国内の別荘より海外のホテル

ランカウイ島


 私より10歳ほど年上の世代の人達は、かなりの人が別荘を持っている。八ヶ岳、軽井沢、蓼科、伊東などが多い。そして、仲間内で、楽しそうに別荘ライフの話をする。それは良いのだが、別荘でどういう過ごし方をしているのかというと、例えば週末に3日滞在するとして、何と最初の日は、あちこち掃除したり、庭の雑草をとったり、買い出しなどをする雑事に追われて、やっと落ち着いて暮らすのは翌日からだそうだ。また、それが冬場だと、零下20度で氷柱が下がっているというし、その中でストーブを焚いても、建物が芯から冷え切っているのでなかなか温まらないので寒くてたまらないというし、夏は蚊の大群に襲われるしで、大変なご苦労をされているようだ。そういう一等地にある別荘の価格は、少なくとも3000万円はするだろうが、それだけのお金をかけて、自らが掃除人、管理人のお仕事をし、はたまた冬場に建物が温まるまで寒い思いをしたり、夏は蚊にくわれたりするというのは、私に言わせれば酔狂というか、何とも馬鹿馬鹿しい限りである。

 しかしながら、私の世代になると、別荘を持っているのは大学時代の仲間では25人に1人くらいで、非常に少ない。私と同じように考えるのか、それともお金がないのかわからないが・・・たぶんその両方なのだろうけれど・・・ともかく少ないのである。その僅か1人の別荘所有者に招かれた友人の話によると、その所有者は「いやもう、これが建って15年も経つからあちこちにガタが来てね、今月はペンキの塗り替えとベランダの床の張り替えで大変だったよ。」と、嬉しそうに言ったそうだ。それを聞いて友人は、「日曜大工どころか、家の家具を動かすことすら面倒な自分には、別荘なんかお金があっても絶対に持ちたくない。」と、私と同じような感想をもったそうだ。

 別荘の代わりに、いわゆるリゾートクラブに入っていて、箱根、下田、蒲郡などに出掛けるというスタイルの人が少々いる。また、近頃は貸別荘ということで、夏の一定期間だけ本物の誰かの別荘を借りるということもできるそうだ。私は、こうしたやり方は、非常に合理的だと思っている。良いクラブなら全国各地の景勝地にあるし、そもそも会員制とはいっても普通のホテルだから、自分が掃除人になる必要はなくて、ホテルの人たちがやってくれるからだ。貸別荘も好きな場所を選択できるという意味では同様だ。しかし、残念ながら、私にはこうしたスタイルはとりえない。およそどのホテルも僻地のリゾートにあるから、車がないと行きにくいのである。私は、職業柄、車で事故を起こすとよろしくないので、この20年あまり運転しないことにしているから、自家用車を持っていない。東京にいる限り、通勤時はオフィスの車が迎えに来てくれるから、それで何の痛痒も感じないのだが、週末に田舎に行こうとするときには、困ってしまうというわけだ。

 それで、私は、のんびりするために、海外のリゾートに行くことにしている。成田空港も羽田空港も、私の自宅から1時間以内で行ける距離にあるから、どちらの空港に行くにしても電車にサッと乗って着くから便利である。それに加えて、例えば東南アジアに行くには、エコノミークラスなら1人あたり往復高々5万円から6万円の航空機代を払えば、大抵のところは7時間ほどで着く。渡航先では、5つ星ホテルに泊まることにしている。もちろん、そういうホテルの部屋は非常に広くて、設備はこの上なくゴージャスそのものである。日頃は都心の狭いマンション住まいだから、感激する。コンシェルジュをはじめとするスタッフは親切でよく訓練されていて、打てば響くほどだ。馴染みになったら私の好みや何やらを良く覚えてくれていて、非常に気持ちよく過ごせる。加えて、食事がとっても美味しい。それで1泊いくらかというと、もちろん国、都市、ホテルにもよるが、日本のビジネスホテル並みの1万5000円から2万円も出せば非常に良いホテルがあるし、しかもその値段で2人まで泊まれる。ところが日本だと、これと同じようなホテルは、たぶん1泊6万円以上はするだろうし、しかも人数分の料金が発生することも多い。

 ハワイも、リゾートとしては美しくて安全で清潔だから滞在を楽しめるが、いかんせん料金が高くて、数年前に行ったときにはワイキキビーチの老舗ホテルが、3泊で24万円もした。しかも、部屋はオーシャンビューではあるものの、値段の割には設備が古くて貧弱で、あまつさえ部屋やベッドが狭くてがっかりした。そういう面から比べると、東南アジアのホテルのお得感は相当なものである。英語さえできれば、まるで王侯貴族と言うと言い過ぎかもしれないが、掛け値なくそれに近い生活が出来る。ただ、私は、英語以外の言葉といえば、マレー・インドネシア語が多少できる程度なので、タイ、ベトナムなどに行くと、街中で会話を楽しめない。だから、一般の人でも英語がある程度話せるシンガポールとマレーシアに、どうしても引き寄せられるように行ってしまうということになる。これらの国は、超近代的都市と熱帯のリゾート、それに美味しい中華料理があるし、友達も住んでいるから、何かと安心である。なお、一般の人にもそれなりに英語が通じる国という意味ではフィリピンもあるが、最近は物騒だと聞くだけでなく、そもそも土地勘がないし国民性もよくわからないので、かなり昔に一度行ったきりで、再訪しようという気がどうも起こらない。

 次に日本旅館と東南アジアのホテルの食事を比較してみよう、最近は日本旅館でも、1人あたり6万円から10万円近くとるところがある。夕食と朝食付きではあるが、そういうところに限って、豪華という名の無駄な食事がいっぱい出て、食べたくないのに無理に胃袋に詰め込むという仕儀となる。こういうスタイルは、一泊旅行の宴会の名残りなのだろうか。国際標準とは、程遠い気がする。特に私はダイエットをしているということもあって、何をどれだけ食べるかというのは、自分でコントロールしたいので、これではかえって困るのだ。

 その点、東南アジアの特にシンガポールとマレーシアでは、中華料理がともかく美味しい。それも、広東、福建、北京、四川、客家など、バラエティに富んでいるものが味わえる。しかも、量は自分でいかようにでも調節できる。とくに飲茶(やむちゃ)は、好きなものを少しずつ食べられて、選ぶ過程から始まって口に入れるまで幸福感がある。それに、季節になると、私の好物のドリアンという果物の王様が街中で売られている。これを食べに行くだけでも、とてつもなく幸せだ。そのほか、ドラゴンフルーツ、スターフルーツ、マンゴスチン、パパイヤ、マンゴー、ジャックフルーツなど、色々なフルーツがあって、日系のイオンなどの総合スーパーで安全に清潔でしかも安く買える。

