東京モーターショー 2019

アルピーヌA110S


1.全般的な印象

 東京モーターショーは、2年ごとに開催されており、メモを見ると私は2011年以来、4回、観に行っている。実はその前も、記録はないものの何回か観た記憶があるので、自分では、かなりの自動車ファンではないかと思っている。

 ただ、残念ながら、モーターショーの内容が、次第につまらなくなってきたと思っている。特に今回は、その傾向が強かった。例えば、外国メーカーの出展がない。唯一、ルノーなどが(おそらく日産とのお付き合いの関係で)、日産ブースの真向かいに数台並べていただけだ。一昨年の前回の場合には、ポルシェ、メルセベス・ベンツ、アウディ、フォルクスワーゲンなどが、結構面白い車を展示していたので、様変わりである。

 国内メーカーも、あまり元気がない。例えばトヨタは、レクサスを前回は派手に展示していたが、今回はとても控え目で目立たなかった。その他ホンダ、三菱自動車、スズキなどは、前回までは舞台からのアピールに力を入れていた感があったが、今回はそれほどではなくて、舞台の上はかなり寂しくなった。

 この体たらくは何なのかと思ったが、考えてみると、特に外国メーカーはもう日本市場を見限ったのだろう。それもそれはずで、日本は既に人口減少時代に入り、高齢化が進み、若い人の間ではそもそも自動車に魅力を感じる層が少なくなってきた。かく言う私も、外車でもレクサスでも、買おうと思えばいつでも買えるくらいの資力はできたが、都心に住んでいることから、車は必要ないし買っても逆にお荷物になるばかりだ。

 それに比べて、例えば人口が日本の10倍ある中国では、公共交通機関が未発達である一方、急速な経済発展で自動車を買う余裕がある層が急増しつつある。そこで自動車は必要となるし、充分に買える消費者が育っているが、本格的普及はこれからという段階にある。だから自動車市場としての将来性は、日本より遥かにあるだろう。ということで、やや湿っぽい話になってしまったが、昨今の日中間の経済関係の差が、こんなところにも現れていると思った次第である。


2.主要メーカー

(1)日産グループ

フェアレディZ


真っ赤に塗られたスカイライン


 それでは、見た順に印象に残った車などについて書いていこう。まずは日産だ。目に止まった中に、我々の世代には懐かしいフェアレディZがあった。前者は馬力、後者は優雅さで、一世を風靡した。若い頃、私もこんな車を買いたいなと思ったものだ。ただ、このうちフェアレディZに施された今風の赤と白の塗装はいただけない。これでは、まるでピエロではないか・・・古き良きイメージを大きく損ねている・・・と思いながらしばらく行くと、あった、あった。全て真っ赤に塗られたスカイラインが。車は、やはりこうでなければいけない。

セレナ


電気自動車のリーフ


電気自動車のリーフ


 次にあるのは、セレナか。バンタイプだから、大家族でも乗ることができるし、車椅子対応もできるそうだ。電気自動車のリーフがあった。充電中で、充電ポートが開けてあるのを初めて見た。60分の急速充電で、458kmの航続距離だという。

アルピーヌA110S


 日産の前のブースはルノーだ。黄色い車があったが、説明がないので、よくわからない。その隣に、アルピーヌA110Sという車があった。これは、さぞかしよく走りそうな素晴らしいスポーツカーのように見受けられた。

M1−TECH


K−WAGON


 それから、三菱自動車のブースがあった。ここは3年前に日産グループになってしまった。気のせいか、2年前まではこのモーターショーでの宣伝は、もっと派手だったような記憶があるが、今日はとても大人しい。M1−TECH(マイテック)というコンセプトモデルがあった。小型電気自動車で、しかもオープンカーだ。とても格好が良い。K−WAGONもコンセプトモデルで、なかなか渋いスタイルをしている。でもこれは、軽自動車だ。

(2)ヤマハ

ヤマハ自動二輪


電動の車椅子


 自動二輪車が並んでいる。色目は、ブルーが基調である。あれ、あそこに変わったモデルがある。何だろうと思って近づいてみると、電動の車椅子だ。それも自走式で、しかも折り畳める。これはかなりコンパクトである。リチウムイオン電池だと最大8時間は持ち、市価は45万円だという。将来、家内か私がお世話になるかもしれないので、覚えておこう。

(3)カワサキ

カワサキ自動二輪


 こちらは同じく自動二輪車のメーカーだが、緑色を基調としている。まるで、会社ごとにシンボルカラーがあるみたいだ。しかも、うち1台のモデルの名前が「NINJYA」というから、マンガチックだ。しかし、デザイン的には、いずれの自動二輪も空力特性を考慮した美しい流線型で、非常に優れていると思った。

(4)ホンダ

ホンダNSX


 まず印象に残ったのは、NSXである。若い頃は、スポーツカーとしてこれ以上のものはないと思って乗りたいなと憧れたものだ。ところがうまくしたもので、買いたかった若い頃にはお金がなく、歳をとってお金ができた頃には若さがなくなっていた。こういうものは、買いたいなと思ったときに無理して買わないと、意味がない。

FITベイシック


FITクロススター


 ところで、FITは、ハッチバック式の小型車であるが、ベイシック、ネス、クロススターなどと、色々な種類がある。それからアコードがあった。ホンダを代表する車種で、東南アジアにいたときには、現地の人がとても欲しがっていた。前のライトが細長くて流れるようなデザインだ。

アコード



(5)スズキ

ハスラー


ハスラー


舞台上のお姉さん


 一番の注目を浴びたのが、ハスラーの新型である。ワゴンとSUVを軽自動車で融合したモデルで、ますます力強いデザインとなった。舞台上のお姉さんも、力を入れて宣伝を熱演していた。

アルト


アルト


 ああ、アルトがあった。これは懐かしい。我が家が最初に所有した車である。まるで郵便局の車のように真っ赤に塗られていたが、非常によく走ってくれて、関東各地や中部地方の観光地に子供を連れていくのに重宝した。

(6)三菱ふそう

スーパーグレート


 大型トラック「スーパーグレート」があった。ステアリング、アクセル、ブレーキ制御を自動化し、ドライバーをサポートする技術を搭載しているというのが売りだったが、運転席を覗いてもさっぱりわからなかった。

普通の路線バスを2台連結したバス


普通の路線バスを2台連結したバス


 普通の路線バスを2台連結したバスがあった。中に入ってみると、運転席も座席もそのままに、ずっと後ろまで繋がっている。2台のバスの連結部は、蛇腹である。なるほど、これは道路事情さえ許せば、運転手不足の折には、良い考えかもしれない。

(7)いすゞ自動車

 基幹モデルの「ギガ」が置いてあった。説明によれば、「ドライバーへの疲労軽減装備を拡充し、歩行者や自転車も検知するプリクラッシュブレーキを備えるなど最新のテクノロジーが満載」だそうだ。

ギガ



(8)UD

風神


雷神


 このメーカーはネーミングセンスが非常に良くて、実験車両のトラックに「風神」、「雷神」と名付けている。このうち風神は、レベル4の自動運転技術実験車で、雷神はハイブリッド実験車である。とりわけ風神は、なかなか難しい近未来の技術であるが、高速道路の上だけでも実現できれば、安全運転、省エネルギー、運転手不足などに大きな効果がある。早く市販にこぎ着けてもらいたいものだ。

(9)スバル

レヴォーグ


 基幹車であるレヴォーグが非常に素晴らしい。精悍で力強いフォルム、これで実際に走ってみたいと思わせる車だ。世の中に根強いスバル・ファンがいるのは、さもありなんという気がする。

(10)トヨタ

トヨタ


トヨタ


 トヨタは、市販モデルを並べるのではなくて、未来のコンセプトに繋がるモデルを用意したというのであるが、素人にはあまりに先端すぎて、何が何だかよくわからなかった。これに対してトヨタグループのダイハツの車は、そのまま野菜を売りに行けそうなものなど生活に身近なもので、わかりやすかった。


3.その他メーカー

(1)AGVとNCV

AGVと天野浩教授


 濃い青の小型のスポーツカーがあった。その脇に見たことがある人の全身写真があって、にこやかに笑っている。どこかで見たことがある人だと思ったら、青色LEDに関する研究でノーベル物理学賞を受賞した名古屋大学の天野浩教授ではないか。書かれていたものを書き写すと、「AGV(All GaN Vehicle)は、低酸素モビリティ社会を実現するため、次世代半導体材料GaN(窒化ガリウム)を電動化技術に適用したコンセプトカーです。平成29年度よりGaNインバータやコンバータなどの研究開発に着手し、CO2排出量20%削減を目標として、電動化部品開発、車両性能評価、CO2削減効果などの評価・検証に取り組みます。

 駆動システムとして、後輪にインホイルモーターとGaNトラクションインバータに配置、さらにGaNを適用したコンバータ、車載充電器、レーザーハイビームランプなど省エネルギーGaNエレクトロニクス・システムを採用。」
とある。なるほど、電気自動車でも、シリコン型半塔体に替えて、次世代半導体材料のGaN(窒化ガリウム)を使って、CO2排出量20%削減を目指す。その研究を天野教授が行っているというわけだ。

NCVとミス日本みどりの女神


 そうかと思うと、ガルウィングの小型スポーツカーがあり、その隣に「ミス日本みどりの女神」というミスコンテストの優勝者らしきお嬢さんがにこやかに微笑んでいる。その説明には、「NCV(ナノ・セルロース・ヴィークル)、木からつくる自然なクルマへの挑戦。環境省セルロース・ナノ・ファィバー(CNF)等の次世代素材活用推進事業」とある。そして、

 「今、自動車が大きく変わろうとしてします。CO2排出量を大幅に減らすための電動化と軽量化です。軽量化には、軽くて強い材料が必要になります。その材料として注目を浴びているのが、植物を原料としたナノレベルの強化繊維:セルロース・ナノ・ファィバー(CNF)です。環境省では、そのCNFを使った車(NCV)っくりに挑戦しています。」と書かれていた。

 へーぇ、環境省はこんなことまでやっているのか。なになに、ボンネットは100%CNFで作っている。ドアトリムとスポイラーはPP−CNF製、インテークマニホールドはPA6−CNF製だという。これらはプラスチックとCNFとの複合材料だろう。このうちPPはポリプロピレンだから、これに植物のセルロースから作ったCNFを混ぜて強化プラスチックとするようだ。気泡ができたり、成形がうまくいかなかったり、強度が足りなかったりと、色々と問題山積だったと思うが、それを乗り切って作ったのだろう。これらを活用して、車全体で10%以上の軽量化を達成したそうだ。

 それにしても気になるのは、こうした材料は、鋼板のように再利用出来ないのではないだろうか。それに加えて、車が軽くなって燃費は上がるかもしれないが、プラスチックとCNFを作ったりこれらを混ぜて成形したりするエネルギーを計算して鋼板を使うケースと総合的に比較しないと、本当の答えは分からないのかもしれない。

(2)澤藤電機

澤藤電機のブース


 最後にもう一つ、印象に残った展示がある。それは「澤藤電機」のプラズマを用いた水素製造装置「プラズマ・メンブレン・リアクター(PMR)」である。要はアンモニアから水素を得てこれを燃料に使うシステムだ。

