天橋立・舞鶴・蘇洞門への旅

天橋立


1.天橋立

 京都府の日本海側を旅する機会があり、まず天橋立に行ってみた。そのきっかけを作ったのは、父の遺品のアルバムだ。父が亡くなってしばらくして、遺品のアルバムを整理していたところ、父が両脚を広げてその股の間から向こうを覗いている写真を見つけた。妙なことをやっているなと一瞬思ったが、背景の景色を見て何の写真かがわかった。これは、天橋立の名物「股のぞき」なのだ。ああ、父も天橋立に行って、実際にやってみたのだと思うと、無性に行きたくなったというわけである。ちなみに、私はこれまで、当地を訪れたことはないから楽しみだ。

 ところが、天橋立にたどり着くには、かなり遠い道のりなのである。東京から京都までは、新幹線のぞみで2時間15分ほどであるのに対し、京都から天橋立まで、それとほぼ同じくらいかかる。まず、京都から宮津まで特急はしだて号で行き、そこから私鉄の京丹後鉄道で天橋立駅に行くと、連絡が良い場合で2時間、連絡が悪い場合は更に45分ほどかかることがある。行程に慣れてないせいか、非常に長くか感じる。もちろん飛行場もないから飛行機が使えない。ただ、京都から天橋立まで行く高速バスの便があるようだから、乗り換える必要がないので、そちらの方が楽かもしれない。

 ともあれ、私は天橋立駅に降り立った。駅構内に観光案内所があって、幾つかパンフレットをもらった。駅を出たところ、ふと目の前にあるホテルが視界に入る。今晩泊めてもらう天橋立ホテルだ。これはわかりやすい場所にある。チェックインして荷物を置き、早速、近くの桟橋から観光船に乗った。対岸の傘松公園から天橋立を眺めに行くためだ。


天橋立


天橋立


天橋立


 観光船が通るのは、天橋立で仕切られた「宮津湾」の内側にある「阿蘇海」である。船は出発したが、海の上から見る天橋立は、単なる海岸の松林のように見えるだけで、景色としてはとても単調だ。この退屈なままで対岸に着くのかと思ったら、そうでもなくて、空中でぎゃあぎゃあと大騒ぎが起こった。一緒に船の屋根のない最上階に上っていた親子連れが、空に向かってお菓子を投げ始めたからである。するとそれを狙ってたくさんのカモメが集まってきて、奪い合いの大騒ぎになった。

天橋立


天橋立


 観光船のスピードはかなりあるので、カモメたちはそれに飛行しながら追い付くのも大変なのに、その上、空に投げられたあの小さなお菓子を空中で器用にキャッチするのである。大変な運動神経を持つものだ。気のせいか、カモメがお菓子をキャッチした瞬間、ニヤリと笑うような表情をするから面白い。その写真を撮りながら、国定公園の中でこんなことをやって良いのだろうかと考えたりするのだが、どうも観光船は放任しているようだ。

天橋立


天橋立


 さて、わずか15分で対岸に到着した。船着き場からすぐのところに、「丹後一の宮 元伊勢 籠(この)神社」がある。とても由緒ある神社のようで、そのHPによれば「第10代崇神天皇の御代に天照大神が倭国笠縫邑からお遷りになり、天照大神と豊受大神を吉佐宮(よさのみや)という宮号でご一緒に4年間お祀り申し上げました。その後天照大神は第11代垂仁天皇の御代に、又豊受大神は第21代雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢にお遷りになりました。それに依って当社は伊勢神宮内宮の元宮、更に外宮の元宮という意味で『元伊勢』と呼ばれております。」なるほど、これは古いわけだ。

天橋立


天橋立


 この神社の中を通ってケーブルカー乗り場まで行く。かわいい乗り場があり、ケーブルがガラゴロと動いている。それに乗ったら、直ぐに高台の傘松公園だ。天橋立の北東端に当たる。天橋立は、目の前の右手上から左手下にかけて斜めに走っている。なるほど、これは絶景だ。眺めて飽きない。いただいたパンフレットによれば、「天橋立は陸前(宮城県)の松島、安芸(広島県)の宮島と共に日本三景の一つに数えられる景勝地である。『丹後国風土記逸文』に、国を生まれた伊弉諾尊が天に通うために梯(はし)を作られたが、命(みこと)が寝ている間に倒れ伏したという記事があり、これが名の起りである。・・・神秘的で美しい姿は、野田川から流れ出る砂粒と外海から流れ来る砂粒とがぶつかりあって出来たと考えられる。約500年前に描かれた雪舟画の国宝天橋立図には現在より短い天橋立が描かれている。」とある。天橋立とは、天に掛けた架け橋が倒れた姿か・・・なるほど、なかなか巧みな描写である。

天橋立


天橋立


 ところで、この傘松公園側から見る天橋立は「昇龍観」といい、反対側の天橋立駅(ビューロランド)側からの景観は「飛龍観」というらしい。天橋立を眼下にして、至る所にお立ち台ならぬ「股のぞき台」があるのが可笑しい。いろいろな人たちが入れ替わり立ち替わり、御覧のようにやっている。あんなに腰を曲げて、その上、頭を落として股の間をよくのぞけるものだと感心する。私も父のようにやってみたところ、そもそも腰が十分に曲がらない。一回の試しでもう十分だ。もっとも、当地の名物とはいえ、頭に血がのぼるし、あまり品の良いものではないから何回も試すような代物ではない。

天橋立


 それから、飽きるまで写真を撮っていると帰りはもう時間がなくなった。名刹の成相寺には立ち寄りたかったが、もう夕刻で、寄っている暇がない。それは次の機会ということにして、傘松公園リフトを使って麓まで降りてきた。リフトに乗っているとき、景色が良いので、つい脚を前後に振ったりしがちだが、安全のため厳禁とのこと。

天橋立


天橋立


 麓に着いて、反対側に帰るために再び観光船に乗るというのも有り得たが、運動のためだと思って天橋立の中を歩くことにした。所要小1時間だという。天橋立の中から見ると、単なる松林が続いているだけだが、その中で目立つ松に名前が付けられている。舟越の松、双龍の松、見返り松、小袖の松、雪舟の松、夫婦松、阿蘇の松、千貫の松という具合であるが、このうち双龍の松は平成に入ってからの台風で敢え無く倒壊し、現在は碑のみが置かれている。

天橋立


天橋立


 また、途中には、松尾芭蕉の句碑、真水が湧くという磯清水、与謝野寛・晶子歌碑があって、歴史を感じさせる。そもそも、百人一首にある「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天橋立」(小式部内侍)とあるくらいだから、平安時代から名所として人口に膾炙していたものとみえる。

天橋立


 天橋立駅側に近づくと、橋が2つある。なるほど、内海の阿蘇海は、仕切られているのではなくて、宮津湾とここで繋がっているのだ。しかも陸側の端は、「廻旋橋」という。つまり、真ん中を中心に橋桁を水平に回旋して舟を通すという仕組みらしい。昔は、人力で回旋していたという写真があった。ところで、こちら側にも智恩寺という有名なお寺があるようだが、本日は純粋に景色を撮りにきたし、いささか疲れたので割愛することにした。

天橋立


天橋立


天橋立


 そして翌朝、朝一番で天橋立ビューランドにリフトで登り、飛龍観を写真に撮った。こちらの方が、砂が小さな三角形となって続き、それがあたかも飛龍の背びれのように見えるので、迫力満点の写真となった。これは素晴らしいと感激していたら、何のことはない。京都府丹後広域振興局が、天の橋立について歴史や保全活動について述べているHPの記事があった、それによると、小さな三角形がはっきり見えるのは、天橋立の宮津湾側の海岸の砂がなくならないようにするサンドバイパス工事(砂浜に沿って流れゆく砂が人工構造物などに移動をさえぎられたため、その上手側に堆積したものを下手側の海岸に人工的に移動させる一種の養浜工事)の結果らしい。


2.舞 鶴

 翌日は、舞鶴に行ってみた。西と東とに分かれていて、歴史的には、西舞鶴はかつては田辺藩の城下町で戦前は大連やウラジオストックへの玄関口である商業港として、東舞鶴は言うまでもなく旧帝国海軍の軍港として、それぞれ発展してきた。各々に鉄道の駅がある。このうち西舞鶴駅は、京都丹後鉄道の宮津線とJR西日本の舞鶴線が乗り入れ、いわゆる接続駅となっている。その舞鶴線は、綾部から西舞鶴を経由して東舞鶴に繋がり、東舞鶴からはJR西日本の小浜線となって敦賀に至る。


舞鶴


舞鶴


 この日は、天橋立駅から東舞鶴駅まで乗り、タクシーで赤レンガパークまで行って、「旧海軍ゆかりの港を巡る遊覧船」なるものに乗った。たまたまこの日は、海上自衛隊を退職された方がボランティアで説明をしてくれる。あちこちに自衛隊の艦艇が碇泊中で、それを洋上から見物するという 趣向である。横須賀港でもやはり同じようなツアーがあるが、これほど間近で見ることはできないというのが、こちらの売り文句である。

舞鶴


 ボランティアさんの説明は、例えば、こんな調子である。「右手に並んでいる681と682の二つの護衛艦、それぞれ『すがしま』と『のとじま』ですが、これらは同型艦で、いずれも掃海艇です。磁気に反応してはいけないので、木造の船でして、しかも機械にはなるべくステンレス、アルミ、銅という材料が使われております。排水量は610トンで、速度25km/時しか出ません。湾岸戦争時には、わざわざペルシャ湾まで掃海に行ったのですが、速度が遅いために行くのに何ヶ月もかかりました。あそこに見える『東山』には、戦時中には機銃砲台があり、大きな防空壕があります。ただ、もう相当古くなっているので、立ち入りは禁止されています。」と、なかなか名調子である。