 もちろん、海外のどこに興味をそそられるかというと、本当はボストンやニューヨークなど馴染みのアメリカの大都会に行きたいところである。文化的な満足度は非常に高いからだ。だからこういう地域なら、費用は多少かかっても、行く価値は十分にあると思っている。しかしながら、東方に飛ぶと時差がきつくてたまらないから、旅行の期間としては少なくとも10日くらいはほしい。だけど今の仕事では、残念ながらその余裕がない。そういうことで、3年前は時差の問題が少ないヨーロッパに行って各国の文化を満喫したが、最近は大都市でテロが続いているから、もはやあまり行く気がしない。一昨年はオーストラリアに行ったが、現地の印象はアメリカ西海岸とほとんど変わらないので、オセアニアはもう結構だ。そういうことで、行き先としては、ついつい引き寄せられるように、東南アジアを選んでしまうのである。時差は1時間か2時間だし、前述のように飛行機に7時間余りも乗っていれば着いてしまうから便利だ。

 もう少し若い頃は、マレーシアの場合だと、ティオマン島のような熱帯の海に潜るのが大好きだった。海中に色とりどりの熱帯魚が泳いでいて、それを直接見るのが、何といっても楽しい。ただ、着ているシャツの上から日焼けするほどの強い日光には参ってしまうが、それを除けば、青い空、白い入道雲、緑に椰子の木々、真っ白な砂浜、どこまでも赤く広がる日没など、どれをとっても、この世の楽園だと思ったものである。現在では、ランカウイ島(冒頭の写真)、パンコール島などで、そういった熱帯の海を味わえる。

 ただ、それから歳をとって現在に至ると、熱帯のリゾートに行ってもかつてのように連日、海に潜って熱帯魚を見るというようなことはしない。たとえしたとしても、一滞在当たりほんの数回で、あとは、のんびりと海や砂浜を眺めながら本を読み、iPadを眺めて駄文を書いて過ごしている。海外でもWifiがある限り、国内にいるのと同様に新聞は読めるし、銀行取引はできるし、しようと思えば株取引だってできる。そして、気が向けば写真を撮りに行くという過ごし方をする。

 そのほか最近の関心は、都市に滞在して歴史と異文化に触れることである。海峡植民地だった頃のペナン島、マラッカ海峡のマラッカ、シンガポールなどは、本当に良かった。特に前二者は、最近、世界遺産に登録されたことをきっかけに整備されてきたからこそ、私のような外国人観光客でも、系統的に理解しながら簡単に回ることができるようになった。とりわけ、こういう地域の中国人の祖先は、食うや食わずといった苦しい状態にあった17世紀から19世紀にかけて次々に祖国を後にし、艱難辛苦の末に現在のような子孫繁栄の礎を築いた。その過程を想像するにつけ、心から同情するとともに、自分の通ってきた道と重ね合わせて、感慨にひたることができる。

 その一方、シンガポールはまた独自の発展を遂げている。これは、豪腕の故リー・クアンユー首相が、古き良き時代の建物や街並みを全てリシャッフルして、超近代的な箱庭都市を作り上げてしまったからである。あんな強引なことをしてよいのかと思うほどだった。30年近く前のことだが、あるとき、シンガポールのシャングリラ・ホテルでテレビのニュースを見ていると、ブルドーザーが轟音を立てて古い中国人街の町並みを取り壊している。そのすぐ横では、中国の民族服を着たお婆さんが、まさに壊されつつあるその住宅兼店舗の柱にしがみついて、何か叫んでいる。その画面に流れてきたテロップを読んで、びっくりした。それには、「再開発に頑強に抵抗する老婆」とあったからである。「いくらなんでも、これはひどい。本当に可哀想なことをする。このお婆さん、家族や先祖の思い出のあるこの店と家が壊されるのが忍びなかったのだろう。」と、いたく同情をしたものだが、その一方、「早い話、上野から京成電車に乗って成田空港に向かう途中、近代的なスカイライナー電車が走るその両脇には、線路に倒れてくるのではないかと思うくらいにびっしりと木造住宅が立ち並んである。これこそ、アジアを感じさせる混沌とした市街地だ。仮にこれを一掃しようとすれば、これくらいの強権的な権力を行使しないと、こんな近代的な街並みは実現しないのか。日本ではまず絶対に無理だな。」と、日本の現状について、妙に納得してしまった。

 ともあれ、出来上がったシンガポールの、まるで豊洲やお台場のような近未来の街並みは、確かに旅行者のみならず、優遇税制も相まって世界の金持ちを引き付けてやまない。その一方、現地に滞在すると、正直なところ、監視付きで住んでいるような居心地の悪さを感じないわけではないが、安全で清潔で、全てにつき合理的で効率的なところは世界一であることは確かだ。その代わり、ペナンやマラッカのような歴史や文化や(良い意味での)アジア的猥雑さを感じさせるところに欠けるというのが私の唯一のマイナスのコメントであるが、一人当たりGDPが世界10位という経済力からすれば(日本は22位)、そんなことは小さな問題かもしれない。いずれにせよ、中心部から30分以内に世界一流のビジネス街、ホテル街、カジノ、熱帯リゾート(セントサ島)が並んでいるという国は、他にまずないだろう。

 そういうことで、私の別荘は、それこそ世界中にあるというつもりで、関心と興味のおもむくまま訪れて、そこでの滞在を楽しんでいる。滞在先では、写真を撮り、現地の新聞を読み、人の話を聞き、食べ歩き、観光地を訪ね、こうして備忘録のようなエッセイを残すことにしている。この夏も、東南アジアに行ってきた。大変によかった。寿命が数年伸びたような気がする。




(2017年9月11日記)


