母と生まれ故郷を訪問

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1.母の近況

 人間、それなりに歳をとると、来し方が懐かしく思うものである。現に私自身も、つい最近、小さい頃から高校時代を過ごした神戸北陸名古屋という全国各地の都市を順に訪ねて、思い出に浸ったものである。これらは、「なつかしの旅」として、このエッセイに収めている。

 ところで、私の父が7年前に亡くなった後、もうそろそろ90歳になる母が、北陸で、一人暮らしを続けている。昨年の春には、公民館の入り口で転倒して首筋を痛め、一時は歩くのもやっとという状態だったが、何とか回復して、とりあえずは歩き回れるようになった。ただ、そのせいかどうかはわからないが、やや耳が遠くなってきて、話し掛けるときは、少し大きな声でなければ聞こえなくなった。

 日常生活が心配なところだが、週に3度のデイ・サービス通いがあるほか、幸い、私の妹たちが近くに住んでいて、代わる代わるおかずを持って行ったり、買い物して冷蔵庫に入れたり、話し相手になったり、病院に連れて行ったり、ケアマネジャーと打ち合わせたりと、本当に良く面倒を見てくれているので、深く深く感謝している。

 ただ、それでは妹2人の負担が大きいので、私の義理の両親のように有料老人ホームに入ってもらおうと思って、妹たちの同意を得て、母に話を向けたのだが、「お父さんが建てたこの家に出来るだけ長くいたい。」という。加えて、当地はやや保守的な土地柄で、「親の面倒は子供が見るのが当然」という発想があるせいか、東京のような至れり尽くせりの有料老人ホームが、そもそも見当たらないという問題もある。さりとて、東京に連れて来るのは、妹たちと分断することになり、好ましくない。そういうことで、前に進めずにそのままとなっている。私と同様に地方に住む高齢の親を抱えている友達も、同じようなことを言っている人が多い。

 先日、東尋坊と永平寺を訪ねた帰り、実家に立ち寄ったところ、妹の一人が、母を連れてカラオケに行こうと言う。先日、母と初めて行ったところ、「北国の春」を熱唱していたそうだ。私は、カラオケは何十年ぶりだったが、行くことにした。姪っ子を交えて、親子三代と私である。母が慣れ親しんだ1945年から75年までの古い曲を選んで、母に一緒に歌おうとし向けると、テンポは緩いものの、一生懸命に歌っていた。私も、こんな歌の時代に、育ててもらったのかと、目が潤んできた。母も、何十年も前の歌詞を思い出して、ご満悦である。姪っ子が、最近の歌を歌いだすと、手拍子まで出てきて、絶好調である。これは、いわゆるボケ防止によいかもしれない。


2.行きたい所は生まれ故郷

 翌日、母に「どこか、行きたいところがある?」と聞くと、「生まれ故郷を見てみたい。」という。それは福井県の山深いところにあり、北陸自動車道を走って約3時間のところだ。私は、小学校6年生と大学生の時に、両親とともにそこへ行ったことがある。檀家だったお寺さんの裏庭に石ころがいくつもあって、これらが全て先祖のお墓だといわれたことを覚えている。

 母の家は、この地に代々住んでいた名主の家だったようだが、終戦前後の混乱期に戸主の放蕩や病死、農地改革や新円切替えの混乱で一挙に没落したそうだ。しかも母の母親は3歳の時に婚家で病死し、父親は田舎暮らしが性に合わず一家で都会に出たものの終戦直前にこれも病で亡くなり、母は祖母と妹を抱えて、未成年ながら戸籍上の女戸主になったという。それで終戦直後の混乱期を生き抜いたのだから、大したものだ。その頑張りのおかげで、我々があるので、感謝しなければならない。

 母自身は、その生まれ故郷には7歳までしかいなかったそうだが、このたび、その地を見たいというのである。もうすぐ90歳なので、その希望を叶えてあげないと、もうチャンスはないだろうと思って妹たちに意向を聞いた。すると、両手を挙げて賛成してくれて、しかも一緒に行ってくれるという。これは、絶好の機会だ。是非とも行かなければならない。

 山深いところゆえ、現地での宿の予約が鍵となる。調べてみると、母が通った小学校の跡地がたまたま旅館になっていて、幸い、そこを予約できた。次に、先祖代々お世話になったお寺を訪ねたい。十数年前にそこのご住職に来てもらって墓を移し替えたが、その時のご住職はもう亡くなり、その息子さんの時代となっている。電話をし、立ち寄って、お話しを願えないかとお聞きしたところ、快諾を得た。


3.祖母の実家の探索

 「他に立ち寄りたいところはありませんか。」と母に聞いたところ、自分の母親の実家だという。母は、「自分が3歳の時に亡くなったし、その後の戦中戦後の混乱期を挟んで、幼くして生まれた土地を離れ、それ以降生まれた田舎とは全く別の土地で生きてきたこともあって、交流は長らく途絶えているが、いつか訪ねてみたかった。」というのである。その実家は、母の生地の隣の集落で、姓はわかるが、住所は知らないとのこと。

