 天橋立・舞鶴・蘇洞門への旅(写 真)




(2019年5月26日記)


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