デジタルアート・ミュージアム

デジタルアート・ミュージアム


 ある晩餐会の席で、たまたま隣り合わせたアメリカ人女性から、お台場のデジタル・ミュージアムに行ったという話を聞いた。「あれが次世代の美術館だ」とまで言う。それまで私は、「どうせプロジェクション・マッピングの室内版だろう」と思っていたので、あまり行く気がなかったが、それではと俄然行く気になった。

 まずは、予約する必要がある。チケット・サイトを開き、日付をチェックし、クレジットカードで支払う。すると、メールが届く。普通ならそれが入場チケットなのだが、前日にならないと貰えないという。そうする必要性がよくわからないが、確かに前日になってメールが来て、そこに書かれていたアドレスをクリックすると、入場チケットになるQRコードが出てきた。それを持って出掛けた。

 場所はお台場のパレットタウンで、ゆりかもめ青海駅で降りて観覧車の下を通って入る。正式には「森ビルデジタルアートミュージアム:エプソン チームラボボーダレス東京」というらしい。長い名前で覚えにくい。会場は、外国人観光客も多くて、いやもう、大変な人だかりだ。入り口で傘やら荷物やらを預けて会場に入る。中には微かな光があるだけで、真っ暗だ。でも、だんだん暗さに眼が慣れてきた。


デジタルアート・ミュージアム


デジタルアート・ミュージアム


 入場して早々に写真を撮ろうとしたのだが、後ろから次々に観客が押し寄せるからカメラのボタンを設定している暇がないし、暗いからボタンもはっきりと見えない。手探りでやっている過程で、変なボタンを押してしまったようだ。構えてもちっとも撮れない。諦めて下に向けるとシャッターがおりる始末だ。だから、しばらくの間は、全く撮れなかった。そのうちようやく少し明るい所に出たので、カメラの設定を見たところ、どういうわけか、セルフタイマーになっていた。

デジタルアート・ミュージアム


デジタルアート・ミュージアム


 それから撮り始めた。床が平らでないところに行くと、壁からその盛り上がった床に掛けて水が流れるような所があり、それにカラフルな花の画像が混じって次々に流れていく。非常に幻想的な光景である。たまたま白い服を着た女性にその光が当たると、またそれも光景の一部となる。女性が動くとゆらゆらと揺れて、なかなか美しい。2階に上がる階段の壁にも、お花でいっぱいの画像が走る。くっきりしてこれも綺麗だ。

デジタルアート・ミュージアム


デジタルアート・ミュージアム


 長い廊下の壁には竹林の画像と、蛍のような黄色い点が飛び交う。丸いドームのような床に、火の鳥がキラキラと光跡を残し、羽根を広げたり閉じたりして飛ぶ。また、別の鳥が飛んできた。見ていて飽きない。壁の方に眼をやると、大きな鯨みたいなカラフルな動物が豪快に泳いでいる。見ていて楽しい。

デジタルアート・ミュージアム


デジタルアート・ミュージアム


 大きな瓢箪をひっくり返したようなものがたくさんある部屋に行った。それが青色、赤色、昼光色、オレンジ色と様々に変わる。その次の部屋では子供たちがぴょんぴょん飛び跳ねると、それに応じて下の模様も変わる。小さな子も大きな子も、皆夢中になってやっている。結構なことだ。

デジタルアート・ミュージアム


デジタルアート・ミュージアム


 次の部屋に入ると、大人も子供も一生懸命に何やら書いている。壁をみると、海の動物がたくさん動いている。ただ、よく見ると、あまり洗練された絵ではない・・・一体、何だろうと思ったら、これらの中には名前が書かれているものもあったから、観客が描いた絵だったと気が付いた。観客参加型か・・・これは、面白いことをする。

デジタルアート・ミュージアム


デジタルアート・ミュージアム


 歩き疲れたので、ミュージアム内の喫茶店に入った。それも、真っ暗な中にある。入り口で茶葉が入った小さな瓶を買い、それを持ってひとりひとり案内される。「何でこんなに暗いのだろう、人の顔もロクに見えない」と思った。やがて頼んだお茶が来て、その理由がわかった。お茶の表面にプロジェクターの光が当たるようになっていて、お花の模様などがカラフルに浮き出てきたのである。実に綺麗だ・・・ここまで徹底しているとは思わなかった。確かに、来てみてよかった。






 デジタルアート・ミュージアム(写 真)




(2019年6月16日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:07 | - | - | - |
パソコンは遂に8台目

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1.パソコンが壊れて買換え

 自宅で常日頃、使い続けてきた富士通パソコン(LIFEBOOK WAR2/R。型名FMVWRA2B78)が、2019年5月21日、遂に動かなくなってしまった。私のような使い方をしていると普通は3年強くらいしか持たないところだが、4年8ヶ月間も、よく動いてくれたものだと感謝しなければならない。手元の記録によると、このパソコンは2014年9月19日(製品発表時期2014年5月)、富士通ショッピングサイトWEB MARTを通じて購入し、価格は、211,968円とある。

 実はこのパソコン、購入して3年ほど経った約2年前にも、突然Windowsが立ち上がらなくなったことがある。夏の暑い日だった。もう3年経ったから寿命かもしれないと思いつつ、念のために別にバックアップしておいたイメージを使って再インストールをしたところ、幸い無事に復活してくれたという出来事があった。ところが、それから1年ほどして、バッテリーが完全に消耗して使えなくなった。これは単に取り替えるだけだと思ってメーカーから部品を買おうとしたところ、型が古すぎてもう売っていない。やむなく八方手を尽くしてようやく確保したが、入手後によくよく見てみると、それは中国からの輸入品だった。でも、ともかく使えた。そういう前歴があるので、今回はもはや仕方がないと観念して、買い替えることにした。

 前回は富士通のWEB MARTのインターネット通販で買ったが、今回はもう少し範囲を広げて探そうと、Amazonで検索した。想定したスペックは、ノートパソコンで、画面が17インチか15.6インチのワイド液晶、HDDが出来れば2TB、コアがインテルi7、メモリは大きいに越したことはないがさほどこだわらない、光学ドライブがスーパーマルチというところである。

 そうすると、画面が15.6インチのワイド液晶、SSD(256GB)HDD(1TB)、コアがインテルi7、メモリは16GB、光学ドライブがスーパーマルチ、Windows10(64ビット)という仕様の、希望に近いパソコンが見つかった。なんとまあ、やはり富士通のWEB MARTだった(型名:FMVWD1A37L)。よほど富士通パソコンと相性が良いものと見える。価格は、185,980円である。注文したら、4日後に届いた。以前のパソコンは黒色だったが、今回の新パソコンは紺色なので、少し新鮮に見える。


今回の新パソコン



2.セットアップと使用準備

 それでは、また数年後にやってくる買い換えの時のために、やや技術的だがメモを残しておきたい。

 (1) まずは最初に、Windows 10のセットアップをしなければならない。ACアダプタを接続して電源を入れる。20分ほどで終了した。次に自宅の無線LANに繋ぎ、マイクロソフト・アカウントに切り替え、アップデートナビの初期設定をする。このパソコンは、顔認識だからパスワードを入れる必要がなくて楽だ(もっとも、顔認識できない場合に備えてPINを設定する必要はある)。その過程で、ウェブのブラウザが「Microsoft Edge」になった。以前の「Internet Explorer」が重たくなりすぎたので、その後継のようだ。Googleの検索画面のように、読みたくもないニュースが出る。「お気に入り」のバーの出し方がわからない。しばらく使っていたが、どうも扱いにくいので、ブラウザは「Google Chrome」に変えた。

 (2) ここまでは、マウスなしで操作した。この新パソコンはAmazonで買ったので、無線のコードレス・マウスは添付されていなかった。これは困ったと思ったが、試しにこれまでのパソコンで使っていたコードレス・マウスの無線USB部分を新パソコンに差し込んでみたら、ちゃんと認識されて、直ぐに使えたので、上手くなっていると感心した。

 (3) セキュリティソフトとして、「McAfee」が3年間分付いていたので、「Norton」はもう使わないことにした。その「McAfee」を動かしてみると、「2022年5月まで使えるが、それ以降も使うために自動継続するから、クレジットカード番号を入れよ」という表示が出る。しかし、そもそもそれまでMcAfeeという会社が存続しているとは限らないし、だいたい、そんな先のことについて、クレジットカードで支払いたくない。だから、その手には乗らず、自動継続はしないことにした(ところがその後、下記(16)の通り、結局いろいろと考えて、1年間だけ延長を行った)。

 (4) この新パソコンには搭載ディスクが2つあって、CドライブがSSD(256GB、全体がCディレクトリ)、DドライブがHDD(1TB、全体がDディレクトリ)である。システムはもちろんCディレクトリのSSDに入っていて高速なのであるが、256GBではいかんせん容量が少ない。出来れば500GBほどあれば良いのだが、そういう製品はなかった。こんなに小さいと、システムを入れるだけで一杯になりそうだ。特に問題なのは、「Document」と「Download」、それに「iTunes」を使った「iPhone」や「iPad」のバックアップ先が初期設定だとCディレクトリになっていることだ。それだけでもうCドライブが満杯になって動かなくなる。

 仕方がないので、まず、「Document」、「Download」、「Picture」の場所を変えることにした。この中で「Download」と「Picture」だけは、無事にDディレクトリに変えられたが、「Document」は赤字で「移動できません」の表示が出てうまくいかなかった。その原因として、セットアップ途中で入れさせられた「One Drive」の自動バックアップが足を引っ張ったのではないかと思った。だから、そちらを停止したところ首尾よく解決して、いずれもDディレクトリに変更できた。それはよかったのだけれど、私は、「iPad」で作業する時に参照したいので、文書類は可能な限り「Document」ではなく、Dディレクトリに置く「Dropbox」に蓄積しておくことにした。