 集落名と姓だけで、分かるものかと思ったが、もう一つの手掛かりとして、戸籍があった。父が亡くなったときに取り寄せた原戸籍が、手元にある。そこの祖父の欄を見ると、妻の欄があり、更にそこにその父親の名前と住所があった。ただ、達筆すぎて非常に読みにくい。さすがに名前はわかったが、番地が難しい。写真に撮って拡大し、「崩し字」事典と対比しつつ解読したところ、番地を何とか読むことができた。次に、グーグルで集落名と姓を重ねて、検索してみた。すると、その集落で当該姓を名乗る家は2軒しかない。しかも、その住所と電話番号が出てきたではないか。そのうちの一軒の番地が、先ほど戸籍から読み解いた番地と一致している。間違いない。この家だ。こんなに簡単に分かるとは思わなかった。インターネット時代の威力である。

 そこで、そのお宅に電話をしてみた。こちらの名前を伝えて、「親戚に当たるお宅を探しているのですが、そちら様のご先祖に、こういう名の方はいらっしゃらないですか。」と、先ほどの戸籍の名前を挙げたら、「確かに、それは私の先々代の名前です。」という話になり、そこから色々とお話をさせてもらい、今度、母を連れて行くことになった。そちらに行く道を確認するために、その住所をグーグル・ストリート・ビューに入れて検索したところ、あれまあ、何と、その方のご自宅まで拝見することができた。地方議会の議員をされている方のようだが、とても立派なお宅だった。


4.お寺さん訪問

 お寺さんでは、住職とそのお母さん(御新造さん)が待っておられた。まず本堂で読経をしていただいたのには、恐縮した。次に庫裏にて、過去帳とそこから抜き出した我が家の先祖の法名の一覧表をいただいた。その表に載っている最初の先祖は、文化13年(1816年)5月12日没で、次が文政元年(1818年)8月13日没である。残念ながら俗名はなく、戒名しか書かれていない。没年は、今から200年も前のことである。ちなみに、この頃に生まれた有名人としては、島津斉彬(1809年)、井伊直弼(1815年)、亡くなった有名人としては、喜多川歌麿(1806年)、杉田玄白(1817年)、伊能忠敬(1818年)などがいる。


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 それから、天保、弘化年間に亡くなった先祖が何人か書かれていて、明治期に入る。この辺りからは、戸籍上でも追跡できる。戸籍の最初に載っていた人物は明治17年没であり、この人は戸主で、確かに過去帳にもその年に亡くなった人物が載っている。ただ、過去帳では戒名しかわからないし、その一方で戸籍には俗名しか載っていないので、名前から確定することはできない。しかもこの人の場合、過去帳の没年は9月23日だが、戸籍ではそれが11月10日となっていて、ズレがある。ただこれは、役場への届出の遅れか、戸籍制度が始まったばかりの記帳の混乱によるものと考えれば、まず間違いなく同一人物だろう。現に明治29年と35年に若くして亡くなった兄弟については、過去帳と戸籍の死亡の日付けが一致している。間違いない。この辺りから、両方の文献の死亡の日付けが、一致又は近接してきている。戸籍制度がようやく確立したのだろう。

 それにしても、過去帳からよくこれだけの数を抜き出して一覧表にしていただいたものだ。もう90歳を超えた御新造さんがされたそうだが、心からお礼を申し上げておいた。お寺の裏手にある竹藪の一角に、我が家の先祖代々の墓がある。もはや苔むした石ころにしか見えないが、ご住職にそこまで案内いただいて、参拝をしてきた。途中の小道に、黄色い網がかかったような珍しい模様の蛇がいて、驚いた。


5.蕎麦打ち体験



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 名残惜しみつつ、厚くお礼を申し上げながら、そのお寺を辞した。午後の約束までまだ時間がある。たまたま、近くに蕎麦打ちを体験させていただけるお蕎麦屋さんがあった。そこで妹たちと3人で、蕎麦打ちに興じた。私は以前、蕎麦打ちをやってみたことがあったので、今回は主にカメラマンに回って、妹たちの蕎麦打ちを見守った。お師匠さんの指導の下、まず、蕎麦粉8、小麦粉2の割合で混ぜた粉を撒き、それに用意の水を半分注ぐ。それを、指先を下に曲げて左右にかき混ぜる。手のひらで混ぜてはいけないそうだ。ある程度混ざったら、残る水のうち8割方を撒き、また同じように混ぜる。最後にまた、わずかに残った水を打って全体をまとめ、今度は両方の手のひらで押すようにしていくと、丸まって横に広がり、クロワッサンのようになるので、それを縦にして同じように押す。これを何回か繰り返す。そして、両端を丸めるようにして内側に入れ、それをまた数回繰り返して、盛り上がった丸餅のような蕎麦球にする。それを、手のひらの手首側で押し付けながら回す。そうすると、綺麗な波形の模様がつくので、それをひっくり返して再び数回、同じようにする。

 近くの蕎麦打ち台では、小学生が数人混ざっていた。わあわあ、きゃあきゃあ言いながら作業している。ちょうど同じように蕎麦をこねる場面らしくて「美味しくなあーれ、美味しくなあーれ。」と、可愛い声で大合唱しているから、笑ってしまう。

 いよいよこれからが伸ばす工程に入る。麺棒を両手で爪を立てるようにし、真ん中から両端に向けて広げるようにして、蕎麦球を徐々に潰すように押し広げていく。当然、広がったものは丸い形をしている。このまま切ってしまうと、極端に短い麺と長い麺になってしまうので、「角出し」といって、伸ばしながら四角にする。これは結構難しい。麺棒を傾けながら押し、何とかそれらしくするが、厚さにムラが出来て、このままだと火が通らないと、師匠からダメ出しが入り、やり直してもらう。この工程は確かに難しい。師匠曰く。「昔はこんな工程はなかったが、全国蕎麦打ちコンテストが始まって、単に丸く広げるだけでは差がつかないので、この技法も腕自慢の対象として評価されるようになり、それで全国に一気に広まった。」