 これまでのシステムで水素を得る方法は、

  ・ 水の電気分解から
  ・ 天然ガスなどの化石燃料から
  ・ 森林資源や廃材などのバイオマスから
  ・ 製鉄所や食塩電解などの工場で発生するガスから

の4択だったが、今度は「アンモニアから」という新たな選択肢ができたというわけだ。

 なぜこの技術が注目すべきかというと、将来この装置が小型化して車に積めることができれば、常温で液体のアンモニアの形でトヨタのミライなど既存の「燃料電池車(FCV)」にそのまま積載してこれを走らせることができるからだ。というのは、従来のシステムでは、工場で水素を製造してから運搬するのに絶対温度に近い零下253度に冷やさないといけない。こうすれば体積を800分の1にすることができる。そうした上で、これをガソリンスタンドに相当する「水素ステーション」に運ぶ。そこでは、燃料電池車に充填するのであるが、従来は200気圧程度の高圧水素タンクが使われていて、最近はその倍以上の気圧のタンクが普及しつつあるものの、高圧になればなるほど取扱いが難しい。もしこれが、この澤藤と岐阜大学のシステムでアンモニアから水素を発生させて代替できるとなれば、こうした問題は全てなくなる。なぜなら、アンモニアは常温では液体なので扱い易く、その分、効率が上がるからだ。

 では、どういう仕組みかというと、「プラズマを用いた水素製造装置『プラズマ・メンブレン・リアクター(PMR)』を用いた水素製造装置は、水素分離膜(高電圧電極を兼ねる)、石英ガラス管、接地電極、プラズマ電源で構成されています。PMRにアンモニアを供給し、プラズマ電源から3万ボルトの電圧を印加すると、アンモニアが水素原子(H)と窒素原子(N)に分解されます。水素分離膜は水素原子のみを透過させるので、水素原子と窒素原子を分離することが出来ます。水素分離膜を透過した水素原子は結合して水素(H2)になり、高純度水素として外部に取り出すことが出来ます。また、残りの窒素原子は結合して窒素(N2)になり、大気へ排出されます。

 改良型PMRには、プラズマとアンモニアの接触時間を長くする目的で、電極間(水素分離膜と接地電極の間)に、吸着剤を充填しています。この吸着剤の効果により、プラズマによる水素原子の生成が促進され、水素分離膜を透過する水素原子の量を増加させ、従来と比較して、2倍の水素製造量300NL/h が得られるようになりました。」
とある。

 その説明は、石英ガラス管の中にアンモニアを入れ、管の中の水素分離膜に高電圧をかけると、水素原子だけを分離することができ、その水素原子は結合して水素分子となって取り出すことができる。そして今回の改良は電極間に吸着剤を充填したことにより、その効果で製造量を倍にしたということらしい。目標は、更にその倍にすることを目指してようだから、水素の流通と利用を大きく変える可能性を秘めている。是非とも頑張っていただきたい。





(2019年10月25日記)


カテゴリ:エッセイ | 22:19 | - | - | - |
孔雀の舞う楽園

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 家内が「こんなのあるわよ。」と言って、「孔雀の舞う楽園」と題するパンフレットを持ってきた。上半分はタイ式の寺院、下半分はきらびやかな踊りである。「雲南省シーサンパンナの少数民族歌舞公演」とある。その裏には、このようなことが書かれている。

 「日中友好会館主催の『中国文化之日』は、中国各地の文化を日本に紹介することを目的とし、1990年より毎年秋に開催しています。29回目となる今年は雲南省シーサンパンナ(西双版納)タイ族自治州に暮らす少数民族の歌舞をご紹介します。

 雲南省最南端に位置するシーサンパンナには、中国唯一の熱帯雨林が広がり南国情緒が溢れています。楽園のようなこの地では、古くから多くの少数民族がそれぞれの文化を育み尊重し合いながら暮らしてきました。 本公演では、水のように柔らかいタイ族、炎のように情熱的なハニ族、お茶の栽培に長じるプーラン族等の歌舞を紹介します。煌々と輝くタイ族宮廷舞踊や無形文化遺産承継人による象脚鼓(象の脚の形をした太鼓)の演奏、華やかなファッション・ショー等、シーサンパンナの魅力がぎっしりと詰まった1時間をお楽しみください。」


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 私はたまたま、先月のチャイナ・フェスティバルで、中国北方の少数民族である黒竜江省同江市赫哲族の民族舞踊を見たばかりなものだから、今度は南方の少数民族かと思って興味がわき、俄然行く気になった。ただ、今回は「日中友好協会」と「雲南省シーサンパンナ・タイ族自治州文化と旅遊局」主催のちゃんとした舞台公演なので、気楽にカメラで写真を撮るというわけにはいかない。

 前売り券の価格はわずか千円で、インターネットを通じて購入し、セブンイレブンで券をもらった。比較的早く予約したから、席はB列と、2列目だった。雨のそぼ降る夕方だったが、金曜日の初回公演に日中友好会館に行ってみた。地下のホールである。椅子の上に置かれていたパンフレットを引用しながら、公演の様子を再現したい。

 まず、このパンフレットの表紙の写真を見ると、広がる青空に高く白い雲が散らばり、その下には長く伸びた椰子の木、タイ風の金ぴかの寺院があり、その前を日傘をさしたロングドレスの婦人たちがゆったりと歩いている。これはまさに、タイの風景である。

 プロローグは、ジノー族伝統楽器「奇科(キーカー)」。中国56番目の少数民族ジノー族の伝統楽器で、竹の半分以上を半割にして、そうした長さの違う竹を並べて木のバチで叩いて音を出す。もちろん素朴な音だが、昔は狩りに成功すると竹を叩いて村の仲間を呼び寄せて分け合った。そのときに獲物の大きさによって竹の音程を変えていたから、この楽器が生まれたという。

 最初は、「孔雀の舞」という女性群舞。いきなり、クライマックスを持ってきたようなもので、これは素晴らしい踊りだった。黄色い衣装を身に付けた女性の踊り手が、クルクルと舞いながら時々止まり、長いスカートの裾を持ち上げて片手を天に向けて指し伸ばしてポーズをとる。すると、実に優雅に見える。これを称して「孔雀はタイ族の幸福の象徴です。その美しい姿に誰もがシーサンパンナにあこがれを抱きます、高く舞い上がる孔雀はタイ族の向上心と情熱、よりよい生活を求める願いを表しています。」とある。ちなみに、これがインドであると衣装の色は間違いなく緑と青の孔雀色だが、そうしないで黄色にしたのは、いかにもタイ族らしいと思った。

 2番目の演目は、「鼓舞神(音偏に「均」の字の旁)」(グーウーシェンユン)という男性群舞。タイ族を象徴し、これなくしてタイ族の舞踊は成立しないとまで言われる「象脚鼓」(その形が象の脚に似ている)を駆使して、舞台狭しと叩いて踊り回る。その合間に蹴り飛ばす足、神経を使った指の動き、二本の剣のさばき方など、見どころが多い。こういうのを見ていると、タイ族は、南国の楽園でのんびりした民族というよりは、結構、剽悍な民だったのではないかと思う。また、そうでなければ東南アジアのタイからはるか離れて、こんな中国の一角にまで進出してくることはなかっただろうと思う。

 3番目は、「水の中のあなた」と題するタイ族の女性群舞。「タイ族は、古くから水と共に暮らし、綺麗好きな民族として有名です。また、水浴びを好み、『水のように柔らかい民族』や『水の民』などと言われています。穏やかで美しいタイ族女性の特徴が表れた舞踊です。」とあるが、女性たちが銀色の水の容器を持って、(表現はあまりよろしくないが、要は)くねくねと踊るものである。今、「くねくね」と表現したが、それが非常に優雅で、洗練されている。時々、観客に水を掛ける動作をする。そういえば、タイ歴で新年を迎える直前の毎年6月24日から、水掛け祭りが始まる。昔、悪魔を退治した時に水を使って穢れを取り除いたという言い伝えから、水を掛けたり浴びたりすると幸せになるそうだ。

 4番目は、タイ族の楽器「フルス」の独奏である。フルスは、雲南省に暮らす少数民族に伝わる楽器で、上は瓢箪そのもので、その下に2本の竹がぶら下がっていて、おそらくその効果で、音響が良くて、楽器の語源になっている通り、絹を震わすような繊細な音色が出ている。

 5番目は、「糸を紡ぐ娘たち」と題するハニ族の女性群舞。「ハニ族女性は、糸車などの機械を使わず手紡ぎで糸を作ります。糸車を使うと、糸紡ぎをする場所や時間が限定されるからです。彼女たちは、市場に行く途中などの時間を使い、歩きながらせっせと糸を紡ぎます。そんなハニ族の勤勉さや、明るく情熱的な民族性を表しています。」とのこと。だから、踊り手たちは、糸車を持って縦横無尽、かつ天衣無縫に踊っていた。また、ミニスカート姿だったが、これは、狭い棚田でも動ける機能的なスタイルらしい。

 6番目は、「水を汲む娘」と題するタイ族の女性独舞。「タイ族の人々は水に対して特別な思いを持っています。水はタイ族文化の源だからです。娘が一人、水辺で踊っています。そのたおやかで美しい姿は、母なる河の優しさを思い起こさせます。演者の王叫国は、2016年水掛け祭りの『美少女コンテスト』でグランプリを獲得しました。」とのこと。手脚の長い痩せ型の美しい女の子が、銀色の水の容器を持ち、まるでそれをボールのように使った新体操のごとく演じる。それに、タイ舞踊独特の手の繊細な動きが加わって、なかなか良かった。

 7番目は、「長甲舞(チャンジャーウー)」と題するタイ族の宮廷舞踊。「タイ族の信仰する上座部仏教(小乗仏教)では、古来より黄金の長い付け爪を装着した女性が、宮廷の祭典で舞踊を披露してきました。黄金に輝く艶やかな姿に美しい音の調べ。古来より今に伝わる悠久の文化です。」とある。1番目の「孔雀の舞」が優雅そのものであるのに対し、この「長甲舞」は、宮廷の舞らしく、まさに豪華絢爛という名にふさわしい。黄金色の衣装に冠を身に付け、黄金の長い付け爪が微妙に動いて、実に繊細な踊りである。これを見ただけでも、今日は来た甲斐があったというものだ。

 8番目は、タイ族伝統武術で、拳法、剣術、象脚鼓舞である。なかなか勇壮な踊りだった。しかも驚いたのは無形文化遺産承継人で、一見若々しいが、56歳とのことで、既に17歳の時から弟子をとって名人の道を歩んできたとのこと。

 9番目は、プーラン族の歌舞「祝福」で、「プーラン族は長い歴史を持つ少数民族です。独自の言葉、服装、歌や踊り、習慣を現在まで口承により伝えてきました。『歌で気持ちを伝える民族』と言われるプーラン族の明るく軽快な音楽をお楽しみください。」とのこと。惜しむらくは、少しでも、個々の歌詞の意味がわかればなと思った。