(参 照) http://azby.fmworld.net/support /info/2hdd/

 (5) とりあえずWindows10が動かせるようになったので、まずは、しばらく更新できていなかった私のこのHP「悠々人生」の手入れから始めたい。そのためには、「窓の杜ライブラリ」から、NexusFile(統合ファイル管理)、Vix(画像一括加工)、TeraPad(テキスト・エディタ)、BunBackup(バックアップ。64ビット版)を取得してインストールした。それから、ディスクを通じて「Homepage Builder」と、ついでに「筆まめ」をインストールした。私はHTML言語が書けるので、もはや「Homepage Builder」本体はほとんど使わないが、その付属ソフトである「ファイル転送」(ファイルをアップロードするFTP)と「Webart Designer」(画像処理ソフト)はよく使って重宝する。だから、これらはHP「悠々人生」の手入れに必須といってよい。

 (6) 念のために、回復ドライブを作った。Amazonで32GBのUSBメモリを持ってきてもらって、それで作成した。30分ほどで呆気なく終わった。そのうち、必要なソフトを全部入れた段階で、Cディレクトリ全てをミラー形式でバックアップしたいと思っている。Dディレクトリは、別途、3TBのHDD(2つ)にダブルでバックアップしている。ちなみに、今回の新パソコンにも、既にバックアップ済みのこの3TBのHDDからデータをコピーして、その内容を回復させた。

 (7) さて、それからやや重たいソフトである「iTunes」をインストールする。ポイントは、Cディレクトリではなくて、Dディレクトリに入れることだ。「iTunes」本体は、あっという間にインストールできたが、その反面どこにインストールするかという選択する場面もなかったので、どうにもならず、Cディレクトリに入ってしまった。もっとも、本体のサイズは大したことがないので、まあいいだろう。問題はバックアップの場所である。私のiPhoneXとiPad、それに家内のiPhoneのバックアップ・サイズはおそらく180GB近くにもなるので、Dディレクトリに移すしかない。

(参 考) http://azby.fmworld.net/support /info/2hdd/

 その具体的な方法であるが、富士通のサポートの指示通りに行う。まずは画面左下の「検索欄」に「cmd」と打ち込み、出てきた画面の中の「管理者として実行」にチェックを入れて、黒いコマンド・プロンプト画面を出し、次のように打ち込む。ちなみに、私のユーザー名は「yama san」なので、「C:¥Users¥yama san ¥Apple¥・・・」となっているが、これをなぞって自分もやってみたい方は、この部分をそれぞれのユーザー名にすることになる。

C:¥Windows¥system32>mklink /d “C:¥Users¥yama san ¥Apple¥MobileSync¥Backup” “D:¥Computer¥iTunes Backup”

 すると、「シンボリック リンクが作成されました」と出てくる。これで、元のCディレクトリの「Users」以下には、Dディレクトリの該当部分へのリンクが張られるだけになり、データそのものはDディレクトリに収納される。

 (8) ところで、iTunesのバックアップの際、iPhoneを新パソコンに接続するときには、新パソコンの認証をしてもらわなければならない。そこで認証しようとしたところ、認識数は最大5つと決まっているので、それを越している場合には、「既に5に達しているので認証できない」との警告が出る。ではどうするか。結論からいうと、その5つの既存の認証を全部解除するしかない。そこで全て解除し、やっと新パソコンの認証を得た。それからバックアップをした。念のためにチェックすると、目論見通りDディレクトリに入っていた。

(参 考) https://www.iphone-utility.com/topic/change-itunes-backup-destination.htm

 (9) ブラウザベースの「Evernote」と「Box」は、「Google Chrome」の上で問題なく立ち上がった。次は、「Dropbox」だ。これは外出先でiPhoneやiPadと連携するのでとっても重宝している。ただ、データ量が多いので、やはりDディレクトリにしたい。Dropboxの公式ページからインストーラーをダウンロードしたら、自動的にDropboxディレクトリを探してくれたので、手間は全くかからなかった。

 (10) ということで、新パソコンにつき一通りのチューンナップが終わった。ここまでで、丸2日ほどかかったことになる。何が面倒だったかといえば、(1)の初期設定が一番で、次いで(7)の「iTunes」バックアップ先の変更だろう。これは、多少の知識が必要だ。

 (11) 念のためにソフトで二つのディレクトリの残容量を見てみたところ、Cディレクトリが60GB、Dディレクトリが590GBと出た。あれあれ、Cが少なすぎる。そこでCディレクトリの内訳を見たら、Dropboxが100GBも使っているではないか。上記(8)は勘違いで、実はDディレクトリにはなっていなかったのだ。そこで、Dropbox同期フォルダ変更手順に従い、「システムトレイの中にあるDropboxアイコンをクリック→Dropboxの画面中の歯車のアイコンをクリック→基本設定→右上の同期→Dropbox フォルダの場所中の移動ボタン→Dディレクトリを指定」ということで、Dディレクトリに移し替えた。再度チェックしたところ、Cディレクトリの残容量は、目出度く160GBとなった。やれやれ、これだからパソコンは、気が抜けない。

 しかし、それにしてもDディレクトリは1TBもあるのに、もう510GBも使っている。半分を越しているではないか。その内容を確認したところ、主なものは、昔の書類を入れてある「Cabinet」100GBのほか、「iTunesバックアップ」185GB、「最新Photos(今年の始めから)」80GB、「悠々人生」45GBである。これらだけでも410GBにもなっている。なかでも、今年の初めから撮りためた写真が、もう80GBに達しているとは思わなかった。まだ半年なので、今年の終わりにはその倍近くになるかもしれない。いやこれは・・・恐れ入った。個人レベルでも、ビックデータの時代になってしまった。

 (12) そういえば、「McAfee」に鞍替えしたので、「Norton」の自動更新を停止しないといけない。まず、シマンテックストアの注文情報確認ページを出して「メールアドレス」と「注文番号」を入れた。すると、私が使っている製品に関する情報が出てきた。そこに、「自動延長サービスの申込状況確認・停止手続き」というボタンが現れるはずなのに、出てこない。3回ほどやってみたが、やはり出ない。別途、iPadでも試してみたが、これでもダメだ。

 「一体どうなっているのだろう。ユーザーに停止させないためか。」などと邪推したほどだ。「仕方がない。明日にでもサポートに電話しようか」と思ったところで、気がついた。「この注文番号は昨年の更新時のものだからではないか。その前の年の注文番号にしたら、ひょっとしたら動くかもしれない。)と。そう考えて、一昨年の注文番号を入れてみたら、そのボタンが出てきて、やっと停止すらことができた。ここまでで、45分もかかってしまった。全く時間の無駄使いである。

 (13) OSのWindows10は、順調に動いてくれているが、一つだけある不満は、Photo Viewer で画像をクリックした時に、前後の画像に進むボタンがないことである。これだと、いちいち画像を閉じて見たい画像をダブルクリックしなければならない。これは面倒だ。そこでインターネットで調べると、「Restore Windows Photo Viewer」を使えばよいという記事があった。問題は、これが信用できるかだ・・・。載せている会社を見ると、あのインプレスだ。数多くのフリーソフトを提供している会社なので、まあ良さそうだと判断して、試してみることにした。すると、使えるようになり、「既定のアプリ」を「Windows Photo Viewer」にすることができた。

 (14) 一応、新パソコンの復旧作業が完全に終了したので、バックアップ・ソフトであるBunBackup(64ビット版)を動かしてみた。問題なく動作する。それで、2つの3TBのHDDの内容を整理しながら、それにバックアップした。なお、自宅の無線LANの「LANDISK」として3TBのHDDを一つ置いているので、それにもバックアップした。このLANDISKは、特に操作することもなく、新パソコンから認識することができたので助かった。

 (15) ただ、このようなHDDには容量の限界がある。私の場合は、過去に撮ったり昔のアルバムをスキャンして取り込んだ写真が既に1TB以上に達している。加えて、外付けHDDの中に収めておいても、パソコンと繋がっていないときや、iPhoneやiPadからは見られない。そう考えているときに、たまたま、「今お使いのDropbox plusをグレードアップしたので使ってください」というメールが来て、2TBまでクラウド上でスペース(容量)を提供してくれるそうだ。少し値上がって月1,200円かかるが、これを利用することにした。ただ、私のパソコンの中身が全てDropbox社に渡ることになる。これは、信用するほかない。

 次の段階として、どう操作すればよいのか・・・。ともかく、Dropboxにアクセスしたところ、「スマート・パスを使うように」とのことで、クリックして手続を行った。すると、「およそ1時間後に通知が届くので、記載された手順に沿って設定を完了してください」ということだった。なぜそんなに待たせるのか、よくわからないが、ともかく待っていた。ところが、待てと暮らせど、その通知メールが届かない。Dropboxにメールで問い合わせて、やっと通知がきて解決した。

 (16) 上記(3)で、セキュリティソフト「McAfee」を3年間使うので、それでよしと思っていたら、マカフィー社からメールが届いた。それによると、「現在、マカフィー・リブセーフ3年間の使用となっているが、4年目にさらに1年間延長しようとすると、8,980円かかるが、今だと2,980円で済むから、いかが?」というわけである。なかなか上手な勧誘だ。これまで問題なく使えているし、どうせ3年以上使うだろうから、その程度のお金なら今払ってもいいかと思って、延長することにした。

 (17) ということで、約1週間でパソコンの設定が終わり、ほぼ日常通りのパソコン生活に戻った。振り返ると、CドライブがSSD(256GB)、DドライブがHDD(1TB)という構成だったために、(7)の「iTunes」のバックアップ先をCからDディレクトリへと変更する必要が生じ、これが今回の作業の一番のヤマだった。

 これからは、Dropboxに2TBも保存してどこからでもアクセスできるようになった。だから、次にパソコンを買い換えるときは、画像の取扱いを迅速かつ容易にするため、CPUを高性能、メモリを大容量にして、あとはさほど容量の大きくないSSD(2個)でも良いのかもしれないと思っている。





