骨折顛末記

手術直後の左手


1.骨折の日

 風呂場の僅かな水たまりに、つい足を取られて、大きくスリップしてしまった。頭を打たないよう咄嗟に左半身から落ちたが、そのときに、左手を不自然な形で床につき、そのところに全体重がかったようで、「ガキッ」という音がした。「ああ、左手を骨折したみたいだ。」と思った。どんどん膨れてくる。5本の指は少しは動くから、これは腕の骨の問題だ。机の上に腕と手首を乗せると、スプーンを下向きに置いたような不自然な形になっている。一応は歩けそうだが、余りの痛さに、いつもの病院までたどり着けるかわからない。仕方がないので、救急車を呼んでもらった。私は、救急車に同乗して患者とともに病院に行ったことは何度かあるが、自分が患者になるとは思わなかった。

 救急車に乗る前に、健康保険証と病院の診察カードを用意した。救急車に乗ったのはよいが、馴染みのない病院に送ってもらって、妙な治療をしてもらっても困るからだ。特にこれは、ややこしそうな骨折なので、自分が信頼できる病院の方が安心だ。救急車の中で隊員に診察カードを渡すと、それを元に病院に電話をしてくれて、受け入れ準備が整った。外出をしていた家内と携帯電話で連絡をとり、病院で落ち合うことにした。ほっと安心して、救急車の車内から、どこを走っているかを見ていたが、そのうちに痛くて、それどころではなくなった。

 やっと、病院に着いた。最初は歩いて中に入ったが、そのうち、車椅子に乗せられて、救急外来の中に入った。直ぐにエックス線室に連れていかれ、手を伏せた形と、手を縦にした形の写真を撮られた。それから診察室に戻ると、担当医が「折れていますね。左手の『橈骨(とうこつ』という親指側の太い骨の、手首に近いところが粉砕していて、『左橈骨遠端位骨折』と言います。」

 私が「単純骨折ではないんですか。それだとギプスで巻いて固定しておくだけですよね。」と聞くと、担当医は「いや、手首との接続部分が砕けているので、金属プレートを入れる手術をすることになります。」おやおや、これは大変、面倒なことになった。そこで、どうせ手術というのなら、早くやってもらおう、その方が直りも早いと思い、「では、直ぐに手術をお願いします。」と頼んだ。そうすると、1週間後だという。私は、「今日、明日というのは駄目ですか。」と粘ると、担当医は「それだと、金属プレートが用意できなくて、できないんですよ。」という。私が「では、4日又は5日後では、いかがですか。」再び担当医は席を外して調整に出かけた。そして、帰ってきてこう言う。「残念ながら、麻酔科の先生の時間が取れなくて、駄目なんです。手術が骨折の当日でも、1週間後でも、予後は変わりないというデータもあります。」・・・この最後の言葉が決め手となって、では仕方がない。その日程でお願いしますということになった。

 その若くて元気のよい担当医の先生は、「まず、とりあえずは手技で整復します。痛いですよ。」と言いつつ、2人がかりで手首と肘を引っ張ってくれた。相当に痛かったが、整復後は気のせいかもしれないが、親指の可動域が少々良くなった。それから担当医は、骨折した方の腕の肘から手首までを覆うギプスをはめてくれたのであるが、ギプスといっても、昔のものとは全くイメージが違っていた。昔のやり方は、石膏液に浸した包帯を先生が白くなりながら患部に巻いていって、それが固まると、カチンカチンの石のようになる。それがギプスだった。ところが今回は、1本の板を肘で折り曲げて両端を手首まで持ってきて、その長い「U」字形の底の空間をつぼめ、全体を包帯で巻いて出来上がりである。これだと、包帯を外しても、底の空間から落ちないし、上の空間から手を取り出せる。シャワーで洗ってもよいとのこと。なるほど、これは進化したものだ。昔は、夏の真っ盛りに2ヶ月間もギプスと包帯をすると、痒くて不潔で嫌になったものだが、今やそういうことはない。

 その日は、そのギプス姿で、家内とともにタクシーに乗って自宅へ帰った。痛いときには、痛み止めのロキソニンとその副作用防止のために胃薬のムコスタを飲むようにと言われた。でも、起きている時は何かと気が紛れていて、さほどの痛さは感じない。しかしながら、寝床に入ると、やはり痛い。そういう訳で、寝はじめに1錠ずつ飲んだ。私は普段からなるべく余計な薬は飲まない主義だ。ただこのような場合、強い痛さを無理に我慢すると、神経が馬鹿になってそれ以降、痛くないときにも痛いと感じるときがあるとも聞いたので、やむを得ない。夜中、眠たくなって寝入り、痛くて起きてを繰り返したが、わざわざ痛み止めを飲むために起きるのも面倒だと思っているうちに朝になった。


2.手術の日まで

 さて、怪我の翌日は、よんどころのない用事で、いつものように出勤した。問題は、背広を着ることができるかどうかであったが、これも軽量ギプスのおかげで何とか背広の腕を通すことができた。すると、左腕がやや曲がって見えるくらいで、遠目には分からない。痛さは前日と変わらず、痛いには痛いが、仕事に穴を開ける訳にはいかない。そういうことで一日を過ごし、加えて忘年会にまで出た。

 忘年会では、最初の挨拶を頼まれていたので、今年の初めに当オフィスで亡くなった方の思い出に触れた後、「今年は6月から7月にかけて西日本を襲った大豪雨、9月の北海道胆振東部地震など、災害の多い年だった。だから京都清水寺の貫主の書く今年の漢字は『災』だそうだ。どこかよそ事のような気がしていたが、このように自分の身に降りかかって、実感した。」などと語り、笑いをとった。もう、笑い話にするほかない。

 翌日は休日だったので、以前から誘われていた孫娘の幼稚園のクリスマス会に行ってきた。痛みを紛らすには、ちょうどいい。息子一家に会い、息子とお嫁さんには驚かれたが、とりあえず左手が使えないだけだから、心配することはないと言っておいた。面白いのは6歳の孫娘の反応で、家内が「おじいさんは、手を怪我したの。」と言うと、「ああ、骨折ね。」と、事もなげに言ったそうだ。最近の子は、何でも理解が早い。

 クリスマス会という学芸会が始まった。例年、卒園間近の子たちが演じるらしい。題目は、イエス様の誕生だ。天使、羊飼い、東方の三賢人、宿屋の主人と女主人それぞれの服装をした子たちが出てきて、一言ずつ伝言ゲームのように台詞を語る。それどころか、踊って歌う役柄もあるから、ミュージカルにもなっている。「あれ、ウチの孫娘はどこかな。」と思っていたら、何と、マリア様として堂々と登場した。息子もそのキャスティングを知らなかったようで、驚いていた。終わったとき、盛大な拍手を送ろうとしたが、左手が使えないのに気がついた。

 ところで、私は小さい頃、なぜイエス・キリストが厩で生まれたのかと不思議に思っていたが、今回の学芸会でようやく理由がわかった。住民登録のためにベツレヘムの町に赴いたヨセフとマリアが宿を探したが、どこもいっぱいで、ようやくある宿屋の女主人の好意で馬小屋に泊まらせてもらい、そこでイエスを生み、飼い葉桶に寝かせたそうな。そのときに天使が羊飼いに救い主の誕生を告げ、東方の三賢人も星に導かれてイエスを拝みにくる。なるほど、クリスマスにふさわしいお話だった。

 翌週は、いくつかの夜の会食や忘年パーティの予定が入っていたが、申し訳ないと言いつつ、夜の予定は全てキャンセルさせてもらった。その代わり、昼のスケジュールには穴を開けないように努め、全てこなした。この頃になると、腕は、ギプスの効果なのか、無理に動かさない限り、余り痛くはなくなった。ただ、長袖の下着が着られないのには困った。そこで、やや古めの長袖下着の左袖を半分にカットした。こうすると、当たり前だが、左袖にギプスを通すことが簡単になる。ワイシャツは、何とかギプス部分が入る。もちろん、袖のボタンは留められない。そこにスーツのジャケットの袖をやっと通して、仕事着の出来上がりだ。

 そういうことで、仕事はできるし、骨折部はさほど痛くはなくなったのだが、その代わり、腕の腫れはなかなか引かない。担当医の先生は、腕を心臓より上にあげていると、浮腫みが良くなるとは言うが、仕事しているときなどは、そうそう、そんな動作をしておられない。それに、冷やせとも言われたが、これも氷嚢は病院や自宅では用意できるものの、やはり昼間は無理だ。ただ、後から振り返ってみると、どちらも工夫して丁寧にやってみるべきだった。特に、冷やすのには、別に氷嚢を使わなくても、「熱さまシート」や「冷えピタ」の8時間用を使えばよい。これは、その部分の体温を2度下げる効果があるといい、気持ちがよかった。また、手を吊る三角巾は最近ではなかなか格好がよくなっているし、ギプスを付けて身体を洗うのは面倒なものだが、そのための専用のカバーもある。いずれもアマゾンで簡単に入手できる。便利になったものだ。



熱さまシート


三角巾


ギプスを付けて身体を洗う専用のカバー




3.手術の2泊3日

 待ち遠しく思えた手術の日が、やっと来た。1週間前に骨折したが、痛みはさほどではなくなったので、できればこのまま放置しておくと首尾よく治るというのが望ましいところだが、それでは将来的に問題が起こるというので、手術はやむを得ない。2泊3日の予定である。その前日の夕方、病院に入院した。個室を頼んでいたのに、運営の都合で、2人部屋になってしまった。私は、他人の鼾を聞くと寝られない質なので、これには困ったなと思ったが、今更やむを得ない。どうせ手術直後は寝られないから、同じことだと諦めた。

 その夕刻には、担当医と助手を務めてくれる先生が病室までやってきて、手術に当たっての一般的注意や、全身麻酔下の手術の注意などを聞く。中でも、肺血栓閉塞症予防のための注意は詳しかった。手術箇所を間違えないようにと、左手の黒のマジックで矢印を付けられたのは、可笑しかった。まあ、私の場合は腫れているのが左手なので、すぐにわかるとは思うが、用心するに越したことはない。

 そして、橈骨遠端位骨折手術説明書に基づいて丁寧に説明してくれた。この骨折には保存療法(ギプス固定)と手術療法とがあるが、一般的にズレが大きく徒手的整復が困難な場合、骨折が関節面に達している場合には、将来変形性関節症が起こる可能性が高いため、手術療法が選択されるそうだ。手術法は、掌側の手首当たりに6センチ程度の皮膚切開を行い、橈骨の骨折部に達し、骨折部の整復をした後、金属のプレートスクリューで固定するとの由。この手術の効果としては、骨折部を固定することで早期から関節可動域訓練を行うことができるので、関節の拘縮や筋力低下を抑えられる。また、将来の変形性関節症の発生を減少させられるという。術後1ないし2週間で手関節の運動を開始する。ただし、手を突いて荷重をかけることはしない。基本的に骨融合が見られた後は、通常は1年ほど後に、金属を除去することが多いという。ならば、そうしようと思う。それから、手術同意書、輸血同意書(万が一のもので、結局、輸血はしなかった。)、肺血栓閉塞症説明書及び麻酔説明書の確認と同意書に署名した。

 それが終わったが、夕食はもらえないし、することがないので、トイレの後に、消灯時間の午後9時から寝はじめた。ところが、いつもの就寝時間より3時間も早いので、余り寝られたものではない。案の定、隣人が大音量で鼾をかき始めた。これは困ったと思っているうちに、いつしか寝てしまった。朝、起床時間の午前6時前に起きたので、500ccの水を飲み、午前8時近くにもう一度、指定されたOS1のボトルを一本飲んだ。それで待っていると、朝の早い時間にもかかわらず、家内がやってきてくれた。これは、とても有り難く感じた。次に、担当医と助手を務めてくれる先生が様子を見にやってきてくれた。早ければ午後1時、遅くとも3時ということだった。

 待っていたら、ようやく午後2時近くに呼びに来てくれたので、歩いて手術室に向かった。家内が付き添ってくれる。入り口に患者3人が集まったところで、順に中へ入って行った。幅の細い手術台に寝かされて、その左側に手を置く台がある。これなら、左右を間違えられることはない。横たわって天井を見上げると、丸い形の電球が何個も着いた手術専用のライトがある。名前と右手首のバーコードが確認され、腕から点滴をされ、胸にモニター用の電極がつけられて、口に酸素マスクが当てられた。麻酔科の先生が、「今から始めます。」と言っていたのを聞いてしばらくして意識が遠のいた。点滴で麻酔薬が入ったらしい。かくして、生まれて初めての全身麻酔が始まった。