 10番目は、タイ族の演唱「章(口偏に合旁)」(ジャンハー)で、「ジャンハーという言葉には『歌手』又は『曲芸表現の一つ』という意味があり、タイ族の人々にとって欠かすことのできない娯楽の一つ」という。旋律があるというよりは、詩の読み上げのようである。


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 エピローグは、少数民族衣装ファッションショーで、シーサンパンナで暮らす13の少数民族のそれぞれの民族衣装の違いがよくわかった。要は、お互いに、全然違うのである。相互に影響を受けたという形跡もない。むしろ、独自性を更に強めた感がある。

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 さて、公演が終わり、会場出口で、出演者と観客が触れ合う場が設けられた。出演者の皆さんは、やはりその道のプロらしく、笑顔を絶やさず、サービスに努めてくれていた。





(2019年10月18日記)


カテゴリ:徒然の記 | 11:58 | - | - | - |
マチュピチュ・ナスカへの旅

マチュピチュ遺跡



    目 次

   第1 マチュピチュ遺跡
   第2 ナスカの地上絵
   第3 リマ市内を観光
   第4 ペルーの一口知識
   第5 その他ペルー補遺


第1 マチュピチュ遺跡

1−1 そうだマチュピチュに行こう

 退官記念に、なかなか行けそうもないところに行こうと考えた。それにつけても思い出したのが、私が1997年に2代目のパソコンを買ったときのことである。壁紙としてパソコンの画面に映し出されたのが、マチュピチュ遺跡とエジプトのピラミッドである。どちらも神秘的な存在であるが、特にマチュピチュは、何百年ぶりに発見されたインカの遺跡として、脚光を浴びていた頃だ。一度、見てみたいものだと思っていた、今回、退官に際して真っ先に思ったのは、「京都」ならぬ「そうだ、マチュピチュに行こう」だった。

 私は、英語を話すのに不自由しないから、国内と同様、海外でも英語圏なら往復の航空券とホテルを予約して一人で行ってしまう方だ。ところが、南米のペルーというスペイン語圏で、しかも行くのに非常に面倒だと思えるマチュピチュ遺跡やナスカの地上絵に一人で行く自信は全くない。そこで、ツアーを探したところ、ちょうど手頃なのが見つかった。しかもナスカの地上絵も見ることができるというので、申し込んだのがこの旅の始まりである。

1−2 現地クスコまで28時間

 南米はそもそも地球の反対側にあるから、まず日本航空便でニューヨークに飛び(12時間55分)、そこでラタム航空便に乗り換えて、ペルーの首都リマへ行く(7時間40分)。リマからラタムの国内線でクスコに飛ぶ(1時間23分)。ここまで、乗換時間を入れるとおよそ28時間もの長旅である。

途中、ニューヨークでは保安検査がますます厳しくなっていて、予め取得したESTAを持って有人の窓口に並ぶと、全ての指の指紋を取られた。それだけでなく、靴も脱がされて検査をされた。また、皆で検査待ちのときに、麻薬探知犬がやってきて、荷物の間を嗅ぎまわっていた。それを同行のツアー客で、かなりの年配の人がペットみたいに触って、係員に注意されていた。まあ、注意を受ける程度で収まって良かった。

 リマ空港でクスコ行きのラタム航空便に乗り継ぎをしようとしたら、これも一筋縄ではいかないことがよくわかった。例えば、出発まであと1時間というのに、搭乗口がクルクルと3回も変わる。4番から12番、その次は8番という具合である。中には搭乗直前に20分ほど列を作って待っているというのに、何もアナウンスなしで変更されることすらあった。後ろの方の人は、先頭の人たちが落胆した表情で列を離れていくから、そうとわかる。いやはや、こんな調子では、一人で来なくてよかったと思う。添乗員さんによれば、ラテンアメリカでは、こんなことは日常茶飯事とのこと。

1−3 クスコ市内観光

 そうこうしながら、何とか無事にクスコ(Cusco)にたどり着き、空港に降り立った。クスコの現在の人口は45万人、13世紀から16世紀にかけて栄えたインカ帝国の首都で、1533年にスペイン人によって滅ぼされて以降は、スペインの植民地支配の拠点となった。そのため、石垣はインカ時代のもので、上に建つ教会などの建造物はスペイン支配時代のものと、両者が混ざり合って独特の雰囲気がある街となっている。もちろん、インカ時代の石垣はぴったり組み合わされているのに対して、その上のスペイン時代は石ころが雑に積み上げられているから、一見して違いがわかる。


インカ時代の石垣とその後の石垣


 クスコの標高は、3,400mという。私は、これまで標高3,000mの立山連峰の雄山には、何回も登ったことがある。ところが、クスコはそれより400mも高いので、果たして身体が順応するか、心許なかった。それなのに、飛行機で着くと、直ぐに旧市街の観光に連れ出された。それも、歩いてである。平地の東京から、飛行機で着いた途端に富士山の八合目の高さを歩かされるのだから、かなりの体育会系のツアーである。しかし、振り返ってみると、かえってこれが良かった。一種の高地順応の過程になったのかもしれないと思っている。

クスコ旧市街地


クスコ旧市街地


 バスを降りたところから、旧市街地を徒歩で20分ほどかけて中心部へと向かう。道は細くて、両側に石垣が壁のようになっている石畳の登りだ。そこを高山病にならないように深呼吸しながら、ゆっくりと歩く。ところどころで石垣の壁がぱっくりと割れて、店の入り口がある。レストランや両替屋だったり、土産物屋だったり、アルパカの毛で作った衣類を売っている店などと、様々だ。

ピューマと蛇の石垣


12角の石


 ガイドが石垣の前で止まった。石垣の石を繋げてみると、ピューマとヘビに見えるという。よく分からないので、その前の土産物屋の看板と照らし合わせて見たら、なるほどそのようだ。次いで、12角の石を見た。インカ文明の素晴らしいところは、道具といえば硬い削り石と縄しかない時代に、削った石と石の間にカミソリすら通さないほどぴったりと合わせて石垣を作る技術があったことである。12角の石というのは、それが12の面で周りの石と組み合わせてあるのでそのように称され、これぞインカ文明の技術水準の象徴のような存在となっている。私はこれには感激して、その横で手を軽く挙げたスタイルで、写真を撮ってもらった。



インカ第9代皇帝パチャクテク


大聖堂(カテドラル)


ラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会


 やっとクスコの旧市街地の中心部に位置するアルマス広場に着いた。中央の噴水にはインカ第9代皇帝パチャクテク(1438年から1471年まで)の黄金色の像が置かれている。インカ帝国は、元々はクスコ周辺の小さな王国だったが、それを三世代にわたる皇帝の力で南米の文明圏全てを支配下に置くようになった。パチャクテクは、その最初の皇帝である。つまりはインカ帝国の礎を築いた人物ということになる。また、マチュピチュを作りはじめた皇帝とも言われる。アルマス広場の一角には大聖堂(カテドラル)、もう一角にはラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会(イエズス会の教会)と自然史博物館、その横の建物に目立たないがスターバックスが入っている。昼食のためにそのスタバに入り、二階へ繋がる階段を勢いよく駆け上がったら、ハアハア、ゼイゼイと息切れがしてびっくりした。「ああ、これか、高地の影響は。」と思い、薄い空気を補うべく、大きな深呼吸を10回ほどしたら、元に戻った。席に座り、インカコーラという名の黄色い飲料を飲みつつ、サンドイッチを食べたが、普通に食べられた。

スタバに入り、二階へ繋がる階段を勢いよく駆け上がった


インカコーラなる黄色い飲料


 ちなみに、インカコーラとは、黄色い清涼飲料水である。別にパンチのある味では全くないので、やや拍子抜けする。現地では、このインカコーラが一番よく売れていて、本場アメリカのコーラは二番手であった。ところがその後、色々あってインカコーラは本場コーラに買収されてしまったそうだ。メニューのお値段は、もちろん現地通貨「ソル」で表示されている。しかし、USドルやクレジットカードも使える。水1本2ソル、1USドルは3ソルである。

 そのうち、身体に少し異変を感じた。尿意は覚えるが、いざトイレに行くと尿がほとんど出ないのである。しかし、クスコを離れて標高が20mと低いリマに行くと、普通に戻った。これは私の推測だが、標高の高いところでは体内の膀胱も拡張する。これを頭が膀胱が満タンだと勘違いしてトイレに行きなさいという信号を送るから、そういうことになるのだろう。気圧が身体の中の臓器にまで直接影響を及ぼしているようだ。

1−4 富士山より高いチンチェーロ展望台

 クスコは、マチュピチュ(Machu Picchu)に至る中継地点に過ぎない。これから更に延々と1時間ほど、山中の曲がりくねった山道の悪路を、小型バスで、オリャンタイタンボ(Ollantaytambo)に向かわなければならない。その途中で標高3,800mの峠を越える。事前にそれを聞いて、富士山(3,776m)をも越えるそんな高い所で高山病にならないだろうかと、いささか心配だった。


チンチェーロ(Chinchero)展望台から見たチコン山


チンチェーロ(Chinchero)展望台からの風景


 ところが、それは杞憂に終わった。我々の小型バスが、休憩のためにその峠にあるチンチェーロ(Chinchero)展望台でいったん停まったので、試しにバスから降りてみた。すると、ステップを降りるときに身体がややフワフワした感じがしたものの、ちゃんと地面に降り立ち、普通に歩くことができて安心した。何でも、まず試してみるものだ。しかもこの時は、チンチェーロ展望台の正面に見えるチコン山(Chicon。標高5,000m)の勇姿には、実に感動した。天空にたった一峰、頂上に薄い綿帽子を被って、どっしりと聳え立っている。しかも、その頂上に駆け上がるように、手前からまるで参道のように登る坂道のように見える山が続いている。あまりに神々しく、かつ雄大で、富士山とは全然異なる味わいの山である。

1−5 オリャンタイタンボの町

 小型バスは、そのチンチェーロ展望台を過ぎ、木々の緑がほとんどない荒れ果てた平原を進んでいく。周りは高山ばかりだ。すると、峠を越えたところでようやく、オリャンタイタンボの町(2,800m)に到着した。手作りの日干しレンガで建てた粗末な家々が建ち並ぶ。道路には、昔の日本で言えばバタバタ、現代のタイのトゥクトゥク、つまり小型三輪タクシーが走り回っている。ちなみにこの町には、侵略者ピサロが率いるスペイン軍に対して、インカ帝国が最後の抵抗を試みた遺跡があるそうだ。


オリャンタイタンボに至る道


オリャンタイタンボの町が見えた


オリャンタイタンボの町を走るトゥクトゥク


 そのオリャンタイタンボからは、ペルー鉄道のマチュピチュ線の列車に乗って約1時間45分で、ようやくマチュピチュ村に行くことができる。事前に想像していたのは、トロッコ電車に毛の生えたようなものだったが、実際に行ってみると、いやいやそれどころか、結構、本格的な客車だった。客車には色々なグレードがあるようで、我々が乗った客車はまあまあのレベルだったが、途中でそれを遥かに上回る豪華客車とすれ違った。まるで食堂車のように座席のテーブルをキノコのような可愛いランプが照らしている。ムード満点だ。あれ、これは良いなぁと思っているうちにマチュピチュ駅に到着し、駅のすぐ脇の道沿いにある我々のホテルに歩いて向かった。