(メ モ) これまで自宅で使ったパソコン一覧


【1台目】1993年から97年まで PC9821Ne(NECのノート。OS:MS-DOS、後にWindows 3.1、CPU:i486、メモリ:16M、HDD:340MB)

【2台目】1997年から2001年まで MN−5500(シャープのノート。OS:Windows 95、CPU:MMX Pentium 150HZ、メモリ:64MB、画面:11.3inch、(SVGA)TFT800X600の1677万色、HDD:3GB)

【3台目】2001年から2003年まで PC−MJ720M(シャープのノート。OS:Windows MeからXPへアップグレード、CPU:Pentium III 800MHz、メモリ:256MB、画面:14.1型 XGA対応 低反射ブラックTFT、HDD:30GB)

【4台目】2003年から2007年9月まで FMV−BIBLO NB16(富士通のノート。OS:Windows XP、CPU:Pentium 4、メモリ:514MB、画面:15型のスーパーファイン、HDD:40GB)

【5台目】2007年9月から2010年9月17日まで FMV−BIBLO NX90WN/D(富士通のノート。OS:Windows VISTA、CPU:Intel Core2 CPU T7200 @ 2.00GHz、メモリ:2GB、画面:17型、HDD:200GB)

【6台目】2010年9月17日から2014年9月19日まで VAIO VPCJ11AFJ(ソニーのデスクトップ。OS:Windows 7 Home Premium(64bit)、CPU:Intel Corei7-2.67GHz、メモリ:8GGB、画面:21.5型、HDD:1TB)

【7台目】2014年9月19日から2019年6月1日まで FMVWRA2B78(富士通のノート。OS:Windows 8、CPU:Core i7 3632QM(Ivy Bridge)/2.2GHz/4コア、メモリ:8GB、画面:15.6型、HDD:1TB)

【8台目】2019年6月1日から現在まで FMV LIFEBOOK AH WA3/D1(富士通のノート。OS:Windows 10、CPU:Core i7、メモリ:16GB、画面:15.6型ワイド、約256GB SSD + 約1TB HDD)





(2019年6月13日記)


カテゴリ:エッセイ | 19:52 | - | - | - |
ベトナム伝統音楽人形ショー

蝶踊り


 先日、私の職場にベトナムの人たちがやって来られて、国際交流の一環として見学の後に懇談をし、意見交換を行った。私は、昨2018年12月にダナンとホイアンを訪れて写真を撮ってきたばかりなものだから、この懇談をことのほか楽しみにしていた。すると、たまたまダナンから来た偉い人がいて、最近の現地の話題で話が弾んだ。

 実は、私は8年前にこんな文章を書いている。「これでも私は、ベトナムに1回だけ行ったことがある。しかし、20年ほど前のハノイなので、仕事以外で見たものといえば、ホーチミン将軍の遺体と、科挙の合格者を祭った孔子廟、それに例の水中人形劇だけ・・・である。しかし、そんな昔話はもうすっかり過去のことで、現代のベトナムは、これからますます発展するだろう。中国を挟んで東の日本と西のベトナムは、安南節度使を勤めた阿倍仲麻呂以来の縁がある。いずれも、国民が勤勉で人口も多い点(ベトナムは約8600万人、日本は約1億2752万人)、国が南北に長い点、米が主食である点など、共通点が多い。これから、日本が大事にしていきたい国のひとつである。(2011年9月18日)」

 今も「日本が大事にしていきたい国」という認識は変わらないが、この間、大きく変わったと思うことがある。それは、ベトナムがここ最近、大いに経済発展を遂げ、それが人々の態度や立ち居振る舞いに良い影響をもたらして、どことなく余裕を感じさせるようになったことだ。見方を変えたら、90年代のバブル経済崩壊後の日本経済が沈滞してほとんど経済成長がみられなかった一方で、ベトナムなどのアセアン諸国が順調に発展していっただけのことかもしれない。ともあれ、それと同時に、かつて高度経済成長を成し遂げた日本人としては、かつての栄光はどこに行ったのかと自問したい気がする。

 そうした経済発展を遂げつつあるベトナムのような国は、文化の面でも余裕が出てきたものとみえて、最近、かなり進歩したのではないかと感じる。というのは、平成23年に代々木公園で「ベトナム舞踊・アオザイショー」を見たときは、特に舞踊は、まだまた粗削りだなと思ったものである。ところが、今回、同じ代々木公園で行われた「Vietnum Traditonal Music Puppet Show」(ベトナム伝統音楽人形ショー)は、ベトナム人の器用さと洗練された伝統芸が程よく混ざりあって、なかなか芸術水準が高くなったと感じる。もちろん、芸術性の善し悪しは、これを演じるパフォーマー集団の質に左右される。その点、今回のパフォーマーは、ベトナム文化スポーツ観光省から派遣されたと言っていたから、それだけに演技がよかったのかもしれない。ただ、惜しむらくは、演目や内容についての説明が全くないものだから、我々観客も、どういう踊りなのか理解が今ひとつだったことだ。こういう点は、公演のパンフレットかホームページにでも載せておいていただければよかったのではないかと思う。

 ということで、私が勝手に命名した踊りの順序に従って、以下に写真を並べていきたい。なお、私はカメラを「キヤノン EOS70D」から、「ソニーα7III」のフルサイズに切り替えたので、この写真がEOS70Dで撮る最後の写真となる。早い動きにも、結構付いていくことができて満足している。

 余談だが、今回のフェスティバルでは、メインステージのほかに特設舞台でベトナムの水上人形劇(ムアゾイヌオック)が披露されたようだが、私は既にハノイや平成26年9月に横浜で見学しているので、今回はパスをした。また、会場では私の好物のドリアンが売られていた。やや小ぶりのものの値段を聞くと、重さを測ってくれて3,250円だという。現地価格の3倍だが、日本で売られている売価の半値だ。それならばと購入し、その場で食べてみた。ところが収穫してから日が経つせいか、やや乾燥が進みすぎて匂いは弱い。肝心の味はといえば、ドリアン特有の、あの高級チーズのようなねっとりとした感触があまりない。やはり、値段相応の味だった。


(1)蝶踊りと旗振り


旗振り


 さて、メインステージでのベトナム伝統音楽人形ショーの様子である。最初は、男性が出てきて、カラフルな旗を両手に持ってそれを振る。どういう意味があるのかわからない。だから、「旗振り」としか表現できないのだけれども、共産国らしくマスゲームを行うときなどに使われるのかもしれない。

旗振り


蝶踊り


蝶踊り


 次に、腰周りに蓮の花のようなピンク色の花びらを付けた華やかな女性ダンサー5人が登場し、優雅な踊りを見せる。ピーターパンに出てくる妖精ティンカーベルのようで、なかなか美しい。1人で両手を左右に動かしたり、5人が横に並んだり縦になったり、まるでマスゲームの小型版だ。次に場面転換のようで、男性が出てきて、笛で鳥のさえずりのような音を出す。耳が痛くなるほど大きな音だ。

蝶踊り


蝶踊り


 それが終わると、再び男性による旗振りがひとしきりあってから、また女性ダンサーが登場した。今度は蝶の羽根のようなものを見に付けている。これは優雅としか言いようがない。ただ、惜しむらくは蝶の羽根が内側に描かれていることで、外側にも全く同じように描くと、もっと見栄えがするのではないかと思った。


(2)カルメン人形


カルメン


カルメン


 突然、カルメンの曲が流れてきた。ベトナムとカルメンとは結びつかないなと思っていたら、上下が黒でスカートが赤の女性ダンサーが現れて、スペイン風の踊りを始めたから、一瞬、違和感を覚えたが、なかなか上手なので、面白いと思って観ていた。

カルメン人形


カルメン人形


カルメン人形


カルメン人形


 すると、男性が操り人形を持って登場した。それを合図に、3人の女性ダンサーがいずれも「カルメン人形」を持って踊りだした。なるほど、これがこの劇団の本業のようだ。ダンサーたちは、人形を操りながら、しかも自分で踊らなければならない。踊るだけでも大変なのに、一人で踊り手と操り手の二役をこなすという活躍ぶりだ。しかもよく見ると、例えば、人形がスカートの端を持ってたくしあげたりするほどの細かい操作をやったりしている。おっと、人形を振り回し始めた・・・色々とやるものだ。加えて、ダンサー全員が左手を上げてポーズをとっていた場面があったが、実は人形の方も同じポーズをし、そのためにダンサーは左手に操り糸を持っているという芸の細かさだ。それを客席には笑顔を振りまきながら行うのだから、これはこれでかなりの修練が必要だろうと思う。感心してしまった。

ベトナム女性人形


ベトナム女性人形


 やがて場面が変わって、今度は主役がカルメン人形からベトナム女性人形になった。女性と男性の操作者が、腰位の高さの人形を操る。今度の人形はベトナムの農民がよく被る日よけ傘(ノンラー)を持っているから、それだけ操るのが難しい。ところが、この日よけ傘が表現のポイントであるから面白い。それを身体の前に密着させて持つか、それとも片手でやや上向き加減にするかで、受ける感じが全く異なってしまう。私は飽きずに、その日よけ傘の持ち方を眺めていた。

ベトナム女性人形


ベトナム女性人形





(3)ろうそく踊り


ろうそく踊り


ろうそく踊り


 次の出しものは、私もこれを何と言うか表現するに困って、「ろうそく踊り」とでも言っておこう。宗教的意味がありそうなのだが、例によって説明がないので、よくわからないのが残念なところである。舞台の真ん中に「ろうそく」が添えられた花籠が恭しく置かれて、その前でグリーン色の衣装に身を包んだ一人の女性ダンサーが踊る。そのうち、花籠から両手に3本ずつ、火を灯したろうそくを持って踊る。まるで、巫女さんのようだ。やがて、ピンク色の衣装の3人の踊り手がそれを支えるように一緒に踊る。それから、先程の花籠を頭に載せて踊り出す。そのうち、鉦を持ったオレンジ色の踊り手も入ってくるといったものである。ともかく、優雅で賑やかで、カラフルで陽気で、かつ楽しいひと時を過ごすことができた。主催者と出演者に深く感謝したい。