 目を覚ますと、病室のベッドの上で、家内が心配そうに覗き込んでいる。まだ十分には覚醒していないので、意識は晴れず、淀んでいる。家内に時間を聞くと、午後5時頃に手術室から病室に戻ってきたそうだ。左手を見ると、包帯でぐるぐる巻きにされている。ところが、左肩から下の感覚は全然なくて、指の感触はもちろん、手が今どこの位置にあるのか、そもそも左手があるのかどうかもわからない。意識は戻りつつあるのに、これはどうしたことだと思って担当医に聞くと、左肩に神経ブロックをしたので、その影響らしい。全身麻酔より3時間ほど遅れて午前1時頃には感覚が戻るが、それから猛烈に痛くなるので、痛み止めの点滴をするという。実際、その時間になると、激烈な痛みが襲ってきた。左手を冷やすと、やや良くなるが、それだけではどうにもならず、痛みと戦いながら、朝を迎えた。

 ちなみに家内はといえば、お見舞い者の退出時間の午後8時に帰らざるを得ず、それからは、トイレに行くにしても、水を飲むにしても、身体中につけられたモニターの電極、右手親指の酸素濃度計、鼻から吸入する酸素などのコードや管が身体の自由を奪っている中、それに抗する形で起き上がり、点滴のスタンドを右手だけで引きながら、大変な思いをしながら行ったものである。看護師さんにはよく助けてもらったが、深夜の担当は数時間ごとに変わるので、「トイレに行くときは、ナースコールで呼んでください。」という人から、「これくらいは自分でやってください。」という人まで様々である。ところがいざ自分でやろうとすると、左手の自由が効かないし、暗い中でコードに引っかかって身体につけられた電極や、鼻に掛けられた酸素吸入チューブが飛んだりと、散々の結果となってしまい、結局、ナースコールに頼ることが3回ほどあった。

 病室に帰って来た時、2人部屋病室の相方が退院したらしい。別の病気で2日間の検査入院のはずが、検査の結果、前立腺ガンが 見つかって、有明のガンセンターに行くことになったと言っていた。「それは大変、お大事に」と励ましておいたが、挨拶の間もなく、転院したらしい。それで、今晩は1人だと思っていたら、日が変わる頃、看護師に連れられて、高齢の男性が隣のベッドに入って来た。そして、こう言う。「(前の部屋の)同室者の鼾が酷く、寝られない。よろしくお願いします。」と言う。「それは、大変でしたね。」と答えたが、こちらは左肩より先が麻痺して、その先は会話にならないし、相方も直ぐに寝てしまった。そして、高鼾をかき始めたから、思わず笑ってしまう。

 隣の鼾のバックグランド・ミュージックも、普段なら非常に困るところだが、この手術の当日に限っては、そうでもなくて、手の痛さを紛らせてくれた。何が幸いするかわからないものだ。神経ブロックの効果が切れた午前1時頃から、点滴で痛み止め薬が投与されたものの、ほとんど効果が実感できない。うつらうつらしてかなり時間が経ったのではないかと思ってiPhone で時間を確認すると、まだ午前2時だ。そんなことの繰り返しで、何とか起床時間の午前6時になった。その頃には、全身麻酔の影響が薄れてきて、頭の中がスッキリしてきた。「良し、これでいける。」という気がしてきた。すると、お腹が空いてくる。そういえば、この1日は、お腹に固形物が入っていない。現金なものだ。



オプサイト・フレキフィックス


 午前7時半頃に朝食を持ってきてくれたので、さあいただこうとしていたところに、担当医と助手の先生がやって来られて、左手の様子を診てくれた。まず包帯を外したところ、傷口が見えた。6cmもの長さだから、てっきり数針縫ってあると思ったら、案に相違して、白い横筋が入った透明な医療用テープが貼られているだけだ。それを、エタノールの脱脂綿で拭いてくれる。その上から、医療用の「オプサイト・フレキフィックス」という名称の、真ん中は白い布だがその上から周辺まで含めて透明なフィルムで覆われたものを貼り付けてくれた。何と、それで終わりで、ギプスもない。こんなので本当に大丈夫かと心配になるくらいだ。担当医によると、この方が、治りは早いし傷跡も残らず綺麗になるし、ギプスがないからリハビリを早い時期から行えるという。また、昔は消毒液を付けたが、そうするとかえって治りが遅いので、今では水道水の流水で流し、綺麗な布で拭いて、こういうフィルムで覆っていけば良いそうだ。また、金属プレートが入った私の手のレントゲン写真を見せてくれた。悲しいかな、文字通りのサイボーグ人間になってしまった。しかし、そのうち、これを取り出せば、再び普通の人間に戻るというわけだ。


手の写真


手のレントゲン写真


 ギプスが取れてスッキリしたが、未だに膨れている左手を見つつ、朝食をパクパク食べて、少しは元気になった。それで身支度をし、家内に助けてもらいながら退院の手続きをし、しかるのちに、病院から直接、仕事場に向かった。痛みはあるので、我慢せずに、痛み止めの薬のロキソニンと、その副作用防止のレバミピド(ムコスタ)を飲むことにした。その他、感染症予防のために、抗生物質のケフラールを毎食毎、4時間の間隔を開けて3日間連続して飲むようにと言われた。これは、飲み切って終了だそうだ。退院時の体温は37.1度と、少し上がっていた。その日は、いつものように出勤して仕事をした後、夕方に帰宅した。


痛み止めの薬のロキソニンと、その副作用防止のレバミピド(ムコスタ)


抗生物質のケフラール




4.リハビリの日々

 担当医の助手が、 「早めに指のリハビリをして下さいね。特に指を反り返らせるようにしないと、将来、十分に曲がらなくなりますから、グーとパーを繰り返して下さい。」という。そんなものかと思うが、手術が終わってその当日、いざやってみると、あれあれ、そもそも指が2cmしか曲がらない。親指に至っては、1cmがやっとだ。反り返らせるなんて、とんでもない。だいたい、その前に肘のところが90度に固まっていて、動かせない。ところがこれは、30分間ほど、伸ばしたり、縮めたりを繰り返したら、痛さを感じないで出来るようになった。それにしても、たった1週間、三角巾で吊っていただけでこうなるとは、恐るべきものだ。これを筋肉の「拘縮」というらしい。こういうことがあるから、健康になっても、できるだけ毎日、身体を動かさないといけないと思う。



まず、指先からのリハビリ


 肘は何とかなったので、次は指の番だ。手術翌日と翌々日に、痛さに堪えながら曲げていく。30分もやっていると、4本の指が掌に届くようになった。次は、親指だ。これは、だいたい第1関節がちゃんと動かせないから、拳を作ることが中途半端になる。ただ、指を反り返らせるのは、まだ無理だ。この調子では、時間がかかる。それと同時に、力を要しない日常の動作をすることにした。まずは、マウスを持って机の上のあちこちに動かす。次に、ピーナッツの粒を親指と他の指に挟んで、左から右へと20個動かす。本を持って、場所を移動させる。日に日に、出来ることが増えていくのは楽しみだ。それにしても、たった1回、転んだだけで、こうなってしまうとは思わなかった。人生、至るところに陥穽ありということか。いずれにせよ、家内には心配をかけたので、誠に申し訳なく思っている。また、病室では献身的に付き添ってくれた。心から感謝している。

 次に担当医の先生に診てもらうのは、手術から10日後になる。それまで、リハビリをどうしようかと思ってネットで検索したところ、「済生会小樽病院」のハンドブックがあった。「橈骨遠端位骨折術後の作業療法(リハビリテーション)」というもので、非常によく出来た冊子だ。有り難い。これに従って、リハビリを地道に続けていくことにした。それにしても、今年はまさに「災」の年(annus horribilis)だった。来年は、良い年であることを期待しよう。




【後日談1】術後10日

 手術から10日後、手術していただいた先生の元を訪れて、診てもらった。患部に貼られた医療用の「オプサイト・フレキフィックス」を剥がすと、切開されたところに医療用のテープで固定している部分がむき出しになる。そして、「ああ、心配ありませんね。化膿もせず、ちゃんと傷口は閉じています。では、このままで。」と軽く言われた。


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 私が、「ええっ! 何も貼らないのですか?」と聞くと、

 先生は、「この方が治りは早いんです。」と答える。「それから、なるべく手の甲を前と後ろに曲げるリハビリをして下さいね。」と付け加える。

 私が、手の傷口を見ながら「はあ、やってみます。」と言って頭を上げると、もう先生の姿はカーテンの陰に消えていた。文字通りの1分診療だ。年末年始の休み中だから、診てもらっただけでも、良しとしよう。




【後日談2】術後20日

 手術後20日経過したので、担当医に診てもらいに行った。手首のレントゲン写真を縦と横の2方向から撮り、その画面を拡大していく。すると、埋め込まれた金属プレート(掌側ロッキングプレート)のちょうど裏側で、手の甲と橈骨の繋ぎ目の付近において、骨が三角形に小さく欠けている。先生に「ああ、これですね。」と言うと、「そうです。」と応じてくれる。その辺りの骨の角度を測って、何やら検討してくれている。そして「まあ、骨とプレートの状態は、これでよろしいでしょう。あとは、傷口が縫合しているかどうかだけど・・・」といいながら手首の医療用のテープを剥がしていき、「うん、いいですね。これも治っています。」と言ってくれた。テープを剥がして現れた傷口は、まるで魚の骨のようだった。無理に触らない限り、もう痛みなどは、全くない。


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 次に、「手と手首の動きはどうですか?」と聞くので、手の開閉、手首の左右への回転をやってみせて、「自主的にリハビリをやっていまして、まあ、8割ほどは回復しています。」と答えた。「では、引き続きリハビリを続けてください。ただし、手の自重の範囲内にとどめて、重い物は持たないで下さい。次は、1月半後にまた診ます。」と言われた。

 私が、「この調子で手の動きが順調に治っていくなら、3月からテニスを再開しよう思いますが、どうですか?」と聞いた。すると、「とんでもない。手がちゃんとくっつくのに、半年はかかりますから、まだしないで下さい。その間、患部がずれてしまったら、再手術が必要になります。」と言われてしまい、ガッカリした。でも、私のテニスはバックバンドも含めて健常な腕の右手一本でやっているから、怪我をした左手は使わない。だから、5月頃になったら再開したいと考えている。

 なお、これからのリハビリは、インターネットで調べた竹中準先生のリハビリテーション・マニュアルを参考にしたいと考えている。



【後日談3】術後30日

 リハビリは順調に進んでいる。指のグーとパー、手首の左右への回転は、稼動範囲はもう右手と変わらなくなった。次に、掌を上下に曲げようとしている。これも8割くらいは出来るようになった。しかし、これらを組み合わせて、例えばシートベルトを締めるために引き出したり、ネクタイを締めるために斜めに曲げたりすると、まだ痛さを感じる。次第に痛さは弱くなりつつあるが、無理をしない範囲内で毎日少しずつやっている。

 最近始めたのが500ccのペットボトルを左手首に持って腕を机の上に置き、手首を机の端から出してペットボトルを上下させるという運動である。最初はかなり痛かった。だから、水の量を三分の一くらいから始めて3日間かけてようやくフルタンクで動かせるようになった。

 リハビリのマニュアルによると、そろそろ左手でガラス拭きのような「手を突いた」運動を始める時期なのだそうだ。そこで、風呂場の鏡などをそろりそろりと拭いているが、特段の痛さは感じていない。まあ、3か月で稼動範囲が以前の80%、力が同じく70%戻るというのがリハビリの目標なので、この調子でいくと、軽く超えそうだ。

 話は変わるが、病院から昨年の救急診療代と入院・手術代の請求書が来た。ちょうど20万円だった。差額ベッド代が、本来なら個室でそれだけで15万円であるはずのところ、結果的に2人部屋になってしまったことから、この値段で済んだようだ。ところで、私は掛け捨ての都民共済の保険に入っている。今まで病気も怪我もしたことがないことから、そもそも保険金を請求したことがない。だからいくら保険金が降りるのか知らなかった。

 そこで、今回、請求してみることとし、その前に保険約款などを見て自分なりに計算したところ、保険金は12万5千円だった。入院特約10万円というのを付加していたのが効いたようだ。そこで診断書を付けて請求してみたところ、まさにその額が出た。そうすると、自己負担は、僅か7万5千円ということになる。だから、経済的には助かるが、「あれほどの怪我なのに、これだけの負担でよいものか。」という気すらするくらいだ。こういうところを見ると、日本が高福祉国家であるのは、間違いない。でも、高福祉がいつまでも続くという甘い期待(むしろ「幻想」か?)は持たずに、今のうちから、しっかり貯蓄しておく方が無難だろうと思う。




(2018年12月24日記。2019年1月追記)


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徒然298.土壌汚染対策

土壌汚染対策の講義


 私の出身高校は名古屋にあるのだけど、進学校だったせいか、東京の大学を出てそのまま東京の会社などに勤めて首都圏に在住の人が多い。別に統計があるわけではないが、実感として私のクラスの少なくとも3分の1は東京在住であろうと思う。名古屋に残ったクラスメートも、一番多いのは医者、その他地元企業であるJR東海やトヨタ系列の会社員、それから家業を継いだ人、大学や高校の教員などが目立っている。