ペルー鉄道のマチュピチュ線の列車


ペルー鉄道のマチュピチュ線の列車


インティプンク(INTI PUNKU)ホテル


1−6 マチュピチュ村

 マチュピチュ村は、これまた山中の寒村かと思いきや、とんでもない。あちこちにホテル、土産物屋、レストランが立ち並ぶ一大観光地の様相を呈している。例えていうなら、マッターホルン観光の始点の町ツェルマットのようである。そこへ、マチュピチュ鉄道で20分おきに観光客が送り込まれてれてくるから、村全体が繁盛しているわけだ。


インカ帝国の歴代王の像


 まず、村を横切るように激流のマチュピチュ川が流れている。その両側に土産物屋やホテルがぎっしりとある。川には3本の白い橋が架けられているから、渡るのは容易である。そのうち、鉄道側の川沿いに遊歩道まで設けられており、そのあちらこちらにインカ帝国の歴代王の像がある。なかなかの迫力である。また、見ていると、資材を運ぶのは、全て人力でやっている。自動車といえば、観光客をマチュピチュまで運ぶ小型バスぐらいで、そのほか例えば乗用車やトラックは、滅多に見かけない。これはちょうど、スイスのツェルマット町が、自動車といえば全て電気自動車しか許可していないのと同じようなものだろう。

インティプンク(INTI PUNKU)ホテル


 インティプンク(INTI PUNKU)ホテルにチェックインをした。部屋に入ってみると、日本のビジネスホテルくらいの設備で、やや安心した。ところが、夜中に気温13度と寒くなったので、備え付けのデロンギヒーターのスイッチを入れた。その途端、ガラン、ゴタン、ダダダッと、まるで工事現場のような音がする。この種のオイル・ヒーターでこんな騒音がするなんて、聞いたことがない。これは困ったと思ったが、もう真夜中だし、私自身も眠くてたまらないので、厚着をして、そのまま、寝てしまった。翌朝、ホテルにクレームを伝え、替えてもらった。新しいデロンギは、全く静かなものだった。

白い漏斗型の朝鮮朝顔


 この辺りは、まるで中国の桂林、マレーシアのイポーを思い起こさせるような、石灰石でできた大地が雨水で侵食されてできたカルスト地形である。あちらこちらにタワーカルスト(大きな鐘楼のような鍾乳石の岩の塊)の山々がそそり立つ。マチュピチュ山も、その一つだろう。また、村のそこここに、白い漏斗型の朝鮮朝顔(Engel’s Trumpet)の花が咲いている。日本だと、5月から6月にかけて咲く花だ。ここは南米だから季節がちょうど反対なので、今が盛りの時期なのかもしれない。

1−7 いよいよマチュピチュ遺跡へ

 その日は深い眠りにつき、翌朝は7時半頃にホテルを出発した。歩いてすぐのマチュピチュ川岸まで行って、その様子に驚いた。対岸の川沿いに、長い長い列を作って並んでいる大勢の人達がいる。マチュピチュ遺跡行きの小型バスを待っている登山客だ。我々もその中に入らないといけない。これは時間がかかるので大変だと思ったが、そうでもなく、意外と早く乗ることが出来た。


マチュピチュ川の両側に土産物屋やホテル


マチュピチュ遺跡行きの小型バス


 そこから遺跡まで走って30分だという。ところが、それがつづら折りの凄い山道で、しかも道幅がとても狭い。しかも、上から降りてくる小型バスと時折すれ違う。右側通行だから、われわれのバスは右の路肩ギリギリに寄せる。下は千仭の谷だ。思わず、手に汗を握る。ヒヤヒヤしながらしばらくそれを見ていたが、途中で嫌になって遠くの山々を見ることにした。すると、多分マチュピチュ山の手前の山だと思うが、円錐形の実にいい形をしている。こんな高地(標高2,400m)にもかかわらず、山の表面は緑に覆われている。なるほど、これはマチュピチュ山の兄弟山かもしれない。驚いたことに、小型バスに乗らずに、マチュピチュ村から歩いて登ってくる若い女性達がいる。元気が余っているのか、それともバスのチケットが買えなかったのか。

円錐形の実にいい形の山


マチュピチュ村から歩いて登ってくる若い女性達


 先頭に乗っている誰かが「ああっ、マチュピチュだ。」と叫ぶ。でも、私の席からは見えない。直ぐに視界が開け、なるほど、マチュピチュ山が見えてきた。先ほどの兄弟山と同じ形だが、緑の色がもっと濃い。しばらくして、ようやく入場口に繋がる小さな広場に着いた。事前に、20リットル以上の大きなリュックは預けなくてはいけないと聞いていたので、私は小さなリュックにしていた。右手にその大きな荷物の預り所がある。中央がトイレで、1USドルを支払ったら、お釣りとして現地通貨ソルのコインをもらった。

荷物の預り所とトイレ


マチュピチュ入場口


 さて、いよいよ入場口だ。事前にもらった入場許可証とパスポートを係員が照らし合せて、やっと入る許可が出る。そこを通った瞬間、いきなり登り階段がある。しかも、階段の幅が広かったり狭かったりで登りにくい。加えて道幅がとっても狭いところもある。空気も薄い。そこを一生懸命に登るものだから、ハアハア、ゼイゼイで息切れという体たらくになり、立ち止まって深呼吸を何回もする仕儀となる。加えて、リュックには、ソニーα7IIIのカメラに、広角、標準望遠そして超望遠の3本のレンズが入っている。それだけで4kg近いし、それにステンレスの水筒1.5kgも加わる。ちなみに、マチュピチュ遺跡には、ペットボトルの持ち込みは許されていない。だから、水筒になるのだが、これらだけでも6kg近くになる。

登り階段


 その重さのリュックを担ぎながら、2,400mの高地を一気に登るものだから、我ながらよくやったものだと思う。同行のツアー客の中には、いかにもか弱そうな体型の女性がいて、この人は高山病に罹ったのか動けなくなって、添乗員さんに支えられてフラフラと夢遊病患者のように歩く始末である。幸い、この人は間もなく回復した。人間の高地順応の能力は、大したものである。たまたま、今年のノーベル医学生理学賞は、細胞の低酸素応答のメカニズムに与えられたが、我々の身体にも、そのようなメカニズムが働いたのだろうか。

1−8 展望台から見た遺跡は絶景


第1展望台から見た遺跡


 ともかく、そういう難場をやっとのことで超え、急階段を登りきって少し行くと、遺跡全体を見渡せる第1展望台(ミラドール)があった。正面にはかつてパソコンの壁紙で見た通称マチュピチュ山(正式には、ワイナ・ピチュ)と、その麓にある居住地区の遺跡が広がっている。素晴らしい景観だ。インカ帝国がここを選んだ理由がわかる気がする。それにしても、40時間近くをかけて、やっと対面することができた。はるばる地球の反対側まで来た甲斐があったというわけである。しかもこの日は天候に恵まれて、快晴だから、真っ青の空の下に緑の山が鎮座している。山がくっきりと細部まで余すところなく見え、まさに写真日和である。広角と標準望遠レンズで撮りまくった。

手前の段々畑が綺麗に見え、美しいカーブを描いている。


右手に石垣、左手に断崖絶壁という場所を歩いて見張り台の下まで行く途中


 その第1展望台から、右手に石垣、左手に断崖絶壁という場所を歩いて見張り台の下まで行く。そこから段々畑が綺麗に見える。美しいカーブを描いている。ここに住む人達の食料となるトウモロコシやジャガイモを栽培したのだろう。更に行くと、芝生が植わった広場があり、そこが第2展望台となる。ガイドのウィリアムさんがインカ帝国やマチュピチュの歴史について説明してくれる。私は撮影に忙しくて上の空だったが、イヤホンを通じて話は聞ける。概要こんなことを語っていた。まず、この遺跡の発見の秘話である。この遺跡は、ペルー人の農園主リサラガが、1902年に発見してそれを遺跡の窓に書き付けた。その後、1911年にアメリカ人のイェール大学のハイラム・ビンガムが再発見した(一般にはビンガムが発見者とされているが、彼はリサラガの署名を消している。功名心が強かったのか、いささかずるい。)。元々ビンガムは、別の遺跡を探索する途中に、たまたま土地のインカ族に聞いて発見したという。その成果は、1913年にナショナル・ジオグラフィック誌に発表し、一般の知るところとなった。この遺跡は、1440年に作り始め、80年ほど生活が営まれたが、完成する前に放り出されたようで、現に動かす途中の大きな石が広場に放置されている。それにしても気になるのは、この空中の楼閣のような都市は、何のために作られたのかということである。征服者スペイン人に抵抗する最後の砦だったという説もあるが、そうではなくて、どうやら王や貴族の別荘を兼ねて、太陽を崇める宗教目的で作られたという説が有力のようである。

超望遠(300mm)に取り替えてマチュピチュ山頂上を見ると登山者が見えた。


超望遠(300mm)に取り替えてマチュピチュ山頂上を見る


 ところで、その第2展望台で、カメラのレンズを広角から超望遠(70mm - 300mm)に取り替えて目の前のマチュピチュ山を撮ると、びっくりした。頂上付近は段々畑のようになっていて、そこを登山者が登っているではないか。遺跡と山登りを兼ねた一石二鳥の楽しみ方だ。そういえば前夜、同じホテルに泊まっていたドイツ人夫妻と話をしたら、これからマチュピチュへ登りに行くと言っていたが、なるほど、これのことかと納得した。ちなみに、マチュピチュ山に登るには、許可証が必要だそうだ。

超望遠(300mm)に取り替えてマチュピチュ山麓の広場・神殿・居住地区を見る


超望遠(300mm)に取り替えてマチュピチュ山麓の広場・神殿・居住地区を見る


 少し降りて、第3展望台の方へと行く。ああ、これだ。ここから見たマチュピチュ遺跡の風景が、まさに昔のパソコンの壁紙そのものである。22年越しに、やっと本物を見ることができたというわけだ。写真だけでなく、記憶にしっかりと焼き付けた。そこで気がついたのは、マチュピチュ山には緑が多いのに、谷を隔ててその左手に広がる山々には緑がほとんどなく、まさに禿山なのである。ガイドが言うには、このマチュピチュだけは、周囲の山々からの湧き水があって、それと発生する霧で水分が補われているそうだ。なるほど、緑深い理由と、なぜここが選ばれたかという理由がわかった。

マチュピチュ遺跡の風景


石積みのアーチ形の門


石でできた受け具


マチュピチュ遺跡の風景


硬い黒っぽい石


 さて、それからいよいよ、眼下の広場・神殿・居住地区へと降りていった。石積みのアーチ形の門をくぐるとき、たぶん門扉を固定したのであろうと思われる石でできた受け具があった。なかなか、芸が細かい。まず、左手の石切場に行く。ここでガイドが見せてくれたのが、硬い黒っぽい石で、これで加工したそうだ。ところで、ここからマチュピチュ遺跡を左手から見ることができる。これまでとは別の角度から見るというだけだが、新鮮な感覚がする。