ろうそく踊り


ろうそく踊り


ろうそく踊り









 ベトナム伝統音楽人形ショー(写 真)




(2019年6月9日記)


カテゴリ:エッセイ | 21:45 | - | - | - |
天橋立・舞鶴・蘇洞門への旅

天橋立


1.天橋立

 京都府の日本海側を旅する機会があり、まず天橋立に行ってみた。そのきっかけを作ったのは、父の遺品のアルバムだ。父が亡くなってしばらくして、遺品のアルバムを整理していたところ、父が両脚を広げてその股の間から向こうを覗いている写真を見つけた。妙なことをやっているなと一瞬思ったが、背景の景色を見て何の写真かがわかった。これは、天橋立の名物「股のぞき」なのだ。ああ、父も天橋立に行って、実際にやってみたのだと思うと、無性に行きたくなったというわけである。ちなみに、私はこれまで、当地を訪れたことはないから楽しみだ。

 ところが、天橋立にたどり着くには、かなり遠い道のりなのである。東京から京都までは、新幹線のぞみで2時間15分ほどであるのに対し、京都から天橋立まで、それとほぼ同じくらいかかる。まず、京都から宮津まで特急はしだて号で行き、そこから私鉄の京丹後鉄道で天橋立駅に行くと、連絡が良い場合で2時間、連絡が悪い場合は更に45分ほどかかることがある。行程に慣れてないせいか、非常に長くか感じる。もちろん飛行場もないから飛行機が使えない。ただ、京都から天橋立まで行く高速バスの便があるようだから、乗り換える必要がないので、そちらの方が楽かもしれない。

 ともあれ、私は天橋立駅に降り立った。駅構内に観光案内所があって、幾つかパンフレットをもらった。駅を出たところ、ふと目の前にあるホテルが視界に入る。今晩泊めてもらう天橋立ホテルだ。これはわかりやすい場所にある。チェックインして荷物を置き、早速、近くの桟橋から観光船に乗った。対岸の傘松公園から天橋立を眺めに行くためだ。


天橋立


天橋立


天橋立


 観光船が通るのは、天橋立で仕切られた「宮津湾」の内側にある「阿蘇海」である。船は出発したが、海の上から見る天橋立は、単なる海岸の松林のように見えるだけで、景色としてはとても単調だ。この退屈なままで対岸に着くのかと思ったら、そうでもなくて、空中でぎゃあぎゃあと大騒ぎが起こった。一緒に船の屋根のない最上階に上っていた親子連れが、空に向かってお菓子を投げ始めたからである。するとそれを狙ってたくさんのカモメが集まってきて、奪い合いの大騒ぎになった。

天橋立


天橋立


 観光船のスピードはかなりあるので、カモメたちはそれに飛行しながら追い付くのも大変なのに、その上、空に投げられたあの小さなお菓子を空中で器用にキャッチするのである。大変な運動神経を持つものだ。気のせいか、カモメがお菓子をキャッチした瞬間、ニヤリと笑うような表情をするから面白い。その写真を撮りながら、国定公園の中でこんなことをやって良いのだろうかと考えたりするのだが、どうも観光船は放任しているようだ。

天橋立


天橋立


 さて、わずか15分で対岸に到着した。船着き場からすぐのところに、「丹後一の宮 元伊勢 籠(この)神社」がある。とても由緒ある神社のようで、そのHPによれば「第10代崇神天皇の御代に天照大神が倭国笠縫邑からお遷りになり、天照大神と豊受大神を吉佐宮(よさのみや)という宮号でご一緒に4年間お祀り申し上げました。その後天照大神は第11代垂仁天皇の御代に、又豊受大神は第21代雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢にお遷りになりました。それに依って当社は伊勢神宮内宮の元宮、更に外宮の元宮という意味で『元伊勢』と呼ばれております。」なるほど、これは古いわけだ。

天橋立


天橋立


 この神社の中を通ってケーブルカー乗り場まで行く。かわいい乗り場があり、ケーブルがガラゴロと動いている。それに乗ったら、直ぐに高台の傘松公園だ。天橋立の北東端に当たる。天橋立は、目の前の右手上から左手下にかけて斜めに走っている。なるほど、これは絶景だ。眺めて飽きない。いただいたパンフレットによれば、「天橋立は陸前(宮城県)の松島、安芸(広島県)の宮島と共に日本三景の一つに数えられる景勝地である。『丹後国風土記逸文』に、国を生まれた伊弉諾尊が天に通うために梯(はし)を作られたが、命(みこと)が寝ている間に倒れ伏したという記事があり、これが名の起りである。・・・神秘的で美しい姿は、野田川から流れ出る砂粒と外海から流れ来る砂粒とがぶつかりあって出来たと考えられる。約500年前に描かれた雪舟画の国宝天橋立図には現在より短い天橋立が描かれている。」とある。天橋立とは、天に掛けた架け橋が倒れた姿か・・・なるほど、なかなか巧みな描写である。

天橋立


天橋立


 ところで、この傘松公園側から見る天橋立は「昇龍観」といい、反対側の天橋立駅(ビューロランド)側からの景観は「飛龍観」というらしい。天橋立を眼下にして、至る所にお立ち台ならぬ「股のぞき台」があるのが可笑しい。いろいろな人たちが入れ替わり立ち替わり、御覧のようにやっている。あんなに腰を曲げて、その上、頭を落として股の間をよくのぞけるものだと感心する。私も父のようにやってみたところ、そもそも腰が十分に曲がらない。一回の試しでもう十分だ。もっとも、当地の名物とはいえ、頭に血がのぼるし、あまり品の良いものではないから何回も試すような代物ではない。

天橋立


 それから、飽きるまで写真を撮っていると帰りはもう時間がなくなった。名刹の成相寺には立ち寄りたかったが、もう夕刻で、寄っている暇がない。それは次の機会ということにして、傘松公園リフトを使って麓まで降りてきた。リフトに乗っているとき、景色が良いので、つい脚を前後に振ったりしがちだが、安全のため厳禁とのこと。

天橋立


天橋立


 麓に着いて、反対側に帰るために再び観光船に乗るというのも有り得たが、運動のためだと思って天橋立の中を歩くことにした。所要小1時間だという。天橋立の中から見ると、単なる松林が続いているだけだが、その中で目立つ松に名前が付けられている。舟越の松、双龍の松、見返り松、小袖の松、雪舟の松、夫婦松、阿蘇の松、千貫の松という具合であるが、このうち双龍の松は平成に入ってからの台風で敢え無く倒壊し、現在は碑のみが置かれている。

天橋立


天橋立


 また、途中には、松尾芭蕉の句碑、真水が湧くという磯清水、与謝野寛・晶子歌碑があって、歴史を感じさせる。そもそも、百人一首にある「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天橋立」(小式部内侍)とあるくらいだから、平安時代から名所として人口に膾炙していたものとみえる。

天橋立


 天橋立駅側に近づくと、橋が2つある。なるほど、内海の阿蘇海は、仕切られているのではなくて、宮津湾とここで繋がっているのだ。しかも陸側の端は、「廻旋橋」という。つまり、真ん中を中心に橋桁を水平に回旋して舟を通すという仕組みらしい。昔は、人力で回旋していたという写真があった。ところで、こちら側にも智恩寺という有名なお寺があるようだが、本日は純粋に景色を撮りにきたし、いささか疲れたので割愛することにした。

天橋立


天橋立


天橋立


 そして翌朝、朝一番で天橋立ビューランドにリフトで登り、飛龍観を写真に撮った。こちらの方が、砂が小さな三角形となって続き、それがあたかも飛龍の背びれのように見えるので、迫力満点の写真となった。これは素晴らしいと感激していたら、何のことはない。京都府丹後広域振興局が、天の橋立について歴史や保全活動について述べているHPの記事があった、それによると、小さな三角形がはっきり見えるのは、天橋立の宮津湾側の海岸の砂がなくならないようにするサンドバイパス工事(砂浜に沿って流れゆく砂が人工構造物などに移動をさえぎられたため、その上手側に堆積したものを下手側の海岸に人工的に移動させる一種の養浜工事)の結果らしい。


2.舞 鶴

 翌日は、舞鶴に行ってみた。西と東とに分かれていて、歴史的には、西舞鶴はかつては田辺藩の城下町で戦前は大連やウラジオストックへの玄関口である商業港として、東舞鶴は言うまでもなく旧帝国海軍の軍港として、それぞれ発展してきた。各々に鉄道の駅がある。このうち西舞鶴駅は、京都丹後鉄道の宮津線とJR西日本の舞鶴線が乗り入れ、いわゆる接続駅となっている。その舞鶴線は、綾部から西舞鶴を経由して東舞鶴に繋がり、東舞鶴からはJR西日本の小浜線となって敦賀に至る。


舞鶴


舞鶴


 この日は、天橋立駅から東舞鶴駅まで乗り、タクシーで赤レンガパークまで行って、「旧海軍ゆかりの港を巡る遊覧船」なるものに乗った。たまたまこの日は、海上自衛隊を退職された方がボランティアで説明をしてくれる。あちこちに自衛隊の艦艇が碇泊中で、それを洋上から見物するという 趣向である。横須賀港でもやはり同じようなツアーがあるが、これほど間近で見ることはできないというのが、こちらの売り文句である。