カテゴリ:エッセイ | 22:05 | - | - | - |
駐在員奥様レポート

クアラルンプールの現代の市場


 昔の資料を整理していると、思いがけない宝物が見つかることがある。先日は、私が東南アジアの国で駐在員をしていたときに、家内が「奥様レポート」と題して、いわゆる社内報に掲載した文章が出てきた。2人で読み進むうちに、若さに任せてひたむきに生きていた当時のことを思い浮かべて、懐かしくなるやら、何とも切なくなるやらで、非常に感慨深いものがあった。改めて、家族思いの家内に感謝しつつ、その勇気ある微笑ましい冒険を記念して、ほぼ同じ文章をここに掲げておくことにしたい。なお、ここに掲げた市場の写真は最近のものであるが、もはや近代化がかなり進んでしまって、家内が買物をしていた35年前の頃のプリミティブな時代の名残りは、残念ながらほとんど感じられなくなっている。

クアラルンプールの現代の市場






   「奥様レポート」


 洋の東西を問わず、買物は育児とともに主婦の大事な仕事です。そして、買物のコツは、要するに「新鮮」で、「質のよい」そしてなるべく「安い」ものを手に入れることだと思います。

 この国の首都である当地は、「豊かな木々の緑の中にしゃれた建物が立ち並ぶ近代的な都市」というのが日本からの旅行者の方が異口同音にいわれる感想です。外国人が日常の食卓を飾る買物をするには、すばらしいショッピング・センターの地階に政府直営のスーパー・マーケットがあり、少なくとも種類の豊富さという点では日本の地方都市のスーパーにもひけをとりません。また、最近では日本のスーパーが進出をしはじめており、おかげで日本食品で手に入らないものはないほど恵まれています。

 冷房のきいた部屋で「きれいに」買物するには、スーパーほど便利なものはありません。しかし、生鮮食品を買おうとしますと、質はともかく、新鮮さでは及第点をつけかねます。値段にいたっては完全に落第です。でも外国人の主婦にとっては、少なくとも母国並みの環境で言葉もほとんど使わずに買物をすますことができるのは、非常にありがたいといえましょう。そこで、私ども外国人の主婦の中でもこのようなスーパーだけで買物をすますという人達もいます。しかし、私のように、これだけではあきたらず、特に生鮮食品について、新鮮さを求めて、地元の伝統的な青空市場に出かけて買物をするという人達もいます。そこで以下では、このローカルの典型的な市場にご案内したいと思います。

 当地では大小様々な青空市場がありますが、その大半が中国人(全人口の35%)によって運営されているといっても言いすぎではありません。 毎朝たつ店の数、品物の量、そして繰り出す買物客を見るにつけ、中国人の食に対する意欲には並み並みならぬものがあり、それがいつも市場に活気を与えているのです。

 まだ暗い明け方から、ぼつぼつ店が開きはじめます。店といっても俄か作りの屋台のような「露店」で、小型トラック、バイク、自転車やリヤカーなど思い思いのものを使って、どこからともなく荷物を引っ張ってきては適当なところに開店します。とはいえ、よく注意してみると同じ人は大体同一の場所に陣どっています。

 露店は、八百屋、魚屋、豚肉屋、鶏屋をはじめ豆腐屋、卵屋、焼豚屋、果物屋などの食料品店や、花屋、布地屋、靴屋、玩具屋、衣料品店、雑貨商などさまざまで、これだけでも約200店はあるでしょう。これらの青空露店は、中心となる一棟の建物(市場の原型で中に70店ほど入居)の周辺の広場のような道路をすきまなく埋めています。

 さて、いつものように、朝、主人と子供を送り出した後、車で10分ほど走り、駐車場に車をとめて、汚れてもよい服装と靴で道に降り立ちます。市場に近づくにつれ、あたり一面にただよう異臭に鼻が驚きます。周囲の店に並んでいる豚の頭、耳、爪のついた手足からはじまって、羽をむしられた鶏、皮をはがされた蛙などを横目で見つつ、店と人垣の間を縫って進んでいきます。そろそろ鼻も多少のことでは感じなくなります。今日はどの店に新鮮なものがあるかと一軒ごとに覗きつつ、外れの方まで一通り見ながら歩いて行きます。

 当地の食べ物には果物以外には季節がなく、年がら年中、同じものが出ています。加えて、種類に乏しいので、いつもながら同じものを買うことになります。でも、多少は旬の時期があるようで、きゅうり一本でも美味しいものに巡り合うと、その日の夕食には家族の誰かが必ず気がつきます。おかげで気がぬけません。

 青空市場の常識として、もともと正札というものはなく、また店どうしの協定価格のようなものはないので、買いたい人が売り手の言い値をなるべく値切って買うことになります。この「小さな商談」の時、決してあわててはいけません。特に、英語で聞くと、外国人であることがすぐにわかり、高い値をふっかけてきます。そこで恥ずかしがらずに中国語で「いくら」と聞いてみます。よかった、通じました。これは買物に来るたびに中国人の買物客の会話を注意して聞いて何とか習得したものです。もちろん、お金の数え方も大事です。複雑でわからないと、親しくなった八百屋の気のいいおばさんに確かめてみます。発音を直してくれました。ありがとうおばさん。にやにやしています。今日はなるべくここで野菜を買うことに決めました。

 さて、魚屋を覗いてみましょう。名前も知らないような魚がいくつも並んでいます。ところが、店の人は魚の名前を尋ねても知らないことが多く、要領を得ません。仕方なく、じっくり魚を観察して「イトヨリかな」などと考えます。もっとも私としても魚の知識は貧弱ですから、最終的には目をつぶって買うことになります。もし失敗して変な魚を買ってきても大丈夫。自宅のワンちゃんが綺麗に平らげてくれます。

 魚の売り方としては、日本の魚屋さんのように切り身はほとんどなく、あってもたとえば直径20センチ、長さ70センチほどもある魚を大胆に丸切りするだけです。日本人がよく立ち寄る店では魚を料理しやすいよう捌いてくれますが、随分と高いようです。日本人は高くとも言い値で買ってしまうことを、店の人はよく知っているのでしょう。しかし私は、見よう見まねとはいえ簡単な中国語を話し、あろうことか顔も非常に似ているとのことで、当地の中国人から見ると間違いなく私も中国人なのだそうです。それはどちらでもいいのですが、おかげで私の場合、「外国人価格」に悩まされずに同じ品物を買うことができます。また、買い方としては、日本と違ってその店の信用で買うという習慣はないので、どの店であろうと自分の目で見て品物の鮮度と値段だけで判断し最も良いものを見つけ出して買うことになります。このような買い方は時間もかかり最初は不安感も手伝って面倒でしたが、慣れるとこれが買物の原点ではないかと、かえって楽しみになってきました。