 蕎麦生地がようやく綺麗に薄く広がった。これからカットに入る。生地に片栗粉を振り掛ける。師匠は粉を摘んで一振りすると、白い粉が美しく均等に広がる。我々がやると、濃淡がひどくて、しかも数回に分けてやる羽目になる。それを折り畳んで、蕎麦切りの台にセットする。蕎麦包丁は手前まで刃が付いているので、注意するように言われる。白い木の板で作られたブリッジのようなガイドに当てながらその包丁で蕎麦生地を切っていくのだが、力は要らないものの、切る幅を揃えるとともに、食べごろの太さにする必要がある。これが細すぎるとまるでソーメン、太すぎるとあたかも名古屋きしめんになってしまう。コツは、切ったあと、包丁で進行方向にちょっと押し、そのときに必要な幅が出るようにすることだそうだ。まず師匠がお手本を見せてくれて、我々が続いたが、妹2人はなかなか上手だったが、私がやると、細すぎたり、太すぎたりで、これでは蕎麦屋になるのはとても無理だと感じた。


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 さて、所要時間50分で出来上がった。それで蕎麦を茹でてもらい、大きなザルに入れてもらって、ネギのみじん切り、鰹節、大根おろしを添えて、母も交えてツルツルと食べた。自分で言うのもなんだが、非常に美味しく感じた。蕎麦打ちは、大成功だ。


6.日本の原風景での人生の禍福



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 そのお蕎麦屋さんを出て、周りを車で一周した。この村をじっくり観察する。山間の河岸段丘に広がる典型的な中山間地である。川の両脇に広がる田圃には、たわわに実った稲が植わっていて、所々に曼珠沙華の赤い華が彩りを添えている。鮮やかな赤色をしたキノコもある。田圃が切れたところには美しく杉の木が植林されている。そのバックには、なだらかな山があり、さらにその背景には、蒼くけぶる遠い山々が連なる。まるで日本の原風景とも言える佇まいである。川の側の遊歩道を歩くと、川の色がライトブルーで美しい。川の周囲の崖からも、湧き水が次々に流れてくる。これが、水量が多い原因のひとつなのだろう。川の中ほどに、吊り橋が掛かっている。揺れるし、踏み板の隙間が大きいから、女性の中には途中で立ち往生する人もいる。これだけの急流の川だから、昔から水の事故があったのだろう。川のほとりには。観音様の像が建てられていた。

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 そこから更に山奥の方に、車を走らせる。途中、道の傍らには、お地蔵さまが道行く車を見守っている。山の中に分け入っていくと、栗もたわわに生っている。突然、大きな滝が現れた。水量も多く、それが左右に拡がっているからとても迫力がある。道路から、滝の流れのところまで降りられるので、見上げることができる。

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 「私たちの先祖は、こういうところで、少なくとも250年はいたのだなあ。幕末に開国しなければ、この幸せな農村でずーっと暮らしていたかもしれないね。」と、妹たちと語り合う。先祖代々の血と汗の結晶で、見渡す限りの田畑や山林を所有していたそうだが、我々の祖父の代でたまたま都会に出た終戦前後の混乱期に前述のような出来事がいろいろとあって家運が傾き、一挙に没落したと聞いている。仮に祖父がそのまま田舎に留まって普通の暮らしをしていたならば、その子孫の我々は今頃一体どうなっていたのだろうかと思う。そういえば、先程の蕎麦屋さんにも、昔々の我々の家の分家の流れをくむ人が働いていたし、近くの観光施設の切符のモギリをしていた人も、そういう我が一族の方のようだ。

 考えてみると、祖父があのままこの田舎に住み続けていたのなら、私も田畑や山林を守って伝統的な生活をしていたに違いない。それが母の時代になり、終戦直後の混乱期、父親が病に倒れた後に徒手空拳で都会にとどまり、母は父とともにその生活を確立した。それが、ひいては東京での今日の私の時代における発展につながっている。これと言うのも、祖父が田舎暮らしを嫌い、好き放題やってくれたからだと、むしろ感謝しなければならない。でなければ、今頃は猫の額のような田畑を耕したり、あるいはそれでは食べていけないのでこの地のどこかのお店で働いていたのかもしれないのである。世の中が封建時代のままだったら、それも悪くはないかもしれない。ところが、幕末にペリー提督がやって来て開国を迫られ、日本という国そのものが弱肉強食の列強国家群の前に投げ出された。その結果、国民を挙げてその力を結集しなければ、国として立ち行かなくなり、戦前は軍事強国として、戦後は経済大国としての道を歩んできた。私の父母も、私自身も、いわば田舎から呼び出されて、経済大国を作り上げるのに邁進してきたようなものである。そして、無一文のどん底の状態から、親子で努力に努力を重ねて、ようやく浮かび上がって来たというわけである。そう考えると、「人生、いや一家の禍福は、正にあざなえる縄のごとし」だと思えてくる。


7.母の実家

 さて、母の実家を訪ねる時間となった。カーナビに住所を入れると、懇切丁寧に案内をしてくれるので、直ぐに着いた。途中の田圃の畔に固まって咲く曼珠沙華の華が美しい。お宅では、ご当主と奥様がにこやかに迎えてくださった。私が当方の戸籍の祖母の欄をお見せすると、ご当主もわざわざ家系図をこしらえて用意しておられて、それが完全に一致していた。そこで、母のよもやま話を交えて話が弾み、時を忘れるほどだった。応接間の隣の仏壇の間で先祖の霊に拝ませていただき、その間の長押に掛かっていた写真の一つが、母の祖母だった。