 そのせいか、同窓会活動、特に生涯学習に対する意識が高くて、単に寄り集まる会合を開くだけでなく、名古屋と東京の2箇所で、それぞれ毎月の講演会を開いている。講師はもちろん、同窓生の手弁当であり、東大の教授、経験豊かな医者、金融の専門家、中央省庁事務次官、豪華客船の船長、著名な版画家までバラエティに富んでいて、それはもうありとあらゆる話が聞け、こんな有益な会はないと思っている。しかも講演の内容は、後日、同窓会報にも載せられるので助かる。かくして私も、東京と名古屋で1回ずつ、講師として話をさせてもらったことがある。

 というのが前置きであるが、先日は土壌汚染対策の話を聴きにいった。講師の方は、高校の期を聞いてみると、私より15年も若かった。いや、講師が若いというより、私の方が歳をとっているのかもしれない。現に、当日の20人余りの聴衆の中では、私が最年長だったようだ。

 本日の講師は、原子力工学を専攻した後、大手のゼネコンに長年勤めて、途中から土壌汚染対策の会社の設立に関わって、それ以来の専門家らしい。日本で、土壌汚染対策法が成立したのは平成14年であり、爾来、この種の専門処理会社ができて育っていったようだ。実は、私は、たまたまこの法律が生まれるときに関わったことがあるので、その後この法律がどのように世の中の役に立ち、育てられてきているかを知りたくて、この講演会に臨んだというわけである。ちょうど、かつての教え子が、どういう風に活躍しているのか知りたいというような気持ちである。

 講師が、分かりやすく説明するという配慮であろうが、いくつか実例を挙げていた。その一つの例として、大阪の国有地払下げに際してゴミが見つかったために値引きを余儀なくされた案件についての説明には驚いた。なぜかというと、その土地の来歴に関する徹底的なデータベースを持っていて、それでゴミの由来を完璧に追跡していたからである。

 例えば、現在の衛星写真を元に、当該土地にゴミが埋められていた場所を特定して、そこを黄色い線で囲う。そのすぐ北には隣接するように道路が走っていて、その外側には住宅などが密集している。南側もそういう住宅密集地だ。次に画面が変わって、今から20年前のその場所の航空写真を示す。道路はまだなかったように思う。黄色い一画の南の方にはポツポツと建物があるが、その北には、広大な田圃が広がっている。更に40年前の航空写真には、黄色い一角は川のような水路の一部となっている。北は田圃のままで、南の方にも建物はほとんどない。もっと遡ると昭和30年代の地図がでてきて、その水路は、その辺り一帯の田圃を大きく四角に取り囲む運河の南の一片だったことが見てとれる。

(注)以上の数字は、単に模式的に示したものに過ぎず、正確なものではない。

 また別の文献から、この辺りは洪水がよく起こったので、この運河は田圃を守るために建設された。ところが、やがて暴れ川の治水が功を奏したことから不要になった。そこで次第に埋め立てられていき、南の一辺つまり黄色い一角があるところが運河の一部として最後まで残っていたが、それもやがて埋め立てられたということがわかった。要するに問題のゴミは、その埋め立てがゴミによって行われたから、今に至るまでそのまま残存していたのであった。それが危険なものかどうかは、ゴミのサンプルを取って分析すればわかるという。

 ついでに言えば、日本の土壌汚染の種類には、重金属、農薬、その他化学物質、放射能があるとのこと。これらは、その土地の来歴を地図(衛星写真、航空写真を含む)と文献で追跡すれば、かなりのことがわかるという。しかも、そのデータベース化がほぼ終わっているらしい。なるほど、高度情報化社会らしくなってきた。これからは、土地を買う前に、こういう会社に相談して、その土地の来歴を徹底的に調べておくべきだと思ったし、現にそういう受注案件が増えているという。

 土壌汚染の場合の対策は、要はその汚染土を剥ぎ取って、そのために凹んだ所に新しい土を運び込んで入れ替えるということらしい。最後に、東京電力の福島第一原子力発電所の事故で飛び散った放射能を帯びた汚染物質の処理について話をされた。セシウムなどのこうした汚染物質は土地の表層に溜まるので、汚染が酷いところではそれを剥ぎ取って一箇所に集める。そうでもないところではお好み焼きをひっくり返すように、土地の上の汚染された土と内部の汚染されていない土との「天地返し」をするということをやっているという。

 説明を聴いて、私は疑問に思ったことを一つ質問した。「放射能以外の普通の土壌汚染の場合、土壌汚染対策で剥ぎ取った表層の土は、そのあと、どのように処理されるのですか。」てっきり、専用の処理施設で無害化された後、人里離れた産業廃棄物処理施設で永遠の眠りについているものと思い込んでいたが、そういう施設のことなど全く聞いたことがないと気がついたので、質問したわけである。ところが、これに対して返ってきた答えには驚いた。

 何と、セメントの原料にしてしまうのである。確かに、セメント協会のHPによれば「 セメント1tの製造に必要な原料は、おおよそ石灰石1,100kg、粘土200kg、その他原料100〜200kgです。セメントの主要成分(CaO、Al2O3、SiO2、Fe2O3)を含む物質は、原料として使用可能なことから、製鉄所からの副産物である高炉スラグ、石炭火力発電所の石炭灰や、各種の廃棄物の有効利用を進めており、その量は約2,900万t/年にも及びます。これら多種多様な副産物、廃棄物を使いこなしながら、安定した品質のセメントを生産することはやさしい技術ではありません。設備の改善、運転管理技術の向上を中心にたゆまぬ努力を続けています。」とある。汚染土は、このうちの「粘土」になるという。

 そうすると、製品として出来あがったセメントも、原料と同様に、これまた汚染されているのではないかと思うところである。しかし講師の説明は、セメント原料に占める粘土の割合は重量換算で15%にとどまるし、その全部が汚染物質ではないのはもちろんであるから、要は、希釈されてしまうという意味で無害なものとなるというのが、本当のところらしい。もちろん、出来上がったセメントの品質検査をして、無害なものかどうかを確認しているそうだ。いずれにせよ、建物のコンクリートは我々が日々目にするものであるけれども、その一部に、まさかそうした汚染土が堂々と使われているなどということは、およそ考えもつかなかった。


【後日談】

 12月中旬、発売されたばかりの週間新潮(12月20日号)のページをめくっていると、「セメントが日本を救う」という一般社団法人セメント協会の広告があった。その中に張られていたネット検索をたどっていくと、村岡嗣政 山口県知事と山本謙セメント協会副会長(宇部興産株式会社 代表取締役社長)との間で、次のような対談があった。

 村岡知事「・・・直近の国の調査では、平成27年度に 発生した廃棄物等が5億6千万トンあり、そのうち45%の2億5千万トンが循環利用されているということです。その循環利用量の約3分の1をセメント産業と、製紙産業 、鉄鋼業が担っていますが、例えば製紙業では紙屑を再利用する、鉄鋼業では金属屑を再資源化するのに対し、セメント産業は、燃え殻とか、鉱滓とか、汚泥とか多様な廃棄物を再資源化することができる。セメント産業は循環型社会を形成していくうえで不可欠な産業であると言って良いでしょう。・・・

 山本副会長「・・・セメント産業は今や資源循環型社会を根本から支えている産業だと自負しています。セメントの場合は廃棄物の利用法が二つあります。 一つは焼却灰のようなものを、副原料、すなわち通常使う粘土とか珪石の代わりにできます。もう一つは、摂氏1450度もの高い温度で焼成しますので、その熱源の一部として廃タイヤや廃プラスチックなどを使う場合があります。さらに大きな特徴はセメントを作るときに、二次廃棄物をほとんど出さないことです。ここがほかの産業と違うところです。全国のセメント工場で年間約2800万トンの廃棄物、副産物の受け入れをしており、現在1トンのセメントを作るのに471キログラムの廃棄物を使っています。環境省の統計では、 廃棄物の最終処分場の余命があと約16年となっていますが、もしセメント工場が廃棄物の受け入れをやめてしまったら、セメント協会の試算では10年くらい寿命が縮まり、処分場の余命はあと5年か6年です。我々の貢献度は大きいと思っています。・・・

 知事がこんな専門的で細かいことまでご存知なのだろうかと思わないわけでもなかったが、元々ご関心があったのか、あるいは地元の有力な立地産業のことなので折に触れてお聞きになっていたのか、それとも、セメント協会の脚色が強すぎたのかもしれない。いずれにせよ、なるほどそういうものなのかと、セメント産業に関する認識を新たにした。






(2018年12月11日記)


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母と神戸なつかしの旅

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プロローグ

 今年の夏、もうそろそろ90歳になる母に「どこか、行きたいところがある?」と聞いたところ、「生まれ故郷を見てみたい。」というので、つい2ヶ月前に福井県の山深い町に行ってきたところである。そして、自宅に戻ってきた途端、母が「次は、新婚時代を過ごした神戸に是非行ってみたい。」という。年齢を考えると、いつ何時どうなるかわからないので、早速、企画した。そして、故郷から母と妹2人、東京から私たち夫婦の、合計5人による珍道中が始まったというわけである。神戸は坂が多い街なので、折りたためる車椅子を持ってきてもらった。

 なお、私や両親や息子は、神戸には、平成19年平成20年平成28年に行っている。


1日目〜熊内神社、布引ハーブ園、夜景

(1)熊内神社

 三宮のホテルにチェックインした後、直ぐに、昔々住んでいた中央区の熊内町の、かつての家の近くにある熊内神社(くもちじんじゃ)へ行った。神戸らしく、けっこう急な坂の途中に、神社の鳥居があった。神社本殿へは、その鳥居をくぐって更に上の坂を上がっていかなければならない。そこに車椅子を置いて、私と妹で母の両腕を支えつつ、母に歩いてもらい、登って行った。すると社務所があり、たまたまそこに神社の方がおられたので、来意を告げて本殿の前まで行った。そこはいわば急坂の踊り場で、本殿の隣は私が半世紀以上も前に通った幼稚園である。まだあるとは、感激ものだ。もちろん、建物は近代的になっているが、この踊り場のような境内兼園庭と、そこから眼下に見える神戸の景色、それに大きな銀杏の木は昔と変わらない。ただ、もう一つ大きな木があったが、それはもう幹の途中で切られてなくなっている。


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 そこで、皆で参拝をした。母が「懐かしい。懐かしい前回来たときお父さんを思い出すね。」と言いながら、お賽銭をかなり奮発している。そして昔、幼稚園児だった私が、この急坂を登るのが嫌だと駄々をこねたというエピソードを、妹たちや家内に語る。穴があったら入りたいくらいだ。もっとも、「この急坂を幼稚園児が登るのは、そりゃあ、嫌がるわね」と同情された。うちの一家は、皆優しい。

 さて、帰る段になり、登って来た脇道とは別の本道を降りようとしたら、なんとまあ、これも急階段である。子供の頃の私が、ストをしたのも無理はない。でも、これを降りるのが昔の思い出にもなる。行かざるを得ない。そこで思い出したのが、石川啄木の詩である。

 「たはむれに 母を背負ひて そのあまり軽きに泣きて 三歩あゆまず」

 それなら、私にもできるだろうと思い、母をおぶってその階段を下りようとした。腰を下ろして母を背中に乗せて持ち上げようとしたが、とんでもなく重い。そもそも、両足すら上がらないではないか。家内が、啄木の詩をもじって、

 「やむを得ず 母を背負はんとして そのあまりの重さに驚きて 一歩もあゆめず」

 というようなことを口にするので、大笑いとなった。そこで、母の両脇を2人で支えて下りていき、もう1人は車椅子を折りたたんで別に持ってきてもらうことにした。これは上手くいって、無事に降りられたし、母も歩いたという気がしたという。

 階段を下りきった後、昔、住んでいた家に行ってみようとした。ところが、予め中央区役所に問い合わせてみたものの、かつての町名の何丁目というものが昭和49年に3つに分かれたということだけはわかるが、個々の番地が新しくどの番地になったのかは記録がないのでわからないということだった。せめて現場に行けば何か分かるかと思ったが、母の記憶にある貯水池と観光ホテルのいずれもが現存せず、ついに分からず仕舞いであった。

(2)布引ハーブ園


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 それから車椅子をコトコト押しながら、新神戸駅を通り過ぎて、布引ハーブ園山麓駅からロープウェイに乗った。登るにつれ標高が高くなっていったせいか、次第に寒くなってきた。気温は7度から8度くらいではなかったかと思う。ゴンドラから下りてみると、展望台から遠望する神戸港と神戸の街並みが素晴らしい。ちょうどクリスマスの前哨戦らしく、ドイツフェアを開催中で、ドイツワインやドイツの食べ物を売っている。家内が「グリューワイン」を見つけてくれた。これは暖かいワインなので、寒い時にはちょうど良い。何種類かのソーセージをつまみ、そろそろ暗くなりかけの異国情緒を味わった。