 30分ほど市場の中をうろうろしていますと、そろそろ荷物が重く、肩もこってきました。とにかく駐車場にいったん引き上げ、また出直してきましょう。腕も疲れ汗がふき出してきましたが、もう一度市場へ、二回戦です。

 冷気の効いたスーパーのことを考えれば、青空市場で時間をかけ汗もかいて苦労して買うのは何か滑稽な感じもします。でも、家族に新鮮で美味しいものを食べてもらいたい、できれば家計の足しにもなるのかな、いや私もこんな買物を楽しみにしているのかな、などと考えながら、今朝も青空市場に向けて車を走らせる私です。




(2017年9月 9日記)


カテゴリ:エッセイ | 20:20 | - | - | - |
国際鉄道模型コンベンション

005.jpg


 国際鉄道模型コンベンション(第18回)に行ってきた。2回目である。前回は、2012年8月の第14回だったから、5年前のことだ。そのときは、鉄道模型そのものより、ジオラマのレベルが高くて、それに感心したものである。今回も、入ってすぐ左手に、東京駅の模型を中心に、小さな電車の模型が走り回っていた。東京駅の模型がよくできているなとつくづく見入っていると、何とあちこちに隣のトトロや猫バスなど、スタジオ・ジブリにちなんだ人形があって、その遊び心あふれる仕掛けに、つい笑ってしまった。そうかと思うと、黄緑色の山手線の電車が走る脇に、コンビニや衣料品ストアの看板が掲げられた量販店の模型がある。その屋上に舞台があって何かのショーをやっていて、大勢の人がそれを見ている。その次には、桜の木々があるのんびりした山あいの地域に跨線橋のある駅があり、そこを東西に2本の路線が走っている。中央線だったら、藤野の辺りはこんな感じだ。作者は、こういうところのご出身かもしれない。何かジオラマを作るとなると、日常、目にしているところか、あるいは出身地の情景が目に浮かぶはずである。

005.jpg


005.jpg


022.jpg


 米を商っている小さな商店があり、その前を蒸気機関車が走る。これほど小さな模型なのに、ちゃんと蒸気を吐いているから面白い。考えてみれば、いまどき本物の蒸気機関車に長時間乗った経験のある人は、あまりいないのではないだろうか。実は私は、昭和31年、父の転勤に伴って神戸から福井まで延々と蒸気機関車に乗ったことがある。何時間かかったのかは、もはや忘却の彼方であるが、ともかくあの固い直角の座席にもう嫌というほど長時間座っていた。途中、機関車の煙に含まれている煤のために、常に非常に臭かったし、いざ着いてみるとタオルで顔を拭ったら真っ黒になったことを覚えている。蒸気機関車とは、そんな不快な経験のある乗り物だったのだけれど、今や古き良き時代の鉄道のシンボルとして脚光を浴びているから、ノスタルジーのなせるものとはいえ、誠に不思議なものである。ちなみにその当時の町中には、このジオラマのような商店ばかりだった。更に先に進むと、山中の川沿いの温泉町にある温泉ホテルのような建物がジオラマで作られている。実によくできていて、今にも川の流れの音が聞こえて来そうである。もちろん、電車が走っているが、むしろホテルの建物や川の情景の方に、目を奪われた。

005.jpg


005.jpg


 おやおやこれは、丸型ジオラマとでもいうべきものだ。丸くなっている土台の上に、ホテル、そのプール、一軒家の家々がびっしりと立ち並び、電車は半分だけ地上に出て走り回っている。そうかと思うと、有名な「関東学院六浦中学校・高等学校鉄道研究会」の、藤沢から江ノ島にかけての街並みが本物そっくりに再現されているジオラマがある。鎌倉大仏が鎮座ましましているし、よく出来た街中の建物の間を縫ってチョコマカ走り回る江ノ電が実に可愛い。自分の鎌倉の街を愛情を持って再現しているから、その情熱があちらこちらに感じられて、実に素晴らしい。家内も、じっと見入っていて、後から、「これが一番、良かったわ。先輩から受け継いで、どんどん良くして来たのよね。」と話していた。なるほど、その通りである。

005.jpg


005.jpg


005.jpg


 プラレールのコーナーがあり、子供たちが熱心に取り組んでいる。平面的なコースは、小さな子たちばかりだが、立体的なコースはさすがに大きな子たちが中心だ。それにしても、三次元の集積回路と同様に、これは誠に複雑な構造である。見ていて、目が回ってきた。先を急ごう。あれあれ、これはレゴではないか。人形もそうだし、走り回る電車の先頭の斜めの線などで、それとわかる。一昔前の単純でシンプルなレゴとは全く違い、表現力が全く違って完全な別物になっている。東京や名古屋にレゴランドができているが、これなら、子供たちも面白いと思うだろう。

005.jpg


005.jpg


005.jpg


005.jpg


005.jpg


005.jpg


005.jpg


 ああ、これもすごい。ミニジオラマだ。多言を弄するよりも、写真を見ていただきたい。山深い地域を流れる川、藁ぶき農家、池などがある。ごくごく小さなものだけど、林間鉄道の模型で、トロッコ電車が木橋を渡っているジオラマがあり、更にその先には小さいながらも転轍機がある。これらになぜか引き付けられて、しばし見入ってしまった。おやまあ、これは面白い。小さな丸いガラスの容器の中に、苔などが植えられていて、その周りをミズスマシのようにチョコマカと電車が走っている。これにも、思わず目を奪われた。

005.jpg


005.jpg


005.jpg


 「スイッチバック 山と河川の風景」という作品も、単に電車が左右に行ったり来たりするものに過ぎないが、ついつい、その動きを目で追ってしまった。列車の前に掲げられている「能登」「白山」「雷鳥」「白鳥」「はくたか」のプレートがある。実は、私はこれらすべてに乗ったことがあるから、それだけでも懐かしくて、万感、胸に迫るものがある。

005.jpg


005.jpg


005.jpg


 会場を4分の3ほど回ったところで、いささか疲れてきたから、目の前にあるテーブルの椅子に座った。すると家内が、「荻野家の峠の釜めしがあるわ」という。おっと、こんなところにあるとは思わなかった。昔、信越本線経由で北陸に向かうときに、横川駅で機関車の連結作業があって時間がかかったので、そこで売られていたこの釜飯をよく買って車内でいただいたものだ。懐かしくなって買い求め、2人でじっくりと味わった。気のせいか昔と比べて、味が薄くなったような感じがしたが、今時の味に合わせて健康志向になっているのかもしれない。食べ終わったら、分別回収に協力だ。