 この地区は、終戦直後に大火に見舞われ、先祖代々の資料が全部焼失してしまったので、昔はどうだったかということは、村の古老も亡くなった現在、もはや知りようがないそうだ。そういう残念な歴史はあったものの、未だに伝統を守って、村の神事を行っているという。しかし、人口は、終戦直後には8,000人あったものが、今ではその3分の1になってしまったという。加えて、高齢化率も半分近くにまで上がってきたとのこと。そういうわけで、まだまだ話し足りない雰囲気ではあったが、おいとまする時間となった。


8.一般財団法人の宿

 この町には、一般財団法人が運営する和風旅館があり、4人でそこに泊まった。温泉があり、お湯は透明で、とろりとしている。妹たちは、「この温泉から出て来ると、お肌がすべすべになる。」と話している。夕食も、朝食も、なかなかのもので、大いに満足した。何よりも、母が出された食事のほとんどを平らげたのには、驚いた。日中の訪問では、折り畳み式の車椅子を用意したのだが、かなりの距離を歩いてくれたから、良い運動になってお腹が空いたのかもしれない。

 ともあれ、母にとっても、我々にとっても、記念すべき旅行となった。家に帰り着いてほっとしていると、母がポツリとこう言った。「次は、新婚時代を過ごした神戸に、行ってみたい。」・・・「うむむ・・・わかりました。」


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 母と神戸なつかしの旅








(2018年9月25日記)


カテゴリ:エッセイ | 21:22 | - | - | - |
永平寺・東尋坊への旅

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1.はじめに

 いやはや、この旅は天候に恵まれずに終わり、敢えて言えば、失敗だった。まあ、あちらこちらを旅行して回っていると、こういう時もあるだろう。

 私は、小学生の一時期、福井県に住んでいたことがある。昔の家族写真をデジタル化する過程で、昔ながらの観光地である東尋坊や永平寺の写真を見て、非常に懐かしく感じた。東尋坊は、小学校の高学年のときに家族揃って行き、栄螺の壷焼きを食べた思い出があるし、永平寺は、やはりその頃に父と二人で行って、大きな杉の木立に囲まれた僧坊で、精進料理を御馳走になった記憶がある。

 それから半世紀以上の日々が経過し、ようやく時間とお金にいささか余裕ができたことから、今回はこの二ヶ所に行こうと計画した。まずは北陸新幹線で東京から金沢に行き、そこで在来線特急に乗り換えて、芦原温泉駅に着いた。荷物を駅のロッカーに預け、さあ東尋坊行きの京福バスに乗ろうとして観光案内所に立ち寄ると、東尋坊観光船は本日は欠航だという。台風は既に北へ去ったので、もう乗れるものと思い込んでいただけに、ガッカリした。よく調べると、その日の午前9時頃に、観光船のHPのトップページに「欠航」と載っていた。調査不足である。今から思えば、この辺りからケチのつき始めだった。

 さて、どうしたものかと思っていたら、観光案内所の方に、東尋坊から丸岡城を経由して永平寺まで行ける周遊切符があると教えてもらった。丸岡城は先日行ったのでもう行く必要はないとして、それなら、いっそのこと旅行先の計画の順序を逆にし、明日の朝に行くつもりであった永平寺に先に行けば良い。そういうことで、永平寺行きの京福バスに乗車した。ほとんど乗客はいなかったが、永平寺口駅というところからたくさん乗ってきた。福井市内からここまで、「えちぜん鉄道」という電車に乗ってやってきたのだ。「あれ、これは京福電車ではなかったか? なぜ永平寺まで行かないのだろう?」と思って調べた。すると、以前の京福電気鉄道越前本線は、2000年末から翌年にかけて半年間で2度の電車どうしの事故を起こして運休し、収支が悪化した。そこで福井県は第三セクター方式でその事業を継承したが、永平寺線だけは収支の好転が見込めず、廃止されたそうだ。


2.永平寺


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 さて、バスは山道を延々と走って、やっと永平寺に到着した。コインロッカーに荷物を預けようとしたら。ここでまた小さな誤算があった。何とまあ、500円硬貨しか受け付けてくれない。実は、事前にコインロッカー用にと500円硬貨をわざわざ100円硬貨に替えておいたことが、かえって裏目に出たのである。その辺のお土産屋さんが無料で預かるという看板を出していたが、特にiPadがなくなったりすると困る。だから、先に進んで永平寺にあるだろうと期待して行ってみたのだが、着いてみると預けるところはなく、やむを得ずそのまま担いで中に入った。これは、気温32度、しかも蒸し暑い中で、相当、体力を消耗する原因ではなかったかと、後から振り返って思う。ともあれ、小1時間ほどして参拝を終えて出てきた時には、まるでサウナに入っていたように、上半身は汗でずぶ濡れだった。この日は、ペットボトルのお茶と水を、4本も飲んだ。

 曹洞宗永平寺は、開祖道元禅師によって、鎌倉時代の初期である寛永2年(1244年)に坐禅修行の道場として開かれた。道元禅師は、正治2年(1200年)、京都に生まれ、14歳で比叡山で出家して天台宗を修め、24歳で中国に渡る。そこで曹洞宗天童山如浄禅師に出会って修行し、「正法仏法」を受け継いで28歳の時に帰国した。京都深草に興聖寺を建立したが、その活動が大きくなるに連れて比叡山からの弾圧を受ける。そこで、越前国地頭の波田野義重の招きに応じて、越前国に移り、永平寺を開いたと、いただいた参拝のしおりにある。