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 建物とその飾りを見ていると、今はドイツにいると言われても、そうかもしれないと思うくらいだ。そうこうするうちに日が沈み、辺りが暗くなりかけ、電飾が美しく輝く。すると、思いがけず、3人の女性がまるで妖精のごとく、舞台上に登場した。まず行ったのが、クリスマスのイルミネーションの点灯だ。1、2、3の掛け声ととも、一斉に灯った。建物から放射状に広がるイルミネーションが実に美しいし、また周りの木が真っ赤に照らされているのも本当に綺麗だ。そこに流れてくる3人の女性のコーラスも、素晴らしいもので、思わず聞き行ってしまった。母も「良いわね。良いわね。」と何回も言う。旅行の良い記念になった。

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 帰りがけに見た神戸港と神戸市の夜景は、これまた非常に美しいもので、しかもそれが下りのロープウェイから見ると、刻々に変化するから面白い。私は今年5月に函館山からの夜景も見たが、それは両側から海がUの字型に入り込んでいる中で真ん中に挟まれた市街地が光り、港に元青函連絡船の灯火やイカ漁の舟の漁り火が見えるという美しさである。それに対して、神戸の夜景には動きやストーリー性がないと思っていたが、こうしてロープウェイに乗って、変化する夜景を見るという楽しみがあるとは知らなかった。さて景色とドイツ気分を堪能して、ロープウェイで降りてきたら、もう夕食時になっていた。それで、山麓駅近くにあるANAクラウンプラザ・ホテル神戸の中華料理店に入り、広東料理を堪能した。母をはじめ、皆さんが良く食べること、食べること。元気で良かった。

(3)神戸港の夜景

 さて、母をホテルに送り届けた後、私と妹たちは、神戸港の夜景を撮りに行った。まずモザイクに行き、そこから対岸のメリケンパークにある神戸ポートタワー、神戸海洋博物館、神戸メリケンパーク・オリエンタルホテル の3つを撮る。私のカメラ、EOS70Dは、光を集めすぎて、赤いポートタワーがまるで赤い蝋燭のように見え、緑の博物館が緑の凧のように写ってしまう。性能が良すぎるのもよろしくない。考えた末、露出を絞って暗くして撮ったら、ポートタワーや博物館を構成する線材が浮き出て見えるように撮ることができた。妹たちは、盛んに風景を褒める。連れて来た甲斐があった。


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 モザイクの観覧車に乗った。これだと、メリケンパークのポートタワー、博物館、ホテルの3セットを立体的に見ることができるし、地上からは見えない遠方の夜景を楽しむことができる。でも、たった15分間しかないのが欠点だ。降りてみると、隣にアンパンマン・ミュージアムがあった。孫たちを連れてくれば喜ぶのにと思ったが、今回は平均年齢が70歳近い5人組なので、さすがに孫の世話までは無理だった。


2日目〜網敷天満宮と須磨寺

(4)綱敷天幡宮

 朝早く三宮のホテルを出発し、JR神戸線で、かつて神戸で住んでいた二番目の家がある須磨に向かった。まず、近所だった綱敷天幡宮を訪れた。平安時代の創建なので、もう1,100年以上の歴史があるらしい。学問の神様である菅原道真を祀る。境内を歩くと、面白いものが多い。同神社のHPによれば、


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 (a)願いをかなえる「なすの腰かけ」・・・何でも願いが叶うというなすの腰掛け 「なす」の花は一つの無駄もなく実を結び また「成す」と語呂が同じ処より努力はむくわれ願いが叶えられるという縁起をふくみます。 願いを込めて「なす」に腰かければどんな願いも叶えられます。ということでそれぞれ願いを込めて実際に座ってみたが、はてさて、どうなることだろうか。

 (b)「綱敷の円座」の敷物・・・道真公がお休みになられたとされる漁網の円座を模した縁起物。道真公は九州太宰府に左遷された際、須磨の浦で波が高くなり航海を中断されました。その時、漁師達が網の大綱で円座を作り、お休みになられた事にちなんで創建されたのが綱敷天満宮です。こう表現しては不謹慎かもしれないが、我が家の食卓上にある鍋敷きそっくりなので、親しみが持てた。


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 (c)「波乗り祈願像」サーフボードを持たれた菅公さん・・・「波乗り祈願」とは、成功を収めるために、うまく時流の波に乗ることを祈願するものです。決して自分本位な行動をとるのではなく、時を読み、流れに逆らわず、自らの平衡感覚によって状況に適応していくことが、人間が生きていく上で大切だと思います。綱敷天満宮の近くには、古くから風光明媚な景勝地として親しまれている須磨の浦があります。 今も、夏になれば、須磨海岸には、多くの若者や家族が訪れ、賑わいます。この像は、時代の荒波に乗り、一人でも多くの方々が幸せになることを願い、須磨の海でサーフボードを抱える幼少時代の菅原道真公をモチーフに制作、建立しました。最初にこれを目にしたとき、平安時代の衣装を着けて、どう見てもサーフボードらしきものを持っているから、まさかあの時代にあるわけがないと思って、頭が混乱した。須磨海岸に来ているサーファーに来てもらおうというのだろうが、それを神社が考えるなんて、いかにも関西らしい。

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 (d)「牛」・・・ 「菅原道真公の出生年は丑年である」「大宰府への左遷時牛が道真公を泣いて見送った」「道真公は牛に乗り大宰府へ下った」「牛が刺客から道真公を守った」「道真公の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」など菅原道真公と牛にまつわる言伝えや縁起が数多くあります。これにより牛は天満宮では、牛は御祭神の使者とされ、縁起がいいとされてます。この像は、私も小さい頃に触った覚えがある。

 このうち(d)「牛」は、いずれの天神さまにもあるが、(b)はともかく、(a)や(c)などは一体どうやって考えついたのか想像もできない。このほか、(e)5歳の菅原道真公、(f)菅公母子像 、(g)北海道の名付け親のプレートなどがあり、まるでテーマパークのようだ。いやむしろ実際にそうだったのかもしれない。これらを見て回っていると、時間が経つのを忘れるほどである。ちなみに、綱敷天満宮は、平成7年の阪神大震災の際に相当の被害を受けたが、見事に復興した。しかし、それで境内の雰囲気がガラリと変わってしまっていて、私にとって昔を思い出すよすがは、(d)「牛」くらいしかないのは誠に残念である。

(5)天 神 町

 綱敷天満宮を脇の道から出た後、昔、住んでいた家に向かう。私の記憶の通りで、場所はすぐにわかった。前回11年前に来た時と相も変わらず、私の姓と同じ姓の方が住んでおられた。そこから少しのところに、私が通った小学校がある。その正門へと歩いて行った。実は私は、1982年にここに来たことがあるが、その時の正門と校舎はまだ昔の面影を残していた。ところが、今回見た校舎は既に建て替えられて、見違えるように非常に立派になっていた。

(6)須 磨 寺


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 小学校前から須磨寺に向かった。山陽電鉄の踏切を過ぎて、商店街を通り抜けたところにある。ここは、源平合戦の折に源氏の大将源義経の陣地だったことで有名なお寺である。そのHPに書かれていたことを要約すると、「源義経は、海側に陣を構えた平家の裏をかいて、山から崖を馬で駆け下り逆落としの奇襲をかけ、平家を打ち破った。その時、源氏の武将である熊谷次郎直実が、波打ち際で逃げ遅れた立派な鎧を着た平家の武者を発見し、一騎打ちでこれを倒した。首を取ろうと兜を取ると、自分の息子と同じ年の頃16ないし17歳と見える紅顔の美少年、平敦盛だった。見逃そうと思ったが、梶原景時ら味方の軍勢がすぐそこまで近づいてきていて、それもできない。やむなく首を取ったが、腰に一本の笛が差してある。今朝、平家の陣から聞こえてきた美しい音色を出した人物だと知って、ますます後悔の念に駆られる。やがて熊谷次郎直実は、殺しあわねばならない戦の世に無常を感じ、法然上人の元で出家した。」とのことである。ちなみに、熊谷次郎直実が熊谷蓮生法師として、平敦盛を弔って念仏一筋に暮らした念仏三味院が、長岡京の光明寺の前身である。ちなみに、山門の両脇にある仁王像つまり「金剛力士像」は、非常に力強くて立派だと思ったら、それもそのはずで、運慶と湛慶の作だった。

(7)鉄人28号


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 再びJR須磨駅まで戻り、新長田駅で降りた。そこにある、鉄人28号(横山正輝原作)の像を見物する。地元商店街を中心に、震災復興と地域活性化のシンボルとしての期待を託して作られたものだが、塗料が剥げたりしたため、大きな修理がされて、つい最近、それが完了したそうだ。だから、前回2年前に来たときに比べて、まるで見違えてしまった。車椅子の母を先頭に、おじいさんの私、おばあさんの家内や妹たちが一斉にそれを見上げる。側から見るとすれば、おかしな風景だと思って可笑しくなった。そのあたりでお昼になる。鉄人28号の前のビルに、たまたま「たこ焼き」屋さんがあったので、大阪風たこ焼きと、明石風の玉子焼きをいただいた。いわゆるB級グルメだが、皆には、おつゆのある玉子焼きが好評だった。

(8)神戸どうぶつ王国

 JRで三ノ宮駅に戻り、そこから神戸ポートライナーに乗って、京コンピュータ前駅で降りた。その駅のすぐ前が神戸どうぶつ王国である。目玉は、鷹や梟を飛ばすショーであり、これを母や妹たちに見てもらうつもりだった。三連休最後の日なので、親子連れが多い。入ると、まずは室内で、たくさんのフラワーポッドが天井からぶら下がっている。右手に進んで、色とりどりの睡蓮が数多く咲いている2つの大きな池に出た。そのうちの一方の池を大勢の人が座って取り囲んでいる。我々は行くのが遅れたので、2つの大きな池を挟む通路に位置どりをするしかなかった。ところが、これが幸いする。


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 バードショーの時間になった。人が取り囲んでいない方の池の端から、猛禽類の鷹が大きな羽を広げていきなり飛んでくる。我々の真上だ。バタバタという音で、思わず、首をすくめるほどだ。母も、車椅子に座っているのに、皆と同じく首をすくめる。「そんなこと、しなくても大丈夫だよ。」と言うと、「あら、そうかい。」と答える。それがバードショーの始まりで、睡蓮の池の反対側にいる係のお姉さんを目掛けて、睡蓮の池の上を鷹や梟、果ては青、赤、緑と黄色の派手な熱帯の鳥まで、バタバタと飛び交う。その度に、観客が「おおう!」、「キャー!」と大騒ぎの興奮が巻き起こる。中には、飛び方の下手な鳥がいて、睡蓮池スレスレに飛んで落ちそうになるから、ヒヤヒヤする。母も「すごいねえ。やっぱり都会は面白いねえ。」と、ショーが終わってからも、興奮冷めやらぬ様子である。

 それから、母や妹たちと、我々夫婦の二手に分かれて、自由に見て回った。我々は足が疲れたので、まず喫茶コーナーに行って座り、アイスクリームを食べながら休んだ。そして腰を上げてペリカンフライトや、動かない鳥ハシビロコウなどを見物した。母たちは、それに加えて、カピバラなどをじっくり見たらしい。

(9)神戸牛レストラン

 三宮のホテルに戻って、しばし休憩の後、夕食の時間となった。せっかく神戸に来たのだから、少し張込んで神戸牛のステーキを食べてもらおうと考えた。インターネットで調べ、良さそうなところに電話をして予約し、車椅子を押しながら出かけた。5人もいるので、要所要所で地下街の地図を解析したり、斥候を放ったりして、三宮駅の地下街をどこをどうやって歩いたかは二度と説明できないくらいに複雑な経路を辿って、ようやく到着した。

 その神戸牛レストランでは、コースを頼み、母の分についてはサイコロステーキ状に小さくカットしてもらうことにした。なかなか充実したコースで、前菜のサラダ、ビーフシチューから始まり、スープ、メインのビーフステーキが出てきた。ビーフステーキについては、「まず何も付けないでビーフそのものの味を味わってください。少し甘く感じるのが神戸牛です。それからお好みで、当店特製ソースや、岩塩、わさびを付けてお召し上がりください。」と言われた。それぞれ試した結果、私は、わさびに特製ソースの組み合わせが美味しいと思った。それから、デザートとして、色とりどりのケーキ、アイスクリーム、フルーツの盛り合わせが出て、最後にコーヒー・紅茶が給仕された。驚いたことに、母が全てのプレートを平らげてしまった。これには妹たちもびっくりして、「家ではあまり食べないのに、こんなに食べるなんて、珍しいわ。」という。妹たちに、母の近況を聞くと、デイサービスに行き始めてもう5年目で、古株になって、すっかり取り仕切っているそうだ。まだ頭もしっかりしているし、口もそれなりに達者なので、さもありなんという気がする。