005.jpg


005.jpg


 ああ、これも素敵な組み合わせだ。お城をバックに、新幹線のドクター・イエローが走っている。どこか現実離れがする感は、お城の屋根の薄緑と新幹線の黄色の対比から来るのかもしれない。それから最後に、宮下洋一さんが作られた精巧なジオラマを見物した。自動車の形からして、これは昭和30年代前半の頃だろう。駅前の定期券発売所、大衆食堂と酒場、野球をしている子供たちの姿まであり、懐かしさで胸が一杯になる。鉄道模型を見に来たつもりだったが、ジオラマで表現された昔の風景の方に、心が奪われたようである。かくして、暑い夏の厳しい気候の中にもかかわらず、半日ほど2人とも童心に帰って、じっくりと楽しむことができた。



(2017年8月20日記)


カテゴリ:エッセイ | 22:39 | - | - | - |
イスラム美術館

023.jpg



1.MRT鉄道

000.jpg


 クアラルンプールのイスラム美術館に行ってきた。国立モスクに隣接している。最近、同市内ではモータリゼーションが飛躍的に進んでいる一方、道路の整備が追い付かず、市内は慢性的に渋滞している。そこで、同時に整備が進められている鉄道網を利用してみることにした。公共交通機関で、今年の5月に全線開通したばかりのMRT(The Klang Valley My Rapid Transit)という鉄道に乗った。路線図を見ると、これはクアラルンプールを南東から北西に向けて斜めに貫く路線である。両端の一部が先に完成して既に電車が走っていて、中心部の7駅だけが未完成だったが、それがようやく出来たというわけだ。

000.jpg


 最新のサンウェイベロシティ・ショッピングモールと、古くからあるイオン・ショッピングセンターからほど近いマルリ駅からMRTに乗った。平日の午前10時頃だったから、駅で待っている人は、ほんのちらほらといるだけだ。「タッチ&ゴー」というプリペイドカードを買って改札を抜ける。日本のスイカと同じ要領だ。読み取り機の反応は、なかなか良い。プラットホームには、ホームドアがある。高さは、大人の顔くらいだが、転落防止にはこれで十分だろう。ホーム上の案内スクリーンを見上げると、青地に白抜きの文字で、縦に「1st. 3min.、2nd. 10min.、3rd. 17min.」と並んで表示されているので、あと3分後に電車が来そうだ。待っていると、MRT電車が静かに到着した。お台場のゆりかもめのような無人運転の4輌編成で、車体はさほど高くない。乗ってみると、座席は固いプラスチック製である。これがもし日本で季節が冬だと、冷たくてとても座っておられないところだが、ここは常夏の国だから、この方が良いし、掃除も簡単なのだろう。ただ、車輌は小さいから、1輌当たりの輸送力は、日本の首都圏の鉄道車輌と比べれば、かなり少ないのではないかと見受けられる。

 事前に調べて、イスラム美術館は国立モスク(現地語で、MASJID NEGARA)の裏手にあることがわかっていたので、そうするとMRTの路線上のパサール・セニ駅(中央マーケット駅)が最寄りの駅だ。そこで、グーグルの地図でパサール・セニ駅からイスラム美術館への道順を表示させたら、川の向こう側に行くのに、わざわざ隣のクアラルンプール駅に行ってまた戻るという馬鹿馬鹿しいルートが表示されて、しかも徒歩22分と出た。そんなはずはない。せいぜい10分くらいの距離のはずだ。地図をよくよく見ると、川の上に細い道があって、向こう岸の国立モスクに繋がっている。たぶん、この道の方が正解だ。東京でグーグルの地図が初めて利用され始めたばかりの時のように、当地では、グーグルの地図はまだ発展途上のようだ。

 乗った車輌は、マルリ駅のいくつか先で地下に潜る。そして、再び地上に出たと思ったら、パサール・セニ駅に着き、そこで降りた。駅のプラットホームは地下2階ほどのところにあってとても涼しいくらいだが、そこから長いエスカレーターで上って地上に出ると、むっーとする暑さが体にまとわりつく。駅のすぐ脇には泥川が流れている。「あれあれ、これはひょっとして、クアラルンプール(泥川が合流するところ)の語源となったクラン川(そのすぐ北の地点で、ゴンバック川と合流する)ではないか。では、この川を渡ればよい。」と思いつつ見回すと、国立モスクはこっちという矢印表示がある。どうやら川の向こう岸に、やはり交通機関のKTMコミューターの駅があって、それとパサール・セニ駅が歩道橋で繋がっているらしい。なるほど、これがグーグルの地図上では、川の上に細い道として描かれていたもののようだ。

 ところで、例えば東京の新宿だと、JR、東京メトロ、都営地下鉄、小田急線、京王線、西武新宿線などが集まっていて、慣れない旅行者には、非常にわかりにくい。ここクアラルンプールも、数え上げれば、MRTの1路線、KTMコミューター3路線(うち、1路線は未開通)、LRT3路線に加えて、KLモノレールなるものがある。そのほか、KLIAエクスプレスとトランジット2路線があって、これは国際空港や行政首都のプトラジャヤに行く。合計10路線だ。その多くは、KLセントラル駅を通るから、その点はよく出来ている。だから、路線図は、この駅を中心に見ていけば、わかりやすい。問題は、駅どうしが繋がっているけれども、かなり歩かなければならないようなところである。このパサール・セニ駅もそんなところがあって、MRT駅からKTMコミューター駅まで、細々とした回廊のようなところを歩く。もっとも、東京でも大手町駅で乗り換えようとすると、初めての人はまごつくから、それと同じかもしれない。


国立モスク


国立モスク


国立モスク


 そういうわけで、MRTのパサール・セニ駅から歩いて、KTMコミューターのパサール・セニ駅に着いたが、国立モスクは、さらにその先だ。クラン川上の橋を渡り、迷路のような駐車場の建物を抜け、地下の歩道橋を渡って、やっと国立モスクに着いた。それをぐるっと半周くらい回って、ようやくイスラム美術館となる。