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 禅宗の寺院では、七堂伽藍が基本で、次の建物から成る。

 (1) 法堂(ほっとう)朝のお勤め等各種法要
 (2) 仏殿(ぶつでん)本尊の釈迦牟尼をお祀り
 (3) 僧堂(そうどう)修行の根本。坐禅・食事・就寝
 (4) 庫院(く い ん)全体の維持管理と食事の用意
 (5) 山門(さんもん)両側に四天王、楼上に五百羅漢
 (6) 東司(と う す)お手洗いで作法がある
 (7) 浴室(よくしつ)身も心も清浄にするため入浴


 これらの建物は山の斜面に建てられており、渡り廊下で相互に繋がっていて、参拝者は、階段を上がったり下ったりしながら、全て見て回ることができる。ただ、この日の福井地方は気温32度の猛暑日で、湿気が非常に高い中だったから、回るのが精一杯で、各建物の意義をじっくりと味わうなどという余裕はなかった。それでも、曹洞宗の僧侶の修行の場としての、雰囲気だけは味わうことができた。夏は暑いが、厳冬期の寒さもひときわ身にこたえることだろう。とりわけ、冬に雪が降りしきる中を、托鉢姿の修行僧たちが民家を訪ねて回る姿の写真が印象に残る。

 なお、永平寺での修行僧の生活は、次のようなものだそうだ。

 (1) 坐禅(ざぜん) 早朝に行う坐禅は修行の根本で、背筋を伸ばして姿勢を正す。
 (2) 朝課(ちょうか)坐禅に引き続いて行う朝のおつとめで、全員で読経する。
 (3) 行鉢(ぎょうはつ)正式な作法に則り食事をする。
 (4) 作務(さむ)坐禅や朝課以外に行う掃除などで、廻廊の雑巾掛けは毎日行う。


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 最後に、吉祥閣で見かけた法話のような額のいくつかを掲げておこう。

 ひとの価値は、地位、財産、職業に関係ありません。知識、能力だけでひとを評価すると、過ちを招きます。知識を生かす心と行いこそ大切です。ひとの価値は、心と行いから生ずるのです。

 人生に定年はありません。老後も余生もないのです。死を迎えるその一瞬までは人生の現役です。人生の現役とは自らの人生を悔いなく生き切る人のことです。そこには「老い」や「死」への恐れはなく「尊く美しく老い」と「安らかな死」があるばかりです。

 生まれて死ぬ一度の人生をどう生きるか。それが仏法の根本問題です。長生きすることが幸せでしょうか。そうでもありません。短命で死ぬのが不幸でしょうか。そうでもありません。問題はどう生きるかなのです。

 生まれたものは死に、会ったものは別れ、持ったものは失い、作ったものはこわれます。時は矢のように去っていきます。全てが「無常」です。この世において、無常ならざるものはあるのでしょうか。

 満天の星が輝く宇宙よ! 母なる太陽を慕いつつ、今日も銀河空間を渡る美しい地球よ! 地球は青い一顆の明珠・・・一千、一万、一億、一兆年、無量百千万億阿僧祇劫∞、美しい地球よ永遠に!


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3.東尋坊


東尋坊観光船




 翌日は、再び芦原温泉駅まで行って、荷物を預け、東尋坊行きの京福バスに乗った。この日もまた気温33度を超える真夏日である。本日の観光船は、東尋坊からではなくて、その先の三国サンセットビーチから乗船ということで、それには米ヶ脇北バス停で降りなければならないという。45分ほど走り、東尋坊を過ぎて、そこに着いた。桟橋で何人かが釣りをしている小さな漁港である。そこに、漁船を改造したような船があった。一見すると小さく見えるが、定員は81名だという。チケットを買うと、船の中に入れてくれた。外は焼け付くような日光が降り注いで日差しを遮る所もないので、これはありがたかった。船の中に運転席があり、あとは座席がずらりと並んでいる。私はその船の最初の客だったので、運転席の隣の最前の席に座った。冷房が効いていて、快適である。

 ほぼ満席となり、観光船は出発した。波が荒い。防波堤の内側はまだ良かったが、外に出ると、まるで木の葉のように揺れる。左に20度くらい傾いたかと思うと、次の瞬間には右にそれくらい傾くローリングがあったかと思えば、波乗りしているようなピッチングが続く。これで波高50センチだそうだ。一昨日、北海道沖に去った台風の置き土産らしい。これでは、船に酔ってしまうと思って、近くを見ないで、なるべく遠くの景色を見るようにした。


雄島に繋がっている赤い歩道橋


沖から見た雄島




 船は、東尋坊の沖を通って一路、雄島に向かう。この島は無人で、大湊神社があって、新造船の進水のときには、必ずお祓いをしてもらうそうだ。本土とは、赤い歩道橋で繋がっている。信仰のおかげで、太古からの原生林が残っているそうだから、後から、行って見ようと思った。その雄島沖で船はいったん停まったものだから、ピッチングとローリングが激しくなった。いや、これは堪らない。カメラのファインダーを覗いていると、船酔いが進んで気持ちが悪くなる。