(10)神戸市役所展望ロビーの夜景

 食事の後、そろそろ暗くなってきたので、花時計の前を通って、神戸市役所1号館24階の展望ロビーに行った。地上からおよそ100mの高さからの夜景が楽しめる。神戸市のHPによると、「展望ロビーからは主に南側の眺望が楽しめます。ここからは、東は六甲アイランドやHAT神戸の街並みが、南は東遊園地からポートアイランド、晴れていれば対岸の紀伊半島まで見渡すことができます。西はハーバーランドの街並みなどが見ることができます。」ということである。昨夜見たモザイクからの眺めを反対側から見ていることになるが、残念ながら神戸ポートタワーと神戸海洋博物館は、ビルの谷間から顔を出しているような感じである。北側には、市街地が広がり、その暗い背景になっている背後の山肌の市章山、錨山、堂徳山に電飾の灯りが点いている。市章山には文字通り神戸市の市章、錨山には港町の神戸らしく錨マーク、堂徳山には20分ごとに「KOBE」「北前船(正面)」「北前船(側面)」のイルミネーションが現れる。なかなか美しい。それを見て、皆満足してホテルに帰った。


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3日目〜神戸異人館と京都

(11)風見鶏の館

 神戸の異人館街といえば、必ず取り上げられるのが風見鶏の館である。振り返ってみると、私は、8年前に訪れたことがある。こちらは、ドイツ人貿易商ゴットフリート・トーマス氏の自邸として、明治42年(1909年)頃に建てられた。外観は非常に美しく、1階から2階にかけて赤いレンガを多用していかにも重厚な感じを出しながら、その上には軽やかな白い壁の2階が乗り、更にその上には尖塔があって、しかもそのてっぺんには風見鶏が乗っている。よくできているものだ。背景は緑の山なので、まるでおとぎの国にでもあるような邸宅である。


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 ところで、この風見鶏の館が有名になったのは、昭和52年にNHKの朝のドラマ「風見鶏」の舞台になったからである。主演は、新井春美さんで、ドイツ人のパン職人のブルックマイヤー(蟇目良)と結婚して、本格的なヨーロッパ風のパン作りに情熱を傾けるという話だった。私はこの番組をかすかに覚えているが、妹たちは、まだ小さかったことから、全く知らないという。

 他の異人館の開始時間が9時からであるのに対して、この館は8時半からなので、それに間に合うように三宮のホテルから直行した。真っ先の入場者として入ったところ、車椅子の母がいるせいか、係の人にとても親切にしていただいた。クリスマス・ツリーの前で家族全員の写真を撮っていただいたり、母にサンタさんの帽子を被せて長椅子の前に座ってもらって記念撮影をしたりと、サービス満点で、非常に有り難かった。


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 1階には、玄関ホール、応接間、居間、食堂、書斎があり、調度品も豪華で、なかなか見ごたえがある。ちょうどシーズンのクリスマスの飾り付けもきらびやかで楽しい。2階には夫婦の寝室、子供部屋、客用寝室、朝食の間があるが、1階ほどには丁寧には作られていない。ベッドなどは、むしろ簡素なものである。子供部屋の遊び道具は、今と変わらない。

 ここからは、展示品の中にあった記述なので、いささかうろ覚えではあるが、敢えて記録しておきたい。この風見鶏の館の主であるトーマス氏は、娘のエルザを伴って夫婦で一時的にドイツに帰っていた時に、たまたま第一次世界大戦が起こり、日本は1914年8月、ドイツに対して宣戦布告をした。それに伴い、この館をはじめとするトーマス氏の財産は、敵性資産として没収されてしまったそうだ。財産を全て失ったトーマス氏は、ドイツ本国で困窮したという。その消息は長い間、不明であったが、ようやく娘さんのエルザが生存していることがわかった。そこで、30年ほど前に88歳のときに招待されて、自分の部屋を見て感激していたという写真と記録がある。

(12)萌黄の館

 萌黄(もえぎ)の館は、風見鶏の館のすぐ近くにあって、淡いグリーン色でコロニアル様式の外観の、これまた軽やかで美しい建物である。明治36年に、アメリカ総領事のハンター・シャープ氏の自宅として建てられた。1階には、ホール、応接室、書斎、食堂など、2階には居間、寝室、化粧室、子供部屋があり、それぞれに壁紙が違っている。また、大きな窓が付いた2階のベランダは、とても広くて気持ちがいい。裏に回ってみると、庭の片隅にレンガの大きな塊が転がっている。阪神淡路大震災のときに、屋根の上の暖炉の煙突が落ちてきて、女中部屋の天井を突き破ったそうで、その現物である。


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 ちなみに、この萌黄の館の入り口の右にある公園のベンチに、サックスを吹いているおじさんの等身大の像がある。ちょっと見る分には面白い像なのだが、その左に車椅子に乗ってニコニコ顔の母がいると、お互いにとっても似合っていて、皆で大笑いをしてしまった。

(13)ウロコの家

 前回11年前に訪れたとき、私はこう書いた。「うろこの館というのも、入口に天灯鬼、竜灯鬼がいたり、建物の中にはドンキホーテとサンチョパンサの像があったり、ガンダーラの仏があったりで、統一性がなく何が何だかわからない趣味であるが、どうやら像一般を見境なく集めるのが性癖だったらしい人の館である。こんなものを見て頭が混乱したあと、緑豊かな庭に出て、一瞬ほっとしたが、ふと横を見るとアンコールワットにある仏頭があったし、反対側を見ると、19世紀ロンドンで使われていた赤い電話ボックスがあった。」


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 では、今回はどうだったかというと、まず右の尖塔にはサンタクロースなどのクリスマスの飾り付けがあって、なかなか見ごたえがあり、楽しい。しかも左の尖塔との間の屋根の上には、よく見るとアメリカのトランプ大統領が北朝鮮の金正恩と握手している人形が乗っていて、思わず笑ってしまう。

 ウロコの家の中に入ると、前回驚いた数々の像がほとんどなくなっていた。併設の「うろこ美術館」に移してしまったようだ。でも、建物の外側にある大きな仏様の顔、ギリシャ風の女性像、猪の像、赤い電話ボックスはそのままで健在だった。

 ところで、このウロコの家は、大変急な坂の上にあるのである。車椅子には大敵で、バリアフリーどころかバリアフルである。車も通れない細い道だ。それでも行くときはさほどの高低差がなかったので良かったが、下り坂を車椅子で普通に行くと、転げ落ちてしまうのは必定だ。そこで、車椅子を逆に向けて、私の身体をブレーキ役にし、ゆっくりと坂下まで降りていった。

(14)ベンの家

 そうして降りて行って着いたところが、ベンの家の近くである。こちらも、11年前にウロコの家とともに訪れている。その時の感想は、「家の中は、シロクマ、バッファロー、ガゼル、トラなど、剥製の山である。何でも、貿易商だったベン氏は、商売を番頭に任せて、もっぱら趣味の狩猟に打ち込んだという。人生の理想というか………、とんでもないというか………、現代ではありえない生き方である。」


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 ウロコの家と異なり、こちらは、全くと言ってよいほど、前回と変わっていない。よく保存されている。ただし、現代では動物保護の風潮がますます強まっているから、仮にこれがヨーロッパにあったとしたら、今頃は焼き打ちに遭っていたかもしれない。それにしても、ベン氏は根っからのハンターだったのだろう。前回は気が付かなかったが、ベン氏の寝室にはベッドがなく、粗末なハンモックとキャンプ用具があっただけである。

(15)神戸北野美術館

 そろそろお昼になったので、どこかよいレストランはないかと思ってiPhoneを触りかけたら、ベンの家の向かいに神戸北野美術館というものがあって、そこで食事をすることができるらしい。階段があるから、母には車椅子を降りて歩いてもらったが、中に入ってその家庭的な雰囲気が気に入った。こちらは、明治31年(1898年)に建てられたアメリカ領事館官舎の建物である。

 現在、「モンマルトルの丘の画家たち」と題する展示がされている。「モンマルトルの丘地区を愛した画家たちの作品ポスター、テルトル広場で描く画家たちの作品、ムーランルージュの紹介、モンマルトル地区の紹介、ロートレックの作品のポスター」というところで、食事を待つ間、それらを見て回り、特にロートレックについては何も知識がなかったので、そういう人物だったのかと初めて知った。つまり、1984年に名門の伯爵家に生まれたが、生まれながらの遺伝病で脚が発達せず、成人した時の身長は152cmに過ぎなかった。父からも疎まれたので、パリに出て絵画を学ぶとともに、自分のような恵まれない境遇の娼婦、踊り子のような夜の世界の女たちに共感を覚えてデカダンな生活を送った。そして恵まれない彼女たちの様子を、愛情を持って描いたという。

 我々が案内されたのは、絵やロートレックを紹介するビデオが流されている部屋で、そこにあるのは我々のテーブルだけという、まるでどこかの家庭のダイニングルームにいるような雰囲気だったので、とてもリラックスできた。出てきた料理も、ホタテかサーモンがメインで、そこにワッフルが添えられていて、これが実に美味しいものだった。

 北野地区からタクシーに分乗して三宮に戻り、預けておいた荷物を取ってきて、そこから大阪に向かった。母と妹たちはそこから特急サンダーバードに乗って北陸方面へと帰っていった。「こんな楽しい、そして美味しいものを食べ、珍しいものを見た旅行はなかった。」ということで、喜んでもらえて良かった。

(16)鯖寿司いずう


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 我々夫婦は大阪からJRで京都に向かった。程なくして着いたので、京都駅近くのホテルにチェックインして一休み。どういうわけか、ホテルの前に警察のパレード隊が通った。交通安全のためのようだが、先頭を行く旗を持った女性の一隊が、命令調の掛け声で旗の持ち方の一斉切り替えをやっているところは、いかにも警察官らしいと思った次第である。その後、宿を出て四条烏丸の交差点に行き、四条通を河原町まで、久しぶりに夫婦で散歩した。ところが、通行人がひどく多くて、新宿駅の通勤時とあまり変わらないほどの混雑で参った。それでも、何とか鴨川を渡って、祇園地区に行こうとすると、新装なった南座が目に入って、その歌舞伎の看板をしばし眺めた。寿曽我対面、鈴ヶ森、封印切、連獅子などの歌舞伎の演目の看板が掛かっていて、その上にはずらりと歌舞伎俳優の名前が書かれた招き看板が掲げられている。全部で50枚あるそうだ。

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 鯖寿司をいただくために、祇園の「いずう」に行った。昔ながらの変わらぬ店構えを残している。席に着くと、家内が「この席は、以前来たときにも座ったところよね。」という。そういえば、その通りだ。前回来たのは10年も前のことなのに、よく覚えているものだと感心した。注文したのは、「鯖姿寿司」と「香子巻寿司」である。特に、鯖姿寿司の方はボリュームが多いので、1人一つは、とても多過ぎて無理だ。そこで、これらを一つずつ注文し、分け合うことにした。

 鯖姿寿司が運ばれてきた。昆布に巻かれていて、それを取ると、鯖の身が分厚い寿司が現れた。いや、実に濃厚な味ながら、魚特有の臭みがなく、するりと食べられて、口の中に旨味がふわりと広がる。美味しい。来て良かった。「香子巻寿司」の方は、香子つまりお新香の河童巻きである。こちらも箸休めのように食べると、あっさりして良い味である。食べながら店の様子を見ていると、次から次へとお客さんがやって来た、しかもその7割ほどは、持ち帰りの客である。よく流行っているらしい。結構なことだ。すっかり満足して、店を出た。家内は疲れたというので一人で京都駅近くのホテルに帰り、私は永観堂の紅葉のライトアップを見に行くことにした。

(17)永観堂のライトアップ

 永観堂は、正式には「浄土宗西山禅林寺派総本山禅林寺」といい、空海の高弟の真紹僧都を開基とし、本尊は阿弥陀如来である。古くより「秋はもみじの永観堂」と讃えられるほど紅葉の名所として知られる。最近のインターネット検索でも京都の紅葉ランキングで第1位である。


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 おそらくそのためであろうか、タクシーで永観堂に着いてみると、ものすごい数の人が並んでいる。事前に購入した拝観券のない当日券の人、つまり私のような気まぐれ観光客が並ばなければいけないらしい。「いやはや、ほんの数年前まではこんなことはなかったのに。まるで上野動物園でパンダのシャンシャンを見る時のようだ。」と思いながら、その長い列に並ぶ。暗い中を、列がうねうねと続く。ある時は入り口に近づいたと思ったらまた離れということを繰り返してようやく拝観券売り場にたどり着いた。ここに至るまで45分もかかり、身も心もああ疲れた。あまり、人には薦められない。

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 ライトアップされた永観堂の紅葉が暗い空にくっきりと浮かぶ。確かに、これは綺麗だ。あちこちにレンズを向けて、夜景モード(5枚の写真を連写し、それらを自動的に合成して手ブレを修正するモード)で撮る。放生池の寿橋を渡っていると、対岸の紅葉が水面に写って本物よりも本物らしくて美しい。ところが、危ないから、橋の上からは撮ってはいけないという。橋を渡り切って撮ろうとすると、今度は岸辺の樹木が邪魔して、水に写る紅葉が上手く撮れない。なかなか思い通りにはいかないものだ。それでも、あれやこれやとかなりの写真を撮って、満足して家内の待つホテルに戻った。