舞鶴


 ボランティアさんの説明は、例えば、こんな調子である。「右手に並んでいる681と682の二つの護衛艦、それぞれ『すがしま』と『のとじま』ですが、これらは同型艦で、いずれも掃海艇です。磁気に反応してはいけないので、木造の船でして、しかも機械にはなるべくステンレス、アルミ、銅という材料が使われております。排水量は610トンで、速度25km/時しか出ません。湾岸戦争時には、わざわざペルシャ湾まで掃海に行ったのですが、速度が遅いために行くのに何ヶ月もかかりました。あそこに見える『東山』には、戦時中には機銃砲台があり、大きな防空壕があります。ただ、もう相当古くなっているので、立ち入りは禁止されています。」と、なかなか名調子である。

舞鶴


舞鶴


舞鶴


 最初はそれを聞いていたのだが、そのうちカメラを持って舷側に行って手当り次第に写真を撮るのに集中していたら、反対側にいるボランティアさんの説明があまり良く聞こえない位置だったので、せっかくの説明が頭に入らなくなり、実に残念なことをした。それにしても、護衛艦の写真は撮り放題だ。これと同じことを外国でやったら、いつ何時スパイ容疑で逮捕される災難に遭うかもしれないので、外国では決してしないように心しておきたい。

舞鶴


舞鶴


 すぐ近くのドックにイージス艦「みょうこう(175)」が入っている。アメリカ映画「バトルシップ」で浅野忠信が演じるナガタ艦長が指揮していた艦だ。一方、はるか遠いところにイージス艦が停泊中だど思ったら、修理点検を終えた「あたご(177)」のようだ。艦に弾薬やミサイルを積込み中らしくて、市街地から離れたところで作業しているとのこと。また、戦前の舞鶴海軍工廠からスピンアウトした形で、造船のジャパンマリンユナイテッドと日立造船、日本板硝子の工場などがある。関西電力の石炭火力発電所も陸の施設として目立って見えた。ジャパンマリンユナイテッドでは、幾つかドックがあって、自衛艦の艦船を修理していたほか、受注した民間タンカーが完成間近だった。

舞鶴


 帰りがけに、市内の様子を見ようとして、港から東舞鶴駅へと25分の道のりを歩いて行った。すると駅前に続くアーケードのある大通りを通ったが、土曜日だというのに完全なシャッター通りと化していて、驚いたことにわずか数人の通行人しか会わなかった。しかもそのうち2人は、白い制服を着た女性海上自衛官だった。日本の地方都市は、どうなってしまうのだろう。


3.蘇洞門(そとも)

 舞鶴で遊覧船に乗ったその日の午後、JR西日本小浜線で福井県小浜に向かった。海の景勝地である「蘇洞門(そとも)」と、それから「鯖街道記念館」を見学したいと思ったからである。ホテルは、記念館のすぐ隣に確保した。チェックインしてみると、午後3時半だ。蘇洞門巡りの遊覧船の最終便が出るのは4時で、その桟橋はこのホテルから歩いて10分もかからない。それに、今日は風がなく凪なので海は荒れていないから、外海に出ても船酔いの心配はない。乗船するには絶好のチャンスだと思って、急いで行ってみることにした。


蘇洞門


蘇洞門


 出航の10分前に、乗船券売り場の若狭フィッシャーマンズワーフに着いた。「まだ、間に合いますかね。」と、受付の女性に聞くと、満面の笑みで「はい、大丈夫ですよ。」と返してくれる。こういうときの女性は、それこそ観音さま・菩薩さまに見える。乗船券を買って勢いよく乗り込んだ。そのまま直ぐに上階に上がって吹きさらしの先頭で、ステンレスの棒に掴まる。

蘇洞門


蘇洞門


蘇洞門


 船は走り出した。スピードが上がっていくにつれて向かい風が強くなり、帽子が飛ばされそうだ。カメラもしっかり構えないと、被写体が定まらない。やがて船は港を出て、半島部を右手に回り込んで行く。まず見えるのは、海にちぎれるように浮かんでいる「三ツ岩」「二ツ岩」である。その向かいにある半島部が「松ヶ崎」で、その付近から海中に突き出しているのが、「鎌の首」である。いただいたパンフレットの説明によれば、「根元より頭の部分が大きく、イースター島のモアイ巨石の様な形をし、農作業で使う鎌の柄の部分にそっくりなところからそう呼ばれています。」とのこと。でも、船は猛スピードで走るし、しっかりと掴まっていない振り落とされそうでこわい。それもあって、三ツ岩以外はどれも同じに見えて、何が何だかよく判別できなかった。

蘇洞門


蘇洞門


蘇洞門


 その先にあって、同じく海に屹立しているのが「唐船島」で、同じくパンフレットの説明では「昔、南蛮人を乗せた『唐船』をこの島につないだところからこの名前が付いたといわれています。」という。島といっても、とても住める所ではない。あそこに見える岩かなという気がするが、よくわからない。次は、「あみかけ岩」で、「岩に網目のように亀裂が入り、まるで網を掛けたように見えるところからそう呼ばれています。」とのこと。ただ、これは柱状摂理の地形の典型である。ちなみに「柱状摂理」とは、マグマが地上に噴出して冷えて固まるときに玄武岩や安山岩になるが、その時に五角形や六角形の柱のような割れ目が生じてその断面がまるで蜂の巣に似た形になることである。福井県の東尋坊などに見られる。これは、判別できた。それにしても、あちらこちらの岩で、熱心に釣っている人の姿を見かける。いったいどうやって来たのだろうという気もするし、またどういう方法で帰るのだろうという気もする。誰かに船で送り迎えしてもらわないと不可能だ。

蘇洞門


蘇洞門


蘇洞門


 「夫婦亀石」は、「同じような大きさの亀が2匹おぶさっているように見えるところからこの名前が付いています。」という説明だが、あまりそのようには見えない。「白糸の滝」「年中水量が変わらない、非常に美しい滝です。最近まで上流で『わさび』が栽培されていました。」と説明されていた。確かに、か細いけれども、滝の流れが見えた。

蘇洞門


蘇洞門


蘇洞門


蘇洞門


 「大門・小門」は、海側から見ているとよくわからないが、この日はいわゆる「ベタ凪」だったので、船が内側に回り込んで5分ほど停泊してくれたので、ハッキリと見ることができて感激した。「右を『大門』左を『小門』と呼び、『小門』の高さは大人の背丈の3倍以上あります。近くには『吹雪の滝』が流れ落ちています。」とのことであるが、これは柱状摂理の柱が波に侵食されて脱落したものだろう。同行した地元の大学生は、「これは余程、天候が良くないとここまで来られないから、今日は運が良かった。」と、喜んでいた。


4.鯖街道

事前に旅行のプランを練るとき、小浜市に行って観光するとすればどこがよいかと思って調べたところ、小浜市のHPで、次のような文章を見つけた。

「 近年、鯖街道という言葉がしきりに聞かれます。若狭湾で取れた鯖に、一塩して、夜も寝ないで京都まで運ぶと、ちょうど良い味になっていた、とよく言われます。この道は、単に鯖ばかりを運んだ道ではありません。街道沿いや、到着地の人々に尋ねてみると、イカやカレイや、グジ(アマダイ)、その他、多種の海産物などが運ばれています。いわゆる北前船から陸揚げされた物資も、盛んに輸送されました。 

 鯖は、今と全く比較にならず沢山とれ、体形も大きく、ことさらに一般庶民に喜ばれ待ち望まれたために、これを運ぶ道にさえ、いつしか鯖街道の名が付けられたものです。いわば、鯖街道とは、その代表名に他なりません。古文献には見い出せないことから、その命名は新しく、恐らく戦後に、文人たちが書き始めたのではないかと、考えられています。

 しかし、鯖街道の実質的な起源は、極めて古く、はるか千二百数十年昔の奈良の都、平城宮の跡から発掘された木簡に、若狭から送られたタイの鮓を始め、既に十種に近い魚介(貝)の名が見えています。また、塩を送った多数の荷札が見出されており、鯖街道は、まさに塩の道でもありました。この荷札である木簡は、さかのぼって、現在橿原市の藤原宮の跡からも出土しています。さらに、ごく最近、奈良県明日香村の都の跡で、千三百年の以前に、若狭の三方から送られた、タイの木簡が発掘されました。ますます古い歴史が、よみがえってまいります。

 ところで、日本海と都を結ぶ鯖街道は、また政治の道、軍事の道、特に文化の道でもありました。近年、よく用いられる裏日本という言葉は、暗く、うら寂れた感じを伴い、日本海側地帯の特徴を表しているような錯覚さえも起こさせました。しかし、調べてみると、この裏日本という用語は、わずか百年ばかりの歴史しかありません。いうまでもなく、この日本海に面する一帯は、太古より、まさしく表日本であり、しかも若狭地方はその正面玄関でもありました。小浜の名勝を代表する「そとも」も「外面(そとも)」から取っており、漢字は時の国文学者に「蘇洞門」とつけていただいた経緯があります。きっと、大陸文化の渡来も、久しく行われたことでありましょう。また、鳥浜貝塚から、五千年以上も前に漂着したココヤシの実が、幾つも発見されていることや、室町時代に南蛮船が小浜へ象をもたらした史実など、遠く南方との交流をも思わせます。

 さて、鯖街道とは、決して単に、小浜と京都を結ぶ一本の道のみを意味しません。若狭湾岸の幾つかの地点から、多数の道が、京都へ、遠くは奈良へ飛鳥へ、さらには丹波の篠山などへと通じていました。日本海の幸を送る通称鯖街道は、大陸などの文化をも届け、また、都から幾多の文化を、この地方に招来しました。優れた仏教美術の存在を始め、今も若狭には、雅の言葉が残るといわれ、都人の教えを受けた詩歌や、多くの芸能の伝わることも、その証といえましょう。」