沖から見た東尋坊


沖から見た東尋坊




 雄島沖合いでUターンして、やっと帰るようだ。船が動き出すと、少しは船酔いが楽になる。でも、写真を撮る気が起こらない。液晶画面を見ながら適当にシャッターボタンを押すだけだ。それが精一杯で、構図の選択や露出の調整など、とてもできたものではない。船長が何やら説明してくれるが、耳に入らない。全然、覚えていないので、いただいたパンフレットに書かれているところによると、「約1キロにも及ぶ海食景観断崖に日本海の荒波が打ち砕ける東尋坊の見所は、何といっても波の浸食によって荒波が打ち寄せるさまは、実に豪快。これほど巨大な輝石安山岩の柱状節理は、日本ではここ一ヶ所しかなく、地質学的にも貴重で、国の天然記念物にも指定されています。」とのこと。


沖から見た東尋坊


沖から見た東尋坊




 そういえば、なぜ東尋坊というかというと、伝説が残っている。1300年前に開かれた名刹の平泉寺に、東尋坊と称する坊主がいて、日頃から乱暴のし放題だったが、それに加えてある姫君を巡って別の坊主と争っていた。あるとき、その恋敵がもう我慢ならずばかりに、皆で酒盛りをして、東尋坊を酔い潰した。そこで、その身体を持ち上げて、崖から突き落として殺してしまった。それ以後、その崖を東尋坊と呼ぶようになったそうだ。虎は死んで毛皮を残し、東尋坊は死んでその名が残ったというわけだ。そのせいかどうかはよく知らないが、今日でも投身自殺がしばしば見受けられる。船長によれば、ここで身を投げると、まず7割は助からないという。


沖から見た東尋坊


沖から見た東尋坊




 あれあれ、船酔いがきつくなって、船長の説明など、もはやどうでもよくなった。ハチの巣岩、夫婦岩、大池、ライオン岩、ローソク岩などというが、少しも頭に入らない。そのうち、ようやく三国サンセットビーチに帰り着き、ほっとした。用意されてあったビニール袋を使わずに済んだ。船を降りて浜辺に降り立ったが、まだ船酔いの気分だ。しばらく休めれば良かったのだが、すぐにバスが来た。東尋坊と雄島に行くつもりで乗ったが、いやもう、気持ちが悪くてそれどころではなくなった。そのまま、芦原温泉駅に着き、次の目的地である金沢方面に向かう特急に飛び乗った。うつらうつらしながら軽い眠りにつき、1時間ほど乗って目的地に着く頃には、ようやく気分が良くなった。


福井駅前広場にある動く恐竜の像




 話は飛ぶが、前日は、福井市内に泊まったのだが、福井駅前広場に、3匹の恐竜の大きな像があって、しかもそれらが唸り声をあげて動くから面白い。永平寺の先の勝山には福井県立恐竜博物館があるそうだ。私は、恐竜にはあまり関心がないので行く気にはならなかったが、興味のある子供さんには、さぞかし楽しいだろうと思う。

 私が福井市にいた半世紀以上前の頃には、現在のように恐竜が丸ごと発掘されるなどということは全然予想もされていなかった。ただ、中生代ジュラ紀から白亜紀にかけて形成された手取層群には、植物の化石が出ることだけは知られていた。私の中学の先生も、化石の専門家であった。我々生徒もその影響を受けて、金づちを持って山の谷川筋に化石の採取に出掛けたものである。私は、葉っぱの化石を見つけて、先生に鑑定してもらったことがある。そうしたある日のこと、1人で山に出掛けた私は、こぶし大の金色に光る石を見つけた。綺麗な立方体をしていて表面が滑らかで、しかもピカピカと光っている。私は、「金ではないか」と思って、胸の鼓動が早くなった。それを大事に持ち帰り、翌日、先生に「これは金ですか?」と勢い込んで見せた。すると「なーんだ。黄鉄鉱だね。『愚か者の金』というんだよ。」と言われてしまった。

 金だったらどうしようと思いながら、一晩まんじりともせずに過ごしたあの頃の愚者の自分が懐かしい。それから半世紀以上も経って、少しは賢者になったのだろうか・・・いやいや、本質的には、あまり変わっていない気がする。ともあれ、聞いて良かった。さきほどの永平寺風でいえば、こうなる。

 ひとに聞くことを恥じたり、おそれたりしてはいけません。むしろ、ひとに聞かないで、知ったかぶりをしたり、いつまでも知らないままでいることを恥じるべきです。




(2018年8月27日記)


カテゴリ:エッセイ | 10:37 | - | - | - |
徒然297.「bed」の意味

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1. 私は、今年の夏は、東南アジアに滞在している。友達と会い、ドリアンと美味しい中華料理を味わい、少し贅沢なホテル・ライフを楽しむためである。現地でタクシーに乗ってよもやま話をしていたら、私のことを「日本人か?」と聞くので、「そうだ。」と答えると、笑いながらこんな話をしてくれた。シンガポールのチャンギ空港から市内に向かうタクシーの運転手仲間の間で、近頃こういう小話が交わされているそうだ。

 あるとき、妙齢の日本人女性が、空港からタクシーに乗り込んだ。そして、いきなり曰く「I want to go to bed.」

 その運転手は、心底たまげて「be...bed?」と聞き返したそうだ。するとその女性は、「Yeah! I wanna bed.」という。運転手は、まさかと思ってバックミラー越しにその女性を見ると、多少の怒りが加わってか、妙に色っぽく見えた。