舞鶴


舞鶴


舞鶴


 最初はそれを聞いていたのだが、そのうちカメラを持って舷側に行って手当り次第に写真を撮るのに集中していたら、反対側にいるボランティアさんの説明があまり良く聞こえない位置だったので、せっかくの説明が頭に入らなくなり、実に残念なことをした。それにしても、護衛艦の写真は撮り放題だ。これと同じことを外国でやったら、いつ何時スパイ容疑で逮捕される災難に遭うかもしれないので、外国では決してしないように心しておきたい。

舞鶴


舞鶴


 すぐ近くのドックにイージス艦「みょうこう(175)」が入っている。アメリカ映画「バトルシップ」で浅野忠信が演じるナガタ艦長が指揮していた艦だ。一方、はるか遠いところにイージス艦が停泊中だど思ったら、修理点検を終えた「あたご(177)」のようだ。艦に弾薬やミサイルを積込み中らしくて、市街地から離れたところで作業しているとのこと。また、戦前の舞鶴海軍工廠からスピンアウトした形で、造船のジャパンマリンユナイテッドと日立造船、日本板硝子の工場などがある。関西電力の石炭火力発電所も陸の施設として目立って見えた。ジャパンマリンユナイテッドでは、幾つかドックがあって、自衛艦の艦船を修理していたほか、受注した民間タンカーが完成間近だった。

舞鶴


 帰りがけに、市内の様子を見ようとして、港から東舞鶴駅へと25分の道のりを歩いて行った。すると駅前に続くアーケードのある大通りを通ったが、土曜日だというのに完全なシャッター通りと化していて、驚いたことにわずか数人の通行人しか会わなかった。しかもそのうち2人は、白い制服を着た女性海上自衛官だった。日本の地方都市は、どうなってしまうのだろう。


3.蘇洞門(そとも)

 舞鶴で遊覧船に乗ったその日の午後、JR西日本小浜線で福井県小浜に向かった。海の景勝地である「蘇洞門(そとも)」と、それから「鯖街道記念館」を見学したいと思ったからである。ホテルは、記念館のすぐ隣に確保した。チェックインしてみると、午後3時半だ。蘇洞門巡りの遊覧船の最終便が出るのは4時で、その桟橋はこのホテルから歩いて10分もかからない。それに、今日は風がなく凪なので海は荒れていないから、外海に出ても船酔いの心配はない。乗船するには絶好のチャンスだと思って、急いで行ってみることにした。


蘇洞門


蘇洞門


 出航の10分前に、乗船券売り場の若狭フィッシャーマンズワーフに着いた。「まだ、間に合いますかね。」と、受付の女性に聞くと、満面の笑みで「はい、大丈夫ですよ。」と返してくれる。こういうときの女性は、それこそ観音さま・菩薩さまに見える。乗船券を買って勢いよく乗り込んだ。そのまま直ぐに上階に上がって吹きさらしの先頭で、ステンレスの棒に掴まる。

蘇洞門


蘇洞門


蘇洞門


 船は走り出した。スピードが上がっていくにつれて向かい風が強くなり、帽子が飛ばされそうだ。カメラもしっかり構えないと、被写体が定まらない。やがて船は港を出て、半島部を右手に回り込んで行く。まず見えるのは、海にちぎれるように浮かんでいる「三ツ岩」「二ツ岩」である。その向かいにある半島部が「松ヶ崎」で、その付近から海中に突き出しているのが、「鎌の首」である。いただいたパンフレットの説明によれば、「根元より頭の部分が大きく、イースター島のモアイ巨石の様な形をし、農作業で使う鎌の柄の部分にそっくりなところからそう呼ばれています。」とのこと。でも、船は猛スピードで走るし、しっかりと掴まっていない振り落とされそうでこわい。それもあって、三ツ岩以外はどれも同じに見えて、何が何だかよく判別できなかった。

蘇洞門


蘇洞門


蘇洞門


 その先にあって、同じく海に屹立しているのが「唐船島」で、同じくパンフレットの説明では「昔、南蛮人を乗せた『唐船』をこの島につないだところからこの名前が付いたといわれています。」という。島といっても、とても住める所ではない。あそこに見える岩かなという気がするが、よくわからない。次は、「あみかけ岩」で、「岩に網目のように亀裂が入り、まるで網を掛けたように見えるところからそう呼ばれています。」とのこと。ただ、これは柱状摂理の地形の典型である。ちなみに「柱状摂理」とは、マグマが地上に噴出して冷えて固まるときに玄武岩や安山岩になるが、その時に五角形や六角形の柱のような割れ目が生じてその断面がまるで蜂の巣に似た形になることである。福井県の東尋坊などに見られる。これは、判別できた。それにしても、あちらこちらの岩で、熱心に釣っている人の姿を見かける。いったいどうやって来たのだろうという気もするし、またどういう方法で帰るのだろうという気もする。誰かに船で送り迎えしてもらわないと不可能だ。

蘇洞門


蘇洞門


蘇洞門


 「夫婦亀石」は、「同じような大きさの亀が2匹おぶさっているように見えるところからこの名前が付いています。」という説明だが、あまりそのようには見えない。「白糸の滝」「年中水量が変わらない、非常に美しい滝です。最近まで上流で『わさび』が栽培されていました。」と説明されていた。確かに、か細いけれども、滝の流れが見えた。

蘇洞門


蘇洞門


蘇洞門


蘇洞門


 「大門・小門」は、海側から見ているとよくわからないが、この日はいわゆる「ベタ凪」だったので、船が内側に回り込んで5分ほど停泊してくれたので、ハッキリと見ることができて感激した。「右を『大門』左を『小門』と呼び、『小門』の高さは大人の背丈の3倍以上あります。近くには『吹雪の滝』が流れ落ちています。」とのことであるが、これは柱状摂理の柱が波に侵食されて脱落したものだろう。同行した地元の大学生は、「これは余程、天候が良くないとここまで来られないから、今日は運が良かった。」と、喜んでいた。


4.鯖街道

事前に旅行のプランを練るとき、小浜市に行って観光するとすればどこがよいかと思って調べたところ、小浜市のHPで、次のような文章を見つけた。

「 近年、鯖街道という言葉がしきりに聞かれます。若狭湾で取れた鯖に、一塩して、夜も寝ないで京都まで運ぶと、ちょうど良い味になっていた、とよく言われます。この道は、単に鯖ばかりを運んだ道ではありません。街道沿いや、到着地の人々に尋ねてみると、イカやカレイや、グジ(アマダイ)、その他、多種の海産物などが運ばれています。いわゆる北前船から陸揚げされた物資も、盛んに輸送されました。 

 鯖は、今と全く比較にならず沢山とれ、体形も大きく、ことさらに一般庶民に喜ばれ待ち望まれたために、これを運ぶ道にさえ、いつしか鯖街道の名が付けられたものです。いわば、鯖街道とは、その代表名に他なりません。古文献には見い出せないことから、その命名は新しく、恐らく戦後に、文人たちが書き始めたのではないかと、考えられています。

 しかし、鯖街道の実質的な起源は、極めて古く、はるか千二百数十年昔の奈良の都、平城宮の跡から発掘された木簡に、若狭から送られたタイの鮓を始め、既に十種に近い魚介(貝)の名が見えています。また、塩を送った多数の荷札が見出されており、鯖街道は、まさに塩の道でもありました。この荷札である木簡は、さかのぼって、現在橿原市の藤原宮の跡からも出土しています。さらに、ごく最近、奈良県明日香村の都の跡で、千三百年の以前に、若狭の三方から送られた、タイの木簡が発掘されました。ますます古い歴史が、よみがえってまいります。

 ところで、日本海と都を結ぶ鯖街道は、また政治の道、軍事の道、特に文化の道でもありました。近年、よく用いられる裏日本という言葉は、暗く、うら寂れた感じを伴い、日本海側地帯の特徴を表しているような錯覚さえも起こさせました。しかし、調べてみると、この裏日本という用語は、わずか百年ばかりの歴史しかありません。いうまでもなく、この日本海に面する一帯は、太古より、まさしく表日本であり、しかも若狭地方はその正面玄関でもありました。小浜の名勝を代表する「そとも」も「外面(そとも)」から取っており、漢字は時の国文学者に「蘇洞門」とつけていただいた経緯があります。きっと、大陸文化の渡来も、久しく行われたことでありましょう。また、鳥浜貝塚から、五千年以上も前に漂着したココヤシの実が、幾つも発見されていることや、室町時代に南蛮船が小浜へ象をもたらした史実など、遠く南方との交流をも思わせます。

 さて、鯖街道とは、決して単に、小浜と京都を結ぶ一本の道のみを意味しません。若狭湾岸の幾つかの地点から、多数の道が、京都へ、遠くは奈良へ飛鳥へ、さらには丹波の篠山などへと通じていました。日本海の幸を送る通称鯖街道は、大陸などの文化をも届け、また、都から幾多の文化を、この地方に招来しました。優れた仏教美術の存在を始め、今も若狭には、雅の言葉が残るといわれ、都人の教えを受けた詩歌や、多くの芸能の伝わることも、その証といえましょう。」


 なかなか、良い文章だ。そういえば、京都祇園「いづう」の鯖ずしは絶品だが、元はといえば、ここから来ていたのかと思うと親しみが湧く。では、行ってみようかと考えた。そこで、鯖街道起点と鯖街道資料館のすぐ裏手のホテルを予約した。


鯖街道起点


鯖街道資料館があったはずの元商店街


 夕方、まだ明るいので、実際の鯖街道資料館の見学は明朝にすることにし、事前に場所を確認しておくことにした。その「いずみ町商店街」に行くと、何だか様子がおかしい。道路の拡張工事が始まっていて、商店街のアーケードが壊されているし、更地になっていたり、セットバックした新しい建物もある。その中を進んでいくと、床のタイルに、「鯖街道起点」と書かれている。ああ、ここだ、間違いない。ところが、鯖街道資料館のあった辺りは見る影もない更地になっていて、影も形もない。「何だこれは、あの小浜市のHPは何だったのか、せめて『しばらく休館です』ぐらいの表示があってしかるべきではないか。」と思った次第である。