2.イスラム美術館


イスラム美術館


イスラム美術館


イスラム美術館


 イスラム美術館に着いたはずなのだが、道路の左右にそれらしき建物がある。特に左の建物は、立派なイスラム模様を施してある。これかなと一瞬思ったが、事前に調べた外見とは違う。守衛に聞いたら、これはオフィスで、美術館本体は向かい側だという。そこには、入り口こそモスク風の玉ねぎ形だが、他はがらんどうの何の変哲もないコンクリートの空間が広がっている。イスラム的な雰囲気はある。でも誰もいない。本当にここかと思いつつそちらに行き、やっと見つけた脇の階段を降りていくと、そこにようやく美術館の入り口があった。愛想のいい係員に14リンギットほどの入場料を支払って、入った。私のすぐ後に、白人の若いカップルがやって来て、こんなやりとりをしていた。

 係員「いらっしゃい。お嬢さんは、学生さんですか。」
 女性「いいえ。違います。でも、聞いてくれてありがとう。」

 学生なら、入場料が半額になる割引きがあるそうで、係員は確かめたかったのだろうけど、女性は、学生さんと若く見られて、どうやらひどく嬉しかったようだ。乙女ごころは、洋の東西を問わず、変わらない。


イスラム写真展


イスラム写真展


イスラム写真展


 イスラム教では、偶像崇拝が禁じられているから、日本の寺院のように、仏様を拝んで感情移入をするということは出来ない。だから、イスラム美術といえば、偶像に繋がるような造形ではなく、せいぜいタイル模様の延長のような幾何学模様しかないだろうという程度の認識であった。ところがまず最初の展示は、「心の旅」と称する50人の写真家の写真の展示である。中でも、イスラム教の寺院であるモスクが、主に取り上げられていた。ここで見るモスクの数々は、朝焼け、夕焼けに映し出されたり、目の前の湖に青い空と白い雲が写ったり、空の色との対比が鮮やかな濃いピンク色をしていたりして、息をのむほどに、実に美しい。時間が経つのを忘れて、思わず魅入ってしまった。しかも驚いたことに、雨上がりの森の道を、数人のマレーの子供が楽しそうに語らいながら歩く後ろ姿もある。また、父の手を引いてさも嬉しそうにモスクの階段を登る子供の姿もある。いかにも、人間らしい平和な風景だ。宗教や人種、時代を超越した感がある。私も、暇ができたら機会を作って、是非こういう写真を撮ってみたいものだと、つくづく思う。

イスラム写真展


イスラム写真展


 それから、 ミュージアムショップや図書館の脇を通って、展示室に向かう。その前に、暑い外から冷房が効く建物の中に急に入ったためか、汗がとめどもなく出てきて、シャツがびっしょりと濡れてしまった。このまま館内の冷気に当たり続けると風邪を引きかねないので、身障者トイレで着替えさせてもらった。ひと息ついたので、レストランに行くと、昼食はちょうど12時からだというから、まだ1時間ほど早い。展示を見てからまた戻ることにした。

クチ族の衣装


 いつもの通りの無手勝流で、興味の向くままに展示品を見て行く。個々の展示品に英語とマレー語の説明があるが、暗い上に字が小さいので、見辛いことこの上ない。途中で説明を読むのを諦めて、大まかな題名を眺めることにした。インド・ギャラリーでは、インドの王侯貴族の肖像画、衣装、家具などがある。テキスタイル・ギャラリーでは、アフガニスタンの遊牧民「KUCHI」(クチ)族の女性の衣装というのが誠にカラフルで、非常に印象に残った。これを着て、男性を魅惑するのだろうか。その他、中央アジア系のイスラム女性の衣服は、色使いといい、デザインといい、非常に魅力的である。そういう衣装を、上から下まで真っ黒で目しか出していない、おそらくサウジアラビアからの観光客のような黒づくめの女性が見ているのは、珍妙な風景である。ただ、宗教問題なので、事は微妙である。

マヤ文明を想起させるモチーフのイスラム模様


マヤ文明を想起させるモチーフのイスラム模様


 次に、マレー風のテキスタイルが、いくつか展示されている。今でも 街中で目にするデザインが多い。当地では、歴史的にインドや中国との貿易が盛んで、そういうところから、こうしたデザインが定着していったらしい。まあ、何というか、マヤ文明を想起させるモチーフの文様もある。これは、14世紀から16世紀にかけて全盛期を迎えたチィムール王朝が工芸を尊重して周辺国に広めさせたものだそうだ。そうかと思うと、絹でできた立派な衣装がある。これは、3世紀から7世紀にかけてシルクロードを実質的に支配していたソグド人のものだそうだ。ソグド人といえば、唐の玄宗皇帝時代に反乱を起こした安禄山は、確かソグド人の血を引いている。高校で習った知識が、半世紀ぶりに蘇ってきた。

宝石のギャラリー


宝石のギャラリー


宝石のギャラリー


 宝石のギャラリーは、非常にわかりやすい。ややゴテゴテとしているが、そのまま現代でも使えそうな飾りが多い。例えば、金地に緑や赤の宝石を飾ったパイプは、素晴らしい。青いトルコ石を使った19世紀のネックレスは、誠にモダンなデザインだ。トパーズやサファイアのネックレスも、実に美しい。

武具のギャラリー


武具のギャラリー


武具のギャラリー


 武具のギャラリーには、オスマン・トルコの男性の武具、装飾品、肖像画などがある。特に、ペンダントに入れられた男性の肖像画は、なかなか味がある。誰がどこで、こんなペンダントを身に付けていたのだろうと、不思議に思う。やはり、戦争に行った夫を思う妻なのだろうか。単発式の昔の銃がたくさん並んでいる。しかも、銃把に虎などの動物の像が彫られているから、面白い。クリスという不思議な形の短剣がある。何が不思議かというと、普通の短剣は左右が対照的なのに、これは非対照で、まるで平仮名の崩し文字のような形をしているからだ。まあこれは、説明に文字を費やすより、実際に写真を見た方が早い。

陶磁器のギャラリー


陶磁器のギャラリー


 陶磁器のギャラリーでは、昔の中国から輸入された、イスラム模様やコーラン文字が描かれた陶磁器がたくさんあった。金属ギャラリーでは、精巧加工された銀やブロンズ性の作品が置かれている。硬貨のギャラリーでは、硬貨のツリーや、金貨に目を奪われた。この他、マレー世界ギャラリーというのがあったようだが、残念ながら、気が付かなかった。考えてみると、文化を残すというのは、少なくとも数百年に渡る平和が続き、国民の中で裕福で文化的な生活をする層が一定数いないとあり得ないことだから、その点、まだ時期尚早ということなのかもしれない。