4日目〜京都

(18)東 福 寺

 翌朝、早くに起きて2人で朝食を摂ったが、和風で、しかも美味しい料理ばかりが並んでいて、大いに満足した。これは良いホテルだ。ダイエットの観点からしても、朝食にたくさん食べることは、理にかなっている。「朝食は貴族のように、昼食は平民のように、夕食は乞食のように」と言われる所以だ。もっとも、夕刻に会食が予定されていて貴族の食事のようになってしまう日もないではないが、そういう時でも朝はいつも通り豪華に、しかし昼はごくシンプルな食事にするよう心掛けている。


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 タクシーで近くの東福寺(臨済宗東福寺派大本山)に向かった。日本最古にしてかつ最大級の伽藍だという。8時半の開門の20分前に着いたが、既に長蛇の列だ。最近の京都は観光客が激増したせいか、どこへ行ってもこのような様子だという。困ったものだ。タクシー運転手さんによると、「例年は秋の紅葉と春の桜、それに夏休みのシーズンは混雑しますんですが、それでもさすがに1月から2月にかけては観光客が非常に少なくなって、京都は落ち着きを取り戻すんですけれども、なんですなあ、近頃はそういう時期でも外国人観光客がどんどん来てしまいますねん。」ということらしい。

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 開門時間になって列は動き出し、まずは通天橋を見に行く。ここは、まず谷底に下る途中で谷川の両脇から張り出す紅葉の木々を見る。谷川と崖を覆う苔の緑の絨毯と、色とりどりの紅葉の葉の対比が言葉を失うほどに美しい。それから宙に浮いている通天橋を見上げてその造型の美を感じ、次に橋の上から下界に広がる赤と黄色の雲のような紅葉を見下ろし、更にその橋と同じ高さで橋を取り巻く紅の雲のような紅葉に感動するという、単に平面的だけでなく、立体的にこれでもかというほどに紅葉を堪能することができる。私は、この東福寺が京都で一番の紅葉の名所ではないかと思う。

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 次に、東福寺の方丈(禅宗寺院の僧侶の住まい)を拝観させていただいた。東西南北にそれぞれ一つずつ、4庭が配され、「八相成道(釈迦の生涯に起こった八つの重要な出来事)」にちなんで「八相の庭」と称されている。正式には「東福寺本坊庭園」という。これは、あの著名な作庭家である重森三玲(1896-1975年)によって昭和14年(1939年)の手によるものである。非常にモダンで、これが70年前のものとは思えないほどである。

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 まず目に入るのが、峻険な山々を想像させる大小様々な岩が林立する石庭の「南庭」である。白い砂に水が渦を巻くような雲状の溝が描かれており、それぞれ、八相成道にちなんで、蓬莱、方丈、八海、五山など八つを表すそうだ。それらをしばし眺めていると、雑念か何かは知らないが、色々な思いが心に浮かぶ。流石に禅寺である。「西庭」には、井田市松といって、白い砂地にサツキを刈り込んだ大きな市松模様が置かれている。「北庭」には、その市松模様がもっと小さくなって、緑主体のように見え、その背景には赤い紅葉と黄色い紅葉が美しい。なんとモダンな庭なのだろう。「東庭」は、やはり雲状の溝が刻まれた白い砂地の上に、北斗七星を模して円柱形の柱が立てられ、その向こうには天の川を模した緑の生垣が配されていて、誠に素晴らしい。

(19)圓 光 寺


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 東福寺をタクシーで出て、岡崎と京都大学を経由して一乗寺に至り、右折して詩仙堂のところを左手に曲がって「圓光寺」に着いた。「臨済宗南禅寺派 瑞厳山圓光寺」が正式な名称という。実は私はこのお寺を訪ねるのは初めてで、その縁起によれば、徳川家康が1601年に、足利学校の学頭を招いて伏見に圓光寺を設立して学校とし、それが相国寺山内を経て60数年経って現在の地に移転したということらしい。こちらには、山門をくぐってすぐに、「奔龍庭」という実に特色のあるお庭が広がる。白い砂による石庭なのだが、全体を龍に見立てて、頭部に当たる所に迫力ある石を置き、龍の身体を表すように瓦を埋めて、力強い線を描き出している。一度見たら、二度と忘れないほどの庭である。

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 「十牛の庭」は、牛を追う牧童が描かれた十牛図を題材にして近世に造られた池泉回遊式庭園で、紅葉が真っ盛りである。南側には栖龍池があって、なかなか風情がある。この庭園を室内から眺めると、まるで一幅の絵画のごとくに思える。庭の片隅には、水琴窟がある。その前を通りかかると、何とも言えない優しい音が聞こえる。竹の棒が交差するように無造作に2本、設えてあって、それに耳を近づけると、埋められた甕の中で水滴が落ちて砕ける、はっきりとした音を聞くことができる。心が洗われるようだ。これを聞くだけでも、拝観した値打ちがある。「淡桜庭」には十一面観音様がいて、春になると周りの桜が美しいらしい。そこから竹林の脇の道を登って山に登ってみると、開基徳川家康を祀ったお墓がある。やはりこれも、東照宮という由。

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(20)詩 仙 堂

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 私は、詩仙堂へは学生時代を含めて、何度も訪ねたことがある。昔は、こんな鄙びた地区までやって来るような参拝客など、あまりいなかったものだ。でも今では、紅葉の季節のせいかもしれないが、ひどい混雑なのを目にして、少し驚いてしまった。こちら詩仙堂は、現在は曹洞宗永平寺の末寺で、徳川家康に仕えた石川丈山が33歳で隠退後、朱子学を修め、禅寺の和尚に禅を学んだ後に、59歳で造営し、没するまでの30余年を過ごしたところである。HPによると、丈山は、「清貧の中に聖賢の教えを自分の勤めとし、詩や書や作庭に寝食を忘れてこれを楽しんだ風雅な文化人」であったとのこと。嘯月楼は、普通の屋根に小さな望楼のような屋根付き展望階が乗っている建物であるが、そこから紅葉の庭を眺めると、まさに絶景としか言いようがない。ときどき、竹を叩くような音が聞こえると思ったら、「鹿おどし」の音だった。

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 詩仙堂の紅葉を十分に見たので満足をして、そこから叡山電鉄の一乗寺駅の方へと2人で歩いて行った。僅か10分ほどの距離だが、私は昨夜の永観堂で疲れたので、ちょうどお昼時だし、どこかよいレストランか喫茶店がないかと思っていた。すると、京都中央信用金庫の建物を過ぎてしばらく行った辺りで、右手にピザ屋さん(Doppio Zero:ドッピオ・ゼロ)があった。覗いてみると、竃を備えた本格的なもののようだ。失礼ながらなぜこんな鄙びた場所にという気がしたものの、それだからこそ、きっと美味しいに違いないと思って入った。メニューを見ると、結構な値段だったので、これなら良いかもしれないと、最も高い生ハムとルーコラのピザを頼んだ。大きいので、2人で一つを分け合うことができる。そうするとこの値段でも、リーズナブルなものかもしれない。

 さて、熱々のピザが来た。家内と分け合って半分ずついただいた。ううーむ。これはとっても美味しい。このレストランに入って良かった。見ていると、シェフはイタリア人のようだ。その方と2人の女性とでやっているお店らしい。どうか、この調子で美味しいピザを地域の皆さんや私たちのような京都を訪れる観光客に提供していってほしいものだ。

(21)渉成園(枳殻邸)

 ピザ屋さんで大いに満足した後は、叡山電鉄で出町柳を経由して、京阪電車で七条駅まで行って、渉成園(枳殻邸)に歩いていった。渉成園には、私はかなり前に、家内は2011年に来たことがあり、非常にバランスのとれた美しい庭園だという記憶があったからだ。ちなみに渉成園とは、真宗大谷派の本山東本願寺の飛地境内地であり、国の名勝にも指定されている池泉回遊式庭園である。


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 入り口で参観料をお支払いすると、パンフレットを2種類もいただいた。こういう気前の良いところは、さすがに宗教団体の施設である。正面の「高石垣」が面白い。長い板のような石が斜めに配置され、石臼のようなものもあれば、色味が違う石もあって、これらが組み合わされて不思議な存在感がある。

 中に入って印月池を見に行ったのであるが、周囲を少し回っただけで、ガッカリしてしまった。記憶とはかなり違っていたからである。何というか、庭木にしても、池にしても、昔の手入れの方が、はるかに良かったと思う。それであちらこちらの写真を少し撮ってはみたものの、途中で続ける気が失せて、そのまま出てきてしまった。なぜなのだろう。かつてのお東さん騒動で、いったん売り払われて買い戻された影響が、なお残っているのだろうか。せっかくの文化財なのにと、残念に思えてならない。敢えて言うと「外れ」だったが、ここに至るまでは全て「当たり」だったので、画竜点睛を欠く思いだ。しかし、まあこういう時もあるだろう。


エピローグ

 夕方、京都から東京行きの新幹線に乗り、無事に帰京することができた。一家5人、平均年齢が70歳近くの面白い旅だった。それにしても、母をはじめとして皆、元気に帰って来ることができたので、何よりだった。思い返すと、まさに珍道中だった。その中でも面白かったエピソードを二つ、ご紹介しよう。

 その一つは、神戸に到着した日のことである。ホテルを出てすぐに気がついたのは、気温が低くて、かなり寒いということだ。車椅子に座る母には、妹たちが膝掛けは用意してくれていたが、手が冷たかろうと、上の妹が自分の手袋を渡そうとした。ところが、どこかで片方を落としたか置き忘れたかで、一つしかない。そこで、私が近くのコンビニで毛糸の手袋を買い求めて、母に渡した。母は「あったかい。ありがとうねぇ」と言ってはめてくれていたが、財布を出そうとして手袋を外したらそのまま置き忘れたりするので、その度に誰かが注意してみておくことになった。

 そうして、綱敷天満宮で綱敷の円座やなすの腰掛けなどを見物し、それから小学校に向けて歩いているとき、「あっ、手袋がない」と、誰かが気がついた。下の妹が天満宮に探しに行ったものの、しばらくして「なかったわぁ」と言って帰ってきた。「それは、残念。ご苦労様でした。また、その辺で買うからいいよ。」と言って歩き出したところ、「ああっ、そこにあるわ。ほれ、お兄ちゃんのポケット」と誰かの声。「どこに?」と言って振り返った途端、私のコートがふわりと翻り、ポケットのマジックテープにくっついているものが見えた。外してみると、母が置き忘れたと思いこんでいた手袋そのものだったので、5人でそれこそもう大笑いをして、お腹が痛くほどだった。

 そういえば、天満宮で私は暑く感じたので、コートを脱ぎ、綱敷の円座の上に置いておいた。その時に、母もたまたま手袋を外して私のコートの上に置いたのだろう。それで、お参りが終わった後、私は手袋に気がつかないままコートを着たから、こうなってしまったのに違いない。何はともあれ、丸く収まってよかった。それにしても、笑い過ぎで、まだ胸とお腹が痛い。これは文字通りの珍道中だ。

 第二は、神戸の中華料理店での出来事である。入って丸いテーブルに着いた途端、もうすぐ90歳になる母をはじめとして、60歳と59歳の妹たちが、方言丸出しで喋る。それも、まるで関西の漫才のようで、母はボケ役(もしかして、本物かもしれない)、長女はツッコミ役、次女はとりなし役と、役割分担までして、まあそのかしましいことといったらない。

「あれ、そんなことするんがけ。」
「ほやほや、そうするがやちゃ。」
「なーん、そんなこと、ないっちゃー。」
「ほな、そうしられ。」


 という調子である。北陸各地の方言で、しかもそれらが入り交じって高速で話されるものだから、男の私が口を挟む隙間もないし、こういうときの標準語は弾き飛ばされて、全く役に立たない。注文を取りに来たレストランの人は唖然として「これはどこの外国語だろう」という顔で見回していた。私が標準語で注文しだすと、ほっとしたような顔で、メニューの説明をしてくれた。








 母と神戸なつかしの旅(写 真)







 母と生まれ故郷を訪問






(2018年11月26日記)


カテゴリ:エッセイ | 00:04 | - | - | - |
栃木秋祭り

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 栃木秋祭り(写 真)


1.栃木への旅

 栃木秋祭りに行ってきた。私は栃木県といえば、日光や那須には良く行ったり、たまには泊まったりするが、栃木市はその途中にあるいわば通過地であるため、これまで電車を降りたこともなかった。ところが今回は、2年に1度開催されるお祭りで、人形を乗せた絢爛豪華な山車が出るという。そこで、その最終日である11月11日(日)に写真を撮りに行った。北千住駅から東武鉄道の特急スペーシアに乗り、わずか1時間という近さである。