 運転手は、あるいは本当かと思うようにもなったが、やはりまさかと思って、「Which hotel are you going?」と聞くと、ますますご機嫌を損ねたようで、「I said “bed”.」と言われてしまった。

 いや、これは困ったと思った運転手は、地図はあるかと尋ねたら、ハンドバックの中を探し始めた。しばらく経って、クシャクシャになった紙を出してきた。それにはシンガポールの地図が描かれていて、「Bedok(ベドック)」に、赤い丸が打たれていたそうな。


 ちなみに、ベドックは、チャンギ空港からほど近いところで、大型ショッピングモールや駐在員用のコンドミニアムが多くあるベッドタウンである。元は、水源地があったところだ。全く知らない人のこととはいえ、同胞の話であるから、顔が赤くなる思いであるが、英語の発音には気をつける必要があるという一例である。

2. 話は変わるが、昔々、やはり「bed」の話で、赤面したことがある。職場関係の研修所で、夜間に泊まり込んで、英語の授業を受ける機会に恵まれた。受講生は男女を交えて10人ほどで、講師はやや皮肉屋のイギリス人である。

 その晩の授業が終わり、まず、男性の受講生が立ち上がり、礼を言って教室から出ようとした。次に女性の受講生も同じようにしたので、講師が、「これからどうするの?」と気楽に尋ねた。

するとその女性は、「I’m going to bed. 」と答えたので、私は「ああ、教科書通り言ってしまった。」と、恥ずかしくなった。講師の方を見ると、これまたびっくりしたようで、固まっている。後から聞いてみると、やはり「この二人は出来ているのか」と思ったそうだ。

 確かに我々が中学生の頃に習った英語の教科書には、「I’m going to bed. 」というのは、単に「これから部屋で寝ます。」という程度の意味しかなかった。しかしその表現が確立してから時が経ち、話すシチュエーションによっては、そんな単純な意味ではなくなったのである。

3. また話は変わるが、同じようなことが、私が高校時代に習った「土砂降りの雨」を表す「It rains cats and dogs.」という表現にも見受けられる。その時は、「猫や犬がなんで土砂降りと関係あるんだ?」と思わないわけでもなかったが、何しろ教科書にも載っている表現だからと丸暗記した。

 ところが、今時、アメリカ人にこんな表現を言っても、ポカンとするばかりである。それもそのはずで、これはアメリカ開拓時代の言い方なのである。当時のアメリカでは、屋根は粗末な板敷で、天井には家畜の餌の藁が置いてあり、しばしばそこに犬や猫が隠れていた。それが、大雨が降って屋根板に激しく打ち付けると、びっくりして天井から落ちて来たそうな。だから、こういう表現が出来たそうだ。

 そういうわけで、言葉というのは、そのときの時代背景や人々の感覚によって、いかようにでも変化していくものである。だから私も、「聞くのは一瞬の恥、聞かぬは一生の恥」という精神で、これからも英語に立ち向かっていきたい。





(2018年8月22日記)


カテゴリ:徒然の記 | 20:21 | - | - | - |
ドリアン図鑑

ドリアンの外観


 私は、王様の果物といわれるドリアンを、こよなく愛する一人である。ドリアンの魅力については、この悠々人生のエッセイでも何度か取り上げている(その1その2)。ドリアンの原産地はマレー半島である。話は飛ぶが、実はバナナの原産地も同じくマレー半島で、私は種が一列に並んで入っている小さいバナナの原種を見たことがある。ただ、不味くてとても食べられたものではないそうだ。

 それと同様に、カンポン(田舎)産のドリアンには、かつては色々な種類があった。種の多様性というものだろう。ドリアンといえば、あのトゲトゲの果実を開いてみると、黄色の実が現れるのが普通である。ところが、私が一番驚いたのは、カンポン産の中に、黄色ではなくて文字通り「ピンク色」のドリアンがあったことだ。食べてみると、なかなか美味しかった。地元の人も、これは珍しいと言っていたほどだ。その他、味にしても、大きさにしても、実の色にしても、まるで日本の蜜柑や林檎のような多様性がある。問題は、果実を開いてみなければ、味の良し悪しが分からないことだ。2,000円近い高いお金を払って買ったのに、ひどく不味かったでは、がっかりする。そういうわけで、近頃はドリアンの売り手の方も工夫をして、美味しいドリアンにはブランドを付けて売るようになってきた。

 なかでもトップ・ブランドが、「猫山王(Musang King)」(1,000円/kg)で、これは掛け値なく美味しい。その代わり、普通のカンポン産のドリアンと比べると、値段は倍ぐらいになっている。その他、「D24 XO」(750円/kg)など、様々なブランドが育っている。私の現地の友人から、そうしたブランド化されたドリアンについての資料を貰ったので、私の心覚えのためにも、下に掲げておきたい。

ドリアンの実だけを取り出したもの


 ところで、現地で言われるのは、ドリアンがあまりに強烈な果物であるだけに、色々な伝説がある。それを集大成したものが、次の6つのタブーである。ただ、私は、昔の日本で言われた「食べ合わせ」(「天麩羅と西瓜は同時に食べるな」など)のようなもので、(2)のアルコール以外については、本当かどうかは、かなり疑わしいと思っている。

  (1)カフェインとともに食べないこと。
  (2)アルコールとともに食べないこと。
  (3)蟹とともに食べないこと。
  (4)コーラとともに食べないこと。
  (5)乳製品とともに食べないこと。
  (6)茄子とともに食べないこと。