 なかなか、良い文章だ。そういえば、京都祇園「いづう」の鯖ずしは絶品だが、元はといえば、ここから来ていたのかと思うと親しみが湧く。では、行ってみようかと考えた。そこで、鯖街道起点と鯖街道資料館のすぐ裏手のホテルを予約した。


鯖街道起点


鯖街道資料館があったはずの元商店街


 夕方、まだ明るいので、実際の鯖街道資料館の見学は明朝にすることにし、事前に場所を確認しておくことにした。その「いずみ町商店街」に行くと、何だか様子がおかしい。道路の拡張工事が始まっていて、商店街のアーケードが壊されているし、更地になっていたり、セットバックした新しい建物もある。その中を進んでいくと、床のタイルに、「鯖街道起点」と書かれている。ああ、ここだ、間違いない。ところが、鯖街道資料館のあった辺りは見る影もない更地になっていて、影も形もない。「何だこれは、あの小浜市のHPは何だったのか、せめて『しばらく休館です』ぐらいの表示があってしかるべきではないか。」と思った次第である。


5.福井県年縞博物館

 そういうことで、翌日はさっさと小浜を離れて、福井県年縞博物館のある三方(みかた)に向かった。三方五湖のうちの三方湖の畔にあるこの博物館を見学したところ、いやもう、感激してしまった。「年縞」というのは、あまり聞き慣れない言葉なので、まずは博物館のHPを見てみたい。「年代測定の世界標準のものさし『年縞(ねんこう)』を展示する『福井県年縞博物館』が2018年9月15日(土)にオープン・・・名勝『三方五湖』の一つ『水月湖」の湖底には、世界でも唯一7万年分もの縞模様の地層『年縞』が堆積しています。博物館では、45mの実物展示のほか、体験しながら学ぶことができるコーナーも充実しています。カフェも併設しており、湖を眺めながらゆったりとした時間を過ごすことができます。」ということだが、これだけではまだ何のことやら全くわからない。

 日本のように四季が移り変わるところでは、春は花粉、秋は落葉などが舞い、それが人里離れた湖底にひっそりと降り積もる。それは湖底の地層の中に順次規則的に積もっていって、その断面を見ると縞のようになっており、それが一年分を表している。それをずーっと根気よく数えていけば、個々の縞が今から何年前のものかがわかる。その中に含まれている葉っぱの放射性年代測定を行えばその年代が特定できて、例えば古代の遺跡から出土した人骨など有機物の放射性年代測定結果と付き合わせると、その人骨の年代が年単位で極めて正確に決定できるという意味で、重要な物差しとなる。


福井県年縞博物館


福井県年縞博物館


 水月湖(すいげつこ)では、このような年縞が過去7万年分、ボーリングの深さで45メートルを採取することができた。これは、ひとつの奇跡のような条件が重なった結果だという。第1に、水月湖の水深は34メートルと、かなり深くて、湖底をかき回す風や生物の影響を受けにくかったことである。水深が浅いと、湖面を吹く風がどうしても湖底に達して年縞を乱すし、酸素が湖底まで行き届いて魚などが生息し、これまた湖底を乱す。そういうことが起こりにくかったのである。第2に、東隣の三方湖が、いわば防波堤の役割を果たしてくれて、地殻変動の影響を免れたことである。水月湖もその一つである三方五湖周辺は、長年にわたり湖の東側が隆起する。その度に土砂が流入して年縞を乱すところを、三方湖が防いでくれた。

 1994年から年縞の枚数を数えて葉の化石の放射性物質(炭素14)を測定する研究を始め、98年にはアメリカの科学誌「サイエンス」に掲載されるが、「世界標準のものさし」としての採用は見送られた。理由は、年縞が連続していなくて正確さを欠いたからである。というのは、当時のボーリング技術では、2メートルの長さのサンプルしか採れず、それを繋ぎ合わせていっても、サンプル両端の部分では年縞が潰れてしまったからである。ライバルの他国関係者から指摘された。その問題を解決するため、ボーリングをする地点のすぐ近くで、採取する長さをずらせて二つ目のボーリングを行い、二つのサンプルを比べ合わせて欠けた部分を補うという手法をとった。すると、見事に連続する7万年分のサンプルを採ることができたという。


福井県年縞博物館


福井県年縞博物館


 これは、博物館2階の45メートルの展示となっている。この展示を作るに当たっては、水分を抜いてスライスする特殊な技術が必要で、ドイツの技術者に依頼したようである。さて、そういうことで、45メートルに及ぶ水月湖年縞のステンドグラスの実物を細かに見ていった。実物は黄色と黒色の縞が延々繋がっている。その中で、手書きで、姶良カルデラの噴火、ベスビオ火山の噴火、湖の土砂崩れなどと書いてある。特に、火山の噴火は世界的な出来事なので、これを他国の年縞と比較すれば、ますます正確な年代測定ができる。

福井県年縞博物館


福井県年縞博物館


 さて、その水月湖年縞の裏側にも色々と展示があるが、中でも素晴らしいと思ったものがある。それは、年代を示す手元のスケールを動かすと、その時の水月湖周辺の環境が画面に出てくるコーナーである。水月湖年縞の中の花粉を分析し、温暖化の時代や寒冷化の時代にはそれぞれ内容が異なることがわかった。その一方、日本各地の土壌を集めてその中の花粉を分析し、それと水月湖年縞の中の花粉と照らし合わせて、当時の森林環境を再現してこれらの画像となったそうだ。これらの研究者の皆さんの地道なご努力に、心から敬意を表したい。なお、HPに書いてある年表を次に引用させていただこう。

1962年 三方湖の近くで縄文時代の遺跡、鳥浜貝塚を発見
1991年 鳥浜貝塚の研究の一環として行った水月湖でのボーリング調査で「年縞」を発見
1993年 国際日本文化研究センター安田喜憲教授(当時)が本格的なボーリング調査を実施、水月湖の年縞が45m連続していることを発見
1994年 国際日本文化研究センター北川浩之助手(当時)が年縞の枚数を数え、葉の化石の放射性物質(炭素14)を測定する研究を開始
1998年 北川浩之助手(当時)の研究データが、アメリカの科学誌「サイエンス」に掲載されるが、「世界標準のものさし」としての採用は見送り
2006年 ニューカッスル大学(英国)の中川毅教授(当時)を中心とした国際チームが再度ボーリング調査を実施、「完全に連続」した年縞の採取に成功
2012年7月 パリで開催された「第21回国際放射性炭素会議」において、水月湖のデータを中心に作成された「IntCal(イントカル)」が年代の「世界標準のものさし」として採用
2012年9月 水月湖の新しいデータを報告した論文が、アメリカの科学誌「サイエンス」に掲載
2013年9月 水月湖のデータを中心に作成された「IntCal(イントカル)」が年代の「世界の標準ものさし」として運用開始


福井若狭縄文博物館


 福井県年縞博物館と同じ敷地に、福井若狭縄文博物館という建物があって、そこにも入ってみた。年縞と違って、特に目新しい展示はなかったが、この三方五湖からは、縄文時代の丸木舟や漆器が出土したそうだ。

 そういうことで、日本海側の二泊三日の旅が終わった。昨年東尋坊に行ったときには海は時化ていて船酔いしそうになったが、今回は天の橋立、舞鶴、蘇洞門と3回も船に乗ったものの、いずれも海はベタ凪で良かった。鯖街道資料館がいつの間にか消えていたという残念なことがあったものの、その後の年縞博物館の素晴らしさが帳消しにしてくれた。総じて、誠に実り多い旅だったといえる。







 天橋立・舞鶴・蘇洞門への旅(写 真)




(2019年5月26日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:20 | - | - | - |
蔵王・山寺・酒田への旅

御釜


1.蔵王の御釜

 山形県と宮城県にまたがる蔵王連峰は、冬は樹氷、夏は火口湖の御釜で有名なので、一度は行ってみたいと思っていた。5月になってたまたま山形県に行く用があったので、ではこの際だからと出掛けることにした。当初の予定では日曜日に行くつもりだった。ところが、その日は蔵王ロープウェイが設備点検で休止中、山交バスも蔵王トレイルランのイベントのために運休と聞いて、急遽前日の土曜日に変えた。

 当日の天候は晴れで、絶好の登山日和だった。山形駅前を出発したバスは、雪がまだ残る山道を順調に登り、午前11時過ぎには山頂の県営レストハウスに到着した。バスの乗客の半数弱は中国人である。観光すべきところを実によく、知っているのには感心する。バスを降りてみると風が強い。しかもそれが冷たい風なので、かなり冷える。気温はおそらく10度くらいだろうが、この風のために体感温度は低くなり、特に頬と手先がかじかんできた。その中を数分歩くと、御釜を展望する場所に着く。本当に近くて呆気ないくらいだ。蔵王ロープウェイに乗ると40分歩かないといけないので、そのつもりでトレッキングシューズを履いてきたというのに、これでは運動にならない。

 眼前に広がる御釜の色は、まさにエメラルドグリーンそのもの。思わず「これは綺麗だ!」と口にしたくなる。周囲の火口壁が赤茶けたり黄色っぽかったりする土色なので、御釜のグリーン色がますます引き立つ。それにしても、「御釜」などという即物的な名前を付けるのではなくて、もっ詩情あふれる名称にすれば良かったのにと残念至極に思う。別名は「五色沼」だそうだが、まだそちらの方が詩や歌の題材になるかもしれない。


御釜


御釜に向かって左回りにガレ場を歩く


 さて、同じところから写真を撮るのも芸がないので、御釜の周りを巡ることにした。柵があるので、それより出ないようにした。最初は向かって左回りにガレ場を歩いていった。遠くに見える高山特有の荒々しい風景に息をのむ思いだ。その中で、自家用車で上がってきたのか、家族連れが一列に並んで雪が積もる遠くの山を仲良く眺めている。その情景が、何かミスマッチのような気がして、可笑しかった。ところで、至る所に雪解け水が流れているし、足元は泥だらけになってくるしで、歩くのもなかなか大変だ。それでも数百メートルほど行ってみて、御釜を真下に見下ろす写真を撮ってきた。帰ろうとしたが、あまりにも足場が悪いものだから、途中で元きた道を引き返すのは止めて、垂直に階段を登っていって、レストハウスに戻った。