 そういうことで、展示品をあらかた見終わったのであるが、その印象を取りまとめていえば、この美術館は、最初思っていたような「イスラム教そのもの」の美術館ではない。そうではなくて、「イスラム諸国の美術品や民族品」を集めた美術館だということが、よくわかった。だから、最初はモスクに入るような緊張感があったのだけれど、そこまで用心することもなかったというわけである。

 さて、もうお昼がすぎてお腹がすいた。この美術館のレストランに行く。60リンギットのブッフェ・ランチしかない。日本円で1500円ほどだから、食料品が安いこの国では、相当に高い。でも、喫茶メニュー以外はそれしかないので、やむなく注文した。肉の種類を選べというので、鶏肉にした。周りを見ると、あまり客がいないくて、 もう70歳くらいの白人女性が2人、中国人の旅行者らしきカップルが1組、それに日本語を話す男性を含む3人組、それだけだ。

 ウェイターのお兄さんが、「あそこにある」とばかりに、顎をしゃくってブッフェの方向を示す。そちらに行くと、サラダ、豆、卵、干し魚の細片などが、10種類ほどお皿に盛られている。これは、ダイエットに良いとばかりに、全種類を大きなお皿に盛る。ついでに、メキシコ料理のトルティーヤらしきものを席に持ち帰り、また引き返して、お魚のスープをいただいてきた。いずれも 、(「マレー料理にしては」と言うと叱られそうだが)、味が良くて美味しい。トルティーヤもスープとともに3枚ほど続けて食べたので、お腹がいっぱいになった。そうこうしているうちに、 メインデイッシュの大きなお皿が運ばれてきた。うっかり、そんなものがあるのを忘れていた。そのお皿には、カレー味の角切り鶏肉、レタスなどの野菜、こんもりと盛られたお米が、綺麗に盛り付けされていた。それを見ていると、また別腹で食欲が湧いてきて、お米は半分ほど残したが、後は皆、食べてしまったから、我ながら驚いた。ついでに、デザートのムースと西瓜も平らげてしまった。その日は、ドリアンも食べてしまったことから、はてさて帰国した後、果たして体重が何キロになっているかが、目下の気掛かりなことである。


ドリアン




【後日談】 帰国して体重を計ったところ、行く前の71kgが、72kgと、ちょうど1キロの増加にとどまった。あれだけ食べていたことを考えると、上々の出来かもしれない。暑くて外出時には汗をたくさん流したし、それに加えて、毎日ホテルのジムに行って運動したおかげかもしれない。ちなみに、帰国してからさらに気を付けて、1週間後には、70kg台へと落とすことができた。






 イスラム美術館(写 真)




(2017年8月3日記・10日追記)


カテゴリ:エッセイ | 20:13 | - | - | - |
義理の母の最期の日

IMAGE02.jpg


 家内の母、つまり私の義理の母が、とうとう亡くなってしまった。享年92歳だし、「人生、もう思い残すことはない。」とおっしゃっていたから、いわゆる大往生というところである。今は初夏だが、数ヶ月前の初春の頃、約1ヶ月にわたって、一度危ない時期があった。しかしそれをどうにかこうにか乗り越えて、ようやく回復したばかりであるから、今から振り返えれば、本人にも周りにもあれが心の覚悟をする一種の予行演習となったのかもしれない。

 それが、今年の2月から3月にかけてのことであるが、そうやって1週間ほど食べられない、水も飲めないという状態が続いた。ところがその後に、いつの間にか、家内がお見舞いに持って行った好きなお菓子やフルーツを食べ始め、日を追っていつもの量の食事が食べられるようになって危機を脱した。体重は少し落ちたが、バイタルの数値、つまり呼吸、心拍、血圧も正常に戻り、ほっとしたものである。同じ老人ホームに、心臓が3回止まったけれども、そのたびに何とか生きかえって、車椅子生活だがゲームに興じている女性もいるから、「それに比べれば、こちらは第1回目の生還だね。まだまだ行ける。」と、楽天的に話していたくらいである。ところが、今月に入って老人ホームから、「お母さんが、また食べられなくなりました。」という連絡が入った。そこで家内は、東京から静岡まで、新幹線で駆けつけた。すると、固形物だけでなく、水も飲めなくなって、口に高カロリーの液体を少し含ませるのがせいぜいという程度になっていた。こういう場合に、病院に運び込んで、補水液を点滴したり、極端な場合は胃瘻をこしらえて身体に栄養分を人工的に送り込んだりするというのも一案である。しかし、生前に本人とよく話し合って、「それはしない。自分の力で最期まで行きたい。」ということになっていた。今回も、本人に確認すると、延命治療は、強く断られた。ということで、本人の自然の体力だけで、この2週間近くを生き抜いてきた。本人は、「どうなっても、老人用おむつは付けない、トイレは必ず自分で行く。」という強い意志、つまり「こだわり」を持っていて、亡くなる数日前、全く動けなくなるまで、それを実行していたから、老人ホームの施設長さんをはじめ皆さんは、驚くやら、あきれるやら、感心するやらで、「最期まで、頭脳明晰だし、誇り高く生きるというこだわりがある。我々もたくさんの人を看取って来たけれども、こんな人は、初めてです。」と語っていた。

 今回、家内が駅前のホテルに泊まりつつ、老人ホームの母の居室で、母の脇に添い寝したりして、よく頑張った。前回はそれが2ヶ月余りに及んだが、今回は1週間ほどいたところ、老人ホームでの見舞いを終えていったんホテルに戻った。それでホテルのベッドで休み始めたばかりの午前零時頃に老人ホームから電話があり、「呼吸が乱れてきました。いよいよかもしれないので、すぐに来て下さい。」とのこと。それから直ぐに駆け付けて、また添い寝したそうだ。そのまま、何事もなく朝を迎えた。そのとき、母が「どうか、この人を早く楽にしてやって下さい。」とつぶやいたという。一瞬、家内は母が自らのことを言っているのかと思ったそうだが、「この人」というのは、娘の自分のことを言っているのだと気が付き、此の期に及んでまだ娘の私の身を案じてくれていると、心から感動したそうだ。