5.福井県年縞博物館

 そういうことで、翌日はさっさと小浜を離れて、福井県年縞博物館のある三方(みかた)に向かった。三方五湖のうちの三方湖の畔にあるこの博物館を見学したところ、いやもう、感激してしまった。「年縞」というのは、あまり聞き慣れない言葉なので、まずは博物館のHPを見てみたい。「年代測定の世界標準のものさし『年縞(ねんこう)』を展示する『福井県年縞博物館』が2018年9月15日(土)にオープン・・・名勝『三方五湖』の一つ『水月湖」の湖底には、世界でも唯一7万年分もの縞模様の地層『年縞』が堆積しています。博物館では、45mの実物展示のほか、体験しながら学ぶことができるコーナーも充実しています。カフェも併設しており、湖を眺めながらゆったりとした時間を過ごすことができます。」ということだが、これだけではまだ何のことやら全くわからない。

 日本のように四季が移り変わるところでは、春は花粉、秋は落葉などが舞い、それが人里離れた湖底にひっそりと降り積もる。それは湖底の地層の中に順次規則的に積もっていって、その断面を見ると縞のようになっており、それが一年分を表している。それをずーっと根気よく数えていけば、個々の縞が今から何年前のものかがわかる。その中に含まれている葉っぱの放射性年代測定を行えばその年代が特定できて、例えば古代の遺跡から出土した人骨など有機物の放射性年代測定結果と付き合わせると、その人骨の年代が年単位で極めて正確に決定できるという意味で、重要な物差しとなる。


福井県年縞博物館


福井県年縞博物館


 水月湖(すいげつこ)では、このような年縞が過去7万年分、ボーリングの深さで45メートルを採取することができた。これは、ひとつの奇跡のような条件が重なった結果だという。第1に、水月湖の水深は34メートルと、かなり深くて、湖底をかき回す風や生物の影響を受けにくかったことである。水深が浅いと、湖面を吹く風がどうしても湖底に達して年縞を乱すし、酸素が湖底まで行き届いて魚などが生息し、これまた湖底を乱す。そういうことが起こりにくかったのである。第2に、東隣の三方湖が、いわば防波堤の役割を果たしてくれて、地殻変動の影響を免れたことである。水月湖もその一つである三方五湖周辺は、長年にわたり湖の東側が隆起する。その度に土砂が流入して年縞を乱すところを、三方湖が防いでくれた。

 1994年から年縞の枚数を数えて葉の化石の放射性物質(炭素14)を測定する研究を始め、98年にはアメリカの科学誌「サイエンス」に掲載されるが、「世界標準のものさし」としての採用は見送られた。理由は、年縞が連続していなくて正確さを欠いたからである。というのは、当時のボーリング技術では、2メートルの長さのサンプルしか採れず、それを繋ぎ合わせていっても、サンプル両端の部分では年縞が潰れてしまったからである。ライバルの他国関係者から指摘された。その問題を解決するため、ボーリングをする地点のすぐ近くで、採取する長さをずらせて二つ目のボーリングを行い、二つのサンプルを比べ合わせて欠けた部分を補うという手法をとった。すると、見事に連続する7万年分のサンプルを採ることができたという。


福井県年縞博物館


福井県年縞博物館


 これは、博物館2階の45メートルの展示となっている。この展示を作るに当たっては、水分を抜いてスライスする特殊な技術が必要で、ドイツの技術者に依頼したようである。さて、そういうことで、45メートルに及ぶ水月湖年縞のステンドグラスの実物を細かに見ていった。実物は黄色と黒色の縞が延々繋がっている。その中で、手書きで、姶良カルデラの噴火、ベスビオ火山の噴火、湖の土砂崩れなどと書いてある。特に、火山の噴火は世界的な出来事なので、これを他国の年縞と比較すれば、ますます正確な年代測定ができる。

福井県年縞博物館


福井県年縞博物館


 さて、その水月湖年縞の裏側にも色々と展示があるが、中でも素晴らしいと思ったものがある。それは、年代を示す手元のスケールを動かすと、その時の水月湖周辺の環境が画面に出てくるコーナーである。水月湖年縞の中の花粉を分析し、温暖化の時代や寒冷化の時代にはそれぞれ内容が異なることがわかった。その一方、日本各地の土壌を集めてその中の花粉を分析し、それと水月湖年縞の中の花粉と照らし合わせて、当時の森林環境を再現してこれらの画像となったそうだ。これらの研究者の皆さんの地道なご努力に、心から敬意を表したい。なお、HPに書いてある年表を次に引用させていただこう。

1962年 三方湖の近くで縄文時代の遺跡、鳥浜貝塚を発見
1991年 鳥浜貝塚の研究の一環として行った水月湖でのボーリング調査で「年縞」を発見
1993年 国際日本文化研究センター安田喜憲教授(当時)が本格的なボーリング調査を実施、水月湖の年縞が45m連続していることを発見
1994年 国際日本文化研究センター北川浩之助手(当時)が年縞の枚数を数え、葉の化石の放射性物質(炭素14)を測定する研究を開始
1998年 北川浩之助手(当時)の研究データが、アメリカの科学誌「サイエンス」に掲載されるが、「世界標準のものさし」としての採用は見送り
2006年 ニューカッスル大学(英国)の中川毅教授(当時)を中心とした国際チームが再度ボーリング調査を実施、「完全に連続」した年縞の採取に成功
2012年7月 パリで開催された「第21回国際放射性炭素会議」において、水月湖のデータを中心に作成された「IntCal(イントカル)」が年代の「世界標準のものさし」として採用
2012年9月 水月湖の新しいデータを報告した論文が、アメリカの科学誌「サイエンス」に掲載
2013年9月 水月湖のデータを中心に作成された「IntCal(イントカル)」が年代の「世界の標準ものさし」として運用開始


福井若狭縄文博物館


 福井県年縞博物館と同じ敷地に、福井若狭縄文博物館という建物があって、そこにも入ってみた。年縞と違って、特に目新しい展示はなかったが、この三方五湖からは、縄文時代の丸木舟や漆器が出土したそうだ。

 そういうことで、日本海側の二泊三日の旅が終わった。昨年東尋坊に行ったときには海は時化ていて船酔いしそうになったが、今回は天の橋立、舞鶴、蘇洞門と3回も船に乗ったものの、いずれも海はベタ凪で良かった。鯖街道資料館がいつの間にか消えていたという残念なことがあったものの、その後の年縞博物館の素晴らしさが帳消しにしてくれた。総じて、誠に実り多い旅だったといえる。







 天橋立・舞鶴・蘇洞門への旅(写 真)




(2019年5月26日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:20 | - | - | - |
蔵王・山寺・酒田への旅

御釜


1.蔵王の御釜

 山形県と宮城県にまたがる蔵王連峰は、冬は樹氷、夏は火口湖の御釜で有名なので、一度は行ってみたいと思っていた。5月になってたまたま山形県に行く用があったので、ではこの際だからと出掛けることにした。当初の予定では日曜日に行くつもりだった。ところが、その日は蔵王ロープウェイが設備点検で休止中、山交バスも蔵王トレイルランのイベントのために運休と聞いて、急遽前日の土曜日に変えた。

 当日の天候は晴れで、絶好の登山日和だった。山形駅前を出発したバスは、雪がまだ残る山道を順調に登り、午前11時過ぎには山頂の県営レストハウスに到着した。バスの乗客の半数弱は中国人である。観光すべきところを実によく、知っているのには感心する。バスを降りてみると風が強い。しかもそれが冷たい風なので、かなり冷える。気温はおそらく10度くらいだろうが、この風のために体感温度は低くなり、特に頬と手先がかじかんできた。その中を数分歩くと、御釜を展望する場所に着く。本当に近くて呆気ないくらいだ。蔵王ロープウェイに乗ると40分歩かないといけないので、そのつもりでトレッキングシューズを履いてきたというのに、これでは運動にならない。

 眼前に広がる御釜の色は、まさにエメラルドグリーンそのもの。思わず「これは綺麗だ!」と口にしたくなる。周囲の火口壁が赤茶けたり黄色っぽかったりする土色なので、御釜のグリーン色がますます引き立つ。それにしても、「御釜」などという即物的な名前を付けるのではなくて、もっ詩情あふれる名称にすれば良かったのにと残念至極に思う。別名は「五色沼」だそうだが、まだそちらの方が詩や歌の題材になるかもしれない。


御釜


御釜に向かって左回りにガレ場を歩く


 さて、同じところから写真を撮るのも芸がないので、御釜の周りを巡ることにした。柵があるので、それより出ないようにした。最初は向かって左回りにガレ場を歩いていった。遠くに見える高山特有の荒々しい風景に息をのむ思いだ。その中で、自家用車で上がってきたのか、家族連れが一列に並んで雪が積もる遠くの山を仲良く眺めている。その情景が、何かミスマッチのような気がして、可笑しかった。ところで、至る所に雪解け水が流れているし、足元は泥だらけになってくるしで、歩くのもなかなか大変だ。それでも数百メートルほど行ってみて、御釜を真下に見下ろす写真を撮ってきた。帰ろうとしたが、あまりにも足場が悪いものだから、途中で元きた道を引き返すのは止めて、垂直に階段を登っていって、レストハウスに戻った。

御釜の反対側の眺め


山頂2階のレストラン


 こんな山頂なのに、2階建ての建物の中にちゃんとしたレストランがある。そこに立ち寄ってメニューを見ると「蔵王御膳」なるものは、まるで旅館で出る食事のように豪華だ。こんなものを食べてしまうと、今晩の旅館の夕食が美味しくいただけない。ということで、シンプルなビーフカレーにした。外の山々が連なる景色を見ながら黙々と食べて、食堂の配膳のおじさんに「ご馳走さま」と声をかけて出てきたのが30分後である。

刈田岳山頂からの眺め


刈田岳山頂からの眺め


刈田嶺神社


 再び御釜が見えるところに行き、右手に向かい、午前中には行かなかった神社の建物を目指して上がっていった。そこを登り切ったところが刈田岳山頂で、刈田嶺神社がある。 刈田岳(かつただけ)は、1,758メートルの山だ。何だ、大したことのない山だと思われるかもしれないが、関東や中部地方に比べれば高緯度にあるので、実感としては、中部地方だったら、2,300メートル程度の山に相当するのではないかと思っている。山形は、桜やツツジが咲くのは東京より1ヶ月弱ほど遅いので、そんなところではないだろうか。