 特急の中で、「そういえば、栃木県の県庁所在地は宇都宮市で、なぜ栃木市ではないのだろう。」ということが気になり、インターネットで調べた。そうすると、山形県令から福島県令を経由して栃木県令となった三島通庸(その後、警視総監で亡くなる)が、その当時、自由民権運動が盛んだった栃木市を敬遠して、宇都宮市に県庁を持っていったということがわかった。なんともはや、明治の初期らしい強引なやり方である。でも「そのおかげで」などというと語弊があるかもしれないが、近代化とは一線を画した江戸情緒あふれるしっとりとした街並みが残ったようだ。この話を聞いて、山口県の萩の街を思い出した。あそこも、明治以後は山口市に県庁が置かれて、維新の英雄を輩出した萩は置いてきぼりにされたが、そのおかげで、維新に活躍した英雄の家がそのまま残っている。何が幸いするかわからない。


2.絢爛豪華な山車

 栃木駅に降り立つと、祭りのパンフレット((表紙)(会場周辺図)(会場案内図)(山車等案内)(主なみどころ)(秋まつり日程))を配っていた。それを見て、お祭り会場の「蔵の街大通り」へと歩いて行く。大きな江戸型人形山車が林立しているのが見えてきた。栃木市のHPによると、

 「このまつりは、見事な彫刻と金糸銀糸の刺繍をほどこした絢爛豪華な江戸型人形山車が蔵の街を巡行するもので、明治7年より、慶事や祝典にあわせて行われ、市制施行を境に概ね5年ごとに開催されてきました。神社の祭りではなく、江戸との舟運で栄えた『小江戸とちぎ』の当時の商人たちの心意気と財力で作り上げてきたこの祭りの伝統は、蔵の街並みとともに受け継がれ、現在では隔年開催となっております。江戸末期から明治時代にかけて作られた9台の山車は、江戸山王祭に参加していた静御前の山車を筆頭に、3代目原舟月などの名工の手による人形を載せており、6台が栃木県指定有形民俗文化財になっています。」とのこと。

 そのおかげで、こうして見物させてもらっているというわけだ。江戸の山王祭は、今でこそ、このような豪華な山車は一つも見当たらなくなっているが、かつては、こういう立派なものだったのかと、感慨深いものがあり、江戸期の文化水準の高さに改めて感心し、同時に失われた江戸文化そのものに思いを馳せた。この山車は、将軍の上覧に供するために江戸城内へ入るときに、門でつかえないよう、最上階の人形の身体が山車の中へと収納されて高さがその分だけ低くなるように作られている。現在、その機能は、道路の途中にある電線を避けるために実際に使われているというから、面白いものだ。

 さて、その江戸型人形山車を地図に並んでいた順に南から北へと書き出すと、【室町の桃太郎】、【倭町二丁目の神武天皇】、【倭町三丁目の静御前】、【万町一丁目の劉備玄徳】、【万町二丁目の関羽雲長】、【万町三丁目の張飛翼徳】、【嘉右衛門町の仁徳天皇】、【泉町の諌鼓鶏】、【大町の弁慶】となる。この他に山車ではないが【倭町一丁目の雄獅子、雌獅子】が展示されていた。前日に来れば、【万町一丁目の天照大神】と【万町二丁目の素盞嗚尊】が見られたようだ。


倭町一丁目の雄獅子、雌獅子


 午後2時から山車が動き出すようだが、それまでは蔵の街大通りに山車が並べられている。それを南から北へと撮って行き、次に動き出してからまた撮った。まずは、【倭町一丁目の雄獅子、雌獅子】であるが、これだけは道端に展示されているだけで、山車はない。明治6年頃の作で、厄除け、和合、火防の願いが込められているそうだ。なぜ山車がないのかは聞きそびれたが、夜になるとこの二つの獅子の間に提灯を持って立つ姿の私自身の写真を撮っていただいた。良い記念になった。改めて、お礼を申し上げたい。

室町の桃太郎


室町の桃太郎


室町の桃太郎


室町の桃太郎


 それから、【室町の桃太郎】である。これは、明治38年作の県指定有形民俗文化財であり、総合的に見て、私が最も良いと思った山車である。桃太郎人形は、「日本一」の旗を背中に挿した童顔で「日本一」の旗を背中に挿した童顔で、素朴な表情をしている。山車の前に置かれている囃子座は小松流で、屋根がなくて外に出ている。錫杖を持って行列の先頭に立って歩く手古舞衆(注)というお嬢さん方の数が揃っていて可愛いし、何よりもユニークなのは、2人の鬼である。その「手作り感」がとても良いし、皆で写真を撮るときなどはそのうち1人が寝転ぶという茶目っ気ぶり。また、その前に大きな御幣のような棒を持って乱入して振り回す男女2人もいて、皆で大笑いしている。とても仲が良い町内だなと、誠に微笑ましく思った。
(注)「手古舞(てこまい)衆」というのは、川越祭りの用語

倭町二丁目の神武天皇


倭町二丁目の神武天皇


倭町二丁目の神武天皇


倭町二丁目の神武天皇


倭町二丁目の神武天皇


倭町二丁目の神武天皇


倭町二丁目の神武天皇


 【倭町二丁目の神武天皇】逆光になったが、神武天皇の山車があった。明治38年作の県指定有形民俗文化財とのこと。四囲の幕には赤地に金の龍が描かれていて、神武天皇の人形が持つ金ピカに光る八咫烏が太陽と重なって実に神々しい。これが動き出すと、八咫烏がゆらゆら揺れてますます有り難みが増す。その前に4人の手古舞衆のお嬢さんたちは日本髪姿で和風だから、これまた神武天皇像と良くマッチしている。平砥流のお囃子が力強く鳴り、「ああ、お祭りだなぁ」と思う。

倭町三丁目の静御前


倭町三丁目の静御前


倭町三丁目の静御前


倭町三丁目の静御前


倭町三丁目の静御前


 【倭町三丁目の静御前】は、嘉永元年(1848年)作の県指定有形民俗文化財。四囲の幕には、二段目が緑地に雲模様、三段目が赤地に金で若松模様が描かれている。山車の前には、ひょっとこのお兄さんが剽軽な踊りを披露していて、その脇には姉さんかぶりの手古舞衆のお嬢さんたちがいる。神武天皇の日本髪を結った手古舞衆のお嬢さんたちがやや武家風だとすると、こちらは茶摘み娘のような非常に庶民的な感じの手古舞衆のお嬢さんたちである。衣装一つでそれほどの個性の違いが見て取れる。ただ、静御前は公家風の烏帽子をかぶっているので、それと対比すると、なかなか面白い。

万町二丁目の関羽雲長


万町二丁目の関羽雲長


万町二丁目の関羽雲長


万町二丁目の関羽雲長


 【万町二丁目の関羽雲長】は、明治26年の作で、同じ町内の日本武尊や万町三丁目の素戔嗚尊などと同じ作者であるが、これら2つが県指定有形民俗文化財なのに、これはそういう指定有形民俗文化財には指定されていない。途中で原型をとどめないほどの破損でもあったのだろうか。よくわからない。聞きそびれた。関羽雲長像そのものは、中国風の槍を縦に構えていて目立つ。それに、山車の周りを彩る幕には赤地の背景に金色の糸で羽の生えた飛龍が刺繍で描かれていて、スコットランドのドラゴンに似ている。どちらも想像上の動物だから、まあ目くじらを立てるほどのことはない。いずれにせよ、誠に力強い限りの刺繍である。こちらは、手古舞衆のお嬢さんたちというよりは、いなせないでたちの若衆(?)が目立っていた。

万町一丁目の劉備玄徳


万町一丁目の劉備玄徳


万町一丁目の劉備玄徳


万町一丁目の劉備玄徳


万町一丁目の劉備玄徳


 【万町一丁目の劉備玄徳】は、明治26年の作で、中国風の冠を被っている文人風の像であり、漢王朝の始祖である劉備玄徳だろう。山車の周りを彩る幕には関羽雲長の山車と同じ飛龍が刺繍で描かれていると思ったら、作者はこれと同一の三代目法橋 原舟月だった。いやいや、それどころか、神武天皇も静御前も張飛翼徳も、皆同じ作者である。本日は見られなかった天照大神と素盞嗚尊もそうだという。このうち4体が県指定有形民俗文化財となっている。現代の目から見ても写実的で実に美しい人形である。

泉町の諌鼓鶏


泉町の諌鼓鶏


泉町の諌鼓鶏


泉町の諌鼓鶏


【泉町の諌鼓鶏】は、「人型の人形」ではなくて「鼓に乗った鶏の人形」であることが面白い。これが曳きまわされていくと、ものすごく存在感があって辺りを睥睨するかのようだ。これには説明があって、「天下泰平の象徴で、良い政治が行われ訴えを聞く太鼓を叩く者がなく鶏が太鼓に巣を作ったという故事」からきたものだという。かつての手古舞衆のお嬢さんたち(?)が元気に縄を引いて頑張っていた。この調子で高齢者の模範として、それこそ足腰が立たなくなるまで、続けていっていただきたいものだ。

万町三丁目の張飛翼徳


万町三丁目の張飛翼徳


万町三丁目の張飛翼徳


万町三丁目の張飛翼徳


万町三丁目の張飛翼徳


【万町三丁目の張飛翼徳】は、明治26年の作。髪が両側から迫って顔の半ば以上を覆っているので、人形の表情を窺うのは難しいほどである。遠くから見ると、鼻しか見えない。そして、額に犬の面のようなものを付けているので、ますます剣呑に見える。ついでに言うと、四囲の幕には虎が刺繍されていて、おどろおどろしい。顔については、夜になってライトアップされて、ようやく見ることができた。

大町の弁慶


大町の弁慶


大町の弁慶


大町の弁慶


大町の弁慶


【大町の弁慶】は、明治初期の作で、作者は不明だが栃木市指定有形民俗文化財である。例の弁慶姿で、薙刀を斜めに構え、これから切って捨てるぞとでも言いそうな迫力がある。それはとっても良いのだが、人形の難点としては、顔の表情がいかにも素人が作ったと思える造作なのである。しかも、腕に凸凹があって、あまり美しくない。少なくとも腕に付いては、弁慶らしくボディビルダーのようなムキムキの筋肉を付けられないものか・・・いやいやそうすると、せっかくの民俗文化財の指定が取り消されるかもしれない。余計なことを言ったかもしれないが、明治初期といえば既に150年は経っている。今や立派な文化財である。こちらも、行列の先頭には日本髪を結った手古舞衆のお嬢さんたちがいて、とても可愛い。

嘉右衛門町の仁徳天皇"


嘉右衛門町の仁徳天皇"


嘉右衛門町の仁徳天皇"


嘉右衛門町の仁徳天皇"


【嘉右衛門町の仁徳天皇】は、栃木市指定有形民俗文化財であり、非常に印象に残るお顔をした人形である。仁徳天皇が、威厳のある顔にも見えるし、やや憂いを帯びた顔にも見える。天皇というお立場を表裏共に表現しているように思えるのである。この山車に付いていくと、蔵の街大通りを左に曲がって、銀座通りに入り、巴波川(うずまがわ)の方へと向かった。銀座通りには電線が縦横に走っている。どうするのだろうと思っていたら、仁徳天皇像がするすると下がって山車の中に収納され、おじさんがその脇で先が三角形になっている木の棒を構えている。電線がある所に来るとそれを使って電線を上に持ち上げて通過している。なるほど、うまくできている。そうやって銀座通りを突っ切り巴波川に架かっている幸来橋に至り、それを渡り切ると思いきや、橋の向こう側でUターンした。

嘉右衛門町の仁徳天皇"


嘉右衛門町の仁徳天皇"


嘉右衛門町の仁徳天皇"


万町一丁目の劉備玄徳"


万町一丁目の劉備玄徳"


 おやおや、どうするのだろうと思っていると、また銀座通りを通って別の山車である万町一丁目の劉備玄徳がやってきた。そうして橋の上で嘉右衛門町の仁徳天皇と向かい合う。すると、手古舞衆のお嬢さんたちがお囃子衆の台に上がって、黄色い声を張り上げて、自分の町内の名前を叫んでいる。ああ、これは川越祭りでいう「 曳っかわせ」というものではないか。この栃木祭りでは、「これらの絢爛豪華な山車とともに囃子が競演する『ぶっつけ』では、山車を寄せあって日頃の練習の成果を競い合い、その盛り上がりは、まさにこの祭りの醍醐味といえます。」とされている。遠く秋田の角館のお祭りでは、道を譲れ、譲らぬという交渉人のやり取りがあって揉めると聞くが、こちらではお囃子の競い合いで平和に勝負を決するようだ。お祭りらしくて、なかなかよろしい。何回か見たが、しばらくしてどちらかが道を譲って去っていく。なぜ、どういうことで一方が譲るのか、未だによくわからない。これも地元の人に聞きそびれた。


3.遊覧船に乗る



蔵の街遊覧船"


蔵の街遊覧船"


蔵の街遊覧船"