IMAGE02.jpg


 一方、私は、自分の父の七周忌を終えて帰京したばかりだったが、昼過ぎの新幹線で、静岡の老人ホームに駆け付けた。義理のお母さんに対面したら、もう話すことはできなくなっていたものの、私が話し掛けると微笑んでくれたように思えたし、話しつつベッドの反対側へと移動すると、私を目で追ってくれていたから、十分に理解していたのだと思う。そういえば前回、母から「この子(つまり家内)をよろしくお願いします。」と言われたので、「もちろん。大丈夫ですよ。」と話したことを覚えているが、今回、また同じことを言うと、安心したような顔をされた。そのようなやり取りをしていたときに、老人ホームの方が、「では、簡単にお風呂に入りましょうね。」とやってこられたので、私と家内は、部屋の外へ出て、リビングルームの水槽の前のソファーに腰掛けて「お母さん、あなたのことが気になっているのだよ。最後まで、親なんだね。有り難いね。」などと、家内と話していた。すると、老人ホームの看護師さんが小走りにやって来て、こう言った。「心臓が止まっています。」。こちらこそ、心臓が止まりそうになりながら、家内と2人で駆けつけると、母はもう、息をしていなかった。時に、午後2時35分である。家内も私も、ベッドの傍らで、ただ頭を下げるだけだった。

 老人ホームの職員の皆さんが次々にやってこられて、両手を合わせて故人に弔意を表してくれた。そのたびに家内が頭を下げて、感謝の意を伝える。両目をはじめ顔が真っ赤になり、涙声になるのは、やむを得ない。母は最期まで、頭脳明晰だったし、入居してもう5年半という古株になっていたから、個々の職員さんたちと、色々な交流があったようだ。だから、その死をそれぞれの言葉で悼んでくれる。たとえば、まだ30歳代の半ばの人なのだけれど、理学療法士さんが来た、その方は、亡くなったと聞いて真っ先に飛んできてくれた。身体が硬直する前にと、亡骸の姿勢を整えながら、顔をクシャクシャにしつつ、涙声で「お母さん(つまり義理の母)と、『3年後の東京オリンピックを一緒に見ようね』と約束していたのですけれどねえ。もう亡くなられてしまって。」と言う。また、「お母さんは計算が速かった。3桁の繰り上がり計算を含むプリントも、1枚をやるのに他の入居者の皆さんの中には1日がかりの人もいるのにね、それをたった10分もしないでやるんですよね。いや、すごかった。それに、漢字もよくご存じで、私などは辞書を引きながら、やっと採点できた有り様です。」とも語る。

 また。母は、今年の4月に入ったばかりのお兄さんに、「ハンサム・ボーイ」という渾名を付けて、「そこのハンサム・ボーイさん、湿布を取って来て。」などとやっていたそうだ。そのハンサム・ボーイさんも、枕元にやってきて、理学療法士さんとともに、母の亡骸に向かって、両手を合わせて「どうか、安らかに」と言いつつ、自然に合掌してくれている。そこへ、老人ホームが呼んでくれたようで、地元にいる義理の妹夫婦が駆けつけて来て、妹が泣き崩れる。いやもう、涙なしにはいられない。次に、かかりつけ医がやって来てくれた。これまで、月2回の定期健康診断をしてくれていた人だ。まず聴診器を母の胸に当て、次にライトペンで母の両眼を診てから時計に目をやり、「死亡を確認しました。午後3時12分です。」と事務的に言った。そして事務室に行って、死亡診断書を書いてくれた。それが1枚の大きな紙の右側である。左側は死亡届で、葬儀社を通じて市役所に提出するものだ。

 葬儀社に連絡をして、母の遺体を運んでくれるように手配をした。それからが驚いたことなのであるが、どこからともなく職員の方から、「そうだ。最後のお風呂に入ってもらおう。」という声が上がり、もう亡くなっているというのに、生前と同じようにして、お風呂に入れてくれた。こういうところは、心がこもっているというか、本当に親切だ。母に敬意を払ってくれていないと、できないことだ。お風呂から上がって身体を拭き終わった頃に葬儀社の車が到着して、母の亡骸を斎場まで運んでくれた。それにしても、この老人ホームは良い。他のホームから移ってきた職員によると、そこでは 「例えば事務室ではスタッフが書類の上に目を落とすばかりで何もしないので、入居者との会話もなく、入居者もリビングルームではただ突っ伏しているしかない。ただ、設備はこの老人ホームよりもずーっと豪華です。その点、ここは設備そのものは大したことはないかもしれませんけれど、入居者とスタッフとの交流があるし、入居者相互もお互い知りあっています。また、スタッフの間もミーテングをよく開いて、改善の提案をしているから、風通しが非常に良いんです。」という。なるほど、設備がいくらよくても、運営するノウハウがなければ、無茶苦茶になるわけだ。乳幼児の保育園もこれと同じで、設備はそれなりにあっても、個々の子供に話し掛けもせずに、テレビを付けっ放しにして、ただ転がしているという、ひどいところもある。それと同じだなと思った。


IMAGE02.jpg


 それから数日後、母の通夜と葬儀を執り行った。通夜には、老人ホームの施設長さんほか4人の職員も来てくださり、家内と抱き合って悲しみをともにしてくれた。有り難いことである。葬儀が終わり、火葬場での骨あげの後、お寺さんに納骨をした。家内の家とこのお寺さんとは三代にわたる付き合いがあるそうだから、ご住職さんも、心臓の大手術直後で体調が悪い中なのに、相当無理をされて、読経を行うためにやってこられた。頭が下がる思いである。ところで、家内のところは2人姉妹なので、ありていにいえば、お墓を継承する人がいなくなる。そこで、このお寺さんとは、永代供養をお願いするということで、合意しているそうだ。永代といっても、50年ということだそうだが、こういう場合は、他によい方法があるのだろうか。

 お墓といえば、私の息子のところに男の子の孫が生まれて、後継者はできた。しかしながら、いずれも東京育ちということになるので、私の田舎とはほとんど縁がない。こういう場合には、やがて田舎の墓じまいをして、東京に移転させることになると思うが、現地に妹たちは残っているし、なかなか難しい課題である。だから、関係者がいなくなるか、あるいは納得した上でないといけない。いずれにせよ、私が生きているうちには、結論を出すようにしたいものだ。





(2017年7月23日記)


カテゴリ:エッセイ | 22:06 | - | - | - |
<< | 2/220PAGES | >>