霧に包まれる御釜


 刈田岳山頂から見下ろす御釜は、よく観光絵葉書に出てくるあの構図である。ここからなら、確かに御釜の美しさを余すところなく撮ることができる。そこでしばらく写真を撮り、背後にある刈田嶺神社にお参りし、また振り返ると、白い霧が御釜を覆いつつある。そして、あれよあれよという間に、辺りを真っ白なミルク色にしてしまった。もう御釜は見えない。山の天気は変わりやすいとはいえ、これは極端だ。このままでは、山全体が霧に包まれてしまったりすると大事だ。ちょうどその頃に下山するバスに乗り込むことができた。

 ところでレストランにあった説明では、蔵王の由来について「修験の開祖である役行者の叔父・願行は、自身も徳の高い修験者であり、道場にふさわしい山を求めて旅していたが、この地にそびえる雄大な山々を目の当たりにするに及び、ついにこの地を道場とすることを決意さ、山頂に吉野金峯山蔵王堂の祭神である蔵王大権現を分祀した。そして、この山の麓に僧坊を構えて、修行三昧の日々を過した、やがて、多くの修験者が集う一大道場へと発展し、願行の死後、その僧坊の跡地に願行寺と号する大寺院が建立された。願行寺を中心に多くの寺院・僧坊が築かれ、『願行寺四十八坊』と称されるまでになった。願行寺の修験者たちが道場とした山は、願行が蔵王大権現を祀ったことから『蔵王山』と呼ばれるようになったと言われています。」(蔵王町歴史と文化財公式HPより)とあり、

 御釜については、「蔵王刈田岳・熊野岳・五色岳の3峰に抱かれた円形の火口湖で、釜状なので『御釜』という名前がついています。湖面はエメラルドグリーンの水をたたえ、荒々しい火口壁と対比して神秘的な雰囲気をもち、冬の樹氷とともに蔵王の象徴となっています。今までに26回の噴火を繰り返し、最近では明治28年2月15日に噴火しました。昭和14年測深した当時は、深さが63メートルありましたが、 五色岳断崖の崩落により年々埋まり、昭和43年測深時では、最大深度27.6メートル、平均深度17.8メートル、周囲1,080メートル、東西径325メートル、南北径335メートルでした。湖水は強酸性のため生物は生息できません。水温は表面から10数メートルの深度で摂氏2度まで下がり、それより深度を増すと温度が高くなる特殊双温層で、世界でも例がない湖です。太陽光線の当たり方でさまざまに色を変えるため『五色沼』とも呼ばれています。南西から流れ出て濁り川となり、賽の磧の北側を迂回して太平洋へ流れ出ています。」(蔵王町歴史と文化財公式HPより)とある。


2.山寺(立石寺)



山寺駅


山寺駅


 山形県に行ったついでに、宝珠山立石寺、通称、「山寺」に行けるかどうか調べたところ、山形駅から仙山線で3つ目の山寺駅に行けばよいことがわかった。20分もかからないので、行ってみることにした。午前10時過ぎに山寺駅に着いた。赤い欄干に金色擬宝珠のある橋を渡った正面には、唐破風屋根を備えた古い建物がある。旅館だそうだ。そこを右手に曲がってすぐに、「登山道」とある。ああ、これだ。これから千段もの階段を登らなければならない。

赤い欄干に金色擬宝珠のある橋


山寺駅前旅館


 立石寺(りっしゃくじ)のHPによると、「当山は宝珠山立石寺といい通称『山寺』と呼ばれています。天台宗に属し、創建は貞観二年(860年)。天台座主第3世慈覚大師円仁によって建立されました。当時、この地を訪れた慈覚大師は土地の主より砂金千両・麻布三千反をもって周囲十里四方を買い上げ寺領とし、堂塔三百余をもってこの地の布教に勤められました。開山の際には本山延暦寺より伝教大師が灯された不滅の法灯を分けられ、また開祖慈覚大師の霊位に捧げるために香を絶やさず、大師が当山に伝えた四年を一区切りとした不断の写経行を護る寺院となりました。」とある。「砂金千両・麻布三千反」という表現が、なんとも生々しいが、よくそれほどの資金があったものだ。それだけ寄進してくれる人々がいたのだろう。

山寺登り口


芭蕉と手水盤


山寺入口


 立石寺は、言うまでもなく松尾芭蕉が「閑さや岩にしみ入る蝉の声」という有名な句を詠んだ舞台である。麓の根本中堂の脇に芭蕉の句碑がある。そこから日枝神社の脇を通って山門(鎌倉時代作)からいよいよ階段が続く。登山開始だ。両脇には、日光のような大きな杉の木々が並び、暑い日光が遮られてなかなか涼しい。森林浴のような気分で快調に登っていく。立石寺のHPにあった模式図の通り、笠岩、姥堂、慈覚大師お手掛け岩と登っていくうち、いささか疲れてきた。すると、せみ塚というものがあって、うまいことに休める台がある。ここは、芭蕉の句をしたためた短冊が納めてあるという。リュックの中の水を飲む。周りには、白人や中国人などが日本人よりも多く、各国語が飛び交う。開祖の慈覚大師が1100年後にはこうなっていると知ったら、驚くだろう。

登り道


登る途中の不動明王


せみ塚


せみ塚


弥陀洞


 さて、登山を再開だ。しばらく登ると、右手に弥陀洞がある。かつては、ここでかなりの宗教行事が行われたようだ。更に進むと、大きな建物が見えてきた。これが仁王門だ。嘉永元年(1848年)に再建された美しい門で、左右の仁王尊像は運慶の弟子達の作らしい。その辺りから登るにつれて建物があり、性相院、金乗院の次に最上義光御霊屋というものまであった。義光は、山形地方の人々に今なお尊敬されている英雄だ。中性院、納骨堂、三重塔とあって、ようやく奥の院までたどり着いた。

仁王門


仁王門の仁王尊像


性相院


納経堂(最も古い建物)


 開山堂・納経堂まではすぐで、これらは「立石寺を開いた慈覚大師円仁を祀るお堂で、大師の木造の尊像が安置されて居り朝夕食飯と香を供えている。 向かって左の岩の上の赤い小さな堂は写経を納める納経堂で山内一古い建物である。」とのこと。その脇に小道があり、五大堂につながる。これは「開山30年後に建立された五大明王を祀る道場。断崖に突き出すようお堂が立ち山寺を一望。山中随一の絶景。」とされる。まさに絶景で、いま登ってきた疲れが一気に吹き飛ぶほどの爽快感が味わえる。今は新緑の季節なので、青葉がしたたるほどの美しさだが、秋の紅葉の時季も、さぞかし綺麗だろう。

五大堂


五大堂からの眺望(左手)


五大堂からの眺望(中央)


五大堂からの眺望(右手)


金灯籠


(奥の院)大仏殿


 その絶景を眺めることができたので、さっさと降ることにした。登りには1時間ほどかかったが、降りは写真を撮ることもなかったので30分ほどで出発地点の山寺駅まで帰り着いた。お昼前だったが、蕎麦屋に入り、山形名物の板そばと芋煮を注文した。そばはいま一つだったが、当地の名物の芋煮が美味しかった。


3.文翔館


文翔館


 山形市内に戻ってきて、帰りの新幹線まで時間があったので、文翔館に行った。県のHPによると、「『文翔館』(旧県庁舎及び県会議事堂)は、大正5年に建てられた英国近世復興様式のレンガ造りの建物です。大正初期の洋風建築を代表する貴重な遺構として、昭和59年、国の重要文化財に指定されました。昭和61年から10年の歳月をかけて保存修復工事が行われ、現在は、山形県郷土館『文翔館』として一般に無料公開されています。創建当時の工法をもとに忠実に復原された建物や豪華な内装は、大正の古き良き時代の薫りを今に伝え、館内には、復原の記録とともに山形の歴史・文化を紹介する展示室も設けられています。」とのこと。

文翔館


文翔館


文翔館


 私は家内と平成20年にここ文翔館へ来たことがある。その時、外観はイギリス・ルネサンス様式のモダンな形だし、知事室や客間はロココ風でものすごく豪華なのにびっくりしたものだが、なるほど、当時の明治政府の為政者はこういう新たな舞台装置で時代が変わったと県民を納得させて行政を進めていったのかと思ったものである。

文翔館


文翔館の展示・赤紙


文翔館の展示・慰問袋


文翔館の展示・満蒙開拓ポスター


文翔館の展示・三島通庸


 ところが、前回と比べて、山形の歴史・文化を紹介する展示室が一新されたようで、非常に見やすくなっていた。明治政府の政策、大正時代の繁栄、昭和初期の贅沢禁止、戦争中の赤紙や慰問袋の現物、終戦後の復興などの様子がよくわかる。東京などは戦争末期に一面の焼け野原になってしまって何も残っていないが、戦争による物的被害が最小限に抑えられた山形だから、残っているのだろう。

山形駅脇のホテルからの眺め


山形駅脇のホテルからの眺め


山形駅脇のホテルからの眺め





4.酒 田

(1)酒田とは

 あまり時間がなかったが、酒田にも少し立ち寄ったので、その印象を記しておきたい。まず、酒田の位置を語る前に、山形県の地理を見てみよう。山形県が長四角だとすると、縦に二分し、右側がその北から南へと最上地方(新庄市、最上郡)、村山地方(山形市、村山市、天童市、寒河江市等)、置賜(おきたま)地方(米沢市、南陽市等)である。これに対し、左側は少し小さくて北に偏っているが、全体が庄内地方で、日本海に面している。その南の中心が鶴岡藩の根拠地だった鶴岡市で、北にある港町がかつての豪商の町酒田である