 幸来橋のたもとから巴波川(うずまがわ)沿いに散策路が続いていて、それに沿って行くと、蔵の街遊覧船乗り場がある。所要時間わずか20分ほどである。菅笠を貸してくれるので、それを被って待っていると人数が揃ったと見えて、20人乗りほどの平底の舟に案内されて乗り込んだ。そこから船頭さんがゆったりと漕ぎ出す。川の水の透明度が高くて、鯉らしき大きな魚が行き交う。そのまま幸来橋まで行くと、橋上ではちょうど劉備玄徳と張飛翼徳の山車が対決をして「ぶっつけ」の最中である。お囃子の響きとぶっつけの女の子の声、それを囃す人々の怒号などが鳴り響いている。

蔵の街遊覧船"


蔵の街遊覧船"


蔵の街遊覧船"


蔵の街遊覧船"


蔵の街遊覧船"


蔵の街遊覧船"


 そこで巴波川をUターンして、舟は船着場の前を通り過ぎ、橋の向こう側の瀬戸ヶ堰の手前まで行く。そこは川幅が少し広がっていて、全長が1mはあろうかというくらいに大きい鯉がたくさん生息している。また、色々な種類の鴨がいる。そこへ、出るときに船着場で鯉の餌を買った人がそれを投げ込むと、多くの鯉や鴨が面白いほどに寄ってきて、争って食べる。最後に、船頭さんが美声を披露して、船着場に戻る。5月になると、この川を挟んで数多くの鯉のぼりが飾られるそうだ。


4.蔵の街並み

 いただいたパンフレットによると、「江戸との舟運そして日光例幣使街道の宿場町として栄えた『小江戸とちぎ』には商人の心意気が残っております。明治7年、県庁構内(当時栃木町)で行われた神武祭典には東京日本橋の町内から購入した現在の山車が参加し、明治26年、栃木県最初の商業会議所開設認可に係る祝典では計6台の山車が競演し、町をあげてのお祭りとなりました。豪華絢爛な山車が蔵の街並みを巡行する様は栄華を極めた往時の栃木を彷彿とさせます。」とある。


蔵の街並み"


蔵の街並み"


蔵の街並み"


 なるほど、ここは川越のような町なのだということで納得し、それに日光例幣使街道の宿場町だということで、二度納得した。それにしても、川越のような土蔵造りばかりだと思ったら、やはり幕末に3度の大火と1度の水戸天狗党による兵火に見舞われたそうだ。そういう悲しい歴史の上での土蔵造りなのである。なお、この巴波川は舟運の中心地だったが、明治期の鉄道の開通によって、衰退したらしい。



5.夜のお祭り



夜のお祭り"


夜のお祭り"


夜のお祭り"


夜のお祭り"


夜のお祭り"


夜のお祭り"


夜のお祭り"


 さて、夕食を食べてお祭り会場に戻ってみると、空がすっかり暗くなっていて、その中をしずしずと山車が進んでいる。それぞれの山車は提燈が下がり、人形にはライトが当てられて、昼間の姿とはまた違った幻想的な美しさがある。それに笛と太鼓のリズミカルなお囃子が耳に心地よく聞こえてくる。道路周辺の夜店もお祭りの盛り上がりに一興を添えている。2台の山車の「ぶっつけ」が始まった。女の子たちが山車に登り、その周りで若衆がてんでに持った縦長の提灯を上下に揺らして大声を上げる。昔はともかく、今はとても友好的で、お互いに対するエールの交換のように聞こえてくる。昼間とは違って、夜は余計なものが目に入らないから、純粋にお祭りの世界に没入することができる。いや、とても楽しい。

 室町の桃太郎の一行に出会った。ライトアップされた桃太郎人形が夜空に輝いている。手古舞衆のお嬢さんたちに、昼間とはまた違った艶やかさを感じる。おやおや、鬼の前で小さな子供たちがポーズをとっていて、それがまた実に可愛い。


夜のお祭り"


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夜のお祭り"


夜のお祭り"


 そういうことで、十分に楽しんだことから、午後9時の終了を待たずに午後8時半発の特急で帰ることにした。それにしても、毎回思うことだが、この地に生まれてこのような伝統的な祭りに参加することができる地元の人は、本当に幸せである。私のように全国各地を巡って来たために伝統行事のある故郷というものがなく、その挙句に東京に定住してしまった人間には、とても味わえない幸福である。もちろん、その反面として、伝統の灯を絶やさないための家族や町内全部の人々による見えない努力や負担があるとは思うが、どうかこの伝統行事を次代に引き継いでいっていただきたいと、心から願うものである。

夜のお祭り"


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(2018年11月11日記)


カテゴリ:エッセイ | 00:03 | - | - | - |
長瀞ライン下り

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 ようやく11月になり、家内と「近場に紅葉を観に行くには、少しばかり早すぎるね。」という話をしていたところ、「久しぶりに長瀞に行ってみよう」ということになった。実は9年前の9月半ばに家内と一緒に長瀞へ行って、七草寺めぐり、SL撮影、ライン下りと、色々と盛りだくさんに楽しんだからだ。「もう季節が季節だけに、七草寺めぐりは無理だが、SL撮影とライン下り、それに時間があれば宝登山ロープウェイに乗ってみよう。紅葉が綺麗だと良いけれど。」という気持ちで、出掛けることにした。

 アプリで調べると、文京区の我が家から池袋にて東武東上線に乗り換え、小川町経由で寄居にて秩父鉄道に乗って長瀞で降りると、2時間25分で行ける。ところが、別ルートとしてJRで熊谷まで行って秩父鉄道に乗り換えて長瀞まで行くと、2時間40分もかかる。この場合は秩父鉄道に53分も乗っていないといけない。ちなみに前の寄居経由ではそれが23分だから、この秩父鉄道の乗車時間の違いだ。往復で30分の人生の無駄なので、前の寄居経由のルートにした。

 逆方向だから土曜日ながら通勤ラッシュにも全く無縁で、寄居駅に着いた。東武東上線から秩父鉄道に乗り換えようとしてびっくり・・・改札がない。スイカ(Suica)カードをどうすれば良いのだろうかと思っていたところ、階段の脇に「ピッ」とタッチする機器があり、どうもこれでカードに記録しておけるようだ。


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 それを2回繰り返して秩父鉄道の電車に乗ったのだが、プラットホームのレトロな雰囲気と、乗った電車の吊り革などを見て、恐れ入った。まるで昭和40年代のようなのである。特に長瀞駅舎では、小さなサイズの四角い格子の枠にはめられたガラスをよく見ると、向こうの人や建物が歪んでいる。これは、現代的な工業生産法による以前のガラス製法のもののようだが、割れてしまったらどうするのだろうと、思わず心配するほどだ。駅舎の傍にある郵便ポストも、未だに円筒状の丸型ポストだし、しかも塗装が相当に剥げている。レトロにしても、やり過ぎのような気もしないではない。

 秩父鉄道のSL、パレオエクスプレスに乗ろうとしたら、故障で既に1ヶ月ほど運休なのだそうだ。秩父鉄道といえば、「首都圏で最も近くでSLに乗れる鉄道です」というのが売り物なのに、故障とあれば、残念だが仕方がない。それにしても、SLにはお金をかけているのに、駅舎や普通車両に投資をした形跡はほとんど見当たらない。ついでに言うと、長瀞ライン下りも、秩父鉄道の経営だったから驚いた。

 さて、その長瀞ライン下りだが、もう100年の歴史があるそうだ。待合室に掲げてあった写真を見ると、屋根付きのいわゆる屋形船で、芸者衆と舟旅を楽しんでいる姿が写っていた。長瀞駅前の観光案内所前に置かれたテレビでは、NHKの番組「ブラタモリ」で、ここ長瀞が取り上げられた様子が放映されている。それによると、長瀞を訪れる観光客の数は、年間270万人だという。なるほど、これだけの数のお客さんが来てくれるからこそ、秩父鉄道が潤っているのだろう。だから集客の目玉であるライン下りが重要となるはずである。


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 駅前で、ライン下りの切符売り場に行くと、上流の上長瀞駅近くの親鼻橋から、長瀞駅近くの岩畳まで下るAコース(約3キロ)と、その岩畳から下流の高砂橋まで下るBコース(約3キロ)という2つのコースに分けて運航しているようだ。私が聞いたときにはAコースが混んでいてBコースはそうでもないと聞いて、まずBに乗ることにした。長瀞駅の踏切を渡って両側の食堂やらお土産屋さんを抜けて行くと荒川の川原にある岩畳乗船場所に出て、そこから舟に乗った。快晴の日で、空が真っ青である。

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 舟はざっと見たところ20人乗りで、私と家内は最後に乗船したから、思わず、舳先(へさき)に座ることになった。私の前には船頭さんがいるだけだから、視界が開けていて写真が取りやすい。ここ数日は晴れているから、水の量が高さで5cmほど少ないそうだ。そのため、時折、ガリッと音がして舟底を擦っていた。

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 川幅が広いところを過ぎたら、すぐに川幅が狭い急流に差し掛かった。「大河瀬(おおかわせ)」という。水がかかるから、舟に備え付けのビニールを被った。ジャボジャボ、ザザザーという水音が大きくなって、舟が左右に揺れる。それを、舟の前後に乗り組んでいる2人の船頭さんが、長い竿1本を操って必死に操船する。おっと、やっと乗り切った。これは、ちょっとしたスリリングな経験である。あとは左右の景色をゆったりと楽しんだ。

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 特に、石畳から続く岩は、面白い外観をしていて、ミルフィーユのような層状でしかも傾いている。こういう岩をじっくりと見た。これらは、海底に堆積した地層がプレートの移動に連れて大陸の下に潜り、しかもそれが斜めに引き伸ばされて何層にもなり、地下深くからこの地表面に出てきたものだそうだ。

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 更に先へと行くと、カエルのような形をした岩があったりして、景色に変化がある。しかも、川の水の色が紺碧、真っ青、石の回りの逆巻く白と変化するのを眺められる。加えて、川面には、野鴨が遊び、水中には鯉がいた。誠に、長閑な風景である。

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 やがて、Bコースの終点である高砂橋に着いた。その少し前、船頭さんから「お客さんから『この舟は、今は下って来たけど、もう一度戻るときには、どうするのだろう?』という質問をよく受けますが、その答えは、あそこにあります。」と話していた。その指さす方向を見ると、舟をクレーンで吊り上げてトラックの上に重ねて載せ、また出発点まで運んでいる。我々は前回来たので分かっていたが、これは、良い考えだ。そしてお客の我々はというと、マイクロバスで、また石畳近くの長瀞駅裏手の乗船券発売所まで送ってくれるのである。

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 その乗船券発売所まで帰ってきて、面白かったので、もう一つのAコースにも乗ろうということになり、バスで上流の親鼻橋に向かった。舟に乗るのが最初になったので、先程とは逆に、今度は艫(とも)に座ることとなった。向かい側は乗客の頭で撮りにくいが、背中側には振り返りさえすれば障害物なく撮れる。

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 舟は親鼻橋乗船所を出発した。出てすぐのこと、左手の川中に、岩がいくつかあり、水に洗われている。そのうちの一つだけが、他と違うと思った。そこで良く見たら、何だ、煉瓦の塊の人工物だった。妙なものが川中のあると思いつつ、川の流れに身を任せていたところ、やがて前方に、川を横切る鉄道橋が見えた。たまたまタイミング良く、秩父鉄道の電車が通っている。ただ、人の頭に遮られて、カメラをちゃんと構えることができなかったことは残念だ。その荒川橋梁は、100年前に完成して、まだ現役だそうだ。しかも、橋脚が煉瓦で出来ている。それが、先程、川中で見たものと同じなので、びっくりしてしまった。「では、あの煉瓦塊は、どこから来たのだろう。この上流にあった昔の構造物が洪水か何かで壊れて流されたからか?」などと考えたら、まるでミステリーだ。

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 左手に、亀の子岩なるものが見えた。先程のカエル岩のようなものだが、それよりは、もっと厚みがある。「小滝の瀬(こたきのせ)」に差し掛かった。Aコースの大河瀬のような急流スポットだ。途中で1mほどの段差があるところを通るらしい。急に川幅が狭くなり、ザアーザアーという水音が高くなったと思ったら、腰が揺れる感じがした。段差を通過したらしい。ちょうどディズニーランドで、乗り物に乗っているようなものだ。それから流れは緩やかになり、「秩父赤壁」と名付けられた高い断崖を過ぎて、舟は岩畳へと戻ってきた。

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 岩畳の近くを散歩していたら、お昼を過ぎてかなり経ったので、家内とその辺の食堂に入り、トロロ蕎麦を頼んだ。それなりに美味しく味わって、満足して出て来たら、日はやや傾き、11月らしく風が冷たくなってきた。宝登山ロープウェイには、行けないこともなかったが、家内と相談して、今日はあまり欲張らないでこの辺で帰ろうということになり、来たときと同じルートで帰京した。



(2018年11月 3日記)


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