超望遠(300mm)で見た太陽の神殿


コンドルの神殿


 マチュピチュ遺跡に入るにはチケット(許可証)が必要だが、それに加えて太陽の神殿に登るには、今年の3月から午前中だけ、それも500人に限定されたようだ。遺跡保護のため、入場制限が次第に厳しくなるようだ。そういうわけで、残念ながら太陽の神殿は見られなかったが、3つの窓の主神殿 (神様ウラコチャのために作られた)と、コンドルの神殿はじっくりと観察できた。このうち前者の主神殿は、最近の研究で夏至や冬至の日に太陽の光がその先の石に当たるように設計されていることがわかった。後者のコンドルの神殿は、地面にコンドルの首の白い部分を模したと思われる二つの曲がった石が置かれ、それから胴体や羽根と思われる部分が見てとれる神殿である。ちなみにこの地方で古くから伝わる言い伝えでは、コンドルは、空の支配者とされている。

 居住地区には、600人から700人が住んでいたといわれる。今では屋根の木々やそれを葺いていた葉は失われて、単に壁だけが残っている。それでも、家の形はよくわかる。インカ式の強固な石積みだからこそ、これまで風雪に耐えてきたものと思われる。壁を見ると、外側に3個ほど石が突き出しており、ここに屋根材を固定していたようだ。壁の中には10センチほど引っ込んでいる空間があり、そこに蝋燭や土器などを置いたといわれている。


王の部屋


王の部屋で煮炊きする石


王の部屋


王の部屋


 王の部屋という区間があって、意外と狭くて日本の8畳間くらいのものだ。インカ皇帝や貴族が来たときに、ここに泊まったと言われている。その直ぐ前には、台所として使われ、煮炊きしたと思われるような二つの石がある。なお、最近のことだが、朝になってこの王の部屋にテントが発見された。侵入者が王様気分を味わおうと、ここに泊まったのではないかと大騒ぎになったそうだ。その近くに、湧き水を流している遺構があった。

湧き水を流している遺構


当時の家の復元


 階段状の棚田から、景色が良いなぁと思って遠くを眺めていると、突然、近くの花にハチドリが飛んできた。8cmくらいの小さな鳥で、羽を高速に動かしながら、花から花へと飛び回って蜜を吸っている。これは、めったにないチャンスだ。本来ならシャッター速度を2000分の1秒くらいにして撮りたいところだが、そんなことをしていると、撮り逃がしてしまう。仕方がないので、プログラム・モードのままで連写するしかない。ただ、焦点が少し広範囲なので、手前の花に合ってしまう。これも、無視するしかない。そうした中で、やっと何枚かハチドリの写真が撮れた。これは、今回の旅行での幸運の一つである。素直に嬉しい。更にその先を行くと、なんとまあ、リャマだと思うが、首の長い羊のような動物がいた。我々が狭い階段を登っていくと、その脇をすり抜けるように降りていく。おとなしそうで、助かった。

ハチドリ


ハチドリ


ハチドリ


リャマがいた


 さて、ひと渡り見て、入場した門の方に向かう。マチュピチュ遺跡では、見学は一方通行で、後戻りはできないことになっている。太陽の門へと続く道への分岐点に来た。そこからはインカ道で、小1時間ほど歩くと太陽の門と言われる見張り台に出るそうだ。私は当初行くつもりだったが、最初の登り階段でバテる寸前になったので、それは諦めることにした。後から、行った仲間から写真をもらったが、マチュピチュ遺跡全体を眺め下ろす見晴らしの良いものだった。

ヘリコニア


 今は10月の初めで、南半球は、これから春に向かおうとする時期である。ここマチュピチュは、私が登った午前中の時間の気温は、17度くらいであるが、直射日光が強くて、とても暑く感じ、汗をかいて下着がびっしょりと濡れてしまった。そこで、遺跡を退場してからその前にあるレストラン「サンクチュアリ・ロッジ」に入り、濡れた下着を着替えさせてもらった。そのついでにバイキング形式の昼食をとり、これはなかなか美味しくて、まさに格好のリフレッシュとなった。総じて、ペルーの食事は、どれもこれも私の口に合った。また、ミュージシャンがやってきて、ギターとともに、サンポーニャという笛を束ねたような楽器で「コンドルは飛んでいく」を奏でてくれた。サイモン&ガーファンクルを思い出して、懐かしい。

1−9 モルモットの丸焼きが名物料理

 マチュピチュ遺跡を小型バスで出たのは午後2時頃で、帰り着いたのは2時半過ぎとなり、それからお土産物屋を冷やかしたり、家内へのお土産としてペルーならではのTシャツを買ったりした。ホテルの部屋からはWiFiが通じたので、日本へメールを送ったりし、のんびりと過ごした。こういう時間も大事である。その夜は、添乗員さんが案内してくれたレストランで夕食をとった。まあ、なんというか、店に入った瞬間、壁という壁に名刺が貼ってある。炭火焼きの鶏肉、レモンソースの鱒などが美味しかった。看板メニューは、モルモットの丸焼きだった。パリパリして美味しいよと言われたが、さすがにそれは断った。

 ホテルに帰り、さあ寝付こうとしたら、まるで滝の中にいるのかと思うくらいの大雨が降った。なるほど、これは山の中ならではの天候である。急変すると、こんな風になるようだ。その中を、早朝に出発していくパーティがいた。大変だなぁと思う反面、昨日の我々は本当に天候に恵まれたと、感謝しなければならない。その幸運の続きかもしれないが、我々がホテルを出る時間になると、もう雨は上がっていた。ホテルの玄関を出てみれば、あれだけの大雨だったのに、朝鮮朝顔の花がしっかりと咲いていて、芳香まで漂わせているから、驚いた。でも、この花には毒があるそうだ。

 さて、ホテルを早朝出た我々は、来た道を逆にたどり、マチュピチュ鉄道でオリャンタイタンボに戻り、そこから小型バスでクスコへ、クスコから国内線の飛行機でリマに向かった。それから我々は、次の目的地、ナスカに、大型バスで向かった。このバスには、USBで充電できる端末があったので、助かった。

1−10 インカ道を歩く人々

 マチュピチュ鉄道でオリャンタイタンボに戻る途中、列車は川の急流の傍を通っていく。とあるところで、紺色の同じ制服を着た大勢のポーターらしい人々が荷物を担いで、一列となって細い道を歩いていくのを見た。やがて列車は駅に停車した。ピスカクチョというところらしい。そこに、登山者らしい外国人が何人か集まっている。


マチュピチュ鉄道


マチュピチュ鉄道


マチュピチュ鉄道


昔のインカ道を歩くツアー(インカ・トレイル)


昔のインカ道を歩くツアー(インカ・トレイル)


昔のインカ道を歩くツアー(インカ・トレイル)


 ガイドによれば、これは80kmを3泊4日の行程で、昔のインカ道を歩くツアー(インカ・トレイル)だという。最終目的地は、先ほどの太陽の門という見張り台で、それからマチュピチュ遺跡を見学することができるらしい。あの大勢のポーターは、コックまで伴ってお客さんに先回りしてテントや食料を運び、そこで、宿泊してもらいながら、マチュピチュ遺跡まで歩いて到達するのだそうだ。お値段は、一人1,200USドル(13万円)だという。

1−11 リマのマヨール広場

 その日は夕方にリマ(Lima)市内に入り、時間があったので、大統領と議会が対立して閉鎖中というマヨール広場に行ってみた。警官隊が規制して、広場の中には入ることはできなかったものの、周囲から大統領官邸、大聖堂などを眺めることができた。厳戒体制にあるといっても、緩い規制線である。大聖堂の中のキリストやマリア像は、非常に美しかった。また、周囲の商店街は、なかなか賑わっていた。


マヨール広場を警戒する警官隊


リマ大聖堂


政府機関


リマ大聖堂内部


リマ大聖堂


リマ大聖堂内部


賑わう商店街




第2 ナスカの地上絵

2−1 早起きしてイカ飛行場へ向かう

 前日、マチュピチュから夕刻にリマ市内に入り、シェラトン・ホテルに泊まった。翌朝、ナスカの地上絵を見るために飛行場に向けて出発するのだが、それが早朝4時半だという。これは早いなと思ったら、ナスカの地上絵を見るには、3つの飛行場のどれかに行かなければならないという。リマ飛行場、イカ飛行場、ピスコ飛行場である。


リマからイカ飛行場に向かう途中は砂漠地帯


イカ飛行場


 この中で、リマならすぐそばなので問題ないのだけれど、この旅行会社が契約しているのはイカ飛行場だから、そこに行くには、砂漠の中を伸びるパンアメリカン・ハイウェイを300kmも走らなければならないという。よって、朝9時のフライトに間に合わせるには、どうしてもこの時間になるとのこと。ならば仕方がない。早起きしてバスに乗り込んだ。

2−2 ナスカの地上絵とは

 ナスカは、亜熱帯の砂漠地帯にある。ナスカの地上絵の数は、確かなもので700を越え、おそらく800以上、いやいや最近でも新たに発見されているから1000ぐらいはあるのではないかと言われている。いずれも、一筆書きである。つい90年前ほどまでは、そんなものがあるとは誰も知らなかった。ところが、1930年代から商業航空便が飛ぶようになると、飛行機のパイロットの間で話題になり、そこで初めて知られるようになった。

 地上では、30cmから80cmほどの幅を15cmほど掘って表面の黒くなった小石を取り除き、それで溝を作って絵が描かれる。1世紀から7世紀にかけて描かれたと推定されているが、日本だと弥生時代の晩期から邪馬台国時代を経て古墳時代に描かれたということになる。つまり、およそ2000年前から1300年前に描かれたものなのに、年間降水量が僅か1mmという土地なので、現代まで残った。

 数年前に、NHKの番組で、地上絵を実物の半分の大きさで描く実験をした。それによると、道具として、木の棒に紐、小さな鋤を使う。表面の黒い土をどけると、下に風化していない白い土が現れる。これが、絵を描く作業となる。その前にまず、小さな下絵を描く。それを同じ倍率、例えば30倍で伸ばしていく。小さな紐でそれを何回か繰り返し、同じ点を横に結ぶ。その点同士を結ぶように鋤で地面を掘り返して線を引く。ナスカは気温40度にもなる極暑の地であるが、僅か4時間で本物の半分の地上絵を描くことが出来た。

 実際に描かれた地上絵のうち、今回の飛行で見られる可能性のあるものは、クジラ、コンパス、宇宙飛行士、三角形、猿、犬、ハチドリ、コンドル、蜘蛛、トカゲ、フラミンゴ、鸚鵡、木、手、花、渦である。これらを描いたのは、古代ナスカ人で、砂漠にトウモロコシを栽培した農耕民族である。砂しかない全くの不毛の地のように見えるが、どうやら地下水を使っていたようだ。