 酒田は最上川の河口に位置し、16世紀に源頼朝によって滅ぼされた奥州藤原氏の家臣36人が藤原氏の姫君を奉じてこの地に移り住んだのが始まりとされる。中世から貿易の中継地だったが、江戸時代には北前船で栄え、西の堺に対して東は酒田と称されるほどだったといわれる。廻船問屋の鐙屋(あぶみや)をはじめ、貿易で稼いだ資金で土地を買い集めて日本一の地主となった本間家など、数々の豪商をうみ、堺のように町は三十六人衆という自治組織によって運営されていた。ちなみに、鐙屋と本間家は、現存している。「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と言われたそうだから、お殿様よりも上とは、もう笑うほかない。


(2)相馬樓



相馬樓


相馬樓


相馬樓


 相馬樓は、そのHPによると、「江戸時代より料亭『相馬屋』として賑わっていました。現在残る木造の主屋は、明治27年の庄内大震災の大火で焼失した直後、残った土蔵を取り囲んで建てられたもので、平成8年11月、国の登録文化財建造物に指定されました。伝統に新しい息吹を加えて修復した相馬樓は、1階の20畳部屋を『茶房くつろぎ処』とし、2階の大広間は舞娘さんの踊りとお食事を楽しむ演舞場に、かつての厨房は相馬樓酒田舞娘のけいこ場となっています。2008年には館内に『竹久夢二美術館』を設置しました。酒田にゆかりのある夢二が相馬屋を訪れた際に贈ったという『からふねや』をはじめ肉筆画10点を中心に版画や写真、カメラや年譜など夢二の品を展示しています。また樓内の土蔵には雛人形や樓主・新田嘉一所有の書画や古美術等を展示しています。」という。

相馬樓


相馬樓


相馬樓


 確かに、これは豪華な料亭である。玄関に入ると、金箔の松竹梅と扇が迎えてくれる。くつろぎ処という部屋では、中庭を眺められるようになっている。そこに大きな一木のテーブルがあり、座布団が扇形をしているから可愛い。壁は緋色だ。この壁の風景、とこかで見たことがあると思ったら、金沢のひがし茶屋街だ。すると、この改装を手掛けたのが泉椿魚氏で、金沢の懐華樓も手掛けたことがあるというので、納得した。その前は、普通の色の壁だったらしい。

 2階に上がっていくと、商人どうしの密談にも使われたのではないかと思える小部屋もあったりして、ますます面白い。また、泉椿魚さんの詩が描かれている襖があって、それが誠に魅力的なのである。曰く、


相馬樓


相馬樓


 あなたは雨ですか 風ですか それとも雪ですか

 雨ならば雨の如く 風ならば風の如く 雪ならば雪の如く

 人生 素直に 朗らかに 自然のままに 生きられれば

 それが一番 倖せなのかも しれませんね

           戯遊詩画人  椿魚




相馬樓


相馬樓


 2階の大広間は、敷いてある畳が赤っぽいと思ったら、最上地方の特産の紅花で染め上げているという。そこで、5人いる酒田舞妓さんが地元の踊りを踊ってくれるそうだ。その他、蔵座敷、竹久夢二美術館があった。なお、NHKの大河ドラマ「おしん」の舞台として、鐙屋、山居倉庫とともに、この相馬樓もロケに使われたとのこと。

 私は法律を専門としているので、昔、酒田で相馬屋事件という椿事があったと聞いたことがある。その舞台が、まさにこの相馬樓2階の大広間だったので、思い出しておかしかった。ちなみにこの事件は、県会議員大泉長治郎と骨董屋丸山卯吉が幹事となり、酒田の豪商10数名が新年会を宮廷風にやろうとして、京都から衣装や小物を取り寄せ、明治26年1月28日に秘密裏に開いたことがきっかけだった。天皇役には大泉長治郎、皇后役には相馬樓の娘という役どころだったのだが、どこから漏れたのか新聞にすっば抜かれた。すると、不敬罪で全員が警察に逮捕拘留されてしまった。酒田の名士が全て捕まったために町をあげての大騒ぎとなった。そこで、東京から凄腕の弁護士を招き、「あれはひな祭りの余興だった」ということにして、無事に釈放にこぎ着けたというものである。


相馬樓


 かくして、それほど有名な相馬屋ではあったが、時代の流れもあって、平成7年に廃業してしまった。そこに救いの手を差し伸べたのが地元の有力企業である平田牧場の新田社長で、平成12年3月に現在の形で再開したという。おかげで、我々も重要文化財を拝見できるというわけだ。ちなみに、お昼頃に来ると、仕出しのお弁当をいただきながら酒田舞妓さんの踊りが観られるそうだ。


(3)日和山公園と鳥海山

 酒田在住の友人に酒田市内を車で案内してもらった。まず、高台の日和山公園から、六角灯台越しには酒田港や最上川河口を一望できた。奥の細道をたどる松尾芭蕉が元禄2年にこの地を訪れたそうで、その銅像が建てられている。「五月雨を集めて早し最上川」と詠んだ最上川はこれかと納得した。なるほど、川幅が実に広い。これならば、梅雨時には濁流が勢いよく流れるに違いない。


六角灯台


松尾芭蕉の銅像


 ちなみに、山形県の中央にあって出羽山脈の南部に位置する月山(がっさん)は、標高1,974メートルの山である。飛行機の上から見たら、もう5月中旬だというのにたくさんの積雪があり、まだスキーを楽しめるそうだ。庄内平野の南部では、この山がいわばシンボルだと聞いている。それに対して、庄内平野の北に位置する酒田では、むしろ秋田との県境にある鳥海山(ちょうかいさん)の方に、親しみを感じている人が多いという。こちらは、標高2,236メートルである。酒田市内を走っていると、確かに、町の至るところから鳥海山を眺めることができる。


(4)山居倉庫



山居倉庫


山居倉庫


 川岸の山居(さんきょ)倉庫に行った。いただいたパンフレットによると、「明治26年(1893年)に建造された米の保管倉庫で、現在も農業倉庫として活躍しています。土蔵作りの12棟からなる倉庫の屋根は断熱を考慮した二重構造で内部の土間にはにがりを練り固めるなどした湿気防止構造になっています。背後を囲むケヤキ並木は日よけ・風よけの役目を果たし、自然を利用した低温管理が行われているなどの工夫を随所に見ることができます。」となっていて、現存する12の棟のうち、1号棟は庄内米歴史資料館、12・13号棟は観光物産館になっているほかは、現役の倉庫として活用されているそうだ。周りを歩いたが、もう150歳を超えるケヤキ並木が、十分に歴史を感じさせる。


(5)南州神社

 友人が南州神社というところに連れて行ってくれた。南州といえば鹿児島の西郷隆盛なのに、なぜ酒田にあるのだろうという疑問が当然浮かぶ。これについては、酒田市のHPによると「南洲神社は、南洲翁(西郷隆盛)を祀る神社です。鹿児島市、沖永良部島和泊町、宮崎県都城市、そして山形県酒田市です。九州以外では、酒田市にしかありません。なぜ遠く離れた酒田市へ南洲神社があるのか・・・。そこには、南洲翁と庄内藩の交わり、そして先達たちの『後世に南洲翁の遺徳を伝えよう』という思いがありました。」・・・いや、まださっぱりわからない。続いて書いてあるのが


南州神社


南州神社


 「明治元年の戊辰戦争で、庄内藩は幕府側として官軍に激しく抵抗した末、帰順降伏しました。厳しい処分を覚悟してた庄内藩でしたが、南洲翁の指示により、公明正大で極めて寛大な降伏条件の言い渡しを受けたのでした。この公明正大な処分に感銘を受けたことから、明治3年から8年にかけ、庄内藩は藩主酒井忠篤公を先頭に鹿児島を訪れ、南洲翁の学びを得ました。また、明治8年には旧庄内藩の中老、臥牛翁(菅実秀)が、鹿児島の武屋敷を訪れ、南洲翁とお互いに親睦を深め、『徳の交わり』を誓い合っています。」ということだが、要は、庄内の人々は、極めて義理に篤いということなのだろう。


(6)土門拳記念館

 また、写真家の土門拳もこの酒田の出身らしくて、土門拳記念館というものがあった。酒田市名誉市民の第1号で、その全作品7万点を寄贈したそうだ。池のほとりにその記念館が建っている。なかなかの良い佇まいの建物であるが、残念ながら閉館が早くて、見学はできなかった。


土門拳記念館









 蔵王・山寺・酒田への旅( 写 真 )




(令和元年5月19日著)


カテゴリ:エッセイ | 23:52 | - | - | - |
バツー洞窟

ムルガン神像


 ヒンズー教とはどういう宗教かと、その雰囲気を味わうには、本場のインド以外では、クアラルンプールのバツー洞窟(バツー・ケーブ)に行くとよい。市内中心にある交通の要衝のKLセントラル駅から、北に向かうKTMコミューターという電車で乗り換えなしで30分で行くことができる。私は、約30年前にこの地に住んでいたとき、ここに何回も来たことがあるけれども、その時は車で行くしかなかった。ところが今は、それに比べたらはるかに便利になったものだ。バツー・ケイブ駅で降りて構内を出るとすぐ左手に、薄緑色のハヌマン神像(力と勇気の神)が迎えてくれる。その脇にはラーマーヤナ洞窟があるが、時間が惜しいし、昔とさほど変わりがない思うので、通りすぎてバツー洞窟の入り口に向かった。

ハヌマン神像(力と勇気の神)


ムルガン神像の上部


 入り口でまず目立つのは、右手前に聳えている威風堂々の黄金色の神像である。タミル系ヒンズー教のムルガン神像で、高さは43mというが、余りにも背が高いので、びっくりするほどだ。これは何かと現地のインド人に聞いたところ、シヴァ神の息子ムルガンだという。昔々のそのまた昔、悪魔と正義の戦いがあり、正義軍が敗北の寸前まで追い詰められた。その時、天界のシヴァ神が送ったのが戦士スカンダで、何を隠そう、自らの息子ムルガンだった。その活躍で、正義軍がついに勝利を収めた。その時に負けた悪魔は、シヴァ神によって孔雀にその姿を変えられた。だから、孔雀も神聖な存在だ・・・ということを熱弁していた。