 ドリアンを巡る話は尽きないが、最近は中国経済の急拡大に伴い中国がものすごい勢いで輸入するようになって、価格が高騰するようになった。だから、高級なブランド物は、あっという間に価格が2倍から3倍になって、地元では金持ちはともかく、普通の人はカンポン産のドリアンしか手が出なくなった。そういう状況を見て、ドリアンの産地のプランテーション農園にも、新規参入が相次いでいる。私がテレビで見たのは、なだらかな丘陵地帯で、いかにもかつてはパーム椰子が植えられていたようなところに、ドリアンの苗木が幾何学模様を描いて整然と植えられている情景である。しかも、個々の苗木の根元には散水装置まで設置してあって、その稼働状況をビデオで監視している。これには驚いた。これらの最新鋭の農園が本格的に生産する頃には、ドリアンの価格が再び安くなることを祈りたい。

 その反面、一部の農園で行われていると言われているのが、成長促進剤の使用である。日本の「桃栗3年、柿8年」の伝でいくと、ドリアンは、柿と同じで果実が生るまで8年かかる。しかも、果実が大きくて重いものほど高く売れる。だから収穫までの期間を短縮したり、果実を大きくしようと化学物質を使うのである。日本でも種無し葡萄の作出に使われているジベレリンではないかと思うが、消費者にとってあまり気持ちのいいものではない。








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(2018年8月21日記)


カテゴリ:エッセイ | 19:29 | - | - | - |
アート・アクアリアム

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 この夏は、まだ始まったばかりだというのに、猛烈な暑さである。7月の平均気温は平年より2.8度も高い。一時は絶対値で40度もあったほどだ。ということで、せっかくの土曜日だから、出掛けるにしても、暑くないところと考えて、日本橋の三井ホールで行われている「アート・アクアリウム 2018」に行くことにした。

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 入場すると、廊下の天井に格子があって、その一つ一つに琉金が入ってゆらゆらと動いている。背景に立体的な鏡があるので、その姿があちこちに反射して、何尾もいるように見える。江戸時代に、紀伊国屋文左衛門という目端の効いた商人が、大火で焼け野原になった江戸の町へ、木曽の木材を運んで大儲けした。大金持ちとなった文左衛門は、その屋敷の天井にギヤマンつまりガラスを張って、金魚を浮かべて悦にいったと聞いたことがある。それはこういうものだったのかと思ったのだが、この展示は、まさにその話をヒントにしたようだ。

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 会場に入ると、全体に暗くしてあって、色々な形の水槽があり、そこに当たる光の色が刻々と変わる。オレンジ色、紫色、青色、緑色、赤色、昼光色と、様々で、もちろんそれに応じてその色を反射する金魚や緋鯉の見え方も変わっていく。写真を撮る時はこれがカメラマン泣かせで、昼光色の光が当たっていないと、色がめちゃくちゃになってしまう。例えば、真っ赤な模様のはずの金魚が、何とまあ、真っ黒な模様に写ってしまうのである。そんな中で何とか写すことができたのが、別途の写真である。

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 ちなみにこの会場に入る時に確かめたところ、ビデオやフラッシュによる写真だけが禁止されていて、あとは良いという。インスタ映えを狙っているのだろう。「花魁」のイメージが元に作られた不思議な形の水槽などは、インスタグラムに写真を載せれば、確かに見栄えがする。

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 最初に、緋鯉が立派なのには驚いた。それもそのはずで、これらは緋鯉の本場である山古志村の産だという。値段を言うのも品がないかもしれないが、一匹が何百万円もしそうだ。

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 金魚は、2000年ほど前に、中国南部の鮒の一種(ヂイ)から偶然に赤い個体が生まれ、それが代々にわたって飼育され、新品種が選び抜かれて今日に至っている。日本に渡来したのは今から1500年ほど前の室町時代である。その時は、今でいう「和金」つまり流線形をした赤い小さな魚だったという。それが、今では多くの品種に分かれている。

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 「水泡眼」は、ほっぺたが膨らんで、ゆらゆらと揺れている珍しい金魚だ。「琉金」は、口が突き出た卵で尾が短めのスカートをはいているように見えるありふれた金魚だが、観ていて飽きない。「蘭鋳」は、まるで卵に飛行機の尾翼を直接くっつけたような金魚だ。よくこんな姿で泳げるものだ。

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 黒の「出目金」は、横から見るとまるで怪獣映画に出てきそうな剣呑な顔つきをしている。紫色の照明に照らされて、ますます不気味に感じる。ところが、水槽を上から覗き込むと、印象は全く変わって、よちよち歩きの幼児のように可愛い。その次のスマートな流線型で尾びれが長いのは、いわゆる「コメット」だ。欧米に渡ってからその地で作出された品種らしい。

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 琉金タイプの金魚にも、色々ある。赤白黒の色の派手な金魚は「キャリコ」である。頭に何か被り物をしているように見える金魚は「オランダ獅子頭」だ。その泳ぎ方を見ていると、実に可愛いのである。最後は、頭だけが赤くて、後は真っ白の「丹頂」である。一見して涼やかで、凛々しい。

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 私などは、こうして緋鯉や金魚の種類だけを鑑賞して十分に楽しんでいる方だが、このアート・アクアリウムは、更にまた水槽の形や照明で飾ろうとする。これを「アート」というのか、魚にとっての「迷惑」というのか、私にはよくわからない。






 アート・アクアリアム(写 真)


(2018年8月 4日記)

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