 次に、何のためにこの数多くの地上絵を描いたのかが、最大の謎となっている。気球をあげてその上から見るためだという気球説もあれば、この地に根を下ろして60年以上にもわたってこれを研究し、かつ保存運動を主導したドイツ人のマリア・ライヒェ(Maria Reiche)さんが唱える天文カレンダー説、山形大学が言うところの天の川説、つまり天の川の動物を地上に写し取り豊作を祈願する説など、様々な説がある。地元に言い伝えでもあれば別だが、現代の住民は古代ナスカ人とは全く関係がないので、当てにすることはできない。現に、火星人が描いたとか、宇宙と交信するためだとかいう人もいるくらいだ。

 では、何が正解なのだろうか。一つは、農業用水の確保が関係しているのではないかと言われている。元々、「ナスカ」の語源である「ナナスカ」は、辛く過酷な土地という意味だ。2000年前に描かれた大三角形の地上絵は、先端が、白い火山 (セロブランコ)の方向を指している。反対方向の長辺には奇妙な穴ぼこがいくつもあるが、これらは一連の井戸である。しかもこれらは相互に結ぶ地下トンネルで横に繋がっている。ということは、水源と地下水脈がどう繋がっているのかを示しているのが、この大三角形地上絵の意味だと推定される。

 この地方では、コンドルが水源の山から飛んできて、反対方向の海の方に行くと雨が降って井戸に水がたまるという言い伝えがある。同様に、ハチドリは、山に雨が降ると姿を現わす。普段は海にいるペリカンが出ると雨が降るなどと信じられている。だから、こうした水のないところでは、ともかく水を得ることが大事であるから、そのために天空にいる神々に捧げられたのが地上絵ではないかと考えられる。もっとも、渦巻き模様や人間の生首のように何のために描かれたか想像もつかないものもある。

2−3 小型機に乗り込んで飛び立つ

 さて、我々は予定通り、午前9時前にイカ飛行場に到着した。粗末な掘っ建て小屋を想像していたが、それどころか結構立派な建物である。メガネをかけた年配の知的な女性の肖像画が壁一面に描かれていると思ったら、それが、マリア・ライヒェさんである。地上絵を研究する傍ら、これを見るために30mの鉄製のタワーを建てたそうだ。


マリア・ライヒェの肖像画


乗り込む小型機


 12人乗りのセスナ機が2機稼働しており、我々ツアーメンバーの数は28人だから、12人ずつ2組と、4人が1組で、各フライトは1時間15分である。私は最後の組となった。だから、最初の組が搭乗してから2時間半後の搭乗となる。ところが、天候が悪くて最初のフライトがちっとも始まらない。靄がかかったり、砂嵐が発生しているようだ。待ちくたびれた頃に、ようやく第1便が飛んだ。それから待ちに待って、私のグループが飛んだのは、午後1時を回っていた。

 セスナ機のバランス調整のため、予め、手荷物を含めた搭乗者の体重測定があった。私は、80kgと出た。カメラなどの機材や衣服、靴や水も含むから、こんなものかと思ったが、他のツアーメンバーを見回すと、おそらく一番重かったのではあるまいか。だから、私の座席位置は前の方だと思われた。

 いよいよ出発だ。その30分前に、酔い止めの薬を飲んだ。私は、予想通り最前列の左側の1番、つまり主パイロットの真後ろの席だ。飛んでいる途中のコックピットの画面がよく見える。地面との傾きなどが、ビジュアルで良くわかる。


パイロットの画面


砂漠の中の町


川が流れた跡


川の両岸の緑


 飛行場を飛び立ち、ナスカ平原に向かう。ほとんどが何もない土漠である。途中、リーヘニョー川のあたりは、その両脇に、地下水脈のおかげで緑の谷ができている。さて、何もない不毛の地を更に進む。「あっ、線が見える」と思ったら、川が流れた跡だ。おや、機体が上下するピッチングが出てきた。気流の影響だろうか。あまり良い気分ではないが、でもこれくらいなら大丈夫だ。

 更に行くと、機体が左手にローリングする。困った。少し気持ち悪くなる。パイロットが突然、「ココ、ココー」と鶏のように叫ぶ。一体何のことだと思ったら、日本語の「ここ」だった。思わず笑えてくる。その地上絵を撮ろうとし、下を向いてカメラのファインダーを覗き込む。クジラの絵だ。おや、参った。気持ちが悪い。ミラーレスだからファインダーをのぞき込む必要はなくで、画面を見るだけでよい。しかし画面だけを見ることにしても、同じように気分が悪くてかなわない。飛行機酔いだ。仕方がない。カメラを覗き込むのはやめて、顔を上げて前を向き、レンズを地上に向けて盲滅法に連写する。静音モードにし忘れたので、ダダダッ、ダダダッ、ダダダダッと、まるでマシンガンの連射だ。撮れているかどうかも、確かめる余裕もない。私の真後ろの人も、同じような連写をしている。

 おっとまたローリング、今度は右手だ。またパイロットの鶏の叫び声がする。それに応じてまたカメラを連写する。ああ、あちらの向こうに見えるのは、猿だ。おお、ハチドリだ。コンドルだ。目に見える限り、カメラをそちらの方向に向けてまた連写をする。一体全体、こんな調子で撮れているのかどうか、さっぱりわからない。これは、帰ってからのお楽しみだ。それより、飛行機に酔ってしまわないように、しなければならない。ひたすら前方の遠いところを見る。ああ、ローリングがやっと終わり、地上絵エリアを離脱するようだ。よかった。何とか耐えられた。やがて飛行機は、無事に着陸した。


鯨


宇宙飛行士


猿


犬


トカゲ?


渦巻


鸚鵡


小動物


6花弁の花


マリア・ライヒェのタワー


 帰ってから、カメラの画像をチェックしたところ、しっかり写っていたのは、鯨、宇宙飛行士、猿、犬、鸚鵡、木、トカゲ、フラミンゴ、渦巻き、6つの花弁の花である。残念ながら、ハチドリはカメラの角度が悪くて尻尾のみ、コンドルは肉眼では見えたのに全く撮れていなかった。でも、これほど撮れたので、満足しよう。

土産物の刺繍


土産物の刺繍


 帰りのバスが立ち寄ったのは、日系人がやっている土産物屋である。私は普通、土産物は買わない主義だが、こちらにあった刺繍には、目を奪われた。インディオやアルパカなどアンデス文明の風景が描かれていて、実に可愛い。孫娘にあげるお土産として、買い求めた。


第3 リマ市内を観光

3−1 リマ旧市街

 ペルーの旧市街にあるシェラトン・ホテルに泊まった。大きな道を隔ててその向かいにある立派な建物は、ペルー最高裁判所である。ところが、治安が良くないので、写真を撮るのならホテル側からにして、絶対に道は渡るなとガイドさんに言われたので、ホテルからの遠景を撮るにとどまった。


ペルー最高裁判所


 前日、旧市街中心部のマヨール広場(別名は、プラザ・デ・アルマス[武器の広場])に行った。実はその数日前に大統領が議会を閉鎖したので、この広場には近づくことができないと、添乗員さんに連絡が入ったようなのである。どういうことかというと、元々犬猿の仲だった大統領と議会との対立が限界に達して、ついに大統領が議会閉鎖という強権を発動したそうだ。そうすると、このマヨール広場にはデモ隊が押し寄せるので、事前に封鎖してしまうのだという。ところが我々が行ったときには、やや規制が緩められて、広場そのものには入れさせないが、広場を眺める周囲ならばよろしいということになり、だから遠目に見ることができた。我々観光客の目の前には完全装備の警察がいる中、広場を眺めるという不思議な光景となった。我々の向かい側には大聖堂(カテドラル)、その左側には大統領官邸という位置から見て、広場の周りをぐるりと回って今度は大聖堂のところから、我々がつい先ほどいた場所を眺めた。

3−2 マリア・ライヒェ公園

 マリア・ライヒェとは、ナスカ空港待合室に描かれていたドイツ人の女性で、60年以上にもわたってナスカの地上絵を研究し、その保護に務めたた人物である。この公園は、その功績を称えて海岸沿いに作られたものである。もちろん、公園のあちらこちらには、ナスカの地上絵、猿、コンドル、ハチドリ、花などが大きく描かれている。これらを道路から見下ろすと、全体の形がよくわかる。ところが階段を下りていって、その地上絵近くに行くと、全体像があまりよくわからないというのも、本物によく似ていて、何だか可笑しい。


マリア・ライヒェ公園


マリア・ライヒェ公園


マリア・ライヒェ公園


 この日は、日曜日だったので、大勢の家族連れがいて、思い思いに和やかに過ごしていた。公園の中心部では、ワンちゃんと飼い主のファッション・ショーが行われていた。

3−3 愛の公園

 次いで、愛の公園なるものに行った。公園の一角に、男女が抱き合っている像があり、なるほど、こういう像の展示は、日本では難しいだろうなと思うのが率直な感想である。


愛の公園


愛の南京錠前


 そのすぐ近くの柵には、カップルの名前が書かれている数多くの南京錠前が結びつけられている。カップルが永遠の愛を誓い合い、錠前にお互いの名前を書いてここに結びつけて鍵をかけ、その鍵を捨てるのだそうだ。

3−4 旧日本大使公邸跡

 さて、今日はオプショナル・ツアーの開始である。旧日本大使公邸跡に立ち寄った。1996年12月17日にMRTA(トゥパク・アマル革命運動)のテロリストによる人質事件の舞台である。高級住宅街の一角にある。事件解決に4ヶ月ほどかかったので連日報道され、この玄関や白い塀は私の記憶に鮮明に残っている。あの悲劇の舞台である。


旧日本大使公邸跡


旧日本大使公邸跡の向かいの家


旧日本大使公邸跡


旧日本大使公邸跡の門の扉


旧日本大使公邸跡の門の扉に空いたままとなっている銃弾による穴


旧日本大使公邸跡の門の扉に空いたままとなっている銃弾による穴から中を眺める


 玄関のドアには、未だに銃弾による穴がいくつか開いているではないか。その穴から、中を覗き込むと、中には木と(隣の家かもしれないが)建物が見える。心の中で、この事件の犠牲者に黙祷をした。

3−5 ラルコ博物館


ラルコ博物館


ラファエル ラルコ


 ラファエル ラルコというトウモロコシ畑の大地主が、親子二代で4万5千点に及ぶ古代の墓からの発掘品等を収集した。ラルコ自身も発掘にあたり、数々の貴重な古美術品を掘り当てた。主にインカ文明以前の紀元前から13世紀頃までの品々が展示されている。この地方では、地上はピューマ、空はコンドル、冥界はヘビが支配すると考えられており、その図柄が多い。

ラルコ博物館の庭


ラルコ博物館の庭


 また、その庭は、世界の博物館の中で、第一位に輝いたこともあるほど、芸術性のあるものである。ペルー特有の色々な種類のサボテンをベースに、上からは蔦の緑の紐がいくつも垂れ下がり、それに赤と紫のブーゲンビリアの花が色を添えている。また、庭のあちらこちらには、大きな甕が、口を斜めにして置かれている。非常にユニークで、誠に趣きがある庭である。