孔雀も神聖な存在


 ところで、年に一度のタイプーサムというヒンズー教のお祭りがある。何回か見たことがあるが、夜にその行列に出会うと、ピカピカに光り輝いているお神輿を中心に大勢のインド人がカネや太鼓で賑やかに練り歩いていて、驚いてしまう。もっとびっくりするのは、それを担ぐ信者たちが、鋭い串(カバディ)やフックを顔や身体に刺したり引っ掛けたりしていることである。これは、そういう障害を克服して、正義の存在であるムルガンに捧げるのだそうだ。その祈りの対象を具現化したものが、このバツー洞窟にあるムルガン神像なのである。鉄の串を舌や皮膚に刺して痛くないのかと思うが、現地のインド人は真顔で、「神様のご利益があらたかなので、そんなもの翌日にはもう傷痕は消える。」と言っていたのを思い出す。科学的に言えば、鍼のようなものかとは思うが、いやしかしカバディの刺し跡からは確か血が出ていたはずだ。まあ、宗教上の「荒行」の一種なのだろう。日本でも山伏が裸足で火渡りの行を行うし、イスラムのシーア派の男達はアーシューラーの行事で自らの体を鎖で打って血を流すから、同じようなものかもしれない。 。

バツー洞窟名物のカラフルな272段の階段


 そういうことを考えつつもう一度ムルガン神像を見上げると、黄金色に輝いていることもあり、あまりにも神々しくて、その脇にあるバツー洞窟名物の272段の階段が霞んで見えるくらいだ。ところでその階段だが、やけにカラフルになっている。昔ここに来たときは、この神像も色付き階段もなく、両脇に石灰岩が剥き出しのさっぱりした古びた階段だったが、変われば変わるものだ。それにしても、こんなイスラム国家で、これほどまでに目立つ偶像を作って問題にされないのだろうかと思う。ただ、現地の人に宗教上の微妙なニュアンスに関わることを下手に質問すると、どんなリアクションを受けるかわからないので、危うきに近寄らずという主義で聞かないことにしている。だからその答えはよくわからないが、要は、宗教的に寛容になりつつあるのかなと思う。

野猿


野猿


 さて、いよいよバツー・ケーブ名物の272段の階段を上がっていく。手すりが両端と真ん中に2つあるので、階段が3つに分かれている。三分の一ほど上がって市内の方を振り向くと、少し白っぽくぼやけて見える。もしかしてHazeによる大気汚染の影響かもしれない。それにしても、左手にあるムルガン神像の後ろ姿が目立つ。更に登って行くと、野猿が手すりの上を自由自在に走り回り、時には観光客が手にぶら下げているプラスチック袋やペットボトルを引ったくろうとする傍若無人ぶりだ。その一方では小さな子猿がいたかと思うと、そのお母さん猿もいて、見ていて飽きない。おっと、まだ半分くらいだ。この暑い中をもっと登らなければならない。更に階段を上って三分の二のところに来た。ムルガン神像の顔くらいの高さだ。もうちょっと頑張ってやっと272段を登りきった。そこで目の前に見たのは、大きな洞窟でできた広場である。

バツー洞窟の272段の階段を登り切ったところにある大きな洞窟でできた広場


踊るシヴァ神の像


 広場の高さは数十mはあるだろう。周囲に太い鍾乳石の氷柱状のようなものがあったので、こんな太いものができるまでに何億年もかかったのは、間違いないだろう。そこを更に進むと、右手には、踊るシヴァ神の像がある。左手には神聖なものとされる孔雀が羽を広げた像で区切られた一角があり、ここは神聖な場所とのこと。入ろうと思えば入れるが、靴を脱がなければならない。この国のことだから、いったん靴を脱いでしまうと、戻ってきたときにその場からなくなったりしていると一大事だ。笑い話のようだが、あり得る。そういう訳で、入る気がしなかった。日本と違って、外国ではあらゆる事態に備える必要がある。

バツー洞窟の広場の奥にある最後の神聖な場所


 突き当たりに、更に数十段の階段があって、また階段かと思いながら上って行くと、そこがやっと最後の神聖な場所である。鍾乳洞の天井が空に向けて開いていて、日の光が差し込んでいる。昔は、この光が斜めに差し込んでいたりして、非常に神々しく思えたものだが、今はあちこちに照明があるので明るく、残念ながら以前のような神秘さが消えてしまった。その代わり、洞窟のあちこちに極彩色の神像が置かれている。インド人の男性、サリーを着た女性というのは、まあ馴染みがあるので、普通に見られる。ところが、ヒンズー教の象の姿をしたガネーシャ神だけは、何回見ても、見慣れない。そのお話も、これまた独特だ。

ガネーシャ神


 このガネーシャ神は、商業と学問の神様である。象の頭をしている所以だが、私が以前、インド人から聞いたところによると、次のようなものである。偉大なシヴァ神の妻パールヴァティーは、子供ガネーシャを生み出した。ガネーシャが父親シヴァ神が帰って来たときに、父親とは知らずに入室を拒んだことから、怒ったシヴァ神はその頭を切り落として遠くへ投げ捨てた。ところが、我が子と知ったシヴァ神は、ガネーシャの頭を探したが見つからなかったので、代わりに象の頭を切り落としてガネーシャの胴体に付けたことから、今のようなお姿になったという。何ともインドらしいお話だが、例によってコメントはしないでおこう。そうした大変な出来事をくぐり抜けて来た神様だから、あらゆる障害を克服する霊験あらたかな神として信仰されるようになったそうだ。

馴染みがないヒンズー教の神


 いずれにせよ、我々日本人にとって、ヒンズー教はあまり馴染みがない。仏教を生み出した国なのに、仏教は廃れて、ヒンズー教一色になってしまった。そのヒンズー教も、今の形になるまでは、各地の土着の宗教を取り込んできたという。特にタミル系インド人の人達は、こういう神を信じているのかということを思うだけでも、国際理解に少しは役立つかもしれないと思うのである。話は変わるが、インド人といえばターバン姿を思う日本人が多いけれども、あれはシーク教徒の人達で、その割合はインド人全体の僅か2%にも満たない。その話は、別のエッセイで書いたので、ここでは割愛しよう。

 さて、見学が終わり、無事に272段を降りてきた。もと来た道を辿って、バツー・ケーブ駅に着いた。午前11時18分のことである。「さて、クアラルンプール方面に戻るか。次の電車は何時だろう。」と思って、表示を見て、我が目を疑った。それには、「12時15分」とあったからである。こんな猛暑のプラットホームで、1時間も待たなければならない。これは大変だと思っていたら、しばらくして電車が入って来たので、とにかく乗り込んだ。あんな暑いプラットホームにいるのは、もうたくさんだ。乗り込んでみると、エアコンが効いている。これは助かった。階段を登ったり降りたリしたので、大汗をかいている。それがちょうど良いくらいに引いた頃に、電車が発車してくれた。







 バツー洞窟(写 真)




(2019年5月 5日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:17 | - | - | - |
退位と即位後朝見の儀

首相官邸広報写真より



1.退位礼正殿の儀

首相官邸広報ビデオより


 天皇陛下(現上皇陛下)御在位30年記念式典が、平成31年2月24日に挙行された。それに続き、いよいよ同年4月30日、天皇陛下が退位されて上皇陛下となられ、翌令和元年5月1日新天皇陛下が即位されて、時代は平成から令和へと大きく移り変わった。この退位は、皇室典範特例法に基づいて行われたもので、その理由として、「象徴としての公的な御活動に精励してこられた中、御高齢になられ、今後これらの御活動を天皇として自ら続けられることが困難となることを深く案じておられること、これに対し、国民は、御高齢に至るまでこれらの御活動に精励されている天皇陛下を深く敬愛し、この天皇陛下のお気持ちを理解し、これに共感していること」などが規定されている(同法第1条)。

首相官邸広報ビデオより


首相官邸広報ビデオより


 確かに、天皇皇后両陛下(現上皇上皇后陛下)は、外国賓客などの接遇その他の多忙な日常の公務に忙殺されつつも、大規模な自然災害が続いた平成年間でそうした災害が起こる度に現地入りして被災者に寄り添って励まされたりするなど、80歳を超えるご高齢の御身を削るようにして公務に精励されるお姿をテレビなどで拝見する機会が多かった。そうした場面を見るたびに、国民の一人として有り難いことだと思いつつも、前立腺がんや心臓病をお持ちなのでお身体は大丈夫なのだろうかと心配になっていたのであるから、そういう意味では、胸をなで下ろしたというのが正直な気持ちである。

首相官邸広報ビデオより


 この退位は、同年4月30日午後5時からの「退位礼正殿の儀」によって行われた。両陛下が宮殿内で最も格式の高い「松の間」に入られ、我々参列者の前にすっくと立たれた。すると侍従が皇位の御印である剣や爾などの三種の神器を捧げ持って両陛下の前の白木の台(案)に載せた。それを待って、国民の代表として安倍晋三首相が次の挨拶を行った。

首相官邸広報ビデオより


「 謹んで申し上げます。
 天皇陛下におかれましては、皇室典範特例法の定めるところにより、本日をもちまして御退位されます。
 平成の30年、『内平らかに外成る』との思いの下、私たちは天皇陛下と共に歩みを進めてまいりました。この間、天皇陛下は、国の安寧と国民の幸せを願われ、一つ一つの御公務を、心を込めてお務めになり、日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たしてこられました。
 我が国は、平和と繁栄を享受する一方で、相次ぐ大きな自然災害など、幾多の困難にも直面しました。そのような時、天皇陛下は、皇后陛下と御一緒に、国民に寄り添い、被災者の身近で励まされ、国民に明日への勇気と希望を与えてくださいました。
 本日ここに御退位の日を迎え、これまでの年月を顧み、いかなる時も国民と苦楽を共にされた天皇陛下の御心に思いを致し、深い敬愛と感謝の念をいま一度新たにする次第であります。
 私たちは、これまでの天皇陛下の歩みを胸に刻みながら、平和で、希望に満ちあふれ、誇りある日本の輝かしい未来を創り上げていくため、更に最善の努力を尽くしてまいります。
 天皇皇后両陛下には、末永くお健やかであらせられますことを願ってやみません。
 ここに、天皇皇后両陛下に心からの感謝を申し上げ、皇室の一層の御繁栄をお祈り申し上げます。」