御釜の反対側の眺め


山頂2階のレストラン


 こんな山頂なのに、2階建ての建物の中にちゃんとしたレストランがある。そこに立ち寄ってメニューを見ると「蔵王御膳」なるものは、まるで旅館で出る食事のように豪華だ。こんなものを食べてしまうと、今晩の旅館の夕食が美味しくいただけない。ということで、シンプルなビーフカレーにした。外の山々が連なる景色を見ながら黙々と食べて、食堂の配膳のおじさんに「ご馳走さま」と声をかけて出てきたのが30分後である。

刈田岳山頂からの眺め


刈田岳山頂からの眺め


刈田嶺神社


 再び御釜が見えるところに行き、右手に向かい、午前中には行かなかった神社の建物を目指して上がっていった。そこを登り切ったところが刈田岳山頂で、刈田嶺神社がある。 刈田岳(かつただけ)は、1,758メートルの山だ。何だ、大したことのない山だと思われるかもしれないが、関東や中部地方に比べれば高緯度にあるので、実感としては、中部地方だったら、2,300メートル程度の山に相当するのではないかと思っている。山形は、桜やツツジが咲くのは東京より1ヶ月弱ほど遅いので、そんなところではないだろうか。

霧に包まれる御釜


 刈田岳山頂から見下ろす御釜は、よく観光絵葉書に出てくるあの構図である。ここからなら、確かに御釜の美しさを余すところなく撮ることができる。そこでしばらく写真を撮り、背後にある刈田嶺神社にお参りし、また振り返ると、白い霧が御釜を覆いつつある。そして、あれよあれよという間に、辺りを真っ白なミルク色にしてしまった。もう御釜は見えない。山の天気は変わりやすいとはいえ、これは極端だ。このままでは、山全体が霧に包まれてしまったりすると大事だ。ちょうどその頃に下山するバスに乗り込むことができた。

 ところでレストランにあった説明では、蔵王の由来について「修験の開祖である役行者の叔父・願行は、自身も徳の高い修験者であり、道場にふさわしい山を求めて旅していたが、この地にそびえる雄大な山々を目の当たりにするに及び、ついにこの地を道場とすることを決意さ、山頂に吉野金峯山蔵王堂の祭神である蔵王大権現を分祀した。そして、この山の麓に僧坊を構えて、修行三昧の日々を過した、やがて、多くの修験者が集う一大道場へと発展し、願行の死後、その僧坊の跡地に願行寺と号する大寺院が建立された。願行寺を中心に多くの寺院・僧坊が築かれ、『願行寺四十八坊』と称されるまでになった。願行寺の修験者たちが道場とした山は、願行が蔵王大権現を祀ったことから『蔵王山』と呼ばれるようになったと言われています。」(蔵王町歴史と文化財公式HPより)とあり、

 御釜については、「蔵王刈田岳・熊野岳・五色岳の3峰に抱かれた円形の火口湖で、釜状なので『御釜』という名前がついています。湖面はエメラルドグリーンの水をたたえ、荒々しい火口壁と対比して神秘的な雰囲気をもち、冬の樹氷とともに蔵王の象徴となっています。今までに26回の噴火を繰り返し、最近では明治28年2月15日に噴火しました。昭和14年測深した当時は、深さが63メートルありましたが、 五色岳断崖の崩落により年々埋まり、昭和43年測深時では、最大深度27.6メートル、平均深度17.8メートル、周囲1,080メートル、東西径325メートル、南北径335メートルでした。湖水は強酸性のため生物は生息できません。水温は表面から10数メートルの深度で摂氏2度まで下がり、それより深度を増すと温度が高くなる特殊双温層で、世界でも例がない湖です。太陽光線の当たり方でさまざまに色を変えるため『五色沼』とも呼ばれています。南西から流れ出て濁り川となり、賽の磧の北側を迂回して太平洋へ流れ出ています。」(蔵王町歴史と文化財公式HPより)とある。


2.山寺(立石寺)



山寺駅


山寺駅


 山形県に行ったついでに、宝珠山立石寺、通称、「山寺」に行けるかどうか調べたところ、山形駅から仙山線で3つ目の山寺駅に行けばよいことがわかった。20分もかからないので、行ってみることにした。午前10時過ぎに山寺駅に着いた。赤い欄干に金色擬宝珠のある橋を渡った正面には、唐破風屋根を備えた古い建物がある。旅館だそうだ。そこを右手に曲がってすぐに、「登山道」とある。ああ、これだ。これから千段もの階段を登らなければならない。

赤い欄干に金色擬宝珠のある橋


山寺駅前旅館


 立石寺(りっしゃくじ)のHPによると、「当山は宝珠山立石寺といい通称『山寺』と呼ばれています。天台宗に属し、創建は貞観二年(860年)。天台座主第3世慈覚大師円仁によって建立されました。当時、この地を訪れた慈覚大師は土地の主より砂金千両・麻布三千反をもって周囲十里四方を買い上げ寺領とし、堂塔三百余をもってこの地の布教に勤められました。開山の際には本山延暦寺より伝教大師が灯された不滅の法灯を分けられ、また開祖慈覚大師の霊位に捧げるために香を絶やさず、大師が当山に伝えた四年を一区切りとした不断の写経行を護る寺院となりました。」とある。「砂金千両・麻布三千反」という表現が、なんとも生々しいが、よくそれほどの資金があったものだ。それだけ寄進してくれる人々がいたのだろう。

山寺登り口


芭蕉と手水盤


山寺入口


 立石寺は、言うまでもなく松尾芭蕉が「閑さや岩にしみ入る蝉の声」という有名な句を詠んだ舞台である。麓の根本中堂の脇に芭蕉の句碑がある。そこから日枝神社の脇を通って山門(鎌倉時代作)からいよいよ階段が続く。登山開始だ。両脇には、日光のような大きな杉の木々が並び、暑い日光が遮られてなかなか涼しい。森林浴のような気分で快調に登っていく。立石寺のHPにあった模式図の通り、笠岩、姥堂、慈覚大師お手掛け岩と登っていくうち、いささか疲れてきた。すると、せみ塚というものがあって、うまいことに休める台がある。ここは、芭蕉の句をしたためた短冊が納めてあるという。リュックの中の水を飲む。周りには、白人や中国人などが日本人よりも多く、各国語が飛び交う。開祖の慈覚大師が1100年後にはこうなっていると知ったら、驚くだろう。

登り道


登る途中の不動明王


せみ塚


せみ塚


弥陀洞


 さて、登山を再開だ。しばらく登ると、右手に弥陀洞がある。かつては、ここでかなりの宗教行事が行われたようだ。更に進むと、大きな建物が見えてきた。これが仁王門だ。嘉永元年(1848年)に再建された美しい門で、左右の仁王尊像は運慶の弟子達の作らしい。その辺りから登るにつれて建物があり、性相院、金乗院の次に最上義光御霊屋というものまであった。義光は、山形地方の人々に今なお尊敬されている英雄だ。中性院、納骨堂、三重塔とあって、ようやく奥の院までたどり着いた。

仁王門


仁王門の仁王尊像


性相院


納経堂(最も古い建物)


 開山堂・納経堂まではすぐで、これらは「立石寺を開いた慈覚大師円仁を祀るお堂で、大師の木造の尊像が安置されて居り朝夕食飯と香を供えている。 向かって左の岩の上の赤い小さな堂は写経を納める納経堂で山内一古い建物である。」とのこと。その脇に小道があり、五大堂につながる。これは「開山30年後に建立された五大明王を祀る道場。断崖に突き出すようお堂が立ち山寺を一望。山中随一の絶景。」とされる。まさに絶景で、いま登ってきた疲れが一気に吹き飛ぶほどの爽快感が味わえる。今は新緑の季節なので、青葉がしたたるほどの美しさだが、秋の紅葉の時季も、さぞかし綺麗だろう。

五大堂


五大堂からの眺望(左手)


五大堂からの眺望(中央)


五大堂からの眺望(右手)


金灯籠


(奥の院)大仏殿


 その絶景を眺めることができたので、さっさと降ることにした。登りには1時間ほどかかったが、降りは写真を撮ることもなかったので30分ほどで出発地点の山寺駅まで帰り着いた。お昼前だったが、蕎麦屋に入り、山形名物の板そばと芋煮を注文した。そばはいま一つだったが、当地の名物の芋煮が美味しかった。


3.文翔館


文翔館


 山形市内に戻ってきて、帰りの新幹線まで時間があったので、文翔館に行った。県のHPによると、「『文翔館』(旧県庁舎及び県会議事堂)は、大正5年に建てられた英国近世復興様式のレンガ造りの建物です。大正初期の洋風建築を代表する貴重な遺構として、昭和59年、国の重要文化財に指定されました。昭和61年から10年の歳月をかけて保存修復工事が行われ、現在は、山形県郷土館『文翔館』として一般に無料公開されています。創建当時の工法をもとに忠実に復原された建物や豪華な内装は、大正の古き良き時代の薫りを今に伝え、館内には、復原の記録とともに山形の歴史・文化を紹介する展示室も設けられています。」とのこと。

文翔館


文翔館


文翔館


 私は家内と平成20年にここ文翔館へ来たことがある。その時、外観はイギリス・ルネサンス様式のモダンな形だし、知事室や客間はロココ風でものすごく豪華なのにびっくりしたものだが、なるほど、当時の明治政府の為政者はこういう新たな舞台装置で時代が変わったと県民を納得させて行政を進めていったのかと思ったものである。