ラルコ博物館収蔵品


ラルコ博物館収蔵品


ラルコ博物館収蔵品


ラルコ博物館収蔵品


 展示品の中でも、印象に残ったものをいくつか掲げておきたい。パラカス文化の2つの頭蓋骨は、いずれも頭に2ないし3センチの穴が開いている。戦争の犠牲者かと思ったが、頭の手術をした痕跡だそうだ。つまり、麻酔もない時代に頭に穴を開けて、悪性腫瘍などを取り出したのではないかと言われている。しかも、傷口の状態からして、向かって左側の人物は、その手術が元で死んでしまった。ところが、右側の人物は、手術後少なくとも数ヶ月は生きていたようなのである。

パラカス文化の2つの頭蓋骨


【展示品の日本語解説】 穿孔頭蓋骨と変形頭蓋骨

 頭蓋骨の穿孔手術は、古代アンデスの様々な社会において行われていた。頭蓋骨穿孔は、儀礼の戦いや戦闘の際に起こった内出血、骨折した頭蓋骨の破損部分を取り除くための外科手術だったほか、頭痛を和らげるために行われることもあった。穿孔手術には、黒曜石のナイフや金属製(銅や銅合金)のナイフが使われた。このほかにも、頭蓋骨の変形が行われていた。独特の形に変形された頭蓋骨は、社会的身分を示していた。

 この写真の左側は成人女性の頭蓋骨で、頭頂部の穿孔には再生形跡がない。すなわち、この手術によって死んでしまったことを示している。ところがこの写真の右側は成人男性の頭蓋骨で、顔面や頭部には骨折が治癒した跡が多数存在している。これらの骨折は鈍器による戦いで生じたものである。なかでも頭頂部右側の頭蓋穿孔は再生していることから、この男性は穿孔手術後も生き長らえたことを示している。


ナスカ文明の織物


ナスカ文明の鸚鵡の羽根の織物


 ナスカ文明では、織物技術が発達していたようで、色とりどりの柄の織物が展示されていた。青と黄色の色鮮やかな織物がある。一体、どういう糸を使っているのだろうと思ったら、何と鸚鵡の羽根だった。鮮やかなわけだ。あのような砂漠でどうやって入手したのだろうと不思議に思うところだが、どうやら北部アマゾン地区と交易があったようなのである。

 出口近くには、ミイラが身に付けていた黄金の飾りが展示されている。これは、世界的に人気があって、しばしば貸し出されているが、本日は戻ってきて、本物だそうだ。


金の装身具一式(チムー文化)


【展示品の日本語解説】 金の装身具一式(チムー文化。紀元後14〜16世紀初頭)

 古代アンデスの冶金技術はチムー文化において最盛期を迎えた。この装身具は泥の都市チャンチャンに埋葬された位の高い人物のもので、王冠と胸当ての縁には羽毛があり、これは鳥、つまり太陽に最も近づくことができる存在を意味する。耳飾りには、チムーの為政者の顔が正面向きで繰り返し表現されている。肩当てには、為政者が斬首した首を持ち、正面を向いて立ちあがった姿が表現される。王冠と胸当ての羽毛部分は、ネコ科動物の顔と半月状の額飾りを持つ人物の顔が側面を向いて行進する様子が表現されている。


飾り


 インカ文明の前に、ペルーにはこんな豊かな文明が発達していたとは、ついぞ知らなかった。それにしても、いずれも文字のない文化なのである。インダス文明の楔形文字、中国の甲骨文字、エジプトの象形文字に相当するものが全くない。そのせいか、紀元前から3000年近くにわたって継続した文明圏なのに、どの時代も同じようなもので、あまり発達した痕跡がないのである。やはり、文字というのは人類の知識や経験の積み重ねを行う上で、非常に大切なものであることが、良く分かった。

キープ


 そのインカ帝国も、文字はないのは同様であるが、例外的に「キープ」という紐の色と結び目で数字などの情報を伝えていたのではないかと言われているが、正確には分からない。インカを征服したスペイン人たちが、隠れて何か悪い企みをしているのではないかと邪推して、キープを知る人物を皆殺しにしてしまったからだという。

歯の痛みに耐えている人物


 ところで、この博物館の面白いのは、所蔵品の倉庫の中も公開しているところである。壺や土器などが、棚に整然と並べられていて、その多さに圧倒される。中には、異形の土器がある。例えば、脳出血や脳梗塞の後遺症で半身が麻痺している人物、歯の痛みに耐えている人物がある。現代と変わらない。

3−6 遺跡内のレストラン

 その日の夕食は、リマ市内にある「ワカプクジャーナ」というプレ・インカ(1,500年前)の遺跡の中にあるレストランに行った。台形のピラミッドで、その周りに日干しレンガの壁のようなものが縦横に走っている。それを見ながら食事をするのである。まあ、何というか、大胆な発想である。ちなみに、この遺跡では、まだ発掘が続いているという。日本では、およそ考えられない。


ワカプクジャーナ遺跡の中にあるレストラン


ワカプクジャーナ遺跡の中にあるレストラン



第4 ペルーの一口知識

 ガイドの皆さんから聞きかじった一口知識を記録しておきたい。

1.リマは雨が降らない。降っても夜中の霧雨。傘を持っていると奇異の目で見られる。傘は売っていない。

2.インティライムという太陽の祭りがあり、6月24日である。

3.アルパカには種類があり、お勧めはベイビーアルパカ、チクチクしない。

4.ペルーの国旗にある動物ビクーニャは、4000m以上の高地に住む。マフラーは10万円もする。凄く乱暴でツバを吐かれたり、蹴られたりする。

5.じゃがいもは、ペルーのアンデス山地が原産で、当地には3000種類以上ある 。日本では、最近は「インカの目覚め」という種類が売られている。

6.コカ茶は、高山病対策に効く。ただし、その名の通りコカインの元なので、国外に持ち出さないこと。アメリカでは麻薬として扱われる。

7.コーヒー は、トゥンキというブランドがお勧め。

8.ワインも有名で、中でもイカ県産が良い。

9.ピスコというのは、トウモロコシから作る蒸留酒で、アルコール度数は47%の地酒 である。これでは飲みにくいので、度数が14%に抑えたのが「ピスコサワー」である。

10.地元ビールには、ピスケーニャなどがあり、中でもクスケーニャはマチュピチュ産である。

11.アンデス山地の塩は、有名である。

12.「グイチャッカード」とは、モルモットが丸焼きで出てくる料理である。

13.フルーツの「チリモヤ」は、アンデス産である。白くて柔らかくて美味しい。ペルーでしか採れない。「ルクマ」も、ペルーでしか採れない。オレンジ色のアイスクリームなどとなって出てくることもある。「インカバナナ」もある。「カムカム」というのは、ピタミンC がオレンジの50倍もある。「マカ 」元気がでるので、「アンデスのパイアグラ」と言われる。「アスパラ」もペルー原産である。

14.「エケコ人形 」とは、願いを叶えてくれると信じられており、口が空いているのは、タバコが好きだから。色んなものをぶら下げている。

15.「トリトデブカラ 」とは、ブカラ村の子牛で、あたかも沖縄のシーサーのようなもので、家々の玄関口に置かれている。

16.「マチュピチュ」とは「古い山」を、「ワイナピチュ」は「若い山」を意味する。今では一日400人しか登れない。

17.「チチカカ湖 」は、クスコより標高が高くて4,000mもある。

18.アマゾン川の源流はペルーにあり、クルーズがある。

19.「ワカチナ湖 」は、オアシスの意味で、ボリビアとの国境にある。スポーツとして、サンドバギー、サンドボードができる。

20.インカ帝国時代に話されていた言葉は、「ケチャ語」で、地方によっては、今でも話している。

21.ペルーの国土は、60%がアマゾン、30%が山地、残る10%が砂漠である。



第5 その他ペルー補遺


 ペルーの人口3,200万人のうち、日系人は10万人だという。その多くは沖縄の出身で、そのせいで沖縄の姓を名乗る人が多い。

 マチュピチュを案内してくれたウィリアムズくんは、曽祖父が沖縄からの移民で、4世だという。小さい頃、両親が日本へ出稼ぎに行って働いたときに一緒に来日し、日本語を覚えた由。それからペルーに帰国して、高卒資格をとったと話していた。

 ナスカを案内してくれた熱川さんは、やはり日系4世で、祖父母も父母も日系人同士で結婚したから、外見は日本人そのものである。

 マチュピチュ村の初代村長は、野内与吉さん(福島県出身)という日系一世である。21歳でペルーへ移民し、マチュピチュ鉄道の敷設工事で働いたことを契機に村に定住した。水道を引き、水力発電所を作ったりして、村の発展に大いに貢献したそうだ。10人の子供をもうけたが、そのうちの孫世代の中には日本で働いている人もいる。

 今回の旅で、マチュピチュ村を歩いていると、チロルハットを被った格好良いおじさんから、いきなり日本語で話しかけられた。やはり日系人で、日本語のガイドでお金を稼いだ後、今はマチュピチュでレストランを経営しているそうだ。フジモリ元大統領はよく知られているが、その他こうして名もない日系人が活躍している姿を見るのは、日本人として嬉しいものだ。

 話は変わるが、クスコやマチュピチュ村の街中には、犬が多い。一見するとおとなしいが、万が一噛まれたりすると、大事になるかもしれない。だから、予め狂犬病の注射をしてくるべきだったと思った。







 マチュピチュ・ナスカへの旅(写 真)






(2019年10月 8日記)


 
カテゴリ:エッセイ | 23:50 | - | - | - |
退官に当たってのご挨拶

最高裁判所大法廷



1.挨 拶 状

 令和元年9月26日、次の挨拶状を親戚、先輩、同僚、後輩、そして親しい友人たちに送付させていただいた。

拝啓 皆様におかれては、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
                          さて 私こと  このたび、定年により、最高裁判所判事を退官いたしました。
 昭和48年に旧通商産業省に入省以来、経済企画庁、資源エネルギー庁、外務省、特許庁、経済産業省、日本貿易振興会、内閣法制局、最高裁判所に勤務して合計46年余の充実した公務員生活を送ることができました。この間、皆様から公私にわたり温かいご支援とご厚情を賜り、改めて、心より御礼を申し上げます。
 今後は、これまで培った法律や経済の知識と経験を生かし、弁護士として引き続き社会に貢献するよう努めていきたいと考えています。末筆ながら、皆様のご健勝とご多幸をお祈りして、私の挨拶とさせていただきます。
                          敬具



2.自分がたどってきた道のり

 退官日の前日、最高裁判所大ホールに整列した長官をはじめとする同僚裁判官の一人一人に挨拶を交わした。それから記念の花束を受け取り、立ち並ぶ職員の皆さんの万雷の拍手を受けて車に乗り込み、最高裁判所の建物を後にした。その時、私の胸には文字通り万感の思いがこみ上げてきた。

 自分がたどってきた道のりを振り返ると、我ながら色々とあったものだと思う。ともあれ、戦後に団塊の世代の一人として生まれ、それなりの波瀾万丈の人生を歩んできた。

 中でも、青年期に経験した東大入試中止は、東京へ出て、日本のために大きな舞台で活躍したいと思う私の心に、強力な火を点けてくれた。大学卒業後、運良く通商産業省への入省の夢がかない、その後は、良き先輩・同僚・後輩に恵まれて、どんな仕事も選り好みせずに全力で取り組んだ。内閣法制局に移ってからも、法律の解釈や法令案の審査を一生懸命に勤め、また最高裁判所ではこれまでの知識と経験を生かして信念に基づく判決を行い、それぞれ満足のいく仕事ができた。