首相官邸広報ビデオより


 その後、天皇陛下が、次のお言葉を述べられた。

「 今日をもち、天皇としての務めを終えることになりました。
 ただ今、国民を代表して、安倍内閣総理大臣の述べられた言葉に、深く謝意を表します。
 即位から30年、これまでの天皇としての務めを、国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たことは、幸せなことでした。象徴としての私を受け入れ、支えてくれた国民に、心から感謝します。
 明日から始まる新しい令和の時代が、平和で実り多くあることを、皇后と共に心から願い、ここに我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります。」


首相官邸広報ビデオより


 簡潔なお言葉ではあったが、これを聞いた参列者の中には、男女を問わず眼に涙を浮かべている人もいて、実に感動的な瞬間であった。いかに平成天皇陛下が国民に慕われていたかを示すエピソードである。

首相官邸広報ビデオより


 そのお言葉が終わり、天皇陛下は皇后陛下とともに静かに退出され、三種の神器を捧げ持つ侍従が続いた。それから皇太子殿下及び同妃殿下(当時)などが続いて退出され、儀式は滞りなく10分ほどで終わった。


2.剣璽等承継の儀


剣璽等承継の儀。首相官邸広報ビデオより


 「剣璽等承継の儀」は、令和元年5月1日午前10時半から宮殿「松の間」で行われ、国民代表として安倍晋三首相ら三権の長や閣僚など26人が燕尾服姿で参列した。この儀式は伝統的に成年男性皇族だけで行われるということで、天皇陛下のほか、秋篠宮殿下及び常陸宮殿下も両脇に参列された。

剣璽等承継の儀。首相官邸広報ビデオより


剣璽等承継の儀。首相官邸広報ビデオより


剣璽等承継の儀。首相官邸広報ビデオより


 天皇陛下が松の間に入ってこられて壇上にお上がりになり、正面の玉座を背にして参列者と向き合ってお立ちになる。陛下は、天皇が装着する最高の勲章「大勲位菊花章頸飾」を身につけておられ、実にご立派であられる。見とれていると、松の間の扉がまた開いて、三種の神器のうちの剣及び璽、国事行為で使われる御璽及び国璽をそれぞれ捧げ持った4人の侍従が一列になってしずしずと入ってきて、それらを陛下の前の案に置いた。それから、一瞬時間が止まったような感覚がしたかと思うと、暫くして陛下が壇上からゆっくりとお下りになり、剣や璽などを捧げ持った侍従らをあたかも引き連れるようにして松の間を退出され、他の皇族方もこれに続いた。この間、誰も一言も発しなかった。これで、天皇という地位の象徴である三種の神器が無事に受け継がれたようだ。かくしてこの儀式はおよそ7分ほどで終わった。

剣璽等承継の儀。首相官邸広報ビデオより


剣璽等承継の儀。首相官邸広報ビデオより


剣璽等承継の儀。首相官邸広報ビデオより



3.即位後朝見の儀

即位後朝見の儀。首相官邸広報ビデオより


即位後朝見の儀。首相官邸広報ビデオより


 「即位後朝見の儀」は、剣璽等承継の儀に引き続き、やはり宮殿「松の間」において、午前11時10分過ぎ頃から行われた。今回の参列者は原則夫婦同伴で、三権の長、閣僚、地方自治体の代表など292人が参列した。最前列は、さきほどの剣璽等承継の儀に引き続いての出席者だから燕尾服姿で、その他の参列者は原則として男性はモーニングコート、女性の多くは和服の白襟紋付姿である。また、皇后陛下をはじめとする女性皇族は、ティアラを頭に載せられた白いローブ・デコルテ(ロングドレス)姿だったから、非常に華やかな儀式となった

即位後朝見の儀。首相官邸広報ビデオより


 天皇皇后両陛下が秋篠宮殿下ご夫妻ら成年の皇族方とともに松の間に入ってこられた。そして、天皇陛下から次のお言葉があった。

「 日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより,ここに皇位を継承しました。
 この身に負った重責を思うと粛然たる思いがします。
 顧みれば,上皇陛下には御即位より,30年以上の長きにわたり,世界の平和と国民の幸せを願われ,いかなる時も国民と苦楽を共にされながら,その強い御心を御自身のお姿でお示しになりつつ,一つ一つのお務めに真摯に取り組んでこられました。上皇陛下がお示しになった象徴としてのお姿に心からの敬意と感謝を申し上げます。
 ここに,皇位を継承するに当たり,上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いを致し,また,歴代の天皇のなさりようを心にとどめ,自己の研鑽に励むとともに,常に国民を思い,国民に寄り添いながら,憲法にのっとり,日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い,国民の幸せと国の一層の発展,そして世界の平和を切に希望します。」


即位後朝見の儀。首相官邸広報ビデオより


 重責を負われる責任感と緊張感が、ひしひしと伝わってくるようなお言葉である。日本国民統合の象徴として、誠にご立派な天皇陛下を戴いたものだと感激する一方で、どうかお身体を大切にされたいと、心から願うものである。そういうことを考えているうちに、国民代表としての安倍首相が祝いの辞を述べた。

「 謹んで申し上げます。
 天皇陛下におかれましては、本日、皇位を継承されました。国民を挙げて心からお慶び申し上げます。  ここに、英邁なる天皇陛下から、上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いを致し、日本国憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たされるとともに、国民の幸せと国の一層の発展、世界の平和を切に希望するとのおことばを賜りました。
 私たちは、天皇陛下を国及び国民統合の象徴と仰ぎ、激動する国際情勢の中で、平和で、希望に満ちあふれ、誇りある日本の輝かしい未来、人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ時代を、創り上げていく決意であります。
 ここに、令和の御代の平安と、皇室の弥栄をお祈り申し上げます。」


即位後朝見の儀。首相官邸広報ビデオより


 中身が凝縮されていたので長い時間が過ぎたようにも感じたが、計ってみると、この儀式もおよそ7分ほどで終わったそうだ。いずれにせよ、国民の一人として、これらの歴史的瞬間を目の当たりにして、これに勝る名誉はないと感激しているところである。


4.今後の儀式の予定

 今後の即位の関連儀式として様々なものが予定されているが、中でも本年10月22日の「即位礼正殿の儀」が最大の儀式である。これは、平安時代そのものの宮中の伝統装束を身にまとった天皇皇后両陛下が、それぞれ、京都御所から運ばれてきた「高御座(たかみくら)」と「御帳台(みちょうだい)」に登壇され、天皇陛下が即位を宣言する儀式である。国内外から約2500人が招待されるが、特に国外からは各国の元首級や王族らの来訪が予定されている。即位を祝う「饗宴の儀」は、この日から4回に分けて開かれ、合計2600人が招かれることになっているという。





(参 考)天皇の退位等に関する皇室典範特例法

(趣旨)
第一条
 この法律は、天皇陛下が、昭和64年1月7日の御即位以来28年を超える長期にわたり、国事行為のほか、全国各地への御訪問、被災地のお見舞いをはじめとする象徴としての公的な御活動に精励してこられた中、83歳と御高齢になられ、今後これらの御活動を天皇として自ら続けられることが困難となることを深く案じておられること、これに対し、国民は、御高齢に至るまでこれらの御活動に精励されている天皇陛下を深く敬愛し、この天皇陛下のお気持ちを理解し、これに共感していること、さらに、皇嗣である皇太子殿下は、57歳となられ、これまで国事行為の臨時代行等の御公務に長期にわたり精勤されておられることという現下の状況に鑑み、皇室典範(昭和22年法律第三号)第四条の規定の特例として、天皇陛下の退位及び皇嗣の即位を実現するとともに、天皇陛下の退位後の地位その他の退位に伴い必要となる事項を定めるものとする。

(天皇の退位及び皇嗣の即位)
第二条
 天皇は、この法律の施行の日限り、退位し、皇嗣が、直ちに即位する。

(上皇)
第三条
 前条の規定により退位した天皇は、上皇とする。 2 上皇の敬称は、陛下とする。 3 上皇の身分に関する事項の登録、喪儀及ひ゛陵墓については、天皇の例による。 4 上皇に関しては、前二項に規定する事項を除き、皇室典範(第二条、第二十八条第二項及ひ゛第三項並ひに第三十条第二項を除く。)に定める事項については、皇族の例による。

 (上皇后)
第四条
 上皇の后は、上皇后とする。 2 上皇后に関しては、皇室典範に定める事項については、皇太后の例による。

 (皇位継承後の皇嗣)
第五条
 第二条の規定による皇位の継承に伴い皇嗣となった皇族に関しては、皇室典範に定める事項については、皇太子の例による。

 (附則以下略)





(備 考) このエッセイ中の写真は、首相官邸の広報ビデオから複写したものである。




(2019年5月1日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:55 | - | - | - |
三世代で箱根旅行

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1.孫娘はピカピカの一年生

 息子一家と箱根に二泊三日の小旅行に行った。久しぶりに孫娘ちゃんと直系くんに会い、丸二日にわたって一緒に過ごした。二人の成長ぶりには、目を見張るものがあった。

 孫娘ちゃんは、この春に小学校に入学して、ピカピカの一年生となった。バレーと英会話を習い、よく笑う活発な子に育っている。小学校へは5分の道のりである。お母さんが一緒に登校しようとすると、「自分で行きます。」 と、既に自立の気概を見せているとのこと。お母さんは心配でたまらないが、しばらく見守っているしかないようだ。

 また、習っているバレーの発表会が今年も都内で開かれるので、それに向けて一生懸命に練習しているそうだ。2年前に同じバレー・スクールの発表会があったときには、我々夫婦も見に行って、孫娘ちゃんの成長ぶりに目を細めたものだが、また今年も楽しみにしたい。