文翔館


文翔館の展示・赤紙


文翔館の展示・慰問袋


文翔館の展示・満蒙開拓ポスター


文翔館の展示・三島通庸


 ところが、前回と比べて、山形の歴史・文化を紹介する展示室が一新されたようで、非常に見やすくなっていた。明治政府の政策、大正時代の繁栄、昭和初期の贅沢禁止、戦争中の赤紙や慰問袋の現物、終戦後の復興などの様子がよくわかる。東京などは戦争末期に一面の焼け野原になってしまって何も残っていないが、戦争による物的被害が最小限に抑えられた山形だから、残っているのだろう。

山形駅脇のホテルからの眺め


山形駅脇のホテルからの眺め


山形駅脇のホテルからの眺め





4.酒 田

(1)酒田とは

 あまり時間がなかったが、酒田にも少し立ち寄ったので、その印象を記しておきたい。まず、酒田の位置を語る前に、山形県の地理を見てみよう。山形県が長四角だとすると、縦に二分し、右側がその北から南へと最上地方(新庄市、最上郡)、村山地方(山形市、村山市、天童市、寒河江市等)、置賜(おきたま)地方(米沢市、南陽市等)である。これに対し、左側は少し小さくて北に偏っているが、全体が庄内地方で、日本海に面している。その南の中心が鶴岡藩の根拠地だった鶴岡市で、北にある港町がかつての豪商の町酒田である

 酒田は最上川の河口に位置し、16世紀に源頼朝によって滅ぼされた奥州藤原氏の家臣36人が藤原氏の姫君を奉じてこの地に移り住んだのが始まりとされる。中世から貿易の中継地だったが、江戸時代には北前船で栄え、西の堺に対して東は酒田と称されるほどだったといわれる。廻船問屋の鐙屋(あぶみや)をはじめ、貿易で稼いだ資金で土地を買い集めて日本一の地主となった本間家など、数々の豪商をうみ、堺のように町は三十六人衆という自治組織によって運営されていた。ちなみに、鐙屋と本間家は、現存している。「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と言われたそうだから、お殿様よりも上とは、もう笑うほかない。


(2)相馬樓



相馬樓


相馬樓


相馬樓


 相馬樓は、そのHPによると、「江戸時代より料亭『相馬屋』として賑わっていました。現在残る木造の主屋は、明治27年の庄内大震災の大火で焼失した直後、残った土蔵を取り囲んで建てられたもので、平成8年11月、国の登録文化財建造物に指定されました。伝統に新しい息吹を加えて修復した相馬樓は、1階の20畳部屋を『茶房くつろぎ処』とし、2階の大広間は舞娘さんの踊りとお食事を楽しむ演舞場に、かつての厨房は相馬樓酒田舞娘のけいこ場となっています。2008年には館内に『竹久夢二美術館』を設置しました。酒田にゆかりのある夢二が相馬屋を訪れた際に贈ったという『からふねや』をはじめ肉筆画10点を中心に版画や写真、カメラや年譜など夢二の品を展示しています。また樓内の土蔵には雛人形や樓主・新田嘉一所有の書画や古美術等を展示しています。」という。

相馬樓


相馬樓


相馬樓


 確かに、これは豪華な料亭である。玄関に入ると、金箔の松竹梅と扇が迎えてくれる。くつろぎ処という部屋では、中庭を眺められるようになっている。そこに大きな一木のテーブルがあり、座布団が扇形をしているから可愛い。壁は緋色だ。この壁の風景、とこかで見たことがあると思ったら、金沢のひがし茶屋街だ。すると、この改装を手掛けたのが泉椿魚氏で、金沢の懐華樓も手掛けたことがあるというので、納得した。その前は、普通の色の壁だったらしい。

 2階に上がっていくと、商人どうしの密談にも使われたのではないかと思える小部屋もあったりして、ますます面白い。また、泉椿魚さんの詩が描かれている襖があって、それが誠に魅力的なのである。曰く、


相馬樓


相馬樓


 あなたは雨ですか 風ですか それとも雪ですか

 雨ならば雨の如く 風ならば風の如く 雪ならば雪の如く

 人生 素直に 朗らかに 自然のままに 生きられれば

 それが一番 倖せなのかも しれませんね

           戯遊詩画人  椿魚




相馬樓


相馬樓


 2階の大広間は、敷いてある畳が赤っぽいと思ったら、最上地方の特産の紅花で染め上げているという。そこで、5人いる酒田舞妓さんが地元の踊りを踊ってくれるそうだ。その他、蔵座敷、竹久夢二美術館があった。なお、NHKの大河ドラマ「おしん」の舞台として、鐙屋、山居倉庫とともに、この相馬樓もロケに使われたとのこと。

 私は法律を専門としているので、昔、酒田で相馬屋事件という椿事があったと聞いたことがある。その舞台が、まさにこの相馬樓2階の大広間だったので、思い出しておかしかった。ちなみにこの事件は、県会議員大泉長治郎と骨董屋丸山卯吉が幹事となり、酒田の豪商10数名が新年会を宮廷風にやろうとして、京都から衣装や小物を取り寄せ、明治26年1月28日に秘密裏に開いたことがきっかけだった。天皇役には大泉長治郎、皇后役には相馬樓の娘という役どころだったのだが、どこから漏れたのか新聞にすっば抜かれた。すると、不敬罪で全員が警察に逮捕拘留されてしまった。酒田の名士が全て捕まったために町をあげての大騒ぎとなった。そこで、東京から凄腕の弁護士を招き、「あれはひな祭りの余興だった」ということにして、無事に釈放にこぎ着けたというものである。


相馬樓


 かくして、それほど有名な相馬屋ではあったが、時代の流れもあって、平成7年に廃業してしまった。そこに救いの手を差し伸べたのが地元の有力企業である平田牧場の新田社長で、平成12年3月に現在の形で再開したという。おかげで、我々も重要文化財を拝見できるというわけだ。ちなみに、お昼頃に来ると、仕出しのお弁当をいただきながら酒田舞妓さんの踊りが観られるそうだ。


(3)日和山公園と鳥海山

 酒田在住の友人に酒田市内を車で案内してもらった。まず、高台の日和山公園から、六角灯台越しには酒田港や最上川河口を一望できた。奥の細道をたどる松尾芭蕉が元禄2年にこの地を訪れたそうで、その銅像が建てられている。「五月雨を集めて早し最上川」と詠んだ最上川はこれかと納得した。なるほど、川幅が実に広い。これならば、梅雨時には濁流が勢いよく流れるに違いない。


六角灯台


松尾芭蕉の銅像


 ちなみに、山形県の中央にあって出羽山脈の南部に位置する月山(がっさん)は、標高1,974メートルの山である。飛行機の上から見たら、もう5月中旬だというのにたくさんの積雪があり、まだスキーを楽しめるそうだ。庄内平野の南部では、この山がいわばシンボルだと聞いている。それに対して、庄内平野の北に位置する酒田では、むしろ秋田との県境にある鳥海山(ちょうかいさん)の方に、親しみを感じている人が多いという。こちらは、標高2,236メートルである。酒田市内を走っていると、確かに、町の至るところから鳥海山を眺めることができる。


(4)山居倉庫



山居倉庫


山居倉庫


 川岸の山居(さんきょ)倉庫に行った。いただいたパンフレットによると、「明治26年(1893年)に建造された米の保管倉庫で、現在も農業倉庫として活躍しています。土蔵作りの12棟からなる倉庫の屋根は断熱を考慮した二重構造で内部の土間にはにがりを練り固めるなどした湿気防止構造になっています。背後を囲むケヤキ並木は日よけ・風よけの役目を果たし、自然を利用した低温管理が行われているなどの工夫を随所に見ることができます。」となっていて、現存する12の棟のうち、1号棟は庄内米歴史資料館、12・13号棟は観光物産館になっているほかは、現役の倉庫として活用されているそうだ。周りを歩いたが、もう150歳を超えるケヤキ並木が、十分に歴史を感じさせる。


(5)南州神社

 友人が南州神社というところに連れて行ってくれた。南州といえば鹿児島の西郷隆盛なのに、なぜ酒田にあるのだろうという疑問が当然浮かぶ。これについては、酒田市のHPによると「南洲神社は、南洲翁(西郷隆盛)を祀る神社です。鹿児島市、沖永良部島和泊町、宮崎県都城市、そして山形県酒田市です。九州以外では、酒田市にしかありません。なぜ遠く離れた酒田市へ南洲神社があるのか・・・。そこには、南洲翁と庄内藩の交わり、そして先達たちの『後世に南洲翁の遺徳を伝えよう』という思いがありました。」・・・いや、まださっぱりわからない。続いて書いてあるのが


南州神社


南州神社


 「明治元年の戊辰戦争で、庄内藩は幕府側として官軍に激しく抵抗した末、帰順降伏しました。厳しい処分を覚悟してた庄内藩でしたが、南洲翁の指示により、公明正大で極めて寛大な降伏条件の言い渡しを受けたのでした。この公明正大な処分に感銘を受けたことから、明治3年から8年にかけ、庄内藩は藩主酒井忠篤公を先頭に鹿児島を訪れ、南洲翁の学びを得ました。また、明治8年には旧庄内藩の中老、臥牛翁(菅実秀)が、鹿児島の武屋敷を訪れ、南洲翁とお互いに親睦を深め、『徳の交わり』を誓い合っています。」ということだが、要は、庄内の人々は、極めて義理に篤いということなのだろう。


(6)土門拳記念館

 また、写真家の土門拳もこの酒田の出身らしくて、土門拳記念館というものがあった。酒田市名誉市民の第1号で、その全作品7万点を寄贈したそうだ。池のほとりにその記念館が建っている。なかなかの良い佇まいの建物であるが、残念ながら閉館が早くて、見学はできなかった。


土門拳記念館









 蔵王・山寺・酒田への旅( 写 真 )




(令和元年5月19日著)


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