 こうした多忙な仕事をする一方で、家に帰れば、家内が愛情深くて色々と気を配ってくれるから、一緒にいて幸福感があった。ともに子育てを楽しみ、二人の子供も医師と弁護士として活躍している。家内なくして、今の私は存在しなかった。おかげで、実に幸せな人生を歩ませてもらったと思う。


3.70歳代は人生の黄金時代

 私は、昭和に生まれ、平成を生き抜き、令和で人生の最終章を迎えそうだ。これからの私に残された時間は、そう長くはないと思うが、私の公務員人生はここでピリオドを打ち、私の前には全く新しい世界が待っている。そう思うと、生来の好奇心が湧き起こってきて、楽しくて仕方がない。

 通商産業省のある先輩は、80歳代になってその人生を振り返り、「70歳代が一番幸せだった。」と語っておられた。確かにこの先輩は、現役時代は文字通り「仕事の鬼」と言われたほどだったが、引退後は健康そのもので、しばしば海外旅行に行ったり、趣味の陶芸やゴルフに打ち込んだりして、楽しそうに過ごしておられた。見習うべき先達である。

 その生き方を踏襲すると、私もこれから人生の黄金時代を迎えそうだ。公務員として46年余、やるべきことはやったから、もう思い残すことはない。退官を契機に心を新たにし、健康に気をつけながら、弁護士として今少し社会に幾ばくかの貢献をしつつ、家内、子供たち、孫たちとともに、残された貴重な人生を有意義に楽しく過ごしていきたい。

 このホームページ「悠々人生」の読者の皆様にも、人生の黄金時代に入った私が見た美しい風景の写真、物事への考察や感想を記したエッセイなどを、引き続きお届けできればと思っている。



最高裁判所大法廷


最高裁判所









 (退官記念に、天皇陛下から賜った銀杯)

退官記念の天皇陛下からの賜り物








(2019年9月26日記)


カテゴリ:エッセイ | 08:09 | - | - | - |
チャイナ・フェスティバル 2019

天津シルクロード芸術団



 代々木公園で、チャイナ・フェスティバルを開催するというので、行ってきた。目的は、民族舞踊芸術団の公演と、その演技を新しいカメラ・ソニーα7IIIで撮ることである。この日に見たのは、黒竜江省ジャムス市芸術団の「同江市赫哲族非遺展示展演団」、カンフーの里から来た芸術団の「中国武当功夫団」、天津市の「天津シルクロード芸術団」である。いずれも期待にたがわず、非常に面白かった。


1.黒竜江省ジャムス市芸術団


同江市赫哲族非遺展示展演団


同江市赫哲族非遺展示展演団


 まずは、同江市赫哲族非遺展示展演団である。一体、何を演じるのか、興味津々である。最初に、狩猟民族のような衣装を身に付けた男性2人と女性2人が登場し、タンバリンに様々な色の毛皮の紐を付けたような楽器を打ち鳴らし、同時に「ビューン、ビューン」と鳴る不思議な小型の楽器を奏でる。それも、手のひらに収まるほど小さいのに、結構大きな音が出る。狩りのときに仲間との合図に使ったものなのだろうか。改めてその衣装に目をやると、アメリカ・インディアンみたいな衣装に、日本のアイヌ民族の紋様を合わせたような出で立ちである。なるほど、これは辺境にあって、長年の間、狩猟で生きてきた少数民族なのだろう。

同江市赫哲族非遺展示展演団


同江市赫哲族非遺展示展演団


同江市赫哲族非遺展示展演団


同江市赫哲族非遺展示展演団


 それが終わると第2幕で、若い女性の2人の踊り手が登場する。赤い派手な衣装だが、頭には毛皮の帽子を被っているから、いかにも寒い地方から来たのだろうと思われる。まるで子供のように天真爛漫に遊んでいると思ったら、氷の上でツルリと滑るような仕草をみせるので、客席がどっと湧く。背中に背負った魚籠(びく)からは、小さな魚が顔を覗かせている。あれあれ、魚釣りでもするのだろうか。小さな魚を採ったようで喜んでいる。それどころか、舞台の隅に行くと、思いがけず大きな魚が釣れて、その喜ぶこと、喜ぶこと。重たそうに引きずりながら意気揚々と帰っていった。これは、言ってみれば幼稚園児の劇みたいなものだが、それだけに言葉が通じない我々には、非常に分かりやすかった。

同江市赫哲族非遺展示展演団


同江市赫哲族非遺展示展演団


同江市赫哲族非遺展示展演団


 さて、第3幕には、頭には鹿の角を載せ、甲冑のようなものを着た、まるでシャーマンのような女性が登場する。その周りをタンバリンを持った踊り手が乱舞する。そして、時々陶酔の表情を浮かべる。よくよく見ると、シャーマン女性のタンバリンには、まるでマヤ文明の太陽神のようなものが描かれている。これは、偶然だろうか。この人たちは、ますますアメリカ・インディアンの先祖という気がしてきた。背景のスクリーンには、この皆さん(赫哲族)の生活の風景が映し出されているが、まるでイヌイットの世界で、冬が長くて厳しそうだ。

 ちなみにウィキペディアによれば、「ナナイ(Nanai)は、ツングース系の民族。分布は主にアムール川(黒竜江)流域で、ロシア国内に約1万人で、中国国内にも居住している。2004年人口調査時の中国国内人口は約4,640人。中国国内のナナイはホジェン族(Hezhen;赫哲)と呼び、55の少数民族の一つとして認定されている。」とのこと。


2.中国武当功夫団(カンフー団)


中国武当功夫団(カンフー団)


中国武当功夫団(カンフー団)


中国武当功夫団(カンフー団)


 さて、白い衣装に白い扇、黒い衣装に赤い扇を持った2つのグループが出てきて、その扇をバチバチッと打ち鳴らしたかと思うと、白い衣装に長い剣を持ったグループが現れて、その剣を振り回す。それらが動きを止めた・・・と思ったら赤い衣装に身を包み鋭い剣を持って、バック転のようにして現れる者が出る。そして、一人、剣で派手な立ち回りをする。おっと、飛んで宙に浮いた。これは、凄い。日本の忍者みたいなものだ。辛うじて私のカメラ(毎秒10枚撮影)でその一部始終を捉えたが、中には動きが速すぎてこのカメラでも十分捉えきれない者もいた。

中国武当功夫団(カンフー団)


中国武当功夫団(カンフー団)


 また、大きな筆のようなものを持って、まるで、何かの文字を書いているかの如き所作で空中を飛ぶ人もいた。次に、背を平らにしてその上を馬跳びのようにして飛ぶ。これは、カンフーの修行の一つなのだろうか。不思議な所作である。

中国武当功夫団(カンフー団)


中国武当功夫団(カンフー団)


中国武当功夫団(カンフー団)


中国武当功夫団(カンフー団)


中国武当功夫団(カンフー団)


 今度は、ソロの演技が始まった。見ていると、手は比較的緩く遅く動き、むしろ身体がキビキビと動く。なるほど、これは典型的なカンフーの動きだ。それが終わると、数人が出てきて、演技が始まった。女性はもちろん、男性でも身体がものすごく柔らかい。足がグニャリと曲がって、頭の上まで持って行っているではないか。これには驚いた。そうかと思うと、両足を片方の手に預けるようにしたり、前後に持って行くようにして、両手で身体を浮かせている。おお、次の人は、両手で身体を垂直に支えている。これも、凄い。インドのヨガの水鳥のポーズどころではない。

中国武当功夫団(カンフー団)


中国武当功夫団(カンフー団)


 最後に、赤い衣装に身を包んだカンフーマスターのような人とともに、大勢が出てきて、そのマスターを中心に演技が始まる。ゆっくり手を動かして、それに気を取られていると、身体がキュッとばかりに動いている。これが、カンフーが武術たる所以なのだろう。おやおや、マスターが円盤に乗って担ぎ上げられた。マスターはその上で演技をしている。あっと思ったのは、マスター両足をやや開きながら、前に傾いていた。どこにも掴まらなくてやるというのは、これは凄い。次に身体を横に傾ける。これ、一体どうなっているのだろうか。ともかく驚いているうちに、終わってしまった。


3.天津シルクロード芸術団


天津シルクロード芸術団


天津シルクロード芸術団


天津シルクロード芸術団


天津シルクロード芸術団


 天津シルクロード芸術団というのが始まった。おや、これは可愛い女性たちだ。フレンチ・カンカンのような派手な衣装で、スカートの裾を円形に回している。もっとも、フレンチのように脚を上げたりはしない。その衣装で、裾を持ってグルグルと回る、回る、回る。目が回ってきた。

天津シルクロード芸術団


 次に、2人のピエロが出てきた。客席から4人の男性を選び、その人に、何か芸をさせる。例えば、丸い輪の内側に水を入れたコップを載せ、それをぐるりと一周させる。ピエロはもちろん成功するが、お客は失敗して笑われるという次第だ。やがてその4人をパイプ椅子に座らせて、横の人の膝に頭を載せ、それを全員にさせる。そうしておいて、なんとまあ、その椅子を1個ずつ引き抜いて、ついに4個全部がなくなった。もちろん、数秒後には、自重に耐えきれずに、ガシャンとばかりに崩れてしまった。これには、客席一同、びっくりしつつも大笑いした。

天津シルクロード芸術団


天津シルクロード芸術団


 今度は、品の良い紫色の衣装を纏い、手に団扇を持った女性達が出てきた。そして、優雅に舞って踊る。美しさを愛でるだけなので、これは安心して見ていられる。

天津シルクロード芸術団


天津シルクロード芸術団


天津シルクロード芸術団


 それを「静」とすると次は「動」だ。男性が出てきて、カンフーのような力強い演技をする。子供、女性、また男性と続いて、飛んだり跳ねたり、型を決めたりと、凄まじい。でも、いささか演技過剰感がある。あれあれ、男の子が空中を一回転した、これには、思わず拍手をする。いやまあ、中国感が満載の演技だった。


4.家内の一言

 そういうわけで、久々の代々木公園での各国別フェスティバルは、主催国が中国だけのことはあって、なかなか面白いものだった。家に帰って家内にビデオや写真を見せると、次の一言を宣った。



 「良いわね。幸せよ。飛行機に乗って何千キロを飛ぶ必要がなくて、あちらから近くの公園に来てくれるのだから。」

 なるほど、ごもっとも。なお、私はこれに刺激されて、中国少数民族の舞踊を観に行こうという気になった。ちょうど「雲南省シーサンパンナ少数民族歌舞公演(孔雀の舞う楽園)」というものが来月にあるので、行って観て来ようと思っている。ただ、こちらは正式な公演なので、写真を撮ることはできないだろうから、それが少し残念である。






 チャイナ・フェスティバル(写 真)






(2019年9月22日記)


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