 先日、パパが送ってくれた写真の中に、孫娘ちゃんが居間の椅子に掴まってバレーの開脚をしているものがあった。それが斜め45度の角度で見事に一直線になっていたので、びっくりした。


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2.直系くん語録


 直系くんは、もうすぐ3歳になる。ずーっと話すことができなかったが、つい最近になってようやく喋り始めたばかりだという。しかし、それにしては、これがまた、実に面白いお喋りをするのには感心した。

 これくらいの幼児は、話す前にまず手が出たり、体を動かしてその要求を満たそうとするものだと思っていた。だから、その意図を掴みかねて、親が困るという構図が普通だと考えていたのだけれど、どうもこの子は違うようだ。

 まず、何をするにも、また何か思うところがあるときは、必ずそれを喋ってくれるから、とても理解しやすい。私はこれを「直系語録」と名付けて、以下に採取しておいたので、まずはお読みいただきたい。

 (箱根ロープウェイが最高点に達した後、芦ノ湖に向かって降りていくとき)「ああ、おちちゃう」と心配そうな声を出す。

 (小さなおもちゃを買ってもらって)「ペンギンのペンちゃんだをー 。おふろに、うかべるー。」(舌足らずなため、まだ「よー」と言えずに「をー」となる。)

(芦ノ湖に棒切れを投げたものの、それが波で岸に打ち寄せられてくると)「ああ、もどってくるー。」

 (親が声をかけて「行くよー 」というと)「やだー。やだをー。」

 (芦ノ湖畔の芝生広場を通りかかった。そこは、今から9ヶ月前の去年8月に虫の展示があったところである。するといきなり)「カブトムシやりたいー。」(そんな前のことをよく覚えているものだ)

 (姉を倒して押さえつけて)「ねーちゃん、だーじょーぶ?」(だったら、最初から乱暴するな)

(食卓で騒ぎ立てるおそれが出てきたので、親が抱き上げたら)「だめー。はなちぇー。」(と、反りくり返る)つい、こう言いたくなる。「ウチの孫 「はなちぇー」と イナバウアー」

 (お土産に買ったプラスティックのおもちゃの一つ一つをつまんで)「たぶん、ヒトデだをー。こっちは、ダイアモンドだー。お、カメがでてきたをー。」(「たぶん」などという言葉を子供が使うか?)

 (お姉さんのプラスチックのおもちゃと比べて)「お、カメがおなじだー。」

 (自分の身体より大きい熊の置き物の頭を伸び上がって撫でて)「かーわいいね。」

(走って長ソファの背後に回り込んで)「うしよに、まわりこむをーっ」(まだ「後ろ」といえずに「うしよ」と言っているのに「回り込む」などという難しい単語をよく知っている!)

 (テレビの幼児番組を見て飛行機が離陸するのを見ていて)「あっ、コーキがとんだー。」

 どんな局面でも、パパはどこ?、ママはどこ?、姉ちゃんはどこ?と気にかけている。 今は連休中なので、パパが朝から皆と一緒に寛いでいると、「パパ、きょうは会社、行かないの?」などと聞いて、パパを苦笑させたりしている。つまり、周囲や社会的環境にも興味と関心を示しているので、なかなか結構なことである。聞かれたらできるだけわかりやすく説明してあげるなどして、こういう特性を大切にしつつ育てていってほしいと願っている。

 ただ、我々は、もう育てるどころではない。たった1時間預かっただけで、「あれしよう。これしよう。」と言われ、その一方で怪我をしないか常時みていなければならない。それが二人分だから、ほとほと疲れ果てた。まさに、「来て嬉し、帰って嬉しい、孫の顔」の心境である。


3.海賊船と水族館など


大涌谷


海賊船


 泊まっていた強羅から、箱根ケーブルカーで早雲山に登り、そこから箱根ロープウェイで大涌谷を経由して桃源台に着く。海賊船に乗って元箱根まで約40分間航行し、そこで昼食をとった。海賊船は、クイーン、ビクトリー、ロワイヤルの3隻だが、繁盛しているのか、近くもう1隻が就航するそうだ。湖上を動くから、この季節は頬を切る風が冷たい。最初は甲板から景色の良い屋上に上がっていたが、寒くなって船室に入った。

白い雪を被った富士山


芦ノ湖遊覧船


 元箱根港に近づくと、箱根外輪山越しの右手後方に、青い空の下で白い雪を被った富士山が大きく見えて、とても感激した。来る途中の箱根ロープウェイからも見えたが、一瞬のことだったからか、さほどの感慨は感じなかったので、不思議なものである。

芦ノ湖遊覧船


芦ノ湖遊覧船船長さんの操舵


箱根神社の赤い鳥居


龍宮殿


 昼食後、今度は芦ノ湖遊覧船で元箱根港から箱根園港に向かう。わずか15分間、船上の客となる。こちらの遊覧船は、双胴のため平らで客室が広く、船長さんの操舵がよく見えた。途中、箱根神社の赤い鳥居が目に焼き付くようだ。箱根園港に近づくと、右手に奈良のお寺のような目立つ建物が見えるが、これはプリンスホテル系の龍宮殿である。

大きな大島桜


大きな大島桜越しに見える駒ケ岳ロープウェイ


 箱根園港の桟橋に着くと、岸辺の砂浜に続いて芝生広場があり、その真ん中に大きな大島桜が満開である。5本を寄せて植えてから100年は経っているという。あまりの見事さに、しばし孫たちのことも忘れて眺めていた。すると、息子一家はママの周りを、パパ、孫娘ちゃん、直系くんが一列になってグルグルと追いかけっこを始めた。それがまた早いこと、早いこと。もし、私がやったら、すぐに目を回して脱落するに違いない。きょうは乗り物に長く乗ったので、子供たちには良い運動になっただろう。

ふれあい動物ランド だっこして ZOO


ふれあい動物ランド だっこして ZOO


ふれあい動物ランド だっこして ZOO


ふれあい動物ランド だっこして ZOO


ふれあい動物ランド だっこして ZOO


 芝生広場の右手には「ふれあい動物ランド だっこして ZOO」があり、これが最初の目的地だそうだ。中に入るときにプラスチックのバケツを買い、その中に細長くカットした人参、胡瓜、大根、カステラ様のもの、笹の葉などが入っている。それを子供たちが、飼われている動物、カピバラ、山羊、猿、犬猫、兎などに食べさせるという趣向である。犬猫や兎は身体を撫でてあげることが出来る。なかでも兎、猫、小型犬は確かに可愛い。でも、身体が大きなカピバラは、これが鼠の仲間かと思うと、どうもそういう気にはなれなかった。これがアルマジロか・・・まるで円谷映画に出てくる怪獣のようだ、こんなものが可愛いのか・・・。ともかく、色々な動物がいて、孫たちは2人とも、一生懸命に餌をやって、バケツはたちまち空になった。

箱根園水族館


箱根園水族館


箱根園水族館


箱根園水族館


箱根園水族館


箱根園水族館で、直系くんが孫娘の背中に手をやっている


 次の目的地は、同じ敷地内の箱根園水族館である。こちらは「日本で一番標高の高いところにある海水の水族館で、毎日伊豆の海からタンクローリーで新鮮な海水を運んでいます。」とのこと。なるほど、一通りの海水魚がいて、水温26度の大水槽には、熱帯魚が乱舞している。直系くんが「あぁー、カメさん」と言って、盛んに亀の姿を追いかけている。パパに聞くと、大好きなのだそうだ。私も熱帯魚の姿を写真に撮っていると、孫娘ちゃんが「私も撮りたい!」とやって来た。「あぁ、いいよ」とシャッターボタンを押してもらうと、連射の設定にしておいたものだから、変わった姿の魚の写真がたくさん撮れて、それを見て大笑いしていた。二人で、水槽を覗き込んでいる。良く見ると、直系くんが孫娘の背中に手をやっている。こういうところは、男の子の証かもしれないと、頼もしく思う。

箱根園水族館でのアザラシ


箱根園水族館で血を流しているアザラシ


 水族館のアザラシの水槽は戸外にある。ほとんどはマリンブルーの水の中にいるが、一匹だけ石の上に上がって日向ぼっこをしている。遠目では普通だが、やや体が傾いている。向こう側に回ってみると、胴体が10センチほど赤くなって石の上に血が流れている。あれあれ、これは怪我をしたのかと思って、通りかかった飼育員さんにその写真を見せた。そうしたところ、飼育員さん曰く「毛が抜け代わる時期なので、かゆいらしくて引っ掻くのです。だから、ご心配なく。」とのこと、でも、鰭のようなごく短い手しかないのにどうやって引っ掻くのか不思議に思ったが、いずれにせよ、そういうことらしい。

 もう、夕方になったので、予約しておいたザ・プリンス箱根芦ノ湖のレストランに入った。子供連れなので、バイキングのレストランにして良かった。周りはそういうファミリー層でいっぱいである。私はなるべく食べ過ぎないようにしなければいけない。家内と私で孫娘ちゃんの両隣に座り、時には孫娘ちゃんと手をつないで、食べ物を取りに行った。直系くんは、パパとママに挟まれて食べていたが、遠くにあるチョコレートタワーを目ざとく見つけて、まだ食べ始めたばかりだというのに、「チョコレートが食べたい」とグズって、両親がなだめるのに苦労していた。そこで、パパが数分ほどレストランの外に連れ出して戻って来たら、すっかり忘れていた。こういうところは、まだまだ幼児である。

 それから、タクシーで強羅の宿まで帰って来たが、その辺りは坂に次ぐ坂で、それも急坂が多くて驚いた。今まで強羅というところは通過地点だったので全然知らなかったが、平らなところは、駅の周辺くらいしかないことが、よくわかった。

 それはともかく、三世代で一緒に旅行するというのも、なかなか良い経験である。我々は孫たちの成長の様子もわかるし、両親も、日頃の24時間保育の体制から、一時的にせよ緊張感を解くことができる。パパが休みをとれるときに、また行きたいなと願っている。








 三世代で箱根旅行(写 真)




(2019年4月29日記)


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